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2010/10/30

歴史の?その323:発見6・王家の谷1

<発見6・王家の谷1>

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 ハワード・カーターは、次第に絶望的になって行きました。
彼は25年近くも、少年王ツタンカーメンの墓を探し続けてきましたが、発掘の資金は、既に尽き様としていました。
更には、仲間達の間からも、次第に疑問の声が、上がり始めたのです。

 この英国人考古学者は、その墓が古都テーベの地に在る、王家の谷の何処かに存在する事に、間違い無いと確信していました。
彼がそう信じた理由は、近郊のルクソールの神殿に、ツタンカーメンに関する碑文が存在する事、又、その王墓は依然として略奪を受けていないと考えました。
是まで、ツタンカーメン王の遺品が、何一つ報告されていない為でしたが、発掘を開始してから10年間に発見された物は、壺が数個と王に名前が入った、衣類程度に過ぎませんでした。
その後には、谷を隈なく掘り返しても、何の成果も在りませんでした。

 カーターは明け方の涼しい砂の上を、発掘現場に向かって、ゆっくりと歩きながら、彼の後援者で、アマチュア考古学者のカーナボン卿の事を考え、イギリス、ハンプシャーの館での最後の話し合いを思い出していました。

 カーナボン卿は、発掘の中止を望んでおりましたが、カーターはもう一度、最後の費用を捻出する事を訴えたのでした。
カーナボン卿は言いました。
「先生、私は賭博師のようなものだ。
もう一度、君に賭けよう。
もし、失敗したら、それで終わりだ。
何処を掘ろうと言うのかね?」
カーターは、王家の谷の地図を見せながら、ラムセス6世の墓への出入口になっている為、未だ未調査の小さな区画を示して言いました。
「此処です!残っている最後の場所です!」

 今、発掘現場に近づきながら、カーターは此れが、彼の夢の侘しい結末らしいと考えており、彼と作業員は、此れまで3ヶ月間、その場所を掘り返したものの、何も発見できませんでした。

 しかし、彼がその場所についた時、作業員頭のアリが走ってきて言いました。
「岩を刻んだ階段が出てきた!」
そして、2日目、封印された扉に通じる急な階段が掘り出され、カーターは直ぐに、カーナボン卿に電報を打ちました。

「終に、谷で素晴らしい発見、盗掘の痕跡の無い封印のある壮大な王墓。到着迄は、元通り埋め戻しておきます。おめでとう」

日付は、1922年11月6日の事でした。

 カーナボン卿の到着を待ち、数日かかって扉を壊し、石が詰まった通路を整備し、そして二人は第二の封印された扉の前に立ちました。
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2010/10/29

歴史の?その322:発見5・サハラが緑だった頃2

<発見5・サハラが緑だった頃2>

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 乾燥した砂漠の空気の中に、幾つかの時代の記録が、保管されていました。
最も古いものは、色の黒い多分ネグロイドと思われる人々が、弓と矢、槍を使ってキリン、サイ、象等を狩立てる様が描かれ、其処には、巨大な、半分人間にも見える形をした、神と推測される、ぼんやりとした白い姿が見受けられます。

◎侵入者の肖像

 宴会の場面、婚礼の儀式、穀物をついて粉を作っている女性、小屋を立てている場面、飼い犬を連れた家族、動物の毛皮を掛けて眠る子供達、その他の家庭生活の情景も見られます。

 紀元前5000年から4000年の間に、次第にこの人々に変わって、皮膚の色がもう少し薄い、銅色の肌を持った人物が登場してきます。
この新しい侵入者達も、自分達の肖像画をこの画廊に書き加え、羊、キリン、レイヨウ等の狩猟場面を描きました。

更に時代が下って、紀元前1000年代頃の絵には、チュニック状の着衣を着け、馬の引く戦車に乗った兵士が見られます。
現在でも推測の段階ですが、彼らは古代エジプトの記録に存在する、クレタ乃至小アジアからエジプトに侵入した「海の人」かもしれません。
闘いに破れた彼らが、リビアに逃れ、やがて遥か西方のタッシリ高原にやって来た、という可能性は充分に考えられる事です。

◎沈黙の世界

 河川が干上がるに従って、タッシリの人口は減少し、壁画が新たに書き加えられる事は、殆んど無くなりました。
紀元前1000年頃、人々は忍び寄る砂漠に生活の場を奪われ、何処へと去って行きました。
そして、沈黙の世界が続き、砂漠の砂塵が見捨てられた、この土地を吹き抜け、世界の他の場所で、幾つもの国々が勃興、滅亡を繰り返した間、消え去った素晴らしい種族の肖像は、タッシリ・ナジュールの日に焼かれた岩壁から、むなしく虚空を眺めるだけでした。

本編終了・・・
2010/10/28

歴史の?その321・発見4・サハラが緑だった頃1

<発見4・サハラが緑だった頃1>

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 遊牧民トアレグ族の隊商が、ラクダを引いて、サハラ砂漠の石ころだらけの高地のキャンプにやって来ました。
その隊商に、チャド湖に向かう途中の若い探検家、ハインリッヒ・バルトが加わっていました。

 彼らの周りを取巻く、険しい砂岩の崖に視線を向けたバルトは、其処に牡牛、水牛、ダチョウや人物等の見事な彫像が彫られている事に気づき、大変な衝撃を受けました。

◎古代の画廊

 1850年のその日、バルトが発見したのは、8000年前の画廊の一部で、其れは、かつてサハラが緑豊な土地で会った頃、中央サハラのタッシリ高原と、其れを取巻く丘陵地帯に住んでいた、遥か昔に忘れ去られた人々が残したものでした。

 しかし、タッシリの岩壁の美術が、世界の注目を集める様に成ったのは、1933年、フランスの軍人、シャルル・ブレナン中尉の報告によってでした。
ブレナン中尉は、タッシリの荒涼とした丘や谷間を歩き回り、何キロメートルにも渡って岩壁に描かれている彫像と、見事な絵画を発見したのでした。
素朴な家庭生活、狩猟の場面、神々と思わしき姿、宗教的儀式等の場面が、黄土色、紫、黄褐色、白色に柔らかく輝いていました。
絵の具で描かれた戦士は、丸い楯と槍を持って戦車に乗り、突進し、前掛けを着け、エジプト風の帽子を被った牧童は、長く湾曲した角を持つ牛を追っていました。

 描かれている動物や鳥には、遥か以前に絶滅してしまった種のものも含まれ、又、サイ、キリン、ダチョウ等に至っては、現在、この場所から1500km以上も南の草原でしか見る事が出来ません。

◎タッシリへの探検

 ブレナンが描いたスケッチに、強い印象を受けた人物の一人に、フランスの探検家・人類学者のアンリ・ロートがいます。
彼は直ちに、タッシリへと旅立ちました。
其れから数年後、ロートはフランスのアカデミーや政府機関の援助を得て、画家と写真撮影チームを編成し、タッシリへと再び旅立ちました。
1957年迄にロートのチームは、1500㎡に及ぶ壁画の模写と写真を、パリに持ち帰る事ができました。

その2へ続く・・・

2010/10/27

歴史の?その320:発見3・岩穴の大画廊その3

<発見3・岩穴の大画廊その3>

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◎マドレーヌ文化

 この素晴らしいマドレーヌ美術が発見されたアルタミラでは、獣脂でつくった、黄土のクレヨンが発見されています。
暗い洞窟内で、絵の具は細心の注意を払って塗られていき、其処には日光は殆んど届く事はなく、従って人工の照明が用いられたと思われますし、その証拠に石で作った職台も発見されました。
天井の絵も何らかの形で、足場が用いられた事を示しています。

