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2010/12/28

歴史の?その372:歴史と伝承の狭間⑧

<歴史と伝承の狭間⑧:失われた国々>

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 伝説によれば、ブリテン諸島を取巻く海は、少なくとも3つの豊かな大国をその底に沈めました。
一つ目は、ティノ・ヘリグで、現在のコンウェイ湾となっている場所のグウィネッドから北へ国でした。

 ティノ・ヘリグは西暦6世紀に、王達が犯した罪に、神の罰が下り滅ぼされた様です。
王達は、現在のウェールズ海岸から約3kmの海中にあたる地点に在った、リス・ヘリグ宮殿に住んでいました。

 現地に伝わる伝説では、王国に悲劇をもたらしたのは、ヘリグ・アブ・グランナウグ王の罪であったと伝えています。
傾れ込んだ海水は、王とその息子達を除いて、すべての人間を溺れさせました。
生き残った王達は、改心して真面目な生活を送ったと云います。

 ウェールズ海岸のこの地方に住む人々は、何世紀にも亘って、引き潮になると宮殿の遺跡が海中に見えると言い伝えてきました。
しかし、1939年に実施された海底調査の結果、2万㎡にも及ぶ「遺跡」は自然石の集合体で、遥かな太古に沈降した事が判明しました。

◎乱行の果てに

 同様の調査がカーディガン湾でも行われ、もう一つの「失われた国」の伝説も、古くからの夢を裏切ってしまいました。
この国も又、人間の過ちの為に破滅したと云われており、ロウランド・ハンドレッドの物語は、ティノ・ヘリグ伝説の変形であった可能性が強いと思われます。

 この伝説によれば、ロウランド・ハンドレッドは肥沃な大地を持った富裕な国で、その長さ65km、幅32kmの土地を有し、現在のバードジー島と本土を繋いでいました。
堤防と堰が、海から国土を守っており、首都はカエル・グウィッドノと呼ばれ、6世紀初頭、国王グウィッドノ・ガランヒルはここに宮殿を構えていました。

 或る日の事、この国で祭りが催された時、故意にか?戯れにか?、堰の水門が不意に開かれ、国土の全ては海に飲み込まれ、助かった住民は少数でした。

◎失われた故郷の物語

 イングランド南西端のランズエンド岬の西方には、セブン・ストーンズと名前の岩石群が在り、コーンウォールの漁師達の中には「ザ・タウン」呼ぶ者も居ます。
この岩はかつて、コーンウォールとシリー諸島を結んで栄えていたと伝えられる、王国ライオネスの首都の遺跡とされています。

 西暦5世紀、海は驚くべき速度で、ライオネスの国土を侵食し始めました。
住民の中でトレベリアンと言う名前の男性だけが、差し迫る危機を感じていました。
彼は家族をコーンウォールに非難させた直後、ライオネスの国土は大西洋に飲み込まれます。
トレベリアンは馬に乗って、コーンウォールに辿り着く事が出来、生き残ったのは、彼と家族だけでした。

 16世紀になり、セブン・ストーンズの近郊で窓枠等の建具が、漁師の網にかかった事から、ライオネスの首都がその位置に在ったと考えられる様に成りました。

 さて、ティノ・ヘリグもロウランド・ハンドレッドもライオネスも、神話の部類に属するとは言え、これら3つの国の領地には、かつて確かに人が住んでいました。
シリー諸島周辺やコーンウォール、ウェールズ海岸沖の海底の沈降地盤から、住居跡が発見されています。
その場所に住んでいた人々は、次第に内陸部へ追いやられ、そして彼らの子孫の想像力が、波間に沈んだ故国の物語を美化したのでしょう。

続く・・・

☆ 記事更新を今年は、今日で終了致します。新年度も宜しくお願い致します。
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2010/12/27

歴史の?その371:歴史と伝承の狭間⑦

<歴史と伝承の狭間⑦:地上の楽園は何処にその3>

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◎楽園の島

 其処では、水に浮かぶガラスに宮殿が、祝福された者の魂を迎え入れます。
若者と乙女達が、柔らかな草の上で踊り、木には果実がたわわに実り、牛は1回の乳搾りで、池を満たす程のミルクを出す。

 遥かな楽園の島の物語は、フランスではコカーニュ、すなわち「お菓子の国」と呼ばれました。
13世紀のイギリスの詩では、コカーニュはスペインの西に在ると云い、一方フランスの詩では、コカーニュでは通りをガチョウの丸焼きが歩き(!)、若返りの泉が湧いていると云われました。
この様に、滑稽なお話にもかかわらず、西方の幸福の島の神話は、中世民衆の夢を育み、ドイツ人にとっては、イギリスが彼らの場所から見て、西方の島であったので、其れをエンゲルランドと呼び、スラヴ人も遠い西の国の果実がたわわに実る楽園を夢見たのでした。

 アイルランドとスコットランドのケルト人は、デエル・ナン・オグーは宮殿の立ち並ぶ都で、大西洋か未知の湖の底に在ると信じていました。
この空想は、アイルランドを侵略した北欧民族にも受け継がれ、彼らの帰国と共に、伝説も北欧へ伝わっていきました。
彼らは其れをアイルランド・ヒット・ミクラ(大アイルランド)と呼び、自分たちの見たアイルランド島の西に在ると信じたのでした。

本編終了・・・

2010/12/25

歴史の?その370:歴史と伝承の狭間⑥

<歴史と伝承の狭間⑥:地上の楽園は何処にその2>

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◎アーサー王の宮殿は何処に

 しかし、跡地の最有力候補は、ある程度考古学的証拠も存在する、サマーセットのキャドベリー城であると思います。
この城は、要塞化された丘の遺跡として、クイーン・キャメル村の近郊に在り、ヘンリー8世統治下の故事研究家ジョン・リーランドは、砦が発見された丘を土地の人々が、しばしば「キャラマット」と呼ぶと記しています。

 又、近くを流れるキャム川は、9世紀のイギリスの歴史家ネニアスの「ブリトン史」が語る、アーサー王最後の戦い、キャムランの戦場であったと考えられました。
かつて、農園の小作人達がキャドベリー城の西側に在る集団墓地で、大量の人骨を掘り出した事が有り、正にこの土地が戦場であった事を物語る様であったと伝えられています。

 戦闘で負傷した傷も回復し、王座に戻って黄金時代を築いたアーサー王の伝説は、もうひとつの中世伝説オギュギアの物語と酷似しています。
ギリシアの哲学者で文人のプルタルコス(西暦46年~120年頃)は、オギュギアの国は西の彼方、夕日の下の永久の美の土地に在ると書きました。
そこには、ギリシアの巨人族の神で、父ウラヌスを去勢し、王座を奪われる事を恐れ、自分の子供を次々と食べ続けたクロヌスが眠っていると云います。
アーサー王と同じく、クロヌスも後に目覚めて王座に就き、黄金時代を作り上げるのでした。

その3へ続く・・・

2010/12/24

歴史の?その369:歴史と伝承の狭間⑤

<歴史と伝承の狭間⑤:地上の楽園は何処にその1>

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 人間は何時も、この世の楽園を夢見てきました。
戦も貧困も知らず、総てのものに正義が行われる、大いなる平和と美の国、世の憂いと永遠に無縁で居られる島、其れが人類の夢でした。

 その様な民間信仰を取り除こうと、中世の教会は努めましたが、西方に楽園が存在するという神話は、社会の如何なる階層にも広く流布していました。
中でもケルト人は、人間の不朽の魂が、永遠の平和を得られる来世、すなわち死者の島の概念を持っていました。

 文人や吟遊詩人達は、それぞれにこれ等空想の国の物語を描き、或いは読み広め、更には海の彼方からヨーロッパの海岸に漂着した、めずらしい物が夢と現実をこの世に現す手助けをしました。

 古代ギリシア人からケルト人、アングロサクソン人迄、この様な地上の楽園は、おおむね夕日の彼方、西方の何処かに在ると考え、メロピス、オギュギア、幸福の島、ヘスペリスの園、アバロン等さまざまな名称で呼ばれていました。
スコットランド人とケルト人は特に、「若さの島:デエル・ナン・オグー」と呼びました。

