2010/02/28

歴史の?その133

<翼よ、あれがパリの灯だ:後編>

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 夜の闇が迫り、既に離陸から12時間が経過し、位置を示す地上目標は、全く無くなりました。
是からアイルランドの海岸迄は、羅針盤と海図と鋭敏な勘の頼る他に手段は無く、しかも睡魔との闘いが続いていました。
“スピリット・オヴ・セントルイス”は今回の飛行計画で、最も危険な場所に差し掛りました。
眼下に見える海面には、氷山が浮かび、その進行方向は、濃霧に閉ざされています。

 無限に広がる、一面の広い黒い海上を、風雨と霧をついて飛行した、この長い夜も漸く明けようとしていました。
ニューヨークのロングアイランドを離陸してから、19時間後、空が明るく成り始め、リンドバーグは、高度を下げて、泡立ち騒ぐ大西洋上を低空飛行して、疲労回復を図り、眠気を覚ます為、自分の頬を叩いたりしながら飛行を続けたのでした。

 前方にアイルランドの海岸線が見え始め、ニューファンドランドを後にして16時間が経過し、疲労感に苛まれながら、又長い夜間の盲目飛行を行ったにも関わらず、予定のコースを僅か5km逸脱していたに過ぎませんでした。
しかも、予定よりも2時間30分も早く到達していたのです。

◎翼よ、あれがパリの灯だ!

 “スピリット・オヴ・セントルイス”は終にドービル上空でフランス海岸を通過、再び夜の闇が迫っていましたが、愛機のエンジン、ライト・ホワールウインドJ5Cは、快調な響きを続け、リンドバーグの睡魔は完全に消え、行く手の柔らかな夜空に、パリの明るい灯火と紛れも無い、エッフェル搭の姿が見えたのです。

 彼は、ル・ブルージュ飛行場が、パリ近郊の北東に位置する以外、詳細は知りませんでしたので、滑走路の灯火を捜しました。
しかし、リンドバーグの眼に入ったのは、ビーコンや警告灯、誘導灯でもなく、何千、何万という光の海でした。
当惑した彼は、飛行場上空をゆっくりと旋回し、是等の光が、飛行場の周辺に集まった、自動車のヘッドライトだと判ってから、初めて降下を開始しました。

 リンドバーグは、飛行場の隅に在る、格納庫の方へ飛行機を移動させようとしましたが、その時、前方から無数の人間が走ってくるの見ました。
飛行機から降りながら、彼は一言だけ言いました。
「私がチャールズ・リンドバーグです」
そして、歓喜に沸き返る群衆に、あっと言う間に飲み込まれてしまったのでした。

補遺
  
 大西洋横断飛行を最初に成し遂げた人物が、チャールズ・A・リンドバーグ2世と思われている方が、多い様ですが、この大西洋横断は1910年代から、航空機の性能の発達の指標として目標になった飛行記録なのです。

主な大西洋横断飛行記録を列記してみると下記の様になります。

1)1919年5月、カーチスNC4飛行艇により、アメリカ・ニューヨーク州ロングアイランドからポルトガルのリスボンへ着水しながらの横断。
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2)1919年6月、カナダのニューファンドランド島~アイルランド無着陸横断。
飛行機は、イギリス空軍、双発複葉爆撃機ビッカース ビミー、搭乗員はジョン・オルコック、アーサー・ブラウン。
イギリスの新聞デイリー・メール紙の1万ポンドの賞金を獲得。
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3)1927年5月20日、ニューヨーク~パリ単独無着陸飛行。
飛行機は、ライアン・エアラインズNYP-1、搭乗員はチャールズ・A・リンドバーグ2世。
レイモンド・オルティーグの25,000ドルの賞金(オルティーグ賞)獲得


4)1928年、アイルランド~カナダ大西洋逆横断、
飛行機は、ユンカースW33、搭乗員はギュンター・フォン・ヒューネフェルト、ケール、ジェイムス・フィッツモーリス。

5)1930年、パリ~ニューヨーク逆横断
飛行機は、ブレゲー19GR、搭乗員は、デュドネ・コスト、モーリス・ベロント

6)1932年、女性の単独横断飛行
飛行機は、ロッキード ベガ、搭乗員は、アメリア・イアハート。
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本編終了・・・


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2010/02/27

歴史の?その132

<翼よ、あれがパリの灯だ:中編>

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 1927年5月10日、リンドバーグはサンディエゴを出発、ニューヨークに向かいました。
他にも2機の機体が既に待機し、天候の回復を待っていたのです。
しかも、大西洋初横断飛行に成功した、飛行士には25000ドルのオーティグ賞が掛かっていたのでした。

 果てしなく思われた天候回復の待ち時間も終わりに近づいた頃、リンドバーグの頭は、最後の準備と天候の事でいっぱいでした。
当時この様な大飛行に天候は、最も重要な成功要因に成っており、リンドバーグがニューヨークに到着以来、大西洋上は、濃霧、嵐の悪天候が続いていたのでした。

◎離  陸

 5月19日夜、リンドバーグは、大西洋上の天候が回復に向かっているという、報告を受け、ホテルで落ち着かない、仮眠を取った後、敢えて早朝に出発する事に決めました。

 その朝は、憂鬱な雨模様で、ルーズベルト飛行場から、ひどくもたついた離陸を行った“スピリット・オヴ・セントルイス”は、突然力を得て上昇し、機首を北東に向けて、ニューイングランド海岸を目指しました。
彼は、メルカトル投影図法の海図を徹底的にチェックし直し、この海図を基に、北上しつつ弓なりに飛行するルートを設定していました。
そのコースは、ニューイングランドからノバスコシア、ニューファンドランドの上空を通過し、北大西洋上3200kmを一気に横断、アイルランド海岸に達し更に、イギリス本土から英仏海峡を飛び越え、パリ、ル・ブルージュ飛行場に着くと言うものでした。

 離陸後、リンドバーグの飛行は順調に進み、愛機はマサチューセッツ海岸とノバスコシア海岸の間の大西洋上を快調に飛行していました。
その時、彼は激しい疲労感を感じ、この疲労感は、飛行中ずっと彼を悩まし続ける結果と成りました。

後編へ続く・・・

2010/02/26

歴史の?その131

<翼よ、あれがパリの灯だ:前編>

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 1927年5月20日、午前8時少し前、一機の銀色の単葉機が、積載した1700Lの燃料の重量に喘ぎながら、ロングアイランドのルーズベルト飛行場を離陸しました。
飛行機の名前は“スピリット・オヴ・セントルイス”、只一人操縦桿を握っているのは、若い飛行家、チャールズ・A・リンドバーグ2世。
是から5800km、大西洋を横断して、パリ迄単独無着陸飛行を行なおうとしていました。
この壮挙は、世界中の人々の夢をかきたて、センセーションを巻き起こしたのです。

 リンドバーグの試みは、航空史上、最も長距離の単独無着陸飛行で、ニューヨークからパリへの飛行は、是が始めてでした。

 リンドバーグが、ニューヨーク・パリ間の単独飛行を成し遂げたいと思ったのは、1年前、セントルイス・シカゴ間の郵便飛行士をしていた時でした。
しかし、当時5800kmの距離を無着陸で飛行可能な機体は、殆んど有りませんでした。
この長距離飛行の為には、機体から余分な重量を容赦なく削り取らなければ成りません。
この条件には、搭乗する人間の数も当然含まれます。

 リンドバーグは当時25歳、既に4年の飛行経験が有り、郵便飛行士、テストパイロット、アメリカ陸軍航空隊予備役として、実績を積み上げていました。

◎ライアン・エアラインズ NYP-1“スピリット・オヴ・セントルイス”

 この若い飛行士の情熱は、他人にも伝染するものに違い無く、1927年2月、彼はセントルイスの実業家達から、資金援助を受ける事に成功し、この飛行に適した飛行機を製作依頼する為、センディエゴに向かいました。
其れから2ヶ月間、彼は、ライアン社の設計技師、ドナルド・A・ホールと密接に協力して、後に“スピリット・オヴ・セントルイス”として名前を後世に残す、単座、単葉の名機を生み出したのでした。

 最も重要な課題は、後続距離で、その為前方視界の殆んど大部分は犠牲にされ、エンジンとコックピットの間に予備燃料タンクが設置されました。
離着陸時は、ペリスコープの助けを借りて行い、シートはかなり後方に設置された設計になっていますが、是は出来得る限り、余分な空気抵抗を低減させる為でした。

 完成した、NYP-1型航空機は、燃料タンクが5ヶ所に設けられ、その航続距離、7245km。
是は、当時としては、極めて驚異的な燃料積載量で、大西洋横断には充分すぎる程のものでした。
そして、無駄な部分は、容赦なく削り落とされ、六分儀、ラジオ果ては、懐中電灯や照明弾さえ積まれていませんでした。

