2010/07/31

歴史の?その252:正史の中の疑問58:建文帝の行方・後編

<正史の中の疑問58:建文帝の行方・後編>

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 年は改まり建文元年(1399年)7月、終に燕王は挙兵します(靖難の変)。
挙兵の名目は、君側(皇帝の側)の悪を清めると云うものでありましたが、座して力を失うよりは、立って天下を定めよう、其れが燕王の意志であり、道えんの計で有ったに違い有りません。
建文帝は、互いに大軍を率いて善戦し、戦局は一進一退、3年余りの月日が流れ、最後の勝利は燕王に訪れました。

 1402年6月、燕王の軍は都の城門を埋め、建文帝は、援軍を願ったが終に空しく、城門を開き、文武百官は降伏します。
御殿には火の手が上がり、その中で皇后は自害、建文帝の所在も分からず、後に焼け跡から皇帝の遺骨が探し出されたものの、誰一人、皇帝の遺骸と確認できる者は居ませんでした。

かくて、燕王は帝位に就き、世祖永楽帝と成り、その治世は22年間に及び、父の洪武帝に劣らぬ英主でした。
北方のモンゴルに遠征する事5回、内3回は、モンゴルの軍勢を打ち破り、又鄭和に命じて、大艦隊を率いて、南海遠征を行う事6回、その足跡は、遠くインド洋を越えアラビアに達し、1度はアフリカ沿岸に及びました。
南海の富は、中国に集まりますが、鄭和の遠征を建文帝の行方を探ろうとするものとの風説も、早くから湧いていました。

 永楽帝の時代、終に建文帝の消息は聞かれず、その後、皇帝の代の変わる事三度、正統帝の御世、正統5年(1440年)に及んでは、建文帝の末も38年の遠きに隔て、その時、老僧の姿と成って、宮中に建文帝は現れます。
勿論、正史には記録は無く、風聞を外史が伝えているのみなのですが・・・。

 外史によれば、「落城に及んで、建文帝は僧の姿となって、ひそかに城を抜け出し、名を改めて応文と称し、南の方を指して落ちていった。
各地を巡り、朝廷の追っ手を逃れつつ、山青く、雲白きところに、静に余生を送っていたのであった
宮中に赴くや、往年の臣下を認め、直ちにその名前を呼んだと云う。
老僧の左足には、建文帝と同じほくろが在った。
それより、廃帝は老仏と呼ばれ、宮中に向かえられ長寿を保った」と伝えられています。

 以上の段落は、外史の一節ですが、不幸の死を遂げた皇帝や英雄に関して、その遺骸が確認されぬ場合、必ずと言って良い程、その生存説が現れます。
やはり、生きていて欲しいという、人々の願いから発したものに違い無く、では建文帝の場合も同様に虚構に過ぎないのでしょうか?
全ては、遠い歴史の中の出来事となってしまいましたが、「ああ、数たると、数たらざると、・・・ただ天、これを知ることあらん」、数奇の事件を述べ終わり、露伴は、こう結びました。

本編終了・・・
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2010/07/30

歴史の?その251:正史の中の疑問57:建文帝の行方・前編

<正史の中の疑問57:建文帝の行方・前編>

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 「世おのづから数といふもの有りや。有りといへば有るがごとく、無しとなせば無きにも似たり」。
幸田露伴の名作「運命」(大正8年)の冒頭の文書で、ここで露伴がえがこうとした題材は、中国明帝国の歴史の一こまでした。

 かくて露伴は・・・
「運移り、命あらたまるの時、多くは神異ありて、天意の属するところあるを示すものあり」。
明帝国を建国したのは朱元璋、即ち太祖洪武帝であり、平民から将軍となり、モンゴル人の元を打倒して、漢民族の中国を回復し、時に1368年、現在の南京に於いて皇帝の位に就きます。
その治世は31年の長きにおよび、1398年病を得て崩御、71歳でした。
長男は、早くに亡くなっていたので、その子供、皇太孫が帝位を引継ぎ、第二代皇帝建文帝と成りました。

 しかしながら、洪武帝には、多くの皇子が居り、皇子達は明の帝国を守るべき者として、それぞれ領地を与えられ、重要な地域に王として、存在していました。
中でも特に大きな勢力を有していたのは、現在の北京、当時の燕京で王と成った四男、燕王で在りました。
洪武帝崩御の時、燕王39歳、是に対して建文帝22歳。

 若い皇帝にとって20人以上に及ぶ、叔父達の王は、目の上の瘤以外何者でも無く、特に武勇の誉れ高い燕王は、一番の邪魔者で有りました。
建文帝は、燕王をはじめ、王達の勢力を削る為、姦計をめぐらせます。

 さて、これら20人以上に及ぶ王達の側には、王を補佐すべき者が洪武帝の命によって付けられており、言い換えれば、お目付け役であり、燕王の処にも侍僧が居ました。
この人物が、怪僧で名を道えんと云い、彼は自ら進んで燕王の付き人と成りました。
其の時「大王(燕王)が私を側に置いてくださいますならば、大王の為に白い帽子を差し上げましょう」、と云いました。
王の文字の上に白という文字を載せれば、皇という文字になります。

続く・・・
2010/07/29

歴史の?その250:正史の中の疑問56:清朝の黄昏・後編

<正史の中の疑問56:清朝の黄昏・後編>

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 その爆発が、戊戌の政変(1898年)で、光緒帝は少壮の官僚を当用して、諸政策の刷新を断行します。
親政が現実に開始されたのですが、勿論、西太后や旧保守派の側近達の反動は、日増しに激しさを増して行きます。
終に皇帝派は、最後の手段として、軍閥の首領たる袁世凱を味方に引き入れ、西太后派を打倒すると供に、西太后本人を政権の座から、永久に隔離しようと考えました。

 しかし、袁世凱は皇帝の密旨を受けると、そのまま西太后の下へ走り、直ちに西太后は、勅令は発し、皇帝派を一斉拘束、処刑してしまいます。
光緒帝も幽閉の身と成り、西太后は三度、摂政の地位に就き、この後の皇帝は正しく、名前ばかりの皇帝で在り、全ての政令は、西太后から発せられました。

 光緒34年(1908年)、明治41年、前年秋から光緒帝の病が伝えられていましたが、西太后も又、大病の床に臥し、既に74歳の高齢と成っており、もし、西太后に万一の事が有れば、皇帝の親政が復活するのでしょうか?
この時迄、西太后の側近として、権力を謳歌して来た官僚達の運命は、如何なる事になるのでしょう?

 病床の西太后は、最後のそして重大な決定を下します。
1909年11月13日、皇太子として当時3歳の愛新覚羅・溥儀が指名を受けます。
光緒帝にも実子が無く、其処で、皇弟の醇親王の子を立てるという次第でした。
溥儀は、宮中に入り、醇親王は摂政王たるべき事も命じられたその翌日、光緒帝は崩御、更に翌日には、西太后も逝去し立て続けの悲報が、宮中を震撼させました。
今回の皇帝崩御に際しても、殺害の風説が宮中に渦巻きます。

 溥儀が清朝最後の皇帝、宣統帝で在り、後に大日本帝国の傀儡国家、満州国初代皇帝に成った事は、現在でも良く知られています。
溥儀の回顧録に以下の様な一節が有ります。
「光緒帝は崩御する前日迄、体調良く元気であった。処が、薬を一服飲んだとたん、症状が一変したと云う。その薬は、袁世凱がよこした物だった」。
「病気は、普通の感冒だった。宮中の人々は、皇帝の容態が重いとの知らせを聞いた時、皆不思議に思った。更に不思議な事に、容態が重いと知らされてから、4時間と経たない間に、崩御の知らせを聞いた」。
以上 “我が半生 上巻”より

 薄幸の皇帝、光緒帝は、本当に病に倒れたのでしょうか?
或は、同治帝や東太后と同様に、西太后の手に掛かってしまったのでしょうか?
しかし、この頃、清朝の命脈も当に尽き様としており、1912年2月、宣統帝は退位し、此処に清朝は事実上滅亡しますが、その水面下で暗躍した人物が、軍閥の巨頭袁世凱で在り、清朝の国務総理大臣と成りながら、一方では、国民党と手を結び、清朝打倒の後には、中華民国政府の初代大統領に就任する事と成ります。

本編終了・・・
2010/07/28

歴史の?その249:正史の中の疑問55:清朝の黄昏・前編

<正史の中の疑問55:清朝の黄昏・前編>

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 1875年1月(明治8年)、清朝の同治帝は、20歳の若さで崩御、子供も無く、死亡原因は、天然痘と発表されたものの、様々な風説が飛び交います。
先帝である、咸豊帝が1861年に崩御した際、皇后(東太后)には実子が無く、そこで妃の子供である同治帝が即位したのですが、其の時、同治帝僅かに6歳、東太后と西太后が供に並んで摂政と成りました。