 是等の動物絵画は、獣たちが簡単に捕獲できる様にとの、呪詛の一部と考えている考古学者も多いのですが、或は古代人達は、絵を仲立ちにして、獣たちの猛々しさや力が、彼らに乗り移ると信じていた可能性もあります。
しかし、動物の急所に槍が刺さっている絵が多い事から、壁画は若い猟師に、獲物の捕獲方法を教えるものだったかもしれません。

 是等の絵画で最も新しいものは、紀元前1万年頃に描かれたと考えられます。
その時期、最後の氷河期が終わり、氷河の後退が始まり、気温が暖かくなって、マドレーヌ人が広々とした土地で生活する為に、洞窟を出て行った時代なのです。
その後4000年の間、彼らの子孫達は、急激な環境変化に適応し、農耕する事を覚えるに至りましたが、同時に芸術的才能を失ったのでした。

本編終了・・・
2010/10/26

歴史の?その319:発見2・岩穴の大画廊その2

<発見2・岩穴の大画廊その2>

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◎先史時代の絵画

 マッチの明かりを頼りに、彼は美しい壁画を発見しました。
翌日、彼はランタンを持って、再び穴に潜り、馬、牛、鹿、その他たくさんの動物が描かれている事を確認したのです。

 ラスコー洞窟の壁画は、アルタミラの壁画と並んで、是までに発見された原始美術の最高傑作と考えられています。
ラスコー洞窟には「牡牛のホール」と呼ばれ一室が在り、其処には、漆黒と濃赤色で描かれた傑作が見られ、幾つも並ぶ部屋には、馬の群れや枝角を持った鹿の頭が、当に生きているかの様に描かれています。
アルタミラの壁画と同様に、是等が原始的な野蛮人の作品等では決して無く、感受性に優れた芸術家の手になるものであり、一般の石器時代のイメージとは、かけ離れたものである事は明らかです。
是等の絵は、1万5000年間にわたり、少しずつ書き加えられたもので、古いものは、紀元前2万8000年迄遡ると思われます。
絵の様式も様々で、単純な線刻から、鮮やかに彩色され、著しく現実的なものまで様々なのです。

◎クロマニョン人

 この様な芸術を生み出した人々は、クロマニョン人と呼ばれ、紀元前3万2000年から1万年の間、ヨーロッパに分布した石器時代人である。
彼らは食料となる植物の採集と、狩猟によって生活していましたが、発明、創造の才能も持っていました。
考古学的研究によれば、彼らは次々と別個の文化を築き、その最後に位置するの文化が、紀元前1万5000年から1万年頃に栄えた、マドレーヌ文化でした。

壁画はまず、尖った石器で輪郭を彫り、そこに彩色が施され、この時代の画家達は、緑や青は持っていませんでしたが、黒、黒紫は酸化マンガン、木炭、或は煤から得ていたと思われます。
褐色、赤、黄、オレンジ等は、鉄鉱石を石や骨の乳鉢と乳棒で粉にし、動物の血液や脂肪、植物の搾り汁等を混ぜて作られました。
絵の具を塗るのは、幾つかの方法があり、指、毛皮のブラシ、羽毛、木の枝を噛み潰したもの等が用いられました。
又、画家達は、苔を丸めて作ったパッドを使用し、中空の葦の茎で、絵の具を吹き付ける事も行っています。

その3へ続く・・・

2010/10/25

歴史の?その318:発見1・岩穴の大画廊その1

<発見1・岩穴の大画廊その1>

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 一人のアマチュア考古学者が、北部スペインのアルタミラ洞窟の入口近くを掘っていました。
彼の娘で、9歳になるマリアは、その間に洞窟に入って行きましたが、突然、幾つか部屋の様に分かれた洞窟の一つから叫びました。
「牛よ!牛よ!お父さん、早く来て!」
父親のマルセリーノ・デ・サウトゥーラが、穴に駆け込んでみると、娘は興奮して洞窟の天井を指差しました。
彼が、ランタンを掲げて見ると、約20m四方の天井には、褐色、赤、黄、黒などで、有史以前の野牛の姿が描かれており、それは、何千年も昔の素晴らしい芸術品でした。

 天井には、17頭の野牛が、まるで生きているかの様な姿で描かれ、地面を前脚でかき、横たわり、大声で鳴き、或は槍の傷を受けて死にかけていました。
その回りには、野豚、馬、鹿、狼が見られます。
サウトゥーラが、入り組んだ洞窟の中を更に調べてみると、他にも何十という動物の絵が見つかり、その中には、既に絶滅した種や、幾世紀も前に西ヨーロッパから姿を消したものも少なく有りませんでした。

 時は1879年、最初、考古学者達は、この発見をサウトゥーラの贋作として、一笑に伏しましたが、その理由は、ダーウィンの進化論を陥れる為の陰謀であると考えたからでした。
野蛮な猿と同等と考えられていた原始人が、是ほどに微細、繊細な仕事を成しえたとは、考古学者には考えも及ばなかったのです。

 1902年、発見者であるサウトゥーラが世を去ってから14年程が経過し、考古学者のアンリ・ブルイユ神父がこの洞窟を訪れ、天井の絵とほとんど同様な絵を刻んだ、動物の骨を発見しました。
この発見から、洞窟の本物であることは、もはや疑う余地はなく、それ以後この洞窟は「先史美術のシスティナ礼拝堂」と称えられましたが、是等の絵についてもう一点驚くべき事は、その保存状態の良さでした。
アルタミラの洞窟は、発見されるまで、何世紀にも渡り、封じられた状況にあったといえますし、その為、洞窟内の気温や湿度が一定に保たれる結果と成り、壁画が良い条件で保存されたのでした。
南フランス、ラスコー洞窟の壁画は、絵が描かれてから発見される迄の数千年に及ぶ期間よりも、是が一般に公開された15年間の損壊の方が、はるかに大きいのです。
是は、訪問する人々の水蒸気、体温、持ち込まれる微生物に因るものでした。

 ラスコーの先史時代の大画廊発見にも、若者が一役かっていて、1940年、18歳のマルセル・ラビダは、犬を散歩させていて、木を引き抜いた後に、穴が開いている事に気付き、後日、友人を伴ってその穴を広げ、約5.5m下の洞窟の床に降りました。

その2へ続く・・・
2010/10/23

歴史の?その317:歴史に残る人々40・

<世界の果て・エンリケ航海王とジル・ヤネシュ>

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 カナリア諸島の直ぐ南、アフリカ西海岸のボハドル岬の崖下では、大西洋の荒波が絶えず荒れ狂い、泡立っていました。
その向こうには「暗黒の海」が在り、其処に住んでいるのは、怪物や死んだ水夫の亡霊でした。
ここは世界に果て、そしてボハドル岬は、“帰還不能地点”ので、此処から先に進んだ者は、二度と戻れないと14世紀当時の船乗りは教えられ、恐ろしさに震え、余りに恐怖が大きかったので、アフリカ西海岸から先の探検は、なかなか実現しませんでした。

 探検や発見に熱心だった、ポルトガルのエンリケ航海王は、この様な話が探検、調査の大きな障害に成っている事を憂慮して、この話は単なる、迷信に過ぎないと嘲笑していました。
ポルトガルの船乗り、ジル・ヤネシュは、エンリケ航海王からアフリカ西海岸の調査を依頼された事を機会に、実際、ボハドル岬の南には、何があるのか、調べる事を決意しました。
彼は、迷信深い船乗り達を説得し、船を“世界に果て”に進めたのでした。

