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2019/09/23

歴史を歩く216

44第二次世界大戦

6連合国の勝利(連合軍の優位)

 第二次世界大戦は、1942年夏頃迄は、枢軸国(日独伊三国同盟側に属した諸国)側が優勢でしたが、1942年6月のミッドウェー海戦と、1942年8月に始まったスターリングラード攻防戦、1942年7月及び10月のエル・アラメインの戦いを契機として連合国側が反撃に転じて行きます。

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アメリカ海軍ダグラスSBDドーントレス艦上爆撃機

 1942年6月、中部太平洋で戦われたミッドウェー海戦で日本海軍は主力空母4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)とその艦載機290機・ベテラン兵員約3500名を喪失して惨敗しました。(日本国内では、大本営発表の大勝利と報道された)
ミッドウェー海戦の勝利によって太平洋戦線の主導権を握ったアメリカ軍は、同年8月ガダルカナル島への上陸作戦を展開し、ガダルカナルの確保に全力をあげた日本軍はアメリカ軍と死闘(ガダルカナルの戦いは同島を餓島と呼ぶ程に悲惨な戦闘でした)を繰り返しますが、制空権を奪われていた日本軍は大損害を被り1943年2月にガダルカナルを撤退(転進)し、以後敗退を重ねていきます。

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スターリングラード攻防戦で廃墟と化した市内

 一方、独ソ戦の長期化によって石油の確保が不可欠となったドイツは、夏季攻勢の目標をバクー油田等コーカサス地方の油田の確保(ブラウ作戦)に置き、ヴォルガ河畔の重要都市であるスターリングラードの占領を試みます。
1942年8月22日、ドイツ軍(第6軍)はスターリングラード(現ボルゴグラード)に総攻撃を開始してこれを包囲し、9月には市内に突入して激しい市街戦を展開しますが、当に建物の各階を一階づつ、又地下道の一本、一本を制圧する戦闘が続き、両軍の犠牲は増える一方でした。
11月になると猛吹雪の中でソ連軍は大反撃(ウラヌス作戦)を開始し、逆にドイツ軍の包囲に成功しました。

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フリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・パウルス(Friedrich Wilhelm Ernst Paulus, 1890年9月23日 - 1957年2月1日)

 ドイツ軍司令官フリードリヒ・パウルス大将はスターリングラードから撤退し、戦線を立て直す事をヒトラーに進言しますが、ヒトラーは頑として退却を認めず、スターリングラードの死守を命じ、一方ソ連軍は翌年1月に2度にわたってドイツ軍に降伏を勧告しますが、ヒトラーは降伏を許可せず、ソ連軍の猛攻によって約30万のドイツ軍は壊滅し、1943年2月初頭ドイツ軍司令官パウルス元帥(1月30日元帥昇格)は約9万の将兵と共に降伏しますが、このスターリングラード攻防戦は第二次世界大戦の転機となり以後ドイツ軍の敗退が始まったのです。

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北アフリカ戦線のドイツ軍2号戦車

 これより先、連合国は1942年10月から北アフリカで反撃を開始していました。
アメリカよりレンドリース法により300両のM4シャーマン戦車と大量の航空機の援助を得たモントゴメリー将軍指揮下の連合国軍はエル・アラメイン(アレクサンドリアの西方)でロンメル将軍指揮下の独・伊軍機甲部隊(当時ロンメル指揮下のドイツ軍戦車は90両余り、イタリア軍戦車は130両程)を撃破、ドイツ勢力をエジプトから駆逐し、更に進撃を続けて翌年1月にはトリポリを奪回、一方アイゼンハウアー将軍(後の第34代米大統領)指揮下の連合国軍は、アルジェリア・モロッコに上陸し、モントゴメリー軍と呼応して独・伊軍を東西から挟撃する作戦を行います。
連合国軍は1943年5月にはチュニジアを占領、北アフリカの独・伊軍が降伏し、北アフリカ戦線は米英連合軍の勢力圏になりました。
この様なドイツ軍敗走の裏には、同時に進行していた、スターリングラード戦に軍需物資を最優先した事、機甲部隊の生命線である燃料の確保が、戦域の拡大から十分に行われ無かった事が影響しています。

