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2010/05/31

歴史の?その207:正史の中の疑問⑭唐に献上された日本の舞姫・前編

<正史の中の疑問⑭唐に献上された日本の舞姫・前編>

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 「長安の酒場に行けば、青い眼をした女性が居た。白い顔を花の様にほころばせて、歌っていた。金髪をなびかせながら、踊っていた」。
今から1200年程前、我国では奈良時代のお話です。

 唐の都、長安は、当時世界最大の国際都市で、大唐帝国の威勢をしたって、又高い文化に憧れて、四方の国々から、さまざまな人種の人々が、長安に集まっていました。
日本からも、遣唐使が赴き、留学生が行き、中にはそのまま長安に住居を構え、唐の役人に成る者も現れました。
遣唐使の藤原清河、留学生の阿倍仲麻呂が良く知られています。

 阿倍仲麻呂は、詩人李白とも親交が深かったので、先に述べた酒場で、異国の女性が注ぐ、葡萄の酒を味わった事でしょう。
藤原清河、阿倍仲麻呂は、供に長安で他界します。

 さて、唐の年号で大歴13年(778年)、日本の年号では、宝亀9年、日本からの遣唐使が26年ぶりに長安に赴きました。
一行は、正月に入京し、4月末迄長安に滞在し、帰国に際しては、在唐の留学生の他、清河と唐の婦人の間に生れた娘(喜娘)を伴います。
帰路の航海は、逆風に合い、多くの者が海に消えたものの、喜娘は、何とか父の故国の土を踏む事ができました。

 処が、この時長安の宮廷には、別に11人もの日本女性が、再び祖国を見る当ても無く、辛い日々を送っていました。
この薄幸の女性達に関して、日本側の記録には、何も伝えていません。
この女性達は「日本国の舞姫」で在り、777年の正月、渤海から貢物として、唐の朝廷に献上された者達で在りました。
唐の役人も、特に珍しい事と思ったのか、特に記録に留めていますが、なぜ「日本国の舞姫」が渤海からの献上品に成ったのでしょうか?

後編へ続く・・・
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2010/05/29

歴史の?206:正史の中の疑問⑬:遣隋使は何回あったのか

<正史の中の疑問⑬:遣隋使は何回あったのか>

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 我国に於いては、推古天皇の御世、聖徳太子摂政の時、中国へ対等な国書を呈した事は、歴史を学んだ者なら皆知っています。
其の国書の文面が、「日出づる処の天子、書を没する処の天子に致す、恙なきや、云々」と云うもので在った事も、良く知られています。
当時の中国は、隋の治世で、その皇帝は、第二代の煬帝で在り、日本からの国書を見て、「無礼なり」として怒ったと伝えられています。
以上の事は全て、隋の歴史を記した「隋書」に紹介され、国書の文面も隋書の伝える通りで在り、大業3年(607年)の事でした。

 一方、遣隋使の事は「日本書記」にも記録されていますが、書記には、小野妹子を隋に遣わした事を伝えるのみで、国書の文面に関して何も伝えていません。

 やがて翌年(608年)、隋からも答礼使が来朝し、小野妹子も一緒に帰国し、答礼使が隋に帰国の際、小野妹子は再び隋に遣いします。
この時も国書を持参しますが、その文面は、書記にのみ以下の様に記録されています。
「東の天皇、つつしみて西の皇帝に白す。使人鴻臚寺の掌客、裴世清ら至りて、久しき憶、方に解けたり。季秋(9月)薄冷なり。尊はいかに。想ふに清悆ならん。これ、すなわち常のごとし。いま大礼蘇因高(小野妹子)、大礼乎那利(吉士雄成)らを遣はし、往かしむ。謹白不具」。

 之は、第二回国書として、有名で在り、天皇の称号を初めて用いた例としても、良く知られています。
歴史教科書にも先の「日出づる処・・・」の国書と供にこの書記の「東の天皇・・・」の国書を並べて掲げています。

 しかし、なぜ書記は、第一回の国書を掲げず、第二回の、文辞穏やかな国書のみを掲げたのでしょう?
この場合、日本書記の編纂が、時代を下った奈良時代に成されて事も、考慮しなければなりません。
編纂の際に文辞を改めた事も有り得る事で、書記に「東の天皇・・・」の称号が記されて在ったからと云って、聖徳太子の時代に「天皇」の称号が用いられた証拠には成りません。
 
 更に二つの国書を比べて読めば、その内容は、全く同じである事が判ります。
「日出づる処」は「東」で在り、「日没する処」は「西」の意味で、「つつがなきや」の個所を時節の挨拶にして、「謹白不具」で結び、他に加わっているのは、使人達の名前に過ぎません。

 文章として見た場合、書記の国書は、隋書の国書に比べて劣っていると思われ、国書の体裁も不自然で、書記の国書は、隋書の国書を書き改めた物に過ぎないと推定されます。
日本書記の編纂時、既に隋書は存在しており、参考にされたと考えられます。
更に問題の国書を、なぜ第二回の使節(608年)の時に掲げたのか、如何なる理由で、穏やかな文面に書き改めたのかも判っていません。

 他にも、遣隋使には、疑問点が多く、書記によれば、遣隋使の派遣は三回、607年、608年、614年で在り、前の二回が小野妹子、最後の一回が、犬上御田鍬(のちの第一回遣唐使)でした。
一方、隋書によれば、日本からの遣隋使は、三回入朝していますが、その年代は、600年、607年、610年で「この後、終に絶つ」と記されています。
書記と隋書で一致するのは、607年の回のみで、600年の遣隋使について、隋書には、皇帝(初代文帝)と使者の問答迄、詳しく伝えているにも関わらず、書記には、如何なる記述も存在せず、607年のものが、第一回の遣隋使とされているのは何故でしょうか?

 国書を持参した遣隋使が、第二回である点は、隋書も書記も一致しています。
但し、書記で608年に送った使者が、隋書では、第三回の使節として、610年の正月に入朝している事、更に書記では、もう一回、614年に使節が隋に赴いているが、隋書では「終に絶つ」として、日本からの使節入朝を伝えていません。

 単純な数の符合で考えられていた遣隋使の問題も、国書の問題も双方の記録文書を符合させると、不思議な一面が現れてくるのです。
聖徳太子の時代に行われた遣隋使は、実際何回在ったのでしょう?

続く・・・
2010/05/28

歴史の?その205:正史の中の疑問⑫:建文帝の行方・後編

<正史の中の疑問⑫:建文帝の行方・後編>

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 年は改まり建文元年(1399年)7月、終に燕王は挙兵します(靖難の変)。
挙兵の名目は、君側(皇帝の側)の悪を清めると云うものでありましたが、座して力を失うよりは、立って天下を定めよう、其れが燕王の意志であり、道えんの計で有ったに違い有りません。
建文帝は、互いに大軍を率いて善戦し、戦局は一進一退、3年余りの月日が流れ、最後の勝利は燕王に訪れました。

 1402年6月、燕王の軍は都の城門を埋め、建文帝は、援軍を願ったが終に空しく、城門を開き、文武百官は降伏します。
御殿には火の手が上がり、その中で皇后は自害、建文帝の所在も分からず、後に焼け跡から皇帝の遺骨が探し出されたものの、誰一人、皇帝の遺骸と確認できる者は居ませんでした。

 かくて、燕王は帝位に就き、世祖永楽帝と成り、その治世は22年間に及び、父の洪武帝に劣らぬ英主でした。
北方のモンゴルに遠征する事5回、内3回は、モンゴルの軍勢を打ち破り、又鄭和に命じて、大艦隊を率いて、南海遠征を行う事6回、その足跡は、遠くインド洋を越えアラビアに達し、1度はアフリカ沿岸に及びました。
南海の富は、中国に集まりますが、鄭和の遠征を建文帝の行方を探ろうとするものとの風説も、早くから湧いていました。

 永楽帝の時代、終に建文帝の消息は聞かれず、その後、皇帝の代の変わる事三度、正統帝の御世、正統5年(1440年)に及んでは、建文帝の末も38年の遠きに隔て、その時、老僧の姿と成って、宮中に建文帝は現れます。
勿論、正史には記録は無く、風聞を外史が伝えているのみなのですが・・・。

 外史によれば、「落城に及んで、建文帝は僧の姿となって、ひそかに城を抜け出し、名を改めて応文と称し、南の方を指して落ちていった。
各地を巡り、朝廷の追っ手を逃れつつ、山青く、雲白きところに、静に余生を送っていたのであった
宮中に赴くや、往年の臣下を認め、直ちにその名前を呼んだと云う。
老僧の左足には、建文帝と同じほくろが在った。
それより、廃帝は老仏と呼ばれ、宮中に向かえられ長寿を保った」と伝えられています。

 以上の段落は、外史の一節ですが、不幸の死を遂げた皇帝や英雄に関して、その遺骸が確認されぬ場合、必ずと言って良い程、その生存説が現れます。
やはり、生きていて欲しいという、人々の願いから発したものに違い無く、では建文帝の場合も同様に虚構に過ぎないのでしょうか?
全ては、遠い歴史の中の出来事となってしまいましたが、「ああ、数たると、数たらざると、・・・ただ天、これを知ることあらん」、数奇の事件を述べ終わり、露伴は、こう結びました。

