2010/03/31

歴史の?その161:二つの大陸を結ぶ電信線:前編

<二つの大陸を結ぶ電信線:前編>

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 大西洋横断電線の敷設工事が、初めて成功したのは、1866年の事でしたが、この快挙は、ニューイングランド出身の実業家、サイラス・W・フィールドが、その事業の先見性と不屈の精神に因るものでした。
彼は、ニューヨークの紙商人として非常な成功をおさめ、可也の資産を築きました。
1852年、33歳で実業界から身を引いたフィールドが、大西洋横断海底電線敷設の可能性に興味を抱き始めたのは、1854年の事でした。

 フィールドはまず、初めて実用となる電信機を発明した、サミュエル・F・B・モースと、ワシントンの国立気象台に勤務する、当時、海洋学の第一人者マシュー・フォンティン・モーリーに手紙を送り、両者は熱烈な賛意を示したのでした。
特にモーリーは、その頃行われた北大西洋海域の調査に結果、ニューファンドランドとアイルランドの間には、海底台地がある事が判明し、海底電線敷設に適した地形である事を教えたのです。

 フィールドはこの吉報を持って、資金調達に奔走し、彼の人を説得する才能は、正に驚くべきもので在った様で、約1年間でイギリス海軍から、電線敷設ルートの調査と、電線敷設作業に対する協力を取り付け、更にイギリス大蔵省から、海底電線が完成するまで、毎年1万4000ドルの補助金支出の約束を得て、民間機関からの資金調達にも成功しました。

◎問  題

 しかし、フィールドの母国アメリカの人々は、イギリス人程熱心では在りませんでしたが、其れでも1857年、アメリカ合衆国議会は、電線敷設を援助する為、毎年の補助金支出と、作業船提供に関する法案を僅かな差で可決したのでした。

 一方イギリスでは、電線の製造が進められ、1857年7月に完成を見ます。
電線は膨大な量になり、その重量は1kmあたり600kgという重い物だった為、敷設にはイギリス海軍のアガメムノン号とアメリカ海軍砲艦ナイアガラ号が、使用される事に成りました。

 8月6日、二隻はアイルランド沿岸のバレンシア湾を出港、計画では、ナイアガラ号が積み込んだ電線を敷設しながら、大西洋中部迄進出し、其処でアガメムノン号が積んだ電線に接続の上、アメリカ西海岸のニューファンドランド迄の敷設作業を完了させる事に成っていました。
しかし、二隻のケーブルを送り出す装置が、極めて脆弱な上、ナイアガラ号担当区間の540km進んだ地点で、電線が切断、50万ドル相当の電線が、海底に沈んでしまいます。
二隻は、残った電線を積んだまま、アイルランドに帰還しました。

次回へ続く・・・

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2010/03/30

歴史の?その160:英独情報戦のエピソード④

<英独情報戦のエピソード④:或る大学教授の悪戯>

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 スコットランド、アバディーン大学物理学教授で、歴代イギリス政府科学顧問を務めた、レジナルド・ジョーンズ博士は、大変な悪戯好きな人物としても知られていました。
小は、謹厳な学究の徒に、電話機を水の入ったバケツに突っ込ませる事から、大はドイツの爆撃機を迷走させる事迄、彼の悪戯歴は輝かしいものなのです。

 1930年代にオックスフォード大学で、研究助手をしていた頃、ジョーンズは或る有名な哲学博士に電話をかけ、しかも相手が電話に出るや否や、電話を切る動作を数回繰り返し後、電話局の技師を装って、かけ直し、電話が故障していると告げました。
哲学博士がどうもそうらしいと答えると、彼は哀れな博士に思いつくまま、ありとあらゆる修理方法を取らせ上、最後に電話機をバケツに入れるように指示したのです。(意図は不明)

 しかし、ジョーンズ博士の悪戯は、時に祖国イギリスに有益でした。
第二次世界大戦の最中、イギリス航空省情報部勤務の際、彼はドイツ軍が爆撃機を方向指示電波で誘導している事を発見し、敵の電波信号をコピーしてロンドンから発信し、ドイツ空軍爆撃機を誘導、無人の荒野に爆弾を投下させました。

 又、連合軍爆撃機に搭載される事と成った、H2Sと呼ばれる対潜水艦探知装置に関する、偽装工作は最も優れたものと言えます。
ドイツ軍情報部は、イギリス軍が何らかの対潜水艦探知装置を開発している事を、早い段階で察知されてしまい、博士は是に対抗して攪乱戦術を考案します。
博士は、潜水艦の位置を探知する赤外線装置を「発明」して、その情報が確実にドイツ軍情報部へ流れる様に計ったのでした。
この「発明」新兵器の能力を恐れたドイツ海軍は、実在しない新兵器の為に、その光学兵器が探知できない様、取得した情報に従って、Uボート全艦の塗装を変更したのでした。

続く・・・
2010/03/29

歴史の?その159:英独情報戦のエピソード③

<英独情報戦のエピソード③:紙幣偽造作戦>

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 ドイツ第三帝国が、1945年5月に降伏した数日後、2100万ポンドにも上るイギリス紙幣を積んだトラックが、アメリカ軍情報機関に引渡されました。
オーストリアのエンス川には、更に多量の紙幣が浮いているとの情報も流れました。

 イングランド銀行の関係者がフランクフルトに向かい、紙幣を鑑定した結果、やがてナチスドイツによる大規模な紙幣偽造作戦、ベルンハルト作戦の全貌が浮上して来たのです。

 戦時中、本物と殆んど見分けのつかない偽造紙幣が、10万ポンドずつの束で大量にチューリッヒやリスボン、ストックホルム等の中立都市からロンドンに流入していました。
イングランド銀行は、犯罪組織の仕業と考えていましたが、エジンバラで逮捕されたドイツ諜報員の所持品から、其れまで見た事も無い程に精巧な、偽造紙幣が発見されたのでした。

◎陰  謀

 トラック1台分の紙幣が出る迄、銀行側に証拠は無く、トラックを運転してきたドイツ人将校は、オーストリアのレートル・ツィプフ付近で、親衛隊から金を受け取ったと語り、事実、ツィプフ付近の山の山腹に掘られたトンネルに、印刷機が隠されていたものの、原版や用紙、記録の類は一切発見されませんでした。

 偽造作戦を指揮した、ベルンハルト・クルーガー少佐の名前を取ったベルンハルト作戦は、当初アンドレアス作戦と呼称されゲシュタポのハインリッヒ・ヒムラーが考案した計画で、目的は、イギリス経済の破壊でしたが、ドイツ国立銀行は、イギリスが同様の手段で報復する事を恐れて、偽造計画に抵抗します。

 其処で、クルーガーは、製版工と印刷職人を強制収容所の中で、待遇改善を餌に徴用し、彼らは秘密厳守を誓わされ、ベルリン近郊のザクセンハウゼン収容所で偽造作業を始めたのです。

 原版が造られ、イングランド銀行の紙幣が再現されました。
偽造紙幣の第一刷は、中立国に潜伏している諜報員に送られ、現地の金融機関は、其のポンド紙幣を本物と信じて疑いませんでした。

 戦争の行方がドイツに不利になって来た時、ヒムラーは作戦の中止を決定しますが、クルーガーは彼を説き伏せて、製版工場をアルプスへ移動させます。
偽造に関与した、職人達がナチスの脱走兵に、偽造紙幣と証拠の記録を渡す恐れがあると言う理由の為に。

 印刷設備の移動が完了した頃、連合軍のドイツ侵攻は目前に迫り、クルーガーは原版を廃棄したものの、偽造紙幣の山迄処理する事が出来ず、連合軍に摘発されたのでした。
イングランド銀行の見積りでは、偽ポンド紙幣は900万枚、価格にして1億5千万ポンドが印刷されたと見られました。
其の後、ベルンハルト・クルーガー少佐の姿を見た者は居ません・・・。

続く・・・
2010/03/27

歴史の?その158:英独情報戦のエピソード②

<英独情報戦のエピソード②:ドイツ兵を楽しませた謀略放送>

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 第二次世界大戦の間、ドイツ軍ラジオ放送局、グスターフ・ジークフリート・アインス(以下GSI)は、下級兵士の間で、格別の聴取率を誇っていました。
歯に衣を着せず、下級兵士の気持ちを代弁する独自の番組を放送していた為ですが、やがて、放送の言外の意味を論理的に解釈すると、意外な情報が入手できる事が解かった為でも有りました。

 例えば、「我々の勇敢な軍隊がロシア戦線で、凍死の危機に曝されている間に」不当な利益をむさぼる者を、激しく非難するキャンペーンをGSIが始めた時、兵士達には、「不当な利益」等どうでも良い事で、お陰で東部戦線の冬の厳しさを正確に知る事が出来たのでした。

 又、空襲で損害を受けた、ドイツ諸都市の市民を収容する施設の医師達の活躍を、報道した時も、兵士達はコレラやチフスの死者が週平均60名も出た事を知ったのです。

◎愛国心

 GSIの人気の元と成った明け透けな報道姿勢は、後に大西洋放送とカレー兵士放送に引き継がれ、何れも、ドイツ占領下のヨーロッパ、ドイツ進駐軍向けの放送局でしたが、その熱烈な愛国心は、時として指揮官達の頭痛の種と成りました。

 これらの放送局が、怒りを込めて報道した番組に、脱走兵のニュースが有りました。
祖国を捨てて中立国に逃げ込んだ、不届きな兵士の脱走方法を、番組は怒りと悲しみを込めて、事細かに放送しました。
当然、軍務を離れたいと常々思っていた兵士達は、更に故郷の町が連合軍側の爆撃で、被害を受けた事を知ると、放送で知った脱走方法を実際に応用して、私的な無断休暇を取得したのです。
しかも、放送局の伝える情報の正確さは、何時も前線に空輸されて来る「軍隊ニュース」で裏付けされていました。