中編へ続く・・・
2010/02/25

歴史の?その130

<USS ACR-1 メイン号:後編>

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 爆発は、乗員居住区画の真下で発生し、将校2名と兵士250人は即死し、8名が重症を負い、沈み行く艦から、シグズビー艦長が最後に退艦したのでした。
補足ながら、この艦艇には、日本人のコック並びボーイ計8名が乗船しており、6名が死亡、2名が重症を負いました。
救出されたシグズビー艦長が最初に打信したのは、完全な調査が完結するまで、軽率な判断を自重する様にアメリカ人に求めた内容でした。

 しかし、アメリカ大衆とジャーナリズムは、忽ち怒りを露わにし“リメンバー・メイン”のバッジが飛ぶ様に売れ、新聞は、弱腰のスペインに宣戦布告せよと、連日書きたてました。
2月17日、ハーストの「ジャーナル」紙は、メイン号報道で、発刊以来初めて100万部の大台に乗りました。

 ハーストは報道員をキューバに派遣していましたから、事件の独自調査結果を連日に様に掲載し、ジョゼフ・ピュリッアーの「ワールド」紙はサルベージ船をチャーターし、沈没船調査に潜水夫迄雇いましたが、調査許可は得られませんでした。

 「ジャーナル」紙は戦艦メイン号は、何者かが仕掛けた爆破装置により、沈没したと主張し、一方の「ワールド」紙の見出しは、メイン号の爆発原因は爆弾、水雷の疑い在りでした。

 ハースト系新聞は、メイン号爆発に関して、一斉にスペイン非難の論陣を張りましたが、キューバ領事である、リー将軍自身は事故と考えており、アメリカ海軍当局は、積載した石炭の自然発火が原因ではないかと検証しています。
過去にも同様な事故が、他のアメリカ艦艇でも発生していた為ですが、やはり様々な説が唱えられました。
艦が知らずに水雷に接触した、ハバナからの訪問者が爆破装置を石炭庫に仕掛けた、弾薬が正しく保管されていなかった等などです。

 スペイン当局は、爆発は内部の事故により発生したと発表するとともに、その主張を立証する為に迅速な調査活動を命じ、事故から1時間後には、早くも目撃者を尋問していました。
2月20日、外部要因を示す様な証拠は発見できないと、スペイン司法当局は宣言し、アメリカ合衆国はスペインの協同調査申し入れを撥ね付け、独自の調査を実施し、3月末、進歩的な一部の雑誌に機雷が原因であると発表しました。

 4月11日、マッキンレー大統領は、キューバへの軍事介入を議会に諮り、2週間後にセオドール・ルーズベルトの言うところの「みごとな小戦争」が始まり、8月12日アメリカの勝利で終わりました。
敗戦の結果、スペインは西半球とフィリピンから撤退を余儀なくされたのでした。

しかし、戦艦(装甲巡洋艦)USSメイン号の謎は、其の後深く残り、1911年に船体をハバナの海底から引き揚げ、調査がおこなわれた結果、爆発箇所は別の疑いが提起されましたが、1912年、艦底部の調査が行われる前に、艦は外洋に引き出され、最高の軍事的名誉を込めた、葬礼の内に波間にその姿を没したのでした。

本編終了・・・

2010/02/24

歴史の?その129

<USS ACR-1メイン号:前編>

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 アメリカ合衆国海軍戦艦(装甲巡洋艦)USSメイン号は、1898年1月、艦長チャールズ・D・シグズビー指揮の元、フロリダ州キーウェストに停泊し、145km南方のキューバ、アメリカ領事フュイッツヒー・リー将軍から届くであろう“2ドル”の暗号電信を待っていました。
暗号は、スペイン支配に抵抗するキューバ人の革命で、アメリカ人の人命と財産が脅かされ、アメリカ軍の支援が必要になったとの意味でした。

 当時、アメリカ合衆国には、革命介入の口実を得る機会を狙う人物も存在し、激しい新聞報道に煽動されたアメリカ一般大衆は、経済的動機と半官びいきの感情から、キューバの愛国者達に心情的応援を送っていたのです。

 やがて届いたリー将軍からの暗号は、誤報でしたが、アメリカ合衆国大統領ウィリアム・マッキンレーの指示により、メイン号はキューバのハバナへ公式儀礼訪問の為出港し、1月25日ハバナ港に投錨します。
その間、アメリカ海軍は、戦闘用艦艇をキーウェストに集結させ、戦闘準備を整えました。

 キューバ政府からの反アメリカ的意思表示はないまま、数日が経過し、2月9日アメリカとスペインの関係悪化を招く出来事が発生します。
ワシントン駐在のスペイン公使が、キューバの友人に出したスペイン語の私信が盗まれ、その文面が、ウィリアム・ハーストの経営する「ジャーナル」紙に掲載されたのでした。
スペイン公使は、率直な言葉づかいで、マッキンレー大統領を田舎者の弱虫と記しており、戦争状態を回避したい、スペイン本国は、急遽その公使を本国に更迭したのです。

 2月15日午後9時40分、将校26人、兵士328人のメイン号乗員は、艦上で通常の兵役任務を遂行していました。シグズビー艦長は、自室で家族宛の手紙を書き終え様とした当にその時、2度に渡って艦内で爆発が起こり、その衝撃で彼は床に叩きつけられました。
キューバ公使館で、中米スペイン公使の私信について、ワシントンに報告する、至急公文書を書いていたリー将軍は、窓に駆け寄り、火炎に包まれたメイン号が船尾から海中に没する姿を見たのです。

 6682tの戦艦が沈没し、その弾薬が海中で爆発する最中、その場に居合わせたスペイン人船員達は、犠牲者を収容する事に懸命でした。

後編へ続く・・・

2010/02/23

歴史の?その128

<ルードヴィッヒ二世:後編>

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◎逃  避

 其れまで、王は特に変わった振舞いを見せた訳では有りませんが、只、宮殿の衛兵が疲れているに違いないと、ソファーを与えると言った事が有るそうです。(?)
王は国事に関心を持とうと努め、女性に魅力を感じなかったにも関わらず、結婚はしませんでしたが、従妹のゾフィーと婚約さえ行いました。
王が、彼の名前を歴史に残した築城に、情熱を向け始めたのは、この頃でした。
母のマリー王妃は、彼が幼い頃、積み木遊びに夢中であった事を伝えています。

 1868年、王はワーグナーに手紙を送ります。
「ポラート瀑布の近くに在るフォルダーホーエンシュワンガウの古城跡を、私は古代ゲルマン騎士の城と全く同様に改修するつもりでいる。
そこに住むと思うと、いまから血が騒ぐ事を告白しなければ成らない。
其処で“タンホイザー”や“ローエングリン”の精神に生きるのだ」と彼は述べています。
改修建設の工事が、始められました。
是が後の“ノイシュヴァンシュタイン城”、目も眩む急斜面の中腹に建つ、おとぎの城でした。
彼は他にも、バロック式の華麗なリンダーホーフ城と、ベルサイユ宮殿を手本とした、ヘレンキュームゼー城を建てます。
そして、王は遠く国政から離れて、自ら作った城の夢の世界に閉じこもりました。

 王の空想の旅も、馬術訓練所の周辺では終わらなく為り、冬の夜毎、黄金のロココ風馬橇に乗って、危険な雪山を駆けました。
付き添う御者や従者達は、ルイ14世様式の衣装を着けさせられていました。

 政治を忘れ、浪費を続ける彼の生活が、何時までも許されるはずも無く、1886年6月、叔父のルイトポルト公は、王に禁治産者の宣告を下し、摂政として、彼の跡を継ぎました。

 ルードヴィッヒ二世の生涯は、悲劇的で謎めいた終局を迎えます。
6月12日、ミュンヘン郊外のシュロッス・ベルグに幽閉され、翌日彼は、お抱え医師ベルンハルト・フォン・グッテン博士と散歩に出掛けましたが、何時まで経っても二人が戻って来ない為、捜索隊が編成され、やがて岸から20m程の浅瀬に二人の遺体が浮かんでいる処を発見されました。
暗殺、自殺、事故死と様々な憶測、推測が成されましたが、ルードヴィッヒ二世の数奇な生涯が如何にして悲劇の幕を閉じたのか、その謎を解明した者はまだ居ません。

本編終了・・・
2010/02/22

歴史の?その127

<ルードヴィッヒ二世:前編>

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 王の馬術訓練は、午後8時から午前3時迄と決まっていました。
王立馬術訓練所や王宮の周囲で行われるこの訓練を、王は「ミュンヘン・インスブルック間の速駆け」と呼称し、付き従う従者も、彼らなりにこの深夜の速駆けを楽しんでいました。
時折、馬を変えるだけで良いし、途中で味わう食事は、館の中で取る其れよりも楽しく、それに速駆け伴走の褒美は、金時計でした。

