2010/11/30

歴史の?その348:発見の歴史31・アンデスの白い人々②

<発見の歴史31・アンデスの白い人々②>

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 是等の手掛かりと伝説、考古学的検証から研究者によって、ティアワナコの歴史概略を描き出しています。
しかし、ティアワナコをその頂点に押し上げた、白い皮膚を持った外国人の素性も彼らが何処に消えたのか、知る事は出来ませんでした。

 フェニキア人は、キリスト教の時代が始まる遥か以前から、大西洋を航海しており、紀元前500年には、カナリア諸島に植民地も持っていました。
彼らは遠く、現在のブラジル沿岸に到達していた可能性が高く、その子孫が大陸を横断して、アンデス山脈に達した可能性も否定できないのです。
ギリシアの歴史家テオポンプスは、紀元前380年にジブラルタルの西に在る、広大な島の事を記録していますが、フェニキア人の航海者が、彼に南アメリカの事を語ったのでしょうか?

 アイルランド伝説によれば、聖プレンダンは、西暦6世紀に大西洋を渡ったと云います。
この聖人が、南アメリカを訪れたと断言する研究者は、存在しませんが、アイルランドの修道士達が、大胆な航海者であった事は事実なのです。
彼らは、若木と獣皮で作られた、小船(コラクル)に乗り、少なくともアイスランドやグリーンランド迄航海しました。
あの司教と呼ばれる像は、祈祷書を手にした敬虔な神父であり、又インディオが想像した様に、悲しみの人、コンティキなのでしょうか?

 現実的には、南アメリカの西岸は、ヨーロッパより、アジアの方からが接近しやすく、中国の史書には西暦500年に、仏教の僧侶が太平洋を航海して、遠く離れた土地に赴いた事が記録されており、西暦1000年頃には、日本の漁船が嵐の為に風と潮流に流され、エクアドルの海岸に上陸した痕跡が有ると云われ(?)、当時日本よりも遥かに航海術に秀でていた中国が、その600年前にこの大航海を成し遂げたとしても、不思議では有りません。

 ノルウェーのトール・ヘイエルダールは、ティアワナコの白い人々が何処へ行ったかではなく、最初、何処から来たのかを説明しました。
西暦1480年頃、インカの皇帝とその部下が、アンデスに繁茂する非常に軽い木、バルサで作ったいかだの船団で、太平洋を越える長い航海を行った伝承が有り、その様ないかだは、海岸地方のインディオ達が遥か昔から使用していた物でした。
ヘイエルダールは、バルサのいかだを建造してコンティキ号と名付け、ペルーのカイヤオから西へ航海し、タヒチに近いラロイア島に到達しました。
この様にして、彼はティアワナコ人が如何にして、ポリネシアに逃れたかを証明して見せ、ティアワナコ人が実際にこの様な航海をした証拠として、彼は太平洋の多くの島々の石像が、ティアワナコのものと、信じられない程良く似ている事を指摘しています。

 更に1970年には、ヘイエルダールは、古代エジプト人が使用したパピルスの船を造り、ラー2世号と名付け北アフリカから大西洋を渡り、西インド諸島のバルバドスに達しました。
この大胆な航海で、彼は古代の人々が如何にして、東半球から南アメリカへ到達する事ができたかを証明したのでした。
彼らは、最初グアテマラやメキシコに居住し、時の経過と共に、南アメリカを殖民していったと考えられます。
現在、中央アメリカから南アメリカに文明が伝承した事は、学術上も認められ、ヘイエルダールが正しければ、白い人々、つまりは大海を航海する術を持った旧世界に人々が、ティアワナコを造営した事になるのです。

終わり・・・
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2010/11/29

歴史の?その347:発見の歴史30・アンデスの白い人々①

<発見の歴史30・アンデスの白い人々①>

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 スペインの征服者が、南アメリカの西海岸を征服するより、遥かな昔、インカ帝国の建国よりも前、ティアワナコは既に廃墟と成っていました。
其処で、栄華を極めた人々は既に去り、崩れた記念碑だけが残り、石の城郭を空高く築き上げた、偉大な建設者達の力量を物語っていました。

 ティアワナコは、海抜4000m、チチカカ湖の南岸、ボリビア・ペルー国境近くに位置し、この町は、紀元前100年から西暦1000年頃にかけて繁栄したものの、住民は文字による記録を一切残しませんでした。

 現在、私達が彼らについて、知っている事は、殆んど全て400年前、スペイン人によって書き残された伝説の基づいているのです。

 ティアワナコ人は家畜も、車輪も、コロさえも知らず、道具は石で出来た物しか存在しませんでした。
其れでも彼らは、40kmも離れた採石場から巨大な石塊を切り出し、起伏の激しい土地を越え、湖を渡って都迄運んだのでした。
此処で石隗は0.5mmの精度で研磨され、巨大建造物は造営されたのです。

 其処には、今尚、幾つかの大建造物の廃墟が残っています。
最大の物がアカパナで、自然の丘を人工的に削り、石で覆い、縦横それぞれ200m、高さ15mの大きさに仕上げられており、その近くには、130m四方のカラササヤが在り、この壁には推定重量150tの巨石が使用されています。

 カラササヤの門の向こうに、ティアワナコ文明の源を知る手掛かりとなる一つの彫刻が存在し、インカが後にビラコチャと呼んだ、頬に涙を流す創造神コンティキを刻んだものです。
インディオの伝説に因れば、コンティキは人間だったと云い、彼とその部下は、白い皮膚と青い眼をしていて、西暦500年頃ティアワナコにやって来たのでした。
恐らく、彼らは進んだ文明を持った平和な人々だったと思われ、インディオ達に建築と農業を教え、石造を建てたのでした。

 其の後500年位後、海岸地方のインディオがティアワナコに侵入して来ましたが、その白い人々は殆どが虐殺されましたが、指導者と若干の人々は海岸に逃れ、船に乗って太平洋の彼方に去って行きました。

 もう一つの手掛かりは、カラササヤの近郊に存在する、実物の2倍程の大きさの人物像です。
この像は、現在司教像と呼ばれており、本の様に見える物を持っていますが、1500年代にスペイン人に征服される迄、本という物は知られていませんでした。

その②へ続く・・・

2010/11/27

歴史の?その346:発見の歴史29・ゼロを発明した民族(中米編)

<発見の歴史29・ゼロを発明した民族(中米編)>

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 彼らは農耕民族で、最後迄、車輪の概念を持ちませんでしたが、其れでも古代アメリカの他のどの文明も達し得なかった芸術的、知的文明に到達しました。
彼らは天体の運動を計算し、驚くべき正確さで、遠い未来の天体活動、月食、日食を予想する事ができました。
しかし、一方では、建築工学における、単純なアーチを作る事が出来ず、その文字は、未発達の絵文字でしたが、樹皮を紙の様に加工して、是を折りたたみ、長く繋いで作った書物も存在しています。
又、彼らの数学体系は、古代エジプトでさえ、足元に及ばず、その数の概念は億の単位迄、把握する事が可能で、ヨーロッパ人より1000年も早く0(ゼロ)の概念を持っていました。
中央アメリカのマヤ族は、華麗で、しかも荒削りな文明、急激な没落の為に歴史上最も謎の多い文化を築き上げたと云われています。

◎マヤ文明の謎

 農民や漁民の単純な村落共同体が、如何にして紀元前1000年前後に、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラ、ユカタン半島、メキシコの南部に迄広がる、強力な文化に発展したのかは、現在でも明らかではありません。
しかし、現実にマヤの人々は現実に是等を成し遂げて行きました。

 緩やかにマヤの人々は、階級制度を発達させ、世襲貴族、神官等の支配層、労働する自由な平民層、戦争捕虜である奴隷の区別が存在し、特に他部族の高位の者が戦争捕虜になると、彼らはマヤの神々の生贄とされました。

 マヤの数字は、3種類の記号だけを使用し、点・は1、棒Iは5、貝の形は0を現し、この組合せによって億単位の計算すら可能でした。
如何なる理由が存在したのか、現在では解明も不可能ですが、マヤの人々は紀元前3114年を天文学的事象の計算と時間軸の出発点と定めました。
天文学の水準は極めて高く、当時他の如何なる文明よりも遥かに正確な暦を作り上げ、1年365日は、20日づつ18ヵ月に分けられ、それにセバと呼ばれる5日が加えられました。

 西暦300年頃から900年がマヤ文明の黄金期で、壮麗な都市が築かれますが、建物は驚く程に美しく、最上階に神殿を載せたピラミッドは、密林の木々を背景に空に浮かび上がっていました。

 興味深い点と云えば是等の都市は、支配階層が住む儀式の場で、農民は郊外の農地に住み、商売や宗教的祭礼、球技の試合等の時だけ都市の広場に集まりました。

 しかし、突如10世紀初頭、是等の都市は放置、廃棄され、マヤ文明は崩壊してしまいます。
この終焉を説明する為に、数多くの研究文献が出版されました。
研究者に因れば、土壌の消耗と生産性の低下の為、彼らの農耕制度が崩壊し、都市の急激な人口減少を招いた、或は、地震、疫病、戦争、メキシコ高地人種の侵入を説き、又、被支配階級が支配階級に対して、一種の革命を起こした可能性も提唱されています。

