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2011/04/30

人類の軌跡その81:大航海時代⑩

<雨の神の花嫁(チェチェン・イッツア)その3>

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◎雨の神の花嫁①

 ククルカンの神殿は高さ30m、基礎部分の面積60平方mのピラミッド状をしており、頂上には石造りの神殿が祭られ、この神殿から雨の神の住む聖なる泉に通じる、幅4.5m、全長400mの石畳の道が存在し、両側には有翼の蛇ククルカンの聖像が無数に欄干の如く並んでいます。

 ククルカンの神殿及び、聖なる泉、その石畳はマヤ族の生活に密接な関係が在り、日照りが続き、農作物が干からび始めると、之は雨の神ユムチャクの怒りによるものと信じ、神を宥める為、14歳になる美しい処女を選び、花嫁として聖なる泉に投げ込む風習が在りました。

 生贄の花嫁は、二度と姿を現す事は在りませんが、死にはしないと考えるのが、彼らの信仰であり、生贄と一緒に宝石や雨の神の神殿で生活する為に必要な品物も供物して、投げ込んだのでした。
この雨の神ユムチャクへの生贄については、マヤ族全体が深い関心を持ち、儀式の当日には国中の人々は、生贄を見送る為、この地に参集したのです。

 ククルカンの神殿には、マヤ族の中から選抜された、14歳の美しい処女が、雨の神の花嫁として捧げられる為、美しく着飾り、その時の至る事を待っていました。
その傍らには、マヤ族の中で最も勇敢な若者が、きらびやかな衣装に身を固め、いたいけな花嫁の旅路を守り、雨の神の神殿に無事送り届ける為に控えています。

続く・・・

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2011/04/29

人類の軌跡その80:大航海時代⑨

<雨の神の花嫁(チェチェン・イッツア)その2>

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チェチェン・イッツア②

 この地に建設された最大の都市が、チェチェン・イッツア(Chichen itza)で、ユカタン半島のほぼ中央部に位置し都市の近郊には、巨大な遊水地を2箇所も従えていました。
この遊水地は、地殻が40m程陥没した場所に出現した、深水湖であり、その直径は60m余り、両者はお互いに1.6km程離れています。
マヤ族はこの地で、十分な水を得る事が出来る為、都市の建設を開始したのでした。
因みに、チェチェン・イッツアとはマヤ語で「泉の口に在るイッツアの町」を意味しています。

 二つの泉の内一方は、住民の飲料水と田畑の灌漑に利用され、もう一方は神聖なものとして、雨の神ナホチェ・ユムチャックに奉げられました。
この泉は、水深20m、水面に達する為には更に20m以上も壁面を下る必要が在りました。
マヤ人はこの第二の泉が、陰鬱で神秘的な雰囲気に恐れを抱き、雨の神がこの深い泉の底に神殿を構えて住んでいると信じていたのでした。

 マヤ族の間に古くから伝えられた話では、12世紀から13世紀頃、彼等の場所に一人の異邦人が現れ、メキシコ人はこの人物をケツアルコアトルと呼称し、マヤ族はククルカン(有翼の蛇)と呼びました。
ククルカンは戦争捕虜として、チェチェン・イッツアに連行され、雨の神ナムチュ・ユムチャクへ捧げる生贄として、聖なる泉に落とされました。
しかし、ククルカンは溺れる事がなく、マヤ族は古くからの慣わしに従い、彼を救い神の位を授けました。
やがて、ククルカンはチェチェン・イッツアの支配者と成り、ユカタン半島最大勢力を持つ首長と成っていきました。
人々は彼を生き神として崇め、彼の為に神殿を建立したのです。

続く・・・


2011/04/28

人類の軌跡その79:大航海時代⑧

<雨の神の花嫁(チェチェン・イッツア)その1>

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チェチェン・イッツア①

 メキシコ合衆国のパナマ地峡に近いユカタン半島は、現在沿岸部を除いて住む人間も殆ど居ない地域と成っています。
しかし、現在から500年程遡ったコロンブスのアメリカ大陸発見当時は、アステカ族よりも更に高度な文明を誇ったマヤ族が居住していました。
マヤ族に関する研究は、アメリカ人ジョン・エル・ステフェンス(John L、Stephens)やイギリス人フレデリック・キャザウッド(F、Catherwood)、探検家のアルフレッド・モーズレイ(A,P,Maudslay)等により、19世紀中葉よりユカタン半島現地に於いて調査が進められた結果、マヤ族の文化が少しづつ判明してきました。

 研究によれば、マヤ族は紀元68年頃、既に都市ウワハクトン(ホンジュラス)を建設していました。
彼等は120年間に渡ってウワハクトンに住み、その後24km離れたティカルに拠点を移動します。
ティカルには西暦5世紀初頭迄、マヤ族が居住した痕跡が、都市内に現存する記念物から推定されています。
ティカルの後、マヤ族は次々と遷都を繰り返し、終には紀元530年より629年の間に、中部メキシコの地域を遺棄して、北方のユカタン半島に移住しました。

 彼等は600年に渡る文化を捨て、地味の悪い地域に何故移住したのでしょう?
疫病の蔓延、戦争、凶作等結果なのかは、現在でも良く判っていませんが、一般には度重なる遷都や、ユカタン半島への大移動は、何れも凶作に起因するものと考えられています。

 マヤ族がユカタン半島に移住した時、農耕に必要な河川は殆ど存在していませんが、ユカタン半島北部には、之に代わる非常に大きなセノテス(自然湧水)が存在していました。
ユカタン半島は石灰質の土壌であり、その地下には無数の湖や河川が存在し、地殻が地下に向って傾斜すると、必ず地下水が湧き出しました。
マヤ族はこの豊かな水源を利用して、農耕を行い、飲料水として利用していきました。

続く・・・

2011/04/27

人類の軌跡その78:大航海時代⑦

<アステカ族の奇習その2>

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◎コンキスタドール

 スペインの下級貴族ヘルナン・コルテス(Hernan Cortez 1485~1547)は、若くして、キューバに渡り、1518年キューバ総督ディエゴ・ベラルクスの命により、メキシコの探検に向かいます。
彼は兵士400人と馬32頭、大砲を積んだ11隻の帆船に分乗しキューバを出帆、探検先の原住民勢力や土地について全く不案内な中、ベラ・クルスに上陸し、その時乗って来た総ての船を焼却処分しました。
(この話は有名で、映画「レッドオクトーバーを追え」でも紹介されました)
部下達はこの行為によって、完全に退路を絶たれ、原住民を征服するか、自ら死に至るかを選択する事と成りました。

 アステカ族の兵士は、大変良く訓練され、非常に勇敢な軍隊でしたが、コルテス軍の騎兵隊や最新鋭の大砲、戦闘用具に驚き、翻弄され、ひとたまりも無く殲滅されて行きました。
今回の戦いは、スペイン兵士1名対アステカ兵100人に換算される戦果と成り、次々と現れるアステカ軍を打ち破り、首都ティノチティトランに入城します。

