2010/06/30

歴史の?その230:正史の中の疑問37:カースト・前編

<正史の中の疑問37:カースト・前編>

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 カースト制度は、インドの長い歴史を通じて、その社会の大きな特徴と成り、現在においてもなお、厳然と存在しています。
私達が、教えられた“士農工商”の様な四姓制度の様に単純なものでは無く、カースト制度は細分化されたもの迄数えれば、2500以上に上ります。
カーストの構成員は、他のカーストと結婚する事は出来ず、その種類によっては、他のカーストの人々と食事をする事も、調理して貰う事も出来ないうえ、それぞれのカーストには、祖先伝来の職業が存在し、其れを世襲する事が義務づけられていました。

 この他、一つのカーストに独特の掟を持つ例も少なくなく、中には、海を越えてはならないと定められて者も在り、このカーストに属するものが、兵役に就いた場合、海外への遠征は出来ません。
これを反抗と見なし、イギリス軍が銃で弾圧した事件(1824年)も発生した程でした。

 更に一般のカーストの他に不可触賤民(アンタッチャブル)が存在し、彼等はパリアと呼ばれ、鈴を付ける事を強制した地方も在りました。
こうした差別からの解放に、尽力したのが、マハトマ・ガンジーで、彼等を「ハリジャン:神の子」と呼び、不断の運動によって、少なくとも、法律の上では、差別を撤廃され国会の議席も与えられる様に成りました。

 インド社会に特有なカースト制度、その極端な階級格差は、どの様にして起こったのでしょうか?
一般にアーリア人のインド征服によって、生じたと説明されています。
アーリア人の祖先は、紀元前2000年頃、中央アジアから西北インドに移住し、先住民族を征服しつつ、紀元前1000年頃には、ガンジス河流域迄進出します。
その間、アーリア人の社会では、神に仕える僧侶バラモンを頂点に、王族、武将階級で在るクシャトリア、庶民階級ヴァイシャ、征服奴隷階級のシュードラの四姓制度が成立しました。

 何故、インド社会に於いてのみ、こうした厳格な階級制度が発生したのでしょうか?
同じアーリア人の別派は、イランに入り現在のイラン人と成り、又同系に人々は、ヨーロッパに広がって、現在の欧米人を形成しています。

後編へ続く・・・
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2010/06/29

歴史の?その229:正史の中の疑問36:仏教とカースト

<正史の中の疑問36:仏教とカースト>

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 インドに関する、私達日本人の知識は、余りに少なく現実を正しく理解しているとは、言いがたいものがあります。
多くの日本人は、仏教の発祥地としてのインドを知るのみであり、カースト制度の表面を知るに過ぎません。
しかし、僅かな知識であっても、四民平等の仏教を生んだ国に、なぜカースト制度の壁が現在に迄及んでいるのか、疑念を抱かざるを得ません。

 実にインドの歴史は、残された記録が少ない為もあって、他の国にも増して、不明な部分が多い様です。
しかし、不明は不明として疑問に感ずる為には、やはり相当に知識が必要と思います。
歴史の態勢や、登場する人物の性格を理解した上でなければ、如何に不思議な事が在っても、その事象を謎として取り上げる事が出来ないのは、その為なのです。

 インドでは「12マイル毎に一つの言語が存在する」とさえ言われ、それ程インドには雑多な民族が混在していますが、是はインドの長い歴史が生んだ結果でした。

 太古のインダス文明を形成したのは、インドの先住民族であり、其処へアーリア人が侵入して、先住民族の一派と云われるドラヴィタ人等と混住、混血しつつ、バラモン文化を形成しました。
言うまでも無く、アーリア人はヨーロッパ系の民族と同種の人々です。

 10世紀以後、トルコ系の民族が西北インドに侵入し、イスラム文化をもたらしました。
やがて、イスラム勢力は、インドの大部分を征服し、16世紀にはムガール帝国が建国します。
其れまで、インド社会の主流を占めていたヒンズー教の上に、イスラム教の力が加えられたのでした。

 越えて近代には、イギリスの支配が始まります。
イギリスの分割統治政策の基に、インド古来の宗教や言葉、更にカーストの風習等も利用し、その差違を激化させました。
インド社会を古代さながらの貧困と無知の状態のままに置いたのも、イギリスの支配でした。

 しかし、インド人は、仏教の様な深遠な哲学を産み、科学思想の上においても比類無き英知を示しています。
私達は、改めてインドの正確な歴史を学ばねば成りません。

続く・・・
2010/06/28

歴史?その228:正史の中の疑問35:イースター島の巨石人像

<正史の中の疑問35:イースター島の巨石人像>

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 オランダの提督ヤコブ・ロヘベーンは、この様な物を見た事は有りませんでした。
南太平洋中央の海図に無い島を高さ10m近い巨人の兵士が防備していたのです。
この巨人達は、要塞の胸壁に似た巨大な石壁の上に並んでいました。

 3隻の艦隊を島に接近させると、巨人は只の石像で、その足元を歩き回っている人間は、皆普通の背丈と解かり、ロヘベーンは、胸をなで下ろしました。
翌日、彼は少人数の部隊を引き連れて、島に上陸し、「胸壁」が石像を載せる壇でしかない事を知り、各壇の上には、赤い帽子を被った耳の長い人間の胸像が立っていました。

 時は、1722年の復活祭(イースター)の日曜日でしたから、ロヘベーンは、自分の発見した島をイースター島と命名し、島を離れたのでした。

 イースター島にヨーロッパ人が再び上陸したのは、其れから50年後の事で、本格的な調査が開始されたのは、更に100年後の事でした。
その頃、ロヘベーンの見た立像は、全て倒されており、大半が部族同士の争いで、壇から引き倒されたのでした。

 巨人像は休火山ラノララクの火口に産出する、火山岩を刻んだもので、火口壁から300体以上が刻まれ、斜面を降ろされ、何らかの方法で、壇上に立てられた事が解かりました。
火口の中には、未完成の石像が400体程も残っており、僅かに鑿を入れ始めた物も在れば、壇へ運ぶ準備の整った物も存在し、又嘗て石像を削っていた石工が廃棄していった、黒曜石の手斧と鑿が火口で発見されました。

 現場の様子は、石工達が戻ってくる予定が、そうならなかった様に思え、火口からの下り道に沿って、完成した石像が数十体も置かれています。
その幾つかは、重さ30t、高さ4m程であり、未完成の石像には、推定重量50t、高さ20mの巨大な物も含まれています。

◎長耳族

 石像の中には、火口から16km離れた場所に立っていた物も在り、島民が如何なる方法で是等の石像を運び、壇上に立てたのか、現在のところ、専門家にも判明していませんが、丸太をコロとして使用した説は、現在では否定されています。
実験の結果、その様な仕事に必要な大木は、イースター島の土壌では繁茂しない事が判明し、つる草をロープに編んで、石像を引っ張る事も考えられましたが、つる草のロープでは、30tの重量が限界である事が判り、この説も退けられました。

 古い住居後の調査から、イースター島の人口は、かつて2000人から5000人の規模で在った事が判明しており、彼らは二つの階級に分化していた様なのです。
石像のモデルになった「長耳族」・・・耳朶に重りを下げて長くした・・・は、恐らく支配階層で、一方の「短耳族」は被支配階層であったと推定されています。

 耳朶に重りをつける風習は、スペイン人に征服される以前のペルーのインカ族にも存在しましたが、現在の島民は、南アメリカの民族よりもポリネシア人に近い血統的特徴を持っています。
イースター島の謎を解明する糸口は、ペルーの奴隷商人によって永遠に失われました。
彼らは、19世紀末に1000人の島民を捕らえましたが、その中には、この島の最後の「王」と「賢者」も含まれていたのでした。

 鎖に繋がれ、奴隷船で連れ去られた、この人々が如何なる運命を辿ったのか、誰も正確に知る事は出来ませんが、後にある者は、島に帰り着き、流行病をもたらし、残りの島民を死滅させ、如何にして、一枚岩の石像を創り上げたのか、その答えは永遠に失われたのでした。

