2011/02/28

人類の軌跡その20:番外編ギリシア神話の神々②

<オリュンポスの十二神その2>

<序列第4位デメテル>

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 穀物、農業、豊作の女神。
ゼウスの姉。象徴は”麦の穂”や”ケシ”、聖獣は”豚”。
大地から収穫を得ることを教えました。
豊作と凶作を左右する力を有し、季節や自然現象を支配する能力があると言われます。

<序列第5位ヘスティア>

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 かまど、家庭生活の守護神。

<序列第6位アテナ>

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 手工芸品、家政学の女神、知恵と戦いの神でもあります。
文武両道で才能を発揮し、象徴は”盾”や”槍”や”兜”、聖鳥は”フクロウ”、聖樹は”オリーブ”。
ゼウスの最も愛すべき娘であり、ゼウスの頭から、武装した成人の状態で生まれました。
ゼウスは、自らの盾と稲妻の矢の運び役に彼女を選んだほどです。
他の女神達が、自然を好むのに対し、アテナは都市を愛しました。
その名を冠したアテネの都市には、世界の宝である彼女のパルテノン神殿があります。

<序列第7位ヘパイストス>

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 火と鍛冶の神。芸術家や職人の守護神でもあります。
ゼウスとヘラの息子で、妻はアプロディナ、象徴は”鉄床(かなとこ)”や”円錐形の帽子”。
美しい神々の中で、唯一醜いとされる。
天からゼウスに投げ捨てられ、脚が不自由になり、容姿で劣る分を力で補い、美しい絶品を作り出しました。
地底の工房では、その優れた鍛冶の技術で他の神々の家や武器が生み出されたのです。
ゼウスの稲妻の矢もその一例と言われています。
人間に美と技をもたらした善良な神、その優しさは今も偉大な芸術品のデザインに宿っています。

続く・・・

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2011/02/26

人類の軌跡その19:番外編ギリシア神話の神々①

<オリュンポスの12神その1>

 オリュムポスの神々には、はっきりとした序列が在りました。
最高位は、ゼウスの兄弟姉妹や子供達で構成されるオリュムポスの12神と呼ばれる神々で、彼等は云わばオリュムポスの上流階級です。
尚、ヘスティアの代わりにディオニュソスが入る事もあります。
  
<序列第1位ゼウス>

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               ゼウスとヘラ

 オリュムポスの最高神で、あらゆる気象を司る天空の支配者。
オリュムポスの王座から、神と人間を支配した秩序と正義の神。
象徴は”雷テイ”や”王シャク”など、聖鳥は”ワシ”。
その稲妻の矢による制裁は、何より恐れられていました。
トロイの戦争で神々がいずれか一方に加勢する中、黄金の定規で両者の均衡を図り、中立の立場を保ちました。
品行方正とは程遠く、女神や人間の女性を追い回す浮気な夫で、彼の不倫は、古代世界に欺きや暴力という禍根を残しました。
それでも、オリンピックや、偉大な宮殿、建造物にゼウスは、神として君臨しています。

<序列第2位ポセイドン>

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                 ポセイドン像

 海の支配者で、すべての泉と地震の神。
地表の7割以上を占める水。その水を制御する役割の神がポセイドンです。
ゼウスの兄、象徴は”三叉のほこ”、聖獣は”馬”、聖樹は”松”。
地底の宮殿から、自らと同様に気まぐれな海を支配します。

<序列第3位ヘラ>

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                  ヘラ像

 ゼウスの姉で妻でも在り、オリュムポスの嫉妬深い女王、結婚の女神。
象徴は”ユリ”や”ザクロ”、聖獣は”牝牛”、聖鳥は”クジャク”。
その勘の鋭さで妻達の守護神とされ、不貞に対する報復は凄まじいものが在りました。
淑やかな一面、逆らう者には容赦なかったのです。

 パリスが、アプロディーナを最高の女神と定めたのに怒り、トロイ軍が倒れる迄、ギリシャ軍に徹底的に加勢したと言われています。
”女性を怒らせると怖い”という定説はヘラから生まれました。

続く・・・
2011/02/25

人類の奇跡その18・忘却⑥

<オリンピアのゼウス像その2>

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◎黄金の像

 ゼウス像は、宝石、黒檀、象牙によって象嵌された金の玉座に安置され、両足は参拝者のほぼ目の高さにあたる金製の足台に乗せられ、右手は上に伸ばし、金と象牙の勝利の女神ニケを支え、左手には黄金をはめ込んだ王尺を持ち、その上に鷹がとまっていました。
ぞうげに彫られた力強い両肩には、花や動物で飾られた金製のマントルがひだを広げていました。

 この像を見た当時の人々は、次の様に感想を述べています。
「重荷を負える人も、不幸と悲しみの盃を飲み干した人も、もし立ってこの像を眺めるならば、この不可解な世界の辛く気だるい重さを忘れるであろう」と。

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◎オリンピア

 オリンピアの言葉を聞くと、現代の人々は誰も、4年毎に開催されるオリンピック競技を連想する事と思います。
伝説では、ヘラクレスによって初めて開かれたと、云われています。
第一回は、紀元前776年、以後217年迄4年毎に開催されました。
最初は、地方単位の小さな行事に過ぎませんでしたが、やがて全ギリシアの行事となり、後にはマケドニア人やローマ人も参加する様に成りました。

 競技種目も最初は、ランニングとレスリングだけでしたが、最終的には24種目迄増加し、演説や絵画迄加わりました。
開催前後の1ヶ月は、「神聖な休戦」と呼ばれ、ギリシア周辺で行われている、如何なる戦争も休戦とされ、ペルシア戦争の折でさえ、この誓いは守られたのです。
競技の勝利者には、神域に在る神聖なオリーブの枝で作られた冠(月桂冠)与えられ、更に勝利者となる事は大変な名誉で、その彫像や記念碑は神域の中に建てられ、帰国後は名誉市民として、その一生を国費で賄われたのでした。

 オリンピアの競技は、ギリシアがその覇権を喪失した後も、長く開催され続けましたが、394年ローマ皇帝テオドシウス1世が、オリンピア競技の禁止に関する勅令を公布し、426年には異教の神殿破壊令が出され、ゼウス神殿は破壊され、更に522年と551年の震災でクロノスの丘は崩壊し、グラディオス川の氾濫により、その神域は3m~5mの砂の層に埋没する事と成りました。

 しかしながら、古代より文明の発展した地域に在ったお陰で、この周辺には神殿、公共施設、競技場等の建造物が多数埋没している事が知られており、18世紀頃から発掘を志す者が多数存在しました。
1829年ギリシアが独立を果たすと共に、フランスによってゼウス神殿跡の発掘が開始され、メトーブ、柱、屋根等の破片が発見されました。1875年~81年にかけて、ドイツ政府により本格的な発掘作業が再開され、オリンピアの全体像が解明され、ゼウス神殿の跡もほぼ確定されたのでした。