 東太后は、大人しい女性で、政治上の野心も無い一方、西太后は、才気有る女傑で、この様な人物が並び立てば、権力は自ずと、西太后に集まるのは、成り行きです。
しかし、同治帝の皇后は、東太后の推挙した女性で在り、西太后は、同治帝が皇后と仲睦まじくする事を好みませんでした。
やがては、実子たる同治帝さえも、うとんじる様に成りました。

 その様な空気の中、皇帝は崩御、懐妊中の皇后は自害、良からぬ噂が飛び交っても其れは、致し方の無い事です。
皇帝崩御の当日、西太后は、宮中に人を集め、次なる皇帝を決めてしまいます。
その人物が、光緒帝で、西太后の妹の子で、年齢僅かに5歳、再び両太后が摂政する事が同時に定められました。

 其れから6年後、東太后は急死。
この時も毒殺との風説が、宮中に湧き上がったものの、真偽の程は定かではなく、権力は西太后の一身に集まりました。

 光緒13年(1887年)、皇帝も成年に達し、西太后の摂政を止め親政する旨が、公表されます。
しかし、西太后の権力は、衰える処を知らず、光緒帝自身も重要な政務には、その都度、西太后の指示を仰がなければ成りませんでした。
その上、皇后も西太后の姪を押付けられる形になり、青年皇帝の不満は、増える一方でした。
やがて、西太后やその側近に反対する勢力は、自ずと光緒帝の下に集まり、太后派と皇帝派の権力闘争は、次第に表面化して来ます。

続く・・・
2010/07/27

歴史の?その248:正史の中の疑問54:サラエヴォの悲劇・後編

正史の中の疑問54:サラエヴォの悲劇・後編

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 経路の変更を知らされていない運転手は、当初の予定通りアッペル・ケイ通りからフランツ・ヨーゼフ通りに曲がろうとした時、ボスニア知事が「違うぞ!止まれ!」と叫び自動車は速度を緩めました。
当にその時、二発の銃声がおこり、皇太子の首と大公妃の腹部に弾が命中しました。
病院に着くと間もなく、大公妃が死亡し、暫くの時間を空けて、皇太子が死亡しました。

 この時の犯人プリンチップもその場で、取り押さえられ、先の犯人チャプリノヴィッチ共々、警察で厳重に調べられた結果、彼らはセルビアの暗殺団員で在る事が判明し、25人もの関係者が逮捕されます。

 さて、ここ迄読んで来た皆さんには、この事件の発生から終結迄、不可解な事例が多い事に気づかれたと思います。
1、暗殺未遂事件が発生したにも関わらず、何故か、それ以降の行事を中止しなかった事。
2、暗殺未遂事件発生以後も、何故か、拳銃を持ったプリンチップが逃げずにその現場近くに居た事。
3、プリンチップは、皇太子の行事予定変更を知らなかった筈なのに、都合の良い場所で狙撃できた事。
4、暗殺未遂事件が発生したにも関わらず、警察は警備をより厳重にしなかった事。
5、皇太子の運転手は、何故か、行き先変更を知らされていない事。
6、最後に、この暗殺を計画した「蜂・ピアス」と呼ばれたデミトリエヴィッチ大佐は、計画中止を決定していたにも関わらず、何故実行されてしまったのか?
単に偶然では済まされない、何かが有るような状況と思います。

 しかし、戦争は“偶然”が重なって勃発する事が良く有るようです。
第一次世界大戦も、第二次世界大戦もその様な傾向を予見させます。

 この事件で、オーストリア政府がセルビアに突きつけた最後通告を、セルビア政府は相当に無理な条項が存在しても、受け入れる事としていました。
しかし、10ヶ条の要求に内、第6条に「暗殺犯人とその一味の裁判の為、調査にオーストリアも協力させよ」という条項が在り、セルビアはこれを「裁判に協力させよ」という意味に解釈し、それは憲法違反になり、受け入れられないと拒絶します。
処が、それは通告文書がフランス語で書かれていた為の解釈間違いで、「裁判の為の調査にセルビアも協力する事」をオーストリア政府が要求したものであって、裁判そのものに干渉する意思は有りませんでした。

本編終了・・・
2010/07/26

歴史の?その247:正史の中の疑問53:サラエヴォの悲劇・前編

<正史の中の疑問53:サラエヴォの悲劇・前編>

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 第一次世界大戦は、「サラエヴォの悲劇」から始まりました。
この事件は、時のオーストリア・ハンガリー帝国皇太子夫妻暗殺であり、皇太子フランツ・フェルディナンドと大公妃ゾフィアは、ボスニアで行われた陸軍大演習を視察した後、サレエヴォ市の歓迎行事に出席しました。
1914年6月28日、この日は偶然にも夫妻の結婚記念日でもありました。

 良く晴れた日曜日、夫妻は市役所に向かって川沿いのアッペル・ケイ通りを自動車で通過していた時、暗殺団の一人、チャプリノヴィッチが小型の手投げ弾を皇太子の自動車に向かって投げました。
手投げ弾は、皇太子の乗った自動車の幌の部分に当り、道路に落ちそこで爆発し、皇太子は何事もなく、大公妃は少々の掠り傷を負ったものの大事には至りませんでした。
しかし、隊列後部の自動車に乗っていた女官や、沿道に居合わせた市民の中には、重症者も出て辺りは騒然と成りましたが、皇太子は落ち着いて「狂人のやった事だ、さあ行け」と運転手に命じたと伝えられています。
 
 犯人のチャプリノヴィッチは用意していた毒薬を飲むと川に飛び込みましたが、毒薬は古くて薬効が無く、川には生憎水が少なく、泥の中でもがいている内に警官に取り押さえられます。

 市役所での歓迎行事が終わった後、随員は、今後一切の予定を取り止め、宿舎のイリッジェ城に帰る事を進言しましたが、ボスニア知事は「同じ日に暗殺を企てる者があるはずは無い」と言い張ります。
皇太子は予定の民族博物館行きを中止し、先の爆弾事故で負傷した人々を病院に見舞おうと申し出ます。
その為、予定のフランツ・ヨーゼフ通りを通過せず、もう一度アッペル・ケイ通りを通る事に成りましたが、何故か皇太子乗車の運転手には、行き先の変更が伝わっていませんでした。

続く・・・
2010/07/25

歴史の?その246:正史の中の疑問52:北京原人化石の行方・後編

<正史の中の疑問52:北京原人化石の行方・後編>

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◎北京⇒天津⇒秦皇島⇒?

 さて、北京を列車で出発した化石は、天津を経由、東海岸の秦皇島へ向い、ここでバージに移され、アメリカ貨物船「プレジデント・ハリソン」号に載せられてアメリカ本土向う予定でした。
この行程の如何なる部分で、“開戦”となったのでしょうか?
列車の運行は、開戦前夜の空気の中で混乱しており、従ってダイヤ通りの運行は望むべくも無く、更に問題の列車は、ダイヤに存在しないアメリカ軍専用特別列車で在ったと云われています。

 もし、まず北京・天津間で列車が、日本軍に接収された(又は、混乱の為、運行不能に陥った)場合、日本軍が略取、非軍事品として廃棄した事が考えられます。
或は、列車は無事天津に到着したものの、天津で押収され、その価値を認められたとすれば、そのまま日本輸送船に移されたと考えられますが、日本の研究者の手には渡っていません。

 満州鉄道を経由して、無事、アメリカ海兵隊と共に秦皇島迄到着したものの、結果的に「プレジデント・ハリソン」号に積み込まれ無かったのは事実とされますので、他の船便若しくは、第三国へ送られた可能性が出てきます。
又、アメリカ海兵隊は、秦皇島で降伏している為、その際日本軍に引渡されたか、所持品として収容所を転々とする間に喪失したとも考えられます。

◎内幕

 “北京原人”の行方をめぐる諸説は、以上の通りですが、何れも確証が無く、又否定する事も出来ません。
以下の様な話も存在しています。
アシャースト大佐の下で軍医をしていた、心臓外科医ウィリアム・フォーリー博士が、昭和46年にニューヨークの自然博物館人類学部へ明らかにした話として、「化石は、実際には木箱に梱包されず、アシャースト大佐と同医師のトランクに分けて納められ、私物として携行した。軍人では無かった為釈放され時、フォーリー博士は自分のトランクの内一個を中国人の友人に、もう一個を天津のパスツール研究所に、更にもう一個を同じスイス系商社の倉庫に預けた」更に「その後、フォーリー博士は上海付近の収容所でアシャースト大佐と再会した際、大佐は化石を納めたトランクと思われる物を所持していた。やがてフォーリー博士は仙台へ、アシャースト大佐は北海道の炭鉱に移送された為、トランクも一緒に北海道迄運ばれたか否かは不明」と云います。