 「バイエルンの狂王」と呼ばれたルードヴィッヒ二世の楽しみは、馬術訓練所周囲の距離を計りながら駆け、空想の旅を楽しむ事でした。
只、ルードヴィッヒ二世は昼夜反対の生活を行っていたので、「旅」はどうしても、不自然な時間に行わざるを得ませんでした。

 この様な王にも、1864年3月10日、父王マクシミリアン二世の跡を継いだ時、前途は明るい希望に満ち溢れていたのです。
確かに王家の歴史には、暗い過去も有りました。
祖父リードヴィッヒ一世は、60歳の時、スペイン人の踊り子ローラ・モンテス、実はアイルランド女性エリザ・ギルバートと恋に落ち、国の財政を傾け、叔母のアレクサンドラ公女は、才能豊な女性でしたが、神経を病み、健康に異常な関心を持っていました。

 18歳で即位した、美男の新王は、バイエルン国民の心を捕らえましたが、しかし彼らは、新王が15歳の時、ワーグナーの歌劇「ローエングリン」を聞いて以来、ワーグナーの虜になっている事迄は知りませんでした。

 即位すると直ぐに、王は廷臣を遣って、ワーグナーを探します。
ワーグナーはその頃、巨額の負債を抱えて身を隠していましたが、王は彼の負債の全てを支払い、一生苦労無く作曲活動に打ち込める様、経済的な保証を申し出ます。
こうして、王と作曲家の厚い友情が、開花し、王は作曲家に夢中になり、作曲家の為に様々な芸術的な催しを企て、おぼれ込んで行きます。

 ワーグナーの散財は桁外れで、彼の天才がどれ程金を食うのか、と国民は囁き、或る時、ワーグナーが愛人を銀行に遣って、王の口座から現金を引き出そうとした事が有りましたが、その額は、辻馬車2台を雇わなくてはならない程で、ワーグナーに対するバイエルン国民の反感は、いっそう強いものに成って行きました。

 しかも作曲家は政治にも介入した為、王は友情と公的義務の二者選択を迫られる破目に陥り、ルードヴィッヒ二世は、しぶしぶながら王としての責任を果たす道を選び、ワーグナーにミュンヘン退去を命じますが、王のワーグナー傾倒は、作曲家がこの世を去る迄続きました。

後編に続く・・・
2010/02/20

歴史の?その126

<太陽王の宮殿:後編>

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 この庭園の最大の呼び物は、泉と滝で、是には膨大な水道設備と巨大な揚水設備が必用で、セーヌ河から導水する為に1681年から1684年に渡って「マリルの機械仕掛け」を造り導水する計画でしたが、この装置は度々故障を繰り返し、計画通りには進みませんでした。
その為、今度は、ユール川の流れを変える計画が実行に移されたものの、人命の犠牲、財政支出は膨大となり、1686年に中止と成りました。

 是は、人命の喪失や、財政圧迫が原因で工事が中止に成ったのではなく、無報酬労働部隊の兵士が、本業の戦争に必用と成ったからでした。
結局、ベルサイユとランブイエの間にある台地の水を集め、水路網を通じて庭園に流し込む方法が採用されました。

◎不  便

 1682年、宮廷がベルサイユに移り、1789年迄此処は、フランス国王の住まいと成りました。
其れまでのルイ14世の宮殿同様、壮大華麗な建造物で、9000人の軍隊、1000人の廷臣、4000人の召使が生活をともにしましたが、豪華で華麗な部屋の数々も、日常の生活には不便な事この上なく、暖房は事実上不可能、トイレ等の衛生設備も皆無でした(!)。

 ルイ14世の死後、その曾孫にあたるルイ15世がベルサイユ宮殿を更に増築し、この部分が後日、ルイ16世の王妃マリー・アントワネットお気に入りの休息場所となった「小トリアノン」なのです。
ルイ16世は、マリー・アントワネットの為に続きの間を増築しました。

 しかし、ベルサイユ宮殿の権力と影響力は、1789年のフランス革命で終焉を迎えます。
革命後、家具調度品や装飾品は、売却され、盗まれ、宮殿自体も手入れもされず放置されていましたが、修復作業は19世紀半ば、ルイ・フィリップによって行われ、アメリカ合衆国が是をしました。
時代は移り、ベルサイユ宮殿は、王朝政治華やかなりし頃を象徴する、博物館として今日に至っています。

補遺

「マリルの機械仕掛け」

 水不足は、終始ベルサイユに付きまとった大問題でした。
飽くことを知らない、ベルサイユの需要を満足させる事が可能な水量が、確保された事は一度も在りませんでした。
庭園用だけでも、ルイ14世は1400の泉への給水を命じました。
必用な水量は、パリ全体の需要を賄うに足る程で、国王がベルサイユ宮殿の庭を散策するとき、庭園付の召使が制御装置を操作し、噴水が出る様にしました。
もし、噴水が作動していなければ、庭園監督官は、罰金を徴収されたそうです。

 ルイ14世が、庭園を潤うに足る大量の水を求めた事が契機となり、さまざまな計画や発明が生れたのでした。
その内、現在でも最も有名な機械装置が、巨大な「マリルの機械仕掛け」なのです。
建造が始まったのは、1681年で、その目的は本文でも触れた様に、セーヌ河から絶え間なく水を汲み上げる事でした。
幅11mの巨大な14機の水車が221個のポンプを稼動させ、セーヌ河に続く丘の斜面を、160mの高さ迄水を運び上げる事に成っていました。
工事の完成は、1684年、この後、水をベルサイユ近郊の貯水池迄送る為の水道工事が始まりましたが、この大掛かりな機械は、故障が頻発し、その修理維持に莫大な費用が掛ったのでした。

本編終了・・・
2010/02/19

歴史の?その125

<太陽王の宮殿:前編> 

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 一人の国王の虚栄心が、一国の財政を破局に追い込みましたが、私達はそのおかげで、異常なほどに壮麗な宮殿を現在でも見る事が出来ます。
その国王とは、フランス、ブルボン王朝のルイ14世、財政を破局に追い込んだ建築物とは、ベルサイユ宮殿の事なのです。

 ベルサイユ宮殿は、フランスの宮廷と政治の中心に成りましたが、そもそもの始まりは、狩猟用の質素な館でした。
ルイ13世はこの館を、宮廷の仕事や政務の煩わしさから、逃れる安息の場所として使用していましたが、1627年、この場所に小さな城を建てました。
ルイ13世の死後、息子の「太陽王」ルイ14世は、城を建て替え、壮麗な宮殿によって、自分の栄華を後世に伝え様と試みたのです。
1661年、造営工事が開始されましたが、世界で最も素晴らしい建物を建てる為に選んだ土地は、建築家にとって、当に悪夢の様な土地でした。
土壌が細かい砂の為に基礎の土台の一部は沈下し、その周囲は見渡す限り荒涼とした場所でした。

 ルイ14世は、建設作業を自ら監督する熱心さで、費用が幾ら掛ろうとも、国民の生活が如何に困窮しようとも、そして工事による犠牲者が幾人でようとも、一向に気に止める事は有りませんでした。
ベルサイユ宮殿造営の現場では、1日3万人以上もの人間が工事に携わりましたが、是等人間の多くは無報酬か、強制労働であり、更にその作業環境は劣悪を極め、伝染病が蔓延して、多くの人間が死亡しました。
流石にルイ14世も、余りの死者の数に多さに、廷臣がこの問題を口にする事を禁じた程なのです。

◎一流好み

 時間、創意、金銭が惜しみなく注ぎ込まれ、ベルサイユ宮殿造営現場は、フランスの建築工学の一大展示場となり、植樹が行われ、庭園造営の為、大理石、青銅の像が運び込まれ、時にはルイ14世はパリからフランス宮廷の総勢を引き連れて進捗状況を見聞した程でした。

 ルイ14世は自分の野望を満たす為に、当時フランスで最高の建築家を登用し、まず手始めにルイ・ボーが、ルイ13世時代の建物を改築する仕事にあたり、次いで1678年、ジュール・マンサールがこの仕事を引継ぎ、城の主要部分を改造し、両側に北ウイングと南ウイングを建設し、正面の全長600m、窓の数は375を数える迄に成りました。

◎水不足

 庭園の面積は100ha、造園にあたったのは、アンドレ・ルノートル。
ルイ14世は花を好み、毎年400万個ものチューリップの球根を輸入していました。
この庭園最大の呼び物は、テティスの洞窟と動物園の二つで、洞窟は小石と貝殻で覆われ、水力で作動するオルガンが内部に納められており、更に水が流れ出る仕組みも隠されていました。

 動物園にはエキゾティックな動物や鳥類が収集されており、更にルイ14世は全長1600m、幅60mの運河を掘削して、如何にも運河らしさを演出する為に、ゴンドラを始めとする色々な船が浮かべられました。
又、1684年、マンサールはオレンジの成木を輸入して、オレンジ園を作りました。