 サクソン族に征服される以前に、ブリトン族を支配したと云われる伝説の王アーサーは、死期を迎えた時、ケルト族の「聖者の島」アバロン島へ小船で運ばれたと云われています。

 イングランド南西部のグラストンベリーは、かつてのアバロン島とされ、アーサー王の死の物語と結びつけて語られます。
1190年、グラストンベリー寺院の古い墓地で、アーサー王とギネビア王妃の遺骨と思われるものが発見され、あらためて寺院の礼拝所に収められ、その位置が1931年に再発見されました。

その2へ続く・・・

2010/12/23

歴史の?その368:歴史と伝承の狭間④

<歴史と伝承の狭間④・ベツレヘムの星その2>

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 大きな流星、若しくは大隕石の出現を唱える研究者もおりますが、流星の出現は一瞬であり、中空に静止する、ましてやその様に見る事すら不可能なのです。
現在、神学界に於いて受け入れられつつある説が存在し、この説では3人の賢者は占星術師で、上昇星位、つまり東の地平線上に特定の星が昇る事を計算し、救世主の誕生を予言したのだと云います。

 この考え方は、死海文書によってある程度、立証された様に思われます。
ここで死海文書とは、1947年に死海北岸の洞窟で発見された古文書で、古代宗教教団が書き残した物と云われ、文章の断片の中に、12宮の各星座に生まれた人間に、恒星と惑星が及ぼす影響を書き記した12宮図等の記録が発見されたのでした。

 文書には正義の師、又は光の王子に関する記述も存在し、神学研究者の中には洗礼者ヨハネとイエスを指すと解する者も存在します。
従って、当時の占星術師が天空を観測し、救世主の出現を予言すると信じられた、惑星同士の適当な合を割り出す苦心をしていた、とは言えるかもしれません。

◎救世主降誕の占星術

 イエスズ会の神学者、故ダニエル枢機卿は、ベツレヘムの星とは救世主占いの天宮図にある星座の一つであると云う説によっていました。
「東に主の星を見た」と云う3賢者の言葉を、上昇中の、つまりは星占いに於ける、最も重要な点に在る星を指すと表現と、ダニエル枢機卿は考えたのでした。
「当時のユダヤ社会に於いては、占星術が広く普及し、又救世主の出現が待ち望まれていたので、主が如何なる星の下に生まれるかについて、盛んに予測が行われていました。
こうして占星術の一つで予告された星座の組み合わせが、ひとたび実現すると、人々は救世主が降誕したと信じ、その場所を捜し求め始めたであろう事は、想像にかたくありません」と枢機卿は書き記しています。

 この言葉に表されている事象こそが、東方の3博士つまりは占星術師達が、ヘロデ王を訪れた時に王に示した事なのでしょう。

本編終了・・・
2010/12/22

歴史の?その367:歴史と伝承の狭間③

<歴史と伝承の狭間③・ベツレヘムの星その1>

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 東方の3賢者をキリスト降臨の地へ導いたと、新約聖書に伝えられるベツレヘムの星は、数世紀来、神学、天文学、歴史学に於ける謎でした。
いったい如何なる現象が、マタイ伝が語る様に、東の空に現れ、3人の賢者を導いて移動し、「御子のおわす場所の上空迄来て止まる」事が出来たのでしょう?

 一般には、キリスト生誕の頃、聖地の上空に出現したハレー彗星を、賢者達が吉兆と見なしたのであろうと信じられています。
しかし、この説には侮りがたい反論が存在するのです。
ハレー彗星は、西暦紀元前12年に中東上空の北緯31度、つまりベツレヘムと殆んど同緯度の空に出現した事が、現在では判明しています。

◎ハレー彗星

 マタイ伝によれば、東方からやって来て星を「見た」3賢者はヘロデ王の御前に出向き、王は彼らに神の子を探し出す様に求め、そして「彼らは王の頼みを聞くと出発した。すると、見よ、東の空に見えていた星が、彼らの先に立ち、御子のおわす場所の上空に止まる迄、彼らを導いたのだった」と書かれています。
それならばなぜ、マタイが言う様に、ヘロデ王は御子が何処に居るか「尋ねる」必要があったのでしょう?

 ハレー彗星は、他の彗星と同様に、如何なる場所からも同じ明るさで見え、しかも、伝えられている様に、人の先頭に立って進み、ある一点で静止する様な事は、絶対に在り得ません。
いずれにせよ、キリストはローマ帝国の国勢調査が実施された頃、つまりは多くの研究者が語る様に、西暦紀元前4年に生まれたと考えられ、この年、世界の如何なる場所に於いても、彗星出現の記録は存在していません。

 ベツレヘムの星は、超新星であった可能性を示唆する説も存在します。
超新星は恒星の末期に爆発を起こした星であり、日中でも肉眼で可能な程の輝きを放ち、数ヶ月にわたって輝き続けますが、キリストの生誕時期に超新星が見られた記録も存在しないのです。
もし、この様な大異変が天上で発生していれば、キリストと同年代の年代記執筆者や、歴史的人物が目にしたばかりでは無く、ローマ人や中国人も記録を残しているはずなのです。

その2へ続く・・・
2010/12/21

歴史の?その366:事実と伝承の狭間②

<事実と伝承の狭間②・失われた大陸その2>

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◎諸言語の源

 チャーチワードは1866年、若くしてイギリスインド派遣軍として、赴任します。
当時インドは、未曾有の大飢饉と成っていました。
其の時、一緒に救護活動を行っていた、或るヒンズーの高僧(リシと呼ばれる階級の高僧)が彼に、古代の言葉ナアカルを教えたと述べています。
この言葉は、全人類の話し言葉の源らしいと彼は、解釈しそれを紐解いて行く内に、ヒンズーの寺院の奥深くに所蔵された、古代の石版からムー大陸の事を始めて知ったのでした。

 石版に刻まれた物語は、次の様な物語でした。
人類は200万年前、ムー大陸に始めて出現し、進化の過程を経て、大陸には何時しか6400万人もの人間が生活する場所と成りましたが、その大陸は、僅か一回の巨大な火山活動で破壊され、海洋に没してしまいました。
そして、その僅かな生存者が、現代人類の母体と成っていったと説いています。

 レムリアもムーも、とも存在していたと考えても不自然では在りません。
地球上の大陸は、原始大陸パンゲアを始め、幾度もその姿を変えて現在に至っているのです。
数千km離れた大陸が、遥かな太古に一つで在り、遠く離れた土地に同種の動植物が繁茂、繁栄する事も同様なのです。
しかし、ここで重要な事は、大陸の移動、沈没は現在の学説に於いて、人類が地上に登場するよりも更に数百万年前のお話なのです。

本編終了・・・

2010/12/20

歴史の?その365:事実と伝承の狭間①

<事実と伝承の狭間①・失われた大陸その1>

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 失われた大陸や都市の物語は、何世紀も以前から人間の想像力をかきたてて来ました。
紀元前15世紀に、地震と津波によって破壊されたと云うアトランティス大陸の検証は、現在もなお続けられています。
しかし、もしも伝説が信用し得るものとすれば、それより遥かに大きな文明が2つも、自然災害の犠牲となり跡形も無く消えたのでした。
其れは、レムリアとムーの両大陸で、それぞれがエデンの園で在ったと信じられています。

 19世紀中葉の研究者達は、かつてレムリア大陸が現在インド洋と成っている広大な海域に存在したと主張し、数千キロも海を隔てた諸大陸に類似の植物・動物相が見られるのは、その為であると説きました。
レムリア大陸の命名者でもある、イギリスの動物学者P・L・スタレーターによれば、キツネザル(レムール・レムリア大陸の意味)は、アフリカ、南インド、マラヤとインド洋を取り巻く様に分布しており、之は大陸の中央部が波に飲まれた時、周辺部に分けられた為と、主張しました。
その故郷は、恐らくマダガスカル島からアジア南岸を経て東インド諸島に至る、広大な土地でした。

