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2009/10/31

歴史の?その25

<唐に献上された日本の舞姫>

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 「長安の酒場に行けば、青い眼をした女性が居た。白い顔を花の様にほころばせて、歌っていた。金髪をなびかせながら、踊っていた」。
今から1200年程前、我国では奈良時代のお話です。

 唐の都、長安は、当時世界最大の国際都市で、大唐帝国の威勢を慕って、又高い文化に憧れて、四方の国々から、さまざまな人種の人々が、長安に集まっていました。
日本からも、遣唐使が赴き、留学生が行き、中にはそのまま長安に住居を構え、唐の役人に成る者も現れました。
遣唐使の藤原清河、留学生の阿倍仲麻呂が良く知られています。

 阿倍仲麻呂は、詩人李白とも親交が深かったので、先に述べた酒場で、異国の女性が注ぐ、葡萄の酒を味わった事でしょう。
藤原清河、阿倍仲麻呂は、供に長安で他界します。

 さて、唐の年号で大歴13年(778年)、日本の年号では、宝亀9年、日本からの遣唐使が26年ぶりに長安に赴きました。
一行は、正月に入京し、4月末迄長安に滞在し、帰国に際しては、在唐の留学生の他、清河と唐の婦人の間に生れた娘(喜娘)を伴います。
帰路の航海は、逆風に合い、多くの者が海に消えたものの、喜娘は、何とか父の故国の土を踏む事ができました。

 処が、この時長安の宮廷には、別に11人もの日本女性が、再び祖国を見る当ても無く、辛い日々を送っていました。
この薄幸の女性達に関して、日本側の記録には、何も伝えていません。
この女性達は「日本国の舞姫」で在り、777年の正月、渤海から貢物として、唐の朝廷に献上された者達で在りました。
唐の役人も、特に珍しい事と思ったのか、特に記録に留めていますが、なぜ「日本国の舞姫」が渤海からの献上品に成ったのでしょうか?

 渤海は、現在の中国東北部から朝鮮半島にかけて、勢力を伸ばした大国で、7世紀末に建国し、唐に通じた他、日本にも使節を送っていました。
渤海の使節は、日本に対しても、恭しく臣下としての礼をとり、貢物を捧げ、天皇の徳を慕って来朝したと称しました。
よって、奈良の朝廷は、使節の接待に国費を傾けたのでした。

 渤海からの貢物は何かと云えば、その領内に産する動物の毛皮が、主な物で、虎、ヒグマ、テンの皮、人参、蜂蜜が中心で、之に対して、朝廷は豪華な絹製品を大量に与えました。
実は、渤海が度々日本に使節を送る目的も、この恩寵の品が大きな目的であったと思われます。

 では渤海が「舞姫」を、どの様にして手にしたのかについては、流石に当時の記録にも「舞姫」迄与えたとは記録されていませんが、唐に献上している以上、日本から連れ帰ったに違いないのです・
渤海の使節が、来朝すると、連日の様に宴席が持たれ、朝廷からは、女樂を賜りとの記録も在り、宮中で召抱えている舞姫達を、宴席に侍らせたのでしょう。
唐に献上された「舞姫」とは、この事であると思われ、献上の年にもっとも近い、渤海の入朝は宝亀2年(771年)に7回目の使節が入京した事が、朝廷の記録に残されています。

 何人の「舞姫」が異郷の地に伴われたのか、渤海の都での境遇等は、今と成っては知る事も不可能ですが、少なくとも11人は、日本の女性として満州の荒野に足跡を印し、この地で5年余りを送った後、長安に貢物として送られたのでしょう。
その翌年の遣唐使一行が、かつての同朋が長安に居る事を知っていたのか、朝廷がその事実を知っていたのかは解かりません。
11人の「舞姫」は一度、長安に現れ、おそらく宮廷の奥深く、永遠に姿を消したのでした。

 その後も、渤海と日本の国交は続き、朝廷が歓待したのは言う迄もありません。
聖武天皇の御世、神亀4年(727年)に初めて来朝し、醍醐天皇の御世、延長4年(926年)に渤海の国が滅亡する迄、その使節の来朝は、実に35回。
奈良時代から平安時代を通じて、常に渤海は忠誠な国で在り、その外交は巧みで在りました。

続く・・・
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2009/10/30

歴史の?その24

<遣隋使は何回あったのか>

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 我国に於いては、推古天皇の御世、聖徳太子摂政の時、中国へ対等な国書を呈した事は、歴史を学んだ者なら皆知っています。
其の国書の文面が、「日出づる処の天子、書を没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや、云々」と云うもので在った事も、良く知られています。
当時の中国は、隋の治世で、その皇帝は、第二代の煬帝(ようだい)で在り、日本からの国書を見て、「無礼なり」として怒ったと伝えられています。
以上の事は全て、隋の歴史を記した「隋書」に紹介され、国書の文面も隋書の伝える通りで在り、大業3年(607年)の事でした。

 一方、遣隋使の事は「日本書記」にも記録されていますが、書記には、小野妹子(おののいもこ)を隋に遣わした事を伝えるのみで、国書の文面に関して何も伝えていません。

 やがて翌年(608年)、隋からも答礼使が来朝し、小野妹子も一緒に帰国し、答礼使が隋に帰国の際、小野妹子は再び隋に遣いします。
この時も国書を持参しますが、その文面は、書記にのみ以下の様に記録されています。
「東の天皇、つつしみて西の皇帝に白す。使人鴻臚寺(こうろじ)の掌客、裴世清ら至りて、久しき憶、方に解けたり。季秋(9月)薄冷なり。尊はいかに。想ふに清悆ならん。これ、すなわち常のごとし。いま大礼蘇因高(小野妹子)、大礼乎那利(吉士雄成)らを遣はし、往かしむ。謹白不具」。

 之は、第二回国書として、有名で在り、天皇の称号を初めて用いた例としても、良く知られており、歴史教科書にも先の「日出づる処・・・」の国書と供にこの書記の「東の天皇・・・」の国書を並べて掲げています。

 しかし、なぜ書記は、第一回の国書を掲げず、第二回の、文辞穏やかな国書のみを掲げたのでしょう?
この場合、日本書記の編纂が、時代を下った奈良時代に成されて事も、考慮しなければなりません。
編纂の際に文辞を改めた事も有り得る訳で、書記に「東の天皇・・・」の称号が記されて在ったからと云って、聖徳太子の時代に「天皇」の称号が用いられた証拠には成りません。
 
 更に二つの国書を比べて読めば、その内容は、全く同じである事が判ります。
「日出づる処」は「東」で在り、「日没する処」は「西」の意味で、「つつがなきや」の個所を時節の挨拶にして、「謹白不具」で結び、他に加わっているのは、使人達の名前に過ぎません。

 文章として見た場合、書記の国書は、隋書の国書に比べて劣っていると思われ、国書の体裁も不自然で、書記の国書は、隋書の国書を書き改めた物に過ぎないと推定されます。
日本書記の編纂時、既に隋書は存在しており、参考にされたと考えられます。
更に問題の国書を、なぜ第二回の使節(608年)の時に掲げたのか、如何なる理由で、穏やかな文面に書き改めたのかも判っていません。

 他にも、遣隋使には、疑問点が多く、書記によれば、遣隋使の派遣は三回、607年、608年、614年で在り、前の二回が小野妹子、最後の一回が、犬上御田鍬(いぬがみのおたすき・のちの第一回遣唐使)でした。
一方、隋書によれば、日本からの遣隋使は、三回入朝していますが、その年代は、600年、607年、610年で「この後、終に絶つ」と記されています。
書記と隋書で一致するのは、607年の回のみで、600年の遣隋使について、隋書には、皇帝(初代文帝)と使者の問答迄、詳しく伝えているにも関わらず、書記には、如何なる記述も存在せず、607年のものが、第一回の遣隋使とされているのは何故でしょうか?

 国書を持参した遣隋使が、第二回である点は、隋書も書記も一致しています。
但し、書記で608年に送った使者が、隋書では、第三回の使節として、610年の正月に入朝している事、更に書記では、もう一回、614年に使節が隋に赴いているが、隋書では「終に絶つ」として、日本からの使節入朝を伝えていません。

 単純な数の符合で考えられていた遣隋使の問題も、国書の問題も双方の記録文書を符合させると、不思議な一面が現れてくるのです。
聖徳太子の時代に行われた遣隋使は、実際何回在ったのでしょう?

続く・・・
2009/10/29

歴史の?その23

<曹操は悪人だったのか>

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 3世紀の中国、後漢の帝国は名目を保っているに過ぎませんでした。
皇帝は、在位していても如何なる権力も無く、只、形の上で皇帝の座を保って居るだけでした。

 群雄割拠し、天下を争い、その中で最後迄残った3人の英雄が、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備でした。
この3人の中で、曹操は大悪人、乱世の姦雄と昔から決まっており、あらゆる策略を巡らして、敵対者を倒し、終に魏王となって、暴虐の限りをつくす、形だけは、漢の皇帝をいただいていたものの、実権の全ては曹操が握っていました。
既に漢の天下は、魏王に奪われたも同然でした。

 220年、曹操が崩御すると、即位した子の曹丕は、漢の帝位を廃して、自ら魏の皇帝を名乗ります。
即ち、文帝であり、ここに漢の国は、名実供に滅亡したのでした。
之に対抗したのが、孫権であり劉備で、特に劉備は一世の英傑、その姓が劉氏である事からも、漢の皇室と同族であり、曹氏に奪われた漢の天下を回復する為、あくまで戦おうと、221年、自らも即位して、漢の皇帝たる事を宣言し、蜀漢の照烈帝となりました。

 劉備の処には、豪傑あり、謀将あり。
特に高明なのは、張飛と関羽、そして諸葛孔明、その生涯を劉氏の為、漢帝国の復興の為に捧げました。
しかし、蜀の地は中国の西方に位置し、人口も100万に達する事は無く、その国力は、魏に比べるも無く、やがて、人口440万を擁する魏は、じりじりと蜀を圧迫し、263年蜀も二代にして滅亡してしまいます。

 呉は、江南を保って、人口130万、魏に対抗して、孫権も皇帝を称しましたが、やはり北方の強国、魏の大勢力には対抗できず、四代を保ったものの魏の後を受けた晋によって280年に滅亡します・

 魏呉蜀三国の興亡は、「三国志演義」が著されて以来、広く中国の民衆に好まれ、日本でも大変良く読まれたのです。
劉備は正しく、曹操は悪人と云う事が、この物語を貫く一本の太い筋で、日本に置き換えれば、後醍醐天皇と足利尊氏と言えるでしょう。
人々は、正しい劉備や諸葛孔明の悲運に涙し、あくまでも悪くて、強い曹操を歯がみして苦やしがりました。

 しかし、其れは歴史の真実な姿でしょうか?
劉備が正しいのは、漢の皇帝一族の出身であるとの理由ですが、実際には、劉備の生い立ちも怪しいものがあります。
彼の祖父は、地方長官の役を得ていましたが、父親は早くに亡くなり、家は貧しく、その家系も偶然、劉氏で在った事から、漢の皇帝一族としたらしいのです。

 一方、曹操は、名実供に名家で、その父曹崇は、大変な資産家であり、漢の朝廷に仕えて大尉(大臣)の位を頂き、更に祖父は宦官の巨頭で、宮中にその権力をふるったのでした。
宦官ですから実子ではなく、曹崇は養子で在り、曹操は名家の出身でも宦官の子孫という屈辱を背負っていました。

 ところで、生い立ちは別として、曹操は果たして極悪非道の人物で在ったのでしょうか?
確かに漢の天下を簒奪したのですから、主従の関係からも良くない事には違いないとしても、前王朝を倒して実力で皇帝の地位を得た者は、曹操だけの話では無く、劉備も同様と思います。
では、曹操は強いばかりの豪傑で在ったのかと云えば、彼は、書を好み、兵法に関して当代に並ぶ者の無い学者在り、更に文学の世界に至っては、天成の詩人で在りました。
その詩篇の数々は、今日に至る迄愛誦されています。

 「月明らかに星稀に、烏鵲南に飛ぶとは、これ曹孟得(曹操)の詩にあらずや。・・・酒をそそいで江にのぞみ、槊を横たえて詩を賦す。もとより一世の雄なり」

 宋代の詩人、蘇東坡も「赤壁の賦」のなかで、この様に詠い、曹操の長子である曹丕(文帝)も次子たる植も、ともに詩文の天才で在り、父子ともに詩文の歴史に与えた影響は、極めて大きいものがありました。

 では、曹操に関する悪評は、「三国志演義」の創作にすぎないのか?之も又否なのです。
物語として、形が整えられる以前に、講釈が在り、町の辻で講釈師が語り聞かせ、その重要な題材が、三国志の物語で在り、確かに宋代には、曹操は悪人の藻本とさえ、されていました。