本編終了・・・
2010/05/27

歴史の?その204:正史の中の疑問⑪:建文帝の行方・前編

<正史の中の疑問⑪:建文帝の行方・前編>

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 「世おのづから数といふもの有りや。有りといへば有るがごとく、無しとなせば無きにも似たり」。
幸田露伴の名作「運命」(大正8年)の冒頭の文書で、ここで露伴がえがこうとした題材は、中国明帝国の歴史の一こまでした。

 かくて露伴は・・・
「運移り、命あらたまるの時、多くは神異ありて、天意の属するところあるを示すものあり」。
明帝国を建国したのは朱元璋、即ち太祖洪武帝であり、平民から将軍となり、モンゴル人の元を打倒して、漢民族の中国を回復し、時に1368年、現在の南京に於いて皇帝の位に就きます。
その治世は31年の長きにおよび、1398年病を得て崩御、71歳でした。
長男は、早くに亡くなっていたので、その子供、皇太孫が帝位を引継ぎ、第二代皇帝建文帝と成りました。

 しかしながら、洪武帝には、多くの皇子が居り、皇子達は明の帝国を守るべき者として、それぞれ領地を与えられ、重要な地域に王として、存在していました。
中でも特に大きな勢力を有していたのは、現在の北京、当時の燕京で王と成った四男、燕王で在りました。
洪武帝崩御の時、燕王39歳、是に対して建文帝22歳。

 若い皇帝にとって20人以上に及ぶ、叔父達の王は、目の上の瘤以外何者でも無く、特に武勇の誉れ高い燕王は、一番の邪魔者で有りました。
建文帝は、燕王をはじめ、王達の勢力を削る為、姦計をめぐらせます。

 さて、これら20人以上に及ぶ王達の側には、王を補佐すべき者が洪武帝の命によって付けられており、言い換えれば、お目付け役であり、燕王の処にも侍僧が居ました。
この人物が、怪僧で名を道えんと云い、彼は自ら進んで燕王の付き人と成りました。
其の時「大王(燕王)が私を側に置いてくださいますならば、大王の為に白い帽子を差し上げましょう」、と云いました。
王の文字の上に白という文字を載せれば、皇という文字になります。

後編へ続く・・・
2010/05/26

歴史の?その203:正史の中の疑問⑩:未解読の文字

<正史の中の疑問⑩:未解読の文字>

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 10世紀初頭、日本では平安時代前期、延喜7年(907年)、唐は終に滅亡します。
是より、中国華北の地に五つの王朝が、盛衰を繰り返し、そのの地域でも、小国が交替する五代十国の時代と成りました。
同じ頃、モンゴル高原の東部には、モンゴル系契丹人の国が生れ、やがて契丹は、五代の混乱に乗じて、華北の地に侵入し、現在の北京、大同一帯の地域を領土に加え、更に国号を遼とします。

 一方、中国では、宋が五代十国の混乱を治め(960年)、統一国家が復活しますが、遼の国力は、宋の其れを凌駕し、じりじりと宋を圧迫します。
11世紀に成り、中国の辺境の西辺、黄河上流地方を中心に、チベット系国家が建国します。
この国家こそが、西夏であり西域との交通の要衝を治め、強勢でした。

 超えて12世紀、満州の地(東北部)にツングース系女真族(後年の清朝を建国)が、其れ迄、契丹人支配から分離独立を果たし、金を建国します。
金は、宋と同盟関係を構築して、遼を滅ぼし(1125年)、更には盟友である宋を攻め、皇帝一族を捕虜(1127年)とし、此処に宋は、一旦滅亡します。
但し、皇族の一部は、南方に逃れ、開封を都に揚子江流域以南を保ち、宋の王朝を復活するものの、華北の地は、悉く異民族である、金の領土と成りました。

 この様に、契丹、西夏、女真の各民族も中国の王朝を圧迫し、その一部を領土として猛威を振るったものの、武力は強大であっても、その文化は、到底中国に比較できるものでは有りませんでした。
彼等は、中国文化を吸収する一方で、漢字に倣って、独自の文字を創ります。
其れが、契丹文字で在り、西夏文字で在り、女真文字で在りました。

 しかし、どの文字を見ても、其の複雑さは漢字の比ではなく、漢字に似ているものの、読み方、文法も全く異なり、契丹文字は、モンゴル系言語を写したものであり、西夏文字は、チベット系のもので在りました。
彼等の国家では、この文字が正式な文字とされ、公文書の作成は、この複雑な文字が用いられたのです。

 其の読み方に関して、現在迄、数多の研究が進められ、その結果、是等の複雑な文字の構成法は解読され、特に西夏文字は、日本の西田竜雄氏によって、解読されました。
しかし、契丹文字や女真文字は、未だ未解読のまま残されています。

 文字を創るという行為は、民族としての自覚が高くなった結果に相違ないものの、是程に難解な文字を創り、又読みこなせたのでしょうか?
余りに使い難い文字で在った為、国の崩壊と供に忘れられ、誰も読む事が不可能に成るのです。
文字は、使い易くしなければ、普及しません。
日本の「かな」文字の発明が、どれ程、日本文化発展に貢献したでしょうか。

 13世紀のモンゴル人は、ウイグル文字(トルコ系)を真似て、モンゴル文字を創り、後に清朝を建国した、女真族は、更にモンゴル文字を真似て、満州文字を創りました。
この満州文字は、「かな」と同様に表音文字で在り、15世紀に成立した朝鮮文字(ハングル)と供に、後世迄残りました。
中国と接する南の国々、特にベトナムも、日本、朝鮮と同様に中国文化の影響を強く受け、ベトナムも漢字表記では「越南」で在り、「胡志明」と書いてホー・チミンと読み、「奠辺府」と書いてディエンビエンフーと読みました。

 やがて、14世紀には、漢字を利用して、ベトナム語を表記する独特の文字(チュノム)を創りましたが、漢字をそのまま使用したものも在れば、字画を簡素にしたもの、或は合成したものも在りますが、実際に使用するには、不便だったと思われ、事実、フランスがベトナムに進出する様に成ると、ローマ字でベトナム語を表記する事が、一般に普及したのでした。

 中国を廻る諸民族の文字は、何れも簡略化の道を辿りますが、契丹と西夏、更に女真は、殊更に複雑な字形を創り、普及されぬまま、文字も国家も滅亡したのでしょう。
是等の文字も何れ解読される時が、来るのでしょうが、西夏文字を除き、解読不可能な文字として、現在も残っています。

続く・・・
2010/05/25

歴史の?その202:正史の中の疑問⑨:彷徨える湖

<正史の中の疑問⑨:彷徨える湖>

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 今から2000年以上昔の事、漢地代の歴史書、「漢書」には、中央アジアのタクラマカン砂漠に「蒲昌海・(プーチャンハイ・ロプノール・ロプ湖)という大きな湖が在った事が記録されています。

 この湖の事は、同地代のヨーロッパ人にも知られており、地中海東岸の町、テュロスに住んでいたギリシア人マリノスの記録にも現れており、マリノスから300年程後の時代、地理学者プトレマイオスの作製した、アジアの地図にもその位置が記されています。

 当時、是ほど迄に遠く離れた国の人物が、中央アジアの砂漠の中に在る湖の存在を知り得たのは、このタクラマカン砂漠を往来した隊商の通る道が、東西交流の重要な道で有ったからなのです。
この隊商路は、「シルクロード」と呼ばれ、当時ヨーロッパ人は、中国を「セリカ(絹の国)」と呼び、ヨーロッパで生産出来なかった絹を大変珍重し、同じ重さの金と交換したと伝えられています。

 処が後年、このロプ湖の存在が、全く伝わらなくなり、この地域を1273年に通過した、マルコ・ポーロも砂漠に関する記録は、多いもののロプ湖については、全く記録が存在していませんでした。
長い年月、ロプ湖は、人々の記憶から消え去りましたが、1876年にこの地方を調査した、ロシア人プルジョワルスキーが、ロプ湖の存在を確認しました。
しかし、その位置は、緯度にして一度程も南に在った為、地理学者の間では、彼の発見した湖は、ロプ湖では無く、全く別の湖であるとする説と中国の地図が間違っているとの説に分かれ、大論争が起こりました。

 ドイツの地理学者リヒトフォーヘンは、ロプ湖に流れ込むタリム川の流れが変化し、その為湖の位置が変化したとの説を発表したものの、当時、この事実を示す証拠が存在せず、彼の説は再考されませんでした。
その様な中、彼の弟子である、スウェン・ヘディンは、中央アジア探検を計画実行します。
ヘディンは幼少の頃、探検家ノルデンショルドが、北方航路を通過する事に初めて成功し、華々しく帰国したのを見て、自分も探検家に成ろうと決心した人物でした。

 ヘディンの第一回中央アジア探検は、1893年から1897年迄の4年を要したタクラマカン砂漠の横断でした。
之は、実に苦しい探検で、彼は九死に一生を得たのですが、途中で水が欠乏し、彼の従者4人の内3人は、喉の渇きが極限に達し、ラクダの小便に砂糖と酢を混ぜて飲み、2人は死亡し、1人は、危うく死を免れる程でした。
後にヘディンは、幾度も中央アジア探検を繰り返し、1906年の第三回探検の帰途には、日本にも立ち寄っています。
又、1933年には時の中国政府の要請を受け、自動車を使用して、中央アジアを調査しました。

