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2008/09/29

「火の鳥・ヤマト編」

火の鳥・ヤマト編

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古墳時代、ヤマトタケルのクマソ征伐の話を題材にした好編。

<物語>
 ヤマト王朝の王は自分の事を後世に如何に伝えるか躍起になっていた。
彼は、ヤマト王朝を中傷するクマソの族長川上タケルを討つ為に、息子のヤマトオグナを差し向ける。
川上タケルに迎えられたオグナはクマソの国の民に触れ、又タケルの妹カジカと愛し合う様になる。
オグナは、クマソの守り神と言われる火の鳥がいる事を知り、その生き血を飲めば不老不死の体になる事を知ると、生き血を手に入れようと考える。
ヤマトの国では殉死の風習があり、血を手に入れ、殉死に選ばれた人を救おうという考えからであった。

 オグナは毎夜火の鳥の住処に赴いては笛の音を聴かせるようになり、遂には火の鳥を手なずける事に成功する。(火の鳥とオグナの心の交流は、見事です。ぜひ作品を読んで下さい)
川上タケルをどうしても殺せずに苦悩するオグナだったが、遂に決断し、長老の弔いの祭礼に乗じて女装して、女官に変装しタケルを殺す。
すぐにカジカ等の追っ手が迫るが、火の鳥にオグナは助けられ、生き血をもらい、ヤマト国に帰還する。

 カジカは仇討ちの為、一人ヤマト国に潜入し、オグナを殺そうとするが、オグナへの深い愛の為、復讐する事は出来ない。
オグナは手柄の為、王の墳墓を作る責任者に選ばれるが、完成したものは墳墓ではなく公園であったため王の怒りを買い、捕らえられる。

 やがて王が亡くなり、多くの殉死者が選ばれた事を知ったオグナは殉死者を救おうと脱走する。
殉死者の一員にカジカが選ばれている事を知ったオグナは、カジカに火の鳥の生き血をしみこませてあった布を渡し、殉死者全員になめさせるよう指示するが、オグナは捕らえられ、殉死に加えられてしまう。墓に生き埋めにされた殉死者達は、火の鳥の血のお陰でしばらくは生き続け、オグナの指揮により、土の中から大合唱を始め、殉死制度反対を叫ぶ。
半年が経ち、1年が経ち、次第に火の鳥の血の効き目がなくなり始め、声の数が1つ2つと消えていく。
遂に効き目が無くなった時、オグナとカジカは愛を誓いあって息絶えるのだった。
 
<読みどころ>
第3作はまた過去に戻っての、黎明編の後を受ける話ですね。
ヤマトタケルのクマソ征伐の話を下敷きに、殉死の代わりに登場したとされている埴輪誕生のエピソードを盛り込み、ヒューマンな作品になっています。
最期の殉死のくだりは手塚作品ならではの感動的な場面ですね。
 
『日本書紀』等に登場するヤマトタケル(ヤマトオグナ)は川上タケルを倒した時、その行動に感心した川上タケルがオグナに”タケル”の名を与えた、となっていますが、その後も他の地域の部族を次々に制圧し、最期はヤマトへの帰途の途中病死したとなっています。
実際には実在の人物ではなく、ヤマト王朝が他の豪族を屈服させ、ヤマト王朝に併合させていったという当時の歴史的事実を”ヤマトタケル”というヒーローを使ってひとまとめに語ったものだと歴史学者に考えられています。

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2008/09/28

「火の鳥・未来編」

$$訃報$$
米国を代表する俳優の一人で、映画「明日に向って撃て!」(69年)、「タワーリング・インフェルノ」(74年)などで知られるポール・ニューマンさんが26日、がんのため米コネティカット州の自宅で死去した。83歳だった。米メディアが27日報じた。

 昨年5月に記憶の衰えなどを理由に俳優を引退。今年6月には、がんで闘病中だと、同氏の知人が明らかにしていた。


「火の鳥・未来編」

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 人類の最期から新たな生命の再興までの30億年に渡る、壮大なる、2作目にして完結編です。
この未来編の特徴は、世界が滅びる事件が実際に発生し、その破壊が制止されず、実行に移されてしまう点ではないでしょうか?
 同じ手塚治虫の作品「ロック冒険記」にも、同様な物語が有ったと思いますが、主人公の活躍で、阻止されるのです。

<物語>
 西暦3404年、地球は死にかけていた。
自然は破壊し尽くし、人間はコンピュータに管理された地下都市(永遠の都・世界全部で5都市)で暮らしていた。
人類戦士の山辺マサトは、飼育を違法とされている不定形異星生物ムーピーを匿っている事が発覚し、ムーピーと共に地上の荒野に逃亡する。

 吹雪の中行き倒れになったマサト達を救ったのは、地上の辺境に住む世捨て人の猿田博士だった。 猿田は、絶滅した動物を復活させるため人工生命の研究をしていた。猿田博士は、ムーピーのタマミが持つ生命の力を知っており、タマミに生命研究の為、タマミの体を研究させて欲しいと懇願する。

 人間の住む地下都市では、各都市(メガロポリス・ヤマトとメガロポリス・レングード)のコンピュータ(ハレルヤとダニューバー)が対立をし、戦争となるが、なぜか残りの全ての都市(メガロポリス・ピンキング、同ユーオーク、同ルマルエーズ)も核爆弾により破壊され、一瞬の内に戦争は終わり、人類は滅亡する。

 ある日、生き残ったマサトの前に火の鳥が姿を現し、火の鳥の力で不死の体にされ、地球を復活させるよう命じられる。猿田博士が死んだ後も、猿田博士の研究を引継ぐマサトだが、研究は人工生命、ロボット等すべて失敗する。
 そこで、マサトは初めて気がつく。「私に生命の営みをもう一度、辿れと言うのか?」
最期の手段として、マサトは有機物の液を海に放ち、生命が一から進化していくのを見守る決意をするのだった。

 実は、「火の鳥・未来編」こそ、私が、中学1年生の時、初めて接した火の鳥作品なのです。未来世界の設定、コンピューターに管理された社会、地下都市のみに限定された生活圏、何か異様な未来世界を感じたものです。この未来編には、旧約聖書・ソドムとゴモラの話も語られます。
そして、人類滅亡後、タマミはその命の尽きる其の時迄、マサトにムーピーゲーム(幻想疑似体験)を行う部分など、壮絶な愛を感じるのです。

<注記>
 人類の滅亡から新たな生命の発展までを描く壮大な物語です。
政治の全てがコンピュータに任されていて、そのコンピュータが戦争を起こすという話は、最近の映画『ターミネーター2』等でも見受けられますね。
 現代のコンピュータ社会を予見していた、などと大袈裟な事は言いませんが、これは予想されうる未来ではあります。
 物語の終わりは第一部の冒頭に繋がっていて、終わりの無い物語という構造が興味深いです。つまりは何度も同じ轍を踏むという皮肉のような意味であるのですが、物語の最期に「いつか人類がこの間違いに気付いて、生命を大切にしてくれると信じたい」と結ばれています。
 この作品が発表された時代は、まだ高度経済成長の最中で、暗い未来を描くものは今ほど多くはなかったと言っておきましょう。

『火の鳥』の宇宙観
『未来編』の作品中、主人公が火の鳥に連れられて、ミクロの世界から超マクロの宇宙の外側までを旅する件がありますが、宇宙も更に大きな世界の細胞の一部であるという、これは手塚治虫が持つ宇宙観です。
最近注目されているフラクタル理論では、小さな形が集まってその形と相似形の集合を作るという事が唱えられていますが、この宇宙もそうであると、実際に一つの仮説として考えている科学者もいます。(人類はまだこの宇宙の存在理由すら解明してはいないですが、、)

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2008/09/27

「火の鳥・黎明編」

第1部 黎明編

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古代日本、邪馬台国を舞台にしたシリーズ1作目。
『魏志倭人伝』と『古事記』を元に、手塚治虫流の解釈を加えた、シリーズのプロローグを飾る傑作です。

<物語>
 3世紀の日本、その生き血を飲めば永遠の命が得られる、火の鳥が住むと伝えられる熊襲の国に、グズリという男が漂着した。始めは他部族という理由で殺されかけるが、次第に人望を得るようになり、やがて彼は村の娘ヒナクと結婚する。
 だが、実はグズリは邪馬台国の密偵で、結婚式の夜、彼の手引きで邪馬台国の軍隊が襲い、村人の全ては殺戮される。邪馬台国の軍は、老いを恐れるヒミコの命によって、火の鳥の生き血を手に入れるためにやって来たのであった。

 一人だけ殺戮を免れたヒナクの弟ナギは軍の隊長・猿田彦の捕虜となり、一方、グズリはヒナクを連れて村から脱走卯する。ナギの弓の腕を見込んだ猿田彦は、奴隷としてナギを邪馬台国へ連れて帰り、弓の訓練を授けようとする。
 始めは猿田彦を討つ事を考えていたナギだが、猿田彦の「弓の腕が上達したら討たれてやる」の言葉に、猿田彦の教えに従い弓の訓練に励むようになる。やがて猿田彦を討っても解決にはならないと悟ったナギは、ある日、卑弥呼を殺す計画を実行するが、失敗し、その責任で猿田彦は刑に処せられる。
 
 次第に猿田彦を尊敬するようになっていたナギは、猿田彦を救出し、熊襲へ逃亡するが、北部九州地方に遠征して来た高天原族に捕らえられる。

 火の鳥獲得の為、卑弥呼自ら遠征隊を指揮し九州遠征が始められるが、火山が噴火し、遠征は失敗に終わる。一方、グズリとヒナクは熊襲一族の再興を夢見、子を作るが、火山の噴火から逃れる内に、登る事の不可能な絶壁に囲まれた穴に閉じこめられてしまう。

 遠征の失敗後も熊襲の地に残っていた天の弓彦は遂に火の鳥を仕留め、邪馬台国へと持ち帰るが、卑弥呼は火の鳥を目の前に息絶える。
 高天原族が邪馬台国を襲う事を知ったナギと猿田彦は脱走し、邪馬台国の軍勢に入る。
やがて、激しい戦闘が始まるが、ナギ、猿田彦もろとも邪馬台国は滅亡、高天原族が勝利を収めた。

 月日は流れ、穴の中で繁栄していったグズリ、ヒナクの家族の中から、タケルが不可能と言われている絶壁を登る事を決意し、努力の末外界に旅立って行くのだった。
 
<注記>
 1954年に『漫画少年』誌に連載していたものの、出版社の倒産により未完に終わっていた『火の鳥/黎明編』を、新たな構想の元に発表した作品です。
『魏志倭人伝』の邪馬台国に関する件や『古事記』を元に、手塚治虫独自の想像によって物語が語られて行きますが、登場人物の名前の多くは『古事記』に登場する人物から取られています。
漫画少年版に比べ、プロットも描写も一段と完成度の高い物に仕上がり、シリーズ1、2を争う傑作となっています。

 熊襲一族を全滅させに来た邪馬台国の猿田彦、その猿田彦を敵と憎みながらも次第に惹かれて行き、邪馬台国に加勢する事になる熊襲の少年ナギ、熊襲を全滅へと導いたものの、熊襲一族の唯一の生き残りと共に、熊襲の民を復活させる事になるグズリなどなど、魅力的な登場人物がその人生を生き抜いて行く描写は正に名作の名に相応しい傑作といえるでしょう。
 
