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2009/11/30

歴史の?その55

<ギリシアとその文化>

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 ギリシア人は、紀元前2000年からバルカン半島を南下し、エーゲ海文明に接し、この文化を吸収してミケーネ文明を創り出しました。
其れから、更に紀元前1200年頃、新たに南下して来た、同じギリシア人であるドーリア人によって、ミケーネ文明は征服破壊されてしまいます。
ドーリア人達は鉄器を使用していたものの、未開の民族で、この後一時期ギリシアには、文化らしきものは存在せず、“暗黒時代”に入ってします。
しかし、彼等は、その中から全く新しい優れた「ギリシア文化」を創造していきました。

 ギリシア人は、「都市国家(ポリス)」と呼称される特殊な国家形態を形成し、是は小さな自治独立国家で、その数は地中海周辺に数多く分布し、そのポリスの中で代表的なものは、イオニア人の「アテネ」とドーリア人の「スパルタ」です。
アテネは、文化的な民主制の海軍国、スパルタは、極端な強兵制度を採用した寡頭政治の陸軍国でした。

 紀元前6世紀中葉から、次第に大帝国に変貌していったペルシャは、紀元前5世紀初頭、ギリシアに侵略を開始(ペルシャ戦争)します。
ギリシアのポリスの中には、刃を交える事無く、ペルシャの軍門に下ったものも在りましたが、アテネ、スパルタ両軍は、頑強にペルシャに抵抗し、殊にアテネは「マラトンの戦い」(陸戦)と、「サラミスの海戦」でペルシャ軍を撃破し、ギリシア第一の強国と成り、「デロス同盟」の盟主として他のポリスを従えて、繁栄の絶頂期を迎えます。
この時代、アテネには、パルテノン、エレクティオン等の神殿や、劇場、公共施設が建造され、学問、芸術の中心として多くの、哲学者、芸術家を輩出します。

 しかし、アテネの繁栄に対して、スパルタは、紀元前431年アテネに侵攻し、ペロポネソス戦争が勃発します。
スパルタは、この戦いに勝利したものの、その栄華は長く続く事は無く、ギリシアのポリス同士がその勢力を競う中、北方のマケドニアが国力を増大させ、その王ピリッポスの時代、全ギリシアは征服統治されてしまいました。
ピリッポスの子、アレクサンドルはギリシア軍を率いて、アジアに遠征を繰り返し、大帝国を築き上げます。
彼が征服地に建設した、ギリシア風のポリスは、ギリシア文化を東方に伝える中心地と成り、その中のでもエジプトのアレクサンドリア(アル・イスカンドリア)は、現在でも地中海の重要な貿易港として、繁栄しています。

内容紹介
歴史の?その12 アトランティス
歴史の?その13 マラソン競技の起源
歴史の?その14 泣き出したカリアテッド
歴史の?その15 消えたスパルタの勇士
歴史の?その16 二千年前の自動扉

先の記事で、ほんの数行紹介しました”シナントロプス・ペキネンシス”化石の行方不明事件に関して、多くの皆様から質問を受けました。
後日、改めて、歴史の?に加えたいと思います。
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2009/11/29

歴史の?その54

<エーゲ海文明>

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 「光は東方より」と言いますが、メソポタミア、エジプト等に人類の文明は、開闢します。
その“東方”即ちオリエント文化の影響を受けて、小アジアとギリシアとの間に位置する、エーゲ海沿岸とその島々にも、紀元前3000年頃から、独自に文化が生れました。
是を「エーゲ海文明」と呼んでいます。

 この「エーゲ海文明」は長期に渡り、その存在そのものが忘れられていましたが、19世紀の終焉近く、ハインリッヒ・シュリーマンがトロイア、ミケーネ等の遺跡発掘調査を行い、多数の黄金製品を発見してから、その存在を改めて私達は、知る事ができる様に成りました。

 「エーゲ海文明」は“前期”と“後期”、二つの年代に分ける事が出来、“前期”は「クレタ文明」又は「ミノア(ミケーネ)文明」と呼ばれています。
エーゲ海の南部に位置するクレタ島のクノッソスに君臨した“ミノス王”が当時、エーゲ海一帯を統治していた事に由来する名称です。

 イギリスの考古学者 アーサー・エヴァンズは、20世紀初頭に、クノッソスの王宮跡を発掘調査し、クレタ文明の栄華を私達に伝えてくれました。
クレタ文明の最盛期は、紀元前1800年から紀元前1400年頃とされていまが、その後突然クレタ文明の中心で在ったクノッソスが滅び、新しくギリシア本土のミケーネ、ティリンス、ピュロス等に文明の中心が移動します。
是等ギリシア本土で、開花した文明が“後期”に属する「ミノア(ミケーネ)文明」なのです。

 ミノア文明もクレタ文明と、類似した文明なのですが、前者が小アジア系人種(詳細は現在も不明)ですが、後者はギリシア系人種による文明でした。
ギリシア系民族は、紀元前2000年頃から、バルカン半島を南下し始め、紀元前1400年頃クレタ文明を滅亡させたのですが、当時彼等は、文化的に未開で在ったので、先行するクレタ文明を模倣して自分達のものとしました。
その為“前期”と良く似ていることから、この二つの文明は総称して「エーゲ海文明」と呼ばれています。

 ミノア文明は、紀元前1200年頃新たに南下して来たギリシア系ドーリア人によって征服され滅亡します。

内容紹介
歴史の?その11 ミノタウロス
歴史の?その12 ミノア文字
2009/11/28

歴史の?その53

<中国文明の夜明け>

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 私達は、中国文明の起源を考えた時、最古の人類の一つである“シナントロプス・ペキネンシス”(北京原人)の事を連想します。(決して、古い香港映画の様な巨大類人猿では在りません)
その頭骨は、1929年、北京郊外周口店の洞窟から発見されました。
勿論、20世紀における、人類史の上でも最大の発見の一つに違い有りません。

 処が、この貴重な頭骨も、大東亜戦争の開戦に際して、何れかに運び去られ、現在に至る迄行方不明になっています。
当時、大陸に侵略を開始した、日本軍若しくは、関係者によって如何なる処置を取られたのか、北京原人は、その発見時から多くの謎を持ったまま、消滅してしまいました。

 処で、北京原人の発見に先立つ30年程前、1899年には、もう一つ大きな発見が成されました。
是が、甲骨文字であり、中国最古の文字として、殷の時代に占いの為、亀の甲羅や獣の骨に刻まれた文字なのです。
是より、甲骨文字の研究が進み、同時に甲骨文字の出土する遺跡、即ち殷墟の発掘調査が大規模に進められる事と成りました。

 太古の中国には、夏・殷・周という三代の王朝が存在したと、伝えられます。
殷は、17世、29代、500年存続して、周に滅ぼされ、殷・周の交代は、西暦紀元前11世紀の半ば頃と推定されています。

 以後紀元前3世紀の後半迄、周の王朝は存続しましたが、その栄華は300年間に過ぎず、紀元前770年、其れまで鎬京に都を置いていた周王朝は、西方からの異民族の進入により洛陽に遷都し、以後周王朝の勢力は衰退し、諸侯は自立の勢いを増す、春秋戦国時代と成って行きます。

 更に紀元前5世紀には、勢力を拡大する諸侯の勢いは衰えず、群雄割拠の世相となって当に、戦国乱世の時代と成りました。
孔子をはじめ多くの思想家が現れたのも、春秋・戦国時代の特徴ですが、思想家達の伝記には、不明な点も多いのですが、その中で実在したのか?架空なのか?論議を呼び起こしている人物が老子で、孔子と並んで、後世の人々に最も親しまれている人物も又、老子なのです。

内容紹介
歴史の?その8  夏王朝は実在したか
歴史の?その9  殷王墓の怪奇
歴史の?その10 老子とは、如何なる人物だったのか
2009/11/27

歴史の?その52

<大河文明>

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 人類が野獣を狩猟し、木の実、草の根等を採集して生活していた間は、もちろん、獲物を追って移住していました。
やがて人類は、牧畜や農業を営みはじめましたが、一箇所に定住する事は、中々できませんでした。
牧畜を行う為には、牧草のある場所を探してして移動し、農業も同時期に始まりましたが、未だ肥料を与える概念が存在しなかったので、地味が痩せると、他の場所へ移動せざるを得ませんでした。

 農業には、水が欠かせません。
その為、農業を行う人々は、次第に河川の流域に集まり、川は時として洪水等の被害をおよぼしますが、一方では上流から新しい泥を下流へと運び、肥料を与える事は知らずとも、毎年上流から、新しい泥が運ばれてくる為、この様な場所では、一箇所に定住する事が可能となり、移住の必要が無くなりました。

 人類が最初に定住農耕を始めたのは、メソポタミア北部と云われ、其れは紀元前6000年頃と推定されています。
定住する様になれば、建物や道路、又道具等も作られる様に成り、大河の流域にまず文明が生れる事と成りました。
ティグリス・ユーフラテス川(メソポタミア)、ナイル河(エジプト)、黄河(中国)、インダス川(インド)の流域等に早くから、金石併用文化が発生したのは、上述の様な理由からでした。

 しかし、これ等の地域では、洪水を防ぐ為に堤防を造り、灌漑用の運河を掘削する必要が在り、当時の人々は、人力を合わせて、大規模な土木工事を遂行しました。
又その為には、強力な指導者が必要で、これら地域には、絶大な権力を持った専制的統治者が発生する事が、普通でエジプトは、ナルメル王の基に統一され、第一王朝の開闢は、紀元前3000年頃であり、サルゴン王による、メソポタミア統一は、紀元前2300年頃と云われています。

内容紹介
歴史の?その3・4 ナイルの水源を求めて
歴史の?その5・6 ファラオの呪い
歴史の?その7  モヘンジョ・ダロ
2009/11/26

歴史の?その51

<先史時代>

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 研究者によって、諸説有りますが、私達の存在している地球に、人類の祖先にあたる生物が、初めて誕生したのは、今から30万年から50万年程以前であると言われています。
これら生物の根源となる生命が、地球上に登場したのは、8億年も以前の事と云われていますから、人類の歴史は、地球規模で見た場合、まだ始まったばかりと言えるかも知れません。

 特に人類の直接の祖先であると云われる「現生人類:ホモ・サピエンス」が、地球上に現れたのは、今から2500万年程前ですから尚更と思います。

 地球の気候は、度々変化し、「氷河期」と「間氷期」を3回乃至4回繰り返していますが、「現生人類」の祖先であるクロマニヨン人は、第4氷河期の終わり頃、現在のヨーロッパに広く分布して、生活を営んでいました。
気候の関係から、彼らは、洞窟に生活して、寒さをしのぎ、又野獣から身を守りました。

 クロマニヨン人は、石を使用した道具、「打製石器」を使い、この時代を総称して、「旧石器時代」と呼ばれ、彼らが生活した洞窟や岩陰には、それ等石器類の他、野獣や生活の一部分を絵として残します。
是が現在、ヨーロッパに広く点在する「洞窟壁画」と呼ばれるものです。

 氷河期が終焉すると、人類は洞窟から出て、水場の近くに生活圏を移し、生活に伴う技術は進歩し、石器も表面を研磨した「磨製石器(新石器)」に変わり、粘土から土器を作る事も覚えました。
又、彼らは一箇所に集合して定住する様になり、石を使用した建造物を造営する様になります。
ヨーロッパの海岸地帯、特に北フランスのノルマンジー地方から、ドーバー海峡を挟んだ対岸のイギリス一帯に、この様な巨大石造物の遺跡が点在し、これらを「巨大記念物」と呼び、最も有名な物に、イギリスの「ストーン・ヘンジ」が在ります。

内容紹介
歴史の?その1 洞窟絵画
歴史の?その2 ストーン・ヘンジ
2009/11/25

歴史の?その50

<アドルフ・ヒトラーの最後・後編>

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 ソビエト軍に包囲された、ベルリンは当に陸の孤島でした。
1945年4月29日、アドルフ・ヒトラーは、盟友ベニト・ムッソリーニ死亡報告を受けます。
その時、彼はベルリンに在る総統官邸の地下防空壕に踏み止まり、戦闘指揮を続けていました。
しかし、ベルリンはソビエト軍によって、殆んど制圧占領され、戦闘の勝敗は既に絶望的な状況でした。

 その日、ヒトラーは、愛人エヴァ・ブラウンと結婚式を挙げ、明けて4月30日、彼は側近の者を集めて昼食の後、その会席者一人一人と握手を交わして、別れを告げます。
その後、ヒトラーは自室に入り、後にエヴァ・ブラウンが続き、間もなく一発の銃声が轟きました。
ヒトラーは、ピストルにより自殺を遂げ、エヴァは毒薬を飲んで、彼の側で事切れていました。
銃弾は、ヒトラーの口から、頭部を貫通しており、ソファと背後の壁は、紅く染まっていたと云われています。

 ヒトラー夫妻の遺骸は、総統官邸の庭で、180リットルのガソリンをかけて荼毘に伏されました。
その時、既にソビエト軍の先遣部隊は、総統官邸の直ぐ近く迄接近しており、機関銃弾や砲弾は、標的を誤らずバラバラと官邸周辺に降り注ぎます。
その極めて危険な状況の中で、夫妻の火葬は遂行されたのでした。
ヒトラーはムッソリーニの悲惨な死に様を聞き、昔から独裁者の最後を知っていた彼は、自分の遺骸を跡形も無くする事で、はずかしめを受けない事を望んだのだと思います。
そして、後継者カール・デーニッツ元帥は、ヒトラー総統の戦死を発表するのです。

 1945年5月2日、総統官邸を占領したソビエト軍は、即座にヒトラーの遺骸を掘り返します。
官邸の庭には、ヒトラー夫妻以外にも、爆撃や戦闘で死亡した多くの将兵の死体も在りました。
総統官邸占領直後、その管理は、ソビエト軍からソビエト情報機関の手に移り、以後連合軍がベルリンに入城した時は、総統官邸に残された物は殆んど無く、内部情報は殆んどソビエト情報部によって持ち去られた後でした。
さて、占領直後から、ソビエト情報部は、ヒトラーの歯科医や技工士を拘束し、ヒトラーの遺骸を確認し、是をモスクワに送ります。

 しかし、時のソビエト連邦最高指導者 ヨゼフ・スターリンは、自ら“最悪の宿敵”と称したアドルフ・ヒトラーの死亡を信じておらず、その為も有ってソビエト連邦政府は、ヒトラーの死亡確認を公表せず、又ヒトラーの遺骸の所在は、現在でも発表されていません。
第二次世界大戦終結後、西ドイツ首相アデナウワーは、最高裁判所にアドルフ・ヒトラーの死亡確認書を発行させ、亡き総統の失われた遺骸の埋葬という行事を挙行しましたが、ヒトラーの遺骸が旧西ドイツ側に存在する訳では有りません。
現在においても尚、熱狂的なヒトラー崇拝者が存在している以上、現ロシア政府も発表を躊躇い続ける理由の一部ではないでしょうか?

