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2010/06/07

歴史の?その212:正史の中の疑問⑲:モヘンジョ・ダロ

<正史の中の疑問⑲:モヘンジョ・ダロ>

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 ヒマラヤ山脈に源を発するインダス川の下流、パキスタンに「モヘンジョ・ダロ(死の丘)」と呼ばれる丘が在ります。
1922年の事、モヘンジョ・ダロの正式な組織的発掘調査が、開始されこの丘全体に古代遺跡が埋蔵されている事が、確認されました。
およそ10年間にも及ぶ、大規模な発掘調査の結果、紀元前3500年頃から約1000年間程栄えた、インダス文明の町の遺跡が姿を表したのでした。

 現在から遡る事5500年前、まだ金石併用文明期の町が、整備された都市計画に基づいて建設されている事は驚異です。
東西、南北に主要道路が走り、多くの小道が、この主要道路に直角に交わり、更には下水設備迄整備された町でした。
発掘当時、下水設備等の整備が遅れていた国々にとって、この古代都市の存在は、驚くべきもので在った事は事実です。
下水設備だけでなく、生活ごみ、井戸、浴室も整備されていましたが、煮炊きをする場所、すなわち台所が無い面も当時の考古学者達を戸惑わせたものです。

 又、モヘンジョ・ダロには、公共浴場等の建築物は存在しますが、ギリシアやローマの都市の様に宮殿、神殿らしき建造物は発見されませんでした。
ここで、浴場の存在を単なる「入浴」と言う概念を外し、我が国の神道における「禊」の様な清めの儀式の場所と考えれば、モヘンジョ・ダロでは、水浴は宗教的な行事として、行われていたのではないかと推測され、神殿が存在せず、浴場が存在する事は、宗教的なものとして考えられています。
モヘンジョ・ダロは、インダス川の氾濫により、都市としての機能を喪失したと考えらています。

続く・・・
2010/06/03

歴史の?その210:正史の中の疑問⑰:蒙古来襲・後編

<正史の中の疑問⑰:蒙古来襲・後編>

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 歴史書には「一夜の大風雨によって、敵船の大半は転覆した」と記述され、7年後の「弘安の役」(1281年)の時も、台風によって蒙古軍は、敗退したというのが、従来の定説、通説でした。
近年「文永の役を終結させたのは、台風ではない」との見解が発表されますが、事実10月下旬に北部九州に到来する台風は、有りません。
又、信頼すべき資料、文献に台風の来襲を明示したものが無い事から、蒙古軍は予定して退却したのだと考えられるとしたものが、新設の根拠に成っています。

 この日の戦闘を有利に展開していた、蒙古軍は、なぜ撤退したのでしょう?
元の記録によれば「軍が整わず、又矢も尽きた為」と在り、更に「疲れた兵を持って、大敵と戦う事は不利」と判断した為でした。
蒙古軍は、作戦を中止して、撤退したのですが、確かにその夜、大風が吹きました。
高麗の記録や、京都における公家の日記でも、はっきりと「大風雨」又は。「逆風」が在った事が記されていて、疑う余地は無く、台風では無いにしても、蒙古軍の船団は、この気象状況によって大損害を受け、溺死する者が多数に及び、高麗では、未帰還者の数を13000余人と記しています。

 一日の戦闘に28000人の全軍が上陸していたとは、作戦上からも考え難く、上陸作戦の常識でも実際に上陸したのは、10000人程度と思われます。
従って、犠牲者の大半は、風による遭難で在り、過半数の軍勢は続いて上陸すべ船内に待機していたはずです。
しかも一帯の占領も行う事無く撤退した事は、日本側の抵抗の強さに圧倒された為かも知れません。
もし、翌日も新手を繰り出して、作戦を継続しておれば、恐らく大宰府迄突破され、現在の福岡市一帯は、大損害を被ったに違い有りません。

 蒙古軍はなぜ撤退したのか?としての疑問は依然として残る訳ですが、推察すると、騎馬戦、陸上戦に長じた蒙古軍も、海を越えての作戦は、不利で在ったと思われ、日本への遠征は2度試みられて、供に失敗し、後にはジャワ遠征(1291~1292)も又失敗し、ベトナムに対する遠征(1284年)も暴風雨による大損害を免れませんでした。

本編終了・・・
2010/06/01

歴史の?その208:正史の中の疑問⑮:唐に献上された日本の舞姫・後編

<正史の中の疑問⑮:唐に献上された日本の舞姫・後編>

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 渤海は、現在の中国東北部から朝鮮半島にかけて、勢力を伸ばした大国で、7世紀末に建国し、唐に通じた他、日本にも使節を送っていました。
渤海の使節は、日本に対しても、うやうやしく臣下としての礼をとり、貢物を捧げ、天皇の徳を慕って来朝したと称しました。
よって、奈良の朝廷は、使節の接待に国費を傾けたのでした。