 考古学上、最新の研究に因れば、西暦900年頃、神官階級が支配権を喪失し、社会的、経済的平等化が発生したのではないかと言われています。
祭儀の場所は廃棄され、続く数世紀の間にその繁栄を極めた、マヤ文明は衰退した様に思われます。

続く・・・
2010/11/26

歴史の?その345:発見の歴史28・失われた植民地の子孫達

<発見の歴史28・失われた植民地の子孫達>

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 18世紀初頭、アメリカ、ノースカロライナのランバー川を遡っていた移民達は、灰色の瞳をしたネイティブ・アメリカンと遭遇しました。
しかも、彼らの話した言葉は、訛っていたとは言え、紛れも無い英語でした。

 ネイティブ・アメリカン達は、彼らの祖先は「本で話す」事ができたと語りましたが、開拓民はこの言葉を、読書きが出来たという意味に解釈しました。
彼らの住んでいた、ローブソン郡には、この神秘的な部族の子孫は現在でも生きています。
ランビー・インディアンと呼ばれ、肌の色は褐色から白色迄と幅が広く、金髪碧眼も珍しく有りません。

 彼らは、ウォルター・ローリー卿の「失われた植民地」ロアノーク島から1590年に一斉に姿を消したイングランド移民の子孫ではないかと、現在では考えられています。
ロアノーク島は、ランバー川から320km程はなれた場所に存在します。

 エリザベス一世が勅許をローリーに与えてから、島の植民地建設は2回に分けて行われ、第一回の試みは、1586年ですが、繰り返し行われる原住民の攻撃と物資欠乏の為放棄され、次いで1587年、ジョン・ホワイトの率いる100人以上の男女がこの地に渡りましたが、その結果は前回と同様でした。
ホワイトは、救援と補給を求める為、15人を連れてイングランドに出発しました。

◎人影の消えた砦

 其の後勃発した、イギリス・スペイン戦争の為、ホワイトは1590年迄島に戻る事ができず、ロアノークに砦が築かれていたものの、ホワイトが戻ってみると、内部は略奪され、人影も消えていました。
手掛かりは只一つ“Croatoan”なる単語のみでした。

 この言葉の意味については、今日なお研究者の間で論議が絶えず、移住地を襲撃した原住民の部族名と推測する研究者も存在しましたが、クロアトアンとは、ロアノーク島の南に浮かぶ島の名前で、其処には、温和で友好的なハテラス族が定住している事を入植者は知っており、彼らがこの島に辿り着いてハテラス族と雑婚したと考えれば、その子孫がランビー・インディアンである可能性が強いと思われます。

 ホワイトは、入植者達が自発的にクロアトアン島に自発的に移住したと考え、彼らと再会を果たせぬままイングランドに帰国しました。
彼の推測を裏付ける確かな証拠が、今日発見されており、1650年頃、ハテラス族は大挙して、本土へ移住し、ランバー渓谷に定住しました。
ロアノークの「失われた入植者」が使用していた95種類の姓の内、サンプソン、クーパー等、41種類がランビー族に確認されています。

続く・・・
2010/11/25

歴史の?その344:発見の歴史27・北への航海

<発見の歴史27・北への航海>

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 紀元前300年頃、北への航海から帰還した、ギリシアの探検家ピュティアスは、イギリス(ブリテン島)についてこの様に説明しました。
「この島は、人口が多く、気候は冷涼であり、又その国民は稀に見るほど、親切で礼儀正しい」
「彼らの食事は質素で、金持ちの贅沢とは全く異質であり、多くの国王や実力者が居るが、大抵はお互いに平和を保っている」

 しかし、彼の言葉を信用した者は、殆んど居ませんでした。
ピュティアスの著書「大洋」は、今日では全く現存していませんが、彼の同時代の人々は、この本の存在は知っていても、大部分の人々は“でっち上げの傑作”と思っていました。
何故なら、何世紀もの間、著名な研究者が彼の書物を紹介する時は、何時もからかい半分であったからなのです。

 紀元前1世紀のギリシアの歴史家、ディオドロスと、地理学者のストラボンが、ピュティアスの旅について、紹介しているので、どの様な旅で有ったのか、再現する事が出来ます。
ピュティアスは、ギリシア人としては初めてイギリスを訪れ、イギリスとイギリス人について報告しました。
又、恐らく、アイスランドの海岸が望める付近を航海した、最初のギリシア人であった公算が高い人物です。

 ピュティアスは、「イギリス人は素朴で、現代人の様に欲望にとらわれない。彼らはワインを飲まず、大麦から作った発酵酒を好む。彼らはこの酒をクルミと呼んでいる」と報告しています。

 彼の時代、人々の知識は、地中海の暖かい海に限られていましたから、北部大西洋に関する知識は皆無でした。
氷の塊が大洋に浮かんでいる光景を彼が説明しても、どうして信用する事が出来るのでしょうか?
増して、更に北上すれば、海全体が凍っている事や、太陽が水平線に沈まない事に関する話は、全く信じて貰えなかったのでした。

 ピュティアスの航海は、12000kmを超え、イギリスを一周し、色々な場所に上陸して、現地の人々が、穀物を収穫したり、牛を飼っている処を見学したりしています。
コーンウォールでは、錫の鉱山を訪れ、デンマークの海岸では、琥珀を探す為に船を寄せた事も有りました。

 この大航海から帰国した、ピュティアスは、アイルランドはイギリスの西に在ると報告しますが、そんなピュティアスを嘲笑した一人である、ストラボンは、「そんなばかな話は無い。スコットランドの北に在る」との主張を壊しませんでした。
当時は、このストラボンの説が正しいと信じられていたのでした。

 しかし、時が流れるにつれて、ピュティアスは偉大な探検家として認められ、又北の海に到達し、その事実を紹介した人物として、歴史に名前を刻む事と成りました。

続く・・・
2010/11/24

歴史の?その343:発見の歴史26・フェニキア人のアフリカ大陸周航2

<発見の歴史26・フェニキア人のアフリカ大陸周航2>

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◎古代エジプト人の思考

 地中海と南回帰線の南では、太陽の位置が反対に成ります。
いくら、冒険家のフェニキア人でも、この様な事実を考えつく事は、不可能に違いなく、実際に自分の眼で検分しない限り、思いも因らぬ事なのでした。

 この航海自体は、古代エジプト王 ネコ二世が紀元前600年頃に計画した事でした。
エジプトの東海岸の紅海から、西海岸のアレクサンドリア迄航海する事が可能であれば、人の交流、物資の交流がより便利になるに違いないと考えたのでした。
紅海からアレクサンドリア迄、船で行くには、砂漠に運河を掘る手段が在りますが、ネコ二世は、アフリカ南海岸を回って現在のモロッコに行く方法が、最も簡便な方法と考えたのでした。

 しかし、エジプト人は航海に秀でた民族では無かったので、ネコ二世は、当時地中海を縦横に航海していた、フェニキア人を雇い入れます。
50本の櫂を持ったガレー船で船団を組み、紅海を南下し、アフリカの南端を回って、現在のジブラルタル海峡である「ヘラクレスの柱」迄行くように命じたのでした。

◎未知への船旅

 フェニキア人の船乗り達も、この冒険を大変喜んで引き受けました。
当時、ライバルで在ったギリシア人が押さえている海域を通過する事無く、西に向う海路を捜していたのでした。
しかし、此処で最大の問題は、ネコ二世もフェニキア人も、是から向うアフリカ大陸が、如何なる形で、如何に広大なのか、知る術は無かったのです。

 彼の航海を際限してみると、出帆は11月、アフリカ東端のグアダフイ岬に向かい、此処で船首を南西に向け、季節風に乗りました。
海岸線が西に曲がる日を今日か、今日かと期待しながら、航海を続けましたが、その日は一向にやって来ません。

 太陽が次第に北へ北へと移って行く事を彼らは、気づきながら船を進めました。
航海に目安となる、北極星は今や全く姿を消し、彼らも途方にくれた或る日、海岸線は大きく西へと曲がりました。
船は、アフリカの南端部分を900km進み、出帆の翌年5月、現在の喜望峰を回り、針路を北へと変えたのです。

 アフリカの北西部は大きく張り出しています。
この部分を回る為に、更に10ヶ月の苦しい航海を続けなければ成りませんでしたが、終にジブラルタル海峡を望み見る事が出来ました。

 紅海を出帆してから、2年以上の歳月と24000kmの航海を成し遂げた船団は、順風満帆、地中海をエジプトへ向かいました。
しかし、彼らの偉業が認められるには、其れから更に、2000年の時間が必要でした。

本編終了・・・
2010/11/23

歴史の?その342:発見の歴史25・フェニキア人のアフリカ大陸周航1

<発見の歴史25・フェニキア人のアフリカ大陸周航1>

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 ポルトガル人の西アフリカ探検に先立つ2000年前の事、“スエズからジブラルタル海峡迄、アフリカ大陸を周航した”と云う、フェニキア人の言葉を信じる人物は誰も居ませんでした。

 フェニキア人の話の中で、最も信用されなかったのは、アフリカの南端を回った時、真昼の太陽が自分達よりも北側に位置していたと云う部分で、古代社会では、太陽は常に自分達の位置から南側と、誰も信じて疑わなかったのです。
北半球で生活する人間に取っては、当然の常識でした。

