2016/09/13

歴史を歩く211

30 自由を求めて⑦

4イギリスの諸改革

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オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell、1599年4月25日 - 1658年9月3日)

 産業革命をいち早く成し遂げたイギリスでは、ブルジョワジー(産業資本家)の地位が高まり、1820年代には自由主義的傾向が強まり、1830年代には七月革命の影響のもとで、自由主義改革が次々と行われました。

 クロムウェルの征服以来、宗教・政治・土地所有等の面で差別に苦しんできたアイルランドでは、カトリック信仰の自由と政治的自治を求めて17~18世紀にしばしば反乱が起きますが全てが鎮圧され、こうした状況のなかで、イギリス議会はアイルランド人の要求を無視して、1800年に合同法を可決し、翌1801年にアイルランドを正式に併合します。

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ダニエル・オコンネル(Daniel O'Connell、1775年8月6日 - 1847年5月15日)

 アイルランドの地主の家に生まれたオコンネル(1775年~1847年)は、1823年にカトリック教徒の選挙権獲得をめざしてカトリック協会を設立し、アイルランドの解放運動を指導しました。
1828年に下院議員に選出されましたが、非国教徒が公職に就くことを禁止した審査律に払拭して議席を拒否されてしまいます。

 オコンネルの議席が拒否されたことにアイルランド人は強く反発し、更に反乱に発展することを恐れたウェリントン首相は国王に譲歩を勧め、1828年5月に審査律が廃止され、審査律の廃止によってカトリックを除く非国教徒の公職就任が可能となったのです。

 オコンネル等は、更に併合の際の公約であったカトリック教徒の選挙権獲得をめざす運動を展開し、翌1829年に終にカトリック教徒解放法案が成立し、カトリック教徒の公職就任が可能と成り、これによってイギリスでは宗教による差別が撤廃されました。

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イギリス議会風景

 当時のイギリスにとって最大の問題は選挙法改正問題でした。
イギリスは議会政治の先進国でしたが、18世紀の議会政治にはさまざまな問題も存在し、参政権は相当の土地を所有する地主に限られ、投票の秘密はなく、投票権の売買も行われていました。

 又産業革命の結果、人口の都市集中が発生し、激しい人口の移動が起こっていたにも関わらず、選挙区は旧態依然のままで、人口が激減したにもかかわらず従来通りの議員選出の特権を持ち、有力地主・貴族の意のままになった選挙区、すなわち腐敗選挙区が多数存在する一方で、新興の大工業都市にはほとんど議員定数の割り当てが在りませんでした。
例えば、人口200人以下の選挙区が111あり、人口ゼロの選挙区も34も存在したのです。
こうした不合理な選挙制度の改正を求めたのは産業資本家や労働者達でした。

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第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ(Charles Grey, 2nd Earl Grey, KG, PC、1764年3月13日 - 1845年7月17日)

 ホイッグ党は、1819年から4回選挙法改正法案を提出したが、いずれもトーリー政権の反対にあって否決されていましたが、七月革命が起こると、その影響を受けて、1830年12月の選挙ではホイッグ党が進出し、グレー内閣(在任1830年~34年)が成立しました。
1831年にグレー内閣は選挙法改正法案を提出しますが、下院を通過しても上院では否決されます。

 こうした状況の中でグレー内閣の退陣・ウェリントンの再組閣の報が伝わると、イギリスは革命前夜の状態に陥り、再任されたグレー内閣のもとで、1832年6月にやっと選挙法改正法案が成立しました(第1回選挙法改正)。

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チャーティスト暴動

 これによって、56の腐敗選挙区が廃止され、143議席が再配分され、新興都市にも議席が与えられ、又都市の産業資本家など市民階級に選挙権が与えられ、有権者数は50万人から81万人に増加しますが、この改正では労働者には選挙権が与えられなかった為、労働者は普通選挙を要求する運動を起こし、この運動はチャーティスト運動と呼ばれ、労働者による最初の政治運動となりました。