 アシャースト大佐は、戦後間もなく死亡している為、この証言の信憑性を確かめる事は、困難ですが、中国科学院の関係者は、同博士が、戦後26年間も理由無く、口を閉ざしていた事は理解できず、「トランクに納めた」証言は、中国人労働者の「木箱」と矛盾し、真偽の程はおぼつかないと否定的な見解を示しました。

 “北京原人”も戦争犠牲者の一人として、その所在調査は進んでいません。
何処かに現存している事を祈るばかりですが、この化石の貴重さ、重要性を当時の一般の人々は殆んど知らない事から、仮に売却、廃棄されて当時の中国人の手に渡った場合、この化石骨を「竜の骨」として薬用にされてしまう恐れがありました。
事実、古代文字の貴重な資料である、“甲骨文字”の多くも粉砕されましたが・・・。
しかし、その行方、所在を調査する責任の一端は、日本にも課されているのです。

本編終了・・・

2010/07/24

歴史の?その245:正史の中の疑問51:北京原人化石の行方・前編

<正史の中の疑問51:北京原人化石の行方・前編>

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◎太平洋戦争の勃発

 北京から南西へ48km、周口店の小高い丘“竜骨山”の上に、中国科学院の博物館が在ります。
1972年10月1日の国慶節に開館しました。

 この山頂部分で、人類学上最大級の発見の一つ、“北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)”が発見されました。
展示館のすぐ外に問題に遺跡が在り、同館の展示物の中心も“北京原人”に関する資料なのですが、ここに展示されている、人骨化石は、レプリカなのです。
貴重な実物は、昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発の日を境に、行方不明に成ってしまいました。

 最初の二本の臼歯発見以来、アメリカ・ロックフェラー財団の資金援助で、大規模な発掘作業が実施され、其れまでに5個の完全な頭蓋骨を含む、約40体分の人骨破片が、動物化石や石器等と共に発見されていました。

◎列車に積まれた三つの箱

 開戦の12月8日、日本軍は北京に入城し、同地の「北京協和医学院(現・首都病院)」も軍によって接収されました。
直ちに、高井冬二東京大学教授(当時・東京帝国大学・人類学教室助手)が医学院に赴き、“北京原人”の現物資料を探しましたが、既に何処かに持ち去られた後で、徹底的な調査の甲斐なく、発見する事は出来ませんでした。

 その発掘資料は、同じく周口店から発掘された“山頂洞人(約1万~2万年前の旧人類)”の三つの頭蓋骨等共々、ロックフェラー財団が運営する「北京協和医学院」に置かれ、アメリカ系の研究者によって調査、研究が成されていましたが、日米関係が、風雲急を告げる雲行きと成った昭和16年、アメリカに帰国します。
化石は、医学院の倉庫に保管されましたが、その場所に保管する事は多大な危険を伴うと判断した、ヘンリー・ホートン院長は、より安全な場所である、アメリカ本国に移送する事を決定します。

 当時、北京駐在アメリカ大使館付武官アシャースト海兵隊大佐が、その責任を引き受け、化石は12月5日早朝、列車に載せられて北京を出発・・・と記録されています。
そして、3日後開戦の混乱が起こり、以降、“北京原人”の痕跡は消滅してしまいました。

 やがて、昭和20年8月15日、以後日本に進駐したアメリカ軍は、直ちに“北京原人”の所在を尋ねて、日本国内の関係機関、施設を調査しましたが、発見するに至らず、僅かに“山頂洞人”の遺品のひとつが東京大学人類学教室に在り、直ちにアメリカ軍が押収したに留まりました。

 勿論、中国政府もこの遺骨捜索に努めます。
その結果、開戦直前、アシャースト大佐の指示で、中国人労働者が化石を三つの木箱に納めて梱包、列車に運んだ・・・との証言が得られた事から、中国の研究者から「“北京原人”はアメリカに持ち出され、ニューヨーク自然博物館のコレクションに加えられている」との抗議が出された事が有りますが、同博物館関係者は、この事実を完全否定しています。
日本にも、少なくとも公にその存在が知られる形では、“北京原人”は存在していません。

続く・・・

2010/07/21

歴史の?その244:正史の中の疑問50:辻 政信氏の失踪・後編

<正史の中の疑問50:辻 政信氏の失踪・後編>

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◎各国情報機関も極秘で追跡

 僅かな情報が得られた事で、辻氏失踪の謎は、かえって大きな謎を呼び、一時は日本国中の話題と成りました。
外務省は、関係各国の日本大使館に徹底的な情報収集を指令し、関係諸国にも、又国際赤十字にも強力な捜索活動を要請しました。
無論、アメリカの中央情報局をはじめ、各国の情報機関も、独自の関心から極秘の調査を開始します。

 昭和38年秋、既に失踪から2年以上を経過していましたが、非常に確度の高い情報が届けられます。
自由民主党の森山 欽司代議士と駐在ラオス大使の蓮見氏が、ラオスのフォンバサン内相と会談した時、「1961年4月、私が中立派大使としてバンビエンでラオス三派の停戦交渉にあたっている時、辻氏に会いました。彼は僧衣では無く、背広姿でした。辻氏は自分の身分を証明する為、エジプトのナセル大統領と握手している写真を見せ、是から北ベトナム(当時)のハノイに行きたいとの申し出を受け、私は自分の名刺に署名して、通行証を作成して渡しました。辻氏はその後、徒歩でジャール平原の方面に出発したと聞いています」との証言を得ました。

 確かに辻氏は、ビエンチャンからバンビエンに達しており、この確度の高い情報を基に、改めて捜索が行われましたが、終にバンビエンから先の足取りは、現在でも判明していません。
果たして、バンビエンから辻氏は、何処へ向い、どうしているのでしょうか?
当時から現在迄多くの情報、推測が成されており、其れを列挙すると、

1、ジャール平原からハノイに行き、更に中国領内に入った。
2、中国の吉林省で、ゲリラ部隊の訓練をしている。
3、ラオスから直接中国に入り、北京10日滞在していた。
4、アメリカ軍に何らかの理由で射殺された。
5、キューバでカストロ首相援助の仕事をしている。
6、某西側組織に抑留されている。
7、ビルマ、タイ国境付近にある旧国民政府系残党勢力地帯に潜入している。
8、ラオスから中国昆明に行き、其処で死亡した。

 以上の情報に確証が存在する訳ではなく、当時の国際情勢を反映した憶測も含まれている事が判ると思います。
しかし、辻氏は、冒頭でも述べた様に、かつて連合軍の厳しい追及を逃れて、三千里の潜行をやってのけた人物で、そうむざむざと倒れるとは考え難い事も確かなのです。
当時、かつての辻氏を知る人々は「必ず何処かで想像もつかない様な事をしているのではないだろうか」と其の生存を信じている人も少なく有りませんでした。

 日本議会史上類例の無い、現職国会議員失踪は、果てる事の無い興味をそそる不思議な事件なのです。

本編終了・・・

2010/07/20

歴史の?その243:正史の中の疑問49:辻 政信氏の失踪・中編

<正史の中の疑問49:辻 政信氏の失踪・中編>

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◎羽田を発って10日間の足取り

 昭和36年4月4日午前9時30分、辻氏は羽田空港を飛び発ちました。
“東南アジア諸国の視察と、戦没者の慰霊”が今回の旅行の目的で、国会には40日間の請暇届を提出していました。
その翌日、辻氏は南ベトナムの首都サイゴン(現・ベトナム民主共和国・ホーチミン)に到着、黒い背広にスーツケース1個の軽装。
「香港経由で此方に来ました。是からプノンペン(カンボジア)、バンコク(タイ)、ビエンチャン(ラオス)方面を訪問する予定です」とサイゴンで関係者に語っています。

 事実、その後の足取りは、サイゴン4泊、プノンペン3泊、バンコク3泊と予定通り印され、そして最後の目的地ラオスのビエンチャンには、4月14日に到着しました。
此処迄の足取りは実に明確なのですが、これから僅か数日後に、辻氏の消息は不明となるのでした。

 日本国内で“辻氏が行方不明”のニュースが明らかにされたのは、4月20日。
同氏の秘書が参議院事務局に「連絡が取れない」と報告、早速調査が開始されました。

◎僧衣に姿を変えて出発

 ビエンチャンのホテルに宿泊していたはずの辻氏は、一体何処に失踪したのでしょうか?
しかし、間もなく謎の一部は明らかに成りました。
辻氏は東南アジア風の黄色い僧衣に着替えて、日本の位の高い僧「高木」と名乗り、同地の有名な寺院であるクンタ寺院の僧侶二人の案内で、4月19日ビエンチャンを出発した事が判りました。

 その情報源によれば、辻氏は最初の二人の僧侶の案内で或る地域に赴き、次には又別の僧侶の案内を受けるという具合に、寺院から寺院をリレーする方法で、奥地に入って行ったと云います。
更に新しい情報では、6月頃ビエンチャンの東北に在る旧都ルアンブラバンに通じる国道13号線上に位置するバンビエンの街で辻氏の目撃証言も得られました。

 是で、辻氏が僧侶の姿をして奥地に進んだらしい事は判明したものの、謎は解けるよりも更に新たな謎が発生しました。
なぜなら、辻氏は何の目的でそんな場所へ行ったのか?何故僧侶に返送する必要が有ったのか?そして、辻氏は其れを誰にも知らせず、なぜ帰らないのでしょうか?

