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2019/02/11

歴史を歩く204

43ファシズムの台頭

2イギリスとフランスの恐慌対策


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ジェームズ・ラムゼイ・マクドナルド(James Ramsay MacDonald、1866年10月12日 - 1937年11月9日)Wikipediaより

 イギリスでは、1929年5月の総選挙で労働党が保守党を破り、初めて第1党となり、第2次マクドナルド労働党内閣(1929年6月~31年8月)が成立しますが、まもなくアメリカで大恐慌が起こり、アメリカ資本が引き上げられるとイギリスも世界恐慌に巻き込まれていきます。

 イギリスは不況に陥り、綿工業・造船・製鉄・石炭等の主要産業の生産が激減し、商業・貿易も急速に衰え、失業者は急増し、1929年6月には116万人を数えますが、翌年4月には176万人、そして1931年6月には270万人に達しました。
このため失業保険の給付が激増し、財政が更に悪化していきます。

 マクドナルドは失業保険の大幅削減等による緊縮財政を立案しますが、これに対して労働党は公約に掲げる社会保障制度の充実に反するとして強く反対し、マクドナルド労働党内閣は総辞職しました(1931年8月)。

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ジョージ5世(George V, George Frederick Ernest Albert, 1865年6月3日 – 1936年1月20日)Wikipediaより

 マクドナルドはその直後、時の国王ジョージ5世の大命を受け、保守党及び自由党の協力を得て挙国一致内閣(1931年8月~35年6月)を組閣しますが、この結果マクドナルドは裏切者とされ、労働党を除名されます。その後、10月に行われた総選挙では政府与党が圧勝し、党首を除名した労働党は215議席を失って52議席と大敗を喫しました。

 マクドナルド挙国一致内閣は失業保険の削減を含む緊縮予算を成立させ、金本位制の停止(1931年9月)や保護関税法の制定(1932年1月)を行うと共に、1932年7月から8月にかけてカナダのオタワでイギリス連邦経済会議(オタワ連邦会議、オタワ会議)を開き、オタワ協定を結んでブロック経済政策を採用します。

 イギリスはオタワ会議に先立って、1926年のイギリス帝国会議の決議を成文化したウエストミンスター憲章を制定し(1931年12月)、各自治領にはイギリス連邦の一員としてイギリス国王に忠誠を誓う事を条件に、本国と対等の地位を与えることを定めました。

 オタワ会議には、イギリス本国・カナダ・オーストラリア・ニュージランド・南アフリカ連邦・アイルランド・インド・南ローデシアの代表が集まり、本国と自治領及びインドは特恵関税制度を中心とする相互通商協定を締結します。
このオタワ協定はイギリス帝国全体から外国商品を排除する事を目的とし、外国商品に対しては高関税を課し、イギリス帝国内の商品に対しては無税又は低関税を課す事としました。

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 これによって排他的な経済ブロックが形成され、イギリスは従来の自由貿易主義を放棄してブロック経済政策の道を進む事になりますが、イギリスの経済ブロックはスターリング・ブロック(ポンド・ブロック)と呼ばれています。

 イギリスがブロック経済政策の梶を採った為、国際経済をますます狭める事となり、世界経済の自給自足化と国際経済競争を激化させ、以後「持てる国と持たざる国」との対立が強まる原因となっていきました。
ブロック経済政策によってイギリス経済は徐々に回復に向かい、失業者も減少し、工業生産指数は1929年を100とした場合、1932年は85であったが、1934年には104に向上しました。

 マクドナルドの引退後、保守党を中心とするボールドウィン挙国内閣(1935年6月~37年5月)、ネヴィル・チェンバレン保守党内閣(1937年5月~40年5月)が成立します。

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レオン・ブルム(Léon Blum、1872年4月9日 - 1950年3月30日)Wikipediaより

 フランスでは、世界恐慌の影響が比較的遅く、1931年頃に影響が現れはじめ、1932年になって深刻化しました。
この為状況に対応できなかった右派連立政府に対する不満が高まり、1932年5月の総選挙では左派が勝利し、急進社会党(中産階級を基盤とする進歩的共和派政党)や社会党(社会主義諸派の連合政党)等が議席を増やします。