 偉大なギリシアの歴史家ヘロドドスは、このフェニキア人の話を紹介していますが、彼でさえ、こんなばかげた話は無いと一笑に伏しています。
しかし、フェニキア人の冒険家が、その言葉とおりにこのアフリカ周航をやってのけた事は、事実なのでした。

 フェニキア人は、「喜望峰を回って西へ進んだ時、真昼の太陽が右手に見えた」と語り、古代人達は、この話しを聞いて、彼らの話は、嘘の固まりだと信じましたが、古代人がフェニキア人の嘘の証拠とした証言が、現代から見れば、彼らが本当にアフリカを回ったと信じる根拠になっている事が、大変興味深く思われます。

その2へ続く・・・
2010/11/22

歴史の?その341:発見の歴史24・エルドラド

<発見の歴史24・エルドラド>

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 伝説の黄金の都、アンデスの何処かに隠された宝庫、エルドラドは、何世紀もの間、人々の心を虜にし、何百人と云う財宝探しの男達が、探索の途中で死んでいきました。

 驚くべき事に、エルドラドは都市の名前ではなく、ある男の名前でした。
エルドラドの伝説は最初、1513年という早い時期にバルボアと共に中央アメリカに侵入した、スペイン征服者を通じて、世界に広まりました。

 スペイン人をはじめ、ヨーロッパの人々は、南アメリカ大陸に向かって進む途中、今日のコロンビアの首都ボゴダに近い、標高2600mの高原に住む、太陽崇拝を行っている、チャブチャ族の話を耳にしたのでした。
言伝えによれば、この種族は、黄金を太陽神の金属として崇めており、彼らは黄金の装飾品を身に着け、何世紀にも渡って、建造物を金箔で覆ってきたと云う事でした。

 何人かのインディオは、山中の何処に在ると云う、黄金で満たされた聖なる湖の話を伝えました。
別の者達は、オマグアと呼ばれる都市で、全身金色に輝く族長を見たと語りました。
話が広まるにつれて、エルドラドは黄金の都と考えられる様に成り、古い地図には、場所こそ千差万別では在ったものの、エルドラドが示された事も有りました。

 1530年代には、ドイツとスペインがエルドラドを探索する為に、現在のコロンビアに何回か探検隊を送りこみましたが、山々の殆どは通行不可能で、食料が尽きると彼らは引き返す他に手段が在りませんでした。
隊員の半分以上は、インディオとの戦闘で殺され、探検は失敗に終わったのです。

◎黄金の人

 チャブチャ族は太陽だけでなく、湖に住む神も崇拝しており、この神は何世紀も以前に恐ろしい罪から逃れる為、湖に身を投じた族長に妻で、彼女は其処で女神になって生きていると伝えられました。
近在のインディオはここに巡礼の旅をし、湖の女神に貢物を捧げ、そして、少なくとも年に1度は、湖は趣向を凝らした儀式の場所と成りました。

 部族民は、族長の体に、粘着性のある樹液を塗り、金粉を吹き付け、族長は頭から足の先迄、文字通り“黄金の人”と成り、彼は厳かな行列に加わり、湖に岸に置かれた筏迄導かれて行きます。
筏は、聖なるグアタビータ湖の湖心迄進み、族長は氷の様に冷たい湖に飛び込んで金粉を洗い流し、他の人々は、計り知れない程の黄金や宝石を湖に投げ込むのでした。

 グアダビータ湖は自在の湖で、1969年迄“黄金の人”を実証するものは何も在りませんでしたが、この年、二人の農場労働者がボゴダ近郊の小さな洞窟の中で、純金で作られた精巧な筏の模型を発見しました。
筏には8人の小さな漕ぎ手が乗っており、族長の堂々とした金色の像に背を向けて、筏を漕いでいました。

 現在でもこのグアダビーダ湖の調査は進んでいますが、湖水の冷たさと堆積した泥の為、めざましい成果は上がっていません。
岸辺や浅瀬で、若干の黄金やエメラルドが発見されたのみで、湖水の深みには、未だに“黄金の人”の捧げ物は眠っています。

続く・・・
2010/11/20

歴史の?その340:発見の歴史23・イースター島の巨石人像

<発見の歴史23・イースター島の巨石人像>

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 オランダの提督ヤコブ・ロヘベーンは、この様な物を見た事は有りませんでした。
南太平洋中央の海図に無い島を高さ10m近い巨人の兵士が防備していたのです。
この巨人達は、要塞の胸壁に似た巨大な石壁の上に並んでいました。

 3隻の艦隊を島に接近させると、巨人は只の石像で、その足元を歩き回っている人間は、皆普通の背丈と解かり、ロヘベーンは、胸をなで下ろしました。
翌日、彼は少人数の部隊を引き連れて、島に上陸し、「胸壁」が石像を載せる壇でしかない事を知り、各壇の上には、赤い帽子を被った耳の長い人間の胸像が立っていました。

 時は、1722年の復活祭(イースター)の日曜日でしたから、ロヘベーンは、自分の発見した島をイースター島と命名し、島を離れたのでした。

 イースター島にヨーロッパ人が再び上陸したのは、其れから50年後の事で、本格的な調査が開始されたのは、更に100年後の事でした。
その頃、ロヘベーンの見た立像は、全て倒されており、大半が部族同士の争いで、壇から引き倒されたのでした。

 巨人像は休火山ラノララクの火口に産出する、火山岩を刻んだもので、火口壁から300体以上が刻まれ、斜面を降ろされ、何らかの方法で、壇上に立てられた事が解かりました。
火口の中には、未完成の石像が400体程も残っており、僅かに鑿を入れ始めた物も在れば、壇へ運ぶ準備の整った物も存在し、又嘗て石像を削っていた石工が廃棄していった、黒曜石の手斧と鑿が火口で発見されました。

 現場の様子は、石工達が戻ってくる予定が、そうならなかった様に思え、火口からの下り道に沿って、完成した石像が数十体も置かれています。
その幾つかは、重さ30t、高さ4m程であり、未完成の石像には、推定重量50t、高さ20mの巨大な物も含まれています。

◎長耳族

 石像の中には、火口から16km離れた場所に立っていた物も在り、島民が如何なる方法で是等の石像を運び、壇上に立てたのか、現在のところ、専門家にも判明していませんが、丸太をコロとして使用した説は、現在では否定されています。
実験の結果、その様な仕事に必要な大木は、イースター島の土壌では繁茂しない事が判明し、つる草をロープに編んで、石像を引っ張る事も考えられましたが、つる草のロープでは、30tの重量が限界である事が判り、この説も退けられました。

 古い住居後の調査から、イースター島の人口は、かつて2000人から5000人の規模で在った事が判明しており、彼らは二つの階級に分化していた様なのです。
石像のモデルになった「長耳族」・・・耳朶に重りを下げて長くした・・・は、恐らく支配階層で、一方の「短耳族」は被支配階層であったと推定されています。

 耳朶に重りをつける風習は、スペイン人に征服される以前のペルーのインカ族にも存在しましたが、現在の島民は、南アメリカの民族よりもポリネシア人に近い血統的特徴を持っています。
イースター島の謎を解明する糸口は、ペルーの奴隷商人によって永遠に失われました。
彼らは、19世紀末に1000人の島民を捕らえましたが、その中には、この島の最後の「王」と「賢者」も含まれていたのでした。

 鎖に繋がれ、奴隷船で連れ去られた、この人々が如何なる運命を辿ったのか、誰も正確に知る事は出来ませんが、後にある者は、島に帰り着き、流行病をもたらし、残りの島民を死滅させ、如何にして、一枚岩の石像を創り上げたのか、その答えは永遠に失われたのでした。

続く・・・
2010/11/19

歴史の?その339:発見の歴史22・コロセウム

<発見の歴史22・コロセウム>

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 人や車の往来が途切れる事の無い、ローマ市にコレセウムは、今尚そびえ、その栄華を誇ったローマ帝国の時代を現在に示しています。
古代ローマでは、コロセウムでの試合が市民を熱狂させ、野獣、剣闘士の闘い、模擬戦、罪人対野獣の残忍な見世物が存在していました。
市民にこの様な競技場とパンを与える事こそ、ローマの支配者達が、市民の反発をかわす手段として考案した、政策の一つでした。

 最初、この様な見世物の場所としては、紀元前29年に造られた円形競技場が使用されていましたが、有名なネロ時代の大火で焼失し、ネロの跡を継いで即位した、ベスパシアヌスとティトゥスが、ネロの「金の家」が在った場所にコロセウムを建設してのでした。
伝承に因れば、ネロ自身もコロセウムに出掛けた事に成っていますが、コロセウムが完成したのは、紀元前80年であり、ネロの死後10数年を経過していますから、ネロは実物を見る事さえ出来ませんでした。

 この長円形の闘技場は、奥行き90m、その階下は、地下道や檻が造られており、石造りの観客石が48mの高さ迄続き、5万人の観衆を収容する事ができました。
最上席は、最下段に設けられ元老院議員等身分の高い人々専用、中央に皇帝専用のロイアルボックスが在り、執政官達の席が並んでいました。
その上段が、貴族席、更に上段がローマ市民、即ち平民の席でした。

