2017/01/15

歴史を歩く137

3アメリカ合衆国の発展③

2奴隷制度と南北戦争(その1)

 合衆国領土の拡大・西部の発展と共に、北部・西部・南部のセクション(地域)が成立し、セクション間での対立が激しく成りました。

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アメリカ南部プランティーション

 南部では、植民地時代からタバコ栽培を中心とする黒人奴隷を使用するプランテーションが発展していましたが、イギリスの産業革命によって綿花の需要が増大し、特にホイットニーの綿繰り機の発明(1793年)によって綿花栽培が急激に増大し、イギリスへの綿花輸出も飛躍的に増大した結果、南部は奴隷制の存続と自由貿易を主張し、1816年以後続けられていた保護関税政策に強く反対しました。
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ニューヨーク、イースト・リバー(1848年)

 これに対して米英戦争(1812年~14年)後、産業革命が進展して資本主義が発達した北部は、先進工業国イギリスから北部の産業資本を守るために保護関税政策を主張し、奴隷制については人道上の理由からも反対します。
又北部は保護関税政策を維持する為に連邦主義を主張しますが、南部は州権主義(州の自治・主権を主張する立場)を主張し、北部と南部の対立は奴隷制度をめぐって激化して行きます。

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自由州と奴隷州

 奴隷制度を禁止するか否かは州法で決定され、又合衆国上院は各州から2名の議員が選出される為、自由州(奴隷制度を禁止した州)と奴隷州(奴隷制度を認める州)の数は上院の勢力分布に直接反映されることになる為、西部の発展によって新州が成立して連邦に加入する際に、自由州とするか、奴隷州にするかを巡って南部と北部は激しく争いました。

 ミズーリ准州が州に昇格する際に、南部と北部の対立は凄まじく、結果ミズーリ協定が結ばれ、ミズーリ州を奴隷州とするが、以後はミズーリ州の南境界線の北緯36度30分以北には奴隷制度を認めないことが決議されました。

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フォーティ・ナイナーズ・ゴールドラッシュ

 1820年以前には、自由州が11州・奴隷州も11州で在り、ミズーリ州を奴隷州として認める代わりに、マサチュセッツ州からの分離を要望していたメイン州を自由州として認めて連邦に加入させ、自由州と奴隷州の均衡が図られていましたが、アメリカ・メキシコ戦争(1846年~48年)によって獲得したカリフォルニアのサクラメントの近くで1848年に金鉱が発見されると、世界中から一攫千金を夢見る夥しい移民が殺到し、翌1849年だけでも8万人以上の人々がカリフォルニアに押しかけ、後に彼等は、1849年に移住して来た事から「フォーティ・ナイナーズ」と呼ばれる様に成ります。

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ゴールド・ラッシュ

 この「ゴールド・ラッシュ」によってカリフォルニアの人口が急増し、1849年には早くも10万人に達し、州に昇格する条件を満たし、当時の自由州と奴隷州の数は共に15州で在り、カリフォルニアが自由州として連邦に加入を希望すると、自由州と奴隷州との均衡が崩れる為、再び南部と北部の対立が激化しました。

 カリフォルニアは南北に大きな州で、北緯36度30分が州の中央やや南を通過しており、ミズーリ協定で解決することは不可能で、結局「1850年の妥協」が成立し、カリフォルニアを自由州にする代わりに厳重な逃亡奴隷取締り法を制定することで南部と北部は妥協しました。
奴隷制廃止論者達は、逃亡奴隷取締り法に強く反対し、「地下の鉄道」と云う秘密組織をつくり、南部から逃亡してきた奴隷を匿ってカナダへ送り込みました。

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アンクル・トムの小屋

 ストウ夫人(1811年~96年)は逃亡奴隷取締り法に怒りをかき立てられ、1851年~52年に「アンクル・トムの小屋」を雑誌に連載し、「アンクル・トムの小屋」が出版されると(1852年)、1年間で30万部以上が売れてベストセラーとなり、人々に大きな感銘を与えると共に大きな社会的反響を呼び起こしました。

