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2010/08/31

歴史の?その273:世界史の流れ13・ルネサンス

<世界史の流れ13・ルネサンス>

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 十字軍の将兵や軍需物資の輸送に従事したイタリアの港湾都市、ヴェネチアやジェノバ等は、ついで東洋貿易にも進出し、繁栄しました。
東洋からは主に香料が輸入され、ヨーロッパからは銀、銅等が輸出されました。
この銀、銅は主にドイツから産出された為、内陸の交通路の要衝にあたる、ミラノ、フィレンチェ等のイタリア諸都市も繁栄する事と成りました。

 是等の諸都市の繁栄を背景として、イタリアには後世にその名前を残す偉大な芸術家が、15世紀から16世紀にかけて多く登場します。
文学方面では、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ等、美術方面では、ボッティチェルリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロ等がこの期間に登場し、当に天才の競い合いでした。

 この文化の急速な発展を“イタリア・ルネサンス(文芸復興)”と呼び、「ルネサンス」とは「復興」の意味であり、中世の「神」中心の文化に変わって、古典時代(ギリシア・ローマ)の「人間」中心の文化が復興するという意味でした。
しかし、研究者の中には、ルネサンスは中世文化の否定ではなく、かえって中世文化が開花したものとする、学説も存在します。

 イタリア・ルネサンスの殊にその人間性の発見と尊重の精神は“人文主義”と呼ばれ、次第に全ヨーロッパに影響を与えて行きます。
フランドル地方には、ファン・アイク兄弟、エラスムス、ドイツのアルブレヒト・デューラー、メランヒトン等の芸術家、学者が登場します。
イギリスでは、チューサー、トマス・モア、シェークスピア、スペンサー、フランシス・ベーコン等の文学者、哲学者が登場し、フランスでは、ラブレー、モンテーニュ等の文学者が登場します。

 “人文主義”はドイツに入ると、大学や知識人の中に深く浸透し、当時のカトリック教会に対して批判や改革を要求する“宗教革命”運動となって現れ、この運動の指導したのは、マルティン・ルターでした。

続く・・・
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2010/08/30

歴史の?その272:世界史の流れ12・仏教とカースト

<世界史の流れ12・仏教とカースト>

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 インドに関する、私達日本人の知識は、余りに少なく現実を正しく理解しているとは、言いがたいものがあります。
多くの日本人は、仏教の発祥地としてのインドを知るのみであり、カースト制度の表面を知るに過ぎません。
しかし、僅かな知識であっても、四民平等の仏教を生んだ国に、なぜカースト制度の壁が現在に迄及んでいるのか、疑念を抱かざるを得ません。

 実にインドの歴史は、残された記録が少ない為もあって、他の国にも増して、不明な部分が多い様です。
しかし、不明は不明として疑問に感ずる為には、やはり相当に知識が必要と思います。
歴史の態勢や、登場する人物の性格を理解した上でなければ、如何に不思議な事が在っても、その事象を謎として取り上げる事が出来ないのは、その為なのです。

 インドでは「12マイル毎に一つの言語が存在する」とさえ言われ、それ程インドには雑多な民族が混在していますが、是はインドの長い歴史が生んだ結果でした。

 太古のインダス文明を形成したのは、インドの先住民族であり、其処へアーリア人が侵入して、先住民族の一派と云われるドラヴィタ人等と混住、混血しつつ、バラモン文化を形成しました。
言うまでも無く、アーリア人はヨーロッパ系の民族と同種の人々です。

 10世紀以後、トルコ系の民族が西北インドに侵入し、イスラム文化をもたらしました。
やがて、イスラム勢力は、インドの大部分を征服し、16世紀にはムガール帝国が建国します。
其れまで、インド社会の主流を占めていたヒンズー教の上に、イスラム教の力が加えられたのでした。

 越えて近代には、イギリスの支配が始まります。
イギリスの分割統治政策の基に、インド古来の宗教や言葉、更にカーストの風習等も利用し、その差違を激化させました。
インド社会を古代さながらの貧困と無知の状態のままに置いたのも、イギリスの支配でした。

 しかし、インド人は、仏教の様な深遠な哲学を産み、科学思想の上においても比類無き英知を示しています。
私達は、改めてインドの正確な歴史を学ばねば成りません。

続く・・・
2010/08/28

歴史の?その271:世界史の流れ11・新大陸の発見と征服

<世界史の流れ11・新大陸の発見と征服>

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 15世紀後半のヨーロッパ、殊にポルトガル、スペインは東洋への新しい航路を開拓すべく、活発に大洋に乗り出し、地理上の発見が続きました。
⇒1488年 バルトロメオ・ディアス 喜望峰到達、1492年 クリストバル・コロン 大西洋横断・アメリカ大陸を発見、1498年 ヴァスコダ・ガマ 東インド航路発見等。
この後、ヨーロッパ人の新大陸進出は、非常に急速度で行われました。

 ヨーロッパ人が初めて新大陸アメリカに到達した頃、現在のメキシコ湾沿岸からパナマ地峡にかけてアズテック王国が、南アメリカのアンデス山脈一帯には、インカ帝国が繁栄しており、特にアズテック王国は、6世紀から10世紀頃に繁栄した、マヤ文明の流れを継承していました。

 マヤ・インカの文明は、ヨーロッパでは既に過去のものと成った、金石併用文明の段階に当時も、留まったままでした。
是等の文化は、文化は旧大陸の文化と全くの無関係な文化では在りませんでしたが、長く旧大陸との往来が断たれていた為に、新大陸特有の特色ある文化と成っていました。

 例えば、インカは、石造建築や黄金細工に特に優れた部分を見せ、一部では脳外科手術迄行っていたにも関わらず、一方では、車輪の概念や文字の利用を知りませんでした。

 新大陸の住民達は、未だ鉄器を知らず、其処に新たに侵入したヨーロッパ人達は、剣等の鉄製品の他、鉄砲迄所有していました。
従って、新大陸の住民は、ヨーロッパ人の敵ではなく、1521年アズテック王国の首都ティノチティトランがスペイン人コルテスによって征服され、インカ帝国も1533年ピサロによって征服されてしまいます。

 スペインは、新大陸から、金・銀製品を集めてスペイン本国に送り、その為ヨーロッパでは、貴金属の価格が急落した程でした。

続く・・・
2010/08/27

歴史の?その270:世界史の流れ10・モンゴル帝国

<世界史の流れ10・モンゴル帝国>

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 現在、モンゴルと言えば、モンゴル人民共和国、モンゴル民族、モンゴル高原の名前を私達は、思い浮かべます。
更にモンゴル人種(モンゴロイド)では、日本人、韓国人、中国人を含めて、アジア人種全体の呼称でもあります。
此処で、「ネイティブ・アメリカンはモンゴル人種に属する」と記述されていても、其れはモンゴル民族と同じものという意味ではなく、アジア人種という意味なのです。