 見世物が行われる時は、競技(闘技)場の周囲に頑丈なフェンスが設置され、熱さを防ぐ為日除けの天幕も張られていました。
完成祝賀行事は100日間も続いたと云われ、9万頭の野獣が殺され、模擬対戦も行われましたが、このコロセウムにおいて、キリスト教徒が殺戮されたと云う記録は残っていません。

 6世紀には、コロセウムは使用されなくなり、更に13世紀と14世紀の地震で、大きな被害を受け、後年、石材は他の建物の建設に流用され、壁に飾られた彫刻類は失われてしまいました。
修復工事は、19世紀になって開始されたものの、現在残っている物は、石と煉瓦の欠片、そして残忍なローマ時代の競技の名残だけなのです。

続く・・・
2010/11/18

歴史の?その338:発見の歴史21・全ての道はローマに通ず

<発見の歴史21・全ての道はローマに通ず>

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 ローマ帝国は、その最盛期、版図はペルシア湾からブリテン島のルンバーに迄広がり、ヨーロッパ大陸とイギリスには、8万kmに及ぶ幹線道路が造られていました。
その為、帝国内の移動は、極めて迅速且つ安全に行われ、更に砦、軍団駐屯地、町や村、港、駅が設けられ、幹線道路の間には、地方道も整備されてその総延長は40万kmにも及びました。

 アウグストウス帝が創設した、郵便制度をはじめ、ローマ帝国のあらゆる産業活動が、この幹線道路を利用したのです。

 当時、定期郵便は、1日160kmの速度で運ばれ、現在のスコットランド国境に近い守備隊が投函した手紙は、5日以内に現在のロンドンに到着しました。
重要な通信文は、早馬でリレー式に運ばれ、1日320kmの速度で運ばれたのです。

 ローマ帝国では、道路建設が国家建設と同様に重要な事業と位置付けられ、道路の建設や保守管理工事は、政府高官で無ければ行う事が、事実上不可能でした。
道路工事は、当時、膨大な費用を要し、有名なアッピア街道を建設する為に要した費用は、現在の円に換算して1km当たり200万円以上と推定されています。

 ローマの技術者は、地形を無視して、定規で引いた様な一直線の道路を建設しましたが、山を切り開き、又谷を埋め、沼地に橋を掛け、海に達すると、その対岸に道路が姿を現したのでした。
ローマ市から29本の主要幹線道路が放射状に延び、辺境地域迄及んでいました。
道は、1.2mから1.5mの高さに土盛を行い、石で固められ、排水効果に優れ、何世紀もの使用に耐えました。
道幅は、4.4m乃至4.8mで、現在の大型車両でも十分対面交通が可能な幅員を持ち、更に道路の両側には1段高い歩道が設けられていました。

 道路設営は、十分な計画を練った上で行われ、まず表土を取り除き、重い石を敷き詰め、その上に小石、破砕タイル、煉瓦を入れ白亜をモルタルで固めた層を作り、表面は排水の為、中央が高い形にし、板石をセメントで固定して両側に縁石を設置しました。

 道には、距離標を設けて、最寄りの街迄の距離を示し、一定の距離間に駅舎を設けて、早馬を準備し、宿舎の施設も設けられました。
ローマの道路網は、基礎計画が大変優れていた事から、更に工事技術が極めて高度で在った為、2000年間に渡ってヨーロッパ都市間交通の主要手段と成り、鉄道が登場する迄、この道路網が最も早い交通手段だったのでした。

◎歴史の皮肉

 ローマ帝国が、最も繁栄した時代において、ロンドンからローマ迄の旅は、わずか13日を要するだけでした。
其れから、ほぼ2000年後、イギリスの新首相に決定した、ロバート・ピールが、イタリアからイギリスに召還された時、帰国に要した日数が、2000年前と同じ13日でした。

 イギリスでは、ローマ時代の道路が、何本か現在でも使用されています。
元来、征服者が、敵意に漲るイギリス人を支配する目的で、造った道路が、2000年後の今日、そのイギリス人に恩恵を与えているのですから、歴史は何と皮肉な事なのでしょう。

続く・・・
2010/11/17

歴史の?その337:発見の歴史20・密林の中の都

<発見の歴史20・密林の中の都>

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 1861年、フランス人博物学者アンリ・ムーオは、カンボジア北部の密林の中を進んでいました。
突然、木々の梢越しに3基の高い搭を認めたのです。
是がアンコール・ワットの小尖搭で、アンコール・ワットは、アジア屈指の壮麗な寺院で、この発見は、失われた伝説の都、アンコール・トムが発見された事を告げるものでした。
アンコール・トムは、偉大なクメール帝国の首都で、500年前に放棄され、熱帯の密林に閉ざされ、忘れ去られていたのでした。

 アンコールは、廃墟に成った現代でも、私達に驚きを与えてくれる存在で、周囲を堀が取り囲み、この堀には嘗てワニが入れられており、その後は土を築いた高い防塁となっていました。
アンコール・トムを建設した王は、ジャヤバルマン2世(在位770年~850年)でしたが、彼は、自らを神と称し、自らの権力と帝国の富を誇示する為に、首都建設に邁進したのです。

堀は正方形で、一辺の長さは約3km、城壁の内側には、古代ローマ市がそのまま納まって余りある広さでしたが、ここに暮らしたのは、王家で在って、一般の市民は城壁の外に暮らしたのです。
この場所は、宗教と政治の中心地であり、4本の広い舗装道路が、堀を渡り、大きな関門を通って市内と結ばれていました。

◎ライ王のテラス

 4本の道路は、街の中心部の大広場で交互に繋がり、この広場は、彫刻のある二つのテラス、王家のテラスとライ王のテラスと名付けられた場所に接しています。
その正面には、精巧な彫刻が施された、踊り子のテラスが在り、ここアンコールで壮麗なのは、砂岩で造られた彫刻群で、舗装道路は何れも、架空の動物を支えた巨人や神の姿を彫った、欄干が造られています。
市内と城内を隔てる関門にも精巧な彫刻が、一面を飾り、搭の上には、頭を三つ持った象の紋章が、掲げられています。

 王家のテラスは、国王や王妃、王子や王女、ライオンや象、ヒンズーの宗教物語の人物像で満たされ、極めて高度な文明社会のあらゆる活動を題材にした、彫刻も多数に及びます。
その造詣は、見事で一瞬、動きを止めた様に見える程なのです。

◎記念碑


しかし、アンコールの最も崇高な記念碑は、城壁から1.5kmの処に在る、アンコール・ワット(大寺院)で、スールヤヴァルマン2世(在位1112年~1152年)によって建立されたこの寺院は、世界の寺院の中で、最も壮麗な寺院の一つに上げられています。
この国王の時代、クメール帝国はその繁栄の頂点に達しました。
アンコール・ワットは、全長6.5kmの正方形の堀に囲まれ、寺院は池や回廊、露台、廟、階段が複雑に入り乱れ、中央の礼拝堂を囲む回廊には、伝説やヒンズー教の聖典に題材を選んだ、躍動する様な彫刻を施された壁が、高さ2.5mで約800mの回廊を取り囲み、その上に三段の階層を成した寺院がそそり立ち、中央の65mの搭を含めて5基の搭が立っています。
この搭群が、アンリ・ムーオをアンコールの廃墟へと導いたのでした。

◎衰退

 スールヤヴァルマン2世の崩御から、25年後の1177年、現在のラオス方面から帝国に侵入した、チャム族によって、アンコールは占領され、略奪の対象と成り、その2年後、チャム族はヤショヴァルマン7世によって討伐されるものの、帝国の情勢は不安定なものに成って行きました。

 是から150年の間、クメール帝国は西方のタイ族(シャム族)北方のモンゴル族の侵入を受け、特にタイ族はアンコールを1369年、1388年、更に1431年の3回に渡って占領し、都市が如何なる防塁を築いても、既に防衛する事が不可能だったのです。

 アンコールを支えていた、米作の為の複雑な灌漑設備もその時破壊され、やがて首都機能は、1434年現在のプノンペン近郊に移され、アンコールは密林に遺棄されたのでした。

続く・・・
2010/11/16

歴史の?その336:発見の歴史19・マヤ・失われた栄光の文明

<発見の歴史19・マヤ・失われた栄光の文明>

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 現在、メキシコ合衆国の一部になっているユカタン半島には、嘗てマヤ文明が栄華を誇っていました。
ヨーロッパ社会が、未だ中世の流血と混乱の暗黒時代に最中で在った頃、ここユカタン半島では、驚くべき文明が繁栄していたのでした。

 マヤの壮大な石造建築や宗教施設は、押し寄せる密林に飲み込まれ、何世紀もの間、人類の目に留まる事は在りませんでした。
マヤの都市は、整備された舗装道路で結ばれていましたが、是は石の擁壁の間に砕石を入れ、重い石のローラーで踏み固めた後、一種のセメントで固めたもので、簡便な方法ではあるものの、長期に渡って使用に耐えるものでした。