邪馬台国
3世紀末に晋で編纂された『三国志』のなかの魏志に当時の日本の様子を記した箇所があり、その『魏志倭人伝』と呼ばれる件に、邪馬台国と女王卑弥呼の事が語られている訳ですが、それによれば、水田稲作を営む階級社会で、北九州を含む約30の国を支配していたと記されています。
邪馬台国の位置について畿内説と北九州説とがあり未だに結論は出ていません。卑弥呼は、巫女的性格をもつ女酋で、夫はなく弟が政治を補佐し、死後は大きな墓に埋葬され、100人以上が殉死したと書かれています。
私は、個人的には邪馬台国は大和朝廷の前身ではないかと思ったりしますが、どうなんでしょうね?(^_^;)
どこかの古墳から卑弥呼の遺体でも見つかればわかるのでしょうか?(^_^;)

『古事記』での神々
『古事記』は言わずと知れた日本最古の書物ですが、黎明編の主人公ナギの元になっている伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は日本の国土を作った創造神で、天照大神(あまてらすおおみかみ)と、素戔嗚尊(すさのおのみこと)はその子供です。
また瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は天照大神の孫。
天鈿女命(あめのうずめのみこと)は舞踊をつかさどった巫女で、その容姿はお多福の面の由来といわれています。
猿田彦神(さるたひこのかみ)は体が大きく、鼻が長く、眼が輝いていてると記されています。
猿田彦の神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨した際、天鈿女命に圧服されられ、高千穂峰へ案内したとなっています。

天の岩戸
『古事記』では天照大神(あまてらすおおみかみ)が高天原(たかまがはら)での素戔嗚尊(すさのおのみこと)の行いに怒り、岩戸に隠れ、そのため世界が闇につつまれ、周りの神達は相談して、宴を催し、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が舞い(今風に言うとストリップ(^_^;))、天照大神が外の様子を伺おうと扉を少し開いた所を天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が岩戸をあけて大神を出した、となっています。

これらのことを踏まえて黎明編を読むと、新たな興味が湧いてくることでしょう。

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2008/09/26

「火の鳥」

火の鳥の魅力

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 火の鳥の魅力はといえば、、なんでしょうね?(^_^;)
一連のエピソードに共通する、”限りのある命を精一杯生きようとする物の姿 を通して描かれる生命への讃歌”といった物語であることでしょうか。

 又、人が自分のを背負って生きてゆく姿が描かれるのも魅力の一つでしょ う。
決して幸せな末路をたどるとは限らない主人公達はそれでも、その人生を精一 杯生き抜き、歴史に小さく、あるいは大きな足跡を残していきます。

 ステレオタイプ的な登場人物とは違った、人物像が描かれるのもこの漫画の大 きな特徴です。
例えば『黎明編』の主人公ナギは、彼の一族を惨殺した邪馬台国の防人、猿田 彦に対して深い恨みの念を抱き、復讐を誓いますが、いつしか猿田彦の人柄を 尊敬するようになり、親子にも似た感情が通いはじめます。

 同作で熊襲一族を滅ぼしに来た、いわば悪役であるグズリも単なる悪役として 描かれているのではなく、その物語の唯一の生存者となり、熊襲一族復興の中 心人物となって行きます。

 更に、『鳳凰編』における盗賊・我王が後年仏師としての生き甲斐を見いだし ていく過程や、その我王にかつて腕を傷つけられ、絶望のなかから努力で自分 を高めていく仏師・茜丸の姿など、登場人物は決してスーパーヒーローではな く、血の通った人間と感じられるような描かれ方をしています。

 私個人について言えば、私が『火の鳥』と出逢ったのは、まだ中学1年生の頃でしたが、その人物描写はそれまで親しんできた、物語的な物(小説、マンガ、ド ラマ他)では得られなかった、物事の見方に気付かせてくれた作品でした。

 この『火の鳥』は、ハッピーエンドの物語がもたらしてくれる胸のすくような カタルシスとはまた別種の感慨を読者に与えてくれるのです。

 『火の鳥』について
 手塚治虫の代表作の一つ、『火の鳥』は昭和29年に開始されて以来、発表誌を変えつつ、手塚治虫が亡くなる前年の昭和63年まで、30余年に渡って書き続けられた、当にライフ・ワークと言うべき未完の傑作です。

 火の鳥を狂言回しに生をテーマに綴ったこの作品は多くの人を魅了してきました。

 今度はその各エピソードについて語っていきたいと思います。
 多分に私の私見が混じった物になってしまいますが、ご勘弁を。

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2008/09/25

「千と千尋の神隠し」

「千と千尋の神隠し」

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副題:~トンネルのむこうは、不思議の町でした~

英題:Spirited Away
原作・監督・脚本:宮崎駿
プロデューサー:鈴木敏夫
音楽:久石譲
主題歌:「いつも何度でも」「いのちの名前」木村弓

<物語>
 アニメ史上だけでなく、日本映画市場最高の観客動員数、興行収入を誇る、宮崎監督率いるのスタジオジブリ製作の神様総動員の逸品です。アカデミー賞を始め、国内外で多くの賞を総なめにしました。

 「千と千尋の神隠し」では、「もののけ姫」まで宮崎監督の作品が持っていた大きな特徴が消えています。ひたむきで繊細でストイックでタフな登場人物達が姿を消し、代わりに、自分の痛みには敏感でも人の痛みは感じない、これといったポリシーを持たず、通勤ラッシュのホームで誰かが産気づいても、目を逸らして通り過ぎてしまう様な、極々普通の人間が表舞台に上がったのです。
 未来少年コナンから続いてきた宮崎アニメの潮流をほぼ断ち切り、新たな表現の可能性に挑んだ記念すべき一作目として、ジブリのみならず、アニメ史上において意義深い作品と言えます。

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 相変わらず素晴らしい美術背景は、デジタル彩色のメリットフルに生かし一層冴え渡り、画面の隅々まで気を遣って描かれた何気ない生活道具の数々が、実写以上の生々しい臨場感を醸し出しています。

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 物語は、新しい町へ越してくる途中、父親が運転するアウディ(なぜアウディなの?)が、主人公の少女-千尋の制止も聞かず、単なる好奇心で裏山の細道を無理矢理走り抜け奇妙な門を発見、いやがる千尋を引っ張りつつ門を抜け、不思議な街に迷い込むことから始まります。「千と千尋の神隠し」は、「わがままでめんどうは嫌いで何ごとも親任せで弱虫」な、ごく普通の10才の女の子の成長の物語であり、不条理世界からの脱出物語でもある・・・のかも知れません。

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2008/09/24

「もののけ姫」

「もののけ姫」スタジオジブリ20世紀最後の作品

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副題:~生きろ~
英題:PRINCESS MONONOKE
原作・監督・脚本:宮崎駿
プロデューサー:鈴木敏夫
音楽:久石譲
主題歌:「もののけ姫」米良美一

<物語>
 鉄と火薬を手に入れた人間が、軍備拡張、生産設備拡充、資源開発という名の自然破壊、資源確保を巡る争いという、きわめて今日的な問題を繰り広げる一方、畏怖すべき神々が当たり前に存在していた時代、おそらくは室町時代を下敷きにした世界で展開される物語は、宮崎監督が後に述べたように、本当は淡くてピュアな永遠のラブストーリーなのかもしれません。

 しかし、「もののけ姫」に用意された舞台、特に神々の住む森の、緻密で濃密な描き込みを目の当たりすると、只でさえスケールの大きな世界観はさらに存在感を増し、気の遠くなるような仕事をこなした宮崎駿とスタジオジブリの膨大なエネルギーに精神的に打ちのめされ、登場する人間たちが小さく霞んでしまう場面もしばしばです。ラブストーリーと言い切るには、「もののけ姫」は少々壮大に過ぎるのでしょうか。

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 結局、「もののけ姫」をどう読み取るかは「風の谷のナウシカ」以上に観客に委ねられ、その話題性とも相まってジブリ史上最高の興行収入(193億円)をもたらしました。

 物語は、自らにかけられた呪いを解くために、単身旅に出た主人公の少年アシタカが、山の神々(もののけ)と、石矢火(火縄銃)を製造する、当時のハイテク集落との戦いに巻き込まれ、もののけに育てられた人間の娘・サンと出会い、立場上対立しながらも惹かれあい、犠牲を払いつつ一緒に困難に立ち向かい、やがて・・・という筋立てです。(ナウシカ、ラピュタ、魔女の宅急便に通じる処がありますね)

 「もののけ姫」に登場する主要な役どころであるアシタカ、サン、エボシ御前(たたら場=火縄銃製造工場集落のリーダー)、ジコ坊(朝廷の特命エージェント)、モロの君(もののけの長のひとり、サンの育ての親)など、誰もが重い立場と責務を担い、揺るぎない意志に満ちていますが、それゆえ妥協点を見い出せず、人と人、人と神の戦いが始まります。最後は「世界の破滅」を憂慮するヒーロー、ヒロインが「愛の力」で身体を張って戦うというスタイルをとっていた宮崎監督とジブリの大作アニメですが、この作品以降、超人超越的だったヒーロー、ヒロインは、ささいなことに揺らぐ心を持った「普通の人間」へとシフトして行くことになります。

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 「もののけ姫」は、宮崎駿監督の作品作りのターニングポイントとして、また、スタジオジブリ最後のフル・セルアニメとして、世界中の人に大きな感動と影響を与えた大ヒット作として、歴史的な意味を持つアニメーションと言えるのではないでしょうか。

 私の友人は、「もののけ姫」→「天空の城ラピュタ」→「風の谷のナウシカ」の順番で見れば、人類の衰亡の歴史を物語るようだと言います。何か、手塚治虫の「火の鳥」を連想するような話ですね。

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2008/09/23

「平成たぬき合戦ぽんぽこ」

平成たぬき合戦ぽんぽこ

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~タヌキだって、がんばってるんだよォ~

英題:POMPOKO
原作・監督・脚本:高畑勲
プロデューサー:鈴木敏夫
音楽:上々颱風・古澤良治郎
主題歌:「アジアのこの街で」「いつでも誰かが」上々颱風

<物語>
 しまった!「耳をすませば」と製作年が反対だった(汗)

 現代社会の有り方に対し、具体的なメッセージを発信し続ける高畑監督ならではの作品です。
 東京都多摩市(多摩丘陵)界隈を舞台に、開発で暮らしを奪われた狸達が、人間に向かって戦いを挑み、結局負けはしないが勝ちもせず、人間と同化あるいは共存することで、したたかに生き抜いてゆく姿を描いているのですが・・・・・之が結構ユーモラスで、何か見ている私達を突き放したような視点で描いたファンタジー?、ドキュメント、場面には、開発問題と言うかなりシリアスな部分も登場する作品です。

 とぼけた狸たちのキャラクターと、リアルで緻密な描き込み。何気ない風景一枚一枚の圧倒的な情報量。ある意味、なんともバランスの欠いた、それでいて一度見たら忘れられない不思議な作品です。

 この作品の様に、フルデジタル化前のスタジオジブリ作品を見る場合、ストーリーやメッセージ云々以前に人間の手で描かれた絵が、何万枚も描かれ、それが動いているという事実そのものに打ちのめされるばかりです。