 結末から言えば、この調査探検の結果は、参加した臆病な乗組員達を大いに驚かせたに違い有りません。
恐ろしい岬も危険な暗礁も無く、在ったのは、平和そのものの様な海岸線だけでした。
イワシの大群が水中に煌めき、銀の海を航海している様に見え、風が吹き付けると、大海原が盛り上がり、風に舞い上がった砂漠の砂が、時には空を暗くしました。

 その様な光景を眺めながら、船は南に航海を続け、其れまでの話が単なる迷信に他ならない事を実証したのでした。
既に出帆時の恐怖は、全て消え去り、船は海岸線を更に南下、母国ポルトガルから1700km離れた砂浜に上陸してみました。
その場所で、見慣れた植物、ローズマリーを見つけ、エンリケ航海王に献上する為、採集してから、船を北へと転回したのでした。

 この航海の陰には、15年間に渡る、15回の試みが在り、ジル・ヤネシュの大胆な冒険は、其の後、ポルトガル人船乗りの、新しい発見への道を開いたと言えます。
そして、アフリカ西海岸に残っていた数千kmに及んだ未測量地域も、この快挙から70年以内に消滅したのでした。

続く・・・
2010/10/21

歴史の?その316:歴史に残る人々39・ウィリアム・テルは実在したのか:英雄の誕生

<歴史に残る人々39・ウィリアム・テルは実在したのか:英雄の誕生>

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 その命令は、屈辱的なものでした。
スイス、ルトドルフ村の住民は、村の広場に在る柱の上に置かれたオーストリア代官の帽子に、頭を下げなければ成らないのです。
唯一人の男だけが、勇敢にも一礼を拒否しました。
その男の名前は、弓の名人ウィリアム・テルだったのです。

 代官のゲスラーは、テルを残忍な罰にかけました。
彼に「息子の頭上に置いた林檎を射抜け」と言うもので、此れを拒んだり、失敗した場合は処刑するとも言ったのです。

 村の外れで、テルは息子と向かい合い、石弓に矢をつがえ、帯にもう一本の矢を挟めました。
矢が空を切った其の時、林檎は砕け散ります。
代官は「なぜ2本の矢を準備したのか?」とテルに問うと、彼は答えました。
「もし、最初の1本がわが子の髪の毛1本でも傷つけた時は、貴方の心臓を射抜くつもりで在った」と。

 ゲスラーは叫びました。
「奴を城へ連れて行け!」
テルは縛られ、舟でウーリ湖対岸のゲスラーの古城へ、連行される事に成りました。

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 湖の半ばに達した頃、突然の嵐が起こり、ゲスラー達はテルの戒めを解き、安全な湖岸迄水先案内をさせます。
岸に着くや否や、テルは舟から飛び降り、舟を湖に押し戻しました。
その時、ゲスラーの部下達は湖に沈みましたが、ゲスラー本人は何とか岸に辿り着く事が出来ました。
テルは、2本目の矢をつがえて待っていました。
矢は放たれ、スイスはオーストリアの頸木から解放されたのです。

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 ウィリアム・テルの物語は、テルが生存したと思われる時代よりも200年後に、16世紀の作家エギーディウス・チューディのスイス年代記で、初めて伝えられました。
しかし、テルやゲスラーが実在したという同年代の証拠は、発見されていません。
チューディの報告は、11世紀頃の伝説を面白く改作したものと思われ、やがて、この物語がテルをスイス民間伝承の英雄にしたのでした。

続く・・・
2010/10/20

歴史の?その315:歴史に残る人々38・シャクルトン調査隊の生還その3

<歴史に残る人々38・シャクルトン調査隊の生還その3>

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 我々は、空間目指して打ち出された様な気分で、私は恐怖に髪の毛が逆立ったものの、突然満足感を覚え、自分が笑っている事に気が付いた。
本当の話、楽しんでいたのだ。
我々は、急斜面の山腹を、時速100km近い猛スピードで滑り下りた。
私は興奮の余り、大声で叫んだ。
気が付くと、シャクルトンもクリーンも、大声で叫んでいた。
私は、この滑降が途方も無く安全な様に思われた。

 徐所に速度が落ちて、我々は雪の吹き溜まりの処で止まった。
我々は、起き上がって、真面目くさった顔で、やたらと握手を繰り返した」

 3人は36時間掛かって、サウスジョージア島を横断、ついに捕鯨事務所に辿り着いた時には、あまりに酷い姿だったので、所長は彼らが誰なのか、見分けが付きませんでした。
シャクルトンの頭髪は銀色に変わっていたのです。
ウォースリーが、残してきた3人を救出する為、キングホーコン湾に帰った時には、この3人も、ウォースリーを見分けられませんでした。
もっとこの場合は、風呂に入り、髭を剃ってましな服装をしていた為、外見が全く変わっていたからでした。

 一方、エレファント島の隊員達は、転覆した2隻の船の下で、ハリケーンと氷に苦しめられながら、4ヶ月半を過ごしたのでした。
こうして、アーネスト・シャクルトン最後の長い遠征は終わりました。

 彼の海と陸の長い冒険旅行の記録は、現在でも歴史上、もっとも偉大な南極探検とされています。
彼の業績は、仲間の探検家が語った、次の言葉に、見事に象徴されています。
「科学的な面でのリーダーならスコットだ。
迅速で効率的な旅行ならアムンゼンを取る。
しかし、絶体絶命の立場におかれ、八方塞がりになったなら、跪いてシャクルトンを祈る」

続く・・・

本編終了・・・

2010/10/19

歴史の?その314:歴史に残る人々37・シャクルトン調査隊の生還その2

<歴史に残る人々37・シャクルトン調査隊の生還その2>

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 シャクルトンは、坐骨神経痛で酷く苦しんでいましたが、快活に振舞っていました。
ウォースリーが六分儀を使っている時は、両側から支えていなければならず、そうしないと、六分儀もろとも、船から落ちてしまいそうでした。
霧の為、太陽は何時もぼんやりと浮かんでいるだけでしたが、或る日の夕方近く、その霧の向こうに島影を発見しました。
サウスジョージア島でした!

 翌日、彼らは島に上陸して横断し、反対側に在る捕鯨事務所迄行こうと提案しました。
しかし、サウスジョージア島の雪山や氷河の向こうに何が在るのか、誰一人として、其れを知る者など居ませんでしたが、シャクルトンは断固としてこのルートを試みました。
もし、海上を進んで、難破等の事態になれば、エレファント島に残してきた仲間は、死を待つのみと成るからです。

 彼らはキングホーン湾に上陸、洞窟を見つけ、アホウドリの雛を捕らえて食べた時は、余りの空腹に骨まで食べてしまった程で、近くに流れる河の水は、まるで蜜の様な味に感じました。
木の葉や苔を集めてベッドを作り、やっと2週間ぶりに安眠する事も出来ました。

 1916年5月19日、空が晴れて月が輝き、シャクルトン、クリーン、ウォースリーの三人は、同行する事が出来ない三人を残して、島の横断に出発しました。
ウォースリーが磁石で方角を調べ、行く先を示すと、三人は安全の為ロープでお互いの体を結んで進み、時には深さ60m以上も在る大きな谷に危うく、転落しそうになった時も有ったのです。

 終に三人は、尾根に到達、そこは鋭く切り立った場所で、足を両側に垂らす事が出来る程でした。
夜に成ると、霧と闇に退路を断たれ、もし動かなければ、間違い無く凍死してしまいますが、凍った岩肌に足場を作りながら降りて行く事は、時間が掛かりすぎてしまいます。
シャクルトンは言いました。
「是は、とんでもない一か八かの勝負だが、やるほか無い。滑って行こう」