 是等の都市群は、現在、密林から整備され、過去を物語る記念物になっており、その中で最も印象的な場所は、チチェン・イツァでしょう。
ユカタン半島は、季節的な雨季を除き、雨量の少ない場所です。
その為、飲料水に不自由しない大きな泉の周辺に都市が発展しましたが、チチェン・イツァの町も5世紀ないし6世紀初頭に、同様な条件で発展した町の一つで、マヤ文明(文化)は、この町で開花したと言えますが、西暦987年頃、トルテカ族の侵入によって没落したと思われます。

 しかし、チチェン・イツァが最も繁栄の頂点に達した時代は、11世紀から12世紀であり、侵入したトルテカ族は、自己の文化とマヤ文化を融合させ、両者の特徴を兼ね備えた、数々の神殿や建物を建設して行きました。
有名な1000本石柱の神殿は、この時代に造営されたものです、

 マヤの都市では、如何なる場所でも存在する、球技場がチチェン・イツァにも在り、ポクアトクと呼ばれたこの球技は激しいゲームで、試合中に選手が、死亡する事もしばしば有ったと伝えられています。
球技場の石壁のレリーフには、選手が首をはねられている図柄が在り、又近くには、杭にかけられた頭蓋骨の図が刻まれている事から、このポクアトクには宗教的な意味合いを持った、儀式的性格を有しており、勝敗の行方によっては、命を奪われる事も有ったと想像されます。

 チチェン・イツァは生贄の井戸でも有名で、中心に在る大広場と270mの舗装道路で結ばれ、旱魃の時には、雨乞いの為、生贄が捧げられたのでした。

 そして、チチェン・イツァの栄光の時代は、突然終焉を迎えます。
200年間に渡って、この町はトルテカ族の中心地としての役割を果たしましたが、1224年頃、住民達は突然この町を放棄して、他の部族がその後に入りましたが、彼らも又15世紀半ばに姿を消し、チチェン・イツァは永遠に見捨てられたのでした。

続く・・・
2010/11/15

歴史の?その335:発見の歴史18・ベスビオの麓で・ポンペイ

<ベスビオの麓で・ポンペイ>

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 1人の男性は、石を敷き詰めた通りに倒れており、その手には、一握りの金貨を確りと握り締めていました。
この男性が、如何なる処遇の人物で在ったのかは、永遠に判らない事でしょう。
男性の身の上は別にしても、1500年以上もの間、金貨を掌に握り締めたまま、18世紀にその遺体が発見される迄、灰と溶岩に埋もれている事になるのが、彼の運命でした。

 彼は、ポンペイの市民で、この町はナポリ湾に近い、金持ちのローマ人の為の、夏の保養地でしたが、ベスビオ火山の噴火した、西暦79年8月24日を境に、地上から抹消されてしまいました。
しかし、火山は町を破壊しましたが、一方では、保存し続けて来たのです。

 商店の主人達は、昼食の為に、木製の鎧戸を閉めようとしており、少女達は街角の泉で、おしゃべりをしていました。
パン屋はちょうど釜戸に、81個のパン種を入れたところでしたし、酒場では客が代金を支払っていたその時、町を大きな地震が襲ったのでした。
殆どの人々は直ぐに町を離れましたが、地震は、危険の最初の合図に過ぎませんでした。
しかし、どうしても町を離れる事が出来ない人々も居たのでした。

 ある一団は、友人の葬儀の席にかしこまって座ったままの姿で発見され、貴重品を埋める為に穴を掘っていた人物は、その穴に自分が埋まる結果となり、或る者は自宅に隠れました。
可也の人々が家財道具を車に積み込みましたが、此れはポンペイの狭い門の処で身動きが出来なく成っていました。
この時、ベスビオ火山は静になっていましたが、28時間後、ポンペイの町は、厚さ6mの溶岩に埋まり、2万人の人口の内2000人が犠牲と成りました。

 ポンペイの町を襲った悲劇は、其の後幾世紀の間、殆んど忘れ去られていましたが、1748年、ナポリの水道技師アルクビエルレが、彼の時代から150年程前、近郊のサレルノ川から水を引く為に掘られたトンネルの調査を行いました。
全く、偶然の幸運によって、彼が掘った竪穴は、ポンペイの中心街と思われる箇所に到達し、彼は其処で素晴らしい壁画を発見し、他に金貨を握り締めた、冒頭の男性の遺骸を発見したのです。

 1763年には、ドイツ人ヨハン・ピンケルマンが、ポンペイの秘密に魅せられ調査に取り掛かり、彼は苦労して身に付けた学識をもとに、雑多な碑文を集めて、そこから、古代ローマの海辺の保養地における6世紀にもわたる生活の記録をまとめ上げたのでした。

 イタリアの考古学者ジョゼッペ・フィオレルリが、現在の様な科学的な発掘方法を確立する為には、更に1世紀の期間を要しました。

 現在、発掘作業は家から家へ、通りから通りへとゆっくりと進行し、発掘作業中に発見した物が一切失われる事が無い様に、細心の注意を払った作業が続いています。
そして、ポンペイは、現在全面積の5分の2しか調査が成されておらず、未だ溶岩に閉ざされた中には、今までの発見よりも更に重要な遺産が、発見される十分な可能性を秘めているのです。

続く・・・
2010/11/13

歴史の?その334:発見の歴史17・ユダヤ人抵抗の砦マサダ2

<発見の歴史17・ユダヤ人抵抗の砦マサダ2>

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 キリスト生誕の30年程以前、この地はヘロデ王によって、城砦として要塞化され、常に裏切りを恐れていたヘロデ王は、岩盤の上に大きな城壁と搭を建て、水路網と貯水池、固い岩を刻んだ階段を持つ大きな地下室を建造したのです。
断崖の上には、宮殿、3層からなる華やかな娯楽用の館を建て、此処は安全で、贅沢な隠れ家と成りました。
ヘロデ王の死後、進駐していたローマ軍が、此処を駐留地として使用し、西暦66年に、ユダヤ教信者の一団が、メナヘムの指導の下に、ローマの支配に反抗して立ち上がる迄、続いたのでした。
4年後、反乱の殆どが鎮圧された時も、マサダだけが最後迄頑強に抵抗を続けたのでした。

◎ローマの復讐

 西暦72年、ローマのユダヤ執政官フラィウス・シルバは、恐るべきローマ第10軍団の先頭に立ち、マサダに進撃しました。
73年の初頭迄に、彼は砦を取り囲む壁を造り、男も、女も、子供も、誰一人ローマの復讐から、逃れる事が出来ない様にしてから、攻略の準備を開始したのでした。
攻撃に最適の場所は、西側の突出部で、ローマ軍は其処に向かって、巨大な土の傾斜路を築き、その頂上に攻撃の本拠となる石の搭を造り、石弓等の武器を持って攻撃を開始しました。
マサダの陥落は、もはや時間の問題と成り、その運命は定まったのです。

 1900年後、発掘者は、ローマ軍に抵抗した彼らの、絶望的な最後の日の証拠を掘り出します。
火をかけられなかった貯蔵食料や、食糧の配給券らしい、青銅のコインの山が発見されたのです。
様々な建物の破片の中に、14巻にのぼる巻物の断片が発見され、夫々がある程度正確に、紀元前1世紀から紀元後73年迄の物である事が確認され、この中には、聖書の申命記、エゼキエル書、詩篇、外典の一部等の抜粋が含まれており、有る物には、死海写本と同様な、宗派の聖句が書かれていました。

 ローマ軍が進行してきたと予想される方角を見下ろす戦略地点で、考古学者は11個の陶器片を発見しました。
夫々に名前が書かれており、明らかに同じ筆跡で、その内の一つには、ベン・ヤーイルの名前が在りました。

 10本の籤の他に、英雄的指導者、エレアザル・ベン・ヤーイルの名前を書いた、11本目の籤が存在したのでしょうか?
そして、彼が最後の生き残った男となり、自ら剣で命を絶ったのでしょうか?
彼程の男が、自分の部下に求めた恐ろしい命令に、怯む事はまず考えられません。
今日、マサダは聖地として、イスラエルの人々によって保存され、イスラエル軍に入営する新兵は皆、「マサダは二度と陥落させない」と誓う事が伝統となっています。

本編終了・・・
2010/11/12

歴史の?その333:発見の歴史16・ユダヤ人抵抗の砦マサダ1

<発見の歴史16・ユダヤ人抵抗の砦マサダ1>

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 紀元73年、ローマ第10軍団が、マサダの砦に対する最後の総攻撃の準備を整えた時、その内部に立てこもった、ユダヤ教信者の一団は、恐ろしい決断を示していました。
降伏して、残忍なローマの報復を受け、奴隷と成るよりも、彼らは自らの手による死を選択したのでした。

 ユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスの記録によれば、指導者エレアザル・ベン・ヤーイルは、英雄的な演説を行ったと云います。
「1日以内に、我々がローマ軍の総攻撃を受ける事は、間違い無い。
敵の前で奴隷になるよりは、死を選ぼう。
この世を後にして、自由の国で妻子と一緒に暮らそう。
急ごうではないか!
我々を、その力の下におこうと望んでいる敵に、多くの喜びを与える代わりに、我々の死に対する驚きと、我々の勇気に対する賞賛を引き起こす様な、手本を見せてやろうではないか」