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ハスキー作戦・上陸用舟艇のアメリカ軍

 北アフリカを奪回した連合国軍は、1943年7月10日にシチリア島に上陸・占領(ハスキー作戦)し、更にイタリア本土に迫ります。
こうした状況の中でイタリアでは、1943年7月24日にファシスト大評議会が開催され、立憲王制への復帰とムッソリーニの統帥権剥奪が決議され、翌日、ムッソリーニは国王によって首相を解任され、逮捕・投獄され、バドリオ(1871年~1956年、エチオピア侵入の総司令官)政権が成立し、ファシスト党は非合法化されます。

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グラン・サッソ襲撃・ドイツ空挺部隊に救出されたムッソリーニ

 1943年9月、連合国軍がイタリア本土に上陸すると、バドリオ政権は9月3日に連合国と休戦条約を結び、1943年9月8日に無条件降伏しますが、これに対してヒトラーはドイツ軍にイタリア中部・北部を占領させると共に、ムッソリーニを獄舎から救出(グラン・サッソ襲撃・9月12日)し、北イタリアにムッソリーニを首班とする「ファシスト共和国」を樹立させますが、ファシスト共和国は戦争継続を宣言した結果、以後イタリアは二分されるものの、既に戦争遂行力は急速に弱体化し、ムッソリーニは、1945年4月28日にスイス国境のコモ湖付近でパルチザンによって拘束、銃殺され、遺体はミラノのロレータ広場にその側近や、愛人のクラ-ラ・ペタッチ等共に逆さに吊るされる事態が発生します。
(当時クラーラ・ペタッチは、ファシスト党員等の資格を有しておらず、その身分は民間人であり、処刑は後に問題となります)

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大西洋上会談・艦上のルーズベルトとチャーチル

 連合国は既に1941年に戦後の構想を示していました。
独ソ戦開始による戦争の拡大を前にアメリカのローズヴェルト大統領とイギリスのチャーチル首相は大西洋上のイギリス海軍戦艦プリンス・オブ・ウェールズで会談を行い(大西洋上会談)、1941年8月に大西洋憲章を発表し、全8条からなる大西洋憲章では領土不拡大・領土不変更・民族自決・貿易の自由と拡大・労働条件と社会保障の改善・海洋の自由・軍備縮小・平和機構の再建が謳われていました。

 太平洋戦争が始まると、連合国26カ国は大西洋憲章に基づいて連合国共同宣言を発表し(1942年1月)、第二次世界大戦の戦争目的をファシズムに対する民主主義の戦いと位置づけたのです。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年9月26日門司区自宅


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2019/09/12

歴史を歩く215

44第二次世界大戦

5太平洋戦争

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パリ陥落・エッフェル塔とヒトラー

 日中戦争(1937年7月~45年8月)が長期化・泥沼化する中で、日本は南京に親日政権である汪兆銘政権を樹立(1940年3月)しますが支持を得る事が出来ず、事態の収拾に苦慮していました。
その頃、ヨーロッパではドイツが西部戦線の膠着状態を破ってデンマーク・ノルウェーに侵入し(1940年4月)、更にオランダ・ベルギーに侵入(1940年5月)、その後1940年6月にはパリを占領し、フランスを降伏に追い込んでいました。

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空の神兵・パレンバン空挺作戦
 
 この様な情勢の中で、日本では南進論(フランス領インドシナ・オランダ領東インドのゴム・石油などの資源の獲得を目ざす南方進出政策)が高まり、独・伊との提携の動きが再び活発になりました。
1940年9月23日、日本軍は援蒋ルート(重慶の蒋介石政権に対するアメリカ・イギリスの援助ルート、フランス領インドシナ・雲南を経由する仏印ルートとビルマルートの2つがあった)の遮断と南進を目的とし、フランスの敗北に乗じてフランス領インドシナ北部(北部仏印)に進駐し、4日後の9月27日には日独伊三国同盟に調印します。

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対日貿易規制を報じる当時の新聞紙面

 このフランス領インドシナ北部進駐と日独伊三国同盟の調印によって、満州事変以来、特に日中戦争の勃発以来悪化していた日米関係は急速に悪化し、既にアメリカは、1939年7月に日本の中国侵略に対抗して日米通商条約破棄を通告(翌年1月発効)していた為、石油・鉄鋼等の軍需物資の多くをアメリカに依存していた日本は日米関係の悪化を防ぐ必要に迫られていたのです。

