2011/03/31

人類の軌跡その51:現代に伝わる建造物⑩

<聖ソフィア寺院1>

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◎寺院建立の由来

 トルコ共和国の古都イスタンブールは、遥かな昔コンスタンチノーブル(コンスタンティノポリス)と呼ばれ、更に昔は、ビザンチウムと呼ばれていました。
4世紀初頭、ローマ帝国皇帝コンスタンチヌス1世(紀元274年~337年)は、其れまで邪教として禁令を出していたキリスト教の禁を解き、自らもキリスト教に帰依し、ローマ帝国全土をそれ以前の古い異教から解放して、都を古都ローマからビザンチウムに遷都し、自らの名前を冠してコンスタンチノーブル(コンスタンチヌスの都)と改名し、この街をキリスト教の本山と成る様、尽力したのでした。

 200年程後、皇帝ユスチニアヌス1世(紀元483年~565年)が、ビザンチン帝国の帝位に尽くと、主イエスの栄光を表す為、其れまで異教の神の為に建立された如何なる寺院・神殿よりも大きく、壮麗な寺院を建立しようと考え、西暦530年から造営工事が開始されたのですが、16,000人に上る労働者は、この寺院建設の為、他にも進められていた、全ての公共工事を中断して動員されました。
また、資材は当時、最高の物資を得る為、ヨーロッパ、アジア、アフリカ等ローマ帝国の版図全てが、厳密に調査が行われ、これ等の資材を得る為、財宝を満載した船を各地に派遣しました。

 ユスチニアヌス1世は、聖ソフィア寺院建立の為、皇室宝庫を空に(国家財政を傾け)しましたが、悔やむ事無く、国の官吏の給与を抑え、学校を閉鎖し、軍隊を無報酬で労働させました。
この様にして捻出した金員で、寺院の祭壇を飾る18tの銀と50万個に上る真珠を購入し、寺院の内部は大理石が張り巡らされ、巨大なドームが被せられたのでした。

 聖ソフィア寺院は、キリスト教の寺院として916年間存続し、其れまでに多くのキリスト教寺院が建立されましたが、何れも壮麗さ、豪華さの点で聖ソフィア寺院に比較される物は存在しませんでした。
現在ならば、セントピエトロ大聖堂が上げられるのではないでしょうか?
只、歴史の上では、聖ソフィア寺院とセントピエトロ大聖堂では、1000年の隔たりが存在します。

続く・・・

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2011/03/30

人類の軌跡その50:先史時代の記憶②

<先史時代:サハラが緑だった頃2>

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            タッシリ・ナジュールのオアシス

◎タッシリへの探検

 ブレナンが描いたスケッチに、強い印象を受けた人物の一人に、フランスの探検家・人類学者のアンリ・ロートがいます。
彼は直ちに、タッシリへと旅立ちました。
其れから数年後、ロートはフランスのアカデミーや政府機関の援助を得て、画家と写真撮影チームを編成し、タッシリへと再び旅立ちました。
1957年迄にロートのチームは、1500㎡に及ぶ壁画の模写と写真を、パリに持ち帰る事ができました。

 乾燥した砂漠の空気の中に、幾つかの時代の記録が、保管されていました。
最も古いものは、色の黒い多分ネグロイドと思われる人々が、弓と矢、槍を使ってキリン、サイ、象等を狩立てる様が描かれ、其処には、巨大な、半分人間にも見える形をした、神と推測される、ぼんやりとした白い姿が見受けられます。

◎侵入者の肖像

 宴会の場面、婚礼の儀式、穀物をついて粉を作っている女性、小屋を立てている場面、飼い犬を連れた家族、動物の毛皮を掛けて眠る子供達、その他の家庭生活の情景も見られます。

 紀元前5000年から4000年の間に、次第にこの人々に変わって、皮膚の色がもう少し薄い、銅色の肌を持った人物が登場してきます。
この新しい侵入者達も、自分達の肖像画をこの画廊に書き加え、羊、キリン、レイヨウ等の狩猟場面を描きました。

 更に時代が下って、紀元前1000年代頃の絵には、チュニック状の着衣を着け、馬の引く戦車に乗った兵士が見られます。
現在でも推測の段階ですが、彼らは古代エジプトの記録に存在する、クレタ乃至小アジアからエジプトに侵入した「海の人」かもしれません。
闘いに破れた彼らが、リビアに逃れ、やがて遥か西方のタッシリ高原にやって来た、という可能性は充分に考えられる事です。

◎沈黙の世界

 河川が干上がるに従って、タッシリの人口は減少し、壁画が新たに書き加えられる事は、殆んど無くなりました。
紀元前1000年頃、人々は忍び寄る砂漠に生活の場を奪われ、何処へと去って行きました。
そして、沈黙の世界が続き、砂漠の砂塵が見捨てられた、この土地を吹き抜け、世界の他の場所で、幾つもの国々が勃興、滅亡を繰り返した間、消え去った素晴らしい種族の肖像は、タッシリ・ナジュールの日に焼かれた岩壁から、むなしく虚空を眺めるだけでした。

続く・・・
2011/03/29

人類の軌跡その49:先史時代の記憶①

<先史時代:サハラが緑だった頃1>

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                タッシリ・ナジュールの風景

 遊牧民トアレグ族の隊商が、ラクダを引いて、サハラ砂漠の石ころだらけの高地のキャンプにやって来ました。
その隊商に、チャド湖に向かう途中の若い探検家、ハインリッヒ・バルトが加わっていました。

 彼らの周りを取巻く、険しい砂岩の崖に視線を向けたバルトは、其処に牡牛、水牛、ダチョウや人物等の見事な彫像が彫られている事に気づき、大変な衝撃を受けました。

◎古代の画廊

 1850年のその日、バルトが発見したのは、8000年前の画廊の一部で、其れは、かつてサハラが緑豊な土地で会った頃、中央サハラのタッシリ高原と、其れを取巻く丘陵地帯に住んでいた、遥か昔に忘れ去られた人々が残したものでした。

 しかし、タッシリの岩壁の美術が、世界の注目を集める様に成ったのは、1933年、フランスの軍人、シャルル・ブレナン中尉の報告によってでした。
ブレナン中尉は、タッシリの荒涼とした丘や谷間を歩き回り、何キロメートルにも渡って岩壁に描かれている彫像と、見事な絵画を発見したのでした。
素朴な家庭生活、狩猟の場面、神々と思わしき姿、宗教的儀式等の場面が、黄土色、紫、黄褐色、白色に柔らかく輝いていました。
絵の具で描かれた戦士は、丸い楯と槍を持って戦車に乗り、突進し、前掛けを着け、エジプト風の帽子を被った牧童は、長く湾曲した角を持つ牛を追っていました。

 描かれている動物や鳥には、遥か以前に絶滅してしまった種のものも含まれ、又、サイ、キリン、ダチョウ等に至っては、現在、この場所から1500km以上も南の草原でしか見る事が出来ません。

続く・・・
2011/03/28

人類の軌跡その48:現代に伝わる建造物⑩

<ストーンヘンジ>

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◎巨石文化

 イギリス、ソールズベリーに在るストーンヘンジは、石垣と言った意味で、先史時代の巨石記念物の一つに数えられます。
元来、巨石記念物は、北部ヨーロッパに多数現存していますが、北部ヨーロッパに限らず、フランス、スペイン、シリア、インド、中国等にも類似のものを見る事が出来、イースター島の巨人石像もこのグループに数える事も可能と思います。

 巨石記念物には、メンヒルの様に自然石を一本の柱の様に立てたものや、アリニュマンと呼ばれる多数のメンヒルを直線状に配列したもの、ストーンサークルに様に、立石を環状に配置したもの、ドルメンと呼ぶ平らな石を天井石として、その下に支えと成る柱石を配置し、一見棚の様に組み立てたものが知られています。

これ等の巨石記念物は、如何なる目的で造営されたのでしょうか?
勿論、宗教的目的が在ったと思われますし、ドルメンには現在の墓石の一種と見なす研究者も存在します。

 人類の知恵が進むに連れて、生死に区別が生じ、霊魂の事を考える様に成りました。
最初、人間は死んでも、その場所にそのままに残され、鳥や獣に食い荒らされるままにされていました。
処が、霊魂の事を考える様に成ると、死んだ者をそのままにしておけず、その死体を丁寧に埋葬しその上に大きな石を置きました。
死んだ人物の魂の存在を恐れた結果だと考えられ、その為膝や腕を折り曲げて埋葬したのでした。
ドルメンもその一つであり、その発展した形態がエジプトや中南米のピラミッドと云う事が出来るのでしょう。

◎ストーンサークル

 ストーンサークルでは、イギリスのヴィルトシャーに現存する物が、有名で構造的には直径114mの土手を廻らせた濠に囲まれ、現在四重の石のサークル(環)が存在しています。
第一のサークルは30本の支柱列が円形を造り、その上に置かれた横石を渡した構造に成っています。
支柱石の高さは約4m、第二のサークルは高さ1.8mの小型の石を円形に配列し、第三のサークルは高さ6m乃至7mの大石を組んだトリリトン構造が5組、馬蹄型に配置されています。
その内部に同じく馬蹄型に19個の立石が並び、更にその内部の中心に平石1個が設置されています。
これ等のサークルは必ずしも同時期に建設されたものでは無く、何れにしても太陽信仰に起因した宗教的な物と考えられ、放射性同位元素の測定により、紀元前1840年前後に建設されたものと考えられています。

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       参考:ティワナコ・太陽の門(南アメリカ・ボリビア)

続く・・・
2011/03/27

人類の軌跡その47:現代に伝わる建造物番外編5

<長城の果て・チンギス・ハーンの墓は何処に>

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 広大な草原を、一群の人々が、1頭の雌ラクダを引いて現れました。
或る処迄来た時、人々は立止り、雌ラクダを放すと、ラクダは草原の中を歩き周り、やがて一箇所に立止ると、天に向かって、悲しげに嘶きました。
人々は、其処が1年前に造った墓で有る事を知ったのです。

 1年前、この場所に死者は埋葬されたのでした。
埋葬した後、土を被せ、その上を数百頭の馬を走らせて、しっかりと踏み固め、親子のラクダを連れて来ると死者を埋めた真上で、仔ラクダを殺しました。
その時、親ラクダは、子供の死体の匂いを嗅ぎながら、悲しく嘶いたのでした。

 1年が経ち、墓所には、草が一面に茂り、どの位置が墓所で在るのか見当がつきません。
其処で、昨年の親ラクダを連れて来たのですが、親ラクダは、自分の子供の死んだ場所を、永く覚えているからです・・・モンゴル人の埋葬習慣に関する書物には、この様に記されています。

