2016/12/09

歴史を歩く131

31自由主義と国民主義⑦

6ロシアの改革

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デカブリストの乱

 ロシアではアレクサンドル1世の死後、弟のニコライ1世(1796年~1855年、在位1825年~55年)が即位に際し、時を同じく起こったデカブリストの乱を鎮圧して、反動的な内政・外交を展開します。

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ニコライ1世(Николай I:ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ: Николай Павлович Романов、1796年7月6日 - 1855年3月2日)

 ニコライ1世はヨーロッパの革命がロシアに及ぶ事を恐れ、七月革命の影響のもとで起こったポーランドの反乱を鎮圧(1831年)、更に二月革命・三月革命の影響のもとで起こったハンガリーの独立運動をも鎮圧する(1849年)等「ヨーロッパの憲兵」の役割を果たし、メッテルニヒの失脚後はヨーロッパの反動勢力の中心的人物となりました。

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クリミア戦争とナイティン・ゲール

 その一方で領土の拡大に努め、特に黒海から地中海に進出する南下政策を進め、東方問題に介入してトルコを圧迫し、クリミア戦争(1853年~56年)を引き起こしましたがイギリス・フランスの介入で敗れ、失意のうちに急死します。

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戴冠式で家族から祝福を受けるアレクサンドル2世

 クリミア戦争中に即位したアレクサンドル2世(1818年~81年、在位1855年~81年)はクリミア戦争を収拾しますが、クリミア戦争の敗北はロシアに大きな衝撃を与えます。
クリミア戦争の敗北によってロシアの後進性・近代化の遅れを痛感し、改革の必要性を悟ったアレクサンドル2世は、「下からの改革」を恐れ、「下から農民が解放する事を待つよりは上から農奴制を廃止した方がよい」と考え、「上からの改革」にふみきり、1861年3月に「農奴解放令」を発布しました。

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農奴解放令を読み上げるアレクサンドル2世

 当時、売買の対象にもされ、人口の3分の1以上を占めていたロシアの農奴は、「農奴解放令」によって人格的自由と土地の所有が認められますが、農地の分与は有償で、地主に2カ年以内に買戻金を納めなければならず、それが不可能な農民には政府が代わって地主に買戻金を支払い、農民は49カ年賦でその債務を政府に返すことになりました。
しかも土地は私有地にはならずミール(農村共同体)の共有地となり、ミールがその共同利用や買戻金の返還等に責任を持いました。

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船を引く農奴

 このようにロシアの農奴解放は旧地主本位で不徹底なものであり、自作農も出現はしましたが、その一方で多くの土地を失う農民が現れ、彼らは離村して賃金労働者に成って行きますが、このことがロシア資本主義発達の出発点ともなったのです。

 農奴解放令に始まるアレクサンドル2世の自由主義改革はポーランド反乱(1863年1月~64年5月)の勃発によって一時中断されます。

 アレクサンドル2世はポーランド人の不満を抑えるためにポーランドにも自由主義的改革を及ぼそうと考えますが、独立運動の急進派は完全独立を目ざして1861年に反乱を起こし、ポーランドの保守派政府は徴兵制を布いて、青年特に学生を軍隊に入隊させる事で反乱を防ぐ事を考えますが、この徴兵制が引き金となり、1863年1月の大規模な反乱を呼び、18ヶ月にわたってロシア軍・政府軍との戦いとなります。

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ポロニア1863年
1863年1月の蜂起失敗後に描かれた作品。囚人たちがシベリアへの移送を待つ情景を描いている。ロシア人の官吏と兵士は、鍛冶屋が黒衣を着た若い女性(擬人化されたポーランド)に手枷をはめるのを眺めている。彼女と引き離されようとしている奥の白衣の女性はリトアニアを象徴している。


 全ヨーロッパの自由主義者がポーランドの反乱を支援し、特にイギリス・フランスの労働者の支援運動が第1インターナショナル(国際労働者協会)創立の契機と成りました。
しかし、ポーランド反乱は、自国への革命の波及を恐れるビスマルクの支持と協力を得たロシア軍によって1864年5月までには鎮圧され、数千人が死刑・シベリア流刑に処せられ、ポーランドはロシアの一地方に編入されます。

