歴史の?その252:正史の中の疑問58:建文帝の行方・後編
<正史の中の疑問58:建文帝の行方・後編>

年は改まり建文元年(1399年)7月、終に燕王は挙兵します(靖難の変)。
挙兵の名目は、君側(皇帝の側)の悪を清めると云うものでありましたが、座して力を失うよりは、立って天下を定めよう、其れが燕王の意志であり、道えんの計で有ったに違い有りません。
建文帝は、互いに大軍を率いて善戦し、戦局は一進一退、3年余りの月日が流れ、最後の勝利は燕王に訪れました。
1402年6月、燕王の軍は都の城門を埋め、建文帝は、援軍を願ったが終に空しく、城門を開き、文武百官は降伏します。
御殿には火の手が上がり、その中で皇后は自害、建文帝の所在も分からず、後に焼け跡から皇帝の遺骨が探し出されたものの、誰一人、皇帝の遺骸と確認できる者は居ませんでした。
かくて、燕王は帝位に就き、世祖永楽帝と成り、その治世は22年間に及び、父の洪武帝に劣らぬ英主でした。
北方のモンゴルに遠征する事5回、内3回は、モンゴルの軍勢を打ち破り、又鄭和に命じて、大艦隊を率いて、南海遠征を行う事6回、その足跡は、遠くインド洋を越えアラビアに達し、1度はアフリカ沿岸に及びました。
南海の富は、中国に集まりますが、鄭和の遠征を建文帝の行方を探ろうとするものとの風説も、早くから湧いていました。
永楽帝の時代、終に建文帝の消息は聞かれず、その後、皇帝の代の変わる事三度、正統帝の御世、正統5年(1440年)に及んでは、建文帝の末も38年の遠きに隔て、その時、老僧の姿と成って、宮中に建文帝は現れます。
勿論、正史には記録は無く、風聞を外史が伝えているのみなのですが・・・。
外史によれば、「落城に及んで、建文帝は僧の姿となって、ひそかに城を抜け出し、名を改めて応文と称し、南の方を指して落ちていった。
各地を巡り、朝廷の追っ手を逃れつつ、山青く、雲白きところに、静に余生を送っていたのであった
宮中に赴くや、往年の臣下を認め、直ちにその名前を呼んだと云う。
老僧の左足には、建文帝と同じほくろが在った。
それより、廃帝は老仏と呼ばれ、宮中に向かえられ長寿を保った」と伝えられています。
以上の段落は、外史の一節ですが、不幸の死を遂げた皇帝や英雄に関して、その遺骸が確認されぬ場合、必ずと言って良い程、その生存説が現れます。
やはり、生きていて欲しいという、人々の願いから発したものに違い無く、では建文帝の場合も同様に虚構に過ぎないのでしょうか?
全ては、遠い歴史の中の出来事となってしまいましたが、「ああ、数たると、数たらざると、・・・ただ天、これを知ることあらん」、数奇の事件を述べ終わり、露伴は、こう結びました。
本編終了・・・

年は改まり建文元年(1399年)7月、終に燕王は挙兵します(靖難の変)。
挙兵の名目は、君側(皇帝の側)の悪を清めると云うものでありましたが、座して力を失うよりは、立って天下を定めよう、其れが燕王の意志であり、道えんの計で有ったに違い有りません。
建文帝は、互いに大軍を率いて善戦し、戦局は一進一退、3年余りの月日が流れ、最後の勝利は燕王に訪れました。
1402年6月、燕王の軍は都の城門を埋め、建文帝は、援軍を願ったが終に空しく、城門を開き、文武百官は降伏します。
御殿には火の手が上がり、その中で皇后は自害、建文帝の所在も分からず、後に焼け跡から皇帝の遺骨が探し出されたものの、誰一人、皇帝の遺骸と確認できる者は居ませんでした。
かくて、燕王は帝位に就き、世祖永楽帝と成り、その治世は22年間に及び、父の洪武帝に劣らぬ英主でした。
北方のモンゴルに遠征する事5回、内3回は、モンゴルの軍勢を打ち破り、又鄭和に命じて、大艦隊を率いて、南海遠征を行う事6回、その足跡は、遠くインド洋を越えアラビアに達し、1度はアフリカ沿岸に及びました。
南海の富は、中国に集まりますが、鄭和の遠征を建文帝の行方を探ろうとするものとの風説も、早くから湧いていました。
永楽帝の時代、終に建文帝の消息は聞かれず、その後、皇帝の代の変わる事三度、正統帝の御世、正統5年(1440年)に及んでは、建文帝の末も38年の遠きに隔て、その時、老僧の姿と成って、宮中に建文帝は現れます。
勿論、正史には記録は無く、風聞を外史が伝えているのみなのですが・・・。
外史によれば、「落城に及んで、建文帝は僧の姿となって、ひそかに城を抜け出し、名を改めて応文と称し、南の方を指して落ちていった。
各地を巡り、朝廷の追っ手を逃れつつ、山青く、雲白きところに、静に余生を送っていたのであった
宮中に赴くや、往年の臣下を認め、直ちにその名前を呼んだと云う。
老僧の左足には、建文帝と同じほくろが在った。
それより、廃帝は老仏と呼ばれ、宮中に向かえられ長寿を保った」と伝えられています。
以上の段落は、外史の一節ですが、不幸の死を遂げた皇帝や英雄に関して、その遺骸が確認されぬ場合、必ずと言って良い程、その生存説が現れます。
やはり、生きていて欲しいという、人々の願いから発したものに違い無く、では建文帝の場合も同様に虚構に過ぎないのでしょうか?
全ては、遠い歴史の中の出来事となってしまいましたが、「ああ、数たると、数たらざると、・・・ただ天、これを知ることあらん」、数奇の事件を述べ終わり、露伴は、こう結びました。
本編終了・・・
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