2018/04/20

歴史を歩く191

41ヴェルサイユ体制下の欧米⑥

6ドイツ共和国

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民衆を前に演説するローザ・ルクセンブルク

 帝政が崩壊して共和国となったドイツでは、社会民主党を中心とする臨時政府が政権を掌握しますが、社会主義革命を目ざす独立社会民主党やスパルタクス団との対立が激しくなっており、独立社会民主党は1917年に社会民主党内の反戦派が結成した革命政党で、スパルタクス団は社会民主党最左派のカール・リープクネヒト(1871年~1919年)、ローザ・ルクセンブルク(1870年~1919年、ドイツの女性革命家)らが結成した急進的革命組織で、1918年末から1919年初めに他のグループとドイツ共産党を結成しました。

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ベルリンで武装抵抗する革命派

 1919年1月初め、スパルタクス団が武装蜂起しますが(ドイツ革命、1918年11月3日~1919年1月)、社会民主党を中心とする臨時政府は軍部と結んでこれを鎮圧すると共に、この蜂起に参加したカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは共に殺害され、同年1月に行われた国民議会選挙では社会民主党が第一党となり、翌2月にヴァイマル(ワイマール)で国民議会が開かれました。

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ワイマール共和国誕生の地、国民劇場

 ヴァイマル国民議会はヴェルサイユ条約を承認し、ドイツ共和国憲法(通称ヴァイマル憲法)を採択・公布します(1919年8月公布)。
ヴァイマル憲法は、主権在民・男女平等の普通選挙・労働者の団結権と団体交渉権の保障・7年任期の大統領制等が規定され、当時の世界で最も民主的な憲法であり、社会権(生存権)を初めて取り入れた憲法として有名です。
又ヴァイマル国民議会では、社会民主党のエーベルト(1871年~1925年、在任1919年~25年)が臨時大統領に選出され(1922年に正式の初代大統領となる)、ドイツ共和国の基礎が定まり、ヴァイマル憲法の制定からナチスの政権獲得迄のドイツ共和国はヴァイマル共和国(1919年~1933年)と呼ばれています。

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占領下の街頭


 こうして発足したヴァイマル共和国は、巨額な賠償金の支払いや左右両派からの攻撃に苦しみ、政局は安定せず、特に敗戦国ドイツの能力を遥かに超える賠償金の支払いは、国民生活を極度に圧迫し、その為ドイツは連合国に賠償金支払いの猶予を要請しますが、フランスは強硬に反対し、1923年1月ベルギーと共にルール占領を行いますが、これに対してドイツはストライキで抵抗したため(消極的抵抗)、生産が低下して激しいインフレに陥ります。

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ハイパーインフレーション. 1000パピエルマルク紙幣。赤字で10億マルクの額面が加刷されている(Wikipediaより)

 1914年7月には1ドル=4.2マルク、1922年7月には1ドル=493.2マルクになっていましたが、ルール占領が始まった1923年1月には1ドル=17972マルクとなり、9月には98860000マルクとなり、1923年11月にはついに1ドル=4200000000000マルク迄ハイパーインフレーションは進行します。
この破局的なインフレによってマルクの価値は1兆分の1に下落し、マルクは紙くず同然となり、給料生活者の生活は破滅状態となりました。
こうした状況の中でヒトラーによるミュンヘン一揆(1923年11月、ナチスによるクーデター)も発生しますが鎮圧されています。

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グスタフ・シュトレーゼマン(Gustav Stresemann、1878年5月10日 - 1929年10月3日)

 このドイツの危機の中で首相となったシュトレーゼマン(1878年~1929年、在任1923年)は通貨の安定・経済の再建に努め、彼はレンテンマルク(不動産を担保とする不換紙幣)を発行し、1兆マルクを1レンテンマルクと交換し、奇跡的にインフレを克服することに成功しました。
同年首相を辞任したシュトレーゼマンは、その後歴代内閣の外相を務め、英・仏との協調外交を推進し、ドーズ案の成立(1924年)・ロカルノ条約の調印(1925年)・ドイツの国際連盟加入(1926年)等に尽力し、ノーベル平和賞を受賞しています(1926年)。

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チャールズ・ゲーツ・ドーズ (Charles Gates Dawes, 1865年8月27日 - 1951年4月23日)