◎化石の証言

 この説は、南アフリカのナタールと南インドで共通の動物化石が発見されて、信憑性が強まりました。
19世紀の進化論者、例えば、イギリスのトマス・ハックスレーはレムリア実在説を支持し、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルは更に一歩進めて、消えた大陸は、「人類発祥の地で在ったと考えられる」と述べた程でした。
この考え方が発展して、レムリア大陸がエデンの園出あったと言われる、原因なのです。

 一方、ムー大陸は太平洋に存在したと、云われています。
1870年にムー大陸を世界に始めて紹介した、イギリス系アメリカ人、ジェームズ・チャーチワードによれば、この失われた大陸は、東西8000km、南北4800kmで、中心は赤道よりやや南に位置していたと説いています。

その2へ続く・・・

2010/12/18

歴史の?その364:人類の築いた物⑯

<人類の築いた物⑯・二つの大陸を結ぶ電信線その3>

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 ビクトリア女王からアメリカ合衆国第17代大統領 アンドリュー・ジョンソンへのメッセージ

◎最後の勝利

 幾たびも電線の設計と試験を繰り返し後、1865年に新しい電線が製作され、長さ3680km、直系2.5cm以上の太さを有し、中心部の電線は最初期の電線の3倍近く、頑丈に保護され、総重量はその2倍近いものと成りましたが、浮揚性は、遥かにすぐれたものでした。
更に5000トンにも及ぶ資材を1隻で積載出来る、当時世界最大の蒸気船、グレート・イースタン号の使用が可能と成りました。

 1865年7月23日、グレート・イースタン号がバレンシア湾を後にした時、フィールドも乗船しており、今回、彼が抱いている成功への期待は大きかったのです。
しかし、依然として次々と難題が持ち上がります。
電線の表皮に使用した鉄製皮膜が、強度不足で剥がれ易く、3回にわたって電気的事故を誘発し、3回目の事故では、度重なる事故で疲労していた電線が、終に切断され1600km分の電線が海底に没してしまいました。

 今回の失敗は、以前に比べると技術的な面では軽微なものでした。
新たに電線の製造方法を改良し、亜鉛メッキした鉄製皮膜で、電線を包みこむ事で、3850km分の電線を1866年1月に発注、1866年7月13日の金曜日、グレート・イースタン号は、再びアイルランドを出港しました。
13日の金曜日という、ジンクスにも関わらず、今回の作業は終始順調に進み、7月27日グレート・イースタン号は、ニューファンドランド沿岸のハーツ・コンテント(心の満足)に姿を現し、電信局の前に錨を降ろしました。

 今回の航海で、グレート・イースタン号は海底電線の敷設の成功したばかりでは無く、1865年に沈んだ電線の回収にも成功、しかも4000mの深海から回収して、新しい電線と接続するという快挙も成し遂げました。
この結果、2本の海底電線で、イギリスとアメリカは結ばれたのでした。

 終に信念の正しさを証明した、フィールドは、感謝の意を込めて、次の様な電文をニューファンドランドからニューヨーク宛てに送信しました。
「ハーツ・コンテント、7月27日、今朝9時現地到着。全て良好。電線敷設完了し完璧に作動中。神に感謝。
サイラス・W・フィールド」

続く・・・

2010/12/17

歴史の?その363:人類の築いた物⑮

<人類の築いたもの⑮・二つの大陸を結ぶ電信線その2>

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 8月6日、二隻はアイルランド沿岸のバレンシア湾を出港、計画では、ナイアガラ号が積み込んだ電線を敷設しながら、大西洋中部迄進出し、其処でアガメムノン号が積んだ電線に接続の上、アメリカ西海岸のニューファンドランド迄の敷設作業を完了させる事に成っていました。
しかし、二隻のケーブルを送り出す装置が、極めて脆弱な上、ナイアガラ号担当区間の540km進んだ地点で、電線が切断、50万ドル相当の電線が、海底に沈んでしまいます。
二隻は、残った電線を積んだまま、アイルランドに帰還しました。

 1858年には、再度違った方法が採用され、二隻は大西洋の中間地点で会合し、両方に積まれた電線を接続の上、アメリカ艦はニューファンドランドへ、イギリス艦はバレンシア湾に向かって航行する予定でしたが、この方法も3回の切断事故に見舞われてしまいます。

◎束の間の成功

 イギリスで開かれた、大西洋海底電線会社の重役会は、陰気な空気に包まれ、重役の幾人かは辞任してしまいますが、其れでも、もう一度挑戦する事で、役員会議は収拾されました。
7月29日、アガメムノン号とナイアガラ号は、大西洋の中間地点で会合し、最後の電線の送り出しを開始します。
乗組員、関係者の中で作業が成功すると、思っている人間は皆無でしたが、幾度か事故寸前迄行った事もあったにも関わらず、1858年8月5日、ニューファンドランドのナイアガラ号から、バレンシア湾のアガメムノン号へ、初めて信号が打電されます。

 是は、全く予想外の成功で、両国は大変な興奮に包まれました。
9月1日には、フィールドの栄誉を称えて、ニューヨーク市民の歓呼の下、盛大な祝賀会が挙行されます。
しかし、式典の参加者には知らされていませんでしたが、当初から完全に作動していなかった、海底電線が、正に式典の当日、機能停止を起こしてしまいました。

 この事実が公にされると、一般の反響は手厳しいものでした。
電線等最初から敷設されておらず、この事業全体が、フィールドの大掛かりな陰謀だと非難する人物も登場し、イギリスでは、商務省が調査委員会を設置します。
1860年に提出された報告書には、新しい電線の製造、敷設、維持に適切な注意が払われるなら、この事業は成功するとの見解が示されます。

その3へ続く・・・

2010/12/16

歴史の?その362:人類の築いたもの⑭

<人類の築いたもの⑭・二つの大陸を結ぶ電信線その1>

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 大西洋横断電線の敷設工事が、初めて成功したのは、1866年の事でしたが、この快挙は、ニューイングランド出身の実業家、サイラス・W・フィールドが、その事業の先見性と不屈の精神に因るものでした。
彼は、ニューヨークの紙商人として非常な成功をおさめ、可也の資産を築きました。
1852年、33歳で実業界から身を引いたフィールドが、大西洋横断海底電線敷設の可能性に興味を抱き始めたのは、1854年の事でした。

 フィールドはまず、初めて実用となる電信機を発明した、サミュエル・F・B・モースと、ワシントンの国立気象台に勤務する、当時、海洋学の第一人者マシュー・フォンティン・モーリーに手紙を送り、両者は熱烈な賛意を示したのでした。
特にモーリーは、その頃行われた北大西洋海域の調査に結果、ニューファンドランドとアイルランドの間には、海底台地がある事が判明し、海底電線敷設に適した地形である事を教えたのです。

 フィールドはこの吉報を持って、資金調達に奔走し、彼の人を説得する才能は、正に驚くべきもので在った様で、約1年間でイギリス海軍から、電線敷設ルートの調査と、電線敷設作業に対する協力を取り付け、更にイギリス大蔵省から、海底電線が完成するまで、毎年1万4000ドルの補助金支出の約束を得て、民間機関からの資金調達にも成功しました。

◎問題

 しかし、フィールドの母国アメリカの人々は、イギリス人程熱心では在りませんでしたが、其れでも1857年、アメリカ合衆国議会は、電線敷設を援助する為、毎年の補助金支出と、作業船提供に関する法案を僅かな差で可決したのでした。

 一方イギリスでは、電線の製造が進められ、1857年7月に完成を見ます。
電線は膨大な量になり、その重量は1kmあたり600kgという重い物だった為、敷設にはイギリス海軍のアガメムノン号とアメリカ海軍砲艦ナイアガラ号が、使用される事に成りました。

その2へ続く・・・

2010/12/15

歴史の?その361:人類の築いた物⑬・グレート・イースタン号

<人類の築いた物⑬・グレート・イースタン号>

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 イザンバード・ブルーネルは、燃料補給無しにオーストラリア迄、往復できる大きさの船を建造する構想に取組み、グレート・イースタン号、グレート・ウエスタン号の2隻を設計し、みごとな成功を収めました。
彼が見つけた後援者は「イースタン・スティーム・ナビゲーション社」で、インド・オーストラリア・極東諸国との通商を目的として、1851年に創立された企業でした。

