2010/09/30

歴史意の?その300:歴史に残る人々23・北極海に挑んだ船乗り・ウィレム・バレンツその2

<歴史に残る人々23・北極海に挑んだ船乗り・ウィレム・バレンツその2>
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◎氷  海

 バレンツの船がただ1隻、ノバヤゼムリ島の北端を回った時、ライプ船長の主張が正しかった事が、恐ろしい程はっきりとして来ました。
8月という時期にも関わらず、バレンツとその乗組員達は、如何にして北極の海を生き抜くか、という問題に直面したのでした。
まず、彼らは流木で島に小屋を建て、そして氷に閉じ込められた船から、食料等の物資を移し、キツネを殺して食肉にし、雪を溶かして飲料水としました。

 しかし、寒さは悪夢の様でした。
ストーブを昼夜の別無く焚きつづけ、その周りに寄り添うように固まっても、温まるのはストーブに面したのみで、背中はいつも一面の霜でした。
ベッドは、熱した石で暖め、こうして二人を除く全員が、何とか冬を越す事が出来ました。

 春が訪れ、太陽の光が戻って来て、1日の内の数時間は陽が差しましたが、その頃、船は難破船同然と成り、残った2隻のボートで脱出するしか方法は有りませんでした。
其処で彼らは手紙を書き、自分達の遭難を世界に伝え様としたのでした。

 小さなボートは、悪戦苦闘しながら島の北端を通り、南へ向かいました。
嵐が2隻のボートを襲い、彼らは大きな流氷にボートを引き上げて、非難しなければ成らない事も度々でした。
6月20日、壊血病で体力が低下していた、バレンツは、寒さと飢えに苦しみながら此処で死亡しましたが、彼は既に自分の運命を予感していたに違い有りません。

 嵐が静まると、残った人間は、猛進し、北極海を2900kmも横断し、九死に一生を得たこの一行は、終にムルマンスクに近い、コラ半島に到達し、其処には、ヤン・ライプ船長とその船が待っていました。
この慎重な船乗りは、恐ろしいバレンツ海に、それに相応しい敬意を払っていたのでした。
その為、生き長らえて、又新しい航海に船出する事が出来たのでした。

本編終了・・・

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2010/09/29

歴史の?その299:歴史に残る人々22・北極海に挑んだ船乗り・ウィレム・バレンツその1

<歴史に残る人々22・北極海に挑んだ船乗り・ウィレム・バレンツその1>

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 極北の海に舞う水飛沫は、空中で凍り、船の外部は凍りついており、氷片は刃物の様に鋭利で、衣類を切り裂き、手袋をはめずに不用意に手すり等を握ろうでもしようなら、手のひらの皮が手すりに張り付きました。
勿論、船から海中への転落は、間違いなく死を意味していました。

 この海は、現在バレンツ海と呼ばれ、ほぼ400年前、この海に挑んで死んだ、オランダ人探検家ウィレム・バレンツの名前と取って名付けられました。

 1597年6月13日、激しい西風が、凍てついた島に吹き付け、間に合わせの非難小屋の中で、一人のオランダ士官が、この様に記録しました。
「我々の中で、もっとも優秀で頑強な者でさえ、長期間耐えてきた厳しい寒さや病気の為、すっかり衰弱し、半分の力しか出せなくなっている。これから先、長期の航海を強いられる事を考えれば、事態は良くなるよりも、ますます悪くなると思われる。食料は、せいぜい8月の終わり迄しか持たないだろう」
この手紙の署名は、船長ヘームスカーク、水先案内人ウィレム・バレンツと乗組員一同となっていて、小屋の煙突に詰め込まれていました。
この後、15人は2隻の小船に分乗して、海へと漕ぎ出したのです。

 この手紙は、それからほぼ300年後の1871年、ノルウェー捕鯨船の乗組員が、ノバヤゼムリャ島に上陸して発見しました。
そして、手紙の内容は、冷酷無残な北極海を相手に闘った、人間の苦闘の歴史を、改めて思い起こさせるものでした。

 バレンツは、インド亜大陸に至る、幻の「北西航路」を発見する仕事を、オランダ商人から依頼され、水先案内人となり、2隻の船で1596年5月に出帆しました。
スピッツベルゲン諸島を通過した所で、流氷群が北への道を閉ざしていた為、針路を東に転身し、ノバヤゼムリャ島の北端を回る事にしましたが、このルートを以前にも1度経験していた、もうい1隻の船の船長ヤン・ライプは、この針路転身を危険として、同行を断りました。

その2へ続く・・・
2010/09/28

歴史の?その298:歴史に残る人々21・アレックス・マッケンジー 太平洋への道その2

<歴史に残る人々21・アレックス・マッケンジー 太平洋への道その2>

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◎選  択

 マッケンジーのグループは、5月に成ってやっと動き出す事ができました。
仲間は9人、食料等の携行品は1350kg、是等を全て、カバの木の皮で作った長さ7.5mのカヌーに載せて出発したのでした。
最初は順調でしたが、やがて、ピース川の激流に遭遇し、この激流はロッキー山脈迄の40kmの間続きました。
漸くして、激流を抜けると、川が二股に分かれる処で決断をせまられました。
北西に流れる、広くて安全に思える主流(現:フィンレー川)に乗るか、其れとも南に向う、狭くて流れの速い支流(現:ハースニプ川)にすべきなのでしょうか?
マッケンジーは、以前に、北へ向う川は、険しい山々を抜けていて、誰も通る事が出来ないと、ネイティブ・アメリカンの老人から聞いた事が在りました。
其処で、彼は仲間全員の反対意見を押し切って、南の支流を選んだのです。

 この選択は困難な旅で、カヌーがセニカ族に止められた時、仲間は再び不平を洩らしますが、通訳を介してマッケンジーは、この川が南に流れ、他の川と合流する事、その川は“悪臭を放つ湖”に流れ込んでいる事を知りました。

◎分水嶺を越えて

 一行が塩水の話を耳にした事は、是が最初で、更に進むと、川は分かれて迷路に様になりました。
6月12日、カヌーは水から引き上げられ、小さな湖迄運び上げられました。
白人が終に、北米大陸の分水嶺を越えた瞬間です!

カヌーを岩の衝突させて壊れた部分を修理した後、一行は、ようやくフレーザー川に到達し、彼らは安全に西へと運ばれて行きました。

 途中、アタバスカ族の領地を通る時、矢を射掛けられた事も有りましたが、マッケンジーは仲間に発砲しない様に命じ、一切の武器を持たずに上陸しました。
この大胆不敵な行動は、アタバスカ族を圧倒し、ビーズやナイフ等の贈り物を受け取ると、フレーザー川が最後に大きな海(太平洋)の注ぐ事、真西に陸路を進めば別の川が在る事を教えてくれたのです。

 真夏でしたが、カヌーを降りて雪の山道を越えた時は、寒さに震え上がり、暖かいベラクーラ川の渓谷に下りる迄、13日を要しました。
友好的なネイティブ・アメリカンが2隻のカヌーを貸してくれた事で、こうして7月20日、一行は迷路の様に入り組んだ島々を抜けて、ディーン海峡に入る事ができました。

2日後、マッケンジーは岩の南東側に、記念の言葉を殴り書きし、帰路についたのです。
帰路は、33日しか掛からず、8月24日には、フォートチペワイアンに到着する事が出来ました。
彼は、北極海と太平洋の両方を見た上に、一人の犠牲者も出さず、探検を成功させました。

本編終了・・・
2010/09/27

歴史の?その297:歴史に残る人々⑳・アレックス・マッケンジー 太平洋への道その1

<歴史に残る人々⑳・アレックス・マッケンジー 太平洋への道その1>

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 仲間達の見守る中、29歳のスコットランド人は、朱色の絵の具にグリースを混ぜて、岩肌に大きく書き殴りました。
“アレックス・マッケンジー。カナダから陸路到着。1793年7月22日”
北アメリカ探検史上最大の快挙が、見事に達成された瞬間でした。
この岩石は現在も残り、白人として初めて北米大陸を横断した、マッケンジーの偉業を称えています。

 マッケンジーは1764年、スコットランド西方に位置する、ヘブリジーズ諸島のストーノウェイに生れ、アメリカで育ちました。
母親の死後、父親と共に新大陸アメリカに移住し、学業はニューヨークとモントリオールで納め、モントリオールを根拠地として、毛皮貿易を行っていた、ノース・ウエスト会社に就職し、彼は西の果て、フォートチペワイアンに派遣されました。

◎太平洋の誘惑

 任地迄カヌーで行った事がきっかけと成り、彼の探検熱が目を覚ましました。
当時、ノース・ウエスト社は太平洋に到達して、ラッコの毛皮で利益を上げたいと望んでいましたが、当時、ラッコの毛皮は、シベリアのロシア人が独占しており、太平洋に到達したい願望は、マッケンジーも同様でした。