◎虚実取り混ぜ

 しかし、これらのドイツ兵士向け放送は、実際にはドイツ軍の手で行われていた訳では無く、ラジオ放送も新聞も、共に連合軍情報部の智恵の産物と言えるものでした。
ラジオ放送の発信地は、イギリス本土で、強力な電波によって本物のドイツ軍放送を傍受不能にしていました。

 偽装放送が成功したのは、情報に虚実を程よく混ぜ合わせ事により、それが結果的に故郷を遠く離れた前線のドイツ兵士達の心理に、効果的な働きをしたのです。
ドイツ軍の本物の新聞に似せた「軍隊ニュース」は、イギリス軍軍用機が毎夜空輸して地上に落としましたが、此方もラジオ放送同様の編集方針を取っていたのです。

 ドイツ宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスは、偽りの情報効果に憂慮しましたが、情報活動家としての彼は、連合軍の戦術に賞賛を惜しまない訳にはいかず、彼は連合軍側にこの新聞を、英訳して脱走や破壊、敵前逃亡を勧める宣伝ビラを仕立てて、連合軍側の後方に投下したのでした。

続く・・・
2010/03/26

歴史の?その157:英独情報戦のエピソード①

<英独情報戦のエピソード①:英雄に成った死体>

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 スペインのある墓地に、1人のイギリス人が眠っています。
この人物は生前、祖国に殆んど何も貢献しなかったかも知れませんが、イギリスの秋の湿気の為、肺炎に罹り死亡した後、ドイツ情報部を攪乱させ、数千人以上の連合軍将兵の命を救ったのでした。

 1942年、北アフリカ戦線での戦いが終息を向え様としていた頃、連合軍の次なる作戦がシチリア島攻略作戦である事をドイツ情報部に察知されてしまいます。
大至急、その情報が誤りである事とドイツ側に思わせなければ成りませんでした。

 イギリス海軍情報部は、一計を案じます。
死体を用意し、飛行機事故で死亡したと偽装して、その死体が中立国スペインの海岸に打ち上げられる様に仕向け、死体には、極秘指令書に偽装した情報を忍ばせておき、ドイツ情報部が其れを盗み見る様に仕掛けました。

 第一の仕事は、溺死体に見える死体探しから始まり、肺炎患者の遺体が、身元を決して明かさない条件で取得されました。
死者は、イギリス海兵隊所属ウィリアム・マーチン少佐に生まれ変わり、彼が携行した書類の中には、イギリス参謀本部副部長がアフリカの第18陸軍師団司令官、アレクサンダー将軍に宛てた手紙が忍ばされていました。
手紙には、彼の意見が通らず、侵攻目標がシチリアではなく、何処か別に場所に変更されたと記されていたのでした。

 マーチン少佐は、マウントバッテン卿が地中海艦隊司令官のサー・アンドルー・カニンガム提督に宛てた書簡も携えており、其処には、一見不用意に洩らしたと見える言葉が、さり気無く書かれており、予定侵攻地点はサルジニア島で在るかの様に仄めかされていました。

 少佐は1943年4月19日、イギリス海軍潜水艦セラフ号の魚雷室に隠され、最初で最後の任務に出撃しました。
11日後の夜、死体は海中に下ろされ、翌朝、海流がウエルパの海岸に運び、漁師に発見されました。
スペイン当局はイギリス領事館に連絡を取り、少佐は最高の礼をもって軍葬に付されます。
しかし、書類に関するスペイン側の報告は、一切有りませんでした。

 スペインに対して、緊急要請が行われ、書類は最終的に5月13日、イギリスの手に戻されます。
精密調査が行われ、封筒が開けられた事が判明しますが、マーチン少佐の貢献が充分に確認されたのは、終戦の後でした。
ヒトラーは、連合軍の侵攻地点をサルジニア島と断定していたのです。

 ドイツ軍最高司令部は、勢力を分散し、防衛線に弱点をつくり、連合軍は当にその地点を突いたのです。
シチリア侵攻作戦を迎え撃ったのはイタリア軍と、ドイツ軍の僅か2個師団だけで、その結果、上陸時の連合軍の犠牲は最小限に食い止められ、侵攻作戦は大成功に終わったのでした。

続く・・・
2010/03/25

歴史の?その156:ドイツ史の流れを変えた議事堂炎上:後編

<ドイツ史の流れを変えた議事堂炎上:後編>

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◎独裁制への道

 「今すぐに共産主義者の役人を銃殺せよ!共産党の議員を絞首刑にせよ!同情は禁物である!」
ナチスには、ドイツ国民を反共産主義に、転じさせる必用が在りました。
議会でナチスは、最多議席を占めていましたが、左翼勢力が独裁制への道を阻んでいたからです。
1夜のうちに共産主義者5000人以上が逮捕され、指導者4人が放火の陰謀に加担した罪で、告発されました。

 1933年3月5日に実施された総選挙でも、結果は、100議席を持っていた共産党は81議席へと後退し、一方ナチスも199議席から288議席へと躍進したものの、全体の647議席の過半数獲得には至らなかったのでした。
1933年3月23日、全焼した国会議事堂に代えて臨時国会議事堂となったクロールオペラ劇場で、総選挙後初の本会議が開催されました。
出席した議員の数は535人であり、共産党議員81人、社会民主党議員26人、その他5人の議員は病気・逮捕・逃亡等の理由で「欠席」したのです。
出席した社会民主党議員は全員が反対したものの、ナチスはドイツ国家人民党と中央党の協力を得て3分の2の賛成を確保し、全権委任法を成立させます。

 この法律は国会審議・議決無し、更に大統領の副署無しに、広範囲な法律の制定乃至改定する権限をヒトラー政権に委譲するものでした。
議場の周辺には親衛隊が防衛線を張り、議場内の廊下には突撃隊員が立ち並んでいたと云います。

 さてベルリンの消防署の専門家は、放火事件は単独犯では在りえず、6名乃至7名の共犯者が存在したと考えていたにも関わらず、ライプチヒ法廷は、フォン・デル・ルッペの共犯とされた4名の釈放を命じ、ヒトラーは放火事件を共産主義者の陰謀としましたが、他の国々では、ナチス自身が放火の陰謀をめぐらしたと確信したのでした。

 共産党は、激しい反共宣伝の洗礼を受けながらも、ゲーリングとその一味が地下道を通り、国会議事堂に放火した後、又同じ道を通ったのだと反論したのでした。
第二次世界大戦のニュルンベルグ裁判で、旧ドイツ軍参謀長のフランツ・ハルダー将軍は、ゲーリングが1942年に「ライヒスターク炎上の真相を知っているのは私だけだ。放火したのは私なのだから」と自慢したと証言しています。

 ゲーリングはハルダーの証言を否認しましたが、周知の通り、ナチスにおいて嘘と裏切りは日常茶飯事で、真相も戦後2転3転します。
新たな調査から、別の結論が引き出されました。
ナチスも又、濡れ衣を着せられた訳で、フォン・デル・ルッペは4束の焚きつけとマッチ1箱を使って、完全に自分の意志で放火を行ったらしく、ゲーリングとその部下は、消火活動を妨害しただけでした。

本編終了・・・
2010/03/24

歴史の?その155:ドイツ史の流れを変えた議事堂炎上:前編

<ドイツ史の流れを変えた議事堂炎上:前編>

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 1934年1月10日、オランダ人マリニュス・フォン・デル・ルッペが死刑執行を受けました。
罪状は、ベルリンのドイツ国会議事堂下院(ライヒスターク)への放火でした。

 しかし、ナチスを憎んだ共産主義者のフォン・デル・ルッペは本当に有罪だったのか?
ヒトラーとナチス支持者の生贄になったのか?
他にもこの陰謀に加担した人物は存在しなかったのか?

 議事堂炎上事件は、近代ドイツ史の流れを変えた事件で、ヒトラーはこの事件を契機に、権力の座に着いたのでした。
事件に最初に気付いたのは、ハンス・フロッターという神学生で、彼は1933年2月27日午後9時過ぎに、議事堂の側を歩いていました。
ガラスの割れる音につられて顔を上げると、2階バルコニーに燃えるものを手にした男が居ました。
フロッターは警官に急を告げ、警官達が議事堂に向うと、2階の窓から窓へ、松明を翳して走り回る男に、銃を向けたのでした。

 午後9時40分頃には、60台程の消防車が現場に集まりましたが、議事堂は火炎に包まれ、更に燃え広がっていました。
ビスマルク・ホールで警官の1人が、上半身裸の汗まみれになった男を逮捕し、所持していた身分証明書から、名前は、マリニュス・フォン・デル・ルッペ、24歳という事が判明します。
検察官に犯行の動機を問われた時、彼は「抗議する為だ」と答え、更に「他の公共建造物3棟にも放火しようとしたが、果たせなかった」とも自白しました。

 火災の政治的影響は大きく、当時ドイツ首相に就任して僅か27日目だった、アドルフ・ヒトラーは、この事件を契機に第三帝国総統の地位迄登りつめる結果となるのです。
放火事件とフォン・デル・ルッペの逮捕をヘルマン・ゲーリングから報告された時、ヒトラーは次の様に語ったと伝えられています。
「天の知らせだ。是はコミュニスト蜂起の前兆である」

後編に続く・・・
2010/03/23

歴史の?その154:ドレフュス大尉の免罪

<ドレフュス大尉の免罪>

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 フランス陸軍内部で、スパイ事件が発生し、最も有力な容疑者は、アルフレッド・ドレフュス大尉と目されました。
大尉は勤勉実直な人物で、有能で在るが故に同僚の嫉みを買っていました。
当時は、反ユダヤ感情の盛んな頃で、彼がユダヤ人(系)で富豪の出身である事も嫉妬に油を注ぐ結果と成りました。

