2010/01/31

歴史の?その107

<シャクルトン調査隊の生還:後編>

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 翌日、彼らは島に上陸して横断し、反対側に在る捕鯨事務所迄行こうと提案しました。
しかし、サウスジョージア島の雪山や氷河の向こうに何が在るのか、誰一人として、其れを知る者など居ませんでしたが、シャクルトンは断固としてこのルートを試みました。
もし、海上を進んで、難破等の事態になれば、エレファント島に残してきた仲間は、死を待つのみと成るからです。

 彼らはキングホーン湾に上陸、洞窟を見つけ、アホウドリの雛を捕らえて食べた時は、余りの空腹に骨まで食べてしまった程で、近くに流れる河の水は、まるで蜜の様な味に感じました。
木の葉や苔を集めてベッドを作り、やっと2週間ぶりに安眠する事も出来ました。

 1916年5月19日、空が晴れて月が輝き、シャクルトン、クリーン、ウォースリーの三人は、同行する事が出来ない三人を残して、島の横断に出発しました。
ウォースリーが磁石で方角を調べ、行く先を示すと、三人は安全の為ロープでお互いの体を結んで進み、時には深さ60m以上も在る大きな谷に危うく、転落しそうになった時も有ったのです。

 終に三人は、尾根に到達、そこは鋭く切り立った場所で、足を両側に垂らす事が出来る程でした。
夜に成ると、霧と闇に退路を断たれ、もし動かなければ、間違い無く凍死してしまいますが、凍った岩肌に足場を作りながら降りて行く事は、時間が掛かりすぎてしまいます。
シャクルトンは言いました。
「是は、とんでもない一か八かの勝負だが、やるほか無い。滑って行こう」

 ウォースリーは後日、この時の事を次の様に話しています。
「我々は、ロープを巻いて、それぞれ小さな座布団を作り、是を敷いて斜面を滑ろうという訳だ。
シャクルトンは、氷を削って、足場を作り、其処に腰を降ろした。
私は、彼の後ろに付き、彼の首を抱える様にしてしがみついた。
クリーンが私の後ろに付き、同様な姿に成り、私達は一塊になって、シャクルトンの一蹴りを合図に滑り始めた。

 我々は、空間目指して打ち出された様な気分で、私は恐怖に髪の毛が逆立ったものの、突然満足感を覚え、自分が笑っている事に気が付いた。
本当の話、楽しんでいたのだ。
我々は、急斜面の山腹を、時速100km近い猛スピードで滑り下りた。
私は興奮の余り、大声で叫んだ。
気が付くと、シャクルトンもクリーンも、大声で叫んでいた。
私は、この滑降が途方も無く安全な様に思われた。

 徐所に速度が落ちて、我々は雪の吹き溜まりの処で止まった。
我々は、起き上がって、真面目くさった顔で、やたらと握手を繰り返した」

 3人は36時間掛かって、サウスジョージア島を横断、ついに捕鯨事務所に辿り着いた時には、あまりに酷い姿だったので、所長は彼らが誰なのか、見分けが付きませんでした。
シャクルトンの頭髪は銀色に変わっていたのです。
ウォースリーが、残してきた3人を救出する為、キングコーン湾に帰った時には、残った3人も、ウォースリーを見分けられませんでした。
もっとこの場合は、風呂に入り、髭を剃ってましな服装をしていた為、外見が全く変わっていたからでした。

 一方、エレファント島の隊員達は、転覆した2隻の船の下で、ハリケーンと氷に苦しめられながら、4ヶ月半を過ごしたのでした。
こうして、アーネスト・シャクルトン最後の長い遠征は終わりました。

 彼の海と陸の長い冒険旅行の記録は、現在でも歴史上、もっとも偉大な南極探検とされています。
彼の業績は、仲間の探検家が語った、次の言葉に、見事に象徴されています。

「科学的な面でのリーダーならスコットだ。
迅速で効率的な旅行ならアムンゼンを取る。
しかし、絶体絶命の立場におかれ、八方塞がりになったなら、跪いてシャクルトンを祈る」

本編終了・・・
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2010/01/30

歴史の?その106

<シャクルトン調査隊の生還:前編>

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 1916年3月、絶望にうちひしがれたイギリス人が28人、南極海に在る氷の島の海岸で震えていました。
1914年以来、彼らは南極横断調査隊の隊員でしたが、2900kmにわたる、流氷と雪の荒地との闘いにすっかり弱りはてていました。
彼らの船「エンデュアランス」号は、5ヶ月前に流氷群に囲まれ沈没し、それ以来、彼らは流氷上で暮らして来ましたが、数日前、残っていた3隻の小船で、流氷を後にしたのでした。
リーダーは、ホーン岬南東のエレファント島を行き先に選びました。

 しかし、エレファント島では吹きさらしの浜辺を襲う強風がテントをズタズタにし、ペンギンの肉や海草等の食料の蓄えも底をつき、寒さに凍え、飢えに苦しむ彼らは、今度もサー・アーネスト・シャクルトンを頼りにしていました。
「我々は、船が手に入る場所に行かなければ成らない」と彼は言い、小船で長旅を行うのは、決死的行動でしたが、彼が志願者を募ると、全員が志願しました。

 5人が選ばれて、シャクルトンに同行する事と成り、行く先はフォークランド諸島のサウスジョージア島、世界最悪の大洋を僅か7m足らずの小船で、越えなくては成りません。
この時、選ばれた5人は、沈没した彼らの船の船長ウォースリー、水夫長ビンセント、大工マクニーシュ、他にトム・クリーンとティモシー・マッカーシーで、彼らは、ジェームズ・ケアード号を苦労して修理し、何とか出発できる様に準備を整えました。

 苦難の航海が始まり、突然の強風に船は危うく流氷群迄押し戻されそうに成りました。
もし、その様な事態に成れば、其れは重大な後退を意味しますが、船は波を切って進み始めました。
キャンバスのデッキの下には、狭いものの寝る為の空間が在り、食料やバラストの上を無理に通って行かない限り、その場所には、行き着く事は出来ませんでしたが、終には、濡れた寝袋が唯一の慰めと成りました。
もっとも、この寝袋に彼らが、疲れ果てて潜り込んではみたものの、安眠を約束されているはずも無く、起きている事と同じで、あまり気分の良い事では有りませんでした。

 シャクルトンは、後に次の様に書いています。
「我々に向かって寄せて来る大波は、まるで巨大な壁のアーチが、覆い被さって来る様な感じだった。我々は3,4分毎にびしょぬれに成った。大波が我々の頭上で崩れ、我々はまるで滝の真下に居る様だった。そして次の大波が来る迄に、小波が数回襲って来た。小波は、船を乗り越え、我々はまたびしょぬれに成った。是が昼も夜も続き、寒さはとても厳しかった」。

 シャクルトンは、坐骨神経痛で酷く苦しんでいましたが、快活に振舞っていました。
ウォースリーが六分儀を使っている時は、両側から支えていなければならず、そうしないと、六分儀もろとも、船から落ちてしまいそうでした。
霧の為、太陽は何時もぼんやりと浮かんでいるだけでしたが、或る日の夕方近く、その霧の向こうに島影を発見しました。
サウスジョージア島でした!

後編に続く・・・

2010/01/29

歴史の?その105

<北極海に挑んだ船乗り:後編>

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◎氷  海

 バレンツの船がただ1隻、ノバヤゼムリヤ島の北端を回った時、ライプ船長の主張が正しかった事が、恐ろしい程はっきりとして来ました。
8月という時期にも関わらず、バレンツとその乗組員達は、如何にして北極の海を生き抜くか、という問題に直面したのです。
まず、彼らは流木で島に小屋を建て、そして氷に閉じ込められた船から、食料等の物資を移し、キツネを殺して食肉にし、雪を溶かして飲料水としました。

 しかし、寒さは悪夢の様でした。
ストーブを昼夜の別無く焚きつづけ、その周りに寄り添うように固まっても、温まるのはストーブに面したのみで、背中はいつも一面の霜でした。
ベッドは、熱した石で暖め、こうして二人を除く全員が、何とか冬を越す事が出来ました。

 春が訪れ、太陽の光が戻って来て、1日の内の数時間は陽が差しましたが、その頃、船は難破船同然と成り、残った2隻のボートで脱出するしか方法は有りません。
其処で彼らは手紙を書き、自分達の遭難を世界に伝え様としたのでした。

 小さなボートは、悪戦苦闘しながら島の北端を通り、南へ向かいました。
嵐が2隻のボートを襲い、彼らは大きな流氷にボートを引き上げて、非難しなければ成らない事も度々でした。
6月20日、壊血病で体力が低下していた、バレンツは、寒さと飢えに苦しみながら此処で死亡しましたが、彼は既に自分の運命を予感していたに違い有りません。

 嵐が静まると、残った人間は、猛進し、北極海を2900kmも横断し、九死に一生を得たこの一行は、終にムルマンスクに近い、コラ半島に到達し、其処には、ヤン・ライプ船長とその船が待っていました。
この慎重な船乗りは、恐ろしいバレンツ海に、それに相応しい敬意を払っていたのでした。
その為、生き長らえて、又新しい航海に船出する事が出来たのでした。

本編終了・・・
2010/01/28

歴史の?その104

<北極海に挑んだ船乗り:前編>

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 極北の海に舞う水飛沫は、空中で凍り、船の外部は凍りついており、氷片は刃物の様に鋭利で、衣類を切り裂き、手袋をはめずに不用意に手すり等を握ろうでもしようなら、手のひらの皮が手すりに張り付きました。
勿論、船から海中への転落は、間違いなく死を意味していました。

 この海は、現在バレンツ海と呼ばれ、ほぼ400年前、この海に挑んで死んだ、オランダ人探検家ウィレム・バレンツの名前と取って名付けられました。

 1597年6月13日、激しい西風が、凍てついた島に吹き付け、間に合わせの非難小屋の中で、一人のオランダ士官が、この様に記録しました。
「我々の中で、もっとも優秀で頑強な者でさえ、長期間耐えてきた厳しい寒さや病気の為、すっかり衰弱し、半分の力しか出せなくなっている。これから先、長期の航海を強いられる事を考えれば、事態は良くなるよりも、ますます悪くなると思われる。食料は、せいぜい8月の終わり迄しか持たないだろう」
この手紙の署名は、船長ヘームスカーク、水先案内人ウィレム・バレンツと乗組員一同となっていて、小屋の煙突に詰め込まれていました。
この後、15人は2隻の小船に分乗して、海へと漕ぎ出したのです。

 この手紙は、それからほぼ300年後の1871年、ノルウェー捕鯨船の乗組員が、ノバヤゼムリャ島に上陸して発見しました。
そして、手紙の内容は、冷酷無残な北極海を相手に闘った、人間の苦闘の歴史を、改めて思い起こさせるものでした。

 バレンツは、インド亜大陸に至る、幻の「北西航路」を発見する仕事を、オランダ商人から依頼され、水先案内人となり、2隻の船で1596年5月に出帆しました。
スピッツベルゲン諸島を通過した所で、流氷群が北への道を閉ざしていた為、針路を東に転身し、ノバヤゼムリャ島の北端を回る事にしましたが、このルートを以前にも1度経験していた、もうい1隻の船の船長ヤン・ライプは、この針路転身を危険として、同行を断りました。

後編へ続く・・・
2010/01/27

歴史の?その103

<北への航海>

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 紀元前300年頃、北への航海から帰還した、ギリシアの探検家ピュティアスは、イギリス(ブリテン島)についてこの様に説明しました。
「この島は、人口が多く、気候は冷涼であり、又その国民は稀に見るほど、親切で礼儀正しい」
「彼らの食事は質素で、金持ちの贅沢とは全く異質であり、多くの国王や実力者が居るが、大抵はお互いに平和を保っている」

