2010/11/19

歴史の?その339:発見の歴史22・コロセウム

<発見の歴史22・コロセウム>

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 人や車の往来が途切れる事の無い、ローマ市にコレセウムは、今尚そびえ、その栄華を誇ったローマ帝国の時代を現在に示しています。
古代ローマでは、コロセウムでの試合が市民を熱狂させ、野獣、剣闘士の闘い、模擬戦、罪人対野獣の残忍な見世物が存在していました。
市民にこの様な競技場とパンを与える事こそ、ローマの支配者達が、市民の反発をかわす手段として考案した、政策の一つでした。

 最初、この様な見世物の場所としては、紀元前29年に造られた円形競技場が使用されていましたが、有名なネロ時代の大火で焼失し、ネロの跡を継いで即位した、ベスパシアヌスとティトゥスが、ネロの「金の家」が在った場所にコロセウムを建設してのでした。
伝承に因れば、ネロ自身もコロセウムに出掛けた事に成っていますが、コロセウムが完成したのは、紀元前80年であり、ネロの死後10数年を経過していますから、ネロは実物を見る事さえ出来ませんでした。

 この長円形の闘技場は、奥行き90m、その階下は、地下道や檻が造られており、石造りの観客石が48mの高さ迄続き、5万人の観衆を収容する事ができました。
最上席は、最下段に設けられ元老院議員等身分の高い人々専用、中央に皇帝専用のロイアルボックスが在り、執政官達の席が並んでいました。
その上段が、貴族席、更に上段がローマ市民、即ち平民の席でした。

 見世物が行われる時は、競技(闘技)場の周囲に頑丈なフェンスが設置され、熱さを防ぐ為日除けの天幕も張られていました。
完成祝賀行事は100日間も続いたと云われ、9万頭の野獣が殺され、模擬対戦も行われましたが、このコロセウムにおいて、キリスト教徒が殺戮されたと云う記録は残っていません。

 6世紀には、コロセウムは使用されなくなり、更に13世紀と14世紀の地震で、大きな被害を受け、後年、石材は他の建物の建設に流用され、壁に飾られた彫刻類は失われてしまいました。
修復工事は、19世紀になって開始されたものの、現在残っている物は、石と煉瓦の欠片、そして残忍なローマ時代の競技の名残だけなのです。

続く・・・
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2010/10/12

歴史の?その309:歴史に残る人々32・ロッキー山脈を越えて・サカジャウィア

<歴史に残る人々32・ロッキー山脈を越えて・サカジャウィア>

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 1804年5月14日、ミズーリ川に堤防で発射された1発の銃声が、歴史的な探検旅行の始まりを告げました。
この探検旅行こそ、アメリカ合衆国政府によって実行された、東部から陸路太平洋に到達した、最初の試みとなりました。
この旅は、全工程129、000kmで、2年4ヶ月を要しましたが、北西部のオレゴンは、アメリカ領土の一部であるとする、アメリカ政府の立場を強める結果となり、当時オレゴンについては、アメリカ、スペイン、ロシアがその領土権を主張していたからでした。

 1803年1月18日、ジェファーソン大統領は議会に、ミシシッピー川の対岸に遠征隊を送る費用を議会に提出しました。
この法案は、目的地がフランス領有地を含んでいる為、密かに実効に移され、議会は2,500ドルの支出を認めました。
しかし、それから数ヶ月後、アメリカ政府は、フランス政府からミシシッピー川からロッキー山脈に至る広大な地域を買収した為、ジェファーソン大統領が、極秘に派遣した調査隊は、国家を挙げての壮挙に変わり、議会は追加支出を承認する結果と成りました。

 ジェファーソン大統領は、既に調査隊の隊長に選定されていた、メリーウェザー・ルイスに隊員の増強を指示し、友人のアメリカ陸軍中尉、ウィリアム・クラークを副官に登用しました。
クラーク中尉は、独立運動に活躍した、辺境指揮官、ジョージ・ロジャーズ・クラークの末弟にあたります。

 この二名程、明確な指令を受けた探検隊は、前例が無いと思われます。
大統領は、彼らに、ミズーリ川とコロンビア川を探検して、「商業目的の為の、最も直接的且つ、実用的な水上交通の便」を突き止める様に命じました。
大まかな地勢や、土地の産物、経緯を記録して、地図の製作が可能な様にすると共に、更には、ネイティブ・アメリカンの研究して、政府に報告する事が、彼らに課せられた使命でした。

 探検隊は、長さ17mの竜骨船と2隻の丸木船に分乗し、セントルイス近郊から出発しました。
この探検隊は、29名から成り、隊員の大部分は、経験豊富な辺境開拓者であると同時に、軍籍を有していました。
この他に、軍人7名が、ネイティブ・アメリカンのマンダン族の町に赴き、荷物の移動援助と現地人でのトラブルに対応する事に成っていました。

