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2019/07/27

歴史を歩く213

44第二次世界大戦

2ドイツの短期決戦の失敗と占領地支配(その1)

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ポーランド侵攻


 1939年9月1日、ドイツ軍はポーランド侵攻を開始し、9月3日にイギリス・フランスがドイツに宣戦、遂に第二次世界大戦が勃発しまた。
ドイツ軍は、1500機以上からなる空軍部隊と戦車・装甲車を主力とする150万の地上部隊を投入し、いわゆる電撃戦(航空機と機甲部隊による圧倒的な集中攻撃で短期間に敵を壊滅させる戦闘方式)によってわずか3週間でポーランド軍を壊滅させ、9月27日にはワルシャワを陥落させます。

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ポーランド侵攻・握手を交わすドイツ将校と赤軍将校

 この間、ソ連軍も1939年9月17日にポーランドへ侵入し、先に締結されていた独ソ不可侵条約の秘密議定書でソ連の勢力範囲と定められていたポーランドの東半分を占領します。
ドイツとソ連は、ワルシャワ陥落の翌日に独ソ友好条約に調印すると共にポーランド分割協定を締結し、これによってポーランドは再び地図から消滅します。

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リトアニアに於けるユダヤ人迫害

 ソ連は、1939年9月~10月にかけて、エストニア・ラトヴィア・リトアニアの3国に相互援助条約の締結を強要し、軍事基地の譲渡とソ連軍の進駐を認めさせ、翌1940年8月にはバルト3国を正式に併合しました。

 尚、独ソ不可侵条約(1939年8月)の秘密議定書では独ソによるポーランド分割とフィンランド・エストニア・ラトヴィア及びベッサラビアをソ連の勢力範囲とすることが認められていましたが、更に独ソ友好条約(1939年9月)によってリトアニアもソ連の勢力範囲に加える事が認められています。

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フィンランド陸軍のドイツ製Ⅲ号突撃砲(Sd.Kfz.142)

 ソ連はフィンランドに対してもカレリア地方等の領土割譲要求を突きつけ、フィンランドがこれを拒否すると、1939年11月にフィンランドに侵入し、ソ連・フィンランド戦争(1939年11月~40年3月)を引き起こし、フィンランドはイギリス・フランスの支援を受けて一時はソ連軍を撃退しますが、ソ連は大軍を投入してフィンランドを破り、カレリア地方等を割譲します。

 ソ連・フィンランド戦争が始まると、フィンランドはソ連を侵略国として国際連盟に提訴し、国際連盟は1939年12月にソ連を除名しますが、既に日・独・伊が国際連盟を脱退していた為、国際連盟から除名されたのはソ連だけでした。

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まやかし戦争・奇妙な戦争

 第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍は9月末迄にポーランドの西半分を占領しますが、その間西部戦線ではイギリス・フランス軍は攻勢に出ず、両軍は対峙したままで何ら軍事行動を起こさず、その為、このような状況は当時「奇妙な戦争・まやかし戦争」と呼ばれ一部にはクリスマス迄には、この戦争は終わるとの楽観論も流布していました。
ヒトラーは10月にイギリスに対して和平を呼びかけますが、チェンバレンはこれに応じず、1940年4月9日、ポーランド侵攻以来目立った軍事行動を起こしていなかったドイツ軍が、突如として行動を開始しました。

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デンマーク・オベンローのドイツ軍Ⅰ号戦車(Panzerkampfwagen I Ausf A)

 ドイツは同日、中立国のデンマークとノルウェーに対して最後通牒を突きつけ、ドイツ軍を進駐(ウェーザー演習酢酸)させ、最後通牒を受諾したデンマークを占領、受諾を拒否したノルウェーを攻撃してオスロを占領し、ノルウェーはロンドンに亡命政権を樹立して抗戦を続けましたが1940年6月に降伏します。

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ダンケルク撤退(ダイナモ作戦)

 ドイツ軍による西部戦線での大攻勢は、1940年5月10日、オランダ・ベルギーに対する奇襲攻撃で始まりオランダは5日間で降伏し、ベルギーも5月末に降伏しました。
この間、ドイツ軍はセダン付近でマジノ線を突破し、ドーヴァー海峡へ向けて進撃し、この結果ベルギー領内に進駐していたイギリス・フランス軍はダンケルク(ドーヴァー海峡に面したフランスの港市)へ退却し、30万以上の将兵がダンケルク(ダイナモ作戦)からイギリス本土へ退却した(1940年5月27日~6月4日)。
このダンケルク撤退は、軍用船舶以外に民間の商船、漁船、更にはスクーナー迄動員した撤退で、結果イギリス軍の膨大な軍需物資は、ドイツ軍に鹵獲される結果と成りました。