 しかし、彼の言葉を信用した者は、殆んど居ませんでした。
ピュティアスの著書「大洋」は、今日では全く現存していませんが、彼の同時代の人々は、この本の存在は知っていても、大部分の人々は“でっち上げの傑作”と思っていました。
何故なら、何世紀もの間、著名な研究者が彼の書物を紹介する時は、何時もからかい半分であったからなのです。

 紀元前1世紀のギリシアの歴史家、ディオドロスと、地理学者のストラボンが、ピュティアスの旅について、紹介しているので、どの様な旅で有ったのか、再現する事が出来ます。
ピュティアスは、ギリシア人としては初めてイギリスを訪れ、イギリスとイギリス人(ケルト人)について報告しました。
又、恐らく、アイスランドの海岸が望める付近を航海した、最初のギリシア人であった公算が高い人物です。

 ピュティアスは、「イギリス人は素朴で、現代人の様に欲望にとらわれない。彼らはワインを飲まず、大麦から作った発酵酒を好む。彼らはこの酒をクルミと呼んでいる」と報告しています。

 彼の時代、人々の知識は、地中海の暖かい海に限られていましたから、北部大西洋に関する知識は皆無でした。
氷の塊が大洋に浮かんでいる光景を彼が説明しても、どうして信用する事が出来るのでしょうか?
増して、更に北上すれば、海全体が凍っている事や、太陽が水平線に沈まない事に関する話は、全く信じて貰えなかったのでした。

 ピュティアスの航海は、12000kmを超え、イギリスを一周し、色々な場所に上陸して、現地の人々が、穀物を収穫したり、牛を飼っている処を見学したりしています。
コーンウォールでは、錫の鉱山を訪れ、デンマークの海岸では、琥珀を探す為に船を寄せた事も有りました。

 この大航海から帰国した、ピュティアスは、アイルランドはイギリスの西に在ると報告しますが、そんなピュティアスを嘲笑した一人である、ストラボンは、「そんなばかな話は無い。スコットランドの北に在る」との主張を壊しませんでした。
当時は、このストラボンの説が正しいと信じられていたのでした。

 しかし、時が流れるにつれて、ピュティアスは偉大な探検家として認められ、又北の海に到達し、その事実を紹介した人物として、歴史に名前を刻む事と成りました。

続く・・・
2010/01/26

歴史の?その102

<フェニキア人のアフリカ大陸周航>

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 ポルトガル人の西アフリカ探検に先立つ2000年前の事、“スエズからジブラルタル海峡迄、アフリカ大陸を周航した”と云う、フェニキア人の言葉を信じる人物は誰も居ませんでした。

 フェニキア人の話の中で、最も信用されなかったのは、アフリカの南端を回った時、真昼の太陽が自分達よりも北側に位置していたと云う部分で、古代社会では、太陽は常に自分達の位置から南側と、誰も信じて疑わなかったのです。
北半球で生活する人間に取っては、当然の常識でした。

 偉大なギリシアの歴史家ヘロドドスは、このフェニキア人の話を紹介していますが、彼でさえ、こんなばかげた話は無いと一笑に伏しています。
しかし、フェニキア人の冒険家が、その言葉とおりにこのアフリカ周航をやってのけた事は、事実なのでした。

 フェニキア人は、「喜望峰を回って西へ進んだ時、真昼の太陽が右手に見えた」と語り、古代人達は、この話しを聞いて、彼らの話は、嘘の固まりだと信じましたが、古代人がフェニキア人の嘘の証拠とした証言が、現代から見れば、彼らが本当にアフリカを回ったと信じる根拠になっている事が、大変興味深く思われます。

◎古代エジプト人の思考

 地中海と南回帰線の南では、太陽の位置が反対に成ります。
いくら、冒険家のフェニキア人でも、この様な事実を考えつく事は、不可能に違いなく、実際に自分の眼で検分しない限り、思いも因らぬ事なのでした。

 この航海自体は、古代エジプト王 ネコ二世が紀元前600年頃に計画した事でした。
エジプトの東海岸の紅海から、西海岸のアレクサンドリア迄航海する事が可能であれば、人の交流、物資の交流がより便利になるに違いないと考えたのでした。
紅海からアレクサンドリア迄、船で行くには、砂漠に運河を掘る手段が在りますが、ネコ二世は、アフリカ南海岸を回って現在のモロッコに行く方法が、最も簡便な方法と考えたのでした。

 しかし、エジプト人は航海に秀でた民族では無かったので、ネコ二世は、当時地中海を縦横に航海していた、フェニキア人を雇い入れます。
50本の櫂を持ったガレー船で船団を組み、紅海を南下し、アフリカの南端を回って、現在のジブラルタル海峡である「ヘラクレスの柱」迄行くように命じたのでした。

◎未知への船旅

 フェニキア人の船乗り達も、この冒険を大変喜んで引き受けました。
当時、ライバルで在ったギリシア人が押さえている海域を通過する事無く、西に向う海路を捜していたのでした。
しかし、此処で最大の問題は、ネコ二世もフェニキア人も、是から向うアフリカ大陸が、如何なる形で、如何に広大なのか、知る術は無かったのです。

 彼の航海を際限してみると、出帆は11月、アフリカ東端のグアダフイ岬に向かい、此処で船首を南西に向け、季節風に乗りました。
海岸線が西に曲がる日を今日か、今日かと期待しながら、航海を続けましたが、その日は一向にやって来ません。

 太陽が次第に北へ北へと移って行く事を彼らは、気づきながら船を進めました。
航海に目安となる、北極星は今や全く姿を消し、彼らも途方にくれた或る日、海岸線は大きく西へと曲がりました。
船は、アフリカの南端部分を900km進み、出帆の翌年5月、現在の喜望峰を回り、針路を北へと変えたのです。

 アフリカの北西部は大きく張り出しています。
この部分を回る為に、更に10ヶ月の苦しい航海を続けなければ成りませんでしたが、終にジブラルタル海峡を望み見る事が出来ました。

 紅海を出帆してから、2年以上の歳月と24000kmの航海を成し遂げた船団は、順風満帆、地中海をエジプトへ向かいました。
しかし、彼らの偉業が認められるには、其れから更に、2000年の時間が必要でした。

続く・・・
2010/01/25

歴史の?その101

<世界の果て>

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 カナリア諸島の直ぐ南、アフリカ西海岸のボハドル岬の崖下では、大西洋の荒波が絶えず荒れ狂い、泡立っていました。
その向こうには「暗黒の海」が在り、其処に住んでいるのは、怪物や死んだ水夫の亡霊でした。
ここは世界に果て、そしてボハドル岬は、“帰還不能地点”で、此処から先に進んだ者は、二度と戻れないと14世紀当時の船乗りは教えられ、恐ろしさに震え、余りにその恐怖が大きかったので、アフリカ西海岸から先の探検は、なかなか実現しませんでした。

 探検や発見に熱心だった、ポルトガルのエンリケ航海王は、この様な話が探検、調査の大きな障害に成っている事を憂慮して、この話は単なる、迷信に過ぎないと嘲笑していました。
ポルトガルの船乗り、ジル・ヤネシュは、エンリケ航海王からアフリカ西海岸の調査を依頼された事を機会に、実際、ボハドル岬の南には、何があるのか、調べる事を決意しました。
彼は、迷信深い船乗り達を説得し、船を“世界に果て”に進めたのでした。

 結末から言えば、この調査探検の結果は、参加した臆病な乗組員達を大いに驚かせたに違い有りません。
恐ろしい岬も危険な暗礁も無く、在ったのは、平和そのものの様な海岸線だけでした。
イワシの大群が水中に煌めき、銀の海を航海している様に見え、風が吹き付けると、大海原が盛り上がり、風に舞い上がった砂漠の砂が、時には空を暗くしました。

 その様な光景を眺めながら、船は南に航海を続け、其れまでの話が単なる迷信に他ならない事を実証したのでした。
既に出帆時の恐怖は、全て消え去り、船は海岸線を更に南下、母国ポルトガルから1700km離れた砂浜に上陸してみました。
その場所で、見慣れた植物、ローズマリーを見つけ、エンリケ航海王に献上する為、採集してから、船を北へと転回したのでした。

 この航海の陰には、15年間に渡る、15回の試みが在り、ジル・ヤネシュの大胆な冒険は、其の後、ポルトガル人船乗りの、新しい発見への道を開いたと言えます。
そして、アフリカ西海岸に残っていた数千kmに及んだ未測量地域も、この快挙から70年以内に消滅したのでした。

続く・・・
2010/01/24

歴史の?その100

<ロッキー山脈を越えて>

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 1804年5月14日、ミズーリ川に堤防で発射された1発の銃声が、歴史的な探検旅行の始まりを告げました。
この探検旅行こそ、アメリカ合衆国政府によって実行された、東部から陸路太平洋に到達した、最初の試みとなりました。
この旅は、全工程129、000kmで、2年4ヶ月を要しましたが、北西部のオレゴンは、アメリカ領土の一部であるとする、アメリカ政府の立場を強める結果となり、当時オレゴンについては、アメリカ、スペイン、ロシアがその領土権を主張していたからでした。

 1803年1月18日、ジェファーソン大統領は議会に、ミシシッピー川の対岸に遠征隊を送る費用を議会に提出しました。
この法案は、目的地がフランス領有地を含んでいる為、密かに実効に移され、議会は2,500ドルの支出を認めました。
しかし、それから数ヶ月後、アメリカ政府は、フランス政府からミシシッピー川からロッキー山脈に至る広大な地域を買収した為、ジェファーソン大統領が、極秘に派遣した調査隊は、国家を挙げての壮挙に変わり、議会は追加支出を承認する結果と成りました。

 ジェファーソン大統領は、既に調査隊の隊長に選定されていた、メリーウェザー・ルイスに隊員の増強を指示し、友人のアメリカ陸軍中尉、ウィリアム・クラークを副官に登用しました。
クラーク中尉は、独立運動に活躍した、辺境指揮官、ジョージ・ロジャーズ・クラークの末弟にあたります。

 この二名程、明確な指令を受けた探検隊は、前例が無いと思われます。
大統領は、彼らに、ミズーリ川とコロンビア川を探検して、「商業目的の為の、最も直接的且つ、実用的な水上交通の便」を突き止める様に命じました。
大まかな地勢や、土地の産物、経緯を記録して、地図の製作が可能な様にすると共に、更には、ネイティブ・アメリカンの研究して、政府に報告する事が、彼らに課せられた使命でした。

 探検隊は、長さ17mの竜骨船と2隻の丸木船に分乗し、セントルイス近郊から出発しました。
この探検隊は、29名から成り、隊員の大部分は、経験豊富な辺境開拓者であると同時に、軍籍を有していました。
この他に、軍人7名が、ネイティブ・アメリカンのマンダン族の町に赴き、荷物の移動援助と現地人でのトラブルに対応する事に成っていました。

 この補助部隊は、ミズーリ川で孤軍奮闘の働きを見せ、順風に助けられる事が少なく、船を漕ぎ、時には船を曳き、テトン・スー族に脅かされ時は、強力な後ろ盾に成りました。

 10月27日、探検隊はマンダン族の町に到着(現:ノースダコタ州ビスマーク付近)し、此処で1804年の冬を過ごし、探検隊がこの町を出発した時には、通訳のツーサン・シャルノボーとその妻サカジャウィア、5年前にミナレタ族に捕らえられた、ショショーニ族の少女も含まれ、総勢32人でした。

