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2010/04/28

歴史の?その184:歴史に語り継がれる伝説③:プレスター・ジョンの奇跡の国・後編

<歴史に語り継がれる伝説③:プレスター・ジョンの奇跡の国・後編>

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◎現在の解釈

 プレスター・ジョンとは、聖職者ジョンの意味であり、この王は、イエス誕生の時に訪れた東方の3賢者の一人の子孫で、初期キリスト教の一派、ネストリウス派の指導者だったとされています。

 プレスター・ジョンの物語は、1145年にゲバル(現在のレバノン)の司教フーゴが語り始めた痕跡があります。
ネストリウス派キリスト教徒は、モンゴル出身の侵略者イェール・タシーの来襲に力を貸しました。
司教はその為、侵略者がキリスト教徒であるかのように見せかけ、報告を粉飾したと思われます。

 そして1165年、ヨーロッパの全宮廷にプレスター・ジョンの直筆と称する、偽造の手紙が出回り、その何通かは現存しており、大英帝国博物館にも1通が保管されています。
手紙は、ビザンチン皇帝マスエル宛で、プレスター・ジョンはインドの支配者、並びに「王の中の王」と自称しています。

 1177年、法王アレクサンドロス3世は、「著名にして崇高なるインドの王ジョン」に手紙を送りました。
プレスター・ジョンにローマに神殿を建設し、かくしてキリスト教会を統一することを認める勅許状でした。

 その後、伝説には何ら新しい事が知られませんでしたが、1221年に高名な聖職者、アクレ(イスラエル)の司教から、ローマに情報がもたらされます。
インドのダビデ王はジョンの孫とされていると語り、司教はこの謎に新たな光を与えましたが、このダビデとは、他ならぬチンギス・ハーンその人の事と考えられます。

 14世紀には、探検の焦点はエチオピアに絞られ、ジョンはその地のキリスト教王だった、と信じられる様になりました。
現在の研究者は、「ジョン」はエチオピアの王を意味する「ザン」の読み違えであり、この国は西暦4世紀以来キリスト教国で、革命迄存続した王家は、1270年頃に勃興した一族であり、ソロモン王とシバの女王の子孫と称していました。

本編終了・・・
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2010/04/27

歴史の?その183:歴史に語り継がれる伝説③:プレスター・ジョンの奇跡の国

<歴史に語り継がれる伝説③:プレスター・ジョンの奇跡の国・前編>

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 エチオピアに渡っていた、ポルトガルの宣教師が、20世紀初頭に古代キリスト教徒の王の旗と剣を発見したと報告しました。
幾世紀より以前から伝えられた品物で、この地のキリスト教徒にとっては、神と同様に考えられていました。
この古代キリスト教徒の王とは、伝説のプレスター・ジョンPrester John(ラテン語ではプレスビュテル・ヨハネスPresbyter Johannes)の事では無いでしょうか?
中世ヨーロッパでは、東方にあって、想像を絶する程富裕な聖職者の王と、その謎の王国の伝説が幾世紀も語り次がれてきました。
その国は、平和と正義が支配し、貧困と悪徳を知らなかったと云います。

 其れは又驚異の国でした。
中世の時代に、或る旅人が書き残しています。
「或る地域には、毒草も生えなければ、蠍も、草の間をすべる蛇もいない」

 しかし、その国に向かう事は、命がけの冒険で、途中の砂漠には野蛮人が住んでおり、彼らは「見るも恐ろしい人間で、角をはやしている。全く人語を話さず、豚の様に鼻を鳴らすだけ」で、更に、小人族、巨人族が行く手を阻み、最後に「人間の肉や早産した動物の子供を常食にしている」と云い、「この人種のうち、誰かが死ぬと、その友人縁者がその死者をがつがつと貪り食らう。人間の肉を食う事を、彼らは義務と心得ているのである。私達は、彼らを上手く他の敵に対抗させ、食人種の目を逸らした。其れで私達は、人間も馬も全く被害を被る事無く、他方の敵が全部食われてしまった時、私達は、護衛の軍隊と共に故郷へ帰る」事が出来たと記されています。

 プレスター・ジョンの宮殿は水晶で造られ、屋根は宝石を鏤め、王国内で陰謀が存在すれば、魔法の鏡がいち早くその事実を王に知らせました。

 王はサファイアの寝台に眠り、王衣はサラマンドラ(火竜)の毛織物で作られていました。
馬は無く、代わりに天駆けるドラゴンを操りました。
誰も若返りの泉を利用でき、王自身の歳は、562歳という事でした。

後編へ続く・・・
2010/04/26

歴史の?その182:歴史書に語り継がれる伝説?:失われた大陸

<歴史に語り継がれる伝説②:失われた大陸>

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 失われた大陸や都市の物語は、何世紀も以前から人間の想像力をかきたてて来ました。
紀元前15世紀に、地震と津波によって破壊されたと云うアトランティス大陸の検証は、現在もなお続けられています。
しかし、もしも伝説が信用し得るものとすれば、それより遥かに大きな文明が2つも、自然災害の犠牲となり跡形も無く消えたのでした。
其れは、レムリアとムーの両大陸で、それぞれがエデンの園で在ったと信じられています。

 19世紀中葉の研究者達は、かつてレムリア大陸が現在インド洋と成っている広大な海域に存在したと主張し、数千キロも海を隔てた諸大陸に類似の植物・動物相が見られるのは、その為であると説きました。
レムリア大陸の命名者でもある、イギリスの動物学者P・L・スタレーターによれば、キツネザル(レムール・レムリア大陸の意味)は、アフリカ、南インド、マラヤとインド洋を取り巻く様に分布しており、之は大陸の中央部が波に飲まれた時、周辺部に分けられた為と、主張しました。
その故郷は、恐らくマダガスカル島からアジア南岸を経て東インド諸島に至る、広大な土地でした。

◎化石の証言

 この説は、南アフリカのナタールと南インドで共通の動物化石が発見されて、信憑性が強まりました。
19世紀の進化論者、例えば、イギリスのトマス・ハックスレーはレムリア実在説を支持し、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルは更に一歩進めて、消えた大陸は、「人類発祥の地で在ったと考えられる」と述べた程でした。
この考え方が発展して、レムリア大陸がエデンの園出あったと言われる、原因なのです。

 一方、ムー大陸は太平洋に存在したと、云われています。
1870年にムー大陸を世界に始めて紹介した、イギリス系アメリカ人、ジェームズ・チャーチワードによれば、この失われた大陸は、東西8000km、南北4800kmで、中心は赤道よりやや南に位置していたと説いています。

◎諸言語の源

 チャーチワードは1866年、若くしてイギリスインド派遣軍として、赴任します。
当時インドは、未曾有の大飢饉と成っていました。
其の時、一緒に救護活動を行っていた、或るヒンズーの高僧(リシと呼ばれる階級の高僧)が彼に、古代の言葉ナアカルを教えたと述べています。
この言葉は、全人類の話し言葉の源らしいと彼は、解釈しそれを紐解いて行く内に、ヒンズーの寺院の奥深くに所蔵された、古代の石版からムー大陸の事を始めて知ったのでした。

 石版に刻まれた物語は、次の様な物語でした。
人類は200万年前、ムー大陸に始めて出現し、進化の過程を経て、大陸には何時しか6400万人もの人間が生活する場所と成りましたが、その大陸は、僅か一回の巨大な火山活動で破壊され、海洋に没してしまいました。
そして、その僅かな生存者が、現代人類の母体と成っていったと説いています。