 アレクサンドル2世は、ポーランドの反乱鎮圧後、ゼムストヴォ(地方議会)の創設(1864年)や裁判制度の改革(1864年)などの改革を行うものの、その後次第に反動化し、専制政治を強行していきました。

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「判決を受けたナロードニキ」 1879年作 《マコフスキー》

 アレクサンドル2世の反動化が進む中で、1870年代以後インテリゲンツィア(知識人)や学生などを中心とするナロードニキ(人民主義者)の運動が盛んになります。 
ロシアはミール(農村共同体)を基礎として西欧とは異なる独自のコースで社会主義に到達できると考えた革命的知識人や学生らは、「ヴ・ナロード(人民の中へ)」を合い言葉にした為ナロードニキと呼ばれました。

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『ナロードニキの逮捕』(1880年~1889年, 1892年) トレチャコフ美術館

 彼らは、医師・看護婦・教員などになって農村へ入り、農民を啓蒙して革命の狼煙をあげようとしますが、生活をしていくことが精一杯で、貧しく、文字も読めない農民にはナロードニキの説く革命理論は全く理解できず関心も示さなかったのです。
この農民の無関心と官憲による激しい弾圧によってナロードニキの運動は挫折、分裂していきます。

 絶望した人々の間に、ニヒリズム(虚無主義、いっさいの権威と価値・国家や社会秩序を否定する思想)が広まり、彼らの中にはテロリズムによって皇帝や政府高官を暗殺することによって専制政治の打倒を考える一派が現れ、数度の失敗の後に、1881年3月に皇帝アレクサンドリア2世を暗殺します。

 この間、アレクサンドリア2世は対外的には、清朝とアイグン条約(1858年)や北京条約(1860年)を結んで東方で領土を拡大し、又バルカン半島へ進出を謀って露土戦争(ロシア・トルコ戦争、1877年~78年)を引き起こします。

ジョークは如何?

エデンの園はロシアにあったとする学説がある。

なぜなら、アダムとイブはクルマも家も服さえも持っていなかったが、
自分たちが住んでいるところがパラダイスだと信じて疑わなかったからだ。

続く・・・

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2016/11/29

歴史を歩く130

31自由主義と国民主義⑥

5フランス第二帝政と第三共和政

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「馬上のサン・シモン」ナポレオン3世

 1852年11月に行われた国民投票で圧倒的支持を得たルイ・ナポレオンは、翌12月に皇帝ナポレオン3世(在位1852年~70年)となり、第二帝政(1852年~70年)が始まりました。
第二帝政では、普通選挙によって選ばれる議会は存在しましたが、殆んど権限がなく、皇帝が行政・軍事・外交の全権を掌握していた結果、実質的には皇帝独裁体制でした。

 ナポレオン3世は、カトリック勢力・農民の支持を基盤とし、資本家と労働者の均衡の上に立って、軍隊・警察の力で反対派を抑えて専制的な政治を行いましたが、このようなナポレオン3世の政治形態はボナパルティズムと呼ばれています。

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アロー戦争:フランス軍総司令官モントバン
 
ナポレオン3世は国民の人気を保つためにさかんに対外進出を行いました。
クリミア戦争(1853年~56年)に介入して名声を博したナポレオン3世は、アロー戦争(1856年~60年)で中国に進出し、インドシナ出兵(1858年~67年)によってヴェトナムに領土を獲得し、更にイタリア統一戦争(1859年)に干渉してサヴォイア・ニースを獲得しましたが、メキシコ出兵(1861年~67年)の失敗によって対外的な威信を失いました。

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マクシミリアン1世(マクシミリアーノ1世: Maximiliano I、1832年7月6日 - 1867年6月19日)

 ナポレオン3世は、財政難に陥ったメキシコが外債の利子不払いを宣言すると、1861年にイギリス・スペインと共同でメキシコに出兵し、両国が撤兵した後も干渉を続け、共和政府を倒してオーストリア皇帝の弟マクシミリアンをメキシコ皇帝に就けますが(1864年4月)、メキシコ人の抵抗やアメリカ合衆国の抗議のためにマクシミリアンを見捨てて撤兵し(1867年3月)、マクシミリアンは処刑されてしまいます(1867年6月)。
このメキシコ出兵の失敗でナポレオン3世の人気は低下し、焦ったナポレオン3世はドイツ統一の妨害に乗り出しましたが、普仏戦争に敗れて終に退位します(1870年9月)。