 モンゴル人をはじめ、北アジアの人々は、死者を埋葬しても墓所の目印を、設けませんでした。
従って、王の墓所で在っても、長い年月が経つ内に忘れ去られ、モンゴル帝国の皇帝達の墓所も、現在では確認出来ず、チンギス・ハーンについても同様なのです。

 1227年の夏、チンギス・ハーンは、タングート攻略の為、中国西部、現在の甘粛省深くに遠征した折、病に倒れ、死去は、8月18日の事と伝えられますが、この英雄の死は、厳重に伏せられ、其れは又、チンギス・ハーンの遺言で在ったとも云われています。
遺骸は、モンゴルの兵士に厳重に守られ、粛々と草原の道を北に向かい、その途中で葬列に出会った者は、例外無く命を絶たれました。
かくして、ケルレン河の源に近い本営に達した時、初めて喪は発せられ、遠征中に皇子や将軍達の下にも、使者が急ぎました。
最も遠くに遠征していた者は、3ヵ月の後にようやく、本陣に到着したのでした。

 葬儀の終了後、遺骸は聖なるブルカン山の山中に深く埋葬され、其処は、オノン・ケルレン・トラの3河が源を発する土地でした。
嘗て、チンギス・ハーンは、この地で狩猟を試みた時、一本の大樹の陰に休んだ折、左右の者に、自分が身罷ったら此処に葬って貰いたいと語ったと伝えられています。

 チンギス・ハーンがこのブルカン山中に埋葬された事は、恐らく事実と推定されますが、場所の特定が全く出来ないのです。
伝えられる話では、やがて墓所には、樹木が繁茂して密林と成り、果たしてどの場所に英雄が眠っているのか、知る者が無くなってしまいました。
又、チンギス・ハーンの墓所は、如何なる者も近づく事は禁じられ、彼の死から1世紀後の世でも、モンゴルの人々に神聖視されていました。

 処で、チンギス・ハーンは何歳で、この世を去ったのでしょうか?
是も又、多くの説が在り、72歳、66歳、60歳と分かれているのは、その生年が、1162年とする説と、1167年とする説が現在でも対峙している為で、是等を特定させる資料も存在しませんが、12世紀中葉に生きた人物で在り、日本では、平清盛の時代に相当します。
出生の年では、正確な事例は、存在せずとも出生に関しては、明確です。
尚、源義経が北海道から、シベリアを経てモンゴルの地に至り、チンギス・ハーンに成ったと云うお話は、良く耳にされると思いますが、是は後世の創作で、事実無根の俗説です。

 チンギス・ハーンの父親は、イェスゲイで在り、モンゴル国の由緒正しい貴族且つ豪傑で、その家系もモンゴル人の間で伝承され、十代前迄正しく辿る事ができます。
母親は、ホエルンと呼ぶ才女で、最初メルキト国の男性に嫁していたところを奪い取られて(略奪婚)、イェスゲイの妻に成ったのです。
ホエルンから、チンギス・ハーンの他、4人の弟妹が生れました。
尚、井上靖の「蒼き狼」では、ホエルンがメルキトに居た事から、チンギス・ハーンの本当の父親もメルキト人では無いかとの話も在りますが、是は、作品におけるフィクションで、事実とは異なります。

続く・・・
2011/03/26

人類の軌跡その46:現代に伝わる建造物番外編4

<長城の果て・未解読の文字>

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 10世紀初頭、日本では平安時代前期、延喜7年(907年)、唐は終に滅亡します。
是より、中国華北の地に五つの王朝が、盛衰を繰り返し、そのの地域でも、小国が交替する五代十国の時代と成りました。
同じ頃、モンゴル高原の東部には、モンゴル系契丹人の国が生れ、やがて契丹は、五代の混乱に乗じて、華北の地に侵入し、現在の北京、大同一帯の地域を領土に加え、更に国号を遼とします。

 一方、中国では、宋が五代十国の混乱を治め(960年)、統一国家が復活しますが、遼の国力は、宋の其れを凌駕し、じりじりと宋を圧迫します。
11世紀に成り、中国の辺境の西辺、黄河上流地方を中心に、チベット系国家が建国します。
この国家こそが、西夏であり西域との交通の要衝を治め、強勢でした。

 越えて12世紀、満州の地(東北部)にツングース系女真族(後年の清朝を建国)が、其れ迄、契丹人支配から分離独立を果たし、金を建国します。
金は、宋と同盟関係を構築して、遼を滅ぼし(1125年)、更には盟友である宋を攻め、皇帝一族を捕虜(1127年)とし、此処に宋は、一旦滅亡します。
但し、皇族の一部は、南方に逃れ、開封を都に揚子江流域以南を保ち、宋の王朝を復活するものの、華北の地は、悉く異民族である、金の領土と成りました。

 この様に、契丹、西夏、女真の各民族も中国の王朝を圧迫し、その一部を領土として猛威を振るったものの、武力は強大であっても、その文化は、到底中国に比較できるものでは有りませんでした。
彼等は、中国文化を吸収する一方で、漢字に倣って、独自の文字を創ります。
其れが、契丹文字で在り、西夏文字で在り、女真文字で在りました。

 しかし、どの文字を見ても、其の複雑さは漢字の比ではなく、漢字に似ているものの、読み方、文法も全く異なり、契丹文字は、モンゴル系言語を写したものであり、西夏文字は、チベット系のもので在りました。
彼等の国家では、この文字が正式な文字とされ、公文書の作成は、この複雑な文字が用いられたのです。

 其の読み方に関して、現在迄、数多の研究が進められ、その結果、是等の複雑な文字の構成法は解読され、特に西夏文字は、日本の西田竜雄氏によって、解読されました。
しかし、契丹文字や女真文字は、未だ未解読のまま残されています。

 文字を創るという行為は、民族としての自覚が高くなった結果に相違ないものの、是程に難解な文字を創り、又読みこなせたのでしょうか?
余りに使い難い文字で在った為、国の崩壊と供に忘れられ、誰も読む事が不可能に成るのです。
文字は、使い易くしなければ、普及しません。
日本の「かな」文字の発明が、どれ程、日本文化発展に貢献したでしょうか。

 13世紀のモンゴル人は、ウイグル文字(トルコ系)を真似て、モンゴル文字を創り、後に清朝を建国した、女真族は、更にモンゴル文字を真似て、満州文字を創りました。
この満州文字は、「かな」と同様に表音文字で在り、15世紀に成立した朝鮮文字(ハングル)と供に、後世迄残りました。

 中国と接する南の国々、特にベトナムも、日本、朝鮮と同様に中国文化の影響を強く受け、ベトナムも漢字表記では「越南」で在り、「胡志明」と書いてホー・チミンと読み、「奠辺府」と書いてディエンビエンフーと読みました。

 やがて、14世紀には、漢字を利用して、ベトナム語を表記する独特の文字(チュノム)を創りましたが、漢字をそのまま使用したものも在れば、字画を簡素にしたもの、或は合成したものも在りますが、実際に使用するには、不便だったと思われ、事実、フランスがベトナムに進出する様に成ると、ローマ字でベトナム語を表記する事が、一般に普及したのでした。

 中国を廻る諸民族の文字は、何れも簡略化の道を辿りますが、契丹と西夏、更に女真は、殊更に複雑な字形を創り、普及されぬまま、文字も国家も滅亡したのでしょう。
是等の文字も何れ解読される時が、来るのでしょうが、西夏文字を除き、解読不可能な文字として、現在も残っています。

続く・・・
2011/03/25

人類の軌跡その45:現代に伝わる建造物番外編3

<長城の果て・敦煌文書>

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 中国大陸、河西通廊を西へ西へと進んだに果てに、敦煌の町は在りました。
中国の絹は、ここから「絹の道:シルクロード」を通って西へ、遠くは遥かギリシャ、ローマ迄運ばれ、西からの品物や文書は、敦煌を経由して中国、朝鮮、日本に送られて行きました。
仏教もいち早く敦煌へ伝授し、インドや西域で営まれた石窟寺院が、敦煌の周辺に造られたのでした。

 敦煌周辺の石窟寺院の内、最大のものは、莫高窟で、千仏洞とも呼ばれていました。
4世紀の半ばから造営され、隋・唐・宋の時代を経て、14世紀、元の地代に至る迄石窟は、造営され続け、約1.6kmの断崖に大小600余りの洞窟が掘られています。
しかし、遠い辺境の石窟は、何時しか中国の人々から忘れ去られ、遺跡も荒廃が進んでいたのです。

 19世紀も最後の年、1900年、この千仏洞に暮らしていた、王道士(道教の僧)によって、石窟の一つに大量の文書が秘蔵されている事が判明しました。
其処には、経典、庶民の生活記録、日常の取引記録、或は、牧童の恋歌迄、石窟の奥にある小部屋にぎっしりと詰め込まれ、入り口は、泥で密封されていました。
王道士は、この発見を役所に報告したものの、役人達は、古文書に関して一切興味を示さなかったと云います。

 この発見に着目したのは、寧ろ諸外国で、1905年、ロシアの探検隊が訪れ、若干の古文書を持ち去り、1907年には、イギリスの探検家スタインが、窟を訪れます。
スタインは、王道士を上手く操り、1万点に及ぶ文書類をロンドンに運びました。
1908年、フランスの東洋学者ペリオが訪れ、アジアの言語に通じた彼は。石窟内の文書から特に貴重な物を5000余点選び出し、パリへの帰国途中、北京でその一部を公開したのですが、それは、中国の学者達を震撼させるに十分な資料だったのです。

 彼等は、時の中国政府に働き掛け、取り残された文書類、約1万点を北京に運びました。
其の後、1912年に、日本の大谷探検隊が、1000点に近い古文書類を日本に運び、1914年には、再びロシアの探検隊が、訪れています。

 こうして現在迄に知られた、敦煌文書は、総数4万点に近く、その大部分が5世紀から、11世紀に及ぶ未知の資料でした。
仏典、中国古典、キリスト教(景教)等の経典、漢文以外にチベット語、ウイグル語、更には死語となった中央アジア諸国の言語、文字で記された文書も多数発見されました。
更には、経典の裏には、戸籍が書かれ、又契約書、帳簿、習い文字に用いた紙片迄在りました。

 この様な日常の文書は、貴重ですが、この様な大量な文書類を、誰が、何時、如何なる理由で、千仏洞の一角に密封したのでしょう?
20世紀最大の発見の一つと云われる、敦煌文書が、如何なる理由で収蔵され、今日迄伝えられたかのかは、永遠に解からないと思います。