続く・・・
2011/02/24

人類の軌跡その17:忘却⑤

<オリンピアのゼウス像その1>

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 紀元前5世紀の頃、ギリシアには著名な建築家や芸術家が、多数存在していました。
フェイディアス(Pheidias)もその一人でした。
彼は、アテネの画家カルミデスの子供として、紀元前490年頃に誕生し、後年優れた彫刻家に成りました。
ギリシア彫刻古典期を代表する巨匠で、残念ながら原作と立証できる作品は、現存していませんが、パルテノンの装飾彫刻からその作風を伺い知る事が出来ます。
文献に由れば、アテネのパルテナス像、オリンピアのゼウス像等何れも彼の手に成る事が明らかなのです。
オリンピアのゼウス像は、フィロの世界の七不思議に名前を連ねています。

 オリンピアはギリシアのペロポネソス半島北西のエリス地方に位置し、その地のゼウス神殿の前で4年毎に開催される協議(古代オリンピック)は、古くから知られていました。
昔から、ギリシアで最も美しい処と称えられ、宗教的にも崇拝の一中心地に成っていました。
近郊には、ガスの出る地域が在り、このガスを利用して一種の卜占が行われ、最初クロノスやヘラ等の大地母神、女性神が崇拝されていましたが、後年ゼウス崇拝に変わり、紀元前457年に雷神ゼウスの神殿が建立され、フェイディアスの作となるゼウス像が安置されました。

 神殿は台地の上に聳え、両側に13本ずつ、両端に6本ずつの巨大なドーリア風列柱に囲まれ、緩い傾斜の屋根を頂いていました。
フェイディアスの製作したゼウス像は、神殿の中央、高さ90cm、幅6.6mの石の台座に安置され、像其のものの高さは12m、殆ど天井に達する高さで、全体はクリュセレファンティンと呼ばれる、象牙と木組みに貼り付けた金の板で形作られていました。
湿気の為に気が収縮しない様に、常に油が注がれ、このゼウス像の保守は、フェイディアスの子孫の手に何世紀も委ねられてきました。

その2へ続く・・・
2011/02/23

人類の軌跡その16:忘却・番外編

<エフェソスのアルテミス神殿・ギリシア神話 生と死の大女神>

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 美しくも冷たく、厳しくも恵み深い、ギリシア神話を代表する女神の1人です。
神々の王ゼウスと女神レトの間に生まれた愛娘で、双子の弟アポロン(アルテミスを妹とする説もありますが、彼女の誕生日はアポロンよりも1日早いので、姉とした方が妥当です)と同じく偉大な力を宿しています。

 その権能は、

1.黄金の弓矢で山野の獣を狩り斃す狩猟の女神であると同時に、彼らを愛し護る野獣の女王
2.優しい矢(Agana belea)で女たちを射抜いて苦痛なく即死させる死の女神
3.月満ちた子供を胎内の闇から光あふれる外界へ連れ出す出産の女神
4.成人前の少年少女を保護する処女神

など多岐に渡り、アポロンよりもずっと原始的な、しかしより根源的なやり方で生物の生と死に深く関わっている事が解ります。

 またアポロンと共に光明神としての性格も持っている為、後には月の女神セレネと同一視され、月神としての職能も帰せられるようになりますが、これはいくら何でも過労というものでしょう。
太陽や月の運行は年中無休ですから、これを担当する神は他の仕事はできません。
もしアルテミスが夜毎に天空を駆ける月神であったら、彼女が楽しんだといわれる松明を掲げての夜の狩りはまったくできなくなってしまいますよね。
ですから天体としての月を司るのはあくまでもセレネ、アルテミスはせいぜい月属性の女神の1人と考えて両者を区別しておく方がギリシア神話は解釈しやすいと思われます。
2011/02/22

人類の軌跡その15:忘却④

<エフェソスのアルテミス神殿その4>

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             アルテミス神殿復元模型

◎ゴート人の侵入

 エフェソスのアルテミス神殿は、聖パウロが同地を訪れて後、約100年の間、栄光に満ちた姿を見せていましたが、260年~268年、ヨーロッパからアジアに侵入したゴート人によって、略奪と破壊を余儀なくされました。
そして、神殿跡は採石場と化し、屋根、台座、円柱は破砕され、石灰を作る為の資材となり、建築材料として運び去られました。

 その結果、神殿の構造物で満足な姿で現存する物は、全く存在せず、その廃墟の上に時の経過と共に、土や草木が覆い、終には神殿の存在した場所その物の痕跡が、地上から消滅してしまいました。
12世紀の事、かねてよりアルテミス神殿の壮麗さを聞かされていた、十字軍の軍団がこの地を通過した時、当時の町の住人の神殿の事を尋ねても、住人の記憶からもアルテミス神殿は消えていたのでした。

◎神殿の発掘

 1863年、イギリスの考古学者J・T・ウッドが登場する迄、1600年という時間が流れていました。
ウッドは、プリニウス(23年~79年:ローマ時代の博物学者)や、ディオゲネス・ラエルティオス(紀元前3世紀頃:ギリシア哲学史家)、ストラボン(紀元前63年~紀元前21年:地理学者・歴史家)等の著作を読み、エフェソスのアルテミス神殿の廃墟を探索し、発掘する決意をしたのでした。

 大英帝国博物館の後援を得つつも、11年の歳月と、常に資金不足に悩みながら、終に地下7mの付近から、大神殿の痕跡を掘り当て、発見した建設用の石材や、円柱の破片を基に、芸術家の援助によって、かなりの正確さで、神殿の姿を復元したのです。

 かつてタイア(古代フェニキアの港湾都市)からの商船を迎え、カルタゴからの艦隊を迎えて、大いなる繁栄を謳歌したエフェソスも、現在は過去の栄華を偲ぶものは一切無く、20軒程のトルコ系住民の住む寒村に過ぎません。

続く・・・
2011/02/21

人類の軌跡その14:忘却③

<エフェソスのアルテミス神殿その3>

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              魔術書の焚書

◎エペソ人の手紙

 エフェソスの名前は、私に新約聖書の「エペソ(エフェソス)人の手紙)を連想させます。
使徒パウロがエフェソスに居る、キリスト教徒に与えた手紙で、ヨハネの黙示録では、次の様に綴られています。

 「私は、貴方の技と苦労と忍耐を知っている・・・貴方は忍耐をし続け、私の名の為に忍び通して、弱りはてる事がなかった。
しかし、貴方に対して責むべき事が在る。貴方ははじめの愛を離れてしまった。そこで、貴方はどこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの技を行いなさい。もし、そうしないで、悔い改めなければ、私は貴方のところへ来て、貴方の燭台をその場から取り除け様」(ヨハネの黙示録第二章)
この文章から忠告を受けている事が判りますが、パウロの手紙では「キリスト・イエスにあって忠実な聖徒達」、「主イエスに対するあなた方の信仰と、全て聖徒に対する愛とを耳にし」等信頼と愛情を受けています。

 私達は、使徒パウロがエフェソスで、偶像崇拝の迫害に抗しながら、神の道を解く様を、使徒行伝第十九章を通して見る事ができます。

 使徒パウロはエフェソスの街に二か年も留まり、神の道を説き、悪魔を追い出し、病を治したので、多くの者が信者となり、其れまで「魔術を行っていた多くの者が、魔術の本を持ち出してきては、みんなの前で焼き捨て、その価値は、銀5万にも上る事が判った」と在りますが、この行為は、秦の始皇帝が行った「焚書坑儒」と共に焚書のはしりと云われています。