 一冬を一緒に過ごした事のある、ピーター・ボンドという開拓者が、書き残したラフな水路図やメモを彼はじっくりと研究しました。
北へ流れる川は、最終的には西に転じて、太平洋に注ぐに違いない、其れならば、北西方向に抜け道が存在するはずであると、マッケンジーは考えました。
1789年6月3日、13人の仲間と共に、3隻のカヌーで川を北へと向かいました。
だれ一人として、その川の注ぐ先が何処なのか、解かりませんでしたが、マッケンジーの推測は、間違っていました。
流れは西へと向う事はなく、彼らを北極海へと運んでしまいますが、この河川は今日、カナダの地図に掲載されているマッケンジー河川系でした。

 是も大きな発見なのですが、マッケンジーの本来の目標とは大きく異なり、依然として太平洋への道は、彼に閉ざされていました。

 1791年から1792年にかけての冬を彼は、ロンドンで地理、航海術を研究して過ごし、1792年の秋に、フォートチペワイアンで仲間達と再会し、ここで冬を越しました。

その2へ続く・・・
2010/09/25

歴史の?その296:歴史に残る人々⑲・二重スパイ・マタ・ハリ

<歴史に残る人々⑲・二重スパイ・マタ・ハリ>

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 マタ・ハリはダンサーとしての芸名であり、本名はマルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ。
若き日の彼女は、教師を志すが失敗、その後結婚し2児を儲けるも離婚した後、パリに移り住みジャワ島からやって来た舞姫と云う触れ込みで、ダンサーと成り人気を得ました。
又、多くの高級士官或は、政治家を相手とする高級娼婦の一面も在りました。

 当時は第一次世界大戦最中、敵対するフランスとドイツの両国が、彼女の美貌と職業柄、高級士官との接触が取りやすいとの点に目をつけ、スパイの話を持ちかけます。
金銭的な魅力に引き付けられた彼女は、この話を受け入れます。
しかし、結果的に二重スパイ行為は明るみとなり、逮捕の直接要因は、彼女が暗号名H-21なるドイツのスパイと交わした通信が、フランスによって解読された事でした。
フランスに於いて、二重スパイと為り第一次世界大戦で多くのドイツ、及びフランス人兵士を死に至らしめた、との容疑で起訴され、彼女は有罪と成り、銃殺刑に処せられました。
是には、当時戦況が不利に成っていた、フランス側に取って、彼女のスパイ活動を誇大に宣伝する事で、国威発揚に好材料と成った事も又、事実なのです。

 処刑についても様々の逸話が伝えられています。
有名な話しでは、処刑の際、銃殺隊は彼女の美貌に惑わされない様、目隠しをしなければならなかったというものや、処刑前の彼女は毅然とした態度を崩さず、気付けのラム酒は受つけましたが、目隠と処刑の木に縛られる事は拒絶した、と伝えられています。
実際、彼女のスパイ活動の詳細は分かっていませんが、実際の処はフランス・ドイツ両国にとって、単なる情報伝達係りでしかなかったのですが、その魅惑的な美貌から伝説的な女スパイとして造り上げられ後世に名を残したのでしょう。

続く・・・
2010/09/24

歴史の?その295:歴史に残る人々⑱・ロマノフ家最後の1年その2

<歴史に残る人々⑱・ロマノフ家最後の1年その2>

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◎密  約

 住民のうち革命主義者28人が、皇帝一家殺害に加担した罪に問われ、5人が処刑されました。
しかし、決定的な証拠は何一つ発見されず、今日尚、ロマノフ家の末路の真相は疑惑に包まれたままなのです。
廃坑の坑道から発見されたのは、歯、眼鏡、衣類の断片だけで、後に眼鏡はボトキン博士の所持品と判明しまし、衣類は使用人のものと推定されました。

 革命政府には、皇帝を生かしておかなければならない理由が在ったのです。
彼らは、ドイツと既に皇帝を無傷で亡命させる密約を結んでおり、前皇帝を釈放すれば、革命派の方針が西欧世界を始め多くの国の共感を呼ぶはずでした。

◎イギリス国王の不可解な態度

 地下室で銃殺されたのは、果たして誰なのでしょう?
この部分は、現在、ロシア政府の正式発表と言う形では、皇帝一家であるとされていますが、大きな疑問でもあるのです。
白軍が発見したのは、ボトキン博士と使用人のものだけだったと推察する、研究者も存在し皇帝一家の殺害を偽装し、秘密の亡命を知る人物を抹消する必要から、彼らが殺害されたとも解釈されるのです。

 アメリカとイギリスが革命政府と協定を結んだとの噂も、根強く伝えられ、余談に成りますが1919年に「皇帝救出作戦」と題する書物が出版されましたが、本文において、その著者が皇帝一家を革命政府から救い、亡命させたと述べました(?)。
当然ですが、この本の内容を本気で信じた、研究者や歴史家は皆無です。

 しかし、時代が下るに従って、皇帝一家が生き延びているのではないかと思われる、不思議な出来事が幾つか発生します。
ロンドンで皇帝の追悼式典が執り行われた時、時のイギリス国王 ジョージ5世は自らの出席も代理人の派遣も断りましたが、イギリス国王は、皇帝一家の生存を知っていたのではないか?との憶測を呼び、又アメリカ国務省は、現在尚、ロマノフ家のオープンファイルを保持しているとの事です。

 1961年、ポーランドの情報機関員、ミハウ・ゴレニエフスキーがアメリカに亡命しますが、自分は皇帝の長男アレクセイであると主張し、3年後、ニューヨークで行われた彼の結婚式に出席した2人の女性が、オリガとタチアーネの名前で署名しました。
ゴレニエフスキーはその後、長い間、ロシア皇帝継承権を主張し続けます。

 しかし、ゴレニエフスキーにも、血友病患者ではない自分が、なぜ最後のロシア皇帝の子息で在り得るのか、説明する事は出来ませんでした。
アレクセイは、周知の事実として、遺伝する血友病を患っていたからです。

 エカテリンブルグで起きた事件の証人は、すでに存在しておらず、ロマノフ家の秘密は、彼らと共に葬られたのでしょう。

本編終了・・・

2010/09/23

歴史の?その294:歴史に残る人々⑰・ロマノフ家最後の1年その1

<歴史に残る人々⑰・ロマノフ家最後の1年その1>

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 嘗て、全ロシアに君臨した皇帝ニコライ・ロマノフは、「数えきれない邪悪な罪」によって処刑された、と1918年7月末、モスクワのボリショビキ革命政府は発表しました。
公式発表に続いて、皇后や皇太子、王女達が秘密の場所に移された事も告げられました。

 革命政府は、しかし処刑の報告を一度ならず訂正し、真相そのものに強い疑惑を残したのです。
皇帝一人が死刑に処されたか否か、歴然とした証拠は歴史家も把握していません。
皇帝と一緒に王家の一族も銃殺されたのか、其れとも一族全員が秘密裏に亡命したのか、当時判然としていなかったのです。

 ニコライ2世は1917年春、ロシア革命で権力の座から追われ、皇后アレクサンドラと5人の子供達(アレクセイ・オリガ・マリア・タチアーナ・アナスタシア)共々セントペテルブルグ郊外のツァールスコエ・セロの宮殿に革命政府によって幽閉されました。

◎白軍の脅威

 1917年8月、皇帝一家は、シベリアの寒村、トボリスクに移送されました。
ここは、辺鄙な田舎町で、皇帝支持派からの救援は、ほとんど期待できませんでした。
1918年に成ると、皇帝一家は再び、ウラル山脈に近い町、エカテリンブルグの一軒家に移されます。
エカテリンブルグの住民は、革命政府派で皇帝一家に冷たく接しました。
その間、皇帝支持派は、幾度か皇帝奪還を試みたものの、成功しませんでした。

 モスクワの革命政府が、皇帝処刑を決意(現在も諸説在り)したのは、皇帝が自由を得て、白軍の指導者になる危険を恐れた為であったと思われ、その脅威が無ければ、皇帝死亡を公表して事実を隠匿する可能性も考えられます。

◎地下室の惨劇

 1918年7月の革命政府発表は世界に、とりわけロマノフ家と血縁関係にあるヨーロッパ王室に衝撃を与えました。
しかし、数ヶ月後更に恐ろしいニュースが伝わり、皇帝一家は全員、1918年7月19日の夜、銃殺隊によって処刑されたと革命政府が発表したのでした。
報告によると、処刑命令はモスクワ(ウラル州革命政府説在り)から届けられ、ユーロフスキーの指揮の下、死刑宣告が成され、一家殺戮の最初の引き金は、彼自らが執行したのでした。

 皇帝一家は、事前に何も知らされず、彼らは階段を下りて地下室へ行き、其処で一列に椅子に座らされ、ユーロフスキーの射撃命令を合図に、一斉射撃が行われました。
彼らが使用した銃は、この非常な任務の為に、特に兵器庫から持ち出した、当時最新の連発銃でした。

 皇帝一家には、宮廷医ボトキン博士、3人の召使が付き添っていました。
彼らは全員、皇帝一家と行動を共にする様、命じられており、射撃が終了した時、床には11人の遺体が転がり、兵士達は、銃剣とライフル銃の台尻で、一人一人その死亡を確認したのです。