続く・・・
2010/07/19

歴史の?その242:正史の中の疑問48:辻 政信氏の失踪・前編

<正史の中の疑問48:辻 政信氏の失踪・前編>

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◎「潜行三千里」の主人公

 一国の国会議員が外国で行方不明に成るという事は、その国にとって重大事件です。
海外で行方不明に成った日本人は少なく有りませんが、参議院議員・辻 政信氏が旅行先の東南アジアで謎の様に消えた事件は、日本におけるこの種の事件の中で、最も不可思議な事件なのです。

 現職の国会議員が、国会議員という身分で海外旅行に出て、そのまま行方不明に成ったのですから、国会、政府、公安とあらゆる機関が、最高レベルで捜索活動を行ったものの、辻氏の足取りは、或る一点から先が、全く不明になっており、生存、死亡も当時確認されませんでした。

 辻 政信氏の捜索は、現代日本の人捜しの中でも、最も興味深いケースと思われます。
辻氏は、当時58歳、昭和27年第25回総選挙に石川県一区から最高点で当選以来、衆議院に3回当選、昭和34年には、参議院全国区から当選しました。
しかし、政治家としての経歴より、辻氏にはそれ以前の経歴に一層興味をそそられます。

 陸軍幼年学校から陸軍士官学校、陸軍大学を首席で卒業した秀才中の秀才。
昭和16年、太平洋戦争勃発とともに、日本陸軍が破竹の快進撃をしたシンガポール攻略作戦を、作戦参謀として指揮、一躍その名前を高めました。
更にガダルカナル、インパール作戦等の参謀を務め、戦争終結時には、陸軍大佐でした。

 終戦当時、中国大陸に居た辻氏は、直ちに連合国側から、最重要戦争犯罪人に指定され、アメリカ、イギリス、中国の厳しい追求の中で、中国大陸を縦横に波乱に満ちた逃避行を続け、敗戦後の日本に忽然と姿を現します。

 生死の危機一髪の間を彷徨、冒険に満ちた潜行の手記を、辻氏は「潜行三千里」と題する本に纏めて出版、昭和25年から26年にかけて大ベストセラーに成りました。
辻氏は、日本の国会議員と言うだけでなく、以上の様な経歴から当時世界的にその名を知られた重要人物でもありました。

続く・・・
2010/07/16

いよいよ小倉祇園太鼓ですね!

いよいよ小倉祇園太鼓ですね!

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 北九州市の小倉を代表する夏祭りである小倉祗園太鼓は、全国的にも珍しい両面打ちを特徴とし、昭和三十三年、福岡県指定無形文化財に指定されました。
小倉祗園太鼓の伝統的な姿は、山車の前後に太鼓を据え、山車を曳きながら打つ姿で、太鼓二台の両面打ちで四人、ジャンガラ二人、計六人というのが、基本的な構成です。
又、装束は、向こう鉢巻に浴衣又は法被、白足袋に草履が基本。
太鼓は面によって音が異なり、低く腹に響く音がする面をドロといい、祇園太鼓のリズムをとり、もう一面はカンといい、高い軽やかな音がし、メロディとなります。

 太鼓の起源は、祇園祭は、鉦(かね)、鼓(つづみ)、笛(ふえ)を用いていたと記録にあり、その叩き方は「能」の形式でした。
「祗園会神事神山次第」に「万治三年(1660年)、囃方清五郎が藩主のお供をして江戸表に上がり、山王神事の囃し方を聞き覚え、小倉に帰国後、子供四人を集め、教授しが始め也」とあり、その頃から今の撥さばきが始まり、今から三百四十年前の事でした。

 現在の形が出来たのは、江戸時代、ご神幸に城下の各町内から、いろいろな趣向を凝らした山車、踊車、人形引車、踊り子などが随従するという豪華なものでしたが、明治時代以降、山車に据えつけた太鼓を叩き、それに調子をとるジャンガラ(摺り鉦)が加わり両面打ちを主体とした祗園へと変化して行きました。

 祗園祭の起こりは無病息災の祈りからで、平安時代、夏になると悪疫が流行したり稲などに害虫がつき、これを悪霊の仕業と考え、この悪霊を慰め退散させる為に神に祈った事を起源とする祭りでした。
旧六月に行われてきた「小倉祗園」は、小倉城を築城した細川忠興が、無病息災を祈るとともに、城下町繁栄のひとつとして、元和三年(1617年)に祗園社(現在の八坂神社)を建て、京都の祗園祭を小倉の地に取り入れたものです。

参考:小倉祇園の歴史
2010/07/15

歴史の?その241:正史の中の疑問47:ロスチャイルド・後編

<正史の中の疑問47:ロスチャイルド・後編>

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 ロスチャイルドの早耳は、こうして有名に成り“この一族には、不思議な予知能力が有る”とさえ言われました。
又、伝書バトを利用したとも云われており、昭和の初期、まだカラー作品が少なかった頃「ロスチャイルド」と言う映画が作られ、その中では、伝書バトがワーテルローの戦果を知らせていました。
当時、ネイサンは、実際にワーテルローの戦いを見に行った等と言う、デマも飛び交った程、驚異であったと思います。

 ロスチャイルド家は、以前ロートシル家と云い、その初代マイヤーは、ドイツのフランクフルトのユダヤ人街に住んで、両替や貴金属売買の商売し、その後金融業を始めて、瞬く間に成功をおさめ、諸侯や貴族に迄、融資を行う様に成り、1806年ナポレオンが大陸封鎖令を出すと、その法律をかいくぐり密輸でも成功します。
マイヤーの五人の息子達は、長男をフランクフルト、次男をウィーン、三男をロンドン、四男をナポリ、五男をパリにと、ヨーロッパの主要都市に居住し、手を結び協力し合って、家業である金融業を大きなものにしていきました。

彼らの金儲け手段の一つは、徹底した賄賂戦術で、各国の重要な地位を占めている者には、惜しみなく金銭を贈り、利益を無視して、便宜を図り関係を深くして、結局、裏でごっそり儲けるのです。
もう一つは、通信網を作り上げ、ニュースを他よりもいち早く知る事でした。
ロスチャイルド家は、ヨーロッパの主要都市に部下を配置して、必要が有れば彼らの間を、何時でも飛脚が走り、この様な独自の通信網の他に、ヨーロッパの駅馬車組織を独占していた、テュルテン・タキシス家と深い関係を結んでいました。

 各国の高官には、賄賂で取り入り、重要なニュースは直ぐ彼らから伝えられ、その上、ロスチャイルド家は密輸を行っていたので、英仏海峡には、船がいつでも配備され、どんな悪天候にも耐えられる、多数の水夫が雇われていました。
当然、ロスチャイルドも伝書バトを使ったかも知れませんが、ワーテルローの戦いの夜が、暴風雨であったなら、伝書バトは余り役に立たず、以前よりロスチャイルド家が、熱心の作り上げた通信網の成せる技で在ったと思われます。

本編終了・・・
2010/07/14

歴史の?その240:正史の中の疑問47:ロスチャイルド・前編

<正史の中の疑問46:ロスチャイルド・前編>

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 まずは、映画の1シーンを想像して下さい・・・。
“1815年6月20日、ロンドンの証券取引所に、ある男が入って来た。
その男の首は短く太く、腹は突き出していたが、青ざめた顔色をし、肩をがっくりと落し、疲れきった様子をしていた。
取引所の人々は、「ロスチャイルドだ。ロスチャイルド」だと囁いた。
当時、ロンドンの金融業界で、このロスチャイルド家の三男、ネイサンを知らない者は居なかった。
又、彼がイギリス政府を財政的に援助し、ナポレオンの野望を砕く為に、その膨大な財力を傾倒している事も、人々は良く知っていた。“ (参考:オスチャイルド家-世界を動かした金融王国-)

 1815年6月18日、イギリスのウェリントン将軍指揮下の同盟軍とナポレオン軍が、ベルギー、ブリュッセル郊外のワーテルローで、早朝から激戦を繰り返し、その日没に成ってもその勝敗は決定しませんでした。
証券取引所に居た人々は、ネイサンが一言も言わなかったのに、彼のやつれた表情を見て、イギリス軍は敗北したのだと勝手に解釈した結果、公債や為替相場は、大暴落し、恐慌状態に落ち入りました。