 聖パウロがエフェソスで神の道を説き、人々に偶像崇拝を止める様に勧めた時、激しい抗議を受けた事が、使徒行伝第十九章に記されています。

 「デメテリオと云う銀細工職人が、銀でアルテミス神殿の模型を造って、職人達に少なからぬ利益を得させていた。この男がその職人達や、同業者達を集めて言った。“諸君、我々がこの仕事で、金儲けしている事は、ご承知の通りだ。然るに、諸君も見聞きしている様に、あのパウロが、手で造られたものは神様ではない等と言って、エペソ(エフェソス)ばかりか、殆どアジア全体に渡って、大勢の人々を説きつけて誤らせた。是では、お互いの仕事に悪評が立つ恐れがあるばかりか、女神アルテミスの宮も軽んじられ、ひいては全アジア、いや全世界が拝んでいるこの女神様のご威光さえも、消えてしまいそうで有る”
是を聞くと人々は怒りに燃え、大声で“大いなるかな、エペソ人のアルテミス”叫び続けた。そして街中が大混乱に陥り、人々はパウロの同行者である、マケドニア人ガイヤオとアリスタルコを捕らえて、一斉に劇場へなだれ込み、全員が“大いなるかな、エペソ人のアルテミス”と二時間ちかくも叫び続けた。終に、市の書記役が群集を押し沈めて言った。“エペソの諸君、エペソ市が女神アルテミスと、天下ったご神体の守護役である事を知らない者が、一人でも居るだろうか?是は否定できない事実であるから、諸君はよろしく静かにしているべきで、乱暴な行動は、一切してはならない。諸君はこの人達をこの場所に引き立てたが、彼等は神殿を荒らす者でも、我々の女神を謗る者でもない。だから若し、デメテリオなりその職人仲間なりが、誰かに対して訴え事が有るのなら、裁判の日は有るし、総督も居るのであるから、それぞれ訴え出るがよい”」

 古くからのアルテミス信仰と、キリスト教布教の軋轢を思い起こさせる話と思います。

その4へ続く・・・

2011/02/19

人類の軌跡その13:忘却②

<エフェソスのアルテミス神殿その2>

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 野心の強いエフェソス人は、自分達の神殿を、是までに建立された如何なる神殿よりも、壮麗な物にしようと考え、太陽が月よりも輝く様に、アテネのパルテノン神殿を凌駕する神殿にしようとしました。

 パルテノン神殿は、長さ69m、幅30m、高さ10mであり、大理石の円柱58本で取り囲まれていたので、エフェソス人は自分達の神殿を、何れもパルテノン神殿の2倍とし、長さ120m、幅60m、高さ18m、大理石円柱127本で取り囲む事としました。
神殿の建設資材は、最も純度の高い白亜大理石を用い、その規模の巨大さ、壮麗さは、地中海、アジアに広まっていました。

 紀元前250年頃のエフェソスの街は、非常に巨大で誇りに満ち、全市は殆ど大理石で造られ、人口20万人、13kmに及ぶ城壁に囲まれ、港には、ギリシアやフェニキアの商船が、諸外国の物資や旅行者を乗せて、寄航していました。
彼等はもちろん、商売の為にこの街を訪れているのですが、驚異のアルテミス神殿に詣でる事も又、目的の一つでした。

 神殿に祭られているのは、ギリシア人に取ってはアルテミス神であり、ローマ人に取ってはディアナ神で在る処の貞節の女神でした。
活発な若い女神で、露にした両肩に弓を投げかけ、処女達の守護神でもあり、月の神でも在りました。
同時に大地母神、すなわち母なる大地の神、豊作と繁殖を司る神としても知られ、豊かさを表すこの女神は太っていて、一番目に留まる部分は、幾つもの乳房を下げている事でしょう。
この女神は、東方と西方の融合であり、この豊穣の神は、太古から信仰の対象に成っていました。

その3へ続く・・・

2011/02/18

人類の軌跡その12:忘却①

<エフェソスのアルテミス神殿その1>

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           エフェソス遺跡(ローマ時代のレリーフ)

 エフェソス(エペソ)の街は、小アジアに実在した、古代イオニア地方12の都市の一つで、紀元前6世紀頃、既に西アジアに於ける商業の中心地として繁栄し、最も富裕な都市と成っていました。
この街から「万物は流転する」と説いた、哲人ヘラクレイトス(紀元前535年~紀元前475年)や、詩人ヒッポクラテスが登場しましたが、この街を最も有名にしたのが、アルテミス(ディアナ)の神殿なのです。

 当時、世界最大の富豪と称えられた、リディア王クレッソス(在位紀元前560年~紀元前546)の提唱で、アルテミス神殿は建立されました。
高さ20mにも及ぶ、壮麗なイオニア風の白亜大理石の円柱を127本使用し、完成迄に120年を費やしたと云われています。
次の世紀にヘロドドスが、エフェソスを訪問した時、この神殿に感歎しエル・ギザのピラミッドやモエリス湖、ラビュリントスに劣らずの、賛嘆の言葉を送っています。

 ヘロドトスのエフェソス訪問から、1世紀ばかり後、この壮麗な神殿は一人の心無い者の仕業によって焼失してしまいます。
紀元前356年10月、ギリシア人ヘロストラトスは、「どうせ悪事を行うなら、後世迄語り告がれる様な悪事を働こう」と云い、神殿に放火したのでした。

 しかし、神殿は、ディノクラティスの手によって再建され、エフェソスの女性達は、修築資金を募る為、自ら宝石類を売却しました。
諸国の王達も、クレッソス王に見習い、円柱を寄進したのです。
アレクサンドロス大王は、アジア遠征の折、完成半ばのアルテミス神殿の壮麗さに感動し、「若し、エフェソスの民が、この神殿を自分の名前で寄進させてくれるなら、建立の全費用を受け持っても良い」と申し出ましたが、「ある神が、他の神の神殿を建立する事は適当では在りません」として固辞したと伝えられています。

その2へ続く・・・
2011/02/17

人類の軌跡その11:伝説④

<バビロンの栄華その4>

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              イシュタール門(復元図)

◎栄華の跡

 「バベルの塔」も「空中庭園」もその痕跡を現在に留める物では在りませんが、古都バビロンの廃墟は、現在もその面影を残しています。
古都バビロンの発掘は、ドイツの考古学者ロベルト・コルデヴェーの手により、1899年より開始され、20世紀に入ると供に発掘作業は更に、進行したのでした。
メソポタミアで最も著名な都の栄華を極めた時代の宮殿、イシュタール門、城壁等が次々に姿を現したのでした。

 長い時間、人間の世界から全く忘れ去られたバビロンの都は、再び太陽の下に姿を現し、かつての征服者がキャリオットに乗り通った道は、修復され、ライオンを模った色彩タイルは、再びその輝きを取り戻し、イシュタール門も修復され、神殿、宮殿、塔楼の跡も明らかにされました。

 紀元前586年、ナブカドネザル王は、イスラエルの都エルサレムを攻略し、ソロモンの神殿は破壊され、イスラエル人はバビロンに捕囚の身となりました。
その中で、予言者ダニエルは、異邦の神に従わぬ故を持って、ライオンの穴に投げ込まれましたが、神の助けにより何の危害も受けず、無事ライオンの穴から脱出することが出来たと、旧約聖書ダニエル書第六章は伝えています。