 20世紀末、ヨーロッパの社会主義国家群は、その社会体制の激動激変期を迎え、ソビエト社会主義共和国連邦も民主化の要求に屈し、独立国家共同体と成った現在、アドルフ・ヒトラーの最後は、ローパーの著作のお陰で判明しました。
しかし、近年でも元ナチスの高官がアルゼンチンで逮捕された事例も存在し、第二次世界大戦当時中立国であった、フランコ総統統治下のスペインに、逃亡した事例も多々存在する事から、戦争末期のヒトラー生存説は根強く、是に拍車を掛けるように、遺骸の場所すら公表されない事も何時しか、アドルフ・ヒトラーを伝説中の人物にしたのではないでしょうか?

先史時代から、色々なエピソードを都合50回に渡って、紹介してきました。
人物、事柄に的を絞った記事は、今回で取り敢えずお仕舞いです。
明日から、各時代を総括した、記事を載せていきたいと思います。
もうしばらく、お付き合い下さい(^^)。
2009/11/24

歴史の?その49

<アドルフ・ヒトラーの最後・前編>

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 1945年4月、第二次世界大戦も終結に近づいていました。
4月27日には、ファシスト共和国首相 ベニト・ムッソリーニが逃亡先のコモ湖畔で、パルチザンに逮捕され、ミラノ市に連行、即日銃殺刑に処された後、その広場で、愛人のクララ・ぺタッチ他数人の側近と供に逆さまにつるされ、多くの人々から屈辱を受けました。
この姿は、映画フィルムに納められ、現在でも見ることができます。

 しかし、この同じ月の30日午後に自殺した、ドイツ第三帝国総統 アドルフ・ヒトラーの死に関しては、曖昧な点が数多く存在し、その死亡を疑う研究者は、現在でも存在します。

 第二次世界大戦が終結した、1945年秋の段階でも、ヒトラーの戦死説、暗殺説、航空機、潜水艦による逃亡説が流布し、バルト海の孤島への逃亡、スペインの修道院、南アメリカの農場等、諸説紛々になる程、彼の最後の状況は、解かり難いものでした。

 1945年、ベルリン陥落迄の経過を、簡単に示すと以下の様になります。

 1945年1月20日、赤軍は東プロイセンに侵入、初めてドイツ領内へ進撃し、同年4月16日に開始された、ベルリン侵攻作戦により、ドイツの生命線と言われた、オーデル川・ナイセ川線、更にゼーロウ高地を突破され、同年4月25日、ドイツ第三帝国の首都ベルリンは、ゲオルギー・ジューコフ元帥指揮下のソビエト軍に完全包囲されました。
陥落は時間の問題と思われましたが、これを守備するドイツ国防軍、武装親衛隊やヒトラーユーゲントの頑強な抵抗に遭遇し、ソビエト軍は市街地の建物を一つ一つ制圧するような形で、侵攻せざるを得ませんでした。

 5月2日、ドイツ軍のベルリン防衛軍司令官ヘルムート・ヴァイトリングの降伏により、ベルリンはソビエト軍によって制圧され、ライヒスタークに赤旗が翻り、ソビエトは正式にベルリン占領を発表、ここにドイツ第三帝国は崩壊し、ヨーロッパの戦いは終結します。

 ヒトラーの後継者、カール・デーニッツ提督は、ヒトラーの戦死を発表したものの、この後死亡報道が二転三転し、ソビエト側の死亡疑問⇒死体発見・解剖と歯型鑑定⇒イギリス亡命説と混乱を呈します。

 イギリス軍情報部とアメリカ軍情報部は、協力体制を取り、ヒトラー死亡の真相を調査にあたります。
この中心人物が、歴史学者で、当時イギリス軍情報部に勤務していた、トレヴァー・ローパーでした。

 ローパーは、1945年4月30日、ヒトラーの死に至る時迄、彼の側に居合わせた人々を入念に調査し、彼らからの聞き取り調査を繰り替えし、ヒトラーの最後を克明に知る事ができました。
ローパーは後に、この時の調査結果を「ヒトラー最後の日」と題して出版し、我国でも翻訳された事から、私達は、1945年4月30日ドイツ第三帝国総統官邸における、ヒトラーの最後の様子を知る事ができます。

以下後編に続く・・・
2009/11/23

歴史の?その48

<追想・アナスタシア>
私の大好きな映画のタイトルを拝借しました(^^)。

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 1917年2月、第一次世界大戦は、終息に近づいていました。
ロシア帝国の首都、セントペテルスブルグでは、食料が極めて不足し、労働者による示威行動が頻発するように成り、これ等が引き金に成って「二月革命」が起こります。

 その結果、3月2日には皇帝ニコライ二世は退位します。
人民は、パンと土地を求めて蜂起したのですが、臨時政府はその何れも与える事が無かった為、終に10月24日、後に云う「十月革命」が勃発、社会主義国家である、ソビエト政府が誕生しました。

 皇帝一家(皇帝ニコライ二世、皇后アレクサンドラ、皇太子アレクセイ、第一王女オリガ、第二皇女タチアーナ、第三王女マリア、第四皇女アナスタシア)は、「二月革命」の後、ツァールスコエ・セロのアレクサンドルスキー宮殿に軟禁状態に置かれていました。
皇帝ニコライ二世は、臨時政府の皇帝一家イギリス亡命計画に否定的で、ロシアに留まる決意をしていましたが、当時のイギリス政府は、この計画に賛同し、巡洋艦の派遣を打診していました。

 しかし、亡命が実現しない間に、事態は皇帝一家に対する憎悪が増大する一方となり、首都セントペテルスブルグ近郊では危険な為、8月14日に西シベリアのトボリスクに移送されます。
本来、ロマノフ王朝時代の流刑地であるシベリアに、皇帝一家を送る事で、民心の憎悪を少しでも軽減する計画で有ったと思われます。

 トボリスクはシベリアで、最も古い街の一つですが、当時はさびれて人口2万5千人余り、人身の混乱が沈静化するまで、この様な辺ぴな場所に皇帝一家を静に暮らさせ様とする、臨時政府の計らいでした。
事実、皇帝一家は、監視付きではあるものの、家庭生活を楽しむ事もでき、当時の写真も残されています。

 しかし、「十月革命」以後皇帝一家に対する扱いは、次第に悪化し、更に先の亡命計画も表面化し、民心の更なる悪化を理由に、1918年4月30日、ウラル州エカテリンブルグへ移送され、皇帝一家は、イパーチェフと云う技師の家に監禁されました。

 その頃、チェコ軍を中心とした白軍(反革命軍)の勢力が、日増しに増大し、エカテリンブルグでも労働者を徴兵して部隊を編成し、戦線に送っていました。
白軍の勢力は、増大する一方で、エカテリンブルグに迫り、市内の皇帝派も是に同調するように成ります。

 この様な事態に至り、ウラル州ソビエト(地方政府)は会議を招集、一切の裁判無しに、皇帝一家を抹殺する事を決定してしまいました。
是は後に、中央ソビエト政府の指示とも、ウラル州ソビエトの暴走とも伝えられ、現在でも決着していません。

 1918年7月16日の深夜、皇帝一家は突然起こされ、「市内に暴動が起こっているから、安全な所に移った方が良い」と言われ、一家は身支度をし、侍医、調理人、女官、小間使いを連れて、半地下室に成っている1階に集まりました。
其処で、合計11人の皇帝一家と関係者が銃殺されます。
時にニコライ二世50歳、アレクサンドラ46歳、アレクセイ14歳、オリガ23歳、タチアーナ21歳、マリア19歳、アナスタシア17歳でした。

 その後、皇帝一家の生存説は、実しやかに伝えられるのですが、第二次世界大戦の終結後、アナスタシア姫(アナスタシア・ニコライブナ)を自称するアンダーソンと名乗る女性が現れ、ハンブルグの裁判所に、身分確認の訴訟を起こします。
彼女曰く、「あの虐殺時、彼女だけは運良く命が助かり、その後各地を転々として、最後はドイツの村にひっそりと生活していた」と云います。
ロマノフ王朝は、スェーデン王室をはじめ、ヨーロッパの主要王室と親類関係に在りましたので、この事件は当時世間の話題と成りました。

 更に彼女が、真実のアナスタシア姫で在ったなら、ニコライ二世が彼女の為に、イングランド銀行に預金されていた、1千万ポンド(その後利子が付き、現在で如何なる金額になるか不明)が、アンダーソンと名乗る女性のものと成る為、より一層関心を呼び、映画化(「アナスタシア:邦題・追想」ユル・ブリンナー、イングリット・バーグマン競演)迄されました。

 裁判の結果は「証拠無し」として却下され、彼女はその後も新たな証拠を提示しましたが、結果的には敗訴に終わっています。
身の危険を感じ、1950年頃迄、沈黙を守ってきたと解釈する事もできますが、「なぜ?」と疑問を提示せざるを得ない事件でした。

 皇帝一家の処刑は、短時間且つ極めて合理的に実行され、銃殺後あらためて一人一人に拳銃による留めをさした後、死体を硫酸とガソリンで殆んど何も残らない様に処理し、鉱山の廃坑に遺棄しています。
近年、問題の廃坑から、遺骸の一部と衣類の断片が発見され、ロシア政府は公式に皇帝一家のものである事が証明されました。
この様に徹底した“処刑”を遂行した人々が、王女一人を見逃す事は、考え難いと思います。

続く・・・

PS:個人的に映画のアナスタシアは、本当に素晴らしい作品と思います。
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2009/11/22

歴史の?その47

<サラエヴォの悲劇>

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 第一次世界大戦は、「サラエヴォの悲劇」から始まりました。
この事件は、時のオーストリア・ハンガリー帝国皇太子夫妻暗殺であり、皇太子フランツ・フェルディナンドと大公妃ゾフィアは、ボスニアで行われた陸軍大演習を視察した後、サラエヴォ市の歓迎行事に出席しました。
1914年6月28日、この日は偶然にも夫妻の結婚記念日でもありました。

 良く晴れた日曜日、夫妻は市役所に向かって川沿いのアッペル・ケイ通りを自動車で通過していた時、暗殺団の一人、チャプリノヴィッチが小型の手投げ弾を皇太子の自動車に向かって投げました。
手投げ弾は、皇太子の乗った自動車の幌の部分に当り、道路に落ちそこで爆発し、皇太子は何事もなく、大公妃は少々の掠り傷を負ったものの大事には至りませんでした。
しかし、隊列後部の自動車に乗っていた女官や、沿道に居合わせた市民の中には、重症者も出て辺りは騒然と成りましたが、皇太子は落ち着いて「狂人のやった事だ、さあ行け」と運転手に命じたと伝えられています。

 犯人のチャプリノヴィッチは、用意していた毒薬を飲むと川に飛び込みましたが、毒薬は古くて薬効が無く、川には生憎水が少なく、泥の中でもがいている内に警官に取り押さえられます。

 市役所での歓迎行事が終わった後、随員は、今後一切の予定を取り止め、宿舎のイリッジェ城に帰る事を進言しましたが、ボスニア知事は「同じ日に暗殺を企てる者があるはずは無い」と言い張ります。
皇太子は予定の民族博物館行きを中止し、先の爆弾事故で負傷した人々を病院に見舞おうと申し出ます。
その為、予定のフランツ・ヨーゼフ通りを通過せず、もう一度アッペル・ケイ通りを通る事に成りましたが、何故か皇太子乗車の運転手には、行き先の変更が伝わっていませんでした。

 経路の変更を知らされていない運転手は、当初の予定通りアッペル・ケイ通りからフランツ・ヨーゼフ通りに曲がろうとした時、ボスニア知事が「違うぞ!止まれ!」と叫び自動車は速度を緩めました。
当にその時、二発の銃声がおこり、皇太子の首と大公妃の腹部に弾が命中しました。
病院に着くと間もなく、大公妃が死亡し、暫くの時間を空けて、皇太子が死亡しました。

 この時の犯人プリンチップもその場で、取り押さえられ、先の犯人チャプリノヴィッチ共々、警察で厳重に調べられた結果、彼らはセルビアの暗殺団員で在る事が判明し、25人もの関係者が逮捕されます。

さて、ここ迄読んで来た皆さんには、この事件の発生から終結迄、不可解な事例が多い事に気づかれたと思います。
1、暗殺未遂事件が発生したにも関わらず、何故か、それ以降の行事を中止しなかった事。
2、暗殺未遂事件発生以後も、何故か、拳銃を持ったプリンチップが逃げずにその現場近くに居た事。
3、プリンチップは、皇太子の行事予定変更を知らなかった筈なのに、都合の良い場所で狙撃できた事。
4、暗殺未遂事件が発生したにも関わらず、警察は警備をより厳重にしなかった事。
5、皇太子の運転手は、何故か、行き先変更を知らされていない事。
6、最後に、この暗殺を計画した「蜂・ピアス」と呼ばれたデミトリエヴィッチ大佐は、計画中止を決定していたにも関わらず、何故実行されてしまったのか?
単に偶然では済まされない、何かが有るような状況と思います。