 レムリアもムーも、共に存在していたと考えても不自然では在りません。
地球上の大陸は、原始大陸パンゲアを始め、幾度もその姿を変えて現在に至っているのです。
数千km離れた大陸が、遥かな太古に一つで在り、遠く離れた土地に同種の動植物が繁茂、繁栄する事も同様なのです。
しかし、ここで重要な事は、大陸の移動、沈没は現在の学説に於いて、人類が地上に登場するよりも更に数百万年前のお話なのです。

続く・・・
2010/04/24

歴史の?その181:歴史に語り継がれる伝説①:失われた国々

<歴史に語り継がれる伝説①:失われた国々>

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 伝説によれば、ブリテン諸島を取巻く海は、少なくとも3つの豊かな大国をその底に沈めました。
一つ目は、ティノ・ヘリグで、現在のコンウェイ湾となっている場所のグウィネッドから北へ国でした。

 ティノ・ヘリグは西暦6世紀に、王達が犯した罪に、神の罰が下り滅ぼされた様です。
王達は、現在のウェールズ海岸から約3kmの海中にあたる地点に在った、リス・ヘリグ宮殿に住んでいました。

 現地に伝わる伝説では、王国に悲劇をもたらしたのは、ヘリグ・アブ・グランナウグ王の罪であったと伝えています。
傾れ込んだ海水は、王とその息子達を除いて、すべての人間を溺れさせました。
生き残った王達は、改心して真面目な生活を送ったと云います。

 ウェールズ海岸のこの地方に住む人々は、何世紀にも亘って、引き潮になると宮殿の遺跡が海中に見えると言い伝えてきました。
しかし、1939年に実施された海底調査の結果、2万㎡にも及ぶ「遺跡」は自然石の集合体で、遥かな太古に沈降した事が判明しました。

◎乱行の果てに

 同様の調査がカーディガン湾でも行われ、もう一つの「失われた国」の伝説も、古くからの夢を裏切ってしまいました。
この国も又、人間の過ちの為に破滅したと云われており、ロウランド・ハンドレッドの物語は、ティノ・ヘリグ伝説の変形であった可能性が強いと思われます。

 この伝説によれば、ロウランド・ハンドレッドは肥沃な大地を持った富裕な国で、その長さ65km、幅32kmの土地を有し、現在のバードジー島と本土を繋いでいました。
堤防と堰が、海から国土を守っており、首都はカエル・グウィッドノと呼ばれ、6世紀初頭、国王グウィッドノ・ガランヒルはここに宮殿を構えていました。

 或る日の事、この国で祭りが催された時、故意にか?戯れにか?、堰の水門が不意に開かれ、国土の全ては海に飲み込まれ、助かった住民は少数でした。

◎失われた故郷の物語

 イングランド南西端のランズエンド岬の西方には、セブン・ストーンズと名前の岩石群が在り、コーンウォールの漁師達の中には「ザ・タウン」呼ぶ者も居ます。
この岩はかつて、コーンウォールとシリー諸島を結んで栄えていたと伝えられる、王国ライオネスの首都の遺跡とされています。

 西暦5世紀、海は驚くべき速度で、ライオネスの国土を侵食し始めました。
住民の中でトレベリアンと言う名前の男性だけが、差し迫る危機を感じていました。
彼は家族をコーンウォールに非難させた直後、ライオネスの国土は大西洋に飲み込まれます。
トレベリアンは馬に乗って、コーンウォールに辿り着く事が出来、生き残ったのは、彼と家族だけでした。

 16世紀になり、セブン・ストーンズの近郊で窓枠等の建具が、漁師の網にかかった事から、ライオネスの首都がその位置に在ったと考えられる様に成りました。

 さて、ティノ・ヘリグもロウランド・ハンドレッドもライオネスも、神話の部類に属するとは言え、これら3つの国の領地には、かつて確かに人が住んでいました。
シリー諸島周辺やコーンウォール、ウェールズ海岸沖の海底の沈降地盤から、住居跡が発見されています。
その場所に住んでいた人々は、次第に内陸部へ追いやられ、そして彼らの子孫の想像力が、波間に沈んだ故国の物語を美化したのでしょう。

続く・・・
2010/04/23

歴史の?その180:語られる事の無い歴史の世界・後編

<語られる事の無い歴史の世界・後編>

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◎その③:ジャック・ホーナーの伝説

 言い伝えに寄れば、最初のイギリス古謡の主人公ホーナーは、グラストンベリー僧院長リチャード・ホワイティングの執事だったと云います。
1530年代、僧院解体時代の頃、院長はヘンリー8世の歓心を買う為に、12の荘園の権利証書を巨大なパイに入れて王に送りました。
ホーナーはそのパイをロンドンに運ぶ役目を仰せつかり、途中でパイを開いてサマーセットのメルズ荘園の証書を盗み取りました。
之が、恐らく歌の中で「プラム」と呼ばれている土地の事と思われます。
 
 トマス・ホーナーという名前の人物が、確かにメルズ荘園の所有権を握りましたが、彼の子孫も現在の所有者アスクイス伯爵も、歌の中身はまっかな嘘で在り、一族の名誉を傷つけるものであると、主張しています。
一族の言い分では、ホーナーは、国王から荘園を買い取ったと主張しており、更には彼の名前は、トマスでジャックでは無く、この古謡がチューダー朝以前から、存在していたとの証拠も在ります。


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◎その④:不吉なわらべ歌

 イギリスの子供達は、何世紀にも渡って、全く無邪気にある奇妙に、不吉な低い調子を持った童謡を歌ってきました。
 
 バラの花輪と、ポケットに花束、ハックション、ハックション、みんな倒れてしまう。

 この歌は1665年、ペストが流行したロンドンの通りで歌われ始めました。
「バラの花輪」とは、ペスト、すなわち黒死病に感染した人物に現れる、小さな発疹の事を指しています。
「ポケットに花束」とは、人々が古代から、悪臭は人間を病気で苦しめる悪魔の毒の息と信じ、香りのよい香草や花は、其れを防ぐと考えられていました。
「ハックション、ハックション」の表現は、ペストの流行期、くしゃみがペストに感染した事を示す、兆候でした。
「みんな倒れてしまう」、当に何千、何万という人々が死んでいきました。
14世紀にヨーロッパ全体を席巻した黒死病により、2500万人が死亡したと推定されています。

本編終了・・・


2010/04/22

歴史の?その179:語られる事の無い歴史の世界・前編

<語られる事の無い歴史の世界・前編>

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◎その①:骸骨の即位

 1360年、ポルトガルの古都コインブラで、身の毛もよだつ儀式が行われました。
国王の命令で、高僧、貴族が一人ずつ進み出て、玉座にかけた骸骨の手に口付けをしました。
逸れは、即位したばかりの国王ペドロ・デ・アラゴンの愛妄で、カスティリア公女イネス・デ・カストロの亡骸でした。

 イネスは1342年、ペドロの妃の侍女としてポルトガルの宮廷に上がります。
ペドロは当時皇太子の身分で、彼女と道ならぬ恋に落ちます。
父王アルフォンソは、不義が表沙汰に為ることを恐れ、イネスを打ち首にしてしまいます。

 暫らくの間、ペドロは悲しみと怒りを胸に秘めなければ成りませんでした。
しかし、5年後、王座に就くや、彼は愛人を暗殺した刺客の心臓をえぐり取らせ、そしてポルトガル王妃として、イネス・デ・カストロの骸骨の前に全宮廷を跪かせたのでした。