続く・・・
2010/06/25

歴史の?その227:正史の中の疑問34:エルドラド

<正史の中の疑問34:エルドラド>

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 伝説の黄金の都、アンデスの何処かに隠された宝庫、エルドラドは、何世紀もの間、人々の心を虜にし、何百人と云う財宝探しの男達が、探索の途中で死んでいきました。

 驚くべき事に、エルドラドは都市の名前ではなく、ある男の名前でした。
エルドラドの伝説は最初、1513年という早い時期にバルボアと共に中央アメリカに侵入した、スペイン征服者を通じて、世界に広まりました。

 スペイン人をはじめ、ヨーロッパの人々は、南アメリカ大陸に向かって進む途中、今日のコロンビアの首都ボゴダに近い、標高2600mの高原に住む、太陽崇拝を行っている、チャブチャ族の話を耳にしたのでした。
言伝えによれば、この種族は、黄金を太陽神の金属として崇めており、彼らは黄金の装飾品を身に着け、何世紀にも渡って、建造物を金箔で覆ってきたと云う事でした。

 何人かのインディオは、山中の何処に在ると云う、黄金で満たされた聖なる湖の話を伝えました。
別の者達は、オマグアと呼ばれる都市で、全身金色に輝く族長を見たと語りました。
話が広まるにつれて、エルドラドは黄金の都と考えられる様に成り、古い地図には、場所こそ千差万別では在ったものの、エルドラドが示された事も有りました。

 1530年代には、ドイツとスペインがエルドラドを探索する為に、現在のコロンビアに何回か探検隊を送りこみましたが、山々の殆どは通行不可能で、食料が尽きると彼らは引き返す他に手段が在りませんでした。
隊員の半分以上は、インディオとの戦闘で殺され、探検は失敗に終わったのです。

◎黄金の人

 チャブチャ族は太陽だけでなく、湖に住む神も崇拝しており、この神は何世紀も以前に恐ろしい罪から逃れる為、湖に身を投じた族長に妻で、彼女は其処で女神になって生きていると伝えられました。
近在のインディオはここに巡礼の旅をし、湖の女神に貢物を捧げ、そして、少なくとも年に1度は、湖は趣向を凝らした儀式の場所と成りました。

 部族民は、族長の体に、粘着性のある樹液を塗り、金粉を吹き付け、族長は頭から足の先迄、文字通り“黄金の人”と成り、彼は厳かな行列に加わり、湖に岸に置かれた筏迄導かれて行きます。
筏は、聖なるグアタビータ湖の湖心迄進み、族長は氷の様に冷たい湖に飛び込んで金粉を洗い流し、他の人々は、計り知れない程の黄金や宝石を湖に投げ込むのでした。

 グアダビータ湖は自在の湖で、1969年迄“黄金の人”を実証するものは何も在りませんでしたが、この年、二人の農場労働者がボゴダ近郊の小さな洞窟の中で、純金で作られた精巧な筏の模型を発見しました。
筏には8人の小さな漕ぎ手が乗っており、族長の堂々とした金色の像に背を向けて、筏を漕いでいました。

 現在でもこのグアダビーダ湖の調査は進んでいますが、湖水の冷たさと堆積した泥の為、めざましい成果は上がっていません。
岸辺や浅瀬で、若干の黄金やエメラルドが発見されたのみで、湖水の深みには、未だに“黄金の人”の捧げ物は眠っています。

続く・・・

2010/06/24

歴史の?その226:正史の中の疑問33:老いたる峰の町

<正史の中の疑問33:老いたる峰の町>

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 ペルーのアンデス山中に在ると云う、インカの失われた都市の話しは、300年以上もの間、民間伝承以上の話しでは無いと、考えられていました。
伝承に因ると、インカの生き残りに人々は、スペイン人征服者の手による虐殺を逃れて、1533年、人間の近寄り難い、アンデス山中に逃れたと云う話しは、実際に信じられる話では有りませんでした。

 探検家は、長年この町を捜し求めましたが、その全ては徒労に終わります。
彼らはインカ帝国の首都で在ったクスコ近郊の未開な密林地帯を探索しましたが、大きな発見に繋がる痕跡を見つける事は出来ませんでした。

 しかし、エール大学の若いラテンアメリカ史助教授だったハイラム・ビンガムは、其れまでの探索が間違っている事を証明しようと決心し、1911年6月、彼は二人の友人と数名のインディヘナを伴い、別ルートを辿って、ウルバンバの渓谷沿いに、ロバの隊列を進めました。

 7月の或る雨の朝、ビンガム隊は侘しい気持ちで座り込み、失敗に終わりそうに思われた探検を、今後も継続するか議論していました。
その時、宿の主が川向こうの山腹を真直ぐに指差し、そこに行けば遺跡が見られる事を教えてくれたのです。

 常に楽観的な彼は、宿の主だけを連れて出発します。
二人はロバを引き、川を渡り、600mの斜面を攀じ登りました。
途中、別の二人連れのインディヘナに出会うと、彼らは水を分けてくれた上、「直ぐ近くに在る」段丘や古い家々のことを口にしたのでした。
度々の失望を重ねてきた後で在ったので、ビンガムはまだ半信半疑でしたが、それも長い事では有りませんでした。
丘を回ると、其処には彼が想像したより、遥かに美しい、失われた町が在ったのです。

 高さ約3m、長さ数百mにも及ぶ、見事な段丘が100段程も並び、築かれた雛壇には、苦労して谷間から運び上げた土が盛られていました。
この町マチュピチュは、下からの攻撃には難攻不落ですが、この町がなぜ、何時造られたのか不明のままですが、1400年代初頭、新しく帝国に加えられた地域の中心に砦として、造営されたと推定されます。

 この町は、建築学上の傑作でも在り、今から数世紀も前に、インカは車輪も使用せず、花崗岩の塊を、山上に運び上げ、その石塊はそれぞれ不規則な形に加工され、一つ一つが正確に組み合わされていきました。

 この町に最後に住んだ人々の運命は、永遠に謎のままでしょうが、不思議な事に人口の殆どは、女性で在ったらしいのです。
後にビンガムが再び此処を訪れた時、調査隊は埋葬窟で174体の遺骨を発見しましたが、其の内150体は女性のものでした。

 インカでは、其の帝国の至る所に多数の女子修道院を建て、もっとも美しい女性を集めて、貴族に仕え、宗教儀式を手伝う訓練をしていました。
スペイン人が、侵入した時、この「選ばれた女性達」と呼ばれた乙女達を安全の為に、マチュピチュに移動させたものとビンガムは考えました。
しかし、1533年、インカ帝国最後の皇帝アタワルパが、スペイン人によって処刑され、インカは征服された民となりました。
時が経ち、女性達も歳を重ね、やがて死んでいき、彼女達を守っていた男達は逃亡し、密林は再びマチュピチュを覆い、その挫折した歴史を語る人間は、誰も残りませんでした。

続く・・・

2010/06/23

歴史の?その225:正史の中の疑問32:インカの秘宝・後編

<正史の中の疑問32:インカの秘宝・後編>

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 ピサロは、以前にアステカ王国を征服した、コルテスから「王を生け捕りにすれば、征服は出来る」旨の教示を受け、アタワルパを妖計にかけます。
1532年11月14日カハマルカの町で、ピサロとアタワルパの会見が行われる事に成り、ピサロは、皇帝アタワルパを賓客として宴席に招くと、カトリックの僧侶が、アタワルパに「我々は、カトリックの布教の為にこの地を訪れた」と言いながら、聖書をアタワルパに手渡しますが、文字を知らない彼にとって、聖書は何の意味を持つものでは無く、其れを床に落としました。
この瞬間、ピサロは、アタワルパが神を汚したとして、彼を捕らえ、人質にしてしまいます。