しかし、コルテスには独断先行の傾向が強く、キューバ総督は、彼の指揮権を剥奪する事を決め、彼を召還する為、パンフィロ・デ・ナルバスをメキシコに派遣しました。
ナルバスは、スペイン兵の中でも特に勇猛果敢な兵士5名を選抜し、ベラ・クルスに上陸、土地の司令官にコルテス軍より離脱する様勧告しました。

 その司令官は、使者ナルバスの勧告を受入れる代わりに、彼等6人を捕らえ、コルテスの基は送ります。
6人は縄で縛られた上、荷物扱いで首都ティノチティトラン迄逓送しました。(!)
彼等は、飛脚の背中に括り付けられ、昼夜を分かたずベラ・クルスから首都ティノチティトラン迄、約320kmの道程を運ばれました。
その間、厳しい地形を30km毎に移し変えられながら、96時間を費やして、目的地に運ばれました。
人間を荷物扱いで300km以上の道程を運ばれた事実は、前代未聞の出来事で、6人の使者はコルテスの前に引き出され、すぐさま死の宣告を受け無残な最期を遂げます。
その後、アステカ皇帝アウテモクの反乱も鎮圧され、1521年8月、アステカ帝国は歴史的大破壊の後、首都ティノチティトランはコルテス軍の前に陥落しました。

 メキシコ・シティーの西部、ポポカテペトル(煙の山)とイストクシハウル(眠れる乙女)の2山が聳え、東部にはオリサバ山が聳えていますが、何れも5000mを遥かに超え、万年雪を頂く姿は、世界でも美しい山の一つに数えられています。
この3山の内、ポポカテペトルはアステカ族にとって最も神聖な山でした。
この山は何時も煙と轟音を上げており、ちょうどテオカリ寺院の真西に位置し、ピラミッドの頂上から太陽の沈む光景は、あたかも、ポポカテペトルに吹き上げる煙の中、その火口に吸い込まれる様に見えました。
その光景を合図に、祭壇の石の上の生贄に一撃が加えられました。

終わり・・・
2011/04/26

人類の軌跡その77:大航海時代⑥

<アステカ族の奇習その1>

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◎生贄の石

 現在、メキシコ・シティーの国立博物館中庭に、直径約2m程の周囲に彫刻を施した、丸い石が置かれています。
之は、アステカ(Aztecs)族の「生贄の石」で、展示物の中で最も陰惨な物と云われ、この石の上でどれ程多くの人々が、生贄と成り命を落としたか解かりません。

 14世紀中葉、アステカ族は現在のメキシコ合衆国の首都メキシコ・シティーの存在する場所に、ティノチティトランと呼ばれる都を建設していました。
その後15世紀から16世紀初頭にスペイン人によって征服される迄、中部アメリカに於いて強大な国家を建設し、ある面に於いては、征服者スペインよりも高度な文明を誇っていました。
首都ティノチティトランは、当時のスペインの首都マドリードより人口が多く、住民は石造りのしっかりとした住居で生活し、金・銀・銅・石の細工に長け、織物を作り、彫刻にも秀でていました。
又、ピラミッド状の神殿を建立し、国王の宮殿は素晴らしいものであったと、云われています。

 彼等の信仰の世界は、複雑な多神教で、その巨大な建造物や絵画彫刻には、現代人の眼で見るとグロテスクな物も多いですが、更に国家の宗教行事に於いて、夥しい人身供養を伴いました。
アステカの聖なる都、チョルーラには、彼等の最高神を賛美する為、一辺の長さが120mに及ぶピラミッド状の壮麗なテオカリ神殿を建立し、その頂上には、彼等の最高神を収めた社を設けます。
そして、毎年繰り返される、祭礼には当時メキシコ湾から太平洋迄広がっていた、アステカ族の全領土から巡礼者が参集し、多数の生贄が奉げられたのでした。

 15世紀末、コロンブスがアメリカ大陸を発見する6年前、ある神殿拡張の為の祭儀には、その為に長期間に渡って蓄えられた、捕虜2万人を一度に生贄として奉げましたが、その犠牲者の列は3kmにも達した(!?)と伝えられています。

 ピラミッド状に成った神殿の階段を生贄となる人々の列が登り、羽根尾の付いた頭飾りを付け、盛装した神官達が進み、その後から大勢の巡礼者がついて行く、頂上の神像の傍らには、生贄の石が既に用意され、生贄と成る者は、一人一人裸にされ、5人の神官がその者の手足、頭をしっかりと押さえ、もう一人の神官が、黒曜石のナイフで胸を裂き、神像を取り出します。

 犠牲者の列は、人身御供と成る者達の悲痛な叫び声に、身も心も擦り減るような思いをしながらも、静かに死の行進を続けていきました。
2万人の捕虜が、生贄として供養される為には、延々4日間を要したと伝えられています。
後にスペイン征服後、あるスペインの調査隊は、アステカ族のテオカリ大神殿の近郊で、この様な方法で非業の死を遂げた、マヤ・モロック族の遺骨13万6千個を発見したと記録しています。

続く・・・

2011/04/25

人類の軌跡その76:大航海時代⑤

<コロンブスの遺骨その5>

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◎遺骸紛争Ⅱ

 サント・ドミンゴの教会から、コロンブスの本当の遺骨が発見されたニュースは、全世界に一大センセーショナルを巻き起こし、スペインでは、明確な証拠を敢えて否定し、憤然としてその真実性を否定しました。
コロンブスの柩の蓋を開ける時に立ち会った、ドミニカ共和国駐在スペイン公使が、コロンブスの遺骨発見が真実である事を本国政府に報告するや、スペイン政府は、この公使をサント・ドミンゴから召還するなど、スペインは自国の主張以外絶対に妥協しませんでした。

 1898年キューバが宗主国のスペインから独立した時、スペイン政府は、尚もコロンブスの遺骨は、スペイン領内に安置されるべき事を主張し、無銘の柩(ディエゴの柩)を350年前に旅立った、故国スペインのセヴィリアに三度移し、「クリストヴァル・コロン」の銘を記した石棺に納めなおし、壮大なセヴィリア教会に安置しまが、大多数の人々は其処にコロンブスに遺骨が存在しない事を知っていました。

 サント・ドミンゴの人々は、彼等が託されているものが、如何に貴重なものなのかを理解し、彼等も又教会の中に、コロンブスの遺骨を安置する堂を建立します。
堂の中央には、重い青銅の柩があり、柩の側面は折畳みに成っていて開閉可能であり、必要に応じて内部の柩を見る事が出来る様に成っていました。
毎年10月12日、コロンブスのアメリカ発見の日を記念して、その日は柩の側面が開放され、鉛製の柩全体が参拝者に公開されました。
鉛の柩の大きさは、長辺42.5cm 短編22.5cmであり、中には遺骨が固体と粉体になって、内部を満たしていますが、その損傷度合いが激しく、そのまま放置する事は遺骨の雲散消滅に繋がり兼ねない状況でした。
現在、サント・ドミンゴ大聖堂に静かに安置され、永遠の眠りについています。