後編に続く・・・

2010/02/18

歴史の?その124

<ユダヤ人抵抗の砦マサダ:後編>

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◎ローマの復讐

 西暦72年、ローマのユダヤ執政官フラィウス・シルバは、恐るべきローマ第10軍団の先頭に立ち、マサダに進撃しました。
73年の初頭迄に、彼は砦を取り囲む壁を造り、男も、女も、子供も、誰一人ローマの復讐から、逃れる事が出来ない様にしてから、攻略の準備を開始したのでした。
攻撃に最適の場所は、西側の突出部で、ローマ軍は其処に向かって、巨大な土の傾斜路を築き、その頂上に攻撃の本拠となる石の搭を造り、石弓等の武器を持って攻撃を開始しました。
マサダの陥落は、もはや時間の問題と成り、その運命は定まったのです。

 1900年後、発掘者は、ローマ軍に抵抗した彼らの、絶望的な最後の日の証拠を掘り出します。
火をかけられなかった貯蔵食料や、食糧の配給券らしい、青銅のコインの山が発見されたのです。
様々な建物の破片の中に、14巻にのぼる巻物の断片が発見され、夫々がある程度正確に、紀元前1世紀から紀元後73年迄の物である事が確認され、この中には、聖書の申命記、エゼキエル書、詩篇、外典の一部等の抜粋が含まれており、有る物には、死海写本と同様な、宗派の聖句が書かれていました。

 ローマ軍が進行してきたと予想される方角を見下ろす戦略地点で、考古学者は11個の陶器片を発見しました。
夫々に名前が書かれており、明らかに同じ筆跡で、その内の一つには、ベン・ヤーイルの名前が在りました。

 10本の籤の他に、英雄的指導者、エレアザル・ベン・ヤーイルの名前を書いた、11本目の籤が存在したのでしょうか?
そして、彼が最後の生き残った男となり、自ら剣で命を絶ったのでしょうか?
彼程の男が、自分の部下に求めた恐ろしい命令に、怯む事はまず考えられません。
今日、マサダは聖地として、イスラエルの人々によって保存され、イスラエル軍に入営する新兵は皆、「マサダは二度と陥落させない」と誓う事が伝統となっています。

本編終了・・・
2010/02/17

歴史の?その123

<ユダヤ人抵抗の砦マサダ:前編>

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 西暦紀元73年、ローマ第10軍団が、マサダの砦に対する最後の総攻撃の準備を整えた時、その内部に立てこもった、ユダヤ教信者の一団は、恐ろしい決断を示していました。
降伏して、残忍なローマの報復を受け、奴隷と成るよりも、彼らは自らの手による死を選択したのでした。

 ユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスの記録によれば、指導者エレアザル・ベン・ヤーイルは、英雄的な演説を行ったと云います。

「1日以内に、我々がローマ軍の総攻撃を受ける事は、間違い無い。
敵の前で奴隷になるよりは、死を選ぼう。
この世を後にして、自由の国で妻子と一緒に暮らそう。
急ごうではないか!
我々を、その力の下におこうと望んでいる敵に、多くの喜びを与える代わりに、我々の死に対する驚きと、我々の勇気に対する賞賛を引き起こす様な、手本を見せてやろうではないか」

 ベン・ヤーイルは、豊富な食料の蔵を除き、砦全体に火を放つ様に命じ、彼らは、自分達が誇りと信仰の為に行動しているのであって、絶望の果てに死んでいくのでは無い事を示そうとしたのでした。
そして、既婚者の男は家族を殺し、生き残った者は、籤を引いて、残っている者達を殺す10人を選んだのです。
この10人は、再び籤を引いて、残りの9人を殺す1人を決めたのでした。
そして、最後の1人は、自決しました。
こうして、965人のユダヤ人が、自ら死を選びました。

 ローマ軍が城壁に殺到した時、彼らは「完全な沈黙」に遭遇したのです。
砦に入城した彼らは、「大量の死者を見つけた。しかし、敵が一掃されたというのに、彼らには如何なる喜びも湧いて来なかった。只、死者の決意の勇敢さと、この多くの者が死を持って示した、断固たる侮蔑とに、驚くばかりだった」とヨセフスは書いています。

 マサダは、独立の為に戦った人々の、偉大な物語の一つと成りました。
しかし、この物語は長い間、真実か否か疑われてきたのです。
唯一の資料が、ユダヤ人ヨセフスの書いたものであり、彼はその場に居合わせた人物ではないからです。
その証拠は、1963年、此れまで行われた内でも。もっとも困難な発掘によって得られたのでした。
その発掘作業は、5000人余の奉仕者が、イスラエル第一の考古学者イゲル・ヤディン教授による指揮の基に行われたものでした。
マサダは、死海近くのユダヤ平野に存在し、頭部が平になった巨大な岩の露頭で、9ヘクタール程の面積が在ります。

 キリスト生誕の30年程以前、この地はヘロデ王によって、城砦として要塞化され、常に裏切りを恐れていたヘロデ王は、岩盤の上に堅固な城壁と搭を建て、水路網と貯水池、固い岩を刻んだ階段を持つ大きな地下室を建造したのです。
断崖の上には、宮殿、3層からなる華やかな娯楽用の館を建て、此処は安全で、贅沢な隠れ家と成りました。
ヘロデ王の死後、進駐していたローマ軍が、此処を駐留地として使用し、西暦66年に、ユダヤ教信者の一団が、メナヘムの指導の下に、ローマの支配に反抗して立ち上がる迄、続いたのでした。
4年後、反乱の殆どが鎮圧された時も、マサダだけが最後迄頑強に抵抗を続けたのでした。

後編へ続く・・・
2010/02/16

歴史の?その122

<キリスト時代の巻物:後編>

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◎エッセネ派

 発見された文書の内、クムラン修道院の生活について記されている部分は、この時代のユダヤ教の宗派で、約4000人の宗徒を要していた、エッセネ派の人々の生活と一致します。
ローマの歴史家プリニウスは、エッセネ派は死海の西側に住んでいると書かれており、其処は当に修道院が発掘された地域であり、キルベット・クムランは、エッセネ派の本拠地であったと推定されます。
この発見は、聖書研究に新しい資料を提供しました。

◎キリスト教の始まり

 この宗派の「修養の手引」をはじめとする幾つかの文書は、エッセネ派と初期キリスト教運動が、驚く程良く似ていたことを明らかにしたと言えます。
エッセネ教団に入団を欲する者は、其れまでの絆と、世俗的な財産を放棄しなければ成りませんでした。

 宗徒は質素な生活を心がけ、思想の純粋さ、謙遜、やさしさを目指して修行したのです。
儀式としては、懺悔による精神の浄化を象徴する、水を使った儀式と、聖餐と会食が行われました。
宗徒は、共同生活を営む事を義務付けられたのです。

 研究者は、巻物に述べられている、「義の教師」が、何者なのかという問題に解決を見出していません。
しかし、多くの表現や倫理的な考え方が、新約聖書と多くの点で、似ている事、特に「道」、「光」、「暗黒」の力の闘争といった面が述べられている事に、研究者は衝撃を隠せませんでした。

 洗礼者ヨハネが、エッセネ派であったと信じている人々も存在し、キリストも又、そうではなかったのかと云われています。
もし、その通りで有るならば、救いに至る道として、モーゼの律法を守る律法万能主義の宗派から、彼は後に離脱したのでした。

 研究者は現在も断片と化した写本の研究を継続していますが、死海文書がその全てを明らかにする迄には、まだ可也の年月を必要としています。

本編終了・・・

2010/02/15

歴史の?その121

<キリスト時代の巻物:中編>

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◎空前の大発見

 現存するヘブライ語の旧約聖書で、1300年以上前の物の存在は、当時知られていませんでしたから、この発見は、当に驚くべき大発見だったのです。

 ジョーンズ・ポプキンス大学の歴史学者で、考古学者でもあるウィリアム・オルブライト博士は、イザヤ書の部分の写真を調査し、この巻物は、紀元前100年前後の物であると鑑定しました。
当時の記録に残る彼の言葉によれば、「全く信じられない様な掘り出し物だ!現代で最も貴重な写本の発見だ!」と言い切っています。

 この発見が契機となって、考古学者や現地の人々は、死海の周辺地域を徹底的に調査し、1956年迄に他の10箇所の洞窟から、巻物の断片が発見されました。
シカゴ原子力研究所の専門家は、最初に発見された洞窟で、一緒に見つかった麻布の断片を燃焼させる、放射性炭素年代測定法によって、これの発見物が紀元前167年から、紀元前233年頃の年代であると判定されました。

 その後、次々と発見が続き、是等の巻物が、何らかの理由によって荒野に隠された、膨大な蔵書の一部である事が明らかになりました。

◎修道院の廃墟

 最初の洞窟から、500m程しか離れていない場所で、キルベット・クムランと言う名前の修道院の廃墟が、発掘されました。
此処は、宗派のはっきりとしない僧侶達の本拠地で、修道院の中央集会所の書写室には、長いテーブルとベンチ、二つのインク壺、更に最初の洞窟で発見されたもの同様な壺が、見つかりました。