 アタワルパは、自分を許してくれるなら、今自分の捕らえられている部屋を黄金で埋め、隣の部屋を銀で埋めると言い、是を2ヶ月で実行すると約束します。
皇帝は、国中に御ふれを出し、インカの民は、皇帝の為に金銀を持ってカハマルカの町を目指しました。
財宝は、次第に集まって行きましたが、約束の量に成るには時間が掛かり、ピサロは、こうして時間を掛けてインカ人は、軍隊を整え反撃の準備をしているに違い無いと疑います。
彼は、アタワルパを形式だけの裁判にかけ、1533年8月29日処刑してしまい、ピサロは、三男マンゴをインカ皇帝としましたが、事実上この時、インカ帝国はスペイン人に征服されたのでした。

 皇帝アタワルパの処刑によって、カハマルカに向かっていた財宝の輸送は、勿論停止し、是等はスペイン人の目の届かぬ所に隠されてしまいます。
アタワルパは、処刑に際し、身代金を倍にしても良いと言ったと伝えられますから、財宝の量は、膨大なもので在ったと思われます。

 是を一般に「インカの秘宝」呼び、隠された財宝を求めて、多くの人間がアンデス山脈に分け入りましたが、自然の要害に阻まれ、現在迄「インカの秘宝」は発見されていません。
アタワルパの処刑によって、財宝は帝国の諸所の分散されて埋蔵された為、現在迄まとまった量の財宝が発見された事が無いと思われます。

本編終了・・・
2010/06/22

歴史の?その224:正史の中の疑問31:インカの秘宝・前編

<正史の中の疑問31:インカの秘宝・前編>

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 大航海時代、16世紀の初頭、ヨーロッパ人は初めて南アメリカ大陸の太平洋岸の到達しました。
当時、その太平洋側のアンデス山脈一帯の地域(現在のコロンビア・エクアドル・ペルー・ボリビア・チリ)には「インカ帝国」(正式には、タワンティン・スーユ:四つの地方から成る国)が存在していました。

 インカ文明は、鉄器を知らず、新石器文明と呼ばれる時代でしたが、金・銀・銅の細工は巧みで、是等を用いた細工物の他、土器、織物にも優れ、頭蓋骨切開による外科手術もする事が、出来たと伝えられています。
ところが、インカ人は、車輪の概念が無く、文字も持たない為、書物としての歴史書は存在していません。
現在の歴史書物は、スペイン人の征服後、彼等からローマ字の読書きを習得した、一部のインカ人が彼等の言葉で在る「ケチュア語」の表音に基づいて記されたもので厳密な歴史書とは言えませんが、伝わっている歴代王(インカ)の名前から13代迄遡る事ができます。

 このインカ帝国に最初に足を踏み入れたヨーロッパ人は、スペイン人フランシスコ・ピサロで、彼はスペインの地方貴族の出身ですが、色々と問題の在る人物でも在りました。
「新大陸」の何処かに「黄金郷(エル・ドラド)」が存在すると予てより噂が在り、ピサロをその黄金を求めていたのでした。
南アメリカの太平洋岸を数度に渡って探検し、1528年の航海では、現在のペルー迄到達しますが、彼はこの探検航海で、現在のツンベスを基点にアンデス山脈の内部迄入り「黄金郷」が実際に在る事を確信し、時のスペイン女王イザベルに探検援助を申し出、1531年ペルー探検(征服?)に出発します。

 さて、スペイン人の来航する少し前、インカ帝国内で、11代皇帝ワイナ・カパックが崩御し、その後継者を巡って、長男ワスカルと次男アタワルパの間に王位継承問題が発生し、一時は12代皇帝に即位したワスカルをアタワルパが破り、自ら13代皇帝と成りました。
この内乱もインカ帝国が、容易くピサロに征服される遠因と成りますが、インカには、鉄製の武器は皆無で在り、例え20万の軍隊を擁していても、僅か180人のスペイン兵の鉄砲には、太刀打ちできませんでした。

後編へ続く・・・
2010/06/21

歴史の?その223:正史の中の疑問30:ジャングルの奥に

<正史の中の疑問30:ジャングルの奥に>

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 1858年から1861年にかけて、フランス人博物学者アンリ・ムーオは、インドシナ半島のメコン河とメナム河流域を探検し、その地方の地質や動植物を調査しました。
1861年の初め、彼は、カンボジアのトンレ・サップ湖の北側に位置するジャングルの中に、大きな都市や寺院の遺跡が在る事を聞きました。

 しかし、ムーオは象や虎等の野獣が住んでいるだけで、人間など到底入った事の無い様なジャングルの中に遺跡が在る事など、到底信じる事が出来ませんでした。
処が、ジャングルに入って三日目の事、木の茂みの上に、五つの高い石塔が立つ姿を実見しました。
是が、アンコール・ワット(大寺院)で、その北側1km程先にアンコール・トムと云う都市の遺跡が在りました。

 ムーオは、ジャングルの植物に半ば覆われてしまった、この寺院や都の素晴らしさの虜に成り、地質や動植物の調査を中断して、遺跡に調査に没頭しました。
彼は、遺跡をスケッチし、フランスやイギリスで紹介すると、「東洋に奇跡を発見した」として注目されました。
しかし、実際厳密には、ムーオが発見した訳ではなく、土地の人々はこの遺跡の存在を以前から知っており、大寺院に巡礼している者も居り、中国の古書にも、大寺院や都の話は、紹介されていました。
結果として、ムーオの報告によって、ヨーロッパ人にアンコール遺跡群の存在が知られる様に成ったのは、確かな事でした。

 アンコールの都は、クメール人のヤショヴァルマン王(在位889年~900年)によって造営され、大寺院は、スールヤヴァルマン王(在位1112年~1152年)によって建立されました。
このクメール人が如何なる民族なのか、解明されず14世紀に成るとアンコールの都を廃棄して、消滅した謎の民族と云われて来ましたが、今日では、インド方面から移住して来た人々が、現地の人々と混血した民族で在ると考えられています。
又、クメール王国の終焉が、何時なのかも解かっていませんが、13世紀頃から西にタイ人の国家が建設され、やがて攻め滅ぼされたのであろうと推定されています。
そして、彼等は消滅したのでは無く、今日のカンボジア人は、クメール人の子孫であると考えられています。

 クメール人達が、アンコールの都を廃棄したのは、国そのものが滅亡した結果ですが、本来、クメール人は、疫病に流行、農作物の不作等の理由で、都を遷都する事が在りました。

 都をと言うより都市をしばしば移動させた民族は、クメール人だけでは無く、日本に於いても、天皇が交替する度に都を遷都し、中央アメリカで6世紀から10世紀頃栄えたマヤ人も、クメール人と同様に石造りの巨大な都市や寺院を放棄しています。
マヤ人は当初、ユカタン半島の南側に都市を造営して移住していましたが、7世紀頃からは、400km以上離れた北部に、新たな都市を造営し始めました。
彼等の放棄した都市には、天災はおろか、戦乱の痕跡も無く、疫病の蔓延ならば人口も減少したでしょうが、移動後の都市規模もより大きくなる傾向が在り、人口減少も考え難いのです。

 ここで問題になるのが、現在も東南アジアや中央アメリカで続いている、焼畑農耕で、マヤ人達は、とうもろこしを栽培して、生計を立てていました。
彼等は、文字を持ち、立派な暦法を整備し、天文学や建築学も発展していましたが、鉄を知らず、鍬や鍬も無く、畑にする土地に生えている木々を石斧で切り倒し、其れを焼き、先を尖らせた棒で土を掘って、とうもろこしの種を撒くだけで、肥料を与える事も知らない為、一度利用した土地は、長期に渡って休ませねば成りませんでした。
その期間に植物が繁茂し、是等を伐採して焼いて、再び畑として使用するのです。
しかし、焼畑農耕は、結果的に土地の地力を減少させる為、畑はだんだんと都市から遠く離れる結果と成り、その為に新しく肥えた土地を求めて、都市を移動させねばならなかったのでしょう。

続く・・・
2010/06/19

歴史の?その222:正史の中の疑問29:ネロは果たして暴君だったのか・後編

<正史の中の疑問29:ネロは果たして暴君だったのか・後編>

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 ローマは、ローマ帝国の時代、度々大きな火事が起こり、消防隊もアウグトウス帝の時代に創設されていましたが、西暦64年7月19日、それまでの記録にも内、大火が発生しました。
大競技場から出火した火は、瞬く間に市中に広がり、火災が余りにも激しかった為、人々は、逃げる事がやっとの状況でした。
ネロは、アンティウムに滞在して居ましたが、急ぎローマに戻り、宮殿も焼失していましたが、焼け残った公共建造物や公園、宮廷庭園を民衆に開放し、近在の町から食料、物資を運ばせました。