 しかし、実際に勝利を掴んだのは、イギリス軍を中心とした同盟軍で、その勝敗は18日夜に決定したのでした。
イギリスの中で、このニュースを一番初めに掌握したのは、ネイサン・ロスチャイルドで、時のイギリス政府に公報が入るよりも1日早かったのです。
イギリス政府がワーテルローの結末をしったのも、公式の使者が到着する以前に、まず彼から聞かされたのでした。
当時は、電話も電信も無く、更にワーテルローの戦いの日は、風雨が強く、夜には暴風雨に成り、英仏海峡を渡る船は在りません。

 ネイサンは、情報を入手すると、証券取引所に出向いて、暗い表情をして見せ、裏では部下に命じて、為替や公債を出来得る限り買い集めさせます。
やがて、イギリス軍勝利の公報が入り、一般に広まると、相場はぐんぐん上昇し、こうして、ネイサンは、1日にして巨額の金を手にしました。
是がネイサンの常套手段で、良いニュースをいち早く手に入れ、まず派手に売りに出、裏で密かに買い込み、やがて、ニュースが一般に広まると、相場は上昇し、彼は、ごっそり儲かる寸法です。

後編へ続く・・・
2010/07/13

歴史の?その239:正史の中の疑問46:ロンドン搭の二王子・細目編

<正史の中の疑問46:ロンドン搭の二王子・細目編>

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 17世紀末にロンドン搭の階段の下で、少年の遺骨が2体発見された時、古い伝説がようやく立証されたたかに見えました。
残忍な王リチャード三世は、幼い甥達を暗殺したこの上なく非常な叔父と、語り継がれています。
しかし、この伝説を誰かがによって、確証されている訳では有りません。
リチャードとロンドン搭に幽閉された王子殺しを描いた、シェークスピアの戯曲を通じて、王の悪名は広く知られる事となりました。

 しかしながら歴史家の一部には、もしリチャードを今日の裁判にかけたら、証拠不十分で不起訴になるという意見があります。
確かに新しい証拠によっては、事件は全く違った展開を見せる可能性もあるのです。

 1483年にエドワード四世が崩御した時、弟のリチャードは国王の摂政と成り、エドワードの王子達、幼い国王のエドワード五世とその弟、ヨーク公リチャードの後見人を任命されました。

 エドワード五世の載冠式の準備がロンドンで進められていた時、リチャードはノーザンプトン近くのストーニー・ストラトフォードに馬を走らせ、少年王をロンドン搭に連れ戻しました。
弟のヨーク公も母親の手でウエストミンスター寺院の内陣に匿われていましたが、程なく兄の居るロンドン搭に移されました。

 搭の中庭で兄弟の遊ぶ姿が、幾度か見かけられましてが、その後少年達は、公衆の面前から永遠に姿を消してしまいます。
トーマス・モアはリチャード三世伝の中で、彼が少年達を枕で窒息死させたと書き記しましたが、其れは30年以上後の噂話でしか有りません。

 リチャードが王子達を暗殺して、得をするような立場にあったかについて、確かな証拠は存在せず、父王の死後、僅か2ヶ月目に少年達はロンドン搭の説教師達から、正統な嫡子ではないと指弾されていました。
彼らの母親、エリザベス・ウッドビルと1464年に結婚する以前、エドワード四世はシュロウズベリー伯爵家の娘と婚約しており、当時、この様な正式の婚約には、結婚そのものと同様の拘束力が存在した為、王の結婚は法律的には無効でした。
つまり、合法的な王位継承者はリチャードだったのです。

 しかし、リチャードが少年達を暗殺したのでは無いとすれば、誰が手を下したのでしょうか?
少なくともそうする動機を持っていたのは、誰なのでしょう?
研究者の間では、ヘンリー・チューダーであった可能性が強いとする意見が多いのも事実なのです。
後に、1485年ボスワースの戦いでリチャード三世を倒し、ヘンリー七世となった人物、其の人です。

 ヘンリーはエドワード七世の庶子の曽孫で、其の為、王位継承順位から締め出されており、王位に就く為には、力に頼らねば成らず、彼は自分の地位を築く為に、ロンドン塔の王子達の姉、エリザベスと結婚し、エリザベスを王位継承者として布告します。

 しかしながら、リチャードの場合同様に、ヘンリーの有罪を立証する証拠も又存在しないのです。
只、少年達は叔父の手によって殺されたと、ヘンリーが公表したのは、ようやく1486年7月16日、リチャードの死後ほぼ1年を経過してからでした。
ヘンリーは、王座を獲得するやいなや、リチャードの残忍さと暴君ぶり暴き立てた彼が、なぜ幼児殺しの告発をそれ程にも遅らせたのでしょう?

続く・・・
2010/07/12

歴史の?その238:正史の中の疑問45:ロンドン搭の二王子

<正史の中の疑問45:ロンドン搭の二王子>

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 夏目漱石の作品に「倫敦搭」という短編が在ります。
私は、シャーロック・ホームズ作品が、子供の頃から大好きですが、何故か“ロンドン”の名前を見聞きすると、漱石のこの作品を連想してしまいます。
作品の中でロンドン搭に捕らえられて居る、幼い二人の王子が、リチャード三世(在位1483年~1485年)に部下によって殺害される話は、哀れであり、余りに惨いお話です。

 15世紀の末(西暦1483年)エドワード四世(在位1461年~1483年)の王子、エドワードとリチャードは、父王の死後、王位を狙う伯父のリチャードに為に、ロンドン搭に幽閉されます。
王子達に一目会いたいと訪ねて来た、母エリザベスは、牢番に断られ、泣く泣く帰って行かなければ成りませんでした。
王子達の無邪気な様子や、リチャードの命令で、二人の王子を殺した男が、「首を閉める時、花の様な唇がびりびりと振るえた」等と話す箇所は、読んでいて心に迫る部分です。
夏目漱石は、この物語をシェークスピア作品の「リチャード三世」と、画家ドラロッシの残した絵画から、創りあげました。

 英国人であれば、この二王子殺害の事件は、広く知られており、学校で教えられる歴史の授業の他、上述のシェークスピア劇によっても有名に成った為でも有ります。
シェークスピア劇に因れば、リチャード三世は、極悪人として描かれ、体に障害を持ち、心にも深い傷を負っていました。
血も涙も無く、只権力を握りたい野心家で、劇中でも「私は慈悲を知らない(第一幕第二場)」、「涙頂戴の哀れみ等自分の眼中には住んでいない(第四幕第二場)」等の場面で、自らを述べる部分が在ります。
彼は、兄王エドワード四世の死後、王位を簒奪し、自分の妨げになる者は、兄弟、甥、妻、家臣迄も殺戮を繰り返します。

 事実、リチャード三世がこの様な王様で在るならば、なんと惨い人物で在ったと思いますが、近年、リチャード三世について再評価が行われ、実際に二王子を殺した事は無く、情け深い王様で、家臣、人民からも慕われていたとも伝えられています。

 リチャード三世を知るには、「ユートピア」を著したトーマス・モア(1478年~1537年)が、リチャード三世と同時代である為、彼の「リチャード三世伝」が良いとされていましたが、実際には、リチャード三世が即位した頃、トーマス・モアは僅かに5歳、崩御した時も7歳であった為、彼の「リチャード三世伝」も後年、多くの人々の口述を頼りに書かれたものと判断される様に成りました。
この伝記が、余り信用できなくなると、他の記録が大変少ない為、リチャード三世の実像は不明な部分が、大変多く成ります。

 リチャード三世が、実際にどの様な王様で在ったのか、判断する事は難しいですが、次の様な歴史的な事実が有ります。
リチャード三世は、即位してから2年後、ヴォスウォースの戦いで、チューダー家のヘンリーに討たれてしまい、その後ヘンリーは、イングランド王ヘンリー七世と成りました。
ヘンリー七世の出身であるチューダー家は、リチャード三世のヨーク家に比べると、イングランド王に成る資格がそれ程高く有りませんでした。
其の為、リチャード三世が悪王で、人民を蔑ろにしていた事を強調する必要から、リチャード三世は、実際以上の悪王にされてしまった様なのです。
シェークスピアは、チューダー家のエリザベス一世がイングランドを統治している時代に、劇作家として活躍した人物であると云われています。

続く・・・
2010/07/10

歴史の?その237:正史の中の疑問44:シェークスピアは実在したのか

<正史の中の疑問44:シェークスピアは実在したのか>

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 シェークスピアの名前を聞いて、どの作品を思い出しますか?
「ハムレット」「マクベス」「リア王」「オセロ」「リチャード三世」「ロミオとジュリエット」「真夏の夜の夢」等悲劇、喜劇が浮かびますね。
嘗て、インドが大英帝国最大の植民地で在った頃、「インドは失っても、シェークスピアは失いたくない」とイギリスでは、言われていました。
さて、この世界的に有名なシェークスピアの生い立ちが、実際の処、良くわからないのです。