 敦煌文書は、5世紀から11世紀初頭のものであり、之等は11世紀に収蔵されたのでしょうか?
この時代、中国は宋の地代で、黄河の上流では、チベット系の西夏が建国していました。
やがて、西夏は、李元昊の時代、吐蕃、ウイグル等の周辺諸国を併合し、宋の領土に迫ります。
特にウイグルは、ヤグラ汗の御世、かつて強大な国家を築いたウイグルも、終に西夏の前に敗走し滅亡します。
当時、宋は既に江南、開封の逃れ南宋の時代となり、その国力を衰える一方でしたから、辺境の地、敦煌の人々が西夏の進行をどれ程恐れたかは、十分想像できます。

 石窟寺院の大規模な造営からも推察される様に、敦煌では仏教が盛んな町でしたから、何よりも大切な仏典を戦火から守る為、限られた時間の中でそれらを隠したのでしょう。
その時、経典だけでなく、手当たり次第にあらゆる文書類を運びこんだのか、不要な書類を収納していた窟に、重要な経典を詰め込んだのかは、現在では想像するしか方法が有りません。
種類を問わず、雑然と積み込まれ、しかも封印されていた石窟の意味を、現在の歴史家はこの様に推察しています。

続く・・・
2011/03/24

人類の軌跡その44:現代に伝わる建造物番外編2

<長城の果て・彷徨える湖>

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 今から2000年以上昔の事、漢時代の歴史書、「漢書」には、中央アジアのタクラマカン砂漠に「蒲昌海・(プーチャンハイ・ロプノール・ロプ湖)」という大きな湖が在った事が記録されています。

 この湖の事は、同時代のヨーロッパ人にも知られており、地中海東岸の町、テュロスに住んでいたギリシア人マリノスの記録にも現れており、マリノスから300年程後の時代、地理学者プトレマイオスの作製した、アジアの地図にもその位置が記されています。

 当時、是ほど迄に遠く離れた国の人物が、中央アジアの砂漠の中に在る湖の存在を知り得たのは、このタクラマカン砂漠を往来した隊商の通る道が、東西交流の重要な道で有ったからなのです。
この隊商路は、「シルクロード」と呼ばれ、当時ヨーロッパ人は、中国を「セリカ(絹の国)」と呼び、ヨーロッパで生産出来なかった絹を大変珍重し、同じ重さの金と交換したと伝えられています。

 ところが後年、このロプ湖の存在が、全く伝わらなくなり、この地域を1273年に通過した、マルコ・ポーロも砂漠に関する記録は、多いもののロプ湖については、全く記録が存在していませんでした。
長い年月、ロプ湖は、人々の記憶から消え去りましたが、1876年にこの地方を調査した、ロシア人プルジョワルスキーが、ロプ湖の存在を確認しました。
しかし、その位置は、一度程も南に在った為、地理学者の間では、彼の発見した湖は、ロプ湖では無く、全く別の湖であるとする説と中国の地図が間違っているとの説に分かれ、大論争が起こりました。

 ドイツの地理学者リヒトフォーヘンは、ロプ湖に流れ込むタリム川の流れが変化し、その為湖の位置が変化したとの説を発表したものの、当時、この事実を示す証拠が存在せず、彼の説は再考されませんでした。
その様な中、彼の弟子である、スウェン・ヘディンは、中央アジア探検を計画実行します。
ヘディンは幼少の頃、探検家ノルデンショルドが、北方航路を通過する事に初めて成功し、華々しく帰国したのを見て、自分も探検家に成ろうと決心した人物でした。

 ヘディンの第一回中央アジア探検は、1893年から1897年迄の4年を要したタクラマカン砂漠の横断でした。
之は、実に苦しい探検で、彼は九死に一生を得たのですが、途中で水が欠乏し、彼の従者4人の内3人は、喉の渇きが極限に達し、ラクダの小便に砂糖と酢を混ぜて飲み、2人は死亡し、1人は、危うく死を免れる程でした。
後にヘディンは、幾度も中央アジア探検を繰り返し、1906年の第三回探検の帰途には、日本にも立ち寄っています。
又、1933年には時の中国政府の要請を受け、自動車を使用して、中央アジアを調査しました。

 この探検活動を通じて、ヘディンは、彼の師であるリヒトフォーヘンのロプ湖の移動に関する学説を信じる様になりました。
ロプ湖は、水深が1mに満たない湖ですが、流れ込むタリム川が泥砂を運び込んでくる為、その泥砂が河口に体積し、川が湖に流れ込めなくなると、川は別の流路を見つけて他の低位置に流れ込み、新しい湖を形成するのだと考えられました。
ロプ湖が位置する砂漠には、その北側と南側に低地が存在し、上記の理由から、湖が移動すると結論したのでした。

 ヘディンが発見した「楼蘭」は、嘗て栄華を極めた都ですが、タリム川の流路が変わり、ロプ湖が南に移動した為、都市が滅んだと考えられます。
ヘディンは、ロプ湖の位置変化を1500年周期と推定し、1928年2月20日、トルファンにおいて、彼はタリム川の流れが7年前から変化し、以前の位置にロプ湖が移りはじめている事を聞き、彼が30年前に提唱した説が立証されたのでした。
ヘディンは、この1928年2月20日を探検家、学者として自分の生涯、最良の日であると記しています。

続く・・・
2011/03/23

人類の軌跡その43:現代に伝わる建造物番外編1

<異民族の懐柔・王昭君の歩いた道>

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 中国の歴史上、悲劇の美女と言えば、如何なる人物を連想しますか?
私は、第一に王昭君の名前を思い起こします。

 今を遡る、2000年の昔、漢の都長安から、匈奴王の妻と成り、遥か北の方へ去って行く、其処は、寒風吹きすさぶ草原の中、宮殿も玉楼も無く、幕舎を住居として、毛皮を衣とする、口にする物は、羊の肉であり、飲むのは、馬、羊の乳、絶世の麗容も風雪に拉がれ、故国を思い泣き暮らしつつ、枯骨むなしく、荒野に朽ち果てる。
しかも王昭君が、匈奴に送られた訳は、宮中に画工に金品を贈らず、醜く描かれた為と伝えられています。

 王昭君の哀話は、中国に於いて長く、かつ広く語り継がれ、既に六朝時代(紀元4世紀)には、物語として形創られ、歌曲として謡われ、唐代には、李白、杜甫もその詩の中に詠じたのです。
海を隔てた、日本にも伝わり、王昭君の曲は、雅楽にも収められ、又王昭君の物語絵巻が、王朝貴族に好まれた事は、源氏物語にも現れています。
そして、詩の題材としても好んで、取り上げられました。
「身は化して早く胡の朽骨たり、家は留まってむなしく漢の荒門となる」。
「昭君もし黄金の賂を贈らましかば、定めてこれ身を終うるまで帝王に奉まつらまし」。
之は、和漢朗詠集に収める「王昭君」の詩の一節です。

 時代は進み、元の時代には、戯曲にも脚色され、なかでも傑作は「漢宮秋」で、此処における、王昭君は、匈奴に送られる途中、国境の大河に身を投じます。
其れは、異国の男に身をまかせまいとする、漢族女性の誇りを示すものに違い無く、現実、元の時代、漢民族は、モンゴル族に支配されていたのですから。

 しかし、こうした物語に描かれた王昭君は、必ずしも彼女の真の姿を伝えたものでは有りません。
歴史書に記された彼女は、むしろ別の意味で非情でした。
異民族を懐柔する為、その王に後宮の美女を贈る事は、漢帝国では、政策の一部に過ぎず、皇族の女性でさえ、しばしば、涙を流したものでした。

 王昭君に関して、史書が伝える処は、以下の様で、西暦紀元前33年、匈奴の王、呼韓邪単于の願いに従い、漢の元帝は、五人の宮女を選び、これを賜ったのですが、その中の一人が、王昭君でした。
彼女は、17歳の時、宮中に仕えたのですが、数年を過ぎても皇帝の寵愛を得られず、其れを悲しみ、恨み、自ら求めて匈奴の王に嫁ぐ事と成り、然らば、彼女は、期する処が有って匈奴王の所は行ったのではないでしょうか?
伝えられている物語とは、かなり異なる状況と思います。

 さて、辞去の場に戻り、匈奴の王も長安に来朝しており、元帝は宴を設け、五人の宮女も席を同じくしました。
此処で初めて謁見する王昭君の豊容や、如何に。
その光は、宮廷を明るく照らし、左右も心動かされ、元帝も大いに驚き、彼女を留めんと欲しましたが、匈奴との約束を違える事は出来ませんでした。

 かくて王昭君は、匈奴に赴き、王の妃となり、一子を産みますが、2年後呼韓邪単于は、世を去ります。
匈奴の風習では、父や兄の死後、後を継ぐ子や弟は、その妻も妃とします。
呼韓邪単于の長子が王となり、王昭君をも妃としますが、ここで、彼女は漢の朝廷に上書し、帰らん事を願いますが、もとより許されず、匈奴の地に留まり、更に2女を産みますが、9年を経て、二度目の夫も世を去りました。

 その後の王昭君が、如何なる人生を送ったのか判りません。
呼韓邪単于の子供達は、次々と王位を受け継ぎましたが、彼女の子供だけは、王位に就く事は叶わず、或るいは、殺害されたとも伝えられますが、二人の娘は、王族に嫁ぎ、おそらく幸せな生涯を送ったと思われます。

 では、王昭君の悲劇とは、如何なる事でしょう。
現在でも、同様な物語が在れば、悲劇、悲話で在るに違い無いのですが、漢の時代に在って、彼女の生涯は、決して最高の悲劇では有りませんでした。
其れが、後世、多くの人々の涙を誘ったのは、歴史の記録が伝えない、更なる悲哀が在るのか、其れとも後世における、王昭君の哀話は、作家達の創作に過ぎないのでしょうか?