 しかし、戦争は“偶然”が重なって勃発する事が良く有るようです。
第一次世界大戦も、第二次世界大戦もその様な傾向を予見させます。

 この事件で、オーストリア政府がセルビアに突きつけた最後通告を、セルビア政府は相当に無理な条項が存在しても、受け入れる事としていました。
しかし、10ヶ条の要求に内、第6条に「暗殺犯人とその一味の裁判の為、調査にオーストリアも協力させよ」という条項が在り、セルビアはこれを「裁判に協力させよ」という意味に解釈し、それは憲法違反になり、受け入れられないと拒絶します。
処が、それは通告文書がフランス語で書かれていた為の解釈間違いで、「裁判の為の調査にセルビアも協力する事」をオーストリア政府が要求したものであって、裁判そのものに干渉する意思は有りませんでした。

続く・・・
2009/11/21

歴史の?その46・序文

<二つの世界大戦>

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 18世紀後半、イギリスでは、紡績機等の機械が次々に発明、動力化が行われ、所謂「産業革命」が起こり、やがて各国に波及し、その結果として、資本主義は発展して行きます。
19世紀末には、資本主義の発展した国々は、製品の市場、原料の供給地としての植民地を求めて、争って海外に進出して行きます。
この傾向を「帝国主義」と言います。

 この植民地をめぐる、帝国主義諸国の利害の対立は、終に「サラエヴォの悲劇」を発端として、「第一次世界大戦」(1914年-1918年)が勃発し、イギリス、フランス、ロシア、セルビア、日本等の連合国とドイツ、オーストリア、後にトルコ、ブルガリアの同盟国に世界の主要国は、分かれて対峙し、戦いは、連合国側の勝利に終わります。

 この連合国の内、ロシア(帝政ロシア)は、当時農業主体の国家で、市民階級が十分に発展せず、皇帝による専制政治が行われており、日露戦争の敗北(1905年)以来、専制政治に対する国民の不満が増大して行きます。
第一次世界大戦が勃発した時には、一時的に革命的機運も押さえられたものの、ロシアは敗戦が続き、食料を中心とした物資が著しく欠乏、終に1917年「二月革命」が起こり、皇帝ニコライ二世は退位し、ここにロマノフ王朝のロシア支配は終焉を迎えました。
続く「十月革命」によってロシアは、連合国から離脱し、1922年ロシアは「ソビエト社会主義共和国連邦」と国名を改め、世界最初の社会主義国家(国家群)と成ります。

 第一次世界大戦後、後進の資本主義国家である、ドイツ(ワイマール共和国)、イタリア、日本(大日本帝国)の所謂「持たざる国」は、「枢軸」と称して互いに同盟関係を締結し、アメリカ、イギリス、フランス等の「持てる国」に対抗します。
やがて、「持たざる国」は、アドルフ・ヒトラー、ベニト・ムッソリーニを指導者として、全体主義的体制に移行し、軍備を拡張(再軍備を含む)、対外侵略行動を強行します。

 1939年9月、ドイツ軍のポーランド進行に対し、イギリス、フランスは宣戦を布告、それ以前から戦時体制にあった、アジア地域を巻き込み、1941年12月、日本が、アメリカ、イギリスと戦闘状態に突入、此処に「第二次世界大戦」が勃発し、1945年5月ドイツ降伏、同年8月日本降伏により、枢軸国の敗北が決定し、第二次世界大戦は、終結しました。

続く・・・
2009/11/20

歴史の?その45

<清朝の黄昏>

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 1875年1月(明治8年)、清朝の同治帝は、20歳の若さで崩御、子供も無く、死亡原因は、天然痘と発表されたものの、様々な風説が飛び交います。
先帝である、咸豊帝が1861年に崩御した際、皇后(東太后)には実子が無く、そこで妃の子供である同治帝が即位したのですが、其の時、同治帝僅かに6歳、東太后と西太后が供に並んで摂政と成りました。

 東太后は、大人しい女性で、政治上の野心も無い一方、西太后は、才気有る女傑で、この様な人物が並び立てば、権力は自ずと、西太后に集まるのは、成り行きです。
しかし、同治帝の皇后は、東太后の推挙した女性で在り、西太后は、同治帝が皇后と仲睦まじくする事を好みませんでした。
やがては、実子たる同治帝さえも、うとんじる様に成りました。

 その様な空気の中、皇帝は崩御、懐妊中の皇后は自害、良からぬ噂が飛び交っても其れは、致し方の無い事です。
皇帝崩御の当日、西太后は、宮中に人を集め、次なる皇帝を決めてしまいます。
その人物が、光緒帝で、西太后の妹の子で、年齢僅かに5歳、再び両太后が摂政する事が同時に定められました。

 其れから6年後、東太后は急死。
この時も毒殺との風説が、宮中に湧き上がったものの、真偽の程は定かではなく、権力は西太后の一身に集まりました。

 光緒13年(1887年)、皇帝も成年に達し、西太后の摂政を止め親政する旨が、公表されます。
しかし、西太后の権力は、衰える処を知らず、光緒帝自身も重要な政務には、その都度、西太后の指示を仰がなければ成りませんでした。
その上、皇后も西太后の姪を押付けられる形になり、青年皇帝の不満は、増える一方でした。
やがて、西太后やその側近に反対する勢力は、自ずと光緒帝の下に集まり、太后派と皇帝派の権力闘争は、次第に表面化して来ます。

 その爆発が、戊戌の政変(1898年)で、光緒帝は少壮の官僚を当用して、諸政策の刷新を断行します。
親政が現実に開始されたのですが、勿論、西太后や旧保守派の側近達の反動は、日増しに激しさを増して行きます。
終に皇帝派は、最後の手段として、軍閥の首領たる袁世凱を味方に引き入れ、西太后派を打倒すると供に、西太后本人を政権の座から、永久に隔離しようと考えました。

 しかし、袁世凱は皇帝の密旨を受けると、そのまま西太后の下へ走り、直ちに西太后は、勅令は発し、皇帝派を一斉拘束、処刑してしまいます。
光緒帝も幽閉の身と成り、西太后は三度、摂政の地位に就き、この後の皇帝は正しく、名前ばかりの皇帝で在り、全ての政令は、西太后から発せられました。

 光緒34年(1908年)、明治41年、前年秋から光緒帝の病が伝えられていましたが、西太后も又、大病の床に臥し、既に74歳の高齢と成っており、もし、西太后に万一の事が有れば、皇帝の親政が復活するのでしょうか?
この時迄、西太后の側近として、権力を謳歌して来た官僚達の運命は、如何なる事になるのでしょう?

 病床の西太后は、最後のそして重大な決定を下します。
1909年11月13日、皇太子として当時3歳の愛新覚羅・溥儀が指名を受けます。
光緒帝にも実子が無く、其処で、皇弟の醇親王の子を立てるという次第でした。
溥儀は、宮中に入り、醇親王は摂政王たるべき事も命じられたその翌日、光緒帝は崩御、更に翌日には、西太后も逝去し立て続けの悲報が、宮中を震撼させました。
今回の皇帝崩御に際しても、殺害の風説が宮中に渦巻きます。

 溥儀が清朝最後の皇帝、宣統帝で在り、後に大日本帝国の傀儡国家、満州国初代皇帝に成った事は、現在でも良く知られています。
溥儀の回顧録に以下の様な一節が有ります。
「光緒帝は崩御する前日迄、体調良く元気であった。処が、薬を一服飲んだとたん、症状が一変したと云う。その薬は、袁世凱がよこした物だった」。
「病気は、普通の感冒だった。宮中の人々は、皇帝の容態が重いとの知らせを聞いた時、皆不思議に思った。更に不思議な事に、容態が重いと知らされてから、4時間と経たない間に、崩御の知らせを聞いた」。
以上 “我が半生 上巻”より

 薄幸の皇帝、光緒帝は、本当に病に倒れたのでしょうか?
或は、同治帝や東太后と同様に、西太后の手に掛かってしまったのでしょうか?
しかし、この頃、清朝の命脈も当に尽き様としており、1912年2月、宣統帝は退位し、此処に清朝は事実上滅亡しますが、その水面下で暗躍した人物が、軍閥の巨頭袁世凱で在り、清朝の国務総理大臣と成りながら、一方では、国民党と手を結び、清朝打倒の後には、中華民国政府の初代大統領に就任する事と成ります。

続く・・・
2009/11/19

歴史の?その44

<建文帝の行方>

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 「世おのづから数といふもの有りや。有りといへば有るがごとく、無しとなせば無きにも似たり」。
幸田露伴の名作「運命」(大正8年)の冒頭の文書で、ここで露伴が描こうとした題材は、中国明帝国の歴史の一コマでした。

 かくて露伴は・・・
「運移り、命あらたまるの時、多くは神異ありて、天意の属するところあるを示すものあり」。
明帝国を建国したのは朱元璋、即ち太祖洪武帝であり、平民から将軍となり、モンゴル人の元を打倒して、漢民族の中国を回復し、時に1368年、現在の南京に於いて皇帝の位に就きます。
その治世は31年の長きにおよび、1398年病を得て崩御、71歳でした。
長男は、早くに亡くなっていたので、その子供、皇太孫が帝位を引継ぎ、第二代皇帝建文帝と成りました。

 しかしながら、洪武帝には、多くの皇子が居り、皇子達は明の帝国を守るべき者として、それぞれ領地を与えられ、重要な地域に王として、存在していました。
中でも特に大きな勢力を有していたのは、現在の北京、当時の燕京で王と成った四男、燕王で在りました。
洪武帝崩御の時、燕王39歳、是に対して建文帝22歳。

 若い皇帝にとって20人以上に及ぶ、叔父達の王は、目の上の瘤以外何者でも無く、特に武勇の誉れ高い燕王は、一番の邪魔者で有りました。
建文帝は、燕王をはじめ、王達の勢力を削る為、姦計をめぐらせます。

 さて、これら20人以上に及ぶ王達の側には、王を補佐すべき者が洪武帝の命によって付けられており、言い換えれば、お目付け役であり、燕王の処にも侍僧が居ました。
この人物が、怪僧で名を道えんと云い、彼は自ら進んで燕王の付き人と成りました。
其の時「大王(燕王)が私を側に置いてくださいますならば、大王の為に白い帽子を差し上げましょう」、と云いました。
王の文字の上に白という文字を載せれば、皇という文字になります。

 年は改まり建文元年(1399年)7月、終に燕王は挙兵します(靖難の変)。
挙兵の名目は、君側(皇帝の側)の悪を清めると云うものでありましたが、座して力を失うよりは、立って天下を定めよう、其れが燕王の意志であり、道えんの計で有ったに違い有りません。
建文帝は、互いに大軍を率いて善戦し、戦局は一進一退、3年余りの月日が流れ、最後の勝利は燕王に訪れました。

 1402年6月、燕王の軍は都の城門を埋め、建文帝は、援軍を願ったが終に空しく、城門を開き、文武百官は降伏します。
御殿には火の手が上がり、その中で皇后は自害、建文帝の所在も分からず、後に焼け跡から皇帝の遺骨が探し出されたものの、誰一人、皇帝の遺骸と確認できる者は居ませんでした。

 かくて、燕王は帝位に就き、世祖永楽帝と成り、その治世は22年間に及び、父の洪武帝に劣らぬ英主でした。
北方のモンゴルに遠征する事5回、内3回は、モンゴルの軍勢を打ち破り、又鄭和に命じ、大艦隊を率いて、南海遠征を行う事6回、その足跡は、遠くインド洋を越えアラビアに達し、1度はアフリカ沿岸に及びました。
南海の富は、中国に集まりますが、鄭和の遠征を建文帝の行方を探ろうとするものとの風説も、早くから湧いていました。

 永楽帝の時代、終に建文帝の消息は聞かれず、その後、皇帝の代の変わる事三度、正統帝の御世、正統5年(1440年)に及んでは、建文帝の末も38年の遠きに隔て、その時、老僧の姿と成って、宮中に建文帝は現れます。
勿論、正史には記録は無く、風聞を外史が伝えているのみなのですが・・・。

 外史によれば、「落城に及んで、建文帝は僧の姿となって、ひそかに城を抜け出し、名を改めて応文と称し、南の方を指して落ちていった。
各地を巡り、朝廷の追っ手を逃れつつ、山青く、雲白きところに、静に余生を送っていたのであった
宮中に赴くや、往年の臣下を認め、直ちにその名前を呼んだと云う。
老僧の左足には、建文帝と同じほくろが在った。
それより、廃帝は老仏と呼ばれ、宮中に向かえられ長寿を保った」と伝えられています。

 以上の段落は、外史の一節ですが、不幸の死を遂げた皇帝や英雄に関して、その遺骸が確認されぬ場合、必ずと言って良い程、その生存説が現れます。
やはり、生きていて欲しいという、人々の願いから発したものに違い無く、では建文帝の場合も同様に虚構に過ぎないのでしょうか?
全ては、遠い歴史の中の出来事となってしまいましたが、「ああ、数たると、数たらざると、・・・ただ天、これを知ることあらん」、数奇の事件を述べ終わり、露伴は、こう結びました。

続く・・・
2009/11/18

歴史の?その43・序文

<明朝と清朝>

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 明朝と清朝は、中国史上最後の王朝です。
明朝は、漢民族の皇帝を戴き、清朝は満州族(ツングース系)の皇帝を戴きながら、ともに絶大な皇帝権力を行使した点では、違いが有りません。
その繁栄期間は、ヨーロッパの時代に照らし合わせると、ルネサンスの初期から、ナポレオンの時代迄にも及びます。

 明の太祖、洪武帝は、漢の高祖と同じく平民より、立ち上がりました。
歴代の皇帝の中でも、不世出の英雄であり、中国の伝統に従って、国家としての機能を整備し、皇帝の権力をそれ以前の皇帝に比較しても、比類無いもの教化しました。
しかし洪武帝は、一つの誤算を犯していました。
帝室の権力を強化する余りに、皇帝で無い諸皇子に、大きな権力を待たせすぎた結果、洪武帝亡き後、直ちに燕王の反乱(靖難の変)が発生し、建文帝は倒されてしまいます。

 燕王は即位して、永楽帝となり、彼も又偉大な帝王であり、此処に明朝の基盤は形成されたと言っても過言では有りません。
しかし、永楽帝の後は、内外の諸政策が尽くその効果を逸し、明朝の国力を衰退の一途を辿ります。