 明け方、死体は待機していたトラックに積まれて、エカテリンブルグから23km離れた“四人兄弟鉱山”へ運ばれ、其処でガソリンを撒かれ火葬にされ、焼き尽くされた遺体と、手回り品は硫酸で溶かされ鉱山の廃坑に遺棄されました。

 4日後の7月23日、エカテリンブルグが白軍によって陥落しましたが、地下室の壁の一部は既に洗い落とされていましたが、部屋にはまだ血痕が残っていました。
しかし、其れが皇帝一家のものであるか否か、当時確認する術は在りませんでした。

その2へ続く・・・
2010/09/22

歴史の?その293:歴史に残る人々⑯・参戦にNOと訴えた女性 ジャネット・ランキン

<歴史に残る人々⑯・参戦にNOと訴えた女性 ジャネット・ランキン>

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 アメリカ合衆国、モンタナ州ミズーラの牧場主と教師の子として生まれた彼女は、モンタナ州立大学を卒業後、ニューヨークに移住、その後シアトルのワシントン大学に入学し、初期の選挙権運動に参加しました。

 1916年下院議員に共和党から出馬し、モンタナ州選出議員として当選を果たしますが、間も無くアメリカは第一次世界大戦参戦への道を進み始めます。
参戦を決める議決において、彼女は他の55名とともに反対し、マスメディアで痛烈に非難され、1918年には無所属候補として立候補しましたが落選してしまいます。

 その後約20年間、ワシントンD.C.でロビイスト(圧力団体の利益を政治に反映させるために、政党・議員・官僚などに働きかけることを専門とする人々)として活動を続け、1940年、彼女は再び政治の舞台を目指します。

 反戦を政策に掲げ、再び下院議員に当選したのですが、日本がアメリカに行った真珠湾攻撃の後に開かれた議会に於いて日本への宣戦布告を採決。
上院 賛成82、反対0、欠席15(採決に間に合わなかった為)
下院 賛成388、反対1、欠席41
アメリカの参戦が決定しました。

 上院・下院を通じてただ一人反対票を投じた彼女は、「私は女なので戦争には行けません。ですから他人を戦場に送ることは拒否します。」と発言したのでした。
轟々たる非難の中、ボディーガードに守られたジャネットは議会を後にします。
もちろん、戦争に突進するアメリカ国内の非難は凄まじく、更にはドイツ・イタリア宣戦布告の採決の際に「インディアンの選抜徴兵反対法案」を提出し全米を敵に回したのでした。

 彼女はマハトマ・ガンジーの穂暴力主義に共感したアメリカ下院初の女性議員であり、国政レベルにおいて投票で選ばれた世界初の女性議員でも在ります。
第二次世界大戦時の反対票を投じたジェネット・ランキンを、カンザス州の地方紙「エンポリア・ガゼット」はこう評していました。
「何という勇気ある行為であろうか。今から100年後のこの国で、道徳的義憤に基づく勇気が、真の勇気が称えられる時、信念のために愚かしくも堂々と立ち上がったジャネット・ランキンの名前が、その業績の故ではなく、その行為故に記念の銅像に刻まれるであろう」
今彼女はアメリカの良心として、モンタナ州・州政庁の前に銅像と碑文が建てられている。
その碑文には、「私は戦争に行くことが出来ません」と刻まれています。

 世界中で未だ戦争は無くなっていません。

続く・・・
2010/09/21

歴史の?その292:歴史に残る人々⑮・ハインリッヒ・シュリーマン 少年時代の夢に捧げた半生その2

<歴史に残る人々⑮・ハインリッヒ・シュリーマン 少年時代の夢に捧げた半生その2>

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◎ヘレネの財宝?

 2年間に及ぶ作業の後、1873年6月14日、彼の目の前には、目も眩む様な財宝が広げられていました。
8700点にのぼる、感嘆すべき金の装飾品の数々で、中でも特に注目に値する出土品は、16,000個の純金の小片で作られた、額から肩まで届く宝冠でした。

 喜びの涙を浮かべながら、彼は美しい妻に宝冠を被せ、彼女を抱きしめて叫んだのです。
「私達の生涯で最も素晴らしい瞬間だ!お前はトロイのヘレネの生まれ変わりだ!」と。
この発見は、発掘作業のロマンティックな終焉に相応しいものでしたが、シュリーマンの判断は間違っていたのです。
彼が発見した古代の都市は、トロイではなく、もっと古い時代に属する都市で、問題に宝冠は、紀元前2300年頃の物であって、ヘレネが生れる1000年以上も昔の、別の王族が身に付けた物でした。

 現在、考古学の定説では、ホメロスによって詠われたトロイは、紀元前1200年頃、ギリシア軍の侵略によって滅亡したものと推定されており、9層に堆積した都市遺構の上部から3層目の都市遺構が、此れに当たるとされています。
シュリーマンは、作業員達がこの層を掘り抜いてしまった為、この都市遺跡を見逃したのでした。

◎夢を追って

 彼が発見した財宝は、ヒッサリックの丘の低部に近い部分に埋没した、他の時代に属する都市の物で、後に彼はその間違いを認めています。
其れでも、現在の研究者達は、ホメロスのトロイ発見の功績と、同じく、更に古い先史青銅器文化の属する古代都市の発見者の名誉を、ハインリッヒ・シュリーマンのものとして彼の功績を称えています。
此れは、夢を追う事に生涯を捧げ、終に其れを成し遂げた、雑貨屋の使い走りの少年に相応しい碑銘でした。

続く・・・

2010/09/20

歴史の?その291:歴史に残る人々⑭・ハインリッヒ・シュリーマン 少年時代の夢に捧げた半生1

<歴史に残る人々⑭・ハインリッヒ・シュリーマン 少年時代の夢に捧げた半生その1>

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 彼の生涯を決定付け、考古学の歴史に、重要な一章を書き加えるきっかけと成った、クリスマス・プレゼントを父親から贈られた時、ハインリッヒ・シュリーマンは、僅か7歳の少年でした。
その贈り物とは、挿絵の入った本で、古代ギリシアの軍勢に攻め落とされ、火炎に包まれるトロイの情景が描かれていました。

 この絵を見た瞬間から、シュリーマンの幼い心は激しく、直向な思いに捕らわれたのです。
トロイの遺跡を見つけ、疑い深い世間に、ホメロスのトロイ攻略の話が全くの真実であり、単なる詩的な空想ではない事を、証明してやろうと思ったのでした。
此れは、雑貨屋の使い走りをしている、貧乏牧師の息子には、殆んど不可能な目標に見えましたが、来るべき仕事に備えて、古代ギリシア語を独学し、40歳代の初めには、仕事をやめても十分生活していけるだけの蓄財を築き上げたのでした。
その上、1869年には、理想的な妻となる、ギリシア人の花嫁を見つけました。
彼女は、ソフィアといい、まだ10代のアテネ娘でした。

◎トロイの地

 頭の中を駆け巡る、ヘクトル、アキレス、アイアスの名前を片時も忘れる事はなく、47歳のシュリーマンとソフィアは、ホメロスの「風強きトロイの野」を求めて、ダーダネルスに向けて旅立ちました。
彼は、100人余りの作業員を雇い、発掘作業を開始したのです。
シュリーマンは、トロイがヒッサリックという、標高49mの丘に存在したと云う、地方の伝承を信じ、この話は、ホメロスに関する彼の知識と一致していました。
その丘には、何らかの遺跡が埋蔵されている事は、現地では既に知られていましたが、当時、考古学は現在の様に学問として確立された分野ではなく、又シュリーマン自身も、実際に発掘に携わるのは初めての経験でした。

 作業員達は、ヒッサリックの地下に何が存在するのか確認する為、北側の急斜面に深い溝を掘りました。
一行は、直ぐに何時の時代に属するのかも判らない、入り組んだ遺跡に到達しましたが、後日、この複雑な遺跡は、9個の異なる都市の痕跡が、階層を成して互いに重なり合っているものである事が判明したのです。

 シュリーマンは発掘作業を継続し、終に失われた都市の、高さ6mは在ったと推定される、城壁後に行き着いたのでした。
嘗て、ヘレネの誘拐に報復する為、ギリシア軍の進行をパリスが見守っていたのは、当にこの城壁に上からのはずでした。

その2へ続く・・・

2010/09/18

歴史の?その290:歴史に残る人々⑬・ネイティブアメリカンの英雄・ジェロニモ

<歴史に残る人々⑬・ネイティブアメリカンの英雄・ジェロニモ>

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 アパッチ族のジェロニモは、ネイティブアメリカンの代名詞的な人物ではないでしょうか。
本名はゴヤスレイ「アクビをする者」という意味でした。

 彼が30歳の時に、メキシコで暮していた彼等の集落をメキシコ軍が襲撃し、彼の母親と妻、3人の子供を虐殺しました。
怒りと復讐に燃えたジェロニモは数ヶ月後、大勢の仲間と共にメキシコ人の町を襲い、一躍勇名を馳せたのですが、猛り狂うジェロニモの勇猛果敢な戦い振りに恐れをなしたメキシコ人達が「ジェロニモ!!」と叫び、それ以来、彼は仲間内でも「ジェロニモ」と呼ばれる様に成ったと云われています。

