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2018/10/19

お知らせ

ジロくんが旅立って行きました

ジロくんは、10月13日土曜日午前10時30分、旅立っていきました。
12歳8か月8日、病気も一切無く、頑張ってくれました。
以前より時折このブロクで近況をお知らせしていましたが、ジロくんに沢山の応援、励ましをありがとうございました。
改めて心より感謝申し上げます。

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ジロくん(2018年6月16日・福岡県鞍手郡鞍手町八剱神社境内にて)

2代目ジロくんを胆のう障害で失い、約8か月のブランクを経て、春のお彼岸の中日、ブリーダー様より我が家の家族になりました。
仔犬時代から元気いっぱいの明るい性格で、何でもペロペロ舐める癖があり、近所の子供達からペロペロワンちゃんと呼ばれて、可愛がってもらいました。
初代、2代がコリー犬だったので、初めてのセットランドシープドッグは、成犬になっても小型な印象でしたが、ジロくんはその体とはかけ離れて、吠え声が大きく、驚いたものです。
自宅の敷地内に見慣れない人物が入ると、猛烈に吠えるのですが、その反面近所の皆さんや子供達に吠える事は。ほとんどなく、良く「ジロくんの吠える声が聞こえると、外を覗う」と云われたものです。

元気に歳を重ねて行きましたが、一昨年より白内障で、視力が低下し、良いお天気の日や日中の散歩は、ジロくんも苦労する様になり、散歩も早朝、夜間に変えましたが、他は従来と変わりませんでした。
成犬になってから、ジロくんは、日中は屋外、夜は室内生活で、若い頃から室内に入ると自分で決めた場所(仏壇の前)でトイレ以外は、余り動く事はなく、本当に大人しい犬でした。
今年の秋のお彼岸過ぎから、後ろ脚に力が入らなくなり、食事も減り始め、私が帰宅しても出迎える事も無くなり、何時も静かに横になっている事が多く、その様な状況で、苦しむ事も無く静かに最後を迎えました。
最後に大きな尻尾を2度振ってくれたのが、お別れの挨拶だったと思います。
今は、黄泉の国で、両親、初代、2代ジロくんと一緒に過ごしている事と思います。

ジロくん、最後の日迄、本当にありがとう。
何時か、私がそちらに行ったら、その時は又ペロペロしてね。

室内にて①
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怪獣現る!(2018年8月26日撮影)

室内にて②
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安らかに (2018年10月13日撮影)

親愛なるジロくんへ by 秋葉 奈津子
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2018/09/30

歴史を歩く199

42アジアの情勢⑥

5インドの独立運動

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ローラット委員会 (Rowlatt Committee) の長、シドニー・ローラット (Sydney Rowlatt)

 第一次世界大戦が勃発すると、イギリスはインドに戦後の自治を約束し(1917年8月にインド担当相モンタギューが行った)、インドの協力を求め、インドに住む人々はその約束を信じ、120万の兵員を動員し、物資を供給してイギリスに協力しました。
しかし、1919年に公布されたインド統治法では州自治の一部が与えられただけで、人々の期待した自治の約束には程遠いもので在り、その上イギリスは、1919年3月にローラット法を発布し、逮捕令状無しの逮捕・裁判抜きの投獄を行う権限をインド総督に与え、インドの民族運動を弾圧しました。

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アムリットサル虐殺事件

 1919年4月13日、パンジャーブ地方のアムリットサル(アムリツァール)で開かれた自治の約束無視とローラット法発布に対する抗議集会に集まった約1万人の群衆にイギリス軍が発砲し、約400人が死亡し1000人以上が負傷するというアムリットサル虐殺事件が起こり、インドの反英運動は激化して行きますが、この時期にインドの民族運動の指導者として、反英独立運動の先頭に立った人物がガンディーでした。

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モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー:Mohandas Karamchand Gandhi、(1869年10月2日 - 1948年1月30日)

 ガンディー(1869年~1948年、マハトマ・ガンディーのマハトマは「偉大な魂」の意味)は西部インドの下級官吏の家に生まれ、ロンドンに留学して(1888年~91年)弁護士となり、帰国後南アフリカに渡ってサティヤーグラハ(サティヤーは真理、グラハは把握の意味、ガンディーはこの言葉に非暴力抵抗の意味を与えた)の運動を指導し、人種差別政策と闘い(1893年~1914年)、帰国(1915年)後国民会議派に加わって、インドで活動します。

