2017/07/13

歴史を歩く166

7帝国主義の成立と列強の国情⑥

6アメリカ

 アメリカの資本主義は、南北戦争(1861年~65年)後、めざましい発展をとげました。
工業生産額は1860年~90年迄の30年間に5倍に達し、1890年頃迄にはイギリスを追い抜いて世界一の工業国に成長します。

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スタンダード・オイル第1製油所、オハイオ州クリーブランド1899年

 この間、主要な産業ではトラスト(企業合同)が形成され、独占と集中が進みました。
「石油王」として有名なロックフェラー(1839年~1937年)が設立したスタンダード石油会社(1870年設立)は1880年頃には全国の製油業の約90%を支配し、又「鉄鋼王」のカーネギー(1835年~1919年)が設立したカーネギー製鋼会社はモルガンに売却されますが、売却前にはアメリカの鉄鋼の約25%を生産していました。
更にモルガン(1837年~1913年)が設立したU.S.スティール(1901年設立)はアメリカの鉄鋼の約65%を独占します。
モルガンは鉄道投資で成功してモルガン商会を設立し、鉄道・製鉄・銀行を中心に多くの産業を傘下に収めてアメリカ最大のモルガン財閥を作りあげたのです。

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ジョン・シャーマン(John Sherman、1823年5月10日 - 1900年10月22日)

 こうした独占資本による独占の弊害が大きくなると、これを防止して公正な自由競争を維持するために、1890年にシャーマン反トラスト法が制定されましたが、効果は在りませんでした。
又資本主義の発展に伴い労働運動が広がり、各種の労働組合組織が生まれ、1886年には全国的な組織としてゴンパース(1850年~1924年)の指導の下でアメリカ労働総同盟(AFL)が結成されました。AFLは熟練労働者によって組織された職能別労働組合の全国的な連合組織で、政治活動よりも労働条件の改善等の経済闘争に重点を置いたものでした。
 アメリカが世界一の工業国となった1890年代には西部開拓の進展によってフロンティア(辺境)が終に消滅し、フロンティアが消滅するにつれて海外進出を唱える帝国主義的な傾向が強まる中で、アメリカは先ずラテン・アメリカへの経済的な進出を図ります。

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ウィリアム・マッキンリー(William McKinley, 1843年1月29日 - 1901年9月14日)

 共和党のマッキンリー大統領(第25代、在任1897年~1901年)はオハイオ州知事から大統領となり、高関税政策をとって大資本の利益を代弁し、対外的には米西戦争やハワイ併合等の帝国主義政策を推進しました。

 ラテン・アメリカ諸国の中で独立が遅れたキューバでは、スペインの悪政に対して第1次独立反乱(1868年~78年)の後、1895年に第2次独立反乱が起こり、キューバは一時独立を宣言し、共和国の成立を宣言しました(1895年)。
その頃、多くのアメリカ人がキューバの砂糖黍産業(キューバは19世紀後半には世界一の砂糖生産国)に多額の資本を投下し、砂糖黍のプランテーションや精糖工場を経営しており、独立反乱による抗争で農園や工場が損害を受け、スペイン人のキューバ人に対する残虐行為が新聞で取り上げられると、アメリカでは自国の権益を守る為、又独立運動への同情から干渉を要求する声が高まりした。

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メイン号爆沈事件

 1898年2月、キューバのハバナ港内でアメリカ軍艦メイン号の爆沈事件(原因は不明)が起こると、アメリカはこれを口実にスペインに宣戦を布告し、米西戦争(アメリカ・スペイン戦争、1898年4月~98年12月)が始まりました。
戦闘は4ヶ月で終わり、アメリカは一方的な勝利をおさめ、この間キューバ・フィリピン・プエルトリコを占領し、8月に仮講和、12月にはパリで講和が成立し、キューバの独立とフィリピン・グァム・プエルトリコのアメリカへの割譲が決定されました。

 米西戦争後、1901年にアメリカはプラット条項を押しつけ、キューバと他国との条約や借款の制限・アメリカの干渉権・海軍基地建設等を認めさせ、キューバを事実上の保護国とし、又米西戦争中の1898年8月にはハワイを併合しました。

