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2019/06/03

歴愛を歩く210

43ファシズムの台頭⑧

7抗日民族戦線の成立と日中戦争(その2)


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張 学良(1901年6月3日 - 2001年10月14日)

 蒋介石は陜西省北部の共産党の根拠地に対する攻撃を継続、張学良の東北軍と楊虎城の西北軍を派遣して更なる攻撃を命じます。

 張学良の指揮する東北軍は、満州事変で故郷を追われて華北に移動した軍隊で、その将兵達は満州の地に戻って日本軍と戦う事を望んでいました。
内戦停止・一致抗日に傾いた張学良は共産党と協定を結び、1936年前半以後東北軍と共産党軍は停戦状態にあったのです。

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華清池

 1936年12月、紅軍との戦闘に消極的な張学良と楊虎城を督戦する為に蒋介石自ら、西安に乗り込んで来ます。
張学良は蒋介石に内戦停止と抗日の必要を強く訴えますが、蒋介石はこれを拒否、意を決した張学良は、1936年12月12日未明、西安郊外の華清池(玄宗皇帝と楊貴妃で有名な地)にあった蒋介石の宿舎を軍隊で襲撃し、蒋介石を捕らえて監禁します。

 張学良は、国民党の改組・内戦停止・政治犯の釈放等8項目を宣言し、蒋介石に政策の転換を迫りますが、蒋介石はこれに応じず、新たな内戦の危機が迫っていました。

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軟禁中の蒋介石と関係者:Wikipediaより

 この時、中国共産党は周恩来を西安に派遣して蒋介石を説得し、事件の平和的な解決に大きな役割を果たし、最終的に蒋介石は説得に応じて内戦の停止等8項目を認める事を約束して25日に釈放されて南京に戻ります。
この一連の出来事が、後に西安事件と呼ばれる有名な事件です。

 この西安事件を契機として、1927年以来10年に及んだ内戦は停止され、日中戦争が勃発すると第二次国共合作が成立(1937年9月)、抗日民族統一戦線が結成されました。
この事件により中国全土の抗日気運は高まり、日中の対立は避けられないものと成りました。

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尾崎秀実・リヒャルト ゾルゲ
  
 又当時朝日新聞社の記者でソビエト連邦のスパイであった尾崎秀実は、スターリンが蒋介石の暗殺を望んでいないという情報を元に蒋介石の生存や抗日統一民族戦線の結成など事件の顛末を正確に予測、対支分析家として近衛文麿の目に止まり近衛の私的機関、昭和研究会へ参加する事となり、以後日本の中枢情報がゾルゲ諜報団を通じてソ連に筒抜けと成りました。

 張学良は西安事件の責任をとって蒋介石の後を追って南京に赴いて逮捕され、国家元首を監禁した罪により懲役10年の判決を受けますが、翌年特赦によって無罪となりますが、以後軟禁状態におかれ、中国近代史の表舞台から姿を消しています。

 1946年に重慶から台湾に移された後も自宅軟禁の生活が続いていましたが、1990年6月に90歳を祝う誕生パーティーが台北市で開かれ、張学良は約半世紀ぶりに公の場に姿を現して世界中から注目されました。
張学良はその後ハワイに移り住み、2001年10月に100歳で没しました。

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盧溝橋:Wikipediaより

 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習をしていた日本軍の頭上に10数発の小銃弾が発射されました。
誰が発砲したかについては現在でも不明ですが、日本軍は翌8日に宛平県城とその周辺の中国軍に攻撃を加え、これに中国守備隊が抵抗し、この盧溝橋事件が日中戦争(日支事変1937年7月~45年8月)の発端となり、以後日中両国は全面戦争に突入します。

 7月11日には停戦協定が結ばれますが、最初は不拡大方針を表明した第1次近衛内閣(1937年6月~39年1月)が同日、軍部の華北派兵を承認した為問題解決は困難となり、一方中国側でも共産党が7月8日に全民族の抗戦を呼びかけ、蒋介石も7月17日に抗戦の決意を表明するに至ります。

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1937年8月13日、日本軍は市内の正陽橋から北平(今の北京)に入城した。:Wikipediaより

