2017/06/08

歴史を歩く162

37帝国主義の成立と列強の国情②

2イギリス

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初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, 1804年12月21日 - 1881年4月19日)肖像画は1857年当時

 帝国主義と云う言葉は、1870年代後半に、保守党首相ディズレーリ(在任1868年、1874年~80年)が、その頃高まりつつあった小英国主義(植民地は財政負担を増す重荷に過ぎないとして植民地放棄を唱える立場)を攻撃し、植民地支配を強化し、帝国の拡張・団結を主張したのが始まりです。

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ヴィクトリア女王にインド皇帝の王冠を渡しているのはディズレーリ首相


 ディズレーリは、スエズ運河の株式買収(1875年)やインド帝国成立(1877年)、更に露土戦争に干渉してベルリン会議でロシアの南下を阻止する一方で、キプロス島を獲得する(1878年)等帝国主義政策を推進しました。

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ウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone 1809年12月29日 - 1898年5月19日)

 これに対して自由党の首相グラッドストーンは平和外交を主張し、アイルランド問題等の内政に力を注ぎました。

 ディズレーリと共に帝国主義者として知られるジョゼフ・チェンバレン(1836年~1914年)は、螺子製造業で財を成して政界に進出、自由党急進派として活躍し、グラッドストーン内閣にも2度入閣しましたが、アイルランド自治法案に反対して自由党を離れ、自由統一党を結成します(1866年)。
その後チェンバレンは、第3次ソールズベリ保守党内閣(1895年~1902年)に植民相として入閣し、国内の社会問題の解決には植民地の開発が必要であると主張し、アフリカでの帝国主義政策を推進して南ア戦争(南アフリカ戦争、ブーア戦争、1899年~1902年)を引き起こしました。

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植民地省の大臣デスクに座るチェンバレン

 又チェンバレンの主張によって、1877年には植民地会議が開催され、本国・自治領・インド等の代表で構成された会議は、本国と自治領・植民地間の結合・協力関係の強化を目的とし、イギリス帝国共通の防衛・経済等の問題を討議しました。
植民地会議はその後4回開催され、1907年にはイギリス帝国会議と改称されます。

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ウェッブ夫妻

 この間、国内では労働運動・社会主義運動が盛んとなり、フェビアン協会(1884年)や独立労働党(1893年)等が設立されます。
1884年に設立されたフェビアン協会は、革命を否定して漸進的な社会改革を主張する社会主義者の団体で、ウェッブ夫妻(夫シドニー(1859年~1947年)は後にマクドナルド労働党内閣に入閣した)や劇作家として有名なバーナード・ショー(1856年~1950年)等が活躍しました。
尚フェビアンの名は、戦わず・挑まず・敵の消耗を待つ戦術でハンニバル軍を破った古代ローマの将軍の名前ファビウスの名に因んでいます。

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ジェームズ・ケア・ハーディ(James Keir Hardie、1856年8月15日 - 1915年9月26日)

 ケア・ハーディ(1856年~1915年)が設立した独立労働党も、労働者の議会進出と社会主義を目的とする漸進的な改革を目ざしました。
1900年には、フェビアン協会・独立労働党・社会民主連盟(マルクス主義)の3つの社会主義団体と65の労働組合の代表によって、その連合体である労働代表委員会が結成されます。

 労働代表委員会は、その後既存政党(保守党や自由党)から独立した労働者独自の政党を目ざし、1906年に労働党と改称しました。
労働党は、社会民主主義(共産主義の革命理論に反対し、議会主義による社会主義の実現を説く思想)の立場に立って漸進的な改革で社会主義の実現をはかる穏健な方針でした。

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初代オックスフォード=アスキス伯爵ハーバート・ヘンリー・アスキス(Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith, KG, PC, KC、1852年9月12日 - 1928年2月15日)

 その前年に成立していた自由党内閣は、労働党の協力を得て老齢年金法や国民保険法等の社会改革を実現を画策しますが、保守党勢力の強い上院が改革に反対した結果、1908年に成立したアスキス自由党内閣(1908年~16年)は、1911年に議会法(議院法)を成立させました。