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◎その②:海に命令したクヌート王

 海に後退を命じ、足を濡らしたというクヌート王(西暦995年~1035年)の物語は、事実で在るのか否か、検証する事は大変困難です。

 もし、事実で在ったとしても、真相は間違って伝えられている様です。
一般の伝承と異なり、最初期の話では、王は愚か者ではなく、極めて謙虚な人物として、語られていました。

 クヌート王の死後100年予後、ハンティントンのヘンリーによって記述された「イングランド史」によれば、王は何事も御意のままにと諂う廷臣達に立腹し、海岸での実験を思いつきました。
海に「下がれ」と命じて、なお波が足元を洗う事を見て、クヌート王は告げます。
「皆の者よ、王の力が如何に虚しく、甲斐なきものか、今こそ知れ。不滅の掟によって天と地と海の敬う神の他に、真の王の名に値するものはないのである」と。

 ヘンリーによれば、クヌート王は其の後二度と、王冠を被らなかったと云います。
逸れは、ウエストミンスター寺院に置いたままにしたとの事でした。

後編へ続く・・・
2010/04/21

歴史の?その178:シャーロック・ホームズのモデル・後編

<シャーロック・ホームズのモデル・後編>

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◎枝葉が大切

 推理や分析の為にシャーロック・ホームズが用いる方式は、ベル博士の信条の反映に過ぎませんでした。
「生徒達には常に、小さな違いの大きな意味、些細な事柄の果てしない重要性を、私は強調したのです」と、博士は以前語った事が在りました。
「例えば、手仕事というものは、それぞれ独自の痕跡を残します。
鉱夫の切り口は、石工の其れとは違い、大工の掌は、石工の其れとは異なります。
陸軍兵士と水兵では、歩きぶりが異なります」
観察能力に磨きをかける事は、医師や探偵の必要条件ですが、一般人も其れによって、単調な自分の生活を冒険と興奮の世界に変える事ができると、ベル博士は信じていました。

 或る日の午後、博士がエジンバラ王立病院の自室に居ると、誰かがドアをノックしました。
「どうぞ」と博士が、応えると一人の男性が、ドアを開けて部屋に入って来ました。
博士は、その男性を見つめて、「貴方は何を悩んでいるのですか?」と尋ねました。
男性は驚いて、「私が悩んでいると、何故判ったのですか?」と問うと、「4回ノックしたからです。普通の人間なら2回か、せいぜい3回ですからね」。
確かにこの男性は、悩んでいたのでした。

 この様なエピソードも伝わっています。
一人の外来患者の診察を終えた処で、博士はおもむろに言いました。
「貴方は、スコットランド高地連隊で兵役に就き、最近除隊に成りましたね」
「その通りです。先生」
「貴方は、バルバドス駐在の陸軍下士官でしたね」
「正しく、その通りです」

 ベル博士は、学生達の方に向き直って、「諸君、ごらんの通り、彼は礼儀正しい人間ですが、帽子を取りませんでした。
軍隊では、帽子を取らないものなのです。
もしも、除隊して長い期間が経っておれば、民間の作法に馴染んでいたでしょう。
バルバドスと見当をつけたのは、彼の病気が象被病だからで、この病気は西インド諸島の風土病であるからです」と解説しました。

 コナン・ドイルは、この日の出来事に大変強い印象を受け、後にシャーロック・ホームズの1篇「ギリシア語通訳」で再現しました。

 コナン・ドイルは、1881年にエジンバラ大学を卒業し、眼科医の看板を出したものの、患者に恵まれず、何とかして収入を得る必要から、作家に転向します。
エドガー・アラン・ポーの影響を受け、1887年に探偵小説を創作する為、新しいタイプの探偵像を作りださねば成りませんでした。

 「私は、ジョー・ベル先生の事を考えた」と、コナン・ドイルは自叙伝の中で回想しています。
「先生が探偵であるならば、この仕事をもっと綿密な科学的な仕事にされていただろう。
人間を利口おと言うはやさしいが、読者が望むのは、ベル先生が私たちに見せてくれた様な、具体的実例なのだ。
私は、主人公を何と名づけ様かと考えた」
彼は、シャーロック・ホームズと名づけました。
クリケット仲間の友人と、アメリカの法学者オリバー・W・ホームズの名前を借りたのです。

本編終了・・・
2010/04/20

歴史の?その177:シャーロック・ホームズのモデル・前編

<シャーロック・ホームズのモデル・前編>

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 20世紀が始まろうとする頃の事、ある晩、スコットランドで週末の狩猟を楽しんだ12人の客は、晩餐の食卓を囲んで、未解決の事件を話題に盛り上がっていました。
客の一人、ジョゼフ・ベル博士は、奇想天外な推理の展開で同席した他の人々を驚嘆させました。
博士は外科医で、その名講義は50年に亘って、エジンバラ大学の学生達を酔わせたのです。
その中には、若き日のコナン・ドイルやロバート・ルイス・スティーブンソンが、居たのでした。

 「殆どの人物は、単に眺めるだけで観察をしない」と彼は言いました。
「人物の容姿を少し見ただけで、その顔立ちに刻まれた国籍や現在の生活が推測され、歩きぶりや癖、時計の鎖についた飾り、衣類に付着した糸屑からその人物の残りの人生も推測されるのです」と付け加えました。

 更に続けて、「私が医学生達に講義を行っていると、教室に一人の患者が入って来た事が有ります。この人物はスコットランド高地連体所属の兵士で、軍楽隊員と思われる」と、私は言った。
「歩きぶりに肩肘を張った様子があり、高地のバグパイプ奏者を思わせたからです。
そして、背が低いので兵士ならば軍楽隊員にしかなれないはずでした。
しかし、男は自分の職業は靴屋で軍隊の経験は無いと言い張ります。
そこで、私は男にシャツを脱ぐ様に命じると、肘の上に焼きごてで付けられた、小さな青いDの印が見て取れたのです。
之は、クリミア戦争の時、脱走兵に付けられた烙印でした。
結局、彼はスコットランド高地連隊の軍楽隊に在籍していた事を、しぶしぶ認めたのでした。
之が、基本なのです」

 誰かが、感嘆の声を上げました。
「ベル先生は、まるでシャーロック・ホームズですね」と。
その言葉に、ベル博士は応えます。
「私が、シャーロック・ホームズです」
ベル博士は、シャーロック・ホームズその人である事を、コナン・ドイルは自叙伝の中で、その様に認めています。

後編へ続く・・・

2010/04/19

歴史の?その176:アンクル・サム

<アンクル・サム>

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 食肉缶詰工場を経営する、ウィルソン兄弟は、日頃から自分たちの工場は、1日に牛150頭を処理し、缶詰にする能力が有るので、ニューヨーク州一だと自慢していました。
その様な時、アメリカとイギリスが1812年に戦争に突入した時、自身満々の兄弟は軍隊に樽で、牛肉と豚肉を供給する契約を取り付けました。
兄のサミュエル・ウィルソンは得意満面で、その陽気な性格から、可也の人気者で、アンクル・サムと呼ばれていたのです。

 或る日、彼の工場を訪問した人物が、樽の総てにE.A.-U.S(政府側の契約者エルバート・アンダーソン、アメリカ合衆国の頭文字)のスタンプが押してある事に気づき、工員の一人にこの文字が何を意味するか尋ねました。
「知らないよ」と工員は答えましたが、訪問者はすかさず、「エルバート・アンダーソンとアンクル・サムの事かね?」と言ったと云います。