 ウォースリーは後日、この時の事を次の様に話しています。
「我々は、ロープを巻いて、それぞれ小さな座布団を作り、是を敷いて斜面を滑ろうという訳だ。
シャクルトンは、氷を削って、足場を作り、其処に腰を降ろした。
私は、彼の後ろに付き、彼の首を抱える様にしてしがみついた。
クリーンが私の後ろに付き、同様な姿に成り、私達は一塊になって、シャクルトンの一蹴りを合図に滑り始めた。

その3へ続く・・・

2010/10/18

歴史の?その313:歴史に残る人々36・シャクルトン調査隊の生還その1

<歴史に残る人々36・シャクルトン調査隊の生還その1>

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 1916年3月、絶望にうちひしがれたイギリス人が28人、南極海に在る氷の島の海岸で震えていました。
1914年以来、彼らは南極横断調査隊の隊員でしたが、2900kmにわたる、流氷と雪の荒地との闘いにすっかり弱りはてていました。
彼らの船「エンデュアランス」号は、5ヶ月前に流氷群に囲まれ沈没し、それ以来、彼らは流氷上で暮らして来ましたが、数日前、残っていた3隻の小船で、流氷を後にしたのでした。
リーダーは、ホーン岬南東のエレファント島を行き先に選びました。

 しかし、エレファント島では吹きさらしの浜辺を襲う強風がテントをズタズタにし、ペンギンの肉や海草等の食料の蓄えも底をつき、寒さに凍え、飢えに苦しむ彼らは、今度も歴史に残る人々36・シャクルトン調査隊の生還その1を頼りにしていました。
「我々は、船が手に入る場所に行かなければ成らない」と彼は言い、小船で長旅を行うのは、決死的行動でしたが、彼が志願者を募ると、全員が志願しました。

 5人が選ばれて、シャクルトンに同行する事と成り、行く先はフォークランド諸島のサウスジョージア島、世界最悪の大洋を僅か7m足らずの小船で、越えなくては成りません。
この時、選ばれた5人は、沈没した彼らの船の船長ウォースリー、水夫長ビンセント、大工マクニーシュ、他にトム・クリーンとティモシー・マッカーシーで、彼らは、ジェームズ・ケアード号を苦労して修理し、何とか出発できる様に準備を整えました。

 苦難の航海が始まり、突然の強風に船は危うく流氷群迄押し戻されそうに成りました。
もし、その様な事態に成れば、其れは重大な後退を意味しますが、船は波を切って進み始めました。
キャンバスのデッキの下には、狭いものの寝る為の空間が在り、食料やバラストの上を無理に通って行かない限り、その場所には、行き着く事は出来ませんでしたが、終には、濡れた寝袋が唯一の慰めと成りました。
もっとも、この寝袋に彼らが、疲れ果てて潜り込んではみたものの、安眠を約束されているはずも無く、起きている事と同じで、あまり気分の良い事では有りませんでした。
シャクルトンは、後に次の様に書いています。
「我々に向かって寄せて来る大波は、まるで巨大な壁のアーチが、覆い被さって来る様な感じだった。我々は3,4分毎にびしょぬれに成った。大波が我々の頭上で崩れ、我々はまるで滝の真下に居る様だった。そして次の大波が来る迄に、小波が数回襲って来た。小波は、船を乗り越え、我々はまたびしょぬれに成った。是が昼も夜も続き、寒さはとても厳しかった」。

その2へ続く・・・
2010/10/15

歴史の?その312:歴史に残る人々35・リビングストン博士とアフリカ大陸その3

<歴史に残る人々35・リビングストン博士とアフリカ大陸その3>

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◎スタンリーの登場

 其れまで定期的に送られていた、手紙が止まり、博士の消息を危ぶむ声が日増しに増大する中、1871年2月、ヘンリー・モートン・スタンリー記者が、ニューヨーク・ヘラルド紙の特派員として、リビングストン博士捜索に旅立ちました。
スタンリーは、食料を始めとする資材、物資を充分に準備し、キャラバンを編成して、ザンジバルを出発し、リビングストンの消息を知らせる手掛かりを追って、ほぼ9ヶ月後の11月10日、ウジジの町に到着しました。

 スタンリーは、其処で探検家リビングストンの疲れきった姿を見ました。
彼は、幕舎の前の空き地に建ち、自分を救出する為に、こんなにもはるばる遣って来てくれた事に驚き、救援隊を見つめていました。
二人のこの出会いを、スタンリーは自伝の中で、次の様に書いています。

 “私は、彼の所へ歩いて行き、ヘルメットを取り、お辞儀をしておずおずと言った。
「リビングストン博士でいらっしゃると思いますが?」
如何にも誠実な笑いを浮かべて、彼は帽子を脱ぎ、ただ一言「イエス」と答えた。
是で私の疑念は一切消え去り、顔には隠し様も無い、心からの満足感が広がった。
私は手を差し出し、「お会いできる様にして下さった神様に感謝します」と言った。
彼は暖かく私の手を握り、優しい声で話をした。
私も彼も心から感動している事を感じた。
彼は言った。
「貴方をお迎えできて、本当に有り難く、感謝しています」と。“

◎遣り残した多くの仕事

 スタンリーの救いの手が、早すぎた訳では決してなく、博士の病状は、非常に重く成っていたのでした。
ロンドンに帰れば、歓呼の声で迎えられる事は確実ですが、スタンリーが帰国を勧めても、決して耳を貸そうとしませんでした。
「私は、まだたくさんの仕事をしなければ成らないのです」と博士は語り、4ヶ月後スタンリーは引き上げました。
医薬品や食料を充分に補給して貰った博士は、再びナイル源流探索の旅に出かけました。

 しかし、博士に残された寿命は、もう長く有りませんでした。
数ヶ月の内に、体力は更に低下し、担架で運ばれる事も有りました。
1873年5月1日の朝、従者が博士の小屋に入って行くと、博士はベッドの側に跪き、両手の上に額を載せ、ちょうどお祈りをしている様な姿でしたが、いくら起こしても、二度と目覚める事は有りませんでした。

 村から村へと、この悲報は伝わり、何千人ものアフリカ人が遣って来て、最後のお別れしました。
博士の従者である、スージーとチューマは、博士の故国の人達が遺体を引取り、埋葬したいと思っている事を知っていましたから、二人は、博士の心臓だけを取り、其れが属する場所、アフリカの大地に埋めたのです。
そして、遺体はザンジバルから故国に運ばれ、ウェストミンスター寺院に安置されたのでした。

本編終了・・・
2010/10/14

歴史の?その311:歴史に残る人々34・リビングストン博士とアフリカ大陸その2

<歴史に残る人々34・リビングストン博士とアフリカ大陸その2>

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 その上、博士は、詳細な海図や地理学的な報告を、ロンドンの王立地理学会に送った他、珍しい病気や保健問題に関しても、詳細な記録を作りあげました。
やがて、博士は、アフリカをキリスト教の土地にする為には、アフリカ人自身に行わせる以外の方法は無いと確信する様に成りました。
白人の成すべき事は、利益の大きな奴隷商売に変わる商売を、アフリカに持ち込んでやる事であると考えたのです。

 博士は、医療伝道師としての役割を放棄した訳では在りませんでしたが、1851年のザンベジ川発見は博士の生涯における、大きな転機と成りました。

博士は、1844年に伝道団仲間の女性と結婚し、数人の子供を設けましたが、その内の一人が、まだ幼児のまま熱病に感染して死亡すると、心配の種を根絶する為、家族をケープタウンに連れて行き、其処からイギリスに送り返してしまいます。

