<歴史に残る人々32・ロッキー山脈を越えて・サカジャウィア>
1804年5月14日、ミズーリ川に堤防で発射された1発の銃声が、歴史的な探検旅行の始まりを告げました。
この探検旅行こそ、アメリカ合衆国政府によって実行された、東部から陸路太平洋に到達した、最初の試みとなりました。
この旅は、全工程129、000kmで、2年4ヶ月を要しましたが、北西部のオレゴンは、アメリカ領土の一部であるとする、アメリカ政府の立場を強める結果となり、当時オレゴンについては、アメリカ、スペイン、ロシアがその領土権を主張していたからでした。
1803年1月18日、ジェファーソン大統領は議会に、ミシシッピー川の対岸に遠征隊を送る費用を議会に提出しました。
この法案は、目的地がフランス領有地を含んでいる為、密かに実効に移され、議会は2,500ドルの支出を認めました。
しかし、それから数ヶ月後、アメリカ政府は、フランス政府からミシシッピー川からロッキー山脈に至る広大な地域を買収した為、ジェファーソン大統領が、極秘に派遣した調査隊は、国家を挙げての壮挙に変わり、議会は追加支出を承認する結果と成りました。
ジェファーソン大統領は、既に調査隊の隊長に選定されていた、メリーウェザー・ルイスに隊員の増強を指示し、友人のアメリカ陸軍中尉、ウィリアム・クラークを副官に登用しました。
クラーク中尉は、独立運動に活躍した、辺境指揮官、ジョージ・ロジャーズ・クラークの末弟にあたります。
この二名程、明確な指令を受けた探検隊は、前例が無いと思われます。
大統領は、彼らに、ミズーリ川とコロンビア川を探検して、「商業目的の為の、最も直接的且つ、実用的な水上交通の便」を突き止める様に命じました。
大まかな地勢や、土地の産物、経緯を記録して、地図の製作が可能な様にすると共に、更には、ネイティブ・アメリカンの研究して、政府に報告する事が、彼らに課せられた使命でした。
探検隊は、長さ17mの竜骨船と2隻の丸木船に分乗し、セントルイス近郊から出発しました。
この探検隊は、29名から成り、隊員の大部分は、経験豊富な辺境開拓者であると同時に、軍籍を有していました。
この他に、軍人7名が、ネイティブ・アメリカンのマンダン族の町に赴き、荷物の移動援助と現地人でのトラブルに対応する事に成っていました。
この補助部隊は、ミズーリ川で孤軍奮闘の働きを見せ、順風に助けられる事が少なく、船を漕ぎ、時には船を曳き、テトン・スー族に脅かされ時は、強力な後ろ盾に成りました。
10月27日、探検隊はマンダン族の町に到着(現:ノースダコタ州ビスマーク付近)し、此処で1804年の冬を過ごし、探検隊がこの町を出発した時には、通訳のツーサン・シャルノボーとその妻サカジャウィア、5年前にミナレタ族に捕らえられた、ショショーニ族の少女も含まれ、総勢32人でした。
ミズーリ川の滝線地帯では、急流を避けて物資を運ぶのに、1ヶ月の期間を要し、この後ミズーリ川は、3本に分かれ、探検隊は一番西の流れを上りました。
この流れは後に「ジェファーソン」と名付けられ、レムハイ峠で大陸分水嶺を越えました。
サカジャウィアは、ガイドとして有能で、兄弟であるショショーニ族に酋長は、探検隊に馬を提供してくれました。
幸運の後には、苦難の日々が続き、吹雪に襲われ、毎日続く、干し鮭、根菜のスープ、犬の肉のシチューにうんざりしながらも、終には、クリアウォーター川に到達し、此処でカヌーを作り、スネーク川とコロンビア川を下り、1805年11月15日、探検隊は太平洋を望みました。
1806年3月、探検隊は帰途に付き、大陸分水嶺に近づいた時、ルイスはクラークと別れて、再び太平洋への河川を探索し、クラークは、イエローストーン川を調査しました。
両探検隊は、イエローストーン川とミズーリ川の合流点で再会し、1806年9月23日、セントルイスに到着、今回の探検による犠牲者は、病死した1名のみでした。
ルイスとクラークは、貴重な学術的資料を多数持ち帰り、又毛皮商人や猟師達に大きな刺激を与え、彼らはアメリカの最西端部を調査し、入植者をオレゴンやカリフォルニアへ導く結果と成りました。
続く・・・