2017/05/17

歴史を歩く159

36東アジアの激動⑥

5日本の変革

perry1_convert_20170523204526.jpg
マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794年4月10日 – 1858年3月4日)

 1853年7月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリー(1794年~1858年)が4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本に開国を迫りました。

Визит_Перри_в_1854_году_convert_20170523204715
黒船来航

 江戸幕府は、開国か攘夷かをめぐる激しい対立の中で、翌1854年に日米和親条約を結び、下田・箱館2港の開港や最恵国待遇の供与等を認め、 更に1858年の日米修好通商条約では箱館の他に神奈川・兵庫・新潟・長崎の開港、領事裁判権の承認、自由貿易の原則の確立、関税自主権の放棄等を認めた不平等条約に調印し、又オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の修好通商条約を結んで開国を断行します。

MeijiJoukyou_convert_20170523205026.jpg
大政奉還

 これに対して尊皇攘夷運動や討幕運動がおこるなかで大政奉還が行われ、1868年の明治維新となり、天皇中心の明治新政府が樹立されます。
明治政府は政治・経済・軍事・教育等あらゆる分野の改革を実施して富国強兵を図り、西欧化による近代化を進め、対外的には欧米列強に対しては和親策を取ますが、近隣のアジア諸国に対しては強硬な態度を見せています。

80420115f574b23e945153d79aa8c672_convert_20170523205312.jpg
江華島事件

 1874年には、琉球の漁民が台湾に漂着し、台湾の原住民に殺されたことを口実に台湾に出兵し、1879年には沖縄県を設置して琉球を併合、翌1875年には江華島事件を機に朝鮮に迫って日朝修好条規を結んで朝鮮を開国させました。

kenpou_convert_20170523205659.gif
大日本帝国憲法発布

 又北方ではロシアとの間に1875年に樺太・千島交換条約を結び、全樺太をロシア領・千島全島を日本領とします。

 この間、国内では自由民権運動が起こるとこれを抑える一方で、1881年の国会開設の詔によって1890年迄に国会を開設することを約束し、 1889年にドイツ帝国憲法を手本にした大日本帝国憲法を発布し、翌1890年に国会を開設しました。

6朝鮮の開国

20120120143514.gif

 李氏朝鮮(1392年~1910年)は、16世紀末に豊臣秀吉の侵入(壬辰・丁酉の倭乱)によって国土が荒廃し、更に17世紀前半には清の侵入を受けてその属国と成りました(1637年)。
この間、党争は更に激化しましたが、18世紀の英祖(在位1724年~76年)・正祖(在位1777年~1800年)は党争を抑えることに努めた結果、党争は下火になりました。

0 0 1
洪景来の乱

 しかし、19世紀に入ると純祖・憲宗・哲宗(在位1849~63年)と年少の王が続き、実際の政治は外戚によって行われ、いわゆる勢道政治です。
こうした状況の中で没落官人の洪景来(1784年)は、政権から閉め出されて不満を持つ下級官僚と結び、窮乏した農民・流民・都市の貧民等を指導して反乱を起こします(洪景来の乱、1811年~12年)。農民軍が敗れる中で洪景来は戦死し、反乱は半年で鎮圧されましたが、李朝の官僚支配体制をゆるがす反乱となりました。

大院君_convert_20170523215348
興宣大院君(1820年12月21日(時憲暦嘉慶25年11月16日) - 1898年2月22日(時憲暦光武2年2月2日)

 1863年、哲宗が急死し、彼には嗣子が居なかった為、王族の中から12歳の少年が選ばれて李朝第26代高宗(在位1863年~1907年)として即位し、実父の大院君(1820年~98年)が摂政となって以後10年間にわたって実権を握ります。
大院君は内政改革を推し進めると共に、キリスト教を弾圧し、フランス・アメリカの艦隊を撃退し、又明治政府からの国書の受け取りを拒否する等鎖国攘夷策を推進しました。

e0040579_135897_convert_20170523215903.jpg
閔妃(1851年10月19日 - 1895年10月8日)

 しかし、大院君は1773年に、権力欲が強く野心家であった閔妃(びんひ、高宗の妃、1851年~95年)とその一族によって国王親政の名目で引退させられ、以後閔妃自等が実権を握り、一族と共に政治を専断しました。Unyogunboat.jpg
雲揚 (砲艦)

 こうした状況の中で、1875年9月に江華島事件が起こります。
明治政府は、朝鮮の内紛に乗じて武力による威嚇をもって朝鮮に開国を迫ることを決定し、軍艦雲揚を釜山に派遣して示威を行わせます(1875年5月)。
1875年9月には再び軍艦雲揚を派遣し、雲揚は朝鮮西海岸を北上して江華島に達し、雲揚から降ろされたボートが江華島に接近したときに江華島の砲台から砲撃を受け、これに雲揚が応戦して江華島の砲台を破壊し、水兵を上陸させて民家や官衙を焼き払い、朝鮮兵30数名を戦死させました。
これが江華島事件です。