 日本軍は、7月28日に総攻撃を開始し、天津・北京を占領、8月13日には上海でも戦端を開き、更に華北の要地を占領、12月13日には南京を占領しました。
この時、日本軍は多数の中国人を虐殺し(中国側の資料では30万人以上)、掠奪・暴行・放火を行い、世界から非難を浴びたのです(但し南京虐殺事件には諸説在り)。

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第2次国共合作・蒋介石と毛沢東

 この間、1937年9月に中国では第2次国共合作が成立し、紅軍は八路軍と改称して蒋介石の統率下に入り、抗日民族統一戦線が成立、日本軍は、1938年10月には広東と武漢(武漢三鎮)を占領したが、国民政府は政府機能を南京から武漢へ、更に重慶へ移し(1938年)、アメリカ・イギリス・ソ連は当時最新の兵器を援助して日本軍に対抗した結果、戦争は長期化・泥沼化し、早期解決は不可能となりました。

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汪兆銘

 近衛内閣は、1938年1月に中国との停戦協定を打ち切り、傀儡政権を立てる方針を固め、「国民政府を相手にせず」との近衛声明を発表し、戦争解決の道を自ら閉ざし1940年3月、重慶を脱出してきた国民党の有力者である汪兆銘(汪精衛、1883年~1944年)に新政権を立ち上げさせ、重慶政府に対抗して南京にもう一つの国民政府を樹立しますが、この政権は日本の傀儡政権で在り、中国民衆の支持を得られず、成果をあげることも出来ませんでした。
又同年11月には東亜新秩序の建設を声明し、侵略戦争の正当化を試みています。

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上海共同租界を行進する日本軍

 日本は、1938年末迄には華北(北支)・華中(中支)の大部分と広東周辺地域を占領しましたが、それは重要な都市とそれを結ぶ交通線を確保したにすぎず、周辺の農村は共産党や国民党軍の支配下にあり、日本軍はゲリラ戦に至る処で遭遇し、戦局は膠着状態に陥りました。
其の為この状況を打開する為に資源の確保を目的に南方への進出を企て、この日本の南方進出に対して、アメリカ・イギリス・中国・オランダはABCD包囲陣を形成して、日本に対する戦略物資の供給を停止、特にアメリカ合衆国のルーズベルト大統領は、日本への石油・鉄鉱石の輸出を全面停止しました。
この様な情勢に日本は、ルーズベルト大統領との会談を模索するも遂に叶わず、1941年12月には太平洋戦争に突入します。

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バルバロッサ作戦

 余談ながら、この時(1941年10月~12月)ソビエト連邦は、独ソ不可侵条約を無視して領土に侵攻したドイツ軍(バルバロッサ作戦:1941年6月)が、モスクワに迫りつつ在りました。
ソビエト軍首脳とスターリンは、日本軍が満州及び華北(北支)からシベリア南部に侵攻するか、ボルネオ・マレーシア方面の南方に侵攻するか、意見が分かれ、冬季の戦闘を熟知したシベリア師団をソビエト・満州(ソ満)国境からモスクワ防衛に充てるか否かの重大な判断を強いられていました。
日本軍の南進作戦情報を一早く収集して、モスクワに送った人物が、ゾルゲ(ゾルゲ事件)でした。
このゾルゲ情報により、スターリンはシベリア師団を急遽モスクワ防衛の為移動、ドイツ軍を敗走させる事になります。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年6月17日 北九州市小倉南区城野自宅


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2019/05/19

歴史を歩く209

43ファシズムの台頭⑦

7抗日民族戦線の成立と日中戦争(その1)


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日支両軍の衝突を伝える朝日新聞

 1931年9月に始まった満州事変に対して、国内での対共産党軍作戦をより重視した蒋介石は、国際連盟の制裁措置に期待するとして不抵抗政策を採りましたが、この国民政府の不抵抗政策に対しては、国民から激しい抗議の声があがり、徹底抗戦と日本商品ボイコットを求める抗日救国運動が激化しました。

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中華ソヴィエト共和国国旗

 しかし、日本との全面戦争を回避しようとする蒋介石は、対日妥協策を重ね、「安内攘外」(まず国内の敵を一掃し、しかる後に外国の侵略を防ぐの意味)の政策の下に、上海事変の停戦協定を結ぶと(1932年5月)、1932年6月から50万の兵を動員して中華ソヴィエト共和国(1931年11月成立)に対する4回目の包囲攻撃を開始しました。