 コロンブスによって発見された、アメリカ大陸、特にカリブ地方がその後、大航海時代を通じて如何様に変化し、又原住民から見たコロンブス(スペイン人)の姿、歴史家のその後の評価について、敢えて此処に書きません。

続く・・・
2011/04/24

人類の軌跡その75:大航海時代④

<コロンブスの遺骨その4>

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◎遺骸紛争Ⅰ

 サント・ドミンゴ教会は、その栄光を剥奪されたまま、荒廃するに負かせ、誰も顧みる者が在りませんでした。
1877年教会の再建が決まり、その時祭壇前の床石を掘り起こしていた作業員が、1795年にハバナに移動させた鉛製の柩と同様な柩を発見しました。
柩の上には、“D.de la A.per.Ate”の略語が掘り込まれており、コロンブスに事跡を調査していた、クロナウ博士は、“Descubridor de la America primer Almirante”(アメリカの発見者、第一級提督)と解釈し、又柩の3方の側面にはC,C,A,の文字が1文字ずつ掘り込まれていました。
この文字の意味は、“Cristoval Colon,Almirante”(クリストヴァル・コロン提督)と解釈する事が出来ました。

 この柩の発見を重要な事態と考えた、教会関係者は、柩の蓋を開けるに当たり、全サント・ドミンゴの名士・名家、各国の領事等を招待しました。
開けられた蓋の裏には、次の様な銘が刻まれていました。
“Llltre y Esdo Varon.Criztoval Colon”この銘に意味は明らかに“Lllustre y Varon Don Criztoval Colon”即ち「名声多き、クリストヴァル・コロン男爵」と解釈されるもので、鉛製の柩の底に、朽ちるにまかせられた遺骨が、誰のものであるか、疑う余地は有りませんでした。

 ハバナの教会では、多年にわたり、別のコロンブスを崇めていた事に成り、墳墓の墓標が早い時期に喪失していた事、コロンブスの子供が父親の傍に葬られていた事、以上を多くの人間が忘れていた事が原因でした。
スペイン人は、偉大なるアメリカの発見者クリストファー・コロンブスの代わりに、息子のディエゴの遺骨の入った柩をキューバに移し、盛大な儀式の内にこれを葬ったのでした。

続く・・・

2011/04/23

人類の軌跡その74;大航海時代③

<コロンブスの遺骨その3>

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◎コロンブスの墓

 コロンブスに関しては、上陸地点の確定も然りですが、その墓の場所についても多年に渡り、多くの研究者の意見が分かれ、この結果、一国の宰相が更迭され、キリスト教会が非難を受け、国家間の戦争勃発寸前の状況を作り出しました。
ヨーロッパとアメリカでは、コロンブスと云う、キリスト以後世界で最も有名な人物の遺骨の存在と所有を廻って、論争が絶えませんでした。

 クリストファー・コロンブスは、第一回の航海の後、3回に渡り合計4回、大西洋を横断し、「黄金のジパング」や「香料」の国インドを必死に探し求めましたが、その思惑とは裏腹に、原住民の反乱や本国の反対派による逮捕拘束される等、かつての提督も晩年は、病と貧困に悩まされ、不遇の内に1506年スペインのバリヤドリードで、寂しくこの世を去りました。

 彼がその死にあたり、繰り返し第一回の航海で発見した、豊かで美しい島ヒスパニオラ(現ハイチ)に遺体を葬る様懇願したのでした。
其処には、繁栄したサント・ドミンゴ港が在り、全スペイン人衆目の土地で在り、コロンブスが最初に建設した、恒久的植民地で、巨万の富を求めて、海外へ向かう人々の目標の土地と成っていました。

 この新世界の中心地と云うべき場所に、コロンブスの遺体が移されたのは、彼の死後30年を経過した、1540年の事で、スペインから到着した鉛製の柩は、この為に新たに建立された教会で、厳かな儀式が行われた後、祭壇の北側の床下に安置されました。
その時、息子のディエゴ・コロンブスの遺体も、スペインから一緒に運ばれ、父親の遺体の傍に埋葬され、二つの墓にはそれぞれ大理石の墓碑銘が刻まれ、150年の間、何事も無く時間が過ぎていきました。

 しかし、1655年英国海軍が、サント・ドミンゴを攻略した時、教会は英国軍による暴挙から、墳墓の冒涜を守る為、大理石の墓碑銘をはじめ、遺体の所在を明らかにする物の全てを抹消してしまい、戦乱後も墓碑は修復されず、コロンブスの遺体の安置された場所を示す、墓碑銘等は復活せぬまま140年の時間が経過していきました。

 1795年、スペインはフランスからバーゼルの講和により、ヒスパニオラ島西側を強制的に割譲された為、スペイン人は自国の国民的英雄の遺体を、手放す訳には行かず、コロンブスの柩をキューバ島に移動します。
彼等は、教会の祭壇の下にある墓所を掘り、姿を見せた鉛製の柩をハバナの教会に移し、納骨所に安置するとその場所を封印しました。
納骨所には、コロンブスのレリーフが置かれ、次の様な碑銘が掲げられました。
「偉大なるコロンブスの遺体とその像よ、この柩の中に、そして、我が国民の記憶の中に、永久に安らぎ給え」

続く・・・
2011/04/22

人類の軌跡その73:大航海時代②

<コロンブスの遺骨その2>

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◎ワットリング島

 バハマ諸島には30の大島と600以上の小島が存在し、コロンブスがそのいずれかに上陸した事は間違い無く、しかも彼は大西洋を東方から航海した為、最初に遭遇する島は、10個程度の外洋に面した島と成ります。
列挙すると、大アバコ島、エリューセラ島、コンセプション島、ユーマ島、サマナ島、キャット島(後年コロンブスの乗船したマリア・テレジア号が座礁した島)等があります。

 1892年、コロンブスのアメリカ発見400年記念博覧会が開催された時、慎重な再調査が行われた結果、ワットリング島を正式にコロンブスの上陸第一歩を印した地とし、「サン・サルバドル島」と命名しました。
その年、新聞記者ウォルター・ウェルマンは、コロンブスが第一歩を印したと推定される場所を示す為、島の東海岸に小さな記念碑を建立したのでした。

 コロンブスの上陸した最初の島が、ワットリング島で在る事を確認する資料として、1921年刊行のルドルフ・クロナウ博士による「アメリカの発見とコロンブスの上陸」(Dr.Rudolf Cronau;The Discovery of America and Landfall of Columbus,1921)が在ります。
博士は大西洋側に面した島々を綿密に調査し、その結果、ワットリング島こそが、コロンブスの最初の上陸地点で在る事を決定づけました。