 何故、メキシコ人が彼を見て「ジェロニモ」と叫んだのかは、はっきりとした記録は在りませんが、一説では、聖ジェロームの加護を求めて「ジェローム」と叫んだ声が、ジェロニモに聞こえたのだとの伝えが残っています。

 1848年2月、其れまでメキシコの領土だった南西部は、アメリカ・メキシコ戦争の結果、ガダルーペ・イダルゴ条約により、アメリカ合衆国の領土となりました。
やがて、合衆国政府は、アパッチ族を居留地に押し込めようと画策しましたが、ジェロニモは仲間と共に自由を求めて居留地からの脱走を繰り返します。
ジェロニモと仲間達は旅人や、開拓者達から、食料や毛布、馬、武器などを略奪しながら逃亡生活を続け、その様子を新聞や雑誌が誇大に伝えた結果、アメリカ中に彼の名を知らしめる結果と成りました。

 アメリカ陸軍は、この40人足らずのジェロニモ達に対して苦戦を強いられます。
そして3度の失敗を繰り返したあげく、4度目の追撃戦では、実に約5000人の兵士を動員し、当時の新聞には「残忍で血に飢えたインデアン、ジェロニモがアメリカ軍に降伏」と大きく報じたのでした。

 アメリカ中の感心を集めた、野獣のような戦士としてのジェロニモの肖像を描く為、収容所に移送されたジェロニモの元に、シカゴの博物館から派遣された画家がやって来ました。
しかし画家はジェロニモに接し、イメージと大きく違う彼の本性に戸惑います。
画家は
「私には彼が野蛮なアパッチのリーダーにはとても見えなかった。非常に気持ちのやさしい男だったからだ」と語ったと云います。
居留地でも冗談を言っては、周囲を和ませるジェロニモは、白人達にも人気が有り、オクラホマ州フォート・シルに在る彼の墓は、アメリカ陸軍兵士達の募金によって造られたもので、どの部族の酋長の墓よりも大きかったと云います。

 勇敢なアパッチ族のジェロニモ、もし白人達の迫害が無ければ、この世に名前を残す事も無かったかもしれなません。
少なくても勇敢な戦士としては・・・。
尚、ジェロニモを戦士、酋長とする文献もありますが、彼はアパッチ族のシャーマンでした。

続く・・・
2010/09/17

歴史の?その289:歴史に残る人々⑫・エカチェリーナ2世 エルミタージュ

<歴史に残る人々⑫・エカチェリーナ2世 エルミタージュ>

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 ロマノフ朝第8代ロシア皇帝、夫はロマノフ朝第7代ロシア皇帝ピョートル3世。
ドイツで貴族の娘として生まれ、父はドイツ小邦領主、母も地方貴族出身という裕福な家庭で育ち、2歳の時から家庭教師カルデル嬢に育てられ、フランス語に堪能で合理的な精神を持った少女に成長しました。
乗馬も達者でしたが、其れほどの美貌では無かったと伝えられています。

 ドイツで育った為、ロシア文化に不慣れではありましたが、エカチェリーナは努力してロシア語を学ぶ等、ロシア貴族間の人気を得て行きました。
エカチェリーナ2世は、当時ヨーロッパで流行していた啓蒙思想の崇拝者で、教育や社会制度の改革に取り組みましたが、国内で特筆すべき成果を上げる事は出来ませんでした。
やがて勃発たフランス革命には、強い脅威を感じ、晩年には国内を引き締め、自由主義を弾圧していきます。

 豪放磊落で、派手好みのエカチェリーナ2世は、積極的な外交政策を推進し、オスマン・トルコ帝国との露土戦争や3回のポーランド分割など通してロシア帝国領土を大きく拡大し、ボリショイ劇場や離宮エルミタージュ宮殿(現在のエルミタージュ美術館)の建設にも熱心でした。
様々な分野で才能を発揮したエカチェリーナ2世は、芸術にも強い興味を持っていたのです。
ロシア国内はもとより、ヨーロッパ各地から名画・彫刻・陶器等々を買い続け、現在エルミタージュ美術館の所蔵作品は300万点、展示室は400室と云われ、世界的にも最大規模の美術館となっています。
このエルミタージュ美術館の名前の由来は、フランス語で「隠れ家」を意味する「エルミタージュ」。
当初は王侯貴族の収集品を収めるだけで、一般向けの開館はしていませんでしたが、19世紀末に一般向けに開館しました。

 美術品コレクターとして有名なエカチェリーナ2世ですが、私生活面でも数百ともいわれる男性愛人をコレクションし、夜毎人を変えて寝室をともにしていたとか。
恐るべし、・・・ですね・・・!

因みに、ロシア民謡(ソビエト歌謡)「カチューシャ」の名前は、エカチェリーナの愛称です。

続く・・・
2010/09/16

歴史の?その288:歴史に残る人々⑪・ネフェルティティ

<その288:歴史に残る人々⑪・ネフェルティティ>

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 ネフェルティティ(ネフレテリ)は、第10代の王イクナートン(アメンヘテプ4世)の王妃でした。
彼女の名前の由来は、「美女は来たりぬ」と云う意味なので、ネフェルティティ(ネフレテリ)は、外国から嫁いで来た美女になります。
古代エジプトの三大美人とも云われる、大変美しい人物でした。

 そして、彼女は王妃と成り、是までのエジプトの宗教を一変させた女傑でもありました。
後の世にアマルナ改革と呼ばれ、それまで、多くの自然神を信仰していたエジプトに於いて、突然エジプトの神を全て否定し、太陽神、中でも夕陽の太陽「アテン神」のみを信仰する様に決めてしまいました。
しかも夫であり、国王のアメンヘテプの名前まで変える徹底ぶりで、「アメン」=「満足する」という意味を、アクエンアテン(=アテンに捧げる)へと改名しました。

 現代の女性が、史上最も力を持っているとお思いの方も多いかと思いますが、洋の東西を問わず、古代社会に於いて女性信仰・女性権力者は多く存在していましたし、日本でも卑弥呼や北条政子などが有名です。

 ネフェルティティ(ネフレテリ)が、エジプトの神を統合し、彼女は後の宗教家達に多くの影響を与えました。
ユダヤ教徒もキリスト教徒も、ネフェルティティ(ネフレテリ)が、自分達の宗教の基を創ったと考え、大変な信仰を受けています。
このネフェルティティ(ネフレテリ)の姿を表わしているものとして、最も有名なのが、ベルリンのエジプト博物館に存在する、彼女の胸像なのです。

続く・・・
2010/09/15

歴史の?その287:歴史に残る人々⑩・戦国の武将 越後の龍

<歴史に残る人々⑩・戦国の武将 越後の龍>

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 最強でありながら、天下への野心を抱かなかった聖将であり、越後守護代 長尾為景の末子として春日山城に生を受けました。
幼少の頃に林泉寺へ入り、仏教を学び、慣例通りに父為影亡き後、当主となった兄 晴影でしたが、元より病弱で、苛烈な戦国時代を生き抜く力がないと見限った家臣団の懇願により、春日山城に入り家督を相続します。
当時未だ20歳の若武者であったが、戦場での強さに比類は在りませんでした。
特に武田信玄との第四回川中島の合戦は有名で、戦国を代表する最強武将同士の熾烈な戦いであったと伝えられています。

 ではなぜ、それ程の強さを誇った謙信が、広い領土も持たず、戦国期の主役へと躍り出ることがなかったのでしょう?

 一つには領土欲の無さでしょうか?
謙信は武田や北条に領土を奪われた、豪族などの要請により各地に出向いては、一時的に領土を回復し、すぐに越後へと帰還してしまいます。
本来、領土は財を生み、国力・軍事力などを蓄える事で、外交でも有利に展開させる事が可能になるのですが、謙信はそれを行ないませんでした。

 二つ目には、謙信は戦国時代という時代の変化に対応できなかったと、思えるのです。
古くからの官職や慣例にこだわる事で、自らの行動範囲を限定してしまったと言えます。

 三つ目は越後の風土。
雪深い越後では、当然、冬場での行軍は不可能に近く、また兵農分離も出来ていなかった越後軍は、収穫期になる頃には、国へ引き上げざるを得ませんでした。

 謙信の姿は、圧倒的な戦争の強さと、敬虔な仏教徒としての絶対的な信仰、厚い義理人情が、大きな要因ではなかったかと思うのです。

 武田信玄が死の間際、勝頼に残した言葉
「謙信は信頼に値する人間。若輩のお前が頼りにすれば嫌とは言わないだろう」
最大の敵にここまで言わせた上杉謙信と、最大の敵を信頼できる度量を持った武田信玄の素晴らしいライバル関係は、今でも戦国時代の一際熱い物語として語り継がれています。