◎アフリカ横断

 一人に成り、自由の身に成った博士は、六分儀とクロノメーターの使用方法を学ぶと、航行可能な大きな水路を探索し始めました。
この様な水路が、発見出来れば、ヨーロッパ人の前にアフリカの門戸は開き、キリスト教も商売も活発に成ると考え、其れから数年間に、博士は、大西洋岸のアンゴラからモザンビーク海岸迄行き、アフリカ大陸を横断した最初の白人と成りました。
1856年、イギリスに一時帰国した時は、熱狂的な歓迎を受け、初めての著書「南アフリカ伝道旅行記」は、忽ちの内にベストセラーと成ります。

 間もなく、博士は、アフリカに戻り、今回は、東アフリカ担当の”陛下の領事“として、伝道団と離れ、産業化を目的とした大遠征隊を率いていました。

 しかし、博士は、遠征隊の数々の問題を抱えて、身動きが取れなく成り、荷物を運ぶ人員の大部分が脱落した事や、何トンにも及ぶ食料、装備、更には政府から給付された、大きな川舟が隊の足枷に成ったのです。
最大に問題は、リビングストンに指導力が欠落していたうえ、頑固で仲間のイギリス人との関係は、崩壊寸前迄に成っていました。
遠征隊は、終に1863年、解散してしまいます。

◎ナイルの源流を求めて

 1866年、博士は再び、王立地理学会の依頼でナイルの源流を探索する、探検に出発します。
博士は一人に成れた事を喜び・・・もっとも極少数のアフリカ人従者が居ましたが・・・ましたが、博士自身の体がマラリア、赤痢等の病気に罹り、衰弱していきます。
しかし、ナイルの源流を突き止め様とする、決意は変わらず、タンガニーカ湖周辺の分水嶺を調査中に食料も尽きはて、博士一行は、ウジジの町で休養を取らざるを得なく成りました。

その3へ続く・・・
2010/10/13

歴史の?その310:歴史に残る人々33・リビングストン博士とアフリカ大陸その1

<歴史に残る人々33・リビングストン博士とアフリカ大陸その1>

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 デービット・リビングストン博士は、地球上の未知の世界に次々と新しい光を当てて行きました。
博士程、多くの地域を人類に紹介した人物は、他に居ないと思います。
博士の成功の鍵は、強烈な信仰心と薬箱と、誰に対しても変わらぬ態度でした。

 博士が、アフリカにやって来たのは、全くの偶然に過ぎませんでした。
1813年、スコットランドのブランタイアで生れ、10歳の時、紡績工場に働きに出され、1日12時間も労働して、学費を稼ぎ、グラスゴーの医学校を卒業すると、医療伝道師として中国に渡りました。

 しかし、博士の夢と希望は、アヘン戦争の前に空しく消し飛び、この戦争の結果、中国に於いて、医療伝道活動を続ける事は不可能で、1840年、彼はアフリカ行きを決心します。
この時、27歳でした。

19世紀に於いても、広大なアフリカ大陸のその大部分は、未知に世界で有り、欧米の人々にとって、其れはまさしく「暗黒大陸」で、人が足を踏み込む事が出来ない、疫病のはびこるジャングルに、原住民や未知の猛獣が住んでいる世界だったのです。

 博士が初めて、アフリカに赴いた時、探検に関心は有りませんでした。
キリスト教伝道団を組織して、医療奉仕を行う事がその第一目的でしたが、数年の内に“旅行熱”に取り付かれました。
後に博士が書いている言葉を借りれば、「未開、未探検の国を旅するという単なる喜びが、非常に大きかった」のです。

◎未知の世界の探検

 徒歩で、又はカヌーに乗り、時には水牛の背に跨り、アフリカ大陸南部の各地を巡り、この旅にはいつも薬箱と聖書、そして伝道に使用する、幻燈機を携えていました。

 博士は素晴らしい語学力を持ち、観察力や洞察力も鋭く、アフリカの人々とも、当時の白人としては、極めて親密でした。
この様な人柄でしたから、知性豊で同情的な眼で、アフリカの文化に接する事が出来、其れを外部の世界に、初めて紹介する事が出来たのだと思います。

 彼は、アラブやポルトガル商人が行っていた、おぞましい奴隷売買の実情を世界に知らせ、自分の眼で見た、この悲惨な実情にショックを受け、生々しい実地報告を行い、ヨーロッパの世論を湧き立たせ、奴隷商売廃止の運動を起こさせました。

その2へ続く・・・
2010/10/12

歴史の?その309:歴史に残る人々32・ロッキー山脈を越えて・サカジャウィア

<歴史に残る人々32・ロッキー山脈を越えて・サカジャウィア>

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 1804年5月14日、ミズーリ川に堤防で発射された1発の銃声が、歴史的な探検旅行の始まりを告げました。
この探検旅行こそ、アメリカ合衆国政府によって実行された、東部から陸路太平洋に到達した、最初の試みとなりました。
この旅は、全工程129、000kmで、2年4ヶ月を要しましたが、北西部のオレゴンは、アメリカ領土の一部であるとする、アメリカ政府の立場を強める結果となり、当時オレゴンについては、アメリカ、スペイン、ロシアがその領土権を主張していたからでした。

 1803年1月18日、ジェファーソン大統領は議会に、ミシシッピー川の対岸に遠征隊を送る費用を議会に提出しました。
この法案は、目的地がフランス領有地を含んでいる為、密かに実効に移され、議会は2,500ドルの支出を認めました。
しかし、それから数ヶ月後、アメリカ政府は、フランス政府からミシシッピー川からロッキー山脈に至る広大な地域を買収した為、ジェファーソン大統領が、極秘に派遣した調査隊は、国家を挙げての壮挙に変わり、議会は追加支出を承認する結果と成りました。

 ジェファーソン大統領は、既に調査隊の隊長に選定されていた、メリーウェザー・ルイスに隊員の増強を指示し、友人のアメリカ陸軍中尉、ウィリアム・クラークを副官に登用しました。
クラーク中尉は、独立運動に活躍した、辺境指揮官、ジョージ・ロジャーズ・クラークの末弟にあたります。

 この二名程、明確な指令を受けた探検隊は、前例が無いと思われます。
大統領は、彼らに、ミズーリ川とコロンビア川を探検して、「商業目的の為の、最も直接的且つ、実用的な水上交通の便」を突き止める様に命じました。
大まかな地勢や、土地の産物、経緯を記録して、地図の製作が可能な様にすると共に、更には、ネイティブ・アメリカンの研究して、政府に報告する事が、彼らに課せられた使命でした。

 探検隊は、長さ17mの竜骨船と2隻の丸木船に分乗し、セントルイス近郊から出発しました。
この探検隊は、29名から成り、隊員の大部分は、経験豊富な辺境開拓者であると同時に、軍籍を有していました。
この他に、軍人7名が、ネイティブ・アメリカンのマンダン族の町に赴き、荷物の移動援助と現地人でのトラブルに対応する事に成っていました。

 この補助部隊は、ミズーリ川で孤軍奮闘の働きを見せ、順風に助けられる事が少なく、船を漕ぎ、時には船を曳き、テトン・スー族に脅かされ時は、強力な後ろ盾に成りました。

 10月27日、探検隊はマンダン族の町に到着(現:ノースダコタ州ビスマーク付近)し、此処で1804年の冬を過ごし、探検隊がこの町を出発した時には、通訳のツーサン・シャルノボーとその妻サカジャウィア、5年前にミナレタ族に捕らえられた、ショショーニ族の少女も含まれ、総勢32人でした。