 しかも、1892年のコロンブス博覧会開催の折り、ウォルター・ウェルマンがコロンブス上陸地点として、記念碑を建立した東海岸では無く、島の北側で在る事を明らかにしたのでした。
其処には入り江が在り、サンゴ礁が自然の防波堤となり、内側には幅1マイルに及ぶ、静かな入り江を伴っていました。
此処ならば、15世紀頃の全キリスト教国の艦艇を収容できた事でしょう。

 クロナウ博士の著作が刊行されて、記念碑の位置の誤りで在る事を指摘し、東海岸の記念碑を北側の最も正確な場所と推定される地点に移動されましたが、現在この島には、100名足らずの原住民が住んでおり、稀にコロンブス上陸地点見物の観光客が訪れる程度なのです。

続く・・・

2011/04/21

人類の軌跡その72:大航海時代①

<コロンブスの遺骨その1>

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◎コロンブスの上陸した島

 イタリア、ジェノヴァの生まれのクリストヴァル・コロン(以下クリストファー・コロンブス(1456年~1506年))が、スペイン女王イザベル1世の援助を受け。サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の3隻の帆船に、120名の乗組み員を乗せ、故国のバロス港を出帆して、大西洋横断に旅立ったのは1492年8月3日未明の事でした。
途中、部下達がその航海の前途多難による不安から、幾度も反乱の予兆を抑えながら、航海を続け、同年10月12日午前2時、故国を出帆しておよそ70日後、バハマ諸島(西インド諸島)のひとつの島に到達し、この島を「サン・サルバドル島」命名しました。
ヨーロッパ人によるアメリカ大陸発見の第一歩と成りました。
この島は、現在のワットリング島と推定されています。

 コロンブスが第一歩を印したバハマ諸島には、30以上の大小の島々が存在し、彼が「サン・サルバドル」と名づけた島が、正確には現在のどの島なのか、特定する事は大変な事でした。

 コロンブスの新大陸への航海日誌は、不幸にも、彼の死後間も無く所在が不明と成りますが、彼の生前、同時代の僧侶フレイ・ラス・カオスが、コロンブスの原書である1492年10月12日付けの航海日誌を忠実に複製しました。
これは後に翻訳され、複製刊行されます。
その文献によれば、10月11日の夜、強い東風が吹き、月の光に浮かび上がる島影を最初に発見したのは、ピンタ号の水夫ロドリゴであることが判ります。

 コロンブスは「サン・サルバドル島」について、次の様に記録しています。
「島は極めて大きく、かつ扁平であり、島の中央部には大きな湖が存在し、島の形はソラマメの様で、多くの木々が繁茂している」。
更に2日後の10月14日付けの日誌には、「明け方、私は船を1隻用意させ、島を観察するために、島に沿って東北方向に航海をした。住民たちが岸に出て来た。上陸地を探したが、島を取り巻く岩礁が心配であった。しかし、やがて岩礁の切れ間を見つけ、其処は全キリスト教国の船舶を収容するに足りる広大な入り江だった」と記しています。
以上は、サン・サルバドル島に関し、現存するコロンブスの航海日誌(模写)の殆ど全てですが、詳細な記録とは言い難いものです。

続く・・・

2011/04/20

人類の軌跡その71:忘却⑲

<シベリアの悲劇その6>

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◎バイカル湖・・・終焉の地

 2月の終わり近く、125万人は、25万人に減少していました。
これ等の人々は、万難辛苦に耐え、ようやくオムスクから2000kmのバイカル湖畔に辿り着く事が出来ましたが、彼等の消耗は凄まじいものでした。
最後の安全を図るため、バイカル湖を横断する必要が在り、80kmに及ぶ広さ、3mの厚さで覆われた氷の上を25万人の生きた亡霊が進みます。
過去3ヶ月間の苦難は、この世のものと思えないものでしたが、この悲劇の退却最大の事態がバイカル湖上に待ち受けます。
硬く結氷した、バイカル湖上の寒さは頂点に達し、氷点下69度を記録し、受難者を死に導くような猛吹雪が唸りを上げて吹き始めます。
熊やアザラシの毛皮を身に纏っても、何の意味も無く、極限の寒さは彼等を翻弄し、次々と死に追い遣っていきました。
この様な最中、貴族の夫人の一人が氷上で産気づいたのですが、誰一人、手を貸す者も無く、無表情にその前を通り過ぎて行き、その夫人はお産の最中に凍死し。妻の姿を傍目から隠そうとした、夫もそのまま凍り付いていきました。

 バイカル湖の湖上を生きて脱出した者は、皆無であり、その上を真っ白な雪が覆って行きました。
バイカル湖上の25万人の遺体は、翌年の夏、湖面の氷が解ける迄、倒れたそのままの姿で残されました。
氷が解けた時、この恐るべき、そして痛ましい風景は、静かに視界から消え失せて湖底深く沈み去って行きました。
彼等こそ、近代史最大級の悲劇に違い在りません。

 アレクサンドル・コルチャーク提督は、バイカル湖畔に逃れる以前に、革命軍に拘束され、1919年2月イルクーツクで、反革命罪に問われ、刑場の露と消えましたが、50万人の兵士、75万人の民を極度の苦難に遭遇させた末、死に至らしめた彼の罪は、万死に値いする事でしょう。

終わり・・・

2011/04/19

人類の軌跡その70:忘却⑱

<シベリアの悲劇その5>

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◎125万人の凍死

 1919年1月13日から、翌年の2月迄、3ヶ月に渡りこの空前の人類の受難劇が、1日も休み無く続いたのでした。
そして終に、500トン近い金塊を放棄する日が訪れます。
既に28両にも上る装甲車両の燃料を使い果たし、止む終えず金塊を馬橇に積み替える事としました。
しかし、猛烈な寒気は、橇を引くシベリア産の馬達を次々と、凍死させて行き、結果、帝政ロシア政府から継承した、金塊はシベリアの荒野に遺棄せざるを得ませんでした。
退却時に空しく遺棄された金塊は、その後どの様に成ったか誰も知らない、謎の一つと成りました。

 しかし、この行為で行軍が終わった訳では無く、殉教者の群れは、尚も西へ西へと無意味な旅を続けますが、人々は唯死んだ様に、脚を前後に動かしているだけでした。
雪は猛烈な風を伴い、止む事を知らず、その雪の中を足取りも重く歩いていると、不思議と眠りを誘います。
この誘いに負け、体を少しでも横にして休んだ者は、再び醒める事の無い永遠の眠りに落ちて行きました。