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カメハメハ1世(Kamehameha I、1758年 - 1819年)

 ハワイでは19世紀初頭に、カメハメハ1世(1753年頃~1819年、在位1795年~1819年)がそれまで4つの王国に分かれていたハワイ全島を統一し(1810年)、以後カメハメハ王朝(1795年~1893年)が19世紀末迄ハワイを統治しました。
この間、1875年頃から本国から移住してきたアメリカ人による砂糖黍産業が盛んとなります。

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リリウオカラニ(Lili‘uokalani、1838年9月2日 - 1917年11月11日)

 1891年に即位したリリウオカラニ(ハワイ王国最後の女王、有名な「アロハオエ」の作詞者)が即位し、民族主義的な政策を強めると、ハワイ在住のアメリカ人は自分達の権益を守る為に反乱を起こし、女王は王位を追われます。
リリウオカラニの退位後、アメリカ人による併合運動が強まる中で、マッキンリー大統領により併合条約が成立し、1898年にハワイはアメリカ合衆国に併合されました。

 米西戦争によってフィリピン・グァム島を領有したアメリカは、1899年9月に国務長官ジョン・ヘイが門戸開放宣言(ジョン・ヘイの三原則)を発表し、門戸開放・機会均等・領土保全を提唱し、中国の分割への割込みと中国への経済的進出を図りました。

 マッキンリーは再選されます(1900年)が無政府主義者に暗殺され(1901年9月)、副大統領のセオドア・ローズヴェルト(ルーズヴェルト)が大統領に昇格します。
セオドア・ローズヴェルト(1858年~1919年、第26代、在任1901年~1909年)は、共和党から下院議員として政界に入り、その後ニューヨーク州知事を経て副大統領となり、マッキンリーの暗殺で大統領に昇格しました。

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セオドア “テディ”・ルーズベルト( Theodore "Teddy" Roosevelt、1858年10月27日 - 1919年1月6日)

 セオドア・ローズヴェルトは、内政では革新主義(進歩主義)を唱え、大資本・大企業の専横を抑える為に反トラスト法(1890年制定)を厳格に適応して独占資本を抑制する等社会改革に努め、外交面では、カリブ海政策(カリブ海をアメリカの内海にしようとするアメリカの帝国主義政策)を推進し、パナマのコロンビアからの独立を支援し、独立したパナマ共和国からパナマ運河の租借権を得て、1904年にパナマ運河の建設に着手します。

 カリブ海沿岸諸国に対するセオドア・ローズヴェルトの外交は「棍棒をたずさえ、おだやかに話せ」を方針としたので「棍棒外交」と呼ばれました。
セオドア・ローズヴェルトは日露戦争を調停した功績でノーベル平和賞を受賞し(1906年)、一度は政界を引退しましたが、1912年の大統領選挙には革新党を結成して出馬したウィルソンに敗れます。

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トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)

 民主党のウィルソン大統領(1856年~1924年、在任1913年~21年)は、プリンストン大学政治学教授、同学長、ニュー・ジャージー州知事を経て、「新しい自由(New Freedom)」を掲げて大統領選挙に当選し、1913年に第28代大統領に就任し、ウィルソンは革新政治を推進し、反トラスト法の制定・関税の引下げ等の改革を行い、少数特権者の権力打破・国民の利益の増進に努めますが、その在任中に第一次世界大戦が勃発しました。

ジョークは如何?

紀元元年はいつか? 1933年だ。
なぜ?

その年まではBefore Crisis(危機以前)、B.C.
それ以降はAfter Depression(不景気の後)、A.D.
だから。

続く・・・


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2017/07/03

歴史を歩く165

7帝国主義の成立と列強の国情⑤

5ロシア

 1861年の農奴解放以後、徐々に発展したロシアの資本主義は、1890年代に入ると、特に露仏同盟の成立後(1891年~94年に成立)、フランス資本の援助が増大して重工業を中心に急速に発展しますが、ロシアは国内市場が狭小の為、市場を求めて極東や中央アジアに進出して行きました。

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シベリア鉄道の地図(1897年当時の路線、ドイツで出版されたもの)