 もとより、王昭君の最後は、判りません。
その墓も、黄河の上流に青塚と呼ばれる場所が在り、古くから王昭君を弔った所と伝えられますが、真偽の程は、判りません。
他にも王昭君の墓と伝えられる墓も複数、存在していますので、彼女の名前が有名になった後、付けられた事もあると思います。

続く・・・
2011/03/22

人類の軌跡その42:現代に伝わる建造物⑨

<万里の長城その3>

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◎その後

 紀元前218年、秦の始皇帝が万里の長城を築いて以来、1600年の間に北方の異民族は、しばしば長城を乗り越えて中国本土に侵入しました。
特に蒙古(後の元)の猛将チンギス・ハーンが13世紀初頭、長城以南の中国本土を支配したばかりではなく、遠くヨーロッパの東部迄侵攻し、当時のスラブ諸国を恐れさせた事は有名です。

 その後、漢民族による中国支配が再び始まり、明の太祖が150年に渡る元朝の支配に終止符を打ち、14世紀の終わりに長城の再建を行いました。
従来から存在した長城を補強修理したばかりでは無く、首都北京の北方を強固に防衛する為、この付近を二重に整え、望楼を追加し、火器を備えさせ北方からの異民族の侵入を阻止しようとしました。
この時の工事でも10万人以上の犠牲者を生じたと云われています。
これ程の大事業でも、200年後にはその効力を失い、1644年ヌルハチに率いられた満州族は、長城を越え中国本土に再び侵攻し、全中国を支配して国号を清と改め、北京を首都としましたが、満州族に支配された中国本土に於いて、満州族を防御する長城は無用の長物なり、1912年に清朝が滅亡する300年間の間、荒廃するがままに放置されました。

 現在、万里の長城は、北京周辺や敦煌近郊等極々一部が修復され、往時を再現していますが、航空機や長距離砲、更には大陸間弾道弾迄発達した現代の兵器に対して、長城は余りに無力な存在に成りました。

続く・・・
2011/03/21

人類の軌跡その41:現代に伝わる建造物⑧

<万里の長城その2>

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◎受難の民

 万里の長城が最初に構築されたのは、春秋戦国時代ですが、その工事が本格化したのは、秦の始皇帝の時代からなのです。
当時、中国は既に高い文明を有し、繁華な都市は常に侵略者の対象に成り、その侵略者は主に、北方の蒙古や満州方面からの侵入でした。
その地には、女真族、匈奴等の遊牧民族が暮らし、実りの季節に成ると当時中国の最も豊穣な地域を略奪し、都市や其処に住む民を疲弊させたのです。

 其処で秦の始皇帝は、北方からの異民族の侵入を防衛する目的で、万里の長城を築いたと云われています。
始皇帝は、あらゆる自然的、財政的、人的障害を乗り越えて城壁の建設に邁進しました。
遥か東部の海岸線から始まった巨大防塁は、西へ西へと進み、高山の頂きや深い谷を横切り、外敵の防御に最も都合の良い、最も険しい場所を選んで築城されて行きました。
伝説に因れば、始皇帝は翼を持った馬に跨り、馬の導くままに長城を築いたと云われています。
工事が進むに従い、多くの石工や労働者が必要に成り、止む無く秦の国軍に工事を従事させ、更には国土内の牢獄につながれている囚人達も動員して、石切り場、煉瓦工房、城壁の築城現場に派遣したと云われています。
当時、秦の国に如何程の人口が在ったのか定かでは有りませんが、人口の3人に1人の割合で建設に徴用されたものと思われます。

 何万人と云う、過酷な労働者達は、十分な水も食料も無い不毛の山地や砂漠の中で、牛馬の様に使役され、その飲料水や食料は山頂や砂漠の工事現場迄、何里もの道のりを運ばざるを得ませんでした。
この様な過酷な状況の中で、膨大な人数の人間が死んで行き、その死者達は、長城の人柱として無慈悲に長城内に埋められて行き、その上に土が盛られ長城は築かれて行きました。
その為、万里の長城は世界で最も長い墓場であると云う人も居ますが、犠牲者の数は少なくとも100万人に達したと推定されています。

 この様に多大な犠牲を払って造られた長城ですが、実際には異民族の侵入を阻止する事は不可能で、彼等は何も無かった時と同じ様に、何時でも自由に乗り越えたのでした。
秦の人々は「中国人には万里の長城に払った人命と財が重いので、之を乗り越える事は出来ないが、異民族には如何なる負担にも成らないので、容易く乗り越える事が出来る」と揶揄したのでした。

続く・・・

2011/03/20

人類の軌跡その40:現代に伝わる建造物⑦

<万里の長城その1>

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◎長城の起源

 或る天文学者が、宇宙空間から地球を観測した時、人間の眼に映る人工物体は、万里の長城だけであると言ったそうです。
万里の長城は中華人民共和国の北辺、モンゴル地域との間に築かれた城壁で、東は河北省の山海関から西は甘粛省嘉峪関に至る2750kmの総延長を誇り、この造営には凡そ100万人以上の人員が命を失い、巨額の費用に国は傾いたと云われています。

 万里の長城が築かれたのは、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前403年)ですが、紀元前3世紀に秦の始皇帝が天下を統一すると供に、北辺に築かれていた土塁を繋ぎ合わせ、匈奴に対する防衛線を形作り、東は遼東(遼陽)から西は臨洮に至る長さ、万余里と云われ、現在の長城の場所よりも遥か北部に位置していました。
漢の時代、長城は敦煌の西、玉門関迄延長され、現在に位置迄南下したのは、6世紀頃、北斉、隋が契丹や突厥等の侵入を警戒して築いた為でした。
しかし、現在見られる様な堅固な城壁は、明代に成ってからの造作で、強力な蒙古の攻勢に対応する為、歴代の皇帝によって修築を繰り返した結果なのです。

◎長城の構造

 長城の構造は、古くはその殆どが土塁であり、通常板築法を採用していますが、部分的には日干し煉瓦か石積みを施し、地形によっては、自然の断崖を利用し、要所には煉瓦を用いて補強する場合も在りました。
この地上に現存する人間の手になる物の内、実際の大きさ、積み重ねた土砂、煉瓦、石等の量、建設の為の労力等、何一つ長城に勝る物は存在しないと、思われます。

 万里の長城に使用した資材で、高さ2.5m、厚さ1mの城壁を築くと地球の赤道面4万kmを1周する事が可能と云われています。

 北京北西の八達嶺付近の長城は、高さ9m、幅上部4.5m底部9m在り、壁上は北側(満州・蒙古側)に向かって、銃眼が開き、下方からの攻撃を食い止める工夫が成されて、100m毎に望楼が設けられ、周囲の山の起伏に沿って延々と続いています。
城壁の3m幅の通路に成っていますが、車両も荷馬車も通る事はできず、僅かに動物と健脚を誇る人間だけがこの傾斜通路を通る事ができます。
通路は急傾斜の場所は、階段が造られ、川で遮られた場所のみ長城は途切れ、その場所は砦に成っています。

続く・・・
2011/03/19

人類の軌跡その39:キリスト教番外編②

<ネロは果たして暴君だったのか>

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 「皇帝ネロ」(在位西暦54年~同65年)の名前を聞くと、殆どの皆さんは、反射的に「暴君」と言う言葉を連想する程、彼は、残虐非道な皇帝として後世に伝わりました。
彼は、自分の意に沿わぬ者の命を次々に奪っていったと伝えられています。
その非業の死を遂げた者の中には、彼の実母アグリッピナや妃のオクタヴィア迄含まれています。

 しかし、彼の時代には、この様な行為が、日常茶飯事であり、今日では想像できない時代であった事、従って、宮廷には、毒殺専門の調剤師が存在し、貴人達の殆どは、食事には必ず、毒味役の奴隷を伴い、彼等が試した物以外、絶対に口をつけないしきたりに成っている程でした。

 ネロの実母アグリッピナは、権力狂で、息子のネロが生まれる時、「この子は皇帝に就けるが、母を殺す」と予言されたものの、彼女は、「皇帝に成るのなら、自分の命を捧げる」と言ったと伝えられ、息子を皇帝にする為、皇帝クラウディウスと再婚し、ネロを養子としました。
その後、アグリッピナは、クラウディウスを毒殺し、彼の娘オクタヴィアをネロの妃としたのです。

 こうして、彼女の苦心の結果、皇帝の座に就いたネロが、時を経て彼女の自由に成ら無くなって来ると、他の者を皇帝にする為、陰謀を企みます。
従って、実母アグリッピナの殺害に関しては、むしろ、ネロに同情する人々も多かったのでした。

 しかし、彼の狂気じみた振舞いが、次第に激しさを増し、ガリアに反乱が起こり、元老院や皇帝近衛兵も彼を見放す結果となりました。
ネロは、ローマから逃れ、最後に自陣して果てるのですが、彼を「暴君」と呼ぶ様に成ったのは、実は更に後世の事でした。

 ローマは、ローマ帝国の時代、度々大きな火事が起こり、消防隊もアウグトウス帝の時代に創設されていましたが、西暦64年7月19日、それまでの記録にも内、大火が発生しました。
大競技場から出火した火は、瞬く間に市中に広がり、火災が余りにも激しかった為、人々は、逃げる事がやっとの状況でした。
ネロは、アンティウムに滞在して居ましたが、急ぎローマに戻り、宮殿も焼失していましたが、焼け残った公共建造物や公園、宮廷庭園を民衆に開放し、近在の町から食料、物資を運ばせました。

 ところが、「ネロは都が燃え上がる様を宮殿のバルコニーから見物し、ホメロスを気取り竪琴を奏で、“トロイ落城”を詠っていた」との噂が、人々の間に広まりました。
ネロは、従来から芸術家を気取り、ナポリでも舞台に立ち、詩を吟じた事もありました。
其れは、ローマの大火の少し前の事で、彼が詠い始めると、まもなく地震が起こり、彼を心配して舞台に駆け上ろうとした者も在りましたが、彼は、平然と詩を詠い続け、終わった時、拍手は鳴り止まなかったと記録されていますが、それは、彼の詠いが上手かったのではなく、彼の勇気を賞賛したのだと云われています。

 ローマが焼けてしまった事を良い機会として、ネロは、ローマ市の再建計画を立て、建造物の不燃化を図り、又宮殿用地を拡大しようと考えました。
その為、「ネロは、自分の名前を付けた新しい都を造ろうとして、ローマに火を放ったのだ」との噂が広まり、更には、その大火の折、小役人が、混乱を利用して、民家に踏み込み、泥棒を働いた上「お上の命令でやっているのだ」等と言いながら、彼等は証拠を隠す為、まだ火の回っていない家に松明を投げ込んだりもしたのでした。
この様な事から、「ネロが火をつけさせたのだ」と云う噂が人々の間に信じられる事に成ったと思われます。

 歴史家タキトウスは、ネロ時代の歴史を著し、ネロが、本当に放火を命じたか否かについては、彼自身判らないとしていますが、多分、彼の命令では無かったでしょう。
ネロは、被災者の為に、物資を援助し、神殿での御祓い等の儀式を執り行いましたが、「疚しさから、あの様な事をするのだろう」と益々、噂は人々に信じられる様になりました。