GanghwaTreaty_convert_20170523220818.jpg
日朝修好条規(江華条約)調印

 雲揚が朝鮮の許可なく領海を侵犯し、江華島の砲台を挑発して発砲させたことは明らかでしたが、明治政府は江華島事件を口実として朝鮮を武力で脅し、1876年2月に日朝修好条規(江華条約)を締結しました。
その主な内容は、朝鮮の自主独立、釜山・仁川・元山の開港、日本公使館・領事館の設置、日本人の領事裁判権を認める事等です。

 日本は欧米列強から押しつけられた不平等条約を朝鮮に強制し、朝鮮を開国させ、第1条に「朝鮮は自主の邦にして日本国と同等の権を保有せり」とありますが、この条文は朝鮮が清国の属国でないことを明らかにし、清国との宗属関係を否定し、将来日本が朝鮮を属邦とするための布石でした。

33fde220_convert_20170523221303.jpg
守旧派と開化派

 この時期の朝鮮では、守旧派と開化派との対立が強まっており、閔氏一族は当初開化的立場を取、軍制改革に着手し、日本から軍事顧問を招いて両班の子弟を中心に近代的な軍隊を創設、日本式の訓練を行いました。
これに対して旧軍隊の間には新式軍隊との差別待遇に対する反発が強まりました。

 当時、財政難に陥っていた李朝では軍隊への給与(米で支給)が遅配しており、やっと支給された1ヶ月分の米に砂やぬかが混じっていた事を発端に旧軍隊兵士の不満が爆発しました(1882年7月)。
この旧軍隊の暴動は、武器庫を襲って武装した旧軍隊の兵士に一般の貧民も加わり、大院君の煽動も加わって政府及び日本人に対する暴動に発展しました。
彼等は閔氏派要人や日本人を殺害し、日本大使館を焼き打ちし、大院君を擁立し、大院君は再び摂政の座について政権を掌握します。

Imogullan1_convert_20170523221631.jpg
壬午政変(壬午軍乱)日本公使館襲撃

 日本と清国は直ちに出兵し、特に大軍を送り込んだ清軍は大院君を捕らえて保定(北京南西の都市)へ送って監禁し、閔氏政権が復活しました。
これが壬午政変(壬午軍乱)で、この壬午政変によって清の朝鮮支配が強化され、日本勢力は朝鮮から後退せざるを得ませんでした。

 壬午政変後、閔氏は清国に依存して政権の維持を図り、この閔氏を中心とする守旧派は事大党と呼ばれて、これに対して日本は金玉均等の独立党(開化派)との結びつきを強めて行きました。

Kim_Ok-gyun.gif
金 玉均(김옥균、1851年2月23日 - 1894年3月28日)
 
 金玉均(1851年~94年)は、科挙試験文科に主席合格して官界に入り(1872年)、1881年には日本使節団に加わり、又翌1882年には壬午政変の謝罪の為に派遣された修信使節団員として来日しました。
彼は日本の目覚しい近代化・発展に強い刺激を受け、日本と結んで朝鮮の近代化と国政改革を図る事を考え、朴泳孝(1861年~1939年)等同士と共に独立党(開化派)を組織しました。

chshnp_convert_20170523222900.jpg
甲申政変

 しかし、独立党は、壬午政変後清国と結んだ閔氏一族の事大党政権の圧迫を受けて次第に劣勢に陥り、金玉均はクーデターによる政権奪取を決意し、清仏戦争での清の敗戦に乗じて日本の武力を借りてクーデターを起こし、事大党政権を倒して政権を奪取します。
それもつかの間、独立党の新政権は清軍の介入によって僅か3日で転覆し、金玉均は朴泳孝らとともに日本に亡命します。
これが甲申政変(甲申事変、1884年12月)です。

Mudred_of_Kim_Ok-kyun.jpg
洪鐘宇に殺害される金玉均

 日本に亡命した金玉均は日本政府によって小笠原・北海道へ移送され、最後は刺客に上海に誘い出されて暗殺されました。
1885年4月、甲申事変の処理に関する天津条約(日清天津条約)が結ばれ、日清両国は即時漢城(ソウル)から撤兵すること、将来朝鮮に出兵する場合は相互に通告すること等を約束しました。

ジョークは如何?

金正男が日本で捕まった。報告をうけて、金正日は言った。
「どの正男だ?」

※補足
影武者が多い

続く・・・

スポンサーサイト
2017/05/07

歴史を歩く158

36東アジアの激動⑤

4洋務運動の進展

 アヘン戦争・アロー戦争・太平天国の乱等によって西洋の軍事技術が優れている事を認めた清朝は、1860年頃から西洋の軍事技術等の導入による富国強兵運動を進め、これを洋務運動と呼びます。

天津フランス領事館_convert_20170512210946
天津フランス領事館


 北京条約(1860年)によって外国公使が北京に駐在することになり、清朝は1861年に総理各国事務衙門(総理衙門、そうりがもん)を設けて外交事務の処理機関とすると共に、ヨーロッパ文化の摂取に努めました。
洋務運動を推進したのは、太平天国の鎮圧に活躍した曾国藩・李鴻章・左宗棠等の漢人官僚でした。