 グレート・イースタン号は、当時の造船界の常識を覆す設計の船で、全長211m、外輪部の船幅36m、2基の蒸気エンジンが、直径17mの外輪と直径7mのスクリューを駆動させ、排水量3万2000トンに達する文字通り巨船でした。
船体は、箱形はり構造で造られ、フレームと外殻は2重構造になっており、其の上10区分からなる、防水区画に仕切られていました。

 この巨船は、ロンドンのデビット・ネイピア造船所で建造が開始されましたが、造船所付近では、テームズ川が狭くなっている為、川に向けて直角に進水させる事が出来ません。
その為、船は川と平行に建造が開始されたものの、この巨体を動かして、川に浮かべる事そのものが、大変な難問で、幾週間も陸上に置かれたままになる程でした。
建造費は、果てしなく増え続け、ブルーネルは、心労と過労で倒れてしまいます。

 1858年1月31日、進水作業に伴う事故や困難を乗り越えて、船体は漸く水面に浮かびました。
しかし、是で全ての問題が片付いた訳ではなく、1859年9月、ウェイマス迄の洋上公試では蒸気管が破裂して、煙突部分を破壊し5名の犠牲者を出してしまいます。
この事故の一報は、ブルーネルの病状悪化に拍車を掛けてしまい、彼は其れから、数日後の1859年9月15日に死去します。
 
 「イースタン・スティーム・ナビゲーション社」は、船の就航が延滞した為、資金収支が悪化、船は新しい船会社「グレート・シップ社」の手に渡ります。
この新会社は、グレート・ウエスタン号を大西洋航路に投入したものの、その定員1400名が満席に成った事は、一度も無く、更に船は2度の航海で、大きな損傷を受けていました。

 この二つの事故に伴う修理額は、65万ドルの高額となり、船体は売却され、新たに船主になったのは、「グレート・シップ社」の元株主3人で、彼らは船体を「テレグラフ・コンストラクション社」にリースし、海底電線敷設船に転用される事となります。

 こうして、「グレート・イースタン号」は本来の能力を発揮し、1865年7月、最初の敷設作業に従事するものの、1600km地点で電線切断事故が発生、回収の試みは全て失敗、翌1866年再挑戦で見事に成功を納めると同時に、前年回収出来なかった電線の回収に成功します。
この実績を認められ、この後もフランスからアメリカ、ボンベイからアデン、紅海沿岸の海底電線の敷設に活躍します。
1888年現役を引退し、船体は解体されますが、この巨船の排水量を越える船が建造されたのは、20年後の事で、その船が、1915年ドイツ軍Uボートに撃沈された、豪華客船ルシタニア号でした。

続く・・・
2010/12/14

歴史の?その360:人類の築いた物⑫・クリミア戦争の陰の英雄達

<人類の築いた物⑫・クリミア戦争の陰の英雄達>

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 クリミア戦争の陰の英雄達。
当時、ヨーロッパ最精鋭のロシア騎兵隊を蹂躙した、軽騎兵隊は、賞賛され、栄誉を担いました。
しかし、陰の英雄達は、鉄道敷設に活躍した労働者達でした。
彼らは、何千人もの兵士を、敗北と死から救ったのです。

 1854年の晩秋、イギリス軍はクリミア半島の大海軍基地、セバストポリを包囲しました。
しかし、作戦の遂行が遅れ、更に敵情報への判断ミスから、ロシア軍の増援部隊派遣を許す結果と成りました。
しかも、ラグラン将軍指揮下の3万人の将兵は、その寒さと寒気がもたらす様々な身体的不遇に苦しめられます。

 嘗てナポレオンのロシア遠征軍を敗走に導き、後世には世界最強と詠われたドイツ軍機械化機甲師団をも駆逐した、ロシアの冬の寒さが、日増しに厳しさを加え、唯一の港であるバラクラバ港に通じるたった一本の道路は、終に通行不可能と成り、食糧、飲料水、衣料、医薬品、更には弾丸、弾薬の補給が困難に成ってしまいました。

 イギリス軍にとって幸いだった事は、鉄道建設の権威、サミュエル・モートン・ベローがイギリス下院議員として在籍していた事でした。
ベローは有志を募り、イギリス軍援助の為、利益を度外視して鉄道建設を行う事を提案。
作業員250人、工夫長と石工30人、大工80人、鍛冶20人、機関士10人から成る建設部隊を、クリミア半島に送り込む作戦を展開します。
この鉄道建設部隊は、軍隊とは異なる、民間鉄道建設隊として編成されました。

 鉄道建設部隊は、必用な物資を全てイギリスから持ち込みます。
つるはし、ショベル、ロープ等の軽装備から、クレーン、杭打ち機等の重装備、更にレール、機関車、貨車迄現地に運び込みました。

 鉄道部隊の隊員にとって、ロシアの厳冬は大きな問題には成りませんでした。
彼らは、アメリカ合衆国やカナダで、同様な環境の基に鉄道敷設工事を幾度も経験していたからでした。
建設部隊はまず、暖かい頑丈な作業員小屋を設営し、8kmの線路を敷設しますが、この工事に要した日数は10日足らずで、ヘンリー・クリフォード大尉の言葉を借りれば、この部隊は「イギリス軍の1個連隊が、1週間以上掛る仕事を1日で完了させる」事が可能だったのです。

 バラクラバ港からセバストポリを見下ろす丘迄の11kmに、複線の線路を敷設する作業は、6週間で完成した上、支線を含めた鉄道の総延長は45.6kmにも及び、この鉄道は開通と同時にイギリス・フランス両軍に引渡されました。
両軍はこの鉄道線路を経由して、1日平均112tの物資を輸送する事が出来ました。

 4月には、兵員、装備品の再補充も完了し、イギリス、フランス両軍の猛攻撃を受けたロシア軍は、9月にはセバストポリを放棄せざるを得ない状況に追い込まれ、結果はイギリス、フランス軍の勝利で、クリミア戦争は終結します。

続く・・・
2010/12/13

歴史の?その359:人類の築いた物⑪・カナダ太平洋鉄道

<人類の築いた物⑪・カナダ太平洋鉄道>

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 カナダの太平洋岸と大西洋岸を結ぶ、カナダ太平洋鉄道は、土木建築工事として特出される事業であるばかりか、1つの国家を形成するに至った事業でも在りました。

 1867年、カナダ東部のオンタリオ、ケベック、ニューブランズウィック、ノバスコシアの4州は、南部に位置するアメリカ合衆国の脅威に対抗する為、連邦を形成しました。
しかし、太平洋岸に位置する、ブリティッシュコロンビアは、依然として陸の孤島であり、サスカッチュワン、アルバータは、ノースウエスト・テリトリーのまま存続していました。
カナダ議会は、ブリティッシュコロンビアを連邦に編入させる為、大陸横断鉄道の建設を承認したのでした。

 6人の資産家によって、カナダ太平洋鉄道会社を設立し、資本金2500万ドル、100万ヘクタールの西部1級地、20年間の免税特権保証の基、鉄道建設工事は着工されたのでした。

 シカゴ出身のウィリアム・コーネリアス・バン・ホーンが鉄道敷設工事を指揮し、建設工事が容易に進んだ草原地帯を越え、スペリオル湖北岸の荒野へ線路を伸ばす為に投入した物資は、1万2000人の建設要員、5000頭もの馬、更に削岩機、火薬等、膨大な物量に上ります。
容易に進行した草原地帯の敷設工事とは対象的に、北岸以降の工事は困難を極め、1kmの区間を進む為に花崗岩の岩盤を切り開く作業には膨大な日数を要し、湿地地帯ではその脆弱な地質の為、作業用機関車が3両も水没する等、予想外の被害を被り、これらの難工事区間では、10cmあたり43ドルの建設費を要しました。