 ダニエル書第五章の伝える処によれば、ネブカドネザル王の王子ペルシャザルが、1000人の臣下と大宴席を設け、エルサレムの神殿から略奪した、金杯、銀杯で酒を酌み交わし、偶像を賛美した処、ペルシャザルの前の壁に「メネ、メネ、テケル、ウルバシン」と云う文字が現れ、ダニエルがその言葉の意味を解き明かし、その言葉の通りにペルシャザルは、その夜の内に殺され、バビロニア滅亡の発端と成りました。

 発掘が進み始めた当時、バビロンの廃墟を訪れた旅行者は次の様に述べています。
「かつては、バビロニアの精鋭軍を送り迎え、諸国からの公益で多くの富を積んだ車で賑わったイシュタール門も、今はひっそりとして、薄気味悪い影が漂い、至る処に不気味な静けさが満ち溢れている。
夜更けの冷たい風が、荒廃した城壁の間を吹き抜け、野犬の遠咆が、夜の静寂を破って聞こえて来るばかりである」と。

続く・・・
2011/02/16

人類の軌跡その10:伝説③

<バビロンの栄華その3>

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◎空中庭園

 「空中庭園」は、新バビロニア王国のネブカドネザル2世が造営したと、伝えられる建造物で、浮かんでいるという意味ではなく、平地に土を盛り上げ、小山の様に形造った一種の人工の山ですが、草、花、木々を数多く植え、あたかも遠距離から望見すると、天井から吊り下げられた庭に見えるところから、その名前が生まれたのでした。

 ネブカドネザル2世がなぜ「空中庭園」を造ったのかについては、以下の様なお話が、現代に伝わっています。
「ネブカドネザルが、バビロンの王に即位した時、北方のメディア王、キアクセレスの王女を妃に迎えました。
メディアは山国で、果実と花に溢れる土地でしたから、その地で生まれ育った王妃は、平坦でしかも雨の降らないバビロニアが退屈で、何時も生まれ故郷であるメディナの緑の丘や木々、咲き乱れる花々の美しさを懐かしがっていたのでした。
其処で、王は王妃を幸せにする為に、故郷のメディナに在る如何なる種類の庭園よりも、美しい庭園をバビロンの地に造ろうと決心します。
王は優秀な建築家、技術者、工匠を各地から集め、その構想を実現しようと努めます。
王宮の広場の中央に縦横400m、高さ15mも土台を築き、その上に階段状の建造物を建てました。
最上階は、60平方m位の広さですが、高さは、105m(!?)、現在の30階建てのビルに匹敵するものでした。

 雛壇が完成すると、その上に何tもの土壌を運び上げ、一種の花壇を造り夥しい種類の草木を植えたのでした。
処で、この雨の殆ど降ることの無い、乾燥した地方で、此れほど大規模な庭園に水を供給することは、大問題でした。
王は建造物の最上部に水槽を置き、ユーフラテス河の水を汲み上げ、その水を最上階から低部に向けて流したのでし、水は、絶えず花壇に適度な湿り気を与え、更に庭園の低い部分の内側は、常に涼しい状態に保たれた、幾つかの部屋が設けられていました。
この部屋の上部からの水漏れを防いだのは、瀝青を敷き詰め物と云われています。

 二千数百年の昔、メディアの美しい王女を喜ばせた「空中庭園」は、現在、バベルの塔と供に現存していません。
ネブカドネザル2世の名前は、旧約聖書に留められていますが、美しいメディア王女の名前は、現在に伝わっていません。
このお話も一種の、伝説なのです。

その4へ続く・・・

2011/02/15

人類の軌跡その9:伝説②

<バビロンの栄華その2>

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◎バベルの塔

 バビロンの都の近く、ユーフラテス河から1km程の平原の中に、山の様にそびえる巨大な建造物が存在し、現在の人々は此れを「バベルの塔」と呼んでいます。
バベルの塔は、明らかに神を祭った神殿ですが、なぜこの様な大建造物を建立したのでしょう?
話は、創世記に伝えられるノアの洪水迄、遡ります。
聖書に由れば、この洪水は神の怒りにより、地上の悪を滅ぼす為に起こされたもので、信仰心の厚いノアの家族だけが、箱舟に乗ってこの災いを逃れる事が出来ました。
この箱舟に乗っていた、ノアの三人の息子、ハム、セム、ヤペテがやがてメソポタミア地方を支配する事に成り、ハムは、バビロンの都を築いたと云われ、子孫のニムロデは、バビロンの王に成りバベルの塔を築いたと云われます。

 「さあ、町と塔を建てて、その頂きを天に届かせよう。そして我々の名を上げて、全地の表に散るのを免れ様」(創世記十一章四節)
聖書が塔の建立者の口を借りて、語らせたことばです。
バベルと云うことばは、「神の門」の意味ですが、高い塔を空高く積み上げる事は、取りも直さず、天の神に近づく事であり、人々はこの為に高い塔を建て、天に昇る入口を造ろうとしたのでした。

 伝承に由れば、工事は一日に30cmずつ、レンガを積上げ、塔の頂きは雲に隠れる程であったと云い、その影の長さは、3日も掛かる長さに伸び、頂上に行き着く迄には、半日を要したと云われます。
私達は、現在その偉容に直接接する事は、永久に出来ませんが、バベルの塔が跡形も無く消滅してしまったかについて、聖書は語りません。

 伝説には、ニムロデが巨大な塔を完成させた時、人々は天の神に近づく事が出来ると言って喜び、ニムロデは「今こそ、自分は神に勝る強大な存在であり、天地を支配する権力を握る事が出来た」と豪語したと云います。
神は、人間の傲慢な振る舞いに怒り、そして言いました。
「見よ、彼らは皆同じ言葉を持った一つの民である。そして、その最初の仕事が此の有様だ。今に彼らが行おうとする事は、何事も留められなくなるだろう。彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じない様に仕向けよう」
神は、嵐を巻き起こし、塔の上部を吹き飛ばし、稲妻は激しい炎を放ち、塔を焼き尽くして、地上の人間を散らしてしまったので、彼等は、町を造る事を止めました。
其処でその町の名前は「バベル(混迷)」と呼ばれ、神が全ての土地の言葉を乱し(バーラル)、其処から彼等を全ての土地に散らせたのでした。

 その後、塔はセミラミス女王とネブカドネザル2世の時代に再建され、紀元前460年頃、バビロンを訪れたハリカルナッソスの歴史家ヘロドトスは、再建されたバベルの塔について、次の様に述べています。
「聖域の中に、縦横とも1スタディオン(185m)の堅固な塔が造られ、塔の上に第二の塔が存在し、この様にして8層の塔が積重ねられている。外側は、回転式の一種の休息所が在り、塔を上る者は腰を降ろして休息した。
最上部には、大きな神殿が在るものの神像の類は存在しなかった・・・神は時々神殿に来て、其処で休んだのだろう」

 バベルの塔は、現在その姿を想像する以外に方法は有りませんが、12世紀、ロマネスク時代の鐘楼にその在りし日の姿が描かれた事をはじめ、ヘルツォーク(15世紀)、ブリューゲル(16世紀)、マシュウ・メリアン(17世紀)等の手によって、今日に姿を知らしめています。
尚、メソポタミア地方には、現在でも階層を成したバベルの塔を小さくした粘土の塔が、沢山存在しますが、此れはジグラットと呼ばれ「山の家」の意味なのです。