 しかしモンゴルという名称が、是ほど広く用いられる様に成ったのは、チンギス・ハーンが大帝国を建国して以来の事でした。

 12世紀前半、モンゴルと言えば、現在のモンゴル高原の東方で遊牧生活を送る一部族の名称に過ぎませんでした。
其処にテムジン、後のチンギス・ハーンが現れ、モンゴル部族を統一し、更には周辺の諸部族を従え、現在のモンゴル高原を舞台とする大帝国を形作りました。
そして出身部族の名前を国家の名前とし、“大モンゴル帝国”と呼ぶ事が、正式の国家名称と成りました。

 チンギス・ハーンの帝国は、愈々拡大し、やがては、アジアの大部分から東ヨーロッパにまたがる大帝国と成り、大モンゴル帝国の名前は、当時の世界に広く知られる様に成ります。
因みにハーン(カン・汗)は、モンゴル語で「皇帝」を意味する言葉なのです。

 モンゴル民俗の西方には、トルコ民族が居り、東方には、ツングース(満州)民族が居て、合わせてアルタイ語族と呼ばれます。
その言語は、日本語、韓国語に酷似した部分もある事から、日本人もアルタイ語族に近い関係に在ると推察する学者は多いのです。
このアルタイ語を北方系とすると、中国語、タイ語、チベット語、ビルマ語は南方系に属し、是等の言語構造は、全く異なっています。

 其処で、東アジアの歴史上の民族系統に当てはめてみると、吐蕃、西夏はチベット系であり、是に対して北方の契丹はモンゴル系に属し、金、清王朝を築いた女真族は、純粋なツングース族に属します。
高句麗、渤海人は、ツングース系では在りますが、モンゴルとの混血民族と考えられます。

続く・・・
2010/08/26

歴史の?その269:

<世界史の流れ9・庶民の生活>

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 私は、中学生の頃、歴史を勉強していて気付いたのですが、当たり前の事が、意外と判らないものなのです。
昔の人々が、朝何時に起きて、如何なる物を食べ、どの様に生活して、何時頃床に就いたのでしょう?
この様な、極日常の生活模様が、良く判りませんでした。

 当然ですが、当時の人々は極々自然な普段の生活模様を、誰も記録してくれなかったのです。
現在でも日記を付ける人は多いですが、その際、決まりきった日常の暮らしの細部迄書き残している人物は、まず居ないと思います。
仮に存在したとしても、長い年月に内に、ありふれた記録は、捨てられてしまいます。
残されるのは、特別に価値があると認められたものばかりと成ります。
役所の文書に関しても、平凡なものは処分されので、庶民の戸籍等は一定の期間保存され廃棄抹消されてしまいます。
結果的に特殊な事件に関する文書等しか、後世に伝わりません。

 其処で、もし何らかの偶然によって、こうした平凡な記録が発見された場合、それは大発見と成ります。
敦煌文書が尊重されるのも、その様な背景が有り、此処には経典、絵画の他に、庶民生活の資料が残されていました。
それも唐の時代の記録資料が現存していたのです。
日本でも、正倉院には奈良時代の戸籍が保管されていますが、是はその裏側に仏教の経典が写されており、経典として保存されていたのでした。
当時を推察すれば、紙は貴重品でしたから(現在は、エコロジーの観点から裏紙を使用しますが)一端使用したからといって廃棄する事は勿体無いので、裏返して別の用途に使用する事によって、本来残らないはずの戸籍が、現在に伝えられたのでした。

 紙一つ取り上げても、時代によって、是だけ用途の差が出てきます。
其処に歴史の面白さが有り、難しさが有ると言えるでしょう。
紙の発明が中国で行われ、イスラムを経てヨーロッパに伝えられましたが、この事は如何なる歴史の書物にも書いて有ります。
しかし、其れだけ紙が貴重であった時代に、現在の私達が紙をもって為す用件を何で足していたのでしょうか?
現在なら、ペーパーレスとなり、パソコンに記録(記憶)する事で、何時でも見る事が可能ですが、この様な問題に関しては、歴史の書物も沈黙したままなのです。

 歴史の中の本当の謎は、この様な分野において無数に存在するのではないでしょうか?

続く・・・
2010/08/25

歴史の?その268:世界史の流れ8・三国から唐代へ

<世界史の流れ8・三国から唐代へ>

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 3世紀初頭、漢帝国が滅亡すると、中国は分裂の形成と成りました。
魏・呉・蜀の三国が分立して、天下を争いますが、中でも最も強大であった魏は、やがて蜀を滅ぼし、魏を継承した晋は、呉を滅ぼします。
3世紀の末近く、中国には再び統一王朝が出現しますが、其れも僅かな期間に過ぎず、4世紀初頭には、北方及び西方から異民族の中国領内侵入が繰り返され、その北部はやがて異民族の支配下に置かれてしまします。

 晋王朝は南に下り、現在の南京を都と定め、是より以後、5世紀から6世紀にかけて、南京は宋・斉・陳の王朝が興亡します。
所謂、南朝です。

 一方、北方では、五胡十六国の時代を経て、5世紀にはモンゴル系の北魏が勢力を統一しました。
こうして、中国では南北朝の時代と成り、この形勢は隋の統一迄続きました。

 さて、日本の状態が詳しく中国人に知られ、且つ記録されたのは、3世紀の魏の時代です。
三国志の中の、“魏志倭人伝”に記載され、越えて5世紀には、大和朝廷が南朝の宋、斉に朝貢しています。
隋の統一時代は、我国では聖徳太子の時代(飛鳥時代)で、此処で初めて日本は、中国の王朝と対等な国交を行うに至りますが、この彼我の往来に関する詳細な点については、まだ疑問とすべき点が少なく有りません。

 隋の帝国は30年にして滅亡し、次いで唐が建国します。
唐は、8世紀に及んで、その絶頂期を迎え、都の長安は当時、世界最大の都市で在り、日本から遣唐使、留学生をはじめ、唐の文化を慕う人々が集い、そして長安は、国際色豊かな文化都市として発展しました。

 この頃、朝鮮半島の南部には、新羅が統一国家を形成し、半島北部から東北部にかけては、渤海が建国しています。
新羅も渤海も唐の制度に倣って、国家の体制を整え、殊に渤海は広大な領土を保ち、“五京十五府六十二州”の区画を立てて、“海東の盛国”と称され、唐に朝貢すると共に、日本にも奈良時代から平安時代にかけて、しきりに朝貢
します。
渤海との交歓の様は、我国の記録にも詳しく書き残されていますが、其処には、記録に欠けた悲話(秘話)も在りました。
故意であったか、偶然であったか、我国に伝わらぬ秘話こそは、私達同胞のいたましい運命を示す悲話でした。

続く・・・
2010/08/24

歴史の?その267:世界史の流れ7・漢と匈奴

<世界史の流れ7・漢と匈奴>

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                 匈奴討伐

 紀元前221年、秦の始皇帝は天下を統一し、歴史上確認されている中で、中国において最初の大帝国を建設しました。
但し、始皇帝に関する出生等については、以前不明のままで、勿論、秦の王位継承者として生れてのでしょうが、実の父親は、宰相の呂不韋であったとも云われています。
ともあれ、始皇帝の治績は偉大であり、統一政治の推進は、広大な中国大陸を一つの帝国のもとに包括させ、中国民族の居住地域を今日の規模に近い程迄に拡大させ、中国の力がベトナム方面に迄及んだのもこの時代なのです。