曾国藩_convert_20170512211820
曽 国藩(嘉慶16年10月11日(1811年11月26日) - 同治11年2月4日(1872年3月12日))

 曾国藩(1811年~72年)は、郷里である湖南省で湘軍を組織して太平天国鎮圧の中心となり、天京(南京)を攻略して太平天国を滅ぼし、その功によって両江総督・直隷(河北省の旧名)総督・内閣大学士を歴任し、文官出身の漢人としては初めて侯爵を授けられ、直隷総督に任じられました。
彼は漢人官僚台頭の先駆けとなり、洋務運動の中心人物として活躍しました。

527b9cb6a8ed55332fd83c111154bf15_convert_20170512212400.jpg
李 鴻章(道光3年1月5日(1823年2月15日) - 光緒27年9月27日(1901年11月7日))

 李鴻章(1823年~1901年)は安徽省出身、進士に合格しますが(1847年)太平天国の乱が起こると郷里で義勇軍を組織して戦い、曾国藩の幕僚となり(1858年)、後に彼の推薦で江蘇巡撫となり、淮軍を組織して(1862年)太平天国討伐に活躍し、以後両江総督・直隷総督・内閣大学士を努め、清末の最高実力者として内政・外交に活躍しました。
この間、洋務運動の中心人物として軍隊の近代化・軍事工業の育成・近代工業の育成・鉱山の開発・鉄道建設等の富国強兵策を推進しました。

ddb0008e687e4596a74_convert_20170512212802.jpg
左宗棠

 左宗棠(さそうとう、1812年~85年)は湖南省出身、科挙の最終試験(殿試)に3度失敗して帰郷し、太平天国軍が湖南に入ると曾国藩の軍に加わって討伐に従事し、軍功をあげて総督となり、福州に造船所を建設して軍隊の近代化に努める等洋務運動を推進しました。

800px-清_佚名_《清穆宗同治皇帝朝服像》_convert_20170512213601
同治帝(清第10代皇帝(在位:1861年 - 1875年))

 当時の同治帝(在位1861年~75年)の治世は、太平天国の乱が鎮圧され、清朝の内政・外交が一時的に安定を取り戻した時期であったので「同治の中興」と呼ばれ、洋務運動が推進された時期でもありました。

F201106101713571721378953_convert_20170512214158.jpg
洋務運動によって編成された西洋式軍隊


 洋務運動の推進者達は「中体西用」をスローガンとしました。
中体西用とは、中国の伝統や学問を本体とし、西洋の科学や技術を応用するという意味で、この様に洋務運動の推進者達は、中国は軍事技術等の面では劣っているが、政治や社会体制の面では中国の方が優れていると考えており、彼等が推進した洋務運動の目的は清朝の支配体制の維持・強化にあったので、ヨーロッパ文化の摂取は単なる技術の導入に偏り、政治体制の変革には至らず、真の富国強兵を達成することが出来なかったのです。

 洋務運動とほぼ同じ頃に行われた日本の明治維新は、徹底した西欧化による近代化を推し進めたので、その差が以後の日本と中国の明暗を分けたと云われており、不徹底に終わった洋務運動の欠陥が清仏戦争(1884年~85年)や日清戦争(1894年~95年)の敗戦によって明らかになると、清朝でも日清戦争の敗北後政治体制の変革をめざす変法運動が起こる事になります。

ジョークは如何?

ある男が赤の広場で、「スターリンの大馬鹿野郎!」と叫んでいた。
さっそく秘密警察に逮捕され、強制収容所送りになる。刑期は二十五年。
その内訳は…国家元首侮辱罪で五年。国家機密漏洩罪で二十年。

続く・・・




2017/05/07

歴史を歩く157

36東アジアの激動④

3太平天国の興亡

bstp027_convert_20170508212526.jpg
太平天国の乱100週年切手・中華人民共和国郵政

 清がアヘン戦争(1840年~42年)・アロー戦争(1856年~60年)の対外的な問題に直面している時期、国内では太平天国の乱(1851年~64年)が発生します。

 アヘン戦争による多額の戦費と賠償金の支払いは、銀価の高騰をまねき、又重税となって農民の生活を圧迫し、その上水害・干害・蝗害等の天災が相次ぎ、多くの窮乏化した農民は流民となり、全国に貧民・流民・失業者があふれ、各地で暴動や反乱が相次ぎますが、アヘン戦争の影響が大きかった広東・広西省では太平天国の乱(1851年~64年)が勃発します。

imgab0580e3zikfzj_convert_20170508212934.jpeg
洪秀全

 太平天国の指導者洪秀全(1813年~64年)は、広東省花県の客家出身でした。
客家(ハッカ)とは部外者の意味で、広東・広西・江西・福建等の山間僻地に住んだ移住民を指す言葉です。
彼等は、外部から移住してきた人達で、元から住んでいた住民から差別され、多くは小作・炭焼き・木こり・鉱山労働・運輸労働等に従事していました。

