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2011/01/31

轢死の?その396:歴史を変えた病気その4

<歴史を変えた病気④:人はそれを運命と呼んだ>

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          ピーターブリューゲル作「死の勝利」

 現在確認されている直近の腺ペストの大流行は、1910年の事で、毛皮猟師の貪欲さから、7ヶ月の間に6万人の人々の命を奪いました。
東シベリアで始まり、当時世界的に毛皮の需要が高まり、マーモットの毛皮の取引価格は通常の4倍にまで高騰していました。
マーモットはげっ歯類の動物で、その毛皮は黒テンの代用品として売られていたのです。
以前からこの動物を捕らえてきたモンゴル人達は、時々この動物が奇妙な病気に罹る事を知っていました。

 モンゴル人は誰一人として、病気に罹った動物を捕獲する事は有りません。
マーモットの肉や脂肪は美味と思われていましたが、その地方には「腋の下の脂肪組織の塊は食べてはならない」との戒めが存在し、その腺には、死んだ猟師の魂が入っていると、言い伝えられており、モンゴル人は
この腺に病気を持っている場合が多い事を知っていたのでした。
この病気は、時として人間に感染し、この様な病人をモンゴル人は放置して、その運命に任せました。

 1910年、何万人とも云う中国人が、毛皮ブームに乗じて北部満州に移動してきました。
中国人達は、病気に感染して簡単に捕らえる事が出来る、マーモットに遭遇した時は、むしろ幸運であると考えました。
やがて、その猟師が病気になると、動物から感染した病気が腺ペストとは知らずに、病人を手厚く看護したのです。
ペストは狩猟地帯から、中国東部の鉄道の終点であった、満州里の町を席巻し、終には鉄道沿線に沿って2700kmにも拡大し、何万人もの人々が死んでいきました。

◎蚤による伝染

 ペストは普通、人間の病気と言うより、ねずみの病気で1mmの1/1000を越えない程度の細菌によって発症します。
この細菌は、蚤によってげっ歯類の動物から動物へと媒介されます。
ペストは、大きく腺ペストと肺ペストに大別され、病気に感染したげっ歯類動物の蚤が、人体を刺すと、刺された箇所や鼠蹊部が腫れてきます。
この様にリンパ腺が腫れる事から腺ペストの名前が付き、一方、肺ペストは病気に感染した動物に接触し、細菌を吸い込む事によって感染し、やがて呼吸によって、他の人物へと感染が広がります。

続く・・・

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2011/01/29

歴史の?その395:歴史を変えた病気その3

<歴史を変えた病気③:人はそれを運命と呼んだ>

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         シャルロット・コルディー「暗殺の天使」

◎浴槽の中での暗殺

 フランス革命の最も無慈悲な指導者の一人として悪名高い、ジャン・ポール・マラーは、1793年に浴槽の中で刺殺されました。
彼の死に関して、疑問や謎は一切存在しません。
彼の暗殺者は、シャルロット・コルディーという理想主義の少女で、彼女の研ぎ澄まされたテーブルナイフは、マラーの心臓近くの大動脈を切断していました。
この背景には、1日の殆どを一人きりで浴槽の中で過ごすという、マラーの習慣が、暗殺者の仕事を可也容易なものとしたのです。

 マラー自身、革命当時の生活を調べていくと、彼が地下室や下水道に隠れて、何年も過ごしている間に、瘙痒症(かいようしょう)や単純性糖批疹(たんじゅんせいこうひしん)等の皮膚に痒みを伴う病気に罹っていた事が判明しました。
彼は、全身の痒みから逃れる為に、浴槽の中に座り、民衆を扇動する論文を執筆したのです。

 耐え難い痒みが、彼のペンから悪意に満ちた感情を迸らせ、革命のテロリズムを極端な迄に導いて行ったのでしょう。
其れが又彼自身の死の原因とも成った事は、皮肉と言わねば成りません。

続く・・・
2011/01/28

歴史の?その394:歴史を変えた病気その2

<歴史を変えた病気②:人はそれを運命と呼んだ>

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        プロイセン国王 フリードリッヒⅢ(百日王)

◎戦争を引き起こした癌

 1887年、理性的で好人物であるプロシアのフリードリッヒ王子は、左の声帯に腫れ物ができました。
当初試みられた治療が失敗に終わると、ドイツ人医師団はこれを癌と診断し、彼に喉頭の摘出を勧めました。
しかし、著目なイギリス人で耳鼻咽喉科の権威であった、モレル・マッケンジー博士は、癌の兆候は無いと診断し、結果的に手術は行われませんでした。

 1888年6月15日、フリードリッヒは王位を継承してから、僅か99日後に喉頭癌の為に崩御してしまいます。
この結果、彼の息子で、知性的にも劣る、好戦的なカイゼル・ヴィルヘルムの宿命的な統治が始まりました。

 若し、ドイツ人医師団の指示通りに手術が行われ、フリードリッヒの命を存命させていたなら、世界は第一次世界大戦の恐怖から、逃れられていたかも知れません。

続く・・・


2011/01/27

歴史の?その393:歴史を変えた病気その1

<歴史を変えた病気①:人はそれを運命と呼んだ>

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              エイブラハム・リンカーン少年時代の家

 エイブラハム・リンカーンは、母親のナンシーが原因不明の病に倒れ、悲劇の底にいました。
当時、彼は僅か9歳の少年で、貧しい一家は牧草地もない、荒廃した土地に住んでいました。
その為、彼の家に飼われていた牛は、森の中で餌を探さなければなりませんでした。