 クムラン修道院の人々は、紀元68年頃、ローマ第10軍団の接近に伴い、文書を洞窟に分散して隠したらしく、発見された文書や断片は、大部分がヘブライ語で書かれたものでしたが、ギリシア語のセプトァギンタ、即ち70人訳聖書の断片も幾つか混じっていました。
500巻以上の書物の断片が含まれ、エステル書を除いた、旧約聖書全部が揃っていました。
更には、旧約聖書の注釈書や、修道院の生活と、修養に関する資料とも成りました。

後編に続く・・・


2010/02/14

歴史の?その120

<キリスト時代の巻物:前編>

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 ベドウィンの15歳になる少年、ムハマド・アド・ドイブは、死海の北西岸に在る砂漠で、迷った山羊を探している時、岩の断崖に、小さな穴が開いている場所を見つけました。
小石を幾つか投げ込んでみると、何か割れる音が聞こえたので、何か宝物でも隠されているかもしれないと考えた少年は、友人達と一緒に穴に入ってみると、中は奥行き8m、幅2mの洞窟になっており、内部には割れた壺以外にも、粘土で作られた壺が幾つも有りました。

 興奮した少年達は、壺の蓋を外してみましたが、中に期待した宝物はなく、代りに、麻布に包まれた何か黒くて、かび臭い塊が入っているだけでした。
其れは11巻の巻物で、薄い羊の皮を縫い合わせて作られ、革で裏打ちされていました。

 広げてみると、是等の巻物は長さ1mから7m程の長さがあり、片側には、古代ヘブライ文字が何行にもわたって書き込まれていましたが、少年達は大きく落胆したものの、何とかこの巻物をエルサレムの商人に僅かなお金で、売り渡す事に成功しました。
時に1947年の事でした。

 やがて、少年達が発見した巻物は、写本の内でも最も貴重な遺産である事が明らかになり、死海写本と呼ばれる様になりました。
その内の5巻が、翌年エルサレムの聖マルコ・シリア正教修道院に、残りの6巻が、エルサレムのヘブライ大学に購入されたのでした。

 エルサレムのアメリカ東洋文明研究所、所長のジョン・トレバー博士は、聖マルコ修道院所有の巻物を調査し、そのひとつに、旧約聖書のイザヤ書が書かれている事を発見しました。
しかもその古い書体は、巻物がキリスト以前の時代迄、遡るものである事を示していました。

中編に続く・・・



2010/02/12

歴史の?その119

<埋  葬>

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 全てが寝静まった深夜、神官達は、古代エジプトの王が埋葬されている、谷の暗がりを静かに進んで行きました。
彼らは、岩をくり抜いた墓に静に入ると、ミイラを持ち出しました。
一体、一体と彼らは死体を包み直し、納棺した後、崖の上の小道に沿って、新しい秘密の安息の場所に運んだのでした。

 盗賊達は、何世紀にもわたって、ヒジプトのファラオの財宝を秘めた墓を略奪し続けており、此れは彼らに抵抗する為の神官達の最後の手段でした。
内部が巧妙に設計されたピラミッドでさえ、略奪を免れる事はなく、エジプトの支配者達は、ピラミッドの造営を止め、紀元前1500年頃には、現在ルクソールと呼ばれる、テーベの谷の崖に、密かに墓を作る様になりました。

 この様な王墓をトトメス一世の為に最初に設計した、建築家のイネニは、自分の墓碑銘に誇らしげにこう書いています。
「其れは偉大な仕事だった。私は、それによって、賞賛を受けるだろう」
しかし、迷路や、行き止まり、作業が放棄された様に見せかける囮の部屋を作っても、勝つのはいつも盗賊でした。

 支配者の死後の生命を守る為、死体が汚されない様に管理する責任を負わされている、神官達は、王墓の所在地が知れ渡っている限り、遺体を守る手段が無い事を悟り、宮廷の役人達の手で、組織的な略奪が行われている事も水面下では判っていたので、尚更の事でした。

 神官達は、もう一度、ファラオや王妃のミイラを隠す事にして、13体のミイラを、谷のアメノフィネス二世の墓所に移し、別の36体のミイラを、谷の外へ運び出しました。
是等のミイラは、岩の割れ目にある深さ10m程の穴の底に降ろされ、改めて作られた小屋に納めると、入口を封印し、周囲をカモフラージュしました。
以後、30世紀の間、デル・エル・バハリの墓は、誰にも気付かれませんでした。

 1880年から81年に、第21王朝の埋葬品が、エジプトの古美術品市場に出回りはじめ、カイロ博物館の管理者である、ガストン・マスペロ卿は、疑念を抱き、その出所を辿り、ある家族を突き止めました。
彼らは1871年に一つの墓を発見して、それ以来ルクソールで、盗掘品を売りさばいていたのです。
ある情報提供者が、マスペロの助手、エミール・ブルクシュを、盗掘を受けた墓に案内し、彼は深い穴を降りて、一つの部屋に入りました。
驚き、呆然とする彼の前に、36体の偉大なファラオのミイラが、在ったのです。

 1898年、他の13体のミイラが、アメノフィネス二世の墓で発見されました。
古代の神官達は、夫々のミイラの包みに、そのファラオの名前、改葬の由来を記録した札を残していました。
この記録が、後世の考古学者達に、神官達が死んだファラオの為に、永久に安全な墓所を見つける為に、無駄な努力を払った事を示す証拠となったのです。

続く・・・
2010/02/11

歴史の?その118

<王家の谷:後編>

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 カーナボン卿の到着を待ち、数日かかって扉を壊し、石が詰まった通路を整備し、そして二人は第二の封印された扉の前に立ちました。
其れは、考古学者ハワード・カーターにとって、人生最大のそして、研究者としての重大な瞬間でした。
カーナボン卿が肩越しに覗き込んでいる間に、カーターは扉の一部を削り、明かりを差し込んで、中を覗けるだけの穴を開けました。
彼は次の様に書き残しています。

「初め、私は何も見えなかったが、内部から流れ出す熱い空気が炎をゆらめかせた。
しかし、目が明かりに慣れるにつれ、靄の中から、ゆっくりと部屋の中の細かい様子が見えて来た。
奇妙な動物、彫像、そして黄金、あたり一面、黄金が輝いていた。
少しの間、私は驚きにあまり、口が聞けなかったが、側に立っている人々には、その時間が永遠と感じられたに違いない。
カーナボン卿は、この沈黙に耐えられず、心配そうに訪ねた。
『何かみえますか?』
私は只、『ええ、素晴らしいものです』と呟く事しか出来なかった。」

 王墓は、4つの部屋からなり、其処には宝石箱、壺、宝石のはまった金張りの玉座、家具、衣装、武器等が詰まっていました。
埋葬室には、2体の黒い彫像に側面を守られ、4重の金色の厨子と、内側に3重の棺を納めた石棺が在りました。

いちばん内側の棺は純金で、作られており、宝石を散りばめた経帷子に包まれて、ツタンカーメン王のミイラが納めら れており、顔は水晶とラピスラズリを象眼した、黄金のマスクで覆われ、首から胸にかけて、ヤグルマギク、ユリ、ハスの花で作られた、花輪が置かれていました。
3300年の時を経過したにも関わらず、その花は、まだ微かな色合いを残していたのです。

 王墓の中には、キリストがこの世に現れる、1350年前のエジプトの伝説的なファラオの日常生活が、そっくりそのまま納められていたのです。
この発掘作業は、考古学史上の発見の内でも、もっとも素晴らしいものの一つでした。

本編終了・・・
2010/02/10

歴史の?その117

<王家の谷:前編>

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 ハワード・カーターは、次第に絶望的になって行きました。
彼は25年近くも、少年王ツタンカーメンの墓を探し続けてきましたが、発掘の資金は、既に尽き様としていました。
更には、仲間達の間からも、次第に疑問の声が、上がり始めたのです。

 この英国人考古学者は、その墓が古都テーベの地に近い、王家の谷の何処かに存在する事は、間違い無いと確信していました。
彼がそう信じた理由は、近郊のルクソールの神殿に、ツタンカーメンに関する碑文が存在する事、又、その王墓は依然として略奪を受けていないと考えました。
是まで、ツタンカーメン王の遺品が、何一つ報告されていない為でしたが、発掘を開始してから10年間に発見された物は、壺が数個と王に名前が入った、衣類程度に過ぎませんでした。
その後には、谷を隈なく掘り返しても、何の成果も在りませんでした。

 カーターは明け方の涼しい砂の上を、発掘現場に向かって、ゆっくりと歩きながら、彼の後援者で、アマチュア考古学者のカーナボン卿の事を考え、イギリス、ハンプシャーの館での最後の話し合いを思い出していました。