 折から北方のモンゴル高原には、匈奴の勢力が拡大し始め、是も又強大な国家を建設していました。
是に対して始皇帝は、旧来からの長城を修築し、“万里の長城”を築きあげますが、この長城が、この後長く中国北方の境界と成りました。

 秦王朝は、15年にして滅亡し、是より漢の時代と成ります。
漢王朝は、紀元を挟んで400年間にわたり中国に君臨しますが、中国史上、最も長寿を保った王朝で在りました。
しかも漢の高祖は、平民の身分から興り、実力を持って帝国を創始し、その偉業は、後世の人々から君主の典型として描かれました。

 是ほどの高祖にして、尚悩まされたのが、匈奴の領土内侵入で、高祖自等、匈奴と刃を交え大敗を被っています。
漢の勢力が匈奴の力を凌駕するのは、紀元後2世紀後半、武帝の代迄待たなければ成らず、武帝の御世、漢の勢力は絶頂期を迎える事と成ります。

さて、そもそも匈奴とは、如何なる民族に属するのでしょうか?
この部分が、今日においても明らかではなく、匈奴自等の記録が存在しない為、モンゴル系、トルコ系なのか、何れにしても、アルタイ語系に属する遊牧民族で在ったと、推定されています。

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                  王昭君悲話

 匈奴王の下に赴いた女性の哀話、匈奴と漢との狭間で揺れた小国の悲劇、この南北二大勢力の対立に纏わる話題は、大変多く、舞台は中国、モンゴル、更には中央アジアに迄にまたがって展開します。

 中国人の足跡が、遠くパミール高原越え、西アジアに達するのも武帝の時代で在り、その頃、日本列島でも弥生時代を迎え、金属器の使用を知り、農耕文化を営むに至っていました。

続く・・・

2010/08/23

歴史の?その266:世界史の流れ6・ローマ帝国の興亡

<世界史の流れ6・ローマ帝国の興亡>

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               ベン・ハー:戦車競技

 ローマ帝国もギリシアと同様に都市国家から始まり(ロムルス・レムスの伝説的起源説では、紀元前753年)、イタリア半島の諸都市を次々と併合して、半島を統一、その後はシチリア島の併合を最初として、その版図は地中海全域に及んで行きました。

 ローマ帝国の領土が広がると共に、国内外の矛盾が大きくなり、紀元前2世紀後半からの約100年間は混乱の時代を迎えます。
特に大きな対立は、元老院派と平民派(マリウス、スルラの権力闘争)の対立、奴隷反乱(スパルタクスの反乱)が起こりました。

 紀元前60年、反元老院派の有力者3名(カエサル、ポンペイウス、クラッスス)は、“三頭政治”を始め、その一人、ユリウス・カエサルはガリア(フランス)、ブリタニア(イギリス)をも版図に加え名声を上げます。
是を嫉んだポンペイウスは、元老院と結託し、カエサルに軍隊を武装解除の後帰国する様、命じます。
しかし、カエサルはそのまま、軍を率いて「ルビコン川」を渡りローマに凱旋、更にポンペイウスを倒してしまいます。

 カエサルの名声は、更に高まりますが、彼は独裁者に成ろうとしていると疑われ、ブルータスに元老院で暗殺(紀元前44年)されました。
カエサルの後継者と成った、甥のオクタヴィアヌスは、帝国内の混乱を平定し、カエサルの暗殺を教訓として、皇帝の称号を辞退しましたが、元老院は「アウグストウス(尊厳者)」の称号を送り(紀元前27年)、事実上帝政が始まりました。

 帝政の前半200年間は、ネロの様に“暴君”と云われる者や、暗君も在位した時期も在りますが、比較的賢帝が多く、帝国は極めて安定的に統治され「ローマの平和(パックスロマーナ)」と後に云われる時代が続きました。
しかし、その後は軍隊の権力が強大となり、“軍人皇帝”等が続出し、又内乱の多発により、ローマ帝国は、395年東西に分裂します。

 ローマ帝国分裂の少し前から、アジアからヨーロッパにかけて「民族大移動」が始まり、ゲルマン民族がローマ帝国領内に移住し、最初は、ローマ帝国の末端を担う労働力となったものの、後には、傭兵隊長の一人、オドアケルが自らイタリア王を名乗り、西ローマ帝国は467年滅亡します。

続く・・・
2010/08/21

歴史の?その265:世界史の流れ5・ギリシアとその文化

<世界史の流れ5・ギリシアとその文化>

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 ギリシア人は、紀元前2000年からバルカン半島を南下し、エーゲ海文明に接し、この文化を吸収してミケーネ文明を創りました。
其れから、更に紀元前1200年頃、新たに南下して来た、同じギリシア人であるドーリア人によって、ミケーネ文明は征服破壊されてしまいます。
ドーリア人達は鉄器を使用していたものの、未開の民族で、この後一時期ギリシアには、文化らしきものは存在せず、“暗黒時代”に入ってします。
しかし、彼等は、その中から全く新しい優れた「ギリシア文化」を創造していきました。

 ギリシア人は、「都市国家(ポリス)」と呼称される特殊な国家形態を形成し、是は小さな自治独立国家で、その数は地中海周辺に数多く分布し、そのポリスの中で代表的なものは、イオニア人の「アテネ」とドーリア人の「スパルタ」です。
アテネは、文化的な民主制の海軍国、スパルタは、極端な強兵制度を採用した寡頭政治の陸軍国でした。

 紀元前6世紀中葉から、次第に大帝国に変貌していったペルシャは、紀元前5世紀初頭、ギリシアに侵略を開始(ペルシャ戦争)します。
ギリシアのポリスの中には、刃を交える事無く、ペルシャの軍門に下ったものも在りましたが、アテネ、スパルタ両軍は、頑強にペルシャに抵抗し、事にアテネは「マラトンの戦い」(陸戦)と、「サラミスの海戦」でペルシャ軍を撃破し、ギリシア第一の強国と成り、「デロス同盟」の盟主として他のポリスを従えて、繁栄の絶頂期を迎えます。
この時代、アテネには、パルテノン、エレクティオン等の神殿や、劇場、公共施設が建造され、学問、芸術の中心として多くの、哲学者、芸術家を輩出します。

 しかし、アテネの繁栄に対して、スパルタは、紀元前431年アテネに侵攻し、ペロポネソス戦争が勃発します。
スパルタは、この戦いに勝利したものの、その栄華は長く続く事は無く、ギリシアのポリス同士がその勢力を競う中、北方のマケドニアが国力を増大させ、その王ピリッポスの時代、全ギリシアは征服統治されてしまいました。
ピリッポスの子、アレクサンドルはギリシア軍を率いて、アジアに遠征を繰り返し、大帝国を築き上げます。
彼が征服地に建設した、ギリシア風のポリスは、ギリシア文化を東方に伝える中心地と成り、その中のでもエジプトのアレクサンドリア(アル・イスカンドリア)は、現在でも地中海の重要な貿易港として、繁栄しています。

