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2009/12/25

歴史の?その77

<辻 政信氏の失踪:後編>

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◎各国情報機関も極秘で追跡

 僅かな情報が得られた事で、辻氏失踪の謎は、かえって大きな謎を呼び、一時は日本国中の話題と成りました。
外務省は、関係各国の日本大使館に徹底的な情報収集を指令し、関係諸国にも、又国際赤十字にも強力な捜索活動を要請しました。
無論、アメリカの中央情報局をはじめ、各国の情報機関も、独自の関心から極秘の調査を開始します。

 昭和38年秋、既に失踪から2年以上を経過していましたが、非常に確度の高い情報が届けられます。
自由民主党の森山 欽司代議士と駐在ラオス大使の蓮見氏が、ラオスのフォンバサン内相と会談した時、「1961年4月、私が中立派大使としてバンビエンでラオス三派の停戦交渉にあたっている時、辻氏に会いました。彼は僧衣では無く、背広姿でした。辻氏は自分の身分を証明する為、エジプトのナセル大統領と握手している写真を見せ、是から北ベトナム(当時)のハノイに行きたいとの申し出を受け、私は自分の名刺に署名して、通行証を作成して渡しました。辻氏はその後、徒歩でジャール平原の方面に出発したと聞いています」との証言を得ました。

 確かに辻氏は、ビエンチャンからバンビエンに達しており、この確度の高い情報を基に、改めて捜索が行われましたが、終にバンビエンから先の足取りは、現在でも判明していません。
果たして、バンビエンから辻氏は、何処へ向い、どうしているのでしょうか?
当時から現在迄多くの情報、推測が成されており、其れを列挙すると、

1、ジャール平原からハノイに行き、更に中国領内に入った。
2、中国の吉林省で、ゲリラ部隊の訓練をしている。
3、ラオスから直接中国に入り、北京10日滞在していた。
4、アメリカ軍に何らかの理由で射殺された。
5、キューバでカストロ首相援助の仕事をしている。
6、某西側組織に抑留されている。
7、ビルマ、タイ国境付近にある旧国民政府系残党勢力地帯に潜入している。
8、ラオスから中国昆明に行き、其処で死亡した。

 以上の情報に確証が存在する訳ではなく、当時の国際情勢を反映した憶測も含まれている事が判ると思います。
しかし、辻氏は、冒頭でも述べた様に、かつて連合軍の厳しい追及を逃れて、三千里の潜行をやってのけた人物で、そうむざむざと倒れるとは考え難い事も確かなのです。
当時、かつての辻氏を知る人々は「必ず何処かで想像もつかない様な事をしているのではないだろうか」と其の生存を信じている人も少なく有りませんでした。

 日本議会史上類例の無い、現職国会議員失踪は、果てる事の無い興味をそそる不思議な事件なのです。

年内の更新は、本日で一旦終了致します。
元日から、更新を再開致します。
少々、早いとは思いますが、皆さんもどうぞ、良いお正月をお迎え下さい。
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2009/12/24

歴史の?その76

<辻 政信氏の失踪:中編>

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◎羽田を発って10日間の足取り

 昭和36年4月4日午前9時30分、辻氏は羽田空港を飛び発ちました。
“東南アジア諸国の視察と、戦没者の慰霊”が今回の旅行の目的で、国会には40日間の請暇届を提出していました。
その翌日、辻氏は南ベトナムの首都サイゴン(現・ベトナム社会主義共和国・ホーチミン)に到着、黒い背広にスーツケース1個の軽装。
「香港経由で此方に来ました。是からプノンペン(カンボジア)、バンコク(タイ)、ビエンチャン(ラオス)方面を訪問する予定です」とサイゴンで関係者に語っています。

 事実、その後の足取りは、サイゴン4泊、プノンペン3泊、バンコク3泊と予定通り印され、そして最後の目的地ラオスのビエンチャンには、4月14日に到着しました。
此処迄の足取りは実に明確なのですが、これから僅か数日後に、辻氏の消息は不明となるのでした。

 日本国内で“辻氏が行方不明”のニュースが明らかにされたのは、4月20日。
同氏の秘書が参議院事務局に「連絡が取れない」と報告、早速調査が開始されました。

◎僧衣に姿を変えて出発

 ビエンチャンのホテルに宿泊していたはずの辻氏は、一体何処に失踪したのでしょうか?
しかし、間もなく謎の一部は明らかに成りました。
辻氏は東南アジア風の黄色い僧衣に着替えて、日本の位の高い僧「高木」と名乗り、同地の有名な寺院であるクンタ寺院の僧侶二人の案内で、4月19日ビエンチャンを出発した事が判りました。

 その情報源によれば、辻氏は最初の二人の僧侶の案内で或る地域に赴き、次には又別の僧侶の案内を受けるという具合に、寺院から寺院をリレーする方法で、奥地に入って行ったと云います。
更に新しい情報では、6月頃ビエンチャンの東北に在る旧都ルアンブラバンに通じる国道13号線上に位置するバンビエンの街で辻氏の目撃証言も得られました。

 是で、辻氏が僧侶の姿をして奥地に進んだらしい事は判明したものの、謎は解けるよりも更に新たな謎が発生しました。
なぜなら、辻氏は何の目的でそんな場所へ行ったのか?何故僧侶に返送する必要が有ったのか?そして、辻氏は其れを誰にも知らせず、なぜ帰らないのでしょうか?

続く・・・
2009/12/23

歴史の?その75

<辻 政信氏の失踪:前編>

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◎「潜行三千里」の主人公

 一国の国会議員が外国で行方不明に成るという事は、その国にとって重大事件です。
海外で行方不明に成った日本人は少なく有りませんが、参議院議員・辻 政信氏が旅行先の東南アジアで謎の様に消えた事件は、日本におけるこの種の事件の中で、最も不可思議な事件なのです。

 現職の国会議員が、国会議員という身分で海外旅行に出て、そのまま行方不明に成ったのですから、国会、政府、公安とあらゆる機関が、最高レベルで捜索活動を行ったものの、辻氏の足取りは、或る一点から先が、全く不明になっており、生存、死亡も当時確認されませんでした。

 辻 政信氏の捜索は、現代日本の人捜しの中でも、最も興味深いケースと思われます。
辻氏は、当時58歳、昭和27年第25回総選挙に石川県一区から最高点で当選以来、衆議院に3回当選、昭和34年には、参議院全国区から当選しました。
しかし、政治家としての経歴より、辻氏にはそれ以前の経歴に一層興味をそそられます。

 陸軍幼年学校から陸軍士官学校、陸軍大学を首席で卒業した秀才中の秀才。
昭和16年、太平洋戦争勃発とともに、日本陸軍が破竹の快進撃をしたシンガポール攻略作戦を、作戦参謀として指揮、一躍その名前を高めました。
更にガダルカナル、インパール作戦等の参謀を務め、戦争終結時には、陸軍大佐でした。

 終戦当時、中国大陸に居た辻氏は、直ちに連合国側から、最重要戦争犯罪人に指定され、アメリカ、イギリス、中国の厳しい追求の中で、中国大陸を縦横に波乱に満ちた逃避行を続け、敗戦後の日本に忽然と姿を現します。