 この作品の終わり付近で、たぬき達の妖術により、在りし日の武蔵野(多摩丘陵)の姿が人間達の前に現れるシーンは、印象に残る名場面と思います。

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2008/09/22

「耳をすませば」

耳をすませば

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副題:~好きなひとが、できました~

英題:Whisper of the Heart
原作:柊あおい
監督:近藤喜文
プロデューサー:鈴木敏夫
音楽:野見祐二
主題歌:「カントリー・ロード」本名陽子

<物語>
 1998年に急逝した近藤喜文-宮崎、高畑監督、そしてジブリを支えてきた作画監督の最初で最後の総監督作品となりました。オリビア・ニュートンジョンの「カントリー・ロード」(高校の文化祭で、コーラスした思い出の名曲)をバックに始まるオープニングに、いきなり目が釘付けになります。多摩丘陵のニュータウンの夜の街並の、どうってことのない風景-コンビニやガードレールや踏切が、どうしてこれほど魅力的に映るのか不思議でなりません。
 私事ですが、京王線の調布市に、叔母や従妹が住んでいるので、画面から京王沿線らしさが、ひしひしと伝わってきます。

 セル画の描き込み(特に京王5000系、6000系)もそうですが、特筆すべきはサウンドでしょう。車の通りすぎる音、電車の通過音、モーターの唸り、風のざわめき、投げ入れられる新聞の音など、いたるところでさりげなく使われる効果音が、作品に豊かなディテールを与えています。

 作中で使われる「カントリー・ロード」の替え歌「コンクリート・ロード」は柊あおいの原作とは別に用意された筋立てに沿うもので、多摩丘陵の自然開発を揶揄している点で、「平成狸合戦ぽんぽこ」からの流れを感じさせます。
 
 「耳をすませば」は、主人公である中学三年の少女、月島雫(しずく)が、バイオリン職人を目指す少年-天沢聖司と出会い、自分の意志で小説を書き上げる過程を、ほどよく生々しく描いています。
 ラストシーン、雫と聖司の淡い恋が、淡いままじゃ済みそうもない予感をふくらませるあたりに、ジブリらしからぬものを感じさせ、結局は予感を予感のまま、さらっとエンディングを迎えるあたりがジブリらしいと言えます。

 ナウシカ、シータ(天空の城ラピュタ)、フィオ(紅の豚)、古くは、ラナ(未来少年コナン)、クラリス(ルパン三世カリオストロの城)から続いた、聡明・健気・繊細な、献身的でありながら鉄の意志も併せ持つ、無垢で「したたか」、時には超人的な身体能力も発揮するという、宮崎アニメのレギュラーヒロインとは一線を画した等身大の少年少女の姿が、ジブリが向かう方向を暗示させてくれた作品です。

 個人的には、この様な経験とは、一切無関係の中学、高校生時代をおくった私にとって「思い出ぽろぽろ」と並んで好きな作品です。

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2008/09/21

「紅の豚」

紅の豚
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副題:~カッコイイということは、こういうことさ~
英題:Porco Rosso
原作・監督・脚本:宮崎駿
プロデューサー:鈴木敏夫
音楽:久石譲
主題歌:「さくらんぼの実る頃」「時には昔の話を」:加藤登紀子

<物語>
 「魔女の宅急便」で極めた飛行するものへの描写は、紅の豚で更に頂点を極めます。第二次世界大戦前、暗雲が立ちこめ始めたヨーロッパ情勢の中、アドリア海を舞台に一匹狼?(豚)の賞金稼ぎポルコ・ロッソ(直訳:赤い豚)が、空賊相手に繰り広げる冒険と恋の日々、汗と涙と恋の競演でしょうか?

 大人に成ってしまった「飛行少年」の憧憬的視点で作り上げた、いささか屈折した「夢」の世界に、宮崎監督自身であるポルコ・ロッソを、これまたいささか屈折させて登場させたあたりに、宮崎駿監督自身の心情が伺い知れます。
 しかし、たとえそれがセンチメンタルな回顧的世界で有ったとしても、大人から子供まで堪能できる作品に昇華させて、興行収入を得る仕事として成立させた手腕は驚嘆に値します。

 この作品に見せる宮崎監督とスタジオジブリの力量と執念、そしてキャリアは、生半可なものではありません。膨大な数の美しいセル画を使って描かれた深紅のサボイアマルケッティ飛行艇の卓越した飛行性能は、正に「カッコイイとは、こういうことさ(作:糸井重里、声:大塚周夫)」の一言!
 急旋回の時「操縦桿を引きながら傾け、同時にラダーペダルを踏む」その操縦方法の描写、今にも泣き出しそうな空を「翼端のベーパートレイル」で表現するとか、余程の飛行機マニアでもない限り、気づきそうもないディテール描写も素晴しいですが、それにこたえる職人集団ジブリも、凄まじい職人の仕事ぶりを発揮しております。

 「魔女の宅急便」で塗り替えたアニメ興行収入を、さらに塗り替えた「紅の豚」のカッコよさですが、エンディングで、ジェットエンジン搭載の小型飛行艇が飛び去って行くシーンがとても印象的でした。何度見ても誰がパイロットか分からないのですが(フィオ?案外ポルコ?貴方はどちらと思いますか?)、それが、「星の王子様」サン=テグジュペリへのオマージュに思えたのは私だけでしょうか?
 一つだけ例を挙げると、ポルコの戦争中の戦いを回想するシーンで、戦いで疲れ切ったポルコの頭上を不思議な雲が流れる話は、サン=テグジュペリも作品の中で同様な描写をしています。

ひょっとすると、「紅の豚」そのものが、宮崎監督の敬愛するすべての飛行作家へのオマージュでもあるのかも知れませんね。

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2008/09/20

「魔女の宅急便」

以外に長くなってしまいました、「銀河鉄道の夜」
この辺で、明るい雰囲気の作品にトラバーユしましょう!


魔女の宅急便

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副題:~おちこんだりもしたけれど、私はげんきです~
英題:Kiki's Delivery Service
原作:角野栄子
監督・脚本・プロデューサー:宮崎駿
音楽:久石譲
主題歌「ルージュの伝言」「やさしさに包まれたなら」荒井由実

<物語>
 このお話、ちょと面白い裏が有りまして、まず、そちらをご紹介しましょう!

 主人公の魔法使い少女(魔女見習い)のキキに連れ添う黒猫の「ジジ」と宅急便、そして協賛のヤマト運輸とくれば、誰しもクロネコヤマトが最初からスポンサーだと思いたくなる処ですが、どっこいそうではないのです。
 
 作品が保々出来上がり配給の前になって、「宅急便」ヤマト運輸の登録商標であることに気づいたジブリが、慌ててヤマト運輸に相談した処、承諾を貰うどころか協賛まで貰ったと言う、ちょっと考えられないようで、しかい心温まる後日談が伝わっています。

 「魔女の宅急便」に限らず、ジブリ=宮崎監督の作品には、「飛ぶことへの憧れ」が至る所に溢れていますが、手書きセルアニメにおける「飛行描写」は、本作品で最高域に達した言って過言ではないと思います。

 ヨーロッパの街並を取材して描き上げた、キキの街の俯瞰図もさることながら、風にあおられ墜落するホウキという飛行体(?)の頼りなさを、ここまで緻密に描写する宮崎監督とスタジオジブリの仕事ぶりが圧巻です。私は、ヨーロッパ、特に北欧、ドイツ、スイス、オーストリアの風景と鉄道が大好きなので、ついつい見入ってしまします。

 冒頭、荒井由実の名曲「ルージュの伝言」をBGMに、ホウキに跨ったキキが深い藍色の夜空を行くシーンは、透明感と高揚感に満ち溢れ、それはそれは美しいものでした。キキの成長を示すエピソードシーンでまとめたエンディングのBGMは「やさしさに包まれたなら」。まさに、優しさに包み込まれたエンディングです。ジブリは「魔女の宅急便」で宇宙戦艦ヤマトを抜き、アニメ興行収入の歴代トップに躍り出て、荒井由実の二曲は、同年のリバイバルヒットとなりました。

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2008/09/20

「銀河鉄道の夜」第13回

全体のまとめ

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<旧版と新版の相違>
 旧版では、ジョバンニの父親は密猟者であり、監獄に入れられていると言われていてジョバンニもその事実を受け止めている。しかし新版の結末では、ジョバンニの父親は帰って来ることになったので、父親の設定が変えられた。ジョバンニの父親は北の漁に出ているが、それが密漁であるかどうかは噂である。監獄に入れられたという噂も、ジョバンニは信じていない。

 更に旧版では、夢から醒めた後にジョバンニのポケットの中には金貨が二枚博士から入れられている。ブルカニロ博士が削除されると、ジョバンニは博士から金貨を貰うことができない。そのため、ジョバンニは仕事の給料として銀貨を貰っている。そして牛乳も売り切れてはおらず、後ほど渡すという形になっている。

 新版では、ジョバンニは「銀河ステーション」と言う不思議な声で夢へ入り、一人で夢から醒める。目醒めたジョバンニはまず牛乳屋へ行って母親の牛乳を貰いに行き、その後川でカムパネルラがどうなったかを知らされる。この時、カムパネルラの父親はジョバンニにジョバンニの父親が帰って来るということを伝える、という結末になっている。

 何故賢治は、旧版と新版の結末を完全に変えてしまったのでしょう?

<賢治の理想と現実>

 賢治は32歳の時に急性肺炎に掛かり、これは賢治にとってとしの死と同じくらい大きな転機であったのではないかと思われます。賢治は病気を経て、少しずつ自分の死期が見え始めたのです。そして、自分の描いた死後世界と、自分の置かれた立場とのズレを感じた事と思われるのです。

 新版で変えられた結末には、「ほんとうの幸」の教えを説いたり地上に戻ったジョバンニがするべき事を伝えるブルカニロ博士は居ません。そしてカムパネルラが居なくなった直後、ジョバンニは夢から醒める。その時彼が最初に思い出したのは母親の事で、直ぐに牛乳屋へ行って届けられなかった牛乳を貰いに行く。

 目が醒めた途端、ついさっき貰えなかった牛乳を取りに行っている箇所は、旧版の雰囲気とだいぶ異なります。旧版で旅の前後でのジョバンニに変化が見られたのに対し、新版ではまるで銀河鉄道の旅は、彼が黒い丘でうたた寝した時に見た夢の様です。

 つまり新版では、旅を終えたジョバンニに旅の直後の変化の様子は旧版程はっきりと見られない。旧版での「ほんとうの幸」のヒントやジョバンニに地上に戻ってやるべきこと(「ほんとうの幸」を求めること)を提示してくれたブルカニロ博士の存在から一変し、新版ではジョバンニにカムパネルラの死という事実だけが知らされ、銀河鉄道の旅がジョバンニにどう影響したのかは全く書かれていません。

 それこそ、賢治の感じた理想の死後世界と現実の病状との格差によって生じた結末の違いであると思います。彼が旧版で説いた「ほんとうの幸」という理想は、病気の彼には探し求めることができなかった。それを全て削除し、彼は「ほんとうの幸」や、ジョバンニが銀河鉄道の旅を体験して得たものを明確に記さなかった。それは賢治自身にも不完全なものになってしまったからでしょう。結局「ほんとうの幸」には、はっきりとした定義や輪郭を本文に書き記さない結末を選んだ思います。

参考/引用文献
畑山博(著) p.50 「二章 「銀河鉄道の夜」もうひとつの読み方」『銀河鉄道 魂への旅』 1996年9月5日 PHP研究所


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2008/09/18

「銀河鉄道の夜」第12回

ザネリの性別論について第2回

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<ザネリの描写>

 ザネリ描写から、性別を解釈する事ができる行動描写を抜粋してみると以下

①ジョバンニを見てくすっと笑った
②級友(少年)と仲が良い
③ジョバンニと「ひらっと」すれちがった
④ジョバンニに投げつけるように意地悪を叫ぶ
⑤級友の中で率先してジョバンニに意地悪を言う
⑥船の上から烏うりをおしやろうとした
⑦第三次稿の場合のみ、赤い顔をした小さい子