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駐米大使 野村吉三郎・アメリカ国務長官 コーデル・ハル

 その為、日本は1941年4月から駐米大使野村吉三郎とアメリカ国務長官ハル(1871年~1955年)との間で日米交渉を開始しますが、アメリカは日本軍の中国からの撤兵と三国同盟からの脱退を要求し、これに日本軍部(特に陸軍)が譲らず、日米交渉は難航していました。

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南部仏印進駐・帝国陸軍銀輪部隊

 日米交渉に並行して、日ソ中立条約(1941年4月)を結んで北方の安全を確保した日本が、1941年7月28日にフランス領インドシナ南部(南部仏印)に進駐すると、更に態度を硬化させたアメリカは7月に在米日本資産を凍結し、8月には石油等重要軍需物資の対日輸出を一切停止します。
更にABCD包囲陣(Aはアメリカ、Bはイギリス、Cは中国、Dはオランダを指す、対日包囲網を形成した4国の頭文字をとってこう呼んだ)を形成して日本の南進政策に対抗した為、日本は完全に孤立したのでした。

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御前会議

 1941年9月6日、御前会議で「帝国国策推進要領」が決定され、日米交渉でのアメリカ案を拒否し、10月上旬に至っても日本の要求貫徹の見込みがない時には、開戦を決意する事と成り、10月18日に成立した東条英機内閣(1941年10月~44年7月)が、対米交渉最終案を決定してアメリカとの交渉を行います。

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日米会談の進捗を報道する朝日新聞紙面

 アメリカは日本の最終案に対して、11月26日に所謂「ハル・ノート」(アメリカ国務長官ハルが提示したアメリカ側の最終提案)で、中国及びフランス領インドシナからの全面撤退・汪兆銘政権の否認・三国同盟の破棄・中国東北部を満州事変以前の状態に戻す事を要求しました。

 上記内容による「ハル・ノート」は、日本として到底受け入れられるものでは無く、12月1日に開かれた御前会議では対米英蘭開戦と開戦日12月8日が決定され、1941年12月8日(アメリカ現地時間12月7日)、日本軍はハワイ真珠湾(Parl Harbor)のアメリカ太平洋艦隊を奇襲し、アメリカ・イギリスに宣戦を布告して太平洋戦争(1941年12月8日~1945年8月15日)に突入します。

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帝国海軍空母翔鶴より発艦準備中の零式艦上戦闘機21型

 日本は開戦と同時にマレー半島に上陸し、フィリピン・香港を攻撃し、香港(1941年12月)・マニラ(1942年1月)・シンガポール(1942年2月)を占領、この間グァム島(1941年12月)・ウェーク島(1941年12月)・ラバウル(1942年2月)等の太平洋(南洋)諸島を攻略・占領しました。
更に日本はビルマ作戦を開始してラングーンを占領する(1942年3月)一方で、豊富な石油資源を確保するために蘭印(オランダ領東インド)作戦を展開し、ジャワ島に上陸してオランダ軍を降伏させます(1942年3月)。

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大東亜共栄圏構想図

 緒戦に勝利した日本は、開戦以来約半年で東南アジアのほぼ全域と西南太平洋の諸島を占領下に治め、「大東亜共栄圏」の建設を唱え、欧米諸国による植民地支配を打破して日本を中心とする共栄圏を東アジアに樹立することを謳った結果、占領地では当初日本軍を欧米諸国からの解放軍として迎えるところも在りました。
しかし、日本の占領政策の目的は資源の確保と軍隊の自活にあり、戦争遂行の為に占領地域の人々の独立の要求を無視して占領地域の資源と労働力を収奪した結果、各地で諸民族の反抗を招く事となります。

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大東亜会議

 日本は占領下のフィリピン・インドネシア・ビルマに親日政権を樹立させ、1943年11月に中華民国(汪兆銘政権)・満州国・タイ・フィリピン・ビルマの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示しようと努めました。

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ミッドウェー海戦・被弾炎上する空母加賀

 太平洋戦争の開始から約半年間は日本軍が優勢でしたが、1942年6月のミッドウェー海戦の敗北によって日本は制海・制空権を失い、以後敗退への道を辿る事になります。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年11月3日小倉南区若宮神社境内



2019/08/24

歴史を歩く214

44第二次世界大戦

2 ドイツの短期決戦の失敗と占領地支配(その2)

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モレニ油田(1920年代) ルーマニア中南部ドゥンボヴィツァ県・Wikipediaより