 事件の発端は1894年、パリ駐在のドイツ軍武官マックス・フォン・シュワルツコッペン大佐宛の一通の手紙が、フランス軍参謀本部の手に入った時でした。
その手紙には、数多くの軍事機密事項が列記され、代償を要求していました。
参謀本部は、ドイツに対する内通者が存在する事を知ると、その生贄に成るべき人物を必要としたのです。
取得可能な情報から判断して、犯人は参謀本部に勤務する以前に、幾つかの部隊で兵役を勤めた、下級砲術将校であると判断され、この条件に該当する人物が、ドレフュス大尉で在り、手紙の筆跡も彼のものに似ていました。

 しかし、軍法会議での訴追には、証拠が不十分で、しかもドレフュス大尉の軍歴は第1級であり、専門家は証拠の手紙を彼の筆跡とは、断定しませんでした。
法廷がドレフュス大尉の釈放を決定しようとした時、予備審問を担当した、参謀本部の情報将校ユベール・ジョゼフ・アンリ少佐が介入し、密封された手紙が、法廷に提出されました。

 封書には、イタリア大使館付武官パニッツァルディが、フォン・シュワルツコッペン宛に書かれたもので、其処には、フランスの売国奴の名前が「あの汚いイヌのD」と記されていたのです。
この瞬間、ドレフュスは有罪となり、悪魔島へ終身流刑を宣告されました。

 ドレフュス裁判から僅か2年後、フランス軍の機密が漏れ続けている事が発覚し、参謀本部は再び調査を開始します。
そして、事件調査を担当したピカール中佐は、ドレフュス事件にも重大な疑問を抱き始めます。
しかし、軍首脳部は、1人のユダヤ人(系)よりも軍の名誉を重んじ、ピカール中佐はチュニジアに配置転換を受け、事件は闇に消えるかと思われました。

 しかし、事実を白日の下に曝したのは、アンリ少佐自身で、ドレフュスが有罪の決め手となった、問題の手紙を偽造したのは少佐自身であり、ピカール中佐の調査を知った彼は、ドレフュス事件の記録を抹消し、証拠の隠滅を図りますが、その時既にピカール少佐によってドレフュス事件の記録は、写真撮影され、友人の弁護士ルブロウに預けられていたのです。

 アンリは逮捕され、罪を告白し自殺します。
その間に、本物のスパイ、フェルディナン・ワルサン・エステラジー陸軍少佐は、ロンドンに亡命します。
ドレフュス大尉逮捕後、4年目の事でした。
ドレフュス大尉が自分の名誉を回復する為には、更に8年の歳月を要し、1906年、彼は軍役に復帰し、レジョン・ドヌール勲章を授与され、第一次世界大戦で現役に復帰し、1935年パリで死去します。
76歳でした。

続く・・・
2010/03/21

歴史の?その153:戦艦バサ号

<戦艦ヴァーサ号>

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 スウェーデン王家の名前をとった、巨大な戦艦ヴァーサ号が、愈々出港するという知らせが広まり、1628年8月10日、ストックホルムの町は興奮した群集で、あふれていました。

 国王グスタフ・アドルフ2世は自ら、この船の建造を命じ、133人の乗組員と300人の戦闘員を乗せるこの戦艦は、全長55m、排水量14,000tに達するもので、3層の甲板には64門の青銅製大砲が設置された強力な戦闘艦でした。

 時刻は午後4時、既に巨大な戦艦の出港準備は完了し、岩壁に詰め掛けた群衆の歓声と、艦隊の礼砲の轟く中、ヴァーサ号は錨を上げ、優雅に岸を離れたのでした。

 その時突然、湾内を突風が吹き抜け、思いがけない悲劇が発生したのです。
その風に、左舷が大きく傾き、乗組員のバランス補正も間に合わず、最下層甲板の開かれた四角い砲門から、大量の海水が一斉に流れ込み、数分の内に海はヴァーサ号を飲み込み、生存者は僅かな人数だけでした。

 さて、ヴァーサ号の悲劇から300年程が過ぎた頃、1人の青年が、二つの手掛かりに導かれて、水中探検史上、最も目覚ましい成果を上げる事になるのです。
第一の手掛かりは、フナクイムシでした。
1930年代も終わりに近い頃、20歳に成ったばかりのアンデルス・フランセンは、スウェーデンの西海岸沖を帆走している時、フナクイムシが穴だらけにした流木を見つけました。
バルト海の帆走に長けていた彼は、是ほどまでに食い荒らされた流木を、其れまで見た事が無かったので、大変不思議に思い、調べてみると、バルト海は塩分が少ない為、ムナクイムシが、其れほど盛んに繁殖しない事が分りました。
彼は、戦艦ヴァーサ号が、現在もバルト海の海底に存在していると推定したのです。

 古い沈没船を調査する事を夢見ていたフランセンは、第二次世界大戦後、ヴァーサ号とその沈没場所について、出来得る限りの情報を収集し、4本爪の錨と牽引ワイヤーで港の底を浚いましたが、4年間全く手掛かりになる様な物品は発見できませんでした。

 1956年、終に第二の手掛かりとなる、古い黒く変色した樫材の破片を引き上げ、フランセンは水中で、樫材がこの様に変色するには、100年以上の歳月がかかる事を知っており、古い沈没船に遭遇した事は、間違い有りませんでした。

 彼の推察は的中し、ヴァーサ号は水深35mの海底で、喫水線迄厚さ5mの泥の中に埋まっていたのです。
引き上げの第一段階では、泥の中にトンネルを堀り、船体の下に鉄製ケーブルを潜らせ、沈没船を浮きドックから吊り下げ、浮きドックを上下させる事によって、船を泥から引き出し、浅瀬迄移動させる事に2年の時間を費やしました。

 第二段階では、ダイバーが砲門並びに開口部を全て遮蔽し、ケーブルと浮きドック、水圧ジャッキの力を借りて、1961年4月24日、終にヴァーサ号を水面に引き上げたのでした。

 現在、戦艦ヴァーサ号は、ストックホルムに特別に建設された、博物館に納められており、木材が歪まない様に、絶えず蒸気と薬品が吹き付けられており、博物館には、乗組員の所持品も納められ、衣装箱、武具、道具類、貨幣等が、17世紀の海員生活の素晴らしい縮図を示しています。

続く・・・
2010/03/20

歴史の?その152:ローマの空にたなびく白煙

<ローマの空にたなびく白煙>

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 新しいローマ法王が選出される時、カトリック教国の耳目は、ローマに集中します。
そして、カトリック教徒の如何に関わらず、数千万の人々が枢機卿会議の行方を待って、気を揉むのです。
この会議は長年の伝統に従い、厳重に外部を遮断した中で行われるのです。

 この枢機卿会議が行われる部屋は、一切の撮影も録音も許されず、会議に参加する枢機卿の意中は、如何なる者も知る事ができません。
最終決定が成された事を意味する白煙が、バチカン宮殿の煙突からたなびく迄、どの候補者が法王に選出されたのか、外部の人間には全く知る事ができないのです。
白煙が上がると、枢機卿の1人がバチカン宮殿のバルコニーに立ち、辛抱強く広場で待ち構える人々に新法王の名前を告げるのです。

 前法王が死去すると、その後15日から18日の期間は、サン・ピエトロ寺院における葬儀に充てられ、この間に世界各国の枢機卿達が、ローマに参周します。
その後、厳粛な法王選出会議(コンクラーベ)が始まり、この会議を通じて、5億2千万人のローマ・カトリック教徒が帰依する人間の象徴「漁夫の指輪」を誰が身に付けるべきか決定されるのです。
この指輪は、通常純金製で、宝石が象眼され、新法王が誕生する度に新しく作り替えられます。
「漁夫の指輪」の伝統は、数世紀前から続いていますが、其れを最初に身に付けた法王が誰なのかは、知られていません。

 法王選出会議の無事を図る為、会議室の扉は密閉され、外部との連絡は必用に応じて、壁に設けられた小さな連絡用の扉を通じて行われ、伝言、食事、その他必用な事項は、この扉を通じて行われ、厳重な監視を受ける事で、会議の秘密は守られるのです。
投票を重ねる毎に、3人の選挙管理委員が得票数を数えますが、委員は参加枢機卿の中から選出され、投票の度に交代していきます。
候補者の1人が投票総数の3分2以上の絶対多数を占めない限り、投票は終わりません。
投票結果が確定しない場合、用紙は濡れた麦藁と一緒に燃やされ、未決合図の黒煙を出します。

 法王選出会議は、しばしば数日間の長期に及び、終に絶対多数の結果が出ると、投票用紙を乾燥した麦藁と一緒に燃やし、その時、サン・ピエトロ広場は大歓声に包まれるのです。
この二種類の藁束を使い分ける伝統の方法は、現在でも継承されていますが、法王ヨハネ23世が選出された1958年には、告知の白煙が細い灰色の煙だった為、苦情が寄せられ、1963年のパウロ6世選出の際には、報道機関の要請で発煙弾が使用されました。

 煙で合図を送る習慣は、何世紀も昔に遡る事ができますが、その煙の色に何らかの意味が付加される様に成ったのは、ようやく近年になってからの事でした。
ローマの空にたなびく白煙が、キリストの地上における新しい代行者を迎えた合図である事を、まずローマ市民が知り、やがて世界に広まるのです。

続く・・・
2010/03/19

歴史の?その151:バチカン宮殿

<バチカン宮殿>

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 世界には、偉大な建築物と呼ばれる物は、多数存在しますが、ローマのサン・ピエトロ大寺院程、多くの建築家が建設に参加した例を他に見出す事が出来ません。
最初にこの大寺院の建設を計画したのは、教皇ニコラウス5世で15世紀の事でしたが、実際に完成する迄に350年の年月が必用でした。
その間、歴代の教皇や、数多くの建築家が建設に携わったのです。