続く・・・
2010/08/20

歴史の?その264:世界史の流れ4・エーゲ海文明

<世界史の流れ4・エーゲ海文明>

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 「光は東方より」と言いますが、メソポタミア、エジプト等に人類の文明は、開闢します。
その“東方”即ちオリエント文化の影響を受けて、小アジアとギリシアとの間に位置する、エーゲ海沿岸とその島々にも、紀元前3000年頃から、独自に文化が生れました。
是を「エーゲ海文明」と呼んでいます。

 この「エーゲ海文明」は長期に渡り、その存在そのものが忘れられていましたが、19世紀の終焉近く、ハインリッヒ・シュリーマンがトロイア、ミケーネ等の遺跡発掘調査を行い、多数の黄金製品を発見してから、その存在を改めて私達は、知る事ができる様に成りました。

 「エーゲ海文明」は“前期”と“後期”、二つの年代に分ける事が出来、“前期”は「クレタ文明」又は「ミノア(ミケーネ)文明」と呼ばれています。
エーゲ海の南部に位置するクレタ島のクノッソスに君臨した“ミノス王”が当時、エーゲ海一帯を統治していた事に由来する名称です。

 イギリスの考古学者 アーサー・エヴァンズは、20世紀初頭に、クノッソスの王宮跡を発掘調査し、クレタ文明の栄華を私達に伝えてくれました。
クレタ文明の最盛期は、紀元前1800年から紀元前1400年頃とされていまが、その後突然クレタ文明の中心で在ったクノッソスが滅び、新しくギリシア本土のミケーネ、ティリンス、ピュロス等に文明の中心が移動します。
是等ギリシア本土で、開花した文明が“後期”に属する「ミノア(ミケーネ)文明」なのです。

 ミノア文明もクレタ文明と、類似した文明なのですが、前者が小アジア系人種(詳細は現在も不明)ですが、後者はギリシア系人種による文明でした。
ギリシア系民族は、紀元前2000年頃から、バルカン半島を南下し始め、紀元前1400年頃クレタ文明を滅亡させたのですが、当時彼等は、文化的に未開で在ったので、先行するクレタ文明を模倣して自分達のものとしました。
その為“前期”と良く似ていることから、この二つの文明は総称して「エーゲ海文明」と呼ばれています。
そのミノア文明は、紀元前1200年頃新たに南下して来たギリシア系ドーリア人によって征服され滅亡します。

続く・・・

2010/08/19

歴史の?その264:世界史の流れ3・中国文明の夜明け

<世界史の流れ3・中国文明の夜明け>

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 私達は、中国文明の起源を考えた時、最古の人類の一つである“シナントロプス・ペキネンシス”(北京原人)の事を連想します。(決して、古い香港映画の様な巨大類人猿では在りません)
その頭骨は、1929年、北京郊外周口店の洞窟から発見されました。
勿論、20世紀における、人類史の上でも最大の発見の一つに違い有りません。

 処が、この貴重な頭骨も、大東亜戦争の開戦に際して、何れかに運び去られ、現在に至る迄行方不明になっています。
当時、大陸に侵略を開始した、日本軍若しくは、関係者によって如何なる処置を取られたのか、北京原人は、その発見時から多くの謎を持ったまま、消滅してしまいました。

 処で、北京原人の発見に先立つ30年程前、1899年には、もう一つ大きな発見が成されました。
是が、甲骨文字であり、中国最古の文字として、殷の時代に占いの為、亀の甲羅や獣の骨に刻まれた文字なのです。
 是より、甲骨文字の研究が進み、同時に甲骨文字の出土する遺跡、即ち殷墟の発掘調査が大規模に進められる事と成りました。

 太古の中国には、夏・殷・周という三代の王朝が存在したと、伝えられます。
殷は、17世、29代、500年存続して、周に滅ぼされ、殷・周の交代は、西暦紀元前11世紀の半ば頃と推定されています。

 以後紀元前3世紀の後半迄、周の王朝は存続しましたが、その栄華は300年間に過ぎず、紀元前770年、其れまで鎬京に都を置いていた周王朝は、西方からの異民族の進入により洛陽に遷都し、以後周王朝の勢力は衰退し、諸侯は自立の勢いを増す、春秋戦国時代と成って行きます。

 更に紀元前5世紀には、勢力を拡大する諸侯の勢いは衰えず、群雄割拠の世相となって当に、戦国乱世の時代と成りました。
孔子をはじめ多くの思想家が現れたのも、春秋・戦国時代の特徴ですが、思想家達の伝記には、不明な点も多いのですが、その中で実在したのか?架空なのか?論議を呼び起こしている人物が老子で、孔子と並んで、後世の人々に最も親しまれている人物も又、老子なのです。

続く・・・
2010/08/18

歴史の?その263:世界史の流れ2・大河文明

<世界史の流れ2・大河文明>

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 人類が野獣を狩猟し、木の実、草の根等を採集して生活していた間は、もちろん、獲物を追って移住していました。
やがて人類は、牧畜や農業を営みはじめましたが、一箇所に定住する事は、中々できませんでした。
牧畜を行う為には、牧草のある場所を探してして移動し、農業も同時期に始まりましたが、未だ肥料を与える概念が存在しなかったので、地味が痩せると、他の場所へ移動せざるを得ませんでした。

 農業には、水が欠かせません。
その為、農業を行う人々は、次第に河川の流域に集まり、川は時として洪水等の被害をおよぼしますが、一方では上流から新しい泥を下流へと運び、肥料を与える事は知らずとも、毎年上流から、新しい泥が運ばれてくる為、この様な場所では、一箇所に定住する事が可能となり、移住の必要が無くなりました。

 人類が最初に定住農耕を始めたのは、メソポタミア北部と云われ、其れは紀元前6000年頃と推定されています。
定住する様になれば、建物や道路、又道具等も作られる様に成り、大河の流域にまず文明が生れる事と成りました。
ティグリス・ユーフラテス川(メソポタミア)、ナイル河(エジプト)、黄河(中国)、インダス川(インド)の流域等に早くから、金石併用文化が発生したのは、上述の様な理由からでした。

 しかし、これ等の地域では、洪水を防ぐ為に堤防を造り、灌漑用の運河を掘削する必要が在り、当時の人々は、人力を合わせて、大規模な土木工事を遂行しました。
又その為には、強力な指導者が必要で、これら地域には、絶大な権力を持った専制的統治者が発生する事が、普通でエジプトは、ナルメル王の基に統一され、第一王朝の開闢は、紀元前3000年頃であり、サルゴン王による、メソポタミア統一は、紀元前2300年頃と云われています。