 ベン・ヤーイルは、豊富な食料の蔵を除き、砦全体に火を放つ様に命じ、彼らは、自分達が誇りと信仰の為に行動しているのであって、絶望の果てに死んでいくのでは無い事を示そうとしたのでした。
そして、既婚者の男は家族を殺し、生き残った者は、籤を引いて、残っている者達を殺す10人を選んだのでした。
この10人は、再び籤を引いて、残りの9人を殺す1人を決めたのです。
そして、最後の1人は、自決しました。
こうして、965人のユダヤ人が、自ら死を選んだのです。

 ローマ軍が城壁に殺到した時、彼らは「完全な沈黙」に遭遇したのです。
砦に入城した彼らは、「大量の死者を見つけた。しかし、敵が一掃されたというのに、彼らには如何なる喜びも湧いて来なかった。只、死者の決意の勇敢さと、この多くの者が死を持って示した、断固たる侮蔑とに、驚くばかりだった」とヨセフスは書いています。

 マサダは、独立の為に戦った人々の、偉大な物語の一つと成りました。
しかし、この物語は長い間、真実か否か疑われてきたのです。
唯一の資料が、ユダヤ人ヨセフスの書いたものであり、彼はその場に居合わせた人物ではないからです。
その証拠は、1963年、此れまで行われた内でも。もっとも困難な発掘によって得られたのでした。
その発掘作業は、5000人の奉仕者が、イスラエル第一の考古学者イゲル・ヤディン教授による指揮の基に行われたのでした。
マサダは、死海近くのユダヤ平野に存在し、頭部が平になった巨大な岩の露頭で、9ヘクタール程の面積が在ります。

その2へ続く・・・
2010/11/11

歴史の?332:発見に歴史15・キリスト時代の巻物2

<発見に歴史15・キリスト時代の巻物2>

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◎修道院の廃墟

 最初の洞窟から、500m程しか離れていない場所で、キルベット・クムランと言う名前の修道院の廃墟が、発掘されました。
此処は、宗派のはっきりとしない僧侶達の本拠地で、修道院の中央集会所の書写室には、長いテーブルとベンチ、二つのインク壺、更に最初の洞窟で発見されたもの同様な壺が、見つかりました。

 クムラン修道院の人々は、紀元68年頃、ローマ第10軍団の接近に伴い、文書を洞窟に分散して隠したらしく、発見された文書や断片は、大部分がヘブライ語で書かれたものでしたが、ギリシア語のセプトァギンタ、即ち70人訳聖書の断片も幾つか混じっていました。
500巻以上の書物の断片が含まれ、エステル書を除いた、旧約聖書全部が揃っていました。
更には、旧約聖書の注釈書や、修道院の生活と、修養に関する資料とも成りました。

◎エッセネ派

 発見された文書の内、クムラン修道院の生活について記されている部分は、この時代のユダヤ教の宗派で、約4000人の宗徒を要していた、エッセネ派の人々の生活と一致します。
ローマの歴史家プリニウスは、エッセネ派は死海の西側に住んでいると書かれており、其処は当に修道院が発掘された地域であり、キルベット・クムランは、エッセネ派の本拠地であったと推定されます。
この発見は、聖書研究に新しい資料を提供しました。

◎キリスト教の始まり

 この宗派の「修養の手引」をはじめとする幾つかの文書は、エッセネ派と初期キリスト教運動が、驚く程良く似ていたことを明らかにしたと言えます。
エッセネ教団に入団を欲する者は、其れまでの絆と、世俗的な財産を放棄しなければ成りませんでした。
宗徒は質素な生活を心がけ、思想の純粋さ、謙遜、やさしさを目指して修行したのです。
儀式としては、懺悔による精神の浄化を象徴する、水を使った儀式と、聖餐と会食が行われました。
宗徒は、共同生活を営む事を義務付けられたのです。

 研究者は、巻物に述べられている、「義の教師」が、何者なのかという問題に解決を見出していません。
しかし、多くの表現や倫理的な考え方が、新約聖書と多くの点で、似ている事、特に「道」、「光」、「暗黒」の力の闘争といった面が述べられている事に、研究者は衝撃を隠せませんでした。

 洗礼者ヨハネが、エッセネ派であったと信じている人々も存在し、キリストも又、そうではなかったのかと云われています。
もし、その通りで有るならば、救いに至る道として、モーゼの律法を守る律法万能主義の宗派から、彼は後に離脱したのでした。

 研究者は現在も断片と化した写本の研究を継続していますが、死海文書がその全てを明らかにする迄には、まだ可也の年月を必要としています。

本編終了・・・
2010/11/10

歴史の?その331:発見に歴史14・キリスト時代の巻物1

<発見に歴史14・キリスト時代の巻物1>

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 ベドウィンの15歳になる少年、ムハマド・アド・ドイブは、死海の北西岸に在る砂漠で、迷った山羊を探している時、岩の断崖に、小さな穴が開いている場所を見つけました。
小石を幾つか投げ込んでみると、何か割れる音が聞こえたので、何か宝物でも隠されているかもしれないと考えた少年は、友人達と一緒に穴に入ってみると、中は奥行き8m、幅2mの洞窟になっており、内部には割れた壺以外にも、粘土で作られた壺が幾つも有りました。

 興奮した少年達は、壺の蓋を外してみましたが、中に期待した宝物はなく、代りに、麻布に包まれた何か黒くて、かび臭い塊が入っているだけでした。
其れは11巻の巻物で、薄い羊の皮を縫い合わせて作られ、革で裏打ちされていました。

 広げてみると、是等の巻物は長さ1mから7m程の長さがあり、片側には、古代ヘブライ文字が何行にもわたって書き込まれていましたが、少年達は大きく落胆したものの、何とかこの巻物をエルサレムの商人に僅かなお金で、売り渡す事に成功しました。
時に1947年の事でした。

 やがて、少年達が発見した巻物は、写本の内でも最も貴重な遺産である事が明らかになり、死海写本と呼ばれる様になりました。
その内の5巻が、翌年エルサレムの聖マルコ・シリア正教修道院に、残りの6巻が、エルサレムのヘブライ大学に購入されたのでした。

 エルサレムのアメリカ東洋文明研究所、所長のジョン・トレバー博士は、聖マルコ修道院所有の巻物を調査し、そのひとつに、旧約聖書のイザヤ書が書かれている事を発見しました。
しかもその古い書体は、巻物がキリスト以前の時代迄、遡るものである事を示していました。

◎空前の大発見

 現存するヘブライ語の旧約聖書で、1300年以上前の物の存在は、当時知られていませんでしたから、この発見は、当に驚くべき大発見だったのです。

 ジョーンズ・ポプキンス大学の歴史学者で、考古学者でもあるウィリアム・オルブライト博士は、イザヤ書の部分の写真を調査し、この巻物は、紀元前100年前後の物であると鑑定しました。
当時の記録に残る彼の言葉によれば、「全く信じられない様な掘り出し物だ!現代で最も貴重な写本の発見だ!」と言い切っています。

 この発見が契機となって、考古学者や現地の人々は、死海の周辺地域を徹底的に調査し、1956年迄に他の10箇所の洞窟から、巻物の断片が発見されました。
シカゴ原子力研究所の専門家は、最初に発見された洞窟で、一緒に見つかった麻布の断片を燃焼させる、放射性炭素年代測定法によって、これの発見物が紀元前167年から、紀元前233年頃の年代であると判定されました。
 
 その後、次々と発見が続き、是等の巻物が、何らかの理由によって荒野に隠された、膨大な蔵書の一部である事が明らかになりました。

その2へ続く・・・

2010/11/09

歴史の?その330:発見の歴史13・誤って発見された新世界2

<発見の歴史13・誤って発見された新世界2>

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◎法外な要求

 コロンは、ついでポルトガルのホアン二世に、同様な働きかけを行いましたが、此方も了解を得られず、1491年再び、イザベル女王に援助を求めたものの拒絶されました。
女王が拒否した最大の理由は、彼の要求が余りにも法外であったからで、コロンは、この大航海が成功した時には、自分を大洋提督と発見した国土全部の総督に任命し、更に航海で発見した財宝の10%を自分の物とする権利を求めたのでした。

 その後、女王は心変わりして、彼のこの要求を受諾しますが、是は当時、スペインとポルトガルが、新世界発見をめぐって激しく競り合っていたからに他なりません。

 こうして、サンタ・マリア号はピンタ号とニーナ号の2隻の随伴船を伴い、世界で最も有名な航海に出帆したのでした。
総勢約90名、船毎も1名の医師が乗り、通訳も1名居ました。
コロンは、この通訳のアラビア語が、中国や日本(!)で役立つと考えたのです。

 さて、最初の航海で新世界に到達した彼は、美しいカリブ海の島々の間を航海して、数週間を過ごし、帰国の途に就きます。
彼は其の後も、この新世界へ三度の航海を経験しました。

 結果的に、余りにも野望が大きすぎた為、彼は女王に嫌われ、世の中に忘れ去られ、ひどい失意と落胆の内に、関節炎に苦しみながら、1506年5月20日に死亡しました。
皮肉な事に、彼が発見した大陸は、彼の友人で冒険家のイタリア商人、アメリゴ・ベスプッチの名前に因み、アメリカと命名されましたが、クリストバル・コロンの死から1年後の事でした。