 ミズーリ川の滝線地帯では、急流を避けて物資を運ぶのに、1ヶ月の期間を要し、この後ミズーリ川は、3本に分かれ、探検隊は一番西の流れを上りました。
この流れは後に「ジェファーソン」と名付けられ、レムハイ峠で大陸分水嶺を越えました。
サカジャウィアは、ガイドとして有能で、兄弟であるショショーニ族に酋長は、探検隊に馬を提供してくれました。
幸運の後には、苦難の日々が続き、吹雪に襲われ、毎日続く、干し鮭、根菜のスープ、犬の肉のシチューにうんざりしながらも、終には、クリアウォーター川に到達し、此処でカヌーを作り、スネーク川とコロンビア川を下り、1805年11月15日、探検隊は太平洋を望みました。

 1806年3月、探検隊は帰途に付き、大陸分水嶺に近づいた時、ルイスはクラークと別れて、再び太平洋への河川を探索し、クラークは、イエローストーン川を調査しました。
両探検隊は、イエローストーン川とミズーリ川の合流点で再会し、1806年9月23日、セントルイスに到着、今回の探検による犠牲者は、病死した1名のみでした。

 ルイスとクラークは、貴重な学術的資料を多数持ち帰り、又毛皮商人や猟師達に大きな刺激を与え、彼らはアメリカの最西端部を調査し、入植者をオレゴンやカリフォルニアへ導く結果と成りました。

続く・・・
2010/10/09

歴史の?その308:歴史に残る人々31・バイエルンの狂王・ルードヴィッヒ二世その2

<歴史に残る人々31・バイエルンの狂王・ルードヴィッヒ二世その2>

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◎逃  避

 其れまで、王は特に変わった振舞いを見せた訳では有りませんが、只、宮殿の衛兵が疲れているに違いないと、ソファーを与えると言った事が有るそうです。(?)
王は国事に関心を持とうと努め、女性に魅力を感じなかったにも関わらず、結婚はしませんでしたが、従妹のゾフィーと婚約さえ行いました。
王が、彼の名前を歴史に残した築城に、情熱を向け始めたのは、この頃でした。
母のマリー王妃は、彼が幼い頃、積み木遊びに夢中であった事を伝えています。

 1868年、王はワーグナーに手紙を送ります。
「ポラート瀑布の近くに在るフォルダーホーエンシュワンガウの古城跡を、私は古代ゲルマン騎士の城と全く同様に改修するつもりでいる。
そこに住むと思うと、いまから血が騒ぐ事を告白しなければ成らない。
其処で“タンホイザー”や“ローエングリン”の精神に生きるのだ」と彼は述べています。
改修建設の工事が、始められました。
是が後の“ノイシュヴァンシュタイン城”、目も眩む急斜面の中腹に建つ、おとぎの城でした。
彼は他にも、バロック式の華麗なリンダーホーフ城と、ベルサイユ宮殿を手本とした、ヘレンキュームゼー城を建てます。
そして、王は遠く国政から離れて、自ら作った城の夢の世界に閉じこもりました。

 王の空想の旅も、馬術訓練所の周辺では終わらなく為り、冬の夜毎、黄金のロココ風馬橇に乗って、危険な雪山を駆けました。
付き添う御者や従者達は、ルイ14世様式の衣装を着けさせられていました。

 政治を忘れ、浪費を続ける彼の生活が、何時までも許されるはずも無く、1886年6月、叔父のルイトポルト公は、王に禁治産者の宣告を下し、摂政として、彼の跡を継ぎました。

 ルードヴィッヒ二世の生涯は、悲劇的で謎めいた終局を迎えます。
6月12日、ミュンヘン郊外のシュロッス・ベルグに幽閉され、翌日彼は、お抱え医師ベルンハルト・フォン・グッテン博士と散歩に出掛けましたが、何時まで経っても二人が戻って来ない為、捜索隊が編成され、やがて岸から20m程の浅瀬に二人の遺体が浮かんでいる処を発見されました。
暗殺、自殺、事故死と様々な憶測、推測が成されましたが、ルードヴィッヒ二世の数奇な生涯が如何にして悲劇の幕を閉じたのか、その謎を解明した者はまだ居ません。

本編終了・・・
2010/10/08

歴史の?その307:歴史に残る人々30・バイエルンの狂王・ルードヴィッヒ二世その1

<歴史に残る人々30・バイエルンの狂王・ルードヴィッヒ二世その1>

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 王の馬術訓練は、午後8時から午前3時迄と決まっていました。
王立馬術訓練所や王宮の周囲で行われるこの訓練を、王は「ミュンヘン・インスブルック間の速駆け」と呼称し、付き従う従者も、彼らなりにこの深夜の速駆けを楽しんでいました。
時折、馬を変えるだけで良いし、途中で味わう食事は、館の中で取る其れよりも楽しく、それに速駆け伴走の褒美は、金時計でした。

 「バイエルンの狂王」と呼ばれたルードヴィッヒ二世の楽しみは、馬術訓練所周囲の距離を計りながら駆け、空想の旅を楽しむ事でした。
只、ルードヴィッヒ二世は昼夜反対の生活を行っていたので、「旅」はどうしても、不自然な時間に行わざるを得ませんでした。

 この様な王にも、1864年3月10日、父王マクシミリアン二世の跡を継いだ時、前途は明るい希望に満ち溢れていたのです。
確かに王家の歴史には、暗い過去も有りました。
祖父リードヴィッヒ一世は、60歳の時、スペイン人の踊り子ローラ・モンテス、実はアイルランド女性エリザ・ギルバートと恋に落ち、国の財政を傾け、叔母のアレクサンドラ公女は、才能豊な女性でしたが、神経を病み、健康に異常な関心を持っていました。

 18歳で即位した、美男の新王は、バイエルン国民の心を捕らえましたが、しかし彼らは、新王が15歳の時、ワーグナーの歌劇「ローエングリン」を聞いて以来、ワーグナーの虜になっている事迄は知りませんでした。

 即位すると直ぐに、王は廷臣を遣って、ワーグナーを探します。
ワーグナーはその頃、巨額の負債を抱えて身を隠していましたが、王は彼の負債の全てを支払い、一生苦労無く作曲活動に打ち込める様、経済的な保証を申し出ます。
こうして、王と作曲家の厚い友情が、開花し、王は作曲家に夢中になり、作曲家の為に様々な芸術的な催しを企て、おぼれ込んで行きます。

 ワーグナーの散財は桁外れで、彼の天才がどれ程金を食うのか、と国民は囁き、或る時、ワーグナーが愛人を銀行に遣って、王の口座から現金を引き出そうとした事が有りましたが、その額は、辻馬車2台を雇わなくてはならない程で、ワーグナーに対するバイエルン国民の反感は、いっそう強いものに成って行きました。

 しかも作曲家は政治にも介入した為、王は友情と公的義務の二者選択を迫られる破目に陥り、ルードヴィッヒ二世は、しぶしぶながら王としての責任を果たす道を選び、ワーグナーにミュンヘン退去を命じますが、王のワーグナー傾倒は、作曲家がこの世を去る迄続きました。

その2へ続く・・・
2010/10/07

歴史の?その306:歴史に残る人々29・絹の国の貴婦人

<歴史に残る人々29・絹の国の貴婦人>

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 彼女は美人では無く、50歳前後で、太っていましたが、其れは多分美食の為だったのでしょう。
背中は曲がりぎみで、杖を使い、足が不住でした。