 生死の危機一髪の間を彷徨、冒険に満ちた潜行の手記を、辻氏は「潜行三千里」と題する本に纏めて出版、昭和25年から26年にかけて大ベストセラーに成りました。
辻氏は、日本の国会議員と言うだけでなく、以上の様な経歴から当時世界的にその名を知られた重要人物でもありました。

続く・・・
2009/12/22

歴史の?その74

<ロンドン搭の二王子:詳細編>

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 17世紀末にロンドン搭の階段の下で、少年の遺骨が2体発見された時、古い伝説がようやく立証されたかに見えました。
残忍な王リチャード三世は、幼い甥達を暗殺したこの上なく非常な叔父として、語り継がれています。
しかし、この伝説が何らかの形で、実証されている訳では有りません。
リチャードとロンドン搭に幽閉された王子殺しを描いた、シェークスピアの戯曲を通じて、王の悪名は広く知られる事となりました。

 しかし、ながら歴史家の一部には、もしリチャードを今日の裁判にかけたなら、証拠不十分で不起訴になるという意見があります。
確かに新しい証拠によっては、事件は全く違った展開を見せる可能性もあるのです。

 1483年にエドワード四世が崩御した時、弟のリチャードは新国王の摂政と成り、エドワードの王子達、幼い国王のエドワード五世とその弟、ヨーク公リチャードの後見人を任命されました。

 エドワード五世の載冠式の準備がロンドンで進められていた時、リチャードはノーザンプトン近くのストーニー・ストラトフォードに馬を走らせ、少年王をロンドン搭に連れ戻しました。
弟のヨーク公も母親の手でウエストミンスター寺院の内陣に匿われていましたが、程なく兄の居るロンドン搭に移されました。

 搭の中庭で兄弟の遊ぶ姿が、幾度か見かけられましたが、その後少年達は、公衆の面前から永遠に姿を消してしまいます。
トーマス・モアはリチャード三世伝の中で、彼が少年達を枕で窒息死させたと書き記しましたが、其れは30年以上後の噂話でしか有りません。

 リチャードが王子達を暗殺して、得をするような立場にあったのかについては、確かな証拠は存在せず、父王の死後、僅か2ヶ月目に少年達はロンドン搭の説教師達から、正統な嫡子ではないと指弾されていました。
彼らの母親、エリザベス・ウッドビルと1464年に結婚する以前、エドワード四世はシュロウズベリー伯爵家の娘と婚約しており、当時、この様な正式の婚約には、結婚そのものと同様の拘束力が存在した為、王の結婚は法律的には無効でした。
つまり、合法的な王位継承者はリチャードだったのです。

 しかし、リチャードが少年達を暗殺したのでは無いとすれば、誰が手を下したのでしょうか?
少なくともそうする動機を持っていたのは、誰なのでしょう?
研究者の間では、ヘンリー・チューダーであった可能性が、強いとする意見が多いのも事実なのです。
後に、1485年ボスワースの戦いでリチャード三世を倒し、ヘンリー七世となった人物、其の人です。

 ヘンリーはエドワード七世の庶子の曽孫で、其の為、王位継承順位から締め出されており、王位に就く為には、力に頼らねば成らず、彼は自分の地位を築く為に、ロンドン塔の王子達の姉、エリザベスと結婚し、エリザベスを王位継承者として布告します。

 しかしながら、リチャードの場合同様に、ヘンリーの有罪を立証する証拠も又存在しないのです。
只、少年達は叔父の手によって殺されたと、ヘンリーが公表したのは、ようやく1486年7月16日、リチャードの死後ほぼ1年を経過してからでした。
ヘンリーは、王座を獲得するやいなや、リチャードの残忍さと暴君ぶり暴き立てた彼が、なぜ幼児殺しの告発をそれ程にも遅らせたのでしょう?

続く・・・
2009/12/21

歴史の?その73

<コンスタンティヌスの誓書>

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 ローマ・カトリック教会の歴代の法王は、600年間に渡って、キリスト教世界の支配者たる資格を「コンスタンティヌスの誓書」においていました。

 コンスタンティヌスは、キリスト教に改宗した最初のローマ皇帝で、西暦315年に彼は、宗教的発心とハンセン氏病からの奇跡的な回復を感謝して、帝国の半分を奉納したとされていました。
帝国譲渡を記した彼の誓書によって、地球上のあらゆる教会に対する、精神的権威とローマ、イタリア全土、西欧世界の世俗的権力がローマ法王に与えられました。
それを打ち破ろうとする者は、「地獄の奈落で炎に焼かれ、悪魔や不信心者と共に滅ぶ」のです。

 3000語からなるこの誓書は、9世紀に初めて存在が知られ、東方対西方教会のいがみ合いに強力な後ろ盾と成りました。
この宗教紛争は、1045年に東方正教会とローマ・カトリック教会の分裂という悲劇を招きました。

 少なくとも10人の法王が、誓書をその権威の拠所と主張し、15世紀迄、それが贋作であると疑われた事は在りませんでした。
しかし、15世紀最大の神学者、クーザのイコラス(1401年~1461年)が、コンスタンティヌス大帝と同時代であり、その伝記を書いたカイザリア(パレスチナ北西部の古代都市)のエウセピウスが、皇帝の帝国譲渡に何も触れていない事に気づいたのでした。

 現在、誓書は保々贋作と、大部分の神学者は考えており、西暦760年頃ローマで編纂されたと見なされています。
しかもこの編纂者は、特に博識な人物では無かったらしく、例えば、誓書にはコンスタンティノープルに対する、ローマ法王の主権を書き記していますが、この都が建設されたのは、時代が全く異なり、フランスの哲学者、ボルテールが、「もっとも、鉄面皮な贋造物」と評したのも無理のない話です。

続く・・・
2009/12/20

歴史の?その72

<シオンの密約書>

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 帝政ロシア帝国の首都セントペテルブルグの市民は、1903年夏のある日、朝刊を開いて驚きの目をみはりました。
少人数の1グループが力による世界制覇を企み、その陰謀が発覚したという記事が、掲載されていたからでした。
その記事によれば、総ての都市は破壊され、反体制派は細菌注射により一掃されると書かれ、ユダヤ人の陰謀、「シオン長老会の密約書」事件の伝説が、ここに始まりました。

 セントペテルブルグの新聞には、「ユダヤ人、世界制覇の野望、シオン長老会の議事録を入手」との見出しを掲げていました。
この新聞の編集長は、反ユダヤ主義者として知られた人物で、情報の入手先を明らかにしていませんでしたが、フランス語で書かれた記録の翻訳であると主張します。

 このデッチ上げ記事は、あるユダヤ秘密結社の構成員が、世界制覇達成計画の道筋を辿ったという体裁を取り、野望は現在も進行中であるとも、伝えられていました。

 まずヨーロッパの民主的体制を覆し、ある種のプロパガンダによってキリスト教倫理の信頼を崩し、ユダヤ系実業家は物価を統制し、産業不安を起こし、更にキリスト教徒の社会が崩壊すれば、爆弾と科学兵器によって戦争を開始する筋書きでした。
この馬鹿げた報道は、なぜか広く信じられ、「密約書」が暴露されて2年目の1905年、モスクワの大司教は、信仰に対する警鐘として、市内の全ての教会に問題の記事の写しを掲示させた程でした。