続く・・・
2010/09/14

歴史の?その285:歴史に残る人々9・ニュルンベルグの孤児 カスパー・ハウザー②

<歴史に残る人々9・ニュルンベルグの孤児 カスパー・ハウザー②>

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 カスパー・ハウザーは、ニュルンベルグにやって来る迄、自分が会った人間は一人きりだったと語り、奥行き2m、幅1.2m、高さ僅か1.5mの小部屋で暮らし、腰掛けるか、横になる姿勢しかとれなかった事、毎朝、目が覚めると水差しと一切れのパンが置かれており、水は時々苦い味がして、飲むと眠くなり、其の後起きて見ると、衣服が変わり体も綺麗になっていた事を話しました。

 或る日、一人の男がやって来て、“Kasper Hauser”の綴り方と「私は父の様に軍人になりたいのです」と言う言い方を教え、その後彼は、カスパーを抱えあげて外は連れ出しました。
太陽の光と外気に初めてふれたカスパーは、気を失い、改めて気が付くと、ニュルンベルグの町を彷徨っていたと言う事でした。

 少年に関する関心は、彼が何か特別な存在と考えられた結果、ヨーロッパに広がり、法律家、医師、役人が次々と彼の基を訪ねました。
顔立ちが良く似ていたので、カスパーの名前がバーデン大公家と関係があるのではないかと囁かれましたが、1812年、カスパーが誕生した頃、大公家の直系の世継ぎとなる二人の幼い公子が、突然の死に遭遇していた為でした。

 1830年3月に家長の大公が亡くなると、大公の相続人の友人であるイギリス人、スタンホープ伯爵がカスパーの後見人を引き受けます。
スタンホープ伯爵は、カスパーの出身はハンガリーで、バーデン大公家とは何の繋がりもないと事有る毎に主張し、彼は執拗に人々の其れまでの意見を変えさせて、カスパーはペテン師であると言わせる様に努めました。
しかし、アンセルム・リッター・フォン・フォイエルバッハは、次に様に断言します。
「カスパーの自由を奪った犯罪は、憎悪や仕返しが目的ではなく、利己的な利益の為に引き起こされたものである。カスパー・ハウザーは高貴な家柄の嫡出子であり、他の者が相続権を奪う為に彼を排除した」

 フォン・フォイエルバッハは1833年に突然世を去り、世間はカスパーの高貴な出身の証拠を発見した為に毒を盛られたのだと噂されましたが、その様な証拠が公表された事は在りませんでした。

◎陰  謀

 短い生涯において、常にそうであるように、カスパーの死は悲劇と謎に満ちていました。
1833年の或る日の午後、高貴の出生について情報を伝えるとの伝言で、彼はアンスバッハ公園に誘き出され、待っていた人物は、やにわに彼の心臓にナイフを突き立てました。
カスパーは、家迄よろめきながらも辿り着いたものの、3日後に死亡します。

 バーデン大公妃シュテファーニエは、彼の死を知って号泣したと云われています。
彼女は、カスパーの真の母親と噂されており、夫カールは大公家の末子だったので、世継ぎを設け損なうと、相続権はホッホベルク伯爵夫人の子供に移る事に成っていました。

 大公妃シュテファーニエが長子を出産した時、ホッホベルク伯爵夫人が百姓娘の死産児を密かに宮殿に入れ、生まれたての公子カスパー・ハウザーと入れ替えたとの話しが存在しています。
伯爵夫人は、カスパーをヘンネンフォーファー少佐に預け、少佐は子持ちの退役兵に養育させました。
一説には、ヘンネンフォーファー少佐は尋問を受けて、この一件を自白したと云います。

 しかし、カスパー・ハウザーの秘密は決して解明されないのです。
ヘンネンフォーファー少佐が死亡した時、彼の私文書も全て焼却されてしまいました。

続く・・・
2010/09/13

歴史の?その284:歴史に残る人々8・ニュルンベルグの孤児 カスパー・ハウザー①

<歴史に残る人々8・ニュルンベルグの孤児 カスパー・ハウザー①>

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 1828年のホイットマンディ(復活祭後第7日曜日の翌日)の事、年齢は16歳位の見慣れぬ顔の少年が、ドイツのニュルンベルグの町に姿を現しました。
擦り切れた野良着を身に付けた彼を、誰もが浮浪者か酔っ払いと思った程でした。
少年は“ニュルンベルグ駐留第6騎兵隊内第4中隊長”宛の手紙を所持していました。

 一人の靴職人が少年を、中隊長の家に連れて行きましたが、少年は鸚鵡の様に「私は父の様に、軍人に成りたいのです」を繰り返すばかりでした。
警察署に移された少年は、あらゆる尋問に「知らない」と答え、この少年の精神年齢は、3歳から4歳で止まっている様でしたが、紙と鉛筆を渡されると“Kasper Hauser”と自分の名前を綴る事はできました。

 カスパー・ハウザーは浮浪者に収容所に送られ、所持していた無署名の手紙が検査され、その手紙には次の様な文章が書かれていました。
「隊長閣下、軍務について閣下にお使えしたいと望む少年をお届します。彼は1812年10月7日に、我家の前に捨てられておりました。私はしがない日雇いに過ぎません。家には10人の子供達が居り、我子を育てる事に精一杯でございます。私は其れでも、1812年以来、少年を我家において参りました。・・・彼をお抱え下さるおつもりが無いのでしたら、殺すなり、煙突の上に吊るすなり、ご随意になさって下さい」。

 カスパー・ハウザーは牢番の家に引き取られましたが、少年の体は良く成長しているものの、足の裏は新生児の其れの様に柔らかく、歩こうとすると、漸く立ち上がった赤子の様によろめきました。

◎育てられた環境

 カスパー・ハウザーは直ぐに、途切れ途切れながら会話が出来る様になり、食物はパンと水しか受け付けませんでした。
牢番の妻が入浴させる時も恥ずかしがらず、男女の違いさえ分からない様でした。
この様な状況から、少年には、背後に何か重大な秘密があるに違いない、と牢番は考えました。

 謎の少年は、次第に人々の興味を呼び始め、若いダウマー博士が彼に教育を施した結果、カスパーは終に、彼の驚くべき過去を垣間見せる事が出来る様に成りました。

②へ続く・・・

2010/09/11

歴史の?その283:歴史に残る人々7・ブルボン家の後継者 ルイ・シャルル

<歴史に残る人々7・ブルボン家の後継者 ルイ・シャルル>

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 フランスの皇族、ブルボン家の正統な継承者が、今も世界の何処かで、富と名声を相続する権利が、自分に有るとも知らず、ひっそりと暮らしているかも知れません。
ルイ16世とマリー・アントワネットの間に生れた皇太子ルイ・シャルルは、1795年に“死亡”したと成されていますが、彼が子孫を残した可能性も有るのです。

 国王夫妻が1793年に処刑された時、ルイ・シャルルは投獄されて、革命政府の処置を待っていましたが、17ヶ月後、彼は10歳で死亡したと発表されました。

 遺体を検証した5人の人物は、皇太子に間違いないと証言しましたが、生前の皇太子を見た人物はその中に存在せず、又一緒に投獄されていた彼の姉は、死亡後の皇太子の顔を見ていません。
葬儀が行われた時、年端の行かない少年を入れるにしては、棺が大きすぎるとして、人々は不思議がりましたが、その後、様々な事柄を繋ぎ合わせてみると、遺体のすり替えが在ったのではないかという、疑惑が発生したのでした。

◎身代わり

 皇太子の牢番を命じられていた夫婦者が、職を離れる時、皇太子は悪戯盛りの9歳でした。
処が、それから7ヶ月後、後にフランスの独裁者と成ったポール・バラス将軍が獄舎を訪れた時、少年は重い病の床に在りました。
少年の健康状態が驚く程に急変した事情を、牢番をしていた女性が20年後、尼僧の前で懺悔したのです。
牢番夫婦が密かに、別の少年を牢へ連れ込んだのでした。
夫婦は職を離れる日に、皇太子と身代わりの少年を入れ替え、その女性は一言最後に付け加えました。
「私の王子様は、死んでいません!」

 ポール・バラス将軍の獄舎訪問に続いて起こった出来事が、女性の話しをある程度裏付けたのです。
新しい牢番が、将軍に皇太子は偽者であると告げ、バラス将軍は直ちに、皇太子捜索の手配を下したのでした。

 一方、革命政府の役人も牢を訪れ、少年が皇太子と似ても似つかぬ人物である事を証明する人物も居り、銀行家プチチバルは、皇太子の死亡証明書を偽造であると非難する程でした。
しかし、それから1年も経たない間に、プチチバルは一家皆殺しに成ってしまいます。
バラス将軍は、政府報告書の中でプチチバル家の者は、「諸君等も御承知の例の少年を除いて」全員死んだと述べています。

 この事から、バラス将軍は皇太子探索に成功し、少年がプチチバル家に居た事を将軍の同僚や、一部の高級官僚は知っていたのだと考えられます。

 其れならば、獄中で死亡した少年は、誰だったのでしょう?
1846年、遺体の再検分を行った医師は、10歳と云うよりは、15歳から16歳の少年のものである事を証言し、更に1894年に再度司法解剖され、16歳から18歳の年齢の少年と鑑定され、棺の中の遺体は皇太子では在り得ませんでした。