続く・・・
2010/08/17

歴史の?その262:世界史の流れ1

<世界史の流れ1・先史時代>

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 研究者によって、諸説在りますが、私達の存在している地球に、人類の祖先にあたる生物が、初めて誕生したのは、今から30万年から50万年程以前であると言われています。
これら生物の根源となる生命が、地球上に登場したのは、8億年も以前の事と云われていますから、人類の歴史は、地球規模で見た場合、まだ始まったばかりと言えるかも知れません。

 特に人類の直接の祖先であると云われる「現生人類:ホモ・サピエンス」が、地球上に現れたのは、今から2500万年程前ですから尚更と思います。

 地球の気候は、度々変化し、「氷河期」と「間氷期」を3回乃至4回繰り返していますが、「現生人類」の祖先であるクロマニヨン人は、第4氷河期の終わり頃、現在のヨーロッパに広く分布して、生活を営んでいました。
気候の関係から、彼らは、洞窟に生活して、寒さをしのぎ、又野獣から身を守りました。

 クロマニヨン人は、石を使用した道具、「打製石器」を使い、この時代を総称して、「旧石器時代」と呼ばれ、彼らが生活した洞窟や岩陰には、それ等石器類の他、野獣や生活の一部分を絵として残します。
是が現在、ヨーロッパに広く点在する「洞窟壁画」と呼ばれるものです。

氷河期が終焉すると、人類は洞窟から出て、水場の近くに生活圏を移し、生活に伴う技術は進歩し、石器も表面を研磨した「磨製石器(新石器)」に変わり、粘土から土器を作る事も覚えました。
又、彼らは一箇所に集合して定住する様になり、石を使用した建造物を造営する様になります。
ヨーロッパの海岸地帯、特に北フランスのノルマンジー地方から、ドーバー海峡を挟んだ対岸のイギリス一帯に、この様な巨大石造物の遺跡が点在し、これらを「巨大記念物」と呼び、最も有名な物に、イギリスの「ストーン・ヘンジ」が在ります。

続く・・・
2010/08/12

お盆のお話

<お盆>

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   *北九州市にお盆の入りを告げる小文字焼き*

 お盆は正式には「盂蘭盆会」と言います。これはインドの言葉の一つ、サンスクリット語のウラバンナ(逆さ吊り)を漢字で音写したものです。

 お盆のはじまりについて「盂蘭盆経」の中の親孝行の大切さを説いた教えが昔から知られています。それは、「お釈迦様の弟子の中で、神通力一番とされている目連尊者が、ある時神通力によって亡き母が飢餓道に落ち逆さ吊りにされ苦しんでいると知りました。そこで、どうしたら母親を救えるのか、お釈迦様に相談にいきました。するとお釈迦様は、おまえが多くの人に施しをすれば母親は救われると言われました。そこで目連尊者はお釈迦様の教えに従い、夏の修行期間のあける7月15日に多くの層たちに飲食物をささげて供養したのです。すると、その功徳によって母親は、極楽往生がとげられました。」という話です。

 それ以来(旧暦)7月15日は、父母や先祖に報恩感謝をささげ、供養をつむ重要な日となったのです。わが国では、推古天皇の14年(606)に、はじめてお盆の行事が行われたと伝えられています。日本各地で行われるお盆の行事は、各地の風習などが加わったり、宗派による違いなどによって様々ですが、一般的に先祖の霊が帰ってくると考えられています(浄土真宗では霊魂が帰ってくるとは考えない。)日本のお盆は祖先の霊と一緒に過ごす期間なのです。

(資料提供:出版社名-鎌倉新書 出典名-2分でわかる仏事の知識)

さて、この時期、もう一つ思い出される行事。

「精霊流し」 8月15日に行われます。

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 1974年(S.49)、コーラスグループ“グレープ”が歌ったさだまさしさんの名曲でも有ります。
 精霊流しは、長崎県の旧盆の伝統行事で、最近の一年間に亡くなった人の御霊を船に乗せて西方浄土に送るものです。
長崎の精霊流しを一度でも見た人は、爆竹が雨あられのように舞う喧騒(けんそう)の中で、歌詞にあるような「華やか」さを感じることがあるかも知れません。

 しかし、どんなに華やかで騒がしい中にあっても、これが新しく仏になった、精霊様を送る儀礼であることを思うとき、喧騒は消えてしまいます。
そこには、誰にも知られない、一人ひとりの深い思いがこめられており、他の人を近づけない静寂さえが感じられます。

8月13日から15日迄、ブロクの更新をお休み致します。

2010/08/11

歴史の?その261:正史の中の疑問67:琥珀の間の行方・その2

<正史の中の疑問67:琥珀の間の行方・その2>

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 エカテリーナ宮殿の踏み込んだドイツ軍が、最初に目をつけたのは、“琥珀の間”でした。
此処は、55㎡に及ぶ室内の壁面全体が、精巧な琥珀の彫刻によって埋められており、部屋そのものが財宝で有り、美術品でした。
琥珀の間に使用された琥珀の総重量は6トン、約10万個に及ぶが、エカテリーナ2世が祝典応接室の名目で1770年に完成させた。

 本来は、1700年代の初め、プロシアのヴィルヘルム一世が自分の書斎として造営を命じ、後にロシアのピョトール大帝に献上した、歴史的宝物で、大帝の没後は、エカテリーナ宮殿の一室に移設されていました。
エカテリーナ2世はこの部屋をこよなく愛し、自らの許しがなければ入室を認めない禁断の部屋でした。
ドイツ軍は“琥珀の間”をそっくり取り外して、他の貴重品と共に、遥かは離れた東プロイセンのケーニヒスベルグ(現:カリーニングラード)へ移送してしまいます。
この作業を指揮したのは、ナチス幹部のエーリッヒ・コッホでした。
独ソ戦終結後、ソビエト共産党は、この為の国家調査委員会まで設置し、関係者に対する懸命な追求を行ったものの“琥珀の間”が一端ケーニヒスベルグの美術館に、隠匿されたところ迄は解明できましたが、其処から先の情報を得る事が出来ませんでした。

 最大のキーパーソンであると思われた、同美術館の館長 ロード博士が、ソビエト国家調査委員会の厳しい尋問のも屈せず、突如、その婦人と共に死体となって発見される事件迄発生しました。

 そして、もう一人の証人、ナチス幹部のエーリッヒ・コッホは、潜伏先のポーランドで逮捕され、重要戦争犯罪人として、死刑宣告を受け、刑務所に収監されました。
しかし、“琥珀の間”については頑強に口を閉ざし、戦後20年を経過した頃、僅かに「ユダヤ人を使い、市内ボナルト地区に在った教会地下室に収納した。作業後、教会を爆破して地下室を塞ぎ、作業したユダヤ人を全て銃殺した」と伝えられています。
肝心の教会の名前や、所在地に関しては「全く忘れてしまって、思い出せない」との言葉で結ばれていました。

 ケーニヒスベルグは、旧ソビエト連邦領でも、ポーランド国境に接した、バルト海に臨む町で、戦火と戦後の都市復興計画で、町の様相は細部に至る迄変貌しています。
現在でも、この町の何処かに・・・?