 ところが、「ネロは都が燃え上がる様を宮殿のバルコニーから見物し、ホメロスを気取り竪琴を奏で、“トロイ落城”を詠っていた」との噂が、人々の間に広まりました。
ネロは、従来から芸術家を気取り、ナポリでも舞台に立ち、詩を吟じた事もありました。
其れは、ローマの大火の少し前の事で、彼が詠い始めると、まもなく地震が起こり、彼を心配して舞台に駆け上ろうとした者も在りましたが、彼は、平然と詩を詠い続け、終わった時、拍手は鳴り止まなかったと記録されていますが、それは、彼の詠いが上手かったのではなく、彼の勇気を賞賛したのだと云われています。

 ローマが焼けてしまった事を良い機会として、ネロは、ローマ市の再建計画を立て、建造物の不燃化を図り、又宮殿用地を拡大しようと考えました。
その為、「ネロは、自分の名前を付けた新しい都を造ろうとして、ローマに火を放ったのだ」との噂が広まり、更には、その大火の折、小役人が、混乱を利用して、民家に踏み込み、泥棒を働いた上「お上の命令でやっているのだ」等と言いながら、彼等は証拠を隠す為、まだ火の回っていない家に松明を投げ込んだりもしたのでした。
この様な事から、「ネロが火をつけさせたのだ」と云う噂が人々の間に信じられる事に成ったと思われます。

 歴史家タキトウスは、ネロ時代の歴史を著し、ネロが、本当に放火を命じたか否かについては、彼自身判らないとしていますが、多分、彼の命令では無かったでしょう。
ネロは、被災者の為に、物資を援助し、神殿での御祓い等の儀式を執り行いましたが、「疚しさから、あの様な事をするのだろう」と益々、噂は人々に信じられる様になりました。

 自分に向けられた悪評を逸らす為、ネロは「キリスト教徒がローマに火を放った」と言いふらし、キリスト教徒を捕らえて処刑したのですが、この時、伝道者パウロも処刑されました。
キリスト教徒を迫害したのも、彼だけでは無く、その後益々、激しさを増していくのですが、コンスタチヌス帝の時、キリスト教は、ローマ帝国の国教と成り、やがてヨーロッパ全土広がって行きます。
キリスト教徒を始めて迫害したネロは、彼等によって、極悪人とされ、やがて「暴君」と呼ばれる様に成ったのです。

本編終了・・・

2010/06/18

歴史の?その221:正史の中の疑問28:ネロは果たして暴君だったのか・前編

<正史の中の疑問28:ネロは果たして暴君だったのか・前編>

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 「皇帝ネロ」(在位西暦54年~同65年)の名前を聞くと、殆どの皆さんは、反射的に「暴君」と言う言葉を連想する程、彼は、残虐非道な皇帝として後世に伝わりました。
彼は、自分の意に沿わぬ者の命を次々に奪っていったと伝えられています。
その非業の死を遂げた者の中には、彼の実母アグリッピナや妃のオクタヴィア迄含まれています。

 しかし、彼の時代には、この様な行為が、日常茶飯事であり、今日では想像できない時代であった事、従って、宮廷には、毒殺専門の調剤師が存在し、貴人達の殆どは、食事には必ず、毒味役の奴隷を伴い、彼等が試した物以外、絶対に口をつけないしきたりに成っている程でした。

 ネロの実母アグリッピナは、権力狂で、息子のネロが生まれる時、「この子は皇帝に就けるが、母を殺す」と予言されたものの、彼女は、「皇帝に成るのなら、自分の命を捧げる」と言ったと伝えられ、息子を皇帝にする為、皇帝クラウディウスと再婚し、ネロを養子としました。
その後、アグリッピナは、クラウディウスを毒殺し、彼の娘オクタヴィアをネロの妃としたのです。

 こうして、彼女の苦心の結果、皇帝の座に就いたネロが、時を経て彼女の自由に成ら無くなって来ると、他の者を皇帝にする為、陰謀を企みます。
従って、実母アグリッピナの殺害に関しては、むしろ、ネロに同情する人々も多かったのでした。

 しかし、彼の狂気じみた振舞いが、次第に激しさを増し、ガリアに反乱が起こり、元老院や皇帝近衛兵も彼を見放す結果となりました。
ネロは、ローマから逃れ、最後に自陣して果てるのですが、彼を「暴君」と呼ぶ様に成ったのは、実は更に後世の事でした。

後編へ続く・・・
2010/06/17

歴史の?その220:正史の中の疑問27:ルビコン川はどの川なのか・後編

<正史の中の疑問27:ルビコン川はどの川なのか・後編>

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 さて、ここで「ルビコン川を渡る」と云う諺も出来ましたが、この時渡った「ルビコン川」は、ガリアとローマ帝国の国境に在る川で、ガリアは、アルプス山脈を挟んで両方に存在し、この場合のガリアを「ガリア・キス・アルピナ(アルプスの此方側にあるガリア)」と呼ばれている地域でした。
「ルビコン川」は、赤い川の意味で、歴史地図を見るとたいてい図示されていますが、実際は、アリミニウムの北に位置する川で、アドリア海に注ぐ川は、大変多く、ルビコン川がその多くの川の一つと云う事以外、実際のルビコン川が、今日のどの川に当たるのか、はっきりと解明されていません。
「ルビコン川」を「フィウミキノ川」「ウソ川」とする説も在りますが、何れにせよ、ガリアとローマ帝国の国境に位置した川で、カエサル由来の名高い川で在りながら、不思議な事に学会の意見は、定まっていません。

 ルビコン川を渡った、カエサルは、ポンペイウス、元老院派と戦い、ポンペイウスは、ギリシアのファルサロスで、カエサル軍に撃破され、更にエジプト迄逃れたものの、紀元前84年この地で、果てました。

 ポンペイウスを追ってエジプトに来た、カエサルは、時のクレオパトラを見初め、彼女を愛し、その頼みを受け入れて彼女を援助し、エジプトの女王としました。
先に記述した「クレオパトラの鼻・・・」の言葉は、この歴史的背景から出てきたものなのです。
その後もカエサルは、東方遠征を行い、ポントスを平定しましたが、この事を友人である。マティウスに知らせた時の彼の手紙が、「来たり、見たり、勝ちたり」でした。
軍人らしい簡潔な文書の上、韻を踏んだこの言葉は、大変有名になりました。

 やがて、カエサルは、ローマに凱旋しますが、皇帝の地位への野心を疑われ、紀元前44年3月15日、元老院で暗殺者の刃に襲われます。
当初、カエサルは、痛手を受けたものの屈せず、勇敢に暗殺者と対峙しましが、その中に息子の様に目を掛けたブルータスが、加わっている事を知り、「ブルータスお前もか」と言って抵抗を止め、殺されたと云います。
彼が最後に息を引取ったのは、ポンペイウスの像の下であると伝えられています。

本編終了・・・
2010/06/16

歴史の?その219:正史の中の疑問26:ルビコン川はどの川なのか・前編

<正史の中の疑問26:ルビコン川はどの川なのか・前編>

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 歴史上の著名人は、数多く居ますが、ローマ時代のユリウス・カエサル程、色々な意味で引用される人物も少ないのではないでしょうか。
彼のカエサルと言う姓は、後年役職の名称となり、更には「皇帝」を意味する言葉になりました。
帝政ロシア時代、皇帝を意味する「ツァー」、ドイツ帝国時代の「カイゼル」供にカエサルのロシア語、ドイツ語読みであり、この様な事例は、殆んど無いと思われます。
嘗て「太閤」が豊臣秀吉を指す言葉になった例は、ありますが、ゲーテが素晴らしい詩人でも、他の詩人をゲーテと呼ぶ習慣はありません。