 1940年6月末、ドイツが西部戦線に全力をあげている間に、ソ連はルーマニアに侵略し、ベッサラビアを占領しますが、当時ドイツはルーマニアから大量の石油を輸入しており、石油の供給が滞れば、戦争遂行がきわめて困難となる為、ソ連のルーマニア侵略に危機感を抱いたドイツは、1940年10月、ルーマニアに侵入しました。

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クレタ島に降下するドイツ軍空挺部隊・在イギリス軍により重大な被害を受ける。墜落する機影はユンカースJu52/3mと推定・Wikipediaより

 1940年9月27日、ドイツは日独伊三国同盟を締結し三国の軍事面での提携を強化した上、同年11月にハンガリーとルーマニアを三国同盟に参加させ、更に翌1941年3月初頭にはブルガリアを三国同盟に加え、ドイツ軍はブルガリアに進駐しました。
又3月末にはユーゴスラヴィアも三国同盟に参加させますが、ユーゴスラヴィアで政変が起こり、ユーゴスラヴィアがいったん加入した三国同盟を脱退すると、ドイツは1941年4月にギリシアとユーゴスラヴィアに侵入し、これを制圧します。

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ナチス式の敬礼を行う占領地の少年団

 ドイツのバルカン作戦は1941年4月末迄に終了しますが、ドイツのバルカン進出は独ソ関係を緊張させ、ソ連はドイツのバルカン進出に備えて1941年4月13日に日ソ中立条約を締結します。
日ソ中立条約は、南方進出を図る為に北方の安全を確保したい日本と、ドイツのバルカン進出に備えて背後の安全の確保を図ろうとするソ連が、中立の維持と相互不可侵を約した条約で有効期間は5年でした。

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バルバロッサ作戦・侵攻するドイツ軍部隊

 1941年6月22日、ドイツは独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、突如ソ連に侵入を開始(バルバロッサ作戦)し、独ソ戦(独ソ戦争)が始まります。
ドイツは、ドイツ軍300万を主力にイタリア・フィンランド・ハンガリー・ルーマニアの各軍も動員し、強力な戦車部隊と航空機の援護のもとにソ連領に侵入しました。
(この情報は、事前に東京のゾルゲ諜報組織を通じて、モスクワに送られていましたが、スターリンは、ゾルゲを2重スパイとして疑っており、無視されていた)

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レニングラード包囲戦・索敵監視任務に付くソビエト軍女性兵士

 ドイツ軍は電撃戦によって快進撃を続け、レニングラードを包囲し、モスクワに迫り、ウクライナ地方を占領、10月初頭にはモスクワの西方約60kmに迄迫りますが、11月には猛烈な寒波が到来し、11月下旬からのモスクワ総攻撃はソ連軍の抵抗と冬将軍に阻まれ、遂に12月6日モスクワから退却を余儀なくされます。

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レニングラード解放

 独ソ戦が始まると、イギリスはソ連と相互援助条約を結び(1941年7月)、アメリカもイギリスと共にソ連に対して武器貸与等の援助を開始します。
アメリカは、既に1941年3月に武器貸与法(レンドリース法)を成立させ、イギリスに武器や軍需品の援助を行っていましたが、ソ連にも同様に適用し、これに対してソ連はアメリカ・イギリス等の連合国との協調を強める為に、1943年5月にはコミンテルンを解散しました。

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ソビエト軍に供与されたM4シャーマン戦車

 こうして第二次世界大戦は独ソ戦の開始以来、ファシズム諸国と反ファシズム諸国との戦い(ファシズム対民主主義の戦い)と成りました。
独ソ戦は冬にはいると寒気に手馴れたソ連軍の抵抗とその猛烈な寒さの為、遂にドイツ軍の進撃が止まり、ドイツが本来計画していた短期決戦は失敗に終わります。

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ドイツ軍により強制労働に従事する捕虜

 戦争の長期化と共にドイツは戦時経済を支え、更に戦時生産力を増強する種に占領諸地域の資源や労働力を収奪し、特に東方の占領諸地域から食料・原料・石油・鉱石・機械等を強制収容し、兵員の徴募の強化や軍需産業の拡大によって労働力不足が深刻になると、全占領地域で外国人労働者を強制連行し、強制労働に服させました。