 ①、③、⑦のザネリの描写は、どちらかというと少女めいたものである。それに対して④、⑤、⑥の行動は大胆であり、少年らしさを感じられる。また、②の同い年の少年達と仲が良いという事実は、ザネリが少女であるとするよりも、少年だとする方がより自然である。

<ザネリの意地悪>

 ザネリのカムパネルラに対する意地悪は、同じ生徒達の中でも群を抜くものである。第四次稿の九章でマルソがジョバンニに話しかけたのから見てもわかるように、ザネリ以外の生徒は、ジョバンニに対して特にあからさまに仲間はずれにするような態度を取っていない。しかし、ザネリは率先してジョバンニをからかい、それに付随するように他の生徒もジョバンニをからかっている。このザネリの意地悪をどう考えるかで、ザネリの性別をそれぞれ解釈することができる。

 意地悪の解釈は二通りある。一つは、仮にザネリの意地悪がジョバンニに特別な思いを持っているためだという解釈だ。この解釈では、ザネリが少女だと考える事ができる。ザネリはジョバンニの事を気にかけているが、それを表現するのに意地悪をしてしまうとすると、町でジョバンニと会った時の態度、特に「町かどを曲るとき、ふりかえって見ましたら、ザネリがやはりふりかえって見ていました」。
という一文はその事を暗示している様に思える。

 しかし、ザネリの意地悪は、ジョバンニの父が密猟者だという悪い噂から来たものだとも解釈できる。「新しいえりの尖ったシャツを着た」という描写から、ザネリはある程度裕福な家庭に育っており、それに対してジョバンニは、窮屈な上着を着ており、朝も晩も働いている。ザネリのジョバンニに対する意地悪は、貧しい家庭に育ち、悪い噂もあるジョバンニの家に対する嫌悪感や好奇心、興味から来ているとも考えられる。

 どちらの解釈でも、ザネリはジョバンニを意識している。また、銀河ステーションでのカムパネルラの台詞から、カムパネルラも他の級友とは違う意識をザネリに対して持っている事がわかる。銀河鉄道の夜を、ジョバンニ、カムパネルラ、ザネリの3人の関係に注意しながら読むと、新しい発見が何かあるかも知れませんね。

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2008/09/17

「銀河鉄道の夜」第11回

ザネリの性別論について

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 貴方は、ザネリの性別について、考えてみたことが有りますか?ほとんどの人は、銀河鉄道の夜を初めて読んだ時に、意識せずにどちらかの性別だと思い込んでいる場合が多と思います。しかし、男だと思うか、女だと思うかは、本当にいろいろなのです。ザネリの性別がどちらかという答えはまだ出ていません。少年であるのか、少女であるのかを特定する要素は少ないのですが、ここではその要素を取り上げて、どちらの性別なのかを考えてみたいと思います。

<第四次稿に見るザネリの台詞と描写>

 第四次稿の前半でのザネリは、ジョバンニをからかい、いじめる役として描かれ、九章の最後では、川に落ちたところをカムパネルラが身代わりになることによって助けられるという役で描かれている。
以後本文より抜粋

第一章、午后の授業でジョバンニが質問に答えられなかった時
ザネリが前の席からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。

第二章、学校が終わった後
ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。

第四章、ジョバンニが牛乳を取りに行く途中、だいぶ暗くなった街角で
 いきなりひるまのザネリが、新らしいえりの尖ったシャツを着て電燈の向う側の暗い小路から出て来て、ひらっとジョバンニとすれちがいました。
「ザネリ、烏瓜ながしに行くの。」ジョバンニがまだそう云ってしまわないうちに、
「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。」その子が投げつけるようにうしろから叫びました。
ジョバンニは、ばっと胸がつめたくなり、そこら中きぃんと鳴るように思いました。
「何だい。ザネリ。」とジョバンニは高く叫び返しましたがもうザネリは向うのひばの植った家の中へはいっていました。
「ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのだろう。走るときはまるで鼠のようなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのはザネリがばかだからだ。」

第四章、ジョバンニが牛乳屋から帰る途中
  十字になった町のかどを、まがろうとしましたら、向うの橋へ行く方の雑貨店の前で、黒い影やぼんやり白いシャツが入り乱れて、六七人の生徒らが、口笛を吹いたり笑ったりして、めいめい烏瓜の燈火を持ってやって来るのを見ました。その笑い声も口笛も、みんな聞きおぼえのあるものでした。ジョバンニの同級の子供らだったのです。ジョバンニは思わずどきっとして戻ろうとしましたが、思い直して、一そう勢よくそっちへ歩いて行きました。
「川へ行くの。」ジョバンニが云おうとして、少しのどがつまったように思ったとき、
「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」さっきのザネリがまた叫びました。
「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」すぐみんなが、続いて叫びました。

第四章、ザネリにからかわれた後町角を曲がろうとした時
 町かどを曲るとき、ふりかえって見ましたら、ザネリがやはりふりかえって見ていました。

第六章、銀河ステーションでジョバンニがカムパネルラを発見した時の、カムパネルラの第一声
 「みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった。」と云いました。
 ジョバンニは、(そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)とおもいながら、
「どこかで待っていようか」と云いました。するとカムパネルラは
「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎いにきたんだ。」
 カムパネルラは、なぜかそう云いながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいというふうでした。

第九章、ジョバンニにマルソが走り寄って言った言葉
 「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ。」
「どうして、いつ。」
「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」
「みんな探してるんだろう。」
「ああすぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれども見附からないんだ。ザネリはうちへ連れられてった。」

<第三次稿に見るザネリの台詞と描写>

 次に、第三次稿にあるザネリの記述を紹介します。第三次稿では、ザネリが川に落ちたというくだりはかかれておらず、ザネリはただ前半にジョバンニをいじめる役としてでてくるのみなのです。

四章、暗い町角をジョバンニが歩いているといきなりすれちがう。
 一人の顔の赤い、新しいえりの尖ったシャツを着た小さな子が、電燈の向ふ側の暗い小路から出てきて、ひらっとジョバンニとすれちがひました。
顔の赤い、小さな子という形容が加えられている。
「ザネリ、どこへ行ったの。」ジョバンニがまださう云ってしまはないうちに、
「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。」その子が投げつけるやうにうしろから叫びました。
-略-
(ザネリは、どうしてもぼくがなんにもしないのに、あんなことを云ふののだらう。ぼくのお父さんは、悪くて監獄にはひってゐるのではない。わるいことなど、お父さんがする筈ないんだ。去年の夏、帰ってきたときだって、ちょっと見たときはびっくりしたけれども、ほんたうはここにわらって、それにあの荷物を解いたときならどうだ、鮭の皮でこさへた大きな靴だの、となかいの角だの、どんなにぼくは、よろこんではねあがって叫んだかしれない。ぼくは学校へ持って行ってみんなに見せた。先生までめづらしいといって見たんだ。いまだってちゃんと標本室にある。それにザネリやなんかあんまりだ。けれどもあんなことをいふのはばかだからだ。)
ザネリが意地悪をするのは、ジョバンニの父が監獄に入っているせいだという記述が明確にある。

第六章、銀河ステーションでジョバンニがカムパネルラを発見した時の、カムパネルラの第一声
 「ザネリはね、ずゐぶん走ったけれども、乗り遅れたよ。銀河ステーションの時計はよほど進んでゐるねえ。」
 ジョバンニは、(さうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)とおもひながら、
「次の停車場で下りて、ザネリを来るのを待ってゐようか。」と云ひました。
「ザネリ、もう帰ったよ。お父さんが迎ひにきたんだ。」
みんなの記述が無く、ザネリが走ったけれども追いつかなかったとのみ書かれている。

以下、明日に続く。

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2008/09/16

「銀河鉄道の夜」第10回

銀河鉄道の夜の中の宗教孝第二回

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<宗教の違い>
 かおる子達もカムパネルラも、自分が犠牲になり他人を助けるという尊い行いをしたにもかかわらず、なぜ降りた駅が違ったのだろうか?どちらも天上を目指しているという共通点があるが、かおる子達が天上に行くためにサウザンクロスで銀河鉄道を降りた後も、カムパネルラとジョバンニはしばらく銀河鉄道に乗っている。そしてカムパネルラは「窓の遠くに見えるきれいな野原」を天上だと信じ、いなくなった。私は、降りる駅が違う理由は、カムパネルラとかおる子たちの宗教が違ったからではないかと思う。キリスト教の最終目的は「永遠の生」であり、仏教の最終目的は輪廻転生からの脱却、つまり「永遠の死」である。この二つの思想は、目的が違う為にどうしても相容れない。かおる子たちはクリスチャンであることは前で述べた。彼女達はサザンクロス(南十字星)で降りている。カムパネルラの宗教はわからないが、ジョバンニとカムパネルラは宗教を超えた(ほんとうの幸)という思想を持っており、その考え方の違いや神様に対する見方の違いから、降りる駅が違うという結果になったのではないだろうか。

 又、宗教、言い換えれば思想の違いは、かおる子達とジョバンニの神様に関する言い争いからもわかる。

第九章 ジョバンニの切符(後)より抜粋 ジョバンニとかおる子の神様論争
「僕たちと一緒に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。」
「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに云いました。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」
「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰っしゃるんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまうその神さまよ。」
「そうじゃないよ。」
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」青年はつつましく両手を組みました。女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別れが惜しそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出そうとしました。
以上本文より引用抜粋

 この文章を見れば、かおる子達とジョバンニの会話が、完全にすれ違っている事が明らかです。ジョバンニとかおる子達の言う「神様」は、根本的に意味が違うようだ。かおる子の言う「神様」とは、キリストの事であると考えられる。それに対して、ジョバンニの言う「神様」とはもっと抽象的なもので、「ほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです」とある。「神様」はどういうものかわからないが、たった一人の神様は確かに存在していると考えている。そして、その「神様」は、ほんとうの幸を叶えてくれる人なのではないだろうか。そして、「ほんとうの神様」とは、賢治自身の「神様」に対する考え方を反映しているのではないかと思う。
 (ほんとうの幸)を求める賢治は、様々な宗教の中で(ほんとうの幸)を叶える方法を探したが見つからず、独自の考え方の中での(ほんとうの幸)を叶てくれる「神様」を信じ、物語の中に書き表したのではないでしょうか。

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2008/09/15

「銀河鉄道の夜」第9回

銀河鉄道の夜の中の宗教考

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<献身の思想> 
 賢治の家は元々浄土真宗に属していたが、賢治は父の宗派に逆らい、24歳の時に日蓮宗(法華経)に改宗した。初稿ができ上がったのは1924年付近、賢治が28歳の時であり、銀河鉄道の夜は賢治の宗教の思想にも多分に影響されている。ここでは、賢治の宗教と、物語に出てくる宗教や思想を併せて考察していきます。
 まず、銀河鉄道の夜には、自分を犠牲にして他人を助けるという献身の思想が物語に反映されている部分が多く見られる点に注目しましょう。

1.蝎の火の話→自分の体が真っ赤なうつくしい火となった。
2.かおる子、タダシ、黒服の青年→氷山で船が沈む時、他の助かった人々の身代わりに亡くなった。
3.カムパネルラが川に落ちてザネリを助け、代わりに溺れて死んだ。