 カーナボン卿は、発掘の中止を望んでおりましたが、カーターはもう一度、最後の費用を捻出する事を訴えたのでした。
カーナボン卿は言いました。
「先生、私は賭博師のようなものだ。
もう一度、貴方に賭けよう。
もし、失敗したら、それで終わりだ。
何処を掘ろうと言うのかね?」

カーターは、王家の谷の地図を見せながら、ラムセス6世の墓への出入口になっている為、未だ未調査の小さな区画を示して答えました。
「此処です!残っている最後の場所です!」

 今、発掘現場に近づきながら、カーターは此れが、彼の夢の侘しい結末らしいと考えており、彼と作業員は、此れまで3ヶ月間、その場所を掘り返したものの、何も発見できませんでした。

 しかし、彼がその場所に着いた時、作業員頭のアリが走って来て叫んだのです。
「先生!岩を刻んだ階段が出てきました!」
そして、2日目、封印された扉に通じる急な階段が掘り出され、カーターは直ぐに、カーナボン卿に電報を打ちました。

「終に、谷で素晴らしい発見、盗掘の痕跡の無い封印のある壮大な王墓。到着迄は、元通り埋め戻しておきます。おめでとう」

日付は、1922年11月6日の事でした。

後編に続く・・・

2010/02/09

歴史の?その116

<岩穴の大画廊:後編>

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◎先史時代の絵画

 マッチの明かりを頼りに、彼は美しい壁画を発見しました。
翌日、彼はランタンを持って、再び穴に潜り、馬、牛、鹿、その他たくさんの動物が描かれている事を確認したのです。

 ラスコー洞窟の壁画は、アルタミラの壁画と並んで、是までに発見された原始美術の最高傑作と考えられています。
ラスコー洞窟には「牡牛のホール」と呼ばれ一室が在り、其処には、漆黒と濃赤色で描かれた傑作が見られ、幾つも並ぶ部屋には、馬の群れや枝角を持った鹿の頭が、当に生きているかの様に描かれています。
アルタミラの壁画と同様に、是等が原始的な野蛮人の作品等では決して無く、感受性に優れた芸術家の手になるものであり、一般の石器時代のイメージとは、かけ離れたものである事は明らかです。
是等の絵は、1万5000年間にわたり、少しずつ書き加えられたもので、古いものは、紀元前2万8000年迄遡ると思われます。
絵の様式も様々で、単純な線刻から、鮮やかに彩色され、著しく現実的なものまで様々なのです。

◎クロマニョン人

 この様な芸術を生み出した人々は、クロマニョン人と呼ばれ、紀元前3万2000年から1万年の間、ヨーロッパに分布した石器時代人である。
彼らは食料となる植物の採集と、狩猟によって生活していましたが、発明、創造の才能も持っていました。
考古学的研究によれば、彼らは次々と別個の文化を築き、その最後に位置するの文化が、紀元前1万5000年から1万年頃に栄えた、マドレーヌ文化でした。

 壁画はまず、尖った石器で輪郭を彫り、そこに彩色が施され、この時代の画家達は、緑や青は持っていませんでしたが、黒、黒紫は酸化マンガン、木炭、或は煤から得ていたと思われます。
褐色、赤、黄、オレンジ等は、鉄鉱石を石や骨の乳鉢と乳棒で粉にし、動物の血液や脂肪、植物の搾り汁等を混ぜて作られました。
絵の具を塗るのは、幾つかの方法があり、指、毛皮のブラシ、羽毛、木の枝を噛み潰したもの等が用いられました。
又、画家達は、苔を丸めて作ったパッドを使用し、中空の葦の茎で、絵の具を吹き付ける事も行っています。

◎マドレーヌ文化

 この素晴らしいマドレーヌ美術が発見されたアルタミラでは、獣脂でつくった、黄土のクレヨンが発見されています。
暗い洞窟内で、絵の具は細心の注意を払って塗られていき、其処には日光は殆んど届く事はなく、従って人工の照明が用いられたと思われますし、その証拠に石で作った職台も発見されました。
天井の絵も何らかの形で、足場が用いられた事を示しています。

 是等の動物絵画は、獣たちが簡単に捕獲できる様にとの、呪詛の一部と考えている考古学者も多いのですが、或は古代人達は、絵を仲立ちにして、獣たちの猛々しさや力が、彼らに乗り移ると信じていた可能性もあります。
しかし、動物の急所に槍が刺さっている絵が多い事から、壁画は若い猟師に、獲物の捕獲方法を教えるものだったかもしれません。

 是等の絵画で最も新しいものは、紀元前1万年頃に描かれたと考えられます。
その時期、最後の氷河期が終わり、氷河の後退が始まり、気温が暖かくなって、マドレーヌ人が広々とした土地で生活する為に、洞窟を出て行った時代なのです。
その後4000年の間、彼らの子孫達は、急激な環境変化に適応し、農耕する事を覚えるに至りましたが、同時に芸術的才能を失ったのでした。

本編終了・・・

2010/02/08

歴史の?その115

<岩穴の大画廊:前編>

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 一人のアマチュア考古学者が、北部スペインのアルタミラ洞窟の入口近くを掘っていました。
彼の娘で、9歳になるマリアは、その間に洞窟に入って行きましたが、突然、幾つか部屋の様に分かれた洞窟の一つから叫びました。
「牛よ!牛よ!お父さん、早く来て!」
父親のマルセリーノ・デ・サウトゥーラが、穴に駆け込んでみると、娘は興奮して洞窟の天井を指差しました。
彼が、ランタンを掲げて見ると、約20m四方の天井には、褐色、赤、黄、黒などで、有史以前の野牛の姿が描かれており、それは、何千年も昔の素晴らしい芸術品でした。

 天井には、17頭の野牛が、まるで生きているかの様な姿で描かれ、地面を前脚でかき、横たわり、大声で鳴き、或は槍の傷を受けて死にかけていました。
その回りには、野豚、馬、鹿、狼が見られます。
サウトゥーラが、入り組んだ洞窟の中を更に調べてみると、他にも何十という動物の絵が見つかり、その中には、既に絶滅した種や、幾世紀も前に西ヨーロッパから姿を消したものも少なく有りませんでした。

 時は1879年、最初、考古学者達は、この発見をサウトゥーラの贋作として、一笑に伏しましたが、その理由は、ダーウィンの進化論を陥れる為の陰謀であると考えたからでした。
野蛮な猿と同等と考えられていた原始人が、是ほどに微細、繊細な仕事を成しえたとは、考古学者には考えも及ばなかったのです。

 1902年、発見者であるサウトゥーラが世を去ってから14年程が経過し、考古学者のアンリ・ブルイユ神父がこの洞窟を訪れ、天井の絵とほとんど同様な絵を刻んだ、動物の骨を発見しました。
この発見から、洞窟の本物であることは、もはや疑う余地はなく、それ以後この洞窟は「先史美術のシスティナ礼拝堂」と称えられましたが、是等の絵についてもう一点驚くべき事は、その保存状態の良さでした。
アルタミラの洞窟は、発見されるまで、何世紀にも渡り、封じられた状況にあったといえますし、その為、洞窟内の気温や湿度が一定に保たれる結果と成り、壁画が良い条件で保存されたのでした。
南フランス、ラスコー洞窟の壁画は、絵が描かれてから発見される迄の数千年に及ぶ期間よりも、是が一般に公開された15年間の損壊の方が、はるかに大きいのです。
是は、訪問する人々の水蒸気、体温、持ち込まれる微生物に因るものでした。

 ラスコーの先史時代の大画廊発見にも、若者が一役かっていて、1940年、18歳のマルセル・ラビダは、犬を散歩させていて、木を引き抜いた後に、穴が開いている事に気付き、後日、友人を伴ってその穴を広げ、約5.5m下の洞窟の床に降りました。

後編に続く・・・
2010/02/07

歴史の?その114

<サハラが緑だった頃:後編>

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◎タッシリへの探検

 ブレナンが描いたスケッチに、強い印象を受けた人物の一人に、フランスの探検家・人類学者のアンリ・ロートがいます。
彼は直ちに、タッシリへと旅立ちました。
其れから数年後、ロートはフランスのアカデミーや政府機関の援助を得て、画家と写真撮影チームを編成し、タッシリへと再び旅立ちました。
1957年迄にロートのチームは、1500㎡に及ぶ壁画の模写と写真を、パリに持ち帰る事ができました。

 乾燥した砂漠の空気の中に、幾つかの時代の記録が、保管されていました。
最も古いものは、色の黒い多分ネグロイドと思われる人々が、弓と矢、槍を使ってキリン、サイ、象等を狩立てる様が描かれ、其処には、巨大な、半分人間にも見える形をした、神と推測される、ぼんやりとした白い姿が見受けられます。

◎侵入者の肖像

 宴会の場面、婚礼の儀式、穀物をついて粉を作っている女性、小屋を立てている場面、飼い犬を連れた家族、動物の毛皮を掛けて眠る子供達、その他の家庭生活の情景も見られます。