◎自称皇太子

 1815年のナポレオン・ボナパルト失墜と共に、ブルボン王朝は復活しましたが、自称「皇太子」の引きも切らぬ認知要求に悩まされる事と成りました。
勿論、その殆どが一目で分かる、偽者で在った事は、言う迄もありません。

 そのような中、カール・ウィルヘルム・ナウンドロフが登場します。
彼は、自分が失われた世継ぎで在ると称し、その主張を裏付ける極めて有力な証拠を持っていました。
皇太子の乳母も、ルイ16世の司法官も彼の主張を認め、皇太子の姉は、ナウンドロフが自分の家族に良く似ていると聞かされましたが、彼との面会は強く拒んだのでした。
彼の支持者は、皇女の拒絶をナウンドロフの主張が正しい証拠と見なしました。
皇女は、正統の王位継承者として、叔父のシャルルを推していたからです。

 ナウンドロフの主張で一つ特異な点は、牢番によって救出されたのではない事で、バラス将軍が彼を牢内の別の場所に移し、身代わりの少年を引き入れたとされていました。
そして、身代わりが死亡した日に、皇太子は密かに連れ出されてイタリアを経由したプロイセンに送られ、其処でナウンドロフの名前を改めて付けられたと主張しました。
認知要求を更に押し進める為、彼は民事訴訟を起こしたものの、直ちに逮捕されフランスから、国外追放に成りました。

 9年後、彼はオランダで死亡し、死亡証明書には、“ルイ16世とマリー・アントワネットの子 ルイ・シャルル・ド・ブルボン、享年60歳”と記載されました。
今日尚、ナウンドロフの子孫はフランスの法廷に認知請求を申し立てていますが、彼も又詐欺師で在ったなら、別の推測が成り立ちます。
即ち、本当のルイ・シャルル・ド・ブルボンは人目に立たない市井に暮らし、身元が明らかになる事を好まなかったかも知れません。
革命の時代に在って、王家の相続人である事は危険すぎると、彼が考えたとしても不思議では在りません。

続く・・・
2010/09/10

歴史の?その282:歴史に残る人々6・鉄仮面②

<歴史に残る人々6・鉄仮面②>

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 学者で在り、又政治家でもあるクイックスイッド卿が発表した推論は、既知の事実と符合す様に思われます。
囚人は、ルイ14世の真実の父親ではなかったのか、と言う推論なのですが・・・。

 ルイ13世とアンヌ・ドートリッシェは22年間の結婚生活中、一人の子宝に恵まれませんでした。
当時フランスの実権を掌握していたのは、リシュリュー宰相で、彼は自分の権力維持の為に王の世継ぎの誕生を待ちあぐねていました。
ルイ13世の子が王位を継承すれば、リシュリュー派は引き続き権力を行使できます。
しかし、王と王妃は、14年前から別居生活を続けていましたが、宰相は何とか、公式の和解を取り持ち、そうして全フランスが驚天動地した事に、王妃は1638年、男子をもうけました。

 それ以前に国王夫妻に子供が生れる事は無く、しかも二人は互いに嫌いぬいていましたから、王子の父親となる夫の国王の変わりに若い貴族の男性を受け入れる様に、王妃をリシュリューが口説き落としたと想像できるのです。
当時、パリには身持ちの悪いアンリ・ド・ナバールの私生児・・・全てルイ13世の異母兄弟・・・が数多く居たので、ブルボン家の血統を引く人材を捜す事に、苦労は無かったと推測されます。
リシュリューは、容姿に優れ、彼の意志に従順なブルボン家系の青年を容易に見つけ出し、窮地を抜け出るには他の方法は無いと王妃を説得したのでしょう。

 事実、少年時代のルイ14世は逞しく活動的で、父王であるルイ13世に少しも似ていないと、宮廷の中で噂されていた事実が存在します。

 この推論が正しければ、真の父親は海外、多分カナダのフランス植民地に送られ、やがて過去の経緯も忘れた頃を見計らい、若しくは今や全能の太陽王と成った息子、ルイ14世を頼って、フランスに戻って来たのではないでしょうか?
父親と息子は互いに、余りにも似すぎていた為、彼の出現は宮廷を困惑させ、王権自体を脅かす存在で在ったと考えられます。

 簡単な解決方法、即ち彼を暗殺する事は、おそらく問題外で有り、ルイ14世にしても自分の父親の殺害は阻止せざるを得なかったはずであり、結果、完全な秘匿、生活に一切の不住は無いものの、看守以外の人間からも一切隔離された生活しか他に手段は無かった・・・と思われます。

 囚人は生前のとおり、顔を知られず無名のまま死にました。
その素性は、死後もなお隠され、バスチーユで生涯を終えた者の例にもれず、彼は仮名で埋葬されました。
太陽王ルイ14世の父親であったかもしれないその人物は、“ウスタード・ドージェ:下僕”と記録されたのでした。

続く・・・

2010/09/09

歴史の?その281:歴史に残る人々5・鉄仮面①

<歴史に残る人々5・鉄仮面①>

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 ルイ14世の治世60年目の1703年に、バスチーユ監獄である囚人が死亡しました。
34年間を獄中で過ごしたその男は、ベルベットの仮面をつけ、監獄の誰にも顔を見せぬまま、世を去りました。

 フランスの一公女から、イギリスの宮廷に居る友人のもとに「昔の囚人」について書かれた手紙が届きます。
「仮面をつけた一人の男が、長年バスチーユで暮らし、仮面をつけたまま死んだ。近衛兵が二人、常に彼を見張り、仮面を外そうものなら直ぐに殺す用意をしていた。・・・是には何か訳があったのだろう。他の面では彼は厚遇され、快適に生活できるよう配慮され、望むものは全て与えられていたから。・・・彼が何者であったのか、誰も知る事は出来ませんでした」。

 ロマン派の小説家アレクサンドル・デュマ(父)は仮面の材質に多少の脚色を加えて、「鉄仮面」を書き、素性不明の囚人が、ルイ14世自身、若しくは双生児の弟という説を広めました。
しかし、是までに判明した事実から、より一層奇怪な推測が生れています。

 1669年、港町ダンケルクで逮捕された瞬間から、この囚人は異常に用心深い保護を受けました。
当時フランス領で在ったトリノ近郊のピニェロル監獄に彼が、護送されてきた時、責任者のM・サンマルスは次のような命令を与えられました。
「日用生活必需品以外の物事に関し、彼が口を開こうとした時は、氏の脅しを持って制しせよ」。
サンマルスが他の監獄に移動する度に、その任地に囚人も蝋紙で目隠しをした、籠に入れられ一緒に移動しました。
囚人は、激怒の余り気も狂わんばかりであったと記録されています。
囚人の逮捕からほぼ30年が経過したにも関わらず、尚もこの人物が人目に触れないように、あらゆる手段を尽すよ
う命じられていました。
 
 仮面は罰ではなく、用心の為で有り、この長い期間、囚人は公然の存在では有りませんでした。
では、なぜかくも厳重な警戒が必要だったのでしょうか?
謎を解く鍵として、かの人物は、誰か極めて重要な人物と驚く程似ていたのかも知れず、そして容姿が似ている事が大変に不都合であったのではないでしょうか?

②へ続く・・・

2010/09/08

歴史?その280;歴史に残る人々4・リチャード三世とロンドン塔の二王子

<リチャード三世とロンドン塔の二王子>

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 17世紀末にロンドン搭の階段の下で、少年の遺骨が2体発見された時、古い伝説がようやく立証されたたかに見えました。
残忍な王リチャード三世は、幼い甥達を暗殺したこの上なく非常な叔父と、語り継がれています。
しかし、この伝説を誰かがによって、確証されている訳では有りません。
リチャードとロンドン搭に幽閉された王子殺しを描いた、シェークスピアの戯曲を通じて、王の悪名は広く知られる事となりました。
 
 しかし、ながら歴史家の一部には、もしリチャードを今日の裁判にかけたら、証拠不十分で不起訴になるという意見があります。
確かに新しい証拠によっては、事件は全く違った展開を見せる可能性もあるのです。

 1483年にエドワード四世が崩御した時、弟のリチャードは国王の摂政と成り、エドワードの王子達、幼い国王のエドワード五世とその弟、ヨーク公リチャードの後見人を任命されました。

 エドワード五世の載冠式の準備がロンドンで進められていた時、リチャードはノーザンプトン近くのストーニー・ストラトフォードに馬を走らせ、少年王をロンドン搭に連れ戻しました。
弟のヨーク公も母親の手でウエストミンスター寺院の内陣に匿われていましたが、程なく兄の居るロンドン搭に移されました。

 搭の中庭で兄弟の遊ぶ姿が、幾度か見かけられましてが、その後少年達は、公衆の面前から永遠に姿を消してしまいます。
トーマス・モアはリチャード三世伝の中で、彼が少年達を枕で窒息死させたと書き記しましたが、其れは30年以上後の噂話でしか有りません。