 洪秀全の家は中農で、彼は幼少の頃から聡明で、7歳頃から塾で学び、村の塾の教師となって科挙の受験勉強に励みますが、30歳過ぎ迄に地方試験を4回挑戦しますがいずれも失敗しています。
洪秀全は3回目の試験に失敗した時に心痛の余り高熱を発し、40日間寝込むのですが、その時病床で夢を見ました。
その夢の中に一人の老人が現れ、彼に一振りの剣を与えて「悪魔を根滅せよ」と命じ、この夢を見たあと病気は治り、再び受験勉強に励み4回目の受験をしてまた落第します。

kanzeryougen-200x300.jpg
勧世良言

 失意の中、彼は偶然に2回目の受験の時に広州の路上でもらった「勧世良言」と云うパンフレットを読み、そこに書かれている内容が病床で見た夢とよく似ていることに驚き、その本を何度も読み返しました。
「勧世良言」はプロテスタントの伝道書でした。

m287.jpg
太平天国における礼拝

 洪秀全は、夢の中に現れた老人はヤハウェ(エホバ)であり、ヤハウェはこの世で苦しむ人を救う為に自分を遣わしたと信ずるようになり、自分はヤハウェの子であり、イエス・キリストの弟であると称し、そして同郷の馮雲山等と上帝会(拝上帝会)と名づけたキリスト教的結社を組織して布教を始めます(1844年以降)。
ここで上帝とはヤハウェを意味しています。

m302.jpg
太平天国の伝道教育

 洪秀全等は、上帝を信仰すれば地上の天国で生き、死ねば天国へ昇ることができると説き、地上の天国は、総ての者が均等に分け与えられるので貧富の差のない世であると説いて、太平天国と呼んだのでした。
上帝会は、広西省を中心に布教し、貧農や鉱山労働者・炭焼き人夫等貧しい人々(多くは客家であった)の間に多くの信者を獲得し、この間、後の太平天国の幹部となる楊秀清(炭焼き)・蕭朝貴(貧農)・韋昌輝(地主)・石達開(地主)等が上帝会に入会していますが、彼等も客家出身でした。

m290.jpg
上帝会信徒が集合した金田村

 洪秀全は、上帝会信徒に広西省金田村に集合するようにという指令を発し(1850年7月頃)、約1万人が金田村に集まりました。
1851年1月、洪秀全は広西省金田村で太平天国の起義を宣言し、国号を太平天国と号し、彼自身は天王と称しました。
太平天国軍は、北に向かって進撃し、永安・桂林・全州を経て湖南省の長沙を包囲したが陥れることが出来ず囲みを解いて北に向かい、益陽で民船千数百艘を得て、その後水路を進み、岳州で多量の武器弾薬を手に入れ、1853年1月にはついに武昌を占領します。

kousyuuzen_small_gyokuza_convert_20170508214055.jpg
金田起義

 太平天国軍が湖南省へ進出した頃から貧農や流民が大挙参加し、太平天国軍の兵力は急激に膨張して約50万の大軍となり、太平天国軍は水陸両軍に分かれて長江を下り、1853年3月には終に南京を占領し、天京と改称して都と定めます。

kousyuuzen_enter_nankin_convert_20170508214344.gif
南京に入城する太平軍

 太平天国軍の最盛期(1854年~55年頃)の兵力は約300万(老弱男女すべてを含めた数)と云われており、太平天国軍がこのように急激に増加した最大の理由は「太平天国に行けば食える」と云う事が最大の理由で、太平天国内では総ての者が均等に分け与えられたと云う事も多くの人々を引きつけた大きな理由でした。

 太平天国が挙兵から2年余りで南京を攻略できたのは、「軍隊よりは盗賊の方がまし」と云われた様に清の正規軍の腐敗が甚だしかったのに対し、太平天国軍は規律が厳格で、殺人・放火・暴行・略奪等は一切行わず、役人・地主・富豪を襲って租税や田地に関する文書や借金証書を焼き捨てたものの農民には決して手出しをしなかったので民衆の支持を得ることが出来たからでした。
当時の書物には「太平天国軍がやってくれば争って迎え、官軍がやってくればこれを避けて門を閉じた」と書かれています。

taihei_heisi_kami_convert_20170508214625.gif
長髪と弁髪

 太平天国は、早くから「滅満興漢」(満州人の王朝である清を滅ぼして漢民族の国家を興すの意味)と云う民族主義的なスローガンを掲げ、清朝が強制した満州人の風習である弁髪を廃止して長髪としたので、太平天国の乱は長髪族の乱とも呼ばれました。
太平天国が理想とした平等主義を最もよく示している事柄が南京占領直後(1853年3月)に発布した「天朝田畝制度」と呼ばれる土地制度で、土地を男女の別なく均等に配分し、余剰生産物はすべて国庫に納入させる方法ですが、実施には至りませんでした。

tentyoudenposeido_convert_20170508215504.gif
天朝田畝制度

 又アヘンの吸飲の禁止・纏足(中国では小足が美人の条件とされていたので、良家の子女の足指を4・5歳頃から足裏の方に曲げて布を堅く巻いて縛り、足の成長を妨げて小さくした風習で五代(907~960)頃に始まったとされている)の禁止等悪習の撤廃・男女の平等と身分制の廃止・租税の軽減等をスローガンに掲げて民衆の支持を得ました。