 渤海からの貢物は何かと云えば、その領内に産する動物の毛皮が、主な物で、虎、ヒグマ、テンの皮、人参、蜂蜜が中心で、之に対して、朝廷は豪華な絹製品を大量に与えました。
実は、渤海が度々日本に使節を送る目的も、この恩寵の品が大きな目的であったと思われます。

 では渤海が「舞姫」を、どの様にして手にしたのかについては、流石に当時の記録にも「舞姫」迄与えたとは記録されていませんが、唐に献上している以上、日本から連れ帰ったに違いないのです・
渤海の使節が、来朝すると、連日の様に宴席が持たれ、朝廷からは、女樂を賜りとの記録も在り、宮中で召抱えている舞姫達を、宴席に侍らせたのでしょう。
唐に献上された「舞姫」とは、この事であると思われ、献上の年にもっとも近い、渤海の入朝は宝亀2年(771年)に7回目の使節が入京した事が、朝廷の記録に残されています。

 何人の「舞姫」が異郷の地に伴われたのか、渤海の都での境遇等は、今と成っては知る事も不可能ですが、少なくとも11人は、日本の女性として満州の広野に足跡を印し、この地で5年余りを送った後、長安に貢物として送られたのでしょう。
その翌年の遣唐使一行が、かつての同朋が長安に居る事を知っていたのか、朝廷がその事実を知っていたのかは解かりません。
11人の「舞姫」は一度、長安に現れ、おそらく宮廷の奥深く、永遠に姿を消したのでした。

 その後も、渤海と日本の国交は続き、朝廷の歓待したのは言う迄もありません。
聖武天皇の御世、神亀4年(727年)に初めて来朝し、醍醐天皇の御世、延長4年(926年)に渤海の国が滅亡する迄、その使節の来朝は、実に35回。
奈良時代から平安時代を通じて、常に渤海は忠誠な国で在り、その外交は巧みで在りました。

本編終了・・・
2010/05/29

歴史の?206:正史の中の疑問⑬:遣隋使は何回あったのか

<正史の中の疑問⑬:遣隋使は何回あったのか>

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 我国に於いては、推古天皇の御世、聖徳太子摂政の時、中国へ対等な国書を呈した事は、歴史を学んだ者なら皆知っています。
其の国書の文面が、「日出づる処の天子、書を没する処の天子に致す、恙なきや、云々」と云うもので在った事も、良く知られています。
当時の中国は、隋の治世で、その皇帝は、第二代の煬帝で在り、日本からの国書を見て、「無礼なり」として怒ったと伝えられています。
以上の事は全て、隋の歴史を記した「隋書」に紹介され、国書の文面も隋書の伝える通りで在り、大業3年(607年)の事でした。

 一方、遣隋使の事は「日本書記」にも記録されていますが、書記には、小野妹子を隋に遣わした事を伝えるのみで、国書の文面に関して何も伝えていません。

 やがて翌年(608年)、隋からも答礼使が来朝し、小野妹子も一緒に帰国し、答礼使が隋に帰国の際、小野妹子は再び隋に遣いします。
この時も国書を持参しますが、その文面は、書記にのみ以下の様に記録されています。
「東の天皇、つつしみて西の皇帝に白す。使人鴻臚寺の掌客、裴世清ら至りて、久しき憶、方に解けたり。季秋(9月)薄冷なり。尊はいかに。想ふに清悆ならん。これ、すなわち常のごとし。いま大礼蘇因高(小野妹子)、大礼乎那利(吉士雄成)らを遣はし、往かしむ。謹白不具」。

 之は、第二回国書として、有名で在り、天皇の称号を初めて用いた例としても、良く知られています。
歴史教科書にも先の「日出づる処・・・」の国書と供にこの書記の「東の天皇・・・」の国書を並べて掲げています。

 しかし、なぜ書記は、第一回の国書を掲げず、第二回の、文辞穏やかな国書のみを掲げたのでしょう?
この場合、日本書記の編纂が、時代を下った奈良時代に成されて事も、考慮しなければなりません。
編纂の際に文辞を改めた事も有り得る事で、書記に「東の天皇・・・」の称号が記されて在ったからと云って、聖徳太子の時代に「天皇」の称号が用いられた証拠には成りません。
 
 更に二つの国書を比べて読めば、その内容は、全く同じである事が判ります。
「日出づる処」は「東」で在り、「日没する処」は「西」の意味で、「つつがなきや」の個所を時節の挨拶にして、「謹白不具」で結び、他に加わっているのは、使人達の名前に過ぎません。