補遺・クリストバル・コロン 流離の航海

 彼は、1506年5月20日、スペインのバリャドリードで死去、その地の教会に埋葬されました。
しかし、3年後、彼の棺はセヴィーリア近郊のトリアナに移され、それから更に32年後、遺体はサントドミンゴ(現:ドモニカ共和国)に埋葬し直されます。
しかし後年、ハバナに移され、更には1902年には又、安息を乱されセヴィーリアに移されたと考えられていました。

 1877年、サントドミンゴ大聖堂の地下に、新たな納骨堂が発見され、此処には”C,C,A”とイニシャルの付いた棺が在り、「クリストバル・コロン・アドミランテ(提督)」の頭文字と推定されました。
碑銘には、「輝く、有名な紳士、ドン・クリストバル・コロン」と書かれており、現在では、サントドミンゴ大聖堂の遺体が、本人の遺骸で或る事に間違いないと信じられています。

本編終了・・・

2010/11/08

歴史の?その329:発見の歴史12・誤って発見された新世界1

<発見の歴史12・誤って発見された新世界1>

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 「イエロ島は、カナリア諸島の最西端の島だ。
今その島が船尾の彼方に見えている。
そのイエロ島の島影が、ますます小さくなり、ついにかき消す様に水平線に消えた時、船乗り達は、信心深く十字を切った。
彼らの前には、見渡す限り島の一つも無い、大海原が広がり、夢と共に未知と恐怖の世界が、行く手に広がっていた」。

 しかし船長だけは、平静を装っていました。
彼は、昼夜の別なく船首を真西に向けて航海する様に命じ、4000km以上を航行したのでした。
そして、其れでも陸地が見えないと、船長は、偽の航海日誌をつくり、実際より短い距離を記載して、ヨーロッパ大陸から其れほど遠く無いように見せかけ、乗組員を安心させました。

 船は2隻の随伴船を伴い、際限なく広がる大海原を進んで行きました。
船の名前はサンタ・マリア号、船長の名前は、クリストバル・コロンでした。

 日増しに故国スペインは遠くなり、生きて再び故郷に帰れるのか、未知の土地に向かって航海の日々を重ねるにつれ、乗組員の心配は、増長して行きました。
しかし、クリストバル・コロンだけは、彼らの心配を他所にあくまでも航海を続け、反乱を起こすと言う彼らの脅迫にも怯みませんでした。

◎地球は丸い

 陸地が見えなくなってから32日、スペインを出帆した、1492年8月3日から69日目に、彼らは緑の葉がついた枝を海面からすくい揚げました。
翌日(10月12日)、この小艦隊は、原住民がグアナハニと呼ぶ島に到着し、コロンはこの島をサン・サルバドル(救世主)と命名し、スペインの領土である事を宣言しました。

 コロンは、自分が発見したのはアジア大陸東海岸沖の島々であると、死ぬまで固く信じていましたが、彼は、ヨーロッパの冒険家達に新世界を開いてみせた人物として、歴史に名前を刻んだのです。

 さて、この大航海について、多くの人々が事実として受け取っている多くの事柄には、誤りがあります。
例えば、この時代“地球は丸い、平坦では無い”と信じていたのは、なにもコロン一人ではなく、既に大部分の地理学者、知識人は知っていた事なのです。
彼が、インド亜大陸への新しい航路を発見する計画について、スペイン国王である、フェルナンドやイザベル女王に援助を申し出た時、是を拒否したのは、彼らが世界を平坦であると信じていたのでは無く、当時ムーア人の脅威と常に背中合わせで在ったので、果たして成功するか否かも解からない冒険にも近い行動に、国庫を傾けたく無かった事が事実なのです。

その2へ続く・・・

2010/11/07

歴史の?その328:発見11・アメリカ大陸の発見2

<発見11・アメリカ大陸の発見2>

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◎スカンジナビア人の発見

 スカンジナビアの人々が、“新世界”を発見した事は、資料や遺跡、グリーンランドで発見された墓地、ニューファンドランドの考古学的発見から、しっかりとした根拠が存在します。
しかし、スカンジナビアの人々が、北アメリカに定住したという、確実な証拠は、存在していません。

 伝承によれば、ノルウェー人ビジャーニ・ヘルユフソンが、986年にグリーンランドに向かう途中、強風の為針路を外れ、アメリカに達したと云います。
それから約15年後、グリーンランドを発見し、殖民地にしたレイブ・エリクソンは、ビジャーニの語った、平坦な森林地帯を見つけてやろうと決意し、やがて彼は、「野生の葡萄や自生の小麦が育っている場所」に行き着き、この場所を「良き国・ビンランド」と名付け、ここに小屋を建てて冬を越し、又船に乗ってグリーンランドに帰って行きました。

◎ビンランドの謎

 其れから7年後、グリーンランドの商人、ソーフィン・カールセブニが、レイブのビンランドに植民地を建設しようと試み、約250人の入植者と共に、レイブの入植地に上陸しました。
しかしながら、後に原住民と衝突し、グリーンランドに引き上げます。

 このビンランドが何処の場所を指すのか、この問題を廻って研究者の果てしない憶測が繰り返されました。
レイブが野生の葡萄を見つけたのなら、ノバスコシアか、ケープコッド付近と思われますが、ニューファンドランドのランソー・メドウズでの発掘調査から、この土地が、レイブの入植地で在った事は保々確実と考えられています。

◎遺物か?ジョークなのか?

 他の遺物の発見を根拠として、スカンジナビアの人々が更に内陸へ進んだとする説も存在します。
西暦1000年頃オンタリオに、1362年にはミネソタのレッド川渓谷に入ったとする説で、オンタリオの墓地で発見された、バイキングの剣、斧、楯の鉄製品は、研究者から本物と鑑定されました。
しかし、サミュエル・エリオット・モリソンは是等の遺物をジョークであるとして、一笑に付しています。

◎クリストバル・コロンの登場

 終に1492年、クリストバル・コロンが大西洋を横断して“新大陸”に到達しました。
最も彼には、その場所が何処か分からず、それをアジアの一部と思い続けていました。

 現在でも研究者の間では、アメリカ発見について、調査研究が進んでいますが、当時の混乱ぶりをマーク・トォーエンは次の様に語りました。
「多くの研究者は、既にこの問題の実態をひどくぼかしてしまった。もし彼らが今後もこの様な事を継続すれば、我々はやがて、この事象について何一つ解明できない事になるだろう」。

本編終了・・・

2010/11/05

歴史の?その327:発見10・アメリカ大陸の発見1

<発見10・アメリカ大陸の発見1>

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        アメリカ大陸発見者・エイブル・エイリクソン像

 アメリカ大陸程、幾度も“発見”された土地は殆んど無いと思います。
諸説を総合すると、クリストバル・コロンが1492年にカリブ海の島に辿り着くよりも遥かな昔に、フェニキア人、アイルランド人、バイキング、ウェールズ人、中国人が“新世界”に到達している事になります。
特にアジア人は数千年前にアメリカ大陸を“発見”した点においてほぼ学会の説は一致している様です。
アジア人は、狭いベーリング海を越えてアラスカに渡り、北アメリカの南部と東部に広がり、更に南アメリカへと南下しています。

 中国人説は、近年、北京大学の研究者から提起された学説で、西暦459年、5人の中国人が太平洋を横断して、メキシコに到達し、6世紀の伝承では一人の仏教僧が、日本から東に7400km航海し、扶桑(フサン)と呼ばれる大陸を発見したと云います。
是は現在のアメリカ大陸で在るか否か、結論は出ていませんが、船が風と潮流の関係で、アメリカ沿岸に到達する事は在ったかも分かりません。
現在、その様な船や乗組員を物語る資料は、一切存在していません。

◎アイルランド人はアメリカに到達したのか?