 リチャードが王子達を暗殺して、得をするような立場にあったかについて、確かな証拠は存在せず、父王の死後、僅か2ヶ月目に少年達はロンドン搭の説教師達から、正統な嫡子ではないと指弾されていました。
彼らの母親、エリザベス・ウッドビルと1464年に結婚する以前、エドワード四世はシュロウズベリー伯爵家の娘と婚約しており、当時、この様な正式の婚約には、結婚そのものと同様の拘束力が存在した為、王の結婚は法律的には無効でした。
つまり、合法的な王位継承者はリチャードだったのです。

 しかし、リチャードが少年達を暗殺したのでは無いとすれば、誰が手を下したのでしょうか?
少なくともそうする動機を持っていたのは、誰なのでしょう?
研究者の間では、ヘンリー・チューダーであった可能性が強いとする意見が多いのも事実なのです。
後に、1485年ボスワースの戦いでリチャード三世を倒し、ヘンリー七世となった人物、其の人です。

 ヘンリーはエドワード七世の庶子の曽孫で、其の為、王位継承順位から締め出されており、王位に就く為には、力に頼らねば成らず、彼は自分の地位を築く為に、ロンドン塔の王子達の姉、エリザベスと結婚し、エリザベスを王位継承者として布告します。

 しかしながら、リチャードの場合同様に、ヘンリーの有罪を立証する証拠も又存在しないのです。
只、少年達は叔父の手によって殺されたと、ヘンリーが公表したのは、ようやく1486年7月16日、リチャードの死後ほぼ1年を経過してからでした。
ヘンリーは、王座を獲得するやいなや、リチャードの残忍さと暴君ぶり暴き立てた彼が、なぜ幼児殺しの告発をそれ程にも遅らせたのでしょう?

続く・・・
2010/09/07

歴史の?その279:歴史に残る人々3・アナスタジア②

<歴史に残る人々3・アナスタジア②>

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◎真偽論争

 ベルリンのロシア人社会は、完全に二分され、多くは彼女を皇女アナスタジア・ニコライブナと認めましたが、一方ペテン師との非難も少なく無かったのです。
皇女をはっきりと見覚えている人物は、既にほとんど鬼籍に入っており、彼女の主張が認められれば、ロマノフ家の財産の分け前を失う人物も多く存在した事も事実なのです。

 皇帝一家のフランス語家庭教師で在った、ピエール・ジャリールは、彼女を偽者と確信しました。
なぜなら、彼女はロシア語を解さず、ロシア正教の流儀より、ローマ・カトリックの流儀で十字を切る、と言う事がこの論拠に成っていました。

 皇帝の従兄弟で、生き残ったロマノフ一族の長老シリル大公は、彼女との会見も、其の問題に触れる事すらも拒否した程でした。

◎法廷の判断

 皇后の妹、プロイセンのイレーネ公女は、彼女の額と目が、当にアナスタシアのものであると断言しましたが、イレーネ公女がアナスタシアを最後に見たのは、10年以上も昔の事でした。

 皇帝の従兄弟、アンドレーエフ大公は、彼女を完全に承認し、「彼女は真の皇女」であると公言しました。
アンナ(アナスタシア)は後に、叔父のヘッセン大公エルンストが、1916年、ロシアとドイツが交戦していた時に、ロシアを訪問したと主張しますが、大公はこの事柄を完全に否定し、アンナは「ずうずうしい嘘つき」と公言したと伝えられています。
しかしながら、1949年の事、元ロシア皇帝連隊の一人、ラルスキー大佐がアンナの主張した時期に大公が、確かにロシアを訪問した事を宣誓した上で供述しました。

 1933年、ベルリン法廷は、アナスタジア・ニコライブナの死亡を正式に認め、ドイツにある皇帝財産を生存する縁者6名に相続させる証書を認定します。
こうして、アンナの認知への闘いは、振出しに戻りました。

◎その他諸々の証拠

 アンナは病院で、精密な医学検査を受け、X線検査で、銃の台尻による打撲傷と見える傷跡が、頭部に発見され、足には、皇女と全く同じ場所に、黒子が存在し、更に黒子を取った肩の傷跡は、アナスタジア・ニコライブナのカルテに記載されたものと同じでした。

 左手の中指に残る小さな傷跡は、幼い頃、下僕が不用意に馬車の扉を閉めて、彼女の指を挟んだ為に出来たものであるとアンナは語り、この話しは彼女の元侍女の一人が、其の話しを立証します。

 1938年、彼女の弁護士が1933年の証書認定を破棄するよう申し立てますが、第二次世界大戦の勃発で、法廷の審議は行われずに終わり、1968年5月、ハンブルグの法廷は、アンナに不利な裁決を下しましたが、その後も法廷での審議は続いたのです。

続く・・・
2010/09/06

歴史の?その278:歴史に残る人々2・アナスタジア①

<歴史に残る人々2・アナスタジア①>

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 ロマノフ家の末路を包んだ霧の中から、是までに色々な人物が登場し、皇帝一家の一員であると主張してきましたが、その大部分はロマノフ家の莫大な遺産目当ての人物達でした。

 しかし、1920年2月17日にベルリンの運河から、半ば気を失って救い上げられた10代の少女の語った物語は、可也の真実性を帯びて、人々に聞き入れられました。
多くの亡命ロシア貴族も、彼女を本物と認めた程で、彼女は皇帝ニコライ2世の末娘、アナスタジア・ニコライブナであると語ったのです。

 話は、大変複雑で、ロマノフ家の財産の殆どは革命直前、密かにロシア国外に持ち出され、西側の銀行に預けられたとの噂が存在し、同家の財産は、現金だけで40億ドルに上ると見積もる事が出来、その他、ドイツには莫大な不動産が存在していました。

◎救  出

 1918年、革命政府の発表では、皇帝自身は処刑されたが、彼の家族は処刑を逃れ、他の場所に送られ事に成っていました。
其れが事実で在るならば、皇太子か皇女が実際に後年、出現しても不思議な事では在りません。

 ベルリンの運河から救い上げられたその少女は、アンナ・チャイコフスキー名義の証明書を所持しており、収容された病院で元気を回復した直後から、自分はアナスタシアであると主張し、処刑を逃れた模様を詳細に物語ました。
彼女は家族と共に、エカテリンブルグの地下室へ処刑の為に連れて行かれたと話し、銃撃を受けて負傷し、彼女は気を失いました。
しかし、意識を取り戻してみると、男女二人ずつが引く、農夫の荷車に隠されていたと云います。

◎ボリショビキ兵に救われて

 二人の男性は、ボリショビキ兵の兄弟で、名前をチャイコフスキーといい、処刑には参加していませんでした。
兄弟が彼女に語ったところでは、少女は死亡したものとして、地下室に床に放置されており、兄弟が死体を地下室から運び出す事になっていました。
兄弟は、彼女にまだ息がある事に気付き、少女を密かにロシア国外へ救い出そうと決心したのだそうです。

 真珠にネックレス、ドレスに縫い込まれていたエメラルドの原石を売却してお金で、少女と救出者達は、ようやくルーマニアの首都ブカレストに辿り着き、其処で一行は、チャイコフスキーの親類宅に身を寄せました。
少女は、革命政府を恐れる余り、隠れ家から一歩も外出する事なく、やがて兄弟の一人と結婚して、子供を一人もうけました。
その後、間もなく、夫は路上で革命政府の通報者によって、脱走兵として射殺され、彼女もまた病に倒れ、子供は養子に出されてしまいます。

 義弟セルゲイ・チャイコフスキーは、彼女をベルリンへ連れて行く事とし、其処ならば革命政府の目からより安全と思われたからです。
しかし、恐怖に満ちた旅路の果てに辿り着いたベルリンで、セルゲイは姿を消し、少女は疲れ果て、絶望の余り運河にみを投じて自殺を図ったのでした。

 その後10年間、彼女はロマノフ家の一員として、資格回復と帝室財産の相続権を主張し続け、皇帝支持者との接触を繰り返します。

②へ続く・・・
2010/09/04

歴史の?その277:歴史に残る人々1・ワレンバーグ

<歴史に残る人々1・ナチスから10万人を救った外交官>

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 第二次世界大戦の最中、民族浄化の名の下にユダヤ人への迫害が繰り広げられていたナチス占領下、ワレンバーグはスウェーデン外交官として、ハンガリーへ赴任しました。
この時から「10万人のユダヤ人を救った英雄」としての活躍が始まります。
「セーフハウス」と呼ばれる31軒の家を造り、1万5千人ものユダヤ人を保護し、さらにはワレンバーグの写真とスウェーデン国旗を印刷した保護証明書を発行し、これを大量に配布しました。
この保護証明書には、法的な権限は全く有りませんでした、意外なほど効力を発揮し、大勢のユダヤ人が難を逃れることが出来たのです。