 文章として見た場合、書記の国書は、隋書の国書に比べて劣っていると思われ、国書の体裁も不自然で、書記の国書は、隋書の国書を書き改めた物に過ぎないと推定されます。
日本書記の編纂時、既に隋書は存在しており、参考にされたと考えられます。
更に問題の国書を、なぜ第二回の使節(608年)の時に掲げたのか、如何なる理由で、穏やかな文面に書き改めたのかも判っていません。

 他にも、遣隋使には、疑問点が多く、書記によれば、遣隋使の派遣は三回、607年、608年、614年で在り、前の二回が小野妹子、最後の一回が、犬上御田鍬(のちの第一回遣唐使)でした。
一方、隋書によれば、日本からの遣隋使は、三回入朝していますが、その年代は、600年、607年、610年で「この後、終に絶つ」と記されています。
書記と隋書で一致するのは、607年の回のみで、600年の遣隋使について、隋書には、皇帝(初代文帝)と使者の問答迄、詳しく伝えているにも関わらず、書記には、如何なる記述も存在せず、607年のものが、第一回の遣隋使とされているのは何故でしょうか?

 国書を持参した遣隋使が、第二回である点は、隋書も書記も一致しています。
但し、書記で608年に送った使者が、隋書では、第三回の使節として、610年の正月に入朝している事、更に書記では、もう一回、614年に使節が隋に赴いているが、隋書では「終に絶つ」として、日本からの使節入朝を伝えていません。

 単純な数の符合で考えられていた遣隋使の問題も、国書の問題も双方の記録文書を符合させると、不思議な一面が現れてくるのです。
聖徳太子の時代に行われた遣隋使は、実際何回在ったのでしょう?

続く・・・
2010/05/28

歴史の?その205:正史の中の疑問⑫:建文帝の行方・後編

<正史の中の疑問⑫:建文帝の行方・後編>

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 年は改まり建文元年(1399年)7月、終に燕王は挙兵します(靖難の変)。
挙兵の名目は、君側(皇帝の側)の悪を清めると云うものでありましたが、座して力を失うよりは、立って天下を定めよう、其れが燕王の意志であり、道えんの計で有ったに違い有りません。
建文帝は、互いに大軍を率いて善戦し、戦局は一進一退、3年余りの月日が流れ、最後の勝利は燕王に訪れました。

 1402年6月、燕王の軍は都の城門を埋め、建文帝は、援軍を願ったが終に空しく、城門を開き、文武百官は降伏します。
御殿には火の手が上がり、その中で皇后は自害、建文帝の所在も分からず、後に焼け跡から皇帝の遺骨が探し出されたものの、誰一人、皇帝の遺骸と確認できる者は居ませんでした。

 かくて、燕王は帝位に就き、世祖永楽帝と成り、その治世は22年間に及び、父の洪武帝に劣らぬ英主でした。
北方のモンゴルに遠征する事5回、内3回は、モンゴルの軍勢を打ち破り、又鄭和に命じて、大艦隊を率いて、南海遠征を行う事6回、その足跡は、遠くインド洋を越えアラビアに達し、1度はアフリカ沿岸に及びました。
南海の富は、中国に集まりますが、鄭和の遠征を建文帝の行方を探ろうとするものとの風説も、早くから湧いていました。

 永楽帝の時代、終に建文帝の消息は聞かれず、その後、皇帝の代の変わる事三度、正統帝の御世、正統5年(1440年)に及んでは、建文帝の末も38年の遠きに隔て、その時、老僧の姿と成って、宮中に建文帝は現れます。
勿論、正史には記録は無く、風聞を外史が伝えているのみなのですが・・・。

 外史によれば、「落城に及んで、建文帝は僧の姿となって、ひそかに城を抜け出し、名を改めて応文と称し、南の方を指して落ちていった。
各地を巡り、朝廷の追っ手を逃れつつ、山青く、雲白きところに、静に余生を送っていたのであった
宮中に赴くや、往年の臣下を認め、直ちにその名前を呼んだと云う。
老僧の左足には、建文帝と同じほくろが在った。
それより、廃帝は老仏と呼ばれ、宮中に向かえられ長寿を保った」と伝えられています。

 以上の段落は、外史の一節ですが、不幸の死を遂げた皇帝や英雄に関して、その遺骸が確認されぬ場合、必ずと言って良い程、その生存説が現れます。
やはり、生きていて欲しいという、人々の願いから発したものに違い無く、では建文帝の場合も同様に虚構に過ぎないのでしょうか?
全ては、遠い歴史の中の出来事となってしまいましたが、「ああ、数たると、数たらざると、・・・ただ天、これを知ることあらん」、数奇の事件を述べ終わり、露伴は、こう結びました。

本編終了・・・