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イギリス商品ボイコット、インド綿を紡ぐガンディー

 ガンディーは、第一次世界大戦では自治の約束に期待して、イギリスに協力しますが、戦後約束が守られないと、「我々はパンを求めて石を与えられた」とイギリスの背信に強く抗議し、ローラット法が施行されると非暴力・不服従(サティヤーグラハ)の運動を指導し(第1次1919年~22年、第2次1930年~34年)、大戦中から反英的になっていた全インド・ムスリム連盟も国民会議と提携した為(1920年)、イギリス商品のボイコット・イギリスの行政機関への非協力・公立学校の生徒の退学・商店の自主的休業・地租支払い拒否等の運動が全インドに広がりました。

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非暴力・不服従を呼びかけるガンディー

 しかし、1922年2月に蜂起した農民が警察署を襲って警官22名を殺害する出来事が起きると、ガンディーは不服従運動の中止を宣言したものの逮捕され、6年の懲役に処せられます。
ガンディーは2年後に釈放されますが、その後数年間は政治から離れ、以後国民会議派内の分裂やヒンドゥー・イスラム両教徒の対立等も在り運動は停滞しました。

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ジャワハルラール・ネルー(ネール) ( 1889年11月14日 - 1964年5月27日)

 この頃、国民会議派内ではネルー(ネール)を指導者とするより急進的なグループ(国民会議派左派)が台頭しており、ネルー(ネール、1889年~1964年)は、アラハバード市で富裕なバラモン階級の弁護士の家庭に生まれ、イギリスに留学してケンブリッジ大学を卒業し、弁護士の資格を得て帰国(1905年~12年)し、弁護士となったネルーはガンディーと出会って国民会議派に入り、民族運動に身を投じ(1920頃)、国民会議派の若手の政治家として活躍、1920年代後半からは国民会議派の指導者と成りました。

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塩の行進

 1929年12月、ネルーの指導のもとで開かれた国民会議派ラホール大会では「プールナ・スワラジ(完全なる自治)」が宣言され、このラホール大会を機に運動は再び激化し、翌年から第2次の非暴力・不服従運動(1930年~34年)が始まりました。
1930年3月、再び運動の先頭に立ったガンディーは製塩禁止法に反対して360kmに及ぶ有名な「塩の行進」を行ない、再び逮捕されます。

チャップリンとガンディー
第2回英印円卓会議出席の際、喜劇王チャップリンと会談するガンディー

 翌年釈放されたガンディーは、ロンドンで開かれた第2回英印円卓会議(イギリスがインドの独立運動の高まりを抑えるために指導者をロンドンに招いて開いた会議)に出席しますが、何ら成果のない会議に絶望して帰国し、3度目の逮捕を経験します(1932年1月)。
1934年に国民会議派を引退したガンディーは、その後不可触賤民の地位向上運動に従事し、彼等をハリジャン(神の子)と呼びました。

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ガンディーとネルー

 イギリスは指導者を逮捕・投獄する一方で英印円卓会議(1930年~32年)を開く等、弾圧と懐柔をくり返す中で、1935年には新インド統治法(改正インド統治法)を制定します。
新インド統治法では連邦制と各州の責任自治制が導入されますが、インド人の完全独立の要求は無視され、かえってその導入をめぐってヒンドゥー教徒の国民会議派とイスラム教徒の全インド・ムスリム連盟の対立が深まっていきました。

名言集

Because there is bondage,
I can fly.
Because there is sorrow,
I can fly high.
Because there is adversity,
I can run.
Because there is tears,
I will move forward.