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ルイ・アドルフ・ティエール( Louis Adolphe Thiers、 1797年4月16日 - 1877年9月3日)

 ナポレオン3世の退位後も、パリに成立した国民防衛政府は更に抗戦を続けましたが、ドイツ軍に降伏して休戦条約を結びます(1871年1月)。
休戦条約による総選挙で国民議会が成立し、ティエール(1797年~1877年)を行政長官(首相にあたる)とする臨時政府がヴェルサイユに成立し、ドイツと仮講和条約を締結します(1870年2月)。

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普仏戦争で進軍するプロイセン軍

 仮講和条約ではアルザス・ロレーヌの割譲・50億フランの賠償金・ドイツ軍のパリ入城が定められていたので、パリの民衆は屈辱的な条約であるとして強く反対しました。
1870年3月18日、ティエール臨時政府がパリ国民軍の武装解除を実行した事から反乱が勃発し、ティエールはパリを放棄して政府と軍をヴェルサイユに移した結果、パリは蜂起した市民・国民軍の手に落ちました。

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パリ・コミューンの政府構成者

 3月26日にコミューン議会の選挙が行われ、3月28日にパリ・コミューンの成立が宣言されます。パリ・コミューンは労働者、小市民が中心となってつくった自治政府で、世界史上最初の社会主義政権といわれています。
パリ・コミューンは行政委員会をはじめ10の委員会を設置し、労働者の解放を目ざす多くの改革を行いましたが、4月に入るとドイツ軍の支援を取り付けたティエールがパリ攻撃を開始し、ヴェルサイユ軍は5月21日にパリに突入し、5月21日から28日までのいわゆる「血の一週間」による虐殺によってパリ・コミューンはわずか2ヶ月で鎮圧されます。

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コミューン女性兵士による戦闘

 その後、ティエールが第三共和政の初代大統領に選ばれ(1871年8月)、王党派と共和派の対立に悩まされながらも、対ドイツ賠償金の支払いと財政の立て直しに努めしたが、王党派と共和派の両派から攻撃される中で辞任し(1873年5月)、マクマオン(在任1873年~77年、普仏戦争の時の司令官の一人、パリ・コミューンを鎮圧した)が大統領に選ばれます。

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マクマオン伯爵及びマジェンタ公爵マリー・エドム・パトリス・モーリス・ド・マクマオン
( Marie Edme Patrice Maurice de Mac-Mahon, comte de Mac-Mahon, duc de Magenta, 1808年7月13日 - 1893年10月16日)


 1875年2月、三権分立・二院制・任期7年の大統領制・男子普通選挙などを骨子とする第三共和制憲法が議会に於いて僅か1票差で可決・制定され、第三共和政(1870年~1940年)の基礎が確立しました。
しかし、第三共和政は、議会で小党が分立し、政府は連立政権の為政情は不安定でした。

<strong>ジョークは如何?

ある日のイズベスチヤに「今日、パンは品薄です」という告知が掲載されていた。
日頃からソ連邦崩壊の噂を聞いている夫は急いでキッチンにいる妻の所に駆け寄った。

夫「おい、急いでパンを買いに行かなくてもいいのか?」
妻「パンがなくても告知する新聞紙があるだけまだ崩壊しないわよ」


続く・・・

2016/11/24

歴史を歩く129

31自由主義と国民主義⑤

4ビスマルク時代の国際関係

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 ビスマルクの本領は外交において発揮されました。
ビスマルクは統一後まもないドイツが、戦争に巻き込まれることを避けるために、フランスの孤立化とヨーロッパの平和維持を軸とする、いわゆるビスマルク外交を展開しました。

 ビスマルクは、普仏戦争によってアルザス・ロレーヌを奪われ巨額な賠償金を課せられたフランスで対独復讐心が強まると、フランスの復讐を未然に防ぐためにフランスを孤立化させることに意を用いました。
そのためにフランスと同盟する可能性のある諸国をドイツ側に引き入れることを意とし、特にロシアがフランスと同盟を結べばドイツは東西からは挟まれる形になる為、ロシアとの提携強化に努めました。

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アレクサンドル2世:Александр II, Aleksandr II
アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ロマノフ
Александр Николаевич Романов, Aleksandr Nikolaevich Romanov
(1818年4月29日 - 1881年3月13日)