 この探検活動を通じて、ヘディンは、彼の師であるリヒトフォーヘンのロプ湖の移動に関する学説を信じる様になりました。
ロプ湖は、水深が1mに満たない湖ですが、流れ込むタリム川が泥砂を運び込んでくる為、その泥砂が河口に体積し、川が湖に流れ込めなくなると、川は別の流路を見つけて他の低位置に流れ込み、新しい湖を形成するのだと考えられました。
ロプ湖が位置する砂漠には、その北側と南側に低地が存在し、上記の理由から、湖が移動すると結論したのでした。

 ヘディンが発見した「楼蘭」は、嘗て栄華を極めた都ですが、タリム川の流路が変わり、ロプ湖が南に移動した為、都市が滅んだと考えられます。
ヘディンは、ロプ湖の位置変化を1500年周期と推定し、1928年2月20日、トルファンにおいて、彼はタリム川の流れが7年前から変化し、以前の位置にロプ湖が移りはじめている事を聞き、彼が30年前に提唱した説が立証されたのでした。
ヘディンは、この1928年2月20日を探検家、学者として自分の生涯、最良の日であると記しています。

続く・・・
2010/05/24

歴史の?その201:正史の中の疑問⑧:敦煌文書

<正史の中の疑問⑧:敦煌文書>

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 中国大陸、河西通廊を西へ西へと進んだに果てに、敦煌の町は在りました。
中国の絹は、ここから「絹の道:シルクロード」を通って西へ、遠くは遥かギリシャ、ローマ迄運ばれ、西からの品物や文書は、敦煌を経由して中国、朝鮮、日本に送られて行きました。
仏教もいち早く敦煌へ伝授し、インドや西域で営まれた石窟寺院が、敦煌の周辺に造られたのでした。

 敦煌周辺の石窟寺院の内、最大のものは、莫高窟で、千仏洞とも呼ばれていました。
4世紀の半ばから造営され、隋・唐・宋の時代を経て、14世紀、元の地代に至る迄石窟は、造営され続け、約1.6kmの断崖に大小600余りの洞窟が掘られています。
しかし、遠い辺境の石窟は、何時しか中国の人々から忘れ去られ、遺跡も荒廃が進んでいたのです。

 19世紀も最後の年、1900年、この千仏洞に暮らしていた、王道士(道教の僧)によって、石窟の一つに大量の文書が秘蔵されている事が判明しました。
其処には、経典、庶民の生活記録、日常の取引記録、或は、牧童の恋歌迄、石窟の奥にある小部屋にぎっしりと詰め込まれ、入り口は、泥で密封されていました。
王道士は、この発見を役所に報告したものの、役人達は、古文書に関して一切興味を示さなかったと云います。

 この発見に着目したのは、寧ろ諸外国で、1905年、ロシアの探検隊が訪れ、若干の古文書を持ち去り、1907年には、イギリスの探検家スタインが、窟を訪れます。
スタインは、王道士を上手く操り、1万点に及ぶ文書類をロンドンに運びました。
1908年、フランスの東洋学者ペリオが訪れ、アジアの言語に通じた彼は。石窟内の文書から特に貴重な物を5000余点選び出し、パリへの帰国途中、北京でその一部を公開したのですが、それは、中国の学者達を震撼させるに十分な資料だったのです。

 彼等は、時の中国政府に働き掛け、取り残された文書類、約1万点を北京に運びました。
其の後、1912年に、日本の大谷探検隊が、1000点に近い古文書類を日本に運び、1914年には、再びロシアの探検隊が、訪れています。

 こうして現在迄に知られた、敦煌文書は、総数4万点に近く、その大部分が5世紀から、11世紀に及ぶ未知の資料でした。
仏典、中国古典、キリスト教(景教)等の経典、漢文以外にチベット語、ウイグル語、更には死語となった中央アジア諸国の言語、文字で記された文書も多数発見されました。
更には、経典の裏には、戸籍が書かれ、又契約書、帳簿、習い文字に用いた紙片迄在りました。

 この様な日常の文書は、貴重ですが、この様な大量な文書類を、誰が、何時、如何なる理由で、千仏洞の一角に密封したのでしょう?
20世紀最大の発見の一つと云われる、敦煌文書が、如何なる理由で収蔵され、今日迄伝えられたかのかは、永遠に解からないと思います。

 敦煌文書は、5世紀から11世紀初頭のものであり、之等は11世紀に収蔵されたのでしょうか?
この時代、中国は宋の地代で、黄河の上流では、チベット系の西夏が建国していました。
やがて、西夏は、李元高の時代、吐伴、ウイグル等の周辺諸国を併合し、宋の領土に迫ります。
特にウイグルは、ヤグラ汗の御世、かつて強大な国家を築いたウイグルも、終に西夏の前に敗走し滅亡します。
当時、宋は既に江南、開封の逃れ南宋の時代となり、その国力を衰える一方でしたから、辺境の地、敦煌の人々が西夏の進行をどれ程恐れたかは、十分想像できます。

 石窟寺院の大規模な造営からも推察される様に、敦煌では仏教が盛んな町でしたから、何よりも大切な仏典を戦火から守る為、限られた時間の中でそれらを隠したのでしょう。
その時、経典だけでなく、手当たり次第にあらゆる文書類を運びこんだのか、不要な書類を収納していた窟に、重要な経典を詰め込んだのかは、現在では想像するしか方法が有りません。
種類を問わず、雑然と積み込まれ、しかも封印されていた石窟の意味を、現在の歴史家はこの様に推察しています。

続く・・・
2010/05/22

歴史の?その200:正史の中の疑問⑦:チンギス・ハーンの墓は何処に

<正史の中の疑問⑦:チンギス・ハーンの墓は何処に>

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 広大な草原を、一群の人々が、1頭の雌ラクダを引いて現れました。
或る処迄来た時、人々は立止り、雌ラクダを放すと、ラクダは草原の中を歩き周り、やがて一箇所に立止ると、天に向かって、悲しげに嘶きました。
人々は、其処が1年前に造った墓で有る事を知ったのです。

 1年前、この場所に死者は埋葬されたのでした。
埋葬した後、土を被せ、その上を数百頭の馬を走らせて、しっかりと踏み固め、親子のラクダを連れて来ると死者を埋めた真上で、仔ラクダを殺しました。
その時、親ラクダは、子供の死体の匂いを嗅ぎながら、悲しく嘶いたのでした。

 1年が経ち、墓所には、草が一面に茂り、どの位置が墓所で在るのか見当がつきません。
其処で、昨年の親ラクダを連れて来たのですが、親ラクダは、自分の子供の死んだ場所を、永く覚えているからです・・・モンゴル人の埋葬習慣に関する書物には、この様に記されています。

 モンゴル人をはじめ、北アジアの人々は、死者を埋葬しても墓所の目印を、設けませんでした。
従って、王の墓所で在っても、長い年月が経つ内に忘れ去られ、モンゴル帝国の皇帝達の墓所も、現在では確認出来ず、チンギス・ハーンについても同様なのです。

 1227年の夏、チンギス・ハーンは、タングート攻略の為、中国西部、現在の甘粛省深くに遠征した折、病に倒れ、
死去は、8月18日の事と伝えられますが、この英雄の死は、厳重に伏せられ、其れは又、チンギス・ハーンの遺言で在ったとも云われています。
遺骸は、モンゴルの兵士に厳重に守られ、粛々と草原の道を北に向かい、その途中で葬列に出会った者は、例外無く命を絶たれました。
かくして、ケルレン河の源に近い本営に達した時、初めて喪は発せられ、遠征中に皇子や将軍達の下にも、使者が急ぎました。
最も遠くに遠征していた者は、3ヵ月の後にようやく、本陣に到着したのでした。

 葬儀の終了後、遺骸は聖なるブルカン山の山中に深く埋葬され、其処は、オノン・ケルレン・トラの3河が源を発する土地でした。
嘗て、チンギス・ハーンは、この地で狩猟を試みた時、一本の大樹の陰に休んだ折、左右の者に、自分が身罷ったら此処に葬って貰いたいと語ったと伝えられています。

 チンギス・ハーンがこのブルカン山中に埋葬された事は、恐らく事実と推定されますが、場所の特定が全く出来ないのです。
伝えられる話では、やがて墓所には、樹木が繁茂して密林と成り、果たしてどの場所に英雄が眠っているのか、知る者が無くなってしまいました。
又、チンギス・ハーンの墓所は、如何なる者も近づく事は禁じられ、彼の死から1世紀後の世でも、モンゴルの人々に神聖視されていました。

 処で、チンギス・ハーンは何歳で、この世を去ったのでしょうか?
是も又、多くの説が在り、72歳、66歳、60歳と分かれているのは、その生年が、1162年とする説と、1167年とする説が現在でも対峙している為で、是等を特定させる資料も存在しませんが、12世紀中葉に生きた人物で在り、日本では、平清盛の時代に相当します。
出生の年では、正確な事例は、存在せずとも出生に関しては、明確です。
尚、源義経が北海道から、シベリアを経てモンゴルの地に至り、チンギス・ハーンに成ったと云うお話は、良く耳にされると思いますが、是は後世の創作で、事実無根の俗説です。