束縛があるからこそ、
私は飛べるのだ。
悲しみがあるからこそ、
私は高く舞い上がれるのだ。
逆境があるからこそ、
私は走れるのだ。
涙があるからこそ、
私は前に進めるのだ。


続く・・・


2018/09/11

散歩道の思い出

散歩道の四季

城野町から引越しをして1ヶ月が過ぎました。
荷解きも8割程は、終わりましたが、未だに発掘出来ない品物も在り、こちらは気長に探していきます。
前回の「さようなら城野町」で紹介した、ジロくんと歩いた散歩道の季節を変えてご紹介します。

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写真①

午後の陽に照らされる足立山です。
小学生、中学生時代の下校時に毎日眺めた、記憶に一番残っている風景です。
この風景を見ると、「今日も終わったな」と思ったものです。
この風景を片隅に置きながら、友人達と家路を急ぎました。

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写真②

雪の日の自宅前。
写真には、轍の後と足跡が写っていますが、この轍を残した自動車は、この先で立ち往生していました。
緩い坂なのですが、この緩やかなSカーブが災いしている様です。
この様な時は、遠自宅から大きく遠回り。
例えれば、3角形の1辺で行ける道を2辺通って行くしか、仕方が在りません。
北九州市では、滅多に雪が積もる事はありませんが、昨年、今年と2月に1日だけですが、積雪を見ました。

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写真③

秋、紅葉が始まった頃の上城野公園です。
この時期、ジロくんが落ち葉を踏むと、カサカサと乾いた音が連続して聞こえます。
その音が不思議なのか、盛んに地面の匂いを嗅Iいだり、首を傾げるジロくんの仕草が、印象に残っています。
木の葉が全て散ると、空の空間が広くなり、冬枯れの寂しい姿に変わり、北風が寒さを誘います。

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写真④
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写真⑤

さようなら、城野町で紹介しなかった、重留遺跡です。
平成12年の発掘作業中に銅剣が出土し、福岡県の重要文化財に指定されました。
重留遺跡第1号竪穴住居跡出土品 一括として、北九州市のホームページにも紹介されています。
http://www.city.kitakyushu.lg.jp/shimin/02100196.html
この場所は、以前国鉄官舎が有った場所で、銅剣が出土した付近は公園でした。
ジロくんの散歩の時は、何時も踏んでいた地面の下に銅剣が埋まっていたわけですが、この付近は可也広い弥生期の遺構が多数発見されているので、遥かな昔、一つの大きな集落が存在していた様です。

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写真⑥

写真⑤の重留遺跡から約500mの位置に存在する城野遺跡です。
写真では判りずらいですが、この雑草に覆われた箇所を中心に、可也の広さの遺構群が発掘され、その中には貝塚や囲炉裏の跡、埋葬された人骨も出土しています。
近くには川も流れていた痕跡もあり、可也の人口を抱えた集落であったと考えられています。
現在、城野遺跡保存と遺跡公園整備の運動が、行われています。
私もジロくんと発掘作業を見学しましたが、当時の囲炉裏跡等は、大変興味深いものでした。
紀元前10世紀前後の弥生期に当たり、先の重留遺跡と一体となる遺跡と考えられています。
当時の風景を想像して、ちょっとタイムトリップした気分です。

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写真⑦

氏神様若宮神社の近所に住んでいる、ジロくんの2歳年上のお友達、シロちゃんです。
現在のジロくんが初めて挨拶したワンさんが、シロちゃんでした。
ジロくんにとってはお姉さんになります。
シロちゃんも以前に比べると、足が弱ったそうですが、まだまだ元気に毎朝散歩していました。
これからも、元気で居て欲しいです。

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写真⑧
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写真⑨

今年2月、雪に覆われた氏神様若宮神社の境内です。
此処まで真っ白になるのは、珍しい事なので、写真に撮りました。
この日は寒い1日で、最高気温が1度、最低氷点下2度と、北九州市では異例の寒さを迎えました。
一方写真⑨は、今年3月頃の境内の梅です。
冬が寒かった一方で、今年の梅は、一段と花も多く綺麗な姿を見せてくれました。

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写真⑩

前回の写真では、暗い画像だったので、改めてご紹介する、JR日豊本線と日田彦山線の分岐点です。
写真手前は、昭和末期から現在迄、広い空き地になっていて、線路の築堤がはっきり見えますが、後方は高層マンションが建設され、視界を遮っています。
初代ジロくんと歩き始めた頃は、足立山の中腹付近迄、遮る物は一切なく、右手の雑木林もまだ小さな林でした。
約30年の歳月を経て、今では立派な森になっています。