 之は、後に長く語り継がれるジョークと為り、訪問者や工員が、この話を周囲に広めて行きました。
1830年代に漫画家が、題材として選び始め、サムは1854年にこの世を去りましたが、ついに議会が彼の名前を、国民の心に永遠に残すように取り計らい、1961年、サミュエル・ウィルソンをアメリカ合衆国のシンボルと公式に認める決議が採択されました。

 因みに、イギリスのまるまると太った陽気なマスコット、ジョン・ブルには、アンクル・サムの様なモデルになった実在の人物は存在しません。
1712年に「法律は底なしの穴」の題名で出版されたジョン・アーバスノットの不器用な政治風刺文学で、ジョン・ブルは誕生したのでした。

 この本は後に「ジョン・ブル」の歴史と呼ばれる様に成りましたが、その中でジョン・ブルがイギリス人を、リュイス・バブーンがフランス人を、ニコラス・フラッグがオランダ人を代表していました。
しかし、ジョン・ブルだけが、歴史家、評論家、漫画家の心を捕え、彼らによって不朽の存在となったのでした。

続く・・・
2010/04/17

歴史の?その175:組合長ブロディー:ジキル博士とハイド氏のモデル

<組合長ブロディー:ジキル博士とハイド氏のモデル>

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 18世紀半ば、スコットランドのエジンバラに、ウィリアム・ブロディーと云う信望を集める人物が居ました。
厳格な気風の街に在って、彼は市民の模範でした。
富裕な家庭に生まれ、石工ギルドの組合長と市会議員を務めていました。

 しかし、この組合長は、イギリス文学上の最も恐るべき主人公のモデルでも在りました。
ロバート・ルイス・スティーブンソンの精神分裂症を病む科学者ジキル博士は、彼を基に生まれたのです。
ジキル博士と同じく、ブロディーは高潔な仮面の下に、秘密の生活を隠していました。
昼間は実業家の仮面を被り、夜は賭博師、盗賊に成りました。
誰も彼の秘密を知ることは無く、彼との間に5人の子供をもうけた情婦も、お互いの存在さえ気づきませんでした。

 ブロディーが悪の道に入ったのは、27歳の時で、1768年8月、彼は市立銀行の合鍵を造り、800ポンドを盗みますが、それ以来、18年間の間に幾多の建造物侵入を繰り返しましたが、誰も彼を疑う事は有りませんでした。

◎逃亡と逮捕

 しかし、1786年にもなると、さすがの悪運も尽き始め、この年、彼は3人のコソ泥と組み、其れまで以来の大胆な計画、スコットランド間接税務局本部の襲撃に乗り出します。
だが、局員に発見されブロディーは逃走するものの、共犯者の一人が逮捕され、彼の名前を供述します。

 ブロディーは警察に逮捕され、エジンバラで裁判を受けますが、状況は決定的に不利でした。
合鍵、拳銃等、警察側は彼の二面性を明かす証拠を握っており、ブロディーには死刑の判決が下りました。
死刑執行の前夜、彼は絞首台に釣り下がった瞬間の衝撃を緩和する為、首から踵迄の着衣に針金を入れ、縄で窒息しない様に、喉には銀のチューブを入れました。
しかし、結果はこの努力にも拘わらず、1788年10月1日、彼はエジンバラの絞首台で処刑されました。

 2年後、スティーブンソンは同じテーマで、「ジキル博士とハイド氏」を執筆しました。
人間の暗黒面を描いた、彼の代表的短編小説で、その中で、ジキル博士は或る薬の実験を通じて、「人間は1体ではなく、本当は2体なのだ」と悟り、「如何にして私は、人間の根本的、絶対的な二重性を認識するに至ったか」を述べます。

 そうして、実験の虜になった理由を、彼は次の様に言います。
「もし人間一人一人が、異なった人格に成り代わりさえ出来れば、人生の耐え難い苦痛は全て除かれるであろうと、私は考えた。
不正なる魂は、より道徳的なその片割れの向上心や自責の念から解放されて、己の道を行くだろう。
正しい魂は、邪悪な伴侶が犯す不真面目や恥辱にもはや悩まされず、善を為す事に喜びを覚えながら、天に向かう道をしっかりと確実に辿って行く事ができるだろう」

 人間の心に潜む生来の悪が、善良な組合長ブロディーを蝕んだ理由を、スティーブンソンは以上の様に語っています。

続く・・・
2010/04/16

歴史の?その174:大いなる遺産

<大いなる遺産>

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 ディケンズの小説「大いなる遺産」に登場する老いた世捨て人、ミス・ハビシャムは、実際に男に捨てられた花嫁の話が、物語の下書きに成っているそうです。

 オーストラリアのシドニーに住んでいた、エリザ・エミリー・ドニーソンと云う女性は、悲劇な事に1856年の結婚式当日、祭壇の前で一人でした。
夫と成るべき男性は、終に姿を見せず、この出来事に彼女は深く傷つき、自宅に篭ってしまい、この悲劇の日から30年の歳月、彼女は一歩も戸外に出る事は在りませんでした。

 婚礼の祝宴が開かれるはずだった部屋の扉には、鍵がおろされ、盛り花や披露宴の食事が、手付かずのままテーブルの上で腐っていきました。

◎小説の中の女性

 チャールズ・ディケンズの小説でも、ミス・ハビシャムはエリザと同じ様に生き、そして死を迎えます。
この驚くべき老婦人に初めて会った「大いなる遺産」の若き主人公ピップは、その印象を次の様に語ります。
「花嫁衣裳を身にまとった花嫁は、衣装そのものと同じに、古い花の様に萎れていた。
落ち窪んだ目の光を覗くと、輝かしさは何処にも残っていなかった。
かつて、若い女性のまろやかな体を包んだ衣装も、今は締まり無く緩み、それをまとう体は骨と皮にちぢんでいるのだった」

 ディケンズが、エリザをモデルにミス・ハビシャムを形作ったという、決定的な証拠は存在しません。
しかし、彼は旅行家や新聞記者等と広い交友が在ったので、地球の反対側に住んでいる世捨て人と成った女性の話をロンドンで聞いた可能性は有るのです。

 エリザの婚約者が姿を消してからちょうど5年後、1861年に小説は脱稿されました。

続く・・・
2010/04/15

歴史の?その173:椿  姫

<椿  姫>

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 オペラは、時として荒唐無稽な古代伝説を、題材に選ぶ事があります。
しかし、ベルディの「椿姫」は、パリの街に巣食う実在の浮かれ女と、小説家アレクサンドル・デュマ(子)の才能のもとに生まれました。
ヒロインのモデルは、ローズ・アルフォンシーヌ・プレシと云い、1824年にノルマンディー近郊のノナン村で、生まれました。
15歳の時、彼女は家を飛び出し、一文無しでパリに辿り着きます。
そして、彼女は食べて行く為に、たちまち売春婦と成りました。

 18歳に成る頃には、家族の追及をかわす為、名前をマリー・デュプレシと変え、名高い高級売春婦に成っていました。
一等地のマドレーヌ大通りに住居を構え、ロシアの前ウィーン駐在大使ド・スタッケンベルグ伯爵等、大富豪を客に迎えていました。