 しかし、「密約書」が真に広く流布したのは、むしろ第一次世界大戦の後であり、イギリスでは”タイムズ“紙が反論と同時にそれを記事にし、ドイツでは1920年に翻訳が出版され、10万部を一度の販売する勢いでした。

 時の自動車王ヘンリー・フォードは、1920年代に「密約書」の流布に力を貸し、彼は自社工場の在るデトロイトに近いディアボーン市で発行していた自分の新聞“インデペンデント”紙に他の反ユダヤ主義記事と合わせて「密約書」の一部を転載しました。
彼は後にユダヤ系市民に謝罪し、彼等への友情を表明します。

 この悪質なデマを企んだ張本人は誰だったのでしょうか?
首謀者は2人居り、当時パリに在住していた、ロシア人政治記者イリヤ・ティオンが政敵を葬るために仕組んだと云われ、彼は極端な保守反動で「密約書」の中には、幾つか彼自身の意見に大変近い表現が在り、ロシア皇帝に自由主義者は危険人物であると印象づける手段として、書かれたとも考えられています。

 しかし、遥かに容疑の濃い人物は、皇帝の国外秘密情報機関長ピョートル・イワノヴィッチ・ラフコフスキーなのです。
ラフコフスキーは其れまでにも、反ユダヤ主義宣伝の著作を数冊執筆し、世界的なユダヤの陰謀が、ロシアを根拠地として行われていると堅く信じていました。
彼の敵は多く「密約書」の中の数節は、暗に彼等を誹謗しているとも解釈できました。
又、パリに居たユダヤ系ロシア人将校エフロンは、敵の一人として実名で記載されている程でした。

 ラフコフスキーは、パリに本拠を構えて18年間スパイ活動を続け、1902年に召還され、1917年のロシア革命後、パリの事務所を閉鎖する為に赴いた、新政府の役人にラフコフスキーの元部下が「密約書」がパリで作られその首謀者が、ピョートル・イワノヴィッチ・ラフコフスキーその人でした。

続く・・・
2009/12/19

歴史の?その71

<ナポレオンの財宝:参考>

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 ナポレオンの財宝、その夢と可能性は比較的高いものですが、もし発見された場合、その所有権を主張する、第三の人物が存在しています。

 事実「当家は、債権者であり、ナポレオン・ボナパルトには債務が存在する」と主張する人物が、現在ドイツに居住しています。
その人、チェール一族はイタリア、ベネチアで大船主であったご先祖のジャン・チェールは、ナポレオンのイタリア侵攻の際、軍資金として700万ポンドの財産を強制的に召し上げられました。

 只、ナポレオンも義理堅く、"借用書”を発行しており、「確かな証拠の文書が存在する」と、この一家は、200年近く時のフランス政府にその返還を迫っています。
チェール一族側の試算によると、その金額は、利子を加えて12億5000万ポンドに迄増大しており、フランス政府としても、ナポレオンの財宝でも発見されない限り、対応できないと苦慮しているとのお話です。
2009/12/18

歴史の?その70

<ナポレオンの財宝:後編>

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◎歴代ロシア皇帝による探索

 この様な経過から、ロシアの地の何処かに“財宝”は隠匿される事と成りましたが、この事実が現実のものとして明るみに出たのは、第二次世界大戦終結後、当時のソビエト政府が旧帝政ロシア外務省の未発表資料を公開した時の事でした。

例1
1815年10月21日付、元プロイセン首相エンゲルハルトより、同国国王宛書簡

1812年3月、エンゲルハルト私邸にロシアから生還したフランス人将校2名が止宿した。その2名の目撃談として、「コブノ市(現:リトアニア共和国カプナス市)郊外の教会付近で、土木作業中のフランス砲兵を見かけた。彼らは財宝を詰めた木箱を地中に埋め隠したが、80万フランに相当する金額であると言っていた」。

同書簡はプロシア国王から、ベルリン駐在ロシア大使を通じて、当時のロシア皇帝に渡されているものの、発掘作業が実際に行われたか否かについては、記録されていません。

例2
1823年10月付、近衛兵本部副官フリデリクスより、本部宛書簡

「ナポレオン軍に徴兵され、捕虜と成ったドイツ人傭兵の告白により、大ダル4個に分納された財宝の隠匿先が判明した為、その証言に基づき旧ミンスク・ボリゾフ市近郊のベレジナ川流域探索を行った」。

この書簡も結果については、不明ですが、皇帝の特令によって、発見の暁には、その半額が下賜される旨、明記されています。

この後、侍従武官長ペンケンドルフの指揮の基行われた大捜索(1839年~1840年)迄、歴代皇帝は、度々“ナポレオンの財宝”捜索を実施し、又は半額下賜の夢を追って、ロシアへの入国申請を行う者も多数に上りました。

◎黄金の湖

 さて、木箱、大ダルと説は様々ですが、それが分散隠匿されて可能性も充分に在り、その総量は判りません。
その所在地も、ビリノ(リトアニア共和国・ヴィリニュス市)、ロシア共和国スモレンスク・オルシャ(ベラルーシ)間、ボリゾフ近郊と様々ですが、この何れもが、ナポレオン軍のモスクワ遠征軍退却路上に位置する事も確かで、何れかが正しいなら、他は間違いと言う意味では有りません。

 この中で最も可能性が高い場所が、モスクワ・スモレンスクのほぼ中間に位置する付近。
1812年11月2日、クツゾフ将軍の追撃を受けた際、「“財宝”をスモレンスク街道に沿った小さな湖水に沈めた」との通説が最有力候補なのです。

 ナポレオン軍のモスクワ撤退開始は、10月19日、スモレンスク到着は、11月中旬です。
逆算すれば、先之11月2日は、恐らくモスクワ・スモレンスクの中間に位置するロシア共和国ウイジマ市付近と推定されています。

 先に記述した、ソビエト政府によって水質、土質調査されたストヤーチエ湖は、ウイジマ市から39kmの場所に位置し、勿論、セント・ヘレナ島の改修工事では、この種の記録は発見されませんでしたが、同湖を基準点と判断するのは無謀な事とは、思えません。

 はたして、同湖水の高濃度銀含有量は、“財宝”の場所を暗示するものでしょうか?
例え、発見された時は、他にも多くの“ナポレオンの財宝”が、現実に隠匿埋蔵されている事の証明にも成ります。
古くから云われる様に、スモレンスク街道は、“黄金の街道”なのでしょうか?