その3へ続く・・・

2011/02/14

人類の軌跡その8:伝説①

<バビロンの栄華その1>

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        伝説のバビロン:バベルの塔と空中庭園


 今を遡る7000年の昔、現在のイラクとイランの南西部にあたる付近には、シュメール人の文化が栄えていました。
この地方には、チグリス河とユーフラテス河が流れ、地味豊かで農耕に適した地方です。
この地方一体はメソポタミアと呼ばれ、ギリシア語で「河と河の間の地」と云う意味なのです。

 シュメール人は、このメソポタミアの地に、最初の都市ウルを建設しました。
メソポタミア地方には、殆ど石が無い為、粘土を固めてレンガを作り、家屋や神殿を建設して行きました。
又、粘土版に楔形の文字を刻み、記録する術を知っており、やがて、メソポタミア地方には数多くの都市国家が生まれ、長期間に渡って異民族の侵入をうける事も無く、独自の文化を営む事が可能でした。

 やがて、セム族のアムル人がメソポタミアに侵入し、バビロンを中心に統一国家バビロニアを建国します。
ハンムラビ法典で知られる、ハンムラビ王(バビロン第一王朝)の時代(紀元前1729年~紀元前1686年)が最大の繁栄期であり、後世からも模範とされた古典時代を現出しました。

 後の時代、北方に勢力を伸ばしたアッシリアが、次第に勢力を拡大し、メソポタミアの地に侵入を繰り返します。
紀元前7世紀に至り、ネブカドネザル2世(在位紀元前605年~紀元前562年)の時代から再び栄光の時代を取り戻し、新バビロニアと成ります。

 新バビロニアが最も繁栄した時代は、先のネブカドネザル2世の時代で、その当時のバビロニアは「全ての国の中で、最も美しい国」と称されました。
首都のバビロンは、その面積が現在のロンドンに匹敵する程の広さを誇り、日干し煉瓦で造られた城壁は、総延長64kmに及び、夥しい塔楼と青銅造りに門が存在し、中でも有名な物が現在に残る、イシュタール門なのです。

 城壁は広く、当時戦闘に使用された四頭立てのシャリオットが、自由に走行出来たと云われ、この都を訪れたキャラバンは南の門から入り、北の門に辿り着く為に1日を費やしたと記録が残されています。
強力な軍隊に警護され、難攻不落を誇ったバビロンもやがては、度重なる戦火によって破壊され、廃墟と化しました。
記憶に残るこの華麗なる都は、多くの伝承によって何時しか伝説の都と成り、「バベルの塔」「空中庭園」の話が現在に伝えられているのです。

その2へ続く・・・
2011/02/12

人類の軌跡その7:現代に伝わる建造物番外編

<スフィンクス:ギリシア神話の世界>

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            英雄オイディプスとスフィンクス

 スフィンクスその1、その2に少しだけ登場した、英雄オイデップスのスフィンクス退治の物語です。
最初にオイデップスの生い立ちと、スフィンクスがテーバイの町の近くに現れた訳を少々お話します。

 オイデップスの父ライオス王は、生まれて来る子供の将来の信託を恐れ、生まれたばかりの赤子(オイディプス自身)の足をピンで突き刺した上で、家来に渡し、キタイロンの山に捨てさせ、其の内寒さに凍え死にさせるか、野獣に食われるかするだろうと考えました。
その後、ライオス王は彼の妃イオカステとの間に子供が出来ないように気を配り、少年ばかりを寵愛していたと伝えられ、王妃がいるにも関わらず、同性愛に奔る王を嘆かわしく思ったのが、ゼウスの妻で結婚の女神ヘラでした。
 
 国王の倫理に反した恋は、ヘラの怒りにより国全体を不幸に巻き込みます。
ヘラによってテ-バイに送られたのが、怪獣スフィンクスで、エジプトが起源とされるこの怪物は、ギリシャでは美しい女性の顔と胸にライオンの胴と足と尾を持ち 背中に翼が生えていると伝えられています。

 この怪物がテ-バイの国境地帯に居座り、通りすがる者に謎をしかけては、答えられない者を取って食っていたのですが、何しろ国境に居座られ為、この時のテ-バイの経済は、文物の交流が滞り破綻していったのです。

 そんな時テ-バイにオイデップスが着くと、国は大騒ぎでした。
町の西側で、スフィンクスが謎を仕掛けては通行人を襲っていたので、ライオス王がこの怪獣についてデルポイに神託を伺いに行く途中、その王も山賊に襲われて死んでしまい、世継ぎの無いままの他界だったので、国は沈んでいました。
 
 王妃の弟のクレオンが、摂政として代わりに国政に参加していたが、彼にもスフィンクスの問題はどうにもならなかったので、テ-バイの国にお触れが出ます。
それは「怪物を退治した者は未亡人となった王妃を娶り国王になれる」という内容。
 
 オイデップスは、スフィンクスを退治しようと考えます。
何しろ彼は国も捨ててきたくらいですから、恐れも何もなく、国境付近に怪物スフィンクスが居たので、オイディップスは謎に挑戦しました。
 
 スフィンクスが出した問題と言は、「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足になるものは何か?」というもの。
「それは人間」とオイデップスは答えます。
たったこれだけの謎に、テ-バイの国民は四苦八苦していたのですが、スフィンクスは謎が破られたのを嘆いて、そのまま崖から身を投げてしまいました。
 
この後、オイデップスは、テーバイに凱旋し、前国王の妃を自らの妃とするのですが、それ以後のお話は、スフィンクスの本題から、反れますので割愛します。

続く・・・
2011/02/11

人類の軌跡その6:現代に伝わる建造物⑥

<スフィンクスその2>

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 20世紀に成り、古代エジプトに関する研究が進むと、スフィンクスも砂に覆われた部分が発掘され、その姿を太陽の下に見せたのでした。
この発掘作業で、両前足の間に碑文が存在する事が確認され、第18王朝のトトメス4世(在位紀元前1422年~紀元前1413年)が記したものでその内容は、「王が即位する以前、狩の途中現在のスフィンクスの傍で休息をしている時、日の神ハルマチスの化身と考えられるスフィンクスが、夢に現れて、もし王子がこの砂に埋もれた体を清掃してくれたならば、2国の王にする事を約束した」事が記されています。

 カルナック神殿の参道の両側には、第19王朝ラムセス2世(在位紀元前1301年~紀元前1234年)が建立したと伝えられる、多数のスフィンクスが並んでいます。

 処で、このスフィンクスは、何のために造られたのでしょう?
顔はファラオ、体は百獣の王ライオンを模しているのですから、国王の権威を広く世に広めようとしたのだと、考えられています。

 スフィンクスは、エジプト以外の土地でも広く知られており、特にギリシアでは、幼児をさらう怪物として知られ、ギリシア神話に登場する女神ヘラが、テーベに送り込んだスフィンクスは、人々に謎をかけ(朝は4つ足、昼は2本足、夜は3本足で歩く動物は何か)、解けない者をさらい食ったと云います。
やがて、オイディプスが「其れは人間」と答え、謎を解かれた、スフィンクスは死んだと云います。