 紀元前5000年から4000年の間に、次第にこの人々に変わって、皮膚の色がもう少し薄い、銅色の肌を持った人物が登場してきます。
この新しい侵入者達も、自分達の肖像画をこの画廊に書き加え、羊、キリン、レイヨウ等の狩猟場面を描きました。

 更に時代が下って、紀元前1000年代頃の絵には、チュニック状の着衣を着け、馬の引く戦車に乗った兵士が見られます。
現在でも推測の段階ですが、彼らは古代エジプトの記録に存在する、クレタ乃至小アジアからエジプトに侵入した「海の人」かもしれません。
闘いに破れた彼らが、リビアに逃れ、やがて遥か西方のタッシリ高原にやって来た、という可能性は充分に考えられる事です。

◎沈黙の世界

 河川が干上がるに従って、タッシリの人口は減少し、壁画が新たに書き加えられる事は、殆んど無くなりました。
紀元前1000年頃、人々は忍び寄る砂漠に生活の場を奪われ、何処へと去って行きました。
そして、沈黙の世界が続き、砂漠の砂塵が見捨てられた、この土地を吹き抜け、世界の他の場所で、幾つもの国々が勃興、滅亡を繰り返した間、消え去った素晴らしい種族の肖像は、タッシリ・ナジュールの日に焼かれた岩壁から、むなしく虚空を眺めるだけでした。

本編終了・・・
2010/02/06

歴史の?その113

<サハラが緑だった頃:前編>

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 遊牧民トアレグ族の隊商が、ラクダを引いて、サハラ砂漠の石ころだらけの高地のキャンプにやって来ました。
その隊商に、チャド湖に向かう途中の若い探検家、ハインリッヒ・バルトが加わっていました。

 彼らの周りを取巻く、険しい砂岩の崖に視線を向けたバルトは、其処に牡牛、水牛、ダチョウや人物等の見事な彫像が彫られている事に気づき、大変な衝撃を受けました。

◎古代の画廊

 1850年のその日、バルトが発見したのは、8000年前の画廊の一部で、其れは、かつてサハラが緑豊な土地で会った頃、中央サハラのタッシリ高原と、其れを取巻く丘陵地帯に住んでいた、遥か昔に忘れ去られた人々が残したものでした。

 しかし、タッシリの岩壁の美術が、世界の注目を集める様に成ったのは、1933年、フランスの軍人、シャルル・ブレナン中尉の報告によってでした。
ブレナン中尉は、タッシリの荒涼とした丘や谷間を歩き回り、何キロメートルにも渡って岩壁に描かれている彫像と、見事な絵画を発見したのでした。
素朴な家庭生活、狩猟の場面、神々と思わしき姿、宗教的儀式等の場面が、黄土色、紫、黄褐色、白色に柔らかく輝いていました。
絵の具で描かれた戦士は、丸い楯と槍を持って戦車に乗り、突進し、前掛けを着け、エジプト風の帽子を被った牧童は、長く湾曲した角を持つ牛を追っていました。

 描かれている動物や鳥には、遥か以前に絶滅してしまった種のものも含まれ、又、サイ、キリン、ダチョウ等に至っては、現在、この場所から1500km以上も南の草原でしか見る事が出来ません。

後編に続く・・・


2010/02/05

歴史の?その112

<リビングストン博士とアフリカ大陸:後編>

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◎スタンリーの登場

 其れまで定期的に送られていた、手紙が止まり、博士の消息を危ぶむ声が日増しに増大する中、1871年2月、ヘンリー・モートン・スタンリー記者が、ニューヨーク・ヘラルド紙の特派員として、リビングストン博士捜索に旅立ちました。
スタンリーは、食料を始めとする資材、物資を充分に準備し、キャラバンを編成して、ザンジバルを出発し、リビングストンの消息を知らせる手掛かりを追って、ほぼ9ヶ月後の11月10日、ウジジの町に到着しました。

 スタンリーは、其処で探検家リビングストンの疲れきった姿を見ました。
彼は、幕舎の前の空き地に建ち、自分を救出する為に、こんなにもはるばる遣って来てくれた事に驚き、救援隊を見つめていました。
二人のこの出会いを、スタンリーは自伝の中で、次の様に書いています。

“私は、彼の所へ歩いて行き、ヘルメットを取り、お辞儀をしておずおずと言った。
「リビングストン博士でいらっしゃると思いますが?」
如何にも誠実な笑いを浮かべて、彼は帽子を脱ぎ、ただ一言「イエス」と答えた。
是で私の疑念は一切消え去り、顔には隠し様も無い、心からの満足感が広がった。
私は手を差し出し、「お会いできる様にして下さった神様に感謝します」と言った。
彼は暖かく私の手を握り、優しい声で話をした。
私も彼も心から感動している事を感じた。
彼は言った。
「貴方をお迎えできて、本当に有り難く、感謝しています」と。“

◎遣り残した多くの仕事

 スタンリーの救いの手が、早すぎた訳では決してなく、博士の病状は、非常に重く成っていたのでした。
ロンドンに帰れば、歓呼の声で迎えられる事は確実ですが、スタンリーが帰国を勧めても、決して耳を貸そうとしませんでした。
「私は、まだたくさんの仕事をしなければ成らないのです」と博士は語り、4ヶ月後スタンリーは引き上げました。
医薬品や食料を充分に補給して貰った博士は、再びナイル源流探索の旅に出かけました。

 しかし、博士に残された寿命は、もう長く有りませんでした。
数ヶ月の内に、体力は更に低下し、担架で運ばれる事も有りました。
1873年5月1日の朝、従者が博士の小屋に入って行くと、博士はベッドの側に跪き、両手の上に額を載せ、ちょうどお祈りをしている様な姿でしたが、いくら起こしても、二度と目覚める事は有りませんでした。

 村から村へと、この悲報は伝わり、何千人ものアフリカ人が遣って来て、最後のお別れしました。
博士の従者である、スージーとチューマは、博士の故国の人達が遺体を引取り、埋葬したいと思っている事を知っていましたから、二人は、博士の心臓だけを取り、其れが属する場所、アフリカの大地に埋めたのです。
そして、遺体はザンジバルから故国に運ばれ、ウェストミンスター寺院に安置されたのでした。

本編終了・・・

今日、2月5日はジロくんの4歳の誕生日です。

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今日迄、怪我も病気もせず、大変元気です。

2010/02/04

歴史の?その111

<リビングストン博士とアフリカ大陸:中篇>

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 博士は、医療伝道師としての役割を放棄した訳では在りませんでしたが、1851年のザンベジ川発見は博士の生涯における、大きな転機と成りました。

 博士は、1844年に伝道団仲間の女性と結婚し、数人の子供を設けましたが、その内の一人が、まだ幼児のまま熱病に感染して死亡すると、心配の種を根絶する為、家族をケープタウンに連れて行き、其処からイギリスに送り返してしまいます。

◎アフリカ横断

 一人に成り、自由の身に成った博士は、六分儀とクロノメーターの使用方法を学ぶと、航行可能な大きな水路を探索し始めました。
この様な水路が、発見出来れば、ヨーロッパ人の前にアフリカの門戸は開き、キリスト教も商売も活発に成ると考え、其れから数年間に、博士は、大西洋岸のアンゴラからモザンビーク海岸迄行き、アフリカ大陸を横断した最初の白人と成りました。
1856年、イギリスに一時帰国した時は、熱狂的な歓迎を受け、初めての著書「南アフリカ伝道旅行記」は、忽ちの内にベストセラーと成ります。

 間もなく、博士は、アフリカに戻り、今回は、東アフリカ担当の”陛下の領事“として、伝道団と離れ、産業化を目的とした大遠征隊を率いていました。

 しかし、博士は、遠征隊の数々の問題を抱えて、身動きが取れなく成り、荷物を運ぶ人員の大部分が脱落した事や、何トンにも及ぶ食料、装備、更には政府から給付された、大きな川舟が隊の足枷に成ったのです。
最大に問題は、リビングストンに指導力が欠落していたうえ、頑固で仲間のイギリス人との関係は、崩壊寸前迄に成っていました。
遠征隊は、終に1863年、解散してしまいます。

◎ナイルの源流を求めて

 1866年、博士は再び、王立地理学会の依頼でナイルの源流を探索する、探検に出発します。
博士は一人に成れた事を喜び・・・もっとも極少数のアフリカ人従者が居ましたが・・・ましたが、博士自身の体がマラリア、赤痢等の病気に罹り、衰弱していきます。
しかし、ナイルの源流を突き止め様とする、決意は変わらず、タンガニーカ湖周辺の分水嶺を調査中に食料も尽きはて、博士一行は、ウジジの町で休養を取らざるを得なく成りました。