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凱旋門前を行進するドイツ占領軍

 1940年6月5日、ドイツ軍はソンム(パリの北方)で総攻撃を開始し、6月14日にはパリに入城、ドイツ軍が見せた破竹の進撃に刺激される様に、イタリアのムッソリーニは6月10日にドイツ側に立ってイギリス・フランスに宣戦を布告します。
フランス政府は、パリ陥落の3日前にパリからツールに移り、6月14日にはボルドーへ移動、2日後にレイノー内閣(1940年3月、ダラディエ内閣の総辞職後に成立)は総辞職し、ペタン(第一次世界大戦で活躍したフランスの国民的英雄)内閣が成立しますが、ペタン内閣は翌日ドイツに降伏し(1940年6月17日)、6月22日に休戦条約を締結します。

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ヒトラーと握手を交わすペタン(コラボラシオン: Collaboration・利敵協力)

 その結果、フランスの国土の約5分の3はドイツの軍事占領下におかれ、残りの地域はペタン政権の統治下に置かれる事となり、ペタンは国家元首の地位に就き、中部フランスのヴィシーを首都とする対ドイツ協力政権を樹立した結果、この政権は以後ヴィシー政府(1940年7月~44年8月)と呼ばれ、ヴィシー政府は第三共和国憲法を廃止した為、ヴィシー政府の成立によって第三共和政(1870年~1940年)は崩壊しました。

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シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴール(Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle、1890年11月22日 - 1970年11月9日)

 この間、シャルル・ド・ゴール(1890年~1970年)は、フランスの降伏と同時に、ロンドンで自由フランス政府の樹立を宣言し(1940年6月18日)、対ドイツ抗戦を呼びかけてレジスタンス(非合法抵抗運動)を指導しました。

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ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル( Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, 1874年11月30日 - 1965年1月24日)

 フランスの降伏によって西ヨーロッパでドイツの支配を免れたのは、中立国を除きイギリス一国となり、1940年4月にチェンバレン首相が辞職し、これまでチェンバレンの宥和政策を批判してきたチャーチルが首相の就任、チャーチル挙国連立内閣(1940年4月~45年7月)が成立しました。

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ロンドン大空襲(地下鉄駅に避難したロンドン市民)

 ヒトラーはイギリス本土上陸作戦を進めるには制空権を握ることが不可欠であるとし、1940年8月からイギリス本土に対する空襲を開始し、特に9月以降はロンドンをはじめとする(ロンドン大空襲)主要な工業都市に対する空襲を続け、激しい空襲は1ヶ月にわたって連日続けられました。
しかし、イギリスはチャーチルの指導のもとでこの激しい空襲に耐え抜き、ドイツ軍のイギリス本土上陸を阻止したのです。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成27年8月22日小倉南区南っ子通り重住交差点
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2019/07/13

歴史を歩く212

44第二次世界大戦

1 ナチスの侵略と開戦

オーストリア併合
オーストリア併合・首都ウィーン市内を視察するヒトラー・車両はダイムラー・ベンツG4 

 再軍備宣言(1935年3月)・ラインラント進駐(1936年3月)を強行したヒトラーは、1937年11月に外相・国防相・陸海空軍の総司令官等の秘密会議でオーストリアとチェコスロヴァキアを武力で併合する決意を表明しました。

 オーストリアでは、既に1934年7月にオーストリア・ナチス党員が政権獲得を企てて首相を暗殺する出来事が起こっていたのですが、この計画は失敗に終わり、以後ドイツから資金を得たオーストリア・ナチスによるテロが続いた結果、オーストリア政府はナチスの取締りを強化していました。
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クルト・アロイス・ヨーゼフ・ヨハン・エドラー・シュシュニック( Kurt Alois Josef Johann Edler Schuschnigg、1897年12月14日 - 1977年11月18日)

 ヒトラーは、1938年2月12日にオーストリア首相シュシュニックをドイツ、ベルヒテスガーデンに呼びよせ、軍事占領で脅しつつ、内相の地位をオーストリア・ナチス党員アルトゥル・ザイス・インクヴァルトに与える事、投獄中のオーストリア・ナチス党員を釈放する事等の要求をつきつけ、これに署名させます。
ドイツより帰国したシュシュニック首相が3月9日に国民投票を発表すると、ヒトラーは11日に国民投票の中止等を要求する最後通牒を突きつけオーストリア併合作戦「オットー計画」を発動しました。