2009/12/17

歴史の?その69

<ナポレオンの財宝:中篇>

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◎悲劇のモスクワ撤退

 私達が、ナポレオン・ボナパルトに関して抱くイメージは、戦争、軍隊と云った荒々しい面ですが、一方、国民投票によって皇帝に就任した彼は、カトリック信仰を解禁し、フランス銀行を設置し、初等・中等教育拡充の為学校を大々的に増設し、メートル法を制定し、個人の自由平等を柱とする民法典を作りと云った面は、佳麗な戦闘記録に隠されて、つい見落とされがちです。

 同様にモスクワからの雪の退却についても、もっぱら彼の悲劇的運命のみが強調され、モスクワで“取得した物”については、語られる事は少ないのも事実ですが、“奪われた人々”に取っては、忘れる事は出来ない事も事実なのです。
帝政ロシアに在っては、“ナポレオンの財宝”探索の長い歴史が存在します。

◎史実に残る財宝

 ナポレオンが、ヨーロッパ各国から徴兵した、大混成遠征軍が、アレクサンドル一世統治下の都モスクワに入城したのは、1812年9月15日、ロシア軍は焦土作戦を展開し、火を放ってモスクワから撤退します。

 缶詰と言う“近代食品”はナポレオンがこの遠征の為に、携行用保存食のアイデアを公募して生まれたものと云われています。
しかし、結果的に食料欠乏が、ナポレオン軍の致命的失策となり、途中の町にもモスクワにも、ロシア軍の撤退した後には、一粒の麦も残されていませんでした。
そして迫り来る“無敵の冬将軍”後年、ナチス・ドイツ機械化部隊を尽く破滅に持ち込んだロシアの冬。
飢えと寒さに追われて、ナポレオン軍は空しく、モスクワから撤退します。
ニーメン川を渡って進軍を開始した時、60万人を数えた遠征軍は、モスクワ撤退時10万人、兵站基地と成ったスモレンスク迄到達した時5万人、ベレジナ川を渡ってロシアの勢力圏を脱した時には、3万人に満たない数でした。

 この数字は、遠征軍の帰路が如何に悲惨なものだったかを、物語っていますが、ナポレオンがモスクワ撤退にあたって、膨大な数に及ぶ、美術品、宝石、什器、武具等を略奪したのも、史実に明らかなのです。

 飢えと寒さによって疲弊した軍隊、激しい追撃を行うロシア軍、900kmを越す長い道程、この状況で多量の“財宝”を加える事は到底無理な話で、ナポレオン軍は、略奪した是等を、廃棄若しくは、隠蔽するしかないのでした。
恐らく、敗走時には、フランス士官によって管理運搬されたのでしょうが、やがて“荷物”となり部下の将兵に預けられ、更には“厄介物”としてプロイセン、オーストリア、オランダ、バイエルン、ポーランド等の外国人傭兵にリレーされ、最後は命に替え難いとされ、遺棄乃至隠匿されたと推察する説が大部分なのです。

続く・・・

2009/12/16

歴史の?その68

<ナポレオンの財宝:前編>

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 昭和27年(1952年)の年末、アフリカ南部の大西洋に浮かぶセント・ヘレナ島で、遺構の修築工事が開始されました。
ナポレオン・ボナパルトが、失意の生涯を終えた島で、島自体はイギリス領ですが、ナポレオンが晩年を終えた建物はだけは、フランスの所有で、その建物が長年の風雨と白蟻に侵食された為、フランス政府がイギリス人建築家バシル・ハート氏にその修築を依頼したのでした。

 遺構の修築と言う、現在なら良く伝えられる事柄なのですが、別の観点からこの作業を注目した人々が、存在したのも事実です。

 昭和36年(1961年)11月、旧ソビエト連邦の青年共産同盟機関紙「コムソモリスカヤ・プラウダ」が、モスクワ・スモレンスク間に位置する、ストヤーチエ湖についての報告書を掲載しました。
同湖の銀含有率が、通常の湖水の100倍に達し、又水底調査の結果、湖底に“伝導性の高い硬い物体”が存在している事が判明しました。

ナポレオンの遺構の修築工事と、ソビエト領内の湖水の銀含有量調査結果が、どの様な関係にあるのでしょうか?
つまり、遺構修築工事において、ナポレオンがロシア遠征のおり、ロシア領内から略奪した貴金属品の埋蔵場所を印す何かが発見されるのでないか?と期待された上、上述のソビエトの新聞発表が余りにも符合するのです。

 このお話が、事実なのか、虚構なのかは判りませんが、2世紀近くを経過しても尚、存在し続ける歴史の謎なのです。
一代の英雄偉人には、まず必ずと言って良い程、財宝伝説がまといつきます。
其れは、英雄偉人その人に抱く尊敬や懐かしさの念の変形であり、一攫千金の夢の仮託なのでしょう。
しかし、“ナポレオンの財宝”に関する限り、其れは明らかに「史実」と云われています。

続く・・・

2009/12/15

歴史の?その67

<琥珀の間の行方:後編>

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 エカテリーナ宮殿の踏み込んだドイツ軍が、最初に目をつけたのは、“琥珀の間”でした。
此処は、55㎡に及ぶ室内の壁面全体が、精巧な琥珀の彫刻によって埋められており、部屋そのものが財宝で有り、美術品でした。
琥珀の間に使用された琥珀の総重量は6トン、約10万個に及ぶが、エカテリーナ2世が祝典応接室の名目で1770年に完成させた。

 本来は、1700年代の初め、プロシアのヴィルヘルム一世が自分の書斎として造営を命じ、後にロシアのピョトール大帝に献上した、歴史的宝物で、大帝の没後は、エカテリーナ宮殿の一室に移設されていました。
エカテリーナ2世はこの部屋をこよなく愛し、自らの許しがなければ入室を認めない禁断の部屋でした。
ドイツ軍は“琥珀の間”をそっくり取り外して、他の貴重品と共に、遥かは離れた東プロイセンのケーニヒスベルグ(現:カリーニングラード)へ移送してしまいます。
この作業を指揮したのは、ナチス幹部のエーリッヒ・コッホでした。
独ソ戦終結後、ソビエト共産党は、この為の国家調査委員会まで設置し、関係者に対する懸命な追求を行ったものの“琥珀の間”が一端ケーニヒスベルグの美術館に、隠匿されたところ迄は解明できましたが、其処から先の情報を得る事が出来ませんでした。

 最大のキーパーソンであると思われた、同美術館の館長 ロード博士が、ソビエト国家調査委員会の厳しい尋問のも屈せず、突如、その婦人と共に死体となって発見される事件迄発生しました。

 そして、もう一人の証人、ナチス幹部のエーリッヒ・コッホは、潜伏先のポーランドで逮捕され、重要戦争犯罪人として、死刑宣告を受け、刑務所に収監されました。
しかし、“琥珀の間”については頑強に口を閉ざし、戦後20年を経過した頃、僅かに「ユダヤ人を使い、市内ボナルト地区に在った教会地下室に収納した。作業後、教会を爆破して地下室を塞ぎ、作業したユダヤ人を全て銃殺した」と伝えられています。
肝心の教会の名前や、所在地に関しては「全く忘れてしまって、思い出せない」との言葉で結ばれていました。

 ケーニヒスベルグは、旧ソビエト連邦領でも、ポーランド国境に接した、バルト海に臨む町で、戦火と戦後の都市復興計画で、町の様相は細部に至る迄変貌しています。
現在でも、この町の何処かに・・・?