以上の三話。

 これ等、献身の教えは、宗教の中に見ることができる。仏教では、法隆寺の玉虫厨子に描かれている、釈迦の前生物語の一つ捨身与虎之図、釈迦が飢えた虎に自分の体を餌として与えた話が有名な話だろう。
 又、キリスト教は、キリストが人類の罪を一身に受けて十字架に架かった事からも解るように、献身の思想が下敷きとなっている。賢治がこれら宗教的な思想から影響を受けて、物語の中の献身を描いたのではないでしょうか。

<銀河鉄道の多宗教>
 銀河鉄道の乗客は、様々な宗教に属しているようで、文章中の、宗教に関係がある可能性が高い物や動作などを抜き出してみると、

七章
1、「白い十字架」 星座、キリスト教
2、「乗客の言葉 ハルレヤ、ハルレヤ。」 キリスト教
3、「黒いバイブル」 キリスト教?
4、「水晶の数珠」 仏教
5、「カトリック風の尼さん」 キリスト教

九章
1、「緑の切符(ところがそれはいちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したもの)」 仏教?
2、「新世界交響楽」 キリスト教
3、「青年の動作、両手を組みました」 キリスト教
4、「十字架」 キリスト教
5、「乗客の言葉 ハルレヤハルレヤ」 キリスト教
6、「神々しい白いきものの人」 不明

 これ等はキリスト教に関する言葉が圧倒的に多く、また、登場人物の名前も欧米のものであることから、物語は意識的にキリスト教の影響を色濃く受けて書かれている事がわかる。 
 又、かおる子、タダシ、黒服の青年の3人に代表されるの多くは、バイブルを持っていたり、ハレルヤ、ハレルヤと言うことからもわかるように、キリスト教信者である。
 しかし、この物語の主人公であるジョバンニは、九章でかおる子と神様について意見が食い違っている事から、キリスト教信者ではないと思われる。乗客は他の宗教にも比較的寛大であり、キリスト教信者ではないジョバンニも十字架に向かって祈っている。一見彼らは宗教が違っても問題無く付き合っているようではあるが、しかし、宗教が違うことで根本的に解りあえないという側面も持っている。それがよく書き表されているのは、九章でのかおる子達とジョバンニの、神様に対する論争であると思う。

以下次回。

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2008/09/14

「銀河鉄道の夜」第8回

ジョバンニの嫉妬考

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<賢治の心の葛藤>
  鳥捕りに会った後に、ほんとうの幸を意識し始めるジョバンニだが、九章で会うかおる子に対しては嫉妬心を抱く。なぜジョバンニは、その時既にほんとうの幸という崇高な目的意識を持ち始めていたにもかかわらず、九章ではかおる子個人に嫉妬を抱くように描かれたのか。私は、それは賢治が自分自身の心の葛藤を物語に表現した為だと考える。賢治には愛してやまない妹としがいた。
 銀河鉄道の夜は、としが亡くなった後、としへの鎮魂歌として書かれた作品であり、ジョバンニは賢治自身をモデルとして描かれ、カムパネルラはとしをモデルとして描かれたという有力な説がある。賢治は、銀河鉄道の夜を執筆中ほんとうの幸という理想を持っていたが、とし個人への特別な思いを消す事が出来なかった。ほんとうの幸を求めるということは、みんなが幸せになるという事である。しかし、同時に賢治は一人の人間を求めてしまう。その矛盾と賢治の葛藤がそのまま物語に表現され、ジョバンニの嫉妬となって書かれているのではないでしょうか。

<嫉妬心の正体>
 しかし賢治もジョバンニと同じく、一人の人間を求めてしまい賢治はそんな自分自身を蔑んでいる。
(※参考・宮沢賢治著『オホーツク挽歌』より、「海がこんなに青いのに/わたくしがまだとし子のことをかんがへてゐると/何故おまへはそんなにひとりばかりの妹を/悼んでいるかと遠いひとびとの表情が言ひ/またわたくしのなかでいふ」)
 賢治は、「ひとりをいのってはいけない」という事を知っていながらも、「ひとりばかりの妹」を思うことを止められていないのである。
 としのことばかりを考えている事に対する賢治の自嘲であり、みんなを考えなければいけないと頭では分かっているのに、どうしてもその通りに行動できないという賢治の葛藤が見られる。そして、この賢治の葛藤は、ほんとうの幸を追及したいと思いながらもカムパネルラを求めるジョバンニの姿と重なる。
 これらの事から、ジョバンニの嫉妬は、賢治が自分自身の姿をジョバンニに投影したために生まれたものなのではないかと思われる。これを意識して物語を読むと、ジョバンニのカムパネルラに対する思いからは、理想を追求しながらも人間らしい感情を捨てきれない賢治の生々しい苦悩を感じることができるだろう。

参考:佐藤紘子著 論文 『銀河鉄道の研究』~最終形における「ほんとうのさいはひ」とは何か

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2008/09/14

「銀河鉄道の夜」第7回

ほんとうの幸考第三回

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<蝎>
~理想の姿~

第四次稿 第九章ジョバンニの切符(後)より抜粋
「あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。」ジョバンニが云いました。
「蝎の火だな。」カムパネルラがまた地図と首っ引きして答えました。
「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」
「蝎の火ってなんだい。」ジョバンニがききました。
「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」
「蝎って、虫だろう。」
「ええ、蝎は虫よ。だけどいい虫だわ。」
「蝎いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫されると死ぬって先生が云ったよ。」
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、
 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんとうにあの火それだわ。」
-略-
 ジョバンニはああと深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。
「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
 ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。そして誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。以上 原文より引用抜粋


 ジョバンニは途中、かおる子から蝎の火の話を聞く。蝎は自分が死にそうになった時に、自分のに犠牲になったものと、何の役にも立たなかった自分自身を自覚し、みんなの幸のために犠牲になりたいと望んだのである。この蝎の話は、ジョバンニの、「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」という言葉からも、蝎はジョバンニにとって理想の姿であることがわかる。そして、蝎の火の話を聞いた事により、ほんとうの幸を実現したいという考えは、カムパネルラと共にほんとうの幸をさがしにいこうという決意に変わる。しかし、カムパネルラは消えてしまい、現実世界に戻ったジョバンニは、カムパネルラが既に死んでしまっていた事を知る。

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2008/09/12

「銀河鉄道の夜」第6回

ほんとうの幸考第二回

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<青年>
~幸せの取捨選択と相違~

第四次稿 第九章ジョバンニの切符(中)より抜粋
「いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、-略-船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれどもどうして見ているとそれができないのでした。-略-ええボートはきっと助かったにちがいありません、何せよほど熟練な水夫たちが漕いですばやく船からはなれていましたから。」
 そこらから小さないのりの声が聞えジョバンニもカムパネルラもいままで忘れていたいろいろのことをぼんやり思い出して眼が熱くなりました。
(ああ、その大きな海はパシフィックというのではなかったろうか。その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほんとうに気の毒でそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう。)ジョバンニは首を垂れて、すっかりふさぎ込んでしまいました。
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」
 燈台守がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るようにそう答えました。 以上 本文より引用。


 次に、ジョバンニが(ほんとうの幸)について考えるのは、青年の話を聞いた時である。ジョバンニは青年の[かおる子とタダシを生かしたい][他人が死ぬのもつらい][かおる子とタダシに神にそむく行動をとらせられない][自分も神にそむく行動をとることができない]という4つの気持ちからどれかを捨てねばならない選択において、[かおる子とタダシを生かしたい]という気持ちを捨てざるを得なかった話を聞いた。そして、自分の求める(ほんとうの幸)を達成するには、必ず、幸の取捨選択を行わなければならないという事に気付く。しかし、取捨選択してしまった幸は(ほんとうの幸)ではありえない。つまり、(ほんとうの幸)を実現する事は不可能なのではないか、と悟るのだ。それまでのジョバンニは、自分のものを人に与える事で(ほんとうの幸)は実現できると思っていた。しかし、(ほんとうの幸)を実現する上での矛盾点に気付き、自分はどうすれば良いのか解らなくなってしまって「首を垂れて、すっかりふさぎ込んで」しまったのである。

 ここで注意すべきは、ジョバンニの言う(さいわい)と、青年や灯台守の言う(幸福)、(いちばんのさいわい)は違う物であるという事だ。ジョバンニは、全ての人の幸が実現する事を(ほんとうの幸)だと思っているが、燈台守の言う(ほんとうの幸福)とは、個人の幸福について言っているものだ。青年の言う(いちばんのさいわい)も、(自分達の幸の中で一番良い幸)という意味である。つまり、ジョバンニの言う広い意味での幸と、青年達の言う幸は、まったく質の異なるものだ。同じく、北十字とプリオシン海岸の、カムパネルラが言う(いちばん幸)も、ジョバンニの(ほんとうの幸)とは異なるものである。

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2008/09/11

「銀河鉄道の夜」第5回

ほんとうの幸考

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 物語の後半になると、ジョバンニは「ほんとうの幸」とは何だろうと悩み、自分も「ほんとうの幸」を実現したいと考えるようになる。銀河鉄道の夜は単なる童話でなく読み方によって様々な謎と側面を持つが、ジョバンニが銀河鉄道を通じて様々な人と会い、「ほんとうの幸」をだんだん意識するようになるまでの心の成長を描いた話、と一度、意識して読んでみてもらいたい。「ほんとうの幸」は物語のとても重要なキーワードであるので、きちんと理解しておく事をお勧めします。「ほんとうの幸」に関連がある文章を抜き出して、もう一度じっくり読みながら考えましょう。

<鳥捕り>
~他人の幸せのためならば~

第四次稿 第九章ジョバンニの切符(前)より抜粋以下
「もうじき鷲の停車場だよ。」カムパネルラが向う岸の、三つならんだ小さな青じろい三角標と地図とを見較べて云いました。
 ジョバンニはなんだかわけもわからずににわかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一一考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか、と訊こうとして、それではあんまり出し抜けだから、どうしようかと考えて振り返って見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りが居ませんでした。網棚の上には白い荷物も見えなかったのです。また窓の外で足をふんばってそらを見上げて鷺を捕る支度をしているのかと思って、急いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と白いすすきの波ばかり、あの鳥捕りの広いせなかも尖った帽子も見えませんでした。
「あの人どこへ行ったろう。」カムパネルラもぼんやりそう云っていました。
「どこへ行ったろう。一体どこでまたあうのだろう。僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったろう。」
「ああ、僕もそう思っているよ。」
「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」ジョバンニはこんな変てこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思いました。(以上原作より抜粋)

 最初に、(ほんとうの幸)と言う言葉が、文章中に出てくるのは、鳥捕りが突然姿を消した前後である。ジョバンニは、初めは鳥捕りを馬鹿にしていた。しかしこの場面で初めて、ジョバンニの「他人の幸せのためならば自分の体を使いたい」という気持ちが芽生えた。それは、いままで「馬鹿」だという鳥捕りの評価が、「気の毒」に変わった瞬間でもある。この時ジョバンニは、鳥捕りにとっての(ほんとうの幸)は、「自分の持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまう」、「自分があの光る天の川の河原に経って百年つづけて立って鳥をとる」事で実現できるのではないかと思い、「ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか」と聞こうとする。しかしそれを実現する前に鳥捕りは消えてしまい、ジョバンニは「大変つらい」「変てこな気持ち」を味わう事になるのです。