 更に、その言葉が、格言化した事例もカエサルが、第一であろうと考えられます。
「さいは投げられた」「ルビコンを渡る」「着たり、見たり、勝ちたり」「ブルータスお前もか」等の諺は、全てカエサルから来ているのです。
尚、「カエサルの物はカエサルに」と云う聖書におけるキリストの言葉は、彼の事を指し示すのではなく、役職としての「カエサル」を示しているのです。
又、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の顔(歴史)は変わっていただろう」と云う有名な言葉は、フランスの哲学者パスカルの言葉で、「カエサル」は表面に出てきませんが、裏の意味として含まれています。

 紀元前60年、カエサルは、ポンペイウス、クラッススと結んで「第一次三頭政治」を始め、元老院に対抗し、彼はガリア(イタリア北部から現在のフランスに至る、ケルト人の居住地域)を平定します。
カエサルの名声が、ガリアの地で高まるにつれ、ポンペイウスは彼から離反し、元老院と結託して、紀元前49年、
カエサルは、任地ガリアからローマへの帰還を命じられました。

 ローマへの帰還は、軍隊の武装解除を意味しますが、カエサルは、ルビコン川の対岸で、しばし熟慮の後「さいは投げられた」と言い、軍隊の武装解除をせずに「ルビコンを渡り」ローマ帝国の国境を越えました。
この事から、思い切った冒険、判断をする時、「さいは投げられた」なる諺が生まれましたが、この言葉は、本来ギリシアの喜劇作家メナンドロスが、劇中に使用した台詞で、これをカエサルは使用したのでした。

後編へ続く・・・
2010/06/15

歴史の?その218:正史の中の疑問25:消えたスパルタの勇士

<正史の中の疑問25:消えたスパルタの勇士>

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 今から2500年程昔の事、ギリシアのスパルタで、月桂樹の冠を被った2000人の勇士達が、神殿から神殿へと行列を作って練り歩きました。
彼等は、スパルタで、「ヘイロタイ」と呼ばれる奴隷的身分の者達で、先の戦争で、スパルタ人と供に勇敢に戦い、その手柄として、奴隷の身分から解放され、自由人と為る事が許されたのでした。
ところが、この行事から暫く後、この2000人の勇士は、一人残らず行方知れずに成ってしまいました。

 さて、スパルタは、ギリシアの南部、ペロポネソス半島に存在した、強国で、「ドーリス人」と呼ばれるギリシア人の集団が、紀元前1200年頃、北方からギリシアに侵入し、ペロポネソス半島の先住民を征服して、建国した国家が、スパルタでした。
彼等に征服された先住民は、奴隷的身分を与え、此れが「ヘイロタイ」と呼ばれる人々で、人口の上では、圧倒的にスパルタ人より多く、歴史学者 ベロッホは、紀元前5世紀末、自由人であるスパルタ人の成年男子の数は、2500人、一方「ヘイロタイ」の成年男子は、17万5000人であると計算しています。

 スパルタ人は、農耕を「ヘイロタイ」に行わせ、収穫物の半分を取り立て、彼等は、一切の労働作業に従事する事無く、体の鍛錬、軍事訓練に励んだのです。
此れら、一連の鍛錬、訓練は、スパルタ人にとっても大変厳格なもので「スパルタ教育」の語源とも成りましたが、このお陰で、スパルタは、ギリシア第一の強国と成ったのです。

 当時、ギリシアの国々は、何時もお互いに戦争状態に在り、従ってスパルタの男性は、国を離れて従軍する事が多く、当然、自分達が居ない祖国を常に心配していました。
スパルタ人が、遠征の最中にもし「ヘイロタイ」が反乱等でほう起した場合、其れはスパルタの滅亡を意味する事から、むしろ「ヘイロタイ」の反乱を彼等は、大変恐れていました。
スパルタ人は、常に「ヘイロタイ」の力を弱める様に努め、毎年1回、彼等を鞭で打ち、奴隷で有る事を忘れない様にし、余りに強い「ヘイロタイ」は、罪の如何に関係無く死刑にされたのです。

 スパルタの青年達は、「クリュプティア」と呼ばれる武者修行も行い、彼等は、人気の無い場所に行き、昼間は、身を潜め、夜間行動し、行き会った罪も無い「ヘイロタイ」を殺すのです。
この行為は、「ヘイロタイ」にスパルタ人を恐れさせ、反抗の気力を殺ぐ為でも在りました。
2000人の「ヘイロタイ」勇士が消滅したのも、この為で、スパルタ人は、戦場で勇ましく戦い、めざましい武勲を立てる様な「ヘイロタイ」を特に危険分子と見なし、自由を与えた上で、殺してしまったのです。

補遺

 古代スパルタの諸制度、特に教育制度は、リュクルゴスが定めたと伝えられており、彼の実在を疑う歴史学者も居ますが、プルタルコスの「英雄伝(対比列伝)」にも紹介されており、更に「アギスとクレオメネス」の伝記によって、スパルタ国家の末期が、良く理解できます。

続く・・・

2010/06/14

歴史の?その217:正史の中の疑問24:泣き出したカリアティド

<正史の中の疑問24:泣き出したカリアティド>

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 私は、ギリシアと言う名前から、アテネ市のアクロポリスに建つ、「パルテノン神殿」を連想します。
その「パルテノン神殿」の北に「エレクティオン神殿」が在ります。
この神殿は、ギリシアの神殿としては、特異な設計を持ち、アテネ市の守護神アテナと海神ポセイドンの他、アテネの古い王、エレクテウスを祭る神殿で有り、その敷地が北側に向かって、傾斜している土地に建造された為、複雑な建物となりました。

 「エレクティオン神殿」は、紀元前421年から同407年迄かかって建造され、その壁には、建設に要した費用が、詳しく彫り付けられており、当時のアテネの物価を知る上で、この上も無い資料と成っています。
しかし、この神殿で、最も有名なのは、南側のテラスで、乙女の姿をした石柱に支えられており、この石柱を「カリアテッド」と呼び、前列4体、後列2体が在ります。
その前列の柱の内、一部は石柱ではなく鉄筋が、填められて居ましたが、後年、乙女像のコピーに変更されました。
その部分の実物は、現在イギリスの大英帝国博物館に存在し、パルテノンの破風、柱間の彫刻類と一緒に、1803年頃エルギン伯トーマス・ブルースによってイギリスに持ち出されたものです。

 エルギン伯は、1799年トルコ公使となり、当時トルコ領で在ったギリシアで、ギリシア彫刻の素晴らしさの虜に成りました。
彼は、トルコ政府の許可を得て、画家達がアクロポリスの神殿の彫刻類をデッサンさせましたが、トルコ政府の役人を買収して、アクロポリスに上る許可、デッサンをする許可、石膏で模りする許可、その為彫刻類を高所から降ろす許可、彫刻の破片をイギリスに送る許可と次々により大幅な許可を得て、更に彼は、それらの許可を拡大解釈し、主にパルテノン神殿の彫刻類を200以上の箱にして、イギリスに送りました。

 エルギン伯は公使として、コンスタンチノープルに居り、アテネには、極稀にしか訪れず、之等一連の仕事は、部下達が執り行ったのですが、「エレクティオン神殿」乙女の柱も全て取り外して、イギリスに送る手筈で在ったものの、一体を外した処、乙女の柱は、悲鳴をあげて泣き出したと云います。
作業に従事していた、作業員は気味悪がり、誰も作業を続ける事を止め、乙女の柱は、一体を外しただけで取り止めに成りました。

 乙女の石柱が、悲鳴をあげて泣いたとは、随分不思議なお話ですが、此れは多分、柱を外した為に建物全体が崩壊しそうに成り、石が軋み、鳴り出したのだと思われます。
当然、作業員達は、巨大な神殿の石の下敷きに成る事を恐れたのでしょう。
乙女の柱を全部搬出する予定で在ったと伝えられますが、いくら大幅な許可を得ていてもその様な作業は、無理で