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ナチス党旗を振りナチス式敬礼でドイツ軍を迎えるオーストリア国民

 3月12日未明、ドイツ軍はオーストリアの新首相インクヴァルト(オーストリア・ナチス党員)の要請に応ずるという形でオーストリアに進撃し、3月13日にオーストリア首相はドイツとの合併を宣言、翌14日、ヒトラーはウィーンに入いります。
こうしてオーストリアを併合したヒトラーは次の目標をチェコスロヴァキアに向けたのでした。
チェコスロヴァキア北西部、チェコとドイツの国境地帯はズデーテン地方と呼ばれ、多くのドイツ系住民が居住しており、1938年9月、ヒトラーはズデーテン地方のドイツ系住民が迫害を受けているとして、ズデーテン地方のドイツ人の民族自決権を援助するとの演説を行いました。
3日後にヒトラーと会見したイギリス首相ネヴィル・チェンバレン(1869年~1940年、在任1937年~40年、保守党、ジョゼフ・チェンバレンの次男)は、「世界戦争も辞さない」というヒトラーに屈し、フランスと共にチェコに圧力をかけズデーテン地方の割譲に同意させます。

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ミュンヘン空港・チェンバレン首相とエドワード・ウッド外務大臣、出迎えるリッペントロップ外相
(機体はロッキードL14エレクトラ)


 しかし、ヒトラーはズデーテン地方の即時割譲を要求し、チェコ政府が総動員令を発した結果、戦争の危機が迫りました。
ヨーロッパの平和を維持する為に是が非でも戦争を避けたいと考えていたチェンバレンは、ムッソリーニに調停を依頼し、国際会議の開催に成功します。

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ミュンヘン会談・チェンバレン・ダラディエ・ヒトラー・ムッソリーニ・チアノイタリア外相

 1938年9月29日、ズデーテン問題に関する英・仏・独・伊の4カ国首脳会議がミュンヘンで開かれ、このミュンヘン会議では、開戦で恫喝しつつズデーテン地方の即時割譲を求めるヒトラーに対して、イギリスのネヴィル・チェンバレンとこれに追随するフランスのダラディエ(1884年~1970年、在任1833年、34年、38年~40年)は宥和政策を選択し、ヒトラーからもうこれ以上の領土要求はしないとする約束を得て、ズデーテン地方の即時割譲を認めるミュンヘン協定に調印し、10月1日、ドイツ軍はズデーテンに進駐します。

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ミュンヘン会談から帰国し、協定について説明するチェンバレン首相

 宥和政策とは、第二次世界大戦前にイギリス・フランスがナチス・ドイツに対してとった妥協政策で、ナチス・ドイツが反共産主義を唱えている為、その侵略の矛先はソ連に向けられると考え、出来るだけナチス・ドイツとの対決を避け、その要求を受け入れる政策を採ったものです。
先のイタリアによるエチオピア侵攻(1935年~36年)に対して英・仏が見せた態度やスペイン内戦(1936年~39年)に対して英・仏が採った不干渉政策も宥和政策の現れですが、このミュンヘン会談でイギリスが採った政策が宥和政策の典型でした。

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ズデーテンランド併合により国境標識を破壊するドイツ系住民

 ミュンヘン会談には、当事国のチェコスロヴァキアや隣接国のソ連は招かれず、この為ソ連はイギリス・フランスがチェコスロヴァキアを犠牲にしてドイツの攻撃をソ連に向けさせようとしていると考え、イギリス・フランスに対して不信感を強めて行きました。
ミュンヘン会談によって戦争の危機は一時には回避されましたが、イギリス・フランスが見せた宥和政策はヒトラーをますます増長させる結果と成りました。

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進駐するドイツ軍を迎えるズデーテンラントの住民。1938年10月5日

 1939年3月15日、ヒトラーはミュンヘン協定を破棄してチェコスロヴァキアを解体、西半分のベーメン(ボヘミア)とメーレン(モラヴィア)を占領して保護領とし、翌日には東半分のスロヴァキアを保護国にする事によって第一次世界大戦後に独立したチェコスロヴァキアは崩壊しました。
チェコスロヴァキアを手中に収めたヒトラーは、次の目標をポーランドに向け、1939年3月21日にポーランドに対してダンチヒ(ヴェルサイユ条約によって国際連盟管理下の自由都市とされていた)の返還とポーランド回廊(ヴェルサイユ条約で海への出口としてポーランドに与えられたドイツ本国と東プロイセンとの間の旧ドイツ領地帯)を通過する鉄道や道路の敷設権を要求しました。