 更に魏晋の時代、つまり曹操と同じ時代から、その評判は、良からぬもので、曹操の人格に関する悪評が多く、時代を経る毎に悪評を重なって行きました。
しかし、同世代の人物、陳寿が著した「三国志」は、流石に歴史書なので、決して曹操を非難せず、その構成からも三国の内で正当とされたのは、曹氏の魏で在りました。
「三国志」において、曹操や曹丕は、皇帝として扱われ、劉備や孫権は違うのです。
皇帝たる者と然らざる者とでは、文書の書き方も違い、しかも陳寿は、蜀の遺臣なのでした。

 其れが時代の経過と供に、蜀漢が正当とされ、劉備や諸葛孔明のみが同情される事と成ったのが、「三国志演義」で在って、そもそも曹操を悪人とし、更に極悪人に仕立てたのは、誰の仕業なのでしょうか?
其れとも、時代の風潮だったのかも知れません。

続く・・・
2009/10/28

歴史の?その22

<彷徨える湖>

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 今から2000年以上昔の事、漢時代の歴史書、「漢書」には、中央アジアのタクラマカン砂漠に「蒲昌海・(プーチャンハイ・ロプノール・ロプ湖)」という大きな湖が在った事が記録されています。

 この湖の事は、同時代のヨーロッパ人にも知られており、地中海東岸の町、テュロスに住んでいたギリシア人マリノスの記録にも現れており、マリノスから300年程後の時代、地理学者プトレマイオスの作製した、アジアの地図にもその位置が記されています。

 当時、是ほど迄に遠く離れた国の人物が、中央アジアの砂漠の中に在る湖の存在を知り得たのは、このタクラマカン砂漠を往来した隊商の通る道が、東西交流の重要な道で有ったからなのです。
この隊商路は、「シルクロード」と呼ばれ、当時ヨーロッパ人は、中国を「セリカ(絹の国)」と呼び、ヨーロッパで生産出来なかった絹を大変珍重し、同じ重さの金と交換したと伝えられています。

 ところが後年、このロプ湖の存在が、全く伝わらなくなり、この地域を1273年に通過した、マルコ・ポーロも砂漠に関する記録は、多いもののロプ湖については、全く記録が存在していませんでした。
長い年月、ロプ湖は、人々の記憶から消え去りましたが、1876年にこの地方を調査した、ロシア人プルジョワルスキーが、ロプ湖の存在を確認しました。
しかし、その位置は、一度程も南に在った為、地理学者の間では、彼の発見した湖は、ロプ湖では無く、全く別の湖であるとする説と中国の地図が間違っているとの説に分かれ、大論争が起こりました。

 ドイツの地理学者リヒトフォーヘンは、ロプ湖に流れ込むタリム川の流れが変化し、その為湖の位置が変化したとの説を発表したものの、当時、この事実を示す証拠が存在せず、彼の説は再考されませんでした。
その様な中、彼の弟子である、スウェン・ヘディンは、中央アジア探検を計画実行します。
ヘディンは幼少の頃、探検家ノルデンショルドが、北方航路を通過する事に初めて成功し、華々しく帰国したのを見て、自分も探検家に成ろうと決心した人物でした。

 ヘディンの第一回中央アジア探検は、1893年から1897年迄の4年を要したタクラマカン砂漠の横断でした。
之は、実に苦しい探検で、彼は九死に一生を得たのですが、途中で水が欠乏し、彼の従者4人の内3人は、喉の渇きが極限に達し、ラクダの小便に砂糖と酢を混ぜて飲み、2人は死亡し、1人は、危うく死を免れる程でした。
後にヘディンは、幾度も中央アジア探検を繰り返し、1906年の第三回探検の帰途には、日本にも立ち寄っています。
又、1933年には時の中国政府の要請を受け、自動車を使用して、中央アジアを調査しました。

 この探検活動を通じて、ヘディンは、彼の師であるリヒトフォーヘンのロプ湖の移動に関する学説を信じる様になりました。
ロプ湖は、水深が1mに満たない湖ですが、流れ込むタリム川が泥砂を運び込んでくる為、その泥砂が河口に体積し、川が湖に流れ込めなくなると、川は別の流路を見つけて他の低位置に流れ込み、新しい湖を形成するのだと考えられました。
ロプ湖が位置する砂漠には、その北側と南側に低地が存在し、上記の理由から、湖が移動すると結論したのでした。

 ヘディンが発見した「楼蘭」は、嘗て栄華を極めた都ですが、タリム川の流路が変わり、ロプ湖が南に移動した為、都市が滅んだと考えられます。
ヘディンは、ロプ湖の位置変化を1500年周期と推定し、1928年2月20日、トルファンにおいて、彼はタリム川の流れが7年前から変化し、以前の位置にロプ湖が移りはじめている事を聞き、彼が30年前に提唱した説が立証されたのでした。
ヘディンは、この1928年2月20日を探検家、学者として自分の生涯、最良の日であると記しています。

続く・・・
2009/10/27

歴史の?その21

<匈奴とフン族>

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 紀元前3世紀末、中国北東部、現在のモンゴル高原には、強大な遊牧民の国家が、出現しました。
この国家を建設した民族を漢民族は、「匈奴」呼び、秦の始皇帝が、“万里の長城”を構築したのも、この匈奴に対抗する為であり、漢の高祖(劉邦)に至っては、匈奴討伐が失敗した上、自分自身の身も危険に曝す結果となりました。

 紀元前2世紀には、匈奴の版図は更に拡大の一途をたどり、東は熱河、西は中央アジア、北はバイカル湖南部、南は長城に接する迄に及んだのでした。
しかし、匈奴が如何なる人種、如何なる民族に属するのか、現在でも確立されておらず、学会においても、古くからトルコ系とする説とモンゴル系とする説が対峙しています。
更に匈奴の支配階級が、アーリア系の白色人種であったとする説も後年、発表されました。

 匈奴には、文字が存在しない為、その言語体系を考察する手段が無く、漢民族の記録を頼りに研究が進められた結果、上述の様な見解が現れているのです。
しかも匈奴は、漢の勢力が強大となるに従い、次第に中国内部、中央アジア方面に圧迫され、更に追い討ちを掛けたのが、紀元前2世紀末から武帝による、数度に及ぶ討伐遠征であり、さしもの匈奴もこれを境に、衰退の道を歩む結果と成りました。

 紀元後1世紀の半ば、匈奴は南北に分裂し、南匈奴は漢に内属し中国北辺に移住し、やがて漢民族に同化され、北匈奴は、モンゴル高原にその勢力を保ったものの、1世紀末に行われた漢の討伐により、終に瓦解してしまいます。

 匈奴の国家は、此処に滅亡し、北匈奴の主力はシベリア南部を西へと敗走し、漢民族の世界から消えて行き、匈奴に関する記録も殆んど現れなくなります。
しかしながら、一時は、巨大な国家を建設した民族が、一朝にして滅び去る事は考えられず、事実、時代を下がる300年程後、モンゴル高原北部で、匈奴の子孫が発見された記録が存在する事からも一部の人々は、故地に残り、遊牧の生活を続けていたのでした。

 ちょうどその頃、ヨーロッパに未曾有の天変地異が発生していました。
ゲルマン民族の大移動であり、その誘因となったのは、「フン族」のヨーロッパ侵入でした。
4世紀後半から約200年間、ゲルマン諸民族は、次々に移動を重ね、その騒乱の中で西ローマ帝国は、476年に滅亡し、アッチラ王に率いられたフン族は、ヨーロッパを蹂躙したのです。

 フン族が、匈奴の後身ではないかとは、古くから学会において、提唱されて来た説であり、「匈奴」という文字の発音は、“フンヌ”若しくは“フンナ”であると推定され、漢帝国に圧迫された匈奴は、西への移動を重ねて、4世紀には、「フン族」として、終にヨーロッパに達したと思われます。
その移動した所々には、かつて匈奴が用いた物と同様の器物が発見され、かくして、「匈奴」と「フン族」は同一の民族で有ったとする説が、同族論の趣旨なのです。

 では、匈奴=フン族は、200年以上の間に、ユーラシア大陸を横断する大移動を行ったのでしょうか?
又、匈奴は、トルコ系若しくは、モンゴル系の民族(アルタイ系)と推察されていますが、ならばフン族もアルタイ系の民族で在ったという事になります。
しかし、フン族をウラル系と主張する学者も居り、現在のフィン人(フィンランド)やマジャール人(ハンガリー)と同系の民族であるとする説で、更には、スラブ系とする説も存在しています。
匈奴、フン族は供にその民族系統もさるものながら、名称についても定説は存在せず、この二つの民族が同族である事を証明する事も容易な事では無いのです。
多分、200年を超える移動の間に、その移動地域の民族と交わり、匈奴本来の人種は、トルコ系民族に埋没してしまい、ヨーロッパに侵入したフン族は、全く別の人種だったのではないでしょうか?

続く・・・
2009/10/26

歴史の?その20

<王昭君の歩いた道>

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 中国の歴史上、悲劇の美女と言えば、如何なる人物を連想しますか?
私は、第一に王昭君の名前を思い起こします。

 今を遡る、2000年の昔、漢の都長安から、匈奴王の妻と成り、遥か北の方へ去って行く、其処は、寒風吹きすさぶ草原の中、宮殿も玉楼も無く、幕舎を住居として、毛皮を衣とする、口にする物は、羊の肉であり、飲むのは、馬、羊の乳、絶世の麗容も風雪に拉がれ、故国を思い泣き暮らしつつ、枯骨むなしく、荒野に朽ち果てる。
しかも王昭君が、匈奴に送られた訳は、宮中に画工に金品を贈らず、醜く描かれた為と伝えられています。

 王昭君の哀話は、中国に於いて長く、かつ広く語り継がれ、既に六朝時代(紀元4世紀)には、物語として形創られ、歌曲として謡われ、唐代には、李白、杜甫もその詩の中に詠じたのです。
海を隔てた、日本にも伝わり、王昭君の曲は、雅楽にも収められ、又王昭君の物語絵巻が、王朝貴族に好まれた事は、源氏物語にも現れています。
そして、詩の題材としても好んで、取り上げられました。
「身は化して早く胡の朽骨たり、家は留まってむなしく漢の荒門となる」。
「昭君もし黄金の賂を贈らましかば、定めてこれ身を終うるまで帝王に奉まつらまし」。
之は、和漢朗詠集に収める「王昭君」の詩の一節です。

 時代は進み、元の時代には、戯曲にも脚色され、なかでも傑作は「漢宮秋」で、此処における、王昭君は、匈奴に送られる途中、国境の大河に身を投じます。
其れは、異国の男に身をまかせまいとする、漢族女性の誇りを示すものに違い無く、現実、元の時代、漢民族は、モンゴル族に支配されていたのですから。

 しかし、こうした物語に描かれた王昭君は、必ずしも彼女の真の姿を伝えたものでは有りません。
歴史書に記された彼女は、むしろ別の意味で非情でした。
異民族を懐柔する為、その王に後宮の美女を贈る事は、漢帝国では、政策の一部に過ぎず、皇族の女性でさえ、しばしば、涙を流したものでした。

 王昭君に関して、史書が伝える処は、以下の様で、西暦紀元前33年、匈奴の王、呼韓邪単于の願いに従い、漢の元帝は、五人の宮女を選び、これを賜ったのですが、その中の一人が、王昭君でした。
彼女は、17歳の時、宮中に仕えたのですが、数年を過ぎても皇帝の寵愛を得られず、其れを悲しみ、恨み、自ら求めて匈奴の王に嫁ぐ事と成り、然らば、彼女は、期する処が有って匈奴王の所は行ったのではないでしょうか?
伝えられている物語とは、かなり異なる状況と思います。

 さて、辞去の場に戻り、匈奴の王も長安に来朝しており、元帝は宴を設け、五人の宮女も席を同じくしました。
此処で初めて謁見する王昭君の豊容や、如何に。
その光は、宮廷を明るく照らし、左右も心動かされ、元帝も大いに驚き、彼女を留めんと欲しましたが、匈奴との約束を違える事は出来ませんでした。

 かくて王昭君は、匈奴に赴き、王の妃となり、一子を産みますが、2年後呼韓邪単于は、世を去ります。
匈奴の風習では、父や兄の死後、後を継ぐ子や弟は、その妻も妃とします。
呼韓邪単于の長子が王となり、王昭君をも妃としますが、ここで、彼女は漢の朝廷に上書し、帰らん事を願いますが、もとより許されず、匈奴の地に留まり、更に2女を産みますが、9年を経て、二度目の夫も世を去りました。

 その後の王昭君が、如何なる人生を送ったのか判りません。
呼韓邪単于の子供達は、次々と王位を受け継ぎましたが、彼女の子供だけは、王位に就く事は叶わず、或るいは、殺害されたとも伝えられますが、二人の娘は、王族に嫁ぎ、おそらく幸せな生涯を送ったと思われます。

 では、王昭君の悲劇とは、如何なる事でしょう。
現在でも、同様な物語が在れば、悲劇、悲話で在るに違い無いのですが、漢の時代に在って、彼女の生涯は、決して最高の悲劇では有りませんでした。
其れが、後世、多くの人々の涙を誘ったのは、歴史の記録が伝えない、更なる悲哀が在るのか、其れとも後世における、王昭君の哀話は、作家達の創作に過ぎないのでしょうか?