 実際、「パルテノン神殿」でも数多くの彫刻類を取り去りましたが、そのままの彫刻も在ります。
これは、その彫刻を取り外すと神殿そのものが、崩壊する危険があるからです。
乙女の柱も全てを取り去る予定なら、端の部分から取り去った筈で、2番目から取り外そうとした事は、元来、建造物の構造に影響を与える可能性の少ない部分と思われたからではないでしょうか?
乙女の柱が泣いたのは、作り話かも知れませんが、イギリス人の良心が泣いたのかも知れません。
詩人のバイロンは、エルギン伯の行為を非常に非難しました。

続く・・・
2010/06/12

歴史の?その216:正史の中の疑問23:マラソン競技の起源・後編

<正史の中の疑問23:マラソン競技の起源・後編>

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 しかし、この「マラソン競技」の起源には、多くの不明な点が多く存在します。
まず、第一に本当に戦勝を伝える者が居たのでしょうか?
「ペルシャ戦争」の歴史を記したヘロドトス(紀元前5世紀)は、当時の歴史上のエピソードは殆んど網羅しているにも係らず、この走者の話を伝えていません。

 この走者の話を最初に伝えたのは、「英雄伝」で有名なプルタルコスとルキアノスですが、マラトンの戦いから500年以上の後の人物で、「英雄伝」の中でプルタルコスが紹介しているヘラクレイデスは、紀元前4世紀の人物で、時代が異なります。
この様に勝利を伝えた走者の話は、後世の想像である様です。

 第二の疑問は、走者の名前で、スパルタ迄伝令に走った、ペイディッピデス、更にはテルシッポス、エウクレス、ディオメデスの名前が、伝えられていますが、定かでは有りません。
駄々、勝利を伝える伝令をアテネに出した事は、事実と考えられますが、勝利を伝えて息絶えた下りは、話を面白く脚色したもので、その為走者の名前が、曖昧になっていると考えられます。

 第三の疑問は、マラソン競技の距離の基と成った、マラトン・アテネ間の42.195kmがどの様に計測されたのかと言う点です。
1927年国際陸上連盟が調査を依頼し、翌年ギリシアが、マラトン・アテネ間の距離として出された結果は、36.75kmで、最初の数字の根拠が、依然曖昧なままなのです。

 さて、アテネで開催された「第一回近代オリンピック」では、アメリカがメダルの大多数を占め、開催国ギリシアは、不振でした。
しかし、マラソン競技に優秀したのは、ギリシア人 スピリドン・ルーエスで、記録は2時間55分。
時のギリシア皇太子兄弟が、彼を肩車に乗せて、貴賓席迄運び、ルーエスは、ブレアルの寄贈した記念杯を受け取ったのでした。

続く・・・
2010/06/11

歴史の?その215:正史の中の疑問22:マラソン競技の起源・前編

<正史の中の疑問22:マラソン競技の起源・前編>

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 近代オリンピックの華と呼称される「マラソン競技」ですが、この「マラソン競技」が古代オリンピックにおいても行われていたと考える人も居りますが、それは誤りです。
近代オリンピックは、フランスのクーベルタンの提案で始められ、その第一回大会は、1896年、古代オリンピック発祥の地、アテネで開催されました。

 その第一回大会の時、フランスの言語学者 ミシェル・ブレアルの提案から現在の「マラソン競技」が始りました。
ブレアルは、紀元前490年、アテネ陸軍がペルシャの大軍をマラトンの野に撃破し、ギリシアを救った時に在ったとして伝わっている話を基に「マラソン競技」を提唱したのでした。

 マラトンの野は、アテネの北東に位置し、予てよりギリシア侵略を目論んでいた、時のペルシャ王ダリウスは、紀元前490年、600隻の大艦隊をアテネに送り、マラトンの野に上陸(第二次ペルシャ戦争)し、アテネは、1万人の重装歩兵でこれを迎え撃ちました。
アテネは、スパルタに援軍を求め、俊足のペイディッピデスを伝令に出し、彼は、アテネ、スパルタ間240kmを二日で走破したと伝えられています。

 しかし、その時スパルタは、祭りの最中で、祭りが終わる1週間後の満月の日に成る迄、援軍を出せませんでした。
其の内、援軍の到着を待たずして、ペルシャ軍とアテネ軍の間に戦闘が、勃発しました。
此れを「マラトンの戦い」と云い、ペルシャ軍の勢力は、アテネ軍の10倍と云われますが、戦闘は、地形を有利に展開したアテネ軍の勝利に終わりました。
当時の記録では、ペルシャ軍の戦死者は。6000人を超える数で在ったにも係らず、アテネ軍の喪失は、200人に満たなかったと記録されています。

 この勝利を知らせる為に、ある男がアテネ市迄全力で走りました。
彼はアテネ市の入口で「喜べ!勝った!」と一声叫び、息を引取ったと云います。
此れが「マラソン競技」の起源に成った事件で、今日のマラソン競技の距離42.195kmは、マラトンとアテネの距離と伝えられています。

後編へ続く・・・
2010/06/09

歴史の?その214:正史の中の疑問21:ミノア文字

<正史の中の疑問21:ミノア文字>

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 クレタ文明には、「ミノア文字」呼ぶ文字が、存在し、絵文字と線文字に判れ、更に線文字は、二体(A&B)ある事が、アーサー・エバンズの発掘調査以来判明していましたが、これを解読する事は、容易ではありませんでした。

 1936年の事、アーサー・エバンズは、ロンドンで「誰にも読めない文字の話し」と題して、学術講演を行い、この「ミノア文字」を紹介しました。
その時、マイケル・ヴェントリスという当時14歳の少年が、この講演を熱心に聞き、「自分がこの文字を読み解く」と決心したのです。

 マイケル少年は、幼い頃から、古い文字に興味を持ち、7歳の時には、お金を貯めて、エジプトの象形文字について書かれたドイツ語の書物を買う事もある程でした。
彼は、英国の比較的裕福な家庭に生まれ、父はインド駐留の陸軍将校、母はポーランド系の才能ある女性でした。
その為か、語学には天才的な素質を持ち、幼い頃から数ヶ国語を自由に話す事が、出来ました。
しかし、学業では言語学を専攻せず、建築学を選び、第二次世界大戦に従軍し、暗号解読を任務としました。
建築学の道に入った、ヴェントリスは、少年時代の決心を忘れた訳ではなく、エバンズの講演を聞いた後も「ミノア文字」の研究を続け、その研究レポートを時々、学者達に送り指導を仰いでいました。(20回以上もレポートを作成した事が判っています)

 彼の他にも「ミノア文字」を研究している人々が、勿論居り、ブルガリアのゲオルギエフの他、自分はミノア文字を解読したと称する学者は、多く存在しましたが、正しい解読と認められず、アメリカ・コロンビア大学のアリス・コーバーに至っては、もう少しの努力で、解読できる処迄来ていながら「これはとうてい読み解けない文字である」として、研究を中断してしまう程でした。

 さて、1939年、ペロポネソス半島のピュロスから、ミノア線文字Bで書かれた粘土版が多数発掘され、比較材料が増えた事により、研究も進み解読の手掛かりも幾つか判明してきました。
「ミノア線文字B」は、文字数88、此れは表音文字としては多く、表意文字としては少なすぎる事から、日本のカナ文字の様に母音と子音の組合せであろうと推定され、又、語尾変化、接頭語、文節記号も判明してきました。
この難解な文字をヴェントリスは、少年時代に決心して通りに、終に解読しました。

 但し、解読出来たのは、「ミノア線文字B」のみでした。
彼は、此れを古代ギリシア語を表現する文字と考え、日本のアイウエオを表す50音表の様な「ミノア線文字B」の「音の格子」と名づけた表を作成し、88文字にも上る線文字Bを格子に当てはめ、1952年、何時もと同様にレポートを作成しました。

 ケンブリッジ大学のギリシア語教授 チャドウィックが、ヴェントリスのレポートを読み、彼の解読作業に協力を申し出、この二人の共同研究の結果は、翌年学会に発表され、大論争が起こりましたが、後年、ヴェントリスの解読を証明する、新たな粘土版が発見され、今日、彼の解読は正しいものとして承認されています。