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「人民憲章」の基礎を示したラヴェット

 彼等は6カ条からなる「人民憲章(People's Charter)」(1837年にまとめられ、翌1838年に全国に配布された)を掲げて運動を起こし、1839年・1842年・1848年に多数の署名を添えて議会に請願書を提出し、大規模な請願デモを展開します。

 人民憲章6カ条は、男子普通選挙・無記名投票(それまでは口頭)・議会の毎年召集・議員の財産資格制限廃止・議員への歳費支払い・平等選挙区制でした。

 しかし、彼等の請願は拒否され、1848年の大デモ行進を最後に衰え、労働者はチャーティスト運動によっては選挙権を獲得することは叶いませんでした。

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自由貿易の発展

 参政権を獲得した産業資本家は、次に経済面での自由主義的改革を求め、自由貿易主義の実現を要求します。
既に1813年に東インド会社の対インド貿易独占権は茶を除いて廃止されていましたが、1834年には東インド会社の対中国貿易独占権も廃止されます(廃止の決定は1833年)。

 経済面での自由主義的改革のうち最も重要な改革は穀物法の廃止でした。
穀物法は、1815年に制定された地主の利益を擁護するための法律で、ナポレオン戦争が終結し、大陸封鎖令が解かれると、イギリスには工業製品の見返り品として、東ヨーロッパ・北ヨーロッパ・カナダなどから大量の安い穀物が輸入されるようになります。
その為、ナポレオン戦争後も穀物価格を高く維持する意図から、国内価格が1クォーター(約242リットル)80シリングに達する迄、外国産小麦の輸入を禁止し、その後、穀物価格の騰落に応じて輸入関税を増減する方式に改められました。

 当時、消費者である労働者の数が飛躍的に増大すると、労働者は高い食糧を押しつける穀物法に強く反対しましたが、穀物法反対運動の中心になったのはコブデンやブライト等の産業資本家達でした。

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リチャード・コブデン(Richard Cobden、1804年6月3日 - 1865年4月2日)

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ジョン・ブライト(John Bright、1811年11月16日 - 1889年3月27日)

 コブデン(1804年~65年)は、農家に生まれ、ロンドンで事務員となり、後にマンチェスターで捺染工場を興して富豪となり、アダム・スミスの自由主義経済学に共鳴し、自由貿易を主張しました。又ブライト(1811年~89年)は、紡績工場を経営する産業資本家で、コブデンを知り、1839年に反穀物法同盟を結成し、穀物法の廃止運動を展開しました。

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第2代准男爵サー・ロバート・ピール(Sir Robert Peel, 2nd Baronet, PC, FRS、1788年2月5日 - 1850年7月2日)

 ピール保守党内閣(在任1834年~35年、1841年~46年)は、1845年のアイルランド飢饉をきっかけに穀物法の廃止を決意し、穀物法は1846年についに廃止されます。

 又1849年には航海法(1651年にクロムウェルが制定)も廃止され、外国船はイギリス船と同等の権利をもってイギリスの海運に従事することが可能となり、輸送費が安くなり、イギリスの貿易がさらに盛んとまりました。
穀物法の廃止・航海法の廃止によってイギリスの自由貿易主義体制が確立されたのです。

ジョークは如何?

「先生、民主主義と、社会主義型民主主義の違いを教えてください。」

「一口で言うと、椅子と、電気椅子の違いみたいなものだ。」

続く・・・

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2016/09/08

歴史を歩く210

30 自由を求めて⑥

3七月革命とその影響②


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1830年8月26日ブリュッセル蜂起

 七月革命の影響は、先ずオランダ領ベルギーに現れました。
ベルギーはウィーン会議の結果、オランダに併合されますが、本来オランダとベルギーの間には民族・言語・宗教等に大きな相違点が存在していました。

 オランダ人がドイツ系でカルヴァン派を信仰していたのに対し、ベルギー人はフランス系でカトリックを信仰していたのですが、オランダがベルギーの宗教・言語・教育に干渉し、ベルギーの工業の発展を抑えた結果にベルギー人の不満が強まっていました。
更にオランダ語を公用語とし、オランダ語が話せない者は官吏に任用しない事を趣旨とする布告が出されると反オランダ運動が高まり、七月革命の報が伝えられると、1830年8月26日にブリュッセルで独立蜂起が始まりました。