 本来この場所は、コンスタンチヌス大帝が使徒ペテロの為に建てた、バシリカ聖堂が在り、ニコラウス5世は、この古い聖堂を取り壊し、大寺院を建設するという決定を下したのですが、建設計画が具体的に動き出したのは、1505年の事でした。
時の教皇ユリウス2世は、バシリカ聖堂の側に大霊廟を建設して、自分の名前を永遠に伝え様と考え、金銭に糸目を付ける事なく、この事業をミケランジェロに任せたのです。

◎心変わり

 ユリウス2世は、何度も心変わりした後、墓所を別の場所に建てる事を諦め、古いバシリカ聖堂を完全に建て直す事に決め、建築家ドナト・ブラマンテを登用します。
ブラマンテはまず、古いバシリカ聖堂を取り壊して、その中に在ったモザイク画、イコン、祭壇、墓、彫像の全てを処分してしまいますが、この作業には2500人の作業員が、幾週間にも渡って作業を行いました。

 ユリウス2世が1513年に死去した後、教皇に成ったレオ10世は、新たな建築家にラファエロを任命します。
ラファエロは、ブラマンテの設計に徹底的な改修を加えますが、彼が死去する迄の6年間に成されたのは、数本の柱を建てた事とブラマンテの不具合個所を修築した事位でした。

◎ミケランジェロ

 1521年にレオ10世が死去し、教皇クレメンス7世は、バルダサーレ・ベルッツィを建築の最高責任者に選びますが、ベルッツィは、サン・ピエトロ大寺院に殆んど手を出す事は、在りませんでした。
ブラマンテが造った、壁やアーチはひび割れ、其処から雑草が生える程でしたが、次の教皇パウルス3世は、この建設計画を推進し、この教皇は、スペインがトルコ撃退の聖戦の為に準備した資金を盗用して、アントニオ・サン・カロに仕事を任せ、次に著名なミケランジェロを登用します。
しかし、ミケランジェロは当時既に72歳、システィナ礼拝堂の天井画完成から、長い年月が経っていました。

 ミケランジェロがサン・ピエトロ大寺院の最初の設計が完成したのは、1547年、間もなく建設に着工したものの、1549年パウルス3世が死去し、其れと同時に大寺院建設にかけるミケランジェロの熱意も冷めていったと云われます。
教皇パウルス4世は、ミケランジェロを励ましますが、彼の寿命は当に尽きようとしていたのです。
ミケランジェロの死後、寺院建設は混乱期に入り、中々伸展しませんでした。

 この後、1585年シクストゥス5世が教皇となり、建設計画は再び稼動し始め、其れまでの教皇の誰よりも多くの仕事を行ったのです。
ミケランジェロの設計したドームの建設もこの時期に、殆どが行われました。
システィナ・ホールとバチカン図書館の建設を命じたのも、シクストゥス5世で、1588年にドミニコ・フォンタナが完成させますが、この図書館は、本来1447年から1455年の間に、ニコラウス5世が作ったもので、この時340巻が納められ、蔵書の中核と成りました.

◎仕上げ

 其の後、教皇ウルバヌス8世がジョバンニ・ベルニーニを登用、ベルニーニは教皇の祭壇を覆う大天蓋を造り、鐘楼を建て、本堂に装飾を施しました。
最後に付け加えられたのは、聖具安置所で、1784年の事でした。
是で、サン・ピエトロ大寺院は完成したのですが、シクストゥス5世がドームを建設して200年、ミケランジェロがそのドームを支える壁の工事してから238年、ニコラウス5世がコンスタンチヌス大帝のバシリカ聖堂を建て直してから、実に338年の長い年月が過ぎていました。

 バチカン図書館は、17世紀から18世紀にかけてかなり拡充されましたが、1798年に膨大な文献がフランスに持ち去られ、大打撃を被ります。

 現在、図書館には、約6万の古写本、7000の初期判本、10万の彫板印刷物と地図、90万冊以上の書物が所蔵されています。

続く・・・
2010/03/18

歴史の?その150:攻城戦②:火薬の要らない大砲

<攻城戦②:火薬の要らない大砲>

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 西洋世界では、火薬が使用され始めるよりも前から、軍隊は、様々な物を敵に向かって投げつける、飛び道具を備えていました。
最も強力な飛び道具の一つに、古代ギリシア人が使用した石弓が在り、約2kgの木製の矢を400m以上飛ばす事が可能でした。
西暦537年頃のローマ包囲戦の最中、あるゴート人の首長は、石弓の矢の直撃を受け、樹木にまさしく磔にされたと云う記録が残っています。

 この石弓を後方から支援したのが、投石器であり、現在の臼砲に相当する兵器です。
投石器は、敵に向けて発射するというより、敵の方向に「弾丸」を高く打ち上げて発射する兵器でした。
投石器は、梃の原理を応用した腕を持ち、その一方の端に弾丸を載せる受け皿が設けられました。
縄若しくは、動物の腱か生皮、時には人毛を用いて作られた、弾性のある綱の力と梃を応用して、弾丸を相当の長さで飛ばす事が可能でした。
この投石器と石弓は、12世紀迄、攻城戦の主力兵器として、使用されます。

 中世になると、投石器は更に梃の原理を応用して、天秤投石器に発展し、中には腕の長さ15m、10tの重りを用いて140kgの弾丸を、500m以上飛ばす事が出来る大掛かりな兵器と成りました。

 此処で「弾丸」に使用されたのは、石ばかりで無く、既に紀元前400年頃には、火を点けた液体燃料の壺(焼夷弾、燃料気化爆弾の前身)が現れ、7世紀には、まさにナパーム弾まで登場します。
是は、「ギリシアの火」と呼ばれ、硫黄と石油、生石灰の混合物で、何よりも恐るべき性質は、水を掛けると更に火力を増す事でした。
この「ギリシアの火」は。中世初期において、現在の核爆弾と同様、最終兵器と見なされ、西暦717年、レオ3世のコンスタンチノープル攻略作戦で実戦に投入され、恐るべき効果を上げたと云われます。

 現在の心理作戦に相当する戦術では、恐怖心を抱かせる手段として、敵の死体や生きたままの捕虜を「弾丸」に使用し、敵軍の真中に送り込み、細菌戦の発端とも言える、腐乱死体の投弾迄行われました。
西暦1422年のキャロルスティン攻防戦では、守備軍の頭上に荷馬車200台分の糞尿が浴びせかけられたと記録されています。
天秤投石器の最後記録は、西暦1480年ロードス島攻略作戦の時で、侵攻したトルコ軍は、重火器を備え防衛軍側は、圧倒的に不利でしたが、破れかぶれで天秤投石器を作り、トルコ軍の砲火を沈黙させました。(!)

 投石器は、黒色火薬の登場により、過去の兵器と成りました。
黒色火薬は、中国で最初に使用され、13世紀には、西洋世界にも知られる様になり、14世紀には、最初の大砲が製造されるのです。

補遺

アルキメデスの太陽光兵器

 2000年以上昔の数学者で、哲学者でも在ったアルキメデスは、太陽光を兵器として利用したと云われます。
紀元前215年と同212年、ローマ艦隊のシラクサ攻撃の時、彼は太陽光を反射させて、ローマ艦船に火災を起こさせたのです。

 しかし、この記録は研究者から無視されて来ましたが、1973年、ギリシア人イオニアス・サカス博士が、一連の実験を行い、その記録を再現する事に成功しました。
博士は、青銅を貼った50枚の鏡で太陽の光を反射させ、その反射光を一隻の船に集中させると、船は煙を上げやがて炎上したのでした。

 この実験を参観したアルキメデス研究の権威、エバンゲロス・スタマティス博士は、後日、アルキメデスの記録は事実であると語りました。

続く・・・
2010/03/17

歴史の?その149:攻城戦

<攻城戦>

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 如何にして守りを固めるか?
土を盛って外敵の攻撃から、身を隠そうとした鉄器時代から、現在の鋼鉄、コンクリートで固めた長距離ミサイル基地に至る迄、是は人間の生死を左右する、重大問題でした。
如何に難攻不落の城砦を造営しても、攻撃側は、何とかしてこの強力な防御陣を、攻め破る方法を考案するのです。

 聖書の時代には、城壁を造り、敵の砦を攻略する技術は、アッシリア人が特に秀でており、是をローマ人が更に進化、完成させました。

 コンスタンチノープルは中世暗黒時代において、ヨーロッパ最大の都市であり、此処には3つの城壁が在りました。
どの様な侵略にも耐え得ると思われましたが、第4次十字軍は、船から城壁に橋を渡し、防衛線を突破してしまいます。

◎要 塞

 築城術がその頂点に達したのは、中世の事で、石の城壁で固めた城が、ヨーロッパ中に建てられ、火薬の時代が到来する迄は、その能力を発揮する事ができました。
事実、長期間に渡って、落城しなかった城も存在するのですが、決死の覚悟で攻略する意志を持った敵の前には、最強の城でさえ陥落する運命に在るのです。

 リチャード1世が、フランスのルーアン近郊に築城したガイヤール城には、三つの堅固な防衛線が存在し、掘割、城壁で守られ、望楼は互いに死角を作る事無く建てられ、城はレザンドリーの町を眼下に見下ろす、戦略上重要な丘陵地の上に在り、史上最強の城の一つと考えられていました。

 1203年、フランス王フェリペ2世が、この城を包囲した時、彼はまずレザンドリーの町を占領した後、城内の守備隊をじわじわと締め付ける作戦を行いました。

◎包 囲

 城内の人間が生きていく為には、飲料水が絶対必要な事は言う迄もなく、包囲軍はまず、この水の供給を断ち切る作戦を展開した上で、投石器で外側の城壁に石の雨を降らせる事で、外壁は突破され、更に包囲軍の一隊は、城内の排水路を伝わって密かに侵入する事に成功し、第二の城壁の背後に回る事ができました。
城内を結ぶ跳ね橋は、包囲軍の侵入に備えて、上げられていましたが、これを降ろす事に成功し、最後に包囲軍は、最も内側の城壁下にトンネルを掘り、守備隊もトンネルを掘って対抗し、地下で激しい戦闘が行われたのでした。
両軍が内壁も下を掘り尽くした結果、城壁は崩壊し、城はフランス軍の手に落ちたのです。