続く・・・

2011/02/10

人類の軌跡その5:現代に伝わる建造物⑤

<スフィンクスその1>

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 何時も大ピラミッドの陰に隠れ、余り話題にされる事が少ないですが、若しエジプト以外の土地に存在したのであれば、現在でも話題に欠く事は無いと思われます。

 スフィンクスは、古代オリエントの神話に登場する、人間の頭とライオンの体を持った半人半獣の怪物で、その起源はエジプトに在り、王者の権力の象徴した姿を現しているとされました。

 ギゼーの大ピラミッドの傍に存在するスフィンクスは、大ピラミッドとほぼ同時代に創建された物と推定され、世界最古の像の一つと云われています。
岩山を利用して、造営された物で、前足から尾の先までの長さは、73.5m、高さ21m、顔幅は4mに達します。
頭部には、王権の象徴である頭飾りを付け、前額には王者のシンボルであるコブラを付け、現在は失われてしまいましたが、立派な顎鬚も付けていました。
表面は漆喰と彩色仕上げが、成されていたと推定され、スフィンクスの顔は、第四王朝ケフレン王(カフラー王)のものと云われています。

 このスフィンクスは、18世紀乃至20世紀迄の間、頭部だけを地表に出し、体の部分は砂の中に埋まった状態でしたが、之はむしろ幸運であったと言わざるを得ません。
永年の砂嵐や異民族の侵入による、破壊、略奪から、守られたと思われるからです。

 スフィンクスの頭部は、長い年月風雨に曝され、自然に侵食された他、一時エジプトがイスラム勢力に飲み込まれた頃、之を異教の神像と見なした彼等は、無残にもその頭部を破壊し、更に近代では、大砲等の標的となり損壊が進みました。

その2へつづく・・・
2011/02/09

人類の軌跡その4:現代に伝わる建造物④

<ラビュリントスと人造湖>

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 ギリシアの歴史家ヘロドトスは、「ピラミッドも驚くに足る建造物であり、ひとつひとつがギリシアの最も野心的な諸作品の多くに匹敵するが、ラビュリントスの方がそれらを凌駕している」と述べています。

 ラビュリントス(Labyrinthos)は「迷宮」若しくは「迷路」の意味に用いられていますが、本来の意味はラビリス(双斧)、すなわち両刃の斧の意味であり、クレタ文明期の最も重要な宗教的シンボルとされ、クレタ文明期のクノッソス宮殿にもラビリスが飾られていました。
この宮殿はクレタ王ミノスが名工ダイダロスに命じて建立したもので、錯綜した建物はラビュリントス(迷宮)の名に相応しく、一度ここに入った者は、再び外部に出る事は不可能と云われて来ました。
王は妃の生んだ半身半獣の怪物ミノタウロスをこの迷宮に幽閉し、やがてこの怪物は、英雄テセウスによって倒されます。

 このクノッソス宮殿は後に埋没し、19世紀の発掘を待つ事に成りますが、ギリシア人は、エジプト第20王朝(紀元前2000年~紀元前1790年)の最大のファラオ、アメネムヘト三世(モエリス)のピラミッドに隣接して建立された葬祭殿を、ラビュリントスと呼ぶ様に成りました。
「この葬祭殿(ラビュリントス)は、ピラミッドに匹敵する仕事で在り、之に隣接してこの一体を整備した、アメネムヘト三世の陵墓が在る」と述べ、葬祭殿(ラビュリントス)を高く評価しています。

 しかし、ヘロドトスは葬祭殿(ラビュリントス)よりも、これ等を造営したアメネムヘト三世によって掘削された、巨大な人造湖(モエリス湖)により多くの評価を与えています。
「葬祭殿(ラビュリントス)は驚くべきものであるが、その傍に位置するモエリス湖は、更に驚くべき存在である。その周囲は3600スタディオン(1スタディオン=185m)、その総延長は、エジプトの全海岸線に匹敵し、湖の形は南北に細く延び、最深部は50ファゾム(1ファゾム=1.85m)に達する、巨大な人造湖である」と述べていますが、既に4000年の昔、エジプトの技術者によって造営されたモエリス湖は、現在迄、この地域の農民にとって恵みの水と成っています。

 大ピラミッドは、素晴らしい技術的工事では在るものの、人類に益する有用な存在では在りません。
モエリス湖に関する記述は、書物でも大変少ないのですが、エジプトを流れる「母なるナイル」河と供に、4000年の長きに渡り、この地域の人々に恩恵を授けている事こそ、驚異と云うべきではないでしょうか?

続く・・・
2011/02/08

人類の軌跡その3:現代に伝わる建造物③

<ピラミッドその3>

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            ピラミッド内部構造

 当時のエジプトで広く信じられていた宗教では、人間の霊魂は一度死ぬとその肉体を離れるものの、後に再び元の体に返って生き返ると考えられていました。
当然、エジプト人は、遺体をミイラにして大切に保管しました。
ミイラの製造方法には、庶民の行い方から、貴族、聖職者、ファラオと夫々に違った工程が存在し、特にファラオは、崇拝されていたので、最高の方法でミイラにされ、ピラミッドに収められたと考えられています。
ファラオが崩御した後、黄泉の国での生活に困る事が無い様、身の回りの考えられる全ての物や、黄金、宝石が収められたのでした。

◎墓泥棒

 ピラミッドの玄室は、入口を厳重に塞ぎ、その入口自体も更に厳重に偽装されましたが、盗掘の被害を免れる事は、殆ど不可能でした。
西暦818年、イスラムの支配者 ハルン・アル・ラシッドの息子、アル・マモウムがエジプトのカリフに成った時、彼はピラミッドの中には、膨大な金銀宝石がケオプス王のミイラと供に、眠っていると聞き、その古えからの伝承を信じて、発掘作業を実行しました。

 ピラミッドは、厳重に封印されている様子で、本来の入口は発見出来ませんでしたが、彼は多くの労働者を動員して、石のブロックに横穴を穿ちながら、前進して行きました。
石の硬さと道具の貧弱さから、何度も諦め掛けた時、偶然の一撃が本来の回廊の壁を打ち抜いていたのでした。
結果は、残念ながら金銀宝石も巨大な墳墓の主の遺骸も既に遥かな昔、略奪されていたのですが、アル・マモウムの努力は、現在の私たちに取って、全くの無駄ではなく、彼の穿った通路のお陰でピラミッドに内部に入る事が出来るのです。

続く・・・
2011/02/07

人類の軌跡その2:現代に伝わる建造物②

<ピラミッドその2>

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           完成当時のエル・ギザ(想像図)

 ピラミッド造営の頃、エジプトには車輪、動物を動力にすると云った運搬方法は皆無で、梃子とコロ以外は人力に頼らざるを得ませんでした。
何百人もの人力によって、採石場から運ばれた、巨大な石材は、筏に乗せられて河を渡り、対岸に到着すると再び人力によって、造営地点に運ばれました。
陸上では、丸太を利用したコロを使用し、石材の重量でコロが沈み込まない様、その道路は石畳によって、一種の舗装道路とされました。

 石材を階段状に積み上げる作業は、傾斜路と滑車を用いて、ロープの力で引き上げて行きましたが、階を重ねるに従い、傾斜路をより遠方から整備したと云います。
この作業だけで10年以上、いったい犠牲者の数はどれ程に成るのでしょうか?
唯、ピラミッドの様な巨大建造物が、紀元前のこの時代に造営された事は、驚異であり21世紀現在の土木、建築技術を駆使しても同規模のものを造営する事に、どれ程の時間が掛かるのでしょう?