 その結果、急進社会党のエリオ内閣が成立しますが、左派陣営の分裂や赤字財政に苦しめられて6ヶ月で倒れ、以後14ヶ月の間に5つの内閣が交代する政治的混乱が続きます。

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ナチス政権の台頭
 
この間、ドイツでナチス政権が成立(1933年1月)すると、フランス国内でも1934年に極右ファシスト団体や右翼勢力のデモ・暴動が起こり、又それに反対する労働者のデモも起こって混乱が続き、
こうした状況の中で社会党と共産党は反ファシズムの共同戦線を協約し(1934年)、翌1935年6月、これに急進社会党が加わって人民戦線(ファシズムと戦争に反対する全勢力と組織を結集した反ファシズム人民統一戦線)が結成さます。

 これより前の1935年5月、フランスはドイツの再軍備宣言(1935年3月)に脅威を感じ、ソ連との間に仏ソ相互援助条約を結んでナチス・ドイツの進出に対抗しますが、左右両勢力の激しい対立が続く中で行われた1936年5月の総選挙では、人民戦線派が国民の支持を得て大勝し、社会党のレオン・ブルム(1872年~1950年、在任1936年~37年)を首相とする人民戦線内閣(社会党と急進社会党の連立内閣、共産党は閣外協力)が成立しました。

 ブルム内閣は、週40時間労働制・団体交渉権の承認・フランス銀行の改革・軍需工場の一部国有化・失業者救済の公共土木事業などフランス版ニューディール政策と呼ばれる諸政策を実施しますが経済危機を克服できず、約1年の在任で退陣しています(1937年6月)。
フランス経済が回復に向かったのは1938~39年のことであり、それは軍事費の増大と軍事工業の拡張によるものが中心でした。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年2月17日 北九州市小倉南区葛原(南っ子通り)
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2019/01/21

歴史を歩く203

43ファシズムの台頭

1世界経済恐慌とアメリカのニューディール

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1929年の大暴落の後でウォール街に集まる群衆・Wikipediaより

 1929年10月24日(暗黒の木曜日)に起こった、ニューヨーク株式取引所(ウォール街)での株価の大暴落をきっかけとしてアメリカで大恐慌が始まりました。
この恐慌は、第一次世界大戦後アメリカ資本に依存していたヨーロッパ諸国に大きな影響を及ぼし、まもなく恐慌はソ連を除く全世界に広まり、この世界史上例を見ない程の大規模で深刻な恐慌は世界恐慌(世界経済恐慌、大恐慌)と呼ばれています。

 世界恐慌がアメリカから起こった原因としては以下の事例があります。

1.自動車・化学・電気等の新しい産業の発展・産業の合理化による工業生産力の増大・それに伴う過剰な設備投資等によって工業製品が生産過剰に陥っていた事。
2.高関税政策の影響で国際貿易が伸び悩んでいた事。
3、農業部門でも、戦争中からの増産によって農産物の供給が急増していたところへ、戦後ヨーロッパの復興によってヨーロッパの需要が減少し、農産物価格が急落して農業不況が深刻化していた事。
4、農業不況によって農民の購買力が低下し、又生産性の伸びに比べて労働者の賃金が低く抑えられ為国民の購買力が低下した事。

 要約すれば、生産過剰と国民の購買力の低下によって需要と供給のバランスが大きく崩れた事が原因でした。
そして、戦後世界の資本がアメリカに集中し、それが土地や株式の投機に回され、過剰な投機ブームが起こっていた事が、株価大暴落の直接の原因となりました。

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ハーバート・クラーク・フーヴァー(Herbert Clark Hoover, 1874年8月10日 - 1964年10月20日)・Wikipediaより

 1929年3月に就任した第31代大統領フーヴァー(在任1929年~33年)は「私は我国の将来に何らの不安を抱いていない。未来は希望に輝いている」と演説しましたが、この頃既に石炭・造船・鉄道・住宅建設等の業種は不況に苦しんでおり、農業の不況は深刻化し、農産物価格の下落は続いていたのです。
にもかかわらず、株式市場では1929年9月迄株価は上昇を続け、1929年9月の平均株価は、8年前に比べて4.5倍、3年前に比べても2倍になっていました。