 1818年、リンカーンの叔父夫婦は、疲労感、足のこばわり、舌の発疹等の症状を起こして、床につき、彼らは数日の内に死亡し、母親のナンシーもその後を追いました。
インディアナ州ピジョン・クリークの人々は、「牛乳病」だと言い、リンカーン家の牛が「震える病気」に感染している事が、その証拠であると主張しましたが、その病気の正体が解明されたのは、実に1927年の事でした。

 リンカーン家の人々は、有毒の白いヘビネを食べた牛の乳を飲んで、死亡したのでした。
もし、ほかに食べる草が存在すれば、牛はヘビネを避けます。
正に、リンカーン家の人々は、貧しさの犠牲に成ったのですが、未来のアメリカ大統領が死の運命を免れたのは、全くの幸運でした。

続く・・・
2011/01/26

歴史の?その392:虚飾と現実その6

<虚飾と現実⑥:シャーロック・ホームズのモデルその2>

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◎枝葉が大切

 推理や分析の為にシャーロック・ホームズが用いる方式は、ベル博士の信条の反映に過ぎませんでした。
「生徒達には常に、小さな違いの大きな意味、些細な事柄の果てしない重要性を私は、強調したのです」と、博士は以前語った事が在りました。
「例えば、手仕事というものは、それぞれ独自の痕跡を残します。
鉱夫の切り口は、石工の其れとは違い、大工の掌は、石工の其れとは異なります。
陸軍兵士と水兵では、歩きぶりが異なります」
観察能力に磨きをかける事は、医師や探偵の必要条件ですが、一般人も其れによって、単調な自分の生活を冒険と興奮の世界に変える事ができると、ベル博士は信じていました。

 或る日の午後、博士がエジンバラ王立病院の自室に居ると、誰かがドアをノックしました。
「どうぞ」と博士が、応えると一人の男性が、ドアを開けて部屋に入って来ました。
博士は、その男性を見つめて、「貴方は何を悩んでいるのですか?」と尋ねました。
男性は驚いて、「私が悩んでいると、何故判ったのですか?」と問うと、「4回ノックしたからです。普通の人間なら2回か、せいぜい3回ですからね」。
確かにこの男性は、悩んでいたのでした。

 この様なエピソードも伝わっています。
一人の外来患者の診察を終えた処で、博士はおもむろに言いました。
「貴方は、スコットランド高地連隊で兵役に就き、最近除隊に成りましたね」
「その通りです。先生」
「貴方は、バルバドス駐在の陸軍下士官でしたね」
「正しく、その通りです」

 ベル博士は、学生達の方に向き直って、「諸君、ごらんの通り、彼は礼儀正しい人間ですが、帽子を取りませんでした。
軍隊では、帽子を取らないものなのです。
もしも、除隊して長い期間が経っておれば、民間の作法に馴染んでいたでしょう。
バルバドスと見当をつけたのは、彼の病気が象被病だからで、この病気は西インド諸島の風土病であるからです」と解説しました。

 コナン・ドイルは、この日の出来事に大変強い印象を受け、後にシャーロック・ホームズの1篇「ギリシア語通訳」で再現しました。

 コナン・ドイルは、1881年にエジンバラ大学を卒業し、眼科医の看板を出したものの、患者に恵まれず、何とかして収入を得る必要から、作家に転向します。
エドガー・アラン・ポーの影響を受け、1887年に探偵小説を創作する為、新しいタイプの探偵像を作りださねば成りませんでした。

 「私は、ジョー・ベル先生の事を考えた」と、コナン・ドイルは自叙伝の中で回想しています。
「先生が探偵であるならば、この仕事をもっと綿密な科学的な仕事にされていただろう。
人間を利口おと言うはやさしいが、読者が望むのは、ベル先生が私たちに見せてくれた様な、具体的実例なのだ。
私は、主人公を何と名づけ様かと考えた」
彼は、シャーロック・ホームズと名づけました。
クリケット仲間の友人と、アメリカの法学者オリバー・W・ホームズの名前を借りたのです。

続く・・・
2011/01/25

歴史の?その391:虚飾と現実その5

<虚飾と現実⑤:シャーロック・ホームズのモデルその1>

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 20世紀が始まろうとする頃の事、ある晩、スコットランドで週末の狩猟を楽しんだ12人の客は、晩餐の食卓を囲んで、未解決の事件を話題に盛り上がっていました。
客の一人、ジョゼフ・ベル博士は、奇想天外な推理の展開で同席した他の人々を驚嘆させました。
博士は外科医で、その名講義は50年に亘って、エジンバラ大学の学生達を酔わせたのです。
その中には、若き日のコナン・ドイルやロバート・ルイス・スティーブンソンが、居たのでした。

 「殆どの人物は、単に眺めるだけで観察をしない」と彼は言いました。
「人物の容姿を少し見ただけで、その顔立ちに刻まれた国籍や現在の生活が推測され、歩きぶりや癖、時計の鎖についた飾り、衣類に付着した糸屑からその人物の残りの人生も推測されるのです」と付け加えました。

 更に続けて、「私が医学生達に講義を行っていると、教室に一人の患者が入って来た事が有ります。この人物はスコットランド高地連体所属の兵士で、軍楽隊員と思われる」と、私は言った。
「歩きぶりに肩肘を張った様子があり、高地のバグパイプ奏者を思わせたからです。
そして、背が低いので兵士ならば軍楽隊員にしかなれないはずでした。
しかし、男は自分の職業は靴屋で軍隊の経験は無いと言い張ります。
そこで、私は男にシャツを脱ぐ様に命じると、肘の上に焼きごてで付けられた、小さな青いDの印が見て取れたのです。
之は、クリミア戦争の時、脱走兵に付けられた烙印でした。
結局、彼はスコットランド高地連隊の軍楽隊に在籍していた事を、しぶしぶ認めたのでした。
之が、基本なのです」