◎出会い

 デュマが始めて彼女に出会ったのは、プールス広場で、マリーが馬車から降りようとしている処でした。
彼は、たちまちその美しさに魅せられ、パリエテ座のボックス席で再開するや、伝を頼って知り合いと成りました。

 二人のロマンスは、彼女が別の男性と結婚してもなお、彼女の死迄続きました。
慢性の結核に罹っていたマリーは、デュマに言いました。
「私を愛人にすると、ろくな事に成らないわ。神経質で、病弱で、悲しくて、悲しみよりもっと惨めな陽気さに浮かれる女よ。私の恋人達は直に、私を捨てたわ」
しかし、恋に盲目と成っていた若いデュマにとって、彼女の忠告等、耳に入りませんでした。

 彼女の病状は悪化の一途を辿り、デュマは医師の支払いの為、終に破産します。
マリーが、昔の愛人ベルゴーニ子爵と結婚した時でさえ、彼は彼女に忠実でした。
1847年2月3日、マリーは23歳で旅立ちます。
生前、こよなく愛した花椿に覆われて、棺はモンマルトル墓地に埋葬されました。

 マリーの死後、デュマは直ぐに「椿姫」に着手します。
後に彼は、この小説を戯曲に書き改め、その上演を見たベルディが、インスピレーションを得て、1853年オペラ化したのでした。
こうして、マリーは音楽の世界で、永遠のヒロインとなったのでした。

続く・・・
2010/04/14

歴史の?その172:ウィリアム・テルは実在したのか

<ウィリアム・テルは実在したのか:英雄の誕生>

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 その命令は、屈辱的なものでした。
スイス、ルトドルフ村の住民は、村の広場に在る柱の上に置かれたオーストリア代官の帽子に、頭を下げなければ成らないのです。
唯一人の男だけが、勇敢にも一礼を拒否しました。
その男の名前は、弓の名人ウィリアム・テルだったのです。

 代官のゲスラーは、テルを残忍な罰にかけました。
彼に「息子の頭上に置いた林檎を射抜け」と言うもので、此れを拒んだり、失敗した場合は処刑するとも言ったのです。

 村の外れで、テルは息子と向かい合い、石弓に矢をつがえ、帯にもう一本の矢を挟めました。
矢が空を切った其の時、林檎は砕け散ります。
代官は「なぜ2本の矢を準備したのか?」とテルに問うと、彼は答えました。
「もし、最初の1本がわが子の髪の毛1本でも傷つけた時は、貴方の心臓を射抜くつもりで在った」と。

 ゲスラーは叫びました。
「奴を城へ連れて行け!」
テルは縛られ、舟でウーリ湖対岸のゲスラーの古城へ、連行される事に成りました。

 湖の半ばに達した頃、突然の嵐が起こり、ゲスラー達はテルの戒めを解き、安全な湖岸迄水先案内をさせます。
岸に着くや否や、テルは舟から飛び降り、舟を湖に押し戻しました。
その時、ゲスラーの部下達は湖に沈みましたが、ゲスラー本人は何とか岸に辿り着く事が出来ました。
テルは、2本目の矢をつがえて待っていました。
矢は放たれ、スイスはオーストリアの頸木から解放されたのです。

 ウィリアム・テルの物語は、テルが生存したと思われる時代よりも200年後に、16世紀の作家エギーディウス・チューディのスイス年代記で、初めて伝えられました。
しかし、テルやゲスラーが実在したという同年代の証拠は、発見されていません。
チューディの報告は、11世紀頃の伝説を面白く改作したものと思われ、やがて、この物語がテルをスイス民間伝承の英雄にしたのでした。

続く・・・
2010/04/13

歴史の?その171:伝記の陰の真実④:エデンの薗でイヴはアダムに林檎を与えた 他

<伝記の陰の真実④:エデンの薗でイヴはアダムに林檎を与えた他>

◎エデンの薗でイヴはアダムに林檎を与えた

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 林檎は禁断の木の実として、人間堕落のシンボルに成っていますが、「創世記」第3章に述べられている誘惑の物語には、りんごに関する記述が一言も登場しません。
単に「楽園の只中になる木の実」とだけ記述されており、アダムとイヴが果実を食べた後、無花果の葉で身を覆った事から推察すれば、その実は無花果であったと考える研究者も存在します。

 林檎は、恐らくギリシアとケルトの神話から、物語に紛れ込んだと思われます。
これらの神話ではもとの林檎は愛の女神のもので、欲望を象徴しているのです。

 西暦2世紀に、ポントゥスのアイクラが「ソロモンの歌」をヘブライ語からギリシア語に翻訳した時、「余は汝を林檎の樹の下で育てた。其処で我母は、汝を産み落とした」という原文を「余は汝を林檎の樹の下で育てた。其処で汝は堕落した」と訳しました。
明らかに原文が、禁断の果樹を意味していると誤解したのではないでしょうか?
聖ヒエロニムス(西暦340年?~西暦420年:ラテン語訳聖書の完成者)も旧約聖書を翻訳する時、この先例にならい、其れ以来、誤った俗信が今日迄続いているのです。

◎シンデレラはガラスの靴を履いていた

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 シンデレラ物語の原型である、フランスの古い御伽噺では、彼女が履いていたのはPentoufles de vah、つまり毛皮の靴でした。
しかし、14世紀頃には、vah(毛皮)が死語となり、フランスの作家シャルル・ベロー(1628~1703)が、この物語を1697年に書き直した時、毛皮の古語を知らなかったので、同音異語であるverre(ガラス)と解釈したのでした。

 西洋世界に広く流布した、シンデレラの物語は、全てベローの作品が原型に成った為、この物語を語る場合、「ガラスの靴」が定番の小道具に成りました。

 シンデレラ物語の起源は、遠く漠然とした民話で、別伝は500以上のバリエーションが存在しますが、その全てに靴が登場し、それぞれが黄金、宝石、真珠散りばめた姿で語られています。
この民話は、ヨーロッパに限らず、全世界に広まり、現存する最古のバリエーションは、中国で西暦9世紀に書かれた物語です。

続く・・・

2010/04/12

歴史の?その170:伝記の陰の真実③ジョージ・ワシントンは桜の木を切り倒した

<伝記の陰の真実③:ジョージ・ワシントンは桜の木を切り倒した>

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◎ジョージ・ワシントンは桜の木を切り倒した

 6歳の時、未来のアメリカ合衆国初代大統領は、父の大事な桜の木を切り倒した為に叱責されていました。
「僕には嘘は言えません」と父に告白します。
「僕が斧で切り倒しました」

 少年ワシントンの告白は、子供らしい悪戯と正直さが融合した、魅力的なエピソードなので、アメリカ史上最も有名な事件の一つと成りました。
此処には、大指導者の少年時代に似つかわしい、率直な性格が表れています。

 しかし、ワシントンの少年時代に関しては、殆んど何も判明していません。
説教師メイスン・ウォームズが書いた最古の伝記でも、少年時代に関す記述は、僅かに1ページなのです。

 大統領の死の翌年、1800年に出版された「ジョージ・ワシントンの生涯」初版には、桜の木の故事に関する記述は存在しません。
後に重版される段階で、ジョージ少年が手斧で悪さをした話を始め、大量の挿話が新たに付け加えられたのです。

 ウォームズは、問題の話をワシントン家と親しく交際していた、匿名の老婦人に聞いたと主張していました。
しかしながら、この筆者は、自分の著作に「伝記的秘話」を創作する、時には自分の書いた、全く別の人物の伝記から幾つかの話を、転用する癖があるので有名でした。