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恐慌発生時の株価平均の推移、1928年-1930年

 その後、乱高下をくり返していた株価が、1929年10月24日(暗黒の木曜日)に突然大暴落します。28・29日にも大暴落は続き、株価は1ヶ月で40%も暴落し、株価の下落は以後3年間続いきました。
株式恐慌は国民経済の全ての分野に大打撃を与え、生産は減退し、企業や銀行の倒産が相次ぎ、失業者は増大します。
1932年迄の3年間に約5000の銀行が倒産し、国民所得は51%・工業生産は46%・企業売上げは50%・全農産物の価格は45%・輸出は36%それぞれ下落しました。

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食事配給に並ぶ失業者の列

 恐慌が始まるとアメリカはヨーロッパから資本を引き上げた結果、戦後アメリカ経済に頼っていたヨーロッパ諸国は大打撃を受け、特に莫大な賠償金の支払いに苦しみながらもアメリカ資本によって立ち直りかけていたドイツ経済は再び破綻し、その結果賠償金を受け取れなくなったイギリス・フランス等も恐慌に見まわれ、恐慌はソ連を除く全世界に広がって世界恐慌(世界経済恐慌、大恐慌)と成ったのです。

 アメリカ大統領のフーヴァーは、1931年6月にドイツの賠償金や連合国の戦債の支払いを1年間停止するフーヴァー・モラトリアムを提唱しましたが実効は上がらず、更にフーヴァーは個人主義・民間のイニシアティブに固執し、公共事業・福祉事業・失業保険等を連邦政府の国債発行によって賄うことを拒否した為に、彼の恐慌対策は効果を上げることが出来ず、恐慌を乗り切ることは出来ませんでした。

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フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt 1882年1月30日 - 1945年4月12日)・Wikipediaより

 その為「フーヴァーで無ければ誰でも良い」と揶揄される様になり、1932年の大統領選挙では民主党のフランクリン・ルーズヴェルトに政権を譲る事になります。
フランクリン・ルーズヴェルト(1882年~1945、在任1933年~45年)はニューヨークに生まれ、ハーヴァード大学で学んだ後に弁護士となり、1910年に政界入し、ニューヨーク州上院議員・海軍次官・民主党大統領候補(1920年、落選)を経て、1929年にニューヨーク州知事となり、革新的な政策で知られ、世界恐慌最中の大統領選挙で現職のフーヴァーを破って第32代大統領に就任しました(1933年3月)。

 フランクリン・ルーズヴェルトは就任直後に特別議会を召集し、ニューディール政策と呼ばれる恐慌克服策の根幹となる法律を次々に制定して行きました。
ニューディールとは「新規まきかえし」の意味で、ニューディール政策の基本政策はRelief(救済)・Recovery(回復)・Reform(改革)の頭文字を取って3R政策と呼ばれます。

 ニューディール政策は今迄の自由放任に代えて、国家が経済に積極的に介入し、統制を行って景気と国民生活の立て直しを図ろうとする政策で、完全雇用実現の為には政府による有効需要の創出が重要であると主張した修正資本主義の代表的な理論家であるイギリスの経済学者ケインズ(1883年~1946年)の理論を初めて実施した政策でした。

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テネシー川流域開発公社のエンブレム

 ニューディール政策の根幹となった法律は、農業調整法(AAA、1935年5月)・全国産業復興法(NIRA、1933年6月)・テネシー川流域開発公社(TVA)の設立(1933年5月)等です。

1. 農業調整法(Agricultural Adjustment Actの頭文字をとってAAAと呼ばれる)は小麦・とうもろこし・綿花等の主要作物の作付面積や販売用生産を削減する一方で過剰農産物を政府が買い上げる等農産物価格を安定させ、農民の救済とその購買力の回復を目ざした法律です。

2.全国産業復興法(National Industrial Recovery Actの頭文字をとってNIRA、通称ニラと呼ばれる)は企業に独占禁止法の適用を停止して公正競争の規約を結ばせ、生産を規制すると共に企業の適正な利潤を確保させ、他方で労働者の団結権・団体交渉権を認めて適正な賃金の確保を図らせ、生産力と購買力を回復させる事を目的とした法律ですが、NIRAは1935年に最高裁判所によって違憲判決を受けた結果、その中の労働者の権利に関する部分をワグナー法として制定しました(1935年7月)。