 誰かが、感嘆の声を上げました。
「ベル先生は、まるでシャーロック・ホームズですね」と。
その言葉に、ベル博士は応えます。
「私が、シャーロック・ホームズです」
ベル博士は、シャーロック・ホームズその人である事を、コナン・ドイルは自叙伝の中で、その様に認めています。

その2へ続く・・・
2011/01/24

歴史の?その390:虚飾と現実その4

<虚飾と現実④:アンクル・サム>

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 食肉缶詰工場を経営する、ウィルソン兄弟は、日頃から自分たちの工場は、1日に牛150頭を処理し、缶詰にする能力が有るので、ニューヨーク州一だと自慢していました。
その様な時、アメリカとイギリスが1812年に戦争に突入した時、自身満々の兄弟は軍隊に樽で、牛肉と豚肉を供給する契約を取り付けました。
兄のサミュエル・ウィルソンは得意満面で、その陽気な性格から、可也の人気者で、アンクル・サムと呼ばれていたのです。

 或る日、彼の工場を訪問した人物が、樽の総てにE.A.-U.S(政府側の契約者エルバート・アンダーソン、アメリカ合衆国の頭文字)のスタンプが押してある事に気づき、工員の一人にこの文字が何を意味するか尋ねました。
「知らないよ」と工員は答えましたが、訪問者はすかさず、「エルバート・アンダーソンとアンクル・サムの事かね?」と言ったと云います。

 之は、後に長く語り継がれるジョークと為り、訪問者や工員が、この話を周囲に広めて行きました。
1830年代に漫画家が、題材として選び始め、サムは1854年にこの世を去りましたが、ついに議会が彼の名前を、国民の心に永遠に残すように取り計らい、1861年、サミュエル・ウィルソンをアメリカ合衆国のシンボルと公式に認める決議が採択されました。

 因みに、イギリスのまるまると太った陽気なマスコット、ジョン・ブルには、アンクル・サムの様なモデルになった実在の人物は存在しません。
1712年に「法律は底なしの穴」の題名で出版されたジョン・アーバスノットの不器用な政治風刺文学で、ジョン・ブルは誕生したのでした。

 この本は後に「ジョン・ブル」の歴史と呼ばれる様に成りましたが、その中でジョン・ブルがイギリス人を、リュイス・バブーンがフランス人を、ニコラス・フラッグがオランダ人を代表していました。
しかし、ジョン・ブルだけが、歴史家、評論家、漫画家の心を捕え、彼らによって不朽の存在となったのでした。

続く・・・
2011/01/21

歴史の?その389:虚飾と現実その3

<虚飾と現実③:組合長ブロディー・ジキル博士とハイド氏のモデル>

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 18世紀半ば、スコットランドのエジンバラに、ウィリアム・ブロディーと云う信望を集める人物が居ました。
厳格な気風の街に在って、彼は市民の模範でした。
富裕な家庭に生まれ、石工ギルドの組合長と市会議員を務めていました。

 しかし、この組合長は、イギリス文学上の最も恐るべき主人公のモデルでも在りました。
ロバート・ルイス・スティーブンソンの精神分裂症を病む科学者ジキル博士は、彼を基に生まれたのです。
ジキル博士と同じく、ブロディーは高潔な仮面の下に、秘密の生活を隠していました。
昼間は実業家の仮面を被り、夜は賭博師、盗賊に成りました。
誰も彼の秘密を知ることは無く、彼との間に5人の子供をもうけた情婦も、お互いの存在さえ気づきませんでした。

 ブロディーが悪の道に入ったのは、27歳の時で、1768年8月、彼は市立銀行の合鍵を造り、800ポンドを盗みますが、それ以来、18年間の間に幾多の建造物侵入を繰り返しましたが、誰も彼を疑う事は有りませんでした。

◎逃亡と逮捕

 しかし、1786年にもなると、さすがの悪運も尽き始め、この年、彼は3人のコソ泥と組み、其れまで以来の大胆な計画、スコットランド間接税務局本部の襲撃に乗り出します。
だが、局員に発見されブロディーは逃走するものの、共犯者の一人が逮捕され、彼の名前を供述します。

 ブロディーは警察に逮捕され、エジンバラで裁判を受けますが、状況は決定的に不利でした。
合鍵、拳銃等、警察側は彼の二面性を明かす証拠を握っており、ブロディーには死刑の判決が下りました。
死刑執行の前夜、彼は絞首台に釣り下がった瞬間の衝撃を緩和する為、首から踵迄の着衣に針金を入れ、縄で窒息しない様に、喉には銀のチューブを入れました。
しかし、結果はこの努力にも拘わらず、1788年10月1日、彼はエジンバラの絞首台で処刑されました。

 2年後、スティーブンソンは同じテーマで、「ジキル博士とハイド氏」を執筆しました。
人間の暗黒面を描いた、彼の代表的短編小説で、その中で、ジキル博士は或る薬の実験を通じて、「人間は1体ではなく、本当は2体なのだ」と悟り、「如何にして私は、人間の根本的、絶対的な二重性を認識するに至ったか」を述べます。