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現ポーランド・グダニスク(旧ダンチヒ)

 先のチェコスロヴァキア解体に衝撃を受けていたチェンバレンは、このヒトラーの要求を見て、ようやく宥和政策を捨て、3月末にフランスと共にポーランドに対する援助を確約し、ポーランドもドイツの要求を拒否しました。
これに対してヒトラーは4月初めに、ポーランド攻撃の準備を9月1日迄に完了することを命じ、4月末にはポーランドとの不可侵条約と英独海軍協定を破棄し、この間ムッソリーニはアルバニアを併合し(1939年4月)、ドイツと軍事同盟条約を締結します(1939年5月)。

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リペントロップ・ドイツ外相とスターリン

 一方、イギリスとフランスは4月中頃からソ連と軍事同盟締結の交渉行っていましたが、両者は相互に不信感を抱いていた為に、英・仏・ソ連の交渉は遅々として進まず、この時イギリス・フランスの真の目的はドイツを東方に向けさせてソ連と敵対させる事にあると考えたスターリンは、ソ連が東アジアでも日本と敵対しており(1939年5月~9月、満州西部国境で日ソ両国軍が衝突するノモンハン事件が起きていた)、イギリス・フランスとの交渉が進まない以上、ドイツと提携した方が得策と考えます。

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ノモンハン事件でソビエト軍に鹵獲された九五式小型乗用車(くろがね四起)

 ポーランド問題でイギリス・フランスと対立する様になったヒトラーも、ソ連と提携して背後を固めた方が得策と考え、対ソ接近を図り、その結果、ドイツとソ連は、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結、このファシズムと共産主義両国の提携は全世界に衝撃を与え、翌々日の25日にはイギリスとフランスはポーランドと相互援助条約を締結します。

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ポーランド侵攻・1939年9月、ドイツ軍1号戦車(手前)と2号戦車(奥2両I、右後方のハーフトラックはSd Kfz 251と推定

 1939年9月1日早朝、ナチス・ドイツは宣戦の予告もなしにポーランド攻撃を開始、9月3日、イギリスはフランスと共にドイツに宣戦し、遂に第二次世界大戦(1939年9月~45年8月)が勃発しました。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成30年7月18日 北九州市小倉南区若宮神社境内



 
2019/06/25

歴史を歩く211

43ファシズムの台頭⑨

8スペイン内戦と枢軸の結成

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ミゲル・プリモ・デ・リベラ(Miguel Primo de Rivera y Orbaneja, 1870年1月8日 - 1930年3月16日)

 スペインは、第一次世界大戦に於いて中立を保った結果、好景気が続いたものの、戦後不景気となり、政治不安に加えて労働運動が激化して行きます。
この様な状況の中で、1923年9月、プリモ・デ・リベラ将軍(1870年~1930年)がクーデターを起こし、国王アルフォンソ13世(在位1886年~1931年:ブルボン朝最後の国王)の承認のもとに軍事独裁政権を樹立し、反王制派を弾圧する等反動政治を行いました。

 世界恐慌の影響でスペイン社会が混乱に陥ると、知識人・学生・労働者等による反独裁運動が起こり、1930年1月にリベラ将軍は辞職に追い込まれ、独裁政権は崩壊、その後は共和派や社会主義者による反王政運動が勢力を盛り返します。

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アルフォンソ13世(Alfonso XIII、1886年5月17日 - 1941年2月28日:在位:1886年5月17日 - 1931年4月14日)。

 1931年4月に行われた地方議会選挙で共和派が大勝、共和派は国王の退位を要求し、国王アルフォンソ13世は翌々日に国外に亡命して、ここにブルボン朝は崩壊、共和政が成立しました(スペイン革命、スペイン共和革命)。
スペイン革命によって成立したアサーニャ内閣(1931年~33年)は民主主義改革を進め、同年12月にはドイツのヴァイマル憲法を基本にした民主的な共和国憲法が制定されますが、最大の課題であった土地改革が不徹底であり、アサーニャ内閣は左派と右派の両方から攻撃され、1933年9月に総辞職に追い込まれます。