 ミズーリ川の滝線地帯では、急流を避けて物資を運ぶのに、1ヶ月の期間を要し、この後ミズーリ川は、3本に分かれ、探検隊は一番西の流れを上りました。
この流れは後に「ジェファーソン」と名付けられ、レムハイ峠で大陸分水界を越えました。
サカジャウィアは、ガイドとして有能で、兄弟であるショショーニ族に酋長は、探検隊に馬を提供してくれました。
幸運の後には、苦難の日々が続き、吹雪に襲われ、毎日続く、干し鮭、根菜のスープ、犬の肉のシチューにうんざりしながらも、終には、クリアウォーター川に到達し、此処でカヌーを作り、スネーク川とコロンビア川を下り、1805年11月15日、探検隊は太平洋を望みました。

 1806年3月、探検隊は帰途に付き、大陸分水界に近づいた時、ルイスはクラークと別れて、再び太平洋への河川を探索し、クラークは、イエローストーン川を調査しました。
両探検隊は、イエローストーン川とミズーリ川の合流点で再会し、1806年9月23日、セントルイスに到着、今回の探検による犠牲者は、病死した1名のみでした。

 ルイスとクラークは、貴重な学術的資料を多数持ち帰り、又毛皮商人や猟師達に大きな刺激を与え、彼らはアメリカの最西端部を調査し、入植者をオレゴンやカリフォルニアへ導く結果と成りました。

続く・・・
2010/01/23

歴史の?その99

<太平洋への道:後編>

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◎選  択

 マッケンジーのグループは、5月に成ってやっと動き出す事ができました。
仲間は9人、食料等の携行品は1350kg、是等を全て、カバの木の皮で作った長さ7.5mのカヌーに載せて出発したのでした。
最初は順調でしたが、やがて、ピース川の激流に遭遇し、この激流はロッキー山脈迄の40kmの間続きました。
漸くして、激流を抜けると、川が二股に分かれる処で決断をせまられました。
北西に流れる、広くて安全に思える主流(現:フィンレー川)に乗るか、其れとも南に向う、狭くて流れの速い支流(現:ハースニプ川)にすべきなのでしょうか?
マッケンジーは、以前に、北へ向う川は、険しい山々を抜けていて、誰も通る事が出来ないと、ネイティブ・アメリカンの老人から聞いた事が在りました。
其処で、彼は仲間全員の反対意見を押し切って、南の支流を選んだのです。

 この選択は困難な旅で、カヌーがセニカ族に止められた時、仲間は再び不平を洩らしますが、通訳を介してマッケンジーは、この川が南に流れ、他の川と合流する事、その川は“悪臭を放つ湖”に流れ込んでいる事を知りました。

◎分水嶺を越えて

 一行が塩水の話を耳にした事は、是が最初で、更に進むと、川は分かれて迷路に様になりました。
6月12日、カヌーは水から引き上げられ、小さな湖迄運び上げられました。
白人が終に、北米大陸の分水嶺を越えた瞬間です!

 カヌーを岩の衝突させて壊れた部分を修理した後、一行は、ようやくフレーザー川に到達し、彼らは安全に西へと運ばれて行きました。

 途中、アタバスカ族の領地を通る時、矢を射掛けられた事も有りましたが、マッケンジーは仲間に発砲しない様に命じ、一切の武器を持たずに上陸しました。
この大胆不敵な行動は、アタバスカ族を圧倒し、ビーズやナイフ等の贈り物を受け取ると、フレーザー川が最後に大きな海(太平洋)の注ぐ事、真西に陸路を進めば別の川が在る事を教えてくれたのです。

 真夏でしたが、カヌーを降りて雪の山道を越えた時は、寒さに震え上がり、暖かいベラクーラ川の渓谷に下りる迄、13日を要しました。
友好的なネイティブ・アメリカンが2隻のカヌーを貸してくれた事で、こうして7月20日、一行は迷路の様に入り組んだ島々を抜けて、ディーン海峡に入る事ができました。

 2日後、マッケンジーは岩の南東側に、記念の言葉を殴り書きし、帰路についたのです。
帰路は、33日しか掛からず、8月24日には、フォートチペワイアンに到着する事が出来ました。
彼は、北極海と太平洋の両方を見た上に、一人の犠牲者も出さず、探検を成功させました。

本編終了・・・
2010/01/22

歴史の?その98

<太平洋への道:前編>

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 仲間達の見守る中、29歳のスコットランド人は、朱色の絵の具にグリースを混ぜて、岩肌に大きく書き殴りました。
“アレックス・マッケンジー。カナダから陸路到着。1793年7月22日”
北アメリカ探検史上最大の快挙が、見事に達成された瞬間でした。
この岩石は現在も残り、白人として初めて北米大陸を横断した、マッケンジーの偉業を称えています。

 マッケンジーは1764年、スコットランド西方に位置する、ヘブリジーズ諸島のストーノウェイに生れ、アメリカで育ちました。
母親の死後、父親と共に新大陸アメリカに移住し、学業はニューヨークとモントリオールで納め、モントリオールを根拠地として、毛皮貿易を行っていた、ノース・ウエスト会社に就職し、彼は西の果て、フォートチペワイアンに派遣されました。

◎太平洋の誘惑

 任地迄カヌーで行った事がきっかけと成り、彼の探検熱が目を覚ましました。
当時、ノース・ウエスト社は太平洋に到達して、ラッコの毛皮で利益を上げたいと望んでいましたが、当時、ラッコの毛皮は、シベリアのロシア人が独占しており、太平洋に到達したい願望は、マッケンジーも同様でした。

 一冬を一緒に過ごした事のある、ピーター・ボンドという開拓者が、書き残したラフな水路図やメモを彼はじっくりと研究しました。
北へ流れる川は、最終的には西に転じて、太平洋に注ぐに違いない、其れならば、北西方向に抜け道が存在するはずであると、マッケンジーは考えました。
1789年6月3日、13人の仲間と共に、3隻のカヌーで川を北へと向かいました。
だれ一人として、その川の注ぐ先が何処なのか、解かりませんでしたが、マッケンジーの推測は、間違っていました。
流れは西へと向う事はなく、彼らを北極海へと運んでしまいますが、この河川は今日、カナダの地図に掲載されているマッケンジー河川系でした。

 是も大きな発見なのですが、マッケンジーの本来の目標とは大きく異なり、依然として太平洋への道は、彼に閉ざされていました。

 1791年から1792年にかけての冬を彼は、ロンドンで地理、航海術を研究して過ごし、1792年の秋に、フォートチペワイアンで仲間達と再会し、ここで冬を越しました。

後編へ続く・・・

2010/01/21

歴史の?その97

<失われた植民地の子孫達>

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 18世紀初頭、アメリカ、ノースカロライナのランバー川を遡っていた移民達は、灰色の瞳をしたネイティブ・アメリカンと遭遇しました。
しかも、彼らの話した言葉は、訛っていたとは言え、紛れも無い英語でした。

 ネイティブ・アメリカン達は、彼らの祖先は「本で話す」事ができたと語りましたが、開拓民はこの言葉を、読書きが出来たという意味に解釈しました。
彼らの住んでいた、ローブソン郡には、この神秘的な部族の子孫は現在でも生きています。
ランビー・インディアンと呼ばれ、肌の色は褐色から白色迄と幅が広く、金髪碧眼も珍しく有りません。

 彼らは、ウォルター・ローリー卿の「失われた植民地」ロアノーク島から1590年に一斉に姿を消したイングランド移民の子孫ではないかと、現在では考えられています。
ロアノーク島は、ランバー川から320km程離れた場所に存在します。

 エリザベス一世が勅許をローリーに与えてから、島の植民地建設は2回に分けて行われ、第一回の試みは、1586年ですが、繰り返し行われる原住民の攻撃と物資欠乏の為放棄され、次いで1587年、ジョン・ホワイトの率いる100人以上の男女がこの地に渡りましたが、その結果は前回と同様でした。
ホワイトは、救援と補給を求める為、15人を連れてイングランドに出発しました。

◎人影の消えた砦

 其の後勃発した、イギリス・スペイン戦争の為、ホワイトは1590年迄島に戻る事ができず、ロアノークに砦が築かれていたものの、ホワイトが戻ってみると、内部は略奪され、人影も消えていました。
手掛かりは只一つ“Croatoan”なる単語のみでした。

 この言葉の意味については、今日なお研究者の間で論議が絶えず、移住地を襲撃した原住民の部族名と推測する研究者も存在しましたが、クロアトアンとは、ロアノーク島の南に浮かぶ島の名前で、其処には、温和で友好的なハテラス族が定住している事を入植者は知っており、彼らがこの島に辿り着いてハテラス族と雑婚したと考えれば、その子孫がランビー・インディアンである可能性が強いと思われます。

 ホワイトは、入植者達が自発的にクロアトアン島に自発的に移住したと考え、彼らと再会を果たせぬままイングランドに帰国しました。
彼の推測を裏付ける確かな証拠が、今日発見されており、1650年頃、ハテラス族は大挙して、本土へ移住し、ランバー渓谷に定住しました。
ロアノークの「失われた入植者」が使用していた95種類の姓の内、サンプソン、クーパー等、41種類がランビー族に確認されています。

続く・・・
2010/01/20

歴史の?その96

<誤って発見された新世界:後編>

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◎法外な要求

 コロンは、ついでポルトガルのホアン二世に、同様な働きかけを行いましたが、此方も了解を得られず、1491年再び、イザベル女王に援助を求めたものの拒絶されました。
女王が拒否した最大の理由は、彼の要求が余りにも法外であったからで、コロンは、この大航海が成功した時には、自分を大洋提督と発見した国土全部の総督に任命し、更に航海で発見した財宝の10%を自分の物とする権利を求めたのでした。

 その後、女王は心変わりして、彼のこの要求を受諾しますが、是は当時、スペインとポルトガルが、新世界発見をめぐって激しく競り合っていたからに他なりません。

 こうして、サンタ・マリア号はピンタ号とニーナ号の2隻の随伴船を伴い、世界で最も有名な航海に出帆したのでした。
総勢約90名、船毎も1名の医師が乗り、通訳も1名居ました。
コロンは、この通訳のアラビア語が、中国や日本(!)で役立つと考えたのです。

 さて、最初の航海で新世界に到達した彼は、美しいカリブ海の島々の間を航海して、数週間を過ごし、帰国の途に就きます。
彼は其の後も、この新世界へ三度の航海を経験しました。

 結果的に、余りにも野望が大きすぎた為、彼は女王に嫌われ、世の中に忘れ去られ、ひどい失意と落胆の内に、関節炎に苦しみながら、1506年5月20日に死亡しました。
皮肉な事に、彼が発見した大陸は、彼の友人で冒険家のイタリア商人、アメリゴ・ベスプッチの名前に因み、アメリカと命名されましたが、クリストバル・コロンの死から1年後の事でした。

補遺・クリストバル・コロン 流離の航海

 彼は、1506年5月20日、スペインのバリャドリードで死去、その地の教会に埋葬されました。
しかし、3年後、彼の棺はセヴィーリア近郊のトリアナに移され、それから更に32年後、遺体はサントドミンゴ(現:ドモニカ共和国)に埋葬し直されます。
しかし後年、ハバナに移され、更には1902年には又、安息を乱されセヴィーリアに移されたと考えられていました。