 此処に至り、建設費は予算を超過する2700万ドルに達し、債権者は出資金の返済を要求し始め、バン・ホーンは新たに3500万ドルの追加借款を議会に申し出るものの、議会はこの申し出を却下し、カナダ太平洋鉄道会社は破産の瀬戸際に立たされます。
この事態の最中、ネイティブアメリカンと混血の無政府主義者、ルイ・リエルの煽動で、サスカッチュワンに反政府運動が勃発し、カナダ政府はその鎮圧の為、急遽軍隊を紛争地域に派遣する必要が生じました。

バン・ホーンは、未完成だった鉄道線路を使って、兵力4000名の軍隊を11日以内に現地に輸送する事を請負、その大任を果たす事が出来ました。
その速達性、確実性がカナダ国民に対し、鉄道建設の重要性を認識させ、是を機会に新たな資金の調達が成されました。

 東西から始まった鉄道建設は、次第に完成に近づき、1886年7月4日両方の線路は、最後の犬釘が打たれ完成したのでした。
この日、モントリオールを発車したパシフィックエクスプレス号が、太平洋岸の終点ポートムーディ迄4675kmの全線を走行します。

 現在、カナダ太平洋鉄道会社は、航空、海運、ホテルと言った関連会社を有する巨大企業となりました。

続く・・・

2010/12/11

歴史の?その358:人類の築いた物⑩・ユニオン・パシフィック

<人類の築いた物⑩・ユニオン・パシフィック>

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 大陸横断鉄道建設法案が、アメリカ合衆国議会の承認を得た時、新しい鉄道建設を推進する状況では在りませんでした。
当に南北戦争の最中で、中部平原地帯では、ネイティブアメリカンとの衝突が、頻発していたのです。
しかし、議会は1862年、ユニオン・パシフィック鉄道建設法案を可決しました。

 セントラル・パシフィック鉄道が、カリフォルニアのサクラメントから東に向けて鉄道建設工事に着工し、ユニオン・パシフィック鉄道が、ネブラスカ州オマハから西に向かって、建設工事を推進する事で合意が成立、1863年工事が始められました。

 セントラル・パシフィック鉄道側の工事を指揮したのは、チャーリー・クロッカーでしたが、工事開始地点から130km地点で、早くも大きな障害に遭遇しました。
シエラネバダ山脈の花崗岩の斜面が行く手を塞ぎ、一方、グレンビル・ドッジ将軍が指揮するユニオン・パシフィック鉄道側は、白人に敵意をもつ、スー族やシャイアン族の土地を横断しなければ成りませんでした。

 ドッジ将軍指揮下の建設部隊の大部分は、アイルランド系で占められていましたが、クロッカー隊の主力は、中国系でした。
「東洋人に、鉄道建設の様な仕事は出来ない」と言う者に対して、クロッカーはこの様に返答しました。
「彼らは万里の長城を造った。あれは、石の建造物では世界一である」と。
1866年から67年にかけて、冬の寒波は特に厳しく、多くの作業員が凍死や雪崩によって命を落とし、特に1867年2月の猛吹雪は、12日間に渡って荒れ狂い、作業員小屋が18mの雪の中に埋められてしまう程でした。

 しかし、東西から延びてきた線路は、終にユタ州プロモントリー・ポイントで出会います。
西の基点から1110km、東の基点から1748kmの地点で結ばれ、更にユニオン・パシフィック鉄道は既存の東部の鉄道と結ばれ、大陸横断鉄道は完成したのでした。

 1869年5月、プロモントリー・ポイントには、銀のプレートが打たれたマホガニー製の枕木が置かれ、開通式には、東西を出発した機関車が、ここで出会い、記念の犬釘が打ち込まれました。
この時、本当に西部を開拓したのは、大陸横断鉄道を完成させた、ドッジ将軍指揮下のアイルランド人と、クロッカー指揮下の中国人の人々でした。

続く・・・
2010/12/10

歴史の?その357:人類は築いた物⑨・太陽王の宮殿その2

<人類は築いた物⑨・太陽王の宮殿その2>

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 この庭園の最大の呼び物は、泉と滝で、是には膨大な水道設備と巨大な揚水設備が必用で、セーヌ河から導水する為に1681年から1684年に渡って「マリルの機械仕掛け」を作り導水する計画でしたが、この装置は度々故障を繰り返し、計画通りには進みませんでした。
その為、今度は、ユール川の流れを変える計画が実行に移されたものの、人命の犠牲、財政支出は膨大となり、1686年に中止と成りました。

 是は、人命の喪失や、財政圧迫が原因で工事が中止に成ったのではなく、無報酬労働部隊の兵士が、本業の戦争に必用と成ったからでした。
結局、ベルサイユとランブイエの間にある台地の水を集め、水路網を通じて庭園に流し込む方法が採用されました。

◎不  便

 1682年、宮廷がベルサイユに移り、1789年迄此処は、フランス国王の住まいと成りました。
其れまでのルイ14世の宮殿同様、壮大華麗な建造物で、9000人の軍隊、1000人の廷臣、4000人の召使が生活をともにしましたが、豪華で華麗な部屋の数々も、日常の生活には不便な事この上なく、暖房は事実上不可能、トイレ等の衛生設備も皆無でした(!)。

 ルイ14世の死後、その曾孫にあたるルイ15世がベルサイユ宮殿を更に増築し、この部分が後日、ルイ16世の王妃マリー・アントワネットお気に入りの休息場所となった「小トリアノン」なのです。
ルイ16世は、マリー・アントワネットの為に続きの間を増築しました。

 しかし、ベルサイユ宮殿の権力と影響力は、1789年のフランス革命で終焉を迎えます。
革命後、家具調度品や装飾品は、売却され、盗まれ、宮殿自体も手入れもされず放置されていましたが、修復作業は19世紀半ば、ルイ・フィリップによって行われ、アメリカ合衆国が是をしました。
時代は移り、ベルサイユ宮殿は、王朝政治華やかなりし頃を象徴する、博物館として今日に至っています。

補遺「マリルの機械仕掛け」

 水不足は、終始ベルサイユに付きまとった大問題でした。
飽くことを知らない、ベルサイユの需要を満足させる事が可能な水量が、確保された事は一度も在りませんでした。
 庭園用だけでも、ルイ14世は1400の泉への給水を命じました。
必用な水量は、パリ全体の需要を賄うに足る程で、国王がベルサイユ宮殿の庭を散策するとき、庭園付の召使が制御装置を操作し、噴水が出る様にしました。
もし、噴水が作動していなければ、庭園監督官は、罰金を徴収されたそうです。

 ルイ14世が、庭園を潤うに足る大量の水を求めた事が契機となり、さまざまな計画や発明が生れたのでした。
その内、現在でも最も有名な機械装置が、巨大な「マリルの機械仕掛け」なのです。
建造が始まったのは、1681年で、その目的は本文でも触れた様に、セーヌ河から絶え間なく水を汲み上げる事でした。
幅11mの巨大な14機の水車が221個のポンプを稼動させ、セーヌ河に続く丘の斜面を、160mの高さ迄水を運び上げる事に成っていました。
工事の完成は、1684年、この後、水をベルサイユ近郊の貯水池迄送る為の水道工事が始まりましたが、この大掛かりな機械は、故障が頻発し、その修理維持に莫大な費用が掛ったのでした。

終わり・・・ 

2010/12/09

歴史の?その356:人類が築いた物⑧・太陽王の宮殿その1

<人類が築いた物⑧・太陽王の宮殿その1> 

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 一人の国王の虚栄心が、一国の財政を破局に追い込みましたが、私達はそのおかげで、異常なほどに壮麗な宮殿を現在でも見る事が出来ます。
その国王とは、フランス、ブルボン王朝のルイ14世、財政を破局に追い込んだ建築物とは、ベルサイユ宮殿の事なのです。
ベルサイユ宮殿は、フランスの宮廷と政治の中心に成りましたが、そもそもの始まりは、狩猟用の質素な館でした。
 ルイ13世はこの館を、宮廷の仕事や政務の煩わしさから、逃れる安息の場所として使用していましたが、1627年、この場所に小さな城を建てました。
ルイ13世の死後、息子の「太陽王」ルイ14世は、城を建て替え、壮麗な宮殿によって、自分の栄華を後世に伝え様と試みたのです。
1661年、造営工事が開始されましたが、世界で最も素晴らしい建物を建てる為に選んだ土地は、建築家にとって、当に悪夢の様な土地でした。
土壌が細かい砂の為に基礎の土台の一部は沈下し、その周囲は見渡す限り荒涼とした場所でした。