 もとより、王昭君の最後は、判りません。
その墓も、黄河の上流に青塚と呼ばれる場所が在り、古くから王昭君を弔った所と伝えられますが、真偽の程は、判りません。
他にも王昭君の墓と伝えられる墓も複数、存在していますので、彼女の名前が有名になった後、付けられた事もあると思います。

続く・・・
2009/10/25

歴史の?その19

<ネロは果たして暴君だったのか>

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 「皇帝ネロ」(在位西暦54年~同65年)の名前を聞くと、殆どの皆さんは、反射的に「暴君」と言う言葉を連想する程、彼は、残虐非道な皇帝として後世に伝わりました。
彼は、自分の意に沿わぬ者の命を次々に奪っていったと伝えられています。
その非業の死を遂げた者の中には、彼の実母アグリッピナや妃のオクタヴィア迄含まれています。

 しかし、彼の時代には、この様な行為が、日常茶飯事であり、今日では想像できない時代であった事、従って、宮廷には、毒殺専門の調剤師が存在し、貴人達の殆どは、食事には必ず、毒味役の奴隷を伴い、彼等が試した物以外、絶対に口をつけないしきたりに成っている程でした。

 ネロの実母アグリッピナは、権力狂で、息子のネロが生まれる時、「この子は皇帝に就けるが、母を殺す」と予言されたものの、彼女は、「皇帝に成るのなら、自分の命を捧げる」と言ったと伝えられ、息子を皇帝にする為、皇帝クラウディウスと再婚し、ネロを養子としました。
その後、アグリッピナは、クラウディウスを毒殺し、彼の娘オクタヴィアをネロの妃としたのです。

 こうして、彼女の苦心の結果、皇帝の座に就いたネロが、時を経て彼女の自由に成ら無くなって来ると、他の者を皇帝にする為、陰謀を企みます。
従って、実母アグリッピナの殺害に関しては、むしろ、ネロに同情する人々も多かったのでした。

 しかし、彼の狂気じみた振舞いが、次第に激しさを増し、ガリアに反乱が起こり、元老院や皇帝近衛兵も彼を見放す結果となりました。
ネロは、ローマから逃れ、最後に自陣して果てるのですが、彼を「暴君」と呼ぶ様に成ったのは、実は更に後世の事でした。

 ローマは、ローマ帝国の時代、度々大きな火事が起こり、消防隊もアウグトウス帝の時代に創設されていましたが、西暦64年7月19日、それまでの記録にも内、大火が発生しました。
大競技場から出火した火は、瞬く間に市中に広がり、火災が余りにも激しかった為、人々は、逃げる事がやっとの状況でした。
ネロは、アンティウムに滞在して居ましたが、急ぎローマに戻り、宮殿も焼失していましたが、焼け残った公共建造物や公園、宮廷庭園を民衆に開放し、近在の町から食料、物資を運ばせました。

 ところが、「ネロは都が燃え上がる様を宮殿のバルコニーから見物し、ホメロスを気取り竪琴を奏で、“トロイ落城”を詠っていた」との噂が、人々の間に広まりました。
ネロは、従来から芸術家を気取り、ナポリでも舞台に立ち、詩を吟じた事もありました。
其れは、ローマの大火の少し前の事で、彼が詠い始めると、まもなく地震が起こり、彼を心配して舞台に駆け上ろうとした者も在りましたが、彼は、平然と詩を詠い続け、終わった時、拍手は鳴り止まなかったと記録されていますが、それは、彼の詠いが上手かったのではなく、彼の勇気を賞賛したのだと云われています。

 ローマが焼けてしまった事を良い機会として、ネロは、ローマ市の再建計画を立て、建造物の不燃化を図り、又宮殿用地を拡大しようと考えました。
その為、「ネロは、自分の名前を付けた新しい都を造ろうとして、ローマに火を放ったのだ」との噂が広まり、更には、その大火の折、小役人が、混乱を利用して、民家に踏み込み、泥棒を働いた上「お上の命令でやっているのだ」等と言いながら、彼等は証拠を隠す為、まだ火の回っていない家に松明を投げ込んだりもしたのでした。
この様な事から、「ネロが火をつけさせたのだ」と云う噂が人々の間に信じられる事に成ったと思われます。

 歴史家タキトウスは、ネロ時代の歴史を著し、ネロが、本当に放火を命じたか否かについては、彼自身判らないとしていますが、多分、彼の命令では無かったでしょう。
ネロは、被災者の為に、物資を援助し、神殿での御祓い等の儀式を執り行いましたが、「疚しさから、あの様な事をするのだろう」と益々、噂は人々に信じられる様になりました。

 自分に向けられた悪評を逸らす為、ネロは「キリスト教徒がローマに火を放った」と言いふらし、キリスト教徒を捕らえて処刑したのですが、この時、伝道者パウロも処刑されました。
キリスト教徒を迫害したのも、彼だけでは無く、その後益々、激しさを増していくのですが、コンスタチヌス帝の時、キリスト教は、ローマ帝国の国教と成り、やがてヨーロッパ全土広がって行きます。
キリスト教徒を始めて迫害したネロは、彼等によって、極悪人とされ、やがて「暴君」と呼ばれる様に成ったのです。

続く・・・
2009/10/24

歴史の?その18

<ルビコン川はどの川なのか>

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 歴史上の著名人は、数多く居ますが、ローマ時代のユリウス・カエサル程、色々な意味で引用される人物も少ないのではないでしょうか。
彼のカエサルと言う姓は、後年役職の名称となり、更には「皇帝」を意味する言葉になりました。
帝政ロシア時代、皇帝を意味する「ツァー」、ドイツ帝国時代の「カイゼル」供にカエサルのロシア語、ドイツ語読みであり、この様な事例は、殆んど無いと思われます。
嘗て「太閤」が豊臣秀吉を指す言葉になった例は、ありますが、ゲーテが素晴らしい詩人でも、他の詩人をゲーテと呼ぶ習慣はありません。

 更に、その言葉が、格言化した事例もカエサルが、第一であろうと考えられます。
「さいは投げられた」「ルビコンを渡る」「着たり、見たり、勝ちたり」「ブルータスお前もか」等の諺は、全てカエサルから来ているのです。
尚、「カエサルの物はカエサルに」と云う聖書におけるキリストの言葉は、彼の事を指し示すのではなく、役職としての「カエサル」を示しているのです。
又、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の顔(歴史)は変わっていただろう」と云う有名な言葉は、フランスの哲学者パスカルの言葉で、「カエサル」は表面に出てきませんが、裏の意味として含まれています。

 紀元前60年、カエサルは、ポンペイウス、クラッススと結んで「第一次三頭政治」を始め、元老院に対抗し、彼はガリア(イタリア北部から現在のフランスに至る、ケルト人の居住地域)を平定します。
カエサルの名声が、ガリアの地で高まるにつれ、ポンペイウスは彼から離反し、元老院と結託して、紀元前49年、
カエサルは、任地ガリアからローマへの帰還を命じられました。

 ローマへの帰還は、軍隊の武装解除を意味しますが、カエサルは、ルビコン川の対岸で、しばし熟慮の後「さいは投げられた」と言い、軍隊の武装解除をせずに「ルビコンを渡り」ローマ帝国の国境を越えました。
この事から、思い切った冒険、判断をする時、「さいは投げられた」なる諺が生まれましたが、この言葉は、本来ギリシアの喜劇作家メナンドロスが、劇中に使用した台詞で、これをカエサルは使用したのでした。

 さて、ここで「ルビコン川を渡る」と云う諺も出来ましたが、この時渡った「ルビコン川」は、ガリアとローマ帝国の国境に在る川で、ガリアは、アルプス山脈を挟んで両方に存在し、この場合のガリアを「ガリア・キス・アルピナ(アルプスの此方側にあるガリア)」と呼ばれている地域でした。
「ルビコン川」は、赤い川の意味で、歴史地図を見るとたいてい図示されていますが、実際は、アリミニウムの北に位置する川で、アドリア海に注ぐ川は、大変多く、ルビコン川がその多くの川の一つと云う事以外、実際のルビコン川が、今日のどの川に当たるのか、はっきりと解明されていません。
「ルビコン川」を「フィウミキノ川」「ウソ川」とする説も在りますが、何れにせよ、ガリアとローマ帝国の国境に位置した川で、カエサル由来の名高い川で在りながら、不思議な事に学会の意見は、定まっていません。

 ルビコン川を渡った、カエサルは、ポンペイウス、元老院派と戦い、ポンペイウスは、ギリシアのファルサロスで、カエサル軍に撃破され、更にエジプト迄逃れたものの、紀元前84年この地で、果てました。

 ポンペイウスを追ってエジプトに来た、カエサルは、時のクレオパトラを見初め、彼女を愛し、その頼みを受け入れて彼女を援助し、エジプトの女王としました。
先に記述した「クレオパトラの鼻・・・」の言葉は、この歴史的背景から出てきたものなのです。
その後もカエサルは、東方遠征を行い、ポントスを平定しましたが、この事を友人である。マティウスに知らせた時の彼の手紙が、「来たり、見たり、勝ちたり」でした。
軍人らしい簡潔な文書の上、韻を踏んだこの言葉は、大変有名になりました。

 やがて、カエサルは、ローマに凱旋しますが、皇帝の地位への野心を疑われ、紀元前44年3月15日、元老院で暗殺者の刃に襲われます。
当初、カエサルは、痛手を受けたものの屈せず、勇敢に暗殺者と対峙しましが、その中に息子の様に目を掛けたブルータスが、加わっている事を知り、「ブルータスお前もか」と言って抵抗を止め、殺されたと云います。
彼が最後に息を引取ったのは、ポンペイウスの像の下であると伝えられています。

続く・・・
2009/10/23

歴史の?その17

<2000年前の自動扉>
堅い内容の記事ばかりなので、今回は、少し息抜きの気分で、読んで下さい(^^)。

自動扉図解←詳しい構造は、此方を見て下さい。

 現在、殆どの施設で、自動扉が使用されていますが、此れは、電気、赤外線等の感知センサーの発明、発展が在って発達した技術です。

 しかし、此れ等の方法が、全く知られて居なかった時代に自動扉が、実在した事は、現代人から見ても驚異です。
神殿の扉の前の祭壇で、火をおこすと扉が独りでに開き、火が消えると独りでに閉まる装置が、今から2000年程前、エジプトのアレクサンドリアで発明されました。

 この自動扉の置かれている、地下部分に仕掛けが在り、祭壇で火を起こすと、祭壇下の空気が膨張して、水の入った球体の水を押し出します。
その水は、細い管を通って、水桶に流れ込み、その水桶の重量変化で水桶が下がると、扉の下にある軸に繋がれたロープを回して、扉が開き、祭壇の火が消えると、空気膨張が納まり、水桶の水が、細い管を通って、球体に戻るのですが、文章で説明すると今ひとつ、イメージが湧かないと思います。
要は、水の膨張と水桶の重量変化を利用した、装置と考えて下さい。

 この“からくり”を発明した人物は、ヘロンで、彼は数学・幾何学・測量学・気体力学・機械学等に通じ、著作も多数あり、現在に伝わっている物も多数存在します。
しかし、ヘロン本人の生涯は、現在でも詳しく判明しておらず、現在では、紀元前150年頃から紀元後250年の間に生きた人物とされています。

 彼の住んでいたアレクサンドリア(アルイスカンドリア)は、マケドニア王アレクサンドロスによって建設された町で、当時は、エジプトの首都でも在り、ナイル河の河口に位置した良港で、後背地のエジプトは、農作物を始めとする物資に恵まれていた事から、地中海貿易の拠点として大変栄え、「雪以外のものなら、何も無い物は無い」と称された程の町でした。
 紀元前320年頃から300年間にわたって、エジプトを統治した、プトレマイオス朝は、学問を尊重し、当時世界最大の図書館の他、多くの学者を自由に研究させる学士院作り、その為、学問が発展し、特に自然科学の発展は、めざましく、多くの優れた自然科学者を輩出しました。