 しかし、ヴェントリスは、1956年9月自動車事故の為、僅か34歳の若さで急逝し、ギリシアの人々の間では「神々に愛された者は若死にする」と云う諺が有りますが、彼も神々に愛された為に若死にしたのだと人々を惜しませました。
死に到迄にヴェントリスは、「ミノア線文字B」に関する研究書を著し、後の世の人々が更に研究を進める為の手引きを完成させました。
こうして、「ミノア線文字B」の解読は成功したものの、「ミノア線文字A」「絵文字」の解読は、現在でも成し遂げられていません。

続く・・・
2010/06/08

歴史の?その213:正史の中の疑問⑳:ミノタウロス

<正史の中の疑問⑳:ミノタウロス>

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 ギリシアと小アジアに挟まれた多島海、エーゲ海の南にクレタ島が在ります。
クレタ島には、複雑な内部構造を持つ建造物「迷宮:ラピュリントス」が在り、此処は1度入ると2度と外部に出る事は出来ないと云われてきました。
その上、この迷宮には、頭が牛、体が人間の「ミノタウロス」が住み、生きている人間を餌食にしていいたと云います。

 アテネの王子テセウスは、クレタの王女アドリアネの教示に従い、糸玉を持って迷宮に入り、ミノタウロスを倒し無事に迷宮からの脱出に成功しました。
さて、「迷宮」・「ミノタウロス」、如何にも神話に有りそうな不思議なお話で、とても実話とは思えません。
上記のテセウスの伝説を著した、ギリシア人プルタルコスも「大変、芝居じみた話」として、紹介しています。

 ところが、この神話伝説が、全くの作り事ではなかった事が、現在からほぼ1世紀前に明らかに成りました。
20世紀初頭、1900年頃から、英国人考古学者アーサー・エバンズは、クレタ文面の中心地クノッソスの発掘作業を開始し、やがて古代クレタ文明に登場する、ミノス王の王宮跡を発見しました。
王宮は、正しく迷路で、大きなそして複雑な建造物でしたが、これは、その敷地が平地ではない事も有り、ある場所では、4階、別に場所では、1階という様な建物で、しかも100以上もの部屋を持っていました。
廊下は、曲がり階段は、四方に在ると言った状況で、本当に1度入ったら、出口を見つける事は難しく、「迷宮」の伝説を生に相応しい建物でした。

 この王宮が、栄えたのは、約3500年前の事で、当時エーゲ海には、「エーゲ文明」と呼称される金石併用文明が在り、クレタ島は、その中心で、クレタ島を統治したミノス王は、エーゲ海の島々、更にはギリシア本土迄勢力を伸ばしていたのでした。

 クレタでは、絵画が発達し、王宮の壁や天井には、多くの壁画が描かれ、その写実的な技法は、美術的にも優れていますが、当時、クレタ島に生きた人々の生活を垣間見る素晴らしい資料でも在ります。
これらの絵画からクレタ島に生きた人々は、農業・漁業・貿易等を営み、明るい生活を送っていた事が読み取れます。

 王宮の発掘によって「迷宮」の謎は、解けましたが、そこに住んでいた「ミノタウロス」の謎もやがて判明しました。
英国人神学者ハリソンは、発掘された、クノッソス王宮の壁画、彫刻等から、クレタ島では、牛が聖獣で神として崇拝され、牛の角は神聖な物の象徴とされており、祭りの時は、牛の角を握って牛の上を飛び越す「牛飛び」競技が行われたのでした。
クレタの王は、最高神官も兼ねていたので、時には牛の被り物を付け、神そのものを演じていたのです。
この祭りが「ミノタウロス」の伝説を形成したのですが、「ミノタウロス」は、「ミノスの牡牛」の意味であり、アテネの王子テセウスが、ミノタウロスを倒した事を神話ではなく、事実の物語として考察される事もあります。

 この様に「迷宮」「ミノタウロス」の謎は、解明されて行きましたが、この文明を創りあげた人々がどの様な人種であったのか、又彼等の使用した絵文字の他、ミノア線文字Aは、現在でも解明されていません。

続く・・・
2010/06/07

歴史の?その212:正史の中の疑問⑲:モヘンジョ・ダロ

<正史の中の疑問⑲:モヘンジョ・ダロ>

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 ヒマラヤ山脈に源を発するインダス川の下流、パキスタンに「モヘンジョ・ダロ(死の丘)」と呼ばれる丘が在ります。
1922年の事、モヘンジョ・ダロの正式な組織的発掘調査が、開始されこの丘全体に古代遺跡が埋蔵されている事が、確認されました。
およそ10年間にも及ぶ、大規模な発掘調査の結果、紀元前3500年頃から約1000年間程栄えた、インダス文明の町の遺跡が姿を表したのでした。

 現在から遡る事5500年前、まだ金石併用文明期の町が、整備された都市計画に基づいて建設されている事は驚異です。
東西、南北に主要道路が走り、多くの小道が、この主要道路に直角に交わり、更には下水設備迄整備された町でした。
発掘当時、下水設備等の整備が遅れていた国々にとって、この古代都市の存在は、驚くべきもので在った事は事実です。
下水設備だけでなく、生活ごみ、井戸、浴室も整備されていましたが、煮炊きをする場所、すなわち台所が無い面も当時の考古学者達を戸惑わせたものです。

 又、モヘンジョ・ダロには、公共浴場等の建築物は存在しますが、ギリシアやローマの都市の様に宮殿、神殿らしき建造物は発見されませんでした。
ここで、浴場の存在を単なる「入浴」と言う概念を外し、我が国の神道における「禊」の様な清めの儀式の場所と考えれば、モヘンジョ・ダロでは、水浴は宗教的な行事として、行われていたのではないかと推測され、神殿が存在せず、浴場が存在する事は、宗教的なものとして考えられています。
モヘンジョ・ダロは、インダス川の氾濫により、都市としての機能を喪失したと考えらています。

続く・・・
2010/06/05

歴史の?その211:正史の中の疑問⑱:エジプト王の呪い

<正史の中の疑問⑱:エジプト王の呪い>

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 20世紀最大の考古学上の発見と云われる、エジプトの「トゥタンカーメン王墓発掘」は、多くの歴史的遺物が多数出土し当時の学会を賑わしました。

 ご存知の様にエジプトのピラミッドは、王墓で王の亡骸や生前の日用品が数多く埋葬され、王が黄泉の國での生活に困る事が無い様に配慮されていましが、当然、墓荒しの対象となった事は、言うまでも有りません。
後にピラミッドを造営する事なく、死後の王を称える神殿やオベリスクを目立つ所に建立し、王の亡骸は、目立つ事の無い場所に安置するようになりました。
何時しか、その場所は「王家の谷」と呼ばれ、埋蔵品を守ろうとする王朝側とそれを盗み出そうとする盗賊達の智恵比べの場所ともなり、後年、未盗掘の王墓を発見する事は、考古学者の悲願となっていました。

 しかし、1920年11月3日、イギリスの考古学者カーターが、終に未盗掘の王墓を探し当てたのです。
彼は、第一次世界大戦の前から、現地に赴き、当時盗掘による遺品が、全く発見されていなかった、トゥタンカーメン王の墓が、この「王家の谷」の何処かにある事を確信し、幾度もの失敗を繰り返しながらの発見でした。
彼は、資金的なパトロンである、同郷のカーナヴォン卿に電報を打ち、カーナヴォン卿は、発見の興奮も覚めやらぬ24日現地に到着。
愈々、王墓本体に発掘が始まり、未盗掘の王墓が、姿を表したのです。

 王の亡骸は、三重の黄金の棺に納められ、その上を石棺が被い、更に四重の厨子がその上を被い、王の亡骸を包む麻布には、多数の宝石が包み混まれ、当時の栄華を偲ばせるに十分なものでした。
トゥタンカーメン王は、紀元前1358年から約10年程エジプトを統治した王様で、他界した時の年齢は、18歳から20歳位の若い王様です。
この発掘が、行われる迄、殆んど一般の人々が耳にする名前ではないのですが、その様な少年王ですら、耳目を驚かす程の素晴らしい出土品が、発見されたのですから、他の有名で、長寿を得た王様の墓がどれ程、立派で有ったか想像できます。