 しかし、大公夫人が紀元前150年頃、死亡した時、その埋葬は大変なものだったのです。
その為、1971年に馬王堆の彼女の墓が発掘された時には、あのツタンカーメンの墓が発見、発掘された時と同様な興奮を引き起こしたのでした。

 大公夫人、中華人民共和国中部に位置する、湖南省の長沙王に仕える丞相(首相)夫人でした。
2100年後に行われた検死解剖の結果、彼女には、動脈硬化の傾向が在り、激しい腹痛がもとで起きた、心不全の為に死亡した事が、明らかになりました。
激しい腹痛を招いたのは、無理も無く、彼女の胃からスイカの種が、138個も見つかりました(!)。

 ロマンティックな最後ではありませんでしたが、重要人物の妻の死に相応しく、彼女の葬礼は、ファラオの葬礼に匹敵する規模であったと考えられます。

 墳墓は、病院建設の基礎工事中に偶然発見されました。
三重の木槨が、白陶土と木炭の厚い層に周囲を包まれて、木槨の内部に外、中、内と三重の木棺が在り、遺骸はこの内部に収められ、2100年の歳月を越えて、驚くべき事に、つい昨日死んだ人物の其れの様に完全に保存されていました。

 遺骸は外側を、綿入れの絹の合わせで覆われ、其れを取り除くと、20枚の絹の袍に包まれ、9本の絹の帯で縛られていました。
外槨と中槨の間には、夥しい数の副葬品が置かれ、竹行李に納められた冬物、夏物の衣類や絹の鞋、手袋、12音律の竹管楽器、木製の琴、宇と呼ばれる古楽器、壺、杯、漆塗りの道具類、化粧用具等は、312枚の竹簡の目録に記載されていました。

 しかし、何よりも研究者の興味を引いたのは、絹製品でした。
夫人の生きていたのは、中国が絹の国としての名声が、当時知られていた世界の隅々迄広まった時代でした。
其れは、長い駱駝の隊商がヒンズークシ山脈を越え、サマルカンドを通りローマ帝国の市場へ、有名なシルクロードを進んだ時代でした。

 湖南省の馬王堆の墳墓から出土した絹製品は、並ぶ物の無い中国の絹の内でも、最高の絹と言える物で、50巻以上も竹行李の中に納められ、乾燥した空気によって、素晴らしい保存状態を保っていたのでした。
こうした遺品の中でも、最も素晴らしい物の一つは、葬列の先頭に立った絹の幟で、其処には天上界と地上界の情景が描かれ、中央には、大公夫人自身の姿が描かれていたのでした。

 古い時代には、来世迄主人に従って行く様に、従者が共に埋葬される習慣が存在しましたが、この墳墓には、殉死者は存在しませんでした。
代りに、彼女は、侍女や25弦の琴や竹笛を持った楽師等の162体の木製人形をお供に、黄泉の国に旅立っていきました。

 湖南省長沙市の東郊外、馬王堆で発見された漢時代の墓所は、この1号墓に引き続いて2号墓、3号墓が発掘され、貴重な書画を含む文書が出土しました。
現在、中国は積極的に自国の古文化の調査を、勢力的に推進しており、広大な国土は、まだまだ未調査の箇所も多く此れからも、如何なる発掘がなされるか、興味は尽きません。

続く・・・
2010/10/06

歴史の?その305:歴史に残る人々28・皇女と則天武后その2

<歴史に残る人々28・皇女と則天武后その2>

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 皇女とその物語は、人々の記憶から殆んど消えかけていましたが、1960年、中国当局は、西安近郊の唐代墳墓の一つを発掘調査する決定を下しましたが、当時、夫々の陵墓の埋葬者に関して、唐王室の誰かと云う以外、何も知られていなかったのです。
全くの偶然から、一つの陵墓が選定され、この選択によって長く忘れられていた皇女が、再度歴史の舞台に登場する事に成りました。

 考古学者が、何処に入室坑口が在るのか調査の為、墳墓の周囲で最初の土質調査を実施した時、別の竪穴が、墳墓の基部の直ぐ脇に、垂直に貫通している事が確認されました。
明らかに、盗掘者が墓室に侵入する為に掘った穴でした。

 盗掘者の1人は、未だその場所に居ました。
考古学者達は、15m下の地下通路を埋めている土砂の上に、彼の骨が横たわっているのを見つけたのです。
頭蓋骨は、近くに転がっていた鉄斧で、木端微塵に叩き潰され、分け前の金、玉、銀等の宝物が骨の回りに散乱していました。

 墓所は、隅々迄荒され、盗賊の侵入は、埋葬後20年以内の事だったと推定されます。
巨大な石棺は金梃で傷つけられ、その重い天蓋は割れて、中身は全て盗まれていました。
残っていたのは、死者の骨だけでしたが、盗掘者は、墓室への通路に並んでいる、碧がんには手をつけていませんでした。
壁がんには、唐代の陶磁器が多量に並んでいるのですが、この品々は盗掘者にとって、無価値の物でしたが、現在では計り知れない程の価値が在る物なのです。
又、唐の宮廷生活を描いた、目を瞠る程の壁画もそのまま発見されました。
当時、中国の研究者の間では、この墳墓に埋葬された人物が如何なる身分の者なのか、確認されていませんでしたが、やがて、通路に置かれた大きな石版が出土し、この石版には、永泰公主の碑銘が彫られていたのでした。

 西暦705年に、則天武后が退位させられた後、彼女の実子で、正統の皇帝であり、永泰公主の父親でもある中宗が、王位を継承しました。
其の後間もなく、則天武后が崩御し、その実子である中宗は、未だ自分の子供達と義理の息子の非業の死を嘆いていたので、その遺骸を最初に埋葬された、貧しい墓から掘り出し、唐皇族の陵(みささぎ)に皇族として埋葬する様に命じたのでした。

 更に父親である中宗は、史書を書き改め様と試みました。
唐の史書は全て、永泰公主の名前とその不当な死を書き残していましたから、彼女の父親によって墳墓に置かれた碑文には、ただ偉大な唐王朝の故永泰公主は、出産の為に死亡したとだけ記録されました。
恐らく、忌まわしい過去の記憶を永遠に人々の記憶から、抹消してしまおうと考えたたのでしょう。

本編終了・・・
2010/10/05

歴史の?その304:歴史に残る人々27・皇女と則天武后その1

<歴史に残る人々27・皇女と則天武后その1>

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 中華人民共和国の古都、西安から北西に80km程はなれた場所に、17基の墳丘群が、周囲の平野から目立っています。
此れは、唐代の広大な王墓で、1300年程の昔、此処に1人の若い皇女が埋葬されました。
その名を、永遠の平和の意味である永泰公主と云い、中国歴代王朝の中でも、黄金時代といわれる唐代(西暦618年~907年)に生きた女性です。

 彼女の生と死の物語は、1000年以上を隔てた現在さえ、痛ましいものでした。

 西暦700年、16歳の永泰公主は、唐の宮廷の高い身分の貴族で、風采も堂々たる武官と結婚しました。
結婚後直ぐに懐妊にし、華やかな世界で、彼女の将来を約束されているかの様にみえました。

 しかし、其処は又、永泰公主の祖母、則天武后に支配された世界でもあり、彼女は、前皇后を殺害し、ライバルと成りそうな者達への警告として、その手足を切断して酒に漬ける様な残虐な行為を示して、唐王朝の最高権力者に台頭した人物でした。
彼女が、全宮廷に不信を抱き、あらゆる人々の間に、陰謀の陰を見たとしても、故の無い事ではなかったでしょう。