明晩に続く・・・・

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2008/09/10

「銀河鉄道の夜」第4回

ジョバンニの孤独考

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<孤独>発表年度による内容の違い
 第三次稿と第四次稿の違う箇所を紹介します。
「おまへはいったい何を泣いてゐるの。ちょっとこっちをごらん。」(原文のまま)と言うブルカニロ博士の優しい声が聞こえ、カムパネルラはもう帰ってこない事を知る。そしてジョバンニは銀河鉄道の仕組みを知り、「ああゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」と決意する。そして、「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」と、ジョバンニは力強く云うのだ。ジョバンニは、元居た世界に戻り、カムパネルラを失った孤独の中に居るが、それは始めの孤独とは違い、悲壮感は無い。ジョバンニは孤独であるが、博士のくれた緑の切符と共に、(ほんとうの幸)という目指すべき目標に向かって真直ぐに突き進んで行くという決意を持ち、孤独ながらも強く生きて行くのである。

 しかし、第4次稿の場合は全く違う。ジョバンニは「もとの丘の草の中につかれてねむって」いたのであり、「胸は何だかおかしく熱り頬にはつめたい涙がながれて」いる気持ちを味わう。そして直ぐ、「まだ夕ごはんをたべないで待っているお母さんのことが胸いっぱいに思いだされ」て急いで家に向かう途中、七八人の人がひそひそ話しているのを見て「なぜかさあっと胸が冷たく」なるのだ。そして、カムパネルラが死んだ事を知って「わくわくわくわく足がふるえ」、「もういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云えずに博士の前をはなれて早くお母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと思うともう一目散に河原を街の方へ走」って行って物語が終わるのである。ジョバンニは銀河鉄道の夜を通じて精神的に成長し、ほんとうの幸を探そうと決意するが、第三次稿のように、「僕きっとまっすぐに進みます」という、いわば単純な、希望を持った結末とは違う。カムパネルラを失う事によって再び訪れた孤独は、物語の初めとは違う意味で、ジョバンニに重くのしかかるのである。これは第三次稿が書かれてから第四次稿が書かれるまでの間に(ほんとうの幸)の実現の難しさを悟った賢治の意識の変化により、ジョバンニは「ほんとうの幸を探そう」という結末から、「もういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云えずに」走っていくという結末になったのだと考えられる。 (第三次稿と第四次稿の違い、出典あり)

 また、それに併せ、カムパネルラのモデルとされるとしを失った賢治の孤独、悲しみが、第三次稿に比べて第四次稿はありありと写し出されている様に思う。

 ジョバンニは物語の最後、第三次稿、第四次稿共に、最初の孤独とは違った意味の孤独を感じることになるが、第三次稿では孤独でありながらも未来に向かって希望を持っている。しかし、カムパネルラを失った第四次稿のジョバンニは、最初の孤独に比べより大きい孤独を感じ、一人で(ほんとうの幸)を求めていく事の絶望的な遠さに「もういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云え」なくなるのである。
(ほんとうの幸について、出典あり)

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2008/09/09

「銀河鉄道の夜」第3回

ジョバンニの孤独
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<同世代の少年達>
 ジョバンニは元々、友達から仲間はずれにされていた孤独な少年である。「朝にも午后にも仕事がつらく、学校に出てももう皆ともはきはき遊ばず、カムパネルラともあんまり物を云わないようになった」という言葉から解るように、ジョバンニには毎日過酷な仕事があり、友達と遊ぶ時間が無い。又、仕事に疲れてしまうせいで友達との縁も薄くなってしまう。銀河鉄道の夜の冒頭でも、その日はケンタウル祭なのにも関わらず、ジョバンニは遊ぶ事ができず、活版所で働いたりおっかさんのために牛乳を取ってきてあげたりと忙しく働いている。

<大人達>
 一生懸命に働くジョバンニに、大人達はひややかな態度をとる。ジョバンニは仕事場でも礼儀正しく振る舞い、決して他人の迷惑になるような事はしている訳ではない。しかし、「青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人達が声もたてずこっちも向かずに冷く笑いました。」という記述からも解るように、ジョバンニは仕事場にも溶け込む事ができない。大人達が、ジョバンニに冷たい態度をとるのは、父親が監獄に入っているという悪い噂を町の人が知っているためだと考えられる。

<旅人達>
 大人にも子供にも相手にされないジョバンニは、不在の父親の代わりに姉と二人で、体の悪い母親の面倒を看なければいけないという重圧を持ちながら、いつも孤独であった。しかし、カムパネルラと共に銀河鉄道に乗り、ジョバンニは様々な人と会う。鳥捕り、青年、かおる子・・・・様々な人に会うたびに、それまでは明るくふるまおうをしながらも、「たまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気がしていた」ジョバンニが、「もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っている物でも食べる物でも何でも遣ってしまいたい」と思う程の心境の変化が訪れる。そして本当の幸を探そうと決心するのである。

<カムパネルラ> 
 カムパネルラと共に旅をし、孤独ではなくなったジョバンニは、カムパネルラと一緒に何処までも行きたいと願うようになる。

本文より抜粋(ほぼ原文のまま)
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。」
「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」

 これは全てジョバンニの台詞である。カムパネルラに、一緒に行こうと何度も念を押しているのである。しかし、カムパネルラは約束を果たさず、ジョバンニを置いて消えてしまった。また孤独になってしまったジョバンニは、カムパネルラを失った悲しみから、「誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだし」たのだ。

この続きは、又明日にしましょう。

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2008/09/08

「銀河鉄道の夜」第2回

ジョバンニとカムパネルラについて

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「銀河鉄道の夜」の主人公のジョバンニとカムパネルラにはモデルが居る。カムパネルラのモデルは賢治の妹のとしで、ジョバンニのモデルは賢治本人なのである。

<としの存在>
 としは賢治にとって、五人居る弟妹の中でも特別な存在だった。例えば、賢治が研究生だった時、東京で教諭をしていたとしが入院したと聞き、すぐに上京して、彼女が退院するまで看病を続けた。賢治はとしが病気になる度に彼女の元へ駆けつけた。又、としは賢治の創作活動に大きく関わっている。歌稿を筆写しまとめ、作品に関して意見を言ったりしていた、賢治の執筆に対する良き理解者だった。
 そのとしが亡くなったことが、賢治が「銀河鉄道の夜」を書いた事への大きな動機であろう。

<銀河鉄道の旅>
 としが亡くなってから、賢治は傷心旅行へ出かける。その旅は、物語内でのジョバンニとカムパネルラの旅に酷似している。ジョバンニとカムパネルラの旅は、賢治の実体験に基づいているのである。旅の構想にモデルがあるのであれば、恐らくその旅をする人物、ジョバンニとカムパネルラにもモデルが居る、と考えても良いのではないだろうか。

 銀河鉄道の旅は、死んでしまったカムパネルラを天上へ送り届ける為の旅である。もし銀河鉄道が死者を載せる汽車であるのなら、何故ジョバンニは銀河鉄道に乗っているのだろうか。その理由の一つは、ジョバンニのカムパネルラに対する想いの強さである。仕事で忙しいジョバンニは、小さいときから仲が良いカムパネルラと最近一緒に居る時間が出来ない。又、子供達から虐めらているジョバンニにとって、誰からも好かれるカムパネルラは憧れである。そのカムパネルラが死んでしまい、銀河鉄道に乗って天上へ行ってしまう。そんな時ジョバンニは、亡者の菩提をとむらう仕掛けをした天気輪の柱のある黒い丘に居た。恐らく彼のカムパネルラに対する、強い想いと場所の好条件により、親友との最後の旅を楽しむ事が、出来たのであろう。しかし旅は、カムパネルラが天上へ、ジョバンニが地上へ戻った事によって終わっている。
 
 死んでいるカムパネルラと生きているジョバンニ。この二人のモデルは、死んでしまったとしとそれを哀しんでいる生きている賢治のことと言える。
 何故賢治は、ジョバンニとカムパネルラを賢治ととしの様に兄弟にせず、親友にしたのだろうか?恐らく、兄弟という設定とするのは、余にも生々しかったのであろう。
 ジョバンニの想いの強さは、賢治の想いの強さと同じなのである。

引用/参考文献
※畑山博(著) p.50 「銀河鉄道の夜」もうひとつの読み方」『銀河鉄道 魂への旅』 1996年9月5日 PHP研究所

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2008/09/07

「銀河鉄道の夜」再考

以前、銀河鉄道の夜について、簡単ながら記載しました。今回、もう少し踏み込んで、「銀河鉄道の夜」を再読したいと思います。(前回と重複箇所も有りますが、宜しくです)

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「銀河鉄道の夜」とは
 宮沢賢治の作品の中で最も有名な童話の一つとなった「銀河鉄道の夜」。

 未完成のまま世に出されたこの童話は、賢治の想いが詰まった作品となっています。
今回、賢治が「銀河鉄道の夜」を書いた背景、「銀河鉄道の夜」誕生秘話についても出来得る限り紹介してみようと思います。本文だけでは分からない隠された想いについて、本文を読んだことある人もない人も是非読んでみて下さい。
 
 作者の宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」を書き始めたのは、妹のとし(またはトシ、とし子)の死後でなのです。賢治は下に四人の弟妹が居り、その中でも賢治はとしに「信仰を一つにするたったひとりのみちずれ」(※1)と呼びかけ、そのことから、賢治はとしに対する特別な思い入れがあったことが分かります。
 としは賢治の歌稿を筆写し纏めたりして、彼の創作活動を手伝いました。又、彼女は賢治の作品に対する良き理解者でもありました。そのとしが、賢治二十六歳の時に亡くなったことは、彼の人生の中で大きな衝撃だったに違いないのです。

 賢治は日記をつけずに、短歌や詩が日記代わりとなりました。としが亡くなった頃に生まれた詩から見ても、彼女の死が彼の中でどれほど悲痛なものだったか伺えます。

 としの死から一年後、賢治は「風林」という詩を著しています。
その詩の中で賢治は、死んだ妹が「天の木星にいるのかもしれない」(※2)と詠いました。
そして彼はこの年の七月、樺太鉄道に乗って北へ傷心旅行へ出かけたのです。
(表向きは、教えていた農学校の生徒の就職を樺太の知人に頼みに行くというものだった。)

 賢治は何故北へ向かったのでしょう?それは北の果て、北極が一番天に近いと思ったからでしょうか?しかし北極へは行けないので、鉄道と船で行ける処まで北へ向うのです。この旅行こそが、「銀河鉄道の夜」の原点です。

 例えば、樺太鉄道の終点は、オホーツク海に面した栄浜ですが、この駅は物語の中の白鳥の停車場と思えます。栄浜駅へ着いたのは、午前十一時十五分で、物語内でも白鳥駅へ辿り着いたのは十一時。そして栄浜駅から歩いて栄浜海岸へ行くことができる。之も又、物語内でジョバンニとカムパネルラが白鳥駅からプリオシン海岸へ歩いて行く箇所と同じです。

 この様に、賢治の樺太鉄道旅行は、物語の流れと似ている点が多いと思います。そして、物語内のジョバンニとカムパネルラは「死んだトシと生きている賢治」を指すのです。としの死を経て、感傷旅行へ出かけた賢治。「銀河鉄道の夜」誕生のきっかけは、まさしくそこにあると言えるでしょう。

 一度「銀河鉄道の夜」を読んだことある人も、ジョバンニが賢治でカムパネルラがとしであったことを踏まえたうえで読んでみれば、「銀河鉄道の夜」を新しい視野でとらえることができると思います。

【引用文献】
※1: 東光敬(著) p.38 「妹の死」『銀河鉄道の夜〉をつくった宮沢賢治 宮沢賢治の生涯と作品』 1998年6月15日 ゆまに書房
※2: 畑山博(著) p.50 「「銀河鉄道の夜」もうひとつの読み方」『銀河鉄道 魂への旅』 1996年9月5日 PHP研究所