後編に続く・・・

2010/02/03

歴史の?その110

<リビングストン博士とアフリカ大陸:前編>

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 デービット・リビングストン博士は、地球上の未知の世界に次々と新しい光を当てて行きました。
博士程、多くの地域を人類に紹介した人物は、他に居ないと思います。
博士の成功の鍵は、強烈な信仰心と薬箱と、誰に対しても変わらぬ態度でした。

 博士が、アフリカにやって来たのは、全くの偶然に過ぎませんでした。
1813年、スコットランドのブランタイアで生れ、10歳の時、紡績工場に働きに出され、1日12時間も労働して、学費を稼ぎ、グラスゴーの医学校を卒業すると、医療伝道師として中国に渡りました。

 しかし、博士の夢と希望は、アヘン戦争の前に空しく消し飛び、この戦争の結果、中国に於いて、医療伝道活動を続ける事は不可能で、1840年、彼はアフリカ行きを決心します。
この時、27歳でした。

 19世紀に於いても、広大なアフリカ大陸のその大部分は、未知に世界で有り、欧米の人々にとって、其れはまさしく「暗黒大陸」で、人が足を踏み込む事が出来ない、疫病のはびこるジャングルに、原住民や未知の猛獣が住んでいる世界だったのです。

 博士が初めて、アフリカに赴いた時、探検に関心は有りませんでした。
キリスト教伝道団を組織して、医療奉仕を行う事がその第一目的でしたが、数年の内に“旅行熱”に取り付かれました。
後に博士が書いている言葉を借りれば、「未開、未探検の国を旅するという単なる喜びが、非常に大きかった」のです。

◎未知の世界の探検

 徒歩で、又はカヌーに乗り、時には水牛の背に跨り、アフリカ大陸南部の各地を巡り、この旅にはいつも薬箱と聖書、そして伝道に使用する、幻燈機を携えていました。

 博士は素晴らしい語学力を持ち、観察力や洞察力も鋭く、アフリカの人々とも、当時の白人としては、極めて親密でした。
この様な人柄でしたから、知性豊で同情的な眼で、アフリカの文化に接する事が出来、其れを外部の世界に、初めて紹介する事が出来たのだと思います。

 彼は、アラブやポルトガル商人が行っていた、おぞましい奴隷売買の実情を世界に知らせ、自分の眼で見た、この悲惨な実情にショックを受け、生々しい実地報告を行い、ヨーロッパの世論を湧き立たせ、奴隷商売廃止の運動を起こさせました。

 その上、博士は、詳細な海図や地理学的な報告を、ロンドンの王立地理学会に送った他、珍しい病気や保健問題に関しても、詳細な記録を作りあげました。
やがて、博士は、アフリカをキリスト教の土地にする為には、アフリカ人自身に行わせる以外の方法は無いと確信する様に成りました。
白人の成すべき事は、利益の大きな奴隷商売に変わる商売を、アフリカに持ち込んでやる事であると考えたのです。

中編続く・・・
2010/02/02

歴史の?その109

<マルコ・ポーロの旅:後編>

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◎燃える石

 彼は後に、彼らが見聞した驚くべき光景や、出会った風変わりな人々について書き残しました。
彼は、「火を点けると、木炭の様に燃え、可也の熱を発する黒い石の鉱脈(石炭)」に驚き、「地中から噴出し、ランプの火を燃やす事に使用する物質(石油)」も見て、「紡いで糸にし、織って布にする事が出来、火中に投じても燃えない布(石綿)」を試しています。
ワニの事を「長さが10歩(約7.6m)の巨大なヘビで、その顎は人間を飲み込めるほど大きい」と説明し、ヤクは、「象に匹敵する野牛」と書き、ココナッツは「人間の頭位の大きさで、味が良く、ミルクの様に白い」と書き残しました。

 皇帝は、この若い客に非常な感銘を受け、象に乗って、狩にも同行させ、豪華な宮殿や夏の避暑先に、自由に出入する事を許したのでした。
マルコは、金色に輝く彫刻や、美術品、皇帝を取巻く優雅な廷臣達に感嘆しています。
彼の記録に因れば、100人或はそれ以上の美しい側室を探し、皇帝の後宮に入れる為、特使が2年に1度、帝国の各地に派遣されたと云います。

 マルコ・ポーロは、中国とその近隣諸国についても記録を残した最初のヨーロッパ人です。
アジア大陸を横断するルートについて語ったのも、太平洋を見たのも、ヨーロッパ人では彼が最初と言う事が出来ます。

 彼の父と叔父は、交易で巨万の富を得ましたが、マルコは17年間皇帝の為に働き、皇帝は彼を皇帝自身の特使として、帝国の各地に送りました。
この時、彼はベトナム、ビルマ、チベットを訪問し、後に3年間、楊州を治め、その管轄した都市は24に及んだと云います。

◎帰  還

 しかし、この時皇帝フビライ汗は、既に70歳を越しており、皇帝が崩御すれば、どの後継者が後を継いでもマルコ達の身が安全である保証は有りませんでした。
1292年、彼らは、皇帝の命を受け、特別に仕立てた船で泉州を出帆します。
そして、ほぼ25年ぶりに、彼らが故郷ベネチアに帰り着いた時、本人達が生きて帰ったと信じてくれた人物は、一人も居ませんでした。

 自分達が決して、ペテン師で無い事を納得させる為、3人は宴席を設け、まだ疑わしそうな眼差しを向ける客達の前に、旅でぼろぼろに成った、ダッタンの衣装を見せ、その縫い目を切ると、煌めく宝石が滝の様にこぼれ落ちました。
是は、彼らの話が真実である事を証明する、絶対の決め手と考えられ、中国の皇帝以外にこの様に多量の財宝を与える事が出来る者が存在するはずがない、と当時の人々は信じていたからでした。

 だが、もし戦争が起こらなければ、マルコ・ポーロの旅が、世界に知られる事は無かったでしょう。
彼らがベニチアに帰還してから3年後、ベネチアは商業上の競争相手である、ジェノバと衝突します。
ガレー船の指揮を取っていた、マルコは捕虜となり、ジェノバの監獄に収監されました。
其処で、マルコは時間を賢明に使ったのです。
皇帝の為に書き留めておいた記録を使って、記憶を呼び覚ましながら、仲間の囚人に思い出話を書き取らせたのです。
こうして、彼の旅行記「東方見聞録」が完成したのですが、この記録が書物として出版されると、嘘の固まりであるとさんざん非難されました。

 1324年、彼が死の床についた時でさえ、或る司祭は彼に、ホラ話を取り消す様に勧めましたが、最後の息の下で彼はこの様に語ったと伝えられています。
「私は、自分の見た事の半分しか、まだ話してはいない」と。

本編終了・・・
2010/02/01

歴史の?その108

<マルコ・ポーロの旅:前編>

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 やっと20代に成ったばかりの青年にとって、それは思わず息を飲む光景でした。
其れまでに見た、如何なる都市よりも壮麗でした。
青年は、是ほど美しい都会に住んでいる人達は、天国で暮らしている様な気持ちではないかと、考えたのです。
美しく整備された街路、公園、港、運河が在り、運河には、アーチ橋が何本も掛り、その多くは大変高く、帆柱を立てた船が、その下を通る事が出来、下水道設備、警察、消防、郵便も在ったのです。

 700年前のこの青年の名前は、史上最も偉大な旅行家の一人、マルコ・ポーロです。
そしてこの大都会、杭州は中国の多くある都会の一つに過ぎませんでした。
マルコ・ポーロはその日誌に、杭州が世界中の如何なる都市よりも素晴らしいと書き、彼の意見では、首都の北京や、彼の故郷ベネチアと比較してさえ、更に美しい都だったと言います。

 マルコ・ポーロの一族は、世界中を広く旅行しており、父ニコロと叔父マティオは、既に当時の中国を訪問していました。
二人がベネチアに帰る時、皇帝は二人に、又戻ってくると約束させ、二人はこの約束を1272年に実行しましたが、この時に、当時17歳だったマルコを同行させたのでした。

 この旅行は、3年もの日数を要する、困難を極めたものでした。
一行は、まず船でトルコ南東部の港、アヤスルに着き、この町でキャラバンを組んで、アジアを横断する旅に出発したのでした。
彼らの隊商路は、現在のイラン、アフガニスタンを通過し、パミール高原を越え、天山南路を進み、ゴビ砂漠を横断して、中国(当時:元朝)に至り、1275年5月、終にフビライ汗のもとに到着したのでした。
この時、皇帝は万里の長城の北に在る、上都の夏の宮殿に居ましたが、その秋、マルコ・ポーロ一行も皇帝と一緒に冬の都、大都(カンバルク:現・北京)に戻りました。

 マルコ・ポーロは、凍った山を登り、豪雨、砂嵐、洪水、雪崩に悪戦苦闘した、長い旅の記録を残しています。
アフガニスタンでは、マルコ自身が病気になり、まる1年足止めされ、盗賊の出没する地域や紛争の起こった地域を避け、幾度もコースを変更し、計画を練り直した事が、詳細にしたためられています。

後編へ続く・・・