 先ず、1873年10月に、ビスマルクはオーストリア・ロシアとの間で三帝同盟を締結します。
三帝同盟は、6月にウィーンを訪問したロシア皇帝アレクサンドル2世がオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世との間で結んだ協約にドイツが参加する形で成立しました。

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フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I.、1830年8月18日 - 1916年11月21日)

 又ビスマルクは、バルカン半島でロシアとオーストリアの対立が激化して両国が戦うことを恐れ、必要に応じて両国の紛争を調停してバルカンでの現状維持政策を推し進めました。

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露土戦争最大の激戦地シプカ峠の戦い

 1877年に露土戦争(ロシア・トルコ戦争、1877年~78年)が勃発し、翌年サン・ステファノ条約(1878年3月)が結ばれてロシアの勢力がバルカン半島に拡大されると、イギリス・オーストリアは猛烈に反対し、戦争の危機を孕んできます。
そこでビスマルクは、ベルリン会議を開催し(1878年6月)、「誠実な仲買人」と称して調停に乗り出しますが、ビスマルクはイギリス・オーストリアの主張を支持し、サン・ステファノ条約を破棄して新たにベルリン条約を結び(1878年7月)、ロシアの南下政策を阻止する結果となり、ロシアはドイツから離れて三帝同盟は事実上有名無実の状態になります。

 ビスマルクは独墺同盟(1879年10月)を結んでロシアからの攻撃に対して相互に全面的な援助を約束する一方で、あくまでロシアを陣営内に留めてフランスを孤立させる事に努力し、1881年6月に三帝同盟を復活させ、新三帝同盟(1887年まで存続)を締結します。
更に1882年5月には、チュニジアをフランスに奪われたことに不満を持つイタリアを引き入れ、ドイツ・オーストリア・イタリア間で三国同盟(1915年まで存続)を成立させました。

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1880年代の同盟関係

 1885年から87年にロシアがブルガリアに進出し、オーストリアとロシアの対立が激化して新三帝同盟が崩壊すると、ビスマルクは1887年6月にロシアとの間で再保障条約(二重保障条約)を締結します。
この条約はバルカンにおける国境の現状維持を主内容とし、条約国の一方が他から攻撃された場合は中立を守ることを約した条約でしたが、ビスマルクは独墺同盟が存在し、オーストリアに漏れることを恐れて秘密条約としました。

 こうして1887年頃には、ドイツはオーストリア・ロシア・イタリアだけでなくイギリスとも親密な関係にあり、フランスはヨーロッパで完全に孤立していました。
しかし。このビスマルク体制は、1890年のビスマルク辞任によって急速に崩れ、翌1891年には露仏同盟(1894年に完成)が結ばれてビスマルクが最も警戒していた状況となり、ヨーロッパにおける国際関係は大きく変化していくことになります。

ジョークは如何?

不倫問題・ホワイトウォーター疑惑・共和党躍進で大統領の威信が大きく傷付いたクリントン大統領が
あの世にいる歴代の大統領経験者に助言を求めたところ、
二人の大統領経験者から助言があった。

一人は
「もはや万策が尽きた。君がアメリカ国民の為できることは、私と同じ様に劇場に行くことだ」

もう一人が
「同感だ。ダラスをパレードすればよい」


続く・・・


2016/11/19

歴史を歩く128

31自由主義と国民主義④

3ドイツの統一(その2)

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新生プロイセンと周辺諸国(青枠神聖ローマ帝国)

 フランスのナポレオン3世は、プロイセンによるドイツの統一によってフランスの隣に強大な国家が誕生する事を恐れ、ドイツの統一を妨げようとしてしきりにプロイセンに干渉しました。
そのためビスマルクはドイツの統一のためにはフランスとの戦いは避けられないと考え、準備を進める一方で開戦の機会を伺っていたのです。

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メキシコ出兵・プエブラの会戦

 ナポレオン3世は、国内における威信が低下し、又メキシコ出兵(1861年~67年)の失敗や普墺戦争の際に中立を保った代償として、ライン左岸地方の割譲を要求したものの、ビスマルクに拒否される等外交上の失敗が続いていたので、皇帝の威信を保つ為に必死でした。

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レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン
(Leopold von Hohenzollern-Sigmaringen, 1835年9月22日 - 1905年6月8日)