 現在のエカテリーナ宮殿にある琥珀の間は、ロシアが国家を挙げて復元しました。
サンクトペテルブルクに建都300年、ドイツ軍に持ち去られてから62年後の2003年5月の事でした。
復元には24年間の歳月を要し、この式典がフランス、エビアン サミットの前だったこともあり、小泉首相はじめ各国首脳が集まった事はまだ記憶に新しいと思いますが、その際琥珀の間も各国首脳に披露され日本のテレビでも紹介されたのでご覧になった方もいらっしゃるのと思います。
もちろん招待された首脳の中にはシュレーダー独首相も含まれており、確かにドイツによって持ち去られた琥珀の間ですが、復元に際し、大きな資金提供をしたのもドイツなのです。

2009/12/14

歴史の?その66

<琥珀の間の行方:前編>

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 アドルフ・ヒトラーの最後:前編・後編にたくさんのお言葉を頂戴致しました。
本当に有難うございます。
その中に“琥珀の間”についてお尋ねなった方がいらっしゃいました。
第二次世界大戦、特に東部戦線の概要について、相当な知識をお持ちの方と思いますが、今回、私も“琥珀の間”について書いて見たいと思います。

 先にも述べました様に、アドルフ・ヒトラーの最後には当時多くの疑問が在り、曖昧模糊とした結末の様に思われましたが、現在では、ローパーによる“ヒトラーの最後”がほぼ定説となっています。
今回の部分は、歴史の分野でも正史ではなく、どちらかと言えば外史の範疇に属する部分になりますので、参考程度に読んで下さい。

 ドイツ第三帝国が、1939年のポーランド侵攻以来、電撃作戦の名の基に破竹の快進撃と続けた時期、ヨーロッパは当に暗黒の時代でした。
非占領地の人々は、レジスタンスを組織し、抵抗を繰り返しましたが、大きな効果を上げる事は出来ませんでした。
ナチスは、その侵略占領地域の美術工芸品を次々と、ベルリンに移送しました。
“琥珀の間”は、東部戦線の開戦後。ソビエト連邦内に侵攻したドイツ軍よって、ソビエト領外に持ちさられた、当時時価5千万ルーブル(180億円以上:資料が古く現在の時価は不明、昭和48年時)と見積もられる国家的財宝です。

 ドイツ軍は、レニングラード(現:サンクトペテルブルグ)郊外24kmに位置するプーシキン(旧称:ツァールスコエ・セロ「皇帝の小さな村」現:サンクトペテルブルグ市プーシキン区)に侵攻、ここには、エカテリーナ宮殿が在ります。

 女帝エカテリーナ2世と言えば、帝政ロシア華やかなりし頃、その絶大な権力を誇った皇帝であり、エカテリーナの王冠は、頂上に小さな十字架を立て、高さ27cmのドーム型に金銀、ダイヤモンド、ルビー、真珠等総計実に2858カラットの宝物で構成されています。
又、女帝が身に付けていた、巨大ダイヤ“オルロフ”は196カラットと言う比類無い大きさの宝物は、インドで発見され、1773年にアルメニア商人を通じて、ロシアのオルロフ伯爵の手に渡り、翌年、女帝に献上されました。

 以上2点を含む、諸々の財宝は、何れも現在、クレムリン最高会議場近くの宝物貯蔵庫“オルジェイナヤ・バラータ”に収蔵されていますが、此処には、南ウラルで産出した世界最大の自然金塊“大三角”の他ダイヤモンド“皇帝”等の貴石名玉が収納されています。

後編に続く・・・
2009/12/12

歴史の?その65

<北京原人化石の行方・後編>

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◎北京⇒天津⇒秦皇島⇒?

 さて、北京を列車で出発した化石は、天津を経由、東海岸の秦皇島へ向い、ここでバージに移され、アメリカ貨物船「プレジデント・ハリソン」号に載せられてアメリカ本土向う予定でした。
この行程の如何なる部分で、“開戦”となったのでしょうか?
列車の運行は、開戦前夜の空気の中で混乱しており、従ってダイヤ通りの運行は望むべくも無く、更に問題の列車は、ダイヤに存在しないアメリカ軍専用特別列車で在ったと云われています。

 もし、まず北京・天津間で列車が、日本軍に接収された(又は、混乱の為、運行不能に陥った)場合、日本軍が略取、非軍事品として廃棄した事が考えられます。
或は、列車は無事天津に到着したものの、天津で押収され、その価値を認められたとすれば、そのまま日本輸送船に移されたと考えられますが、日本の研究者の手には渡っていません。

 満州鉄道を経由して、無事、アメリカ海兵隊と共に秦皇島迄到着したものの、結果的に「プレジデント・ハリソン」号に積み込まれ無かったのは事実とされますので、他の船便若しくは、第三国へ送られた可能性が出てきます。
又、アメリカ海兵隊は、秦皇島で降伏している為、その際日本軍に引渡されたか、所持品として収容所を転々とする間に喪失したとも考えられます。

◎内幕

 “北京原人”の行方をめぐる諸説は、以上の通りですが、何れも確証が無く、又否定する事も出来ません。
以下の様な話も存在しています。
アシャースト大佐の下で軍医をしていた、心臓外科医ウィリアム・フォーリー博士が、昭和46年にニューヨークの自然博物館人類学部へ明らかにした話として、「化石は、実際には木箱に梱包されず、アシャースト大佐と同医師のトランクに分けて納められ、私物として携行した。軍人では無かった為釈放され時、フォーリー博士は自分のトランクの内一個を中国人の友人に、もう一個を天津のパスツール研究所に、更にもう一個を同じスイス系商社の倉庫に預けた」更に「その後、フォーリー博士は上海付近の収容所でアシャースト大佐と再会した際、大佐は化石を納めたトランクと思われる物を所持していた。やがてフォーリー博士は仙台へ、アシャースト大佐は北海道の炭鉱に移送された為、トランクも一緒に北海道迄運ばれたか否かは不明」と云います。

 アシャースト大佐は、戦後間もなく死亡している為、この証言の信憑性を確かめる事は、困難ですが、中国科学院の関係者は、同博士が、戦後26年間も理由無く、口を閉ざしていた事は理解できず、「トランクに納めた」証言は、中国人労働者の「木箱」と矛盾し、真偽の程はおぼつかないと否定的な見解を示しました。

 “北京原人”も戦争犠牲者の一人として、その所在調査は進んでいません。
何処かに現存している事を祈るばかりですが、この化石の貴重さ、重要性を当時の一般の人々は殆んど知らない事から、仮に売却、廃棄されて当時の中国人の手に渡った場合、この化石骨を「竜の骨」として薬用にされてしまう恐れがありました。
事実、古代文字の貴重な資料である、“甲骨文字”の多くも粉砕されましたが・・・。
しかし、その行方、所在を調査する責任の一端は、日本にも課されているのです。
2009/12/11

歴史の?その64

<北京原人化石の行方・前編>

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◎太平洋戦争の勃発

 北京から南西へ48km、周口店の小高い丘“竜骨山”の上に、中国科学院の博物館が在ります。
1972年10月1日の国慶節に開館しました。

 この山頂部分で、人類学上最大級の発見の一つ、“北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)”が発見されました。
展示館のすぐ外に問題の遺跡が在り、同館の展示物の中心も“北京原人”に関する資料なのですが、ここに展示されている、人骨化石は、レプリカなのです。
貴重な実物は、昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発の日を境に、行方不明に成ってしまいました。