 最初は、指導者達も、声を嗄らし「眠ってはけない」と叫び続け、人々を励ましましたが、最後にはその指導者達も自らその眠りに誘い込まれました。

 退却の群れは日毎日毎に、加速度的に減少していき、そして辛うじて寒気に耐え得た残存者達も、更に気温の下がる凄まじい寒さの中に、一歩一歩と重い足を運び、過去に記録さえないシベリアの寒さは、残酷極まりない苦痛と成って、人々を苦しめ続けました。
余りの寒さに、氷柱が瞼の回りにできはじめ、大きな氷の叢林が睫毛から下がって行きました。
涙がそのまま凍り、目も開けられない程、雪は荒れ狂い、ノボ・ニコライエフスク市近郊では、一晩で20万人が凍死したのは、この時でした。

続く・・・
2011/04/18

人類の軌跡その69:忘却⑰

<シベリアの悲劇その4>

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◎道標

 オムスク市付近の冬の平均気温は、氷点下20度(最低記録は氷点下49度)ですが、コルチャーク提督に率いられた、125万人の大部隊が、8000kmに及ぶ大移動にその第一歩を踏み出した時、シベリアに住む住民さえ、体験した事の無い猛烈な寒気が、シベリアを襲います。

 氷点下40度前後を上下した寒気は、更に20度低下したと云われており、この地球上の住民居住地域で一番の寒気を記録したのはオイミヤコン(1926年1月26日-71.2度)ですが、この気温に成ると弱い風が吹いただけでも、吐いた息は、そのまま音を立てて凍り、大きく喘ぐと呼吸困難や窒息すら起こり得る過酷な環境と成ります。
その様な場所に、防寒装備も無いに等しい状態では、僅か5分程度でも凍死は免れず、ゴム製品は薄いガラスに様に脆く成り、水銀は鋼鉄の様に硬くなり、寒暖計は使用できなくなります。

 この様な厳しい寒さの中に、125万人(多くの婦女子を含む)が突入するのは、結果として明らかなのです。
うなりを伴う烈風と猛吹雪は、正に刃物の様に、鋭く身を切り、この歴史上最大の人類の大移動に、計り知れない苦難を与えました。
そして間も無く、シベリアの雪の荒野には、凍死した人間や、橇、馬が墓標の様に連なり、降りしきる雪は、これ等屍に上にも積もり、あたかも万里の長城の様に、シベリアの道を何処までも印付けました。

 嘗て、ナポレオン軍が、ロシアの冬将軍に破れ、モスクワを後にした時、死体の列がその後に続いたと言いますが、コルチャーク提督のシベリア退却は、それ以上のものが在りました。

続く・・・

2011/04/17

人類の軌跡その68:忘却⑯

<シベリアの悲劇その3>

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◎始まり

 事件の発端は、1919年11月13日、西シベリアのオムスク市に始まりました。
ロシアの10月革命後、帝政ロシアの海軍提督アレクサンドル・コルチャークは、強大なロシア帝国の残存者を集めて、反革命軍を組織し、イギリスの援護の下にオムスク市に独立政府を擁立します。

 コルチャーク提督(1875年~1920年)は、日露戦争当時、旅順港の戦いで名声を受け、我国でも良く知られた人物でした。
日露戦争後、日本海海戦で壊滅した、バルチック艦隊(第2、第3太平洋艦隊に艦艇を捻出)の再建にも努力し、第一次世界大戦前には、極地探検家として名を成し、第一次大戦海戦後は、バルト海で駆逐艦隊を指揮し、ドイツ艦隊を翻弄殲滅し、後に黒海艦隊司令官に任命されました。

 第一次世界大戦末期、共同作戦を展開する為、アメリカに派遣、その帰途10月革命の報を聞き、日本を経由してシベリアに入り、イギリスの援助の下に、1918年11月、オムスク市に反革命独立政府を樹立しました。
一時はその勢力も強大でしたが、1919年11月、首都オムスクは革命軍に占領されるに至ります。

 コルチャーク提督は、再起を後に託し、ひとまず5000マイルに近いシベリアを横断して、太平洋岸に引き下がる事を決意しました。
其処には、友邦日本にも近いと云う思惑が有ったかも知れません。

 コルチャーク提督に従う軍隊は50万人を数え、更に75万人の亡命者を伴いました。
亡命者は、何れも革命政府の政治を忌み嫌い、帝政時代に親しみを持つ人々で、25人の司教と12000人の僧侶、4000人の修道士、45000人公安関係者、20万人以上のロシア貴族の女性、それに驚くほど多くの年少者を含んでいました。

 遥かな昔、イスラエルの指導者モーゼは、エジプトで奴隷と成っていたイスラエル人数百万人を引連れ、エジプトを逃れ、紅海を渡り、シナイ半島の荒野を40年に渡って彷徨い、苦難の末ようやく神の約束の地、カナンに達する事が出来ました。
(但し、カナンの地に達したのは、モーゼを始めエジプトを脱出した彼等の子孫で或る事に注意)
コルチャーク提督のシベリア大移動は、モーゼの出エジプトの苦難に、勝るとも劣らないものが在りました。
 
 このコルチャーク提督の膨大な随伴者の中でも、最も重要な物が在りました。
反革命政府の軍資金として、帝政ロシア政府から引き継いだ、5億ドルにも及ぶ500トン近い金塊で、是を28両の装甲車両に分散して積込みました。

続く・・・
2011/04/16

人類の軌跡その67:忘却⑮

<シベリアの悲劇その2>

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◎尼港事件

 日本の「シベリア出兵」もその一環であり、シベリアに駐留するチェコ軍支援を名目に、アメリカ、フランス、イギリス、中国との共同派兵の形式で行われました。

 日本は、他国との協定を無視し、2個師団73,000人にも及ぶ大軍を派遣しますが、この様な干渉にも関らず、ソビエト軍の勇敢な抵抗に遭遇し、アメリカ、イギリスは短期間で撤収したものの、日本は執拗にシベリア占領の希望を放棄せず、軍隊の増強を図り、極寒の土地で苦しい戦闘を続けました。
巨額の戦費と多数の犠牲者を出し、軍事的にも、政治的にも、外交的にも、経済的にも最大限の失敗を重ねた上、1922年、4年間に及ぶ派兵を中止しました。
その間、1920年1月、「尼港事件」が発生して、石田領事以下、多数の在留邦人の命を失います。

 尼港(ニコライエフスク)は、黒竜江下流の漁業中心地として繁栄し、1918年、日本がシベリア出兵を行った頃は、400人前後の居留民が存在し、領事館も設置されました。
1920年1月下旬、パルチザン部隊の襲撃を受け、日本政府は直ちに、第7師団の混成部隊と海軍軍艦三笠を派遣しましたが、厳冬に阻まれて現地に到着できない間に、領事館は砲撃を受け、石田領事以下邦人350名、守備隊将兵330名、海軍将兵40名、合計720名が非業の死を遂げました。