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カンザス・ネブラスカ法の行方、奴隷か自由か

 このような状況の中で、1854年に「カンザス・ネブラスカ法」が成立します。
これはカンザス・ネブラスカ両州を准州とする際、両州が将来自由州になるか奴隷州になるかは住民の決定に委ねるという法でした。
カンザス・ネブラスカ両州は、ミズーリ協定では当然自由州になる筈でしたが、南部はミズーリ協定がある限り新州が奴隷州になる望みがないので、ミズーリ協定の廃棄を強く要望しており、カンザス・ネブラスカ法の成立は、このミズーリ協定の廃棄を意味し、又奴隷制度が北部へ拡大する可能性も否定できず、南部と北部の対立が再び激化していきました。

カンザス・ネブラスカ両州が将来自由州になるか奴隷州になるかは住民投票で決定されることに成り、南部と北部は多くの人々を両州に移住させ、将来両州を自由州又は奴隷州にしようと争った為、対立は益々深まり、武力衝突も起こり始めます。
カンザス・ネブラスカ法の成立から2ヶ月後に、奴隷制反対をスローガンとしてホイッグ党を中心に共和党が結成され(1854年)、奴隷制度を巡る南北の対立は決定的と成りました。
この様な状況の中で1860年に行われた大統領選挙は激戦でしたが、共和党のリンカーンが当選を果たしました。

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エイブラハム・リンカーン( Abraham Lincoln:1809年2月12日 - 1865年4月15日)

 リンカーン(1809年~65年、在任1861年~65年)は、貧しい開拓農民の家庭でケンタッキーの丸太小屋で生まれ、イリノイ州に定住しました。
独学によって弁護士となって開業すると共に、州議会議員・下院議員に選出されてホイッグ党員として活躍し、一時政界を引退しましたが、共和党が結成されると奴隷制拡大反対論者であったリンカーンは共和党に加わり、イリノイ州選出の上院議員に立候補します(1858年)。
この選挙では敗れますが、選挙中の演説で全国にその名を知られるようになり、1860年の大統領選挙では共和党の大統領候補と成り、民主党の分裂等に助けられ、第16代大統領に当選しました。

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1861年、未だ建設中のアメリカ合衆国議会議事堂で行われた大統領就任式

 リンカーンの当選は南部の奴隷州に衝撃を与え、連邦を脱退して別の国家をつくろうとする空気が強まり、リンカーンの当選の翌月にサウスカロライナ州はついに連邦脱退を宣言し(1860年12月)、これに続いてリンカーンの大統領就任(当時は大統領就任式は3月に行われた)迄の間に6州が脱退します。

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ジェファーソン・フィニス・デイヴィス( Jefferson Finis Davis: 1808年6月3日 - 1889年12月6日)

 1861年2月、合衆国を脱退した南部諸州はアメリカ連合国(アメリカ連邦)を結成して憲法を制定し、ジェファーソン・デヴィス(1808年~89年、ミシシッピ州選出の上院議員からアメリカ連合国の大統領となる、在任1861年~65年)を大統領に選び、アメリカ連合国は最初7州で形成され、5月迄には11州が加わりました。

ジョークは如何?

「ジョニー、なんだこの成績は。ワシントンはおまえの年で既に学校で1番だったんだぞ」

「そして、お父さんの年ではもう大統領だったんだね」

続く・・・


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2017/01/15

歴史を歩く136

3アメリカ合衆国の発展②

1 民主主義の発達と領土拡張(その2)


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アメリカ合衆国の版図拡大

 合衆国領土は、独立当時はミシシッピ川以東でしたが、以後次第に西方へ拡大し、1848年にはその領土は終に太平洋岸に到達します。
1803年にはフランスからルイジアナを購入して領土を倍増させた後、1819年にはスペインからフロリダを買収し、1840年代には、合衆国の領土拡張と西方への進出を正当化する考え方として「マニフェスト・ディスティニー(明白な運命)」(合衆国の領土拡張はアメリカ人が神から与えられた運命であるとの意味)と云う言葉が広まりました。