 最初の二本の臼歯発見以来、アメリカ・ロックフェラー財団の資金援助で、大規模な発掘作業が実施され、其れまでに5個の完全な頭蓋骨を含む、約40体分の人骨破片が、動物化石や石器等と共に発見されていました。

◎列車に積まれた三つの箱

 開戦の12月8日、日本軍は北京に入城し、同地の「北京協和医学院(現・首都病院)」も軍によって接収されました。
直ちに、高井冬二東京大学教授(当時・東京帝国大学・人類学教室助手)が医学院に赴き、“北京原人”の現物資料を探しましたが、既に何処かに持ち去られた後で、徹底的な調査の甲斐なく、発見する事は出来ませんでした。

 その発掘資料は、同じく周口店から発掘された“山頂洞人(約1万~2万年前の旧人類)”の三つの頭蓋骨等共々、ロックフェラー財団が運営する「北京協和医学院」に置かれ、アメリカ系の研究者によって調査、研究が成されていましたが、日米関係が、風雲急を告げる雲行きと成った昭和16年、アメリカに帰国します。
化石は、医学院の倉庫に保管されましたが、その場所に保管する事は多大な危険を伴うと判断した、ヘンリー・ホートン院長は、より安全な場所である、アメリカ本国に移送する事を決定します。

 当時、北京駐在アメリカ大使館付武官アシャースト海兵隊大佐が、その責任を引き受け、化石は12月5日早朝、列車に載せられて北京を出発・・・と記録されています。
そして、3日後開戦の混乱が起こり、以降、“北京原人”の痕跡は消滅してしまいました。

 やがて、昭和20年8月15日、以後日本に進駐したアメリカ軍は、直ちに“北京原人”の所在を尋ねて、日本国内の関係機関、施設を調査しましたが、発見するに至らず、僅かに“山頂洞人”の遺品のひとつが東京大学人類学教室に在り、直ちにアメリカ軍が押収したに留まりました。

 勿論、中国政府もこの遺骨捜索に努めます。
その結果、開戦直前、アシャースト大佐の指示で、中国人労働者が化石を三つの木箱に納めて梱包、列車に運んだ・・・との証言が得られた事から、中国の研究者から「“北京原人”はアメリカに持ち出され、ニューヨーク自然博物館のコレクションに加えられている」との抗議が出された事が有りますが、同博物館関係者は、この事実を完全否定しています。
日本にも、少なくとも公にその存在が知られる形では、“北京原人”は存在していません。

後編に続く・・・
2009/12/10

歴史の?その63

<ルネサンス>

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         ミケランジェロ「リビアの巫女」

 十字軍の将兵や軍需物資の輸送に従事したイタリアの港湾都市、ヴェネチアやジェノバ等は、ついで東洋貿易にも進出し、繁栄しました。
東洋からは主に香料が輸入され、ヨーロッパからは銀、銅等が輸出されました。
この銀、銅は主にドイツから産出された為、内陸の交通路の要衝にあたる、ミラノ、フィレンチェ等のイタリア諸都市も繁栄する事と成りました。

 是等の諸都市の繁栄を背景として、イタリアには後世にその名前を残す偉大な芸術家が、15世紀から16世紀にかけて多く登場します。
文学方面では、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ等、美術方面では、ボッティチェルリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロ等がこの期間に登場し、当に天才の競い合いでした。

 この文化の急速な発展を“イタリア・ルネサンス(文芸復興)”と呼び、「ルネサンス」とは「復興」の意味であり、中世の「神」中心の文化に変わって、古典時代(ギリシア・ローマ)の「人間」中心の文化が復興するという意味でした。
しかし、研究者の中には、ルネサンスは中世文化の否定ではなく、かえって中世文化が開花したものとする、学説も存在します。

 イタリア・ルネサンスの殊にその人間性の発見と尊重の精神は“人文主義”と呼ばれ、次第に全ヨーロッパに影響を与えて行きます。
フランドル地方には、ファン・アイク兄弟、エラスムス、ドイツのアルブレヒト・デューラー、メランヒトン等の芸術家、学者が登場します。
イギリスでは、チューサー、トマス・モア、シェークスピア、スペンサー、フランシス・ベーコン等の文学者、哲学者が登場し、フランスでは、ラブレー、モンテーニュ等の文学者が登場します。

 “人文主義”はドイツに入ると、大学や知識人の中に深く浸透し、当時のカトリック教会に対して批判や改革を要求する“宗教革命”運動となって現れ、この運動の指導したのは、マルティン・ルターでした。

内容紹介
歴史の?その35 レオナルドの裏文字
歴史の?その36 モナリザ盗難事件
歴史の?その37 シェークスピアは実在したのか
歴史の?その38 ロンドン搭の二王子
2009/12/08

歴史の?その62

<仏教とカースト>

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 インドに関する、私達日本人の知識は、余りに少なく現実を正しく理解しているとは、言いがたいものがあります。
多くの日本人は、仏教の発祥地としてのインドを知るのみであり、カースト制度の表面を知るに過ぎません。
しかし、僅かな知識であっても、四民平等の仏教を生んだ国に、なぜカースト制度の壁が現在に迄及んでいるのか、疑念を抱かざるを得ません。

 実にインドの歴史は、残された記録が少ない為もあって、他の国にも増して、不明な部分が多い様です。
しかし、不明は不明として疑問に感ずる為には、やはり相当に知識が必要と思います。
歴史の態勢や、登場する人物の性格を理解した上でなければ、如何に不思議な事が在っても、その事象を謎として取り上げる事が出来ないのは、その為なのです。

 インドでは「12マイル毎に一つの言語が存在する」とさえ言われ、それ程インドには雑多な民族が混在していますが、是はインドの長い歴史が生んだ結果でした。

 太古のインダス文明を形成したのは、インドの先住民族であり、其処へアーリア人が侵入して、先住民族の一派と云われるドラヴィタ人等と混住、混血しつつ、バラモン文化を形成しました。
言うまでも無く、アーリア人はヨーロッパ系の民族と同種の人々です。

 10世紀以後、トルコ系の民族が西北インドに侵入し、イスラム文化をもたらしました。
やがて、イスラム勢力は、インドの大部分を征服し、16世紀にはムガール帝国が建国します。
其れまで、インド社会の主流を占めていたヒンズー教の上に、イスラム教の力が加えられたのでした。

 越えて近代には、イギリスの支配が始まります。
イギリスの分割統治政策の基に、インド古来の宗教や言葉、更にカーストの風習等も利用し、その差違を激化させました。
インド社会を古代さながらの貧困と無知の状態のままに置いたのも、イギリスの支配でした。

 しかし、インド人は、仏教の様な深遠な哲学を産み、科学思想の上においても比類無き英知を示しています。
私達は、改めてインドの正確な歴史を学ばねば成りません。

内容紹介
歴史の?その32カースト制度
歴史の?その33ゼロを知らなかった数学
歴史の?その34紀元の年
2009/12/07

歴史の?その61

<新大陸の発見と征服>

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 15世紀後半のヨーロッパ、殊にポルトガル、スペインは東洋への新しい航路を開拓すべく、活発に大洋に乗り出し、地理上の発見が続きました。
⇒1488年 バルトロメオ・ディアス 喜望峰到達、1492年 クリストバル・コロン 大西洋横断・アメリカ大陸を発見、1498年 ヴァスコダ・ガマ 東インド航路発見等。
この後、ヨーロッパ人の新大陸進出は、非常に急速度で行われました。