 ヨーロッパ・ロシアと極東を結ぶ世界最長の鉄道(全長6484km)であるシベリア鉄道の工事は、フランス資本の援助のもとで1891年に始まり、1905年迄に東清鉄道と結ぶ路線が完成し、(北方領内線の完成は1916年)シベリア鉄道はシベリア開発やロシアの極東政策の推進に大きな役割を果たしました。

 資本主義の発達と共に都市では大工業が成長し、工場労働者の数が急増する中で低賃金等の劣悪な労働条件に苦しむ労働者の間には社会主義思想が広まります。
やがて1898年にはプレハーノフ(1856年~1918年、ロシアのマルクス主義の父とされている)やレーニン(1870年~1924年)等によってロシア社会民主労働党が結成されますが、政府の弾圧を受け、指導者の多くは国外に亡命します。

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ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин、1870年4月22日 – 1924年1月21日)

 ロシア社会民主労働党は、1903年にロンドンで開かれた第2回大会で党の綱領決定を巡って、レーニンの率いるボリシェヴィキとマルトフ(1873年~1923年)・プレハーノフの率いるメンシェヴィキに分裂しました。

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ゲオルギー・ヴァレンチノヴィチ・プレハーノフ(Георгий Валентинович Плеханов, 1856年12月11日 - 1918年5月30日()

 ボリシェヴィキ(多数派の意味)が党を労働者・農民を基礎とする少数の革命家の集団とすることを主張したのに対し、メンシェヴィキ(少数派の意味)は広く大衆に基礎をおいて中産階級とも妥協して漸進的な革命を主張しました。

 ロシア社会民主労働党に続いて、1901年には社会革命党(エスエル)が結成され、社会革命党はナロードニキの流れをくみ、農民を地盤として専制の打倒と土地分配を主張し、更に1905年には立憲民主党(カデット)が結成され、立憲民主党はブルジョワの自由主義者が結成した政党で立憲君主制の確立を目ざしました。

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血の日曜日事件

 日露戦争の戦況が不利になると国民の不満が高まり、1905年1月22日の日曜日、首都ペテルブルクで血の日曜日事件が発生します。
この日、僧ガポン(1870年~1906年)に率いられたストライキ中の労働者を中心とするペテルブルクの十数万人の労働者とその家族は生活の窮乏を訴えた請願書を持って冬宮へ請願行進をしました。しかし、如何なるデモも認められていなかった為、軍隊がこの行進に発砲し、冬宮前広場等で2000人を越える死傷者が発生します。

戦艦ポチョムキン号反乱
セルゲイ・エイゼンシュテイン監督「戦艦ポチョムキン」(1925)より。

 この血の日曜日事件をきっかけに、工場労働者のストライキ・農民一揆が各地で起こり、6月には戦艦ポチョムキン号反乱が起き、革命は軍隊に迄波及し、更に10月に入ると全国的なゼネストが起こり、各地でソヴィエトが結成されました。

 これをロシア第一次革命(第一次ロシア革命、ロシア第一革命、1905年1月~5月12日)と呼びます。
労働者は革命を進める為に工場を母体に選挙で代表会議を組織しました。
これがソヴィエトで、ソヴィエトとはロシア語で会議・評議会を意味します。

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セルゲイ・ユリエヴィチ・ヴィッテ( Сергей Юльевич Витте, 1849年6月29日 - 1915年3月13日)

 ポーツマス条約を締結して(1905年9月)帰国した自由主義者のヴィッテ(ウィッテ、1849年~1915年)は、この情勢を見て皇帝に改革を進言しました。
ニコライ2世(在位1894年~1917年)は、革命の鎮静を図る為にヴィッテの進言を容れ、1905年10月に十月宣言(十月勅令)を発し、国会(ドゥーマ)の開設と憲法の制定そして思想・言論・集会・結社の自由を約束し、その翌日ヴィッテを首相に任命しました。

 ブルジョワ自由主義者は十月勅令に熱狂し、これによって革命は大きく後退し鎮静化しましたが、労働者・農民はこれに満足せず、12月にはモスクワ等で武装蜂起が起こるものの鎮圧され、ロシア第一次革命は終わりを告げました。