 1877年、サントドミンゴ大聖堂の地下に、新たな納骨堂が発見され、此処には”C,C,A”とイニシャルの付いた棺が在り、「クリストバル・コロン・アドミランテ(提督)」の頭文字と推定されました。
碑銘には、「輝く、有名な紳士、ドン・クリストバル・コロン」と書かれており、現在では、サントドミンゴ大聖堂の遺体が、本人の遺骸で或る事に間違いないと信じられています。

本編終了・・・
2010/01/19

歴史の?その95

<誤って発見された新世界:前編>

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「イエロ島は、カナリア諸島の最西端の島だ。
今その島が船尾の彼方に見えている。
そのイエロ島の島影が、ますます小さくなり、ついにかき消す様に水平線に消えた時、船乗り達は、信心深く十字を切った。
彼らの前には、見渡す限り島の一つも無い、大海原が広がり、夢と共に未知と恐怖の世界が、行く手に広がっていた」。

 しかし船長だけは、平静を装っていました。
彼は、昼夜の別なく船首を真西に向けて航海する様に命じ、4000km以上を航行したのでした。
そして、其れでも陸地が見えないと、船長は、偽の航海日誌をつくり、実際より短い距離を記載して、ヨーロッパ大陸から其れほど遠く無いように見せかけ、乗組員を安心させました。

 船は2隻の随伴船を伴い、際限なく広がる大海原を進んで行きました。
船の名前はサンタ・マリア号、船長の名前は、クリストバル・コロンでした。

 日増しに故国スペインは遠くなり、生きて再び故郷に帰れるのか、未知の土地に向かって航海の日々を重ねるにつれ、乗組員の心配は、増長して行きました。
しかし、クリストバル・コロンだけは、彼らの心配を他所にあくまでも航海を続け、反乱を起こすと言う彼らの脅迫にも怯みませんでした。

◎地球は丸い

 陸地が見えなくなってから32日、スペインを出帆した、1492年8月3日から69日目に、彼らは緑の葉がついた枝を海面からすくい揚げました。
翌日(10月12日)、この小艦隊は、原住民がグアナハニと呼ぶ島に到着し、コロンはこの島をサン・サルバドル(救世主)と命名し、スペインの領土である事を宣言しました。

 コロンは、自分が発見したのはアジア大陸東海岸沖の島々であると、死ぬまで固く信じていましたが、彼は、ヨーロッパの冒険家達に新世界を開いてみせた人物として、歴史に名前を刻んだのです。

 さて、この大航海について、多くの人々が事実として受け取っている多くの事柄には、誤りがあります。
例えば、この時代“地球は丸い、平坦では無い”と信じていたのは、なにもコロン一人ではなく、既に大部分の地理学者、知識人は知っていた事なのです。
彼が、インド亜大陸への新しい航路を発見する計画について、スペイン国王である、フェルナンドやイザベル女王に援助を申し出た時、是を拒否したのは、彼らが世界を平坦であると信じていたのでは無く、当時ムーア人の脅威と常に背中合わせで在ったので、果たして成功するか否かも解からない冒険にも近い行動に、国庫を傾けたく無かった事が事実なのです。

後編に続く・・・

2010/01/18

歴史の?その94

<老いたる峰の町>

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 ペルーのアンデス山中に在ると云う、インカの失われた都市の話しは、300年以上もの間、民間伝承以上の話しでは無いと、考えられていました。
伝承に因ると、インカの生き残りに人々は、スペイン人征服者の手による虐殺を逃れて、1533年、人間の近寄り難い、アンデス山中に逃れたと云う話しは、実際に信じられる話では有りませんでした。

 探検家は、長年この町を捜し求めましたが、その全ては徒労に終わります。
彼らはインカ帝国の首都で在ったクスコ近郊の未開な密林地帯を探索しましたが、大きな発見に繋がる痕跡を見つける事は出来ませんでした。

 しかし、エール大学の若いラテンアメリカ史助教授だったハイラム・ビンガムは、其れまでの探索が間違っている事を証明しようと決心し、1911年6月、彼は二人の友人と数名のインディヘナを伴い、別ルートを辿って、ウルバンバの渓谷沿いに、ロバの隊列を進めました。

 7月の或る雨の朝、ビンガム隊は侘しい気持ちで座り込み、失敗に終わりそうに思われた探検を、今後も継続するか議論していました。
その時、宿の主が川向こうの山腹を真直ぐに指差し、そこに行けば遺跡が見られる事を教えてくれたのです。

 常に楽観的な彼は、宿の主だけを連れて出発します。
二人はロバを引き、川を渡り、600mの斜面を攀じ登りました。
途中、別の二人連れのインディヘナに出会うと、彼らは水を分けてくれた上、「直ぐ近くに在る」段丘や古い家々のことを口にしたのでした。
度々の失望を重ねてきた後で在ったので、ビンガムはまだ半信半疑でしたが、それも長い事では有りませんでした。
丘を回ると、其処には彼が想像したより、遥かに美しい、失われた町が在ったのです。

 高さ約3m、長さ数百mにも及ぶ、見事な段丘が100段程も並び、築かれた雛壇には、苦労して谷間から運び上げた土が盛られていました。
この町マチュピチュは、下からの攻撃には難攻不落ですが、この町がなぜ、何時造られたのか不明のままですが、1400年代初頭、新しく帝国に加えられた地域の中心に砦として、造営されたと推定されます。

 この町は、建築学上の傑作でも在り、今から数世紀も前に、インカは車輪も使用せず、花崗岩の塊を、山上に運び上げ、その石塊はそれぞれ不規則な形に加工され、一つ一つが正確に組み合わされていきました。

 この町に最後に住んだ人々の運命は、永遠に謎のままでしょうが、不思議な事に人口の殆どは、女性で在ったらしいのです。
後にビンガムが再び此処を訪れた時、調査隊は埋葬窟で174体の遺骨を発見しましたが、其の内150体は女性のものでした。

 インカでは、其の帝国の至る所に多数の女子修道院を建て、もっとも美しい女性を集めて、貴族に仕え、宗教儀式を手伝う訓練をしていました。
スペイン人が、侵入した時、この「選ばれた女性達」と呼ばれた乙女達を安全の為に、マチュピチュに移動させたものとビンガムは考えました。
しかし、1533年、インカ帝国最後の皇帝アタワルパが、スペイン人によって処刑され、インカは征服された民となりました。
時が経ち、女性達も歳を重ね、やがて死んでいき、彼女達を守っていた男達は逃亡し、密林は再びマチュピチュを覆い、その挫折した歴史を語る人間は、誰も残りませんでした。

続く・・・
2010/01/17

歴史の?その93

<イースター島の巨石人像>

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 オランダの提督ヤコブ・ロヘベーンは、この様な物を見た事は有りませんでした。
南太平洋中央の海図に無い島を高さ10m近い巨人の兵士が防備していたのです。
この巨人達は、要塞の胸壁に似た巨大な石壁の上に並んでいました。

 3隻の艦隊を島に接近させると、巨人は只の石像で、その足元を歩き回っている人間は、皆普通の背丈と解かり、ロヘベーンは、胸をなで下ろしました。
翌日、彼は少人数の部隊を引き連れて、島に上陸し、「胸壁」が石像を載せる壇でしかない事を知り、各壇の上には、赤い帽子を被った耳の長い人間の胸像が立っていました。

 時は、1722年の復活祭(イースター)の日曜日でしたから、ロヘベーンは、自分の発見した島をイースター島と命名し、島を離れたのでした。
 
 イースター島にヨーロッパ人が再び上陸したのは、其れから50年後の事で、本格的な調査が開始されたのは、更に100年後の事でした。
その頃、ロヘベーンの見た立像は、全て倒されており、大半が部族同士の争いで、壇から引き倒されたのでした。

 巨人像は休火山ラノララクの火口に産出する、火山岩を刻んだもので、火口壁から300体以上が刻まれ、斜面を降ろされ、何らかの方法で、壇上に立てられた事が解かりました。
火口の中には、未完成の石像が400体程も残っており、僅かに鑿を入れ始めた物も在れば、壇へ運ぶ準備の整った物も存在し、又嘗て石像を削っていた石工が廃棄していった、黒曜石の手斧と鑿が火口で発見されました。

 現場の様子は、石工達が戻ってくる予定が、そうならなかった様に思え、火口からの下り道に沿って、完成した石像が数十体も置かれています。
その幾つかは、重さ30t、高さ4m程であり、未完成の石像には、推定重量50t、高さ20mの巨大な物も含まれています。

◎長耳族

 石像の中には、火口から16km離れた場所に立っていた物も在り、島民が如何なる方法で是等の石像を運び、壇上に立てたのか、現在のところ、専門家にも判明していませんが、丸太をコロとして使用した説は、現在では否定されています。
実験の結果、その様な仕事に必要な大木は、イースター島の土壌では繁茂しない事が判明し、つる草をロープに編んで、石像を引っ張る事も考えられましたが、つる草のロープでは、30tの重量が限界である事が判り、この説も退けられました。

 古い住居後の調査から、イースター島の人口は、かつて2000人から5000人の規模で在った事が判明しており、彼らは二つの階級に分化していた様なのです。
石像のモデルになった「長耳族」・・・耳朶に重りを下げて長くした・・・は、恐らく支配階層で、一方の「短耳族」は被支配階層であったと推定されています。

 耳朶に重りをつける風習は、スペイン人に征服される以前のペルーのインカ族にも存在しましたが、現在の島民は、南アメリカの民族よりもポリネシア人に近い血統的特徴を持っています。
イースター島の謎を解明する糸口は、ペルーの奴隷商人によって永遠に失われました。
彼らは、19世紀末に1000人の島民を捕らえましたが、その中には、この島の最後の「王」と「賢者」も含まれていたのでした。

 鎖に繋がれ、奴隷船で連れ去られた、この人々が如何なる運命を辿ったのか、誰も正確に知る事は出来ませんが、後にある者は、島に帰り着き、流行病をもたらし、残りの島民を死滅させ、如何にして、一枚岩の石像を創り上げたのか、その答えは永遠に失われたのでした。

続く・・・
2010/01/16

歴史の?その92

<アンデスの白い人々:後編>

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 前編に続いて、フェニキア人は、キリスト教の時代が始まる遥か以前から、大西洋を航海しており、紀元前500年には、カナリア諸島に植民地も持っていました。
彼らは遠く、現在のブラジル沿岸に到達していた可能性が高く、その子孫が大陸を横断して、アンデス山脈に達した可能性も否定できないのです。
ギリシアの歴史家テオポンプスは、紀元前380年にジブラルタルの西に在る、広大な島の事を記録していますが、フェニキア人の航海者が、彼に南アメリカの事を語ったのでしょうか?

 アイルランド伝説によれば、聖プレンダンは、西暦6世紀に大西洋を渡ったと云います。
この聖人が、南アメリカを訪れたと断言する研究者は、存在しませんが、アイルランドの修道士達が、大胆な航海者であった事は事実なのです。
彼らは、若木と獣皮で作られた、小船(コラクル)に乗り、少なくともアイスランドやグリーンランド迄航海しました。
あの司教と呼ばれる像は、祈祷書を手にした敬虔な神父であり、又インディヘナが想像した様に、悲しみの人、コンティキなのでしょうか?