 ヨーロッパ人が初めて新大陸アメリカに到達した頃、現在のメキシコ湾沿岸からパナマ地峡にかけてアズテック王国が、南アメリカのアンデス山脈一帯には、インカ帝国が繁栄しており、特にアズテック王国は、6世紀から10世紀頃に繁栄した、マヤ文明の流れを継承していました。

 マヤ・インカの文明は、ヨーロッパでは既に過去のものと成った、金石併用文明の段階に当時も、留まったままでした。
是等の文化は、文化は旧大陸の文化と全くの無関係な文化では在りませんでしたが、長く旧大陸との往来が断たれていた為に、新大陸特有の特色ある文化と成っていました。

 例えば、インカは、石造建築や黄金細工に特に優れた部分を見せ、一部では脳外科手術迄行っていたにも関わらず、一方では、車輪の概念や文字の利用を知りませんでした。

 新大陸の住民達は、未だ鉄器を知らず、其処に新たに侵入したヨーロッパ人達は、剣等の鉄製品の他、鉄砲迄所有していました。
従って、新大陸の住民は、ヨーロッパ人の敵ではなく、1521年アズテック王国の首都ティノチティトランがスペイン人コルテスによって征服され、インカ帝国も1533年ピサロによって征服されてしまいます。

 スペインは、新大陸から、金・銀製品を集めてスペイン本国に送り、その為ヨーロッパでは、貴金属の価格が急落した程でした。

内容紹介
歴史の?その30 ジャングルの奥に
歴史の?その31 インカの秘宝
2009/12/06

歴史の?その60

<モンゴル帝国>

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 現在、モンゴルと言えば、モンゴル人民共和国、モンゴル民族、モンゴル高原の名前を私達は、思い浮かべます。
更にモンゴル人種(モンゴロイド)では、日本人、韓国人、中国人を含めて、アジア人種全体の呼称でもあります。
此処で、「ネイティブ・アメリカンはモンゴル人種に属する」と記述されていても、其れはモンゴル民族と同じものという意味ではなく、アジア人種という意味なのです。

 しかしモンゴルという名称が、是ほど広く用いられる様に成ったのは、チンギス・ハーンが大帝国を建国して以来の事でした。

 12世紀前半、モンゴルと言えば、現在のモンゴル高原の東方で遊牧生活を送る一部族の名称に過ぎませんでした。
其処にテムジン、後のチンギス・ハーンが現れ、モンゴル部族を統一し、更には周辺の諸部族を従え、現在のモンゴル高原を舞台とする大帝国を形作りました。
そして出身部族の名前を国家の名前とし、“大モンゴル帝国”と呼ぶ事が、正式の国家名称と成りました。

 チンギス・ハーンの帝国は、愈々拡大し、やがては、アジアの大部分から東ヨーロッパにまたがる大帝国と成り、大モンゴル帝国の名前は、当時の世界に広く知られる様に成ります。
因みにハーン(カン・汗)は、モンゴル語で「皇帝」を意味する言葉なのです。

 モンゴル民俗の西方には、トルコ民族が居り、東方には、ツングース(満州)民族が居て、合わせてアルタイ語族と呼ばれます。
その言語は、日本語、韓国語に酷似した部分もある事から、日本人もアルタイ語族に近い関係に在ると推察する学者は多いのです。
このアルタイ語を北方系とすると、中国語、タイ語、チベット語、ビルマ語は南方系に属し、是等の言語構造は、全く異なっています。

 其処で、東アジアの歴史上の民族系統に当てはめてみると、吐蕃、西夏はチベット系であり、是に対して北方の契丹はモンゴル系に属し、金、清王朝を築いた女真族は、純粋なツングース族に属します。
高句麗、渤海人は、ツングース系では在りますが、モンゴルとの混血民族と考えられます。

内容解説
歴史の?その28 チンギス・ハーンの墓は何処に
歴史の?その29 蒙古来襲
2009/12/05

歴史の?その59

<庶民の生活>

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 私は、中学生の頃、歴史を勉強していて気付いたのですが、当たり前の事が、意外と判らないものなのです。
昔の人々が、朝何時に起きて、如何なる物を食べ、どの様に生活して、何時頃床に就いたのでしょう?
この様な、極日常の生活模様が、良く判りませんでした。

 当然ですが、当時の人々は極々自然な普段の生活模様を、誰も記録してくれなかったのです。
現在でも日記を付ける人は多いですが、その際、決まりきった日常の暮らしの細部迄書き残している人物は、まず居ないと思います。
仮に存在したとしても、長い年月に内に、ありふれた記録は、捨てられてしまいます。
残されるのは、特別に価値があると認められたものばかりと成ります。
役所の文書に関しても、平凡なものは処分されので、庶民の戸籍等は一定の期間保存され廃棄抹消されてしまいます。
結果的に特殊な事件に関する文書等しか、後世に伝わりません。

 其処で、もし何らかの偶然によって、こうした平凡な記録が発見された場合、それは大発見と成ります。
敦煌文書が尊重されるのも、その様な背景が有り、此処には経典、絵画の他に、庶民生活の資料が残されていました。
それも唐の時代の記録資料が現存していたのです。
日本でも、正倉院には奈良時代の戸籍が保管されていますが、是はその裏側に仏教の経典が写されており、経典として保存されていたのでした。
当時を推察すれば、紙は貴重品でしたから(現在は、エコロジーの観点から裏紙を使用しますが)一端使用したからといって廃棄する事は勿体無いので、裏返して別の用途に使用する事によって、本来残らないはずの戸籍が、現在に伝えられたのでした。

 紙一つ取り上げても、時代によって、是だけ用途の差が出てきます。
其処に歴史の面白さが有り、難しさが有ると言えるでしょう。
紙の発明が中国で行われ、イスラムを経てヨーロッパに伝えられましたが、この事は如何なる歴史の書物にも書いて有ります。
しかし、其れだけ紙が貴重であった時代に、現在の私達が紙をもって為す用件を何で足していたのでしょうか?
現在なら、ペーパーレスとなり、パソコンに記録(記憶)する事で、何時でも見る事が可能ですが、この様な問題に関しては、歴史の書物も沈黙したままなのです。

 歴史の中の本当の謎は、この様な分野において無数に存在するのではないでしょうか?