 こうした状況の中でたまたま発生したのがスペイン王位継承問題です。
スペインでは1868年に革命が起こり、イサベル2世(在位1833年~68年)が国外に逃亡して空位となり、1870年6月にプロイセン王家の支流ホーエンツォレルン・ジクマリンゲン家のレオポルトが後継者に指名され、レオポルトはこれを受諾しましたが、ナポレオン3世はホーエンツォレルン家によって東西から脅かされることを恐れてレオポルトの即位に猛反対します。
プロイセン王ヴィルヘルム1世はナポレオン3世の抗議を受け入れて、レオポルトに受諾取下げを勧告し、レオポルドも7月に辞退を表明します。

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ヴィルヘルム1世(左)と駐独フランス大使ヴァンサン・ベネデッティ(右)。
普仏戦争の原因となるエムス電報事件のきっかけとなった会談の様子


 この一連の動きで事件は終わったかに思われましたが、フランスは、7月13日にエムスで静養中のヴィルヘルム1世のもとへプロイセン駐在フランス大使を派遣し、将来もホーエンツォレルン家からスペイン王を出さない保障を迫りますが、ヴィルヘルム1世は将来への保障を拒否し、この件の経過をベルリンのビスマルクへ打電します。

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エムス事件でビスマルクの発した電報

 電報を受け取ったビスマルクは、故意に電文の一部を削除し、フランス大使がプロイセン王に執拗に迫り、立腹した王が大使を追い返したように書き改めて公表し、ナポレオン3世を挑発しました。これが有名な「エムス電報事件」です。
この電報が新聞に公表されると、ドイツ人は激昂し、フランスは侮辱ととらえ、両国の世論がわきかえる中で、1870年7月19日、ビスマルクの術中にはまったフランスはプロイセンに宣戦を布告し、普仏戦争(独仏戦争、プロイセン・フランス戦争、1870年7月~71年5月)が始まりました。

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ヘルムート・カール・ベルンハルト・グラーフ(伯爵)・フォン・モルトケ
(Helmuth Karl Bernhard Graf von Moltke, 1800年10月26日 - 1891年4月24日)

 モルトケ(1800年~91年、プロイセンの優れた戦術家)の指揮するプロイセンを中心とし、北ドイツ連邦諸国と南ドイツ諸国(ナポレオン3世はフランス側に回ると期待していた)を合わせた約38万のドイツ軍は、瞬く間にフランス国境を越え、連勝を重ねて8月末にフランス軍の主力をメッツに包囲します。
ナポレオン3世はメッツへ救援に赴きますが、セダンで包囲され、9月2日に8万2千の将兵とともに降伏してドイツ軍の捕虜と成りました。

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ナポレオン3世とビスマルク

 1870年9月4日、パリでは帝政廃止・共和政樹立が宣言され、国民防衛政府が成立した。国民防衛政府は抗戦を続けたが、プロイセン軍は9月19日にはパリを包囲し、プロイセン軍のめざましい勝利を見て、11月にはバイエルン等南ドイツ諸邦が北ドイツ連邦に加入します。

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ドイツ帝国成立

 1871年1月18日(プロイセン王国建国170年の記念日)、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間においてプロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式が行われ、ドイツ帝国(1871年~1918年)が成立しました。
1月28日にはパリが陥落して休戦条約が結ばれ、2月26日にヴェルサイユで仮講和条約が、そして5月10日にフランクフルトで正式に講和条約が締結されます。

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アルザス・ロレーヌ(『最後の授業』 アルフォンス・ドーデ作の舞台)

 この条約によって、フランスはアルザス・ロレーヌ両州をドイツに割譲し、50億フランの賠償金を支払うことが決められますが、この苛酷な条約はフランス国民に強い対独復讐心を抱かせ、以後ドイツとフランスの対立が深刻になっていく発端に成りました。

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ドイツ帝国版図

 1871年に成立したドイツ帝国は、22の君主国と3つの自由市から成る連邦制国家で、連邦を構成する各邦はそれぞれ政府と議会を持ちますが、主導権はプロイセンが握っていました。
1871年4月に制定されたドイツ帝国憲法(大日本帝国憲法はこの憲法を範としている)によって、ドイツ皇帝はプロイセン王ヴィルヘルム1世が兼任し、皇帝によって任命される帝国宰相にもプロイセン首相のビスマルクが就任しました。
尚、帝国宰相は、議会に対してではなく皇帝に対してのみ責任を負ったのです。