 現実的には、南アメリカの西岸は、ヨーロッパより、アジアの方からが接近しやすく、中国の史書には西暦500年に、仏教の僧侶が太平洋を航海して、遠く離れた土地に赴いた事が記録されており、西暦1000年頃には、日本の漁船が嵐の為に風と潮流に流され、エクアドルの海岸に上陸した痕跡が有ると云われ(?)、当時日本よりも遥かに航海術に秀でていた中国が、その600年前にこの大航海を成し遂げたとしても、不思議では有りません。

 ノルウェーのトール・ヘイエルダールは、ティアワナコの白い人々が何処へ行ったかではなく、最初、何処から来たのかを説明しました。
西暦1480年頃、インカの皇帝とその部下が、アンデスに繁茂する非常に軽い木、バルサで作ったいかだの船団で、太平洋を越える長い航海を行った伝承が有り、その様ないかだは、海岸地方のインディオ達が遥か昔から使用していた物でした。
ヘイエルダールは、バルサのいかだを建造してコンティキ号と名付け、ペルーのカイヤオから西へ航海し、タヒチに近いラロイア島に到達しました。
この様にして、彼はティアワナコ人が如何にして、ポリネシアに逃れたかを証明して見せ、ティアワナコ人が実際にこの様な航海をした証拠として、彼は太平洋の多くの島々の石像が、ティアワナコのものと、信じられない程良く似ている事を指摘しています。

 更に1970年には、ヘイエルダールは、古代エジプト人が使用したパピルスの船を造り、ラー2世号と名付け北アフリカから大西洋を渡り、西インド諸島のバルバドスに達しました。
この大胆な航海で、彼は古代の人々が如何にして、東半球から南アメリカへ到達する事ができたかを証明したのでした。
彼らは、最初グアテマラやメキシコに居住し、時の経過と共に、南アメリカを殖民していったと考えられます。
現在、中央アメリカから南アメリカに文明が伝承した事は、学術上も認められ、ヘイエルダールが正しければ、白い人々、つまりは大海を航海する術を持った旧世界に人々が、ティアワナコを造営した事になるのです。

本編終了・・・
2010/01/15

歴史の?その91

<アンデスの白い人々:前編>

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 スペインの征服者が、南アメリカの西海岸を征服するより、遥かな昔、インカ帝国の建国よりも前、ティアワナコは既に廃墟と成っていました。
其処で、栄華を極めた人々は既に去り、崩れた記念碑だけが残り、石の城郭を空高く築き上げた、偉大な建設者達の力量を物語っていました。

 ティアワナコは、海抜4000m、チチカカ湖の南岸、ボリビア・ペルー国境近くに位置し、この町は、紀元前100年から西暦1000年頃にかけて繁栄したものの、住民は文字による記録を一切残しませんでした。

 現在、私達が彼らについて、知っている事は、殆んど全て400年前、スペイン人によって書き残された伝説の基づいているのです。

 ティアワナコ人は家畜も、車輪も、コロさえも知らず、道具は石で出来た物しか存在しませんでした。
其れでも彼らは、40kmも離れた採石場から巨大な石塊を切り出し、起伏の激しい土地を越え、湖を渡って都迄運んだのでした。
此処で石隗は0.5mmの精度で研磨され、巨大建造物は造営されたのです。

 其処には、今尚、幾つかの大建造物の廃墟が残っています。
最大の物がアカパナで、自然の丘を人工的に削り、石で覆い、縦横それぞれ200m、高さ15mの大きさに仕上げられており、その近くには、130m四方のカラササヤが在り、この壁には推定重量150tの巨石が使用されています。

 カラササヤの門の向こうに、ティアワナコ文明の源を知る手掛かりとなる一つの彫刻が存在し、インカが後にビラコチャと呼んだ、頬に涙を流す創造神コンティキを刻んだものです。
インディオの伝説に因れば、コンティキは人間だったと云い、彼とその部下は、白い皮膚と青い眼をしていて、西暦500年頃ティアワナコにやって来たのでした。
恐らく、彼らは進んだ文明を持った平和な人々だったと思われ、インディヘナ達に建築と農業を教え、石造を建てたのでした。

 其の後500年位後、海岸地方のインディヘナがティアワナコに侵入し、その白い人々は殆どが虐殺されましたが、指導者と若干の人々は海岸に逃れ、船に乗って太平洋の彼方に去って行きました。

 もう一つの手掛かりは、カラササヤの近郊に存在する、実物の2倍程の大きさの人物像です。
この像は、現在司教像と呼ばれており、本の様に見える物を持っていますが、1500年代にスペイン人に征服される迄、本という物は知られていませんでした。

 是等の手掛かりと伝説、考古学的検証から研究者によって、ティアワナコの歴史概略を描き出しています。
しかし、ティアワナコをその頂点に押し上げた、白い皮膚を持った外国人の素性も彼らが何処に消えたのか、知る事は出来ませんでした。

後編へ続く・・・
2010/01/14

歴史の?その90

<エルドラド>

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 伝説の黄金の都、アンデスの何処かに隠された宝庫、エルドラドは、何世紀もの間、人々の心を虜にし、何百人と云う財宝探しの男達が、探索の途中で死んでいきました。

 驚くべき事に、エルドラドは都市の名前ではなく、ある男の名前でした。
エルドラドの伝説は最初、1513年という早い時期にバルボアと共に中央アメリカに侵入した、スペイン征服者を通じて、世界に広まりました。

 スペイン人をはじめ、ヨーロッパの人々は、南アメリカ大陸に向かって進む途中、今日のコロンビアの首都ボゴダに近い、標高2600mの高原に住む、太陽崇拝を行っている、チャブチャ族の話を耳にしたのでした。
言伝えによれば、この種族は、黄金を太陽神の金属として崇めており、彼らは黄金の装飾品を身に着け、何世紀にも渡って、建造物を金箔で覆ってきたと云う事でした。

 何人かのインディヘナは、山中の何処に在ると云う、黄金で満たされた聖なる湖の話を伝えました。
別の者達は、オマグアと呼ばれる都市で、全身金色に輝く族長を見たと語りました。
話が広まるにつれて、エルドラドは黄金の都と考えられる様に成り、古い地図には、場所こそ千差万別では在ったものの、エルドラドが示された事も有りました。

 1530年代には、ドイツとスペインがエルドラドを探索する為に、現在のコロンビアに何回か探検隊を送りこみましたが、山々の殆どは通行不可能で、食料が尽きると彼らは引き返す他に手段が在りませんでした。
隊員の半分以上は、インディヘナとの戦闘で殺され、探検は失敗に終わったのです。

◎黄金の人

 チャブチャ族は太陽だけでなく、湖に住む神も崇拝しており、この神は何世紀も以前に恐ろしい罪から逃れる為、湖に身を投じた族長に妻で、彼女は其処で女神になって生きていると伝えられました。
近在のインディヘナはここに巡礼の旅をし、湖の女神に貢物を捧げ、そして、少なくとも年に1度は、湖は趣向を凝らした儀式の場所と成りました。

 部族民は、族長の体に、粘着性のある樹液を塗り、金粉を吹き付け、族長は頭から足の先迄、文字通り“黄金の人”と成り、彼は厳かな行列に加わり、湖に岸に置かれた筏迄導かれて行きます。
筏は、聖なるグアタビータ湖の湖心迄進み、族長は氷の様に冷たい湖に飛び込んで金粉を洗い流し、他の人々は、計り知れない程の黄金や宝石を湖に投げ込むのでした。

 グアダビータ湖は自在の湖で、1969年迄“黄金の人”を実証するものは何も在りませんでしたが、この年、二人の農場労働者がボゴダ近郊の小さな洞窟の中で、純金で作られた精巧な筏の模型を発見しました。
筏には8人の小さな漕ぎ手が乗っており、族長の堂々とした金色の像に背を向けて、筏を漕いでいました。

 現在でもこのグアダビーダ湖の調査は進んでいますが、湖水の冷たさと堆積した泥の為、めざましい成果は上がっていません。
岸辺や浅瀬で、若干の黄金やエメラルドが発見されたのみで、湖水の深みには、未だに“黄金の人”の捧げ物は眠っています。

続く・・・

2010/01/13

歴史の?その89

<ゼロを発明した民族(中米編)>

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 彼らは農耕民族で、最後迄、車輪の概念を持ちませんでしたが、其れでも古代アメリカの他のどの文明も達し得なかった芸術的、知的文明に到達しました。
彼らは天体の運動を計算し、驚くべき正確さで、遠い未来の天体活動、月食、日食を予想する事ができました。
しかし、一方では、建築工学における、単純なアーチを作る事が出来ず、その文字は、未発達の絵文字でしたが、樹皮を紙の様に加工して、是を折りたたみ、長く繋いで作った書物も存在しています。
又、彼らの数学体系は、古代エジプトでさえ、足元に及ばず、その数の概念は億の単位迄、把握する事が可能で、ヨーロッパ人より1000年も早く0(ゼロ)の概念を持っていました。
中央アメリカのマヤ族は、華麗で、しかも荒削りな文明、急激な没落の為に歴史上最も謎の多い文化を築き上げたと云われています。

◎マヤ文明

 農民や漁民の単純な村落共同体が、如何にして紀元前1000年前後に、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラ、ユカタン半島、メキシコの南部に迄広がる、強力な文化に発展したのかは、現在でも明らかではありません。
しかし、現実にマヤの人々は現実に是等を成し遂げて行きました。

 緩やかにマヤの人々は、階級制度を発達させ、世襲貴族、神官等の支配層、労働する自由な平民層、戦争捕虜である奴隷の区別が存在し、特に他部族の高位の者が戦争捕虜になると、彼らはマヤの神々の生贄とされました。

 マヤの数字は、3種類の記号だけを使用し、点・は1、棒Iは5、貝の形は0を現し、この組合せによって億単位の計算すら可能でした。
如何なる理由が存在したのか、現在では解明も不可能ですが、マヤの人々は紀元前3114年を天文学的事象の計算と時間軸の出発点と定めました。
天文学の水準は極めて高く、当時他の如何なる文明よりも遥かに正確な暦を作り上げ、1年365日は、20日づつ18ヵ月に分けられ、それにセバと呼ばれる5日が加えられました。

 西暦300年頃から900年がマヤ文明の黄金期で、壮麗な都市が築かれますが、建物は驚く程に美しく、最上階に神殿を載せたピラミッドは、密林の木々を背景に空に浮かび上がっていました。

 興味深い点と云えば是等の都市は、支配階層が住む儀式の場で、農民は郊外の農地に住み、商売や宗教的祭礼、球技の試合等の時だけ都市の広場に集まりました。

 しかし、突如10世紀初頭、是等の都市は放置、廃棄され、マヤ文明は崩壊してしまいます。
この終焉を説明する為に、数多くの研究文献が出版されました。
研究者に因れば、土壌の消耗と生産性の低下の為、彼らの農耕制度が崩壊し、都市の急激な人口減少を招いた、或は、地震、疫病、戦争、メキシコ高地人種の侵入を説き、又、被支配階級が支配階級に対して、一種の革命を起こした可能性も提唱されています。

 考古学上、最新の研究に因れば、西暦900年頃、神官階級が支配権を喪失し、社会的、経済的平等化が発生したのではないかと言われています。
祭儀の場所は廃棄され、続く数世紀の間にその繁栄を極めた、マヤ文明は衰退した様に思われます。

続く・・・
2010/01/12

歴史の?その88

<アメリカ大陸の発見:後編>

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◎ウェールズ人説

 昨日のお話以上に捕らえどころの無い話が、ウェールズ人の話で、マドク・アプ・オウェイン・グイネス殿下が、1170年にモビール湾に上陸、ウェールズ語を残した事に成っています。
ミズーリ川上流の色白のインディアン、マンダン族はこのウェールズ人の子孫であるとの説も存在しますが、これは単なる空想に過ぎず、研究者はこの説の矛盾、誤りをはっきりと指摘しています。

◎スカンジナビア人の発見

 スカンジナビアの人々が、“新世界”を発見した事は、資料や遺跡、グリーンランドで発見された墓地、ニューファンドランドの考古学的発見から、しっかりとした根拠が存在します。
しかし、スカンジナビアの人々が、北アメリカに定住したという、確実な証拠は、存在していません。

 伝承によれば、ノルウェー人ビジャーニ・ヘルユフソンが、986年にグリーンランドに向かう途中、強風の為針路を外れ、アメリカに達したと云います。
それから約15年後、グリーンランドを発見し、殖民地にしたレイブ・エリクソンは、ビジャーニの語った、平坦な森林地帯を見つけてやろうと決意し、やがて彼は、「野生の葡萄や自生の小麦が育っている場所」に行き着き、この場所を「良き国・ビンランド」と名付け、ここに小屋を建てて冬を越し、又船に乗ってグリーンランドに帰って行きました。

◎ビンランドの謎

 其れから7年後、グリーンランドの商人、ソーフィン・カールセブニが、レイブのビンランドに植民地を建設しようと試み、約250人の入植者と共に、レイブの入植地に上陸しました。
しかしながら、後に原住民と衝突し、グリーンランドに引き上げます。

 このビンランドが何処の場所を指すのか、この問題を廻って研究者の果てしない憶測が繰り返されました。
レイブが野生の葡萄を見つけたのなら、ノバスコシアか、ケープコッド付近と思われますが、ニューファンドランドのランソー・メドウズでの発掘調査から、この土地が、レイブの入植地で在った事は保々確実と考えられています。

◎遺物か?ジョークなのか?