 当時、日本国民の多くは、尼港事件の悲劇が、我国の無謀なシベリア出兵に起因する事を知らず、世論は怒りに震え、政府を鞭撻しロシア窈窕の気勢を上げたのでした。
この尼港事件は、我国の虐殺遭難史に残る大きな事件である事は間違い在りませんが、この事件と前後して、シベリアの地に、歴史上稀に見る悲劇が展開されていました。
失われた人命125万人、その上5億ドルと伝えられる、巨額の金塊事件迄、発生しています。

続く・・・

2011/04/15

人類の軌跡その66:忘却⑭

<シベリアの悲劇その1>

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◎10月革命

 第一次世界大戦も終焉が近く成った頃、1917年3月、ロシア帝国内に革命が発生し、ロマノフ王朝が崩壊、帝政ロシアの時代は終わりました。(当時ロシアは太陰暦の為、「2月革命」とロシア国内では呼ばれています)

 革命で成立したケレンスキー率いる臨時政府は、連合軍側に加わり、戦闘継続を主張しましたが、疲弊に苦しむ工場労働者、農民、更には兵士も合流して、臨時政府に反抗します。
スイスに亡命していた、レーニンも封印列車で帰国し、労働者、農民を鼓舞しました。
人民は、「戦争継続の即時停止、人民に食料を!農民に土地を!全ての権力をソビエトへ!」と叫び、同年11月6日再び革命を起こしました。

 ケレンスキーの臨時政府は打倒され、それに代わって、トロツキー、レーニン等によるソビエト政府が誕生しますが、之が「ロシア革命」であり旧暦10月25日にあたる事から、「10月革命」と呼んでいます。

 10月革命以後、ソビエト政権が列国の予想に反して、堅実な歩みを示し、革命が着々と成功しつつある事を知り、アメリカ、イギリスを始めとする資本主義国家の恐怖が次第に増大し、1918年2月イギリス海軍によるムルマンスク上陸をきっかけに、ロシア国内の反革命勢力の援助と、革命政府打倒を目的に、16ヶ国による共同干渉が組織されました。

 日本の「シベリア出兵」もその一環であり、シベリアに駐留するチェコ軍支援を名目に、アメリカ、フランス、イギリス、中国との共同派兵の形式で行われました。

続く・・・

2011/04/14

人類の軌跡その65:忘却⑬

<テーベ・ネクロポリス>

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 上エジプトのナイル河畔、ルクソールにはテーベ・ネクロポリスと呼ばれる岩盤をくり抜いた、3000年前の墓所が在ります。
古代エジプト人が「永遠の家」と呼んだ貴人達の墓です。

 現在、エジプトを旅行する人々にとって、王家の谷はピラミッドと並んで人気のある観光地で、現地を訪問してこの両者を見学しない者はまず居ません。
しかしながら、本当にエジプトの歴史に興味を持つ人物に因れば、王家の谷は前評判ばかりが先行し、ラフミラやメンナ等貴人の墓の方が、遥かに興味深いものが在ると云います。
ファラオの陵墓と違い、そこには絵画や浮彫が在り、古代エジプト人の日常生活が再現されているからだと云われています。

 確かに、王家の谷に関する研究書や写真等は、数多く見る事が出来ますが、「貴人の墓」について書かれた文献が少ないと思われます。
貴人の墓には、先に名前を出しましたラフミラの墓が在り、ラフミラは十八王朝トトメス3世(紀元前1502年~紀元前1448年)の宰相を務めた人物でした。
彼の墓は、一般人の墓よりも大きく、見事な壁画で飾られています。
彼の使えたトトメス3世は戦士王で、しばしば遠征を行いましたが、その留守を預かり政務を代行する職がラフミラでした。
彼の墓所の壁画には、朝貢使節から貢納品を受け取る、姿が描かれています。
その姿は、アーサー・エヴァンズがクノッソスで発見したミノア宮殿のフレスコ画に見られる、衣装を身につけ、同様な髪型をし、「杯を持つ人」に描かれた人物と同じ、上品な横顔をしています。
又其処には、ミノア特産の杯、壷、銀製の牡牛の頭を運ぶ姿も描かれています。
この壁画に描かれた人々は、クレタ島の商人で、長い航海の後、ナイル川をルクソール迄遡って来たのでした。

 貴人の墓でもう一人名前が登場した、センネフェルは下エジプト(テーベ)の長官でアモン神の穀倉・庭園・家畜の監督者でもある人物でした。
陵墓の低い天井には、葡萄の葉とたわわに実る葡萄の実が描かれ、センネフェルの精霊は墓の主と成りながらも、尚もかつての葡萄園を監督者として、見回る姿を彷彿とさせます。

 ファラオの書記役で在ったメンナの陵墓の壁には、メンナがパピルスの小船に乗り、沼で狩をする姿が描かれています。
右手に棍棒を持ち、空に向かって飛びたたんとする鴨に向かって、投げつけようしているその傍らで、妻が彼のバランスを保つ為に、両足を支えて助ける様を描いた壁画は、描き出された色彩に驚くほどの光沢を持ち、メンナの健康的な姿は青銅色に輝き、妻の肌は繊細なアラバスター色を示しています。
メンナ夫妻は老齢に達し、ここの埋葬されたのでしょうが、壁画では、若き貴公子とその妻が、鴨狩りに興じる様を見事に描きだしているのです。

 王家の谷の様にファラオの墓は、大変良く紹介されますが、そのファラオ支えたより一般人に近い人々の陵墓にも当時の生活感が存在すると思われます。

続く・・・
2011/04/13

人類の軌跡その64:現実と神話の狭間⑦

<トロイを求めて・少年時代の夢に捧げた半生2>

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             アイネイアスのトロイ脱出

◎ヘレネの財宝?

 2年間に及ぶ作業の後、1873年6月14日、彼の目の前には、目も眩む様な財宝が広げられていました。
8700点にのぼる、感嘆すべき金の装飾品の数々で、中でも特に注目に値する出土品は、16,000個の純金の小片で作られた、額から肩まで届く宝冠でした。

 喜びの涙を浮かべながら、彼は美しい妻に宝冠を被せ、彼女を抱きしめて叫んだのです。
「私達の生涯で最も素晴らしい瞬間だ!お前はトロイのヘレネの生まれ変わりだ!」と。
この発見は、発掘作業のロマンティックな終焉に相応しいものでしたが、シュリーマンの判断は間違っていたのです。
彼が発見した古代の都市は、トロイではなく、もっと古い時代に属する都市で、問題に宝冠は、紀元前2300年頃の物であって、ヘレネが生れる1000年以上も昔の、別の王族が身に付けた物でした。

 現在、考古学の定説では、ホメロスによって詠われたトロイは、紀元前1200年頃、ギリシア軍の侵略によって滅亡したものと推定されており、9層に堆積した都市遺構の上部から3層目の都市遺構が、此れに当たるとされています。
シュリーマンは、作業員達がこの層を掘り抜いてしまった為、この都市遺跡を見逃したのでした。