 立法府は連邦参議院と帝国議会から成り、25諸邦代表から成る連邦参議院が立法・宣戦・外交等大きな権限を持ち、議長は帝国宰相が兼任しました。
帝国議会は男子普通選挙で選出された議員で構成されますが、その権限は弱く、諮問議会的な存在で、立憲主義は外見に過ぎませんでした(外見的立憲主義)。
ビスマルクは帝国宰相として、以後約20年間にわたって内政・外交に独裁的な権力を持ち、ビスマルク時代(1871年~90年)を現出します。

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文化闘争の風刺画

 ビスマルクは、統一後、反プロイセン(プロイセンは新教・ルター派)的なカトリック教会を国家の統制に従わせようと試みますが、これに対して南ドイツのカトリック教徒は中央党を組織して(1870年)反対した結果、ビスマルクとカトリック教会及び中央党との間で文化闘争(1871年~80年)と呼ばれる争いが起こり、ビスマルクはカトリック教会の支配下にあった学校も国家の支配下に置こうと試みますが、カトリック教徒は屈せず、中央党の勢力は逆に増大していきました。

 ビスマルクは、1870年代後半から強くなってきたもう一つの敵対勢力である社会主義勢力を抑えるために、又自由貿易主義から保護関税政策へ転換する為に帝国議会の第2党であった中央党の支持を必要とし、反ビスマルクの教皇ピウス9世の死(1878年)を機にカトリック教徒と妥協し、文化闘争を終息させます。

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ドイツ労働運動の先駆者。
カール・マルクス(中央)、アウグスト・ベーベル(左上)、ヴィルヘルム・リープクネヒト(右上)、カール・ヴィルヘルム・テルケ(左下)、ラッサール(右下)


 ドイツ資本主義は、ドイツの統一によって急速に発展しました。
ビスマルクは、初め自由貿易主義に沿った政策をすすますが、ドイツが工業国に発展してくるとイギリスとの競争の為に国家の保護が必要となり、保護関税政策に転換していきました(1879年)。

 資本主義の発展に伴って多くの労働者が生み出され、1875年にドイツ社会主義労働者党が成立し、労働運動・社会主義運動が盛んとなった結果、労働者対策も必要と成ります。

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社会主義者鎮圧法の風刺画

 1878年に皇帝狙撃事件が起きると、ビスマルクはこれを社会主義者弾圧の口実とし、1878年に社会主義者鎮圧法を制定し、社会主義的政党・労働組合・集会・出版を厳禁し、社会主義労働者党を弾圧しますが、その一方では疾病・災害・養老等の社会保険制度も実施しています。

ジョークは如何?

Q: アクシデント(事故)とカタストロフィーの違いは?。

A:主席以下共産党指導者を乗せた飛行機が墜落することがアクシデント。
そいつらが無事救出去れることがカタストロフィー


続く・・・
2016/11/08

歴史を歩く127

31自由主義と国民主義③

3ドイツの統一(その1)

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1815年のヨーロッパ

 ウィーン会議によって、ドイツにはオーストリア・プロイセン以下35の君主国と4自由市から成るドイツ連邦が成立しました。
ドイツ連邦の領域は、旧神聖ローマ帝国の領土を踏襲していた結果、オーストリアは連邦内の領土よりその外にある領土の方が大きく、プロイセンも領土の約4分の1は連邦外に存在していました。

 プロイセンは、ウィーン議定書でワルシャワ大公国の北部とザクセンの北半分及びライン中流左岸地域を獲得しましたが、特にドイツで最も工業が発達していたライン地方を獲得したことは、プロイセンの発展にとって非常に有利な条件となったのです。

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フリードリッヒ・リスト(Friedrich List, 1789年8月6日 - 1846年11月30日)

 ウィーン体制下で、政治的にオーストリアの下に位置したプロイセンが、オーストリアより優位に立つ契機となったのが、歴史学派経済学者のフリードリヒ・リスト(1789年~1846年)によって提唱されたドイツ関税同盟でした。

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プロイセンの領土

 プロイセンは、領土が東西に二分されていた為、近隣諸国との間に関税同盟を結んで経済圏の統一を図り、1828年にヘッセンと関税同盟を結びます。
同年、中部ドイツ関税同盟・南ドイツ関税同盟が成立していましたが、プロイセンは諸邦と粘り強い交渉を続け、1833年にこれ等3つの関税同盟は、プロイセンの主導下に統合され、翌1834年にドイツ関税同盟が発足しました。