 やがて、火薬の出現は、石造りの城の時代が終わりを告げるもので、砦は、鉄とコンクリートの砲座に変わり、やがて、航空機、戦車、長距離兵器の登場により、戦争の姿が完全に変化する迄、続いたのでした。

補遺
コンスタンチノープルの陥落

 城砦都市、コンスタンチノープルが陥落した理由の一つに、第4次十字軍侵攻の際に発生した、砦内部の内紛が上げられます。
給料の遅配の為、最精鋭部隊がサボタージュを起こしている最中に、十字軍が堀、城壁、望楼を占拠、破壊した為、敢無く陥落したのでした。

続く・・・
2010/03/16

歴史の?その148:クラク・デ・シュバリエ:後編

<クラク・デ・シュバリエ:後編>

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 無闇な攻撃は、侵略者側にとって、味方の死傷者を増やすだけで在り、更に包囲戦に持ち込む事は、同様に長期戦を強いられました。
主要な十字軍の砦は、何処も同じですが、クラク・デ・シュバリエも、膨大な食糧や水を蓄えており、その量は、2000人の守備隊が少なくとも1年間、飲み食いしながら戦うに十分で、その間に救援、増援部隊を呼ぶ事も可能でした。

◎陥  落

 クラク・デ・シュバリエは、難攻不落の城砦の様に思われ、事実、英知と勇猛さで名声を上げた、サラディンでさえ、この城砦を落とす事ができず、後退した程でした。
しかし、1271年イスラムの指導者の1人バイバルスが、十字軍の砦や町を次々に席捲し、最後に残ったクラク・デ・シュバリエを攻略する為、エジプト軍を伴って侵攻して来たのです。

 この時、城砦の守備軍は大変手薄に成っており、第8次十字軍遠征失敗の1年前で、増援部隊を望む事は、もはや不可能でしたが、砦に残った修道士達は、傭兵を指揮して頑強に抵抗しました。

 バイバルスは、頑強な抵抗の壁を一枚一枚剥がすような努力を重ね、始め彼は、懸命に城壁の下を掘ったのですが、南西側の外壁が壊れた時、その後に内側の防護壁が大きく、立ちはだかっていたのでした。

◎策  謀

 バイバルスは敗北を認める事は出来ず、更にこれ以上の長期戦に持ち込む考えも在りませんでした。
彼は、伝書鳩を使い、トリポリのホスピタル騎士団指揮官の名前を騙り、「援軍を送る事が、出来ないので、降伏せよ」との内容の手紙を送り、その命令は守られ、ここに難攻不落として知られたクラク・デ・シュバリエは陥落したのでした。
バイバルスは、降伏した守備隊を騎士道に従って寛大に扱い、自由にトリポリに行かせたと云います。

 この城砦の保守状態は、大変良く、現在でも往事の姿をそのまま伝えており、軍事的な建築物の見本として、最高の物の一つに数えられています。
アラビアのローレンスの言葉を借りれば、「クラク・デ・シュバリエは、手放しで絶賛できる、世界最高の城」なのです。

本編終了・・・
2010/03/15

歴史の?その147:クラク・デ・シュバリエ:前編

<クラク・デ・シュバリエ:前編>

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 クラク・デ・シュバリエは、十字軍がシリア砂漠のほぼ中央に造営した城砦です。
難攻不落の城砦と云われてきましたが、1271年に陥落してしまいます。
其れもたった1羽の鳩の為に。

 十字軍は、シリア砂漠の岩山が突き出した部分に城を建てました。
この地は、イスラム教徒の町、ホムスと地中海東岸のキリスト教徒の町、トリポリを結ぶ幹線道路を押さえる事が出来る、戦略上の拠点でも在りました。

 1090年、十字軍が遠征したおり、此処には小さな城が既に存在し、クルド族の守備隊が駐留していました。
其の後、この城はキリスト教徒である、トリポリ伯爵の手に渡り、更に伯爵によって、エルサレムの聖ヨハネ騎士団に与えられたのでした。
以後、50年に渡って騎士団は、この小さな城を難攻不落の城砦にまで改修を、繰り返したのです。
サラセンは、この城砦を執念深く攻略を繰り返し、少なくとも12回の攻防戦の記録が、伝えられています。

◎弱  点

 この城砦には、2箇所の防御上の弱点が存在しました。
城砦正面の正門と平地から直接繋がる南側の箇所を、騎士達は、堅固な城壁を築き、3基の望楼も付け加え、更に城壁の下を砂礫や石材で埋め、最大部分の厚さは24mに達し、城壁の下にトンネルを掘削する事は、もはや不可能でした。

 正面の門については、曲がりくねった急な坂道を、登る様に改修しました。
この改修で、正面から侵攻しようとする敵は、幾度も集中攻撃を受ける結果となり、例え正門に辿りついても、堅牢な楼門に阻まれこれ以上の侵入は、不可能でした。

後編へ続く・・・
2010/03/14

歴史の?その146:コロセウム

<コロセウム>

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 人や車の往来が途切れる事の無い、ローマ市にコロセウムは、今尚そびえ、その栄華を誇ったローマ帝国の時代を現在に示しています。
古代ローマでは、コロセウムでの試合が市民を熱狂させ、野獣、剣闘士の闘い、模擬戦、罪人対野獣の残忍な見世物が存在していました。
市民にこの様な競技場とパンを与える事こそ、ローマの支配者達が、市民の反発をかわす手段として考案した、政策の一つでした。

 最初、この様な見世物の場所としては、紀元前29年に造られた円形競技場が使用されていましたが、有名なネロ時代の大火で焼失し、ネロの跡を継いで即位した、ベスパシアヌスとティトゥスが、ネロの「金の家」が在った場所にコロセウムを建設してのでした。
伝承に因れば、ネロ自身もコロセウムに出掛けた事に成っていますが、コロセウムが完成したのは、紀元前80年であり、ネロの死後10数年を経過していますから、ネロは実物を見る事さえ出来ませんでした。

 この長円形の闘技場は、奥行き90m、その階下は、地下道や檻が造られており、石造りの観客石が48mの高さ迄続き、5万人の観衆を収容する事ができました。
最上席は、最下段に設けられ元老院議員等身分の高い人々専用、中央に皇帝専用のロイアルボックスが在り、執政官達の席が並んでいました。
その上段が、貴族席、更に上段がローマ市民、即ち平民の席でした。

 見世物が行われる時は、競技(闘技)場の周囲に頑丈なフェンスが設置され、熱さを防ぐ為日除けの天幕も張られていました。
完成祝賀行事は100日間も続いたと云われ、9万頭の野獣が殺され、模擬対戦も行われましたが、このコロセウムにおいて、キリスト教徒が殺戮されたと云う記録は残っていません。

 6世紀には、コロセウムは使用されなくなり、更に13世紀と14世紀の地震で、大きな被害を受け、後年、石材は他の建物の建設に流用され、壁に飾られた彫刻類は失われてしまいました。
修復工事は、19世紀になって開始されたものの、現在残っている物は、石と煉瓦の欠片、そして残忍なローマ時代の競技の名残だけなのです。

続く・・・
2010/03/12

歴史の?その145:全ての道はローマに通ず

<全ての道はローマに通ず>

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 ローマ帝国は、その最盛期、版図はペルシア湾からブリテン島のルンバーに迄広がり、ヨーロッパ大陸とイギリスには、8万kmに及ぶ幹線道路が造られていました。
その為、帝国内の移動は、極めて迅速且つ安全に行われ、更に砦、軍団駐屯地、町や村、港、駅が設けられ、幹線道路の間には、地方道も整備されてその総延長は40万kmにも及びました。

 アウグストウス帝が創設した、郵便制度をはじめ、ローマ帝国のあらゆる産業活動が、この幹線道路を利用したのです。
 
 当時、定期郵便は、1日160kmの速度で運ばれ、現在のスコットランド国境に近い守備隊が投函した手紙は、5日以内に現在のロンドンに到着しました。
重要な通信文は、早馬でリレー式に運ばれ、1日320kmの速度で運ばれたのです。

 ローマ帝国では、道路建設が国家建設と同様に重要な事業と位置付けられ、道路の建設や保守管理工事は、政府高官で無ければ行う事が、事実上不可能でした。
道路工事は、当時、膨大な費用を要し、有名なアッピア街道を建設する為に要した費用は、現在の円に換算して1km当たり200万円以上と推定されています。

 ローマの技術者は、地形を無視して、定規で引いた様な一直線の道路を建設しましたが、山を切り開き、又谷を埋め、沼地に橋を掛け、海に達すると、その対岸に道路が姿を現したのでした。
ローマ市から29本の主要幹線道路が放射状に延び、辺境地域迄及んでいました。
道は、1.2mから1.5mの高さに土盛を行い、石で固められ、排水効果に優れ、何世紀もの使用に耐えました。
道幅は、4.4m乃至4.8mで、現在の大型車両でも十分対面交通が可能な幅員を持ち、更に道路の両側には1段高い歩道が設けられていました。

 道路設営は、十分な計画を練った上で行われ、まず表土を取り除き、重い石を敷き詰め、その上に小石、破砕タイル、煉瓦を入れ白亜をモルタルで固めた層を作り、表面は排水の為、中央が高い形にし、板石をセメントで固定して両側に縁石を設置しました。

 道には、距離標を設けて、最寄りの街迄の距離を示し、一定の距離間に駅舎を設けて、早馬を準備し、宿舎の施設も設けられました。
ローマの道路網は、基礎計画が大変優れていた事から、更に工事技術が極めて高度で在った為、2000年間に渡ってヨーロッパ都市間交通の主要手段と成り、鉄道が登場する迄、この道路網が最も早い交通手段だったのでした。