 ルイ14世は、建設作業を自ら監督する熱心さで、費用が幾ら掛ろうとも、国民の生活が如何に困窮しようとも、そして工事による犠牲者が幾人でようとも、一向に気に止める事は有りませんでした。
ベルサイユ宮殿造営の現場では、1日3万人以上もの人間が工事に携わりましたが、是等人間の多くは無報酬か、強制労働であり、更にその作業環境は劣悪を極め、伝染病が蔓延して、多くの人間が死亡しました。
さすがにルイ14世も、余りの死者の数に多さに、廷臣がこの問題を口にする事を禁じた程なのです。

◎一流好み

 時間、創意、金銭が惜しみなく注ぎ込まれ、ベルサイユ宮殿造営現場は、フランスの建築工学の一大展示場となり、植樹が行われ、庭園造営の為、大理石、青銅の像が運び込まれ、時にはルイ14世はパリからフランス宮廷の総勢を引き連れて進捗状況を見聞した程でした。

 ルイ14世は自分の野望を満たす為に、当時フランスで最高の建築家を登用し、まず手始めにルイ・ボーが、ルイ13世時代の建物を改築する仕事にあたり、次いで1678年、ジュール・マンサールがこの仕事を引継ぎ、城の主要部分を改造し、両側に北ウイングと南ウイングを建設し、正面の全長600m、窓の数は375を数える迄に成りました。

◎水不足

 庭園の面積は100ha、造園にあたったのは、アンドレ・ルノートル。
ルイ14世は花を好み、毎年400万個ものチューリップの球根を輸入していました。
この庭園最大の呼び物は、テティスの洞窟と動物園の二つで、洞窟は小石と貝殻で覆われ、水力で作動するオルガンが内部に納められており、更に水が流れ出る仕組みも隠されていました。

 動物園にはエキゾティックな動物や鳥類が収集されており、更にルイ14世は全長1600m、幅60mの運河を掘削して、如何にも運河らしさを演出する為に、ゴンドラを始めとする色々な船が浮かべられました。
又、1684年、マンサールはオレンジの成木を輸入して、オレンジ園を作りました。

その2へ続く・・・

2010/12/08

歴史の?その355:人類が築いた物⑦・戦艦バサ号

<人類が築いた物⑦・戦艦バサ号>

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 スウェーデン王家の名前をとった、巨大な戦艦バサ号が、愈々出港するという知らせが広まり、1628年8月10日、ストックホルムの町は興奮した群集で、あふれていました。

 国王グスタフ・アドルフ2世は自ら、この船の建造を命じ、133人の乗組員と300人の戦闘員を乗せるこの戦艦は、全長55m、排水量14,000tに達するもので、3層の甲板には64門の青銅製大砲が設置された強力な戦闘艦でした。

 時刻は午後4時、既に巨大な戦艦の出港準備は完了し、岩壁に詰め掛けた群衆の歓声と、艦隊の礼砲の轟く中、バサ号は錨を上げ、優雅に岸を離れたのでした。

 その時突然、湾内を突風が吹き抜け、思いがけない悲劇が発生したのです。
その風に、左舷が大きく傾き、乗組員のバランス補正も間に合わず、最下層甲板の開かれた四角い砲門から、大量の海水が一斉に流れ込み、数分の内に海はバサ号を飲み込み、生存者は僅かな人数だけでした。

 さて、バサ号の悲劇から300年程が過ぎた頃、1人の青年が、二つの手掛かりに導かれて、水中探検史上、最も目覚ましい成果を上げる事になるのです。
第一の手掛かりは、フナクイムシでした。
1930年代も終わりに近い頃、20歳に成ったばかりのアンデルス・フランセンは、スウェーデンの西海岸沖を帆走している時、フナクイムシが穴だらけにした流木を見つけました。
バルト海の帆走に長けていた彼は、是ほどまでに食い荒らされた流木を、其れまで見た事が無かったので、大変不思議に思い、調べてみると、バルト海は塩分が少ない為、ムナクイムシが、其れほど盛んに繁殖しない事が分りました。
彼は、戦艦バサ号が、現在もバルト海の海底に存在していると推定したのでした。

 古い沈没船を調査する事を夢見ていたフランセンは、第二次世界大戦後、バサ号とその沈没場所について、出来得る限りの情報を収集し、4本爪の錨と牽引ワイヤーで港の底を浚いましたが、4年間全く手掛かりになる様な物品は発見できませんでした。

1956年、終に第二の手掛かりとなる、古い黒く変色した樫材の破片を引き上げ、フランセンは水中で、樫材がこの様に変色するには、100年以上の歳月がかかる事を知っており、古い沈没船に遭遇した事は、間違い有りませんでした。

 彼の推察は的中し、バサ号は水深35mの海底で、喫水線迄厚さ5mの泥の中に埋まっていたのです。
引き上げの第一段階では、泥の中にトンネルを堀り、船体の下に鉄製ケーブルを潜らせ、沈没船を浮きドックから吊り下げ、浮きドックを上下させる事によって、船を泥から引き出し、浅瀬迄移動させる事に2年の時間を費やしました。

 第二段階では、ダイバーが砲門並びに開口部を全て遮蔽し、ケーブルと浮きドック、水圧ジャッキの力を借りて、1961年4月24日、終にバサ号を水面に引き上げたのでした。

 現在、戦艦バサ号は、ストックホルムに特別に建設された、博物館に納められており、木材が歪まない様に、絶えず蒸気と薬品が吹き付けられており、博物館には、乗組員の所持品も納められ、衣装箱、武具、道具類、貨幣等が、17世紀の海員生活の素晴らしい縮図を示しています。

続く・・・
2010/12/07

歴史の?その354:人類の築いた物⑥・攻城戦Ⅱ

<人類の築いた物⑥・攻城戦Ⅱ:火薬の要らない大砲>

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 西洋世界では、火薬が使用され始めるよりも前から、軍隊は、様々な物を敵に向かって投げつける、飛び道具を備えていました。
最も強力な飛び道具の一つに、古代ギリシア人が使用した石弓が在り、約2kgの木製の矢を400m以上飛ばす事が可能でした。
西暦537年頃のローマ包囲戦の最中、あるゴート人の首長は、石弓の矢の直撃を受け、樹木にまさしく磔にされたと云う記録が残っています。

 この石弓を後方から支援したのが、投石器であり、現在の臼砲に相当する兵器です。
投石器は、敵に向けて発射するというより、敵の方向に「弾丸」を高く打ち上げて発射する兵器でした。
投石器は、梃の原理を応用した腕を持ち、その一方の端に弾丸を載せる受け皿が設けられました。
縄若しくは、動物の腱か生皮、時には人毛を用いて作られた、弾性のある綱の力と梃を応用して、弾丸を相当の長さで飛ばす事が可能でした。
この投石器と石弓は、12世紀迄、攻城戦の主力兵器として、使用されます。

 中世になると、投石器は更に梃の原理を応用して、天秤投石器に発展し、中には腕の長さ15m、10tの重りを用いて140kgの弾丸を、500m以上飛ばす事が出来る大掛かりな兵器と成りました。

 此処で「弾丸」に使用されたのは、石ばかりで無く、既に紀元前400年頃には、火を点けた液体燃料の壺(ナパーム弾、燃料気化爆弾の前身)が現れ、7世紀にはまさにナパーム弾まで登場します。
是は、「ギリシアの火」と呼ばれ、硫黄と石油、生石灰の混合物で、何よりも恐るべき性質は、水を掛けると更に火力を増す事でした。
この「ギリシアの火」は。中世初期において、現在の核爆弾と同様、最終兵器と見なされ、西暦717年、レオ3世のコンスタンチノープル攻略作戦で実戦に投入され、恐るべき効果を上げたと云われます。

 現在の心理作戦に相当する戦術では、恐怖心を抱かせる手段として、敵の死体や生きたままの捕虜を「弾丸」に使用し、敵軍の真中に送り込み、細菌戦の発端とも言える、腐乱死体の投弾迄行われました。
西暦1422年のキャロルスティン攻防戦では、守備軍の頭上に荷馬車200台分の糞尿が浴びせかけられたと記録されています。
天秤投石器の最後記録は、西暦1480年ロードス島攻略作戦の時で、侵攻したトルコ軍は、重火器を備え防衛軍側は、圧倒的に不利でしたが、破れかぶれで天秤投石器を作り、トルコ軍の砲火を沈黙させました。(!)