 ドイツ関税同盟は次第に加盟国を増やし、オーストリアを除くドイツを経済的に統一し、このドイツ関税同盟の成立によって、ドイツでは政治的統一に先立ち、経済的統一がほぼ完成し、これを主導したプロイセンは政治的統一に於いてもオーストリアに対して優位に成って行きました。

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フランクフルト国民議会

 1848年の二月革命はドイツにも大きな衝撃を与え、ウィーンの三月革命によってメッテルニヒが失脚し、ウィーン体制は完全に崩壊し、又ベルリンの三月革命では、プロイセン国王に憲法制定を約束させました。
そして1848年5月に、ドイツの統一と全国憲法制定の為にフランクフルト国民議会が開かれます。フランクフルト国民議会では、ドイツの統一の方式を廻って、オーストリア指導の基でドイツ統一を実現しようとする大ドイツ主義とオーストリアを除外してプロイセンを中心にドイツの統一を達成しようとする小ドイツ主義が対立しました。
最終的に小ドイツ主義が勝利を収め、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(在位1840年~61年)を統一ドイツの皇帝に推しましたが、プロイセン王が革命派からの帝冠を拒否した為に失敗に終わっています。

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ケーニヒスベルク城でのヴィルヘルム1世の戴冠式

 1861年1月、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の死後、ヴィルヘルム1世(1797年~1888年、プロイセン王(在位1861年~88年)、初代ドイツ皇帝(在位1871年~88年)が即位しました。
ヴィルヘルム1世は、摂政時代からプロイセンの軍制改革に取り組んでいたのですが、軍備拡張の予算案が議会で否決されると、この難局を打開する為にビスマルクを首相に起用します。

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ヴィルヘルム1世(Wilhelm I. 1797年3月22日 - 1888年3月9日)
第7代プロイセン王(在位:1861年1月2日 - 1888年3月9日)
北ドイツ連邦主席(在任:1867年7月1日 - 1871年1月18日)
初代ドイツ皇帝(在位:1871年1月18日 - 1888年3月9日)


 ビスマルク(1815年~98年、在任1862年~90年)は、ベルリン西方の小村シェーンハウゼンでユンカー(エルベ川以東の大土地貴族)の家庭に生まれ、ゲッティンゲン大学・ベルリン大学に学んだものの、酒と決闘に明け暮れ、「乱暴者ビスマルク」と呼ばれ、卒業後、一時軍務に就きますが、父の死後は領地の経営に従事していました。

 1847年に連邦地方議会議員に選出され、1848年に三月革命が起こると故郷の農民を武装させてベルリンに進撃を計画する等反革命派として活躍し、革命後フランクフルトのドイツ連邦議会にプロイセン代表として派遣され(1851年~59年)、オーストリアと対立して小ドイツ主義者と成り、その後、駐ロシア大使(1859年)・駐フランス大使(1862年)等を歴任し、1862年にヴィルヘルム1世によってプロイセンの首相兼外相に任命されました(1862年9月)。

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オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト(侯爵)・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン( Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen, 1815年4月1日 - 1898年7月30日)

 ビスマルクは、首相就任から1週間後に、下院予算委員会において以下、
「・・・ドイツの着眼すべき点は、プ口イセンの自由主義ではなく、その軍備であり、バイエルン・ヴュルテンベルク・バーデン等の諸邦は、それぞれの自由主義を認めるでありましようが、それゆえにこそ誰もプロイセンに課せられた役割をそれらの諸邦に課するものはないでありましよう。
プロイセンは今迄何回か好機を失って来たのでありますが、これに鑑みてプロイセンは今後の好機に備えて力を結集しておかねばならないのであります。
プロイセンの国境は、健全な国家のそれにふさわしいものではありません。
言論や多数決によっては現下の大問題は解決されないのであります。
言論や多数決は、1848年および1849年の欠陥であり、鉄と血によってこそ問題は解決されるのであります。・・・」

以上、有名な「鉄血演説」を行い、議会による予算案の否決を無視して軍備拡張を実行に移し、議会と対立しました。

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デンマーク戦争(1864年2月~64年7月)・反乱を鎮圧し、コペンハーゲンに帰還したデンマーク軍。