 17世紀、明朝内部では、しばしば内乱が発生し、外部からは、満州族の領内進入は相次ぎました。
1644年、明朝は内乱により自滅し、是を機に満州族は北京に入城します。
此処に清朝による、漢民族支配が始まりました。
清朝の隆盛期の皇帝と言えば、康熙帝・雍正帝・建隆帝の三代であり、17世紀後半から、19世紀初頭に至る期間に当り、中国の王朝は、満州族支配の基に、最大の領土を誇るに至りました。

 しかし、西方からヨーロッパ人の勢力も、次第に中国に迫り、既にインドは、大英帝国に屈し、清朝も、1842年阿片戦争に破れ、半植民地化の道を辿る結果と成りました。

 東方からは、日本の大陸支配が始まり、朝鮮を圧迫し、20世紀初頭には、終に清朝さえも屈服させます。
時の皇帝は、光緒帝、実権を掌握するのは、西太后で、皇帝は操り人形に過ぎなかったのです。
清朝は其れ迄、「眠れる獅子」と呼ばれていましたが、20世紀に及んで、新しい中国を目指す革命運動が、活発となり、その激動の歴史の中で歴代の皇帝は、不可解な死を遂げて行きます。
もはや、清朝の命脈も尽き様としていました。

続く・・・
2009/11/17

歴史の?その42

<リンカーン暗殺

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 1963年11月22日のジョン・F・ケネディ アメリカ合衆国大統領暗殺事件は、幾度か映画化され、その真相についても、水面下での議論が続いています。
ケネディ射殺犯人は、公式発表ではオズワルドですが、彼は事件の真相を殆んど供述する事無く、ルビィと云う余り素行の良くない人物に収監されていた、警察署の中で簡単に殺されてしまいました。
現在でも、オズワルドと事件の関係を疑問視する、研究者は多く、一般に広く報道された狙撃の瞬間映像も、僅か1発の銃弾で、大統領が撃たれた様には見えません。
時のアメリカ政府は、厳密な調査の結果、オズワルドが真犯人である事を発表しましたが、この事件の真相は、未だにはっきりとしていません。

 さて、先のケネディ大統領は、第35代アメリカ合衆国大統領でしたが、第16代大統領で在る、エイブラハム・リンカーンも同様に暗殺されました。
1865年4月14日夜、リンカーン大統領は、夫人メアリー、陸軍のラズボーン少佐、その婚約者のクララ・ハリスと供にワシントン市のフォード劇場で「アメリカの従兄弟」という喜劇を観覧しました。
午後9時過ぎ、その劇に第三幕が演じられていた時、ピストルの銃声と、メアリー夫人若しくはクララ嬢の鋭い悲鳴がして、リンカーン大統領は座っている椅子から倒れました。
大統領は、背後から拳銃で、狙撃されたのでした。

 ピストルを持っている青白い顔の青年に、ラズボーン少佐が飛び掛ると、青年は刃物で切りかかり、少佐を負傷させ、その隙に大統領のボックス席から舞台に飛び降りたものの、その時飾られていた星条旗に足を捕られ、足をくじきました。
しかし、立ち上がると「是が暴君の運命だ!」と役者の様に見得をきりましたが、この言葉は、南北戦争の間、南部バージニア州で使われていた、合言葉でした。

 犯人の青年は、舞台裏から楽屋口に出、用意していた馬に乗って逃走しましたが、この青年が劇場の構造を熟知し、役者の様な大見得をきったのも当然で、彼は、シェークスピア劇の俳優で、名前をジョン・ウィルクス・ブースと云いました。

 リンカーン大統領は、劇場前に在る宿に運び込まれましたが、そのまま意識を回復せず、翌朝7時21分に死亡しました。
ブースは、仲間と1週間程逃げ回り、或る農家の納屋に隠れたものの、軍隊に包囲され、降伏を勧められ、仲間は納屋から出て来て投降しましたが、ブース本人は現れず、終に軍隊の一斉射撃の後、納屋には火が放たれました。
しかし、この直後から納屋で死んだ男は、ブースではなかったと言う噂が流布し、アメリカ議会でも取り上げられ、調査も行われました。
結果、犯人はブースで在り、納屋で死亡した人物もブースで在るとの結論に達しましたが、現在でもこの見解を疑っている研究者も多く、アメリカ合衆国史では、謎の一つとして残っています。

 リンカーン大統領暗殺事件には、不可解な部分が存在する事も事実で、事件当日、本来の観覧予定で在ったグローバー劇場から、急遽フォード劇場に変更されたのか、予てより招待されていた、グラント将軍が当日に成って観覧を辞退した事が上げられます。

 ブースの仲間は結果的に8名の男女が、公安当局によって逮捕され、死刑に成りましたが、実際には、もっと大きな背後関係が大統領暗殺の背景に在ったのでないかとも云われています。

 なお、アメリカ大統領がその任期中に死去する例として、不可思議な符合が在ります。
1840年に選出された、第9代ハリソンが就任一ヶ月後に死亡、1860年に選出されたのがリンカーン、1880年が第20代ガーフィールド、1900年が、第25代マッキンレーでハリソン以外の3人は全て、暗殺による死亡で在り、1920年選出のハーディングは遊説中急死、1940年選出のフランクリン・D・ルーズベルトは病死、1960年選出がケネディ、1980年選出が、ドナルド・レーガン(彼は、暗殺されていませんが、遊説中狙撃)なのです。
アメリカ大統領暗殺事件は、上記4名以外にも4~5例が在るようですが、これらは未遂か、命に別状は有りませんでした。

 最後に有名な、ゲティスバーグの演説の一説を紹介して、この話をおしまいにします。
”government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.”


続く・・・
2009/11/16

歴史の?その41

<ナポレオンは毒殺されたのか>

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 1769年8月15日、地中海のコルシカ島で、下級貴族の息子として生れた、ナポレオン・ボナパルトは、1821年5月5日アフリカ西南に位置する、セント・ヘレナ島で51歳で他界しました。
ナポレオンは、この島で、極僅かな人々に看取られながら息をひきとります。
彼の最後の言葉は、「フランス・・・軍隊・・・ジョセフィーヌ・・・」で在ったと云われています。

 彼の死因は、胃癌で在ったと伝えられ、ナポレオン自身も自分は、癌であると思っていました。
彼は死去する一週間程以前に、彼の主治医であるアントマルシに「こう吐いてばかりいるのは、私の病気が胃にあるせいだろう。多分私も、父と同じ胃癌だろう」と語り、そして「自分の息子(フランソワ・シャルル・ジョセフ・ボナパルト)に会ったら、癌にならない様に薬を与えて欲しい」と頼んだと伝えられています。

 さて、時は流れて第二次世界大戦の終結後、ナポレオンの遺髪を分析してみると「ヒ素」が発見され、彼は多分イギリス人によって毒殺されたと推察されました。
ナポレオンの晩年については、比較的詳細に記録が残されており、この部分も検証する事が可能です。

 セント・ヘレナ島は、南緯16度付近に位置し、熱帯で湿度の高い島で、ナポレオンは熱帯で在りながら、時々湿気避けの為にストーブを焚かせていますが、この様な気候の為か、ナポレオンは病気がちに成っていきました。

 1816年5月イギリス軍軍医ウォルデンが、ナポレオンを診察した時、ナポレオンは発熱を訴えましたが、健康と診断されたにも関わらず、その年の8月には、毎日の頭痛をフランス人医師オメーラに訴え、その後も度々同様の症状を示していますが、是は湿度と暑さの為と思われます。
10月には、歯が痛み一切の面会を拒否、11月には発熱の為、寝たきりに成ります。
オメーラが「長生きをする為には、もっと運動を為さらなくては」と勧めると、ナポレオンは、「1日も早く死んだ方が良い」と言ったと記録されています。
翌1817年3月には、神経痛が発祥し、夏には腹部に痛みを感じ、気管支炎に成り、足や唇に浮腫みが現れますが、是を赤痢とした記録と、胃癌の兆候であるとする記録が存在します。

 一方、ナポレオンの病は、虚構でフランス人医師オメーラは、病気であると宣伝していると言う噂が立ち、彼はフランス本国に召還されてしまいます。
1819年1月には、肝臓病にかかるものの秋には、回復し1820年夏迄は、平穏な時間が過ぎました。
しかし、11月から再び肝臓の痛みがひどく、気を失う事も在り、1821年2月には、胃の痛みが激しく、手足が冷え、食欲、記憶ともに減退し、3月には吐血、嘔吐が激しく、食事も殆んど不可能に成り、5月5日を迎えたのでした。

 1819年9月から、ナポレオンの伯父フェシュが、医師アントマルシをセント・ヘレナ島に送り、身の回りの世話を行っており、アントマルシは、ナポレオンの遺言に従って、遺体を解剖しました。
確かに、胃癌でしたが、肝臓は余り悪くなく、肝臓が本当に悪くないのであれば、毒殺にしろ、胃癌にしろ不自然です。
症状から判断すれば、毒殺説も成り立たないようで、解剖から胃癌が確認されたのなら、胃癌が死因と認める方が良いのですが、医師が度々、替えられた事、又ナポレオンの投薬、食事は、厳しく管理されていたのは、毒殺を警戒した為であるので、毒殺説は成り立ち難いと思われますが・・・。

続く・・・
2009/11/15

歴史の?その40

<ロスチャイルド>

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 まずは、映画の1シーン風に想像して下さい・・・(^^)。
“1815年6月20日、ロンドンの証券取引所に、或る男が入って来た。
その男の首は短く太く、腹は突き出していたが、青ざめた顔色をし、肩をがっくりと落し、疲れきった様子をしていた。
取引所の人々は、「ロスチャイルドだ。ロスチャイルド」だと囁いた。
当時、ロンドンの金融業界で、このロスチャイルド家の三男、ネイサンを知らない者は居なかった。
又、彼がイギリス政府を財政的に援助し、ナポレオンの野望を砕く為に、その膨大な財力を傾倒している事も、人々は良く知っていた。“ (参考:オスチャイルド家-世界を動かした金融王国-)

 1815年6月18日、イギリスのウェリントン将軍指揮下の同盟軍とナポレオン軍が、ベルギー、ブリュッセル郊外のワーテルローで、早朝から激戦を繰り返し、その日没に成ってもその勝敗は決定しませんでした。
証券取引所に居た人々は、ネイサンが一言も言わなかったのに、彼のやつれた表情を見て、イギリス軍は敗北したのだと勝手に解釈した結果、公債や為替相場は、大暴落し、恐慌状態に落ち入りました。

 しかし、実際に勝利を掴んだのは、イギリス軍を中心とした同盟軍で、その勝敗は18日夜に決定したのでした。
イギリスの中で、このニュースを一番初めに掌握したのは、ネイサン・ロスチャイルドで、時のイギリス政府に公報が入るよりも1日早かったのです。
イギリス政府がワーテルローの結末をしったのも、公式の使者が到着する以前に、まず彼から聞かされたのでした。
当時は、電話も電信も無く、更にワーテルローの戦いの日は、風雨が強く、夜には暴風雨に成り、英仏海峡を渡る船は在りません。

 ネイサンは、情報を入手すると、証券取引所に出向いて、暗い表情をして見せ、裏では部下に命じて、為替や公債を出来得る限り買い集めさせます。
やがて、イギリス軍勝利の公報が入り、一般に広まると、相場はぐんぐん上昇し、こうして、ネイサンは、1日にして巨額の金を手にしました。
是がネイサンの常套手段で、良いニュースをいち早く手に入れ、まず派手に売りに出、裏で密かに買い込み、やがて、ニュースが一般に広まると、相場は上昇し、彼はごっそり儲かる寸法です。

 ロスチャイルドの早耳は、こうして有名に成り“この一族には、不思議な予知能力が有る”とさえ言われました。
又、伝書バトを利用したとも云われており、昭和の初期、まだカラー作品が少なかった頃「ロスチャイルド」と言う映画が作られ、その中では、伝書バトがワーテルローの戦果を知らせていました。
当時、ネイサンは、実際にワーテルローの戦いを見に行った等と言う、デマも飛び交った程、驚異であったと思います。

 ロスチャイルド家は、以前ロートシル家と云い、その初代マイヤーは、ドイツのフランクフルトのユダヤ人街に住んで、両替や貴金属売買の商売し、その後金融業を始めて、瞬く間に成功をおさめ、諸侯や貴族に迄、融資を行う様に成り、1806年ナポレオンが大陸封鎖令を出すと、その法律をかいくぐり密輸でも成功します。
マイヤーの五人の息子達は、長男をフランクフルト、次男をウィーン、三男をロンドン、四男をナポリ、五男をパリにと、ヨーロッパの主要都市に居住し、手を結び協力し合って、家業である金融業を大きなものにしていきました。

 彼らの金儲け手段の一つは、徹底した賄賂戦術で、各国の重要な地位を占めている者には、惜しみなく金銭を贈り、利益を無視して、便宜を図り関係を深くして、結局、裏でごっそり儲けるのです。
もう一つは、通信網を作り上げ、ニュースを他よりもいち早く知る事でした。
ロスチャイルド家は、ヨーロッパの主要都市に部下を配置して、必要が有れば彼らの間を、何時でも飛脚が走り、この様な独自の通信網の他に、ヨーロッパの駅馬車組織を独占していた、テュルテン・タキシス家と深い関係を結んでいました。

 各国の高官には、賄賂で取り入り、重要なニュースは直ぐ彼らから伝えられ、その上、ロスチャイルド家は密輸を行っていたので、英仏海峡には、船がいつでも配備され、どんな悪天候にも耐えられる、多数の水夫が雇われていました。
当然、ロスチャイルドも伝書バトを使ったかも知れませんが、ワーテルローの戦いの夜が、暴風雨であったなら、伝書バトは余り役に立たず、以前よりロスチャイルド家が、熱心の作り上げた通信網の成せる技で在ったと思われます。