 1933年11月に行われた選挙では地主・軍部・カトリック教会・資本家に支持された右派勢力が過半数を奪回、以後反動化が進み、所謂「暗い2年間」が始まりました。
その様な世相を反映して、右派勢力に対抗する為にスペインでも左派共和主義諸政党・社会党・共産党の間で人民戦線が結成され(1936年1月)、1936年2月の選挙では人民戦線派が大勝し、人民戦線内閣が成立しました。

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マヌエル・アサーニャ・ディアス(Manuel Azaña Díaz、1880年1月10日 - 1940年11月3日)

 アサーニャが首相、次いで大統領(在任1936年~39年)に選ばれ、人民戦線内閣は土地改革・教会の特権剥奪等の改革に着手しますが、これに対して人民戦線内閣に反対する軍部・地主・教会に支持されたフランコ将軍は、1936年7月にスペイン領モロッコで反乱を起こし、スペイン内戦(スペイン反乱、1936年7月~39年3月)が始まりました。

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スペイン内戦・倒れ落ちる兵士(ロバート・キャパ)

 フランコ(1892年~1975年)は陸軍士官学校を卒業後(1910年)、モロッコの民族運動鎮圧に従事し、30歳の若さで少将に昇進、1935年には参謀総長に就任しますが、翌年人民戦線内閣が成立するとカナリア諸島守備隊司令官に左遷され、やがてモロッコで反乱を起す事になります。

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フランシスコ・フランコ・バアモンデ(Francisco Franco Bahamonde、1892年12月4日 - 1975年11月20日)

 フランコ将軍がモロッコで反乱を起こすと、スペイン本土でも各地で反乱が起こり、政府軍との戦闘が始まり、マドリードやバルセロナ等では政府軍や労働者によって反乱は鎮圧されますが、反乱軍は7月末迄にはモロッコ・スペイン南部・スペイン北部等、国土の約3分の1を占領しました。

 更に8月に入ると、ドイツ・イタリアのファシズム政権による援助を得たフランコ将軍が本土に上陸し、9月末にはマドリードを包囲し、反乱軍はスペイン全土の約3分の2を占領しますが、このスペイン内戦に対して、イギリスとフランスは戦争の拡大を恐れ、加えてスペインの共産化を恐れ、不干渉政策を選択します。

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空襲後のゲルニカ

 1936年9月にイギリスとフランスの主導によってスペイン内戦不干渉委員会が成立し、英・仏・独・伊・ソ連等27カ国が参加した。
しかし、ドイツとイタリアは不干渉協定を無視して公然とフランコ将軍側に軍事援助を行い、特にドイツはこのスペイン内戦を新兵器の実験台とし、1937年4月にはスペイン北部の小都市ゲルニカを空軍(コンドル軍団)による無差別爆撃によって徹底的に破壊しました。
スペイン生まれの画家ピカソ(1881年~1973年)の「ゲルニカ」はこの出来事を素材として戦争への憎悪をこめて描かれた作品として有名です。

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国際旅団のソ連製T-26戦車・Wikipediaより

 これに対してソ連は人民戦線政府の援助を声明し(1936年9月)、国際義勇軍と共に政府軍を援助します。
国際義勇軍には世界各地からファシズムと戦う為に多くの自由主義者等が参加し、中でも、スペイン内戦を背景に描かれた『誰がために鐘は鳴る』(1940)の著者であるアメリカの作家ヘミングウェー(1899年~1961年)やイギリスの作家オーウェル、そしてフランスの作家マルロー等が有名です。

 こうしてスペイン内戦は国際戦争と化し、第二次世界大戦前哨戦の様相を示しました。
政府軍は頑強に抵抗を続けますが、イギリスとフランスは最後迄不干渉政策を続けた結果、ドイツとイタリアの援助を得たフランコ側が優勢となり、1939年1月にはバルセロナを占領し、3月にはついにマドリードも陥落、スペイン内戦はフランコ側の勝利に終わっています。

 フランコは国家主席となり、その後総統(国家主席兼首相)に就任して独裁体制を樹立し、1975年に死去する迄その地位を維持します。

日独防共協定
日独防共協定に調印するリッベントロップとそれを見守る武者小路公共・Wikipediaより

 ヒトラーとムッソリーニは、エチオピア侵入・ラインラント進駐・スペイン内戦等を通じて接近し、1936年10月にはベルリン・ローマ枢軸を結成し、ドイツは日本とも、コミンテルンの活動に対する情報交換や共同防衛を約して、1936年11月に日独防共協定を締結、翌1937年11月には、イタリアが日独防共協定に参加して日独伊三国防共協定となり、イタリアは同年12月に日・独に続いて国際連盟を脱退、こうして日本・ドイツ・イタリアのファシズム国家による「ベルリン・ローマ・東京枢軸」が成立しました。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成30年6月16日 福岡県田川郡添田町添田公園にて