 さて、カーナヴォン卿は、1923年に現地で「蚊」に刺され、熱病になり3週間程後に亡くなりましたが、この頃から「ファラオの呪い」と云う噂が広まり始めました。
真偽は兎も角、トゥタンカーメン王墓の発掘に従事した、人々が、1930年頃迄に次々と20人以上死去したと新聞に報じられ「ファラオの呪い」は、有名になりました。
その中には、健康体にも係らず急死した、リチャード・ビゼール(カーターの助手)、自宅の7階から投信自殺した、ウェストベリー卿等が居り、一時は、カーター自身もアメリカで死亡した伝えられた程でした。

 余りの噂にドイツのエジプト学者、シュタインドルフが調査したところ全てが、単なる噂に過ぎない事を実証し「ファラオの呪い」説を打ち消しました。
此れは、トゥタンカーメン王墓の素晴らしさと、カーナヴォン卿の死が余りに急であったので、この様な噂(現在なら都市伝説)が一人歩きした結果でしょう。
尚、カーター本人は、66歳迄無事に生存し、1939年に世を去りました。

続く・・・
2010/06/03

歴史の?その210:正史の中の疑問⑰:蒙古来襲・後編

<正史の中の疑問⑰:蒙古来襲・後編>

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 歴史書には「一夜の大風雨によって、敵船の大半は転覆した」と記述され、7年後の「弘安の役」(1281年)の時も、台風によって蒙古軍は、敗退したというのが、従来の定説、通説でした。
近年「文永の役を終結させたのは、台風ではない」との見解が発表されますが、事実10月下旬に北部九州に到来する台風は、有りません。
又、信頼すべき資料、文献に台風の来襲を明示したものが無い事から、蒙古軍は予定して退却したのだと考えられるとしたものが、新設の根拠に成っています。

 この日の戦闘を有利に展開していた、蒙古軍は、なぜ撤退したのでしょう?
元の記録によれば「軍が整わず、又矢も尽きた為」と在り、更に「疲れた兵を持って、大敵と戦う事は不利」と判断した為でした。
蒙古軍は、作戦を中止して、撤退したのですが、確かにその夜、大風が吹きました。
高麗の記録や、京都における公家の日記でも、はっきりと「大風雨」又は。「逆風」が在った事が記されていて、疑う余地は無く、台風では無いにしても、蒙古軍の船団は、この気象状況によって大損害を受け、溺死する者が多数に及び、高麗では、未帰還者の数を13000余人と記しています。

 一日の戦闘に28000人の全軍が上陸していたとは、作戦上からも考え難く、上陸作戦の常識でも実際に上陸したのは、10000人程度と思われます。
従って、犠牲者の大半は、風による遭難で在り、過半数の軍勢は続いて上陸すべ船内に待機していたはずです。
しかも一帯の占領も行う事無く撤退した事は、日本側の抵抗の強さに圧倒された為かも知れません。
もし、翌日も新手を繰り出して、作戦を継続しておれば、恐らく大宰府迄突破され、現在の福岡市一帯は、大損害を被ったに違い有りません。

 蒙古軍はなぜ撤退したのか?としての疑問は依然として残る訳ですが、推察すると、騎馬戦、陸上戦に長じた蒙古軍も、海を越えての作戦は、不利で在ったと思われ、日本への遠征は2度試みられて、供に失敗し、後にはジャワ遠征(1291~1292)も又失敗し、ベトナムに対する遠征(1284年)も暴風雨による大損害を免れませんでした。

本編終了・・・
2010/06/02

歴史の?その209:正史の中の疑問⑯:蒙古来襲・前編

<正史の中の疑問⑯:蒙古来襲・前編>

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 文永11年10月20日(太陽暦11月19日)、日本は記録上初めて、異国の侵略を受けました。
「文永の役」、いわゆる元寇です。
博多の湾内は、前日から蒙古の軍船で埋まり、その数900隻余り、既に対馬、壱岐を攻略し、その守備軍を全滅させ、今当に九州本土に達したのでした。

 蒙古は国号を「元」と称し、中国北部を領土として、朝鮮半島も完全に制圧され、高麗は属国となり、日本もその勢力下に置こうとしていました。
中国や高麗から徴兵された将兵の数、28000人、その他高麗が、供与した水夫は6800人に上ります。

 夜が明けると、蒙古軍は博多湾の西方に上陸を開始し、人馬供に大集団を成し、ときの声を上げ、日本側に襲い掛かります。
日本軍は、其れまでの戦いと全く異なる戦法(一騎打ちに対する集団戦法)に苦戦を強いられ、善戦はしたものの、じりじりと後方に押され、夕方には、博多の本陣も突破され、総崩れとなり南に向かって退きます。
大宰府の守備を固めて、改めて蒙古軍を食い止める戦法をとりました。
蒙古軍は、博多の町を席捲して、箱崎方向(東向き)に軍を進め、町には火が放たれます。
この日は、朝から曇り空でしたが、夕方から雨となり、南へ退いた人々は、遥かに望む猛火を見て、降りしきる雨に涙を流しました。

 恐ろしい一夜が明けると、蒙古軍の姿が無い!
海には、軍船の姿も無く、町には、兵の姿も無く、僅かに、志賀島の砂州に一隻が、打ち上げられています。
蒙古軍は、昨夜の内に退去していたのでした。
昨晩は、大風が吹き、そん為に蒙古軍の大船団は姿を消したのでしょうか?
奇跡でした。

後編へ続く・・・
2010/06/01

歴史の?その208:正史の中の疑問⑮:唐に献上された日本の舞姫・後編

<正史の中の疑問⑮:唐に献上された日本の舞姫・後編>

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 渤海は、現在の中国東北部から朝鮮半島にかけて、勢力を伸ばした大国で、7世紀末に建国し、唐に通じた他、日本にも使節を送っていました。
渤海の使節は、日本に対しても、うやうやしく臣下としての礼をとり、貢物を捧げ、天皇の徳を慕って来朝したと称しました。
よって、奈良の朝廷は、使節の接待に国費を傾けたのでした。

 渤海からの貢物は何かと云えば、その領内に産する動物の毛皮が、主な物で、虎、ヒグマ、テンの皮、人参、蜂蜜が中心で、之に対して、朝廷は豪華な絹製品を大量に与えました。
実は、渤海が度々日本に使節を送る目的も、この恩寵の品が大きな目的であったと思われます。

 では渤海が「舞姫」を、どの様にして手にしたのかについては、流石に当時の記録にも「舞姫」迄与えたとは記録されていませんが、唐に献上している以上、日本から連れ帰ったに違いないのです・
渤海の使節が、来朝すると、連日の様に宴席が持たれ、朝廷からは、女樂を賜りとの記録も在り、宮中で召抱えている舞姫達を、宴席に侍らせたのでしょう。
唐に献上された「舞姫」とは、この事であると思われ、献上の年にもっとも近い、渤海の入朝は宝亀2年(771年)に7回目の使節が入京した事が、朝廷の記録に残されています。

 何人の「舞姫」が異郷の地に伴われたのか、渤海の都での境遇等は、今と成っては知る事も不可能ですが、少なくとも11人は、日本の女性として満州の広野に足跡を印し、この地で5年余りを送った後、長安に貢物として送られたのでしょう。
その翌年の遣唐使一行が、かつての同朋が長安に居る事を知っていたのか、朝廷がその事実を知っていたのかは解かりません。
11人の「舞姫」は一度、長安に現れ、おそらく宮廷の奥深く、永遠に姿を消したのでした。

 その後も、渤海と日本の国交は続き、朝廷の歓待したのは言う迄もありません。
聖武天皇の御世、神亀4年(727年)に初めて来朝し、醍醐天皇の御世、延長4年(926年)に渤海の国が滅亡する迄、その使節の来朝は、実に35回。
奈良時代から平安時代を通じて、常に渤海は忠誠な国で在り、その外交は巧みで在りました。

本編終了・・・