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第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル(Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston, KG, GCB, PC, 1784年10月20日 - 1865年10月18日)

 ベルギーは、鎮圧に向かったオランダ軍との「九月の四日間」の戦闘で勝利を得、10月に独立を宣言を発布、イギリス外相パーマストンの仲介によってロンドン会議が開かれ、1830年12月に独立が承認され、翌1831年にはレオポルド1世(在位1831年~65年)が即位して立憲王国となりました。

 ベルギーの独立運動は成功に終わりましたが、ポーランド・ドイツ・イタリアで起こった革命運動はいずれも不成功に終わっています。

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ワルシャワ蜂起

 ウィーン会議後ロシアの支配下におかれていたポーランドでは、ニコライ1世の反動政治に対して独立運動が秘密裡に進められていました。
そこへ七月革命やベルギーの独立の報が伝えられると、1830年11月にワルシャワの士官学校生徒の蜂起をきっかけとしてワルシャワ革命が勃発します。

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ロシアに潰されたポーランド11月蜂起の寓意画

 ポーランド人は一時、ロシア総督を追って革命政府を樹立し、革命政府は1831年1月に独立を宣言しますが、ロシアは大軍をポーランドに派遣し、ポーランド人の抵抗を抑えて9月にはワルシャワを占領しました。
ニコライ1世は革命勢力を徹底的に弾圧し、ポーランドをロシアの属州とし、以後ロシア化政策を推進します。

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フレデリック・フランソワ・ショパン( Frédéric François Chopin 、Fryderyk Franciszek Chopin・1810年3月1日(2月22日(出生証明の日付)、1809年3月1日説もあり) - 1849年10月17日)

 ウィーンでワルシャワ蜂起の報を聞いたポーランドのロマン派の作曲家ショパン(1810年~49年)は、パリに向かう途中のシュツットガルトでワルシャワ陥落の報を聞き、その時の衝撃をピアノ練習曲「革命」で表現しています。

 ドイツでは、1830年にザクセン・ヘッセン・ハノーヴァー等で革命暴動が起き、憲法が制定されましたが、メッテルニヒはドイツ連邦議会を利用して革命運動を弾圧し続けます。

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ジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini, 1805年6月22日 - 1872年3月10日)

 イタリアでも、1831年に七月革命の報が伝わると、カルボナリがボローニャ・モディナ・パルマなどの中部イタリアで蜂起しましたが、オーストリア軍によって鎮圧され、カルボナリは壊滅します。
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カルロ・アルベルト・アメデーオ・ディ・サヴォイア(Carlo Alberto Amedeo di Savoia, 1798年10月2日 - 1849年7月28日)
 マッツィーニ(1805年~72年)は、カルボナリに参加して逮捕され、その後マルセイユに亡命していましたが、1831年にこの地でカルボナリの残党を吸収して「青年イタリア」を組織し、共和主義によるイタリアの統一をめざしました。
彼はサルデーニャ国王カルロ・アルベルト(在位1831年~49年)に統一を呼びかけましたが、これを拒否されて失敗に終わっています。

ジョークは如何?

北朝鮮の原発の査察受け入れ問題か何かでカーター元大統領が
素晴らしい外交を行った.

それに対して「彼は素晴らしい元大統領だ.
最初から元大統領であってくれたらどんなによかったことか」

続く・・・

2016/09/03

歴史を歩く209

30 自由を求めて⑤

3七月革命とその影響①

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執務中のルイ18世

 フランスでは、ナポレオンの退位直後に、ルイ18世が帰国して即位し、ブルボン朝が復活しました。
ルイ18世(1755年~1824年、在位1814年~24年)は、ルイ16世の弟で、ヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月)と同時に国外へ逃亡し、反革命運動を行い、ナポレオン没落後に帰国して王位に就きますが(1814年5月)、ナポレオンの「百日天下」の間はベルギーに亡命し、1815年7月に復位しています。