続く・・・

補遺
現在、ロスチャイルド家は、財団を運営し、その傘下に銀行・石油・運輸事業・軍需産業・製薬・ファッションの一流企業を持つ巨大財閥であり、アメリカのロックフェラー財団の財務は、アメリカに在るロスチャイルド系会社によって管理されています。
2009/11/14

歴史の?その39・序文

<市民革命>

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 イギリスでは、1649年ピューリタン革命が起こり、スチュアート家による絶対王政が打倒されます。
間もなく王制は復活するものの、1689年には、再び名誉革命が起こり、立憲君主制が確立されました。
アメリカ大陸では、1775年独立戦争が勃発し、1776年に終結を見、1783年に正式にアメリカ合衆国として独立を承認されました。
アメリカ独立運動は、宗主国イギリスからの独立ですが、この独立戦争でその大きな戦力と成ったのは、中産階級や自営農民であり、彼らは政治的独立を獲得する事によって、社会的変革を企てたのでした。

 フランスに於いては、1789年「フランス革命」が起こり、ブルボン家の専制政治を市民勢力が打倒します。
この様に各国で、相次いで発生した、革命運動は、何れも国王の絶対的支配に対する、市民階級の不満が増大したした結果であり、「市民革命」と呼ばれます。

 フランスでは、革命と其れに続く混乱の中から、ナポレオンを現れ、彼はやがて、共和国の統領となり、更には皇帝にとして即位すると、独裁政治を断行しましたが、本来の革命の意味を否定した訳では無く、封建的特権の復活を認めず、革命の精神を尊重しました。

 ナポレオンは、次々と軍事行動を展開し、ドイツ、オーストリア、イタリア等中部ヨーロッパ以西の国々をその勢力下に置き、ヨーロッパ諸国には、対フランス同盟の結成をめざし、ナポレオンに対抗したイギリスを屈服させる目的で、エジプト遠征を行い、「大陸封鎖令」を発します。

 しかし、この「大陸封鎖令」に直面して経済的疲弊を生じたのは、むしろ大陸諸国であり、ナポレオンに対する反抗が、これら諸国によって企てられます。
ナポレオンが、ロシア遠征を企てたのも、この経済的疲弊打破が主たる目的ですが、ロシアの厳冬に阻まれて失敗し、ナポレオン没落の第一要因と成りました。
この期間、ロスチャイルド家は、その莫大な資金力を持って、常にイギリス政府を支援します。

 このヨーロッパの混乱から大西洋を隔てた、新興国家アメリカは、繁栄を続けており、北部では工業が発展したにも関わらず、南部では奴隷を使用した大規模綿花栽培が中心の、農業圏であり北部、南部の利害関係がしばしば対立します。
1860年、奴隷制度廃止を訴えたリンカーンが、第16代アメリカ合衆国大統領に就任し、翌年「南北戦争」が勃発するものの、北軍の勝利に終わり、その後アメリカは、経済的に急激な発展をして行きます。

続く・・・
2009/11/13

歴史の?その38

<ロンドン搭の二王子>

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 夏目漱石の作品に「倫敦搭」という短編が在ります。
私は、シャーロック・ホームズ作品が、子供の頃から大好きですが、何故か“ロンドン”の名前を見聞きすると、漱石のこの作品を連想してしまいます。
作品の中でロンドン搭に捕らえられて居る、幼い二人の王子が、リチャード三世(在位1483年~1485年)に部下によって殺害される話は、哀れであり、余りに惨いお話です。

 15世紀の末(西暦1483年)エドワード四世(在位1461年~1483年)の王子、エドワードとリチャードは、父王の死後、王位を狙う伯父のリチャードに為に、ロンドン搭に幽閉されます。
王子達に一目会いたいと訪ねて来た、母エリザベスは、牢番に断られ、泣く泣く帰って行かなければ成りませんでした。
王子達の無邪気な様子や、リチャードの命令で、二人の王子を殺した男が、「首を閉める時、花の様な唇がびりびりと振るえた」等と話す箇所は、読んでいて心に迫る部分です。
夏目漱石は、この物語をシェークスピア作品の「リチャード三世」と、画家ドラロッシの残した絵画から、創りあげました。

 英国人であれば、この二王子殺害の事件は、広く知られており、学校で教えられる歴史の授業の他、上述のシェークスピア劇によっても有名に成った為でも有ります。
シェークスピア劇に因れば、リチャード三世は、極悪人として描かれ、体に障害を持ち、心にも深い傷を負っていました。
血も涙も無く、只権力を握りたい野心家で、劇中でも「私は慈悲を知らない(第一幕第二場)」、「涙頂戴の哀れみ等自分の眼中には住んでいない(第四幕第二場)」等の場面で、自らを述べる部分が在ります。
彼は、兄王エドワード四世の死後、王位を簒奪し、自分の妨げになる者は、兄弟、甥、妻、家臣迄も殺戮を繰り返します。

 事実、リチャード三世がこの様な王様で在るならば、なんと惨い人物で在ったと思いますが、近年、リチャード三世について再評価が行われ、実際に二王子を殺した事は無く、情け深い王様で、家臣、人民からも慕われていたとも伝えられています。

 リチャード三世を知るには、「ユートピア」を著したトーマス・モア(1478年~1537年)が、リチャード三世と同時代である為、彼の「リチャード三世伝」が良いとされていましたが、実際には、リチャード三世が即位した頃、トーマス・モアは僅かに5歳、崩御した時も7歳であった為、彼の「リチャード三世伝」も後年、多くの人々の口述を頼りに書かれたものと判断される様に成りました。
この伝記が、余り信用できなくなると、他の記録が大変少ない為、リチャード三世の実像は不明な部分が、大変多く成ります。

 リチャード三世が、実際にどの様な王様で在ったのか、判断する事は難しいですが、次の様な歴史的な事実が有ります。
リチャード三世は、即位してから2年後、ヴォスウォースの戦いで、チューダー家のヘンリーに討たれてしまい、その後ヘンリーは、イングランド王ヘンリー七世と成りました。
ヘンリー七世の出身であるチューダー家は、リチャード三世のヨーク家に比べると、イングランド王に成る資格がそれ程高く有りませんでした。
其の為、リチャード三世が悪王で、人民を蔑ろにしていた事を強調する必要から、リチャード三世は、実際以上の悪王にされてしまった様なのです。
シェークスピアは、チューダー家のエリザベス一世がイングランドを統治している時代に、劇作家として活躍した人物であると云われています。

続く・・・
2009/11/12

歴史の?その37

<シェイクスピアは実在したのか>

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 シェイクスピアの名前を聞いて、どの作品を思い出しますか?
「ハムレット」「マクベス」「リア王」「オセロ」「リチャード三世」「ロミオとジュリエット」「真夏の夜の夢」等悲劇、喜劇が浮かびますね。
嘗て、インドが大英帝国最大の植民地で在った頃、「インドは失っても、シェイクスピアは失いたくない」とイギリスでは、言われていました。
さて、この世界的に有名なシェイクスピアの生い立ちが、実際の処、良くわからないのです。

 1964年4月は、「シェークスピア生誕400年祭」がイギリスで行われ、記念行事も多数開催されました。
シェイクスピアは1564年4月23日に生れ、1616年4月23日に死去した事になっています。
しかし、実際には、彼の生没は、きっちりと判明している訳ではなく、彼が生れたとされる、ストラト・フォン・エイヴォン市の教会には、1564年4月26日に洗礼を受けた記録が、存在していますが、キリスト教では、生後まもなく洗礼を受けてキリスト教徒に成りますので、誕生は多分洗礼を受けた日から、それ程遠くない日であると推定され、更に没年月日が極めて近い為、同月日にされた(!)らしいのです。

 現在判明している、彼の生い立ちでは、実家は皮細工商で、父親は一時町の名誉職に就きましたが、稼業に失敗し、其の為シェイクスピアは、学校教育もまともに受ける事が出来なかったと伝えられています。

 処が、彼の作品はどれも、相当の教育を受けた、ギリシア、ローマの古典にも通じた人物でなければ、書く事が出来ない様に見受けられます。
その為、「“ストラト・フォン・エイヴォン”で生れたシェイクスピアと多くの作品を残したシェイクスピアは別人で在り、他の人物が彼の名前を借りて、是等の作品を書いたのだ」と云われ、一部には、哲学者フランシス・ベーコンの名前や、劇作家マーローの名前さえ称えられた事が在りました。
今から40年以上前に成りますが、とある人物が、劇作家マーローの墓所を調査すれば、本当は、マーローがシェークスピア劇を書いた事を証明できるとして、イギリス政府の許可を取り(!)彼の墓所を調査しましたが、証拠の発見には至りませんでした。

 又、シェイクスピアは短詩(ソネット)も書いていますが、「それ等は、国王ジェームズ一世の宮廷に仕えていた人物で無ければ、書く事は不可能で、常に創作活動を行い、劇場に出入していた人物が書いたとは思えない」と詩人で文学博士のブランデン氏が述べた事が在ります。
実在を疑われた、著名人は“キリスト”“マホメット”“シャカ”等多数存在しますが、シェイクスピアの様に、比較的時代が新しい人物で、その実在を疑われている事は、珍しいと思われます。

 現在でも多くの専門分野の方々が、シェイクスピアについて、文献を著していますが、基本部分として、彼の伝記が明確でない事に起因しているのです。
何時か、これ等の疑問に答える、明確な当時の文献が発見され、謎が謎で無くなる時が来るでしょうが、例え本当の作者云々が無くても、シェイクスピア劇の面白さ、巧妙さは、色あせません。

続く・・・
2009/11/11

歴史の?その36

<モナ・リザ盗難事件>

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 レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作「モナ・リザ(ジョコンダ)」は、謎の微笑みで有名ですが、是と供に、今から100年近く前に発生した、「モナ・リザ盗難事件」も不可解な部分が多く、コナンドイルもシャーロック・ホームズ作品の一部に取り入れています。

 ルーブル美術館の「モナ・リザ」が盗難に遭遇した事が判明したのは、1911年8月21日の事で、この日は、美術館の清掃日でした。
しかし、何故か直ぐに警察に届けられず、まず館内がくまなく捜索されたのですが、関係者は盗難と思わなかったのでしょうか?
美術館関係者から、警察沙汰にする事で、犠牲者が発生する事を、避け様としたのだと考えられます。

 結果として「モナ・リザ」は発見されず、翌朝、警察に通報され、ルーブル美術館は、三日間休館と成り、徹底的な調査が行われ、その日の午後、額だけが発見され、展覧室に通じる扉のノブが、近くの側溝から発見され、犯人は扉のノブを内側から分解して、逃走した事が推測されたものの、そのほかに手掛かりは発見されませんでした。

 事件が公表されるとフランス国内は、大騒ぎとなり、時の議会で関係者は質問を受け、主要な新聞は、発見者に賞金提供を申し出ました。
中には犯人を占った、占い師に賞金を出す(!)と迄公表した新聞社も在った程、フランス国民の関心事に成りました。

 犯人の手掛かりも無いまま、ルーブル美術館は再開されましたが、館長のオユーモ氏は休職と成り、当時の美術館責任者の多くは、交替と成り、職員の数に比較して、美術館が広すぎる事から一部の施設を閉鎖する結果となりました。
11月に成り、ルーブル美術館の警備関係者7名が、裁判所に召喚され、無断外出の1名と居眠りをしていた1名はは有罪とされ、その間、パリ警視庁には犯人に関する密告も多数寄せられ、捜査も進み、取り調べを受けた人物も多数に及びました。

 その中で特に有名なのは、詩人のアポリネールで、彼の参考人として、あのパブロ・ピカソも警察に呼ばれています。
当時アポリネールが、秘書として雇用していた、ゲリー・ピュレェは「ルーブル位、泥棒するのに楽な所は無い」と言い、時々小さな彫刻等を盗みだしましたが、その頃のルーブル美術館は、監視人も少なく、その気に成れば、小さな物を盗み取る位、容易で在ったらしいのです。

 ゲリーは盗んだ彫刻等を、アポリネールやピカソに贈った上に、自分の泥棒稼業を或る雑誌に投稿した程でした。
アポリネールとピカソは、ゲリーからの“贈り物”を鞄に入れて、セーヌ川に捨てようと、二人で真夜中に川の辺を歩き続けます。
しかし、誰かに尾行されている様な気配がして、とうとう鞄を捨てられず、一晩中歩き回りました。
やがて、終に二人は警察に呼び出され、その時、気の強そうなピカソも、警察と聞いて脅え、“振るえてズボンもなかなか履く事が出来なかった”と伝えられています。
問題の彫刻は、ルーブル美術館に既にこっそりと戻していた事、事件も可也昔の事で在った為、二人は無事に許されて家に帰る事ができました。

 「モナ・リザ盗難事件」は、迷宮入りした様に思われましたが、1913年12月12日、急転直下解決します。
フィレンツェの古美術商に、レオナルディと名乗り「モナ・リザ」を売りに来た男がいました。
古美術商は、「専門家に立会いを求め、本物で有ったら購入しよう」と告げ、レオナルディはこの条件を受入ました。
専門の鑑定士は、この「モナ・リザ」を本物と鑑定し、レオナルディはその場で身柄を現地の公安当局に束縛されます。

 この男の本名は、ヴィンセンコ・ペルージアで塗装工でした。
イタリア人ですが、フランスに出稼ぎに行き、事件当時はルーブル美術館で絵にニスを塗る作業を行っていました。「ナポレオンが、イタリアから絵画や彫刻を幾つも略奪していったから、その仇を討ったのだ」と彼は証言したと伝えられています。
やっと「モナ・リザ」はルーブル美術館の本来に場所に戻り、翌年1月4日から公開されました。

 この事件は、結末が余りにも“間の抜けた”終結で、その発見直後から疑問を呈していた様です。
古美術商に持ち込めば、公安関係者(イタリアには、美術専門の特捜警察組織が現在も存在します)に通報され、拘束される事は明らかであり、2年近くも隠匿しながら、何故その様な安易な行為を行ったのでしょうか?
この2年の間に精巧な模写が描かれ、ルーブル美術館に戻った「モナ・リザ」は贋作の方で在ると考える人物も多く存在しています。