内容紹介
歴史の?その26 敦煌文書
歴史の?その27 未解読の文字
2009/12/04

歴史の?その58

<三国から唐代へ>

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 3世紀初頭、漢帝国が滅亡すると、中国は分裂の形成と成りました。
魏・呉・蜀の三国が分立して、天下を争いますが、中でも最も強大であった魏は、やがて蜀を滅ぼし、魏を継承した晋は、呉を滅ぼします。
3世紀の末近く、中国には再び統一王朝が出現しますが、其れも僅かな期間に過ぎず、4世紀初頭には、北方及び西方から異民族の中国領内侵入が繰り返され、その北部はやがて異民族の支配下に置かれてしまします。

 晋王朝は南に下り、現在の南京を都と定め、是より以後、5世紀から6世紀にかけて、南京は宋・斉・陳の王朝が興亡します。
所謂、南朝です。
 
 一方、北方では、五胡十六国の時代を経て、5世紀にはモンゴル系の北魏が勢力を統一しました。
こうして、中国では南北朝の時代と成り、この形勢は隋の統一迄続きました。

 さて、日本の状態が詳しく中国人に知られ、且つ記録されたのは、3世紀の魏の時代です。
三国志の中の、“魏志倭人伝”に記載され、越えて5世紀には、大和朝廷が南朝の宋、斉に朝貢しています。
隋の統一時代は、我国では聖徳太子の時代(飛鳥時代)で、此処で初めて日本は、中国の王朝と対等な国交を行うに至りますが、この彼我の往来に関する詳細な点については、まだ疑問とすべき点が少なく有りません。

 隋の帝国は30年にして滅亡し、次いで唐が建国します。
唐は、8世紀に及んで、その絶頂期を迎え、都の長安は当時、世界最大の都市で在り、日本から遣唐使、留学生をはじめ、唐の文化を慕う人々が集い、そして長安は、国際色豊かな文化都市として発展しました。

 この頃、朝鮮半島の南部には、新羅が統一国家を形成し、半島北部から東北部にかけては、渤海が建国しています。
新羅も渤海も唐の制度に倣って、国家の体制を整え、殊に渤海は広大な領土を保ち、“五京十五府六十二州”の区画を立てて、“海東の盛国”と称され、唐に朝貢すると共に、日本にも奈良時代から平安時代にかけて、しきりに朝貢
します。
渤海との交歓の様は、我国の記録にも詳しく書き残されていますが、其処には、記録に欠けた悲話(秘話)も在りました。
故意であったか、偶然であったか、我国に伝わらぬ秘話こそは、私達同胞のいたましい運命を示す悲話でした。

内容紹介
歴史の?その23 曹操は悪人だったのか
歴史の?その24 遣隋使は何回あったのか
歴史の?その25 唐に献上された日本の舞姫
2009/12/03

歴史の?その57

<漢と匈奴>

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 紀元前221年、秦の始皇帝は天下を統一し、歴史上確認されている中で、中国において最初の大帝国を建設しました。
但し、始皇帝に関する出生等については、以前不明のままで、勿論、秦の王位継承者として生れてのでしょうが、実の父親は、宰相の呂不韋であったとも云われています。
ともあれ、始皇帝の治績は偉大であり、統一政治の推進は、広大な中国大陸を一つの帝国のもとに包括させ、中国民族の居住地域を今日の規模に近い程迄に拡大させ、中国の力がベトナム方面に迄及んだのもこの時代なのです。

 折から北方のモンゴル高原には、匈奴の勢力が拡大し始め、是も又強大な国家を建設していました。
是に対して始皇帝は、旧来からの長城を修築し、“万里の長城”を築きあげますが、この長城が、この後長く中国北方の境界と成りました。

 秦王朝は、15年にして滅亡し、是より漢の時代と成ります。
漢王朝は、紀元を挟んで400年間にわたり中国に君臨しますが、中国史上、最も長寿を保った王朝で在りました。
しかも漢の高祖は、平民の身分から興り、実力を持って帝国を創始し、その偉業は、後世の人々から君主の典型として描かれました。

 是ほどの高祖にして、尚悩まされたのが、匈奴の領土内侵入で、高祖自等、匈奴と刃を交え大敗を被っています。
漢の勢力が匈奴の力を凌駕するのは、紀元後2世紀後半、武帝の代迄待たなければ成らず、武帝の御世、漢の勢力は絶頂期を迎える事と成ります。

 さて、そもそも匈奴とは、如何なる民族に属するのでしょうか?
この部分が、今日においても明らかではなく、匈奴自等の記録が存在しない為、モンゴル系、トルコ系なのか、何れにしても、アルタイ語系に属する遊牧民族で在ったと、推定されています。

 匈奴王の下に赴いた女性の哀話、匈奴と漢との狭間で揺れた小国の悲劇、この南北二大勢力の対立に纏わる話題は、大変多く、舞台は中国、モンゴル、更には中央アジアに迄にまたがって展開します。

 中国人の足跡が、遠くパミール高原越え、西アジアに達するのも武帝の時代で在り、その頃、日本列島でも弥生時代を迎え、金属器の使用を知り、農耕文化を営むに至っていました。

内容紹介
歴史の?その20 王昭君の歩いた道
歴史の?その21 匈奴とフン
歴史の?その22 彷徨える湖
2009/12/02

歴史の?その56

<ローマ帝国の興亡>

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 ローマ帝国もギリシアと同様に都市国家から始まり(ロムルス・レムスの伝説的起源説では、紀元前753年)、イタリア半島の諸都市を次々と併合して、半島を統一、その後はシチリア島の併合を最初として、その版図は地中海全域に及んで行きました。

 ローマ帝国の領土が広がると共に、国内外の矛盾が大きくなり、紀元前2世紀後半からの約100年間は混乱の時代を迎えます。
特に大きな対立は、元老院派と平民派(マリウス、スルラの権力闘争)の対立、奴隷反乱(スパルタクスの反乱)が起こりました。

 紀元前60年、反元老院派の有力者3名(カエサル、ポンペイウス、クラッスス)は、“三頭政治”を始め、その一人、ユリウス・カエサルはガリア(フランス)、ブリタニア(イギリス)をも版図に加え名声を上げます。
是を嫉んだポンペイウスは、元老院と結託し、カエサルに軍隊を武装解除の後帰国する様、命じます。
しかし、カエサルはそのまま、軍を率いて「ルビコン川」を渡りローマに凱旋、更にポンペイウスを倒してしまいます。

 カエサルの名声は、更に高まりますが、彼は独裁者に成ろうとしていると疑われ、ブルータスに元老院で暗殺(紀元前44年)されました。
カエサルの後継者と成った、甥のオクタヴィアヌスは、帝国内の混乱を平定し、カエサルの暗殺を教訓として、皇帝の称号を辞退しましたが、元老院は「アウグストウス(尊厳者)」の称号を送り(紀元前27年)、事実上帝政が始まりました。

 帝政の前半200年間は、ネロの様に“暴君”と云われる者や、暗君も在位した時期も在りますが、比較的賢帝が多く、帝国は極めて安定的に統治され「ローマの平和(パックスロマーナ)」と後に云われる時代が続きました。
しかし、その後は軍隊の権力が強大となり、“軍人皇帝”等が続出し、又内乱の多発により、ローマ帝国は、395年東西に分裂します。

 ローマ帝国分裂の少し前から、アジアからヨーロッパにかけて「民族大移動」が始まり、ゲルマン民族がローマ帝国領内に移住し、最初は、ローマ帝国の末端を担う労働力となったものの、後には、傭兵隊長の一人、オドアケルが自らイタリア王を名乗り、西ローマ帝国は467年滅亡します。
 
内容解説
歴史の?その18 ルビコン川はどこの川なのか
歴史の?その19 ネロははたして暴君だったのか