 後年、桜の木の話も、その一つであると言明した訳では在りませんが、ウォームズ自身創作を書き加えた事を認めています。
ペンシルバニア州の建設者である「ウィリアム・ペンの生涯」では、彼はネイティブアメリカンと移住民が協定を結んだ話を創造し、条文の引用迄書いていますが、現実には、その様な協定は存在していません。

 ウォームズの書いたワシントン伝は19世紀中に70版を重ね、桜の木の話は、アメリカの民間伝承として、広く海外にも広まりましたが、現在の伝記作家達は、この話を史実と認めず、全く記述から排除しています。

続く・・・

2010/04/10

歴史の?その169:伝記の陰の真実②

<伝記の陰の真実②:サー・ウォルター・ローリーはエリザベス1世の通り道にマントを敷いた>

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◎サー・ウォルター・ローリーはエリザベス1世の通り道にマントを敷いた

 従者を従えて、しずしずと歩くイングランド女王の両脇を固める人垣の中に、若く端正な顔立ちの紳士が居ました。
彼の前に差し掛かった時、女王はふと立止りました。
道に水溜りが在ったからなのです。
名前をウォルター・ローリーというこの海の男は、機転の利く伊達男でも在りましたので、水溜りの上に即座に自分のマントを投げます。
女王は彼の手際の良さに感じ入り、マントを踏んで渡りながら、彼女の足を守る為に彼が払った高価な犠牲に笑顔を持って報いました。
二人の歴史的人物に相応しいロマンティックな出会いと思われますが、是は史実では在りません。

 このお話は、歴史家トマス・フラー(1608年~1861年)の創作と考えられており、彼は退屈な史実をおもしろおかしく語る為に、しばしば作り話を創造して書き加えたのでした。

 更に、サー・ウォルター・スコットが小説「ケニルワース」(1821年)で同じ話を引用したので、この伝説は一層有名になりました。
この小説作品の中でローリーは「私の手元に在る限り」マントにブラシは掛けませぬと誓い、彼の心ばせを多とした女王は「衣服1着、それも最新仕立ての物」を彼に与える勅令を持たせた従者を、ローリーの館に送ります。

 ローリーは1586年に、イギリスへ初めてジャガイモをもたらしたとも云われていますが、この点についても事実か否かは良く解かりません。
ジョン・ジェラードは、其の著書「草本誌」(1597年)の中で、C・クルジウスなる人物が1585年にイタリアで既にジャガイモを栽培していたと紹介しています。
これらの話が真実か否かは別として、ジャガイモは急速に普及し、「草本誌」で紹介されてから、10年と経たぬ間に、ヨーロッパ全土に普及し栽培される様に成りました。

 又、イングランドに初めてタバコをもたらしたのも、一般にローリーだと云われています。
1586年、当時のイギリス植民地バージニアからの帰途、持ち込んだと云う話が定説に成っています。
尚、フランスには是より早く、1559年頃に紹介されており、その紹介者は、フランス人ジャン・ニコで、「ニコチン」は彼の名前から派生した言葉なのです。

続く・・・

2010/04/08

歴史の?その168:伝記の陰の真実①

<伝記の陰の真実①>

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◎ネロはローマ炎上を見ながらバイオリン(竪琴)を弾いた

 長い間信じられて来た古代ローマの伝説によると、誇大妄想狂の皇帝ネロは、自分自身の不朽の記念碑として、新たな都を建設する夢にとりつかれ、町を塞ぐ私有地の所有者達に妨害されたので、ローマ市に放火したとされています。

 しかし、ネロが市内の何処かに放火させたと云う歴史的証拠は存在せず、この伝説の中で最も有名な「ネロは都の搭(宮殿のバルコニー)に登ってバイオリンに興じた」と云う部分は、更に真偽の程が怪しいものなのです。
まず、バイオリンが発明されたのは、16世紀に成ってからですが、別の表現では、「彼はホメロスを気取り、リラ(七弦の竪琴)をかき鳴らした」と云う事に成っています。

 ローマの大火が有って間もなく、歴史家タキトゥス(西暦55年~西暦117年)が書いた記録によれば、火災発生時、ネロは80km程離れたアンティウムの別荘に滞在していましたが、大火災を眺めて楽しむ所か、すぐさま都に駆けつけ、消火に努力したそうです。

 動機が何であったかは別として、其れがネロの行った唯一の殊勝な行動でした。
他の面では、この皇帝は忌むべき生涯をおくりました。
17歳の時、母アグリッピナの力で権力の座に就いた彼は、義弟ブリタニクスの帝位継承簒奪者として民衆に憎まれ、更に彼の私生活は、当時のローマの風習に照らしても、恥ずべき醜聞に満ちていました。
人々が取り分け迷惑がったのは、ネロの演じる芝居やオペラを強制的に鑑賞させられる行為で、どうやら、彼は凄まじい迄の大根役者で、更に悪声の持ち主の様であったと思われます。

 ネロはキリスト教徒を過酷に弾圧したと伝えられていますが、当時の初期キリスト教徒は、未だ声望のない小集団に過ぎず、魔術師の集団の様に怪しまれていた為、ネロに取って大火の責任を問う格好の替え玉だったのです。
その為、数百人のキリスト教徒が処刑されましたが、生きたままライオン等の猛獣に餌食にされた記録は存在しません。

 ネロの残忍性と放蕩性は、最後には最も身近な者達も遠ざけ、執政官護衛兵団(皇帝個人のボディガード)も彼を見捨て、西暦68年、降位と処刑の瀬戸際に追い詰められた彼は自殺します。

続く・・・

2010/04/07

歴史の?その167:クリミア戦争の陰の英雄達

クリミア戦争の陰の英雄達

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 クリミア戦争の陰の英雄達。
当時、ヨーロッパ最精鋭のロシア騎兵隊を蹂躙した、軽騎兵隊は、賞賛され、栄誉を担いました。
又、フローレンス・ナイチンゲールは、看護婦として従軍し、英国野戦病院で看護活動を行い「クリミアの天使」と呼ばれました。
 
 しかし、陰の英雄達は、鉄道敷設に活躍した労働者達でした。
彼らは、何千人もの兵士を、敗北と死から救ったのです。

 1854年の晩秋、イギリス軍はクリミア半島の大海軍基地、セバストポリを包囲しました。
作戦の遂行が遅れ、更に敵情報への判断ミスから、ロシア軍の増援部隊派遣を許す結果と成りました。
しかも、ラグラン将軍指揮下の3万人の将兵は、その寒さと寒気がもたらす様々な身体的不遇に苦しめられます。

 嘗てナポレオンのロシア遠征軍を敗走に導き、後世には世界最強と詠われたドイツ軍機械化機甲師団をも駆逐した、ロシアの冬の寒さが、日増しに厳しさを加え、唯一の港であるバラクラバ港に通じるたった一本の道路は、終に通行不可能と成り、食糧、飲料水、衣料、医薬品、更には弾丸、弾薬の補給が困難に成ってしまいました。

 イギリス軍にとって幸いだった事は、鉄道建設の権威、サミュエル・モートン・ベローがイギリス下院議員として在籍していた事でした。
ベローは有志を募り、イギリス軍援助の為、利益を度外視して鉄道建設を行う事を提案。
作業員250人、工夫長と石工30人、大工80人、鍛冶20人、機関士10人から成る建設部隊を、クリミア半島に送り込む作戦を展開します。
この鉄道建設部隊は、軍隊とは異なる、民間鉄道建設隊として編成されました。