3.テネシー川流域開発公社(Tennessee Valley Authoityの頭文字をとってTVAと呼ばれる)は電力開発・治水・土地保全・植林・農工業の振興等を目的とする地域総合開発計画であり、政府が巨大なダム建設等の公共事業を行い、この事業に多くの失業者を吸収し、賃金を支払う事で購買力を増やすことを目的としました。

 1935年に制定されたワグナー法によって労働者の団結権と団体交渉権が認められたことから労働組合運動も発展し、同年産業別組織会議(CIO)が結成されました。
CIOは熟練労働者を中心とするAFL(アメリカ労働総同盟)に対抗して、未熟練労働者を中心に組織され、1938年にAFLから分離・独立しました。

 1935年には社会保険法も成立し、失業保険制度や老齢年金制度等が定められます。

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ヒトラーとムッソリーニ

 世界恐慌が長引く中で恐慌克服策の一環として外交政策を改め、従来の孤立主義・膨張主義から善隣友好政策に転換、1933年にはソ連を承認して、列強の中でアメリカだけは長い間ソ連を承認しなかったのですが、ファシズム諸国の台頭に対抗する為、そしてソ連市場への輸出の拡大を図る為に追認承認に踏み切ったのでした。

 又ラテン・アメリカ諸国に対しても、従来のカリブ海政策を改めて善隣外交(善隣友好政策)に転じ、ラテン・アメリカ諸国との友好に努めますが、その背景にもラテン・アメリカ諸国への輸出を拡大したいという意図が存在しました。
1933年に開かれたパン・アメリカ会議で、アメリカは善隣友好の方針を表明し、キューバに対してはプラット条項を廃止して完全独立を承認しました(1934年5月)。

 フィリピンに対しても、1934年に独立法案を成立させ、翌1935年に自治を認め、10年後の完全独立を約束しました。
こうしたニューディール政策の実施や外交政策の転換等によって、アメリカの経済・社会は1935年頃にはようやく安定をとり戻したのです。

 フランクリン・ルーズヴェルトは1936年の大統領選挙では労働者等の支持を得て圧倒的な勝利をおさめて再選されます(1940年3選、1944年4選)。
尚、現在のアメリカでは大統領の3選は憲法で禁止されているので(1951年憲法修正第22号)、フランクリン・ルーズヴェルトはアメリカ史上唯一人の4選された大統領となったのです。

名言集

幸せとは、達成感の中にある喜びであり、創造的な努力に対する興奮である。

Happiness lies in the joy of achievement and the thrill of creative effort.

フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)


今日で、ジロくんが旅立って100ヶ日になります。

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平成29年4月13日・若宮神社境内にて

ジロくん、貴方とは、何時までも一緒だよ。

続く・・・



2019/01/08

歴史を歩く202

42アジアの情勢⑨

7トルコ革命とイスラム諸国(その2)

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カジャール朝イラン・Wikipediaより

 第一次世界大戦前にイギリスとロシアによって分割されていたカジャール朝イラン(1796年~1925年)は、第一次世界大戦が始まると中立を宣言するものの、イギリス・ロシア両軍によって占領されます。
ロシア軍はロシア革命によって早期に撤退しますが、イギリスは戦後イランに対して政府閣僚や憲兵隊にイギリス人顧問を派遣する事等を定めた協定を迫り(1919年)、事実上イランを半植民地化します。

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レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)・Wikipediaより

 これに抵抗するイラン国民の激しい民族運動が起こり、政治的な混乱が続く中で、1921年2月にレザー・ハーンがクーデターを起こして実権を掌握します。
 レザー・ハーン(レザー・シャー、レザー・シャー・パフレヴィー、1878年~1944年、在位1925年~41年)はカスピ海南岸マーザンダラーン出身で軍人となり、若くしてペルシア・コサック師団の将校と成り、イランに亡国の危機が陥ると、1921年2月に2500の兵を率いてテヘランを占領し、クーデターに成功しました。