 ヘロンもその一人ですが、彼は発明の才能に恵まれていた様で、自動販売機の原型を考案したのもその一つです。
近代自動販売機を発明したのは、イギリスのエベリットで、1885年の事であると記さていますが、ヘロン考案の其れは、聖水を出すものでした。
仕掛けその物には、賽銭箱の形をした物と壺の形をした物が伝えられており、参拝者が神殿で、その“販売機”の硬貨を入れる穴にお賽銭を入れると聖水が流れ出るのです。
この仕掛けは、内部に隠された天秤の動きによるもので、硬貨が片方の天秤に乗ると片側の天秤が上がり、水の出口を開く様に成っていました。

 ヘロンは、他にも数多くの発明、考案を本に残しており、中には発想は良いものの、実際には上手く行かない物もありますが、この自動扉を近年、早稲田大学で模型を作って作動させた処、扉は上手く開閉したそうです。

続く・・・
2009/10/22

歴史の?その16

<消えたスパルタの勇士>

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 今から2500年程昔の事、ギリシアのスパルタで、月桂樹の冠を被った2000人の勇士達が、神殿から神殿へと行列を作って練り歩きました。
彼等は、スパルタで、「ヘイロタイ」と呼ばれる奴隷的身分の者達で、先の戦争で、スパルタ人と供に勇敢に戦い、その手柄として、奴隷の身分から解放され、自由人と為る事が許されたのでした。
ところが、この行事から暫く後、この2000人の勇士は、一人残らず行方知れずに成ってしまいました。

 さて、スパルタは、ギリシアの南部、ペロポネソス半島に存在した、強国で、「ドーリス人」と呼ばれるギリシア人の集団が、紀元前1200年頃、北方からギリシアに侵入し、ペロポネソス半島の先住民を征服して、建国した国家が、スパルタでした。
彼等に征服された先住民は、奴隷的身分を与え、此れが「ヘイロタイ」と呼ばれる人々で、人口の上では、圧倒的にスパルタ人より多く、歴史学者 ベロッホは、紀元前5世紀末、自由人であるスパルタ人の成年男子の数は、2500人、一方「ヘイロタイ」の成年男子は、17万5000人であると計算しています。

 スパルタ人は、農耕を「ヘイロタイ」に行わせ、収穫物の半分を取り立て、彼等は、一切の労働作業に従事する事無く、体の鍛錬、軍事訓練に励んだのです。
此れら、一連の鍛錬、訓練は、スパルタ人にとっても大変厳格なもので「スパルタ教育」の語源とも成りましたが、このお陰で、スパルタは、ギリシア第一の強国と成ったのです。

 当時、ギリシアの国々は、何時もお互いに戦争状態に在り、従ってスパルタの男性は、国を離れて従軍する事が多く、当然、自分達が居ない祖国を常に心配していました。
スパルタ人が、遠征の最中にもし「ヘイロタイ」が反乱等でほう起した場合、其れはスパルタの滅亡を意味する事から、むしろ「ヘイロタイ」の反乱を彼等は、大変恐れていました。
スパルタ人は、常に「ヘイロタイ」の力を弱める様に努め、毎年1回、彼等を鞭で打ち、奴隷で有る事を忘れない様にし、余りに強い「ヘイロタイ」は、罪の如何に関係無く死刑にされたのです。

 スパルタの青年達は、「クリュプティア」と呼ばれる武者修行も行い、彼等は、人気の無い場所に行き、昼間は、身を潜め、夜間行動し、行き会った罪も無い「ヘイロタイ」を殺すのです。
この行為は、「ヘイロタイ」にスパルタ人を恐れさせ、反抗の気力を殺ぐ為でも在りました。
2000人の「ヘイロタイ」勇士が消滅したのも、この為で、スパルタ人は、戦場で勇ましく戦い、めざましい武勲を立てる様な「ヘイロタイ」を特に危険分子と見なし、自由を与えた上で、殺してしまったのです。

補遺
古代スパルタの諸制度、特に教育制度は、リュクルゴスが定めたと伝えられており、彼の実在を疑う歴史学者も居ますが、プルタルコスの「英雄伝(対比列伝)」にも紹介されており、更に「アギスとクレオメネス」の伝記によって、スパルタ国家の末期が、良く理解できます。

続く・・・
2009/10/21

歴史の?その15

<泣き出したカリアティド>

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 私は、ギリシアと言う名前から、アテネ市のアクロポリスに建つ、「パルテノン神殿」を連想します。
その「パルテノン神殿」の北に「エレクティオン神殿」が在ります。
この神殿は、ギリシアの神殿としては、特異な設計を持ち、アテネ市の守護神アテナと海神ポセイドンの他、アテネの古い王、エレクテウスを祭る神殿で有り、その敷地が北側に向かって、傾斜している土地に建造された為、複雑な建物となりました。

 「エレクティオン神殿」は、紀元前421年から同407年迄かかって建造され、その壁には、建設に要した費用が、詳しく彫り付けられており、当時のアテネの物価を知る上で、この上も無い資料と成っています。
しかし、この神殿で、最も有名なのは、南側のテラスで、乙女の姿をした石柱に支えられており、この石柱を「カリアテッド」と呼び、前列4体、後列2体が在ります。
その前列の柱の内、一部は石柱ではなく鉄筋が、填められて居ましたが、後年、乙女像のコピーに変更されました。
その部分の実物は、現在イギリスの大英帝国博物館に存在し、パルテノンの破風、柱間の彫刻類と一緒に、1803年頃エルギン伯トーマス・ブルースによってイギリスに持ち出されたものです。

 エルギン伯は、1799年トルコ公使となり、当時トルコ領で在ったギリシアで、ギリシア彫刻の素晴らしさの虜に成りました。
彼は、トルコ政府の許可を得て、画家達がアクロポリスの神殿の彫刻類をデッサンさせましたが、トルコ政府の役人を買収して、アクロポリスに上る許可、デッサンをする許可、石膏で模りする許可、その為彫刻類を高所から降ろす許可、彫刻の破片をイギリスに送る許可と次々により大幅な許可を得て、更に彼は、それらの許可を拡大解釈し、主にパルテノン神殿の彫刻類を200以上の箱にして、イギリスに送りました。

 エルギン伯は公使として、コンスタンチノープルに居り、アテネには、極稀にしか訪れず、之等一連の仕事は、部下達が執り行ったのですが、「エレクティオン神殿」の乙女の柱も全て取り外して、イギリスに送る手筈で在ったものの、一体を外した処、乙女の柱は、悲鳴をあげて泣き出したと云います。
作業に従事していた、作業員は気味悪がり、誰も作業を続ける事を止め、乙女の柱は、一体を外しただけで取り止めに成りました。

 乙女の石柱が、悲鳴をあげて泣いたとは、随分不思議なお話ですが、此れは多分、柱を外した為に建物全体が崩壊しそうに成り、石が軋み、鳴り出したのだと思われます。
当然、作業員達は、巨大な神殿の石の下敷きに成る事を恐れたのでしょう。
乙女の柱を全部搬出する予定で在ったと伝えられますが、いくら大幅な許可を得ていてもその様な作業は、勿論無理でした。

 実際、「パルテノン神殿」でも数多くの彫刻類を取り去りましたが、そのままの彫刻も在ります。
これは、その彫刻を取り外すと神殿そのものが、崩壊する危険があるからで、乙女の柱も全てを取り去る予定なら、端の部分から取り去った筈で、2番目から取り外そうとした事は、元来、建造物の構造に影響を与える可能性の少ない部分と思われたからではないでしょうか?
乙女の柱が泣いたのは、作り話かも知れませんが、イギリス人の良心が泣いたのかも知れません。
詩人のバイロンは、エルギン伯の行為を非常に非難しました。

続く・・・
2009/10/20

歴史の?その14

<マラソン競技の起源>

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 近代オリンピックの華と呼称される「マラソン競技」ですが、この「マラソン競技」が古代オリンピックにおいても行われていたと考える人も居りますが、それは誤りです。
近代オリンピックは、フランスのクーベルタンの提案で始められ、その第一回大会は、1896年、古代オリンピック発祥の地、アテネで開催されました。

 その第一回大会の時、フランスの言語学者 ミシェル・ブレアルの提案から現在の「マラソン競技」が始りました。
ブレアルは、紀元前490年、アテネ陸軍がペルシャの大軍をマラトンの野に撃破し、ギリシアを救った時に在ったとして伝わっている話を基に「マラソン競技」を提唱したのでした。

 マラトンの野は、アテネの北東に位置し、予てよりギリシア侵略を目論んでいた、時のペルシャ王ダリウスは、紀元前490年、600隻の大艦隊をアテネに送り、マラトンの野に上陸(第二次ペルシャ戦争)し、アテネは、1万人の重装歩兵でこれを迎え撃ちました。
アテネは、スパルタに援軍を求め、俊足のペイディッピデスを伝令に出し、彼は、アテネ、スパルタ間240kmを二日で走破したと伝えられています。

 しかし、その時スパルタは、祭りの最中で、祭りが終わる1週間後の満月の日に成る迄、援軍を出せませんでした。
其の内、援軍の到着を待たずして、ペルシャ軍とアテネ軍の間に戦闘が、勃発しました。
此れを「マラトンの戦い」と云い、ペルシャ軍の勢力は、アテネ軍の10倍と云われますが、戦闘は、地形を有利に展開したアテネ軍の勝利に終わりました。
当時の記録では、ペルシャ軍の戦死者は。6000人を超える数で在ったにも係らず、アテネ軍の喪失は、200人に満たなかったと記録されています。

 この勝利を知らせる為に、ある男がアテネ市迄全力で走りました。
彼はアテネ市の入口で「喜べ!勝った!」と一声叫び、息を引取ったと云います。
此れが「マラソン競技」の起源に成った事件で、今日のマラソン競技の距離42.195kmは、マラトンとアテネの距離と伝えられています。

 しかし、この「マラソン競技」の起源には、多くの不明な点が多く存在します。
まず、第一に本当に戦勝を伝える者が居たのでしょうか?
「ペルシャ戦争」の歴史を記したヘロドトス(紀元前5世紀)は、当時の歴史上のエピソードは殆んど網羅しているにも係らず、この走者の話を伝えていません。

 この走者の話を最初に伝えたのは、「英雄伝」で有名なプルタルコスとルキアノスですが、マラトンの戦いから500年以上の後の人物で、「英雄伝」の中でプルタルコスが紹介しているヘラクレイデスは、紀元前4世紀の人物で、時代が異なります。
この様に勝利を伝えた走者の話は、後世の想像である様です。

 第二の疑問は、走者の名前で、スパルタ迄伝令に走った、ペイディッピデス、更にはテルシッポス、エウクレス、ディオメデスの名前が、伝えられていますが、定かでは有りません。
駄々、勝利を伝える伝令をアテネに出した事は、事実と考えられますが、勝利を伝えて息絶えた下りは、話を面白く脚色したもので、その為走者の名前が、曖昧になっていると考えられます。

 第三の疑問は、マラソン競技の距離の基と成った、マラトン・アテネ間の42.195kmがどの様に計測されたのかと言う点です。
1927年国際陸上連盟が調査を依頼し、翌年ギリシアが、マラトン・アテネ間の距離として出された結果は、36.75kmで、最初の数字の根拠が、依然曖昧なままなのです。

 さて、アテネで開催された「第一回近代オリンピック」では、アメリカがメダルの大多数を占め、開催国ギリシアは、不振でした。
しかし、マラソン競技に優秀したのは、ギリシア人 スピリドン・ルーエスで、記録は2時間55分。
時のギリシア皇太子兄弟が、彼を肩車に乗せて、貴賓席迄運び、ルーエスは、ブレアルの寄贈した記念杯を受け取ったのでした。

続く・・・
2009/10/19

歴史の?その13

<アトランティス>

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 ギリシアの哲学者プラトン(紀元前5世紀~同4世紀)が、表した著作に「ティマイオス」と「クリティアス」が現在にも伝わり、この中に「アトランティス」と云う名前の島が登場します。

 「其れは、ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)の外に在り、リビア(アフリカ北部)とアジア(小アジア)を合わせた位の大きさで、その島から他の島々へ、更にその島々から本当の大洋を取巻く、反対側の全大陸へ渡る事ができた。アトランティス島は、強力な王権の基、島々から大陸の一部分迄その領地で、アフリカは、エジプト迄、ヨーロッパは、ティレニア(イタリア)迄がその王国の版図だった。島は豊かで、生活に必要な物資は、全て自給自足、あらゆる種類の鉱物に富み、ことに“オリハルコン”と呼ばれる、金に次ぐ貴金属は、島の至る所で採掘された。アトランティス王家の富は、今までのどの王家より多く、王宮や神殿等の壁は、金銀や、炎の様に輝くオリハルコン、象牙等で飾られ、神殿、公園、競技場も数多く点在し、更には、強力な軍隊を備えていた。アトランティス島は、正にユートピアの様な島で在ったが、大地震と洪水の結果、一夜にして海中にその姿を没した」。