 この補助部隊は、ミズーリ川で孤軍奮闘の働きを見せ、順風に助けられる事が少なく、船を漕ぎ、時には船を曳き、テトン・スー族に脅かされ時は、強力な後ろ盾に成りました。

 10月27日、探検隊はマンダン族の町に到着(現:ノースダコタ州ビスマーク付近)し、此処で1804年の冬を過ごし、探検隊がこの町を出発した時には、通訳のツーサン・シャルノボーとその妻サカジャウィア、5年前にミナレタ族に捕らえられた、ショショーニ族の少女も含まれ、総勢32人でした。

 ミズーリ川の滝線地帯では、急流を避けて物資を運ぶのに、1ヶ月の期間を要し、この後ミズーリ川は、3本に分かれ、探検隊は一番西の流れを上りました。
この流れは後に「ジェファーソン」と名付けられ、レムハイ峠で大陸分水嶺を越えました。
サカジャウィアは、ガイドとして有能で、兄弟であるショショーニ族に酋長は、探検隊に馬を提供してくれました。
幸運の後には、苦難の日々が続き、吹雪に襲われ、毎日続く、干し鮭、根菜のスープ、犬の肉のシチューにうんざりしながらも、終には、クリアウォーター川に到達し、此処でカヌーを作り、スネーク川とコロンビア川を下り、1805年11月15日、探検隊は太平洋を望みました。

 1806年3月、探検隊は帰途に付き、大陸分水嶺に近づいた時、ルイスはクラークと別れて、再び太平洋への河川を探索し、クラークは、イエローストーン川を調査しました。
両探検隊は、イエローストーン川とミズーリ川の合流点で再会し、1806年9月23日、セントルイスに到着、今回の探検による犠牲者は、病死した1名のみでした。

 ルイスとクラークは、貴重な学術的資料を多数持ち帰り、又毛皮商人や猟師達に大きな刺激を与え、彼らはアメリカの最西端部を調査し、入植者をオレゴンやカリフォルニアへ導く結果と成りました。

続く・・・
2010/09/03

歴史の?その276:世界史の流れ16・二つの世界大戦

<世界史の流れ16・二つの世界大戦>

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 18世紀後半、イギリスでは、紡績機等の機械が次々に発明、動力化が行われ、所謂「産業革命」が起こり、やがて各国に波及し、その結果として、資本主義は発展して行きます。
19世紀末には、資本主義の発展した国々は、製品の市場、原料の供給地としての植民地を求めて、争って海外に進出して行きます。
この傾向を「帝国主義」と言います。

 この植民地をめぐる、帝国主義諸国の利害の対立は、終に「サラエヴォの悲劇」を発端として、「第一次世界大戦」(1914年-1918年)が勃発し、イギリス、フランス、ロシア、セルビア、日本等の連合国とドイツ、オーストリア、後にトルコ、ブルガリアの同盟国に世界の主要国は、分かれて対峙しました。
戦いは、連合国側の勝利に終わります。

 この連合国の内、ロシア(帝政ロシア)は、当時農業主体の国家で、市民階級が十分に発展せず、皇帝による専制政治が行われており、日露戦争の敗北(1905年)以来、専制政治に対する国民の不満が増大して行きます。
第一次世界大戦が勃発した時には、一時的に革命的機運も押さえられたものの、ロシアは敗戦が続き、食料を中心とした物資が著しく欠乏、終に1917年「二月革命」が起こり、皇帝ニコライ二世は退位し、ここにロマノフ王朝のロシア支配は終焉を迎えました。
続く「十月革命」によってロシアは、連合国から離脱し、1922年ロシアは「ソビエト社会主義共和国連邦」と国名を改め、世界最初の社会主義国家(国家群)と成ります。

 第一次世界大戦後、後進の資本主義国家である、ドイツ(ワイマール共和国)、イタリア、日本(大日本帝国)の所謂「持たざる国」は、「枢軸」と称して互いに同盟関係を締結し、アメリカ、イギリス、フランス等の「持てる国」に対抗します。
やがて、「持たざる国」は、アドルフ・ヒトラー、ベニート・ムッソリーニを指導者として、全体主義的体制に移行し、軍備を拡張(再軍備を含む)、対外侵略行動を強行します。

 1939年9月、ドイツ軍のポーランド進行に対し、イギリス、フランスは宣戦を布告、それ以前から戦時体制にあった、アジア地域を巻き込み、1941年12月、日本が、アメリカ、イギリスと戦闘状態に突入、此処に「第二次世界大戦」が勃発し、1945年5月ドイツ降伏、同年8月日本降伏により、枢軸国の敗北が決定し、第二次世界大戦は、終結しました。

世界史の流れ終了
2010/07/24

歴史の?その245:正史の中の疑問51:北京原人化石の行方・前編

<正史の中の疑問51:北京原人化石の行方・前編>

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◎太平洋戦争の勃発

 北京から南西へ48km、周口店の小高い丘“竜骨山”の上に、中国科学院の博物館が在ります。
1972年10月1日の国慶節に開館しました。

 この山頂部分で、人類学上最大級の発見の一つ、“北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)”が発見されました。
展示館のすぐ外に問題に遺跡が在り、同館の展示物の中心も“北京原人”に関する資料なのですが、ここに展示されている、人骨化石は、レプリカなのです。
貴重な実物は、昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発の日を境に、行方不明に成ってしまいました。