kousyuuzen_picture_convert_20170508215007.jpg
太平天国軍高官と兵士

 太平天国は、間も無く清朝の打倒を目指して北伐軍を起こし(1853年5月)、10月には天津に迫りましたが陥れることが出来ず、その後も2年間にわたって戦いを続けましたが、蒙古騎兵の攻撃を受けて壊滅します(1855年)。
北伐と同時に西征の軍を進めましたが、これは曾国藩の湘軍との長い戦いの始まりとなりました。

tyuuou_kaigi_convert_20170508215328.jpg
忠王府

 この様な状況の中で、天京では太平天国内部で権力争いが起こります。
太平天国の幹部は洪秀全・馮雲山・楊秀清・蕭朝貴・韋昌輝・石達開等でしたが、馮雲山と蕭朝貴はすでに戦死しており(1852年)、その後、楊秀清の権力が強まり彼の横暴に対する反感が強まってくると、洪秀全に支持された韋昌輝が楊秀清とその一族を虐殺しますが(1856)、その韋昌輝も洪秀全に殺され(1856年)、石達開はこうした内紛を嫌って、太平天国を離脱し、長江中流域を転戦した後に四川で清軍に捕えられて処刑されています(1863年)。

 以後、洪秀全は凡庸な一族の者を登用した結果、太平天国は内部から腐敗が始まり、又天朝田畝制度等理想として掲げた政策も実施されなかった為、太平天国は次第に内外の支持を失って行きました。
清の正規軍(八旗や緑営)が弱体化すると、地方の地主や富豪達は自分達の生命や財産を守る為に自分で兵を集めて軍隊を組織します。

syougun_convert_20170508215832.jpg
湘軍

 清末に、正規軍の不足を補うために地方官や郷紳(科挙に合格しても官吏とならず、郷里に住んだ地方の有力者、多くは地主であった)が募集した臨時の義勇軍は郷勇と呼ばれ、なかでも曾国藩(1811年~72年)が1853年に郷里の湖南省湘郷県で組織した湘軍や李鴻章(1823年~1901年)が曾国藩の命を受けて1862年に安徽省で組織した淮軍は特に有力で、太平天国討伐の主力となり、正規軍以上に戦果を上げる事になります。

e_attack_tenkyou_convert_20170508220031.gif
天京を攻撃するイギリス艦隊

 イギリス等各国は太平天国がキリスト教を奉じているので初めは中立の立場をとっていましたが、太平天国がアヘン貿易や不平等条約を認めないことが判ると、北京条約(1860年)で英仏の要求をそのまま受け入れた清朝が存続した方が有利であると考えて、太平天国鎮圧に協力する様になります。

ward_battle_convert_20170508220159.jpg
戦闘指揮を執るウォード

 アメリカ人のウォード(1831年~62年)は太平天国軍が上海に迫ると(1860年8月)、上海商人の要請によって200人の外人部隊を編成して太平天国軍を撃退し、翌年この部隊を解散して外国人将校の下に中国人傭兵を集めた軍を編成して上海周辺の防衛に活躍し、「常勝軍」の名称を得ています。

gordon_convert_20170508220351.jpg
清朝官吏の衣装を纏うゴードン

 ウォードの戦死後、イギリス人ゴードン(1833年~85年)が指揮官となり(1863年)、3000人の部隊を率いて江蘇省各地を転戦して太平天国鎮圧に大きな役割を果たしました。

taihei_qing_battle_jiansi_convert_20170508221312.jpg
太平軍と清国軍の戦闘
 
李鴻章の淮軍と常勝軍は江蘇省・浙江省の太平天国の占領地を次々に奪回して東から天京に迫り、曾国藩の湘軍は西から天京に迫り、太平天国では李秀成(1823年~64年)が奮戦しましたが、1864年3月、湘軍によって天京(南京)は包囲され、洪秀全は毒を仰いで自殺し(1864年6月)、1864年7月、終に天京(南京)が陥落して太平天国(1851年~64年)は滅亡しました。

 太平天国運動は近代中国に於ける民族運動の先駆となり、その後の中国の民族運動に大きな影響を及ぼし、又これによって清朝の権威は失墜し、太平天国の鎮圧に活躍した漢人官僚が台頭するきっかけと成りました。

ジョークは如何?