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テキサス革命・サンジャシントの戦い1836年4月21日

 テキサスは、1821年にスペインから独立したメキシコの領土でしたが、合衆国から多くの移住民が入り込み、奴隷制を持ち込んだ結果、メキシコはそれ以上の移住を禁止し、奴隷制廃止を命じますが、これに対して移住民が反乱を起こし、1836年に独立を宣言して共和国となり、更に合衆国は1845年にテキサスを併合して第28番目の州とします。

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アメリカ・メキシコ戦争:ベラクルス包囲戦

 翌1846年にはイギリスとオレゴン協定を結び、オレゴン地方を北緯49度(現在の国境線)で南北に分割した上でオレゴンを併合し、更に合衆国はカリフォルニアの獲得を望み、メキシコに売却を求めますが拒否された為、テキサスとメキシコの国境地帯に軍隊を派遣してメキシコを挑発し、アメリカ・メキシコ戦争(1846年~48年)を起こしました。
戦争は合衆国の完勝に終わり、1848年の講和条約でカリフォルニアとニューメキシコを獲得し、合衆国の領土はついに太平洋岸に達します。

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西部開拓時代のネイティブアメリカン(実写)

 19世紀に於ける合衆国の歴史はフロンティア(辺境)が次第に西方へ移動していく歴史でした。
19世紀を通して西部開拓が進展し、フロンティアは西へ西へと進み、この西方への移住・開拓の動きは総称して西漸運動と呼ばれ、西漸運動は植民地時代にも行われましたが、独立後本格化し、1820年代に急速に促進されました。

 西部と云う言葉には、新しく開拓されて文明地域に加えられた地域と云う意味が含まれています。従って西部は時代によって場所が異なり、独立した頃にはアパラチャ山脈の西が西部でしたが、その後は次第に西へ移って行きました。

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西部開拓・幌馬車隊の移動

 開拓地と未開拓地との境界地帯はフロンティアと呼ばれ、ここでフロンティアとは、1平方マイル(約2.6平方km)につき人口密度が2~6人の人口が希薄な地域を意味しています。
1783年のパリ条約で合衆国の独立が認められ、ミシシッピ川以東の地が合衆国の領土と成りますが、この新しい領土を如何に利用するかは、独立当初の大問題で在り、東部13州で分割する案も提唱されますが、結局1787年に北西部条例が制定され、西部の土地については一定の地域で自由人の成年男子の数が5000人に達すると、准州として自治政府を設け、准州の自由人口が6万人に達したときは連邦議会の承認を得て州に昇格し、最初の13州と同じ資格で連邦に加入させる事と成ります。

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黄金の穀倉地帯 グレート・プレーンズGreat Plains

 又これより2年前には土地条例が制定され(1785年)、アパラチャ山脈以西の土地1平方マイル(640エーカー)を単位として1エーカー当たり1ドルで売却することが決められていましたが、貧しい農民にとって640ドルは大金であり、もっと買い易くして欲しいと云う要求がくり返され、19世紀に入ると最低売却面積が小さくなり、1820年には80エーカーでも購入が可能に成りました。

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ネイティブ・アメリカン(インディアン)

 農民や東部で生活が困難な者、ヨーロッパからの移民が西部へ移住し、定着して開墾に従事しますが、彼等は自然やネイティブ・アメリカン(インディアン)と戦いながら荒地を切り開き、丸太小屋を建て、周辺の土地を農地に変えて行きました。
そうした開拓民の生活の中から、自主独立・何事にも屈しない不撓不屈の精神・他人との協力・冒険心に富む楽天的な性格等のアメリカ人気質、所謂フロンティア・スピリット(開拓者精神)が形成され、又西部は伝統や家柄等に縛られない実力主義の自由な社会として発展した結果、アメリカの民主主義をも発展させました。