 レザー・ハーンはクーデター直後にペルシア軍の総司令官となって実権を掌握、1923年には首相に就任し、その後地方の諸政権を制圧したレザー・ハーンは議会でカジャール朝の廃止を決議し、1925年12月に自ら王位についてパフレヴィー朝(1925年~79年)を創始します。
レザー・ハーンは即位後、イギリスとの不平等条約の破棄を宣言して治外法権と関税自主権を回復し(1928年)、又トルコのケマル・アタテュルクを手本として婦人解放・教育改革等各種の改革を断行すると共に1935年には正式国名をペルシアからイランに改め、イラン人の民族的自立を鼓舞しました。

 イギリスの保護国であったアフガニスタンは、1919年に独立を宣言し、イギリス・インド軍と衝突(第3次アフガン戦争、1919年)後、ラワルピンディー条約(1919年)によって正式に独立が承認されました。

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アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラフマーン・ビン・ファイサル・アール・サウード(1876年 - 1953年11月9日)・Wikipediaより

 アラブ世界ではイブン・サウードがアラブの統一を掲げて活動します。
ネジド地方(アラビア半島中部)のリャドの豪族サウード家は、18世紀中頃にワッハーブ派と結んでワッハーブ王国(1744年頃~1818年、1823年~89年)を建国しますが、ワッハーブ王国は1889年にネジド北部のラシード家にリャドを奪われて滅亡し、この時、イブン・サウード(1876年~1953年、在位1932年~53年)は父と共にアラビア半島西岸の各地を放浪した後にクウェートに亡命します。

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フサイン・イブン・アリー(1853年 - 1931年6月4日)・Wikipediaより

 ワッハーブ王国の再興を目ざすイブン・サウードは、1901年に少数の部下と共にリャドを奪回してワッハーブ王国を復興し、第一次世界大戦中はイギリスに協力してアラビア半島中部の支配権を確立しますが、その頃、メッカでムハンマドの子孫と称して、ハーシム家に生まれたフセイン(フサイン、1852年頃~1931年)は、第一次世界大戦が始まるとカイロ駐在のイギリス高等弁務官マクマホンと接触し、アラブ人に独立国家を認めるフセイン・マクマホン協定(1915年)を結んで対トルコ戦を開始し、3人の息子と共にアラブの反乱を起こします(1915年)。

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トーマス・ロレンス(アラブ民族衣装姿)・Wikipediaより

 映画で有名な「アラビアのロレンス」(トーマス・ロレンス、1888年~1935年)は中東研究家であったが、第一次世界大戦が勃発するとイギリス陸軍情報将校としてカイロに派遣され、フセインの息子ファイサルと提携し、アラブ人ゲリラ部隊を編成してドイツ側に参戦したトルコ軍の後方撹乱に従事し、彼はアラブ人に扮してアラブ人部隊を率い、ゲリラ作戦によってアカバ、ダマスカスを占領します。

 フセインは「アラブの王」と称したが、イギリスの反対でアラビア半島西岸のヒジャーズの王位につくことのみが認められた(ヒジャーズ王国、1916年~24年)ものの、1924年にワッハーブ派の指導者イブン・サウードと戦って敗れ、キプロスに亡命し、一方フセインを破ったイブン・サウードはヒジャーズ王国を併合し、ヒジャーズ・ネジド王国の成立を宣言し、ヒジャーズ・ネジド王と称し(1926年)、その後、イエメンを除くアラビア半島を統一したイブン・サウードは、1932年に国名をサウジアラビア王国と改称し、ワッハーブ派イスラム教を国教と定めました。

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ファイサル1世・ビン・アル=フサイン・ビン・アリー・アル=ハーシミー(1883年5月20日 - 1933年9月8日)・Wikipediaより

 第一次世界大戦後、イギリスの委任統治領となったイラクでは、ハーシム家のファイサル(ファイサル1世、1885年?~1933年、在位1921年~33年、ヒジャーズ国王フセインの第3子)がイギリスに招かれて王位に就き、イギリスは、イギリス・イラク条約(1930年)で委任統治を廃止、1932年にイラクの正式独立を認め、イラクはアラブ諸国の中では最初に国際連盟に加盟を果たします(1932年)。

 イギリスの委任統治下に置かれたトランスヨルダンでは、1921年にハーシム家のアブド・アッラーフ・ブン・フセイン(1882年~1951年、ヒジャーズ国王フセインの第2子)を太守とする土侯国が成立し、1928年にはトランスヨルダン王国となり、1946年に正式に独立します。