 自分に向けられた悪評を逸らす為、ネロは「キリスト教徒がローマに火を放った」と言いふらし、キリスト教徒を捕らえて処刑したのですが、この時、伝道者パウロも処刑されました。
キリスト教徒を迫害したのも、彼だけでは無く、その後益々、激しさを増していくのですが、コンスタチヌス帝の時、キリスト教は、ローマ帝国の国教と成り、やがてヨーロッパ全土広がって行きます。
キリスト教徒を始めて迫害したネロは、彼等によって、極悪人とされ、やがて「暴君」と呼ばれる様に成ったのです。

続く・・・
2011/03/18

人類の軌跡その38:キリスト教番外編

<文学作品に描かれる初期キリスト教の姿>

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 ポーランドの作家ヘンリク・シャンキェビッチの「クォ・ヴァディス(何処へ行く)」は、「ネロの時代の物語」と副題が付きますが、この作品は初代教会時代(使徒時代)のクリスチャンの殉教を描いたもので、皇帝ネロによって、多くのクリスチャンが猛獣の荒れ狂うコロセウムの中で、衆人環視のもと猛獣の餌食と成り、又敬虔な彼等がネロの迫害を逃れ、アッピア街道沿いに在るカタコンベ(地下墓所)で、密かに神を拝し、祈り、神の道を伝えた事が記されています。

 この物語の中で使徒ペテロは、一度迫害の激しいローマを見捨てて逃げ去ろうとします。
「クォ・ヴァディス」は次の様に記述されています。

「次の明け方、二つの黒い影がアッピア街道をカンパニアの平原を目指していた。
一つは少年ナザリウス、一つは使徒ペテロ、ローマと其処で苦しみを受けている信者達を後にして行くのだ。・・・・
やがて太陽は山の狭間から登ったが、たちまち不思議な光景が使徒の眼を捕らえた。
金色の珠が空を上へ上へと登らず、かえって高みから降りて来て道の上に転がった。
ペテロは立ち止まっていた。
“此方に向かって近づいて来る明るいものが見えるか?・・・・”
“いいえ、何も見えません”ナザリウスは答えた。
暫くして使徒は、手のひらで目を覆い、叫んだ。
“誰か人の姿が日光の中を此方に歩いて来る!”しかし、二人の耳には微かな足音さえ聞こえ無かった。
周囲は静寂そのもので、ナザリウスの目に映ったのは、唯、木々が遠くで誰かに揺すられている様に震えているだけで、光は次第に広く平原に注いでいた。
ナザリウスは使徒を見ておどろいた。
“ラビ(師)、どうかなさいましたか?”
彼は不安そうに尋ねた。
ペテロの手から杖が離れて地面に落ち、眼はじっと前方を眺め、口は開いたまま驚きと歓喜と恍惚とが、ありありと見えた。
突然、跪いて前方に手を伸ばし、大声で叫んだ。
“おお、キリスト・・・・キリスト!”
それから頭を地面につけ、誰かの足にキスをしている様子だった。
長い間、沈黙が続いた。
やがて、静けさの中に咽び泣く老人のとぎれがちな言葉が響いた。
“クォ・ヴァディス・ドミネ・・・・”(主よ何処へ行き給うか)
ナザリウスには、其れに対する答えは聞こえなかったが、ペテロの耳には悲しい甘い声でこう聞こえた。
“汝、我が民をすつるとき、我ローマに往きたふたたび十字架に架けられん”
使徒は顔を埃にうずめ、身動きも言葉もなく、地面に身を伏せていた。
ナザリウスには使徒が、気絶したか、死んだかと思った。
だが、やがて使徒は立ち上がり、震える手で巡礼の杖を上げ、無言のまま七つの丘の街(ローマ)の方に向いた。
少年はそれを見ると、こだまの様に繰り返した。
“クォ・ヴァディス・ドミネ・・・・”
“ローマへ!”
使徒は低く答え、そして戻って往った」(河野与一訳より)

 聖書に記されていない、キリスト教に纏わる伝説によれば、紀元67年の或る日、青年時代、ガリラヤ湖の畔で漁師をしていた老人が、永遠の都ローマに於いて、余にも熱心にキリスト教の伝道を行った故を持って、その師と同じく十字架による磔刑を宣告されました。
100歳の高齢に達していた彼は、まず法律の定めに従い体罰を受け、次の日城外のヴァティカヌスの丘に引き出され、十字架の刑を受ける事に成りましたが、自分は師たる、イエス・キリストと同じ方法で死ぬだけの資格は無いので、逆さ磔にしてくれる様頼み、その願いが聞き入れられたと伝えられています。
この高齢の殉教者は、キリストの12使徒の一人、シモン・ペテロで、彼は聖パウロと共にローマで伝道し、神の教えを広めたのでした。

続く・・・

2011/03/17

人類の軌跡その37:キリスト教④

<カタコンベ・コロセウム・聖ピエトロ寺院その4>

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         ミケランジェロ・システィナ礼拝堂天井画

 ミケランジェロの描いた、システィナ礼拝堂の壁画には、以下の様なエピソードが伝わっています。
建築家のブラマンテは、ミケランジェロの名声を嫉み、教皇ユリウス2世を唆して、壁画の経験の無いミケランジェロに、システィナ礼拝堂の壁画を描かせて失脚を企てました。
ミケランジェロは「自分は彫刻家であって、画家では無い」と頑強に拒みましたが、この事態をどうしても避けられないと悟ると、彼はヴァチカン宮殿の裏に在る教皇の庭園に行き、ショベルで赤土と黄土を掘り起こし、水と油脂で混ぜ合わせ、何度も試した結果、満足のいくものが出来ると、猛然と製作に取り掛かり、長さ40m、幅13mの円弧状の天井に、高さ20mの足場を組み、その上で仰向けになり作画を始め、4年間の歳月で「天地創造」から「ノアの洪水」迄、旧約聖書に登場する物語を描きだしました。
何れの作品も迫力に満ちた画風で、今日でも観る者の心を捉えて放しません。

 聖ピエトロ寺院は、基礎の石が置かれてから、120年目の1626年に一応の完成を見ます。
更に噴水や環状に立ち並ぶ、円柱で囲まれた大広場が完成するまでに、40年の歳月が過ぎ去りました。
広場の中央に高さ36mのオベリスクが有り、遥かな昔、エジプト女王クレオパトラが、ユリウス・カエサルに送る為、エジプトから運ばれ、最初コロセウムの中に在った物を大聖堂が完成した時に現在の場所に移設し、頂上に金色の十字架を新たに付け加えました。
完成した聖ピエトロ寺院は、ルネサンスの代表建築の一つに数えられます。

続く・・・

2011/03/16

人類の軌跡その36:キリスト教③

<カタコンベ・コロセウム・聖ピエトロ寺院その3>

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◎殉教と復活

 コロセウムの外側には、火刑に処せられ、虐殺されたクリスチャンの遺体を葬った墓所が在り、ペテロの遺体も其処に投げ込まれ、使徒パウロも同じ運命を辿ります。
しかし、彼等の殉教は、結果勝利に繋がり、パウロは自らこの様に述べています。
「我、良き戦いを戦い、走るべき道のりを果たし、信仰を守れり。
今より後の義の冠、我為に備われり」(テモテ後書4の7より8)

 ペテロやパウロの殉教は、決して無駄では有りませんでした。
彼等の殉教によって、多くのキリスト教徒が生まれ、250年後にはローマ皇帝コンスタンティヌス自身の改宗により、キリスト教は、ローマ帝国の国教と也、ペテロの墓の上に教会堂を建立しました。
聖ピエトロ寺院と呼ばれるこの寺院は、歴代教皇の菩提寺院と也、全ヨーロッパの元首が使徒ペテロの墓所の前で載冠式を行いました。

 1450年頃からこの歴史的建築物も崩壊の兆しを見せ始め、1506年その全てを取り壊し、時の教皇ユリウス2世が、建築家ブラマンテ(1444年~1514年)の進言を入れ、同じ場所に新しい聖堂を建立しました。
この聖堂は、最初の聖堂に比べて倍近い大きさと荘厳さを兼ね備え、完成の暁にはローマ市の全人口(当時8万人)を収容する事が出来る程でした。

 新聖堂は、幅135m、全長210m有り、フランス・ランスの大伽藍は地上37.5mですが、聖ピエトロ寺院の伽藍は7.5mも高いものでした。
聖堂はに、44の祭壇が在り、ドームを支える窓間は18m、屋根を支える柱は750本を必要とし聖像の数390体、中には210cmに達する像も多々存在します。
尤も聖ピエトロ寺院も、最初から此れほど巨大な建物であった訳ではなく、次々と拡大されていった結果が現在の姿なのです。
この大寺院が完成するまでに教皇も代を重ね、ブラマンテを始め、12人の建築家が次々と、この大寺院を完成させる為、その生涯の大半を費やしました。
ラファエロ、サンガルノ、ジョコンド、ミケランジェロ等の巨匠と呼ばれる人々も関係し、聖堂の中心になる、直径41mの中央ドームは、ミケランジェロの設計に成り、齢70歳を超えてからの仕事で、彼は完成を観る事無く他界します。

続く・・・
2011/03/15

人類の軌跡その35:キリスト教②

<カタコンベ・コロセウム・聖ピエトロ寺院その2>

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 人や車の往来が途切れる事の無い、ローマ市にコレセウムは、今尚そびえ、その栄華を誇ったローマ帝国の時代を現在に示しています。
古代ローマでは、コロセウムでの試合が市民を熱狂させ、野獣、剣闘士の闘い、模擬戦、罪人対野獣の残忍な見世物が存在していました。
市民にこの様な競技場とパンを与える事こそ、ローマの支配者達が、市民の反発をかわす手段として考案した、政策の一つでした。

 最初、この様な見世物の場所としては、紀元前29年に造られた円形競技場が使用されていましたが、有名なネロ時代の大火で焼失し、ネロの跡を継いで即位した、ベスパシアヌスとティトゥスが、ネロの「金の家」が在った場所にコロセウムを建設してのでした。
伝承に因れば、ネロ自身もコロセウムに出掛けた事に成っていますが、コロセウムが完成したのは、紀元前80年であり、ネロの死後10数年を経過していますから、ネロは実物を見る事さえ出来ませんでした。