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写真⑪

JR城野駅より日豊本線下り方、下曽根側を望む。
城野駅もいつの間にか、高層住宅の中に埋もれていますが、写真中央部が、前回紹介した踏切、その先右側に向かう単線の線路が日田彦山線、直進する線路が、日豊本線です。
子供の頃、踏切警手さんと一緒に通過する列車を眺めた頃は、周囲にビルは1棟もなく、田畑が広がったいました。
現在の城野駅は、現代風の橋上駅舎で、南北通路も備えたバリアフリーの駅に生まれ代わりましたが、私が利用していた頃の駅舎は、明治時代からの古い木造駅舎で、所々に明治時代を彷彿とされる箇所が在りました。
今、当時を伝える物は何も残っていません。

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写真⑫

ジロくんと夜に歩いていたコースにある、和食レストランの紅葉です。
この和食レストランは、豆腐料理がメインで、お客様も多いレストランです。(私も時々利用していますが、美味しいですよ!)
その庭の紅葉が、夜間はライトアップされていて、カメラを向ける方も多い場所です。
夜のコースは、どうしても幹線系の道を歩くので、周囲はマンションや駐車場ばかりですが、ここだけは、ちょっぴり季節を感じる事ができます。

昭和61年7月に初めてワンくんが、家族の一員になりました。
それから現在のジロくん迄 3代、約30余年、歴代のジロくんと一緒に歩いた城野、春ケ丘、若園、重住の風景は、今も思い出として残っています。
又、機会が有れば紹介したいと思いますが、近い内に、現在の散歩道をご紹介しようと思っています。

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今の散歩道も慣れてきたよ!byジロ


平成30年9月11日 秋葉 奈津子&ジロ

2018/08/26

さようなら、城野町

ジロくんの散歩道

粕屋郡古賀町(現古賀市)から北九州市に両親共々引っ越して約50年。
そんな私の50年間を見守ってくれた、小倉南区城野町を8月6日に後にしました。
歴代ジロくんと毎日歩いた、城野、春ケ丘、若園、重住を記憶に留めたいと思います。
転居当日の早朝撮影なので、少々写真が暗い事をお詫びします。

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写真①

自宅前の光景、前方に見える山は足立山、緩やかな坂道が続きます。
この緩やか坂道は、雪が降ると自動車は勿論、人間でも歩くことが大変な道に成ります。
足立山は、母校の校歌にも「朝日射す足立の山に、若人の歌はこだまし」と歌われた山。
写真の道は、遥か昔、竹林の中の小さな道だったそうです。

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写真②

通学、通勤の時、何時も見守ったくれた道祖神金剛様、子供時代は隠れんぼの場所、ジロくんの散歩の時は、毎日手を合わせた場所です。

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写真③

歴代ジロくんが、戸外に出て最初の散歩に訪れた、上城野公園です。
この公園で、匂いを嗅ぎ、マーキングをし、自動車や飛行機等、音に慣れさせる事を中心に訓練しました。
小学生時代は、朝のラジオ体操の会場、昔は子供達がいっぱいで、陣取り合戦が繰り広げれましたが、今はそれも思い出です。
昔は、鉄棒、ブランコ、メリーゴーランド、ジャングルジムも在りました。

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写真④

氏神様への道です。
昔から若宮様への参道として整備されていた道で、今でもその途中には、御影石の灯篭も残っていて、秋には、毎年お祭りが行われています。
写真の左側は、平成の中半迄は、船橋池と云う大きな池があり、季節になると蛍が沢山居て、淡い光を放っていました。
でも用心しないと、大きな蛇も結構いましたね。
氏神様に向かう道も当時は、現在の半分位で、普通車の離合がやっとの道幅でした。

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写真⑤

氏神様の若宮神社の鳥居です。
今は、お社の前に公民館ができましたが、平成の始め頃迄は、もっと木が多く、鎮守の森に中にひっそりと社が在る風情でした。
太平洋戦争時代、周囲は全て田畑で、遥か遠くからでも若宮様の鎮守の森が見えたそうです。
昭和40年代初期でもその様な風情が残っていました。

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写真⑥

今は公民館の後ろになってしましたが、若宮様の御神体を祀るお社です。
毎日、手を合わせる方が、多い氏神様です。

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写真⑦

重住公園。
ジロくんの散歩コースでは、寒い時期の長距離コースの中間地点になります。
ここも、私の中学生時代は、子供達でいっぱいの公園でした。
午前中はゲートボール、午後はサッカーと世代交代しています。