 1964年4月は、「シェークスピア生誕400年祭」がイギリスで行われ、記念行事も多数開催されました。
シェークスピアは1564年4月23日に生れ、1616年4月23日に死去した事になっています。
しかし、実際には、彼の生没は、きっちりと判明している訳ではなく、彼が生れたとされる、ストラト・フォン・エイヴォン市の教会には、1564年4月26日に洗礼を受けた記録が、存在していますが、キリスト教では、生後まもなく洗礼を受けてキリスト教徒に成りますので、誕生は多分洗礼を受けた日から、それ程遠くない日であると推定され、更に没年月日が極めて近い為、同月日にされた(!)らしいのです。

 現在判明している、彼の生い立ちでは、実家は皮細工商で、父親は一時町の名誉職に就きましたが、稼業に失敗し、其の為シェークスピアは、学校教育もまともに受ける事が出来なかったと伝えられています。

 処が、彼の作品はどれも、相当の教育を受けた、ギリシア、ローマの古典にも通じた人物でなければ、書く事が出来ない様に見受けられます。
その為、「“ストラト・フォン・エイヴォン”で生れたシェークスピアと多くの作品を残したシェークスピアは別人で在り、他の人物が彼の名前を借りて、是等の作品を書いたのだ」と云われ、一部には、哲学者フランシス・ベーコンの名前や、劇作家マーローの名前さえ称えられた事が在りました。
今から40年以上前に成りますが、とある人物が、劇作家マーローの墓所を調査すれば、本当は、マーローがシェークスピア劇を書いた事を証明できるとして、イギリス政府の許可を取り(!)彼の墓所を調査しましたが、証拠の発見には至りませんでした。

 又、シェークスピアは短詩(ソネット)も書いていますが、「それ等は、国王ジェームズ一世の宮廷に仕えていた人物で無ければ、書く事は不可能で、常に創作活動を行い、劇場に出入していた人物が書いたとは思えない」と詩人で文学博士のブランデン氏が述べた事が在ります。
実在を疑われた、著名人は“キリスト”“マホメット”“シャカ”等多数存在しますが、シェークスピアの様に、比較的時代が新しい人物で、その実在を疑われている事は、珍しいと思われます。

 現在でも多くの専門分野の方々が、シェークスピアについて、文献を著していますが、基本部分として、彼の伝記が明確でない事に起因しているのです。
何時か、これ等の疑問に答える、明確な当時の文献が発見され、謎が謎で無くなる時が来るでしょうが、例え本当の作者云々が無くても、シェークスピア劇の面白さ、巧妙さは、色あせません。

続く・・・
2010/07/08

歴史の?その236:正史の中の疑問43:モナ・リザ盗難事件・後編

<正史の中の疑問43:モナ・リザ盗難事件・後編>

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 その中で特に有名なのは、詩人のアポリネールで、彼の参考人として、あのパブロ・ピカソも警察に呼ばれています。
当時アポリネールが、秘書として雇用していた、ゲリー・ピュレェは「ルーブル位、泥棒するのに楽な所は無い」と言い、時々小さな彫刻等を盗みだしましたが、その頃のルーブル美術館は、監視人も少なく、その気に成れば、小さな物を盗み取る位、容易で在ったらしいのです。

 ゲリーは盗んだ彫刻等を、アポリネールやピカソに贈った上に、自分の泥棒稼業を或る雑誌に投稿した程でした。
アポリネールとピカソは、ゲリーからの“贈り物”を鞄に入れて、セーヌ川に捨てようと、二人で真夜中に川の辺を歩き続けます。
しかし、誰かに尾行されている様な気配がして、とうとう鞄を捨てられず、一晩中歩き回りました。
やがて、終に二人は警察に呼び出され、その時、気の強そうなピカソも、警察と聞いて脅え、“振るえてズボンもなかなか履く事が出来なかった”と伝えられています。
問題の彫刻は、ルーブル美術館に既にこっそりと戻していた事、事件も可也昔の事で在った為、二人は無事に許されて家に帰る事ができました。

 「モナ・リザ盗難事件」は、迷宮入りした様に思われましたが、1913年12月12日、急転直下解決します。
フィレンツェの古美術商に、レオナルディと名乗り「モナ・リザ」を売りに来た男がいました。
古美術商は、「専門家に立会いを求め、本物で有ったら購入しよう」と告げ、レオナルディはこの条件を受入ました。
専門の鑑定士は、この「モナ・リザ」を本物と鑑定し、レオナルディはその場で身柄を現地の公安当局に束縛されます。

 この男の本名は、ヴィンセンコ・ペルージアで塗装工でした。
イタリア人ですが、フランスに出稼ぎに行き、事件当時はルーブル美術館で絵にニスを塗る作業を行っていました。「ナポレオンが、イタリアから絵画や彫刻を幾つも略奪していったから、その仇を討ったのだ」と彼は証言したと伝えられています。
やっと「モナ・リザ」はルーブル美術館の本来に場所に戻り、翌年1月4日から公開されました。

 この事件は、結末が余りにも“間の抜けた”終結で、その発見直後から疑問を呈していた様です。
古美術商に持ち込めば、公安関係者(イタリアには、美術専門の特捜警察組織が現在も存在します)に通報され、拘束される事は明らかであり、2年近くも隠匿しながら、何故その様な安易な行為を行ったのでしょうか?
この2年の間に精巧な模写が描かれ、ルーブル美術館に戻った「モナ・リザ」は贋作の方で在ると考える人物も多く存在しています。

補遺

 森鴎外には、外国新聞からおもしろいニュースを見つけて翻訳し、「椋鳥通信」「水のあなたより」等と題して、海外からの便りの形をとって、雑誌「ずばる」等に連載したものが在り、「鴎外全集」にも収録されています。
その部分を読むと、モナ・リザ盗難事件の発生から解決迄を辿る事ができます。

本編終了・・・
2010/07/07

今日は七夕

<七夕の由来>

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 今日は、七夕。
何時もの歴史関係のお話は、お休みです。

 今でも、時々七夕に成ると、本当に星が接近するのですかと、尋ねられ説明に困る事があります。
こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られ、織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。

 夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルで、夏彦もまた働き者で、天帝は二人の結婚を認め、目出度く夫婦と成りましたが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなりました。
この為天帝は怒り、2人を天の川を隔てて引き離しましたが、しかし年に1度、7月7日の七夕の日だけは会うことが許されたのでした。
雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡る事が出来ませんが、其の時は何処からか無数のカササギが遣って来て、天の川に自分の体で橋を架けてくれると云います。(以上ウィッキペディアより抜粋)

 さて日本古来の年中行事は、1年を半分に分けた時、1月からの行事と7月からの行事で、似通ったものが2回繰り返されると云われます。
例えば7月15日のお盆(新盆)と1月15日の小正月、どちらも祖霊祭に原義が在り、半年を周期に年月の流れを取られていた為と云われています。
では7月7日の七夕は、1月の如何なる行事に似ているでしょうか?
それは、若水汲みになります。

 吉成直樹『俗信のコスモロジー』(白水社1996年)に沿って紹介すると、高知県等での七夕に関する俗信の調査では、「里芋の葉にたまった水を集めて顔を洗うと肌が綺麗になる」「その水でイボや傷・吹き出物につけると直る」と云った事が言われます。
他には「その水で墨をすって字を書くと字が上手なる」と云うものも在りますが、之はこの日に技芸の上達を祈るという中国の乞巧奠の影響だろうということです。
里芋の葉の水とは、天から落ちてきた水だと考えられました。
そして肌や皮膚に関して人が若返るという信仰は、盆に備える為に禊で清めるというものとは異質のものだろうと云います。
皮膚が若返るとは、脱皮を意味するもので、水神=蛇を模したもので、その水神は天に住んでいるのだという信仰なのです。

 同じ調査では、6日の晩に14歳以上の未婚の少女たちが一つの宿に集まって、夜を通して、苧(お)を績(う)む行事が在ったと報告され、嘗ては全県で同様の行事が在ったと云います。
「苧を績む」とは麻の繊維から麻糸を作る事です。
辞書によれば「苧績み宿」「糸宿」ともいい「娘宿の一。夜間、娘達が集まって麻糸を紡いだり糸引きの仕事をしたりする集会所。糸引き宿。よなべ宿。」(大辞泉yahoo版)と説明され、全国的な民俗だった様です。
機織りについて糸を績む事と類似の行為と見て良いと思います。

 七夕とは、神を祭る棚機姫(たなばたつめ)と呼ばれる女性が、水辺の棚の上で、機を織りながら、神の来訪を待つ神事だと云われ、其れは選ばれた特別の女性の様なイメージなのですが、村の総ての少女が集団で行なってきた事でした。