 未曾有のインフレによってドイツ経済が破綻する中で、アメリカの実業家・財政家ドーズ(1865年~1951年)を長とする専門委員会がドイツの賠償金問題に関するドーズ案を作成し(1924年4月)、ドイツの賠償金支払いの負担を当面軽減し、ドイツに巨額の外資(主にアメリカ資本)を貸与してドイツ経済を復興することを決定し、ドーズ案の成立によってフランスはルールから撤兵しました(1925年)。

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賠償金支払と戦時債権償還の概念
 
 ドーズ案は、ドイツ経済を復興して賠償金支払いを可能にし、ドイツから賠償金を受け取ったフランス・イギリス(フランスは52%を、イギリスは23%を受け取る)にそれを対米債務の返済に充てさせ、国際経済を回復させようとするものでした。
ドーズ案によってドイツ経済は復興し、1925~26年頃には戦前の水準を回復しました。

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パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク
(Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg、1847年10月2日 - 1934年8月2日)


 1925年に大統領のエーベルトが急死し、保守派と軍部に推されたヒンデンブルク(1847年~1934年、在任1925年~34年、第一次世界大戦中のタンネンベルクの戦いの勝利によって国民的英雄となった将軍)が大統領選に圧勝して大統領に就任しました。
ヒンデンブルクは、当初シュトレーゼマンの協調外交を支持しますが、世界恐慌に対処できず、1932年に再選されましたが、翌1933年にヒトラーに組閣を許す結果となります。

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オーウェン・D・ヤング(Owen D. Young、1874年10月27日 - 1962年7月11日)

 この間、賠償金問題については、アメリカの財政家ヤング(1874年~1962年)を長とする第2回専門委員会が1929年6月にヤング案を作成し、賠償総額を約358億金マルクに削減し、支払期間は59年間に緩和されましたが、このヤング案は世界恐慌の激化と共に実施不可能となり、1932年にローザンヌ会議で修正されて賠償総額は30億金マルクに迄引き下げられましたが、翌1933年に成立したヒトラー内閣はこれを破棄します。

名言集

"Power is something to give, if one robs you not to take away it will be burned down"(英語)

"Macht ist etwas zu geben, wenn man dich beraubt, es nicht wegzunehmen, wird es niedergebrannt"’(ドイツ後)

「権力は授かるもの、奪うものではない無理に奪いとればその者は焼き尽くされる」

パウル・フォン・ヒンデンブルク


続く・・・



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2018/04/07

歴史を歩く190

41ヴェルサイユ体制下の欧米⑤

5フランスの政情

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ポン=タ=ムッソン - ドイツ軍の到着前に爆破された橋

 フランスは第一次世界大戦で国土が戦場と成り、戦争の被害が最も大きく、戦勝国にもかかわらず戦後経済的・社会的苦難に直面しました。
その為、戦後のフランスではドイツに対する報復姿勢が強く、パリ講和会議ではドイツへの制裁を強く要求し、出来る限り重い賠償義務を課そうとします。

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ジョルジュ・バンジャマン・クレマンソー(Georges Benjamin Clemenceau、1841年9月28日 - 1929年11月24日)

 パリ講和会議にフランス全権として出席したクレマンソーは、1920年の大統領選挙に敗北して政界を引退し、1922年に首相となったポワンカレ(ポアンカレ、在任1922年~24年)は、ドイツに対する強硬政策を取り、1923年1月にはドイツの賠償不履行を理由にベルギーと共にルール占領(ルール出兵)を強行しますが、この背景にはフランスが、ドイツの賠償金総額の52%を受け取る事になっていた為でした。

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1923年、エッセン市内を行進するフランス軍騎兵

 しかし、ドイツがストライキ等で抵抗した為にドイツ経済は混乱に陥り、フランスも得るところなく1925年にはルールから撤兵を余儀なくされます。
こうした対独強硬策の失敗が明らかになる中で、ポワンカレ内閣は国民の支持を失い、1924年5月の総選挙では左派連合が過半数を獲得し、急進社会党のエリオ(1872年~1957年)を首班とする左派連合内閣(1924年~25年)が成立します。

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アリスティード・ブリアン(Aristide Briand, 1862年3月28日 - 1932年3月7日)

 左派連合内閣で外相を務めたブリアン(1862年~1932年)はドイツとの協調に政策を転じ、ルールから撤兵(1925年5月)、ロカルノ条約(1925年10月)を結んで独仏関係の好転に努力し、彼はその功績によってノーベル平和賞を受賞しました(1926年)。
左派連合内閣はソ連を承認する(1924年10月)等対外問題では実績を上げましたが、国内ではインフレを克服できず、1926年7月には左派連合内閣に替わって、ポワンカレ挙国一致内閣(1926年~29年)が成立し、ポワンカレは蔵相を兼任してインフレと財政危機の克服に努めた結果、フランス経済は急速に回復し、この内閣でも外相を務めたブリアンは不戦条約(1928年)を提唱して国際平和に貢献しました。

名言集

"It is much easier to start a war than to get peace."