 230万個とも250万個とも推定された石の1個当たりの重量は、平均2500kg。
総重量は684,万8千tに達すると計算される建造物ならば、長い年月の間に基礎が沈下し、崩壊や歪が発生するのでしょうが、エジプトのそれは、何の狂いも無く聳え立っているのです。

 では、何の為に、ピラミッドは造営されたのでしょう?
一人の権力者の墓所、そして現在エジプトに残る70基余りのピラミッドも其れであると云います。
唯、権力者の遺骸を収容する為に、膨大な物的人的資源を利用し、極めて長期間に渡って働いた事実も現在では、奇跡に近いお話なのです。
只、一つの遺体を保護する事意外、特別な目的を持たず、膨大な資材と10万人とも云われる労働者を動員し、しかも20年間も働かせ続ける事は、現在の私達から考えても奇跡に近いと思われます。

その3へ続く・・・

2011/02/05

人類の軌跡その1:現代に伝わる建造物①

<ピラミッドその1>

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             エル・ギザのピラミッド群

 エル・ギザ(ギゼー)のピラミッドは、何れも第四王朝(紀元前2600年~紀元前2480年)に造営されたもので、最大のピラミッドは、ケオプス(クフ)王のものと云われています。
次位がカフラ(ケフレン)王、三位に位置するものがメンカウレ(ミュケリノス)王のものと云われています。

 ケオプス王のピラミッドはその底辺の長さ233m、夫々の面が東西南北に面し、その誤差は最大1度につき12分の1の過ぎず、四つの角は、ほとんど完全な直角をなしています。
入口の通路と小さな内室を除けば、総ては石灰岩で形作られています。
このピラミッドを構成する、石灰石のブロックの総数は、230万個とも250万個とも推定され、その総重量は684万8千tに達すると計算されています。

 これ等の石灰石は、ナイル河の東岸、カイロ近郊のモッカタム丘陵の採石場から、切り出されました。
モッカタム丘陵には、洞窟の様な砕石場所の跡が、現在でも存在しています。
後世のアラブの人々は、大変迷信深かったので、この場所に足を踏み入れる事は、殆ど無かったと伝えられています。
この洞窟の奥で、葦を用いて作られた長い網が発見され、当時のエジプト人作業員の残した遺物として、貴重な遺産と成りました。

 「歴史の父」と呼ばれるギリシアの歴史家ヘロドトス(紀元前484年~紀元前425年)は、このケオプス王のピラミッド造営について次の様に、推測しています。
「石を切り出し、筏で運び、工事用の道路を作り、ピラミッドの基礎工事を行うだけでも、少なくとも10万人の奴隷が10年を費やし、更にその形に組み上げる迄に20年以上の歳月を経たであろう」と。

その2へ続く・・・

PS:今日は我家のジロくんの5歳の誕生日です。

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人間の歳に換算すると30歳代半ば、当に働き盛りの年齢です。
是からも、元気でね!
2011/02/04

歴史の?その400:無名の功労者その2

<無名の功労者②:ドイツ兵を楽しませた謀略放送>

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              凱旋行進・ドイツ占領下のパリ

 第二次世界大戦の間、ドイツ軍ラジオ放送局、グスターフ・ジークフリート・アインス(以下GSI)は、下級兵士の間で、格別の聴取率を誇っていました。
歯に衣を着せず、下級兵士の気持ちを代弁する独自の番組を放送していた為ですが、やがて、放送の言外の意味を論理的に解釈すると、意外な情報が入手できる事が解かった為でも有りました。

 例えば、「我々の勇敢な軍隊がロシア戦線で、凍死の危機に曝されている間に」不当な利益をむさぼる者を、激しく非難するキャンペーンをGSIが始めた時、兵士達には、「不当な利益」等どうでも良い事で、お陰で東部戦線の冬の厳しさを正確に知る事が出来たのでした。

 又、空襲で損害を受けた、ドイツ諸都市の市民を収容する施設の医師達の活躍を、報道した時も、兵士達はコレラやチフスの死者が週平均60名も出た事を知ったのです。

◎愛国心

 GSIの人気の元と成った明け透けな報道姿勢は、後に大西洋放送とカレー兵士放送に引き継がれ、何れも、ドイツ占領下のヨーロッパ、ドイツ進駐軍向けの放送局でしたが、その熱烈な愛国心は、時として指揮官達の頭痛の種と成りました。

 これらの放送局が、怒りを込めて報道した番組に、脱走兵のニュースが有りました。
祖国を捨てて中立国に逃げ込んだ、不届きな兵士の脱走方法を、番組は怒りと悲しみを込めて、事細かに放送しました。
当然、軍務を離れたいと常々思っていた兵士達は、更に故郷の町が連合軍側の爆撃で、被害を受けた事を知ると、放送で知った脱走方法を実際に応用して、私的な無断休暇を取得したのです。
しかも、放送局の伝える情報の正確さは、何時も前線に空輸されて来る「軍隊ニュース」で裏付けされていました。

◎虚実取り混ぜ

 しかし、これらのドイツ兵士向け放送は、実際にはドイツ軍の手で行われていた訳では無く、ラジオ放送も新聞も、共に連合軍情報部の智恵の産物と言えるものでした。
ラジオ放送の発信地は、イギリス本土で、強力な電波によって本物のドイツ軍放送を傍受不能にしていました。

 偽装放送が成功したのは、情報に虚実を程よく混ぜ合わせ事により、それが結果的に故郷を遠く離れた前線のドイツ兵士達の心理に、効果的な働きをしたのです。
ドイツ軍の本物の新聞に似せた「軍隊ニュース」は、イギリス軍軍用機が毎夜空輸して地上に落としましたが、此方もラジオ放送同様の編集方針を取っていたのです。

 ドイツ宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスは、偽りの情報効果に憂慮しましたが、情報活動家としての彼は、連合軍の戦術に賞賛を惜しまない訳にはいかず、彼は連合軍側にこの新聞を、英訳して脱走や破壊、敵前逃亡を勧める宣伝ビラを仕立てて、連合軍側の後方に投下したのでした。


平成21年10月7日から16ヶ月に渡って続けてきました「歴史の?」も今回の400回を一つの節目として衣替えを致します。
何分、同じ人間の文章なので、それ程内容が、変わる訳は在りませんが、歴史と伝説、時には聖書等を踏まえ、ひとつの事柄に因むお話を紹介したいと思います。

2011/02/03

歴史の?その399:無名の功労者その1

<無名の功労者①:英雄に成った死体>

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             メッサーシュミットBf110

 スペインのある墓地に、1人のイギリス人が眠っています。
この人物は生前、祖国に殆んど何も貢献しなかったかも知れませんが、イギリスの秋の湿気の為、肺炎に罹り死亡した後、ナチス情報部を攪乱させ、数千人の将兵の命を救ったのでした。