 チンギス・ハーンの父親は、イェスゲイで在り、モンゴル国の由緒正しい貴族且つ豪傑で、その家系もモンゴル人の間で伝承され、十代前迄正しく辿る事ができます。
母親は、ホエルンと呼ぶ才女で、最初メルキト国の男性に嫁していたところを奪い取られて(略奪婚)、イェスゲイの妻に成ったのです。
ホエルンから、チンギス・ハーンの他、4人の弟妹が生れました。
尚、井上靖の「蒼き狼」では、ホエルンがメルキトに居た事から、チンギス・ハーンの本当の父親もメルキト人では無いかとの話も在りますが、是は、作品におけるフィクションで、事実とは異なります。

続く・・・
2010/05/21

歴史の?その199:正史の中の疑問⑥:曹操は悪人だったのか・後編

<正史の中の疑問⑥:曹操は悪人だったのか・後編>

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 しかし、其れは歴史の真実な姿でしょうか?
劉備が正しいのは、漢の皇帝一族の出身であるとの理由ですが、実際には、劉備の生い立ちも怪しいものがあります。
彼の祖父は、地方長官の役を得ていましたが、父親は早くに亡くなり、家は貧しく、その家系も偶然、劉氏で在った事から、漢の皇帝一族としたらしいのです。

 一方、曹操は、名実供に名家で、その父曹崇は、大変な資産家であり、漢の朝廷に仕えて大尉(大臣)の位を頂き、更に祖父は宦官の巨頭で、宦官として宮中に権力をふるったのでした。
宦官ですから実子ではなく、曹崇は養子で在り、曹操は名家の出身でも宦官の子孫という屈辱を背負っていました。

 ところで、生い立ちは別として、曹操は果たして極悪非道の人物で在ったのでしょうか?
確かに漢の天下を簒奪したのですから、主従の関係からも良くない事には違いないとしても、前王朝を倒して実力で皇帝の地位を得た者は、曹操だけの話では無く、劉備も同様と思います。
では、曹操は強いばかりの豪傑で在ったのかと云えば、彼は、書を好み、兵法に関して当代に並ぶ者の無い学者在り、更に文学の世界に至っては、天成の詩人で在りました。
その詩篇の数々は、今日に至る迄愛誦されています。

 「月明らかに星稀に、烏鵲南に飛ぶとは、これ曹孟得(曹操)の詩にあらずや。・・・酒をそそいで江にのぞみ、槊
を横たえて詩を賦す。もとより一世の雄なり」

 宋代の詩人、蘇東坡も「赤壁の賦」のなかで、この様に詠い、曹操の長子である曹丕(文帝)も次子たる植も、ともに詩文の天才で在り、父子ともに詩文の歴史に与えた影響は、極めて大きいものがありました。

 では、曹操に関する悪評は、「三国志演義」の創作にすぎないのか?之も又否なのです。
物語として、形が整えられる以前に、講釈が在り、町の辻で講釈師が語り聞かせ、その重要な題材が、三国志の物語で在り、確かに宋代には、曹操は悪人の藻本とさえ、されていました。

 更に魏晋の時代、つまり曹操と同じ時代から、その評判は、良からぬもので、曹操の人格に関する悪評が多く、地代を経る毎に悪評を重なって行きました。
しかし、同世代の人物、陳寿が著した「三国志」は、流石に歴史書なので、決して曹操を非難せず、その構成からも三国の内で正当とされたのは、曹氏の魏で在りました。
「三国志」において、曹操や曹丕は、皇帝として扱われ、劉備や孫権は違うのです。
皇帝たる者と然らざる者とでは、文書の書き方も違い、しかも陳寿は、蜀の遺臣なのでした。
 
 其れが地代の経過と供に、蜀漢が正当とされ、劉備や諸葛孔明のみが同情される事と成ったのが、「三国志演義」で在って、そもそも曹操を悪人とし、更に極悪人に仕立てたのは、誰の仕業なのでしょうか?
其れとも、地代の風潮だったのかも知れません。

本編終了・・・
2010/05/20

歴史の?その198:正史の中の疑問⑤:曹操は悪人だったのか・前編

<正史の中の疑問⑤:曹操は悪人だったのか・前編>

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 3世紀の中国、後漢の帝国は名目を保っているに過ぎませんでした。
皇帝は、在位していても如何なる権力も無く、只、形の上で皇帝の座を保って居るだけでした。

 群雄割拠し、天下を争い、その中で最後迄残った3人の英雄が、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備でした。
この3人の中で、曹操は大悪人、乱世の姦雄と昔から決まっており、あらゆる策略を巡らして、敵対者を倒し、終に魏王となって、暴虐の限りをつくす、形だけは、漢の皇帝をいただいていたものの、実権の全ては曹操が握っていました。
既に漢の天下は、魏王に奪われたも同然でした。

 220年、曹操が崩御すると、即位した子の曹丕は、漢の帝位を廃して、自ら魏の皇帝を名乗ります。
即ち、文帝であり、ここに漢の国は、名実供に滅亡したのでした。
之に対抗したのが、孫権であり劉備で、特に劉備は一世の英傑、その姓が劉氏である事からも、漢の皇室と同族であり、曹氏に奪われた漢の天下を回復する為、あくまで戦おうと、221年、自らも即位して、漢の皇帝たる事を宣言し、蜀漢の照烈帝となりました。

 劉備の処には、豪傑あり、謀将あり。
特に高明なのは、張飛と関羽、そして諸葛孔明、その生涯を劉氏の為、漢帝国の復興の為に捧げました。
しかし、蜀の地は中国の西方に位置し、人口も100万に達する事は無く、その国力は、魏に比べるも無かったでした。
やがて、人口440万を擁する魏は、じりじりと蜀を圧迫し、263年蜀も二代にして滅亡してしまいます。

 呉は、江南を保って、人口130万、魏に対抗して、孫権も皇帝を称しましたが、やはり北方の強国、魏の大勢力には対抗できず、四代を保ったものの魏の後を受けた晋によって280年に滅亡します・

 魏呉蜀三国の興亡は、「三国志演義」が著されて以来、広く中国の民衆に好まれ、日本でも大変良く読まれたのです。
劉備は正しく、曹操は悪人と云う事が、この物語を貫く一本の太い筋で、日本に置き換えれば、後醍醐天皇と足利尊氏と言えるでしょう。
人々は、正しい劉備や諸葛孔明の悲運に涙し、あくまでも悪くて、強い曹操を歯がみして苦やしがりました。

後編へ続く・・・
2010/05/19

歴史の?その197:正史の中の疑問④:匈奴とフン族

<正史の中の疑問④:匈奴とフン族>

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 紀元前3世紀末、中国北東部、現在のモンゴル高原には、強大な遊牧民の国家が、出現しました。
この国家を建設した民族を漢民族は、「匈奴」呼び、秦の始皇帝が、“万里の長城”を構築したのも、この匈奴に対抗する為であり、漢の高祖(劉邦)に至っては、匈奴討伐が失敗した上、自分自身の身も危険に曝す結果となりました。

 紀元前2世紀には、匈奴の版図は更に拡大の一途をたどり、東は熱河、西は中央アジア、北はバイカル湖南部、南は長城に接する迄に及んだのでした。
しかし、匈奴が如何なる人種、如何なる民族に属するのか、現在でも確立されておらず、学会においても、古くからトルコ系とする説とモンゴル系とする説が対峙しています。
更に匈奴の支配階級が、アーリア系の白色人種であったとする説も後年、発表されました。

 匈奴には、文字が存在しない為、その言語体系を考察する手段が無く、漢民族の記録を頼りに研究が進められた結果、上述の様な見解が現れているのです。
しかも匈奴は、漢の勢力が強大となるに従い、次第に中国内部、中央アジア方面に圧迫され、更に追い討ちを掛けたのが、紀元前2世紀末から武帝による、数度に及ぶ討伐遠征であり、さしもの匈奴もこれを境に、衰退の道を歩む結果と成りました。

 紀元後1世紀の半ば、匈奴は南北に分裂し、南匈奴は漢に内属し中国北辺に移住し、やがて漢民族に同化され、北匈奴は、モンゴル高原にその勢力を保ったものの、1世紀末に行われた漢の討伐により、終に瓦解してしまいます。

 匈奴の国家は、此処に滅亡し、北匈奴の主力はシベリア南部を西へと敗走し、漢民族の世界から消えて行き、匈奴に関する記録も殆んど現れなくなります。
しかしながら、一時は、巨大な国家を建設した民族が、一朝にして滅び去る事は考えられず、事実、時代を下がる300年程後、モンゴル高原北部で、匈奴の子孫が発見された記録が存在する事からも一部の人々は、故地に残り、遊牧の生活を続けていたのでした。

 ちょうどその頃、ヨーロッパに未曾有の天変地異が発生していました。
ゲルマン民族の大移動であり、その誘因となったのは、「フン族」のヨーロッパ侵入でした。
4世紀後半から約200年間、ゲルマン諸民族は、次々に移動を重ね、その騒乱の中で西ローマ帝国は、476年に滅亡し、アッチラ王に率いられたフン族は、ヨーロッパを蹂躙したのです。

 フン族が、匈奴の後身ではないかとは、古くから学会において、提唱されて来た説であり、「匈奴」という文字の発音は、“フンヌ”若しくは“フンナ”であると推定され、漢帝国に圧迫された匈奴は、西への移動を重ねて、4世紀には、「フン族」として、終にヨーロッパに達したと思われます。
その移動した所々には、かつて匈奴が用いた物と同様の器物が発見され、かくして、「匈奴」と「フン族」は同一の民族で有ったとする説が、同族論の趣旨なのです。

 では、匈奴=フン族は、200年以上の間に、ユーラシア大陸を横断する大移動を行ったのでしょうか?
又、匈奴は、トルコ系若しくは、モンゴル系の民族(アルタイ系)と推察されていますが、ならばフン族もアルタイ系の民族で在ったという事になります。
しかし、フン族をウラル系と主張する学者も居り、現在のフィン人(フィンランド)やマジャール人(ハンガリー)と同系の民族であるとする説で、更には、スラブ系とする説も存在しています。
匈奴、フン族は供にその民族系統もさるものながら、名称についても定説は存在せず、この二つの民族が同族である事を証明する事も容易な事では無いのです。
多分、200年を超える移動の間に、その移動地域の民族と交わり、匈奴本来の人種は、トルコ系民族に埋没してしまい、ヨーロッパに侵入したフン族は、全く別の人種だったのではないでしょうか?