 そうして、実験の虜になった理由を、彼は次の様に言います。
「もし人間一人一人が、異なった人格に成り代わりさえ出来れば、人生の耐え難い苦痛は全て除かれるであろうと、私は考えた。
不正なる魂は、より道徳的なその片割れの向上心や自責の念から解放されて、己の道を行くだろう。
正しい魂は、邪悪な伴侶が犯す不真面目や恥辱にもはや悩まされず、善を為す事に喜びを覚えながら、天に向かう道をしっかりと確実に辿って行く事ができるだろう」

 人間の心に潜む生来の悪が、善良な組合長ブロディーを蝕んだ理由を、スティーブンソンは以上の様に語っています。

続く・・・
2011/01/20

歴史の?その388:虚飾と現実その2

<虚飾と現実②:大いなる遺産>

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 ディケンズの小説「大いなる遺産」に登場する老いた世捨て人、ミス・ハビシャムは、実際に男に捨てられた花嫁の話が、物語の下書きに成っているそうです。

 オーストラリアのシドニーに住んでいた、エリザ・エミリー・ドニーソンと云う女性は、悲劇な事に1856年の結婚式当日、祭壇の前で一人でした。
夫と成るべき男性は、終に姿を見せず、この出来事に彼女は深く傷つき、自宅に篭ってしまい、この悲劇の日から30年の歳月、彼女は一歩も戸外に出る事は在りませんでした。

 婚礼の祝宴が開かれるはずだった部屋の扉には、鍵がおろされ、盛り花や披露宴の食事が、手付かずのままテーブルの上で腐っていきました。

◎小説の中の女性

 チャールズ・ディケンズの小説でも、ミス・ハビシャムはエリザと同じ様に生き、そして死を迎えます。
この驚くべき老婦人に初めて会った「大いなる遺産」の若き主人公ピップは、その印象を次の様に語ります。
「花嫁衣裳を身にまとった花嫁は、衣装そのものと同じに、古い花の様に萎れていた。
落ち窪んだ目の光を覗くと、輝かしさは何処にも残っていなかった。
かつて、若い女性のまろやかな体を包んだ衣装も、今は締まり無く緩み、それをまとう体は骨と皮にちぢんでいるのだった」

 ディケンズが、エリザをモデルにミス・ハビシャムを形作ったという、決定的な証拠は存在しません。
しかし、彼は旅行家や新聞記者等と広い交友が在ったので、地球の反対側に住んでいる世捨て人と成った女性の話をロンドンで聞いた可能性は有るのです。

 エリザの婚約者が姿を消してからちょうど5年後、1861年に小説は脱稿されました。

続く・・・
2011/01/19

歴史の?その387:虚飾と現実その1

<虚飾と現実①:椿  姫>

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 オペラは、時として荒唐無稽な古代伝説を、題材に選ぶ事があります。
しかし、ベルディの「椿姫」は、パリの街に巣食う実在の浮かれ女と、小説家アレクサンドル・デュマ(子)の才能のもとに生まれました。
ヒロインのモデルは、ローズ・アルフォンシーヌ・プレシと云い、1824年にノルマンディー近郊のノナン村で、生まれました。
15歳の時、彼女は家を飛び出し、一文無しでパリに辿り着きます。
そして、彼女は食べて行く為に、たちまち売春婦と成りました。

 18歳に成る頃には、家族の追及をかわす為、名前をマリー・ヂュプレシと変え、名高い高級売春婦に成っていました。
一等地のマドレーヌ大通りに住居を構え、ロシアの前ウィーン駐在大使ド・スタッケンベルグ伯爵等、大富豪を客に迎えていました。

◎出会い

 デュマが始めて彼女に出会ったのは、プールス広場で、マリーが馬車から降りようとしている処でした。
彼は、たちまちその美しさに魅せられ、パリエテ座のボックス席で再開するや、伝を頼って知り合いと成りました。

 二人のロマンスは、彼女が別の男性と結婚してもなお、彼女の死迄続きました。
慢性の結核に罹っていたマリーは、デュマに言いました。
「私を愛人にすると、ろくな事に成らないわ。神経質で、病弱で、悲しくて、悲しみよりもっと惨めな陽気さに浮かれる女よ。私の恋人達は直に、私を捨てたわ」
しかし、恋に盲目と成っていた若いデュマにとって、彼女の忠告等、耳に入りませんでした。

 彼女の病状は悪化の一途を辿り、デュマは医師の支払いの為、終に破産します。
マリーが、昔の愛人ベルゴーニ子爵と結婚した時でさえ、彼は彼女に忠実でした。
1847年2月3日、マリーは23歳で旅立ちます。
生前、こよなく愛した花椿に覆われて、棺はモンマルトル墓地に埋葬されました。

 マリーの死後、デュマは直ぐに「椿姫」に着手します。
後に彼は、この小説を戯曲に書き改め、その上演を見たベルディが、インスピレーションを得て、1853年オペラ化したのでした。
こうして、マリーは音楽の世界で、永遠のヒロインとなったのでした。

続く・・・
2011/01/18

歴史の?その386:歴史と伝承の狭間22

<歴史と伝承の狭間22:プレスター・ジョンの奇跡の国その2>

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◎現在の解釈

 プレスター・ジョンとは、聖職者ジョンの意味であり、この王は、イエス誕生の時に訪れた東方の3賢者の一人の子孫で、初期キリスト教の一派、ネストリウス派の指導者だったとされています。

 プレスター・ジョンの物語は、1145年にゲバル(現在のレバノン)の司教フーゴが語り始めた痕跡があります。
ネストリウス派キリスト教徒は、モンゴル出身の侵略者イェール・タシーの来襲に力を貸しました。
司教はその為、侵略者がキリスト教徒であるかのように見せかけ、報告を粉飾したと思われます。