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強制移住させるユダヤ系婦女子


 更にナチスの人種差別政策を占領地に於いても実行し、劣等人種としたユダヤ人やポーランド人を主とするスラヴ系住民に対して強制移住・強制収容所への収容・大量殺戮を行い、各地からアウシュヴィッツをはじめとする多くの強制収容所へ送られたユダヤ人は、労働に耐えうる強健な者は強制労働に服させ、そうでない者は抹殺されていきます。

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フランスのレジスタンス・襲撃を受けるドイツ軍車両

 こうしたドイツの占領政策に対する抵抗運動が各地でさまざまな形で起り、特にフランスのレジスタンスとティトーのパルチザンが有名です。
レジスタンスはファシズム支配に対する非合法抵抗運動を意味しますが、特にフランスでドイツ軍とヴィシー政権に対して行われた抵抗運動が最も有名で、1944年夏のフランス解放に大きな役割を果たしました。

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鉄道線路を爆破するパルチザン兵士

 又パルチザンは武器や装備の劣る不正規軍が行うゲリラ戦術で、正面決戦を避けて敵を消耗・疲弊させる為に奇襲や後方撹乱を行い、ユーゴスラヴィアのティトー(1892年~1980年)が行ったパルチザン闘争が最も有名です。
ティトーはユーゴスラヴィアがドイツに降伏した直後からパルチザン部隊を編成し(1941年6月)、ドイツ占領軍に対してパルチザン闘争を指導しました。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年8月18日小倉南区若宮神社境内


2019/07/27

歴史を歩く213

44第二次世界大戦

2ドイツの短期決戦の失敗と占領地支配(その1)

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ポーランド侵攻


 1939年9月1日、ドイツ軍はポーランド侵攻を開始し、9月3日にイギリス・フランスがドイツに宣戦、遂に第二次世界大戦が勃発しまた。
ドイツ軍は、1500機以上からなる空軍部隊と戦車・装甲車を主力とする150万の地上部隊を投入し、いわゆる電撃戦(航空機と機甲部隊による圧倒的な集中攻撃で短期間に敵を壊滅させる戦闘方式)によってわずか3週間でポーランド軍を壊滅させ、9月27日にはワルシャワを陥落させます。

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ポーランド侵攻・握手を交わすドイツ将校と赤軍将校

 この間、ソ連軍も1939年9月17日にポーランドへ侵入し、先に締結されていた独ソ不可侵条約の秘密議定書でソ連の勢力範囲と定められていたポーランドの東半分を占領します。
ドイツとソ連は、ワルシャワ陥落の翌日に独ソ友好条約に調印すると共にポーランド分割協定を締結し、これによってポーランドは再び地図から消滅します。

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リトアニアに於けるユダヤ人迫害

 ソ連は、1939年9月~10月にかけて、エストニア・ラトヴィア・リトアニアの3国に相互援助条約の締結を強要し、軍事基地の譲渡とソ連軍の進駐を認めさせ、翌1940年8月にはバルト3国を正式に併合しました。

 尚、独ソ不可侵条約(1939年8月)の秘密議定書では独ソによるポーランド分割とフィンランド・エストニア・ラトヴィア及びベッサラビアをソ連の勢力範囲とすることが認められていましたが、更に独ソ友好条約(1939年9月)によってリトアニアもソ連の勢力範囲に加える事が認められています。

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フィンランド陸軍のドイツ製Ⅲ号突撃砲(Sd.Kfz.142)

 ソ連はフィンランドに対してもカレリア地方等の領土割譲要求を突きつけ、フィンランドがこれを拒否すると、1939年11月にフィンランドに侵入し、ソ連・フィンランド戦争(1939年11月~40年3月)を引き起こし、フィンランドはイギリス・フランスの支援を受けて一時はソ連軍を撃退しますが、ソ連は大軍を投入してフィンランドを破り、カレリア地方等を割譲します。

 ソ連・フィンランド戦争が始まると、フィンランドはソ連を侵略国として国際連盟に提訴し、国際連盟は1939年12月にソ連を除名しますが、既に日・独・伊が国際連盟を脱退していた為、国際連盟から除名されたのはソ連だけでした。