投石器は、黒色火薬の登場により、過去の兵器と成りました。
黒色火薬は、中国で最初に使用され、13世紀には、西洋世界にも知られる様になり、14世紀には、最初の大砲が製造されるのです。

補遺:アルキメデスの太陽光兵器

 2000年以上昔の数学者で、哲学者でも在ったアルキメデスは、太陽光を兵器として利用したと云われます。
紀元前215年と同212年、ローマ艦隊のシラクサ攻撃の時、彼は太陽光を反射させて、ローマ艦船に火災を起こさせたのです。
しかし、この記録は研究者から無視されて来ましたが、1973年、ギリシア人イオニアス・サカス博士が、一連の実験を行い、その記録を再現する事に成功しました。
博士は、青銅を貼った50枚の鏡で太陽の光を反射させ、その反射光を一隻の船に集中させると、船は煙を上げやがて炎上したのでした。

 この実験を参観したアルキメデス研究の権威、エバンゲロス・スタマティス博士は、後日、アルキメデスの記録は事実であると語りました。

続く・・・
2010/12/06

歴史の?その353:人類の築いた物⑤・攻城戦

<人類の築いた物⑤・攻城戦>

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 如何にして守りを固めるか?
土を盛って外敵の攻撃から、身を隠そうとした鉄器時代から、現在の鋼鉄、コンクリートで固めた長距離ミサイル基地に至る迄、是は人間の生死を左右する、重大問題でした。
如何に難攻不落の城砦を造営しても、攻撃側は、何とかしてこの強力な防御陣を、攻め破る方法を考案するのです。
 
 聖書の時代には、城壁を造り、敵の砦を攻略する技術は、アッシリア人が特に秀でており、是をローマ人が更に進化、完成させました。

 コンスタンチノープルは中世暗黒時代において、ヨーロッパ最大の都市であり、此処には3つの城壁が在りました。
どの様な侵略にも耐え得ると思われましたが、第4次十字軍は、船から城壁に橋を渡し、防衛線を突破してしまいます。

◎要 塞

 築城術がその頂点に達したのは、中世の事で、石の城壁で固めた城が、ヨーロッパ中に建てられ、火薬の時代が到来する迄は、その能力を発揮する事ができました。
事実、長期間に渡って、落城しなかった城も存在するのですが、決死の覚悟で攻略する意志を持った敵の前には、最強の城でさえ陥落する運命に在るのです。

 リチャード1世が、フランスのルーアン近郊に築城したガイヤール城には、三つの堅固な防衛線が存在し、掘割、城壁で守られ、望楼は互いに死角を作る事無く建てられ、城はレザンドリーの町を眼下に見下ろす、戦略上重要な丘陵地の上に在り、史上最強の城の一つと考えられていました。

 1203年、フランス王フェリペ2世が、この城を包囲した時、彼はまずレザンドリーの町を占領した後、城内の守備隊をじわじわと締め付ける作戦を行いました。

◎包 囲

 城内の人間が生きていく為には、飲料水が絶対必要な事は言う迄もなく、包囲軍はまず、この水の供給を断ち切る作戦を展開した上で、投石器で外側の城壁に石の雨を降らせる事で、外壁は突破され、更に包囲軍の一隊は、城内の排水路を伝わって密かに侵入する事に成功し、第二の城壁の背後に回る事ができました。
城内を結ぶ跳ね橋は、包囲軍の侵入に備えて、上げられていましたが、これを降ろす事に成功し、最後に包囲軍は、最も内側の城壁下にトンネルを掘り、守備隊もトンネルを掘って対抗し、地下で激しい戦闘が行われたのでした。
両軍が内壁も下を掘り尽くした結果、城壁は崩壊し、城はフランス軍の手に落ちたのです。

 やがて、火薬の出現は、石造りの城の時代が終わりを告げるもので、砦は、鉄とコンクリートの砲座に変わり、やがて、航空機、戦車、長距離兵器の登場により、戦争の姿が完全に変化する迄、続いたのでした。

補遺:コンスタンチノープルの陥落

 城砦都市、コンスタンチノープルが陥落した理由の一つに、第4次十字軍侵攻の際に発生した、砦内部の内紛が上げられます。
給料の遅配の為、最精鋭部隊がサボタージュを起こしている最中に、十字軍が堀、城壁、望楼を占拠、破壊した為、敢無く陥落したのでした。

続く・・・
2010/12/04

歴史の?その352:人類の築いた物④・クラク・デ・シュバリエ

<人類の築いた物④・クラク・デ・シュバリエ>

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 クラク・デ・シュバリエは、十字軍がシリア砂漠のほぼ中央に造営した城砦です。
難攻不落の城砦と云われてきましたが、1271年に陥落してしまいます。
其れもたった1羽の鳩の為に。

 十字軍は、シリア砂漠の岩山が突き出した部分に城を建てました。
この地は、イスラム教徒の町、ホムスと地中海東岸のキリスト教徒の町、トリポリを結ぶ幹線道路を押さえる事が出来る、戦略上の拠点でも在りました。

 1090年、十字軍が遠征したおり、此処には小さな城が既に存在し、クルド族の守備隊が駐留していました。
其の後、この城はキリスト教徒である、トリポリ伯爵の手に渡り、更に伯爵によって、エルサレムの聖ヨハネ騎士団に与えられたのでした。
以後、50年に渡って騎士団は、この小さな城を難攻不落の城砦にまで改修を、繰り返したのです。
サラセンは、この城砦を執念深く攻略を繰り返し、少なくとも12回の攻防戦の記録が、伝えられています。

◎弱  点

 この城砦には、2箇所の防御上の弱点が存在しました。
城砦正面の正門と平地から直接繋がる南側の箇所を、騎士達は、堅固な城壁を築き、3基の望楼も付け加え、更に城壁の下を砂礫や石材で埋め、最大部分の厚さは24mに達し、城壁の下にトンネルを掘削する事は、もはや不可能でした。

 正面の門については、曲がりくねった急な坂道を、登る様に改修しました。
この改修で、正面から侵攻しようとする敵は、幾度も集中攻撃を受ける結果となり、例え正門に辿りついても、堅牢な楼門に阻まれこれ以上の侵入は、不可能でした。

 無闇な攻撃は、侵略者側にとって、味方の死傷者を増やすだけで在り、更に包囲戦に持ち込む事は、同様に長期戦を強いられました。
主要な十字軍の砦は、何処も同じですが、クラク・デ・シュバリエも、膨大な食糧や水を蓄えており、その量は、2000人の守備隊が少なくとも1年間、飲み食いしながら戦うに十分で、その間に救援、増援部隊を呼ぶ事も可能でした。

◎陥  落

 クラク・デ・シュバリエは、難攻不落の城砦の様に思われ、事実、英知と勇猛さで名声を上げた、サラディンでさえ、この城砦を落とす事ができず、後退した程でした。
しかし、1271年イスラムの指導者の1人バイバルスが、十字軍の砦や町を次々に席捲し、最後に残ったクラク・デ・シュバリエを攻略する為、エジプト軍を伴って侵攻して来たのです。