 この話をプラトンの想像で、全くの空想的なものとする学者も多く、実際にアトランティス島は存在したとする学者と真っ向から意見は対立していました。

 プラトンは、この話を祖父であるクリティアスから聞き、クリティアスは、ギリシア七賢人の一人、ソロン(紀元前7世紀~同6世紀)から聞いたとされ、ソロンはエジプトを旅した時、そのナイル河の河口の町、サイスで、その神官からアトランティス島の話を聞きました。
サイスの町の神殿には、古代からの色々な出来事を記録した文書が、伝えられ、神官もその文書によってアトランティス島の存在を知ったのでした。
ソロンは、神官からアトランティス島の消滅は、9000年前の事であると聞かされました。

 アトランティスは、やがて伝説の大陸として、好事家の格好の題材と成り、色々な書物も出版されましたが、その実在論が、展開されたのは、むしろ第二次世界大戦終了後の事でした。
旧ソビエト連邦(現CIS)の考古学者 アンドレーエヴァは、プラトンが「本当の大洋」と記しているのは大西洋、「反対の大陸」は、アメリカ大陸を指すもと考え、大西洋に遥かな昔、アトランティスと云う“大陸”が存在したとの説を発表し、ドイツの考古学者 スパートは、9000年を9000月の誤りで、アトランティス島の消滅を紀元前1200年頃と計算しています。

 現在では、アトランティス島は、エーゲ海に浮かぶサントリーニ島であり、火山の大噴火で島の大半が崩壊した事、その時発生した大津波が、ギリシア周辺を襲った事が判明し、アトランティス島は、サントリーニ島の事であるとの説が、ほぼ定説になっています。
しかし、現在でも「オリハルコン」が如何なる貴金属なのか、又、当時のサントリーニ島が、エーゲ海からアフリカ北部迄をその版図に置いた事、自給自足の物資、軍隊等説明できない部分も多い事も事実なのです。

続く・・・
2009/10/18

歴史の?その12

<ミノア文字>

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 クレタ文明には、「ミノア文字」呼ぶ文字が、存在し、絵文字と線文字に区分され、更に線文字は、二体(A&B)ある事が、アーサー・エバンズの発掘調査以来判明していましたが、これを解読する事は、容易ではありませんでした。

 1936年の事、アーサー・エバンズは、ロンドンで「誰にも読めない文字の話し」と題して、学術講演を行い、この「ミノア文字」を紹介しました。
その時、マイケル・ヴェントリスという当時14歳の少年が、この講演を熱心に聞き、「自分がこの文字を読み解く」と決心したのです。

 マイケル少年は、幼い頃から、古い文字に興味を持ち、7歳の時には、お金を貯めて、エジプトの象形文字について書かれたドイツ語の書物を買う事もある程でした。
彼は、英国の比較的裕福な家庭に生まれ、父はインド駐留の陸軍将校、母はポーランド系の才能ある女性でした。
その為か、語学には天才的な素質を持ち、幼い頃から数ヶ国語を自由に話す事が、出来ました。
しかし、学業では言語学を専攻せず、建築学を選び、第二次世界大戦に従軍し、暗号解読を任務としました。
建築学の道に入った、ヴェントリスは、少年時代の決心を忘れた訳ではなく、エバンズの講演を聞いた後も「ミノア文字」の研究を続け、その研究レポートを時々、学者達に送り指導を仰いでいました。(20回以上もレポートを作成した事が判っています)

 彼の他にも「ミノア文字」を研究している人々が、勿論居り、ブルガリアのゲオルギエフの他、自分はミノア文字を解読したと称する学者は、多く存在しましたが、正しい解読と認められず、アメリカ・コロンビア大学のアリス・コーバーに至っては、もう少しの努力で、解読できる処迄来ていながら「これはとうてい読み解けない文字である」として、研究を中断してしまう程でした。

 さて、1939年、ペロポネソス半島のピュロスから、ミノア線文字Bで書かれた粘土版が多数発掘され、比較材料が増えた事により、研究も進み解読の手掛かりも幾つか判明してきました。
「ミノア線文字B」は、文字数88、此れは表音文字としては多く、表意文字としては少なすぎる事から、日本のカナ文字の様に母音と子音の組合せであろうと推定され、又、語尾変化、接頭語、文節記号も判明してきました。
この難解な文字をヴェントリスは、少年時代に決心した通りに、終に解読しました。

 但し、解読出来たのは、「ミノア線文字B」のみでした。
彼は、此れを古代ギリシア語を表現する文字と考え、日本のアイウエオを表す50音表の様な「ミノア線文字B」の「音の格子」と名づけた表を作成し、88文字にも上る線文字Bを格子に当てはめ、1952年、何時もと同様にレポートを作成しました。

 ケンブリッジ大学のギリシア語教授 チャドウィックが、ヴェントリスのレポートを読み、彼の解読作業に協力を申し出、この二人の共同研究の結果は、翌年学会に発表され、大論争が起こりましたが、後年、ヴェントリスの解読を証明する、新たな粘土版が発見され、今日、彼の解読は正しいものとして承認されています。

 しかし、ヴェントリスは、1956年9月自動車事故の為、僅か34歳の若さで急逝し、ギリシアの人々の間では「神々に愛された者は若死にする」と云う諺が有りますが、彼も神々に愛された為に若死にしたのだと人々を惜しませました。
死に到迄にヴェントリスは、「ミノア線文字B」に関する研究書を著し、後の世の人々が更に研究を進める為の手引きを完成させました。
こうして、「ミノア線文字B」の解読は成功したものの、「ミノア線文字A」「絵文字」の解読は、現在でも成し遂げられていません。

続く・・・
2009/10/17

歴史の?その11

<ミノタウロス>

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 ギリシアと小アジアに挟まれた多島海、エーゲ海の南にクレタ島が在ります。
クレタ島には、複雑な内部構造を持つ建造物「迷宮:ラピュリントス」が在り、此処は1度入ると2度と外部に出る事は出来ないと云われてきました。
その上、この迷宮には、頭が牛、体が人間の「ミノタウロス」が住み、生きている人間を餌食にしていたと云います。

 アテネの王子テセウスは、クレタの王女アドリアネの教示に従い、糸玉を持って迷宮に入り、ミノタウロスを倒し無事に迷宮からの脱出に成功しました。
さて、「迷宮」・「ミノタウロス」、如何にも神話に有りそうな不思議なお話で、とても実話とは思えません。
上記のテセウスの伝説を著した、ギリシア人プルタルコスも「大変、芝居じみた話」として、紹介しています。

 ところが、この神話伝説が、全くの作り事では無かった事が、現在からほぼ1世紀前に明らかに成りました。
20世紀初頭、1900年頃から、英国人考古学者アーサー・エバンズは、クレタ文面の中心地クノッソスの発掘作業を開始し、やがて古代クレタ文明に登場する、ミノス王の王宮跡を発見しました。
王宮は、まさしく迷路で、大きなそして複雑な建造物でしたが、これは、その敷地が平地ではない事も有り、ある場所では、4階、別に場所では、1階という様な建物で、しかも100以上もの部屋を持っていました。
廊下は、曲がり階段は、四方に在ると言った状況で、本当に1度入ったら、出口を見つける事は難しく、「迷宮」の伝説を生に相応しい建物でした。

 この王宮が、栄えたのは、約3500年前の事で、当時エーゲ海には、「エーゲ文明」と呼称される金石併用文明が在り、クレタ島は、その中心で、クレタ島を統治したミノス王は、エーゲ海の島々、更にはギリシア本土迄勢力を伸ばしていたのでした。

 クレタでは、絵画が発達し、王宮の壁や天井には、多くの壁画が描かれ、その写実的な技法は、美術的にも優れていますが、当時、クレタ島に生きた人々の生活を垣間見る素晴らしい資料でも在ります。
これらの絵画からクレタ島に生きた人々は、農業・漁業・貿易等を営み、明るい生活を送っていた事が読み取れます。

 王宮の発掘によって「迷宮」の謎は、解けましたが、そこに住んでいた「ミノタウロス」の謎もやがて判明しました。
英国人神学者ハリソンは、発掘された、クノッソス王宮の壁画、彫刻等から、クレタ島では、牛が聖獣で神として崇拝され、牛の角は神聖な物の象徴とされており、祭りの時は、牛の角を握って牛の上を飛び越す「牛飛び」競技が行われたのでした。
クレタの王は、最高神官も兼ねていたので、時には牛の被り物を付け、神そのものを演じていたのです。
この祭りが「ミノタウロス」の伝説を形成したのですが、「ミノタウロス」は、「ミノスの牡牛」の意味であり、アテネの王子テセウスが、ミノタウロスを倒した事を神話ではなく、事実の物語として考察される事もあります。

 この様に「迷宮」「ミノタウロス」の謎は、解明されて行きましたが、この文明を創りあげた人々がどの様な人種であったのか、又彼等の使用した絵文字の他、ミノア線文字Aは、現在でも解明されていません。

続く・・・
2009/10/16

歴史の?その10

<老子とは、如何なる人物だったのか>

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 中国の思想家の中で、古くから最も親しまれた人物は、老子ではないでしょうか。
民間宗教として、広く一般に普及した道教に在っては、老子が教祖とされ、老子の化身たる、太上老君は、道教において神でも在りました。

 唐の朝廷も道教を崇拝し、帝室の教えとされ、更に、太上玄元皇帝と云う尊号まで捧げられています。
それは、唐王朝の帝室の姪が李氏であり、老子の姪も李氏であったと伝えられるからです。

 では、老子は、何時の時代に存命した人物なのか、この点について司馬遷は、「史記」の中に記述しています。
老子の名は耳、呼び名はたん(当用漢字無)、姪は李氏であり、周の国に使えて司書の役人と成りました。
そこへ孔子が尋ねて行き、礼について問うと、老子は、喩話を引合いに出しながら、
「良い商人は、品物を奥に置き、店先には殆んど何も無い。偉い学者は、優れた徳を身の内に深く備えながら、顔は、愚か者のように見える」。
そして、孔子に対して、「貴方の高慢と野心、好奇の念を捨て去りなさい。どれも貴方には、何の役にも立たないものだ」と諭しました。
孔子は、門弟に「今日は老子に会って来た。まるで龍のような人物だ。龍は風雲に乗って天に昇ると云うが、全く掴み処の無い人物だ」。

 事実、老子は、虚無の道の修行を積み、その学問も世間から隠れて、名声が聞こえる事を避けており、長らく周の都、洛陽に住んで居ましたが、周の国が滅ぶとその地に別れを告げました。
その時、関の役人に教えを書き残しておく事を懇願され、上下二編、五千余字の書を表した後、立ち去ったと云われています。
その後、老子の最後を見とどけた人物は、後世に伝わっていません。

 さて、以上の文書から、孔子と同時代、しかも孔子より先に生まれた人物となりますが、孔子は、魯の国の生まれで、紀元前6世紀末から紀元前5世紀初頭、春秋戦国時代の後期に活躍した思想家で、先に述べた司馬遷は、時代を400年位隔てた人物でした。
司馬遷の時代、既に老子についての話は、曖昧なものとなり、「老子」という書物は、存在してもその著者が、如何なる人物であったのかは、全く判らなくなっていました。
司馬遷も上述の話の後に、他にも「老子」の著者が別に存在したらしい事を記述しています。

 老子という尊称も不思議で、ここで「子」は先生の意味で用いられ、孔丘の事を孔先生と呼び、孟軻の事を孟先生と呼びましたから、老子の姪が李氏ならば李先生と呼ぶ事が普通と考えられます。
現在の歴史に於いても老子については、不明な部分が多く、一部の学者の中には、その存在を否定する説を唱える者も居りますが、現実に「老子」と云う書物は、実在しそこに記述されている思想を持った人物が、存在した事も否定できません。

 では、老子は何時の時代の人間で、「老子」は何時頃編纂された書物なのでしょうか?
老子が、孔子に道を教えた話は、明らかに後世の伝説であり、「老子」に説かれている思想も孔子より後、先の春秋戦国時代のものと推定されています。
戦国時代後期、孔子の後を継いで、孟子が活躍しますが、孟子は盛んに他の学派を攻撃し、特に墨子と楊朱を排撃していますが、老子については、言及していません。
これは、孟子の時代にまだ、老子がこの世に現れて居なかった事を意味するのではないでしょうか?

 「老子」と云う書物に述べられている思想に関しても、歴史的評価は定まっておらず、戦国時代初期、孔子から100年程後のもの、又は中期、孟子より後の時代と考える事もできます。
因みに老子と並び称される荘子は、紀元前4世紀末から紀元前3世紀初頭に活躍した、人物と考えられています。
古代中国を代表する思想家で在り、孔子、荘子と並び称される人物で在りながら、疑問点の多い人物も不思議で、本当は、後世の人が作り出した架空の人物なのか、それとも俗人と違う神仙であったのでしょうか?