 旅や旅行者の年代史研究の第一人者、サミュエル・エリオット・モリソンは、ノルウェーの伝承の中で、グリーンランドの近くの何れかの土地が、「白い国」「アイルランド大国」と呼ばれていると記述しています。
ビョルンと名乗るアイスランド人が、10世紀の終わり頃、船で西に向かったまま姿を消してしまいました。
それから長い年月が過ぎた頃、同じアイスランド人、グドリエフ・グンラングソンが、強い西風の為、何処かの土地で身動きが取れなくなり、原住民に捕らえられました。
彼らは、アイルランド語を話す様ですが、長老と思わしき人物が、彼を「粗野なアイルランド人」から救い出し、帰国させてくれました。
グドリエフはこの長老と思わしき人物が、ビョルンであると語りました。

 この話とは別の北欧伝説によると、西の国で捕らえられた男が、「白い衣服をまとい、大声で叫ぶ、布切れをつけた長い棒を持った」白人達を見たと報告しています。
この話をモリソンは次の様に解説しています。
「アイルランド人の宗教儀式の行列が、この人物の眼にどのように写ったか推測して欲しい。しかしながら、アイルランド人が9世紀や10世紀に、現在アメリカ大陸と呼ばれている土地に辿り着いたとしても、彼らは帰ってこなかったし、それを物語るものを、何一つ残しはしなかった。将来何時の日か、アイルランド人が、アメリカに到達した確実な証拠となる異物が発見されるかもしれない。しかし、その時が到来するまで、我々は掴み所のないアイルランド植民地の話を立ち込める霧を通して、垣間見る事しか出来ない」。

◎ウェールズ人説

 これ以上に捕らえどころの無い話が、ウェールズ人の話で、マドク・アプ・オウェイン・グイネス殿下が、1170年にモビール湾に上陸、ウェールズ語を残した事に成っています。
ミズーリ川上流の色白のインディアン、マンダン族はこのウェールズ人の子孫であるとの説も存在しますが、これは単なる空想に過ぎず、研究者はこの説の矛盾、誤りをはっきりと指摘しています。

その2へ続く・・・

2010/11/04

歴史の?その326:発見9・老いたる峰の町

<発見9・老いたる峰の町>

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 ペルーのアンデス山中に在ると云う、インカの失われた都市の話しは、300年以上もの間、民間伝承以上の話しでは無いと、考えられていました。
伝承に因ると、インカの生き残りに人々は、スペイン人征服者の手による虐殺を逃れて、1533年、人間の近寄り難い、アンデス山中に逃れたと云う話しは、実際に信じられる話では有りませんでした。

 探検家は、長年この町を捜し求めましたが、その全ては徒労に終わります。
彼らはインカ帝国の首都で在ったクスコ近郊の未開な密林地帯を探索しましたが、大きな発見に繋がる痕跡を見つける事は出来ませんでした。

 しかし、エール大学の若いラテンアメリカ史助教授だったハイラム・ビンガムは、其れまでの探索が間違っている事を証明しようと決心し、1911年6月、彼は二人の友人と数名のインディヘナを伴い、別ルートを辿って、ウルバンバの渓谷沿いに、ロバの隊列を進めました。

 7月の或る雨の朝、ビンガム隊は侘しい気持ちで座り込み、失敗に終わりそうに思われた探検を、今後も継続するか議論していました。
その時、宿の主が川向こうの山腹を真直ぐに指差し、そこに行けば遺跡が見られる事を教えてくれたのです。

 常に楽観的な彼は、宿の主だけを連れて出発します。
二人はロバを引き、川を渡り、600mの斜面を攀じ登りました。
途中、別の二人連れのインディヘナに出会うと、彼らは水を分けてくれた上、「直ぐ近くに在る」段丘や古い家々のことを口にしたのでした。
度々の失望を重ねてきた後で在ったので、ビンガムはまだ半信半疑でしたが、それも長い事では有りませんでした。
丘を回ると、其処には彼が想像したより、遥かに美しい、失われた町が在ったのです。

 高さ約3m、長さ数百mにも及ぶ、見事な段丘が100段程も並び、築かれた雛壇には、苦労して谷間から運び上げた土が盛られていました。
この町マチュピチュは、下からの攻撃には難攻不落ですが、この町がなぜ、何時造られたのか不明のままですが、1400年代初頭、新しく帝国に加えられた地域の中心に砦として、造営されたと推定されます。

 この町は、建築学上の傑作でも在り、今から数世紀も前に、インカは車輪も使用せず、花崗岩の塊を、山上に運び上げ、その石塊はそれぞれ不規則な形に加工され、一つ一つが正確に組み合わされていきました。

 この町に最後に住んだ人々の運命は、永遠に謎のままでしょうが、不思議な事に人口の殆どは、女性で在ったらしいのです。
後にビンガムが再び此処を訪れた時、調査隊は埋葬窟で174体の遺骨を発見しましたが、其の内150体は女性のものでした。

 インカでは、其の帝国の至る所に多数の女子修道院を建て、もっとも美しい女性を集めて、貴族に仕え、宗教儀式を手伝う訓練をしていました。
スペイン人が、侵入した時、この「選ばれた女性達」と呼ばれた乙女達を安全の為に、マチュピチュに移動させたものとビンガムは考えました。
しかし、1533年、インカ帝国最後の皇帝アタワルパが、スペイン人によって処刑され、インカは征服された民となりました。
時が経ち、女性達も歳を重ね、やがて死んでいき、彼女達を守っていた男達は逃亡し、密林は再びマチュピチュを覆い、その挫折した歴史を語る人間は、誰も残りませんでした。

続く・・・
2010/11/02

歴史の?その325:発見8・埋  葬

<発見8・埋  葬>

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 全てが寝静まった深夜、神官達は、古代エジプトの王が埋葬されている、谷の暗がりを静かに進んで行きました。
彼らは、岩をくり抜いた墓に静に入ると、ミイラを持ち出しました。
一体、一体と彼らは死体を包み直し、納棺した後、崖の上の小道に沿って、新しい秘密の安息の場所に運んだのでした。

 盗賊達は、何世紀にもわたって、ヒジプトのファラオの財宝を秘めた墓を略奪し続けており、此れは彼らに抵抗する為の神官達の最後の手段でした。
内部が巧妙に設計されたピラミッドでさえ、略奪を免れる事はなく、エジプトの支配者達は、ピラミッドの造営を止め、紀元前1500年頃には、現在ルクソールと呼ばれる、テーベの谷の崖に、密かに墓を作る様になりました。

 この様な王墓をトトメス一世の為に最初に設計した、建築家のイネニは、自分の墓碑銘に誇らしげにこう書いています。
「其れは偉大な仕事だった。私は、それによって、賞賛を受けるだろう」
しかし、迷路や、行き止まり、作業が放棄された様に見せかける囮の部屋を作っても、勝つのはいつも盗賊でした。

 支配者の死後の生命を守る為、死体が汚されない様に管理する責任を負わされている、神官達は、王墓の所在地が知れ渡っている限り、遺体を守る手段が無い事を悟り、宮廷の役人達の手で、組織的な略奪が行われている事も水面下では判っていたので、尚更の事でした。

 神官達は、もう一度、ファラオや王妃のミイラを隠す事にして、13体のミイラを、谷のアメノフィネス二世の墓所に移し、別の36体のミイラを、谷の外へ運び出しました。
是等のミイラは、岩の割れ目にある深さ10m程の穴の底に降ろされ、改めて作られた小屋に納めると、入口を封印し、周囲をカモフラージュしました。
以後、30世紀の間、デル・エル・バハリの墓は、誰にも気付かれませんでした。

 1880年から81年に、第21王朝の埋葬品が、エジプトの古美術品市場に出回りはじめ、カイロ博物館の管理者である、ガストン・マスペロ卿は、疑念を抱き、その出所を辿り、ある家族を突き止めました。
彼らは1871年に一つの墓を発見して、それ以来ルクソールで、盗掘品を売りさばいていたのです。
ある情報提供者が、マスペロの助手、エミール・ブルクシュを、盗掘を受けた墓に案内し、彼は深い穴を降りて、一つの部屋に入りました。
驚き、呆然とする彼の前に、36体の偉大なファラオのミイラが、在ったのです。

 1898年、他の13体のミイラが、アメノフィネス二世の墓で発見されました。
古代の神官達は、夫々のミイラの包みに、そのファラオの名前、改葬の由来を記録した札を残していました。
この記録が、後世の考古学者達に、神官達が死んだファラオの為に、永久に安全な墓所を見つける為に、無駄な努力を払った事を示す証拠となったのです。

続く・・・
2010/11/01

歴史の?324:発見7・王家の谷2

<発見7・王家の谷2>

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 其れは、考古学者ハワード・カーターにとって、重大な瞬間でした。
カーナボン卿が肩越しに覗き込んでいる間に、カーターは扉の一部を削り、明かりを差し込んで、中を覗けるだけの穴を開けました。
彼は次の様に書き残しています。

 「初め、私は何も見えなかったが、内部から流れ出す熱い空気が炎をゆらめかせた。
しかし、目が明かりに慣れるにつれ、靄の中から、ゆっくりと部屋の中の細かい様子が見えて来た。
奇妙な動物、彫像、そして黄金、あたり一面、黄金が輝いていた。
少しの間、私は驚きにあまり、口が聞けなかったが、側に立っている人々には、その時間が永遠と感じられたに違いない。
カーナボン卿は、この沈黙に耐えられず、心配そうに訪ねた。
『何かみえますか?』
私は只、『ええ、素晴らしいものです』と呟く事しか出来なかった。」

 王墓は、4つの部屋からなり、其処には宝石箱、壺、宝石のはまった金張りの玉座、家具、衣装、武器等が詰まっていました。
埋葬室には、2体の黒い彫像に側面を守られ、4重の金色の厨子と、内側に3重の棺を納めた石棺が在りました。

 いちばん内側の棺は純金で、作られており、宝石を散りばめた経帷子に包まれて、ツタンカーメン王のミイラが納められており、顔は水晶とラピスラズリを象眼した、黄金のマスクで覆われ、首から胸にかけて、ヤグルマギク、ユリ、ハスの花で作られた、花輪が置かれていました。
3300年の時を経過したにも関わらず、その花は、まだ微かな色合いを残していたのです。

 王墓の中には、キリストがこの世に現れる、1350年前のエジプトの伝説的なファラオの日常生活が、そっくりそのまま納められていたのです。
この発掘作業は、考古学史上の発見の内でも、もっとも素晴らしいものの一つでした。

本編終了・・・