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ネイティブ・アメリカン(インディアン)

 しかし、西部開拓歴史は、先住民のネイティブ・アメリカン(インディアン)にとって白人による抑圧・迫害の歴史で在った事を忘れては成りません。

 「ジャクソニアン・デモクラシー」を推進したジャクソンは、1830年にネイティブ・アメリカン(インディアン)強制移住法を制定し、ネイティブ・アメリカン(インディアン)はミシシッピ川以西の土地へ移住を強制され、従わない部族は武力で討伐されていきます。

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ネイティブ・アメリカン(インディアン)実写

 南北戦争後、西部開拓が大規模に進められるようになると、追いつめられたネイティブ・アメリカン(インディアン)は各地で激しい抵抗を繰り返しますが、1871年にはネイティブ・アメリカン(インディアン)は特定の居留地に押し込められることになり、1890年頃迄にその抵抗はすべて鎮圧され、その為、アメリカ独立当事約115万人と推定されたネイティブ・アメリカン(インディアン)の人口は、1890年頃には25万人に迄減少していました。

ジョークは如何?

先生がジョニーに尋ねた。
「ジョニー、ワシントンが『庭の桜の木を切ったのは僕です』と正直に告白した時、
ワシントンのお父さんは叱らずに許してやりました。なぜかしら?」
「はーい。ワシントンがまだ手に斧を持っていたからです」とジョニー

続く・・・

2017/01/15

歴史を歩く135

3アメリカ合衆国の発展①

1民主主義の発達と領土の拡大(その1)

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ジョージ・ワシントン(George Washington:1732年2月22日 - 1799年12月14日)

 アメリカ合衆国では、1789年に連邦政府が発足し、ワシントン(在任1789年~97年)が初代の大統領に就任しますが、ワシントンは大統領を2期務め、3選を固辞して「告別の辞」で中立の必要を説いて引退しました。

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ジョン・アダムズ(John Adams:1735年10月19日 - 1826年7月4日)

 独立宣言の起草者の一人で、ワシントンのもとで副大統領を務めたアダムズが、フェデラリスト(連邦派)の指導者として第2代大統領に就任します(在任1797年~1801年)。

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トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson:1743年4月2日 - 1826年7月4日)

 1800年の大統領選挙では、アンチ・フェデラリスト(反連邦派)のジェファーソンがアダムズを破って第3代大統領に就任しますが、この出来事は「1800年の革命」と呼ばれました。
ジェファーソン(1743年~1826年、在任1801年~09年)は、ヴァージニアのプランター(大農園主)の家庭に生まれ、弁護士となり、ヴァージニア植民地議会議員を経て大陸会議の代表となり、独立宣言の起草者となりました(1776年)。

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独立宣言
5人委員会がその草稿を大陸会議に提出している。ジェファーソンは宣言文を机に置いている中央の背が高い人物。


ワシントン大統領のもとでは初代国務長官に就任しますが、ハミルトンやアダムズ等のフェデラリストと対立して国務長官を辞任し(1793年)、アンチ・フェデラリスト(反連邦派、1787年の憲法草案に反対した人々)を中心にリパブリカン党(後に民主共和党に発展)を結成し、1800年の大統領選挙でフェデラリスト(連邦派)のアダムズを破って第3代大統領となります。

 ジェファーソンは民主主義の発展に努め、少数意見の尊重・憲法によって保障された権利と自由を維持すること・州の正当な権限を保障すること等を主張し、自営農民こそが民主主義の中核と称えました(ジェファーソニアン・デモクラシー)。
こうした彼の民主主義に対する考え方は後世に影響を与え、リンカーンはジェファーソンを「アメリカ民主主義の父」と呼んでいます。

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ルイジアナ購入

 ジェファーソン在任中の出来事の中で、以後の合衆国の歴史にとって最も重要な出来事の一つとなったのが、1803年のルイジアナ購入でした。
ジェファーソンの在任中はナポレオンの全盛期でした。
ナポレオンはスペインからミシシッピ以西のルイジアナ(1763年にフランス領からスペイン領となる)を取り戻しますが、ジェファーソンは西部農民の要請を受けてフランスと交渉し、ナポレオンからルイジアナを購入します。