◎歴史の皮肉

 ローマ帝国が、最も繁栄した時代において、ロンドンからローマ迄の旅は、わずか13日を要するだけでした。
其れから、ほぼ2000年後、イギリスの新首相に決定した、ロバート・ピールが、イタリアからイギリスに召還された時、帰国に要した日数が、2000年前と同じ13日でした。

 イギリスでは、ローマ時代の道路が、何本か現在でも使用されています。
元来、征服者が、敵意に漲るイギリス人を支配する目的で、造った道路が、2000年後の今日、そのイギリス人に恩恵を与えているのですから、歴史は何と皮肉な事なのでしょう。

続く・・・
2010/03/11

歴史の?その144:密林の中の都:後編

<密林の中の都:後編>

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 王家のテラスは、国王や王妃、王子や王女、ライオンや象、ヒンズーの宗教物語の人物像で満たされ、極めて高度な文明社会のあらゆる活動を題材にした、彫刻も多数に及びます。
その造詣は、見事で一瞬、動きを止めた様に見える程なのです。

◎記念碑

 しかし、アンコールの最も崇高な記念碑は、城壁から1.5kmの処に在る、アンコール・ワット(大寺院)で、スールヤヴァルマン2世(在位1112年~1152年)によって建立されたこの寺院は、世界の寺院の中で、最も壮麗な寺院の一つに上げられています。
この国王の時代、クメール帝国はその繁栄の頂点に達しました。
アンコール・ワットは、全長6.5kmの正方形の堀に囲まれ、寺院は池や回廊、露台、廟、階段が複雑に入り乱れ、中央の礼拝堂を囲む回廊には、伝説やヒンズー教の聖典に題材を選んだ、躍動する様な彫刻を施された壁が、高さ2.5mで約800mの回廊を取り囲み、その上に三段の階層を成した寺院がそそり立ち、中央の65mの搭を含めて5基の搭が立っています。
この搭群が、アンリ・ムーオをアンコールの廃墟へと導いたのでした。

◎衰退

 スールヤヴァルマン2世の崩御から、25年後の1177年、現在のラオス方面から帝国に侵入した、チャム族によって、アンコールは占領され、略奪の対象と成り、その2年後、チャム族はヤショヴァルマン7世によって討伐されるものの、帝国の情勢は不安定なものに成って行きました。

 是から150年の間、クメール帝国は西方のタイ族(シャム族)北方のモンゴル族の侵入を受け、特にタイ族はアンコールを1369年、1388年、更に1431年の3回に渡って占領し、都市が如何なる防塁を築いても、既に防衛する事が不可能だったのです。

 アンコールを支えていた、米作の為の複雑な灌漑設備もその時破壊され、やがて首都機能は、1434年現在のプノンペン近郊に移され、アンコールは密林に遺棄されたのでした。

本編終了・・・
2010/03/10

歴史の?その143:密林の中の都:前編

<密林の中の都:前編>

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 1861年、フランス人博物学者アンリ・ムーオは、カンボジア北部の密林の中を進んでいました。
突然、木々の梢越しに3基の高い搭を認めたのです。
是がアンコール・ワットの小尖搭で、アンコール・ワットは、アジア屈指の壮麗な寺院で、この発見は、失われた伝説の都、アンコール・トムが発見された事を告げるものでした。
アンコール・トムは、偉大なクメール帝国の首都で、500年前に放棄され、熱帯の密林に閉ざされ、忘れ去られていたのでした。

 アンコールは、廃墟に成った現代でも、私達に驚きを与えてくれる存在で、周囲を堀が取り囲み、この堀には嘗てワニが入れられており、その後は土を築いた高い防塁となっていました。
アンコール・トムを建設した王は、ジャヤバルマン2世(在位770年~850年)でしたが、彼は、自らを神と称し、自らの権力と帝国の富を誇示する為に、首都建設に邁進したのです。

 堀は正方形で、一辺の長さは約3km、城壁の内側には、古代ローマ市がそのまま納まって余りある広さでしたが、ここに暮らしたのは、王家で在って、一般の市民は城壁の外に暮らしたのです。
この場所は、宗教と政治の中心地であり、4本の広い舗装道路が、堀を渡り、大きな関門を通って市内と結ばれていました。

◎ライ王のテラス

 4本の道路は、街の中心部の大広場で交互に繋がり、この広場は、彫刻のある二つのテラス、王家のテラスとライ王のテラスと名付けられた場所に接しています。
その正面には、精巧な彫刻が施された、踊り子のテラスが在り、ここアンコールで壮麗なのは、砂岩で造られた彫刻群で、舗装道路は何れも、架空の動物を支えた巨人や神の姿を彫った、欄干が造られています。
市内と城内を隔てる関門にも精巧な彫刻が、一面を飾り、搭の上には、頭を三つ持った象の紋章が、掲げられています。

後編へ続く・・・
2010/03/09

歴史の?その142:マヤ・失われた栄光の文明

<マヤ・失われた栄光の文明>

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 現在、メキシコ合衆国の一部になっているユカタン半島には、嘗てマヤ文明が栄華を誇っていました。
ヨーロッパ社会が、未だ中世の流血と混乱の暗黒時代に最中で在った頃、ここユカタン半島では、驚くべき文明が繁栄していたのでした。

 マヤの壮大な石造建築や宗教施設は、押し寄せる密林に飲み込まれ、何世紀もの間、人類の目に留まる事は在りませんでした。
マヤの都市は、整備された舗装道路で結ばれていましたが、是は石の擁壁の間に砕石を入れ、重い石のローラーで踏み固めた後、一種のセメントで固めたもので、簡便な方法ではあるものの、長期に渡って使用に耐えるものでした。

 是等の都市群は、現在、密林から整備され、過去を物語る記念物になっており、その中で最も印象的な場所は、チチェン・イツァと思います。
ユカタン半島は、季節的な雨季を除き、雨量の少ない場所です。
その為、飲料水に不自由しない大きな泉の周辺に都市が発展しましたが、チチェン・イツァの町も5世紀ないし6世紀初頭に、同様な条件で発展した町の一つで、マヤ文明(文化)は、この町で開花したと言えますが、西暦987年頃、トルテカ族の侵入によって没落したと思われます。

 しかし、チチェン・イツァが最も繁栄の頂点に達した時代は、11世紀から12世紀であり、侵入したトルテカ族は、自己の文化とマヤ文化を融合させ、両者の特徴を兼ね備えた、数々の神殿や建物を建設して行きました。
有名な1000本石柱の神殿は、この時代に造営されたものです、

 マヤの都市では、如何なる場所でも存在する、球技場がチチェン・イツァにも在り、ポクアトクと呼ばれたこの球技は激しいゲームで、試合中に選手が、死亡する事もしばしば有ったと伝えられています。
球技場の石壁のレリーフには、選手が首をはねられている図柄が在り、又近くには、杭にかけられた頭蓋骨の図が刻まれている事から、このポクアトクには宗教的な意味合いを持った、儀式的性格を有しており、勝敗の行方によっては、命を奪われる事も有ったと想像されます。

 チチェン・イツァは生贄の井戸でも有名で、中心に在る大広場と270mの舗装道路で結ばれ、旱魃の時には、雨乞いの為、生贄が捧げられたのでした。

 そして、チチェン・イツァの栄光の時代は、突然終焉を迎えます。
200年間に渡って、この町はトルテカ族の中心地としての役割を果たしましたが、1224年頃、住民達は突然この町を放棄して、他の部族がその後に入りましたが、彼らも又15世紀半ばに姿を消し、チチェン・イツァは永遠に見捨てられたのでした。

続く・・・
2010/03/08

歴史の?その141

<万里の長城>

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 人類が此れまでに成し遂げた業績の中で、最も偉大な土木事業と呼ぶに相応しいものは、中華人民共和国の現存する、万里の長城だと思います。
渤海湾から西の甘粛省へ約2600kmにわたって続くこの城壁は、壮大なものと言えます。

 秦の始皇帝は紀元前214年、北辺の国境を防護する為に長城の建設に着手したのでした。
北辺の国境は、匈奴の侵攻に悩まされていましたが、長城を完成する為に、何万人もの罪人が交代で、奴隷の様に使役されました。
伝承によれば、長城の完成迄に100万人以上の死者を出したと云います。

 防壁を造営する事は、決して新しい考え方ではなく、その数世紀前に、王侯は都市の周囲を城壁で囲みました。
始皇帝が行ったのは、国境地帯の当時存在していた、3ヶ所の古い防壁を繋ぎ合わせて、秦帝国全体を囲む、一つの防衛線を構築する事でした。
長城は、多くの地域では、只土を積み上げた土塁の連続ですが、それ以外の場所では、砕石を積み、外壁を煉瓦や石で固めています。

 果たして、長城に戦略的効果が存在したのでしょうか?
大砲等が存在しなかった時代、確かに侵略者の侵入を阻む事が出来ましたが、この長城に守備隊を配備する事は、秦帝国においても同様であったにも関わらず、其れは不可能でした。

 始皇帝は、万里の長城の作業が開始された4年後に崩御し、後継者がこの事業を引き継いだのでした。
城壁は修理、延長され、場所によっては高さ9m、幅10mにも成り、約200m毎に望楼が設けられました。

 築城開始から2000年以上の時間が経過した現在でも、北京北方の山々を縫い、うねりながら続く光景は、見る者に威圧感さえ与えます。
事実、アメリカ、ソビエトの宇宙飛行士が、軌道上から地球を眺めた時、人間が構築した物は、何一つ見えなかったものの、唯一の例外が、万里の長城でした。