 ルイ18世は、即位後間もなく新憲法(憲章)を発布し(1814年6月)、立憲君主制を施行しますが、選挙権が財産資格によって極端に制限されていた為、亡命貴族(エミグレ)が議会の多数を占める結果になります。
革命への怨みから、彼等は過激王党派(ウルトラ)を組織し、「国王より王党的」でした。

 ルイ18世は、1816年9月に過激王党派が多数を占める議会を解散し、10月に行われた選挙では立憲君主主義者が過半数を占めた為、これに対して過激王党派は、その中心人物であったアルトワ伯(後のシャルル10世)の次男暗殺事件(1820年2月)を発端に、再び巻き返して反動政策を推し進めました。

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シャルル10世(Charles X、1757年10月9日 - 1836年11月6日)

 ルイ18世の死後、過激王党派の中心人物であったアルトワ伯がシャルル10世(1757年~1836年、在位1824年~30年)として即位します。
ブルボン朝の最後の王となったシャルル10世は、ルイ16世・ルイ18世の弟で、フランス革命中は亡命して反革命運動を行い、ナポレオンの没落後帰国し(1814年)、アルトワ伯と称して過激王党派を指導しました。

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ジュール・オーギュスト・アルマン・マリー・ド・ポリニャック(Jules Auguste Armand Marie, prince de Polignac, 1780年5月14日 - 1847年3月2日)

 シャルル10世は、即位すると亡命貴族を優遇し、反動政治を推し進め、1825年には「10億フラン年金法」を制定し、革命中に土地・財産を没収された亡命貴族に多額の補償金を支出しました。
1827年11月に議会を解散して総選挙を行い、自由主義派(反政府派)が勝利をおさめた結果、追いつめられたシャルル10世が、過激王党派の指導者ポリニャック(1780年~1847年)を首相に任命すると(1829年8月)、国王と議会の対立が深まりました。

 1830年5月、シャルル10世は再び議会を解散したものの、7月の選挙では自由主義派(反政府派)が更に議席を伸ばした為、ポリニャックは、国内の危機を回避する目的で、国民の目を国外に向けアルジェリア出兵(1830年7月)を行なうとともに、七月勅令の発布を進めます。

 1830年7月25日に発布された七月勅令では以下、
1)7月の総選挙で自由主義派(反政府派)がさらに増加した未召集の議会を解散すること。
2)次回の選挙を9月に行うこと。
3)地主以外の有権者の選挙権を奪うこと。
4)言論・出版の統制を強化すること。
以上が布告されました。

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「民衆を導く自由の女神」

 これに対して、7月27日、パリの学生・小市民・労働者等約6万人は共和主義者を中心にバリケードを作り始め、28日には市街戦が激化し、29日には民衆がルーヴル宮・テュイルリー宮殿やノートルダム寺院などを占領し、七月革命が勃発します。
市街戦が行われた7月27日から29日は「栄光の三日間」と呼ばれ、この「栄光の三日間」の市街戦の様子は、三色旗を掲げる自由の女神が革命軍の志士を率いているありさまを描いたドラクロワ(1798年~1863年)の有名な「民衆を導く自由の女神」(1831年出品)に描かれています。

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ルイ=フィリップ1世(Louis-Philippe Ier、1773年10月6日 - 1850年8月26日)

 シャルル10世は、8月2日に退位を宣言してイギリスに亡命し、8月9日にはオルレアン家の自由主義者ルイ・フィリップが「フランス人民の王」として即位し、14日には新憲法が制定され、七月王政(1830年~48年)が始まりました。

 ウィーン体制はラテン・アメリカ諸国の独立・ギリシアの独立によって破綻しつつありましが、七月革命は今までの様に新大陸やイスラム教国での出来事でなく、フランスでの出来事であり、又七月革命の成功によってフランスが神聖同盟から離脱したことは、ウィーン体制を守護する勢力にとっては大きな衝撃でした。
そのため七月革命はウィーン体制下のヨーロッパ諸国に大きな影響を与えたのです。

ジョークは如何?