補遺
森鴎外には、外国新聞からおもしろいニュースを見つけて翻訳し、「椋鳥通信」「水のあなたより」等と題して、海外からの便りの形をとって、雑誌「ずばる」等に連載したものが在り、「鴎外全集」にも収録されています。
その部分を読むと、モナ・リザ盗難事件の発生から解決迄を辿る事ができます。

続く・・・
2009/11/10

歴史の?その35

<レオナルド・ダ・ヴィンチの裏文字>

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 ルーブル美術館にある「モナ・リザ」或は「ジョコンダ」と云われる美しい女性の肖像画は、描かれている唇の両端を僅かに上げた微妙な表情は“謎の微笑”と呼ばれています。
「モナ・リザ」を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチと云う名前を聞くと、私達は天才画家と連想しますが、彼は画家とは一口で言えない人物でした。

 ダ・ヴィンチの活躍した15世紀から16世紀の頃、イタリアは「ルネサンス(文芸復興)」と云われ、ミケレンジェロ、ラファエロ、ボッティチェリ等、天才的な画家や彫刻家達が、次々と登場した時代で、芸術の分野のみならず、建築、文学、科学にも多くの人物が、登場した時代でした。
その上、この当時の人々の才能は、一つの方面にだけ特に優れて発揮されたのでは無く、一人の人物が多方面に、同時に才能を示したので、彼等を「万能の人」と呼び、ダ・ヴィンチもその一人でした。

 彼は、ミラノのロドヴィゴ公に仕える時、自分の推薦状を自ら書きます。
その推薦状は、10ヶ条から成り、自分は橋、攻城機、大砲、船舶の設計制作に優れ、最後の部分に、彫刻、絵画も得意であると書きました。
以上から推察される様に、ダ・ヴィンチは彫刻、絵画を自分の才能の一部と思っていた様です。

 彼は、あらゆる事象に関心が有り、見聞した事や自分の発想を記録していました。
現在でも是等の記録は、6000ページに相当する数が現存し、イタリア、フランス、イギリス等の図書館、博物館に所蔵され、又その大部分は、文献として出版され、私達も見る事ができます。

 処が、この文書は、大部分が不思議な文字で書かれ、行は右から始まり左方向に向かっており、その一文字一文字が、裏返しに成っていて、鏡に写して見ると、普通の文字として判読できるの事から「鏡書き」等と呼称される事も有ります。
その上、短い単語が組み合わされたり、長い単語を短く切断したりされており、文節、文法も無視され、省略は至る処に存在する為、大変読み難く、理解し難いものと成っています。

 なぜ、ダ・ヴィンチは裏文字を書いたのでしょうか?
彼は晩年、リューマチか神経痛で右手が不住に成ったと云われていますが、問題の裏文字は、20歳代から既に始まっており、最初の頃は、所々に少し混じる程度ですが、見受けられるので、単純に病気の為だけでは成さそうです。
彼の生きた時代は、教会勢力の強い時代で、異端審問も可也の頻度で行われていましたから、彼自身の本当の考えが外部に洩れる事を恐れて、わざと読み難い文字を使用したのではないか?と考える説も在ります。
当時は、捕らわれない心で自然を見、理性で物事を判断する人間が現れはじめましたが、その様な人々の中には、正統な神を信じない人は“異端者”とされ、処刑される者も多数に上りました。
ダ・ヴィンチは、異端者と疑われる事の無い様に、自分の手記記録を他の人物に読まれる事が無い様に、判り難い文字で書いたのだと思われます。

 もう一面として、彼は多分、“左利き”で在った為この様な文字を書いたのではないか?との疑問も存在します。
美術書に因れば、彼のデッサン類を深く見聞すると、陰影の部分に引かれた細い影付けの線が皆、左上から右下に向けて描かれています。
普通は、右上から左下へ線を引きますが、是は彼が左利きの為左で描いた為で在り、先に述べた記録は、他人に見せる事を前提にしていないものなので、書き易い左手を使った為、裏文字に成ったと推測されます。
その為、他人に読んで貰う書面、先の10ヶ条の推薦書は、普通の文字で書かれています。

続く・・・
2009/11/09

歴史の?その34

<ゼロを知らなかった数学>

最近又、固い内容の記事が、続いていますので、軽く読んで下さい(^^)。

 今、私の手元にとある業界新聞が有ります。
この通し番号は、32164号。
1年について、362回の発行があるとすれば、32164号は、何年分に当たるのでしょうか?
この様な問題を出されたら、パソコンや電卓を使わずとも、私達は紙に書いて、計算(筆算)によって、直ちに答えを導き出す事ができます。
其れは、計算に便利な算用数字と筆算の方法を知っているからです。

 処が、単純に見える計算でも、昔の人々には、大作業で、明治以前の人ならば、「三万二千百六十四を三百六十二で除する」と書いて、頭をひねったのです。
勿論、紙の上での計算は出来ません。

 ソロバンの使用方法と、割り算の「九九」を知っている人ならば、ソロバンの上で答えを導きだしたでしょうが、ソロバンも現在の様に普及したのは、江戸時代(17世紀頃)以来の事なのです。
ですから、それ以前の人にとって、複雑な掛算や割算は、大変難解な事でした。

 是は、ヨーロッパ人に取っても同様で、現在の算用数字(アラビア数字)が用いられる以前、ヨーロッパで用いられていたのは、ローマ数字であり、上の問題をローマ数字で表せば以下の様に成ります。

                ((I))((I))((I))(I)(I)CLXIV(割る)CCCLXⅡ

上記ローマ数字を見ても筆算は到底不可能である事が解かると思います。
ギリシア人で在っても同様で、ギリシア文字で書いたのですから、筆算出来ない事に変わりは有りません。
つまり、ヨーロッパで用いられていた数字は、計算の結果と資料としいての数値を記録するものに過ぎず、実際の計算には、アバークスと言う計算器を用いたのですが、アバークスの操作は、途方も無く複雑で、ソロバンの比では無く、昔のヨーロッパ人は、わざわざアバークスを用いて苦労を重ねた上に、ようやく答えを導き出したのでした。

 実際、計算に便利な算用数字はアラビアからも伝わって、是を用いた筆算の方法も12世紀初頭には、イタリアで紹介されていましたが、当時のヨーロッパ人にとって、アラビアは異教徒の土地であり、敵国でも在った為、教会勢力を中心とする保守派は、頑なにアラビア数字を排撃し、その使用を禁止さえも行った為、アバークスは、尚数百年にわたって利用され続けました。

 さて、私達は、数学の天才と言うと、近代では、ニュートン、デカルト、ガウスを連想します。
しかし、ヨーロッパにおいて、近代数学が発展するのは、17世紀以後の事であり、アバークスのレベルでは、方程式を解く事は不可能でした。
近代数学は、アラビア数字を用いる事で、発達したのです。
アラビア数字は“1~9”と“0”の記号を組み合わせて、あらゆる数を表す事が可能であり、日本のソロバンの様に、位取りの方法によって、大きな単位の数も簡単に表す事が可能で、新しい記号を作る必要は、皆無でした。

 この“0”の記号化と位取り法の発明は、アラビア人ではなく、本来はインド人が発明したもので、其れをアラビア人が取り入れて、用いられる様になったのです。
インドにおいて「ゼロ」の記号は、実に紀元前2世紀には用いられ、其れは「無:シューヌヤ」と呼ばれました。
誰がこの記号を発明したのか、そして「ゼロ」を数字の一つと考えて、計算に用いる様にしたのかは、現在でも判明していません。
更に、何故インドにおいて「ゼロ」の思想と「位取り法」が発明されてのでしょう?

 一部の学説では、是をインド人の「無」の思想、「空」の思想と結び付けて考える人物も存在しますが、この様な偉大な発明も「本来は社会的環境の所産であり、その時代のある切実な要求に答えたものである事を、想定しなければならない」(ネルー)でしょう。

 確かに古代のインドでは、商業が盛んで、簡便な計算法が無くては、商業計算は無理でした。
ギリシア人は、その思索の中から、高度な幾何学を発達させたのも、商業や航海の上から必要に迫られた事に相違無いものの、ギリシアの天才達も、終に「ゼロ」の発見は出来ず、算術や代数は発達しませんでした。

 如何なる説明も、不明な面の一部を解くに過ぎず、ヨーロッパ人はインドやアラビアに学ぶ迄、終に「ゼロ」の概念も簡便な計算方法も知らなかったのです。
16世紀の数学者の著書「少数論」を次に人々の為に記しました。
「天文学、測量士、織物の計量士、重量の測定士、及び商人の皆様」
当時のヨーロッパにおいて、数の計算作業を、如何なる人々が携わっていたかを示しています。

続く・・・
2009/11/08

歴史の?その33

<紀元の年>

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 12月25日はクリスマス、イエス・キリストの降生祭ですが、イエスが、この日に生れたと云う証拠が在る訳では有りません。
事実、降生祭も1月6日に行われた事も在れば、5月25日に行われた事も在りました。

 現在の西暦紀元を、イエス誕生の年と定めたのは、6世紀の神学者ディオニシウスで、この時、イエスの誕生は、ローマ建国紀元754年とされました。
後年、ディオニシウスの計算は、誤りである事が判明し、実際のイエスの誕生は、この紀元より4年程遡る、恐らく西暦紀元前4年であると考えられています。

 宗教の開祖については、その教えが広く人々に信じられる様になると供に、その生涯は、曖昧模糊となって行きます。
仏教の開祖「釈迦(仏陀)」にしてもその生没は明らかでないものの、シャカは、イエスよりも少なくとも、500年以上も前の人物なので、生没年に異説が多く存在しても不思議ではないと思われます。
その入滅、即ち仏滅の年は、西暦紀元前485年とも紀元前386年とも云われています。

 日本の平安時代には、仏滅の年を西暦紀元前949年と考える説が、最も有力で、仏滅から2000年を経過すると、末法の世に入ると考えられていました。
従って、平安時代中期の永承7年(西暦1052年)は、当に末法の入る年であり、この年、藤原頼通は、宇治の山荘を平等院と名づけて寺院とし、翌年には阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立しました。
仏教徒の間でも、この様に仏滅の年が紀元とされる場合が、少なくないのですが、基準と成るべき仏滅の年に、異説が多ければ、年の換算も又、複数存在するのも無理からぬ事でした。

 その点、イスラム教の場合、その起源が新しいだけに、年月日も明らかで、イスラム歴の紀元元年は、マホメットがメッカからメジナに移った年、所謂、ヘジラの年(西暦622年)で在り、マホメットがメジナに到着したのは、9月20日です。
但し、イスラム歴の基点は、この年の太陰暦の元日に当たる、6月16日とされました。
イスラム歴は、純粋な太陰暦を用い、従って平年は354日と成り、太陽暦とは、年毎に10日から11日の誤差が生じて来ます。

 この様に考えれば、世界各地で用いられている紀元の年は、曖昧なものと言わねば成りませんし、是等の紀元は、何れも宗教上の習慣に基づくものなので、国家として制定したものでは有りません。

 国家が、その建国の年を紀元する例は多く、古くはローマ建国紀元であり、インドのグプタ朝建国紀元があり、フランス第一共和制の基では、共和国成立の西暦1792年9月12日を所謂、革命歴第1年元日と定めていました。
現在でも、台湾の中華民国政府は、その成立の年である、西暦1912年1月1日を紀元として。民国の年何年と数え、中華人民共和国では、「公元」と称して西暦を用います。
嘗て、中国では、伝説上の皇帝である、黄帝即位の年を以って紀元とする、黄帝紀元を称えた時代も在りました。
大韓民国では、開祖壇君即位の年(西暦紀元前2333年)を以って、公式の紀元とします。

 日本では、暦が始めて用いられたのは、聖徳太子の時代、推古天皇の12年(西暦604年)であり、其れまでは、歴法が存在していない為、正確な年月を計算する事が出来ません。
しかも日本の建国の日は、中国で流行した讖緯説に従って、推古天皇9年(西暦601年)の辛酉の年から1260年遡った、辛酉の年(西暦紀元前660年)正月元日と定められました。
所謂、神武紀元です。

 「紀元節」は、この神武紀元の正月元日を太陽暦に換算して、明治6年に制定されたもので、西暦紀元前660年の日本は、縄文文化時代であり、金属器も知らず、農耕も殆んど行われる事無く、勿論、現在の概念で言う国家も発生しておらず、暦が存在していないので在るから、現実には、換算の方法は存在しないはずなのです。

 最初の紀元節は、明治6年1月29日に行われたのは、その日が、旧暦の元日に当たっていた為でした。
しかし、旧暦の元日が、年によって異なるのは、自明で明治6年1月29日が元日でも、1年前、100年前、1000年前の元日がその日に当たるとは限りません。
其の為か、翌年から、2月11日以って紀元節とする事に成りましたが、なぜ2月11日と換算されたのか、その根拠は明らかでは有りません。

続く・・・
2009/11/07

歴史の?その32

<カースト>
今回の記事には、一部不快感を招聘する表現が在ります。

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 カースト制度は、インドの長い歴史を通じて、その社会の大きな特徴と成り、現在に於いても尚、厳然と存在しています。
私達が、教えられた“士農工商”の様な四姓制度の様に単純なものでは無く、カースト制度は細分化されたもの迄数えれば、2500以上に上ります。
カーストの構成員は、他のカーストと結婚する事は出来ず、その種類によっては、他のカーストの人々と食事をする事も、調理して貰う事も出来ないうえ、それぞれのカーストには、祖先伝来の職業が存在し、其れを世襲する事が義務づけられていました。

 この他、一つのカーストに独特の掟を持つ例も少なくなく、中には、海を越えてはならないと定められて者も在り、このカーストに属するものが、兵役に就いた場合、海外への遠征は出来ません。
これを反抗と見なし、イギリス軍が銃で弾圧した事件(1824年)も発生した程でした。

 更に一般のカーストの他に不可触賤民(アンタッチャブル)が存在し、彼等はパリアと呼ばれ、鈴を付ける事を強制した地方も在りました。
こうした差別からの解放に、尽力したのが、マハトマ・ガンジーで、彼等を「ハリジャン:神の子」と呼び、不断の運動によって、少なくとも、法律の上では、差別を撤廃され国会の議席も与えられる様に成りました。