2019/06/03

歴愛を歩く210

43ファシズムの台頭⑧

7抗日民族戦線の成立と日中戦争(その2)


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張 学良(1901年6月3日 - 2001年10月14日)

 蒋介石は陜西省北部の共産党の根拠地に対する攻撃を継続、張学良の東北軍と楊虎城の西北軍を派遣して更なる攻撃を命じます。

 張学良の指揮する東北軍は、満州事変で故郷を追われて華北に移動した軍隊で、その将兵達は満州の地に戻って日本軍と戦う事を望んでいました。
内戦停止・一致抗日に傾いた張学良は共産党と協定を結び、1936年前半以後東北軍と共産党軍は停戦状態にあったのです。

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華清池

 1936年12月、紅軍との戦闘に消極的な張学良と楊虎城を督戦する為に蒋介石自ら、西安に乗り込んで来ます。
張学良は蒋介石に内戦停止と抗日の必要を強く訴えますが、蒋介石はこれを拒否、意を決した張学良は、1936年12月12日未明、西安郊外の華清池(玄宗皇帝と楊貴妃で有名な地)にあった蒋介石の宿舎を軍隊で襲撃し、蒋介石を捕らえて監禁します。

 張学良は、国民党の改組・内戦停止・政治犯の釈放等8項目を宣言し、蒋介石に政策の転換を迫りますが、蒋介石はこれに応じず、新たな内戦の危機が迫っていました。

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軟禁中の蒋介石と関係者:Wikipediaより

 この時、中国共産党は周恩来を西安に派遣して蒋介石を説得し、事件の平和的な解決に大きな役割を果たし、最終的に蒋介石は説得に応じて内戦の停止等8項目を認める事を約束して25日に釈放されて南京に戻ります。
この一連の出来事が、後に西安事件と呼ばれる有名な事件です。

 この西安事件を契機として、1927年以来10年に及んだ内戦は停止され、日中戦争が勃発すると第二次国共合作が成立(1937年9月)、抗日民族統一戦線が結成されました。
この事件により中国全土の抗日気運は高まり、日中の対立は避けられないものと成りました。

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尾崎秀実・リヒャルト ゾルゲ
  
 又当時朝日新聞社の記者でソビエト連邦のスパイであった尾崎秀実は、スターリンが蒋介石の暗殺を望んでいないという情報を元に蒋介石の生存や抗日統一民族戦線の結成など事件の顛末を正確に予測、対支分析家として近衛文麿の目に止まり近衛の私的機関、昭和研究会へ参加する事となり、以後日本の中枢情報がゾルゲ諜報団を通じてソ連に筒抜けと成りました。

 張学良は西安事件の責任をとって蒋介石の後を追って南京に赴いて逮捕され、国家元首を監禁した罪により懲役10年の判決を受けますが、翌年特赦によって無罪となりますが、以後軟禁状態におかれ、中国近代史の表舞台から姿を消しています。

 1946年に重慶から台湾に移された後も自宅軟禁の生活が続いていましたが、1990年6月に90歳を祝う誕生パーティーが台北市で開かれ、張学良は約半世紀ぶりに公の場に姿を現して世界中から注目されました。
張学良はその後ハワイに移り住み、2001年10月に100歳で没しました。

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盧溝橋:Wikipediaより

 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習をしていた日本軍の頭上に10数発の小銃弾が発射されました。
誰が発砲したかについては現在でも不明ですが、日本軍は翌8日に宛平県城とその周辺の中国軍に攻撃を加え、これに中国守備隊が抵抗し、この盧溝橋事件が日中戦争(日支事変1937年7月~45年8月)の発端となり、以後日中両国は全面戦争に突入します。

 7月11日には停戦協定が結ばれますが、最初は不拡大方針を表明した第1次近衛内閣(1937年6月~39年1月)が同日、軍部の華北派兵を承認した為問題解決は困難となり、一方中国側でも共産党が7月8日に全民族の抗戦を呼びかけ、蒋介石も7月17日に抗戦の決意を表明するに至ります。