 七夕の伝説が一人の美しい女性の物語と成ったのは、物語だからそう成ったと云えばそれまでですが、神に選ばれたと云う結果から解釈された物語なのかもしれません。
神に選ばれたとは、毎年の糸引きや神祭りを続ける事によって誰もが結婚の資格を得た事を意味しているのでしょう。
未だ学校の無かった時代ですから、娘宿では機織等の他にも学ばねばならない事柄は沢山在り、或は春先に、日中に外へ出て若菜を摘んで自炊したり、様々な経験をする処が娘宿だった様です。


2010/07/06

歴史の?その235:正史の中の疑問42:モナ・リザ盗難事件・前編

<正史の中の疑問42:モナ・リザ盗難事件・前編>

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 レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作「モナ・リザ(ジョコンダ)」は、謎の微笑みで有名ですが、是と供に、今から100年近く前に発生した、「モナ・リザ盗難事件」も不可解な部分が多く、コナンドイルもシャーロック・ホームズ作品の一部に取り入れています。

 ルーブル美術館の「モナ・リザ」が盗難に遭遇した事が判明したのは、1911年8月21日の事で、この日は、美術館の清掃日でした。
しかし、何故か直ぐに警察に届けられず、まず館内がくまなく捜索されたのですが、関係者は盗難と思わなかったのでしょうか?
美術館関係者から、警察沙汰にする事で、犠牲者が発生する事を、避け様としたのだと考えられます。

 結果として「モナ・リザ」は発見されず、翌朝、警察に通報され、ルーブル美術館は、三日間休館と成り、徹底的な調査が行われ、その日の午後、額だけが発見され、展覧室に通じる扉のノブが、近くの側溝から発見され、犯人は扉のノブを内側から分解して、逃走した事が推測されたものの、そのほかに手掛かりは発見されませんでした。

 事件が公表されるとフランス国内は、大騒ぎとなり、時の議会で関係者は質問を受け、主要な新聞は、発見者に賞金提供を申し出ました。
中には犯人を占った、占い師に賞金を出す(!)と迄公表した新聞社も在った程、フランス国民の関心事に成りました。

 犯人の手掛かりも無いまま、ルーブル美術館は再開されましたが、館長のオユーモ氏は休職と成り、当時の美術館責任者の多くは、交替と成り、職員の数に比較して、美術館が広すぎる事から一部の施設を閉鎖する結果となりました。
11月に成り、ルーブル美術館の警備関係者7名が、裁判所に召喚され、無断外出の1名と居眠りをしていた1名はは有罪とされ、その間、パリ警視庁には犯人に関する密告も多数寄せられ、捜査も進み、取り調べを受けた人物も多数に及びました。

後編へ続く・・・
2010/07/05

歴史の?その234:正史の中の疑問41:レオナルド・ダ・ヴィンチの裏文字

<正史の中の疑問41:レオナルド・ダ・ヴィンチの裏文字>

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 ルーブル美術館にある「モナ・リザ」或は「ジョコンダ」と云われる美しい女性の肖像画は、描かれている唇の両端を僅かに上げた微妙な表情は“謎の微笑”と呼ばれています。
「モナ・リザ」を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチと云う名前を聞くと、私達は天才画家と連想しますが、彼は画家とは一口で言えない人物でした。

 ダ・ヴィンチの活躍した15世紀から16世紀の頃、イタリアは「ルネサンス(文芸復興)」と云われ、ミケレンジェロ、ラファエロ、ボッティチェリ等、天才的な画家や彫刻家達が、次々と登場した時代で、芸術の分野のみならず、建築、文学、科学にも多くの人物が、登場した時代でした。
その上、この当時の人々の才能は、一つの方面にだけ特に優れて発揮されたのでは無く、一人の人物が多方面に、同時に才能を示したので、彼等を「万能の人」と呼び、ダ・ヴィンチもその一人でした。

 彼は、ミラノのロドヴィゴ公に仕える時、自分の推薦状を自ら書きます。
その推薦状は、10ヶ条から成り、自分は橋、攻城機、大砲、船舶の設計制作に優れ、最後の部分に、彫刻、絵画も得意であると書きました。
以上から推察される様に、ダ・ヴィンチは彫刻、絵画を自分の才能の一部と思っていた様です。

 彼は、あらゆる事象に関心が有り、見聞した事や自分の発想を記録していました。
現在でも是等の記録は、6000ページに相当する数が現存し、イタリア、フランス、イギリス等の図書館、博物館に所蔵され、又その大部分は、文献として出版され、私達も見る事ができます。

 処が、この文書は、大部分が不思議な文字で書かれ、行は右から始まり左方向に向かっており、その一文字一文字が、裏返しに成っていて、鏡に写して見ると、普通の文字として判読できるの事から「鏡書き」等と呼称される事も有ります。
その上、短い単語が組み合わされたり、長い単語を短く切断したりされており、文節、文法も無視され、省略は至る処に存在する為、大変読み難く、理解し難いものと成っています。

 なぜ、ダ・ヴィンチは裏文字を書いたのでしょうか?
彼は晩年、リューマチか神経痛で右手が不住に成ったと云われていますが、問題の裏文字は、20歳代から既に始まっており、最初の頃は、所々に少し混じる程度ですが、見受けられるので、単純に病気の為だけでは成さそうです。
彼の生きた時代は、教会勢力の強い時代で、異端審問も可也の頻度で行われていましたから、彼自身の本当の考えが外部に洩れる事を恐れて、わざと読み難い文字を使用したのではないか?と考える説も在ります。
当時は、捕らわれない心で自然を見、理性で物事を判断する人間が現れはじめましたが、その様な人々の中には、正統な神を信じない人は“異端者”とされ、処刑される者も多数に上りました。
ダ・ヴィンチは、異端者と疑われる事の無い様に、自分の手記記録を他の人物に読まれる事が無い様に、判り難い文字で書いたのだと思われます。

 もう一面として、彼は多分、“左利き”で在った為この様な文字を書いたのではないか?との疑問も存在します。
美術書に因れば、彼のデッサン類を深く見聞すると、陰影の部分に引かれた細い影付けの線が皆、左上から右下に向けて描かれています。
普通は、右上から左下へ線を引きますが、是は彼が左利きの為左で描いた為で在り、先に述べた記録は、他人に見せる事を前提にしていないものなので、書き易い左手を使った為、裏文字に成ったと推測されます。
その為、他人に読んで貰う書面、先の10ヶ条の推薦書は、普通の文字で書かれています。

続く・・・
2010/07/03

歴史の?その233:正史の中の疑問40:ゼロを知らなかった数学

<正史の中の疑問40:ゼロを知らなかった数学>

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 最近又、固い内容の記事が、続いていますので、軽く読んで下さい(^^)。

 今、私の手元に業界新聞が有ります。
この通し番号は、32164号。
1年について、362回の発行があるとすれば、32164号は、何年分に当たるのでしょうか?
この様な問題を出されたら、パソコンや計算機を使わずとも、私達は紙に書いて、計算(筆算)によって、直ちに答えを導き出す事ができます。
其れは、計算に便利な算用数字と筆算の方法を知っているからです。

 処が、単純に見える計算でも、昔の人々には、大作業で、明治以前の人ならば、「三万二千百六十四を三百六十二で除する」と書いて、頭をひねったのです。
勿論、紙の上での計算は出来ません。

 ソロバンの使用方法と、割り算の「九九」を知っている人ならば、ソロバンの上で答えを導きだしたでしょうが、ソロバンも現在の様に普及したのは、江戸時代(17世紀頃)以来の事なのです。
ですから、それ以前の人にとって、複雑な掛算や割算は、大変難解な事でした。

 是は、ヨーロッパ人に取っても同様で、現在の算用数字(アラビア数字)が用いられる以前、ヨーロッパで用いられていたのは、ローマ数字であり、上の問題をローマ数字で表せば以下の様に成ります。

((I))((I))((I))(I)(I)CLXIV(割る)CCCLXⅡ

 是を見ても筆算は到底不可能である事が解かると思います。
ギリシア人で在っても同様で、ギリシア文字で書いたのですから、筆算出来ない事に変わりは有りません。
つまり、ヨーロッパで用いられていた数字は、計算の結果と資料としいての数値を記録するものに過ぎず、実際の計算には、アバークスと言う計算器を用いたのですが、アバークスの操作は、途方も無く複雑で、ソロバンの比では無く、昔のヨーロッパ人は、わざわざアバークスを用いて苦労を重ねた上に、ようやく答えを導き出したのでした。

 実際、計算に便利な算用数字はアラビアからも伝わって、是を用いた筆算の方法も12世紀初頭には、イタリアで紹介されていましたが、当時のヨーロッパ人にとって、アラビアは異教徒の土地であり、敵国でも在った為、教会勢力を中心とする保守派は、頑なにアラビア数字を排撃し、その使用を禁止さえも行った為、アバークスは、尚数百年にわたって利用され続けました。

 さて、私達は、数学の天才と言うと、近代では、ニュートン、デカルト、ガウスを連想します。
しかし、ヨーロッパにおいて、近代数学が発展するのは、17世紀以後の事であり、アバークスのレベルでは、方程式を解く事は不可能でした。
近代数学は、アラビア数字を用いる事で、発達したのです。
アラビア数字は“1~9”と“0”の記号を組み合わせて、あらゆる数を表す事が可能であり、日本のソロバンの様に、位取りの方法によって、大きな単位の数も簡単に表す事が可能で、新しい記号を作る必要は、皆無でした。

 この“0”の記号化と位取り法の発明は、アラビア人ではなく、本来はインド人が発明したもので、其れをアラビア人が取り入れて、用いられる様になったのです。
インドにおいて「ゼロ」の記号は、実に紀元前2世紀には用いられ、其れは「無:シューヌヤ」と呼ばれました。
誰がこの記号を発明したのか、そして「ゼロ」を数字の一つと考えて、計算に用いる様にしたのかは、現在でも判明していません。
更に、何故インドにおいて「ゼロ」の思想と「位取り法」が発明されてのでしょう?