続く・・・
2010/05/18

歴史の?その196:正史の中の疑問③:王昭君の歩いた道

<正史の中の疑問③:王昭君の歩いた道>

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 中国の歴史上、悲劇の美女と言えば、如何なる人物を連想しますか?
私は、第一に王昭君の名前を思い起こします。

 今を遡る、2000年の昔、漢の都長安から、匈奴王の妻と成り、遥か北の方へ去って行く、其処は、寒風吹きすさぶ草原の中、宮殿も玉楼も無く、幕舎を住居として、毛皮を衣とする、口にする物は、羊の肉であり、飲むのは、馬、羊の乳。
絶世の麗容も風雪に拉がれ、故国を思い泣き暮らしつつ、枯骨むなしく、荒野に朽ち果てる。
しかも王昭君が、匈奴に送られた訳は、宮中に画工に金品を贈らず、醜く描かれた為と伝えられています。

 王昭君の哀話は、中国に於いて長く、かつ広く語り継がれ、既に六朝時代(紀元4世紀)には、物語として形創られ、歌曲として謡われ、唐代には、李白、杜甫もその詩の中に詠じたのです。
海を隔てた、日本にも伝わり、王昭君の曲は、雅楽にも収められ、又王昭君の物語絵巻が、王朝貴族に好まれた事は、源氏物語にも現れています。
そして、詩の題材としても好んで、取り上げられました。
「身は化して早く胡の朽骨たり、家は留まってむなしく漢の荒門となる」。
「昭君もし黄金の賂を贈らましかば、定めてこれ身を終うるまで帝王に奉まつらまし」。
之は、和漢朗詠集に収める「王昭君」の詩の一節です。

 時代は進み、元の時代には、戯曲にも脚色され、なかでも傑作は「漢宮秋」で、此処における、王昭君は、匈奴に送られる途中、国境の大河に身を投じます。
其れは、異国の男に身をまかせまいとする、漢族女性の誇りを示すものに違い無く、現実、元の時代、漢民族は、モンゴル族に支配されていたのですから。

 しかし、こうした物語に描かれた王昭君は、必ずしも彼女の真の姿を伝えたものでは有りません。
歴史書に記された彼女は、むしろ別の意味で非情でした。
異民族を懐柔する為、その王に後宮の美女を贈る事は、漢帝国では、政策の一部に過ぎず、皇族の女性でさえ、しばしば、涙を流したものでした。

 王昭君に関して、史書が伝える処は、以下の様で、西暦紀元前33年、匈奴の王、呼韓邪単于の願いに従い、漢の元帝は、五人の宮女を選び、これを賜ったのですが、その中の一人が、王昭君でした。
彼女は、17歳の時、宮中に仕えたのですが、数年を過ぎても皇帝の寵愛を得られず、其れを悲しみ、恨み、自ら求めて匈奴の王に嫁ぐ事と成り、然らば、彼女は、期する処が有って匈奴王の所は行ったのではないでしょうか?
伝えられている物語とは、かなり異なる状況と思います。

 さて、辞去の場に戻り、匈奴の王も長安に来朝しており、元帝は宴を設け、五人の宮女も席を同じくしました。
此処で初めて謁見する王昭君の豊容や、如何に。
その光は、宮廷を明るく照らし、左右も心動かされ、元帝も大いに驚き、彼女を留めんと欲したが、匈奴との約束を違える事は出来ませんでした。

 かくて王昭君は、匈奴に赴き、王の妃となり、一子を産みますが、2年後呼韓邪単于は、世を去ります。
匈奴の風習では、父や兄の死後、後を継ぐ子や弟は、その妻も妃とします。
呼韓邪単于の長子が王となり、王昭君をも妃としますが、ここで、彼女は漢の朝廷に上書し、帰らん事を願いますが、もとより許されず、匈奴の地に留まり、更に2女を産みますが、9年を経て、二度目の夫も世を去りました。

 その後の王昭君が、如何なる人生を送ったのか判りません。
呼韓邪単于の子供達は、次々と王位を受け継ぎましたが、彼女の子供だけは、王位に就く事は叶わず、或るいは、殺害されたとも伝えられますが、二人の娘は、王族に嫁ぎ、おそらく幸せな生涯を送ったと思われます。

 では、王昭君の悲劇とは、如何なる事でしょう。
現在でも、同様な物語が在れば、悲劇、悲話で在るに違い無いのですが、漢の時代に在って、彼女の生涯は、決して最高の悲劇では有りませんでした。
其れが、後世、多くの人々の涙を誘ったのは、歴史の記録が伝えない、更なる悲哀が在るのか、其れとも後世における、王昭君の哀話は、作家達の創作に過ぎないのでしょうか?

 もとより、王昭君の最後は、判りません。
その墓も、黄河の上流に青塚と呼ばれる場所が在り、古くから王昭君を弔った所と伝えられますが、真偽の程は、判りません。
他にも王昭君の墓と伝えられる墓も複数、存在していますので、彼女の名前が有名になった後、付けられた事もあると思います。

続く・・・
2010/05/17

歴史の?その195:正史の中の疑問②:夏の王朝は実在したのか

<正史の中の疑問②:夏の王朝は実在したのか>

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 「中国で最古の王朝は?」と問われた時、現在の世界史を学んだ方々ならば「殷」と答えるでしょう。
しかし、古書には、殷の前に夏と云う王朝が、存在し更に太古には、三皇・五帝と呼ばれる古聖王の時代が、存在すると記載されていました。

 勿論、現在では三皇・五帝の伝説をそのまま歴史上の事実として、信じる人は居ないと思います。
特に三皇・五帝の最後の二人、堯、舜は、儒家の人々が最も尊信する王でありました。
以前、国民党政府時代、堯、舜を伝説とした歴史書は、発禁指定をされたのですが、「学者の討論は自由であるが、民族の誇りを傷つけ、国家の不利を回避できない」との理由であったと云われています。
民族の誇りとは、架空の伝説によって成立するものでは無く、正しい理性の上にこそ構築されるものである事を、本当の愛国者は理解しており、学者達も弾圧に屈す事無く、伝説批判を進めました。

 堯は、天体の運行を定め、暦法を確立した事は、「天」の思想の反映です。
堯から位を譲られた舜は、父母に仕えて幸の道を尽くし、官制を整えた事は、「人」の徳を示したものです。
更に舜から位を譲られた禹は、黄河の治水を行った事は、「地」の功を表しています。
五帝は、五行の思想「木火土金水」から導き出されたもので、三皇は、三才の思想(天地人)から考えだされたものなのです。

 歴史家の中で、懐古派と呼ばれる人々は、この様にして堯・舜・禹を史実から抹消していきました。
その禹が開いた王朝こそが夏王朝で、17代を重ね、桀王の御代に殷の湯王に滅ぼされて事になっています。
続く殷の時代も夏の歴史の繰り返しが多く、その伝える所も史実として受け入れがたい点も少なくない為、一時は殷の存在も疑問視される結果となりました。
しかし、殷王朝は、確かに実在し、その事は、殷墟の発掘によって明らかとなり、古文書に記された殷の王系も、甲骨文字の研究と共に正確である事が、証明されています。
現在の定説では、殷王朝の始まりは、紀元前1600年頃、その滅亡は、紀元前1020年から1040年頃と見られています。

 では、殷王朝の前に夏王朝が存在したのか?と言う点では、現在も研究が続いていますが、夏王朝の存在を推測させる遺構等が未だ発見されていない事も事実です。
この様な考え方に対し、古伝説を再検討し、考古学の調査結果をも利用しつつ、夏王朝の存在を認め様とする学説も現れ、夏王朝の開祖禹王に関しては、その功を孔子も論語に於いて称え、古詩を集めた詩経には、彼を詠った詩も少なくない事、後年、杞国は、夏王朝の子孫と信じられていました。

 もし夏王朝が実在したと仮定すれば、その最盛期、河南省東部から山西省西部にまたがる国で在り、その地域には、殷代の遺構の下に又、別の遺構が分布している事が、最近の調査で明らかとなり、そして、夏王朝は、殷の侵入によって、山西省南部に遷都したのではないでしょうか?
現在に於いても夏王朝の存在は、立証されていませんが、嘗て、殷墟で見つかった甲骨文字の研究から、殷王朝の存在が立証された様に、何かの発端で夏王朝の存在が、立証される時が来る事を願います。