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1937年8月13日、日本軍は市内の正陽橋から北平(今の北京)に入城した。:Wikipediaより

 日本軍は、7月28日に総攻撃を開始し、天津・北京を占領、8月13日には上海でも戦端を開き、更に華北の要地を占領、12月13日には南京を占領しました。
この時、日本軍は多数の中国人を虐殺し(中国側の資料では30万人以上)、掠奪・暴行・放火を行い、世界から非難を浴びたのです(但し南京虐殺事件には諸説在り)。

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第2次国共合作・蒋介石と毛沢東

 この間、1937年9月に中国では第2次国共合作が成立し、紅軍は八路軍と改称して蒋介石の統率下に入り、抗日民族統一戦線が成立、日本軍は、1938年10月には広東と武漢(武漢三鎮)を占領したが、国民政府は政府機能を南京から武漢へ、更に重慶へ移し(1938年)、アメリカ・イギリス・ソ連は当時最新の兵器を援助して日本軍に対抗した結果、戦争は長期化・泥沼化し、早期解決は不可能となりました。

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汪兆銘

 近衛内閣は、1938年1月に中国との停戦協定を打ち切り、傀儡政権を立てる方針を固め、「国民政府を相手にせず」との近衛声明を発表し、戦争解決の道を自ら閉ざし1940年3月、重慶を脱出してきた国民党の有力者である汪兆銘(汪精衛、1883年~1944年)に新政権を立ち上げさせ、重慶政府に対抗して南京にもう一つの国民政府を樹立しますが、この政権は日本の傀儡政権で在り、中国民衆の支持を得られず、成果をあげることも出来ませんでした。
又同年11月には東亜新秩序の建設を声明し、侵略戦争の正当化を試みています。

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上海共同租界を行進する日本軍

 日本は、1938年末迄には華北(北支)・華中(中支)の大部分と広東周辺地域を占領しましたが、それは重要な都市とそれを結ぶ交通線を確保したにすぎず、周辺の農村は共産党や国民党軍の支配下にあり、日本軍はゲリラ戦に至る処で遭遇し、戦局は膠着状態に陥りました。
其の為この状況を打開する為に資源の確保を目的に南方への進出を企て、この日本の南方進出に対して、アメリカ・イギリス・中国・オランダはABCD包囲陣を形成して、日本に対する戦略物資の供給を停止、特にアメリカ合衆国のルーズベルト大統領は、日本への石油・鉄鉱石の輸出を全面停止しました。
この様な情勢に日本は、ルーズベルト大統領との会談を模索するも遂に叶わず、1941年12月には太平洋戦争に突入します。

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バルバロッサ作戦

 余談ながら、この時(1941年10月~12月)ソビエト連邦は、独ソ不可侵条約を無視して領土に侵攻したドイツ軍(バルバロッサ作戦:1941年6月)が、モスクワに迫りつつ在りました。
ソビエト軍首脳とスターリンは、日本軍が満州及び華北(北支)からシベリア南部に侵攻するか、ボルネオ・マレーシア方面の南方に侵攻するか、意見が分かれ、冬季の戦闘を熟知したシベリア師団をソビエト・満州(ソ満)国境からモスクワ防衛に充てるか否かの重大な判断を強いられていました。
日本軍の南進作戦情報を一早く収集して、モスクワに送った人物が、ゾルゲ(ゾルゲ事件)でした。
このゾルゲ情報により、スターリンはシベリア師団を急遽モスクワ防衛の為移動、ドイツ軍を敗走させる事になります。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年6月17日 北九州市小倉南区城野自宅


2019/05/19

歴史を歩く209

43ファシズムの台頭⑦

7抗日民族戦線の成立と日中戦争(その1)


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日支両軍の衝突を伝える朝日新聞

 1931年9月に始まった満州事変に対して、国内での対共産党軍作戦をより重視した蒋介石は、国際連盟の制裁措置に期待するとして不抵抗政策を採りましたが、この国民政府の不抵抗政策に対しては、国民から激しい抗議の声があがり、徹底抗戦と日本商品ボイコットを求める抗日救国運動が激化しました。

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中華ソヴィエト共和国国旗

 しかし、日本との全面戦争を回避しようとする蒋介石は、対日妥協策を重ね、「安内攘外」(まず国内の敵を一掃し、しかる後に外国の侵略を防ぐの意味)の政策の下に、上海事変の停戦協定を結ぶと(1932年5月)、1932年6月から50万の兵を動員して中華ソヴィエト共和国(1931年11月成立)に対する4回目の包囲攻撃を開始しました。