 そして1165年、ヨーロッパの全宮廷にプレスター・ジョンの直筆と称する、偽造の手紙が出回り、その何通かは現存しており、大英帝国博物館にも1通が保管されています。
手紙は、ビザンチン皇帝マスエル宛で、プレスター・ジョンはインドの支配者、並びに「王の中の王」と自称しています。

 1177年、法王アレクサンドロス3世は、「著名にして崇高なるインドの王ジョン」に手紙を送りました。
プレスター・ジョンにローマに神殿を建設し、かくしてキリスト教会を統一することを認める勅許状でした。

 その後、伝説には何ら新しい事が知られませんでしたが、1221年に高名な聖職者、アクレ(イスラエル)の司教から、ローマに情報がもたらされます。
インドのダビデ王はジョンの孫とされていると語り、司教はこの謎に新たな光を与えましたが、このダビデとは、他ならぬチンギス・ハーンその人の事と考えられます。

 14世紀には、探検の焦点はエチオピアに絞られ、ジョンはその地のキリスト教王だった、と信じられる様になりました。
現在の研究者は、「ジョン」はエチオピアの王を意味する「ザン」の読み違えであり、この国は西暦4世紀以来キリスト教国で、革命迄存続した王家は、1270年頃に勃興した一族であり、ソロモン王とシバの女王の子孫と称していました。

続く・・・
2011/01/17

歴史の?その385:歴史と伝承の狭間21

<歴史と伝承の狭間21:プレスター・ジョンの奇跡の国その1>

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 エチオピアに渡っていた、ポルトガルの宣教師が、20世紀初頭に古代キリスト教徒の王の旗と剣を発見したと報告しました。
幾世紀より以前から伝えられた品物で、この地のキリスト教徒にとっては、神と同様に考えられていました。
この古代キリスト教徒の王とは、伝説のプレスター・ジョンの事では無いでしょうか?
中世ヨーロッパでは、東方にあって、想像を絶する程富裕な聖職者の王と、その謎の王国の伝説が幾世紀も語り次がれてきました。
その国は、平和と正義が支配し、貧困と悪徳を知らなかったと云います。

 其れは又驚異の国でした。
中世の時代に、或る旅人が書き残しています。
「或る地域には、毒草も生えなければ、蠍も、草の間をすべる蛇もいない」

 しかし、その国に向かう事は、命がけの冒険で、途中の砂漠には野蛮人が住んでおり、彼らは「見るも恐ろしい人間で、角をはやしている。全く人語を話さず、豚の様に鼻を鳴らすだけ」で、更に、小人族、巨人族が行く手を阻み、最後に「人間の肉や早産した動物の子供を常食にしている」と云い、「この人種のうち、誰かが死ぬと、その友人縁者がその死者をがつがつと貪り食らう。人間の肉を食う事を、彼らは義務と心得ているのである。私達は、彼らを上手く他の敵に対抗させ、食人種の目を逸らした。其れで私達は、人間も馬も全く被害を被る事無く、他方の敵が全部食われてしまった時、私達は、護衛の軍隊と共に故郷へ帰る」事が出来たと記されています。

 プレスター・ジョンの宮殿は水晶で造られ、屋根は宝石を鏤め、王国内で陰謀が存在すれば、魔法の鏡がいち早くその事実を王に知らせました。

 王はサファイアの寝台に眠り、王衣はサラマンドラ(火竜)の毛織物で作られていました。
馬は無く、代わりに天駆けるドラゴンを操りました。
誰も若返りの泉を利用でき、王自身の歳は、562歳という事でした。

その2へ続く・・・
2011/01/15

歴史の?その384:歴史と伝承の狭間⑳

<歴史と伝承の狭間⑳:語られる事の無い歴史の世界その4>

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◎不吉なわらべ歌

 イギリスの子供達は、何世紀にも渡って、全く無邪気にある奇妙に、不吉な低い調子を持った童謡を歌ってきました。

バラの花輪と、ポケットに花束、ハックション、ハックション、みんな倒れてしまう。

 この歌は1665年、ペストが流行したロンドンの通りで歌われ始めました。
「バラの花輪」とは、ペスト、すなわち黒死病に感染した人物に現れる、小さな発疹の事を指しています。
「ポケットに花束」とは、人々が古代から、悪臭は人間を病気で苦しめる悪魔の毒の息と信じ、香りのよい香草や花は、其れを防ぐと考えられていました。
「ハックション、ハックション」の表現は、ペストの流行期、くしゃみがペストに感染した事を示す、兆候でした。
「みんな倒れてしまう」、当に何千、何万という人々が死んでいきました。
14世紀にヨーロッパ全体を席巻した黒死病により、2500万人が死亡したと推定されています。

続く・・・

2011/01/14

歴史の?その383:歴史と伝承の狭間⑲

<歴史と伝承の狭間⑲:語られる事の無い歴史の世界その3>

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◎ジャック・ホーナーの伝説

 言い伝えに寄れば、最初のイギリス古謡の主人公ホーナーは、グラストンベリー僧院長リチャード・ホワイティングの執事だったと云います。
1530年代、僧院解体時代の頃、院長はヘンリー8世の歓心を買う為に、12の荘園の権利証書を巨大なパイに入れて王に送りました。
ホーナーはそのパイをロンドンに運ぶ役目を仰せつかり、途中でパイを開いてサマーセットのメルズ荘園の証書を盗み取りました。
之が、恐らく歌の中で「プラム」と呼ばれている土地の事と思われます。