 この長円形の闘技場は、奥行き90m、その階下は、地下道や檻が造られており、石造りの観客石が48mの高さ迄続き、5万人の観衆を収容する事ができました。
最上席は、最下段に設けられ元老院議員等身分の高い人々専用、中央に皇帝専用のロイアルボックスが在り、執政官達の席が並んでいました。
その上段が、貴族席、更に上段がローマ市民、即ち平民の席でした。

 見世物が行われる時は、競技(闘技)場の周囲に頑丈なフェンスが設置され、熱さを防ぐ為日除けの天幕も張られていました。
完成祝賀行事は100日間も続いたと云われ、9万頭の野獣が殺され、模擬対戦も行われましたが、このコロセウムにおいて、キリスト教徒が殺戮されたと云う記録は残っていません。

 6世紀には、コロセウムは使用されなくなり、更に13世紀と14世紀の地震で、大きな被害を受け、後年、石材は他の建物の建設に流用され、壁に飾られた彫刻類は失われてしまいました。
修復工事は、19世紀になって開始されたものの、現在残っている物は、石と煉瓦の欠片、そして残忍なローマ時代の競技の名残だけなのです。

続く・・・
2011/03/14

人類の軌跡その34:キリスト教①

<カタコンベ・コロセウム・聖ピエトロ寺院その1>

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 カタコンベ(Catacombae)とは、初期キリスト教時代の地下墓地を意味します。
小アジア、南イタリア、シチリア、北アフリカ等に広く見られますが、特にローマ郊外アッピア街道沿いに存在する物は、最もよく発達しており代表的な存在です。
カタコンベとは、ギリシア語の「カタ・キュムバス」(窪地の側の意味)からきており、アッピア街道沿いの窪地に在った墓地を「コエメテリュム・アド・カタキュムバス」と呼んだ事から、一般の地下墓地をカタコンベと呼ぶ様に成ったと伝えられています。

 ローマでは、最古のものは、紀元1世紀に遡ると云われ、4世紀には最盛期を向かえ、5世紀以後地上の墓地が発達するに従い、次第に衰え8世紀以後は完全に放棄されました。
カタコンベの構造は、火山性の岩盤を掘り、地下10m乃至15mの深さに幅1m、高さ2mほどの通路を造り、その壁面に死者を納める墓所を造ります。
墓所は長方形のものと、上縁が半円形のものが在り、死者を籠に収め、名前を刻んだ大理石版を当て、漆喰で塗りこめました。

 現存するカタコンベもアレクサンドリアのものは、キリストが磔刑によって他界した後、キリスト教が公認されず、厳しい迫害を受けていた頃、ギリシアやローマのキリスト教徒がこの地に逃れ、官憲の眼を逃れて、地下墓所でひっそりと神を礼拝し、伝道を行い、信者や伝道師が亡くなると、地下墓所に葬ったと云われ、コプト派キリスト教発祥の地と言えるでしょう。

続く・・・

2011/03/13

人類の軌跡その33:番外編

<2000年前の自動扉>
堅い内容の記事ばかりなので、今回は、少し息抜きの気分で、読んで下さい(^^)。

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          自動扉図解

 現在、殆どの施設で、自動扉が使用されていますが、此れは、電気、赤外線等の感知センサーの発明、発展が在って発達した技術です。

 しかし、此れ等の方法が、全く知られて居なかった時代に自動扉が、実在した事は、現代人から見ても驚異です。
神殿の扉の前の祭壇で、火をおこすと扉が独りでに開き、火が消えると独りでに閉まる装置が、今から2000年程前、エジプトのアレクサンドリアで発明されました。

 この自動扉の置かれている、地下部分に仕掛けが在り、祭壇で火を起こすと、祭壇下の空気が膨張して、水の入った球体の水を押し出します。
その水は、細い管を通って、水桶に流れ込み、その水桶の重量変化で水桶が下がると、扉の下にある軸に繋がれたロープを回して、扉が開き、祭壇の火が消えると、空気膨張が納まり、水桶の水が、細い管を通って、球体に戻るのですが、文章で説明すると今ひとつ、イメージが湧かないと思います。
要は、水の膨張と水桶の重量変化を利用した、装置と考えて下さい。

 この“からくり”を発明した人物は、ヘロンで、彼は数学・幾何学・測量学・気体力学・機械学等に通じ、著作も多数あり、現在に伝わっている物も多数存在します。
しかし、ヘロン本人の生涯は、現在でも詳しく判明しておらず、現在では、紀元前150年頃から紀元後250年の間に生きた人物とされています。

 彼の住んでいたアレクサンドリア(アルイスカンドリア)は、マケドニア王アレクサンドロスによって建設された町で、当時は、エジプトの首都でも在り、ナイル河の河口に位置した良港で、後背地のエジプトは、農作物を始めとする物資に恵まれていた事から、地中海貿易の拠点として大変栄え、「雪以外のものなら、何も無い物は無い」と称された程の町でした。
 紀元前320年頃から300年間にわたって、エジプトを統治した、プトレマイオス朝は、学問を尊重し、当時世界最大の図書館の他、多くの学者を自由に研究させる学士院作り、その為、学問が発展し、特に自然科学の発展は、めざましく、多くの優れた自然科学者を輩出しました。

 ヘロンもその一人ですが、彼は発明の才能に恵まれていた様で、自動販売機の原型を考案したのもその一つです。
近代自動販売機を発明したのは、イギリスのエベリットで、1885年の事であると記さていますが、ヘロン考案の其れは、聖水を出すものでした。
仕掛けその物には、賽銭箱の形をした物と壺の形をした物が伝えられており、参拝者が神殿で、その“販売機”の硬貨を入れる穴にお賽銭を入れると聖水が流れ出るのです。
この仕掛けは、内部に隠された天秤の動きによるもので、硬貨が片方の天秤に乗ると片側の天秤が上がり、水の出口を開く様に成っていました。

 ヘロンは、他にも数多くの発明、考案を本に残しており、中には発想は良いものの、実際には上手く行かない物もありますが、この自動扉を近年、早稲田大学で模型を作って作動させた処、扉は上手く開閉したそうです。

続く・・・
2011/03/12

人類の軌跡その32:栄光③

<アレクサンドリアの図書館・灯台その3>

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◎灯台に纏わる伝説

 アラブ人は7世紀以後エジプトを支配しましたが、彼等の語る処によれば、燃える炎が反射鏡で照らし出されると、43km先の海上を見る事が可能で、晴れた日には、マルマラ海の対岸、コンスタンティノープル(現イスタンブール)の町の様子が反射鏡に映り、又日光を反射させると、160km先の船舶を焼く事ができたと云います。
残念ながら、当時の研磨技術では、上記の様に太陽光を集約する事は不可能でしょうが、ソストラトスがある種の強力な光を反射するレンズ乃至反射鏡を考案した事は間違いなく、近代レンズ乃至反射鏡の創意を先見した事は疑う余地が有りません。

 ファロスの灯台は、長い期間現存し、カエサルやクレオパトラ、アントニウスの船の為の道しるべと成ったに違いなく、その崩壊を早めたのはアラビア人の軽挙と貪欲に他なりませんでした。
エジプトがアラブの支配下に入っても、ファロスの灯台は大切に維持管理されて、海上交通の力強い助けに成っていましたが、850年頃、神聖ローマ帝国とイスラム勢力の間に抗争が始った時、その存在は、イスラム勢力にとっては好都合でしたが、神聖ローマ帝国側には、不都合極まり無い存在でした。
神聖ローマ帝国は、当時アレクサンドリアを支配していたカリフ、アル・ワリドの許へ密使を送り、灯台の下に莫大な財宝が埋蔵されていると云う、デマ情報を流しまし、欲深なカリフは、この策謀に填りすぐさま部下に灯台の解体を命じたのです。
カリフが罠に填ったと気づいた時には、灯台は大方解体されてしまい、その再構築の命令も当時のアラブ人の手に余る仕事だったのです。
その心臓部とも言える反射鏡を元の場所に戻す作業が、大失敗し反射鏡は地面に落下、しかも新しく造る術を彼等は知りませんでした。
後年、反射鏡を失った灯台の建物は、イスラム教のモスクとして利用されるだけでした。

 時代が下り、アレクサンドリアはカイロ市(エル・カーヘラ)の建設と共に寂れ、灯台は基礎部分がその面影を残していましたが、1375年ナイル・デルタを襲った地震の為、完全に破壊されその残骸を取り片付けるだけで、100年もの時間を要したと云われています。
その後、灯台の事は忘れられ、ファロスの名前のみが残り、遺跡自体の位置さえ判らなく成りましたが、20世紀初頭、ドイツの考古学者によって、カイトバイ堡塁近郊で灯台の所在を確認し、現在ではその位置が、アレクサンドリアのファロスの跡と認められています。

続く・・・

2011/03/11

人類の軌跡その31:栄光②

<アレクサンドリアの図書館・灯台その2>

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◎灯台

 古代アレクサンドリアでは、紀元前3世紀半ばに70人訳(セプトゥアギンタ)と称する、ギリシア語訳「旧約聖書」の完成したことでも知られていますが、ヘレニズム文化の中心地にあるユダヤ人達の必要に基づくものと思われますが、ヘブル語辞書の初めての外国語翻訳として特に有名です。

 古代アレクサンドリアは、ファロス島とは、ヘプスタディオンを呼ばれる1km余りの堤防で結ばれ、島の東側には、古代技術の精を尽くした、高さ180mにも及ぶ大灯台が建設されていました。
プトレマイオス2世フェラデルフォス(姉弟愛王 紀元前285年~紀元前247年)の命令で、ディノクラティスの子供、ソストラトスが建設指揮にあたりました。

 灯台の大部分は大理石で造られ、上部に向かって少しずつ細くなる現代の灯台ではなく、高層ビルの様な姿をした建造物でした。
最上階には、大きな火桶が設けられ絶えず火が燃やされており、その燃料が木材なのか、油類なのかは現在でも解明されていませんが、ランプの後部に強力な光を反射する巨大な反射鏡が存在していたことは、はっきりとしています。
この構造物こそ、現在の灯台(ファロス)の原型であり、ヨーロッパでは、現在でも「ファロス」の単語が灯台を意味しているのです。

 この灯台は単なる標識塔ではなく、300室以上を有する、軍隊の駐屯施設で城砦の一部を成していたとも云われています。
この大灯台は180mの高さが有ったにも関らず、階段は存在せず、燃料の補給や人間の移動は、緩やかな螺旋状通路によって行われていました。

 灯台の最上階に在る展望台から、数10kmも離れた地中海を望め、そのむこうの小アジアも望見できたと云い、明るく燃える灯台の光は、遥かな海上からもはっきりと確認でき、インドからジブラルタルに至る、地中海全ての船乗りの間で評判に成りました。