とある国の君主が戦争に臨んで:
国王「将軍、今度の戦はことのほか厳しそうだ。何か良い策はあるのか?」
将軍「難しゅう御座います。勝敗は時の運で御座いましょう」
国王「それでは困る!何とか必勝の策は出ないのか?」
将軍「左様、2つ御座います。一つは、王が私めの采配に口を差し挟まないこと。
もう一つは、敵将の采配に王が口を差し挟むこと」

続く・・・
2017/04/24

歴史を歩く156

36東アジアの激動③

2アロー戦争とロシア

南京条約開港_convert_20170428152654
南京条約によって開港した5港

 イギリスは、アヘン戦争後の南京条約による五港の開港・公行の廃止によって、対中国貿易が飛躍的に増大することを期待しましたが、戦後もイギリス製品の輸出は増えず期待したほどの利益はあがりませんでした。

 イギリスは、貿易不振の原因が、開港場が南に片寄っていて首都北京の近くに存在せず、又広州では領事の駐在や居留地設置が延期されるなど、中国側に条約違反や不履行が多いことにあると考え、条約の改定や市場の一層の拡大を求めましたが清朝は応じず、そのためイギリスは清朝に再び打撃を与えてより有利な条約を結ぶ機会を窺っていました。

Chinese_officers_tear_down_the_British_flag_on_the_arrow_convert_20170428152858.jpg
イギリス国旗を降ろす清国官憲

 その時偶然アロー号事件が発生します。
1856年10月、イギリス船籍に属し、船長がイギリス人で中国人が所有する小型帆船アロー号が、広州港外に停泊中に海賊容疑で清朝官憲の臨検を受け、中国人乗組員12人が逮捕される事件が発生し、後にこれがアロー号事件呼ばれます。

 イギリスは、清朝官憲がイギリス船籍のアロー号に対してイギリス船長不在中に臨検を行い、イギリスに無断で乗組員を逮捕し、しかもその際イギリス国旗が引き下ろされて侮辱されたとして乗組員の釈放と謝罪・賠償を要求しました。
これに対して清朝は、アロー号は中国人所有の船で船長を除いて乗組員全員が中国人であること、アロー号は事実上中国の海賊船であること、又イギリス国旗は掲げられてなかったとしてイギリスの要求を拒絶します。

 イギリスは、このアロー号事件を絶好の機会と捉え、広西省で宣教師が殺害され清に抗議していたフランスのナポレオン3世も共同で出兵し、アロー戦争(1856年~60年)を引き起こし、アロー戦争は第2次アヘン戦争とも呼ばれています。

OpiumWars_convert_20170428153558.jpg
大沽砲台を攻撃するイギリス軍の67歩兵隊

 イギリス軍は1856年10月に広州を攻撃しますが、広州の住民の抵抗にあって虎門に退き本国からの援助を待ちます。
イギリスはシパーヒー(セポイ)の反乱のために派兵が遅れ、英仏連合軍が広州の攻撃を開始したのは、ようやく1857年12月になってからの事でした。
英仏連合軍は広州を占領して略奪・暴行の限りを尽くし、翌1858年英仏連合艦隊は北上し、4月には天津に迫ります。

3cf0bd89ab63ab98cc41f855574dfd2d8be2d8fc151ddc9fec60d588a4219b20_convert_20170428153806.jpg
天津条約批准

 対外的にはアロー戦争(1856年~60年)、国内では太平天国の乱(1851年~64年)という内憂外患に苦しんでいた清朝はやむを得ず1858年6月に英仏両国と天津条約を結びます。
天津条約の主な内容は、
1) 外国公使の北京駐在
2) キリスト教の布教の自由
3) 漢口など10港の開港
4) 外国人の中国内地での旅行の自由
5) 英仏への計600万両の賠償金の支払い
以上を清が認めるというものであり、天津条約は1年後に批准されることになっていました。

 1859年6月、批准書交換のために英仏連合艦隊16隻が天津沖に姿を現し、英仏艦隊は白河を遡って天津へ進もうとしますが、白河河口には障礙物が施されており、障礙物の除去作業を行っているイギリス艦隊が清軍の砲台から攻撃を受け、イギリス艦隊は惨敗して上海へ退きます。

100329enmeien01_convert_20170428153139.jpg
破壊の惨状を今に伝える円明園

 この様な事態に対し英仏両国は、大艦隊とともにイギリス軍1万600・フランス軍6300の大軍を派遣し、英仏連合軍は1860年8月に大沽を陥れ、天津を占領しました。
驚いた清朝は大臣を天津に派遣して交渉を始めますが、交渉が決裂すると咸豊帝(在位1850年~60年)は熱河へ逃れ、英仏連合軍は10月に北京を占領し、円明園の略奪・破壊を行います。

100329enmeien02_convert_
在りし日の円明園

 円明園は、北京の北西約10kmの所にあった離宮で、イタリア人のカスティリオーネが設計したヴェルサイユ宮殿を模したバロック式の宮殿・庭園もあり、歴代の皇帝のコレクションである金銀財宝・書画骨董や貴重な書物があったが、英仏連合軍は円明園に侵入して略奪・破壊の限りを尽くし、火を放った。そのため美しい円明園は廃墟と化してしまいます。