「平和を手に入れるより、戦争を始める方がはるかに易しい 」


続く・・・




2018/03/31

歴史を歩く189

41ヴェルサイユ体制下の欧米④

4戦後のイギリス


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第一世界大戦時、イギリスで男性職場に進出した女性
左上:応急看護部隊・右上:ウーマンズ・ランド・アーミー(女性農場労働団体)
左下:イギリス陸軍航空隊伝令・右下:ボイラー石炭補充員


 第一次世界大戦後のイギリスは戦勝国ですが、戦争による損害も大きく、戦前の国際的に優越した地位を失っていました。イギリスは戦争を通じてアメリカの債務国となり、戦後のヨーロッパの購買力の減少やアメリカや日本の進出等によって輸出が大幅に減少し、もはや戦前の様な経済的地位を維持する事は不可能でした。

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デイヴィッド・ロイド・ジョージ( David Lloyd George,1863年1月17日 - 1945年3月26日)

 挙国一致内閣(1916年~22年)を率いて戦争遂行に尽力したロイド・ジョージは、1918年末の総選挙でも勝利し、パリ講和会議では大きな役割を果たしますが、この間、1918年には第4回選挙法改正を行い、21歳以上の男子と30歳以上の夫人に選挙権を拡大した結果、1918年末の総選挙はイギリスで最初の普通選挙による選挙と成りました。

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サフラジェットの闘い:イギリスの女性参政権獲得

 第一次世界大戦後のイギリスで注目される出来事は、労働党の躍進・労働党内閣の成立です。
1922年、保守党が連立から離脱したため、ロイド・ジョージ内閣は総辞職し、11月に総選挙が行われ、1920年の恐慌による失業者の増大・自由党の内部分裂という状況の基で行われたこの選挙で、労働党は142議席を獲得して保守党に次ぐ第2党に躍進し、翌1923年12月に行われた総選挙では保守党は過半数の議席を確保できず、保守党258議席・労働党191議席・自由党159議席の配分となり、
1924年1月、自由党と連立した労働党が初めて政権に就き、マクドナルドを首相とする労働党内閣が成立しました。

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ジェームズ・ラムゼイ・マクドナルド(James Ramsay MacDonald、1866年10月12日 - 1937年11月9日)

 マクドナルド(1866年~1937年)は農家に生まれ、小学校卒業後は代用教員をしながら学び、18歳でロンドンに出てジャーナリスト等を経て独立労働党に入党しました(1894年)。労働代表委員会が成立すると書記となり、労働代表委員会が労働党と改称した年に下院に当選 (1906年)、後に党首となります(1911年)。第一次世界大戦では非戦論を唱えて売国奴と非難され、1918年の選挙では落選しましたが、1922年には当選して再び党首に選ばれ、1924年に自由党の支持を得て最初の労働党内閣を組織します。

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1924年10月、撤退のため、ドルトムント市内を行進するフランス軍

 マクドナルドは外相を兼ねてソ連の承認・ドーズ案の成立やフランスのルール撤兵等国際協調に寄与しましたが、マクドナルド内閣は僅か10ヶ月の短命に終わり、1924年末に第2次ボールドウィン保守党内閣(1924年~29年)が成立し、この保守党内閣の時、1926年に開かれたイギリス帝国会議で「イギリスと自治領は、相互に平等であり、内治外交いずれの面でも互いに従属することなく、しかも王に対する共通の忠誠によって結ばれ、イギリス連邦の一員として自由に連合している。」と云う宣言が行われ、従来のイギリス帝国に代わってイギリス連邦が事実上成立しました。 