続く・・・

2011/03/10

人類の軌跡その30:栄光①

<アレクサンドリアの図書館・灯台その1>

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◎古代アレクサンドリア

 アレクサンドリアは、エジプト第二の都市、地中海とマレオティス湖に挟まれた狭い陸地に存在し、エジプト第一の港湾都市でも在ります。
アレクサンドリアとは「アレクサンドロスの都」の意味でマケドニアのアレクサンドロス大王(紀元前356年~紀元前323年)が、紀元前322年のエジプト征服後、ナイルデルタの西側、ラコティスの漁村に近く、北にファロス島を控え、西にマレオティス湖を湛えた地を選び、建築家のディノクラティスに命じて都市を建設した事が発端に成ります。

 大王は将来、この都市を世界貿易の中心とする考えでした。
都市の建設は、クレオメネス、更にはプトレマイオス朝エジプトに継承され、やがては同王朝の首都と成り、プトレマイオス2世の治世に完成しました。
完成したアレクサンドリアの街は、アレクサンドロス大王の意思に違わず、東西の接点として機能し、地中海貿易とアラビア、インド貿易の中心地と成り、数世紀に渡り、「人の住む世界最大の貨物集散地」としての地位を確保し、「アレクサンドリアに無い物は雪だけ」と言われる様に成ります。

 プトレマイオス王朝末期に於ける、最盛期の同市の人口は100万を超え、プトレマイオス・ソテルスの創設した、アレクサンドリア図書館はその蔵書数70万巻と云われ、古代に於ける図書館としては最大規模の図書館のひとつでした。
図書館はムセイオン(ムーサイ学園)に付属し、プトレマイオス3世エウエルゲテス(善行者)は、書物を持ってアレクサンドリアを訪問した者は、原本を図書館に寄進し、変わりに写本受け取る様に命じたので、アレクサンドリア図書館は、別名、略奪図書館との異名を冠する程に成りました。
当時、小アジアのペルガスムス(ペルガモン)にも、ユーメネス2世が創った有名な図書館が存在し、同図書館の司書アリストファネスの争奪をめぐって、アレクサンドリア図書館と紛争が起こり、其れが原因と成ってペルガスムスは、エジプトから製本に必要なパピルスの供給を停止され、その代用としてパーチメント(羊皮紙)が発明された程でした。

 紀元前48年~紀元前47年のアエクサンドリア戦役の折、ユリウス・カエサルの率いるローマ軍の戦火で消失したものの、その後、クレオパトラとの恋物語で名を留める、将軍アントニウスが、ペルガスムス図書館の蔵書を送りアレクサンドリア図書館は再建されました。
同図書館の最大の加害者は、キリスト教徒による破壊活動ですが、13世紀頃以下の様な逸話が広く語られる様になりました。

「アレクサンドリア図書館は640年、サラセン人のアレクサンドリア攻略の時、再び灰燼に帰す事に成ります。
その時、サラセンの将アムルーが、アレクサンドリア図書館の処遇に関して、国王オマル1世の意向を質した処、「もし図書館の書物がコーランの趣旨に反する物ならば有害である、コーランと同一であれば不要である」として、焼却を命じ、その膨大な蔵書は、市内4箇所の浴場で燃料として使用され、全てを焼却するのに半年もの期間を必要としました。」
(以上はキリスト教徒による逸話)

続く・・・

2011/03/09

人類の軌跡その29:番外編・ギリシア神話の世界

<ヘリオスの息子パエトーンの最後>

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 エリダヌス川(ポー河)は、太陽神ヘリオス(アポロン)の息子パエトーンが、天を駆ける太陽を曳く馬車から落ちた川と云われています。

 パエトーンと云う、太陽神ヘリオスの息子がいました。
彼は、自分がヘリオスの息子である事に誇りをもっていましたが、友人の誰もがそれを信じてくれなかった為、パエトーンはヘリオスの宮殿に出かけて行き、自分が太陽神の息子である事を証明しようとしました。
ヘリオスはパエトーンを自分の息子だと認め、証拠として何でも1つ望みを叶えてやろうと言いました。
するとパエトーンは、友人達に証明する為に、太陽を曳く馬車を操らせて欲しいと頼んだのです。
ヘリオスはこの申し出に困り果ててしまいました。
なぜなら、太陽を曳く馬は、とても気性が荒く、他の神々でさえも乗りこなす事が、できなかったからです。

 しかし、パエトーンはヘリオスの言葉を盾にとって、太陽を曳く馬車を借り、大空へと飛び出しました。はじめのうちは、万事怠り無く馬車を走らせていましたが、馬達は手綱を取るのがヘリオスでないと気付いた途端に暴れはじめたのです。
馬車は、太陽の通り道である黄道を外れて、滅茶苦茶に走りはじめ、近づくもの全てを、太陽の熱で焼き尽くしてしまいました。
このままでは、世界がすべて焼き尽くされかねないと思った大神ゼウスは、仕方なく雷光を放ってパエトーンを撃ち殺しました。

 パエトーンの亡骸は、馬車から転げ、そして落ちて行ったのがエリダヌス川です。
パエトーンの亡骸は、ひどく焼けこげ、見るも無残な有様でしたが、水の精女達が彼の亡骸を拾い上げて葬りましたが、パエトーンの姉妹であるヘリアデス達は彼の死を悼み、墓の上に臥して何時までも泣き続けたと云います。
やがてヘリアデス達の身体は、ポプラの木へと変じて墓の上に宿り、流れ落ちた涙は琥珀となって、エリダヌス川の底に沈んだと云われています。

続く・・・
2011/03/08

人類の軌跡その28:忘却⑫

<ヘリオスの巨神像その4>

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 巨像の残骸は、800年以上に渡って、地面に横たわっていましたが、672年、アラブによるロードス島占領の際、破片やその他をスクラップとしてユダヤ商人に売却してしまい、ユダヤ商人は300t程の青銅を900頭の駱駝に乗せて運び去り、現在では一切の痕跡を残さず、ヘリオス像がどの位置に建っていたか正確に伝える物は存在しません。
フィロの世界に七不思議にその名前が、残るだけなのです。

 処で、ヘリオスの巨像は、プリニウスが述べている様に、高い台座の上に両足を揃えて立っていたのですが、何時の頃から、港の入口の両方の岬を両足で踏まえ、その下を船が出入りしたと云う伝説が生まれました。
シェクスピアは、この話を信じていたのか、「ジュリアス・シーザー」の中で、カッシウスに、「あの男は狭い世に足を踏みはだけている。まるでコロッサス(巨像)の様に。そして我々人間どもは、あの大きな男の股の下をくぐって、みじめな墓地を探し回っている」と言わせ、ジョナサン・スイフト(1667年~1745年)も同じ様に伝説を鵜呑みにして、「ガリヴァー旅行記」(1726年初版)の中でガリヴァーをリリパトの首都の広場に大股を広げて立たせ、その下をくぐって軍隊を行進させ時、「コロッサスの様に」との単語で形容しています。
事実、これ等の伝説から、ヘリオスの巨像の両足を広げた姿に描いているものも散見されますが、事実に基づかない想像に過ぎません。
ギリシアの芸術家は、だれ一人として、その様な品位の無い姿で、神の像を設計するはずは無く、現実問題として、幅60mを超える港湾の入口を跨がせるなら、その像は少なくとも120m以上の身長が必要となり、其処まで巨大な像が青銅で建造されたとは、考えられません。
やはり、ヘリオスの巨像は、ギリシア伝統の立像として、石の台座に両足を真直ぐ踏み揃えて立っていたのでしょう。

続く・・・
2011/03/07

人類の軌跡その27:忘却⑪

<ヘリオスの巨神像その3>

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◎像に纏わるお話

 ロードス島のヘリオス像は、正しく当時の地中海世界で驚異の眼差しで見られ、世界の七不思議を選んだフィロによれば「ヘリオスの巨像は、単に巨大であるばかりでは無く、人間によって造られた神像の内で、最も完全な形の像であった」と述べていますが、一方では、神像をほぼ完成させたカレスは、設計計算の誤りに気づき、自殺を企てたとも云われ、又カレスが、作品の出来栄えを自慢したとき、ある人物から構造上の弱点を指摘され、誇りを傷つけられたとして、自殺したとも伝えられています。

 ヘリオスの巨像に設計上の不具合が存在したか否かについては、現在では検証のしようも在りませんが、この膨大な資材と人力と歳月を持って建立された巨像は、僅か半世紀程でこの地上から永遠に姿を消す事に成りました。
紀元前227年、この地方を襲った大地震の為に、ロードス島は甚大な被害を被ったのですが、ヘリオスの巨像は無残にも、巨大な両足の部分を残し、膝の部分から倒壊しました。
しかし、倒壊した青銅部分は海中に落下せず、その破片は7世紀後半迄、そのまま岩盤の上に残り、ファラオの一人はもし巨像を再建する計画が在るのなら、それに必要な金銭を提供しても良いと申しでたものの、ロードス島の人々は、おそらく、我々の神は其れを喜ばないだろうとして、断ったと云われています。

 巨像に関する記録は、倒壊してからもその残骸を見た人々によって伝えられ、その残骸の姿でもなお、見る人々を驚嘆させるに十分なものとの事でした。
ローマの博物学者プリニウスが、1世紀の頃、ロードス島を訪れた時、崩れ落ちた巨像を調査した結果、親指の周りを両腕で回せる成人男性は殆ど無く、指の長さは普通の神像よりも長く設計され、崩壊した脚部の中は空洞に成っていたと報告されています。

続く・・・

2011/03/06

人類の軌跡その26:忘却⑩

<ヘリオスの巨神像その2>

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 その様な折、プトレマイオスがロードス島救援の為、大艦隊を急派し、マケドニア軍は沢山の武器を遺棄して本国へ撤退を余儀なくされたのでした。
ロードス島の人々は、プトレマイオスを「ソーテール(救い主)」として仰ぎ、感謝の印としてマケドニア軍が遺棄した青銅製武器を集めて、自分達の守護神ヘリオスの像を造る事にしました。

◎巨像の建立

 巨像の製作に従事したのは、有名な彫刻家リュシッポスの弟子で、リンドウスのカレスです。
カレス自身、ロードス島防御の為に勇敢に戦った一人でも在り、彼はこの記念像を建立する場所として、ロードスの港と外海の間に防波堤の様に突き出ている小さな岬の端を選びました。