 1942年、北アフリカ戦線での戦いが終息を向え様としていた頃、連合軍の次なる作戦がシチリア島攻略作戦である事をドイツ情報部に察知されてしまいます。
大至急、その情報が誤りである事とドイツ側に思わせなければ成りませんでした。

 イギリス海軍情報部は、一計を案じます。
死体を用意し、飛行機事故で死亡したと偽装して、その死体が中立国スペインの海岸に打ち上げられる様にし、死体には、極秘指令書に偽装した情報を忍ばせておき、ドイツスパイが其れを盗み見る様に仕向けました。

 第一の仕事は、溺死体に見える死体探しから始まり、肺炎患者の遺体が、身元を決して明かさない条件で取得されました。
死者は、イギリス海兵隊所属ウィリアム・マーチン少佐に生まれ変わり、彼が携行した書類の中には、イギリス参謀本部副部長がアフリカの第18陸軍師団司令官、アレクサンダー将軍に宛てた手紙が忍ばされていました。
手紙には、彼の意見が通らず、侵攻目標がシチリアではなく、何処か別に場所に変更されたと記されていたのでした。

 マーチン少佐は、マウントバッテン卿が地中海艦隊司令官のサー・アンドルー・カニンガムに宛てた書簡も携えており、其処には、一見不用意に洩らしたと見える言葉が、さり気無く書かれており、予定侵攻地点はサルジニア島で在るかの様に仄めかされていました。

 少佐は1943年4月19日、イギリス海軍潜水艦セラフ号の魚雷室に隠され、最初で最後の任務に出撃しました。
11日後の夜、死体は海中に下ろされ、翌朝、海流がウエルパの海岸に運び、漁師に発見されました。
スペイン当局はイギリス領事館に連絡を取り、少佐は最高の礼をもって軍葬に付されます。
しかし、書類に関するスペイン側の報告は、一切有りませんでした。

 スペインに対して、緊急要請が行われ、書類は最終的に5月13日、イギリスの手に戻されます。
精密調査が行われ、封筒が開けられた事が判明しますが、マーチン少佐の貢献が充分に確認されたのは、終戦の後でした。
ヒトラーは、連合軍の侵攻地点をサルジニア島と断定したいたのです。

 ドイツ軍最高司令部は、勢力を分散し、防衛線に弱点をつくり、連合軍は当にその地点を突いたのです。
シチリア侵攻作戦を迎え撃ったのはイタリア軍と、ドイツ軍の僅か2個師団だけで、その結果、上陸時の連合軍の犠牲は最小限に食い止められ、侵攻作戦は大成功に終わったのでした。

続く・・・
2011/02/02

歴史の?その398:歴史を変えた病気その6

<歴史を変えた病気⑥:人はそれを運命と呼んだ>

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                 ロンドンの大火

◎恐ろしい死

 ラテン語の「黒い」という言葉は、中世に於いて「恐ろしい」と同義語で使用されていました。
「黒死病」は、文字通り恐怖の病を意味していたのです。

 1348年には、フィレンチェの人口の大半が、黒死病の大発生の為死亡し、更にこの災禍は全イタリア半島に伝播しました。
同年、当時アビニュンに住んでいた教皇クレメンス6世は、ローマへの巡礼を提唱し、100万人以上の信者が、約800kmの旅に出発したものの、故郷に戻って来たのは10万人に満たない数だったのです。

 流行の絶頂期には、ローヌ川が犠牲者の墓場として使われましたが、他の方法ではもはや、死体の処理をする事が不可能に成る程でした。

 14世紀末までに、2500万人が犠牲となり、之は当時のヨーロッパ人口の25%に当たると推定されます。
或る推定値によれば、1500年~1720年の間に45回に上るペストの流行が報告されていると云います。
最も有名で最大規模の感染が1665年6月、ロンドンにおいて発生しました。

 ロンドンではペストの防疫法の一つとして、ねずみ以外にも犬、猫を焼却処分する方法を選択しましたが、この方法は徹底されず、手遅れでも在りました。
1666年迄に6万8000人のロンドン市民が、犠牲となりヨーロッパ大陸では、新しい流行が発生しないかと戦々恐々の日々が続いていましたが、1666年9月2日に、ロンドンの人口密集地域の中心部で、火災が発生し火事は4日間、燃え続け、市内の5分の4を焼き尽くし、同時に伝染病が発生する温床と成っていた、不衛生な環境も一掃されたのでした。

◎最後の大流行

 ヨーロッパに於ける最後のペスト大流行は、1720年、フランスのマルセイユで発生しました。
当時の挿絵や文書から判断すると、医師達は分厚い作業着と革の手袋を身に付け、更にくちばし状のマスクを被っていました。
くちばしの部分には、臭気を避ける、香草が入れられおり、当時は臭気が病気を運ぶと信じられていた、結果なのでした。

 18世紀以降、なぜペストの大流行が無くなってしまったのかは、はっきりとした理由は導き出せませんが、衛生概念の発達が、そういった大流行を抑制しているのだと思います。
只、「もしペストが発生したら、すばやく遠くへ逃げて、ゆっくり戻って来い」と云う当時の諺が、その対処をはっきりと言い表している様です。

続く・・・
2011/02/01

歴史の?その397:歴史を変えた病気その5

<歴史を変えた病気⑤:人はそれを運命と呼んだ>

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                クマネズミ

 大流行の時は、その被害が甚大な場合、人口の90%が感染する場合も在りますが、現在は抗生物質による治療の為、発症から数時間以内であれば、ほとんどの患者を救う事が可能となりました。
もし、治療が発症後12時間以上1日程度遅れた場合、腺ペストの致死率は50%、肺ペストの場合は、100%に達します。

 人類の歴史が始まって以来、人類はペストの恐怖に苛まれてきた様で、事実ペストは何億もの人々を根絶やしにした上、正に歴史の進路を変えたと断言できるのでは無いでしょうか?

 紀元542年、史上最悪のペストの大流行が、エジプトから交易路に沿って広がりました。
ペストは小アジアを横断し、コンスタンチノープル、ギリシア、ローマ、更にはライン川流域に迄達し、その猛威は52年間の長期に及び、犠牲者の数は1億人を越えたと考えられています。
之は当時知られていた世界人口の極めて大きな部分に相当します。

 ローマ帝国の衰退に伴い、交易路も衰退し、その後8世紀迄の間、ペスト発生の報告は殆ど存在しません。
唯一、ベネラブル・リードが「アングロ・サクソン年代記」の中で報告している流行が有ります。
紀元664年にイングランドとアイルランドでペストの大流行が在り、腺ペストしか考えられない、病気の症状を克明に記録しています。

◎犠牲者の墓地

 14世紀初頭、ネストリウス派の伝道師達が、新しいルートを通ってヨーロッパとアジアの間を旅する様に成りました。

 1338年と1339年の伝道師達の墓が、そのルート沿いに発見されています。
この放浪の宣教者のある者は、外モンゴルでペストに感染した事が知られており、この痛ましい事実と、普通の鼠がヨーロッパに生息していた事が、その後60年間に渡ってヨーロッパ大陸で猛威をふるい、更に引き続き4世紀近くに渡って世界中を震撼させた「黒死病」の原因に成ったと考えられます。

続く・・・