続く・・・
2010/03/07

歴史の?その140

<最初のアメリカ人>

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 ホセ・コルテスが排水溝を掘っている時、シャベルに何か、硬い物があたりました。
土を払い除けると、曲がった大きな牙が、二本出て来ましたが、此れは遥かな昔に絶滅したマンモスの物でした。
彼の農場は、メキシコ・シティーから、北東に30km程離れたテペスパンに在り、1950年の事でした。
2年後、メキシコ人研究者が、この化石を調査中に、その胸骨に矢じりを発見して、驚愕したのです。
其れから数日後、衣類にする皮を仕上げる為の道具、スクレーパーと呼ばれる石器も出土しました。

◎狩人とマンモス

 明らかにマンモスは、沼地にはまり込み、石や槍で武装した狩人の一団に、仕留められたのです。
しかし、マンモスと同じ位昔にアメリカ大陸に人間が、生活していたのでしょうか?
発掘作業が終了すると、発見の報告が、考古学会に発表されました。

 この発見は、人類学者ヘルムート・デ・テラが、以前に行った報告を裏付けるもので、彼は、1947年に同じ地域を発掘していて、人間の骨格を発見しました。
その骨が、1頭のマンモスの骨の側に在ったので、デ・テラは、後に彼がテペスパン人と命名したこの人類は、1万1000年程以前の人類ではないか、と言う結論を下しました。
しかし、デ・テラの発表に対し、発掘方法や年代測定法に関する疑問が、数多く主張され、彼の報告は学会に於いて無視されていたのです。

◎アジアから来た人々

 新しい発見が成された事により、彼の主張が正しかった事が証明され、北アメリカ大陸への移住について、新しい研究が一斉に開始されました。
現在、最初の人類がアジアからアメリカ大陸に移動して来たのは、4万年前の事で、当時陸橋となっていたベーリング海峡を徒歩で渡り、現在のアラスカに到達したものと考えられます。

 この説は、近年ユーコン地域、アラスカ、メキシコ等で、石や動物の骨で作られた、簡単な道具類が発見された事を根拠としています。
是等の道具は、矢じり、ナイフ、スクレーパー等で、研究者は3万年から3万5000年前のものと考えています。

 彼らは、動物を狩り、快適な環境を求めながらゆっくりと南下し、恐らく8000年以上昔に、南アメリカの最南端部迄到達し、そして、1万2000年程前に氷河が溶け去ると、次第に北アメリカ全土に広がっていったと思われます。

 世界で最初の農耕は、紀元前1万年頃アジアに現れ、続く2000年から3000年の内に、旧世界の多くの地域で、定住生活が始まりました。
古代のアメリカ人が、何時頃農業を始め、共同体を作って生活する様に成ったのかは、現在でも正確な時代は判定されていません。
しかし、紀元前5000年には、中央アメリカとアンデス高地で、カボチャ類やその他の作物が、栽培されていた痕跡が確認されています。

 魚や肉を、安定して手に入れる事のできる地域では、人類は半定住生活様式を取り入れました。
その頃には、マンモスや他の大型動物は、絶滅していましたが、是等の動物に比較して、人類は移り変わる生活環境に適応する能力を持っていたので、現代迄、子孫を残す事ができたのでした。

補遺
アメリカのストーンヘンジ


 ボストンの北60km程の場所にあたる、ニューハンプシャー州セーレムの5ヘクタール程の地域に、石造りの蜂の巣構造や壁が22基、雑然と点在しています。
この場所に、重さ5t近い、水平な花崗岩の板が発見されました。
古代の儀式の際に、この石板の上で生贄が捧げられたのではないのかと推測される事から、「生贄の板」と呼ばれています。
付近を調査すると、高く尖った石が壁沿いに見られ、その配置は、イギリスのストーンヘンジの配列に従っている様にも見えます。
此れは、ヨーロッパのドルイド教徒と同じ年代に建てられた、宗教施設の廃墟と考える研究者も存在します。
ニューイングランドでも、同様な環状列石が、数多く発見されています。

続く・・・

2010/03/06

歴史の?その139

<ベスビオの麓で・ポンペイ>

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 1人の男性は、石を敷き詰めた通りに倒れており、その手には、一握りの金貨をしっかりと握り締めていました。
この男性が、如何なる処遇の人物で在ったのかは、永遠に判らない事でしょう。
男性の身の上は別にしても、1500年以上もの間、金貨を掌に握り締めたまま、18世紀にその遺体が発見される迄、灰と溶岩に埋もれている事になるのが、彼の運命でした。

 彼は、ポンペイの市民で、この町はナポリ湾に近い、金持ちのローマ人の為の、夏の保養地でしたが、ベスビオ火山の噴火した、西暦79年8月24日を境に、地上から抹消されてしまいました。
しかし、火山は町を破壊しましたが、一方では、保存し続けて来たのです。

 商店の主人達は、昼食の為に、木製の鎧戸を閉めようとしており、少女達は街角の泉で、おしゃべりをしていました。
パン屋はちょうど釜戸に、81個のパン種を入れたところでしたし、酒場では客が代金を支払っていたその時、町を大きな地震が襲ったのでした。
殆どの人々は直ぐに町を離れましたが、地震は、危険の最初の合図に過ぎませんでした。
しかし、どうしても町を離れる事が出来ない人々も居たのでした。

 ある一団は、友人の葬儀の席にかしこまって座ったままの姿で発見され、貴重品を埋める為に穴を掘っていた人物は、その穴に自分が埋まる結果となり、或る者は自宅に隠れました。
可也の人々が家財道具を車に積み込みましたが、此れはポンペイの狭い門の処で身動きが出来なく成っていました。
この時、ベスビオ火山は静になっていましたが、28時間後、ポンペイの町は、厚さ6mの溶岩に埋まり、2万人の人口の内2000人が犠牲と成りました。

 ポンペイの町を襲った悲劇は、其の後幾世紀の間、殆んど忘れ去られていましたが、1748年、ナポリの水道技師アルクビエルレが、彼の時代から150年程前、近郊のサレルノ川から水を引く為に掘られたトンネルの調査を行いました。
全く、偶然の幸運によって、彼が掘った竪穴は、ポンペイの中心街と思われる箇所に到達し、彼は其処で素晴らしい壁画を発見し、他に金貨を握り締めた、冒頭の男性の遺骸を発見したのです。

 1763年には、ドイツ人ヨハン・ピンケルマンが、ポンペイの秘密に魅せられ調査に取り掛かり、彼は苦労して身に付けた学識をもとに、雑多な碑文を集めて、そこから、古代ローマの海辺の保養地における6世紀にもわたる生活の記録をまとめ上げたのでした。

 イタリアの考古学者ジョゼッペ・フィオレルリが、現在の様な科学的な発掘方法を確立する為には、更に1世紀の期間を要しました。

 現在、発掘作業は家から家へ、通りから通りへとゆっくりと進行し、発掘作業中に発見した物が一切失われる事が無い様に、細心の注意を払った作業が続いています。
そして、ポンペイは、現在全面積の5分の2しか調査が成されておらず、未だ溶岩に閉ざされた中には、今までの発見よりも更に重要な遺産が、発見される十分な可能性を秘めているのです。

続く・・・
2010/03/05

歴史の?その138

<トロイを求めて・少年時代の夢に捧げた半生:後編>

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 シュリーマンは発掘作業を継続し、終に失われた都市の、高さ6mは在ったと推定される、城壁後に行き着いたのでした。
嘗て、ヘレネの誘拐に報復する為、ギリシア軍の進行をパリスが見守っていたのは、当にこの城壁に上からのはずでした。

◎ヘレネの財宝?

 2年間に及ぶ作業の後、1873年6月14日、彼の目の前には、目も眩む様な財宝が広げられていました。
8700点にのぼる、感嘆すべき金の装飾品の数々で、中でも特に注目に値する出土品は、16,000個の純金の小片で作られた、額から肩まで届く宝冠でした。

 喜びの涙を浮かべながら、彼は美しい妻に宝冠を被せ、彼女を抱きしめて叫んだのです。
「私達の生涯で最も素晴らしい瞬間だ!お前はトロイのヘレネの生まれ変わりだ!」と。
この発見は、発掘作業のロマンティックな終焉に相応しいものでしたが、シュリーマンの判断は間違っていたのです。
彼が発見した古代の都市は、トロイではなく、もっと古い時代に属する都市で、問題に宝冠は、紀元前2300年頃の物であって、ヘレネが生れる1000年以上も昔の、別の王族が身に付けた物でした。

 現在、考古学の定説では、ホメロスによって詠われたトロイは、紀元前1200年頃、ギリシア軍の侵略によって滅亡したものと推定されており、9層に堆積した都市遺構の上部から3層目の都市遺構が、此れに当たるとされています。
シュリーマンは、作業員達がこの層を掘り抜いてしまった為、この都市遺跡を見逃したのでした。

◎夢を追って

 彼が発見した財宝は、ヒッサリックの丘の低部に近い部分に埋没した、他の時代に属する都市の物で、後に彼はその間違いを認めています。
其れでも、現在の研究者達は、ホメロスのトロイ発見の功績と、同じく、更に古い先史青銅器文化の属する古代都市の発見者の名誉を、ハインリッヒ・シュリーマンのものとして彼の功績を称えています。
此れは、夢を追う事に生涯を捧げ、終に其れを成し遂げた、雑貨屋の使い走りの少年に相応しい碑銘でした。

本編終了・・・
2010/03/04

歴史の?その137

<トロイを求めて・少年時代の夢に捧げた半生:前編>

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 彼の生涯を決定付け、考古学の歴史に、重要な一章を書き加えるきっかけと成った、クリスマス・プレゼントを父親から贈られた時、ハインリッヒ・シュリーマンは、僅か7歳の少年でした。
その贈り物とは、挿絵の入った本で、古代ギリシアの軍勢に攻め落とされ、火炎に包まれるトロイの情景が描かれていました。