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初代ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵デビッド・ロイド・ジョージ(英語: David Lloyd George, 1st Earl Lloyd George of Dwyfor, OM, PC、1863年1月17日 - 1945年3月26日)

 アスキス内閣の蔵相であったロイド・ジョージ(1863年~1945年、1916年~22年に首相を務める)は、ドイツに対抗して海軍の増強が叫ばれると、土地所得への新課税・所得税と相続税の増額等を含む予算案を議会に提出しますが、この予算案が上院で否決された為(1909年)、下院を解散して総選挙で勝利し、世論を背景に上院を屈服させて議会法を成立させました。
議会法の内容は、下院を3回通過した法案は上院の同意なく法律となる事、又上院は予算案を否決する事ができないこと等で、この法律によって下院の優越が確立しました。
日本国憲法の衆議院の優越はこの議会法の精神を取り入れたものです。

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19世紀後半、アイルランドを襲ったジャガイモ飢饉

 19世紀後半のイギリス内政最大の問題の1つであったアイルランド自治法案は、1886年と1893年の2度グラッドストーン内閣によって提出されたが、いずれも否決されていました。

 20世紀に入るとシン・フェイン党を中心にアイルランド独立運動が激しさを増します。
シン・フェイン党(シン・フェインは「われわれ自身で」の意味)は、1905年に結成されたアイルランドの政党で、アイルランドの独立を主張し、急進的な反英路線を主張します。

 自由党内閣は、1912年に三度アイルランド自治法案を議会に提出、翌1913年には下院で可決されましたが上院では否決され、1914年にやっと下院・上院で可決されて成立しました。
しかし、イギリス人が多数を占める北アイルランド(アルスター地方、17世紀にイングランド・スコットランド人の新教徒が植民)は自治法案に反対し、シン・フェイン党との対立が激化し、政府は第一次世界大戦の勃発を理由にアイルランド自治法案の実施を延期します。

ジョークは如何?

アル中のスコットランド人が尻のポケットにウィスキーの瓶を入れて車道を千鳥足。
当然のごとく、車にはねられ道端までとばされた。
幸い命に別状はなかったものの尻のあたりが、なにやらぬれている模様。
その男、手で触ってみて、
「ああ神様、どうかこれが血でありますように」


続く・・・

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2017/06/02

歴史を歩く161

37帝国主義の成立と列強の国情

1帝国主義

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ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин、1870年4月22日 – 1924年1月21日)
本名、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ(Влади́мир Ильи́ч Улья́нов)


 19世紀末から20世紀初頭にかけて世界は帝国主義の時代に入って行きました。
ロシア革命の指導者レーニンはその著『帝国主義論(資本主義の最高段階としての帝国主義)』の中で「帝国主義とは、独占体と金融資本の支配が成立していて、資本輸出が著しく重要性を増し、国際的なトラストによる世界の分割が始まり、最強の資本主義諸国による世界の全領土の分割が完了したという発達段階に達した資本主義のことである。」と述べています。

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アメリカの独占資本に対する風刺画

 19世紀後半には先進資本主義国、特にアメリカ・ドイツ等で技術革新が進み、電力や石油を動力源として、鉄鋼・電機・化学等の重化学工業が急速に発展しましたが、これを第2次産業革命と呼びます。

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独占3形態

 産業革命によって成立した資本主義社会では、自由競争に勝ち残った少数の大企業が相互の競争を避けるために企業の集中を進め、カルテル・トラスト・コンツェルン等の独占の形態が現れ、利潤の独占を図る様に成りました。

 この様な独占資本(独占企業)が、銀行資本と結合して金融資本が形成され、アメリカ・ドイツを初めとする主な資本主義諸国は独占資本主義の段階に入って行ったのです。
金融資本は、国内だけでは利潤を得る事が難しくなると、国内の余剰資本のより有利な投下先を求めて国外へ進出する様に成りました。