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株式暴落を告げる新聞紙面

又1928年には第5回選挙法改正が行われ、21歳以上の総ての男女に選挙権が与えられ、1832年の第1回選挙法改正以来約100年か経て終に普通選挙が完成しました。翌1929年5月に行われた総選挙では労働党が初めて第1党となり、第2次マクドナルド労働党内閣(1929年~31年)が成立しましたが、やがてイギリスも世界恐慌に巻き込まれる事になります。

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イースター蜂起(アイルランドの誕生)

 第一次世界大戦直前の1914年6月に長年に渡って審議されて来た、アイルランド自治法案が成立しましたが、第一次世界大戦の勃発によって実施が延期されます。しかし、イギリスからの独立を求めて結成されたシン・フェイン党(1905年結成)は即時独立を主張し、イギリスが対ドイツ戦に没頭していた1916年4月のイースター(復活祭)にタブリンで蜂起し、共和国樹立を宣言しますが鎮圧されます(イースター蜂起)。

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イースター蜂起の中心となった中央郵便局

 イースター蜂起に参加して以来勢力を拡大したシン・フェイン党は、1918年の総選挙で大勝し、翌年アイルランド議会を組織してデ・ヴァレラ(1882年~1975年、アメリカ生まれのアイルランド人)を大統領に選出してアイルランド共和国の成立を宣言しました(1919年)。この状況を目の当たりにしたロイド・ジョージ内閣は譲歩し、1922年に北部のアルスター地方を分離し、自治領としてアイルランド自由国(1922年~37年)を成立させます。しかし、デ・ヴァレラ等急進派は此れを承認せずに更に抗争を継続し、1932年に首相となったデ・ヴァレラは、イギリス国王に対する忠誠を拒んで完全独立の方策を進め、1937年に共和国を宣言して国号をエールと称し、イギリスはこれを黙認した結果、アイルランドは終に完全な独立国と成りました。

名言集

Human love is the root of all morals.
It is charity, humanism and social moral heart.

人間愛はすべてのモラルの根源である。
それは仁慈であり、ヒューマニズムであり、社会的道義心である。

David Lloyd George,


続く・・・

2018/03/18

歴史を歩く188

41ヴェルサイユ体制下の欧米③

3アメリカ合衆国の繁栄

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第一次世界大戦期アメリカのプロパガンダ・ポスター

 アメリカは第一次世界大戦中、連合国に軍需物資を供給し、借款を行って莫大な利益をおさめ、戦前の約35億ドルの債務を返済し、戦後は逆に約125億ドルの世界最大の債権国となりました。
又金の保有量も増加し、戦前の約19億ドルから戦後数年で約46億ドルとなり、世界の金の半数近くを保有する様になり、之と共にアメリカは世界の経済・金融を支配し、世界経済の中心はロンドンからニューヨークのウォール街へと移って行きました。

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1920年代のニューヨーク

 その一方で、戦後国内では伝統的な孤立主義が復活し、上院はヴェルサイユ条約の批准を否決した結果、国際連盟へ参加は叶いませんでしたが、他方では軍縮会議を提唱し、国際協調やドイツの賠償金問題等では指導的な役割を果たして行きます。

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ウォレン・ガマリエル・ハーディング(Warren Gamaliel Harding, 1865年11月2日 - 1923年8月2日)

 1920年に行われた大統領選挙で、共和党のハーディング(第29代大統領、在任1921年~23年)は「アメリカが今必要とするものは、英雄的行為でなくて休養である。妙薬でなくて平常さである。革命でなくて復古である。・・・手術でなくて安静である。」と述べ、「平常への復帰」をスローガンに掲げて当選しました。

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「黄金の20年代」ロウアー・マンハッタン(Lower Manhattan)

 ハーディングはワシントン会議(1921年~22年)を主催しますが、在任中に急病死した結果、副大統領のクーリッジ(共和党、第30代大統領、在任1923年~29年)が大統領に昇格し、「黄金の20年代」と呼ばれるアメリカ資本主義の全盛期に大統領を2期努めます。

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暗黒の木曜日

 更に1928年の大統領選挙でも共和党のフーヴァー(第31代大統領、在任1929年~33年)が当選し、彼は選挙演説の中で「今日我々アメリカ人は、どの国の史上にも未だ見られなかった程、貧困に対する最終の勝利に近づいている。・・・我々は神の加護によって、貧困がこの国から絶滅する日をやがて目の当たりに見るであろう。・・・」と述べ、自由放任主義による「永遠の繁栄」を主張しました。
しかし、大統領就任から7ヶ月後に起こった世界恐慌に対しては無為無策で、1932年の大統領選挙では民主党のフランクリン・D・ルーズヴェルトに大敗します。