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まやかし戦争・奇妙な戦争

 第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍は9月末迄にポーランドの西半分を占領しますが、その間西部戦線ではイギリス・フランス軍は攻勢に出ず、両軍は対峙したままで何ら軍事行動を起こさず、その為、このような状況は当時「奇妙な戦争・まやかし戦争」と呼ばれ一部にはクリスマス迄には、この戦争は終わるとの楽観論も流布していました。
ヒトラーは10月にイギリスに対して和平を呼びかけますが、チェンバレンはこれに応じず、1940年4月9日、ポーランド侵攻以来目立った軍事行動を起こしていなかったドイツ軍が、突如として行動を開始しました。

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デンマーク・オベンローのドイツ軍Ⅰ号戦車(Panzerkampfwagen I Ausf A)

 ドイツは同日、中立国のデンマークとノルウェーに対して最後通牒を突きつけ、ドイツ軍を進駐(ウェーザー演習酢酸)させ、最後通牒を受諾したデンマークを占領、受諾を拒否したノルウェーを攻撃してオスロを占領し、ノルウェーはロンドンに亡命政権を樹立して抗戦を続けましたが1940年6月に降伏します。

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ダンケルク撤退(ダイナモ作戦)

 ドイツ軍による西部戦線での大攻勢は、1940年5月10日、オランダ・ベルギーに対する奇襲攻撃で始まりオランダは5日間で降伏し、ベルギーも5月末に降伏しました。
この間、ドイツ軍はセダン付近でマジノ線を突破し、ドーヴァー海峡へ向けて進撃し、この結果ベルギー領内に進駐していたイギリス・フランス軍はダンケルク(ドーヴァー海峡に面したフランスの港市)へ退却し、30万以上の将兵がダンケルク(ダイナモ作戦)からイギリス本土へ退却した(1940年5月27日~6月4日)。
このダンケルク撤退は、軍用船舶以外に民間の商船、漁船、更にはスクーナー迄動員した撤退で、結果イギリス軍の膨大な軍需物資は、ドイツ軍に鹵獲される結果と成りました。

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凱旋門前を行進するドイツ占領軍

 1940年6月5日、ドイツ軍はソンム(パリの北方)で総攻撃を開始し、6月14日にはパリに入城、ドイツ軍が見せた破竹の進撃に刺激される様に、イタリアのムッソリーニは6月10日にドイツ側に立ってイギリス・フランスに宣戦を布告します。
フランス政府は、パリ陥落の3日前にパリからツールに移り、6月14日にはボルドーへ移動、2日後にレイノー内閣(1940年3月、ダラディエ内閣の総辞職後に成立)は総辞職し、ペタン(第一次世界大戦で活躍したフランスの国民的英雄)内閣が成立しますが、ペタン内閣は翌日ドイツに降伏し(1940年6月17日)、6月22日に休戦条約を締結します。

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ヒトラーと握手を交わすペタン(コラボラシオン: Collaboration・利敵協力)

 その結果、フランスの国土の約5分の3はドイツの軍事占領下におかれ、残りの地域はペタン政権の統治下に置かれる事となり、ペタンは国家元首の地位に就き、中部フランスのヴィシーを首都とする対ドイツ協力政権を樹立した結果、この政権は以後ヴィシー政府(1940年7月~44年8月)と呼ばれ、ヴィシー政府は第三共和国憲法を廃止した為、ヴィシー政府の成立によって第三共和政(1870年~1940年)は崩壊しました。

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シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴール(Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle、1890年11月22日 - 1970年11月9日)

 この間、シャルル・ド・ゴール(1890年~1970年)は、フランスの降伏と同時に、ロンドンで自由フランス政府の樹立を宣言し(1940年6月18日)、対ドイツ抗戦を呼びかけてレジスタンス(非合法抵抗運動)を指導しました。

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ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル( Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, 1874年11月30日 - 1965年1月24日)

 フランスの降伏によって西ヨーロッパでドイツの支配を免れたのは、中立国を除きイギリス一国となり、1940年4月にチェンバレン首相が辞職し、これまでチェンバレンの宥和政策を批判してきたチャーチルが首相の就任、チャーチル挙国連立内閣(1940年4月~45年7月)が成立しました。

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ロンドン大空襲(地下鉄駅に避難したロンドン市民)

 ヒトラーはイギリス本土上陸作戦を進めるには制空権を握ることが不可欠であるとし、1940年8月からイギリス本土に対する空襲を開始し、特に9月以降はロンドンをはじめとする(ロンドン大空襲)主要な工業都市に対する空襲を続け、激しい空襲は1ヶ月にわたって連日続けられました。
しかし、イギリスはチャーチルの指導のもとでこの激しい空襲に耐え抜き、ドイツ軍のイギリス本土上陸を阻止したのです。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成27年8月22日小倉南区南っ子通り重住交差点
2019/07/13