 この絵を見た瞬間から、シュリーマンの幼い心は激しく、直向な思いに捕らわれたのです。
トロイの遺跡を見つけ、疑い深い世間に、ホメロスのトロイ攻略の話が全くの真実であり、単なる詩的な空想ではない事を、証明してやろうと思ったのでした。
此れは、雑貨屋の使い走りをしている、貧乏牧師の息子には、殆んど不可能な目標に見えましたが、来るべき仕事に備えて、古代ギリシア語を独学し、40歳代の初めには、仕事をやめても十分生活していけるだけの蓄財を築き上げたのでした。
その上、1869年には、理想的な妻となる、ギリシア人の花嫁を見つけました。
彼女は、ソフィアといい、まだ10代のアテネ娘でした。

◎トロイの地

 頭の中を駆け巡る、ヘクトル、アキレス、アイアスの名前を片時も忘れる事はなく、47歳のシュリーマンとソフィアは、ホメロスの「風強きトロイの野」を求めて、ダーダネルスに向けて旅立ちました。
彼は、100人余りの作業員を雇い、発掘作業を開始したのです。
シュリーマンは、トロイがヒッサリックという、標高49mの丘に存在したと云う、地方の伝承を信じ、この話は、ホメロスに関する彼の知識と一致していました。
その丘には、何らかの遺跡が埋蔵されている事は、現地では既に知られていましたが、当時、考古学は現在の様に学問として確立された分野ではなく、又シュリーマン自身も、実際に発掘に携わるのは初めての経験でした。

 作業員達は、ヒッサリックの地下に何が存在するのか確認する為、北側の急斜面に深い溝を掘りました。
一行は、直ぐに何時の時代に属するのかも判らない、入り組んだ遺跡に到達しましたが、後日、この複雑な遺跡は、9個の異なる都市の痕跡が、階層を成して互いに重なり合っているものである事が判明したのです。

後編へ続く・・・

2010/03/03

歴史の?その136

<絹の国の貴婦人>

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 彼女は美人では無く、50歳前後で、太っていましたが、其れは多分美食の為だったのでしょう。
背中は曲がりぎみで、杖を使い、足が不住でした。

 しかし、大公夫人が紀元前150年頃、死亡した時、その埋葬は大変なものだったのです。
その為、1971年に馬王堆の彼女の墓が発掘された時には、あのツタンカーメンの墓が発見、発掘された時と同様な興奮を引き起こしたのでした。

 大公夫人は、現在の中華人民共和国中部に位置する、湖南省の長沙王に仕える丞相(首相)夫人でした。
2100年後に行われた検死解剖の結果、彼女には、動脈硬化の傾向が在り、激しい腹痛がもとで起きた、心不全の為に死亡した事が、明らかになりました。
激しい腹痛を招いたのは、無理も無く、彼女の胃からスイカの種が、138個も見つかりました(!)。

 ロマンティックな最後ではありませんでしたが、重要人物の妻の死に相応しく、彼女の葬礼は、ファラオの葬礼に匹敵する規模であったと考えられます。

 墳墓は、病院建設の基礎工事中に偶然発見されました。
三重の木槨が、白陶土と木炭の厚い層に周囲を包まれて、木槨の内部に外、中、内と三重の木棺が在り、遺骸はこの内部に収められ、2100年の歳月を越えて、驚くべき事に、つい昨日死んだ人物の其れの様に完全に保存されていました。

 遺骸は外側を、綿入れの絹の合わせで覆われ、其れを取り除くと、20枚の絹の袍に包まれ、9本の絹の帯で縛られていました。
外槨と中槨の間には、夥しい数の副葬品が置かれ、竹行李に納められた冬物、夏物の衣類や絹の鞋、手袋、12音律の竹管楽器、木製の琴、宇と呼ばれる古楽器、壺、杯、漆塗りの道具類、化粧用具等は、312枚の竹簡の目録に記載されていました。

 しかし、何よりも研究者の興味を引いたのは、絹製品でした。
夫人の生きていたのは、中国が絹の国としての名声が、当時知られていた世界の隅々迄広まった時代でした。
其れは、長い駱駝の隊商がヒンズークシ山脈を越え、サマルカンドを通りローマ帝国の市場へ、有名なシルクロードを進んだ時代でした。

 湖南省の馬王堆の墳墓から出土した絹製品は、並ぶ物の無い中国の絹の内でも、最高の絹と言える物で、50巻以上も竹行李の中に納められ、乾燥した空気によって、素晴らしい保存状態を保っていたのでした。
こうした遺品の中でも、最も素晴らしい物の一つは、葬列の先頭に立った絹の幟で、其処には天上界と地上界の情景が描かれ、中央には、大公夫人自身の姿が描かれていたのでした。

 古い時代には、来世迄主人に従って行く様に、従者が共に埋葬される習慣が存在しましたが、この墳墓には、殉死者は存在しませんでした。
代りに、彼女は、侍女や25弦の琴や竹笛を持った楽師等の162体の木製人形をお供に、黄泉の国に旅立っていきました。

 湖南省長沙市の東郊外、馬王堆で発見された漢時代の墓所は、この1号墓に引き続いて2号墓、3号墓が発掘され、貴重な書画を含む文書が出土しました。
現在、中国は積極的に自国の古文化の調査を、勢力的に推進しており、広大な国土は、まだまだ未調査の箇所も多く此れからも、如何なる発掘がなされるか、興味は尽きません。

続く・・・
2010/03/02

歴史の?その135

<<皇女と則天武后:後編>

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 考古学者が、何処に入室坑口が在るのか調査の為、墳墓の周囲で最初の土質調査を実施した時、別の竪穴が、墳墓の基部の直ぐ脇に、垂直に貫通している事が確認されました。
明らかに、盗掘者が墓室に侵入する為に掘った穴でした。

 盗掘者の1人は、未だその場所に居ました。
考古学者達は、15m下の地下通路を埋めている土砂の上に、彼の骨が横たわっているのを見つけたのです。
頭蓋骨は、近くに転がっていた鉄斧で、木端微塵に叩き潰され、分け前の金、玉、銀等の宝物が骨の回りに散乱していました。

 墓所は、隅々迄荒され、盗賊の侵入は、埋葬後20年以内の事だったと推定されます。
巨大な石棺は金梃で傷つけられ、その重い天蓋は割れて、中身は全て盗まれていました。
残っていたのは、死者の骨だけでしたが、盗掘者は、墓室への通路に並んでいる、碧がんには手をつけていませんでした。
壁がんには、唐代の陶磁器が多量に並んでいるのですが、この品々は盗掘者にとって、無価値の物でしたが、現在では計り知れない程の価値が在る物なのです。
又、唐の宮廷生活を描いた、目を瞠る程の壁画もそのまま発見されました。
当時、中国の研究者の間では、この墳墓に埋葬された人物が如何なる身分の者なのか、確認されていませんでしたが、やがて、通路に置かれた大きな石版が出土し、この石版には、永泰公主の碑銘が彫られていたのでした。

 西暦705年に、則天武后が退位させられた後、彼女の実子で、正統の皇帝であり、永泰公主の父親でもある中宗が、王位を継承しました。
其の後間もなく、則天武后が崩御し、その実子である中宗は、未だ自分の子供達と義理の息子の非業の死を嘆いていたので、その遺骸を最初に埋葬された、貧しい墓から掘り出し、唐皇族の陵(みささぎ)に皇族として埋葬する様に命じたのでした。

 更に父親である中宗は、史書を書き改め様と試みました。
唐の史書は全て、永泰公主の名前とその不当な死を書き残していましたから、彼女の父親によって墳墓に置かれた碑文には、ただ偉大な唐王朝の故永泰公主は、出産の為に死亡したとだけ記録されました。
恐らく、忌まわしい過去の記憶を永遠に人々の記憶から、抹消してしまおうと考えたたのでしょう。

続く・・・
2010/03/01

歴史の?その134

<皇女と則天武后:前編>

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 中華人民共和国の古都、西安から北西に80km程はなれた場所に、17基の墳丘群が、周囲の平野から目立っています。
此れは、唐代の広大な王墓で、1300年程の昔、此処に1人の若い皇女が埋葬されました。
その名を、永遠の平和の意味である永泰公主と云い、中国歴代王朝の中でも、黄金時代といわれる唐代(西暦618年~907年)に生きた女性です。

 彼女の生と死の物語は、1000年以上を隔てた現在さえ、痛ましいものでした。

 西暦700年、16歳の永泰公主は、唐の宮廷の高い身分の貴族で、風采も堂々たる武官と結婚しました。
結婚後直ぐに懐妊にし、華やかな世界で、彼女の将来を約束されているかの様にみえました。

 しかし、其処は又、永泰公主の祖母、則天武后に支配された世界でもあり、彼女は、前皇后を殺害し、ライバルと成りそうな者達への警告として、その手足を切断して酒に漬ける様な残虐な行為を示して、唐王朝の最高権力者に台頭した人物でした。
彼女が、全宮廷に不信を抱き、あらゆる人々の間に、陰謀の陰を見たとしても、故の無い事ではなかったでしょう。

 西暦701年の或る日の事、宮中に広く放たれた密偵の1人は、若い永泰公主が、夫や兄弟と一緒に、宮廷生活のとある一面を、笑っている事を聞いてしまいました。
密偵は、直ちにその事実を則天武后に知らせ、彼女は、その事実の中に陰謀の芽を見とり、直ちに若い3人に死の命令が下ったのは言うまでもありません。

 則天武后のこの命令は、厳しい仕来りに裏付けされたもので、若い3人は共に、自分達の成すべき事を知っており、西暦701年10月8日、自害したと云われています。

 皇女とその物語は、人々の記憶から殆んど消えかけていましたが、1960年、中国当局は、西安近郊の唐代墳墓の一つを発掘調査する決定を下しましたが、当時、夫々の陵墓の埋葬者に関して、唐王室の誰かと云う以外、何も知られていなかったのです。
全くの偶然から、一つの陵墓が選定され、この選択によって長く忘れられていた皇女が、再度歴史の舞台に登場する事に成りました。



後編へ続く・・・