 1906年5月、十月勅令で約束された国会(ドゥーマ)が開かれ、この時召集された議会は帝国参議院(半数が勅選議員)と帝国議会(ドゥーマ)の二院から構成されていましたが、立法権は皇帝・帝国参議院・帝国議会の三者が共有し、全ての法律案の発議権は皇帝のみに存在した為、国会は立法の協賛権を持つだけでほとんど権限が無く、国会が混乱のうちに解散されるとストルイピンが首相に就任します(1906年7月)。

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ピョートル・アルカージエヴィチ・ストルイピン(Пётр Арка́дьевич Столы́пин, 1862年4月14日 - 1911年9月18日)

 ストルイピン(1862年~1911年、在任1906年~11年)は貴族地主出身の政治家で、内務官僚となり、国会が開かれた時に内務大臣に就任、国会が解散されると首相に就任し、革命派の徹底的弾圧などの反動政治を強行し、又土地改革を中心とする内政改革を行いました。

 所謂「ストルイピンの反動」の時期(1906年~11年)に約4000人が処刑されたと云われ、絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれたのです。

 ストルイピンの内政改革の中で最も重要な改革は土地改革(1906年11月)でした。
農奴解放令(1861年)では、農地の分与は有償で在り、買戻金が支払えない多くの農民の土地はまとめてミール(農村共同体)に引き渡され、ミールの共有地となりました。

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1861年勅令を読む農奴たち

 ストルイピンの土地改革は、ミール(農村共同体)を解体し、農民がミールを離れることを許し、農民に土地を分与して自作農になる道を開くものであったので、これによって1916年迄に全農家の22%がミールを離脱し、約200万戸の自作農が創出されました。

 ストルイピンの土地改革の目的は、自作農になった農民の中から富農を育成して「帝政の支柱」にすることに成ったのですが、独立した自作農の半分以上が自由競争に敗れて多くは労働者に転落し、農村内部では富農と貧農の対立が激しくなり、改革が行きづまる中で、皇帝・地主との対立が深まり、ストルイピンは警察のスパイに暗殺されてしまいます(1911年9月)。

 社会不安が増大する中で、ロシアは国民の不満を反らす為にバルカンへの進出を強め、ドイツ・オーストリアと衝突して国際的な緊張を高めて行きました。

ジョークは如何?

ソ連崩壊後のNATO諸国と東側および旧ソ連諸国が年例で開いた会議に
旧ソ連諸国が軒並み代表の外相を送ってこなかった.。
出席の西側からは会議を軽く見てるのではないかなどと文句が起こった。

そこで議長がとりなして言うには
「派遣費用が出せず欠席する旨、複数の国よりご連絡いただいております」


続く・・・

2017/06/25

歴史を歩く164

37帝国主義の成立と列強の国情④

4ドイツ

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1848年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世とビスマルク

 ドイツの統一後、ビスマルク(1815年~98年)はドイツ帝国宰相(在任1871年~90年)として約20年間にわたって独裁的な権力を奮いました。
この間、フランスの復讐に備えてオーストリア・ロシアとの間に三帝同盟を結び(1873年)、更にオーストリア・イタリアとの間で三国同盟を結んで(1882年)フランスの孤立化を図りました。
その後バルカンでオーストリアとロシアとの対立が激化し、三帝同盟が事実上消滅すると、ロシアとの間に再保障条約を締結します(1887年)。
又国内では社会主義勢力の進出を抑えるために社会主義者鎮圧法を制定して(1878年)、社会主義的結社を禁止し、集会・出版の自由等を制限しました。

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ヴィルヘルム2世(Wilhelm II., 1859年1月27日 - 1941年6月4日)
全名フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン(Friedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen)

 1888年、ヴィルヘルム1世が崩御し、フリードリヒ3世(在位1888年)が即位しますが、在位わずか99日で没し、孫のヴィルヘルム2世(在位1888年~1918年)が29歳で即位します。
若いヴィルヘルム2世は、社会主義者鎮圧法の扱いと再保障条約の更新をめぐって、老宰相のビスマルクと対立しました。