◎夢を追って

 彼が発見した財宝は、ヒッサリックの丘の低部に近い部分に埋没した、他の時代に属する都市の物で、後に彼はその間違いを認めています。
其れでも、現在の研究者達は、ホメロスのトロイ発見の功績と、同じく、更に古い先史青銅器文化の属する古代都市の発見者の名誉を、ハインリッヒ・シュリーマンのものとして彼の功績を称えています。
此れは、夢を追う事に生涯を捧げ、終に其れを成し遂げた、雑貨屋の使い走りの少年に相応しい碑銘でした。

続く・・・
2011/04/12

人類の軌跡:その63:現実と神話の狭間⑥

<トロイを求めて・少年時代の夢に捧げた半生1>

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絵画:ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 「トロイのヘレン」(1863)

 彼の生涯を決定付け、考古学の歴史に、重要な一章を書き加えるきっかけと成った、クリスマス・プレゼントを父親から贈られた時、ハインリッヒ・シュリーマンは、僅か7歳の少年でした。
その贈り物とは、挿絵の入った本で、古代ギリシアの軍勢に攻め落とされ、火炎に包まれるトロイの情景が描かれていました。

 この絵を見た瞬間から、シュリーマンの幼い心は激しく、直向な思いに捕らわれたのです。
トロイの遺跡を見つけ、疑い深い世間に、ホメロスのトロイ攻略の話が全くの真実であり、単なる詩的な空想ではない事を、証明してやろうと思ったのでした。
此れは、雑貨屋の使い走りをしている、貧乏牧師の息子には、殆んど不可能な目標に見えましたが、来るべき仕事に備えて、古代ギリシア語を独学し、40歳代の初めには、仕事をやめても十分生活していけるだけの蓄財を築き上げたのでした。
その上、1869年には、理想的な妻となる、ギリシア人の花嫁を見つけました。
彼女は、ソフィアといい、まだ10代のアテネ娘でした。

◎トロイの地

 頭の中を駆け巡る、ヘクトル、アキレス、アイアスの名前を片時も忘れる事はなく、47歳のシュリーマンとソフィアは、ホメロスの「風強きトロイの野」を求めて、ダーダネルスに向けて旅立ちました。
彼は、100人余りの作業員を雇い、発掘作業を開始したのです。
シュリーマンは、トロイがヒッサリックという、標高49mの丘に存在したと云う、地方の伝承を信じ、この話は、ホメロスに関する彼の知識と一致していました。
その丘には、何らかの遺跡が埋蔵されている事は、現地では既に知られていましたが、当時、考古学は現在の様に学問として確立された分野ではなく、又シュリーマン自身も、実際に発掘に携わるのは初めての経験でした。

 作業員達は、ヒッサリックの地下に何が存在するのか確認する為、北側の急斜面に深い溝を掘りました。
一行は、直ぐに何時の時代に属するのかも判らない、入り組んだ遺跡に到達しましたが、後日、この複雑な遺跡は、9個の異なる都市の痕跡が、階層を成して互いに重なり合っているものである事が判明したのです。

シュリーマンは発掘作業を継続し、終に失われた都市の、高さ6mは在ったと推定される、城壁後に行き着いたのでした。
嘗て、ヘレネの誘拐に報復する為、ギリシア軍の進行をパリスが見守っていたのは、当にこの城壁に上からのはずでした。

続く・・・

2011/04/11

人類の軌跡:その62:現実と神話の狭間・番外編

<テセウスとアリアドネのその後・かんむり座>

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         テセウスとアリアドネ

 春も愈々、終わりを告げる頃、牛飼い座のすぐ東隣に見られる小さな星座で、7個の星が半円形に並び、小さいながら王冠のように美しい形をしています。
アルファ星ゲンマは「宝石」の意味で、文字どおり王冠の中央に位置し、宝石の様に輝いています。

 7個の星がくるりと半円形を描く姿は、ギリシア神話では、この様に伝えられています。
地中海のクレタ島にある地下宮殿の迷路の中に、頭が牛で体が人間の姿をしたミノタウルスという怪物が閉じこめられていました。
アテナイの人々は、毎年、少年と少女を生贄としてミノタウルスに捧げなければなりませんでした。
アテナイのテセウス王子は、ミノタウルスを退治する為、自ら生贄の一人に加わり、クレタ島に向かいました。
やがてテセウスは、クレタ島の王女アリアドネと恋に落ち、アリアドネは剣と、迷路から抜け出せるようにと毛糸をテセウスに渡し、無事にミノタウルスを退治して戻ってきたテセウスは、アリアドネを連れてアテナイに戻ります。
しかしテセウスは、アリアドネを途中に立ち寄ったナクソス島に置き去りにしてしまったのです。

 酒の神デュオニュソスはこれを見て哀れに思い、アリアドネに宝石を散りばめた黄金のかんむりを贈り妻としました。
そして王女の死後、ディオニュソスが冠を天に投げ上げると、その七つの宝石が星になって、このかんむり座になったと云われています。
星座内には80年に一度明るくなるTCrBという新星や、突然暗くなるRCrBという変光星があります。

続く・・・

2011/04/10

人類の軌跡その61:現実と神話の狭間⑤

<ミノア文字>

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 クレタ文明には、「ミノア文字」呼ぶ文字が、存在し、絵文字と線文字に判れ、更に線文字は、二体(A&B)ある事が、アーサー・エバンズの発掘調査以来判明していましたが、これを解読する事は、容易ではありませんでした。

 1936年の事、アーサー・エバンズは、ロンドンで「誰にも読めない文字の話し」と題して、学術講演を行い、この「ミノア文字」を紹介しました。
その時、マイケル・ヴェントリスという当時14歳の少年が、この講演を熱心に聞き、「自分がこの文字を読み解く」と決心したのです。

 マイケル少年は、幼い頃から、古い文字に興味を持ち、7歳の時には、お金を貯めて、エジプトの象形文字について書かれたドイツ語の書物を買う事もある程でした。
彼は、英国の比較的裕福な家庭に生まれ、父はインド駐留の陸軍将校、母はポーランド系の才能ある女性でした。
その為か、語学には天才的な素質を持ち、幼い頃から数ヶ国語を自由に話す事が、出来ました。
しかし、学業では言語学を専攻せず、建築学を選び、第二次世界大戦に従軍し、暗号解読を任務としました。
建築学の道に入った、ヴェントリスは、少年時代の決心を忘れた訳ではなく、エバンズの講演を聞いた後も「ミノア文字」の研究を続け、その研究レポートを時々、学者達に送り指導を仰いでいました。(20回以上もレポートを作成した事が判っています)