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 こうして先進資本主義諸国は国内の余剰資本を原料・労働力・市場を持つ植民地等に投資する事で(国外投資、資本輸出)より大きな利潤を得ようとし、欧米列強は植民地や従属国を求めてアジア・アフリカ等への進出を図ります。
この様な段階に入った資本主義を帝国主義と呼びます。
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「列強クラブ」これまですべて白人で初めて有色人種の会員を迎えることになるが、この風刺画を見ると、列強クラブからの視線、日本に対する驚きと嘲笑する心を見抜くことができる。

 その為帝国主義の時代には植民地の獲得等を巡って国際的な対立が激化し、イギリスやフランス等の先進資本主義国が早くから海外に進出して広大な植民地を領有したのに対し、遅れて帝国主義の段階に入ったドイツ・ロシア・日本等は遅れて植民地の獲得に乗り出し、植民地の再分割を要求します。この為帝国主義列強間で対立が激化し、第一次世界大戦の原因と成りました。

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 帝国主義列強の国内では、労働運動が盛んとなり、帝国主義や軍国主義に反対する社会主義運動がおこり、社会主義政党が成立します。
一方、帝国主義列強によって植民地とされ、若しくは従属させられた地域では激しい抵抗と解放のta為の闘争が展開され、同時に旧体制に対する変革の動きも広がって行きました。

ジョークは如何?

ドイツの鉄血宰相ビスマルクは、フランスのシャンパンが好きだった。
あるとき皇帝から「君は愛国者だろう。何故ドイツの物を飲まないのかね?」
と訊かれた。ビスマルクが答えて言うには
「陛下。恐れながら愛国心と舌は別物でございます」


続く・・・

2017/05/17

歴史を歩く160

36東アジアの激動⑥

7日清戦争

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崔済愚(1824年~64年)

 朝鮮には、18世紀後半に中国からキリスト教が伝わり、天主教と呼ばれました。
李朝は天主教を禁止して弾圧を加えますが、社会不安を背景に天主教信者は次第に増加して行きます。
19世紀後半にキリスト教(天主教)に対抗する新しい宗教である東学が創始され、没落両班出身の崔済愚(1824年~64年)は、在来の民間信仰を基に東洋的な儒教・仏教・道教を融合して東学を創始しました(1860年頃)。
東学は西学に対する意味で、西学とはキリスト教・天主教を意味し、彼は欧米の侵略に対抗する「保国」と封建的な収奪に反対する「安民」を唱えました。

 この東学は、欧米諸国・日本の侵略と李朝の圧制下の社会不安の中で動揺する民衆の間に急速に広まって社会問題化した為、政府は民を惑わす者として崔済愚を処刑しますが、東学は崔済愚の処刑後も民衆の間に広まり、彼等は全琫準に率いられて全羅道を中心に決起しました。

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甲午農民戦争・群衆を前にした全琫準

 1894年2月、かねてから農民を搾取して悪名高かった郡守が水利税を滞納した貧農を極刑に処し、この出来事を発端にこの郡守の悪業に耐えかねた農民達が全琫準に率いられて郡庁を襲ってこれを占拠し、甲午農民戦争(東学党の乱、1894年)が始まりました。

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甲午農民戦争の始まりとともに広まった全琫準の檄文

 全琫準の檄文に応じて各地で悪政に苦しむ農民達が蜂起し、その中心となったのは東学信徒でした。農民軍は5月末に全州を占領し、更に漢城(ソウル)へ向かって進撃を試みますが、当時の李朝はこれを鎮圧する力は無く、清国軍の出兵を要請する一方で、全琫準が提訴していた改革案を全面的に受け入れて全州和約(不正官吏・不正両班の懲罰、奴婢文書の焼却、賎民がかぶる笠を外す事等が約束された)を結びます(1894年6月)。