 ルイジアナはミシシッピ川とロッキー山脈に挟まれた面積約214万平方km(日本の国土面積は約37.8万平方km)の広大な地域でしたが、合衆国はこれをわずか1500万ドル(1平方km当たり約7ドル)で購入し、これによって合衆国の領土は一機に倍増しました。

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ジェームズ・マディソン・ジュニア(James Madison, Jr.:1751年3月16日 - 1836年6月28日)

 第4代大統領マディソン(在任1809年~17年)の在任中、1812年6月に合衆国はイギリスに宣戦し、米英戦争(アメリカ・イギリス戦争、1812年6月~14年12月)が始まりました。
アメリカはカナダの奪取を目論むものの失敗し、海上もイギリス海軍に封鎖されますが、米・英共に決定的な勝敗をみないうちに、ヨーロッパでナポレオン戦争が終結した為、米・英共に戦闘を継続する理由がなくなり、ガン条約が結ばれて米英戦争は終結しました。

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米英戦争・ワシントン焼き討ち

 戦争中にイギリス商品の流通が総て停止した結果、米英戦争はアメリカの経済的自立を促し、木綿工業を中心とするアメリカの諸産業が発展します。
このため米英戦争は、政治的な独立を果たした独立戦争に対して、経済的な独立を果たしたという意味で「第二次独立戦争」と呼ばれています。

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ジェームズ・モンロー(James Monroe、1758年4月28日 - 1831年7月4日)

 第5代大統領モンロー(1758年~1831年、在任1817年~25年)は、ヴァージニア州出身でヴァージニア州選出の下院議員を経て上院議員となり、アンチ・フェデラリストの指導者として活躍し、ジェファーソン大統領の下で国務長官を務め、1816年の大統領選挙でリパブリカン党から立候補して当選し、大統領を2期務めました。

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モンロー主義・風刺画

 モンローはラテン・アメリカ諸国の独立を支援し、メッテルニヒがラテン・アメリカ諸国の独立運動に干渉しようとすると、1823年にモンロー宣言(教書)を発し、相互不干渉主義を主張してこれに反対しました。
モンロー宣言は、ワシントン以来の中立政策をより明確に表明したもので、後の孤立主義に発展し、合衆国の外交政策の基本方針と成りました。

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アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson:1767年3月15日 - 1845年6月8日)

 第7代大統領ジャクソン(1767年~1845年、在任1829年~37年)は西部出身初の大統領として、「ジャクソニアン・デモクラシー」を推進します。

 ジャクソンは、当時の西部辺境であったサウスカロライナ州の貧しい開拓民の家庭に生まれ、テネシー州選出の下院・上院議員となり、米英戦争では司令官としてイギリス軍に大勝して一躍国民的英雄と成りました。
1828年の大統領選挙で庶民の支持を得て当選し、西部出身初の大統領となり、又庶民の大統領として注目されます。

 ジャクソンは、西部の自営農民・東部の小市民や労働者等の要求を巧に捉え、特権や独占に反対して庶民の側に立って民主主義を推進し、普通選挙制度・公立学校の普及・婦人参政権運動・官職交替制・特権に反対する自由企業の発展等の民主化が進展した為「ジャクソニアン・デモクラシー」と呼ばれ、ジャクソンの支持者達は1820年代に南部を主な基盤とする民主党を組織しました。
これに対して反ジャクソン派は北部を主な基盤とするホイッグ(ウイッグ)党を組織し(1834年)、後にホイッグ党を中心に、奴隷制反対をスローガンとする共和党が結成されました。

ジョークは如何?

紀元元年はいつか? 1933年だ。
なぜ?