 ビスマルクが社会主義者鎮圧法の有効期間を延長し、ロシアとの再保障条約を更新・継続を主張した事に対し、ヴィルヘルム2世は社会主義者鎮圧法の延長を否決し、再保障条約の更新をも拒否しました。
1890年3月、ビスマルクは終に辞職し、ヴィルヘルム2世の親政が始まります。

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ビスマルク辞職を描いた挿絵「水先案内人の下船」

 この頃、ドイツの資本主義は重化学工業を中心に目覚しく発展し、工業生産額では1900年代にイギリスに迫り、1910年迄にはイギリスを追い抜き、アメリカに次ぐ世界第二の工業国へと成長します。
こうした経済力を背景に、ヴィルヘルム2世は「世界政策(新航路政策)」と呼ばれる積極的な帝国主義政策に乗り出して行きました。

 ヴィルヘルム2世は、親政を開始するにあたって「国家という船の当直将校の役を朕が担当することになった。航路は従来通り、全速で航行せよ」とドイツ諸王侯宛に打電したので、彼の世界政策は新航路政策と呼ばれますが、航路は従来通りでなく、ビスマルクの平和・現状維持政策を変更して積極的な世界政策を推進し、アフリカ・太平洋・近東へ進出して行きます。

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ドイツ海軍防護巡洋艦「SMS ハンザII」を視察するヴィルヘルム2世

 又ヴィルヘルム2世は世界政策を進める為に、「ドイツの将来は海上にあり」をスローガンにイギリスに対抗して海軍の大拡張に乗り出し、海軍大臣ティルピッツ(在任1897年~1916年)のもとで大建艦計画を推進します(1897年以後)。
特に1917年迄に戦艦38隻・巡洋艦42隻の大艦隊を建造すると云う前代未聞の第2次艦隊法(1900年)は大海軍国のイギリスに大きなショックを与え、以後イギリスとドイツの間に激しい建艦競争を引き起こし、この間、国内では社会主義を目ざす労働運動が盛んとなって行きました。

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ドイツ労働運動の先駆者とされた五人
カール・マルクス(中央)、アウグスト・ベーベル(左上)、ヴィルヘルム・リープクネヒト(右上)
カール・ヴィルヘルム・テルケ(左下)、ラッサール(右下)

 ドイツの社会主義運動は1860年代から始まり、ラッサール(1825年~64年)を指導者とする全ドイツ労働者同盟(1863年に結成)やべーベル(1840年~1913年)を指導者とする社会民主労働者党が結成され(1869年)、両者は1875年に合同し、ドイツ社会主義労働者党が成立します。
ドイツ社会主義労働者党は社会主義者鎮圧法によって弾圧されますが、その一方で徐々に勢力を拡大し、1890年の社会主義者鎮圧法の廃止・ビスマルクの辞職後、ドイツ社会民主党と改称しました(1890年10月)。

 ドイツ社会民主党はその後順調に発展し、1912年の総選挙では110議席を獲得して第一党となり、その間第二インターナショナルでは指導的な地位を占めました。
ドイツ社会民主党は、1991年にエルフルト綱領を採択してマルクス主義による革命を主張しましたが、党内では19世紀末からベルンシュタインの修正主義が現われます。

 ベルンシュタイン(1850年~1932年)は、社会民主労働者党に入党し、社会主義者鎮圧法に反対してスイス・ロンドンに亡命し、彼はロンドンでフェビアン社会主義の影響を受けてマルクス主義の革命理論に懐疑的となり、革命を否定して議会主義による漸進的な社会主義の実現を説く修正主義を主張し(1896年頃から)、修正主義の理論的な指導者となりました。

ジョークは如何?