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熱河進攻:帝国陸軍自動車部隊

 この作戦は労農紅軍(中国共産党の軍隊)の抵抗と日本軍の熱河進攻(1932年2月)によって中止せざるを得ず、蒋介石は塘沽停戦協定(1933年5月)を結び華北問題に一時的な決着を付け、1933年10月から100万の大軍と200機の飛行機を総動員して5回目の包囲攻撃を開始し、四方から瑞金(中華ソヴィエト共和国の首都)へ進軍します。

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革命根拠地瑞金と龍珠塔(明代)

 圧倒的な物量を誇る国民党軍の攻撃によって、全滅の危機に晒された紅軍は、遂に江西省の拠点を放棄することを決定し、1934年10月に包囲網を突破して瑞金を脱出、約8万の労農紅軍主力は国民党軍の追撃を受けながら、貴州省・雲南省・四川省の辺境地帯に転進、万年雪を頂く嶺を越え・急流や大河を渡り・沼沢地の大草原を通り、総行程約12500km(地球の周囲は約4万km)の大移動の末、1935年10月毛沢東に率いられた労農紅軍は、陜西省北部に達し、この地の紅軍と合流を果たしました。

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長征(大西遷)

 この出来事が、中国共産党史上欠かすことの出来ない、長征(大西遷、1934年10月~36年10月)で、翌1936年10月には別の部隊も合流して長征は終結しました。
国民党軍による5回目の包囲攻撃の前には労農紅軍は約30万の兵力を擁していましたが、長征を終えて陜西省北部に合流した時の兵力は約3万に迄激減しています。

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延安・宝塔山

 毛沢東等は1937年に陜西省北部の延安に拠点を移し、延安は以後1949年に中華人民共和国が成立する迄、事実上中国共産党政権の中心的根拠地でした。
この間、1935年1月に長征途上の貴州省遵義で開かれた共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、それまで党の指導権を握っていたソ連留学生グループが退けられ、毛沢東の指導権が確立されたのです。

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長征(大西遷)・馬上の毛沢東

 毛沢東(1893年~1976年)は湖南省の農家に生まれ、師範学校在学中から左翼運動に参加し、卒業後北京で(1918年)、北京大学教授兼図書館長の李大釗(中国共産党の創立者の一人)の下で図書館助手として勤務し、この間にマルクス主義を学び、翌年、五・四運動が起こると湖南省の長沙で運動を展開し、1921年の共産党創立大会に湖南省代表として出席しました。
五・三○事件(1925年)以後は湖南の農民運動の指導にあたり、国共分裂(1927年)以後は井崗山に退いて根拠地を建設し、後に瑞金に移って中華ソヴィエト共和国を樹立して主席となり(1931年)、長征途上の遵義会議(1935年)で党内における指導権を確立し、労農紅軍を陜西省北部に導きました。

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延安幹部会で整風運動について講演する毛沢東

 1935年8月1日、長征途上の中国共産党は八・一宣言(「抗日救国のために全同胞に告げる書」)を発表し、この八・一宣言は日本の侵略に対して内戦の停止と抗日のための民族統一戦線の結成を呼びかけたもので、中国の民衆に大きな影響を与えています。

 1935年11月、国民政府は幣制緊急令を発し、幣制改革を断行し、この改革によって国民政府系の中央・中国・交通の3銀行の発行する銀行券のみが法幣(法定通貨)となり、今まで主に使われてきた銀と他の銀行が発行する銀行券の使用は禁止されます。
幣制改革によって国民政府による全国的な通貨・金融の統一が達成され、地方に残存する軍閥の力は弱められ、結果として浙江財閥の支配が一層強まり、蒋介石の独裁がより強化されました。

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北京正陽門に掲げられた打倒日本・帝国主義

 労農紅軍が陜西省北部に到着した頃、華北へ侵略した日本は河北省東部に冀東防共自治政府と名乗る傀儡政権を成立させ(1935年11月)ますが、こうした状況の中で、1935年12月9日、5000人以上の北京の学生たちは「日本帝国主義打倒」・「華北自治反対」・「内戦を停止し、一致して外敵にあたれ」等のスローガンを掲げてデモを行い、この十二・九運動は全国に大きな影響を与え、抗日救国運動が全国に広まる発端となりました。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年6月17日 北九州市小倉南区城野自宅