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 現在のエカテリーナ宮殿にある琥珀の間は、ロシアが国家を挙げて復元しました。
サンクトペテルブルクに建都300年、ドイツ軍に持ち去られてから62年後の2003年5月の事でした。
復元には24年間の歳月を要し、この式典がフランス、エビアン サミットの前だったこともあり、小泉首相はじめ各国首脳が集まった事はまだ記憶に新しいと思いますが、その際琥珀の間も各国首脳に披露され日本のテレビでも紹介されたのでご覧になった方もいらっしゃるのと思います。
もちろん招待された首脳の中にはシュレーダー独首相も含まれており、確かにドイツによって持ち去られた琥珀の間ですが、復元に際し、大きな資金提供をしたのもドイツなのです。

続く・・・
2010/08/10

歴史の?その260:正史の中の疑問66:琥珀の間の行方・その1

<正史の中の疑問66:琥珀の間の行方・その1>

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 ドイツ第三帝国が、1939年のポーランド侵攻以来、電撃作戦の名の基に破竹の快進撃と続けた時期、ヨーロッパは当に暗黒の時代でした。
非占領地の人々は、レジスタンスを組織し、抵抗を繰り返しましたが、大きな効果を上げる事は出来ませんでした。
ナチスは、その侵略占領地域の美術工芸品を次々と、ベルリンに移送しました。
“琥珀の間”は、東部戦線の開戦後。ソビエト連邦内に侵攻したドイツ軍よって、ソビエト領外に持ちさられた、当時時価5千万ルーブル(180億円以上:資料が古く現在の時価は不明、昭和48年時)と見積もられる国家的財宝です。

 ドイツ軍は、レニングラード(現:サンクトペテルブルグ)郊外24kmに位置するプーシキン(旧称:ツァールスコエ・セロ「皇帝の小さな村」現:サンクトペテルブルグ市プーシキン区)に侵攻、ここには、エカテリーナ宮殿が在ります。

 女帝エカテリーナ2世と言えば、帝政ロシア華やかなりし頃、その絶大な権力を誇った皇帝であり、エカテリーナの王冠は、頂上に小さな十字架を立て、高さ27cmのドーム型に金銀、ダイヤモンド、ルビー、真珠等総計実に2858カラットの宝物で構成されています。
又、女帝が身に付けていた、巨大ダイヤ“オルロフ”は196カラットと言う比類無い大きさの宝物は、インドで発見され、1773年にアルメニア商人を通じて、ロシアのオルロフ伯爵の手に渡り、翌年、女帝に献上されました。

 以上2点を含む、諸々の財宝は、何れも現在、クレムリン最高会議場近くの宝物貯蔵庫“オルジェイナヤ・バラータ”に収蔵されていますが、此処には、南ウラルで産出した世界最大の自然金塊“大三角”の他ダイヤモンド“皇帝”等の貴石名玉が収納されています。

後編に続く・・・
2010/08/09

歴史の?その259:正史の中の疑問65:ナポレオンの財宝・番外編

<正史の中の疑問65:ナポレオンの財宝・番外編>

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 ナポレオンの財宝、その夢と可能性は比較的高いものですが、もし発見された場合、その所有権を主張する、第三の人物が存在しています。

 事実「当家は、債権者であり、ナポレオン・ボナパルトには債務が存在する」と主張する人物が、現在ドイツに居住しています。
その人、チェール一族はイタリア、ベネチアで大船主であったご先祖のジャン・チェールは、ナポレオンのイタリア侵攻の際、軍資金として700万ポンドの財産を強制的に召し上げられました。

 只、ナポレオンも義理堅く、"借用書”を発行しており、「確かな証拠の文書が存在する」と、この一家は、200年近く時のフランス政府にその返還を迫っています。
チェール一族側の試算によると、その金額は、利子を加えて12億5000万ポンドに迄増大しており、フランス政府としても、ナポレオンの財宝でも発見されない限り、対応できないと苦慮しているとのお話です。

参考終了・・・
2010/08/07

歴史の?その258:正史の中の疑問64:ナポレオンの財宝・その4

<正史の中の疑問64:ナポレオンの財宝・その4>

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◎黄金の湖

 さて、木箱、大ダルと説は様々ですが、それが分散隠匿されて可能性も充分に在り、その総領は判りません。
その所在地も、ビリノ(リトアニア共和国・ヴィリニュス市)、ロシア共和国スモレンスク・オルシャ(ベラルーシ)間、ボリゾフ近郊と様々ですが、この何れもが、ナポレオン軍のモスクワ遠征軍退却路上に位置する事も確かで、何れかが正しいなら、他は間違いと言う意味では有りません。

 この中で最も可能性が高い場所が、モスクワ・スモレンスクのほぼ中間に位置する付近。
1812年11月2日、クツゾフ将軍の追撃を受けた際、「“財宝”をスモレンスク街道に沿った小さな湖水に沈めた」との通説が最有力候補なのです。

 ナポレオン軍のモスクワ撤退開始は、10月19日、スモレンスク到着は、11月中旬です。
逆算すれば、先之11月2日は、恐らくモスクワ・スモレンスクの中間に位置するロシア共和国ウイジマ市付近と推定されています。

先に記述した、ソビエト政府によって水質、土質調査されたストヤーチエ湖は、ウイジマ市から39kmの場所に位置し、勿論、セント・ヘレナ島の改修工事では、この種の記録は発見されませんでしたが、同湖を基準点と判断するのは無謀な事とは、思えません。

 はたして、同湖水の高濃度銀含有量は、“財宝”の場所を暗示するものでしょうか?
例え、発見された時は、他にも多くの“ナポレオンの財宝”が、現実に隠匿埋蔵されている事の証明にも成ります。
古くから云われる様に、スモレンスク街道は、“黄金の街道”なのでしょうか?

本編終了・・・
2010/08/06

歴史の?その257:正史の中の疑問63:ナポレオンの財宝・その3

<正史の中の疑問63:ナポレオンの財宝・その3>

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◎歴代ロシア皇帝による探索

 この様な経過から、ロシアの地の何処かに“財宝”は隠匿される事と成りましたが、この事実が現実のものとして明るみに出たのは、第二次世界大戦終結後、当時のソビエト政府が旧帝政ロシア外務省の未発表資料を公開した時の事でした。

例1
 1815年10月21日付、元プロイセン首相エンゲルハルトより、同国国王宛書簡
1812年3月、エンゲルハルト私邸にロシアから生還したフランス人将校2名が止宿した。その2名の目撃談として、「コブノ市(現:リトアニア共和国カプナス市)郊外の教会付近で、土木作業中のフランス砲兵を見かけた。彼らは財宝を詰めた木箱を地中に埋め隠したが、80万フランに相当する金額であると言っていた」。
同書簡はプロシア国王から、ベルリン駐在ロシア大使を通じて、当時のロシア皇帝に渡されているものの、発掘作業が実際に行われたか否かについては、記録されていません。