続く・・・
2009/10/15

歴史の?その9

<殷王墓の怪奇>

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 殷王墓の内部は、戦前の調査で、ほぼ確認されていました。
夥しい数の人間の首が埋められている事も・・・。
しかし、実際の発掘作業は、想像を絶するものと成りました。

 3500年程の昔、中国の黄河の流域に殷王朝が、繁栄し、その殷の都が、殷墟であり、有名な甲骨文字をはじめ、多くの貴重な歴史的遺物が出土しました。
殷墟の調査が、進行すると共に、周辺からは、当時の墓も発見され、殷墟の西方、侯家荘付近では、10箇所の大墓と1000に及ぶ小墓が存在し、大墓は、殷王の墓と推定されました。
墓所の内部は、壮絶な光景で、何十もの殉死体、無数の人間の首、これらが墓の主の棺の周りに、又は上下に、埋葬されていました。

 ここで、中国大陸は、日本との戦争、そして内戦の時代となり、国民党政府が台湾に敗走する時、殷墟の遺物や発掘記録も持ち去られてしまいます。
1949年10月、中華人民共和国の成立と共に、学術調査も再開され、殷の遺跡発掘調査も更に広い地域で、再開されました。
最初は、侯家荘近郊の武官村における発掘で、戦前の調査で、この場所が殷時代の遺構である事は、確認されていました。

 そこは、やはり大墓でした。
中央の墓室の巨大さからも、王墓である事は、間違いないものの殉死者の人骨が、夥しく現れ、やがて巨大な木棺の上部が現れました。
王の棺を被う槨と思われるその部分は、33平方メートルの広さがあり、その上面と同じ高さ迄土が盛り上げられ、広い墓室は、その槨の高さで広い平面を構成しているが、その回りには、男女50体に及ぶ殉死者の遺骨があり、それぞれ身の回りの品々と共に埋葬されていました。
巨大な木棺の中は、残念ながら遥かな昔に盗掘され、その主の亡骸も副葬品も消えていましたが、槨の深みは2.5メートル、墓所の深さは7.5メートルの深さになります。
墓室の南北は、長い墓道で、北側の墓道には、馬が16頭、武人が2名、犬4匹が互いに向かい合う様に埋葬され、南側も同様でした。

 此れが、大墓の全容ですが、更に周囲の小墓からは、150体を超える殉死者の遺骨が発見されました。
この膨大な殉死者は、黄泉の国で、王が生前と同様な暮らしが出来る様、共に旅だった人々と考えられますが、殷王朝では、王が崩御すると幾人もの人間が、その葬礼為に命を落とす、その模様は、現在の私達に想像を絶する光景である事だけは、間違い有りません。

続く・・・
2009/10/14

歴史の?その8

<夏の王朝は実在したのか>

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 「中国で最古の王朝は?」と問われた時、現在の世界史を学んだ方々ならば「殷」と答えるでしょう。
しかし、古書には、殷の前に夏と云う王朝が、存在し更に太古には、三皇・五帝と呼ばれる古聖王の時代が、存在すると記載されていました。

 勿論、現在では三皇・五帝の伝説をそのまま歴史上の事実として、信じる人は居ないと思います。
特に三皇・五帝の最後の二人、堯、舜は、儒家の人々が最も尊信する王でありました。
以前、国民党政府時代、堯、舜を伝説とした歴史書は、発禁指定をされたのですが、「学者の討論は自由であるが、民族の誇りを傷つけ、国家の不利を回避できない」との理由であったと云われています。
民族の誇りとは、架空の伝説によって成立するものでは無く、正しい理性の上にこそ構築されるものである事を、本当の愛国者は理解しており、学者達も弾圧に屈す事無く、伝説批判を進めました。

 堯は、天体の運行を定め、暦法を確立した事は、「天」の思想の反映です。
堯から位を譲られた舜は、父母に仕えて幸の道を尽くし、官制を整えた事は、「人」の徳を示したものです。
更に舜から位を譲られた禹は、黄河の治水を行った事は、「地」の功を表しています。
五帝は、五行の思想「木火土金水」から導き出されたもので、三皇は、三才の思想(天地人)から考えだされたものなのです。

 歴史家の中で、懐古派と呼ばれる人々は、この様にして堯・舜・禹を史実から抹消していきました。
その禹が開いた王朝こそが夏王朝で、17代を重ね、桀王の御代に殷の湯王に滅ぼされて事になっています。
続く殷の時代も夏の歴史の繰り返しが多く、その伝える所も史実として受け入れがたい点も少なくない為、一時は殷の存在も疑問視される結果となりました。
しかし、殷王朝は、確かに実在し、その事は、殷墟の発掘によって明らかとなり、古文書に記された殷の王系も、甲骨文字の研究と共に正確である事が、証明されています。
現在の定説では、殷王朝の始まりは、紀元前1600年頃、その滅亡は、紀元前1020年から1040年頃と見られています。

 では、殷王朝の前に夏王朝が存在したのか?と言う点では、現在も研究が続いていますが、夏王朝の存在を推測させる遺構等が未だ発見されていない事も事実です。
この様な考え方に対し、古伝説を再検討し、考古学の調査結果をも利用しつつ、夏王朝の存在を認め様とする学説も現れ、夏王朝の開祖禹王に関しては、その功を孔子も論語に於いて称え、古詩を集めた詩経には、彼を詠った詩も少なくない事、後年、杞国は、夏王朝の子孫と信じられていました。

 もし夏王朝が実在したと仮定すれば、その最盛期、河南省東部から山西省西部にまたがる国で在り、その地域には、殷代の遺構の下に又、別の遺構が分布している事が、最近の調査で明らかとなり、そして、夏王朝は、殷の侵入によって、山西省南部に遷都したのではないでしょうか?
現在に於いても夏王朝の存在は、立証されていませんが、嘗て、殷墟で見つかった甲骨文字の研究から、殷王朝の存在が立証された様に、何かの発端で夏王朝の存在が、立証される時が来る事を願います。

続く・・・
2009/10/13

歴史の?(その7)

<モヘンジョ・ダロ>

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 ヒマラヤ山脈に源を発するインダス川の下流、パキスタンに「モヘンジョ・ダロ(死の丘)」と呼ばれる丘が在ります。
1922年の事、モヘンジョ・ダロの正式な組織的発掘調査が、開始されこの丘全体に古代遺跡が埋蔵されている事が、確認されました。
およそ10年間にも及ぶ、大規模な発掘調査の結果、紀元前3500年頃から約1000年間程栄えた、インダス文明の町の遺跡が姿を表したのでした。

 現在から遡る事5500年前、まだ金石併用文明期の町が、整備された都市計画に基づいて建設されている事は驚異です。
東西、南北に主要道路が走り、多くの小道が、この主要道路に直角に交わり、更には下水設備迄整備された町でした。
発掘当時、下水設備等の整備が遅れていた国々にとって、この古代都市の存在は、驚くべきもので在った事は事実です。
下水設備だけでなく、生活ごみ、井戸、浴室も整備されていましたが、煮炊きをする場所、すなわち台所が無い面も当時の考古学者達を戸惑わせたものです。

 又、モヘンジョ・ダロには、公共浴場等の建築物は存在しますが、ギリシアやローマの都市の様に宮殿、神殿らしき建造物は発見されませんでした。
ここで、浴場の存在を単なる「入浴」と言う概念を外し、我が国の神道における「禊」の様な清めの儀式の場所と考えれば、モヘンジョ・ダロでは、水浴は宗教的な行事として、行われていたのではないかと推測され、神殿が存在せず、浴場が存在する事は、宗教的なものとして考えられています。
モヘンジョ・ダロは、インダス川の氾濫により、都市としての機能を喪失したと考えらています。

続く・・・
2009/10/12

歴史の?その6

<ファラオの呪いⅡ>

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 さて、カーナヴォン卿は、1923年に現地で「蚊」に刺され、熱病になり3週間程後に亡くなりましたが、この頃から「ファラオの呪い」と云う噂が広まり始めました。
真偽は兎も角、トゥタンカーメン王墓の発掘に従事した、人々が、1930年頃迄に次々と20人以上死去したと新聞に報じられ「ファラオの呪い」は、有名になりました。
その中には、健康体にも係らず急死した、リチャード・ビゼール(カーターの助手)、自宅の7階から投信自殺した、ウェストベリー卿等が居り、一時は、カーター自身もアメリカで死亡した伝えられた程でした。

 余りの噂にドイツのエジプト学者、シュタインドルフが調査したところ全てが、単なる噂に過ぎない事を実証し「ファラオの呪い」説を打ち消しました。
此れは、トゥタンカーメン王墓の素晴らしさと、カーナヴォン卿の死が余りに急であったので、この様な噂(現在なら都市伝説)が一人歩きした結果でしょう。
尚、カーター本人は、66歳迄無事に生存し、1939年に世を去りました。

続く・・・
2009/10/11

歴史の?その5

<ファラオの呪い>

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 20世紀最大の考古学上の発見と云われる、エジプトの「トゥタンカーメン王墓発掘」は、多くの歴史的遺物が多数出土し当時の学会を賑わしました。

 ご存知の様にエジプトのピラミッドは、王墓で王の亡骸や生前の日用品が数多く埋葬され、王が黄泉の國での生活に困る事が無い様に配慮されていましが、当然、墓荒しの対象となった事は、言うまでも有りません。
後にピラミッドを造営する事なく、死後の王を称える神殿やオベリスクを目立つ所に建立し、王の亡骸は、目立つ事の無い場所に安置するようになりました。
何時しか、その場所は「王家の谷」と呼ばれ、埋蔵品を守ろうとする王朝側とそれを盗み出そうとする盗賊達の智恵比べの場所ともなり、後年、未盗掘の王墓を発見する事は、考古学者の悲願となっていました。

 しかし、1920年11月3日、イギリスの考古学者カーターが、終に未盗掘の王墓を探し当てたのです。
彼は、第一次世界大戦の前から、現地に赴き、当時盗掘による遺品が、全く発見されていなかった、トゥタンカーメン王の墓が、この「王家の谷」の何処かにある事を確信し、幾度もの失敗を繰り返しながらの発見でした。
彼は、資金的なパトロンである、同郷のカーナヴォン卿に電報を打ち、カーナヴォン卿は、発見の興奮も覚めやらぬ24日現地に到着。
愈々、王墓本体に発掘が始まり、未盗掘の王墓が、姿を表したのです。
 
 王の亡骸は、三重の黄金の棺に納められ、その上を石棺が被い、更に四重の厨子がその上を被い、王の亡骸を包む麻布には、多数の宝石が包み混まれ、当時の栄華を偲ばせるに十分なものでした。
トゥタンカーメン王は、紀元前1358年から約10年程エジプトを統治した王様で、他界した時の年齢は、18歳から20歳位の若い王様です。
この発掘が、行われる迄、殆んど一般の人々が耳にする名前ではないのですが、その様な少年王ですら、耳目を驚かす程の素晴らしい出土品が、発見されたのですから、他の有名で、長寿を得た王様の墓がどれ程、立派で有ったか想像できます。

続く・・・
2009/10/10

歴史の?その4

<ナイル河の水源を求めて・Ⅱ>

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 ネロから100年後、エジプトのアレクサンドリアに居た、地理学者プトレマイオスは、アフリカの地理に関する著作で、ナイル河が上流で、青ナイルと白ナイルに分岐し、青ナイルは、東の湖(タナ湖)より注ぎ、白ナイルは、「月の山」の雪解け水が流れ込む二つの湖が、源流であるらしいと書いています。
彼の説は、後年、正しい事が証明されました。
その後、イスラム勢力の拡大と共に、イスラム教徒によるアフリカ探検も行われましたが、特にナイル河の源流を探った者はいませんでした。

 18世紀終盤、ヨーロッパ人のアフリカ植民地政策が進行するに伴い、調査、探検も進み青ナイルの水源は、いち早く確認されたものの、本流である白ナイルの水源は、以前謎のままでした。

 しかし、イギリス人スピークスは、ヴィクトリア湖が白ナイルの水源であると推定し1860年に調査を行い、彼の友人であるベーカーも1864年、ヴィクトリア湖の西側に位置する、アルバート湖もナイル河に注ぐ事を発見しました。
アルバート湖の南には、更にいくつかの湖が存在し、それらの水がアルバート湖に流れ込むのならその湖も又、ナイル河の水源となります。

 この状況を実際に調査したのが、リヴィングストンで、彼は只の探検家では無く、キリスト教の伝道師でもあったので、彼は布教を進めながら、ナイル河の源流探索に燃え、一時は、行方不明を伝えられた程でした。