あらすじ

 父親が漁のために北の海に行ったまま消息がわからず、病気で家から出られない母親を持ち、苦しい家計を支えるために姉とふたりで働くジョバンニ。彼は毎日活版所で活字を拾い、お金を稼ぐ生活をしていた。父親がいない為に他の子供達に虐められる中、小さい時からの友達だったカムパネルラだけはジョバンニに優しくした。ジョバンニはカムパネルラに憧れていた。

 ケンタウル祭の夜、ジョバンニはお母さんに飲ませる牛乳を貰いに行く。しかし途中でザネリに会って意地悪を言われ、牛乳も貰えず、更に帰る途中にまたザネリたちの集団に会いからかわれる。その集団の中には気の毒そうな顔をしたカムパネルラもいた。ジョバンニはすっかり落ち込み、誰もいない暗い丘に寝転んで星を見上げた。

 その時ジョバンニは、銀河ステーション、銀河ステーションと云う不思議な声を聞いた。気が付くと彼は夜の軽便鉄道の車室に、窓から外を見ながら座っていたのだ。そして前の席には青ざめた顔をしたカムパネルラが乗っていた。不思議に思いながらもカムパネルラとの旅に胸を躍らせるジョバンニ。二人の幻想の旅が、今、始まる。

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2008/09/06

少々季節は、早いですが、ふたご座のお話

ふたご座の神話(奈津子の星座です)

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~助け合う兄弟の象徴~

 ふたご座は、星占いの星座の一つとしてよく知られています。その起源は古く、古代ビロニアでも「大きな双子」と呼ばれていました。
 ギリシア神話では、之をカストルとポルックスの双子の兄弟に見立てています。2人はスパルタの王妃レダが産んだ卵から孵った。兄のカストルはスパルタ王の血を受けたが、弟のポルックスは大神ゼウスの血を受けたため不死身でした。兄弟は仲良く成長し、カストルは戦術に優れ、ポルックスは格闘技の達人に成長しました。
双子の兄弟は共に様々な冒険を行って活躍し、なかでも有名なのがアルゴ船遠征の物語です。
 
 ギリシアのイオルコスの王子ヤーソンは成人すると、叔父ペリアスに王位を返して欲しいと要求した。腹黒いペリアスはコルキスにある金毛の羊皮を持ってきたら王位を譲ろうと難題を出しました。コルキスは黒海の奥にある国で、当時はとても行き着けないと考えられていた所でした。
 
 ヤーソンはコルキス遠征を決意し、50人の勇士をギリシア各地から募った。カストルとポルックスの兄弟をはじめとして、ヘルクレス、音楽の名手オルフェウス、医師アスクレピオスなどの名だたる勇士がこれに応じましたた。また彼らを運ぶ大型の船が建造され、「アルゴ(快速)」と名づけられました。
 
 ギリシアを出発した一行は途中色々な危険に会いながらも、力を合わせて何とか切り抜けて行きます。ある時大嵐が起こり、船は今にも転覆しそうでしたが、オルフェウスは船べりに立ってハープを奏で、神々に祈りました。するとカストルとポルックスの頭上に大きな星が一つずつ輝きだし嵐を鎮める力が与えられました。このことから双子の兄弟は、航海の守り神として仰がれるようになったといいます。
 
 アルゴ船は無事に目的地に着き、金毛の羊皮を手に入れた一行はイオルコスへ凱旋しました。双子の兄弟はその後も冒険に挑んで行きます。しかし、仲間の裏切りに会い、カストルは命を落としてしまいました。後に残った不死身のポルックスは自分も死んで一緒になりたいとゼウスに願い出、ました。こうして兄弟は半年を天上で暮らすようになりました。
 これは、ふたご座が冬から春にかけて宵の空でみられ、後の半年は見えないことから考えられた物語だと言われています。

ふたご座探索
 
 2月から3月の宵には、ふたご座はほぼ頭上に来ています。南東の方向に向かって立ち、思い切って顔を上げてみましょう。二つの明るい星が2個、右斜めに約5度の間隔で並んでいるので直ぐに分かります。右上がふたご座のアルファ星カストル、左下がベータ星のポルックスです。
 
 カストルの明るさは1.6等、ポルックスは1.1等でアルファ星よりもベータ星のほうが明るい。
しかしカストルの光は白くポルックスの光は赤みが掛かっていて、赤い星はやや暗く感じるので、二つの星は殆ど同じ明るさに見えます。カルトルとポルックスはふたごの兄弟の頭に輝いています。二つの星の列が、仲良く腕を組んだふたごの姿を形作っています。
 
 ふたご座のすぐ下にはクリーム色の1等星がぽつんと輝いています。子犬座のプロキオンです。プロキオンはオリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウスとともに巨大な三角形を描いています。此れが「冬の大三角形」で、ふたご座は冬の第三角形の左上方に位置しています。
 
 日本でもカストルとポルックスの二つを「兄弟星」と呼んでいた地方があったそうです。また「蟹の目」「猫の目」とも呼ばれてました。双子の2列の星の並びも注目されていました。これらの星の列は縦になって西の地平線に沈むその形を門松と見ていました。2月はじめは、旧暦の正月に辺り、「星の門松」を見るにふさわしい頃です。

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2008/09/05

久しぶりに星座のお話をどうぞ!

こと座の神話
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 ~恋するハープは悲しい音色~

 こと座の琴は,音楽の名手オルフェウスが携えてた、ハープでの事です。太陽と音楽の神アポロを父として、歌の女神カリオペを母として生まれたオルフェウスが、ギリシャ一の音楽の天才になったのは当然の事でありました。彼がハープを奏でながら歌うと、人間はもちろん、山野の動物達も聞きほれ、岩さえも柔らかくなったと言われる程でした。

 オルフェウスは、泉の精エウリディケに恋し、神々の祝福を受けて結婚しました。しかし、楽しい結婚生活も長くは続かなかったのです。ある日、友達と草原を散歩していた、エウリディケは毒蛇に足をかまれ、そのまま息を引き取ってしまったのです。突然の死の訪れにオルフェウスの悲しみはとても深かった。彼はどうしてもエウリディケを生き返らせたいと思いつめ、ハープを手にして地下の死の国へ向かいました。
 
 猛々しい番犬ケルベロスも、冷たい三途の川の渡し守も、オルフェウスの悲しい歌に感動し、死者ではない彼を特別に通してくれました。死の国の王プルトーンの前に出たオルフェウスは、ハープを奏で心の心痛を歌い、妻をもう一度地上へ帰して欲しいと訴えました。始めは冷たく拒絶したプルトーンも、オルフェウスの熱意に絆され、願いを聞き入れました。
 
 天にも昇る思いで、オルフェウスはエウリディケを従えて地上へ向かいました。プルトーンは、妻を帰す条件として、死の国を出るまで後ろを振り返ってはならないと言い渡していたのです。
地下の道は長く、オルフェウスは次第に心配になってきました。エウリディケの足音が聞こえない!!地上の明るい光が見えた時に彼は我慢できなくなり、後ろを振り返ってしまった。その瞬間、エウリディケは小さな叫び声を残して再び死の国へ引き戻されてしまった。
 
 オルフェウスは、半狂乱で妻の後を追った。しかし今度は、渡し守も川を渡してくれなかった。失意のオルフェウスは、ハープを奏でながら山野を彷徨い歩いた。エウリディケの幻を追う彼は、女性をけっして近づけなかった。そのためトラキアの女達の恨みを買い、酒の神の祭りの夜になぶり殺しにされ、亡骸は川に捨てられた。
 
 オルフェウスのハープは、ひとり悲しい調べを奏でながら流れを下っていった。やがて海を渡り、レスボス島に流れ着いたハープを島の人々は広い上げ、アポロの神殿に捧げた。息子の死を深く悲しんだアポロは、そのハープを天に上げ、星座に加えたと言う。

  こと座探索

 こと座の主星ベガは七夕の織女星として知られています。ベガは夏の宵の頭上近くにひときわ明るく輝いているので、すぐに見つかります。7月中旬の午後8頃には、東の空の高度60度ぐらいの所にあります。
 
 自分が見ている星がベガかどうかを明るい星の位置から確かめてみましょう。ベガから右下に焼く35度のところには、やや黄色がかった1等星が輝く。七夕の牽牛星、わし座のアルタイルです。ベガの左下役20度のところには、白い1等星、はくちょう座のデネブが見えます。
この3星が作る三角形を「夏の第三角形」とよんでいます。第三角形の間を縫って、左から右に地平線とほぼ平行に天の川が流れています。
 
 こと座は比較的小さく、腕をいっぱいに伸ばして持った名刺に隠れてしまうほどです。ベガからアルタイルの方向へ約10度のところには、2個の3等星が見えます。上方はベータ星、下方がガンマ星で、これらの2星とベガを結ぶと裏返しのL字型になる。こと座の名は、このLを古代のハープに見立てたものである。しかし、星図には、U字型のリラが描かれています。
 
 ベガの名はアラビア語の「降下する鷲」に由来します。それはベガとそのそばにある4等星2個が小さな三角形を作っている形からつけられた。わし座アルタイルは、アラビア語の「飛ぶ鷲」を意味してます。それはアルタイルと両側に並ぶ2個の3~4等星の形から見立てたものです 。

星座の四季 藤井 旭著より、抜粋。

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2008/09/05

「アンデス少年ペペロの冒険」粗筋シリーズNo9

やった!エルドラドに着いたぞ!
ペペロの「冒険2

◆第25話「黄金の都エルドラド」
ペペロ 達はエルドラドがあるらしい場所に来た。しかしエルドラドは影も形もない。突然、道に穴が開き、一行は牢獄へ。そこは、エルドラドに不法入り込む者達を捕らえる牢屋だった。牢屋の中でペペロ達はそこに入れられていた少年を救出する。その少年―怪盗バルンの案内で、ペペロ達はエルドラドに辿り着く。エルドラドの入り口を守る門を見て、ケーナは、記憶を蘇らせる。

 エルドラドの広場で掲示板を見たペペロは、意外な事実に直面した。それには「カルロスという男の処刑を行う」と書かれていた。自分の父かも知れない、と思ったペペロは、アステコに窘められる。なぜならば、この都市では犯罪者に家族がいた場合は、死刑か追放になるからだ。

 ペペロ達はパルンやその兄の力を借り、真犯人捜しをする。その結果、バルン兄弟を利用した保安官アープが真犯人だということがわかった。アープはバルン兄弟を利用して国の国宝を盗み、その濡れ衣をペペロの父にかぶせたのだ。アープは囚われ、ペペロの父の無実が証明された。ペペロと父は涙の再会を果たす。

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◆第26話「エルドラドの秘密の宝」
 エルドラドの王宮へ行くペペロ達。ペペロ達を乗せ王宮に向うゴンドラは、アムナス大司教の部下の手でケーブルを切られるものの、その時黄金のコンドルが現われ、ゴンドラを引き上げて王宮へと運ぶのだった。

 王宮で王と王妃の姿を見たケーナは、自分が王女様であったという記憶をすべて取り戻す。ところが王宮では、ヤンカ王子が行方不明になるという事件が起きていた。ペペロ達は王子の為に祈るが、ケーナが何者かにさらわれてしまう。ヤンカ王子が行方不明になった事件の裏には、王国を乗っ取ろうとするアムナス大司教の陰謀があった。ペペロ達はアムナス大司教を捕らえ、ケーナとヤンカ王子を救出した。