その年まではBefore Crisis(危機以前)、B.C.
それ以降はAfter Depression(不景気の後)、A.D.
だから。

※補足
1933年はニューディール政策の始まった年


続く・・・

2017/01/05

歴史を歩く134

31自由主義と国民主義⑩

8北ヨーロッパ諸国

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汎スカンディナヴィア主義
「北欧諸国(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン)、特に「ノルマン人」の連帯と統一を目指す思想運動で、北欧諸国が、欧州列強の脅威に囲まれる中で、北欧の団結と統合を体現化したナショナリズムの昂揚」。

 スウェーデンは、ナポレオン戦争でフィンランドをロシアに割譲されますが、ウィーン会議ではデンマークからノルウェーを同君連合として割譲させ、19世紀半ば以降、対外的平和と国内の民主化に努力し、二院制議会を設ける(1866年)等立憲王国として発展しました。

 ノルウェーは、ウィーン会議の結果、デンマーク領から同君連合のスウェーデン領となり、その後の独立運動の結果、1905年に国民投票によって平和的に独立を達成します。

 デンマークは、ナポレオン戦争でノルウェーを失いました。
1848年には二月革命の影響を受け、立憲君主制を宣言し、自由主義的憲法を制定しますが、デンマーク戦争(1864年)でプロイセン・オーストリアにシュレスヴィヒ・ホルシュタインを割譲され、以後は対外平和政策と福祉政策の充実・農牧業を中心とする国づくりに努め、民主的な立憲王国への道を進むことになります。

9国際的諸運動の進展

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1851年ロンドン万国博覧会の水晶宮
「開業までたった9ヶ月という計画で建設された」

 1851年にロンドンで第1回万国博覧会が開催されましたが、それはイギリスの国力を誇示する場でもありました。
1855年にはナポレオン3世が勢威を誇示するためにパリで第2回万国博覧会を開催します。
1862年には再びロンドンで万国博覧会が開催されますが、この時フランスの労働者代表がイギリスに渡り、労働者の国際的組織設立の動きが始まりました。

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ピエール・ジョゼフ・プルードン(Pierre Joseph Proudhon ・1809年1月15日-1865年1月19日)

 1863年のポーランド反乱に対するイギリス・フランスの労働者の支援運動が契機となり、1864年9月にロンドンで第一インターナショナル(国際労働者協会、1864年~76年)が結成され、創立宣言を起草したマルクスがその指導者となりますが、先ずプルードン派と、次いでバクーニン等の無政府主義者との対立が激しくなります。
この様な内部対立とパリ・コミューン(1871年)を公然と支持して各国政府から弾圧され、1876年に解散しました。

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ミハイル・アレクサンドロヴィチ・バクーニン(ихаи́л Алекса́ндрович Баку́нин、・1814年5月30日 - 1876年7月1日)

 第一インターナショナル解散後は各国別に運動が展開されていましたが、1889年7月にパリでフランス革命百年祭が催された時に、欧米19カ国の代表によって第二インターナショナル(1889年~1914年)が結成されます。
第二インターナショナルは、各国の社会主義政党が中心となって組織され、特にドイツ社会民主党が指導的な地位を占めますが、第一次世界大戦の勃発で、各国社会主義政党が自国政府の戦争を支持したために崩壊します。

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万国平和会議の風刺画

 19世紀末、帝国主義列強の対立によって戦争の危機が迫るなかで、ロシア皇帝ニコライ2世の提唱によって万国平和会議が1899年と1907年の2回にわたってオランダのハーグで開催され、第1回会議には26カ国が、第2回会議には44カ国が参加しています。

 平和確保の為の軍備縮小が論議されましたが、成果は得られなかったものの、第1回会議では国際仲裁裁判所の設立が決まり、1901年にハーグに設置されます。
国際仲裁裁判所は国際紛争の平和的解決を目標としましたが、第一次世界大戦前には殆ど成果をあげることは出来ませんでした。

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アンリ・デュナンとソルフェリーノの戦い
ジャン・アンリ・デュナン(Jean Henri Dunant, 1828年5月8日 - 1910年10月30日)