買い物の鉄則「月曜日に作られたものは買うな」

※週休二日で土日を飲み明かした労働者が、
月曜日の朝、向かい酒のウオッカをあおってから工場に出勤するから


続く・・・



2017/06/11

歴史を歩く163

37帝国主義の成立と列強の国情③

3フランス

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アルザス・ロレーヌの位置

 フランスは、普仏戦争(1870年~71年)に敗れてアルザス・ロレーヌをドイツに割譲したために工業生産の発展が鈍化し、1870年代にはアメリカ・ドイツに追い抜かれてその生産力は第4位に後退しました。
又、工業では小企業が乱立し、農業でも小経営が多かった為、国内には有利な資本の投下先が少なく、結果として国内の資本はもっぱら有利な海外投資に向けられ、フランスは「ヨーロッパの高利貸し」と呼ばれ、特に露仏同盟の成立(1891年~94年)後はロシアへの投資が増加しました。

フランス植民地
アフリカの列強植民地

 フランスは、対外的には1880年代以後チュニジアやインドシナを獲得し、イギリスに次ぐ広大な植民地を領有し、国内では、1875年に第三共和政憲法が成立し、第三共和政の基礎が確立しましが、小党分立の傾向が強く、政情はなお不安定でした。

 フランスでは、普仏戦争の敗北後対独復讐心が強まり、ドイツに対する反感から軍部や右翼が台頭し、第三共和政はブーランジェ事件(1887年~89年)やドレフュス事件(1894年~99年)によって重大な危機に直面しました。

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ジョルジュ・エルネス・ジャン=マリー・ブーランジェ(Georges Ernest Jean-Marie Boulanger、1837年4月29日レンヌ - 1891年9月30日)

ブーランジェ事件
ブーランジェ(1837年~91年)は、普仏戦争に従軍し、師団長を経て陸相に就任します(1886年~87年)。
彼は対独強硬策を唱え、「復讐将軍」・「ビスマルクを尻込みさせた男」と渾名されて愛国主義者・右翼・一般民衆の人心を集めます。
王党派やボナパルト派はブーランジェを引き入れて共和政を打倒し、軍部独裁政権の樹立を企てました。

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ブーランジェ事件の風刺画

 ブーランジェが、パリの補欠選挙で大勝すると(1889年1月)、興奮したパリの民衆は街頭に犇めき、クーデターの危機は目前に迫ったかにみえたが、ブーランジェが土壇場で実行を躊躇い、クーデターは未遂に終わります。
これに驚いた政府が不穏な団体を解散させ、ブーランジェ派の指導者を起訴するとブーランジェはベルギーに亡命し、欠席裁判で終身禁固刑の判決を受けると数ヶ月後に自殺します。

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階級を剥奪されるドレフュス大尉

ドレフュス事件
 1894年夏、パリのドイツ大使館から一通の手紙が盗み出されてフランス陸軍省の手に落ちました。その中にはフランス陸軍の機密文書の名が列記されており、フランス陸軍省の中にスパイの存在が明らかになり、捜査が行われてユダヤ人の砲兵大尉ドレフュスがドイツのスパイ容疑で逮捕され(1894年)、軍法会議に処されます。

 ドレフュスは無罪を主張しますが、ユダヤ人ドレフュスを早く処分せよと云う世論の高まりの中で、陸軍は事件の処理を急ぎ、ドレフュスを有罪として終身禁固刑を言い渡し(1894年12月)、官位を剥奪して南アメリカのフランス領ギアナ沖の悪魔島(ここへ送られたが最後、生きて帰れないことからこう呼ばれた)へ送ります。

 1896年、陸軍省情報部長の調査によって真犯人はエステラジー少佐であることが明らかになりますが、陸軍は体面を保つ為に揉み消しを図りますが、真犯人が別にいる事が知れると再審を求める世論が、巻き起こりますが、軍部は威信を保つ為に再審を拒否して反ユダヤ主義や拝外主義を煽り、エステラジーを形式的に軍法会議にかけて無罪としました。

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軍法会議のドレフュス

 エステラジー裁判から2日後(1898年1月13日)、フランス自然主義の代表的な作家であるゾラ(1840年~1902年)は「私は弾劾する」と名付けられた大統領宛の公開質問状を新聞に発表し、軍部の不正・横暴を攻撃してドレフュス擁護の論陣を展開しました。

 ドレフュスの再審を要求する運動は増々激しくなり、その一方で再審反対運動も激しさを増し、その結果、再審派と反対派の対立は、ドレフュス個人の有罪・無罪の問題を越えて共和政の擁護と共和政打倒の戦いとなり、国論を二分する政治問題に発展しました。
再審要求運動が更に高まる中でようやく再審が行われますが、軍法会議はドレフュスに再び有罪判決を下しますが、ドレフュスは大統領特赦で釈放され(1999年)、その後も復権運動が行われ、再再審で終に無罪と復権が確認されました(1906年)。