 最初の二本の臼歯発見以来、アメリカ・ロックフェラー財団の資金援助で、大規模な発掘作業が実施され、其れまでに5個の完全な頭蓋骨を含む、約40体分の人骨破片が、動物化石や石器等と共に発見されていました。

◎列車に積まれた三つの箱

 開戦の12月8日、日本軍は北京に入城し、同地の「北京協和医学院(現・首都病院)」も軍によって接収されました。
直ちに、高井冬二東京大学教授(当時・東京帝国大学・人類学教室助手)が医学院に赴き、“北京原人”の現物資料を探しましたが、既に何処かに持ち去られた後で、徹底的な調査の甲斐なく、発見する事は出来ませんでした。

 その発掘資料は、同じく周口店から発掘された“山頂洞人(約1万~2万年前の旧人類)”の三つの頭蓋骨等共々、ロックフェラー財団が運営する「北京協和医学院」に置かれ、アメリカ系の研究者によって調査、研究が成されていましたが、日米関係が、風雲急を告げる雲行きと成った昭和16年、アメリカに帰国します。
化石は、医学院の倉庫に保管されましたが、その場所に保管する事は多大な危険を伴うと判断した、ヘンリー・ホートン院長は、より安全な場所である、アメリカ本国に移送する事を決定します。

 当時、北京駐在アメリカ大使館付武官アシャースト海兵隊大佐が、その責任を引き受け、化石は12月5日早朝、列車に載せられて北京を出発・・・と記録されています。
そして、3日後開戦の混乱が起こり、以降、“北京原人”の痕跡は消滅してしまいました。

 やがて、昭和20年8月15日、以後日本に進駐したアメリカ軍は、直ちに“北京原人”の所在を尋ねて、日本国内の関係機関、施設を調査しましたが、発見するに至らず、僅かに“山頂洞人”の遺品のひとつが東京大学人類学教室に在り、直ちにアメリカ軍が押収したに留まりました。

 勿論、中国政府もこの遺骨捜索に努めます。
その結果、開戦直前、アシャースト大佐の指示で、中国人労働者が化石を三つの木箱に納めて梱包、列車に運んだ・・・との証言が得られた事から、中国の研究者から「“北京原人”はアメリカに持ち出され、ニューヨーク自然博物館のコレクションに加えられている」との抗議が出された事が有りますが、同博物館関係者は、この事実を完全否定しています。
日本にも、少なくとも公にその存在が知られる形では、“北京原人”は存在していません。

続く・・・

2010/07/16

いよいよ小倉祇園太鼓ですね!

いよいよ小倉祇園太鼓ですね!

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 北九州市の小倉を代表する夏祭りである小倉祗園太鼓は、全国的にも珍しい両面打ちを特徴とし、昭和三十三年、福岡県指定無形文化財に指定されました。
小倉祗園太鼓の伝統的な姿は、山車の前後に太鼓を据え、山車を曳きながら打つ姿で、太鼓二台の両面打ちで四人、ジャンガラ二人、計六人というのが、基本的な構成です。
又、装束は、向こう鉢巻に浴衣又は法被、白足袋に草履が基本。
太鼓は面によって音が異なり、低く腹に響く音がする面をドロといい、祇園太鼓のリズムをとり、もう一面はカンといい、高い軽やかな音がし、メロディとなります。

 太鼓の起源は、祇園祭は、鉦(かね)、鼓(つづみ)、笛(ふえ)を用いていたと記録にあり、その叩き方は「能」の形式でした。
「祗園会神事神山次第」に「万治三年(1660年)、囃方清五郎が藩主のお供をして江戸表に上がり、山王神事の囃し方を聞き覚え、小倉に帰国後、子供四人を集め、教授しが始め也」とあり、その頃から今の撥さばきが始まり、今から三百四十年前の事でした。

 現在の形が出来たのは、江戸時代、ご神幸に城下の各町内から、いろいろな趣向を凝らした山車、踊車、人形引車、踊り子などが随従するという豪華なものでしたが、明治時代以降、山車に据えつけた太鼓を叩き、それに調子をとるジャンガラ(摺り鉦)が加わり両面打ちを主体とした祗園へと変化して行きました。

 祗園祭の起こりは無病息災の祈りからで、平安時代、夏になると悪疫が流行したり稲などに害虫がつき、これを悪霊の仕業と考え、この悪霊を慰め退散させる為に神に祈った事を起源とする祭りでした。
旧六月に行われてきた「小倉祗園」は、小倉城を築城した細川忠興が、無病息災を祈るとともに、城下町繁栄のひとつとして、元和三年(1617年)に祗園社(現在の八坂神社)を建て、京都の祗園祭を小倉の地に取り入れたものです。

参考:小倉祇園の歴史