 アメリカのスタンレーは、1871年の初め、ある新聞社からリヴィングストン探索の命を受けて、アフリカに渡りました。
その年の秋、終に彼はタンガニーカ湖の湖岸で、リヴィングストンに出会う事ができたのです。
リヴィングストンは、その後も熱心にナイル河の源流を求め、ルアラバ川がその源流に違いないという間違った考えのまま1872年5月に他界します。

 スタンレーは、一時帰国の後、リヴィングストンの志を引継、1874年からアフリカを探検し、ルアバラ川が、ナイル河ではなくコンゴ河の上流である事を証明し更に後年の探検で、アルバート湖の南、エドワード湖もナイル河の水源である事を発見しました。

続く・・・
2009/10/09

歴史の?その3

<ナイル河の水源を求めて>

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 「エジプトは、ナイルの賜物」と云われています。
この有名な言葉は、ギリシアの歴史家ヘロドトスが初めて使用したもので、彼は紀元前440年頃、エジプトを旅しました。
彼は、ナイル河が毎年夏至の頃、氾濫する原因をエジプトの人々に尋ねました。
その答えは、
1、海から吹き込む季節風の為、ナイル河が海に注げなくなる。
2、ナイル河は、大地の周囲を流れるオケアノス河から流れて出る。この氾濫は、オケアノス河の性質による。
3、上流地方の雪解け水が、流れて来る。

以上の答えにヘロドトスは、信じる事が出来ませんでした。
1、季節風の吹き込む河は他にも在るが、洪水は起きない。
2、オケアノス河が実在する証拠は、無い。
3、ナイル河の上流は、暑い地方で雪が降る事じたい不可能である。
と結論しました。

 しかし、ヘロドトスは、洪水の理由を求めて、ナイル河の源を知りたいと思い、ナイル河を遡り、エレファンティネ迄行きました。
ここは、ナイル河に在る7つの急流の1番下に辺り、現在のアスワン・ダムより少し上流で、ナイル河の全長5760kmの6分の1程の距離に成ります。
それ以上上流に進む事は、容易では無く、ヘロドトスは、上流地域の事を現地の人々に尋ねました。
「ナイル河の上流には、更に幾つも急流が在り、大きな湖が在り、更に遡るとメロエと云う場所に付く。それ以上上流の事は判らない」との返事でした。
此れより先は、不毛の土地とヘロドトスは、云っています。

 ヘロドトスから500年程後に、ローマ皇帝ネロは、探検隊を組織しナイル河の水源を求めました。
彼等は、エレファンティネの遥か上流のソバト川と云う支流の合流点迄遡りましたが、上流への進行は無理でした。

続く・・・
2009/10/08

歴史の?その2

<ストーンヘンジ>
 
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 ヨーロッパの各地には「巨石記念物」呼ばれるものが、数多く存在します。
巨石記念物には、2~3mの物から、10mもある柱状の1本石や、1000本以上の石の柱を何列にも並べた「柱状列石」が在ります。
イギリスには、石柱を輪の様に並べた「環状列石」が在り、新石器時代末期から青銅器時代初期に建造され、直径50mにもおよびます。
最も最大の環状列石は、ソールズベリー近郊のストーンヘンジで、直径100m近い規模を誇っています。

 1950年から54年にかけてストーンヘンジの発掘調査が行われ、1番外側には、浅い堀が在った事、土手が廻らされていた事、入口は、1ヶ所在り、1本の道が作られていた事が判明しました。
廻らされた土手の内側には、56箇所の穴が、円形の掘られ、人骨の灰、骨製の針、石器、石棒が出土し、この穴で何らかの儀式が行われた様です。
この穴の内側に、大きな石が円形に柱状に並べられ、その上に更に石が渡され、更にその石の輪の内側にも同様に石の柱が、門の様に馬蹄形に並んでいました。

 既に何千年の時が過ぎ、ストーンヘンジの存在する意味について、多くの議論が成されています。
夏至の太陽がストーンヘンジの中央に沈む事から、太陽の位置を観測する暦であるとする説や、柱状石は、墓の近くに立てられる事が多い為、誰かの墓であるとする説もあります。
飛行機が一般的に成ってくると、ストーンヘンジの近郊に木製の「ストーンサークル:ウッドヘンジ」も発見され、調査の結果、「ウッドヘンジ」が先に造営され、後に「ストーンヘンジ」が造営された事、堀の規模が更に拡大し、6重の輪を形作っている事が判りました。
そして、この組合せでも、中央を貫く道が夏至の日の太陽が、昇る方向である事、人身御供にされたらしい子供の亡骸が発見された事から、「ストーンヘンジ」は墓所ではなく、宗教的な儀式の場所、太陽崇拝と関連のある造営物であったとする説が、現在の主流を占めています。

続く・・・
2009/10/07

歴史の?その1

<豊猟を祈った洞窟絵画>

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 1940年9月の或る日、4人の少年達が、中部フランス、ドルドーニュ県モンティニヤック村近くの森で遊んでいました。
気がつくと、彼等と一緒に居た、犬のロボットの姿が見えなくなっていました。
少年達は、口笛を吹いたり、「ロボット!」と呼んでみたところ、何処かで犬の悲しげな泣声は聞こえるものの、姿は一向に見えません。

 少年達は、ロボットの泣声を頼って行くと、その声は地底から聞こえて来る様でした。
其処には、穴が在って、犬の声は其処から聞こえてきます。
一番年長のラビダ少年の指示の基、少年達は、穴の周りのヤブを切り広げ、やがて人間がやっと入れる程の穴ができました。

 ラビダ少年を先頭に斜めに続く穴を下って行くと、やがて広い細長い洞窟に行き着きました。
その岩壁には、野獣や馬の絵が描かれ、その生き生きとした姿は、まだ描かれたばかりの様な、美しい姿をしていました。
先史時代の人々が、洞窟の絵を描いた話を知っていた彼等は、一先ず犬を連れてその日は、家に帰りました。

 少年達の話を聞いて、村人達は驚き、皆洞窟を見に訪れ、やがて学者達も調査にやって来ました。
少年達の考えた通り、それは先史時代の絵で、この話を聞き伝え、世界中から大勢の見学者が、此処ラスコーに訪れました。

 さて、この様な壁画が描かれた洞窟は、100ヶ所近く発見され、主にフランスとスペインの国境付近に多いのです。
一番最初に発見されたのは、スペイン・アルタミラの洞窟で、発見者は猟師でした。
時に1879年11月、この地の領主、サウトゥオラ子爵は、考古学に熱心でこの日も5歳に成る、娘を連れて洞窟に入ったのでした。
最初に壁画を見つけたのは、娘の方で「お父さん!牛よ!」と叫び天井を指差しました。
子爵は、其れまで幾度か洞窟に入りましたが、石器を探す事に夢中で、天井迄見ていなかったのです。
その天井壁画は、素晴らしいもので、子爵は野獣達の絵をスケッチし、旧石器時代の人々の絵として、学会に発表しました。
しかし、学会では、子爵の雇われ絵師が、描いた物と疑われ、子爵は失意の内に世を去りました。

 後の1895年には、フランス・フォンドゴームでも同様な壁画が、発見され更に同様な洞窟壁画が、次々に見つかり今では、旧石器時代の人々の絵を疑う者は、誰もいません。

描かれた動物達は、野牛、馬、マンモス、トナカイ、シカ等が多く、時には、サイ、イノシシ、カモシカ、キツネ等も描かれています。
これ等の絵は、今から2万年前に生きたクロマニヨン人が、残した物と考えられますが、その理由は、判っていません。
一説には、彼等は、狩猟民族だったので、狩の獲物が多く捕れる事を祈り、彼等の神聖な場所に、狩りの絵を描いて、豊猟を祈ったのかも知れません。
罠に入った動物や、矢の刺さった動物の絵があるのは、豊猟の祈りの為と考えられています。

続く・・・

2009/10/06

ギリシア神話の神々114(星座編)

<天空の狩人・オリオン座Ⅱ>

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 日本では、星座の形から「鼓星(つづみぼし)」とも呼ばれ、これは徳川時代に遡る古い名前です。 他にも「かせ星」などがありますが、この「かせ」は糸をつむぐ時に巻きとっておく道具のことで、 「稲架の間(はざのま)」は刈り取った稲を乾燥させる稲架(稲かけ)をいうもので、オリオン座が日没後に出てくるころは、 稲かけが水田の方々に残っている時期にあたるためです。

 中国では、二十八宿の「参宿(しんしゅく)」と呼び、オリオンの首のところを「觜宿(しししゅく)」といいます。
「参」はオリオンの三つ星から来ていると云われ、「觜」は口のことで、オリオン全体を白い虎の形と見ていたことが伝えられています。
 
 ボルネオでは、片腕のない男としてその伝説が残され、古代バビロニアでは、メロダック王と呼んで聖書にもニムロデとして残されています。
その他スカンジナビアで巨人のオルワンデルと呼ばれ、各国で神や国王、巨人、武人などの名前が与えられていました。

【オリオン座とさそり座の伝説】

 ギリシア神話の中の一つに、自惚れたオリオンを懲らしめる為に神々から送られてきた毒さそりに刺されて死んだとして、今でもさそりを恐れて、 さそりが西に沈むのを待ってから、東に昇って来るのだと伝えられる話がありますが、 これは、2つの星座が東西へ約170度を隔て、同じ季節には出ないことから生まれた伝説で、 この神話と似たような話が多く残されています。

 中国の左伝には、昔、高辛氏(こうしんし)に2人の子供がいて、ある時兄弟に争い事が起こり、ついに剣をとって戦い始めました。
そこで天子は、兄を商の国にうつして「辰の星(さそり座の三星)」を司らせ、弟を大夏の国へうつして「参の星(オリオンの三つ星)」を司らせることにしたとあります。
この伝説から「参商かなわず」という言葉ができて、友人などが久しく会わないことにも例えられるようになりました。

 日本にも「かごかつぎ星(さそりの三星)」が「酒ます星(オリオン座)」の店で酒かすを買って、その代金を支払わなかったために、 いつも追いかけられているという話が残されています。

【オリオンの三つ星についての伝説など】

 中国では、今でも毎年正月の8日に参(三つ星)を見て、上元節(じょうげんせつ1月15日)の天気占いをしたり、 またその夜、月が三つ星の後ろにあれば年内に大水、月の前にあれば大日照りと言われています。

 インドでは、鹿の姿と見ていて、この鹿はロヒニー(おうし座のアルデバラン)の父プラジャパティーと云われていました。
ロヒニーは、月の神ソーマの27人の妻の1人で、もっとも愛されていました。
そんなロヒニーを、ある時父がからかって追いまわしました。
それを見たムリガ・ヤードハ(鹿殺し-おおいぬ座のシリウス)の射った矢が鹿の腹をぬいました。
それで、今でも鹿の姿のプラジャパティは、 イシュス・トリカンダー(3ふしの矢-三つ星)で空に縫いつけられているのだと伝えられています。

 ビルマでは、「バンギ(天びん棒)」や「フミヤー(矢)」と呼ばれ、天びん棒の呼び名には伝説が残されています。 昔、インドにダシェルタという王がいて、宮殿の側にため池を掘らせました。
ところが池を使うための儀式をする前に、 1人の若者が、天びん棒で水がめをかついで来て水を汲もうとしました。
それを見つけた王は、矢でその男を殺してしまい、 後で調べてみると、その若者はサンワンといって町で評判の親孝行息子でした。
両親は目が見えず、サンワンは何時も籠に乗せて担いで歩き、 この日も両親に水を飲ませる為に、ため池の水を汲んでしまったことが判りました。
王は後悔して、自分で水がめをサンワンの両親のところへ運び、 深く詫びたと云います。
そして、サンワンの天びんが天に昇って三つ星になったと伝えられています。

 日本でも三つ星を、親孝行の息子が病の両親を担いでいる姿といわれ、「親かつぎ星」「親孝行星」「天びん棒星」などと呼ばれたり、 「三星様」、宮城や岩手では「三大星」、福島では「三大師」、千葉では「尺五星」「三ちょうれん」、東北地方では「竹の節」、 富山では「竹つぎ星」、三浦半島辺りでは「三間星(さんげんぼし)」など様々な呼び名が残されています。
 又、日本には、三つ星の南に縦に一列に並んでいる小三つ星についても、「横三つ星」「小三星(こさんじょう)」「影三星(かげさんじょう)」「伴星」「隠居星」などが伝えられています。

続く・・・
2009/10/05

ギリシア神話の神々113(星座編)

<天空の狩人・オリオン座>

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 ギリシア神話では、巨人の狩人オリオンとされています。
これに関連して、南東隣にある大犬座は、オリオンの飼っていた猟犬とも云われ、足下のうさぎ座は、オリオンの獲物とされています。