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背後の看板には「世界で一番高い生活水準」「アメリカ式ほど素晴らしいものはない」と謳われている

 1921年から3代12年にわたって共和党政権が続き、共和党の伝統的な大企業保護政策の下で、自動車・化学・電気・映画・建築等の新産業が目覚しく発展し、アメリカは大量生産・大量消費による「永遠の繁栄」を謳歌し、又自動車・電話・家庭電化製品・ラジオ・映画の普及によって大衆社会・大衆文化が発展変化して行きます。

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K・K・K(クー・クラックス・クラン)

 しかし、一方ではアメリカ的な価値観が強調され(アメリカニズム)、ワスプ(WASP、ホワイト(W)・アングロサクソン(AS)・プロテスタント(P)の略)の利益を擁護しようとする保守的・排外主義的な傾向も現われ、1924年に成立した移民法では、アメリカへの移民の数が年間15万人に制限され、国別割り当ても強化されました。
又この移民法には、所謂「排日条項」が含まれており、日米関係が悪化する原因の一つとなり、又1920年代にはK・K・K(クー・クラックス・クラン)が復活して一大勢力として全国的に広まって行きました。

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女性参政権

この間、1920年には婦人参政権が実現し(1914年迄に12州で認められていた)、 1919年には有名な禁酒法が公布されますが(1917年に憲法修正が成立)、反って密造・密売が盛んとなり社会悪を増大させた結果1933年には廃止されました。

名言集

What I have to do tomorrow. Do it in today.

明日しなければならないこと。それを今日のうちに行いなさい。

Franklin Delano Roosevelt


続く・・・


2018/03/08

歴史を歩く187

gooブロクの皆様へ
SSL化で、おきてがみが、動作しなくなりましたが、訪問は、続けて行きます。


41ヴェルサイユ体制下の欧米②

2国際協調の高まりと軍備制限の進展

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イズミル奪還後、コナク広場に入るトルコ軍首脳

 ヴェルサイユ体制の下でも小規模な国際紛争は続発しました。
ギリシア・トルコ戦争(1919年~22年)・イタリアによるフィウメ占領(1919年)・ソヴィエト・ポーランド戦争(1920年)等が起こり、1923年1月にはフランス・ベルギーがドイツの賠償支払い遅延を理由に重工業地帯のルール地方を占領する出来事(ルール占領、ルール出兵)が発生しますがドーズ案の成立によって撤兵しました(1924年9月)。

ロカルノ条約
ヴィスコンティ城で開催されたロカルノ会議

 戦後の混乱が収まると、各国間に国際協調の機運が高まりました。
1925年に外相となったフランスのブリアン(1862年~1932年、1909年~1929年の間に11回首相を務めた)はルール占領の失敗後、ドイツとの協調に転じ、又ドイツのシュトレーゼマン(1878年~1929年、1923年に首相)も協調外交を推進した結果、フランスとドイツの関係が好転し、1925年10月にはフランス・ドイツ両国とイギリス・イタリア・ベルギー・ポーランド・チェコスロヴァキアの7カ国がスイスでロカルノ条約に仮調印し、12月にはロンドンでの正式調印に漕ぎ着けます。

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ラインラントの位置(黄色の地域)

 ロカルノ条約は、ドイツとフランス・ベルギー国境の現状維持と不可侵及び、ラインラントの非武装を確認したラインラント条約、国際紛争を仲裁裁判で解決する事を約した条約、そしてチェコスロヴァキアとポーランドがフランスと結んだ相互援助条約から成り、ドイツの国際連盟への加入を条約発効の条件としました。

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ロカルノ会議、ドイツ外相グスタフ・シュトレーゼマン
(Gustav Stresemann、1878年5月10日 - 1929年10月3日・左)

 ロカルノ条約の成立により、ドイツは1926年に国際連盟に加入し、常任理事国と成り、又ドイツとフランスの関係の好転により、ヨーロッパの国際関係は暫くの間安定期を迎えたのです(相対的安定期)。
このロカルノ条約の成立によって生まれたヨーロッパの国際関係をロカルノ体制と呼んでいます。