 トマス・ホーナーという名前の人物が、確かにメルズ荘園の所有権を握りましたが、彼の子孫も現在の所有者アスクイス伯爵も、歌の中身はまっかな嘘で在り、一族の名誉を傷つけるものであると、主張しています。
一族の言い分では、ホーナーは、国王から荘園を買い取ったと主張しており、更には彼の名前は、トマスでジャックでは無く、この古謡がチューダー朝以前から、存在していたとの証拠も在ります。

その4へ続く・・・
2011/01/13

歴史の?その382:歴史と伝承の狭間⑱

<歴史と伝承の狭間⑱:語られる事の無い歴史の世界その2>

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◎海に命令したクヌート王

 海に後退を命じ、足を濡らしたというクヌート王(西暦995年~1035年)の物語は、事実で在るのか否か、検証する事は大変困難です。

 もし、事実で在ったとしても、真相は間違って伝えられている様です。
一般の伝承と異なり、最初期の話では、王は愚か者ではなく、極めて謙虚な人物として、語られていました。

 クヌート王の死後100年予後、ハンティントンのヘンリーによって記述された「イングランド史」によれば、王は何事も御意のままにと諂う廷臣達に立腹し、海岸での実験を思いつきました。
海に「下がれ」と命じて、なお波が足元を洗う事を見て、クヌート王は告げます。
「皆の者よ、王の力が如何に虚しく、甲斐なきものか、今こそ知れ。不滅の掟によって天と地と海の敬う神の他に、真の王の名に値するものはないのである」と。

 ヘンリーによれば、クヌート王は其の後二度と、王冠を被らなかったと云います。
逸れは、ウエストミンスター寺院に置いたままにしたとの事でした。

その3へ続く・・・

2011/01/12

歴史の?その381:歴史と伝承の狭間⑰

<歴史と伝承の狭間⑰:語られる事の無い歴史の世界その1>

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◎骸骨の即位

 1360年、ポルトガルの古都コインブラで、身の毛もよだつ儀式が行われました。
国王の命令で、高僧、貴族が一人ずつ進み出て、玉座にかけた骸骨の手に口付けをしました。
逸れは、即位したばかりの国王ペドロ・デ・アラゴンの愛妄で、カスティリア公女イネス・デ・カストロの亡骸でした。

 イネスは1342年、ペドロの妃の侍女としてポルトガルの宮廷に上がります。
ペドロは当時皇太子の身分で、彼女と道ならぬ恋に落ちます。
父王アルフォンソは、不義が表沙汰に為ることを恐れ、イネスを打ち首にしてしまいます。

 暫らくの間、ペドロは悲しみと怒りを胸に秘めなければ成りませんでした。
しかし、5年後、王座に就くや、彼は愛人を暗殺した刺客の心臓をえぐり取らせ、そしてポルトガル王妃として、イネス・デ・カストロの骸骨の前に全宮廷を跪かせたのでした。

その2へ続く・・・

2011/01/11

歴史の?その380:歴史と伝承の狭間⑯

<歴史と伝承の狭間⑯・伝記の陰の真実その5>

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◎シンデレラはガラスの靴を履いていた

 シンデレラ物語の原型である、フランスの古い御伽噺では、彼女が履いていたのはPentoufles de vah、つまり毛皮の靴でした。
しかし、14世紀頃には、vah(毛皮)が死語となり、フランスの作家シャルル・ベロー(1628~1703)が、この物語を1697年に書き直した時、毛皮の古語を知らなかったので、同音異語であるverre(ガラス)と解釈したのでした。

 西洋世界に広く流布した、シンデレラの物語は、全てベローの作品が原型に成った為、この物語を語る場合、「ガラスの靴」が定番の小道具に成りました。

 シンデレラ物語の起源は、遠く漠然とした民話で、別伝は500以上のバリエーションが存在しますが、その全てに靴が登場し、それぞれが黄金、宝石、真珠散りばめた姿で語られています。
この民話は、ヨーロッパに限らず、全世界に広まり、現存する最古のバリエーションは、中国で西暦9世紀に書かれた物語です。

続く・・・
2011/01/10

歴史の?その379:歴史と伝承の狭間⑮

<歴史と伝承の狭間⑮・伝記の陰の真実その4>

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◎エデンの薗でイヴはアダムに林檎を与えた

 林檎は禁断の木の実として、人間堕落のシンボルに成っていますが、「創世記」第3章に述べられている誘惑の物語には、りんごに関する記述が一言も登場しません。
単に「楽園の只中になる木の実」とだけ記述されており、アダムとイヴが果実を食べた後、無花果の葉で身を覆った事から推察すれば、その実は無花果であったと考える研究者も存在します。

 林檎は、恐らくギリシアとケルトの神話から、物語に紛れ込んだと思われます。
これらの神話ではもとの林檎は愛の女神のもので、欲望を象徴しているのです。

 西暦2世紀に、ポントゥスのアイクラが「ソロモンの歌」をヘブライ語からギリシア語に翻訳した時、「余は汝を林檎の樹の下で育てた。其処で我母は、汝を産み落とした」という原文を「余は汝を林檎の樹の下で育てた。其処で汝は堕落した」と訳しました。
明らかに原文が、禁断の果樹を意味していると誤解したのではないでしょうか?
聖ヒエロニムス(西暦340年?~西暦420年:ラテン語訳聖書の完成者)も旧約聖書を翻訳する時、この先例にならい、其れ以来、誤った俗信が今日迄続いているのです。