歴史を歩く212

44第二次世界大戦

1 ナチスの侵略と開戦

オーストリア併合
オーストリア併合・首都ウィーン市内を視察するヒトラー・車両はダイムラー・ベンツG4 

 再軍備宣言(1935年3月)・ラインラント進駐(1936年3月)を強行したヒトラーは、1937年11月に外相・国防相・陸海空軍の総司令官等の秘密会議でオーストリアとチェコスロヴァキアを武力で併合する決意を表明しました。

 オーストリアでは、既に1934年7月にオーストリア・ナチス党員が政権獲得を企てて首相を暗殺する出来事が起こっていたのですが、この計画は失敗に終わり、以後ドイツから資金を得たオーストリア・ナチスによるテロが続いた結果、オーストリア政府はナチスの取締りを強化していました。
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クルト・アロイス・ヨーゼフ・ヨハン・エドラー・シュシュニック( Kurt Alois Josef Johann Edler Schuschnigg、1897年12月14日 - 1977年11月18日)

 ヒトラーは、1938年2月12日にオーストリア首相シュシュニックをドイツ、ベルヒテスガーデンに呼びよせ、軍事占領で脅しつつ、内相の地位をオーストリア・ナチス党員アルトゥル・ザイス・インクヴァルトに与える事、投獄中のオーストリア・ナチス党員を釈放する事等の要求をつきつけ、これに署名させます。
ドイツより帰国したシュシュニック首相が3月9日に国民投票を発表すると、ヒトラーは11日に国民投票の中止等を要求する最後通牒を突きつけオーストリア併合作戦「オットー計画」を発動しました。

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ナチス党旗を振りナチス式敬礼でドイツ軍を迎えるオーストリア国民

 3月12日未明、ドイツ軍はオーストリアの新首相インクヴァルト(オーストリア・ナチス党員)の要請に応ずるという形でオーストリアに進撃し、3月13日にオーストリア首相はドイツとの合併を宣言、翌14日、ヒトラーはウィーンに入いります。
こうしてオーストリアを併合したヒトラーは次の目標をチェコスロヴァキアに向けたのでした。
チェコスロヴァキア北西部、チェコとドイツの国境地帯はズデーテン地方と呼ばれ、多くのドイツ系住民が居住しており、1938年9月、ヒトラーはズデーテン地方のドイツ系住民が迫害を受けているとして、ズデーテン地方のドイツ人の民族自決権を援助するとの演説を行いました。
3日後にヒトラーと会見したイギリス首相ネヴィル・チェンバレン(1869年~1940年、在任1937年~40年、保守党、ジョゼフ・チェンバレンの次男)は、「世界戦争も辞さない」というヒトラーに屈し、フランスと共にチェコに圧力をかけズデーテン地方の割譲に同意させます。

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ミュンヘン空港・チェンバレン首相とエドワード・ウッド外務大臣、出迎えるリッペントロップ外相
(機体はロッキードL14エレクトラ)


 しかし、ヒトラーはズデーテン地方の即時割譲を要求し、チェコ政府が総動員令を発した結果、戦争の危機が迫りました。
ヨーロッパの平和を維持する為に是が非でも戦争を避けたいと考えていたチェンバレンは、ムッソリーニに調停を依頼し、国際会議の開催に成功します。

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ミュンヘン会談・チェンバレン・ダラディエ・ヒトラー・ムッソリーニ・チアノイタリア外相

 1938年9月29日、ズデーテン問題に関する英・仏・独・伊の4カ国首脳会議がミュンヘンで開かれ、このミュンヘン会議では、開戦で恫喝しつつズデーテン地方の即時割譲を求めるヒトラーに対して、イギリスのネヴィル・チェンバレンとこれに追随するフランスのダラディエ(1884年~1970年、在任1833年、34年、38年~40年)は宥和政策を選択し、ヒトラーからもうこれ以上の領土要求はしないとする約束を得て、ズデーテン地方の即時割譲を認めるミュンヘン協定に調印し、10月1日、ドイツ軍はズデーテンに進駐します。