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全琫準1854年 - 1895年4月24日

 全琫準は、全州和約が結ばれると農民軍に解散を命じ、彼はこのことによって外国の軍隊が朝鮮に出兵して来る口実を除去しようと考えたのですが、全州和約が結ばれる迄に、既に清と日本は朝鮮に出兵しており、清朝は朝鮮から出兵を要請されると直ちにこれに応じ、天津条約(1885年)に従って朝鮮出兵を日本に通告し、朝鮮に出兵して牙山に上陸しました。
日本もこれに対抗して、清国から出兵の通告があった翌日に清国に出兵を通告して出兵し、漢城(ソウル)に兵を入城させます。

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景福宮

 清国は、日本軍との衝突を避けるために両国軍の即時撤兵を提案しましたが、日本は清国に朝鮮内政の共同改革を提案し、これが拒否されると、単独で朝鮮に内政改革案を突きつけ、期限迄に回答が無かった為、王宮(景福宮)を占領し、朝鮮に清国との宗属関係を破棄させ、清国軍の撤退を日本に一任させます(1894年7月23日)。

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豊島沖の海戦・日本海軍『浪速』の砲火により擊沈される清国海軍輸送船『高陞』

 その2日後、日本軍艦3隻は仁川西方の豊島沖の海戦で清国軍艦2隻を撃破し(7月25日)、又牙山の清国軍を潰走させて牙山を占領しました(7月29日)。
1894年8月1日、日清両国は宣戦を布告し、日清戦争(1894年8月~95年4月)が始まりました。
日本軍は、9月には平壌の戦いで清国陸軍を撃破し、退却する清国軍を追って更に北進、同月黄海海戦で清の北洋艦隊(李鴻章が創設した新式海軍)を撃破しました。


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黄海海戦

 北洋艦隊は当時としては、大型鋼製艦の定遠・鎮遠以下14隻、これに対して日本艦隊は12隻でしたが、日本艦隊は速力に優れ、重砲の数は清より少ないものの速射砲の数は圧倒的に多く、総合戦力では北洋艦隊を上回り、戦闘訓練の面でも勝っていました。
黄海海戦は5時間にわたって続き、日本艦隊の勝利に終わり、北洋艦隊は3隻が撃沈され、2隻が大破、これに対して日本艦隊は1隻の損耗も発生していません。

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北洋水師の要港であった威海衛湾

 平壌の戦いで勝利を治めた日本軍は、鴨緑江を渡って清国領内に入り、11月には遼東半島南部の旅順を陥落させ、翌年2月、日本海軍は北洋艦隊の根拠地である威海衛を占領し、北洋艦隊は降伏します。
1895年3月、下関で講和会議が始まり、日本全権の伊藤博文・陸奥宗光、清国全権の李鴻章との間で下関条約が結ばれ、この下関条約によって、清は朝鮮の独立、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金2億両の支払い、日本の通商上の特権等を認めました。

 この間、全琫準は、1894年10月に再び蜂起します。
一時は10万以上の農民が全琫準の基に終結しますが、近代兵器を持つ朝鮮軍と日本軍が出動すると、農民軍は各地で敗走を重ね、全琫準も密告によって捕らえられ(1894年11月)、翌年ソウルで処刑されています。

ジョークは如何?

戦後まもなく、日本政府は食糧難によって
数百万人の餓死者が出るという統計を元に
アメリカに莫大な食糧援助を求めたが、
その何分の一かの輸入で別段死人も出なかった。

そのことをマッカーサーが詰問した。

マッカーサー「でたらめな数字を出すな!」

吉田茂「うちの統計がそんなに立派なら、戦争には負けてませんよ。」

続く・・・

2017/05/17

歴史を歩く159

36東アジアの激動⑥

5日本の変革

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マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794年4月10日 – 1858年3月4日)

 1853年7月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリー(1794年~1858年)が4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本に開国を迫りました。

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黒船来航

 江戸幕府は、開国か攘夷かをめぐる激しい対立の中で、翌1854年に日米和親条約を結び、下田・箱館2港の開港や最恵国待遇の供与等を認め、 更に1858年の日米修好通商条約では箱館の他に神奈川・兵庫・新潟・長崎の開港、領事裁判権の承認、自由貿易の原則の確立、関税自主権の放棄等を認めた不平等条約に調印し、又オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の修好通商条約を結んで開国を断行します。