300px-Convention_of_Peking.jpg
北京条約主文

 清は屈服し、ロシアの調停によって1860年10月に英仏両国との間に北京条約を締結します。
北京条約は天津条約の批准交換と追加条約として締結され、従って天津条約の外国公使の北京駐在・キリスト教の布教の自由・外国人の中国内地での旅行の自由はそのまま認められ、開港場については天津が加えられて11港となった上、香港の対岸の九龍半島南部をイギリスに割譲することが追加され、賠償金も800万両となり、アヘン貿易も公認されました。

aa95550f.png
ロシアが獲得した沿海州

 ロシアはこの北京条約を調停した代償として、イギリス・フランスとは別に清と北京条約を結び、ウスリー江以東の地(沿海州)を獲得します。

 この北京条約の結果、清はますます諸外国から政治・経済上の圧迫を受けるようになり、大量の外国商品の流入によって国内の産業や社会は深刻な影響を受けるようになります。
ロシアは、清朝が太平天国の乱やアロー戦争に苦戦している状況に乗じて黒竜江(アムール川)の地と沿海州を奪い中国への進出を図ります。

Vitus_Bering-2.jpg
ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング(Витус Ионассен Беринг,g, 1681年8月 - 1741年12月19日])

 ロシアは、17世紀前半に太平洋岸に達すると南下して黒竜江方面に進出して清と衝突、ネルチンスク条約(1689年)によって一時黒竜江方面から退きますが、その後ピョートル1世(在位1682年~1725年)の命によって始まったベーリング(1681年~1741年)の探検後カムチャッカ半島からベーリング海峡方面、さらにアラスカにも進出し、又エカチェリーナ2世(在位1762年~96年)の使節ラクスマンは根室に来航して(1792年)日本に通商を求めるなど、ロシアは東方への関心を強めて行きました。

Nikolay-Muravyov-Amursky_convert_20170428155349.png
ニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵
(Николай Николаевич Муравьёв-Амурский、1809年8月23日 - 1881年11月30日)

 ムラヴィヨフ(1809年~81年)は、ニコライ1世によって東シベリア総督に任命されると(1847年)、黒竜江の重要性に着目し、クリミア戦争(1853年~56年)中に黒竜江地域に進出しました。
ムラヴィヨフは、清朝が太平天国の乱(1851年~64年)やアロー戦争(1856年~60年)苦戦している時、1858年にアイグン(愛琿)条約を結んで黒竜江(アムール川)以北の地の領有と黒竜江とその支流である松花江の航行権などを認めさせています。

russia06s_ani_convert_20170428155955.gif
アイグン(愛琿)条約によってロシアが清国より獲得した地域

 更に1860年には清と英仏間のアロー戦争の講和を仲介した代償として、英仏とは別に北京条約を結んでウスリー江以東の地(沿海州)を獲得し、ウラジヴォストーク(東方を支配せよの意味)の軍港を建設し、以後アジア・太平洋進出の拠点とし、19世紀に入るとインドへの通商路・綿花の生産地・豊富な金の産地であった中央アジアに着目し、進出を図る様になります。

11403.png
19世紀初頭のウズベグ3ハン国

 当時、中央アジアにはティムール帝国を滅ぼしたウズベク族が建てたブハラ(ボハラ)・ハン国(1505年~1920年)・ヒヴァ・ハン国(1512年~1920年)・コーカンド・ハン国(1710年~1876年)の3ハン国が分立していましたが、ロシアの前に相次いで屈服し、ブハラ・ハン国は1868年に、ヒヴァ・ハン国は1873年にロシアの保護国となり、コーカンド・ハン国は1876年にロシアに併合されます。

 1862年に新疆でイスラム教徒(ウイグル人)の反乱が起こると、ロシアは反乱に乗じて中央アジアのイリ地方に出兵・占領し(イリ事件、1871年~81年)、反乱は清軍によって1877年に鎮圧されましたが、ロシアはイリ地方から撤収せず、清はイリ地方の返還を求め、翌年からロシアと清との間で交渉が続き、1881年にイリ条約が結ばれ、ロシアは占領したイリ地方の東部を返還するに留まり、清はロシアに賠償金を支払い、その上イリ以西の広大な領土を失いました。

ジョークは如何?

「ソ連共産党が70年かけてできなかったのに、エリツィン
 が7年でなしとげた事はなにか?」
「社会主義のすばらしさを国民に認識させたこと」


続く・・・

2017/04/11

歴史を歩く155

36東アジアの激動②

1アヘン戦争②

ahen_convert_20120922184722.jpg
阿片倉庫

清朝はアヘンの吸飲が全国に広まる中で、早くからアヘンの吸飲や密輸に対する禁令を出しおり、主な禁令を挙げれば、アヘン輸入の禁止(1796年)・アヘンの販売厳禁(1813年)・ケシの栽培とアヘンの製造の禁止(1823年)・アヘン輸入の厳禁(1831年)・英船のアヘン密売禁止(1834年)等が有りますが、このように度々禁令が出ている事実は、これらの諸禁令が守られていないことを意味し、禁令下にもかかわらずアヘンの密輸入・密売買は公然と行われ、その輸入量は年とともに増加し、1820年頃は約1万箱(1箱は100斤、約60kg)であったのが、1830年頃は3万箱を超え、1832~33年には4万箱を超えていました。

r06-32-01_convert_20120920190247_convert_20170418211825.jpg
阿片の吸引

 1830年代に入ると清朝にとってアヘンの問題はますます深刻になってきます。
大量の銀流出による財政問題だけでなく、アヘンの吸飲が官僚や軍隊にも広がりその腐敗・質の低下を招き、又犯罪の増加等治安にとっても大きな問題となりました。