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写真⑧

重住公園敬老会の花壇に植えられた、パイナップルの花です。
撮影から3週間程経っていますので、実の部分が大きくなっている事でしょう。
この公園は、有志の皆さんが日頃から整備されているので、大変綺麗な公園です。

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写真⑨

ジロくんの散歩コースでは一番遠い処で、このまま進むと小倉南区から小倉北区に変わります。
写真では、見難いですが前方の築堤は、JR日豊本線と日田彦山線の分岐部分に成ります。
後ろの山は足立山を含む企救山地です。
この付近で、雨等になると雨宿りできるのは、若宮神社に戻るしか手段が在りません。
特に梅雨や、夕立の多い頃は、歴代ジロくんと神社迄、ダッシュした事も何度かありました。
最近は、特に雨宿りできる様な建物は、全く在りません。

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写真⑩

JR日豊本線城野駅を下り方下曽根側踏切より望む。
子供の頃、この場所には踏切警手さんが居て、手動で遮断機を操作していました。
その間近で、行き交う列車を眺めていました。
別府・大分行きの485系特急「にちりん」、475系急行「ゆのか」、宮崎行き急行「日南」、南宮崎行き20系に始まり24系25型フル編成の寝台特急「富士」等往年の優等列車が爆進した日豊本線。
鉄路を走る車両は変わりましたが、今も別府、大分方面を結ぶ動脈です。
国鉄時代、キハ66系気動車急行「日田」、遠く本州より直通のキハ58系急行「あきよし」等の優等列車は無くなりましたが、北九州と日田方面を結ぶ日田彦山線。
こちらは、のどかなローカル線になり、2両編成のキハ47系が頑張っています。

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写真⑪

散歩途中で何時も出会った猫一家。
何時もジロくんを見ると、一目散にダッシュで物陰に隠れていましたが、最近はやっと慣れてくれた様です。
でも今日でお別れ。
みんな元気でね。

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写真⑫

散歩道最後の道祖神様、庚申様です。
いつの間にか、道祖神様の前では手を合わせる事が習慣になりました。
庚申様は、修験の山英彦山にも祀られています。

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写真⑬
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写真⑭

散歩コースも終わりが近づきました。
紹介した散歩コースをゆっくり歩くと約45分の行程になります。
この2枚の写真は、昭和40年代の面影を今に残す場所です。
池は養魚池なので、鯉が沢山泳いでいます。
この池で、よくザリガニを捕まえてました。
今もカエルが沢山います。
ジロくんもカエルの大きな咆哮に驚く事が、多かった場所です。
この砂利道は、写真③の上城野公園に繋がっている道なので、小学生時代は鬼ごっこや隠れんぼで走り回った場所でした。
この付近は、道路が狭く、以前は走り回る子供達や自転車に用心していましたが、ここでも子供達の姿は、殆ど見かけません。

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写真⑮

いよいよ、自宅に戻ってきました。
歴代ジロくんが歩いた道。
時代が平成に変わって約30年間、周囲は大きく変わりましたが、至る所に思い出が沢山在る、散歩道です。
この思い出を歴代ジロくんと共に大切にしたいと思います。

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何時も散歩途中に、ご挨拶を交わした皆さん。
お世話になったご近所の皆さん。
それに、ジロくんのお友達のワンくん達。
これからも時々、伺いますので、忘れないでね。

平成30年8月26日 秋葉 奈津子&ジロ







2018/07/29

応援をいただいている皆様にご連絡致します。

何時も私の記事に多数の応援を頂戴し感謝しております。


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私事になりますが、8月6日月曜日に引越しをする事になりました。
約50年近くの歳月を共にした家から、やっと見つけた身の丈に合った小さな家に引越します。

既に今月は、転居準備を進めていますが、今週は本格的な家財、ゴミも搬出もあります。
この様な状況ですので、皆さんのブロクへの応援が、時間的に困難となります。
更に、インターネットの移設工事が、既に依頼していますが、約1ヶ月は掛かるとの事。
この期間は、WIFI対応となるため、必用最低限の接続しかできません。

引越しが完了し、インターネットが旧来通り復旧致しましたら、又改めてご連絡致しますので、宜しくお願い申し上げます。

平成30年7月29日 秋葉 奈津子