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大政奉還

 これに対して尊皇攘夷運動や討幕運動がおこるなかで大政奉還が行われ、1868年の明治維新となり、天皇中心の明治新政府が樹立されます。
明治政府は政治・経済・軍事・教育等あらゆる分野の改革を実施して富国強兵を図り、西欧化による近代化を進め、対外的には欧米列強に対しては和親策を取ますが、近隣のアジア諸国に対しては強硬な態度を見せています。

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江華島事件

 1874年には、琉球の漁民が台湾に漂着し、台湾の原住民に殺されたことを口実に台湾に出兵し、1879年には沖縄県を設置して琉球を併合、翌1875年には江華島事件を機に朝鮮に迫って日朝修好条規を結んで朝鮮を開国させました。

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大日本帝国憲法発布

 又北方ではロシアとの間に1875年に樺太・千島交換条約を結び、全樺太をロシア領・千島全島を日本領とします。

 この間、国内では自由民権運動が起こるとこれを抑える一方で、1881年の国会開設の詔によって1890年迄に国会を開設することを約束し、 1889年にドイツ帝国憲法を手本にした大日本帝国憲法を発布し、翌1890年に国会を開設しました。

6朝鮮の開国

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 李氏朝鮮(1392年~1910年)は、16世紀末に豊臣秀吉の侵入(壬辰・丁酉の倭乱)によって国土が荒廃し、更に17世紀前半には清の侵入を受けてその属国と成りました(1637年)。
この間、党争は更に激化しましたが、18世紀の英祖(在位1724年~76年)・正祖(在位1777年~1800年)は党争を抑えることに努めた結果、党争は下火になりました。

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洪景来の乱

 しかし、19世紀に入ると純祖・憲宗・哲宗(在位1849~63年)と年少の王が続き、実際の政治は外戚によって行われ、いわゆる勢道政治です。
こうした状況の中で没落官人の洪景来(1784年)は、政権から閉め出されて不満を持つ下級官僚と結び、窮乏した農民・流民・都市の貧民等を指導して反乱を起こします(洪景来の乱、1811年~12年)。農民軍が敗れる中で洪景来は戦死し、反乱は半年で鎮圧されましたが、李朝の官僚支配体制をゆるがす反乱となりました。

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興宣大院君(1820年12月21日(時憲暦嘉慶25年11月16日) - 1898年2月22日(時憲暦光武2年2月2日)

 1863年、哲宗が急死し、彼には嗣子が居なかった為、王族の中から12歳の少年が選ばれて李朝第26代高宗(在位1863年~1907年)として即位し、実父の大院君(1820年~98年)が摂政となって以後10年間にわたって実権を握ります。
大院君は内政改革を推し進めると共に、キリスト教を弾圧し、フランス・アメリカの艦隊を撃退し、又明治政府からの国書の受け取りを拒否する等鎖国攘夷策を推進しました。

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閔妃(1851年10月19日 - 1895年10月8日)

 しかし、大院君は1773年に、権力欲が強く野心家であった閔妃(びんひ、高宗の妃、1851年~95年)とその一族によって国王親政の名目で引退させられ、以後閔妃自等が実権を握り、一族と共に政治を専断しました。Unyogunboat.jpg
雲揚 (砲艦)

 こうした状況の中で、1875年9月に江華島事件が起こります。
明治政府は、朝鮮の内紛に乗じて武力による威嚇をもって朝鮮に開国を迫ることを決定し、軍艦雲揚を釜山に派遣して示威を行わせます(1875年5月)。
1875年9月には再び軍艦雲揚を派遣し、雲揚は朝鮮西海岸を北上して江華島に達し、雲揚から降ろされたボートが江華島に接近したときに江華島の砲台から砲撃を受け、これに雲揚が応戦して江華島の砲台を破壊し、水兵を上陸させて民家や官衙を焼き払い、朝鮮兵30数名を戦死させました。
これが江華島事件です。