続く・・・

2010/05/15

歴史の?その194:正史の中の疑問①:老子とは、如何なる人物だったのか

<正史の中の疑問①:老子とは、如何なる人物だったのか>

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 中国の思想家の中で、古くから最も親しまれた人物は、老子ではないでしょうか。
民間宗教として、広く一般に普及した道教に在っては、老子が教祖とされ、老子の化身たる、太上老君は、道教において神でも在りました。

 唐の朝廷も道教を崇拝し、帝室の教えとされ、更に、太上玄元皇帝と云う尊号まで捧げられています。
それは、唐王朝の帝室の姪が李氏であり、老子の姪も李氏であったと伝えられるからです。

 では、老子は、何時の時代に存命した人物なのか、この点について司馬遷は、「史記」の中に記述しています。
老子の名は耳、呼び名はたん(当用漢字無)、姪は李氏であり、周の国に使えて司書の役人と成りました。
そこへ孔子が尋ねて行き、礼について問うと、老子は、喩話を引合いに出しながら、
「良い商人は、品物を奥に置き、店先には殆んど何も無い。偉い学者は、優れた徳を身の内に深く備えながら、顔は、愚か者のように見える」。
そして、孔子に対して、「貴方の高慢と野心、好奇の念を捨て去りなさい。どれも貴方には、何の役にも立たないものだ」と諭しました。
孔子は、門弟に「今日は老子に会って来た。まるで龍のような人物だ。龍は風雲に乗って天に昇ると云うが、全く掴み処の無い人物だ」。

 事実、老子は、虚無の道の修行を積み、その学問も世間から隠れて、名声が聞こえる事を避けており、長らく周の都、洛陽に住んで居ましたが、周の国が滅ぶとその地に別れを告げました。
その時、関の役人に教えを書き残しておく事を懇願され、上下二編、五千余字の書を表した後、立ち去ったと云われています。
その後、老子の最後を見とどけた人物は、後世に伝わっていません。

 さて、以上の文書から、孔子と同時代、しかも孔子より先に生まれた人物となりますが、孔子は、魯の国の生まれで、紀元前6世紀末から紀元前5世紀初頭、春秋戦国時代の後期に活躍した思想家で、先に述べた司馬遷は、時代を400年位隔てた人物でした。
司馬遷の時代、既に老子についての話は、曖昧なものとなり、「老子」という書物は、存在してもその著者が、如何なる人物であったのかは、全く判らなくなっていました。
司馬遷も上述の話の後に、他にも「老子」の著者が別に存在したらしい事を記述しています。

 老子という尊称も不思議で、ここで「子」は先生の意味で用いられ、孔丘の事を孔先生と呼び、孟軻の事を孟先生と呼びましたから、老子の姪が李氏ならば李先生と呼ぶ事が普通と考えられます。
現在の歴史に於いても老子については、不明な部分が多く、一部の学者の中には、その存在を否定する説を唱える者も居りますが、現実に「老子」と云う書物は、実在しそこに記述されている思想を持った人物が、存在した事も否定できません。

 では、老子は何時の時代の人間で、「老子」は何時頃編纂された書物なのでしょうか?
老子が、孔子に道を教えた話は、明らかに後世の伝説であり、「老子」に説かれている思想も孔子より後、先の春秋戦国時代のものと推定されています。
戦国時代後期、孔子の後を継いで、孟子が活躍しますが、孟子は盛んに他の学派を攻撃し、特に墨子と楊朱を排撃していますが、老子については、言及していません。
これは、孟子の時代にまだ、老子がこの世に現れて居なかった事を意味するのではないでしょうか?

 「老子」と云う書物に述べられている思想に関しても、歴史的評価は定まっておらず、戦国時代初期、孔子から100年程後のもの、又は中期、孟子より後の時代と考える事もできます。
因みに老子と並び称される荘子は、紀元前4世紀末から紀元前3世紀初頭に活躍した、人物と考えられています。
古代中国を代表する思想家で在り、孔子、荘子と並び称される人物で在りながら、疑問点の多い人物も不思議で、本当は、後世の人が作り出した架空の人物なのか、それとも俗人と違う神仙であったのでしょうか?

続く・・・
2010/05/14

歴史の?その193:歴史に現れる名文句:誤って伝えられた言葉

<歴史に現れる名文句:誤って伝えられた言葉>

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◎イングランド人とは小売商人の国民である・ナポレオン・ボナパルト

 この言葉は、一般にナポレオンが話した言葉とされ、プチ・ブルジョア(小企業家)国民としてのイングランド人に、彼が抱いていた軽蔑心の表れと解されています。

 しかし「小売商人の国民」乃至商人集団との表現は、ナポレオンの少年時代から既に印刷物に書かれていました。
従って彼の独創になる言葉とは、言いがたく、まず1766年、イングランドの経済学者ジョサイア・タッカーが政治論文の中で使用し、次には、スコットランドの経済学者アダム・スミスが「国富論」(1776年)で用いたのでした。
又、アダム・スミスと同年代に、フィラデルフィアでは、サミュエル・アダムスがこの言葉を使っています。

 後年、ナポレオンが流刑された頃、この言葉は二人の伝記執筆者のせいで、彼が喋ったものとされる様に成りました。
ナポレオンの医師バリー・オマーラは自著「流刑地のナポレオン、若しくはセント・ヘレナからの声」に1817年2月17日のナポレオンとの対話を載せ、その中で彼がイングランド人について「彼らは商人の国民である」と語ったと書かれています。

 ナポレオンがこの意見に同感していたとは言え、言葉自体はコルシカの愛国者バスクワーレ・パオリ(1725年~1807年)の言葉の引用として語られたものなのです。
又「購買力のある需要国民を育て上げると言う、唯一目的の為に広大な植民地を建設する事は、一見、小売商人の国民にのみかなう計画に見えるかもしれない」と書いたのは、アダム・スミスで、ナポレオン自身彼の著作を良く知っていました。


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◎お菓子を食べさせておやり・マリー・アントワネット

 1789年10月、より公正な新政府をルイ16世に作らせようと、パリの貧しい女性達が、ベルサイユ王宮に行進しました。
伝説によれば、屋外に騒ぎを聞きつけた王妃、マリー・アントワネットは、人々がパンも無く飢えている事を聞いて、”Qu’ils mangent de la brioche”と言いました。
この言葉が一般に「お菓子をたべさせておやり」と伝えられる様になったのです。

 この話は王妃の処刑後、広く伝わり、貧民の苦しみに対する彼女の冷淡さと、愚かさの典型と見なされました。
しかし、彼女がその様な言葉を発した証拠は、何処にもありません。

 この言葉が始めて出現したのは、1760年代、ジャン・ジャック・ルソーの「告白録」中であり、マリー・アントワネットはまだ少女の時代でした。
文中でルソーは、「或る偉大な王女」について語っています。
彼女は、農民にパンが無いと聞いて、”Qu’ils mangent de la brioche”と答えます。
Briocheとは最上級のパンの事で、王女はこの種類のパンの事しか知りません。
従って、この言葉は、親切心の表れだったのでした。


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◎ワーテルローの戦勝は、イートン校の運動場で成し遂げられた・ウェリントン公

 初代ウェリントン公がイートン校の学生であった頃、学校には運動場も存在せず、集団競技のチームすら存在していませんでした。
しかも、彼の子孫が語ったところによれば、ウェリントン公の学校生活は、「短く、芳しい成績ではなかった」そうなので、従って彼が、最初に記載した言葉を語った可能性は、とても在りそうには思えません。

 其れを文章上で彼の発言であると、紹介した人物は、フランスのシャルル・ド・モンタランベール伯爵で、彼の著書「イングランドの政治的未来」の文中であり、この書物は1855年、ウェリントン公の死後3年経って出版されました。

 しかし、ウェリントン公がその言葉を喋ったと云う、同国人の証言は存在せず、更にウェリントン公は、母校にもパブリック・スクールの精神にも大した愛着を持っていませんでした。

続く・・・
2010/05/13

歴史の?その192:歴史を変えた病気③:人類史上最悪の災厄・後編

<歴史を変えた病気③:人類史上最悪の災厄・後編>

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◎恐ろしい死

 ラテン語の「黒い」という言葉は、中世に於いて「恐ろしい」と同義語で使用されていました。
「黒死病」は、文字通り恐怖の病を意味していたのです。

 1348年には、フィレンチェの人口の大半が、黒死病の大発生の為死亡し、更にこの災禍は全イタリア半島に伝播しました。
同年、当時アビニュンに住んでいた教皇クレメンス6世は、ローマへの巡礼を提唱し、100万人以上の信者が、約800kmの旅に出発したものの、故郷に戻って来たのは10万人に満たない数だったのです。

 流行の絶頂期には、ローヌ川が犠牲者の墓場として使われましたが、他の方法ではもはや、死体の処理をする事が不可能に成る程でした。

 14世紀末までに、2500万人が犠牲となり、之は当時のヨーロッパ人口の25%に当たると推定されます。
或る推定値によれば、1500年~1720年の間に45回に上るペストの流行が報告されていると云います。
最も有名で最大規模の感染が1665年6月、ロンドンにおいて発生しました。