チャーチルと仲の悪い女性議員がチャーチルに
「もし私があなたの妻だったら、毒入りの紅茶をだすでしょうね」
それに対してチャーチルは
「もし私があんたの夫だったら、それを飲むだろうね」

続く・・・

2016/08/27

歴史を歩く208

30 自由を求めて④

2ウィーン体制とその動揺(その3)

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ギリシア人の独立蜂起

 ギリシアは、1000年以上にわたってローマ帝国・ビザンツ帝国の支配下にありましたが、ビザンツ帝国の滅亡後(1453年)はオスマン・トルコ帝国の一州となり、イスラム教徒の支配下に置かれてきました。
しかし、オスマン・トルコが17世紀以後衰退に向かう中で、ギリシア人は商人・官僚として活躍し、経済や外交面で大きな力を持つように成っていました。

 19世紀に入ると、フランス革命やナポレオン戦争による自由主義・国民主義がギリシアにも及ぶようになり、ギリシア人はオスマン・トルコからの独立を求めて蜂起します。

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セルビア蜂起、ネゴディンの戦い

 1820年にアルバニアでオスマン・トルコに対する反乱が起こると、翌1821年にヘタイリア・フィリケ(ギリシアの独立をめざす秘密結社、ギリシア語で「友の会」の意味)がルーマニアで反乱を起こしますが、この反乱は失敗に終わったものの、この反乱が契機となってギリシア独立戦争(1821年~29年)に繋がっていきます。

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1821年3月25日、戦いの宣誓を行うパトラ府主教パレオン・パトロン・ゲルマノス

 1821年3月にペロポネソス半島で始まったギリシア人の独立蜂起は、たちまちギリシア全土に広まり、1822年1月には独立宣言が行われました。
これに対して、オスマン・トルコ帝国は報復として、コンスタンティノープルでギリシア人の大虐殺を行うと共に、シオ(キオス)島に軍隊を送り込み、22,000人の島民を虐殺し、47,000人の男女を奴隷としました(シオの虐殺、1822年4月)。

 フランスのロマン派の代表的な画家ドラクロワ(1798年~1863年)は、「シオの虐殺」(1824年に出品)を描いて、ギリシアへの救援を訴えて大きな反響を呼んでします。

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ミソロンギに上陸したバイロン

 更にオスマン・トルコ帝国は、エジプト太守のムハンマド・アリ(1769年~1849年)にギリシアの鎮圧を命じ、トルコ軍はイオニア海岸のミソロンギを包囲し(1825年)、翌年ここを陥落させます。
この時、イギリスの代表的なロマン派の詩人バイロン(1788年~1824年)は、自分の炭田を売り払って資金を作り、武器・弾薬を積み込んで、1824年1月にミソロンギに入境しますが4月に病死しています。

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モレア地方に上陸したイブラーヒーム・パシャ軍

 ヨーロッパの人々にとって、ヨーロッパ文明の発祥の地であるギリシアはあこがれの地であり、又異教徒のトルコ人に対して独立のために戦うギリシア人に同情し、バイロンをはじめ多くの人々が義勇兵としてギリシア独立運動に参加しました。

 ミソロンギの陥落(1826年)後の不利な状況のなかでも、ギリシア人の独立運動は続けられ、その頃、ヨーロッパの国際関係に変化が生じ、ギリシアにとって有利な状況が現れてきます。

 メッテルニヒは、正統主義の立場からギリシアの独立戦争に対してはオスマン・トルコ帝国を支持していましたが、1825年にロシアで、メッテルニヒに同調してきたアレクサンドル1世が急逝してニコライ1世(在位1825年~55年)が即位すると、ロシアはギリシア援助を口実にトルコに宣戦してバルカン半島へ南下する可能性が生じてきました。