 シリアでは、後にイラク国王となったファイサルがアラブ・シリア国民会議によって王位に就いて間も無く(1920年)、フランスによって追放され、シリアは1920年にフランスの委任統治領と成り、シリアから切り離されたレバノンも1920年にフランスの委任統治領と成りますが、その後、シリアは1936年に自治を認められ、1944年にシリア共和国として独立し、1946年には完全な独立国と成り、レバノンは1941年に独立を宣言し、1944年に共和国として独立しました。

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イギリス委任統治領パレスチナ・Wikipediaより

 パレスチナ地方については、第一次世界大戦中に、イギリスはフセイン・マクマホン協定(1915年)でアラブ人に対してトルコからの独立を約束し、一方でユダヤ人に対してもバルフォア宣言(1917年)でシオニズム(ユダヤ人の民族国家をパレスチナに建てようとする運動)を援助することを約束し、アラブ人・ユダヤ人の両方から協力を得る事になります。

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1920年4月4日には、エルサレムでのムスリムのナビー・ムーサーの祭り・アラブ人、ユダヤ人の衝突事件・Wikipediaより

 しかし、この相矛盾する約束は共に守られるはずは無く、パレスチナは戦後イギリスの委任統治領と成った為、アラブ・ユダヤ両民族はそれぞれの主権を主張してその対立は激化していきます。

 第一次世界大戦後、特にドイツでナチス政権が成立した1933年以後、ユダヤ人のパレスチナへの移住が急増し、パレスチナにおけるユダヤ人の総人口は1919年の6万5000人から1939年の45万人に激増し、このためアラブ人の反発が強まり、アラブ・ユダヤ両民族の対立は更に激化し、現在迄続くパレスチナ問題が発生しました。

名言集

夜、疲れた心の片隅で夢見る者は、目覚めとともに夢の虚しさを知る。
だが、真昼に夢を見る者たちには心せよ。
彼らはしかと目を開き、夢を実現させるであろう。

The person who dreams at a corner at the heart tired in the evening knows the exhaustion of the dream as well as awaking.
But be careful in the persons who have a dream at noon.
They would open the eyes and make a dream come true certainly.

トーマス・エドワード・ロレンス(Thomas Edward Lawrence)


続く・・・


2019/01/01

明けましておめでとうございます

謹賀新年
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旧年中はお世話に成りました。
今年も宜しくお願い致します。

元旦
2018/12/25

歴史を歩く201

42アジアの情勢⑧

7 トルコ革命とイスラム諸国(その1)


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第一次世界大戦後の西アジア

 オスマン・トルコ帝国は第一次世界大戦に同盟国側に立って参戦して敗れ、スルタン政府はセーヴル条約に調印せざるを得なく成ります(1920年8月)。
セーヴル条約は、ヨーロッパ側領土の大部分とメソポタミア・パレスチナ(イギリスの委任統治領)・シリア(フランスの委任統治領)等を連合国に割譲し、治外法権・連合国による財政管理・軍備の制限等を認める屈辱的な内容であり、ケマル・パシャの臨時政府は批准を否認しました。

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ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk、1881年5月19日 - 1938年11月10日)

 ケマル・パシャ(本名はムスタファ・ケマル、ケマル・アタテュルク、1881年~1938年)はサロニカに生まれ、陸軍大学を卒業後入隊、第一次世界大戦では軍司令官として軍功を上げますが、敗戦後、ギリシア軍によってイズミル(スミルナ)が占領されると(ギリシア・トルコ戦争、1919年~22年)、ケマル・パシャは東部アナトリアでアナトリア・ルーメリア権利擁護団(1923年にトルコ人民党(トルコ国民党)に改組)と国民軍を編成してこれに対抗しました(1919年)。

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イズミル奪還後、コナク広場に入るトルコ軍首脳・Wikipediaより

 1920年4月、ケマル・パシャはアンカラにトルコ大国民会議を召集し、臨時政府樹立を宣言し、 同年8月、スルタン政府がセーヴル条約に調印すると、ケマル・パシャはこれを否認して独立戦争を起こし、ギリシア軍を撃退してイズミル(スミルナ)を奪回(ギリシア・トルコ戦争、1919年~22年)し、1922年11月、スルタン制とカリフ制を分離し、スルタン制廃止を宣言、メフメト6世(在位1918年~22年、オスマン朝第37代皇帝)はマルタ島に亡命し、600年以上続いたオスマン・トルコ帝国(1299~1922)は滅亡しました。