 この間、クリミア戦争におけるナイティンゲールの活動とイタリア統一戦争でのソルフェリーノの戦いを目撃してその惨状に心をうたれたスイス人のデュナン(1828年~1910年)の提唱によって、1864年に26ヵ国が参加して国際赤十字社が設立されました。

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クーベルタン男爵ピエール・ド・フレディ(1863年1月1日 - 1937年9月2日)

 又フランスのクーベルタン(1863年~1937年)の提唱によって近代オリンピック大会が始まり、1896年にアテネで第1回国際オリンピック大会が開催されます。
その他、国際電信連合(1865年創設)や万国郵便連合(1875年に成立)等の国際的な機関もこの時期に創設されています。 

ジョークは如何?

社会主義者のための天国に、一人の男性が死んでやってきた。

天国の門番「お前の父親の職業は?」
 男「弁護士で、商売のほうも少し…」
門番「フン、資本家の仲間だな。おふくろは?」
 男「商人の娘です」
門番「これもブルジョアか。で、お前の職業は?」
 男「著述業です」
門番「労働者じゃないな。女房はどうなんだ?」
 男「貴族の娘です」
門番「ああ、だめだだめだ!とても労働者の天国には入れられん!
    帰れ! …ああ、いちおう名前だけ聞いておこう」

 男「……カール・マルクス」

続く・・・
2016/12/28

歴史を歩く133

31自由主義と国民主義⑨

7ロシア南下政策と東方問題(その2)

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聖地イェルサレム・現在

 聖地イェルサレムの管理権は、16世紀以降カトリックの保護者としてのフランスが保有していましたが、フランス革命時にギリシア正教会がロシアの支持を得て管理権を掌握します。
ナポレオン3世は国内のカトリック教徒の支持を繋ぐためにオスマン・トルコに聖地管理権を要求し、それを象徴する神殿の鍵を与えられました。

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ニコライ1世
(Николай I,: Nikolai I、ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ:Николай Павлович Романов,: Nicholai Pavlovich Romanov、1796年7月6日 - 1855年3月2日)


 ニコライ1世はこれを不満としてトルコに抗議するとともに、トルコ領内のギリシア正教徒をロシアの保護下におくことを要求し(1853年2月)、これが拒絶されるとトルコ領内のモルダヴィア・ワラキアに侵入して占領します(1853年7月)。
トルコはイギリス・フランスの支持を得てロシアに宣戦し(1853年10月)、ロシアもトルコに宣戦して(1853年11月)クリミア戦争(1853年~56年)が始まりました。

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クリミア戦争・トルコ軍将官・士官

 翌年にはイギリス・フランスが、ロシアの南下政策を阻止するためにトルコと同盟してロシアに宣戦し(1854年3月)、サルデーニャもトルコ側に立って参戦しました(1855年1月)。
戦場はバルカン半島からクリミア半島に移り、やがてイギリス・フランス・トルコ軍はロシア軍のこもるセヴァストーポリ要塞を包囲し(1854年10月)、ほぼ1年続いた激戦の末についにこれを陥落させました(1855年9月)。

 当時のロシアは鉄道網が未発達で十分な兵員・武器・弾薬等を戦場に送ることが出来ず、又イギリス・フランスのスクリュー推進の重装備艦艇に対して、ロシア艦隊の大部分は帆船で編成されていました。
このようなロシアの後進性・近代化の遅れが敗戦の最大の原因であり、その改革が戦後ロシアの課題となったのです。

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フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale、1820年5月12日 - 1910年8月13日)

 又クリミア戦争の戦場での惨状を知ったナイティンゲール(1820年~1910年)が戦傷やコレラで苦しむ兵士の看護に活躍して「クリミアの天使」と呼ばれ、後に近代看護婦(師)制度の確立に貢献したことはよく知られています。