 鉄道建設部隊は、必用な物資を全てイギリスから持ち込みます。
つるはし、ショベル、ロープ等の軽装備から、クレーン、杭打ち機等の重装備、更にレール、機関車、貨車迄現地に運び込みました。

 鉄道部隊の隊員にとって、ロシアの厳冬は大きな問題には成りませんでした。
彼らは、アメリカ合衆国やカナダで、同様な環境の基に鉄道敷設工事を幾度も経験していたからでした。
建設部隊はまず、暖かい頑丈な作業員小屋を設営し、8kmの線路を敷設しますが、この工事に要した日数は10日足らずで、ヘンリー・クリフォード大尉の言葉を借りれば、この部隊は「イギリス軍の1個連隊が、1週間以上掛る仕事を1日で完了させる」事が可能だったのです。

 バラクラバ港からセバストポリを見下ろす丘迄の11kmに、複線の線路を敷設する作業は、6週間で完成した上、支線を含めた鉄道の総延長は45.6kmにも及び、この鉄道は開通と同時にイギリス・フランス両軍に引渡されました。
両軍はこの鉄道線路を経由して、1日平均112tの物資を輸送する事が出来ました。

 4月には、兵員、装備品の再補充も完了し、イギリス、フランス両軍の猛攻撃を受けたロシア軍は、9月にはセバストポリを放棄せざるを得ない状況に追い込まれ、結果はイギリス、フランス軍の勝利で、クリミア戦争は終結します。

続く・・・
2010/04/06

歴史の?その166:ユニオン・パシフィック・Union Pacific Railroad

<ユニオン・パシフィック:Union Pacific Railroad>

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 大陸横断鉄道建設法案が、アメリカ合衆国議会の承認を得た時、新しい鉄道建設を推進する状況では在りませんでした。
当に南北戦争の最中で、中部平原地帯では、ネイティブアメリカンとの衝突が、頻発していたのです。
しかし、議会は1862年、ユニオン・パシフィック鉄道建設法案を可決しました。

 セントラル・パシフィック鉄道が、カリフォルニアのサクラメントから東に向けて鉄道建設工事に着工し、ユニオン・パシフィック鉄道が、ネブラスカ州オマハから西に向かって、建設工事を推進する事で合意が成立、1863年工事が始められました。

 セントラル・パシフィック鉄道側の工事を指揮したのは、チャーリー・クロッカーでしたが、工事開始地点から130km地点で、早くも大きな障害に遭遇しました。
シエラネバダ山脈の花崗岩の斜面が行く手を塞ぎ、一方、グレンビル・ドッジ将軍が指揮するユニオン・パシフィック鉄道側は、白人に敵意をもつ、スー族やシャイアン族の土地を横断しなければ成りませんでした。

 ドッジ将軍指揮下の建設部隊の大部分は、アイルランド系で占められていましたが、クロッカー隊の主力は、中国系でした。
「東洋人に、鉄道建設の様な仕事は出来ない」と言う者に対して、クロッカーはこの様に返答しました。
「彼らは万里の長城を造った。あれは、石の建造物では世界一である」と。
1866年から67年にかけて、冬の寒波は特に厳しく、多くの作業員が凍死や雪崩によって命を落とし、特に1867年2月の猛吹雪は、12日間に渡って荒れ狂い、作業員小屋が18mの雪の中に埋められてしまう程でした。

 しかし、東西から延びてきた線路は、終にユタ州プロモントリー・ポイントで出会います。
西の基点から1110km、東の基点から1748kmの地点で結ばれ、更にユニオン・パシフィック鉄道は既存の東部の鉄道と結ばれ、大陸横断鉄道は完成したのでした。

 1869年5月、プロモントリー・ポイントには、銀のプレートが打たれたマホガニー製の枕木が置かれ、開通式には、東西を出発した機関車が、ここで出会い、記念の犬釘が打ち込まれました。
この時、本当に西部を開拓したのは、大陸横断鉄道を完成させた、ドッジ将軍指揮下のアイルランド人と、クロッカー指揮下の中国人の人々でした。

続く・・・
2010/04/05

歴史の?その165:カナダ太平洋鉄道

<カナダ太平洋鉄道:Canadian Pacific Railway>

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 カナダの太平洋岸と大西洋岸を結ぶ、カナダ太平洋鉄道は、土木建築工事として特出される事業であるばかりか、1つの国家を形成するに至った事業でも在りました。

 1867年、カナダ東部のオンタリオ、ケベック、ニューブランズウィック、ノバスコシアの4州は、南部に位置するアメリカ合衆国の脅威に対抗する為、連邦を形成しました。
しかし、太平洋岸に位置する、ブリティッシュコロンビアは、依然として陸の孤島であり、サスカッチュワン、アルバータは、ノースウエスト・テリトリーのまま存続していました。
カナダ議会は、ブリティッシュコロンビアを連邦に編入させる為、大陸横断鉄道の建設を承認したのでした。

 6人の資産家によって、カナダ太平洋鉄道会社を設立し、資本金2500万ドル、100万ヘクタールの西部1級地、20年間の免税特権保証の基、鉄道建設工事は着工されたのでした。

 シカゴ出身のウィリアム・コーネリアス・バン・ホーンが鉄道敷設工事を指揮し、建設工事が容易に進んだ草原地帯を越え、スペリオル湖北岸の荒野へ線路を伸ばす為に投入した物資は、1万2000人の建設要員、5000頭もの馬、更に削岩機、火薬等、膨大な物量に上ります。
容易に進行した草原地帯の敷設工事とは対象的に、北岸以降の工事は困難を極め、1kmの区間を進む為に花崗岩の岩盤を切り開く作業には膨大な日数を要し、湿地地帯ではその脆弱な地質の為、作業用機関車が3両も水没する等、予想外の被害を被り、これらの難工事区間では、10cmあたり43ドルの建設費を要しました。

 此処に至り、建設費は予算を超過する2700万ドルに達し、債権者は出資金の返済を要求し始め、バン・ホーンは新たに3500万ドルの追加借款を議会に申し出るものの、議会はこの申し出を却下し、カナダ太平洋鉄道会社は破産の瀬戸際に立たされます。
この事態の最中、ネイティブアメリカンと混血の無政府主義者、ルイ・リエルの煽動で、サスカッチュワンに反政府運動が勃発し、カナダ政府はその鎮圧の為、急遽軍隊を紛争地域に派遣する必要が生じました。

 バン・ホーンは、未完成だった鉄道線路を使って、兵力4000名の軍隊を11日以内に現地に輸送する事を請負、その大任を果たす事が出来ました。
その速達性、確実性がカナダ国民に対し、鉄道建設の重要性を認識させ、是を機会に新たな資金の調達が成されました。

 東西から始まった鉄道建設は、次第に完成に近づき、1886年7月4日両方の線路は、最後の犬釘が打たれ完成したのでした。
この日、モントリオールを発車したパシフィックエクスプレス号が、太平洋岸の終点ポートムーディ迄4675kmの全線を走行します。

 カナダ太平洋鉄道会社は、航空、海運、ホテルと言った関連会社を有する巨大企業となりました。
現在、鉄道会社は、1978年VIAに旅客部門を譲渡、貨物専門の鉄道会社となり、航空部門は、合併、統合を繰り返し、エア・カナダとして就航しています。