 インド社会に特有なカースト制度、その極端な階級格差は、どの様にして起こったのでしょうか?
一般にアーリア人のインド征服によって、生じたと説明されています。
アーリア人の祖先は、紀元前2000年頃、中央アジアから西北インドに移住し、先住民族を征服しつつ、紀元前1000年頃には、ガンジス河流域迄進出します。
その間、アーリア人の社会では、神に仕える僧侶バラモンを頂点に、王族、武将階級で在るクシャトリア、庶民階級ヴァイシャ、征服奴隷階級のシュードラの四姓制度が成立しました。

 何故、インド社会に於いてのみ、こうした厳格な階級制度が発生したのでしょうか?
同じアーリア人の別派は、イランに入り現在のイラン人と成り、又同系に人々は、ヨーロッパに広がって、現在の欧米人を形成しています。

 古代に於いてもカーストの区別は、四姓だけでは無く、幾つものカーストが存在し、古代法典(マヌ法典)では、是を不正な婚姻から生じたものと説明しています。
アーリア人の勢力が拡大するに連れて、多くの異民族と通婚が生じ、違った階級の結婚も当然、発生するでしょう。
更に社会生活が複雑に成れば、職業も細分化し、されが又カーストを分化せしめたのでした。
職業には、不浄と考えられるものも在り、其れに従事する者が、下層カーストとされ、或はカースト外の賤民とされていったのです。

 仏教の様に、カースト制度を否定する宗教も興りましたが、インドでは、終に仏教も主流の教えとは成りません。
4世紀にグプタ朝が興り、広く民衆に広まったのが、ヒンズー教で、古代のバラモン教を中心に、各地の民間信仰の神々を取り入れた、ヒンズー教は、全インドのあらゆる種族、あらゆるカーストの間に信仰される様に成りました。
しかし、バラモン階級の権威は、揺るがず依然として、カーストの頂点に君臨し、他のカーストも温存され、更に細分化されて行きました。
11世紀には、イスラム勢力の侵入が始まり、16世紀には、ムガール帝国が成立し、ほぼ全インドを制圧し、イスラムの支配は、ヒンズー教徒を圧迫します。
社会の表面から消えたヒンズー教徒は、被征服民族としてその伝統を守り続けたのです。

 やがてイギリスのインド統治時代を経て、第二次世界大戦の終結後、インドは独立を達成するものの、イスラム教徒は分離して、パキスタン(東西パキスタン:現バングラデシュとパキスタン)を形成しますが、インドのカースト制度は残ったのです。

 近代文明は、カースト制度を切り崩して来た事も事実で、上水道が発展すれば、誰も同じ水を飲み、鉄道が発展しれば、如何なる人とも同席しなければ成りません。
学校、職場、そして新しい産業に従事し、現代の都市に生活して行く限り、飲食や職業の制限は、問題に成らなくなりました。
其れでも、カースト制度は、尚根強く存在し、社会生活の表面から離れた身近な地域集団の中において、その習慣の面において、カーストは強く守られています。

「ヒンズーがカースト制度に執着しつづけてゆく限り、インドはインドである」

続く・・・
2009/11/06

歴史の?その31

<インカの秘宝>

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 大航海時代、16世紀の初頭、ヨーロッパ人は初めて南アメリカ大陸の太平洋岸の到達しました。
当時、その太平洋側のアンデス山脈一帯の地域(現在のコロンビア・エクアドル・ペルー・ボリビア・チリ)には「インカ帝国」(正式には、タワンティン・スーユ:四つの地方から成る国)が存在していました。

 インカ文明は、鉄器を知らず、新石器文明と呼ばれる時代でしたが、金・銀・銅の細工は巧みで、是等を用いた細工物の他、土器、織物にも優れ、頭蓋骨切開による外科手術もする事が、出来たと伝えられています。
ところが、インカ人は、車輪の概念が無く、文字も持たない為、書物としての歴史書は存在していません。
現在の歴史書物は、スペイン人の征服後、彼等からローマ字の読書きを習得した、一部のインカ人が彼等の言葉で在る「ケチュア語」の表音に基づいて記されたもので厳密な歴史書とは言えませんが、伝わっている歴代王(インカ)の名前から13代迄遡る事ができます。

 このインカ帝国に最初に足を踏み入れたヨーロッパ人は、スペイン人フランシスコ・ピサロで、彼はスペインの地方貴族の出身ですが、色々と問題の在る人物でも在りました。
「新大陸」の何処かに「黄金郷(エル・ドラド)」が存在すると予てより噂が在り、ピサロをその黄金を求めていたのでした。
南アメリカの太平洋岸を数度に渡って探検し、1528年の航海では、現在のペルー迄到達しますが、彼はこの探検航海で、現在のツンベスを基点にアンデス山脈の内部迄入り「黄金郷」が実際に在る事を確信し、時のスペイン国王カルロス一世に探検援助を申し出、1531年ペルー探検(征服?)に出発します。

 さて、スペイン人の来航する少し前、インカ帝国内で、11代皇帝ワイナ・カパックが崩御し、その後継者を巡って、長男ワスカルと次男アタワルパの間に王位継承問題が発生し、一時は12代皇帝に即位したワスカルをアタワルパが破り、自ら13代皇帝と成りました。
この内乱もインカ帝国が、容易くピサロに征服される遠因と成りますが、インカには、鉄製の武器は皆無で在り、例え20万の軍隊を擁していても、僅か180人のスペイン兵の鉄砲と37頭の馬には、太刀打ちできませんでした。

 ピサロは、以前にアステカ王国を征服(1526年)した、エルナン・コルテスから「王を生け捕りにすれば、征服は出来る」旨の教示を受け、アタワルパを妖計にかけます。
1532年11月14日カハマルカの町で、ピサロとアタワルパの会見が行われる事に成り、ピサロは、皇帝アタワルパを賓客として宴席に招くと、カトリックの僧侶が、アタワルパに「我々は、カトリックの布教の為にこの地を訪れた」と言いながら、聖書をアタワルパに手渡しますが、文字を知らない彼にとって、聖書は何の意味を持つものでは無く、其れを床に落としました。
この瞬間、ピサロは、アタワルパが神を汚したとして、彼を捕らえ、人質にしてしまいます。

 アタワルパは、自分を許してくれるなら、今自分の捕らえられている部屋を黄金で埋め、隣の部屋を銀で埋めると言い、是を2ヶ月で実行すると約束します。
皇帝は、国中に御ふれを出し、インカの民は、皇帝の為に金銀を持ってカハマルカの町を目指しました。
財宝は、次第に集まって行きましたが、約束の量に成るには時間が掛かり、ピサロは、こうして時間を掛けてインカ人は、軍隊を整え反撃の準備をしているに違い無いと疑います。
彼は、アタワルパを形式だけの裁判にかけ、1533年7月26日処刑してしまい、ピサロは、三男マンゴをインカ皇帝としましたが、事実上この時、インカ帝国はスペイン人に征服されたのでした。

 皇帝アタワルパの処刑によって、カハマルカに向かっていた財宝の輸送は、勿論停止し、是等はスペイン人の目の届かぬ所に隠されてしまいます。
アタワルパは、処刑に際し、身代金を倍にしても良いと言ったと伝えられますから、財宝の量は、膨大なもので在ったと思われます。

 是を一般に「インカの秘宝」呼び、隠された財宝を求めて、多くの人間がアンデス山脈に分け入りましたが、自然の要害に阻まれ、現在迄「インカの秘宝」は発見されていません。
アタワルパの処刑によって、財宝は帝国の諸所の分散されて埋蔵された為、現在迄まとまった量の財宝が発見された事が無いと思われます。

続く・・・
2009/11/05

歴史の?その30

<ジャングルの奥に>

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 1858年から1861年にかけて、フランス人博物学者アンリ・ムーオは、インドシナ半島のメコン河とメナム河流域を探検し、その地方の地質や動植物を調査しました。
1861年の初め、彼は、カンボジアのトンレ・サップ湖の北側に位置するジャングルの中に、大きな都市や寺院の遺跡が在る事を聞きました。

 しかし、ムーオは象や虎等の野獣が住んでいるだけで、人間など到底入った事の無い様なジャングルの中に遺跡が在る事など、到底信じる事が出来ませんでした。
処が、ジャングルに入って三日目の事、木の茂みの上に、五つの高い石塔が立つ姿を実見しました。
是が、アンコール・ワット(大寺院)で、その北側1km程先にアンコール・トムと云う都市の遺跡が在りました。

 ムーオは、ジャングルの植物に半ば覆われてしまった、この寺院や都の素晴らしさの虜に成り、地質や動植物の調査を中断して、遺跡に調査に没頭しました。
彼は、遺跡をスケッチし、フランスやイギリスで紹介すると、「東洋に奇跡を発見した」として注目されました。
しかし、実際厳密には、ムーオが発見した訳ではなく、土地の人々はこの遺跡の存在を以前から知っており、大寺院に巡礼している者も居り、中国の古書にも、大寺院や都の話は、紹介されていました。
結果として、ムーオの報告によって、ヨーロッパ人にアンコール遺跡群の存在が知られる様に成ったのは、確かな事でした。

 アンコールの都は、クメール人のヤショヴァルマン王(在位889年~900年)によって造営され、大寺院は、スールヤヴァルマン王(在位1112年~1152年)によって建立されました。
このクメール人が如何なる民族なのか、解明されず14世紀に成るとアンコールの都を廃棄して、消滅した謎の民族と云われて来ましたが、今日では、インド方面から移住して来た人々が、現地の人々と混血した民族で在ると考えられています。
又、クメール王国の終焉が、何時なのかも解かっていませんが、13世紀頃から西にタイ人の国家が建設され、やがて攻め滅ぼされたのであろうと推定されています。
そして、彼等は消滅したのでは無く、今日のカンボジア人は、クメール人の子孫であると考えられています。

 クメール人達が、アンコールの都を廃棄したのは、国そのものが滅亡した結果ですが、本来、クメール人は、疫病に流行、農作物の不作等の理由で、都を遷都する事が在りました。

 都をと言うより都市をしばしば移動させた民族は、クメール人だけでは無く、日本に於いても、天皇が交替する度に都を遷都し、中央アメリカで6世紀から10世紀頃栄えたマヤ人も、クメール人と同様に石造りの巨大な都市や寺院を放棄しています。
マヤ人は当初、ユカタン半島の南側に都市を造営して移住していましたが、7世紀頃からは、400km以上離れた北部に、新たな都市を造営し始めました。
彼等の放棄した都市には、天災はおろか、戦乱の痕跡も無く、疫病の蔓延ならば人口も減少したでしょうが、移動後の都市規模もより大きくなる傾向が在り、人口減少も考え難いのです。

 ここで問題になるのが、現在も東南アジアや中央アメリカで続いている、焼畑農耕で、マヤ人達は、とうもろこしを栽培して、生計を立てていました。
彼等は、文字を持ち、立派な暦法を整備し、天文学や建築学も発展していましたが、鉄を知らず、鍬や鍬も無く、畑にする土地に生えている木々を石斧で切り倒し、其れを焼き、先を尖らせた棒で土を掘って、とうもろこしの種を撒くだけで、肥料を与える事も知らない為、一度利用した土地は、長期に渡って休ませねば成りませんでした。
その期間に植物が繁茂し、是等を伐採して焼いて、再び畑として使用するのです。
しかし、焼畑農耕は、結果的に土地の地力を減少させる為、畑はだんだんと都市から遠く離れる結果と成り、その為に新しく肥えた土地を求めて、都市を移動させねばならなかったのでしょう。

続く・・・
2009/11/04

歴史の?その29

<蒙古来襲>

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 文永11年10月20日(太陽暦11月19日)、日本はその歴史上初めて、異国の侵略を受けました。
「文永の役」、いわゆる元寇です。
博多の湾内は、前日から蒙古の軍船で埋まり、その数900隻余り、既に対馬、壱岐を攻略し、その守備軍を全滅させ、今当に九州本土に達したのでした。

 蒙古は国号を「元」と称し、中国北部を領土として、朝鮮半島も完全に制圧され、高麗は属国となり、日本もその勢力下に置こうとしていました。
中国や高麗から徴兵された将兵の数、28000人、その他高麗が、供与した水夫は6800人に上ります。

 夜が明けると、蒙古軍は博多湾の西方に上陸を開始し、人馬供に大集団を成し、ときの声を上げ、日本側に襲い掛かります。
日本軍は、其れまでの戦いと全く異なる戦法(一騎打ちに対する集団戦法)に苦戦を強いられ、善戦はしたものの、じりじりと後方に押され、夕方には、博多の本陣も突破され、総崩れとなり南に向かって退きます。
改めて、大宰府の守備を固めて、改めて蒙古軍を食い止める戦法をとりました。
蒙古軍は、博多の町を席捲して、箱崎方向(東向き)に軍を進め、町には火が放たれます。
この日は、朝から曇り空でしたが、夕方から雨となり、南へ退いた人々は、遥かに望む猛火を見て、降りしきる雨に涙を流しました。

 恐ろしい一夜が明けると、蒙古軍の姿が無い!
海には、軍船の姿も無く、町には、兵の姿も無く、僅かに、志賀島の砂州に一隻が、打ち上げられています。
蒙古軍は、昨夜の内に退去していたのでした。
昨晩は、大風が吹き、そん為に蒙古軍の大船団は姿を消したのでしょうか?
奇跡でした。

 歴史書には「一夜の大風雨によって、敵船の大半は転覆した」と記述され、7年後の「弘安の役」(1281年)の時も、台風によって蒙古軍は、敗退したというのが、従来の定説、通説でした。
近年「文永の役を終結させたのは、台風ではない」との見解が発表されますが、事実10月下旬に北部九州に到来する台風は、有りません。
又、信頼すべき資料、文献に台風の来襲を明示したものが無い事から、蒙古軍は予定して退却したのだと考えられるとしたものが、新設の根拠に成っています。