その5へ続く・・・

2011/01/08

歴史の?その378:歴史と伝承の狭間⑭

<歴史と伝承の狭間⑭・伝記の陰の真実その3>

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◎ジョージ・ワシントンは桜の木を切り倒した

 6歳の時、未来のアメリカ合衆国初代大統領は、父の大事な桜の木を切り倒した為に叱責されていました。
「僕には嘘は言えません」と父に告白します。
「僕が斧で切り倒しました」

 少年ワシントンの告白は、子供らしい悪戯と正直さが融合した、魅力的なエピソードなので、アメリカ史上最も有名な事件の一つと成りました。
此処には、大指導者の少年時代に似つかわしい、率直な性格が表れています。

 しかし、ワシントンの少年時代に関しては、殆んど何も判明していません。
説教師メイスン・ウォームズが書いた最古の伝記でも、少年時代に関す記述は、僅かに1ページなのです。

 大統領の死の翌年、1800年に出版された「ジョージ・ワシントンの生涯」初版には、桜の木の故事に関する記述は存在しません。
後に重版される段階で、ジョージ少年が手斧で悪さをした話を始め、大量の挿話が新たに付け加えられたのです。

 ウォームズは、問題の話をワシントン家と親しく交際していた、匿名の老婦人に聞いたと主張していました。
しかしながら、この筆者は、自分の著作に「伝記的秘話」を創作する、時には自分の書いた、全く別の人物の伝記から幾つかの話を、転用する癖があるので有名でした。

 後年、桜の木の話も、その一つであると言明した訳では在りませんが、ウォームズ自身創作を書き加えた事を認めています。
ペンシルバニア州の建設者である「ウィリアム・ペンの生涯」では、彼はネイティブアメリカンと移住民が協定を結んだ話を創造し、条文の引用迄書いていますが、現実には、その様な協定は存在していません。

 ウォームズの書いたワシントン伝は19世紀中に70版を重ね、桜の木の話は、アメリカの民間伝承として、広く海外にも広まりましたが、現在の伝記作家達は、この話を史実と認めず、全く記述から排除しています。

その4に続く・・・

2011/01/07

歴史の?その377:歴史と伝承の狭間⑬

<歴史と伝承の狭間⑬・伝記の陰の真実その2>

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◎サー・ウォルター・ローリーはエリザベス1世の通り道にマントを敷いた

 従者を従えて、しずしずと歩くイングランド女王の両脇を固める人垣の中に、若く端正な顔立ちの紳士が居ました。
彼の前に差し掛かった時、女王はふと立止りました。
道に水溜りが在ったからなのです。
名前をウォルター・ローリーというこの海の男は、機転の利く伊達男でも在りましたので、水溜りの上に即座に自分のマントを投げます。
女王は彼の手際の良さに感じ入り、マントを踏んで渡りながら、彼女の足を守る為に彼が払った高価な犠牲に笑顔を持って報いました。
二人の歴史的人物に相応しいロマンティックな出会いと思われますが、是は史実では在りません。

 このお話は、歴史家トマス・フラー(1608年~1861年)の創作と考えられており、彼は退屈な史実をおもしろおかしく語る為に、しばしば作り話を創造して書き加えたのでした。

 更に、サー・ウォルター・スコットが小説「ケニルワース」(1821年)で同じ話を引用したので、この伝説は一層有名になりました。
この小説作品の中でローリーは「私の手元に在る限り」マントにブラシは掛けませぬと誓い、彼の心ばせを多とした女王は「衣服1着、それも最新仕立ての物」を彼に与える勅令を持たせた従者を、ローリーの館に送ります。

 ローリーは1586年に、イギリスへ初めてジャガイモをもたらしたとも云われていますが、この点についても事実か否かは良く解かりません。
ジョン・ジェラードは、其の著書「草本誌」(1597年)の中で、C・クルジウスなる人物が1585年にイタリアで既にジャガイモを栽培していたと紹介しています。
これらの話が真実か否かは別として、ジャガイモは急速に普及し、「草本誌」で紹介されてから、10年と経たぬ間に、ヨーロッパ全土に普及し栽培される様に成りました。

 又、イングランドに初めてタバコをもたらしたのも、一般にローリーだと云われています。
1586年、当時のイギリス植民地バージニアからの帰途、持ち込んだと云う話が定説に成っています。
尚、フランスには是より早く、1559年頃に紹介されており、その紹介者は、フランス人ジャン・ニコで、「ニコチン」は彼の名前から派生した言葉なのです。

その3へ続く・・・

2011/01/06

歴史の?その376:歴史と伝承の狭間⑫

<歴史と伝承の狭間⑫・伝記の陰の真実その1>

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◎ネロはローマ炎上を見ながらバイオリン(竪琴)を弾いた

 長い間信じられて来た古代ローマの伝説によると、誇大妄想狂の皇帝ネロは、自分自身の不朽の記念碑として、新たな都を建設する夢にとりつかれ、町を塞ぐ私有地の所有者達に妨害されたので、ローマ市に放火したとされています。

 しかし、ネロが市内の何処かに放火させたと云う歴史的証拠は存在せず、この伝説の中で最も有名な「ネロは都の搭(宮殿のバルコニー)に登ってバイオリンに興じた」と云う部分は、更に真偽の程が怪しいものなのです。
まず、バイオリンが発明されたのは、16世紀に成ってからですが、別の表現では、「彼はホメロスを気取り、リラ(七弦の竪琴)をかき鳴らした」と云う事に成っています。

 ローマの大火が有って間もなく、歴史家タキトゥス(西暦55年~西暦117年)が書いた記録によれば、火災発生時、ネロは80km程離れたアンティウムの別荘に滞在していましたが、大火災を眺めて楽しむ所か、すぐさま都に駆けつけ、消火に努力したそうです。