 ロンドンではペストの防疫法の一つとして、ねずみ以外にも犬、猫を焼却処分する方法を選択しましたが、この方法は徹底されず、手遅れでも在りました。
1666年迄に6万8000人のロンドン市民が、犠牲となりヨーロッパ大陸では、新しい流行が発生しないかと戦々恐々の日々が続いていましたが、1666年9月2日に、ロンドンの人口密集地域の中心部で、火災が発生し火事は4日間、燃え続け、市内の5分の4を焼き尽くし、同時に伝染病が発生する温床と成っていた、不衛生な環境も一掃されたのでした。

◎最後の大流行

 ヨーロッパに於ける最後のペスト大流行は、1720年、フランスのマルセイユで発生しました。
当時の挿絵や文書から判断すると、医師達は分厚い作業着と革の手袋を身に付け、更にくちばし状のマスクを被っていました。
くちばしの部分には、臭気を避ける、香草が入れられおり、当時は臭気が病気を運ぶと信じられていた、結果なのでした。

 18世紀以降、なぜペストの大流行が無くなってしまったのかは、はっきりとした理由は導き出せませんが、衛生概念の発達が、そういった大流行を抑制しているのだと思います。
只、「もしペストが発生したら、すばやく遠くへ逃げて、ゆっくり戻って来い」と云う当時の諺が、その対処をはっきりと言い表している様です。

本編終了・・・
2010/05/12

歴史の?その191:歴史を変えた病気②:人類史上最悪の災厄・中編

<歴史を変えた病気②:人類史上最悪の災厄・中編>

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 人類の歴史が始まって以来、人類はペストの恐怖に苛まれてきた様で、事実ペストは何億もの人々を根絶やしにした上、正に歴史の進路を変えたと断言できるのでは無いでしょうか?

 紀元542年、史上最悪のペストの大流行が、エジプトから交易路に沿って広がりました。
ペストは小アジアを横断し、コンスタンチノープル、ギリシア、ローマ、更にはライン川流域に迄達し、その猛威は52年間の長期に及び、犠牲者の数は1億人を越えたと考えられています。
之は当時知られていた世界人口の極めて大きな部分に相当します。

 ローマ帝国の衰退に伴い、交易路も衰退し、その後8世紀迄の間、ペスト発生の報告は殆ど存在しません。
唯一、ベネラブル・リードが「アングロ・サクソン年代記」の中で報告している流行が有ります。
紀元664年にイングランドとアイルランドでペストの大流行が在り、腺ペストしか考えられない、病気の症状を克明に記録しています。

◎犠牲者の墓地
 14世紀初頭、ネストリウス派の伝道師達が、新しいルートを通ってヨーロッパとアジアの間を旅する様に成りました。

1338年と1339年の伝道師達の墓が、そのルート沿いに発見されています。
この放浪の宣教者のある者は、外モンゴルでペストに感染した事が知られており、この痛ましい事実と、普通の鼠がヨーロッパに生息していた事が、その後60年間に渡ってヨーロッパ大陸で猛威をふるい、更に引き続き4世紀近くに渡って世界中を震撼させた「黒死病」の原因に成ったと考えられます。

後編へ続く・・・
2010/05/11

歴史の?その190:歴史を変えた病気②・人類史上最悪の災厄・前編

<歴史を変えた病気②:人類史上最悪の災厄・前編>

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 現在確認されている直近の腺ペストの大流行は、1910年の事で、毛皮猟師の貪欲さから、7ヶ月の間に6万人の人々の命を奪いました。
東シベリアで始まり、当時世界的に毛皮の需要が高まり、マーモットの毛皮の取引価格は通常の4倍にまで高騰していました。
マーモットはげっ歯類の動物で、その毛皮は黒テンの代用品として売られていたのです。
以前からこの動物を捕らえてきたモンゴル人達は、時々この動物が奇妙な病気に罹る事を知っていました。

 モンゴル人は誰一人として、病気に罹った動物を捕獲する事は有りません。
マーモットの肉や脂肪は美味と思われていましたが、その地方には「腋の下の脂肪組織の塊は食べてはならない」との戒めが存在し、その腺には、死んだ猟師の魂が入っていると、言い伝えられており、モンゴル人は
この腺に病気を持っている場合が多い事を知っていたのでした。
この病気は、時として人間に感染し、この様な病人をモンゴル人は放置して、その運命に任せました。

 1910年、何万人とも云う中国人が、毛皮ブームに乗じて北部満州に移動してきました。
中国人達は、病気に感染して簡単に捕らえる事が出来る、マーモットに遭遇した時は、むしろ幸運であると考えました。
やがて、その猟師が病気になると、動物から感染した病気が腺ペストとは知らずに、病人を手厚く看護したのです。
ペストは狩猟地帯から、中国東部の鉄道の終点であった、満州里の町を席巻し、終には鉄道沿線に沿って2700kmにも拡大し、何万人もの人々が死んでいきました。

◎蚤による伝染

 ペストは普通、人間の病気と言うより、ねずみの病気で1mmの1/1000を越えない程度の細菌によって発症します。
この細菌は、蚤によってげっ歯類の動物から動物へと媒介されます。
ペストは、大きく腺ペストと肺ペストに大別され、病気に感染したげっ歯類動物の蚤が、人体を刺すと、刺された箇所や鼠蹊部が腫れてきます。
この様にリンパ腺が腫れる事から腺ペストの名前が付き、一方、肺ペストは病気に感染した動物に接触し、細菌を吸い込む事によって感染し、やがて呼吸によって、他の人物へと感染が広がります。

 大流行の時は、その被害が甚大な場合、人口の90%が感染する場合も在りますが、現在は抗生物質による治療の為、発症から数時間以内であれば、ほとんどの患者を救う事が可能となりました。
もし、治療が発症後12時間以上1日程度遅れた場合、腺ペストの致死率は50%、肺ペストの場合は、100%に達します。

次回へ続く・・・

2010/05/10

歴史の?その189:歴史を変えた病気①・人はそれを運命と呼んだ

<歴史を変えた病気①・人はそれを運命と呼んだ>

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 エイブラハム・リンカーンは、母親のナンシーが原因不明の病に倒れ、悲劇の底にいました。
当時、彼は僅か9歳の少年で、貧しい一家は牧草地もない、荒廃した土地に住んでいました。
その為、彼の家に飼われていた牛は、森の中で餌を探さなければなりませんでした。

 1818年、リンカーンの叔父夫婦は、疲労感、足のこばわり、舌の発疹等の症状を起こして、床につき、彼らは数日の内に死亡し、母親のナンシーもその後を追いました。
インディアナ州ピジョン・クリークの人々は、「牛乳病」だと言い、リンカーン家の牛が「震える病気」に感染している事が、その証拠であると主張しましたが、その病気の正体が解明されたのは、実に1927年の事でした。

 リンカーン家の人々は、有毒の白いヘビネを食べた牛の乳を飲んで、死亡したのでした。
もし、ほかに食べる草が存在すれば、牛はヘビネを避けます。
正に、リンカーン家の人々は、貧しさの犠牲に成ったのですが、未来のアメリカ大統領が死の運命を免れたのは、全くの幸運でした。

◎戦争を引き起こした癌

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 1887年、理性的で好人物であるプロシアをフリードリッヒ王子は、左の声帯に腫れ物ができました。
当初試みられた治療が失敗に終わると、ドイツ人医師団はこれを癌と診断し、彼に喉頭の摘出を勧めました。
しかし、著目なイギリス人で耳鼻咽喉科の権威であった、モレル・マッケンジー博士は、癌の兆候は無いと診断し、結果的に手術は行われませんでした。
 
 1888年6月15日、フリードリッヒは王位を継承してから、僅か99日後に喉頭癌の為に崩御してしまいます。
この結果、彼の息子で、知性的にも劣る、好戦的なカイゼル・ヴィルヘルムの宿命的な統治が始まりました。

 若し、ドイツ人医師団の指示通りに手術が行われ、フリードリッヒの命を存命させていたなら、世界は第一次世界大戦の恐怖から、逃れられていたかも知れません。

◎浴槽の中での暗殺

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 フランス革命の最も無慈悲な指導者の一人として悪名高い、ジャン・ポール・マラーは、1793年に浴槽の中で刺殺されました。
彼の死に関して、疑問や謎は一切存在しません。
彼の暗殺者は、シャルロット・コルディーという理想主義の少女で、彼女の研ぎ澄まされたテーブルナイフは、マラーの心臓近くの大動脈を切断していました。
この背景には、1日の殆どを一人きりで浴槽の中で過ごすという、マラーの習慣が、暗殺者の仕事を可也容易なものとしたのです。

 マラー自身、革命当時の生活を調べていくと、彼が地下室や下水道に隠れて、何年も過ごしている間に、瘙痒症(かいようしょう)や単純性糖批疹(たんじゅんせいこうひしん)等の皮膚に痒みを伴う病気に罹っていた事が判明しました。
彼は、全身の痒みから逃れる為に、浴槽の中に座り、民衆を扇動する論文を執筆したのです。

 耐え難い痒みが、彼のペンから悪意に満ちた感情を迸らせ、革命のテロリズムを極端な迄に導いて行ったのでしょう。
其れが又彼自身の死の原因とも成った事は、皮肉と言わねば成りません。