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ミュンヘン会談から帰国し、協定について説明するチェンバレン首相

 宥和政策とは、第二次世界大戦前にイギリス・フランスがナチス・ドイツに対してとった妥協政策で、ナチス・ドイツが反共産主義を唱えている為、その侵略の矛先はソ連に向けられると考え、出来るだけナチス・ドイツとの対決を避け、その要求を受け入れる政策を採ったものです。
先のイタリアによるエチオピア侵攻(1935年~36年)に対して英・仏が見せた態度やスペイン内戦(1936年~39年)に対して英・仏が採った不干渉政策も宥和政策の現れですが、このミュンヘン会談でイギリスが採った政策が宥和政策の典型でした。

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ズデーテンランド併合により国境標識を破壊するドイツ系住民

 ミュンヘン会談には、当事国のチェコスロヴァキアや隣接国のソ連は招かれず、この為ソ連はイギリス・フランスがチェコスロヴァキアを犠牲にしてドイツの攻撃をソ連に向けさせようとしていると考え、イギリス・フランスに対して不信感を強めて行きました。
ミュンヘン会談によって戦争の危機は一時には回避されましたが、イギリス・フランスが見せた宥和政策はヒトラーをますます増長させる結果と成りました。

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進駐するドイツ軍を迎えるズデーテンラントの住民。1938年10月5日

 1939年3月15日、ヒトラーはミュンヘン協定を破棄してチェコスロヴァキアを解体、西半分のベーメン(ボヘミア)とメーレン(モラヴィア)を占領して保護領とし、翌日には東半分のスロヴァキアを保護国にする事によって第一次世界大戦後に独立したチェコスロヴァキアは崩壊しました。
チェコスロヴァキアを手中に収めたヒトラーは、次の目標をポーランドに向け、1939年3月21日にポーランドに対してダンチヒ(ヴェルサイユ条約によって国際連盟管理下の自由都市とされていた)の返還とポーランド回廊(ヴェルサイユ条約で海への出口としてポーランドに与えられたドイツ本国と東プロイセンとの間の旧ドイツ領地帯)を通過する鉄道や道路の敷設権を要求しました。

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現ポーランド・グダニスク(旧ダンチヒ)

 先のチェコスロヴァキア解体に衝撃を受けていたチェンバレンは、このヒトラーの要求を見て、ようやく宥和政策を捨て、3月末にフランスと共にポーランドに対する援助を確約し、ポーランドもドイツの要求を拒否しました。
これに対してヒトラーは4月初めに、ポーランド攻撃の準備を9月1日迄に完了することを命じ、4月末にはポーランドとの不可侵条約と英独海軍協定を破棄し、この間ムッソリーニはアルバニアを併合し(1939年4月)、ドイツと軍事同盟条約を締結します(1939年5月)。

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リペントロップ・ドイツ外相とスターリン

 一方、イギリスとフランスは4月中頃からソ連と軍事同盟締結の交渉行っていましたが、両者は相互に不信感を抱いていた為に、英・仏・ソ連の交渉は遅々として進まず、この時イギリス・フランスの真の目的はドイツを東方に向けさせてソ連と敵対させる事にあると考えたスターリンは、ソ連が東アジアでも日本と敵対しており(1939年5月~9月、満州西部国境で日ソ両国軍が衝突するノモンハン事件が起きていた)、イギリス・フランスとの交渉が進まない以上、ドイツと提携した方が得策と考えます。

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ノモンハン事件でソビエト軍に鹵獲された九五式小型乗用車(くろがね四起)

 ポーランド問題でイギリス・フランスと対立する様になったヒトラーも、ソ連と提携して背後を固めた方が得策と考え、対ソ接近を図り、その結果、ドイツとソ連は、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結、このファシズムと共産主義両国の提携は全世界に衝撃を与え、翌々日の25日にはイギリスとフランスはポーランドと相互援助条約を締結します。

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ポーランド侵攻・1939年9月、ドイツ軍1号戦車(手前)と2号戦車(奥2両I、右後方のハーフトラックはSd Kfz 251と推定

 1939年9月1日早朝、ナチス・ドイツは宣戦の予告もなしにポーランド攻撃を開始、9月3日、イギリスはフランスと共にドイツに宣戦し、遂に第二次世界大戦(1939年9月~45年8月)が勃発しました。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成30年7月18日 北九州市小倉南区若宮神社境内