 しかし、彼の行動は一外交官の裁量を大きく逸脱する行為で在り、賄賂や脅しなどの手段も躊躇なく使ったと伝えられています。
時には、強制居住地区のユダヤ人抹殺命令を受けていた、ドイツの将軍シュミットフーバーを相手取り「これを実行すれば、戦後責任を取らせて貴方を確実に絞首刑にする」と脅して、未然に計画を阻止し、又10万人ものユダヤ人を180キロの道程を、一切の食料なしで強制移動させた「死の行進」の際には、列車で駆けつけ食料を与え、保護証明書を配布し、世論に訴えかけるという手段によって、これも阻止しました。

 その様なユダヤ人の英雄ワレンバーグは、アメリカ合衆国からの資金援助を受けていた事から、スターリン独裁下のソビエトには、アメリカのスパイと認識されてしまいます。
そして、1945年1月、ナチスを破りハンガリーへと侵攻してきたソ連軍と、以後のユダヤ人保護政策について話し合う為その会見場へと向かった時が、ワレンバーグの最後の姿と成りました。
ワレンバーグはソ連の収容所へと送られ、1947年頃死亡したと言われていますが、ワレンバーグの死は公式には未だ認められていません。
戦後、各地に彼の英雄行為に対する碑が作られ、イスラエルでは栄誉国民を、アメリカでは名誉市民権を与えられています。

続く・・・
2010/09/03

歴史の?その276:世界史の流れ16・二つの世界大戦

<世界史の流れ16・二つの世界大戦>

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 18世紀後半、イギリスでは、紡績機等の機械が次々に発明、動力化が行われ、所謂「産業革命」が起こり、やがて各国に波及し、その結果として、資本主義は発展して行きます。
19世紀末には、資本主義の発展した国々は、製品の市場、原料の供給地としての植民地を求めて、争って海外に進出して行きます。
この傾向を「帝国主義」と言います。

 この植民地をめぐる、帝国主義諸国の利害の対立は、終に「サラエヴォの悲劇」を発端として、「第一次世界大戦」(1914年-1918年)が勃発し、イギリス、フランス、ロシア、セルビア、日本等の連合国とドイツ、オーストリア、後にトルコ、ブルガリアの同盟国に世界の主要国は、分かれて対峙しました。
戦いは、連合国側の勝利に終わります。

 この連合国の内、ロシア(帝政ロシア)は、当時農業主体の国家で、市民階級が十分に発展せず、皇帝による専制政治が行われており、日露戦争の敗北(1905年)以来、専制政治に対する国民の不満が増大して行きます。
第一次世界大戦が勃発した時には、一時的に革命的機運も押さえられたものの、ロシアは敗戦が続き、食料を中心とした物資が著しく欠乏、終に1917年「二月革命」が起こり、皇帝ニコライ二世は退位し、ここにロマノフ王朝のロシア支配は終焉を迎えました。
続く「十月革命」によってロシアは、連合国から離脱し、1922年ロシアは「ソビエト社会主義共和国連邦」と国名を改め、世界最初の社会主義国家(国家群)と成ります。

 第一次世界大戦後、後進の資本主義国家である、ドイツ(ワイマール共和国)、イタリア、日本(大日本帝国)の所謂「持たざる国」は、「枢軸」と称して互いに同盟関係を締結し、アメリカ、イギリス、フランス等の「持てる国」に対抗します。
やがて、「持たざる国」は、アドルフ・ヒトラー、ベニート・ムッソリーニを指導者として、全体主義的体制に移行し、軍備を拡張(再軍備を含む)、対外侵略行動を強行します。

 1939年9月、ドイツ軍のポーランド進行に対し、イギリス、フランスは宣戦を布告、それ以前から戦時体制にあった、アジア地域を巻き込み、1941年12月、日本が、アメリカ、イギリスと戦闘状態に突入、此処に「第二次世界大戦」が勃発し、1945年5月ドイツ降伏、同年8月日本降伏により、枢軸国の敗北が決定し、第二次世界大戦は、終結しました。

世界史の流れ終了
2010/09/02

歴史の?その275:世界史の流れ15・明朝と清朝

<世界史の流れ15・明朝と清朝>

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 明朝と清朝は、中国史上最後の王朝です。
明朝は、漢民族の皇帝を戴き、清朝は満州族(ツングース系)の皇帝を戴きながら、ともに絶大な皇帝権力を行使した点では、違いが有りません。
その繁栄期間は、ヨーロッパの時代に照らし合わせると、ルネサンスの初期から、ナポレオンの時代迄にも及びます。

 明の太祖、洪武帝は、漢の高祖と同じく平民より、立ち上がりました。
歴代の皇帝の中でも、不世出の英雄であり、中国の伝統に従って、国家としての機能を整備し、皇帝の権力をそれ以前の皇帝に比較しても、比類無いもの教化しました。
しかし洪武帝は、一つの誤算を犯していました。
帝室の権力を強化する余りに、皇帝で無い諸皇子に、大きな権力を待たせすぎた結果、洪武帝亡き後、直ちに燕王の反乱(靖難の変)が発生し、建文帝は倒されてしまいます。

燕王は即位して、永楽帝となり、彼も又偉大な帝王であり、此処に明朝の基盤は形成されたと言っても過言では有りません。
しかし、永楽帝の後は、内外の諸政策が尽くその効果を逸し、明朝の国力を衰退の一途を辿ります。

 17世紀、明朝内部では、しばしば内乱が発生し、外部からは、満州族の領内進入は相次ぎました。
1644年、明朝は内乱により自滅し、是を機に満州族は北京に入城します。
此処に清朝による、漢民族支配が始まりました。
清朝の隆盛期の皇帝と言えば、康熙帝・雍正帝・建隆帝の三代であり、17世紀後半から、19世紀初頭に至る期間に当り、中国の王朝は、満州族支配の基に、最大の領土を誇るに至りました。

 しかし、西方からヨーロッパ人の勢力も、次第に中国に迫り、既にインドは、大英帝国に屈し、清朝も、1842年阿片戦争に破れ、半植民地化の道を辿る結果と成りました。

 東方からは、日本の大陸支配が、始まり朝鮮を圧迫し、20世紀初頭には、終に清朝さえも屈服させます。
時の皇帝は、光緒帝、実権を掌握するのは、西太后で、皇帝は操り人形に過ぎなかったのです。
清朝は其れ迄、「眠れる獅子」と呼ばれていましたが、20世紀に及んで、新しい中国を目指す革命運動が、活発となり、その激動の歴史の中で歴代の皇帝は、不可解な死を遂げて行きます。
もはや、清朝の命脈も尽き様としていました。

続く・・・
2010/09/01

歴史の?その274:世界史の流れ14・市民革命

<世界史の流れ14・市民革命>

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 イギリスでは、1649年ピューリタン革命が起こり、スチュアート家による絶対王政が打倒されます。
間もなく王制は復活するものの、1689年には、再び名誉革命が起こり、立憲君主制が確立されました。
アメリカ大陸では、1775年独立戦争が勃発し、1776年に終結を見、1783年に正式にアメリカ合衆国として独立を承認されました。
アメリカ独立運動は、宗主国イギリスからの独立ですが、この独立戦争でその大きな戦力と成ったのは、中産階級や自営農民であり、彼らは政治的独立を獲得する事によって、社会的変革を企てたのでした。

 フランスにおいては、1789年「フランス革命」が起こり、ブルボン家の専制政治を市民勢力が打倒します。
この様に各国で、相次いで発生した、革命運動は、何れも国王の絶対的支配に対する、市民階級の不満が増大したした結果であり、「市民革命」と呼ばれます。

 フランスでは、革命と其れに続く混乱の中から、ナポレオンを現れ、彼はやがて、共和国の統領となり、更には皇帝にとして即位すると、独裁政治を断行しましたが、本来の革命の意味を否定した訳では無く、封建的特権の復活を認めず、革命の精神を尊重しました。

 ナポレオンは、次々と軍事行動を展開し、ドイツ、オーストリア、イタリア等中部ヨーロッパ以西の国々をその勢力下に置き、ヨーロッパ諸国には、対フランス同盟の結成をめざし、ナポレオンに対抗したイギリスを屈服させる目的で、エジプト遠征を行い、「大陸封鎖令」を発します。

 しかし、この「大陸封鎖令」に直面して経済的疲弊を生じたのは、むしろ大陸諸国であり、ナポレオンに対する反抗が、これら諸国によって企てられます。
ナポレオンが、ロシア遠征を企てたのも、この経済的疲弊打破が主たる目的ですが、ロシアの厳冬に阻まれて失敗し、ナポレオン没落の第一要因と成りました。
この期間、ロスチャイルド家は、その莫大な資金力を持って、常にイギリス政府を支援します。

 このヨーロッパの混乱から大西洋を隔てた、新興国家アメリカは、繁栄を続けており、北部では工業が発展したにも関わらず、南部では奴隷を使用した大規模綿花栽培が中心の、農業圏であり北部、南部の利害関係がしばしば対立します。
1860年、奴隷制度廃止を訴えたリンカーンが、第16代アメリカ合衆国大統領に就任し、翌年「南北戦争」が勃発するものの、北軍の勝利に終わり、その後アメリカは、経済的に急激な発展をして行きます。

続く・・・