 こうした状況のなかでシュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題が発生します。
シュレスヴィヒ・ホルシュタインはユトランド半島の南半分に位置する2つの小公国で、デンマークの主権下に属していましたが、住民の多くはドイツ人でした。
1863年にデンマークが北のシュレスヴィヒ公国の併合を宣言すると、住民はドイツ連邦に援助を要請し、プロイセンとオーストリア両国は同盟してシュレスヴィヒ公国の併合に抗議しますが、デンマークが両国の要求を拒否したため、1864年2月にプロイセン・オーストリア両国はデンマークと開戦し、デンマーク戦争(1864年2月~64年7月)が始まります。

 プロイセン・オーストリア両国は、デンマーク軍を破ってシュレスヴィヒ・ホルシュタインを占領し、休戦条約を結び(1864年7月)、10月のウィーン条約でシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国はプロイセン・オーストリア両国の共同管理下に置かれる事となり、翌1865年にプロイセン・オーストリア両国は、プロイセンがシュレスヴィヒを、オーストリアがホルシュタインを管理下に置く協定を締結しました。

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ナポレオン3世

 ビスマルクは、早くから対オーストリア戦を予想して軍備拡張を強行していましたが、1865年にはナポレオン3世と会見し、ライン左岸地方の割譲を匂わせながら対オーストリア戦開始の場合の中立を約束させ、1866年2月には御前会議で対オーストリア開戦政策を決定した上に、同年4月、戦後にヴェネツィア併合を認める事を条件にイタリアと攻守同盟を結びます。

 そして、イタリアと攻守同盟を結んだ翌日に、ビスマルクはドイツ連邦議会に、ドイツ全国民の直接選挙により議会を召集するという革命的な提案を行いました。
これに対してオーストリアは、1866年6月にシュレスヴィヒ・ホルシュタイン処理問題を改めてドイツ連邦議会に提出し、プロイセンとオーストリアの関係は決裂しました。
プロイセンはホルシュタインに兵を進め、ドイツ連邦議会はプロイセンに対する制裁を決議し、ここに普墺戦争(プロイセン・オーストリア戦争、1866年6月15日~66年8月23日)が勃発します。

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ケーニヒグレーツの戦い

 プロイセンは、開戦と同時に鉄道を利用して電撃的な速さで兵力を集中し、ザクセン・ベーメンに入り、7月3日のサドヴァ(ケーニヒグレーツ)の戦いでオーストリアの主力軍を撃破、ウィーンに迫りました。
オーストリアは開戦後僅か50日で降伏し、7月26日に仮条約が結ばれ、8月23日にプラハ条約が結ばれますが、この様な結果から普墺戦争は7週間戦争とも呼ばれています。

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北ドイツ連邦

 プラハ条約で、ドイツ連邦解体とプロイセン指導下の北ドイツ連邦の設立・シュレスヴィヒとホルシュタインのプロイセンへの併合・賠償金の支払いが決められ、又オーストリア・イタリア間の平和条約でヴェネツィアのイタリアへの割譲が認められます。

 普墺戦争の翌年、1867年7月、終に北ドイツ連邦が成立し、北ドイツ連邦は、オーストリアと南ドイツ諸国を除くマイン川以北の22の諸邦で組織され、プロイセン国王を連邦議長としました。
北ドイツ連邦の成立によってドイツの統一はほぼ達成されますが、一方、普墺戦争に敗れてドイツから除外されたオーストリアでは、ハンガリーの自治が認められ、1867年6月にオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年~1916年)がハンガリー王を兼ね、別々の政府と国会を持つオーストリア・ハンガリー帝国(二重帝国)が成立します。

ジョークは如何?

ここはモスクワの街角。
例によっていつものように、パン屋の前には行列がズラリと並んでいる。
それを見た外国の使節団が一言。

中国人「物を買うのに列に並ぶなんて、ロシア人はなんて律儀なのだろう」
日本人「物を買うのに列に並ぶなんて、よほど有名なパン屋さんなのだろう」
韓国人「物を買うのに列に並ばせるなんて、謝罪の要求が殺到するだろう」
北朝鮮人「列に並びさえすれば物を買えるなんて、なんて素晴らしいんだろう」


続く・・・