 オリオンは、海神ポセイドンとミノス王の娘エウリアレ-の間に生まれ、人並外れた頑丈な肉体と、たぐい稀な美しさを持ち、優れた狩人としてその名を馳せていました。
ある時オリオンはキオス島の王、オイノピオンの娘メロぺを見初め、オイノピオンに、メローペとの結婚を申し込みました。
しかし、オイノピオンはオリオンを快く思わなかったので、「この島を荒らしている大獅子を退治してくれたら認める」と言いました。
でも、オリオンにとってその程度の事は造作もなく、たちまち大獅子を退治して、獲物をメローぺに捧げて結婚を迫りました。
困り果てたオイノピオンは、オリオンを酒席に招いて酔いつぶし、オリオンの両目をつぶして海岸に放り出してしまったのです。


 目が見えなくなったオリオンは、「東の国に行き、朝日の光を目に受ければ再び目が見えるようになる」という神託を受け、海を渡って鍛冶の神ヘパイストスの鍛冶場へやってきました。
鍛冶場にはヘパイストスの工人、少年ケダリオンがいました。
オリオンは、ケダリオンを肩にのせ、彼の誘導で東の国へと向かいました。
やがて、東の国に辿り着いたオリオンは、日の神ヘリオスと出会い、その光を目に受けてようやく視力を取り戻したのです。
オリオンは、オイノピオンに復讐する為にキオス島に向かいましたが、オリオンがやって来る事を知ったオイノピオンは、ヘパイストスが作った地下室に隠れてしまいました。
王に忠実だった島民達も決して、彼の居場所を口外しなかったので、オリオンは復讐を諦めざるを得ませんでした。

 その後、オリオンはクレタ島に渡って、月の処女神アルテミスと出会いました。
しばらくの間アルテミスと暮らし、ともに狩りなどをして楽しんでいました。
でもある時、自分の狩りの腕前に気を良くして慢心したオリオンは、「俺はこの地上のありとあらゆる獣をことごとく射とめてみせる」と口走ってしまったのです。
このオリオンの言葉を聞いた神々は、オリオンの自惚れを懲らしめる為、1匹の大サソリ (蠍座) を
オリオンのもとに遣わして、彼をその毒の尻尾で刺し殺させてしまいました。
オリオンは、彼の死を悲しんだアルテミスの計らいで天に昇って星となりました。
これがオリオン座といわれていますが、星となった今でもサソリを恐れて、蠍座が昇るころになるとオリオン座が沈みはじめるのだと云われています。

 オリオンの死については別の神話も残されています。

 クレタ島でアルテミスと出会った後、オリオンは、アルテミスに恋心を抱くようになりました。
アルテミスも又、オリオンを憎からず思っていたのですが、それを知ったアルテミスの兄、太陽神アポロンはオリオンを殺そうと企みました。
ある日、オリオンが海を渡っている時を見計らい、アポロンは海上に突き出している、オリオンの頭に金色の光を吹きつけました。
そして、なにくわぬ顔でアルテミスのもとを訪れ、「いかにお前が弓の名手でも、あの波間に漂う金色のものを射抜くことはできないだろう」と言ったのです。
アルテミスは、弓と矢を手に取ると、その金色のものがオリオンの頭だとは知らず、見事それを打ち抜いてしまったのです。
やがて、波打ち際に打ち上げられたオリオンの亡骸と、その頭に突き刺さった自分の矢を見てアルテミスは、自分がオリオンを殺してしまったことを知ったのです。
アルテミスは嘆き悲しみ、自分が天の道を通る時に何時でも見える様にと、天に上げて星座としたのだと云われています。

続く・・・
2009/10/04

ギリシア神話の神々112(星座編)

<猟犬ライラプス・大犬座>

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 ギリシア神話では大犬座は、狩人オリオン (オリオン座) の連れていた猟犬であったとされていますが、もう1つ、世界でもっとも速いといわれた、猟犬ライラプスの神話が残されています。

 ポキス王デイオンの息子でケパロスというとても美しい青年がいました。
ケパロスの妻プロクリスも素晴らしく美しい女性で2人はとても愛し合っていましたが、ケパロスの美しさに横恋慕した女神が居ました。
曙の女神エオスです。

 エオスは、嫌がるケパロスを無理矢理さらって恋人としましたが、ケパロスが何時までも妻の事を口にするので、とうとう諦めて故郷に帰すことにしました。
しかしケパロスを帰す際、エオスは、「プロクリスは、あんなに美しいのだから、お前の居ない間に浮気しているに違いない」と姦計を回らしたのです。
妻の美しさを誰よりもよく知っているケパロスは、エオスの言葉に大いに不安をかき立てられたので、ケパロスは妻が心変わりしていないかどうかを確かめる為、エオスの力を借りて別の男に姿を変えると、旅人を装ってプロクリスの許を訪ねました。

 ケパロスは言葉巧みにプロクリスを誘惑し、そして金銀財宝の贈り物を見せました。
はじめは夫に操をたてていたプロクリスではありましたが、男の執拗な口説きについに折れてしまい、
受け入れてしまったのです。
するとケパロスは正体を現し、妻の不貞を責め、プロクリスは恥かしさと怒りで、そのまま家を飛び出してしまいました。

 プロクリスはその後、クレタ島にたどり着き、ミノス王の愛人となりました。
ミノス王は、プロクリスに狙った獲物を必ず捕らえる猟犬ライラプスと、狙ったものを必ず射止める槍を贈りました。
だがプロクリスはミノス王の妻パシパエの嫉妬を恐れて王と別れてクレタ島を離れ、ケパロスと再会し、和解のしるしにケパロスにライラプスと槍を渡しました。
それからケパロスは、ライラプスと槍を持って、国中を荒らしている狐を退治に出かけました。
しかし狐のあまりのすばしこさにライラプスの足でもなかなか追いつくことができません。
業を煮やしたケパロスが、槍を投げつけようとした時、この素晴らしい狐と犬が傷つくことを恐れた大神ゼウスが、ライラプスを天に上げ、大犬座にしたと云われています。

続く・・・

2009/10/03

ギリシア神話の神々111(星座編)

<冬空の7人姉妹・プレアデス星団・北米編>

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ネイティブ・アメリカン
 
その一
 昔、秋の夕暮れにインディアンの若者が、森の中を歩いている時、7人の美しい日の神の娘達が川辺で遊んでいるところへ出くわしました。
若者が隠れて覗いていると、空から篭が1つ下りてきて、娘達が篭に乗ると、見る見る天へ上って行ってしまいました。

 若者はあの娘達にもう1度会いたくて、来る日も来る日も川辺へ行って木陰から覗いていました。
そうする内に若者は、一番下の娘を愛するようになりました。
それである夜、木陰から姿を現して川辺に近づいて行くと、娘達は悲鳴をあげて下がってきた篭に飛び乗り、天へ帰ってしまいました。

 その後も若者は、毎夜川辺に行きましたが、娘達は姿をみせません。
そうしながら冬春夏が過ぎて、再び秋が巡ってきたときのある夕暮れ、7人の娘達が川辺に姿を見せました。
若者は今度はこっそりと忍び寄って、一番年下の美しい娘をつかまえ、彼女をどれ程愛しているかを訴え、妻になって欲しいと懇願しました。
 
 娘は若者の情熱に心を動かされて、妻になる事を約束しましたが、「それには一緒に下界を去って、天上の人とならなければなりません」と言いました。
それで若者は、下がってきたかごに7人の娘達と共に乗って天へ上って行きました。

 この7人の娘達がプレアデスで、若者はオリオンとなり、7人の娘達の1つがはっきり見えないのは、若者の妻となった娘で、 天の神は彼女が人間の妻となるのを好まず、姉達のように明るく輝かないようにしたと伝えられています。

その二
 ある星月夜に、インディアンの7人の子供達が森の中で手をつないで星の歌を歌いながら踊っていました。
すると、星が見惚れて目をパチパチさせたので、子供達は空へ上っていって、プレアデスになりました。
けれど、1人だけは下界を恋しがって泣いているので、その星だけはよく見えないのだといいます。

その三
 星となった子供達としての伝説は、もう1つ、ブラック・フットと呼ばれるインディアンに伝わる伝説があります。

 ある小さな部落に、とても貧しい家族が住んでいました。
その部落の男達は夏になると、長い冬に備えて肉や毛皮を蓄えて置くために、バッファロー狩りに出かけるのですが、 その貧しい家の父親は、辛うじて冬を過ごせる程度の肉は手に入れましたが、6人の子供達が楽しみに待っていた子牛の皮は1枚も手に入れることが出来ませんでした。
部落の他の子供達は、ぼろぼろになってしまった服を着ている貧しい家の子供達を見ては指をさして笑います。

 そして或る日、他の子供達に詰られる事をとても辛く思っていた6人の子供達は、とうとう部落から姿を消してしまいました。
そのようすを天上から見ていた精霊が、この哀れな6人を天上界にあげ、精霊の仲間に加えました。

 子供達が出て行った日の夕暮れ、村の人達も両親も、慌てて子供達を捜しましたが、子供達は一向に見つかりません。
そして、それから数日が過ぎたある日、村の人が夜空を見上げ、今までそこに見た事もなかった6つの星からなる星群が在る事に気がつきました。

 ブラックフットの人々の間では、その星群は6人の可哀想な子供達だと伝えられています。

続く・・・

2009/10/02

ギリシア神話の神々110(星座編)

<冬空の7人姉妹・プレアデス星団・南洋編>

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オーストラリア
 オーストラリアのアボリジニの人々は、プレアデスの上る時を元旦として「黒人達に親切な星」と言い伝えました。
 
 昔、7人の美しい娘が森の中を歩きまわって、ヤム芋を探しましたが、1日かかっても1本も見つかりませんでした。
娘達は手ぶらで帰って、殴られるのをひどく恐れました。
そこで先祖の霊の名を呼んで、助けて下さいと祈ると、霊は高い空から見下ろしていましたが、娘達を不憫に思い、 1人1人を星にしてやったのだと伝えられています。

ミクロネシア
 ミクロネシアでは、プレアデスをジュプロと呼びます。
島の母は、リゲダネル(ぎょしゃ座カペラ)で、長男はジュムール(さそり)、ジュプロは末っ子です。
リゲダネルの子供の星達が天から下りて、アイリンラブラブの島に住んでいる母を訪ねた時、兄弟が集まって相談し、誰でもこの島の東にある島に1番早くついた者を、星の王としようと約束しました。
そこで、皆急いで船出の仕度をしました。

 母リゲダネルは、まず長男ジュムールの船へ行って「乗せて欲しい」と言いましたが、持ち物が重く、船足が遅くなるのを嫌って断わりました。
それから兄弟達に頼みまわりましたが、皆母を乗せるのを断わりました。
でも最後にジュプロだけは快く、母をその七つ道具と共に船に乗せてあげました。

 船が水におりると、母はジュプロに品物を持ち込ませ、それをどこに置き、どこに取りつけるかを詳しく教えました。
これに手間取って、ジュプロは他の兄弟達より遅れて出発しましたが、不思議なことに船は飛ぶように進みました。
母の持ち込ませた道具は、その時まで誰も知らなかった帆具だったのです。
こうしてジュプロの船は、兄達の船をぐんぐん追い抜き、先頭のジュムールに近づいた時、ジュムールは長男の権威をふるって、 「船を明け渡せ」といいました。
ジュプロはしぶしぶ言うことを聞きましたが、母は船を渡すすきに、帆を支えていた柱を抜き取って海へ投げました。
 
 ジュムールはやむを得ず、自分の身体で帆を支えていった為、せむしになってしまいました。
そしてその間に、母とジュプロは島に泳ぎついて、約束通り星の王となりました。
ジュムールは遅れて島に着きましたが、怒って二度とジュプロに会わないと決心しました。
それでジュプロ(プレアデス)が東の空へ上れば、せむしのジュムール(さそり座アンタレス)は、急いで西へ沈んで行くのだと伝えられています。

インドネシア
 インドネシアでは、プレアデスを「タマンカバ」と言います。
「羽ばたく雄鶏」の意味で、顔がプレアデス、身体がオリオン、尾はおおいぬ座のシリウスです。  
他のインドネシアの言い伝えでは、タマンカバは酋長の名前で、ある時彼は天へ上っていましたが、下界へ下りる道が分らなくなりました。
道を尋ねると、「二又に分かれた道に出たら左へ行けばよい」と教えられましたので、その通りに行ってみると木の枝が橋になっていて、ひどく揺れて渡ることができません。
それで後戻りして、右の道を行ってみると、プレアデスのところへ出ました。

 そこの住民はタマンカバに農作の事を教えてくれました。
やがてある日の事、タマンカバが高い所へ登ってみると下界の家が見えたので、急いで飛び下りました。
それからタマンカバは、天上で教えてもらった農作の方法を土地の人達に伝えると、「私は7日たったら石になる」と予言し、7日後予言通りになりました。
それ以来、プレアデスのことをタマンカバと呼ぶようになったと伝えられています。

続く・・・