 動機が何であったかは別として、其れがネロの行った唯一の殊勝な行動でした。
他の面では、この皇帝は忌むべき生涯をおくりました。
17歳の時、母アグリッピナの力で権力の座に就いた彼は、義弟ブリタニクスの帝位継承簒奪者として民衆に憎まれ、更に彼の私生活は、当時のローマの風習に照らしても、恥ずべき醜聞に満ちていました。
人々が取り分け迷惑がったのは、ネロの演じる芝居やオペラを強制的に鑑賞させられる行為で、どうやら、彼は凄まじい迄の大根役者で、更に悪声の持ち主の様であったと思われます。

 ネロはキリスト教徒を過酷に弾圧したと伝えられていますが、当時の初期キリスト教徒は、未だ声望のない小集団に過ぎず、魔術師の集団の様に怪しまれていた為、ネロに取って大火の責任を問う格好の替え玉だったのです。
その為、数百人のキリスト教徒が処刑されましたが、生きたままライオン等の猛獣に餌食にされた記録は存在しません。

 ネロの残忍性と放蕩性は、最後には最も身近な者達も遠ざけ、執政官護衛兵団(皇帝個人のボディガード)も彼を見捨て、西暦68年、降位と処刑の瀬戸際に追い詰められた彼は自殺します。

その2へ続く・・・

2011/01/05

歴史の?その375:歴史と伝承の狭間⑪

<歴史と伝承の狭間⑪:誤って伝えられた言葉その3>

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◎ワーテルローの戦勝は、イートン校の運動場で成し遂げられた・ウェリントン公

 初代ウェリントン公がイートン校の学生であった頃、学校には運動場も存在せず、集団競技のチームすら存在していませんでした。
しかも、彼の子孫が語ったところによれば、ウェリントン公の学校生活は、「短く、芳しい成績ではなかった」そうなので、従って彼が、最初に記載した言葉を語った可能性は、とても在りそうには思えません。

 其れを文章上で彼の発言であると、紹介した人物は、フランスのシャルル・ド・モンタランベール伯爵で、彼の著書「イングランドの政治的未来」の文中であり、この書物は1855年、ウェリントン公の死後3年経って出版されました。

 しかし、ウェリントン公がその言葉を喋ったと云う、同国人の証言は存在せず、更にウェリントン公は、母校にもパブリック・スクールの精神にも大した愛着を持っていませんでした。

続く・・・
2011/01/04

歴史の?その374:歴史と伝承の狭間⑩

<歴史と伝承の狭間⑩:誤って伝えられた言葉その2>

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◎お菓子を食べさせておやり・マリー・アントワネット

 1789年10月、より公正な新政府をルイ16世に作らせようと、パリの貧しい女性達が、ベルサイユ王宮に行進しました。
伝説によれば、屋外に騒ぎを聞きつけた王妃、マリー・アントワネットは、人々がパンも無く飢えている事を聞いて、”Qu’ils mangent de la brioche”と言いました。
この言葉が一般に「お菓子をたべさせておやり」と伝えられる様になったのです。

 この話は王妃の処刑後、広く伝わり、貧民の苦しみに対する彼女の冷淡さと、愚かさの典型と見なされました。
しかし、彼女がその様な言葉を発した証拠は、何処にもありません。

 この言葉が始めて出現したのは、1760年代、ジャン・ジャック・ルソーの「告白録」中であり、マリー・アントワネットはまだ少女の時代でした。
文中でルソーは、「或る偉大な王女」について語っています。
彼女は、農民にパンが無いと聞いて、”Qu’ils mangent de la brioche”と答えます。
Briocheとは最上級のパンの事で、王女はこの種類のパンの事しか知りません。
従って、この言葉は、親切心の表れだったのでした。

その3へ続く・・・

2011/01/03

歴史の?その373:歴史と伝承の狭間⑨

<歴史と伝承の狭間⑨:誤って伝えられた言葉その1>

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◎イングランド人とは小売商人の国民である・ナポレオン・ボナパルト

 この言葉は、一般にナポレオンが話した言葉とされ、プチ・ブルジョア(小企業家)国民としてのイングランド人に、彼が抱いていた軽蔑心の表れと解されています。

 しかし「小売商人の国民」乃至商人集団との表現は、ナポレオンの少年時代から既に印刷物に書かれていました。
従って彼の独創になる言葉とは、言いがたく、まず1766年、イングランドの経済学者ジョサイア・タッカーが政治論文の中で使用し、次には、スコットランドの経済学者アダム・スミスが「国富論」(1776年)で用いたのでした。
又、アダム・スミスと同年代に、フィラデルフィアでは、サミュエル・アダムスがこの言葉を使っています。

 後年、ナポレオンが流刑された頃、この言葉は二人の伝記執筆者のせいで、彼が喋ったものとされる様に成りました。
ナポレオンの医師バリー・オマーラは自著「流刑地のナポレオン、若しくはセント・ヘレナからの声」に1817年2月17日のナポレオンとの対話を載せ、その中で彼がイングランド人について「彼らは商人の国民である」と語ったと書かれています。

 ナポレオンがこの意見に同感していたとは言え、言葉自体はコルシカの愛国者バスクワーレ・パオリ(1725年~1807年)の言葉の引用として語られたものなのです。

 又「購買力のある需要国民を育て上げると言う、唯一目的の為に広大な植民地を建設する事は、一見、小売商人の国民にのみかなう計画に見えるかもしれない」と書いたのは、アダム・スミスで、ナポレオン自身彼の著作を良く知っていました。

その2へ続く・・・