続く・・・
2010/05/09

歴史の?その188:歴史に語り継がれる伝説⑤:ベツレヘムの星・後編

<歴史に語り継がれる伝説⑤:ベツレヘムの星・後編>

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 大きな流星、若しくは大隕石の出現を唱える研究者もおりますが、流星の出現は一瞬であり、中空に静止する、ましてやその様に見る事すら不可能なのです。
現在、神学界に於いて受け入れられつつある説が存在し、この説では3人の賢者は占星術師で、上昇星位、つまり東の地平線上に特定の星が昇る事を計算し、救世主の誕生を予言したのだと云います。

 この考え方は、死海文書によってある程度、立証された様に思われます。
ここで死海文書とは、1947年に死海北岸の洞窟で発見された古文書で、古代宗教教団が書き残した物と云われ、文章の断片の中に、12宮の各星座に生まれた人間に、恒星と惑星が及ぼす影響を書き記した12宮図等の記録が発見されたのでした。

 文書には正義の師、又は光の王子に関する記述も存在し、神学研究者の中には洗礼者ヨハネとイエスを指すと解する者も存在します。
従って、当時の占星術師が天空を観測し、救世主の出現を予言すると信じられた、惑星同士の適当な合を割り出す苦心をしていた、とは言えるかもしれません。

◎救世主降誕の占星術

 イエスズ会の神学者、故ダニエル枢機卿は、ベツレヘムの星とは救世主占いの天宮図にある星座の一つであると云う説によっていました。
「東に主の星を見た」と云う3賢者の言葉を、上昇中の、つまりは星占いに於ける、最も重要な点に在る星を指すと表現と、ダニエル枢機卿は考えたのでした。
「当時のユダヤ社会に於いては、占星術が広く普及し、又救世主の出現が待ち望まれていたので、主が如何なる星の下に生まれるかについて、盛んに予測が行われていました。
こうして占星術の一つで予告された星座の組み合わせが、ひとたび実現すると、人々は救世主が降誕したと信じ、その場所を捜し求め始めたであろう事は、想像にかたくありません」と枢機卿は書き記しています。

 この言葉に表されている事象こそが、東方の3博士つまりは占星術師達が、ヘロデ王を訪れた時に王に示した事なのでしょう。

本編終了・・・
2010/05/08

歴史の?その187:歴史に語り継がれる伝説⑤:ベツレヘムの星・前編

<歴史に語り継がれる伝説⑤:ベツレヘムの星・前編>

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 東方の3賢者をキリスト降臨の地へ導いたと、新約聖書に伝えられるベツレヘムの星は、数世紀来、神学、天文学、歴史学に於ける謎でした。
いったい如何なる現象が、マタイ伝が語る様に、東の空に現れ、3人の賢者を導いて移動し、「御子のおわす場所の上空迄来て止まる」事が出来たのでしょう?

 一般には、キリスト生誕の頃、聖地の上空に出現したハレー彗星を、賢者達が吉兆と見なしたのであろうと信じられています。
しかし、この説には侮りがたい反論が存在するのです。
ハレー彗星は、西暦紀元前12年に中東上空の北緯31度、つまりベツレヘムと殆んど同緯度の空に出現した事が、現在では判明しています。

◎ハレー彗星

 マタイ伝によれば、東方からやって来て星を「見た」3賢者はヘロデ王の御前に出向き、王は彼らに神の子を探し出す様に求め、そして「彼らは王の頼みを聞くと出発した。すると、見よ、東の空に見えていた星が、彼らの先に立ち、御子のおわす場所の上空に止まる迄、彼らを導いたのだった」と書かれています。
それならばなぜ、マタイが言う様に、ヘロデ王は御子が何処に居るか「尋ねる」必要があったのでしょう?

 ハレー彗星は、他の彗星と同様に、如何なる場所からも同じ明るさで見え、しかも、伝えられている様に、人の先頭に立って進み、ある一点で静止する様な事は、絶対に在り得ません。
いずれにせよ、キリストはローマ帝国の国勢調査が実施された頃、つまりは多くの研究者が語る様に、西暦紀元前4年に生まれたと考えられ、この年、世界の如何なる場所に於いても、彗星出現の記録は存在していません。

 ベツレヘムの星は、超新星であった可能性を示唆する説も存在します。
超新星は恒星の末期に爆発を起こした星であり、日中でも肉眼で可能な程の輝きを放ち、数ヶ月にわたって輝き続けますが、キリストの生誕時期に超新星が見られた記録も存在しないのです。
もし、この様な大異変が天上で発生していれば、キリストと同年代の年代記執筆者や、歴史的人物が目にしたばかりでは無く、ローマ人や中国人も記録を残しているはずなのです。

後編へ続く・・・

2010/05/07

歴史の?その186:歴史に語り継がれる伝説④:地上の楽園は何処に・後編

<歴史に語り継がれる伝説④:地上の楽園は何処に・後編>

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 近くを流れるキャム川は、9世紀のイギリスの歴史家ネニアスの「ブリトン史」が語る、アーサー王最後の戦い、キャムランの戦場であったと考えられました。
かつて、農園の小作人達がキャドベリー城の西側に在る集団墓地で、大量の人骨を掘り出した事が有り、正にこの土地が戦場であった事を物語る様であったと伝えられています。

 戦闘で負傷した傷も回復し、王座に戻って黄金時代を築いたアーサー王の伝説は、もうひとつの中世伝説オギュギアの物語と酷似しています。
ギリシアの哲学者で文人のプルタルコス(西暦46年~120年頃)は、オギュギアの国は西の彼方、夕日の下の永久の美の土地に在ると書きました。
そこには、ギリシアの巨人族の神で、父ウラヌスを去勢し、王座を奪われる事を恐れ、自分の子供を次々と食べ続けたクロヌスが眠っていると云います。
アーサー王と同じく、クロヌスも後に目覚めて王座に就き、黄金時代を作り上げるのでした。

◎楽園の島
 其処では、水に浮かぶガラスに宮殿が、祝福された者の魂を迎え入れます。
若者と乙女達が、柔らかな草の上で踊り、木には果実がたわわに実り、牛は1回の乳搾りで、池を満たす程のミルクを出す。

 遥かな楽園の島の物語は、フランスではコカーニュ、すなわち「お菓子の国」と呼ばれました。
13世紀のイギリスの詩では、コカーニュはスペインの西に在ると云い、一方フランスの詩では、コカーニュでは通りをガチョウの丸焼きが歩き(!)、若返りの泉が湧いていると云われました。
この様に、滑稽なお話にもかかわらず、西方の幸福の島の神話は、中世民衆の夢を育み、ドイツ人にとっては、イギリスが彼らの場所から見て、西方の島であったので、其れをエンゲルランドと呼び、スラヴ人も遠い西の国の果実がたわわに実る楽園を夢見たのでした。

 アイルランドとスコットランドのケルト人は、デエル・ナン・オグーは宮殿の立ち並ぶ都で、大西洋か未知の湖の底に在ると信じていました。
この空想は、アイルランドを侵略した北欧民族にも受け継がれ、彼らの帰国と共に、伝説も北欧へ伝わっていきました。
彼らは其れをアイルランド・ヒット・ミクラ(大アイルランド)と呼び、自分たちの見たアイルランド島の西に在ると信じたのでした。

本編終了・・・
2010/05/06

歴史の?その185:歴史に語り継がれる伝説④:地上の楽園は何処に

<歴史に語り継がれる伝説④:地上の楽園は何処に>

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 人間は何時も、この世の楽園を夢見てきました。
戦(いくさ)も貧困も知らず、総てのものに正義が行われる、大いなる平和と美の国、世の憂いと永遠に無縁で居られる島、其れが人類の夢でした。

 その様な民間信仰を取り除こうと、中世の教会は努めましたが、西方に楽園が存在するという神話は、社会の如何なる階層にも広く流布していました。
中でもケルト人は、人間の不朽の魂が、永遠の平和を得られる来世、すなわち死者の島の概念を持っていました。

 文人や吟遊詩人達は、それぞれに是等空想の国の物語を描き、或いは読み広め、更には海の彼方からヨーロッパの海岸に漂着した、めずらしい物が夢と現実をこの世に現す手助けをしました。

 古代ギリシア人からケルト人、アングロサクソン人迄、この様な地上の楽園は、おおむね夕日の彼方、西方の何処かに在ると考え、メロピス、オギュギア、幸福の島、ヘスペリスの園、アバロン等さまざまな名称で呼ばれていました。
スコットランド人とケルト人は特に、「若さの島:デエル・ナン・オグー」と呼びました。

 サクソン族に征服される以前に、ブリトン族を支配したと云われる伝説の王アーサーは、死期を迎えた時、ケルト族の「聖者の島」アバロン島へ小船で運ばれたと云われています。

 イングランド南西部のグラストンベリーは、かつてのアバロン島とされ、アーサー王の死の物語と結びつけて語られます。
1190年、グラストンベリー寺院の古い墓地で、アーサー王とギネビア王妃の遺骨と思われるものが発見され、あらためて寺院の礼拝所に収められ、その位置が1931年に再発見されました。

◎アーサー王の宮殿は何処に

 しかし、跡地の最有力候補は、ある程度考古学的証拠も存在する、サマーセットのキャドベリー城であると思います。
この城は、要塞化された丘の遺跡として、クイーン・キャメル村の近郊に在り、ヘンリー8世統治下の故事研究家ジョン・リーランドは、砦が発見された丘を土地の人々が、しばしば「キャラマット」と呼ぶと記しています。

後編へ続く・・・