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日朝修好条規(江華条約)調印

 雲揚が朝鮮の許可なく領海を侵犯し、江華島の砲台を挑発して発砲させたことは明らかでしたが、明治政府は江華島事件を口実として朝鮮を武力で脅し、1876年2月に日朝修好条規(江華条約)を締結しました。
その主な内容は、朝鮮の自主独立、釜山・仁川・元山の開港、日本公使館・領事館の設置、日本人の領事裁判権を認める事等です。

 日本は欧米列強から押しつけられた不平等条約を朝鮮に強制し、朝鮮を開国させ、第1条に「朝鮮は自主の邦にして日本国と同等の権を保有せり」とありますが、この条文は朝鮮が清国の属国でないことを明らかにし、清国との宗属関係を否定し、将来日本が朝鮮を属邦とするための布石でした。

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守旧派と開化派

 この時期の朝鮮では、守旧派と開化派との対立が強まっており、閔氏一族は当初開化的立場を取、軍制改革に着手し、日本から軍事顧問を招いて両班の子弟を中心に近代的な軍隊を創設、日本式の訓練を行いました。
これに対して旧軍隊の間には新式軍隊との差別待遇に対する反発が強まりました。

 当時、財政難に陥っていた李朝では軍隊への給与(米で支給)が遅配しており、やっと支給された1ヶ月分の米に砂やぬかが混じっていた事を発端に旧軍隊兵士の不満が爆発しました(1882年7月)。
この旧軍隊の暴動は、武器庫を襲って武装した旧軍隊の兵士に一般の貧民も加わり、大院君の煽動も加わって政府及び日本人に対する暴動に発展しました。
彼等は閔氏派要人や日本人を殺害し、日本大使館を焼き打ちし、大院君を擁立し、大院君は再び摂政の座について政権を掌握します。

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壬午政変(壬午軍乱)日本公使館襲撃

 日本と清国は直ちに出兵し、特に大軍を送り込んだ清軍は大院君を捕らえて保定(北京南西の都市)へ送って監禁し、閔氏政権が復活しました。
これが壬午政変(壬午軍乱)で、この壬午政変によって清の朝鮮支配が強化され、日本勢力は朝鮮から後退せざるを得ませんでした。

 壬午政変後、閔氏は清国に依存して政権の維持を図り、この閔氏を中心とする守旧派は事大党と呼ばれて、これに対して日本は金玉均等の独立党(開化派)との結びつきを強めて行きました。

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金 玉均(김옥균、1851年2月23日 - 1894年3月28日)
 
 金玉均(1851年~94年)は、科挙試験文科に主席合格して官界に入り(1872年)、1881年には日本使節団に加わり、又翌1882年には壬午政変の謝罪の為に派遣された修信使節団員として来日しました。
彼は日本の目覚しい近代化・発展に強い刺激を受け、日本と結んで朝鮮の近代化と国政改革を図る事を考え、朴泳孝(1861年~1939年)等同士と共に独立党(開化派)を組織しました。

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甲申政変

 しかし、独立党は、壬午政変後清国と結んだ閔氏一族の事大党政権の圧迫を受けて次第に劣勢に陥り、金玉均はクーデターによる政権奪取を決意し、清仏戦争での清の敗戦に乗じて日本の武力を借りてクーデターを起こし、事大党政権を倒して政権を奪取します。
それもつかの間、独立党の新政権は清軍の介入によって僅か3日で転覆し、金玉均は朴泳孝らとともに日本に亡命します。
これが甲申政変(甲申事変、1884年12月)です。

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洪鐘宇に殺害される金玉均

 日本に亡命した金玉均は日本政府によって小笠原・北海道へ移送され、最後は刺客に上海に誘い出されて暗殺されました。
1885年4月、甲申事変の処理に関する天津条約(日清天津条約)が結ばれ、日清両国は即時漢城(ソウル)から撤兵すること、将来朝鮮に出兵する場合は相互に通告すること等を約束しました。

ジョークは如何?