 他の遺物の発見を根拠として、スカンジナビアの人々が更に内陸へ進んだとする説も存在します。
西暦1000年頃オンタリオに、1362年にはミネソタのレッド川渓谷に入ったとする説で、オンタリオの墓地で発見された、バイキングの剣、斧、楯の鉄製品は、研究者から本物と鑑定されました。
しかし、サミュエル・エリオット・モリソンは是等の遺物をジョークであるとして、一笑に付しています。

◎クリストバル・コロンの登場

 終に1492年、クリストバル・コロンが大西洋を横断して“新大陸”に到達しました。
最も彼には、その場所が何処か分からず、それをアジアの一部と思い続けていました。

 現在でも研究者の間では、アメリカ発見について、調査研究が進んでいますが、当時の混乱ぶりをマーク・トォーエンは次の様に語りました。
「多くの研究者は、既にこの問題の実態をひどくぼかしてしまった。もし彼らが今後もこの様な事を継続すれば、我々はやがて、この事象について何一つ解明できない事になるだろう」。

本編終了・・・
2010/01/11

歴史の?その87

<アメリカ大陸の発見:前編>

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 アメリカ大陸程、幾度も“発見”された土地は殆んど無いと思います。
諸説を総合すると、クリストバル・コロンが1492年にカリブ海の島に辿り着くよりも遥かな昔に、フェニキア人、アイルランド人、バイキング、ウェールズ人、中国人が“新世界”に到達している事になります。
特にアジア人は数千年前にアメリカ大陸を“発見”した点においてほぼ学会の説は一致している様です。
アジア人は、狭いベーリング海を越えてアラスカに渡り、北アメリカの南部と東部に広がり、更に南アメリカへと南下しています。

 中国人説は、近年、北京大学の研究者から提起された学説で、西暦459年、5人の中国人が太平洋を横断して、メキシコに到達し、6世紀の伝承では一人の仏教僧が、日本から東に7400km航海し、扶桑(フサン)と呼ばれる大陸を発見したと云います。
是は現在のアメリカ大陸で在るか否か、結論は出ていませんが、船が風と潮流の関係で、アメリカ沿岸に到達する事は在ったかも分かりません。
現在、その様な船や乗組員を物語る資料は、一切存在していません。

◎アイルランド人はアメリカに到達したのか?

 旅や旅行者の年代史研究の第一人者、サミュエル・エリオット・モリソンは、ノルウェーの伝承の中で、グリーンランドの近くの何れかの土地が、「白い国」「アイルランド大国」と呼ばれていると記述しています。
ビョルンと名乗るアイスランド人が、10世紀の終わり頃、船で西に向かったまま姿を消してしまいました。
それから長い年月が過ぎた頃、同じアイスランド人、グドリエフ・グンラングソンが、強い西風の為、何処かの土地で身動きが取れなくなり、原住民に捕らえられました。
彼らは、アイルランド語を話す様ですが、長老と思わしき人物が、彼を「粗野なアイルランド人」から救い出し、帰国させてくれました。
グドリエフはこの長老と思わしき人物が、ビョルンであると語りました。

 この話とは別の北欧伝説によると、西の国で捕らえられた男が、「白い衣服をまとい、大声で叫ぶ、布切れをつけた長い棒を持った」白人達を見たと報告しています。
この話をモリソンは次の様に解説しています。
「アイルランド人の宗教儀式の行列が、この人物の眼にどのように写ったか推測して欲しい。しかしながら、アイルランド人が9世紀や10世紀に、現在アメリカ大陸と呼ばれている土地に辿り着いたとしても、彼らは帰ってこなかったし、それを物語るものを、何一つ残しはしなかった。将来何時の日か、アイルランド人が、アメリカに到達した確実な証拠となる異物が発見されるかもしれない。しかし、その時が到来するまで、我々は掴み所のないアイルランド植民地の話を立ち込める霧を通して、垣間見る事しか出来ない」。

◎ウェールズ人説

 これ以上に捕らえどころの無い話が、ウェールズ人の話で、マドク・アプ・オウェイン・グイネス殿下が、1170年にモビール湾に上陸、ウェールズ語を残した事に成っています。
ミズーリ川上流の色白のインディアン、マンダン族はこのウェールズ人の子孫であるとの説も存在しますが、これは単なる空想に過ぎず、研究者はこの説の矛盾、誤りをはっきりと指摘しています。

後編に続く・・・
2010/01/10

歴史の?その86

<ニュルンベルグの孤児:後編>

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 少年に関する関心は、彼が何か特別な存在と考えられた結果、ヨーロッパに広がり、法律家、医師、役人が次々と彼の基を訪ねました。
顔立ちが良く似ていたので、カスパーの名前がバーデン大公家と関係があるのではないかと囁かれましたが、1812年、カスパーが誕生した頃、大公家の直系の世継ぎとなる二人の幼い公子が、突然の死に遭遇していた為でした。

 1830年3月に家長の大公が亡くなると、大公の相続人の友人であるイギリス人、スタンホープ伯爵がカスパーの後見人を引き受けます。
スタンホープ伯爵は、カスパーの出身はハンガリーで、バーデン大公家とは何の繋がりもないと事有る毎に主張し、彼は執拗に人々の其れまでの意見を変えさせて、カスパーはペテン師であると言わせる様に努めました。

 しかし、アンセルム・リッター・フォン・フォイエルバッハは、次に様に断言します。
「カスパーの自由を奪った犯罪は、憎悪や仕返しが目的ではなく、利己的な利益の為に引き起こされたものである。カスパー・ハウザーは高貴な家柄の嫡出子であり、他の者が相続権を奪う為に彼を排除した」

 フォン・フォイエルバッハは1833年に突然世を去り、世間はカスパーの高貴な出身の証拠を発見した為に毒を盛られたのだと噂されましたが、その様な証拠が公表された事は在りませんでした。

◎陰  謀

 短い生涯において、常にそうであるように、カスパーの死は悲劇と謎に満ちていました。
1833年の或る日の午後、高貴の出生について情報を伝えるとの伝言で、彼はアンスバッハ公園に誘き出され、待っていた人物は、やにわに彼の心臓にナイフを突き立てました。
カスパーは、家迄よろめきながらも辿り着いたものの、3日後に死亡します。

 バーデン大公妃シュテファーニエは、彼の死を知って号泣したと云われています。
彼女は、カスパーの真の母親と噂されており、夫カールは大公家の末子だったので、世継ぎを設け損なうと、相続権はホッホベルク伯爵夫人の子供に移る事に成っていました。

 大公妃シュテファーニエが長子を出産した時、ホッホベルク伯爵夫人が百姓娘の死産児を密かに宮殿に入れ、生まれたての公子カスパー・ハウザーと入れ替えたとの話しが存在しています。
伯爵夫人は、カスパーをヘンネンフォーファー少佐に預け、少佐は子持ちの退役兵に養育させました。
一説には、ヘンネンフォーファー少佐は尋問を受けて、この一件を自白したと云います。

 しかし、カスパー・ハウザーの秘密は決して解明されないのです。
ヘンネンフォーファー少佐が死亡した時、彼の私文書も全て焼却されてしまいました。

本編終了・・・

2010/01/09

歴史の?その85

<ニュルンベルグの孤児:前編>

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 1828年のホイットマンディ(復活祭後第7日曜日の翌日)の事、年齢は16歳位の見慣れぬ顔の少年が、ドイツのニュルンベルグの町に姿を現しました。
擦り切れた野良着を身に付けた彼を、誰もが浮浪者か酔っ払いと思った程でした。
少年は“ニュルンベルグ駐留第6騎兵隊内第4中隊長”宛の手紙を所持していました。

 一人の靴職人が少年を、中隊長の家に連れて行きましたが、少年は鸚鵡の様に「私は父の様に、軍人に成りたいのです」を繰り返すばかりでした。
警察署に移された少年は、あらゆる尋問に「知らない」と答え、この少年の精神年齢は、3歳から4歳で止まっている様でしたが、紙と鉛筆を渡されると“Kasper Hauser”と自分の名前を綴る事はできました。

 カスパー・ハウザーは浮浪者に収容所に送られ、所持していた無署名の手紙が検査され、その手紙には次の様な文章が書かれていました。
「隊長閣下、軍務について閣下にお使えしたいと望む少年をお届します。彼は1812年10月7日に、我家の前に捨てられておりました。私はしがない日雇いに過ぎません。家には10人の子供達が居り、我子を育てる事に精一杯でございます。私は其れでも、1812年以来、少年を我家において参りました。・・・彼をお抱え下さるおつもりが無いのでしたら、殺すなり、煙突の上に吊るすなり、ご随意になさって下さい」。

 カスパー・ハウザーは牢番の家に引き取られましたが、少年の体は良く成長しているものの、足の裏は新生児の其れの様に柔らかく、歩こうとすると、漸く立ち上がった赤子の様によろめきました。

◎育てられた環境

 カスパー・ハウザーは直ぐに、途切れ途切れながら会話が出来る様になり、食物はパンと水しか受け付けませんでした。
牢番の妻が入浴させる時も恥ずかしがらず、男女の違いさえ分からない様でした。
この様な状況から、少年には、背後に何か重大な秘密があるに違いない、と牢番は考えました。

 謎の少年は、次第に人々の興味を呼び始め、若いダウマー博士が彼に教育を施した結果、カスパーは終に、彼の驚くべき過去を垣間見せる事が出来る様に成りました。

 カスパー・ハウザーは、ニュルンベルグにやって来る迄、自分が会った人間は一人きりだったと語り、奥行き2m、幅1.2m、高さ僅か1.5mの小部屋で暮らし、腰掛けるか、横になる姿勢しかとれなかった事、毎朝、目が覚めると水差しと一切れのパンが置かれており、水は時々苦い味がして、飲むと眠くなり、其の後起きて見ると、衣服が変わり体も綺麗になっていた事を話しました。