 この日の戦闘を有利に展開していた、蒙古軍は、なぜ撤退したのでしょう?
元の記録によれば「軍が整わず、又矢も尽きた為」と在り、更に「疲れた兵を持って、大敵と戦う事は不利」と判断した為でした。
蒙古軍は、作戦を中止して、撤退したのですが、確かにその夜、大風が吹きました。
高麗の記録や、京都における公家の日記でも、はっきりと「大風雨」又は。「逆風」が在った事が記されていて、疑う余地は無く、台風では無いにしても、蒙古軍の船団は、この気象状況によって大損害を受け、溺死する者が多数に及び、高麗では、未帰還者の数を13000余人と記しています。

 一日の戦闘に28000人の全軍が上陸していたとは、作戦上からも考え難く、上陸作戦の常識でも実際に上陸したのは、10000人程度と思われます。
従って、犠牲者の大半は、風による遭難で在り、過半数の軍勢は続いて上陸すべ船内に待機していたはずです。
しかも一帯の占領も行う事無く撤退した事は、日本側の抵抗の強さに圧倒された為かも知れません。
もし、翌日も新手を繰り出して、作戦を継続しておれば、恐らく大宰府迄突破され、現在の福岡市一帯は、大損害を被ったに違い有りません。

 蒙古軍はなぜ撤退したのか?としての疑問は依然として残る訳ですが、推察すると、騎馬戦、陸上戦に長じた蒙古軍も、海を越えての作戦は、不利で在ったと思われ、日本への遠征は2度試みられて、供に失敗し、後にはジャワ遠征(1291~1292)も又失敗し、ベトナムに対する遠征(1284年)も暴風雨による大損害を免れませんでした。

続く・・・
2009/11/03

歴史の?その28

<チンギス・ハーンの墓は何処に>

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 広大な草原を、一群の人々が、1頭の雌ラクダを引いて現れました。
或る処迄来た時、人々は立止り、雌ラクダを放すと、ラクダは草原の中を歩き周り、やがて一箇所に立止ると、天に向かって、悲しげに嘶きました。
人々は、其処が1年前に造った墓で有る事を知ったのです。

 1年前、この場所に死者は埋葬されたのでした。
埋葬した後、土を被せ、その上を数百頭の馬を走らせて、しっかりと踏み固め、親子のラクダを連れて来ると死者を埋めた真上で、仔ラクダを殺しました。
その時、親ラクダは、子供の死体の匂いを嗅ぎながら、悲しく嘶いたのでした。

 1年が経ち、墓所には、草が一面に茂り、どの位置が墓所で在るのか見当がつきません。
其処で、昨年の親ラクダを連れて来たのですが、親ラクダは、自分の子供の死んだ場所を、永く覚えているからです・・・モンゴル人の埋葬習慣に関する書物には、この様に記されています。

 モンゴル人をはじめ、北アジアの人々は、死者を埋葬しても墓所の目印を、設けませんでした。
従って、王の墓所で在っても、長い年月が経つ内に忘れ去られ、モンゴル帝国の皇帝達の墓所も、現在では確認出来ず、チンギス・ハーンについても同様なのです。

 1227年の夏、チンギス・ハーンは、タングート攻略の為、中国西部、現在の甘粛省深くに遠征した折、病に倒れ、
死去は、8月18日の事と伝えられますが、この英雄の死は、厳重に伏せられ、其れは又、チンギス・ハーンの遺言で在ったとも云われています。
遺骸は、モンゴルの兵士に厳重に守られ、粛々と草原の道を北に向かい、その途中で葬列に出会った者は、例外無く命を絶たれました。
かくして、ケルレン河の源に近い本営に達した時、初めて喪は発せられ、遠征中に皇子や将軍達の下にも、使者が急ぎました。
最も遠くに遠征していた者は、3ヵ月の後にようやく、本陣に到着したのでした。

 葬儀の終了後、遺骸は聖なるブルカン山の山中に深く埋葬され、其処は、オノン・ケルレン・トラの3河が源を発する土地でした。
嘗て、チンギス・ハーンは、この地で狩猟を試みた時、一本の大樹の陰に休んだ折、左右の者に、自分が身罷ったら此処に葬って貰いたいと語ったと伝えられています。

 チンギス・ハーンがこのブルカン山中に埋葬された事は、恐らく事実と推定されますが、場所の特定が全く出来ないのです。
伝えられる話では、やがて墓所には、樹木が繁茂して密林と成り、果たしてどの場所に英雄が眠っているのか、知る者が無くなってしまいました。
又、チンギス・ハーンの墓所は、如何なる者も近づく事は禁じられ、彼の死から1世紀後の世でも、モンゴルの人々に神聖視されていました。

 処で、チンギス・ハーンは何歳で、この世を去ったのでしょうか?
是も又、多くの説が在り、72歳、66歳、60歳と分かれているのは、その生年が、1162年とする説と、1167年とする説が現在でも対峙している為で、是等を特定させる資料も存在しませんが、12世紀中葉に生きた人物で在り、日本では、平清盛の時代に相当します。
尚、源義経が北海道から、シベリアを経てモンゴルの地に至り、チンギス・ハーンに成ったと云うお話は、良く耳にされると思いますが、是は後世の創作で、事実無根の俗説です。

 チンギス・ハーンの父親は、イェスゲイで在り、モンゴル国の由緒正しい貴族且つ豪傑で、その家系もモンゴル人の間で伝承され、十代前迄正しく辿る事ができます。
母親は、ホエルンと呼ぶ才女で、最初メルキト国の男性に嫁していたところを奪い取られて(略奪婚)、イェスゲイの妻に成ったのです。
ホエルンから、チンギス・ハーンの他、4人の弟妹が生れました。
尚、井上靖の「蒼き狼」では、ホエルンがメルキトに居た事から、チンギス・ハーンの本当の父親もメルキト人では無いかとの話も在りますが、是は、作品におけるフィクションで、事実とは異なります。

続く・・・
2009/11/02

歴史の?その27

<未解読の文字>

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 10世紀初頭、日本では平安時代前期、延喜7年(907年)、唐は終に滅亡します。
是より、中国華北の地に五つの王朝が、盛衰を繰り返し、そのの地域でも、小国が交替する五代十国の時代と成りました。
同じ頃、モンゴル高原の東部には、モンゴル系契丹人の国が生れ、やがて契丹は、五代の混乱に乗じて、華北の地に侵入し、現在の北京、大同一帯の地域を領土に加え、更に国号を遼とします。

 一方、中国では、宋が五代十国の混乱を治め(960年)、統一国家が復活しますが、遼の国力は、宋の其れを凌駕し、じりじりと宋を圧迫します。
11世紀に成り、中国の辺境の西辺、黄河上流地方を中心に、チベット系国家が建国します。
この国家こそが、西夏であり西域との交通の要衝を治め、強勢でした。

 越えて12世紀、満州の地(東北部)にツングース系女真族(後年の清朝を建国)が、其れ迄、契丹人支配から分離独立を果たし、金を建国します。
金は、宋と同盟関係を構築して、遼を滅ぼし(1125年)、更には盟友である宋を攻め、皇帝一族を捕虜(1127年)とし、此処に宋は、一旦滅亡します。
但し、皇族の一部は、南方に逃れ、開封を都に揚子江流域以南を保ち、宋の王朝を復活するものの、華北の地は、悉く異民族である、金の領土と成りました。

 この様に、契丹、西夏、女真の各民族も中国の王朝を圧迫し、その一部を領土として猛威を振るったものの、武力は強大であっても、その文化は、到底中国に比較できるものでは有りませんでした。
彼等は、中国文化を吸収する一方で、漢字に倣って、独自の文字を創ります。
其れが、契丹文字で在り、西夏文字で在り、女真文字で在りました。

 しかし、どの文字を見ても、其の複雑さは漢字の比ではなく、漢字に似ているものの、読み方、文法も全く異なり、契丹文字は、モンゴル系言語を写したものであり、西夏文字は、チベット系のもので在りました。
彼等の国家では、この文字が正式な文字とされ、公文書の作成は、この複雑な文字が用いられたのです。

 其の読み方に関して、現在迄、数多の研究が進められ、その結果、是等の複雑な文字の構成法は解読され、特に西夏文字は、日本の西田竜雄氏によって、解読されました。
しかし、契丹文字や女真文字は、未だ未解読のまま残されています。

 文字を創るという行為は、民族としての自覚が高くなった結果に相違ないものの、是程に難解な文字を創り、又読みこなせたのでしょうか?
余りに使い難い文字で在った為、国の崩壊と供に忘れられ、誰も読む事が不可能に成るのです。
文字は、使い易くしなければ、普及しません。
日本の「かな」文字の発明が、どれ程、日本文化発展に貢献したでしょうか。

 13世紀のモンゴル人は、ウイグル文字(トルコ系)を真似て、モンゴル文字を創り、後に清朝を建国した、女真族は、更にモンゴル文字を真似て、満州文字を創りました。
この満州文字は、「かな」と同様に表音文字で在り、15世紀に成立した朝鮮文字(ハングル)と供に、後世迄残りました。

 中国と接する南の国々、特にベトナムも、日本、朝鮮と同様に中国文化の影響を強く受け、ベトナムも漢字表記では「越南」で在り、「胡志明」と書いてホー・チミンと読み、「奠辺府」と書いてディエンビエンフーと読みました。

 やがて、14世紀には、漢字を利用して、ベトナム語を表記する独特の文字(チュノム)を創りましたが、漢字をそのまま使用したものも在れば、字画を簡素にしたもの、或は合成したものも在りますが、実際に使用するには、不便だったと思われ、事実、フランスがベトナムに進出する様に成ると、ローマ字でベトナム語を表記する事が、一般に普及したのでした。

 中国を廻る諸民族の文字は、何れも簡略化の道を辿りますが、契丹と西夏、更に女真は、殊更に複雑な字形を創り、普及されぬまま、文字も国家も滅亡したのでしょう。
是等の文字も何れ解読される時が、来るのでしょうが、西夏文字を除き、解読不可能な文字として、現在も残っています。

続く・・・
2009/11/01

歴史の?その26

<敦煌文書>

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 中国大陸、河西通廊を西へ西へと進んだに果てに、敦煌の町は在りました。
中国の絹は、ここから「絹の道:シルクロード」を通って西へ、遠くは遥かギリシャ、ローマ迄運ばれ、西からの品物や文書は、敦煌を経由して中国、朝鮮、日本に送られて行きました。
仏教もいち早く敦煌へ伝授し、インドや西域で営まれた石窟寺院が、敦煌の周辺に造られたのでした。

 敦煌周辺の石窟寺院の内、最大のものは、莫高窟で、千仏洞とも呼ばれていました。
4世紀の半ばから造営され、隋・唐・宋の時代を経て、14世紀、元の地代に至る迄石窟は、造営され続け、約1.6kmの断崖に大小600余りの洞窟が掘られています。
しかし、遠い辺境の石窟は、何時しか中国の人々から忘れ去られ、遺跡も荒廃が進んでいたのです。

 19世紀も最後の年、1900年、この千仏洞に暮らしていた、王道士(道教の僧)によって、石窟の一つに大量の文書が秘蔵されている事が判明しました。
其処には、経典、庶民の生活記録、日常の取引記録、或は、牧童の恋歌迄、石窟の奥にある小部屋にぎっしりと詰め込まれ、入り口は、泥で密封されていました。
王道士は、この発見を役所に報告したものの、役人達は、古文書に関して一切興味を示さなかったと云います。

 この発見に着目したのは、寧ろ諸外国で、1905年、ロシアの探検隊が訪れ、若干の古文書を持ち去り、1907年には、イギリスの探検家スタインが、窟を訪れます。
スタインは、王道士を上手く操り、1万点に及ぶ文書類をロンドンに運びました。
1908年、フランスの東洋学者ペリオが訪れ、アジアの言語に通じた彼は。石窟内の文書から特に貴重な物を5000余点選び出し、パリへの帰国途中、北京でその一部を公開したのですが、それは、中国の学者達を震撼させるに十分な資料だったのです。

 彼等は、時の中国政府に働き掛け、取り残された文書類、約1万点を北京に運びました。
其の後、1912年に、日本の大谷探検隊が、1000点に近い古文書類を日本に運び、1914年には、再びロシアの探検隊が、訪れています。

 こうして現在迄に知られた、敦煌文書は、総数4万点に近く、その大部分が5世紀から、11世紀に及ぶ未知の資料でした。
仏典、中国古典、キリスト教(景教)等の経典、漢文以外にチベット語、ウイグル語、更には死語となった中央アジア諸国の言語、文字で記された文書も多数発見されました。
更には、経典の裏には、戸籍が書かれ、又契約書、帳簿、習い文字に用いた紙片迄在りました。

 この様な日常の文書は、貴重ですが、この様な大量な文書類を、誰が、何時、如何なる理由で、千仏洞の一角に密封したのでしょう?
20世紀最大の発見の一つと云われる、敦煌文書が、如何なる理由で収蔵され、今日迄伝えられたかのかは、永遠に解からないと思います。

 敦煌文書は、5世紀から11世紀初頭のものであり、之等は11世紀に収蔵されたのでしょうか?
この時代、中国は宋の地代で、黄河の上流では、チベット系の西夏が建国していました。
やがて、西夏は、李元昊の時代、吐蕃、ウイグル等の周辺諸国を併合し、宋の領土に迫ります。
特にウイグルは、ヤグラ汗の御世、かつて強大な国家を築いたウイグルも、終に西夏の前に敗走し滅亡します。
当時、宋は既に江南、開封の逃れ南宋の時代となり、その国力を衰える一方でしたから、辺境の地、敦煌の人々が西夏の進行をどれ程恐れたかは、十分想像できます。

 石窟寺院の大規模な造営からも推察される様に、敦煌では仏教が盛んな町でしたから、何よりも大切な仏典を戦火から守る為、限られた時間の中でそれらを隠したのでしょう。
その時、経典だけでなく、手当たり次第にあらゆる文書類を運びこんだのか、不要な書類を収納していた窟に、重要な経典を詰め込んだのかは、現在では想像するしか方法が有りません。
種類を問わず、雑然と積み込まれ、しかも封印されていた石窟の意味を、現在の歴史家はこの様に推察しています。

続く・・・
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