例2
 1823年10月付、近衛兵本部副官フリデリクスより、本部宛書簡
「ナポレオン軍に徴兵され、捕虜と成ったドイツ人傭兵の告白により、大ダル4個に分納された財宝の隠匿先が判明した為、その証言に基づき旧ミンスク・ボリゾフ市近郊のベレジナ川流域探索を行った」。
この書簡も結果については、不明ですが、皇帝の特令によって、発見の暁には、その半額が下賜される旨、明記されています。

 この後、侍従武官長ペンケンドルフの指揮の基行われた大捜索(1839年~1840年)迄、歴代皇帝は、度々“ナポレオンの財宝”捜索を実施し、又は半額下賜の夢を追って、ロシアへの入国申請を行う者も多数に上りました。

続く・・・

2010/08/05

歴史の?その256:正史の中の疑問62:ナポレオンの財宝・その2

<正史の中の疑問62:ナポレオンの財宝・その2>

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◎史実に残る財宝

 ナポレオンが、ヨーロッパ各国から徴兵した、大混成遠征軍が、アレクサンドル一世統治下の都モスクワに入城したのは、1812年9月15日、ロシア軍は焦土作戦を展開し、火を放ってモスクワから撤退します。

 缶詰と言う“近代食品”はナポレオンがこの遠征の為に、携行用保存食のアイデアを公募して生まれたものと云われています。
しかし、結果的に食料欠乏が、ナポレオン軍の致命的失策となり、途中の町にもモスクワにも、ロシア軍の撤退した後には、一粒の麦も残されていませんでした。
そして迫り来る“無敵の冬将軍”後年、ナチス・ドイツ機械化部隊を尽く破滅に持ち込んだロシアの冬。
飢えと寒さに追われて、ナポレオン軍は空しく、モスクワから撤退します。
ニーメン川を渡って進軍を開始した時、60万人を数えた遠征軍は、モスクワ撤退時10万人、兵站基地と成ったスモレンスク迄到達した時5万人、ベレジナ川を渡ってロシアの勢力圏を脱した時には、3万人に満たない数でした。

 この数字は、遠征軍の帰路が如何に悲惨なものだったかを、物語っていますが、ナポレオンがモスクワ撤退にあたって、膨大な数に及ぶ、美術品、宝石、什器、武具等を略奪したのも、史実に明らかなのです。

 飢えと寒さによって疲弊した軍隊、激しい追撃を行うロシア軍、900kmを越す長い道程、この状況で多量の“財宝”を加える事は到底無理な話で、ナポレオン軍は、略奪した是等を、廃棄若しくは、隠蔽するしかないのでした。
恐らく、敗走時には、フランス士官によって管理運搬されたのでしょうが、やがて“荷物”となり部下の将兵に預けられ、更には“厄介物”としてプロイセン、オーストリア、オランダ、バイエルン、ポーランド等の外国人傭兵にリレーされ、最後は命に替え難いとされ、遺棄乃至隠匿されたと推察する説が大部分なのです。

続く・・・

2010/08/04

歴史の?その255:正史の中の疑問61:ナポレオンの財宝・その1

<正史の中の疑問61:ナポレオンの財宝・その1>

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 昭和27年(1952年)の年末、アフリカ南部の大西洋に浮かぶセント・ヘレナ島で、遺構の修築工事が開始されました。
ナポレオン・ボナパルトが、失意の生涯を終えた島で、島自体はイギリス領ですが、ナポレオンが晩年を終えた建物はだけは、フランスの所有で、その建物が長年の風雨と白蟻に侵食された為、フランス政府がイギリス人建築家バシル・ハート氏にその修築を依頼したのでした。

 遺構の修築と言う、現在なら良く伝えられる事柄なのですが、別の観点からこの作業を注目した人々が、存在したのも事実です。

 昭和36年(1961年)11月、旧ソビエト連邦の青年共産同盟機関紙「コムソモリスカヤ・プラウダ」が、モスクワ・スモレンスク間に位置する、ストヤーチエ湖についての報告書を掲載しました。
同湖の銀含有率が、通常の湖水の100倍に達し、又水底調査の結果、湖底に“伝導性の高い硬い物体”が存在している事が判明しました。

 ナポレオンの遺構の修築工事と、ソビエト領内の湖水の銀含有量調査結果が、どの様な関係にあるのでしょうか?
つまり、遺構修築工事において、ナポレオンがロシア遠征のおり、ロシア領内から略奪した貴金属品の埋蔵場所を印す何かが発見されるのでないか?と期待された上、上述のソビエトの新聞発表が余りにも符合するのです。

このお話が、事実なのか、虚構なのかは判りませんが、2世紀近くを経過しても尚、存在し続ける歴史の謎なのです。
一代の英雄偉人には、まず必ずと言って良い程、財宝伝説がまといつきます。
其れは、英雄偉人その人に抱く尊敬や懐かしさの念の変形であり、一攫千金の夢の仮託なのでしょう。
しかし、“ナポレオンの財宝”に関する限り、其れは明らかに「史実」と云われています。

◎悲劇のモスクワ撤退

 私達が、ナポレオン・ボナパルトに関して抱くイメージは、戦争、軍隊と云った荒々しい面ですが、一方、国民投票によって皇帝に就任した彼は、カトリック信仰を解禁し、フランス銀行を設置し、初等・中等教育拡充の為学校を大々的に増設し、メートル法を制定し、個人の自由平等を柱とする民法典を作りと云った面は、佳麗な戦闘記録に隠されて、つい見落とされがちです。

 同様にモスクワからの雪の退却についても、もっぱら彼の悲劇的運命のみが強調され、モスクワで“取得した物”については、語られる事は少ないのも事実ですが、“奪われた人々”に取っては、忘れる事は出来ない事も事実なのです。
帝政ロシアに在っては、“ナポレオンの財宝”探索の長い歴史が存在します。

続く・・・

2010/08/03

歴史の?その254:正史の中の疑問60:ナポレオンは毒殺されたのか

<正史の中の疑問60:ナポレオンは毒殺されたのか>

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 1769年8月15日、地中海のコルシカ島で、下級貴族の息子として生れた、ナポレオン・ボナパルトは、1821年5月5日アフリカ西南に位置する、セント・ヘレナ島で51歳で他界しました。
ナポレオンは、この島で、極僅かな人々に看取られながら息をひきとります。
彼の最後の言葉は、「フランス・・・軍隊・・・ジョセフィーヌ・・・」で在ったと云われています。

 彼の死因は、胃癌で在ったと伝えられ、ナポレオン自身も自分は、癌であると思っていました。
彼は死去する一週間程以前に、彼の主治医であるアントマルシに「こう吐いてばかりいるのは、私の病気が胃にあるせいだろう。多分私も、父と同じ胃癌だろう」と語り、そして「自分の息子(フランソワ・シャルル・ジョセフ・ボナパルト)に会ったら、癌にならない様に薬を与えて欲しい」と頼んだと伝えられています。