2019/05/01

令和元年

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上皇様の時代を偲び、陛下の即位をお祝い致します。
2019/04/30

平成にお別れ

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「新しい元号は『へいせい』であります」。
1989年1月7日午後、小渕恵三官房長官が記者会見室で、「平成」と墨で書かれた2文字を掲げました。
当時、私は社会人5年目でした。
色々な思い出が在る平成。
そんな平成の時代も残りわずかですね。

令和の時代が、より良い時代となります様に。
2019/04/26

歴史を歩く208

43ファシズムの台頭⑥

6日本軍部の台頭と満州事変

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鹿子木孟郎《大正十二年九月一日》1924年、 東京都現代美術館蔵

 第一次世界大戦が終わった1920年、日本は大戦景気の反動から戦後恐慌に襲われ、更に関東大震災(1923年9月)によって日本経済は大打撃を受け、1927年3月には震災手形(関東大震災の為に支払えなくなった手形)の処理を巡る金融恐慌が発生し、銀行・会社の倒産が続出しました。

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張作霖爆殺事件『歴史と人物 昭和61年冬号』

 その直後に成立した田中内閣(1927年4月~29年7月)は金融恐慌の処理に応たると共に、対外的には中国に対して積極外交(強硬外交)を展開し、山東出兵(1927年5月~28年5月)を行って済南事件(1928年5月、日本軍と北伐軍の衝突事件)を起こします。
しかし、田中内閣は張作霖爆殺事件(満州某重大事件、1928年6月)の責任問題で退陣し、浜口内閣(1929年7月~31年4月)が成立しました。

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大根を噛じる欠食児童

 浜口内閣の成立からまもなく世界恐慌が始まり、浜口内閣はこの時期に金解禁(1930年1月)を断行した結果、大量の金流出・企業の倒産・失業者の増大を招き、日本経済は深刻な不況に陥って行きます(昭和恐慌)。

 鉱工業生産は1926年を100とすると、1931年には75に落ちこみ、失業者は50万人近くに達し(帰農者を含めると300万人以上とも云われている)、労働争議が多発、又生糸・米の値段の暴落や北海道・東北の冷害・大凶作で農村の困窮が深刻化し、小作争議が激増し、欠食児童や娘の身売り等が社会問題となりました。

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ロンドン海軍軍縮条約

 浜口内閣(外相は幣原(しではら)喜重郎)は対外的には協調外交を進め、ロンドン海軍軍縮条約に調印し、中国に対してもその主権を尊重し、内政に武力干渉することは避けて日本の権益の擁護を図りますが、陸軍を主体とする軍部は、幣原外交を軟弱外交として非難し、これに強く反対し、特に政府が軍令部の反対を押し切ってロンドン海軍軍縮条約を調印した事は、天皇の統帥権(とうすいけん、軍隊の指揮統率権)を犯すものとして政府を激しく攻撃しました。

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事件直後の柳条湖の爆破現場

 この様な動きと結びついて、軍部内では世界恐慌による国内の危機を打開するために満州(当時の日本における中国東北地方の呼称)・内蒙古全域を植民地とし、その為に満蒙問題を武力で解決しようとする動きが強まって行きます。
1931年(昭和6年)9月18日夜、関東軍(関東州(旅順・大連とその付属地域)と南満州鉄道の警備を主任務とする日本陸軍部隊)の一部部隊は奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を自等爆破し、これを張学良軍の破壊行為として軍事行動を起こし(柳条湖事件)、翌朝迄に奉天全市を占領しました。

 この日本軍の行動に対して蒋介石は不抵抗政策を命じ、張学良がそれに従った結果、関東軍は極めて短期間に長春・営口・吉林等満鉄沿線の主要都市を占領します。

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満州国の建国時のポスター
「五族協和」を示しており、右から日本・モンゴル族・満州族・朝鮮族・漢民族を表す。