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不戦条約調印

 ロカルノ条約の成立によって国際協調の機運が益々高まるなかで不戦条約(ブリアン・ケロッグ協定)が調印されます。
不戦条約は、1927年にフランス外相ブリアンが提唱してフランスとアメリカの間で結ばれた条約を、アメリカの国務長官ケロッグ(在任1925年~29年)が世界各国に呼びかけ、1928年8月にパリで15カ国が調印した条約で、後には63カ国が参加しました。
参加国は国際紛争解決の為、及び国策遂行の手段としての戦争を放棄する事を誓いましたが、条文の規定が抽象的で制裁手段を欠いた結果、結局第二次世界大戦を防ぐことが出来ませんでした。

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ワシントン会議

 アメリカは国際連盟には参加しませんでしたが、戦後の重要な国際会議では指導的な役割を果たし、
1921年11月、アメリカ大統領ハーディング(在任1921年~23年)の提唱によってワシントン会議(1921年11月~22年2月)が開かれ、軍備制限問題と中国・太平洋問題が討議されましたが、主催国であったアメリカの目的は、米英海軍力の均等・日英同盟の破棄・日本の中国進出の阻止の3つにあったと言われています。

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日英同盟発足時の記念絵葉書

 会議では、最も対立の少なかった太平洋問題に関する四カ国条約が米・英・仏・日の間で結ばれ(1921年12月)、太平洋上の領土と権益の相互尊重と現状維持を約しました。
又第4条に於いて日英同盟の終了が宣言され、四カ国条約の成立によって日英同盟は自動的に解消し、翌22年2月には海軍軍備制限条約と中国に関する九カ国条約が結ばれました。

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各国主力艦(戦艦と巡洋戦艦)の保有トン数比率

 海軍軍備制限条約では、当時の主攻撃兵器の主力艦(戦艦と巡洋戦艦)の保有トン数比率が米・英・日・仏・伊で5・5・3・1.67・1.67と定められ、今後の10年間の主力艦の建造中止も定められます。
第一次世界大戦迄圧倒的な海軍力を誇ってきたイギリスとアメリカの比率が同じになった事は第一次世界大戦後の国力の変化をよく示しており、又日本は米・英各10に対して日本7の比率を主張しましたが最終的に5・5・3の比率を受け入れています。

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1917年協定締結時のワシントンにおける石井菊次郎とロバート・ランシングによる記念写真

 九カ国条約では米・英・日・仏・伊・中国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの9カ国が中国の主権・独立及び領土保全の尊重、中国に於ける門戸開放・機会均等を約しました。
第一次世界大戦中に全権大使石井菊次郎とアメリカ国務長官ランシングの間で結ばれた石井・ランシング協定(1917年11月、アメリカは日本の中国に於ける特殊権益を認め、日本は中国に対する機会均等を認めると云う内容)は九カ国条約の成立によって存在意義を失い、1923年4月に破棄されます。
又日本は山東省権益を中国に返還する事になり、日本の中国進出は「二十一カ条の要求」以前に戻りました。

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アジア・太平洋地域の戦後秩序

 ワシントン会議を中心に形成されたアジア・太平洋地域の戦後秩序はワシントン体制と呼ばれています。
ワシントン会議で主力艦が制限された結果、各国は以後補助艦の建造に主力を注ぎはじめ、1927年にジュネーヴで軍縮会議が開かれますが、フランス・イタリアは参加せず、米・英・日の三国で補助艦の制限について討議したものの合意に達せず、会議は決裂し、次いで1930年にはロンドン軍縮会議が開かれ、前年に始まった世界恐慌で軍備拡張の財政負担に苦しんでいた米・英・日は補助艦保有比率を10・10・7とする海軍協定を締結しますが、ロンドン海軍軍縮条約は6年間の期限付きであり、1935年から36年にかけて開催された、第2次ロンドン軍縮会議が事実上失敗に終わり、再び激しい建艦競争が始まる事と成りました。

名言集

Parents Children
"You do not have to be the same as your friends"
Let's say it.
What people do is different
To say that it is important,
Please give children a picture.

親は子供に
「友達と同じである必要はない」
と言ってやりましょう。
人がそれぞれ違うことは
大切なことだということを、
子供にぜひ教えてあげてください。

トーマス・ウッドロウ・ウィルソン・Thomas Woodrow Wilson

続く・・・