 エルドラドの王はペペロの知恵や努力を称え、インディオを幸せにするという大きなとうもろこしをペペロに与えた。そしてペペロは、ケーナとの結婚の約束をして、母の待つ故郷タルサへと帰る。

さて、9回に分けて粗筋を書いてみました。今回、DVDを改めて見直すとイロイロと出てきました、記憶違いや、新たなセリフ、画面が。やはり、見直すと言う事は、全てに於いて必要ですね。

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2008/09/03

「アンデス少年ペペロの冒険」粗筋シリーズNo8

第22話から第24話、終点迄もう少し、お付き合い下さい。
湖底の黄金神殿

◆第22話「湖底の黄金神殿」 
ペペロ達が旅の途中、男から聞かされた話は、昔、侵略者が都を襲い、其の為エルドラドは湖底に沈んでしまった、という話だった。ペペロ達は湖へ行き、水面を覗き込む。湖底には、確かにエルドラドらしい黄金神殿が見える。その神殿を見て、ケーナは自分がエルドラドの王女様であった事を思い出す。

 ペペロとアステコは湖に潜り、それを確かめようとするが、ワニの為に近づけない。湖の岸に住んでいる海豚を操るラワン少年により、神殿の中を案内される。神殿の中には、願いが叶うという黄金のコンドルの王冠があった。

 同行していたクイという男がそれを手にしようする。ラワンの父である神官により、この湖底神殿の秘密を明かした。このエルドラドは、黄金に目が眩んだ者を欺かせる為に作られた偽物だった。そして、ペペロの父が古文書を解読し、真のエルドラドへ行く道を見つけたということを、ペペロたちに告げるのだった。

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◆第23話「ふしぎな地底王国」 
 黄金のコンドルを追っていたペペロ達は、滝の裏から通じる世界に迷い込んでしまった。その世界は、エルドラドの隣の国、入り口が有って出口が無いと言われる「ミナス王国」であった。

 霧に包まれたその国では、沢山の子供達が居た。女王ミナスは、ペペロ達をこの国から出さないばかりか、ケーナをエルドラドの王女と認めない始末。さらに、この国で暮らすことを命じるのだった。

 ペペロ達は、ケーナの笛を頼りに、ミナス王国からの脱出を試みる。何とか出口らしい場所に入るが、煙に巻かれ息ができない。その時ケーナの笛のメロディーに気付いたミナスが、ケーナをエルドラドの王女と認め、ミナス王国の秘密を明かす。ミナス王国の子供達は、実は親に死に別れたり、実の親に捨てられた、親を知らない子供達だった。

 子供達は女王ミナスの許に残ることになった。ペペロ達は子供達に見送られ、ミナス王国を後にする。

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◆第24話「鬼隊長の娘」 
 ペペロ達がナスカの砦で出会った少女ロレナは、甘えん坊でペペロ達に遊びをせがむ。実は、ロレナは、鬼隊長と呼ばれているこの砦の首領の娘。

 外へ出たペペロ達とロレナ。ペペロは母に死に別れ、ひとりぼっちだったロレナの希望を叶えてやる。そんな時、草笛の音が聞こえてきた。見ると、ロレナが草笛を吹いている。ロレナは、ペペロの父から草笛を教わったのだ。どうやら父は、このナスカの砦を通ったらしい。

 一緒に遊んでいるうちに、心が通いあうペペロ達とロレナ。そこへ、首領がやってきた。ロレナの事が心配でたまらなかったのだ。首領に飛びつくロレナ。そしてペペロ達は、ロレナの案内で砦を出る。首領はペペロ達のお蔭で、ロレナが思いやりのある人間になった事を喜ぶのだった。

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2008/09/02

「アンデス少年ペペロの冒険」粗筋シリーズNo7

マチュピチュ迄きたぞ!第19話から第21話
よみがえれ太陽の都
◆第19話「よみがえれ太陽の都」 
地図を頼りに、マチュピチュに来たペペロ達。ところが何者かに食料を奪われる。見ると、大男が食料を手にしている。呆然としているペペロ達の前に少女が現われ、「この町に入った者は、呪いにかかって死んでしまう」と告げる。

 少女の名はインティカ。その傍にいる大男はワサンという。ペペロ達はエルドラドまでの地図の謎を解き明かしたい、というが、二人は聞き届けてくれない。そんなペペロ達の前に、複雑な迷路が。ペペロたちはチラの嗅覚によって、迷路を通り抜ける。

 激怒したインティカは柱を倒そうとしたが、ペペロ達に阻止された。今度はワサンに、ペペロ達をえ、と命令する。その時ケーナが笛を吹いた。ワサンは笛のメロディーがエルドラドの曲であることに気付き、襲うのを止めた。

 太陽の神殿に入ったペペロ達。そこでペペロ達は、意外な事実を知る。暗い部屋に太陽の光が入ったその時、壁の一面に大きな地図が現われた。その地図こそ、ペペロたちが目指すエルドラドへの地図だった。インティカたちは昔滅びたマチュピチュの城を復興させたかったのだ。「太陽が、僕たちに教えてくれた。きっと復興できる」ペペロ達はインティカを励ます。

ついにマチュピチュの登場です(へへ)!今や世界遺産のマチュピチュも昭和50年頃は、以外と知らない人が多かった。「本当にあるの?」と聞かれて、説明に苦労したよね!
太陽の光で、地図が現れるシーン、後年「インディジョーンズ・失われたアーク」を見た時、タニスの町で同様な設定が有り、笑ってしまった!

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◆第20話「チュッチュのお姉さん」 
 ペペロ達は二股道で、チュッチュの持っているものと同じ花人形を見つけた。それは、チュッチュのお姉さんが持っていたものだ。その道を歩いていると、にぎやかな広場に出た。この広場では、長者の息子ヤンタイの結婚式が行われていた。チュッチュはヤンタイの嫁を見て、はっと息を飲む。それはチュッチュのお姉さんだったのだ。

 再会を果たすチュッチュと姉。夫のヤンタイも嬉しそうだ。しかしペペロ達は、チュッチュの幸せのため、とチュッチュを残して旅立ってしまう。ペペロ達が居ない事に気付いたチュッチュは後を追うが、道に迷ってしまい、大きな人喰い花に囚われてしまう。その近くには毒ぐもが。姉から事情を聞いたペペロたちは森へ向かい、人喰い花からチュッチュを救出し、毒ぐもを倒した。

 やはりチュッチュを連れて行こう、と思ったペペロたちは、再びチュッチュを仲間に加えた。そして姉夫婦に見送られ、数年前ペペロの父が作ったという橋を渡る。

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◆第21話「女だけのアマゾン族」 
 ジャングルに迷いこんだペペロ達は、アマゾン族という強い女の集団に出会った。我侭で気の強い女王ミネルバは、ペペロを自分のお婿さん、と決め付けてしまう。お婿さんになってしまうとエルドラドへ行けなくなる。そんなミネルバにも好きな人がいた。隣のオアナ村にいるサミーナという、村人から青びょうたんと呼ばれている少年だ。

 隠れて愛しあっていた二人は、神木の伝説を信じていた。神木の前に立つと、その愛が真実なら神木に花が咲く、と。一時は対決に持ち込まれた花婿騒動だったが、ペペロ達はサミーナを自分の身代わりに差し出す。

 ミネルバとサミーナが神木の前に立つと、何もなかった神木に花が咲いた。その一件からペペロ達は、父に関する情報を得た。ペペロの父はこのオアナ村を通った、ということであった。

アマゾン族の話、ギリシャ神話にも有りますので・・・・・。多分、ブラジル奥地のアマゾネスから題材をとったのかな?硬い事は言わずに、素直にミネルバとサミーナを祝福しましょう!

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2008/09/01

「アンデス少年ペペロの冒険」粗筋シリーズNo6

エルドラドは近い!第16話から第18話迄
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◆第16話「人喰い大蛇アナコンダ」 
月夜の晩、チュッチュは一人の少女を助けた。少女は名前をサラといい、泉を捜しに行ったまま帰ってこない父を捜しているうちに迷ってしまったという。ペペロ達のおかげで元気になったサラは、チュッチュと仲良くなる。その夜サラは水面に写った月の夢を見る。それは、インディオの伝承でその人の父親の不幸を意味する。その夢を、実はペペロも見ていた。

 夢占いなんか信じない、僕の父は絶対生きている。そう思ったペペロは、サラの父を捜す。意外なことに、サラの父はジャングルの中に居た。せっかく見つけた泉も、アナコンダの為に近づくことが出来ない。ペペロ達は罠を仕掛け、見事にアナコンダを捕獲する。

 再会を果たすサラと父。そのサラの父から、意外な情報が聞けた。ペペロの首のペンダントと同じ物を持った男がこの場所に来て、ダムを作った、と言うことだ。その男こそ、ペペロの父カルロスであった。ペペロは父の消息を掴んだのだった。

 このアナコンダの話、初めて番組を見た時、正直アマゾン流域の間違いではと思いました。後日、調べてみると、アマゾン流域はもちろん、ペルー、ボリビアの東側迄、生息域だそうです。人間を襲う事は、めったに無いらしいですが、原住民の話では、人間が襲われた事もあるそうです。但し、アナコンダの大きさは、未だに研究中にようで、中には、10mを超える巨大アナコンダも、生息しているらしいです。(私、蛇がダメなんで、アウトです。)

◆第17話「ワシにさらわれた赤ちゃん」
 ルバンの谷を目指すペペロ達は、故郷の村へ帰るという若夫婦、ライラとアウマに出会った。クスコの修道院で勉強をしていたライラはアウマと結婚し、一人の赤ちゃんを儲けたのだ。赤ちゃんをあやすケーナは、記憶を辿って黄金のコンドルの話をする。ライラには、それがエルドラドの話である事が判ったのだ。

 ライラの父パカママは、ルバンの谷への道を知ってはいたが、ペペロ達に教えてくれないばかりか、アウマをライラの夫としては認めてくれなかった。臆病な人間はライラの夫にふさわしくない、と思ったからだ。そんな時、ライラたちの赤ちゃんがワシにさらわれてしまう。

 ペペロはワシの巣へ向かい、赤ちゃんを取り返そうとするが、高すぎてしまいピンチに陥る。やっとの思いでライラとアウマがワシから赤ちゃんを取り戻すのだった。パカママは勇敢なアウマをライラの夫として認め、ペペロたちにルバンの谷への道を教えるのだった。

◆第18話「水晶の宮殿の女王」 
 雪と氷の絶壁を進むペペロ達は、ついにルバンの谷に辿り着く。ルバンの谷の水晶の宮殿に住む女王は、人の心を信じることができない人間であった。女王は、アステコが黄金を欲しがっていると見抜き、チュッチュと共に黄金を与え追放してしまう。

 ペペロを宝物の貯蔵庫へ案内する女王。そこには、沢山の宝物がある。その中には、ペペロの父のペンダントが。ペペロの父はどうやらここを通ったらしいのだ。女王は、自分とケーナとどっちが美しいかを、ペペロに問わせる。ペペロの答えた「ケーナの方が綺麗です」。

 女王はペペロを牢に放り込むが、ケーナが宮殿から出る、という条件で釈放される。「ケーナ無しでは生きていけない」そう思ったペペロはジュピターに乗り、宮殿を去ろうとしたケーナを見つける。そして追放したはずのアステコ達も戻ってきた。

 女王はペペロによって、初めて人の心の繋がりを知ったのだった。そしてペペロたちに、マチュピチュへの地図を与えるのだった。

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