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 1855年3月にニコライ1世(在位1825年~55年)が崩御し、アレクサンドル2世(在位1855年~81年)が即位してオーストリアの仲介で停戦し、1856年3月にパリ条約が締結されました。
パリ条約では、
1) トルコの独立と領土の保全。
2) トルコは宗教的な差別を行わない。
3) 外国軍艦のダーダネルス・ボスフォラス両海峡通航禁止の確認と黒海の中立化。
4) ロシアはベッサラビアをモルダヴィアに割譲してモルダヴィアとワラキアをトルコの主権下におくこと。
5) ドナウ川の自由航行
等が取り決められました。

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黒海

 黒海の中立化によって、黒海や港は全ての国の商船に開放されましたが、軍艦に関しては禁止され、ロシアとトルコは黒海に軍艦を持つことを禁止され、ロシアの南下政策はまたもや失敗に終わります。
19世紀中頃以降、バルカンではスラヴ民族の統一と団結をめざすパン・スラヴ主義が盛んになり、ロシアはトルコやオーストリアに対抗する勢力の結成を期待し、パン・スラヴ主義を利用してバルカン半島の諸民族への影響力を強め、バルカン半島への勢力の拡大を図りました。
1870年にはパリ条約(1856年)の黒海の中立化条項を破棄して再び南下政策を進めることになります。

 1875年7月にトルコ治下のボスニア・ヘルツェゴヴィナでトルコに対するギリシア正教徒の反乱が起こると、翌年にはブルガリアでも反乱が起こりますが、この反乱はトルコ軍によって残虐に鎮圧されます。

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ヨーロッパの火薬庫

 ロシア国内ではスラヴの同胞を救えというパン・スラヴ主義が昂揚し、列国もこれに抗議するとともに会議を開き、調停案を作成してトルコに示したがトルコはこれを拒否しますが、これを見てロシアは単独でトルコに宣戦し、1877年4月に露土戦争(ロシア・トルコ戦争、1877年4月~78年3月)が始まります。

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露土戦争

 ロシアは一時苦戦しますが、翌年1月にアドリアノープルを占領し、更にコンスタンティノープルに迫った結果、トルコは屈服し、1878年3月にサン・ステファノ条約が結ばれます。
この条約で、ロシアはトルコにルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、マケドニアを含む大ブルガリアをトルコ領内の自治国としてロシアの保護下におくことを認めさせた結果、ロシアのバルカン支配・地中海進出が成功するかに見えました。

 しかし、これに対してスエズ運河の株式買収(1875年)に成功したイギリスとバルカンにおけるパン・スラヴ主義の発展を恐れるオーストリアが激しく反発し、ロシアとイギリス・オーストリアとの間に戦争が起こりかねない状況となります。

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公正な仲買人

 統一後間もないドイツがこの戦争に巻き込まれることを恐れるビスマルクが調停に乗り出し、1878年6月にベルリン会議が開かれ、ビスマルクはベルリン会議を開催するにあたって「誠実な仲買人(公正な仲買人)」と称しましたが、実際にはイギリスの主張を支持し、サン・ステファノ条約は破棄されて新たにベルリン条約が結ばれます(1878年7月)。

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ヨーロッパの状況

 ベルリン条約では、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立が承認され、ブルガリアについては領土が大幅に縮小されてトルコ治下の自治国となり、ロシアはベッサラビアを得たもののバルカンから後退し、南下政策はまたもや阻止されました。

 これに対してイギリスはキプロス島を獲得し、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得した事から、ロシアはビスマルクに対して不信感を抱き、三帝同盟は事実上崩壊し、後にロシアをフランスに接近させる原因と成りました。
露土戦争の失敗後、ロシアはバルカンへの南下政策を一時放棄し、東アジアと中央アジアへの進出に努め、国際関係は新たな展開をみせることに成ります。

ジョークは如何?

Q: アクシデント(事故)とカタストロフィーの違いは?。

A:主席以下共産党指導者を乗せた飛行機が墜落することがアクシデント。
そいつらが無事救出去れることがカタストロフィー


続く・・・