 白い大理石の台座部分だけでも、15mの高さが有ったと云います。
その上に巨大な青銅の足を据え、胴、腕、頭部と付け加えて行き、空洞になった足首と脚部を安定させる為に、多量の石材が注ぎ込まれました。
カレスはこの巨像を完成に漕ぎ着ける迄に、12年の歳月を要しました。
像の高さは33m、胴回り18m、脚の太さ3.3m、足首だけでも1.5mもあり、ヘリオスの像は台座の高さを加えると48mにもなり、其れは現在のニューヨーク、リバティ島に聳え立つ自由の女神像に匹敵するものでした。
若し現代に現存していたならば、ヘリオス像と自由の女神像は双子の像と見られたかも知れません。
ヘリオス像は青銅製、自由の女神像は銅製で、何れも頭の周りに太陽の光を模った冠を戴き、自由の女神像は燭台から光を放ち、ヘリオス像はその眼から光を放ったと云われています。
高さから言えば、自由の女神像は台座を別にしても、腕を高く差し上げている分だけ、12m程高いのですが。

 処で、ヘリオス像には足から腰、胴、胸、肩、首、頭部と螺旋階段が設けられ、開いた眼のすぐ後部迄続き、夜間はこの台の部分に火が灯され、この眼の光は遥か遠くから観る事が出来ました。
この眼の部分には、いくつかの部屋も設けられ、遠方を観測する事も出来たと云われ、眼下の港や町、雪に覆われた小アジアの山々、そして真蒼な地中海が広がっていました。
港の背後の緑の丘の上には、堅固な城壁に囲まれた白い町も見渡せと思われ、港に出入りする無数の艦船も手に取る様に見えた事でしょう。

続く・・・

2011/03/05

人類の軌跡その25:忘却⑨

<ヘリオスの巨神像その1>

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        ロードス島のシンボル 鹿の像

 ロードス島はエーゲ海の南東部、小アジア半島近海に浮かぶ島で、常に戦略的、商業的な要地でした。
出土品等によって、既にミケナイ時代(紀元前15世紀)頃には、繁栄していた事が判明しています。
このロードス島にヘリオス(アポロン)の巨像が建設された経緯には、次の様な話が伝えられています。
ロードス島は、先の霊廟で登場した、カリア王マウソロスの支配下に入った事も在りましたが、その後ペルシアの征服者ダレオス王により支配されました。
紀元前340年、アレクサンドロス大王によって開放され、エジプトのアレキサンドリア(アルイスカンドリア)が地中海交易の中心地になった時、ロードス島はその中継地となり、船舶は東方の財貨をこの島に運び、エジプトの産物を地中海全域に配分しまし、島は富み栄えたのでした。

 その後、エジプトのプトレマイオスがマケドニアと戦火を交えた時、ロードス島の人々は船舶を提供してプトレマイオスを援助したのです。
この様な事実から、紀元前307年、マケドニアは4万の軍勢と370隻の軍船を伴い、北部ギリシアからロードス島に侵攻し、攻撃軍は城壁を破壊する為、当時最も強大な青銅製の攻城機、斧、石弓を持ち込みました。
当時のロードス島の人口は、全てを集めても侵略軍の軍勢に及ばず、大変な苦戦を強いられたものの、勇敢に戦いマケドニア軍の攻撃を撃退して、1年間も島を死守しました。
歴史家の記述によれば、ロードス島の島民は、奴隷達にも武器を与え、戦争の終了した暁には自由人となる事を約束し、女性は弓の弦を作る為に髪の毛を差し出し、食物、衣類、武具を昼夜分かたず作り続け、島民は城壁の補強の為に神殿の石材さえを用いたと云います。
しかし、外部からの応援が望めない限り、これ以上の持久戦は不可能でした。

続く・・・
2011/03/04

人類の軌跡その24:忘却⑧

<ハリカルナッソスの霊廟その2> 

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◎霊廟の復元

 マウサロスの霊廟は、エフェソスのアルテミス神殿と異なり、1500年以上もその姿を留めていたと考えられます。
しかし「形在る物は、時来れば滅す」の喩え通り、この地上から姿を消す時が来ました。
1402年イスラム勢力によってエルサレムを奪回された、十字軍はハリカルナッソス(当時の名前はブドルム)の戦略上の重要性を認め、その地に城砦を築きます。
資材には、霊廟の石材を使い、破片は更に粉砕して、石灰を作る材料となり、その場所に巨大な霊廟の痕跡すら残しませんでした。

 時は流れて1859年イギリスの考古学者チャールズ・ニュートン卿は、霊廟の存在した土地を整備し、地中深くに埋没した、石のライオンや、円柱の破片、彫像等を発掘し、ロンドンの大英大国博物館の特別室(マウソレウム室)に陳列されて、その部屋には、霊廟の復元模型も展示されていますが、その考察の巧みさから、恐らく失われた霊廟に最も近いものと云われています。

 マウソロスの町は、現在ブドルムと呼ばれる漁村で、栄華を誇った当時の面影を伝える物は一切存在せず、霊廟の存在した場所も、雑草の茂る窪地に過ぎません。
21世紀に生きる私達は、居ながらにして世の事柄を見聞きし、必要とあれば数時間で現地に赴く事も可能です。
巨大産業文明の中で生活する私達ですが、歴史上黄金時代の古代ギリシア人の様に美を愛し、美を理解し、美の為に生活する時間を持っているでしょうか?
疑わしい事と思います。

本編終了・・・

2011/03/03

人類の軌跡その23:忘却⑦

<ハリカルナッソスの霊廟その1>  

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 紀元前4世紀の半ば、小アジアに栄えたカリア王国の首都ハリカルナッソスは港町で、マウソロス王によって統治されていました。
マウソロス王は、精力的、好戦的な性格でロードス島を征服し、暫くは隣国リュキアの領主となった事意外、現在に伝えられる事は、殆ど存在していません。
霊廟が、彼の名前に由来しマウソレウムと云う単語に成ったのは、彼の妃アルテミシアの献身の賜物と言わなければ成りません。

 紀元前353年、マウソロス王が崩御すると、王妃アルテミシアは、亡き王の霊を慰める為、霊廟を建立する事としました。
王妃は、ギリシアから建築家サテュロス、ピュティアス、彫刻家スコパス、レオカレス、プリュアクシス、ティモティオス等、著名な芸術家を招集し、世界で最も壮麗な墓を造る様に命じたのでした。
彼等はエジプトのピラミッドや、ファロスの灯台に比較すれば小規模では在るものの、構造の美しさ、彫刻装飾の豊かさ、技巧の巧みさに於いて、当時知られる如何なる建造物よりも、優れた建物を造る事としたのです。

 不幸にも王妃アルテミシアは、その完成を見る事無く、王マウソロス崩御の2年後に世を去りますが、王妃の遺志に従い霊廟の建立作業は、継続されたのでした。

 霊廟は、ハリカルナソスの町の中央部に在る広場に造られ、まず四角の大理石の基礎が置かれ、それぞれの四隅には、馬に乗った戦士達の彫像が置かれ、金白色の大理石で造られた36本のイオニア式円柱が立ち並び、円柱と円柱の間には、男神と女神が交互に置かれました。
36本の円柱の上には台輪が載せられ、其処から急傾斜の高いピラミッドが組み立てられ、更に頂上には金箔を貼った青銅の馬具をつけた、4頭立ての2輪馬車に、大理石で造られたマウソロス王と王妃アルテミシアの像が載せられました。
霊廟の高さは42m、周囲123mの巨大な建造物に成りました。

その2へ続く・・・
2011/03/02

人類に軌跡その22:番外編ギリシア神話の神々④

<オリュンポスの十二神その4>

<序列11位アプロディテ>(英語名ヴィーナス)

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 愛と美の女神。
聖鳥は”白鳥”や”鳩”、聖なる植物は”バラ”や”ケシ”や”カリン”。
ゼウスの娘という説と、海の泡から完璧な姿で生まれたという説があります。
ヘラやアテナをはじめ、オリュムポスの女神達はみな気高く美しい!
しかし、アプロディナの場合は、その完璧な容姿に加え、男を虜にする官能的な美しさが備わっていました。
彼女は、その類まれな美貌からどんな男も手に入れたと伝えられています。
家庭的なヘパイストスの妻となりながら、粗野なアレスとの不倫を続けました。
「ミロのヴィーナス」をはじめ、美術作品の題材として数多く取り上げられているのは、有名なお話です。

<序列12位ヘルメス>

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 ゼウスの伝令役であり、神々の使者、旅人、盗人(泥棒)、商売の神でもあります。
ゼウスとニンフのマイアの息子、象徴は”伝令杖”や”ペタソス(つばの広い帽子)”。
ヘルメスは、翼の生えたサンダルで躍動します。
運動神経が抜群で徒競走の創始者とも言われています。
幸福や富を齎した逸話が、どの神よりも多いことから、オリンポスの山でも一番の人気者です。

<ディオニソス>(加える場合と除く場合が在ります)

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 酒とブドウの神、演劇(劇場)の神でもあります。
人間を親にもつ唯一の神、ゼウスと人間のセメレの息子。
聖樹は”ぶどう”、聖獣は”山羊”や”イルカ”や”蛇”。
彼は、その魔法でブドウの木から恍惚と錯乱の液体を生みだしました。
それを飲んで酔う者は、陽気になるが混沌も味わいます。
古代では、彼の崇拝者たちが森に集い、飲んで踊り、酩酊の極みに達していました。
又、彼は劇場の神でもあり、古代では、最も優れた詩が捧げられ、脚本家から出演者まで、舞台人は全員ディオニソスの使徒でした。

<12神以外の神>

 冥界の王ハデスは、殆ど地下に閉じこもっていた為、オリュムポスの12神には数えられていません。
他にもオリュムポスには、多くの神々が住んでいました。
例えば、アプロディナの従者である愛の神エロス、ヘラの娘のヘベとエイレイテュイア、運命の女神モイラ、季節の女神ホラ達などです。

 更にティタン神族でもゼウスに反抗しなかった者達、例えば掟の女神テミスや、勝利の女神ニケ(ナイキの語源)などは、オリュムポスでゼウスらと共存していました。
神々の宮殿では、日々華やかな饗宴が繰り広げられ、彼らは神の食べ物アムブロシアや、神の酒ネクタル(果汁飲料ネクターの語源)を堪能しのです。
因みに、これ等を人間が口にすると永遠の生命を得られると言います。
神々は地上に住む人間達を天上から観察したり、彼等についての議論をして過ごしたのです。

オリュムポス十二神終了・・・