 ドレフュス事件は共和政の存続を脅かす出来事でしたが、この出来事によってかえって共和派の団結が強まり、又ドレフュス事件を機にユダヤ人のシオニズム(ユダヤ人の国家をパレスチナに建てようとする運動)が始まりました。

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ピエール・ワルデック=ルソー(Pierre Waldeck-Rousseau, 1846年12月2日 - 1904年8月10日)

 1899年に成立したヴァルデック・ルソー内閣(1899年~1902年)は「共和政防衛内閣」と呼ばれ、社会主義者も含めた全共和主義派の支持の下で、軍部・カトリック教会・右翼の攻撃から共和政を守ることを目的に組織され、政治改革・社会改革に取り組みました。

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英仏協商の風刺画

 共和政防衛内閣の成立によって第三共和政は安定しましたが、フランス人の間にはドイツに対する警戒心が依然として強く、露仏同盟(1891年~94年)や英仏協商(1904年)を結んでドイツに対抗しました。

 ドレフュス事件でドレフュス擁護に活躍したジョレス(1859年~1914年)は社会党(統一社会党)の結成に大きな役割を果たし、社会党(統一社会党)はフランスの社会主義政党や団体の連合組織として1905年に結成されます。
又、フランスの労働運動では、議会主義を否定して労働組合の直接行動・ゼネストによって革命を目ざすサンディカリズムが19世紀末から盛んになって行きます。

ジョークは如何?

ポーランド人が鶏小屋に忍び込んだ
人気を察した飼い主が銃を構えて呼びかけた

「おい!そこに誰かいるのか?」
「誰もいません旦那様、おらたち鶏だけでがす」

続く・・・

2017/06/08

歴史を歩く162

37帝国主義の成立と列強の国情②

2イギリス

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初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, 1804年12月21日 - 1881年4月19日)肖像画は1857年当時

 帝国主義と云う言葉は、1870年代後半に、保守党首相ディズレーリ(在任1868年、1874年~80年)が、その頃高まりつつあった小英国主義(植民地は財政負担を増す重荷に過ぎないとして植民地放棄を唱える立場)を攻撃し、植民地支配を強化し、帝国の拡張・団結を主張したのが始まりです。

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ヴィクトリア女王にインド皇帝の王冠を渡しているのはディズレーリ首相


 ディズレーリは、スエズ運河の株式買収(1875年)やインド帝国成立(1877年)、更に露土戦争に干渉してベルリン会議でロシアの南下を阻止する一方で、キプロス島を獲得する(1878年)等帝国主義政策を推進しました。

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ウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone 1809年12月29日 - 1898年5月19日)

 これに対して自由党の首相グラッドストーンは平和外交を主張し、アイルランド問題等の内政に力を注ぎました。

 ディズレーリと共に帝国主義者として知られるジョゼフ・チェンバレン(1836年~1914年)は、螺子製造業で財を成して政界に進出、自由党急進派として活躍し、グラッドストーン内閣にも2度入閣しましたが、アイルランド自治法案に反対して自由党を離れ、自由統一党を結成します(1866年)。
その後チェンバレンは、第3次ソールズベリ保守党内閣(1895年~1902年)に植民相として入閣し、国内の社会問題の解決には植民地の開発が必要であると主張し、アフリカでの帝国主義政策を推進して南ア戦争(南アフリカ戦争、ブーア戦争、1899年~1902年)を引き起こしました。

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植民地省の大臣デスクに座るチェンバレン

 又チェンバレンの主張によって、1877年には植民地会議が開催され、本国・自治領・インド等の代表で構成された会議は、本国と自治領・植民地間の結合・協力関係の強化を目的とし、イギリス帝国共通の防衛・経済等の問題を討議しました。
植民地会議はその後4回開催され、1907年にはイギリス帝国会議と改称されます。