 厳禁論と弛緩論の間で揺れていた道光帝(在位1821年~50年)は、結局厳禁論に従ってアヘンの吸飲には死刑をもって臨むこととし、密輸を根絶するために厳禁論を上奏した林則徐を欽差大臣に任命し(1838年)、広州に派遣してアヘンの取り締まりに従事させます。

a6e2ca3d525076896323bbe5317f7cd6.jpg
林 則徐(1785年8月30日(乾隆50年7月26日) - 1850年11月22日(道光30年10月19日))

 林則徐(1785年~1850年)は、福建省に生まれ、進士に合格し(1811年)、地方官の要職を歴任して湖広総督となり(1837年)、道光帝にアヘン厳禁論を上奏し、自分の管内の湖北・湖南省でアヘンの厳重な取り締まりを行って功績をあげました。
このため1838年に欽差大臣(清代の臨時特設の大官、皇帝が臨時の権限を与え内乱の討伐や対外交渉にあたらせた)・両江総督に任命され、1839年初めに広州に着任しました。

e4e0007b17ea5fd13e9_convert_20170418212415.jpg
林則徐によって処分される阿片

 林則徐は広州に着任すると、アヘンの吸飲・販売を厳禁し、イギリス商人からアヘン約2万箱を没収し、これに石灰をかけ海水に浸して廃棄処分にし(1839年4月)、さらにイギリスとの貿易を禁止する強硬策をとりました。
これに対してイギリスは、アヘンを没収・破棄されたことを口実に自由貿易の実現を画策し、世論を背景に武力干渉にふみきり、アヘン戦争(1840年~42年)が始まります。

William_Ewart_Gladstone_by_William_Harold_Cubley_convert_20170418212807.jpg
1932年議員時代のウィリアム・ユワート・グラッドストン

 イギリス議会で戦費支出が討議されたとき、下院で若き日のグラッドストーン(1809年~98年)が「これほど不正な、恥さらしな戦争はかって聞いたことがない。大英帝国の国旗ユニオン・ジャックは、かっては正義の味方、圧制の敵であり、民族の権利、公正な商業のために戦ってきたのに、いまやあの醜悪なアヘン貿易を保護するために掲げられることになった。国旗の名誉はけがされた。」と反対演説を行いましが、戦費支出は賛成271票・反対262票で可決されます。

1229177936.jpg
阿片戦争・イギリス艦隊の砲撃を受ける清国軍

 1840年6月、軍艦16隻・輸送船27隻・陸兵4000人から成るイギリス軍は広州の沖合に集結しますが、林則徐が広州港の防備を厳重に固めていたため、北上し舟山島(寧波沖)を占領し、8月には華北に出現して大沽・天津を脅かしました。
この情勢に驚いた道光帝は林則徐を罷免し(1840年9月)広州で講和交渉を行い、仮条約が結ばれますが(1841年1月)、清の皇帝とイギリス政府はともにこれを拒否し、1841年2月、広州で戦闘が再開されました。

 1841年5月、イギリス軍は広州に激しい砲撃を加え、上陸・占領し、清軍が広州で降伏した直後、広州北郊の三元里の住民が平英団と名乗る自衛団を組織してイギリス軍を包囲攻撃し、この出来事は平英団事件と呼ばれ、その後の民族運動に大きな影響を与えました。

20150204170046_convert_20170418213918.jpg
1842年7月、阿片戦争中、最大の激戦となった鎮江の戦い

 広州を陥れたイギリス軍は、その後北上し、10月までには厦門・寧波を占領、翌1842年5月には軍艦25隻と陸兵1万人から成る大艦隊で上海を占領し、さらに南京に迫り、南京陥落を目前にして清は降伏し、1842年8月29日に南京条約が結ばれます。

e6220c5007356626136e7ea156e0218e18a86b05e45de1502d05eb3986f6fb73_convert_20170418214351.jpg
南京条約批准

 南京条約で、清国は広州・福州・厦門(アモイ)・寧波(ニンポー)・上海の5港の開港、公行の廃止、香港の割譲、賠償金1200万両の支払い、両国の国交は対等を原則とすることなどを認めましたが、アヘン貿易については何の規定もなく、事実上合法化されたのです。

 翌年、南京条約が批准されると、これに基づいて清はイギリスとの間に虎門塞追加条約(1843年10月)を結びますが、これは領事裁判権等の治外法権や最恵国待遇などを認め、関税自主権を失う等の不平等条約で、これを見たアメリカは望厦条約を(1844年7月)、フランスは黄埔条約を結んで(1844年10月)、イギリスとほぼ同じような権利を認めさせました。

ジョークは如何?

クリントン「あなたの国ではコンピュータというものを使っていますか?」
金正日「わが国の情報技術はアメリカより優れていますよ?」
クリントン「とてもそうには思えませんが?」
金正日「わが国では投票用紙の集計にコンピュータを利用しています。だから100%正確ですよ。」


続く・・・