 この時、城砦の守備軍は大変手薄に成っており、第8次十字軍遠征失敗の1年前で、増援部隊を望む事は、もはや不可能でしたが、砦に残った修道士達は、傭兵を指揮して頑強に抵抗しました。

バイバルスは、頑強な抵抗の壁を一枚一枚剥がすような努力を重ね、始め彼は、懸命に城壁の下を掘ったのですが、南西側の外壁が壊れた時、その後に内側の防護壁が大きく、立ちはだかっていたのでした。

◎策  謀

 バイバルスは敗北を認める事は出来ず、更にこれ以上の長期戦に持ち込む考えも在りませんでした。
彼は、伝書鳩を使い、トリポリのホスピタル騎士団指揮官の名前を騙り、「援軍を送る事が、出来ないので、降伏せよ」との内容の手紙を送り、その命令は守られ、ここに難攻不落として知られたクラク・デ・シュバリエは陥落したのでした。
バイバルスは、降伏した守備隊を騎士道に従って寛大に扱い、自由にトリポリに行かせたと云います。

 この城砦の保守状態は、大変良く、現在でも往事の姿をそのまま伝えており、軍事的な建築物の見本として、最高の物の一つに数えられています。
アラビアのローレンスの言葉を借りれば、「クラク・デ・シュバリエは、手放しで絶賛できる、世界最高の城」なのです。

続く・・・
2010/12/03

歴史の?その351:人類の築いた物③・サン・ピエトロ大寺院・後編

<人類の築いた物③・サン・ピエトロ大寺院・後編>

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◎ミケランジェロ

 1521年にレオ10世が死去し、教皇クレメンス7世は、バルダサーレ・ベルッツィを建築の最高責任者に選びますが、ベルッツィは、サン・ピエトロ大寺院に殆んど手を出す事は、在りませんでした。
ブラマンテが造った、壁やアーチはひび割れ、其処から雑草が生える程でしたが、次の教皇パウルス3世は、この建設計画を推進し、この教皇は、スペインがトルコ撃退の聖戦の為に準備した資金を盗用して、アントニオ・サン・カロに仕事を任せ、次に著名なミケランジェロを登用します。
しかし、ミケランジェロは当時既に72歳、システィナ礼拝堂の天井画完成から、長い年月が経っていました。

 ミケランジェロがサン・ピエトロ大寺院の最初の設計が完成したのは、1547年、間もなく建設に着工したものの、1549年パウルス3世が死去し、其れと同時に大寺院建設にかけるミケランジェロの熱意も冷めていったと云われます。
教皇パウルス4世は、ミケランジェロを励ましますが、彼の寿命は当に尽きようとしていたのです。
ミケランジェロの死後、寺院建設は混乱期に入り、中々伸展しませんでした。

 この後、1585年シクストゥス5世が教皇となり、建設計画は再び稼動し始め、其れまでの教皇の誰よりも多くの仕事を行ったのです。
ミケランジェロの設計したドームの建設もこの時期に、殆どが行われました。
システィナ・ホールとバチカン図書館の建設を命じたのも、シクストゥス5世で、1588年にドミニコ・フォンタナが完成させますが、この図書館は、本来1447年から1455年の間に、ニコラウス5世が作ったもので、この時340巻が納められ、蔵書の中核と成りました.

◎仕上げ

 其の後、教皇ウルバヌス8世がジョバンニ・ベルニーニを登用、ベルニーニは教皇の祭壇を覆う大天蓋を造り、鐘楼を建て、本堂に装飾を施しました。
最後に付け加えられたのは、聖具安置所で、1784年の事でした。
是で、サン・ピエトロ大寺院は完成したのですが、シクストゥス5世がドームを建設して200年、ミケランジェロがそのドームを支える壁の工事してから238年、ニコラウス5世がコンスタンチヌス大帝のバシリカ聖堂を建て直してから、実に338年の長い年月が過ぎていました。

 バチカン図書館は、17世紀から18世紀にかけてかなり拡充されましたが、1798年に膨大な文献がフランスに持ち去られ、大打撃を被ります。

 現在、図書館には、約6万の古写本、7000の初期判本、10万の彫板印刷物と地図、90万冊以上の書物が所蔵されています。

終わり・・・
2010/12/02

歴史の?その350:人類が築いた物②・サン・ピエトロ大寺院・前編

<人類が築いた物②・サン・ピエトロ大寺院・前編>

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 世界には、偉大な建築物と呼ばれる物は、多数存在しますが、ローマのサン・ピエトロ大寺院程、多くの建築家が建設に参加した例を他に見出す事が出来ません。
最初にこの大寺院の建設を計画したのは、教皇ニコラウス5世で15世紀の事でしたが、実際に完成する迄に350年の年月が必用でした。
その間、歴代の教皇や、数多くの建築家が建設に携わったのです。

 本来この場所は、コンスタンチヌス大帝が使徒ペテロの為に建てた、バシリカ聖堂が在り、ニコラウス5世は、この古い聖堂を取り壊し、大寺院を建設するという決定を下したのですが、建設計画が具体的に動き出したのは、1505年の事でした。
時の教皇ユリウス2世は、バシリカ聖堂の側に大霊廟を建設して、自分の名前を永遠に伝え様と考え、金銭に糸目を付ける事なく、この事業をミケランジェロに任せたのです。

◎心変わり

 ユリウス2世は、何度も心変わりした後、墓所を別の場所に建てる事を諦め、古いバシリカ聖堂を完全に建て直す事に決め、建築家ドナト・ブラマンテを登用します。
ブラマンテはまず、古いバシリカ聖堂を取り壊して、その中に在ったモザイク画、イコン、祭壇、墓、彫像の全てを処分してしまいますが、この作業には2500人の作業員が、幾週間にも渡って作業を行いました。

 ユリウス2世が1513年に死去した後、教皇に成ったレオ10世は、新たな建築家にラファエロを任命します。
ラファエロは、ブラマンテの設計に徹底的な改修を加えますが、彼が死去する迄の6年間に成されたのは、数本の柱を建てた事とブラマンテの不具合個所を修築した事位でした。

後編へ続く・・・
2010/12/01

歴史の?その349:人類が築いた物①・万里の長城

<人類が築いた物①・万里の長城>

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 人類が此れまでに成し遂げた業績の中で、最も偉大な土木事業と呼ぶに相応しいものは、中華人民共和国の現存する、万里の長城だと思います。
渤海湾から西の甘粛省へ約2600kmにわたって続くこの城壁は、壮大なものと言えます。

 秦の始皇帝は紀元前214年、北辺の国境を防護する為に長城の建設に着手したのでした。
北辺の国境は、匈奴の侵攻に悩まされていましたが、長城を完成する為に、何万人もの罪人が交代で、奴隷の様に使役されました。
伝承によれば、長城の完成迄に100万人以上の死者を出したと云います。

 防壁を造営する事は、決して新しい考え方ではなく、その数世紀前に、王侯は都市の周囲を城壁で囲みました。
始皇帝が行ったのは、国境地帯の当時存在していた、3ヶ所の古い防壁を繋ぎ合わせて、秦帝国全体を囲む、一つの防衛線を構築する事でした。
長城は、多くの地域では、只土を積み上げた土塁の連続ですが、それ以外の場所では、砕石を積み、外壁を煉瓦や石で固めています。

 果たして、長城に戦略的効果が存在したのでしょうか?
大砲等が存在しなかった時代、確かに侵略者の侵入を阻む事が出来ましたが、この長城に守備隊を配備する事は、秦帝国においても同様であったにも関わらず、其れは不可能でした。

 始皇帝は、万里の長城の作業が開始された4年後に崩御し、後継者がこの事業を引き継いだのでした。
城壁は修理、延長され、場所によっては高さ9m、幅10mにも成り、約200m毎に望楼が設けられました。

 築城開始から2000年以上の時間が経過した現在でも、北京北方の山々を縫い、うねりながら続く光景は、見る者に威圧感さえ与えます。
事実、アメリカ、ソビエトの宇宙飛行士が、軌道上から地球を眺めた時、人間が構築した物は、何一つ見えなかったものの、唯一の例外が、万里の長城でした。

続く・・・