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ウェッブ夫妻

 この間、国内では労働運動・社会主義運動が盛んとなり、フェビアン協会(1884年)や独立労働党(1893年)等が設立されます。
1884年に設立されたフェビアン協会は、革命を否定して漸進的な社会改革を主張する社会主義者の団体で、ウェッブ夫妻(夫シドニー(1859年~1947年)は後にマクドナルド労働党内閣に入閣した)や劇作家として有名なバーナード・ショー(1856年~1950年)等が活躍しました。
尚フェビアンの名は、戦わず・挑まず・敵の消耗を待つ戦術でハンニバル軍を破った古代ローマの将軍の名前ファビウスの名に因んでいます。

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ジェームズ・ケア・ハーディ(James Keir Hardie、1856年8月15日 - 1915年9月26日)

 ケア・ハーディ(1856年~1915年)が設立した独立労働党も、労働者の議会進出と社会主義を目的とする漸進的な改革を目ざしました。
1900年には、フェビアン協会・独立労働党・社会民主連盟(マルクス主義)の3つの社会主義団体と65の労働組合の代表によって、その連合体である労働代表委員会が結成されます。

 労働代表委員会は、その後既存政党(保守党や自由党)から独立した労働者独自の政党を目ざし、1906年に労働党と改称しました。
労働党は、社会民主主義(共産主義の革命理論に反対し、議会主義による社会主義の実現を説く思想)の立場に立って漸進的な改革で社会主義の実現をはかる穏健な方針でした。

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初代オックスフォード=アスキス伯爵ハーバート・ヘンリー・アスキス(Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith, KG, PC, KC、1852年9月12日 - 1928年2月15日)

 その前年に成立していた自由党内閣は、労働党の協力を得て老齢年金法や国民保険法等の社会改革を実現を画策しますが、保守党勢力の強い上院が改革に反対した結果、1908年に成立したアスキス自由党内閣(1908年~16年)は、1911年に議会法(議院法)を成立させました。

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初代ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵デビッド・ロイド・ジョージ(英語: David Lloyd George, 1st Earl Lloyd George of Dwyfor, OM, PC、1863年1月17日 - 1945年3月26日)

 アスキス内閣の蔵相であったロイド・ジョージ(1863年~1945年、1916年~22年に首相を務める)は、ドイツに対抗して海軍の増強が叫ばれると、土地所得への新課税・所得税と相続税の増額等を含む予算案を議会に提出しますが、この予算案が上院で否決された為(1909年)、下院を解散して総選挙で勝利し、世論を背景に上院を屈服させて議会法を成立させました。
議会法の内容は、下院を3回通過した法案は上院の同意なく法律となる事、又上院は予算案を否決する事ができないこと等で、この法律によって下院の優越が確立しました。
日本国憲法の衆議院の優越はこの議会法の精神を取り入れたものです。

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19世紀後半、アイルランドを襲ったジャガイモ飢饉

 19世紀後半のイギリス内政最大の問題の1つであったアイルランド自治法案は、1886年と1893年の2度グラッドストーン内閣によって提出されたが、いずれも否決されていました。

 20世紀に入るとシン・フェイン党を中心にアイルランド独立運動が激しさを増します。
シン・フェイン党(シン・フェインは「われわれ自身で」の意味)は、1905年に結成されたアイルランドの政党で、アイルランドの独立を主張し、急進的な反英路線を主張します。

 自由党内閣は、1912年に三度アイルランド自治法案を議会に提出、翌1913年には下院で可決されましたが上院では否決され、1914年にやっと下院・上院で可決されて成立しました。
しかし、イギリス人が多数を占める北アイルランド(アルスター地方、17世紀にイングランド・スコットランド人の新教徒が植民)は自治法案に反対し、シン・フェイン党との対立が激化し、政府は第一次世界大戦の勃発を理由にアイルランド自治法案の実施を延期します。

ジョークは如何?

アル中のスコットランド人が尻のポケットにウィスキーの瓶を入れて車道を千鳥足。
当然のごとく、車にはねられ道端までとばされた。
幸い命に別状はなかったものの尻のあたりが、なにやらぬれている模様。
その男、手で触ってみて、
「ああ神様、どうかこれが血でありますように」


続く・・・