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熱河進攻:帝国陸軍自動車部隊

 この作戦は労農紅軍(中国共産党の軍隊)の抵抗と日本軍の熱河進攻(1932年2月)によって中止せざるを得ず、蒋介石は塘沽停戦協定(1933年5月)を結び華北問題に一時的な決着を付け、1933年10月から100万の大軍と200機の飛行機を総動員して5回目の包囲攻撃を開始し、四方から瑞金(中華ソヴィエト共和国の首都)へ進軍します。

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革命根拠地瑞金と龍珠塔(明代)

 圧倒的な物量を誇る国民党軍の攻撃によって、全滅の危機に晒された紅軍は、遂に江西省の拠点を放棄することを決定し、1934年10月に包囲網を突破して瑞金を脱出、約8万の労農紅軍主力は国民党軍の追撃を受けながら、貴州省・雲南省・四川省の辺境地帯に転進、万年雪を頂く嶺を越え・急流や大河を渡り・沼沢地の大草原を通り、総行程約12500km(地球の周囲は約4万km)の大移動の末、1935年10月毛沢東に率いられた労農紅軍は、陜西省北部に達し、この地の紅軍と合流を果たしました。

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長征(大西遷)

 この出来事が、中国共産党史上欠かすことの出来ない、長征(大西遷、1934年10月~36年10月)で、翌1936年10月には別の部隊も合流して長征は終結しました。
国民党軍による5回目の包囲攻撃の前には労農紅軍は約30万の兵力を擁していましたが、長征を終えて陜西省北部に合流した時の兵力は約3万に迄激減しています。

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延安・宝塔山

 毛沢東等は1937年に陜西省北部の延安に拠点を移し、延安は以後1949年に中華人民共和国が成立する迄、事実上中国共産党政権の中心的根拠地でした。
この間、1935年1月に長征途上の貴州省遵義で開かれた共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、それまで党の指導権を握っていたソ連留学生グループが退けられ、毛沢東の指導権が確立されたのです。

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長征(大西遷)・馬上の毛沢東

 毛沢東(1893年~1976年)は湖南省の農家に生まれ、師範学校在学中から左翼運動に参加し、卒業後北京で(1918年)、北京大学教授兼図書館長の李大釗(中国共産党の創立者の一人)の下で図書館助手として勤務し、この間にマルクス主義を学び、翌年、五・四運動が起こると湖南省の長沙で運動を展開し、1921年の共産党創立大会に湖南省代表として出席しました。
五・三○事件(1925年)以後は湖南の農民運動の指導にあたり、国共分裂(1927年)以後は井崗山に退いて根拠地を建設し、後に瑞金に移って中華ソヴィエト共和国を樹立して主席となり(1931年)、長征途上の遵義会議(1935年)で党内における指導権を確立し、労農紅軍を陜西省北部に導きました。

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延安幹部会で整風運動について講演する毛沢東

 1935年8月1日、長征途上の中国共産党は八・一宣言(「抗日救国のために全同胞に告げる書」)を発表し、この八・一宣言は日本の侵略に対して内戦の停止と抗日のための民族統一戦線の結成を呼びかけたもので、中国の民衆に大きな影響を与えています。

 1935年11月、国民政府は幣制緊急令を発し、幣制改革を断行し、この改革によって国民政府系の中央・中国・交通の3銀行の発行する銀行券のみが法幣(法定通貨)となり、今まで主に使われてきた銀と他の銀行が発行する銀行券の使用は禁止されます。
幣制改革によって国民政府による全国的な通貨・金融の統一が達成され、地方に残存する軍閥の力は弱められ、結果として浙江財閥の支配が一層強まり、蒋介石の独裁がより強化されました。

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北京正陽門に掲げられた打倒日本・帝国主義

 労農紅軍が陜西省北部に到着した頃、華北へ侵略した日本は河北省東部に冀東防共自治政府と名乗る傀儡政権を成立させ(1935年11月)ますが、こうした状況の中で、1935年12月9日、5000人以上の北京の学生たちは「日本帝国主義打倒」・「華北自治反対」・「内戦を停止し、一致して外敵にあたれ」等のスローガンを掲げてデモを行い、この十二・九運動は全国に大きな影響を与え、抗日救国運動が全国に広まる発端となりました。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年6月17日 北九州市小倉南区城野自宅