 或る日、一人の男がやって来て、“Kasper Hauser”の綴り方と「私は父の様に軍人になりたいのです」と言う言い方を教え、その後彼は、カスパーを抱えあげて外は連れ出しました。
太陽の光と外気に初めてふれたカスパーは、気を失い、改めて気が付くと、ニュルンベルグの町を彷徨っていたと言う事でした。

後編へ続く・・・
2010/01/08

歴史の?その84

<ブルボン家の継承者:後編>

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◎自称皇太子

 1815年のナポレオン・ボナパルト失墜と共に、ブルボン王朝は復活しましたが、自称「皇太子」の引きも切らぬ認知要求に悩まされる事と成りました。
勿論、その殆どが一目で分かる、偽者で在った事は、言う迄もありません。

 そのような中、カール・ウィルヘルム・ナウンドロフが登場します。
彼は、自分が失われた世継ぎで在ると称し、その主張を裏付ける極めて有力な証拠を持っていました。
皇太子の乳母も、ルイ16世の司法官も彼の主張を認め、皇太子の姉は、ナウンドロフが自分の家族に良く似ていると聞かされましたが、彼との面会は強く拒んだのでした。
彼の支持者は、皇女の拒絶をナウンドロフの主張が正しい証拠と見なしました。
皇女は、正統の王位継承者として、叔父のシャルルを推していたからです。

 ナウンドロフの主張で一つ特異な点は、牢番によって救出されたのではない事で、バラス将軍が彼を牢内の別の場所に移し、身代わりの少年を引き入れたとされていました。
そして、身代わりが死亡した日に、皇太子は密かに連れ出されてイタリアを経由したプロイセンに送られ、其処でナウンドロフの名前を改めて付けられたと主張しました。
認知要求を更に押し進める為、彼は民事訴訟を起こしたものの、直ちに逮捕されフランスから、国外追放に成りました。

 9年後、彼はオランダで死亡し、死亡証明書には、“ルイ16世とマリー・アントワネットの子 ルイ・シャルル・ド・ブルボン、享年60歳”と記載されました。
今日尚、ナウンドロフの子孫はフランスの法廷に認知請求を申し立てていますが、彼も又詐欺師で在ったなら、別の推測が成り立ちます。
即ち、本当のルイ・シャルル・ド・ブルボンは人目に立たない市井に暮らし、身元が明らかになる事を好まなかったかも知れません。
革命の時代に在って、王家の相続人である事は危険すぎると、彼が考えたとしても不思議では在りません。

本編終了・・・
2010/01/07

歴史の?その83

<ブルボン家の継承者:前編>

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 フランスの皇族、ブルボン家の正統な継承者が、今も世界の何処かで、富と名声を相続する権利が、自分に有るとも知らず、ひっそりと暮らしているかも知れません。
ルイ16世とマリー・アントワネットの間に生れた皇太子ルイ・シャルルは、1795年に“死亡”したと成されていますが、彼が子孫を残した可能性も有るのです。

 国王夫妻が1793年に処刑された時、ルイ・シャルルは投獄されて、革命政府の処置を待っていましたが、17ヶ月後、彼は10歳で死亡したと発表されました。

 遺体を検証した5人の人物は、皇太子に間違いないと証言しましたが、生前の皇太子を見た人物はその中に存在せず、又一緒に投獄されていた彼の姉は、死亡後の皇太子の顔を見ていません。
葬儀が行われた時、年端の行かない少年を入れるにしては、棺が大きすぎるとして、人々は不思議がりましたが、その後、様々な事柄を繋ぎ合わせてみると、遺体のすり替えが在ったのではないかという、疑惑が発生したのでした。

◎身代わり

 皇太子の牢番を命じられていた夫婦者が、職を離れる時、皇太子は悪戯盛りの9歳でした。
処が、それから7ヶ月後、後にフランスの独裁者と成ったポール・バラス将軍が獄舎を訪れた時、少年は重い病の床に在りました。
少年の健康状態が驚く程に急変した事情を、牢番をしていた女性が20年後、尼僧の前で懺悔したのです。
牢番夫婦が密かに、別の少年を牢へ連れ込んだのでした。
夫婦は職を離れる日に、皇太子と身代わりの少年を入れ替え、その女性は一言最後に付け加えました。
「私の王子様は、死んでいません!」

 ポール・バラス将軍の獄舎訪問に続いて起こった出来事が、女性の話しをある程度裏付けたのです。
新しい牢番が、将軍に皇太子は偽者であると告げ、バラス将軍は直ちに、皇太子捜索の手配を下したのでした。

 一方、革命政府の役人も牢を訪れ、少年が皇太子と似ても似つかぬ人物である事を証明する人物も居り、銀行家プチチバルは、皇太子の死亡証明書を偽造であると非難する程でした。
しかし、それから1年も経たない間に、プチチバルは一家皆殺しに成ってしまいます。
バラス将軍は、政府報告書の中でプチチバル家の者は、「諸君等も御承知の例の少年を除いて」全員死んだと述べています。

 この事から、バラス将軍は皇太子探索に成功し、少年がプチチバル家に居た事を将軍の同僚や、一部の高級官僚は知っていたのだと考えられます。

 其れならば、獄中で死亡した少年は、誰だったのでしょう?
1846年、遺体の再検分を行った医師は、10歳と云うよりは、15歳から16歳の少年のものである事を証言し、更に1894年に再度司法解剖され、16歳から18歳の年齢の少年と鑑定され、棺の中の遺体は皇太子では在り得ませんでした。

後編に続く・・・
2010/01/06

歴史の?その82

<ロマノフ家最後の1年:後編>

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◎密  約

 住民のうち革命主義者28人が、皇帝一家殺害に加担した罪に問われ、5人が処刑されました。
しかし、決定的な証拠は何一つ発見されず、今日尚、ロマノフ家の末路の真相は疑惑に包まれたままなのです。
廃坑の坑道から発見されたのは、歯、眼鏡、衣類の断片だけで、後に眼鏡はボトキン博士の所持品と判明しまし、衣類は使用人のものと推定されました。

 革命政府には、皇帝を生かしておかなければならない理由が在ったのです。
彼らは、ドイツと既に皇帝を無傷で亡命させる密約を結んでおり、前皇帝を釈放すれば、革命派の方針が西欧世界を始め多くの国の共感を呼ぶはずでした。

◎イギリス国王の不可解な態度

 地下室で銃殺されたのは、果たして誰なのでしょう?
この部分は、現在、ロシア政府の正式発表と言う形では、皇帝一家であるとされていますが、大きな疑問でもあるのです。
白軍が発見したのは、ボトキン博士と使用人のものだけだったと推察する、研究者も存在し皇帝一家の殺害を偽装し、秘密の亡命を知る人物を抹消する必要から、彼らが殺害されたとも解釈されるのです。

 アメリカとイギリスが革命政府と協定を結んだとの噂も、根強く伝えられ、余談に成りますが1919年に「皇帝救出作戦」と題する書物が出版されましたが、本文において、その著者が皇帝一家を革命政府から救い、亡命させたと述べました(?)。
当然ですが、この本の内容を本気で信じた、研究者や歴史家は皆無です。

 しかし、時代が下るに従って、皇帝一家が生き延びているのではないかと思われる、不思議な出来事が幾つか発生します。
ロンドンで皇帝の追悼式典が執り行われた時、時のイギリス国王 ジョージ5世は自らの出席も代理人の派遣も断りましたが、イギリス国王は、皇帝一家の生存を知っていたのではないか?との憶測を呼び、又アメリカ国務省は、現在尚、ロマノフ家のオープンファイルを保持しているとの事です。

 1961年、ポーランドの情報機関員、ミハウ・ゴレニエフスキーがアメリカに亡命しますが、自分は皇帝の長男アレクセイであると主張し、3年後、ニューヨークで行われた彼の結婚式に出席した2人の女性が、オリガとタチアーナの名前で署名しました。
ゴレニエフスキーはその後、長い間、ロシア皇帝継承権を主張し続けます。

 しかし、ゴレニエフスキーにも、血友病患者ではない自分が、なぜ最後のロシア皇帝の子息で在り得るのか、説明する事は出来ませんでした。
アレクセイは、周知の事実として、遺伝する血友病を患っていたからです。

 エカテリンブルグで起きた事件の証人は、すでに存在しておらず、ロマノフ家の秘密は、彼らと共に葬られたのでしょう。

本編終了・・・
2010/01/05

歴史の?その81

<ロマノフ家最後の1年:前編>

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 嘗て、全ロシアに君臨した皇帝ニコライ・ロマノフは、「数えきれない邪悪な罪」によって処刑された、と1918年7月末、モスクワのボリショビキ革命政府は発表しました。
公式発表に続いて、皇后や皇太子、王女達が秘密の場所に移された事も告げられました。

 革命政府は、しかし処刑の報告を一度ならず訂正し、真相そのものに強い疑惑を残したのです。
皇帝一人が死刑に処されたか否か、歴然とした証拠は歴史家も把握していません。
皇帝と一緒に王家の一族も銃殺されたのか、其れとも一族全員が秘密裏に亡命したのか、当時判然としていなかったのです。

 ニコライ2世は1917年春、ロシア革命で権力の座から追われ、皇后アレクサンドラと5人の子供達(アレクセイ・オリガ・マリア・タチアーナ・アナスタシア)共々セントペテルブルグ郊外のツァールスコエ・セロの宮殿に革命政府によって幽閉されました。

◎白軍の脅威

 1917年8月、皇帝一家は、シベリアの寒村、トボリスクに移送されました。
ここは、辺鄙な田舎町で、皇帝支持派からの救援は、ほとんど期待できませんでした。
1918年に成ると、皇帝一家は再び、ウラル山脈に近い町、エカテリンブルグの一軒家に移されます。
エカテリンブルグの住民は、革命政府派で皇帝一家に冷たく接しました。
その間、皇帝支持派は、幾度か皇帝奪還を試みたものの、成功しませんでした。

 モスクワの革命政府が、皇帝処刑を決意(現在も諸説在り)したのは、皇帝が自由を得て、白軍の指導者になる危険を恐れた為であったと思われ、その脅威が無ければ、皇帝死亡を公表して事実を隠匿する可能性も考えられます。

◎地下室の惨劇

 1918年7月の革命政府発表は世界に、とりわけロマノフ家と血縁関係にあるヨーロッパ王室に衝撃を与えました。
しかし、数ヶ月後更に恐ろしいニュースが伝わり、皇帝一家は全員、1918年7月19日の夜、銃殺隊によって処刑されたと革命政府が発表したのでした。
報告によると、処刑命令はモスクワ(ウラル州革命政府説在り)から届けられ、ユーロフスキーの指揮の下、死刑宣告が成され、一家殺戮の最初の引き金は、彼自らが執行したのでした。

 皇帝一家は、事前に何も知らされず、彼らは階段を下りて地下室へ行き、其処で一列に椅子に座らされ、ユーロフスキーの射撃命令を合図に、一斉射撃が行われました。
彼らが使用した銃は、この非常な任務の為に、特に兵器庫から持ち出した、当時最新の連発銃でした。

 皇帝一家には、宮廷医ボトキン博士、3人の召使が付き添っていました。
彼らは全員、皇帝一家と行動を共にする様、命じられており、射撃が終了した時、床には11人の遺体が転がり、兵士達は、銃剣とライフル銃の台尻で、一人一人その死亡を確認したのです。

 明け方、死体は待機していたトラックに積まれて、エカテリンブルグから23km離れた“四人兄弟鉱山”へ運ばれ、其処でガソリンを撒かれ火葬にされ、焼き尽くされた遺体と、手回り品は硫酸で溶かされ鉱山の廃坑に遺棄されました。