金正男が日本で捕まった。報告をうけて、金正日は言った。
「どの正男だ?」

※補足
影武者が多い

続く・・・

2017/05/07

歴史を歩く158

36東アジアの激動⑤

4洋務運動の進展

 アヘン戦争・アロー戦争・太平天国の乱等によって西洋の軍事技術が優れている事を認めた清朝は、1860年頃から西洋の軍事技術等の導入による富国強兵運動を進め、これを洋務運動と呼びます。

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天津フランス領事館


 北京条約(1860年)によって外国公使が北京に駐在することになり、清朝は1861年に総理各国事務衙門(総理衙門、そうりがもん)を設けて外交事務の処理機関とすると共に、ヨーロッパ文化の摂取に努めました。
洋務運動を推進したのは、太平天国の鎮圧に活躍した曾国藩・李鴻章・左宗棠等の漢人官僚でした。

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曽 国藩(嘉慶16年10月11日(1811年11月26日) - 同治11年2月4日(1872年3月12日))

 曾国藩(1811年~72年)は、郷里である湖南省で湘軍を組織して太平天国鎮圧の中心となり、天京(南京)を攻略して太平天国を滅ぼし、その功によって両江総督・直隷(河北省の旧名)総督・内閣大学士を歴任し、文官出身の漢人としては初めて侯爵を授けられ、直隷総督に任じられました。
彼は漢人官僚台頭の先駆けとなり、洋務運動の中心人物として活躍しました。

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李 鴻章(道光3年1月5日(1823年2月15日) - 光緒27年9月27日(1901年11月7日))

 李鴻章(1823年~1901年)は安徽省出身、進士に合格しますが(1847年)太平天国の乱が起こると郷里で義勇軍を組織して戦い、曾国藩の幕僚となり(1858年)、後に彼の推薦で江蘇巡撫となり、淮軍を組織して(1862年)太平天国討伐に活躍し、以後両江総督・直隷総督・内閣大学士を努め、清末の最高実力者として内政・外交に活躍しました。
この間、洋務運動の中心人物として軍隊の近代化・軍事工業の育成・近代工業の育成・鉱山の開発・鉄道建設等の富国強兵策を推進しました。

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左宗棠

 左宗棠(さそうとう、1812年~85年)は湖南省出身、科挙の最終試験(殿試)に3度失敗して帰郷し、太平天国軍が湖南に入ると曾国藩の軍に加わって討伐に従事し、軍功をあげて総督となり、福州に造船所を建設して軍隊の近代化に努める等洋務運動を推進しました。

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同治帝(清第10代皇帝(在位:1861年 - 1875年))

 当時の同治帝(在位1861年~75年)の治世は、太平天国の乱が鎮圧され、清朝の内政・外交が一時的に安定を取り戻した時期であったので「同治の中興」と呼ばれ、洋務運動が推進された時期でもありました。

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洋務運動によって編成された西洋式軍隊


 洋務運動の推進者達は「中体西用」をスローガンとしました。
中体西用とは、中国の伝統や学問を本体とし、西洋の科学や技術を応用するという意味で、この様に洋務運動の推進者達は、中国は軍事技術等の面では劣っているが、政治や社会体制の面では中国の方が優れていると考えており、彼等が推進した洋務運動の目的は清朝の支配体制の維持・強化にあったので、ヨーロッパ文化の摂取は単なる技術の導入に偏り、政治体制の変革には至らず、真の富国強兵を達成することが出来なかったのです。

 洋務運動とほぼ同じ頃に行われた日本の明治維新は、徹底した西欧化による近代化を推し進めたので、その差が以後の日本と中国の明暗を分けたと云われており、不徹底に終わった洋務運動の欠陥が清仏戦争(1884年~85年)や日清戦争(1894年~95年)の敗戦によって明らかになると、清朝でも日清戦争の敗北後政治体制の変革をめざす変法運動が起こる事になります。

ジョークは如何?

ある男が赤の広場で、「スターリンの大馬鹿野郎!」と叫んでいた。
さっそく秘密警察に逮捕され、強制収容所送りになる。刑期は二十五年。
その内訳は…国家元首侮辱罪で五年。国家機密漏洩罪で二十年。

続く・・・