 西暦701年の或る日の事、宮中に広く放たれた密偵の1人は、若い永泰公主が、夫や兄弟と一緒に、宮廷生活のとある一面を、笑っている事を聞いてしまいました。
密偵は、直ちにその事実を則天武后に知らせ、彼女は、その事実の中に陰謀の芽を見とり、直ちに若い3人に死の命令が下ったのは言うまでもありません。

 則天武后のこの命令は、厳しい仕来りに裏付けされたもので、若い3人は共に、自分達の成すべき事を知っており、西暦701年10月8日、自害したと云われています。

その2へ続く・・・
2010/10/04

歴史の?その303:歴史に残る人々26・ドレフュス大尉の免罪

<歴史に残る人々26・ドレフュス大尉の免罪>

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 フランス陸軍内部で、スパイ事件が発生し、最も有力な容疑者は、アルフレッド・ドレフュス大尉と目されました。
大尉は勤勉実直な人物で、有能で在るが故に同僚の嫉みを買っていました。
当時は、反ユダヤ感情の盛んな頃で、彼がユダヤ人(系)で富豪の出身である事も嫉妬に油を注ぐ結果と成りました。

 事件の発端は1894年、パリ駐在のドイツ軍武官マックス・フォン・シュワルツコッペン大佐宛の一通の手紙が、フランス軍参謀本部の手に入った時でした。
その手紙には、数多くの軍事機密事項が列記され、代償を要求していました。
参謀本部は、ドイツに対する内通者が存在する事を知ると、その生贄に成るべき人物を必要としたのです。
取得可能な情報から判断して、犯人は参謀本部に勤務する以前に、幾つかの部隊で兵役を勤めた、下級砲術将校であると判断され、この条件に該当する人物が、ドレフュス大尉で在り、手紙の筆跡も彼のものに似ていました。

 しかし、軍法会議での訴追には、証拠が不十分で、しかもドレフュス大尉の軍歴は第1級であり、専門家は証拠の手紙を彼の筆跡とは、断定しませんでした。
法廷がドレフュス大尉の釈放を決定しようとした時、予備審問を担当した、参謀本部の情報将校ユベール・ジョゼフ・アンリ少佐が介入し、密封された手紙が、法廷に提出されました。

 封書には、イタリア大使館付武官パニッツァルディが、フォン・シュワルツコッペン宛に書かれたもので、其処には、フランスの売国奴の名前が「あの汚いイヌのD」と記されていたのです。
この瞬間、ドレフュスは有罪となり、悪魔島へ終身流刑を宣告されました。

ドレフュス裁判から僅か2年後、フランス軍の機密が漏れ続けている事が発覚し、参謀本部は再び調査を開始します。
そして、事件調査を担当したピカール中佐は、ドレフュス事件にも重大な疑問を抱き始めます。
しかし、軍首脳部は、1人のユダヤ人(系)よりも軍の名誉を重んじ、ピカール中佐はチュニジアに配置転換を受け、事件は闇に消えるかと思われました。

 しかし、事実を白日の下に曝したのは、アンリ少佐自身で、ドレフュスが有罪の決め手となった、問題の手紙を偽造したのは少佐自身であり、ピカール中佐の調査を知った彼は、ドレフュス事件の記録を抹消し、証拠の隠滅を図りますが、その時既にピカール少佐によってドレフュス事件の記録は、写真撮影され、友人の弁護士ルブロウに預けられていたのです。

 アンリは逮捕され、罪を告白し自殺します。
その間に、本物のスパイ、フェルディナン・ワルサン・エステラジー陸軍少佐は、ロンドンに亡命します。
ドレフュス大尉逮捕後、4年目の事でした。
ドレフュス大尉が自分の名誉を回復する為には、更に8年の歳月を要し、1906年、彼は軍役に復帰し、レジョン・ドヌール勲章を授与され、第一次世界大戦で現役に復帰し、1935年パリで死去します。
76歳でした。

続く・・・
2010/10/02

歴史の?その302:歴史に残る人々25・アンクル・サム

<歴史に残る人々25・アンクル・サム>

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 食肉缶詰工場を経営する、ウィルソン兄弟は、日頃から自分たちの工場は、1日に牛150頭を処理し、缶詰にする能力が有るので、ニューヨーク州一だと自慢していました。
その様な時、アメリカとイギリスが1812年に戦争に突入した時、自身満々の兄弟は軍隊に樽で、牛肉と豚肉を供給する契約を取り付けました。
兄のサミュエル・ウィルソンは得意満面で、その陽気な性格から、可也の人気者で、アンクル・サムと呼ばれていたのです。

 或る日、彼の工場を訪問した人物が、樽の総てにE.A.-U.S(政府側の契約者エルバート・アンダーソン、アメリカ合衆国の頭文字)のスタンプが押してある事に気づき、工員の一人にこの文字が何を意味するか尋ねました。
「知らないよ」と工員は答えましたが、訪問者はすかさず、「エルバート・アンダーソンとアンクル・サムの事かね?」と言ったと云います。

 之は、後に長く語り継がれるジョークと為り、訪問者や工員が、この話を周囲に広めて行きました。
1830年代に漫画家が、題材として選び始め、サムは1854年にこの世を去りましたが、ついに議会が彼の名前を、国民の心に永遠に残すように取り計らい、1861年、サミュエル・ウィルソンをアメリカ合衆国のシンボルと公式に認める決議が採択されました。

 因みに、イギリスのまるまると太った陽気なマスコット、ジョン・ブルには、アンクル・サムの様なモデルになった実在の人物は存在しません。
1712年に「法律は底なしの穴」の題名で出版されたジョン・アーバスノットの不器用な政治風刺文学で、ジョン・ブルは誕生したのでした。

 この本は後に「ジョン・ブル」の歴史と呼ばれる様に成りましたが、その中でジョン・ブルがイギリス人を、リュイス・バブーンがフランス人を、ニコラス・フラッグがオランダ人を代表していました。
しかし、ジョン・ブルだけが、歴史家、評論家、漫画家の心を捕え、彼らによって不朽の存在となったのでした。

続く・・・
2010/10/01

歴史の?その301:歴史に残る人々24・イスカリオテのユダ

<歴史に残る人々24・イスカリオテのユダ>

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 裏切り者の代名詞ともいえる、歴史上もっとも有名な人物で、生年や出身地等は不明です。
ユダヤ教から派生した、イエスの教えに共感し、イエスの弟子に成りました。

 全ての人間は平等であるとの思想を説いたイエスは、時の権力者・他宗教者にとって排除すべき存在と考えられる様に成りました。
『マタイによる福音書』では、ユダは金目当てで祭司長達にイエスの引き渡しを持ちかけ、銀貨三十枚を得る約束をとりつけています。
『ヨハネによる福音書』では、高価な香油をイエスの足に塗ったマリアを非難しています。
その文章に続けて、ユダが使徒達の会計を任されながら、不正を行っていたと記されているのです。

 複数の福音書の最後の晩餐の場面ではイエスに裏切りを予告され、『マルコによる福音書』では「生まれなかった方が、その者の為に良かった。」とまでイエスに言わせています。
ユダは祭司長達と群集をイエスの処に案内し、接吻する事でイエスを示して引き渡します。
その後、マタイ福音書では、ユダは自らの行いを悔いて、銀貨を神殿に投げ込み、自殺した事に成っているのですが、『使徒行伝』では裏切りでえた金で買った土地に、真っ逆様に落ちて内臓がすべて飛び出して死んだと記述されています。

 しかし、同じ福音書でユダはサタンに心を操られ、イエスを売ったと書かれているのですが、一般的にはサタンの下りは無視され、単に利己的な裏切り者として、これから先、何千年も語り継がれるのでしょう?

続く・・・