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総督府で執務中のムハンマド・アリー

 ロシアの南下を警戒するイギリスは、フランス・ロシアを加えた3国でロンドン会議(1827年~32年)を開き(1827年7月)、トルコに休戦調停を申し入れ、この申し入れをトルコが受け入れない時は、ギリシアを援助して海軍を出動させる事を趣旨としたロンドン条約を結びます。

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ナヴァリノの海戦

しかし、トルコがメッテルニヒの支援を期待してこれを拒否したために、イギリス・フランス・ロシア連合艦隊が出動し、1827年10月にナヴァリノの海戦でトルコ・エジプト艦隊を撃滅し、この海戦によってギリシア独立が可能と成りました。

 翌1828年4月、ロシアはトルコに宣戦してアドリアノープルを占領し、アドリアノープル条約(和約)(1829年9月)が結ばれ、この条約で、ロシアはトルコにドナウ川沿岸・黒海沿岸を割譲させ、トルコはギリシアの独立を承認しました。
翌1830年2月に開かれたロンドン会議で、ギリシアの完全独立が国際的に承認され、1832年にはバイエルン王家からオットー1世(在位1832年~62年)が国王に迎えられました。

 ギリシアの独立は、ウィーン会議後のヨーロッパに於ける最初の領土変更で、ウィーン体制がもはや維持できなくなったことを示しています。 

ジョークは如何?

第二次世界大戦の後、ジューコフ将軍とアイゼンハワー将軍が会見した。

 お互いの戦術論をぶつけあい、親睦を深め合う二人の将軍。
話はやがていかに地雷原を突破するかに及び、アイゼンハワーは連合軍が苦心して考え出した地雷対策を披露した。

「戦車の前にドラム缶を装備して地面を叩いたり、事前砲撃でじっくり地雷原を叩き潰すのがコツなんです」
 しかし、それを聞いたジューコフは、感銘を覚える様子も無くただにやにやと得意そうな笑みを浮かべた。
「いやいや将軍、それよりよほど確実で効果のある方法がありますよ」
 ジューコフは得意げな表情を崩さずこう言った。
「簡単な事です、歩兵にその上を行軍させれば宜しい」


続く・・・

2016/08/24

歴史を歩く207

30 自由を求めて③

2ウィーン体制とその動揺(その2)

 1810年代から20年代に起こった自由主義運動はいずれも鎮圧されてしまいますが、時代の流れに逆らって自由主義・国民主義運動を抑圧しようとするウィーン体制は次第に崩れ始めました。

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ラテン・アメリカの独立運動

 その動きは、まず新大陸のラテン・アメリカの独立運動として始まりました。
ラテン・アメリカは、19世紀初頭迄は主にスペインの植民地(ブラジルのみはポルトガルの植民地)でしたが、スペイン・ポルトガルの植民地はアメリカ独立革命やフランス革命の影響を受け、又本国がナポレオンの支配下に置かれた事に乗じて独立運動を起こし始めます。

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ハイチの独立・サントドミンゴの戦い

 ラテン・アメリカで、まず独立を果たした地域ハイチでした。
ハイチは1697年にスペイン領からフランス領になり、フランス革命に際して、黒人奴隷が反乱を起こし(1791年)、独立運動が始まります。
その後、ナポレオン軍を撃退して1804年に独立し、世界最初の黒人共和国となりますが、ハイチの独立に続いて、1810年代になると反乱は各地に拡大して行きます。

 ラテン・アメリカの独立運動の中心となったのは、植民地生まれの白人であるクリオーリョで、彼等は、本国から来た役人・軍人等から厳しい差別を受けており、本国の政策に対して強い不満を持っていました。
又白人とインディオの混血であるメスティーソや、白人と黒人の混血であるムラートはクリオーリョより更に厳しい差別を受けており、彼等も独立と解放を望んでいたのです。

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サン・マルティン(左)とシモン・ボリバル(右)