続く・・・
2010/04/03

歴史の?その164:グレート・イースタン号

<グレート・イースタン号>

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 イザムバード・キングダム・ブルーネルは、燃料補給無しにオーストラリア迄、往復できる大きさの船を建造する構想に取組み、グレート・イースタン号、グレート・ウエスタン号の2隻を設計し、みごとな成功を収めました。
彼が見つけた後援者は「イースタン・スティーム・ナビゲーション社」で、インド・オーストラリア・極東諸国との通商を目的として、1851年に創立された企業でした。

 グレート・イースタン号は、当時の造船界の常識を覆す設計の船で、全長211m、外輪部の船幅36m、2基の蒸気エンジンが、直径17mの外輪と直径7mのスクリューを駆動させ、排水量2万2500トンに達する文字通り巨船でした。
船体は、箱形はり構造で造られ、フレームと外殻は2重構造になっており、其の上10区分からなる、防水区画に仕切られていました。

 この巨船は、ロンドンのデビット・ネイピア造船所で建造が開始されましたが、造船所付近では、テームズ川が狭くなっている為、川に向けて直角に進水させる事が出来ません。
その為、船は川と平行に建造が開始されたものの、この巨体を動かして、川に浮かべる事そのものが、大変な難問で、幾週間も陸上に置かれたままになる程でした。
建造費は、果てしなく増え続け、ブルーネルは、心労と過労で倒れてしまいます。

 1858年1月31日、進水作業に伴う事故や困難を乗り越えて、船体は漸く水面に浮かびました。
しかし、是で全ての問題が片付いた訳ではなく、1859年9月、ウェイマス迄の洋上公試では蒸気管が破裂して、煙突部分を破壊し5名の犠牲者を出してしまいます。
この事故の一報は、ブルーネルの病状悪化に拍車を掛けてしまい、彼は其れから、数日後の1859年9月15日に死去します。
 
 「イースタン・スティーム・ナビゲーション社」は、船の就航が延滞した為、資金収支が悪化、船は新しい船会社「グレート・シップ社」の手に渡ります。
この新会社は、グレート・ウエスタン号を大西洋航路に投入したものの、その定員1400名が満席に成った事は、一度も無く、更に船は2度の航海で、大きな損傷を受けていました。

 この二つの事故に伴う修理額は、65万ドルの高額となり、船体は売却され、新たに船主になったのは、「グレート・シップ社」の元株主3人で、彼らは船体を「テレグラフ・コンストラクション社」にリースし、海底電線敷設船に転用される事となります。

 こうして、「グレート・イースタン号」は本来の能力を発揮し、1865年7月、最初の敷設作業に従事するものの、1600km地点で電線切断事故が発生、回収の試みは全て失敗、翌1866年再挑戦で見事に成功を納めると同時に、前年回収出来なかった電線の回収に成功します。
この実績を認められ、この後もフランスからアメリカ、ボンベイからアデン、紅海沿岸の海底電線の敷設に活躍します。
1888年現役を引退し、船体は解体されますが、この巨船の排水量を越える船が建造されたのは、20年後の事で、その船が、1915年ドイツ軍Uボートに撃沈された、豪華客船ルシタニア号でした。

続く・・・
2010/04/02

歴史の?その163:二つの大陸を結ぶ電信線:後編

<二つの大陸を結ぶ電信線:後編>

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◎最後の勝利

 1865年7月23日、グレート・イースタン号がバレンシア湾を後にした時、フィールドも乗船しており、今回、彼が抱いている成功への期待は大きかったのです。
しかし、依然として次々と難題が持ち上がります。
電線の表皮に使用した鉄製皮膜が、強度不足で剥がれ易く、3回にわたって電気的事故を誘発し、3回目の事故では、度重なる事故で疲労していた電線が、終に切断され1600km分の電線が海底に没してしまいました。

 今回の失敗は、以前に比べると技術的な面では軽微なものでした。
新たに電線の製造方法を改良し、亜鉛メッキした鉄製皮膜で、電線を包みこむ事で、3850km分の電線を1866年1月に発注、1866年7月13日の金曜日、グレート・イースタン号は、再びアイルランドを出港しました。
13日の金曜日という、ジンクスにも関わらず、今回の作業は終始順調に進み、7月27日グレート・イースタン号は、ニューファンドランド沿岸のハーツ・コンテント(心の満足)に姿を現し、電信局の前に錨を降ろしました。

 今回の航海で、グレート・イースタン号は海底電線の敷設の成功したばかりでは無く、1865年に沈んだ電線の回収にも成功、しかも4000mの深海から回収して、新しい電線と接続するという快挙も成し遂げました。
この結果、2本の海底電線で、イギリスとアメリカは結ばれたのでした。

 終に信念の正しさを証明した、フィールドは、感謝の意を込めて、次の様な電文をニューファンドランドからニューヨーク宛てに送信しました。
「ハーツ・コンテント、7月27日、今朝9時現地到着。全て良好。電線敷設完了し完璧に作動中。神に感謝。
サイラス・W・フィールド」

本編終了・・・
2010/04/01

歴史の?その162:二つの大陸を結ぶ電信線:中編

<二つの大陸を結ぶ電信線:中編>

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 1858年には、再度違った方法が採用され、二隻は大西洋の中間地点で会合し、両方に積まれた電線を接続の上、アメリカ艦はニューファンドランドへ、イギリス艦はバレンシア湾に向かって航行する予定でしたが、この方法も3回の切断事故に見舞われてしまいます。

◎束の間の成功

 イギリスで開かれた、大西洋海底電線会社の重役会は、陰気な空気に包まれ、重役の幾人かは辞任してしまいますが、其れでも、もう一度挑戦する事で、役員会議は収拾されました。
7月29日、アガメムノン号とナイアガラ号は、大西洋の中間地点で会合し、最後の電線の送り出しを開始します。
乗組員、関係者の中で作業が成功すると、思っている人間は皆無でしたが、幾度か事故寸前迄行った事もあったにも関わらず、1858年8月5日、ニューファンドランドのナイアガラ号から、バレンシア湾のアガメムノン号へ、初めて信号が打電されます。

 是は、全く予想外の成功で、両国は大変な興奮に包まれました。
9月1日には、フィールドの栄誉を称えて、ニューヨーク市民の歓呼の下、盛大な祝賀会が挙行されます。
しかし、式典の参加者には知らされていませんでしたが、当初から完全に作動していなかった、海底電線が、正に式典の当日、機能停止を起こしてしまいました。

 この機能停止には、数々の要因が在り、度重なる断線事故で劣化していた電信線に、アメリカ側が2000Vの電圧をかけた結果、劣化部分が短絡して完全に機能停止と成ったのです。

 この事実が公にされると、一般の反響は手厳しいものでした。
電線等最初から敷設されておらず、この事業全体が、フィールドの大掛かりな陰謀だと非難する人物も登場し、イギリスでは、商務省が調査委員会を設置します。
1860年に提出された報告書には、新しい電線の製造、敷設、維持に適切な注意が払われるなら、この事業は成功するとの見解が示されます。

 幾たびも電線の設計と試験を繰り返し後、1865年に新しい電線が製作され、長さ3680km、直系2.5cm以上の太さを有し、中心部の電線は最初期の電線の3倍近く、頑丈に保護され、総重量はその2倍近いものと成りましたが、浮揚性は、遥かにすぐれたものでした。
更に5000トンにも及ぶ資材を1隻で積載出来る、当時世界最大の蒸気船、グレート・イースタン号の使用が可能と成りました。

後編へ続く・・・