 さて、時は流れて第二次世界大戦の終結後、ナポレオンの遺髪を分析してみると「ヒ素」が発見され、彼は多分イギリス人によって毒殺されたと推察されました。
ナポレオンの晩年については、比較的詳細に記録が残されており、この部分も検証する事が可能です。

 セント・ヘレナ島は、南緯16度付近に位置し、熱帯で湿度の高い島で、ナポレオンは熱帯で在りながら、時々湿気避けの為にストーブを焚かせていますが、この様な気候の為か、ナポレオンは病気がちに成っていきました。
1816年5月イギリス軍軍医ウォルデンが、ナポレオンを診察した時、ナポレオンは発熱を訴えましたが、健康と診断されたにも関わらず、その年の8月には、毎日の頭痛をフランス人医師オメーラに訴え、その後も度々同様の症状を示していますが、是は湿度と暑さの為と思われます。
10月には、歯が痛み一切の面会を拒否、11月には発熱の為、寝たきりに成ります。
オメーラが「長生きをする為には、もっと運動を為さらなくては」と勧めると、ナポレオンは、「1日も早く死んだ方が良い」と言ったと記録されています。
翌1817年3月には、神経痛が発祥し、夏には腹部に痛みを感じ、気管支炎に成り、足や唇に浮腫みが現れますが、是を赤痢とした記録と、胃癌の兆候であるとする記録が存在します。

 一方、ナポレオンの病は、虚構でフランス人医師オメーラは、病気であると宣伝していると言う噂が立ち、彼はフランス本国に召還されてしまいます。
1819年1月には、肝臓病にかかるものの秋には、回復し1820年夏迄は、平穏な時間が過ぎました。
しかし、11月から再び肝臓の痛みがひどく、気を失う事も在り、1821年2月には、胃の痛みが激しく、手足が冷え、食欲、記憶ともに減退し、3月には吐血、嘔吐が激しく、食事も殆んど不可能に成り、5月5日を迎えたのでした。

 1819年9月から、ナポレオンの伯父フェシュが、医師アントマルシをセント・ヘレナ島に送り、身の回りの世話を行っており、アントマルシは、ナポレオンの遺言に従って、遺体を解剖しました。
確かに、胃癌でしたが、肝臓は余り悪くなく、肝臓が本当に悪くないのであれば、毒殺にしろ、胃癌にしろ不自然です。
症状から判断すれば、毒殺説も成り立たないようで、解剖から胃癌が確認されたのなら、胃癌が死因と認める方が良いのですが、医師が度々、替えられた事、又ナポレオンの投薬、食事は、厳しく管理されていたのは、毒殺を警戒した為であるので、毒殺説は成り立ち難いと思われますが・・・。

続く・・・
2010/08/02

歴史の?その253:正史の中の疑問59:リンカーン大統領暗殺

<正史の中の疑問59:リンカーン大統領暗殺>

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 1963年11月22日のジョン・F・ケネディア メリカ合衆国大統領暗殺事件は、幾度か映画化され、その真相についても、水面下での議論が続いています。
ケネディ射殺犯人は、公式発表ではオズワルドですが、彼は事件の真相を殆んど供述する事無く、ルビィと云う余り素行の良くない人物に収監されていた、警察署の中で簡単に殺されてしまいました。
現在でも、オズワルドと事件の関係を疑問視する、研究者は多く、一般に広く報道された狙撃の瞬間映像も、僅か1発の銃弾で、大統領が撃たれた様には見えません。
時のアメリカ政府は、厳密な調査の結果、オズワルドが真犯人である事を発表しましたが、この事件の真相は、未だにはっきりとしていません。

 さて、先のケネディ大統領は、第35代アメリカ合衆国大統領でしたが、第16代大統領で在る、エイブラハム・リンカーンも同様に暗殺されました。
1865年4月14日夜、リンカーン大統領は、夫人メアリー、陸軍のラズボーン少佐、その婚約者のクララ・ハリスと供にワシントン市のフォード劇場で「アメリカの従兄弟」という喜劇を観覧しました。
午後9時過ぎ、その劇に第三幕が演じられていた時、ピストルの銃声と、メアリー夫人若しくはクララ嬢の鋭い悲鳴がして、リンカーン大統領は座っている椅子から倒れました。
大統領は、背後から拳銃で、狙撃されたのでした。

 ピストルを持っている青白い顔の青年に、ラズボーン少佐が飛び掛ると、青年は刃物で切りかかり、少佐を負傷させ、その隙に大統領のボックス席から舞台に飛び降りたものの、その時飾られていた星条旗に足を捕られ、足をくじきました。
しかし、立ち上がると「是が暴君の運命だ!」と役者の様に見得をきりましたが、この言葉は、南北戦争の間、南部バージニア州で使われていた、合言葉でした。

 犯人の青年は、舞台裏から楽屋口に出、用意していた馬に乗って逃走しましたが、この青年が劇場の構造を熟知し、役者の様な大見得をきったのも当然で、彼は、シェークスピア劇の俳優で、名前をジョン・ウィルクス・ブースと云いました。

リンカーン大統領は、劇場前に在る宿に運び込まれましたが、そのまま意識を回復せず、翌朝7時21分に死亡しました。
ブースは、仲間と1週間程逃げ回り、或る農家の納屋に隠れたものの、軍隊に包囲され、降伏を勧められ、仲間は納屋から出て来て投降しましたが、ブース本人は現れず、終に軍隊の一斉射撃の後、納屋には火が放たれました。
しかし、この直後から納屋で死んだ男は、ブースではなかったと言う噂が流布し、アメリカ議会でも取り上げられ、調査も行われました。
結果、犯人はブースで在り、納屋で死亡した人物もブースで在るとの結論に達しましたが、現在でもこの見解を疑っている研究者も多く、アメリカ合衆国史では、謎の一つとして残っています。

 リンカーン大統領暗殺事件には、不可解な部分が存在する事も事実で、事件当日、本来の観覧予定で在ったグローバー劇場から、急遽フォード劇場に変更されたのか、予てより招待されていた、グラント将軍が当日に成って観覧を辞退した事が上げられます。
ブースの仲間は結果的に8名の男女が、公安当局によって逮捕され、死刑に成りましたが、実際には、もっと大きな背後関係が大統領暗殺の背景に在ったのでないかとも云われています。
アメリカ大統領がその任期中に死去する例として、不可思議な符合が在ります。
1840年に選出された、第9代ハリソンが就任一ヶ月後に死亡、1860年に選出されたのがリンカーン、1880年が第20代ガーフィールド、1900年が、第25代マッキンレーでハリソン以外の3人は全て、暗殺による死亡で在り、1920年選出のハーディングは遊説中急死、1940年選出のフランクリン・D・ルーズベルトは病死、1960年選出がケネディ、1980年選出が、ドナルド・レーガン(彼は、暗殺されていませんが、遊説中狙撃)なのです。
アメリカ大統領暗殺事件は、上記4名以外にも4~5例が在るようですが、これらは未遂か、命に別状は有りませんでした。

続く・・・