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セーブル条約無効を伝える大阪毎日新聞(大正11年10月14日)

 1922年11月にスイスのローザンヌで始まったトルコと連合国との講和会議では、セーヴル条約が破棄され、翌1923年7月にトルコは連合国との間に新たにローザンヌ条約を締結し、これによってトルコはイズミル・イスタンブル周辺・東トラキア等を回復し、治外法権や軍備制限を撤廃させて完全に独立を回復しました。

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1922年11月、ドルマバフチェ宮殿を後にする、最後の皇帝メフメト6世。この写真が撮られてから数日後、彼は英国の戦艦でサンレモに亡命。1926年 に同地で没した。Wikipediaより

 1923年10月、トルコ共和国成立が宣言され、初代大統領にはケマル・パシャが就任、首都はイスタンブルからアンカラに移ります。
トルコ革命(1922年~23年、オスマン・トルコ帝国を打倒し、トルコ共和国を樹立した革命。広義にはケマル・パシャの近代化改革も含める)を成し遂げたケマル・パシャは、以後トルコの近代化に取り組み、近代化政策を次々に推進します。

 1923年には、アナトリア・ルーメリア権利擁護団を政党に改組してトルコ人民党(トルコ国民党)とし、翌1924年にはトルコ共和国憲法を制定、政治と宗教を完全に分離し、カリフ制を廃止する事によってスルタンとカリフの地位を失ったオスマン家は国外に追放されます。

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トルコの女性運動(1922年)

ケマル・パシャが行った近代化政策の中で特に有名な政策は婦人解放(婦人の地位向上)と文字革命でした。
婦人解放については、イスラム暦の廃止(太陽暦の採用)や男子のトルコ帽廃止と並行して女性のチャドルが廃止され(1925年)、一夫多妻制も廃止(1928年)、1934年には婦人参政権も与えられました。

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ケマルの文字改革、娘に本を読んで聞かす父親

 又文字革命については、1928年にアラビア文字を廃止し、トルコ語の表記をローマ字に改め、この文字革命と教育革命によってトルコ人の識字率が大幅に向上します。
1934年、トルコの近代化に努めたケマル・パシャに対して議会はアタテュルク(トルコの父の意味)の尊称を贈り、ケマル・パシャは以後ケマル・アタテュルクと呼ばれます。
ケマル・アタテュルクは1938年に死去しますが、その頃、トルコは新しいトルコに生まれ変わっていたのです。

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サアド・ザグルール(سعد زغلول‎、Saad Zaghlul、1859年-1927年8月23日)

 第一次世界大戦とパリ講和会議、特に民族自決の原則はアラブ人の間にも大きな影響を及ぼしました。
1914年以来イギリスの保護国となっていたエジプトでは、戦後ワフド党を中心に激しい民族運動が展開されます。
ワフド(代表の意味)党は、サアド・ザグルール(ザグルール・パシャ、1850年頃~1927年)等を指導者として1918年に結成された民族主義政党で、地主や民族資本家を地盤とし、保護権の廃止・完全独立を要求して反英独立闘争を展開しました。

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ファード1世( فؤاد الأول‎、1868年3月26日 - 1936年4月28日)

 その為イギリスは、1922年に保護権を廃止して形式的な独立を認め、スルタンのファード(ファード1世、在位1922年~36年)を国王とするエジプト王国(1922年~52年)が成立します。
しかし、イギリスはエジプトの防衛権・スエズ運河地帯駐兵権・スーダン領有権等を留保した為、その後も完全独立を目ざす反英運動が続く事に成ります。

 ワフド党内閣は留保条件を回ってイギリスと交渉を続け、1936年8月にはイギリス・エジプト同盟条約を締結し、イギリス・エジプト同盟条約によってエジプトの完全な主権が認められ、イギリス軍と官吏は退去しますが、スエズ運河地帯には依然としてイギリス軍が駐留していました。

名言集

Ne mutlu Türküm diyene!

私はトルコ人だ、と言えること、なんと幸せなのだろう!

ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk)

続く・・・