 シモン・ボリバル(1783年~1830年)は、ベネズエラのスペイン人大地主の家に生まれたクリオーリョで、スペインで教育を受けた後、帰国して大農場を経営していましたが、1810年に独立運動に参加した。カラカス解放に成功し(1814年)、「解放者」の称号を得たのも束の間、本国軍の反撃にあって一時亡命します。
1819年には、大コロンビア共和国(現在のコロンビア・ベネズエラ・パナマを合わせた国、後にエクアドルも加わった)の樹立に成功し、その大統領に就任しますが、その後、ボリビア共和国(ボリビアの国名はボリバルの名に因んでいる)の独立にも成功した(1825年)ものの、大コロンビア共和国の解体(1830年)に失望して引退し、まもなく病没します。

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サンマルティン将軍像(Jose' Francisco de San Marti'n 1778年ー1850年)

 アルゼンチン・チリ・ペルーの独立運動の指導者であるサン・マルティン(1778年~1850年)やメキシコの独立運動の指導者であるイダルゴ(1753年~1811年)もクリオーリョの出身でした。

 この様に1810年代には、パラグアイ(1811年)・アルゼンチン(1816年)・チリ(1818年)・コロンビア(1819年)・ベネズエラ(1819年、最初は大コロンビアと合邦、1830年に分離独立)等が独立して共和国として成立します。
1820年代には、メキシコ(1821年)・ペルー(1821年)・中央アメリカ連邦共和国(1821年、コスタリカ・グアテマラ・ホンジュラス・ニカラグア・エルサルバドルが合邦して形成)・ブラジル(1822年、ポルトガルの王子を頂いて帝国として独立)・ボリビア(1825年)・ウルグアイ(1828年)等も宗主国の束縛を逃れ独立しました。

 ウィーン会議の正統主義に従えば、ラテン・アメリカはスペイン・ポルトガルの植民地であるべきで、ラテン・アメリカ諸国の独立はウィーン体制の破綻に繋がることになります。
メッテルニヒは、ラテン・アメリカの独立運動を革命とみなし、ウィーン体制を乱すものと考え、神聖同盟の名の下にラテン・アメリカの独立運動に武力干渉を画策します。

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ジョージ・カニング( The Rt.Hon. George Canning 1770年4月11日 - 1827年8月8日)

 イギリス外相のカニング(1770年~1827年、任期1807年~09年、22年~27年)は、ラテン・アメリカ市場へのイギリス商品の進出のため、神聖同盟の干渉に反対し、ラテン・アメリカ諸国の独立を承認・援助しました。

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ジェームズ・モンロー(James Monroe 1758年4月28日 - 1831年7月4日)

 又アメリカ合衆国の第5代大統領モンロー(任期1817年~25年)も、1823年12月に、有名な「モンロー宣言(教書)」を発表します。

モンロー宣言(抜粋)
「それゆえに、我々は率直に、又合衆国とこれら諸国との間に存する友好関係に恩義を感じつつ、これら諸国の政治体制を西半球のどの部分にも拡張しようとする企ては我々の平和と安全を害するものと考えることをここに宣言する。
ヨーロッパ諸国の現在の植民地あるいは従属国について我々はかつて干渉したことはなく、将来も干渉しないであろう。
しかし、既に独立を宣言し、それを維持し、又その独立について我々が熟考し、正しい基準に基づいて承認した諸政府については、我々はヨーロッパ諸国がその独立政府を抑圧し、或いは他の方法でその運命を支配するような目的をもって行う如何なる干渉も、合衆国に対する非友好的態度の表れとみなさない訳にはゆかない。・・・ 」


 神聖同盟によるラテン・アメリカ諸国の独立運動への干渉に反対し、ヨーロッパ諸国とアメリカ大陸諸国との相互不干渉を唱えたので、メッテルニヒの企ては失敗に終わりました。

 ラテン・アメリカ諸国の独立によって、ウィーン体制はヨーロッパ外から崩れ始め、1820年代にはヨーロッパ大陸でも、メッテルニヒ等ウィーン体制を維持しようとする勢力に大打撃を与える出来事が発生します。

其れがギリシアの独立なのです。

ジョークは如何?

ユダヤ&日本

第二次世界大戦が終わった。

世界最強の商人は世界最強の兵士になった。
世界最強の兵士は世界最強の商人になった。


続く・・・