 第2次若槻内閣(1931年4月~31年12月)は不拡大方針を表明(1931年9月24日)しますが、関東軍は更に満州全域に軍を進め、翌1932年2月にはハルビンを占領し、開戦以来約半年で熱河を除く満州全域をほぼ制圧、1932年3月には満州国を建国しました。
上記の軍部による一連の行動が満州事変(1931年9月~32年3月)であり、柳条湖事件は満州事変以後、日中(日支事変・支那事変)戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)迄の十五年戦争(1931年9月~45年8月)の発端となりました。

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柳条湖に於いて南満州鉄道線路の爆破現場を検証するリットン調査団

 中国国民政府は日本の軍事行動に対して不抵抗政策を採ると共に、国際連盟に提訴(1931年9月21日)します。
しかしながらリットン調査団が編成されたのは1931年末で、調査団は1932年2月から9月にかけて中国・日本を視察して10月に報告書を提出しますが、その時には既に満州国が建国された後でした。

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上海北停車場方面第一線に展開する帝国海軍陸戦隊

 柳条湖事件に次いで、1932年1月には上海事変が勃発し、満州事変以来、排日運動が激化していた上海で日本人の日蓮宗僧侶が殺傷される事件(この事件も日本軍による謀略とされている)が起こると、日本軍は軍事行動を起こし、中国軍と戦闘状態に突入します。
陸海軍の増援を得た日本軍は2月下旬から総攻撃を行い、激戦が続き、3月初め頃から中国軍の抵抗が弱まった事から戦闘はほぼ終わり、5月に停戦協定が結ばれました。

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天津時代の溥儀と婉容

 日本は、列強の目が上海に注がれている間に満州国建設の計画を進め、当時天津の日本租界の近くに蟄居していた清朝最後の宣統帝溥儀(1906年~67年、清朝皇帝・在位1908年~12年、満州国皇帝・在位1934年~45年)を天津から連れ出し(1931年11月)、1932年3月1日に溥儀を執政とする満州国の建国を宣言、その後満州国は帝政に移行した為、溥儀は満州国皇帝の地位に就きました(1934年3月)。

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日満議定書に基づく満州国承認とそれに伴うポスター

 日本は、1932年9月に満州国を承認し、日満議定書を締結します。
日満議定書で、満州国は日本がそれまで満蒙において有していた全ての権益を承認し、日本の駐兵権を全国に拡大することを認め、又満州国政府の重要なポストは日本人顧問・官吏を登用する事により実権を掌握した結果、満州国は完全に傀儡(かいらい)政権であり、事実上日本の植民地でした。

 この間、日本国内では1932年5月15日に、海軍青年将校と右翼が首相官邸等を襲って犬養首相(在任1931年12月~32年5月)を暗殺する五・一五事件が起こり、この事件によって政党政治は終わりを告げ、以後軍部の発言権がますます強くなって行きます。

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山海関占領

 1932年10月にはリットン調査団の報告書が発表されます。
報告書は、日本の満州に於ける権益は保護されるべきであるとしながらも、満州事変を日本の侵略行為とし、満州国は満州人の自発的独立運動でないとして満州国を認めず、満州を中国の一部として強い自治権を持たせて国際連盟の管理下に置く事を提案しています。
日本はこれに対して国際連盟理事会で直ちに反駁する一方で、翌1933年1月には山海関を占領し、次いで熱河省(省都は承徳、現在の河北省の北部)を満州国の一部と主張して侵攻を開始し(1932年2月)、この行動が国際連盟を刺激する結果と成ります。

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連盟よ、さらば!

 1933年2月24日、国際連盟総会でリットン調査団報告に基づく日本軍の満州撤退勧告案が42対1(反対の1は日本)で採択されると、松岡洋右(ようすけ)日本代表は席を退場し、日本は3月27日に国際連盟を脱退し、国際的孤立の道を歩みます。

 日本軍は、日本の国際連盟脱退後、1933年4月には長城を越えて華北に侵入して北京に迫り、中国は停戦を申し入れ、5月末に塘沽(タンクー)停戦協定が結ばれました。
これによって中国は満州国の存在を事実上承認し、又長城以南に非武装地域を設置する事を約束しますが、更に日本軍は、1935年に入ると再び防共を名目として内蒙古・華北に侵攻し、非武装地域(河北省東部)に冀東(きとう)防共自治政府(傀儡政権)を成立させ、国民政府からの分離・独立を宣言させました。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年5月1日 北九州市小倉南区若宮神社境内