 一部の学説では、是をインド人の「無」の思想、「空」の思想と結び付けて考える人物も存在しますが、この様な偉大な発明も「本来は社会的環境の所産であり、その時代のある切実な要求に答えたものである事を、想定しなければならない」(ネルー)でしょう。

 確かに古代のインドでは、商業が盛んで、簡便な計算法が無くては、商業計算は無理でした。
ギリシア人は、その思索の中から、高度な幾何学を発達させたのも、商業や航海の上から必要に迫られた事に相違無いものの、ギリシアの天才達も、終に「ゼロ」の発見は出来ず、算術や代数は発達しませんでした。

 如何なる説明も、不明な面の一部を解くに過ぎず、ヨーロッパ人はインドやアラビアに学ぶ迄、終に「ゼロ」の概念も簡便な計算方法も知らなかったのです。
16世紀の数学者の著書「少数論」を次に人々の為に記しました。
「天文学、測量士、織物の計量士、重量の測定士、及び商人の皆様」
当時のヨーロッパにおいて、数の計算作業を、如何なる人々が携わっていたかを示しています。

続く・・・

2010/07/02

歴史の?その232:正史の中の疑問39:紀元の年

<正史の中の疑問39:紀元の年>

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 12月25日はクリスマス、イエス・キリストの降生祭ですが、イエスが、この日に生れたと云う証拠が在る訳では有りません。
事実、降生祭も1月6日に行われた事も在れば、5月25日に行われた事も在りました。

 現在の西暦紀元を、イエス誕生の年と定めたのは、6世紀の神学者ディオニシウスで、この時、イエスの誕生は、ローマ建国紀元754年とされました。
後年、ディオニシウスの計算は、誤りである事が判明し、実際のイエスの誕生は、この紀元より4年程遡る、恐らく西暦紀元前4年であると考えられています。

 宗教の開祖については、その教えが広く人々に信じられる様になると供に、その生涯は、曖昧模糊となって行きます。
仏教の開祖「釈迦(仏陀)」にしてもその生没は明らかでないものの、シャカは、イエスよりも少なくとも、500年以上も前の人物なので、生没年に異説が多く存在しても不思議ではないと思われます。
その入滅、即ち仏滅の年は、西暦紀元前485年とも紀元前386年とも云われています。

 日本の平安時代には、仏滅の年を西暦紀元前949年と考える説が、最も有力で、仏滅から2000年を経過すると、末法の世に入ると考えられていました。
従って、平安時代中期の永承7年(西暦1052年)は、当に末法の入る年であり、この年、藤原頼通は、宇治の山荘を平等院と名づけて寺院とし、翌年には阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立しました。
仏教徒の間でも、この様に仏滅の年が紀元とされる場合が、少なくないのですが、基準と成るべき仏滅の年に、異説が多ければ、年の換算も又、複数存在するのも無理からぬ事でした。

 その点、イスラム教の場合、その起源が新しいだけに、年月日も明らかで、イスラム歴の紀元元年は、マホメットがメッカからメジナに移った年、所謂、ヘジラの年(西暦622年)で在り、マホメットがメジナに到着したのは、9月20日です。
但し、イスラム歴の基点は、この年の太陰暦の元日に当たる、6月16日とされました。
イスラム歴は、純粋な太陰暦を用い、従って平年は354日と成り、太陽暦とは、年毎に10日から11日の誤差が生じて来ます。

 この様に考えれば、世界各地で用いられている紀元の年は、曖昧なものと言わねば成りませんし、是等の紀元は、何れも宗教上の習慣に基づくものなので、国家として制定したものでは有りません。

 国家が、その建国の年を紀元する例は多く、古くはローマ建国紀元であり、インドのグプタ朝建国紀元があり、フランス第一共和制の基では、共和国成立の西暦1792年9月12日を所謂、革命歴第1年元日と定めていました。
現在でも、台湾の中華民国政府は、その成立の年である、西暦1912年1月1日を紀元として。民国の年何年と数え、中華人民共和国では、「公元」と称して西暦を用います。
嘗て、中国では、伝説上の皇帝である、黄帝即位の年を以って紀元とする、黄帝紀元を称えた時代も在りました。
大韓民国では、開祖壇君即位の年(西暦紀元前2333年)を以って、公式の紀元とします。

 日本では、暦が始めて用いられたのは、聖徳太子の時代、推古天皇の12年(西暦604年)であり、其れまでは、歴法が存在していない為、正確な年月を計算する事が出来ません。
しかも日本の建国の日は、中国で流行した讖緯説に従って、推古天皇9年(西暦601年)の辛酉の年から1260年遡った、辛酉の年(西暦紀元前660年)正月元日と定められました。
所謂、神武紀元です。

 「紀元節」は、この神武紀元の正月元日を太陽暦に換算して、明治6年に制定されたもので、西暦紀元前660年の日本は、縄文文化時代であり、金属器も知らず、農耕も殆んど行われる事無く、勿論、現在の概念で言う国家も発生しておらず、暦が存在していないので在るから、現実には、換算の方法は存在しないはずなのです。

 最初の紀元節は、明治6年1月29日に行われたのは、その日が、旧暦の元日に当たっていた為でした。
しかし、旧暦の元日が、年によって異なるのは、自明で明治6年1月29日が元日でも、1年前、100年前、1000年前の元日がその日に当たるとは限りません。
其の為か、翌年から、2月11日以って紀元節とする事に成りましたが、なぜ2月11日と換算されたのか、その根拠は明らかでは有りません。

続く・・・

2010/07/01

歴史の?その231:正史の中の疑問38:カースト後編

<正史の中の疑問38:カースト後編>

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 古代に於いてもカーストに区別は、四姓だけでは無く、幾つものカーストが存在し、古代法典(マヌ法典)では、是を不正な婚姻から生じたものと説明しています。
アーリア人の勢力が拡大するに連れて、多くの異民族と通婚が生じ、違った階級の結婚も当然、発生するでしょう。
更に社会生活が複雑に成れば、職業も細分化し、されが又カーストを分化せしめたのでした。
職業には、不浄と考えられるものも在り、其れに従事する者が、下層カーストとされ、或はカースト外の賤民とされていったのです。

 仏教の様に、カースト制度を否定する宗教も興りましたが、インドでは、終に仏教も主流の教えとは成りません。
4世紀にグプタ朝が興り、広く民衆に広まったのが、ヒンズー教で、古代のバラモン教を中心に、各地の民間信仰の神々を取り入れた、ヒンズー教は、全インドのあらゆる種族、あらゆるカーストの間に信仰される様に成りました。
しかし、バラモン階級の権威は、揺るがず依然として、カーストの頂点に君臨し、他のカーストも温存され、更に細分化されて行きました。
11世紀には、イスラム勢力の侵入が始まり、16世紀には、ムガール帝国が成立し、ほぼ全インドを制圧し、イスラムの支配は、ヒンズー教徒を圧迫します。
社会の表面から消えたヒンズー教徒は、被征服民族としてその伝統を守り続けたのです。

 やがてイギリスのインド統治時代を経て、第二次世界大戦の終結後、インドは独立を達成しますが、イスラム教徒は分離して、パキスタン(東西パキスタン:現バングラデシュとパキスタン)を形成しますが、インドのカースト制度は残ったのです。

 近代文明は、カースト制度を切り崩して来た事も事実で、上水道が発展すれば、誰も同じ水を飲み、鉄道が発展しれば、如何なる人とも同席しなければ成りません。
学校、職場、そして新しい産業に従事し、現代の都市に生活して行く限り、飲食や職業の制限は、問題に成らなくなりました。
其れでも、カースト制度は、尚根強く存在し、社会生活の表面から離れた身近な地域集団の中において、その習慣の面において、カーストは強く守られています。

「ヒンズーがカースト制度に執着しつづけてゆく限り、インドはインドである」

本編終了・・・