 4日後の7月23日、エカテリンブルグが白軍によって陥落しましたが、地下室の壁の一部は既に洗い落とされていましたが、部屋にはまだ血痕が残っていました。
しかし、其れが皇帝一家のものであるか否か、当時確認する術は在りませんでした。

後編へ続く・・・

2010/01/04

歴史の?その80

<アナスタシア論争:後編>

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◎真偽論争

 ベルリンのロシア人社会は、完全に二分され、多くは彼女を皇女アナスタジア・ニコライブナ・ロマノヴァと認めましたが、一方ペテン師との非難も少なく無かったのです。
皇女をはっきりと見覚えている人物は、既にほとんど鬼籍に入っており、彼女の主張が認められれば、ロマノフ家の財産の分け前を失う人物も多く存在した事も事実なのです。

 皇帝一家のフランス語家庭教師で在った、ピエール・ジャリールは、彼女を偽者と確信しました。
なぜなら、彼女はロシア語を解さず、ロシア正教の流儀より、ローマ・カトリックの流儀で十字を切る、と言う事がこの論拠に成っていました。

 皇帝の従兄弟で、生き残ったロマノフ一族の長老シリル大公は、彼女との会見も、其の問題に触れる事すらも拒否した程でした。

◎法廷の判断

 皇后の妹、プロイセンのイレーネ公女は、彼女の額と目が、当にアナスタシアのものであると断言しましたが、イレーネ公女がアナスタシアを最後に見たのは、10年以上も昔の事でした。

 皇帝の従兄弟、アンドレーエフ大公は、彼女を完全に承認し、「彼女は真の皇女」であると公言しました。
アンナ(アナスタシア)は後に、叔父のヘッセン大公エルンストが、1916年、ロシアとドイツが交戦していた時に、ロシアを訪問したと主張しますが、大公はこの事柄を完全に否定し、アンナは「ずうずうしい嘘つき」と公言したと伝えられています。
しかしながら、1949年の事、元ロシア皇帝連隊の一人、ラルスキー大佐がアンナの主張した時期に大公が、確かにロシアを訪問した事を宣誓した上で供述しました。

 1933年、ベルリン法廷は、アナスタジア・ニコライブナ・ロマノヴァの死亡を正式に認め、ドイツにある皇帝財産を生存する縁者6名に相続させる証書を認定します。
こうして、アンナの認知への闘いは、振出しに戻りました。

◎その他諸々の証拠

 アンナは病院で、精密な医学検査を受け、X線検査で、銃の台尻による打撲傷と見える傷跡が、頭部に発見され、足には、皇女と全く同じ場所に、黒子が存在し、更に黒子を取った肩の傷跡は、アナスタジア・ニコライブナのカルテに記載されたものと同じでした。

 左手の中指に残る小さな傷跡は、幼い頃、下僕が不用意に馬車の扉を閉めて、彼女の指を挟んだ為に出来たものであるとアンナは語り、この話しは彼女の元侍女の一人が、其の話しを立証します。

 1938年、彼女の弁護士が1933年の証書認定を破棄するよう申し立てますが、第二次世界大戦の勃発で、法廷の審議は行われずに終わり、1968年5月、ハンブルグの法廷は、アンナに不利な裁決を下しましたが、その後も法廷での審議は続いたのです。

本稿終わり・・・
2010/01/03

歴史の?その79

<アナスタシア論争:前編>

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 ロマノフ家の末路を包んだ霧の中から、是までに色々な人物が登場し、皇帝一家の一員であると主張してきましたが、その大部分はロマノフ家の莫大な遺産目当ての人物達でした。

 しかし、1920年2月17日にベルリンの運河から、半ば気を失って救い上げられた10代の少女の語った物語は、可也の真実性を帯びて、人々に聞き入れられました。
多くの亡命ロシア貴族も、彼女を本物と認めた程で、彼女は皇帝ニコライ2世の末娘、アナスタジア・ニコライブナ・オマノヴァであると語ったのです。

 話は、大変複雑で、ロマノフ家の財産の殆どは革命直前、密かにロシア国外に持ち出され、西側の銀行に預けられたとの噂が存在し、同家の財産は、現金だけで40億ドルに上ると見積もる事が出来、その他、ドイツには莫大な不動産が存在していました。

◎救  出

 1918年、革命政府の発表では、皇帝自身は処刑されたが、彼の家族は処刑を逃れ、他の場所に送られ事に成っていました。
其れが事実で在るならば、皇太子か皇女が実際に後年、出現しても不思議な事では在りません。

 ベルリンの運河から救い上げられたその少女は、アンナ・チャイコフスキー名義の証明書を所持しており、収容された病院で元気を回復した直後から、自分はアナスタシアであると主張し、処刑を逃れた模様を詳細に物語ました。
彼女は家族と共に、エカテリンブルグの地下室へ処刑の為に連れて行かれたと話し、銃撃を受けて負傷し、彼女は気を失いました。
しかし、意識を取り戻してみると、男女二人ずつが引く、農夫の荷車に隠されていたと云います。

◎ボリショビキ兵に救われて

 二人の男性は、ボリショビキ兵の兄弟で、名前をチャイコフスキーといい、処刑には参加していませんでした。
兄弟が彼女に語ったところでは、少女は死亡したものとして、地下室に床に放置されており、兄弟が死体を地下室から運び出す事になっていました。
兄弟は、彼女にまだ息がある事に気付き、少女を密かにロシア国外へ救い出そうと決心したのだそうです。

 真珠にネックレス、ドレスに縫い込まれていたエメラルドの原石を売却してお金で、少女と救出者達は、ようやくルーマニアの首都ブカレストに辿り着き、其処で一行は、チャイコフスキーの親類宅に身を寄せました。
少女は、革命政府を恐れる余り、隠れ家から一歩も外出する事なく、やがて兄弟の一人と結婚して、子供を一人もうけました。
その後、間もなく、夫は路上で革命政府の通報者によって、脱走兵として射殺され、彼女もまた病に倒れ、子供は養子に出されてしまいます。

 義弟セルゲイ・チャイコフスキーは、彼女をベルリンへ連れて行く事とし、其処ならば革命政府の目からより安全と思われたからです。
しかし、恐怖に満ちた旅路の果てに辿り着いたベルリンで、セルゲイは姿を消し、少女は疲れ果て、絶望の余り運河にみを投じて自殺を図ったのでした。

 その後10年間、彼女はロマノフ家の一員として、資格回復と帝室財産の相続権を主張し続け、皇帝支持者との接触を繰り返します。

後編に続く・・・

2010/01/02

歴史の?その78

明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い申し上げます。


<鉄仮面:実話のお話>

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 ルイ14世の治世60年目の1703年に、バスチーユ監獄である囚人が死亡しました。
34年間を獄中で過ごしたその男は、ベルベットの仮面をつけ、監獄の誰にも顔を見せぬまま、世を去りました。

 フランスの一公女から、イギリスの宮廷に居る友人のもとに「昔の囚人」について書かれた手紙が届きます。
「仮面をつけた一人の男が、長年バスチーユで暮らし、仮面をつけたまま死んだ。近衛兵が二人、常に彼を見張り、仮面を外そうものなら直ぐに殺す用意をしていた。・・・是には何か訳があったのだろう。他の面では彼は厚遇され、快適に生活できるよう配慮され、望むものは全て与えられていたから。・・・彼が何者であったのか、誰も知る事は出来ませんでした」。

 ロマン派の小説家アレクサンドル・デュマ(父)は仮面の材質に多少の脚色を加えて、「鉄仮面」を書き、素性不明の囚人が、ルイ14世自身、若しくは双生児の弟という説を広めました。
しかし、是までに判明した事実から、より一層奇怪な推測が生れています。

 1669年、港町ダンケルクで逮捕された瞬間から、この囚人は異常に用心深い保護を受けました。
当時フランス領で在ったトリノ近郊のピニェロル監獄に彼が、護送されてきた時、責任者のM・サンマルスは次のような命令を与えられました。
「日用生活必需品以外の物事に関し、彼が口を開こうとした時は、氏の脅しを持って制しせよ」。
サンマルスが他の監獄に移動する度に、その任地に囚人も蝋紙で目隠しをした、籠に入れられ一緒に移動しました。
囚人は、激怒の余り気も狂わんばかりであったと記録されています。
囚人の逮捕からほぼ30年が経過したにも関わらず、尚もこの人物が人目に触れないように、あらゆる手段を尽すよ
う命じられていました。
 
 仮面は罰ではなく、用心の為で有り、この長い期間、囚人は公然の存在では有りませんでした。
では、なぜかくも厳重な警戒が必要だったのでしょうか?
謎を解く鍵として、かの人物は、誰か極めて重要な人物と驚く程似ていたのかも知れず、そして容姿が似ている事が大変に不都合であったのではないでしょうか・

 学者で在り、又政治家でもあるクイックスイッド卿が発表した推論は、既知の事実と符合す様に思われます。
囚人は、ルイ14世の真実の父親ではなかったのか、と言う推論なのですが・・・。

 ルイ13世とアンヌ・ドートリッシェは22年間の結婚生活中、一人の子宝に恵まれませんでした。
当時フランスの実権を掌握していたのは、リシュリュー宰相で、彼は自分の権力維持の為に王の世継ぎの誕生を待ちあぐねていました。
ルイ13世の子が王位を継承すれば、リシュリュー派は引き続き権力を行使できます。
しかし、王と王妃は、14年前から別居生活を続けていましたが、宰相は何とか、公式の和解を取り持ち、そうして全フランスが驚天動地した事に、王妃は1638年、男子をもうけました。

 それ以前に国王夫妻に子供が生れる事は無く、しかも二人は互いに嫌いぬいていましたから、王子の父親となる夫の国王の変わりに若い貴族の男性を受け入れる様に、王妃をリシュリューが口説き落としたと想像できるのです。
当時、パリには身持ちの悪いアンリ・ド・ナバールの私生児・・・全てルイ13世の異母兄弟・・・が数多く居たので、ブルボン家の血統を引く人材を捜す事に、苦労は無かったと推測されます。
リシュリューは、容姿に優れ、彼の意志に従順なブルボン家系の青年を容易に見つけ出し、窮地を抜け出るには他の方法は無いと王妃を説得したのでしょう。

 事実、少年時代のルイ14世は逞しく活動的で、父王であるルイ13世に少しも似ていないと、宮廷の中で噂されていた事実が存在します。

 この推論が正しければ、真の父親は海外、多分カナダのフランス植民地に送られ、やがて過去の経緯も忘れた頃を見計らい、若しくは今や全能の太陽王と成った息子、ルイ14世を頼って、フランスに戻って来たのではないでしょうか?
父親と息子は互いに、余りにも似すぎていた為、彼の出現は宮廷を困惑させ、王権自体を脅かす存在で在ったと考えられます。

 簡単な解決方法、即ち彼を暗殺する事は、おそらく問題外で有り、ルイ14世にしても自分の父親の殺害は阻止せざるを得なかったはずであり、結果、完全な秘匿、生活に一切の不住は無いものの、看守以外の人間からも一切隔離された生活しか他に手段は無かった・・・と思われます。

 囚人は生前のとおり、顔を知られず無名のまま死にました。
その素性は、死後もなお隠され、バスチーユで生涯を終えた者の例にもれず、彼は仮名で埋葬されました。
太陽王ルイ14世の父親であったかもしれないその人物は、“ウスタード・ドージェ:下僕”と記録されたのでした。

続く・・・