 彼の他にも「ミノア文字」を研究している人々が、勿論居り、ブルガリアのゲオルギエフの他、自分はミノア文字を解読したと称する学者は、多く存在しましたが、正しい解読と認められず、アメリカ・コロンビア大学のアリス・コーバーに至っては、もう少しの努力で、解読できる処迄来ていながら「これはとうてい読み解けない文字である」として、研究を中断してしまう程でした。

 さて、1939年、ペロポネソス半島のピュロスから、ミノア線文字Bで書かれた粘土版が多数発掘され、比較材料が増えた事により、研究も進み解読の手掛かりも幾つか判明してきました。
「ミノア線文字B」は、文字数88、此れは表音文字としては多く、表意文字としては少なすぎる事から、日本のカナ文字の様に母音と子音の組合せであろうと推定され、又、語尾変化、接頭語、文節記号も判明してきました。
この難解な文字をヴェントリスは、少年時代に決心して通りに、終に解読しました。

 但し、解読出来たのは、「ミノア線文字B」のみでした。
彼は、此れを古代ギリシア語を表現する文字と考え、日本のアイウエオを表す50音表の様な「ミノア線文字B」の「音の格子」と名づけた表を作成し、88文字にも上る線文字Bを格子に当てはめ、1952年、何時もと同様にレポートを作成しました。

 ケンブリッジ大学のギリシア語教授 チャドウィックが、ヴェントリスのレポートを読み、彼の解読作業に協力を申し出、この二人の共同研究の結果は、翌年学会に発表され、大論争が起こりましたが、後年、ヴェントリスの解読を証明する、新たな粘土版が発見され、今日、彼の解読は正しいものとして承認されています。

 しかし、ヴェントリスは、1956年9月自動車事故の為、僅か34歳の若さで急逝し、ギリシアの人々の間では「神々に愛された者は若死にする」と云う諺が有りますが、彼も神々に愛された為に若死にしたのだと人々を惜しませました。
死に到迄にヴェントリスは、「ミノア線文字B」に関する研究書を著し、後の世の人々が更に研究を進める為の手引きを完成させました。
こうして、「ミノア線文字B」の解読は成功したものの、「ミノア線文字A」「絵文字」の解読は、現在でも成し遂げられていません。

続く・・・
2011/04/09

人類の軌跡その60:現実と神話の狭間④

<クレタ島のミノス宮殿4>

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 王宮の地下は文字通り、迷宮の姿を示し、ミノス王自身の玉座の間には、恐らく現存する世界最古の玉座が、4000年の時間を経て存在しています。
ミノス王はこの石造りの玉座に腰を下ろし、妃が半身半獣の怪物を出産した報告を受け、ダイダロスにミノタウロスを幽閉する迷宮を建設する事を命じ、アンドロゲオス王子がアテナイで刺客に倒れ、報復としてアテナイ侵攻を命じ、更にはアテナイの12人の若者を謁見し、アリアドネ姫の逃避行を知ったのでしょう。

 テセウス王子とミノタウロスの伝説が、一定の真理を含んでいる事は間違い在りません。
クレタ島を支配したミノス王は実在し、このミノスの名称はエジプトの「ファラオ」と同じく、王朝全体を意味する言葉でした。
ミノタウロスは神話的な話で在る事には、異論無く、牡牛は力と豊饒の象徴でクレタ島を中心とした信仰が在ったと考えられています。
アテナイから貢物として送られた貴公子達は、この伝説に解答を与える壁画が宮殿の大広間に存在し、大きな牡牛と対峙する男女の闘牛士と関連づけられています。
ラビュリントスの意味は、「ラビュリス(二重の斧)」を意味し、このシンボルはクノッソスにしばしば散見されるもので、更にクレタ文明が紀元前1400年頃滅亡してから、遥か後この地に侵入したギリシア系のドーリア人が、巨大な地下排水設備をラビュリントス(迷宮)と同一視したと考えられています。

続く・・・

2011/04/08

人類の軌跡その59:現実と神話の狭間③

<クレタ島のミノス宮殿3>

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◎クノッソスの発掘

 19世紀も終わりに近い頃、イギリス人アーサー・エヴァンズ(1851年~1941年)がクノッソスを訪れました。
彼は既に著名な考古学者で古銭学に造詣が深かったものの、シュリーマンの様にホメロスやミノス王に纏わる伝説には関心を持ちませんでした。
彼は、この島から発掘された、古代エジプトの聖刻文字に似た、線状文字の粘土板に興味を持ち、その発掘・発見に努めます。

 1900年、19世紀最後の年、同様な粘土版が発掘された、カンディアと呼ぶ都市の近傍、「紳士の頭」(トウ・シェンビ・イ・ケファラ)の丘を買収して発掘を開始しました。
間もなく、数百枚の粘土版を収めた、石造りの貯蔵庫を掘り当て、その貯蔵庫は更に大きな建造物の一部で、広間、通路、階段、柱廊、ホール等が太陽の下に姿を現しました。
彼は25年間の長期に渡り、発掘を続行し、6エーカーに及ぶミノス宮殿の全貌を明らかにします。

 ホメロスは、クレタ島にはクノッソスと呼ぶ大都市が存在し、偉大なるゼウス親友ミノスがその内に在って、九つの海を支配したと述べていますが、人々はこの話を伝説として、誰も信じようとしませんでした。
しかし、ミノス王はもはや伝説ではなく、実在の存在となり、壮麗な王宮の遺跡からヨーロッパ最古の文明の中心地を見ることが出来ます。

 ホメロスは、クレタ島を「葡萄酒の様に濃い大洋の最中、周囲に水を回らした美しい豊かな島」と讃えていますが、その中に建てられた、壮大な王宮には数多くの通廊や中庭、真っ暗な回廊、大小幾多の小部屋、そしてそれらを取り巻く通路、階段が点在しこの場所を間違う事なく通る事が出来るなら、当に奇跡と言える程でした。
現在、王宮の大部分は復元され、この為にエヴァンスは私財25万ポンド(当時2億2千万円)を投じたと云われています。
クレタ文化の特徴を示す、下部の細い円柱、部屋、テラスが幾重にも連なり、宮殿の壁面には牛の角、牛と闘牛士、グリフォン、庭を散策する貴公子、宝石と花に彩られた少女等の壁画が、色彩鮮やかに再現されています。

続く・・・

2011/04/07

人類の軌跡その58:現実と神話の狭間②

<クレタ島のミノス宮殿2>

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 毎年、毎年アテナイの若い男女が命を失って行く中、終にアイゲウス王の一人息子、テセウス王子が生贄となる順番が巡って来ました。
テセウス王子は、クレタ島に着くとミノス王の御前に引き出されます。
その時、ミノス王の傍に居た栗色の髪をした、アリアドネ姫がテセウス王子を見初め、何とかしてミノタウロスの餌食に成る事から助けたいと思い、彼に密かに短剣と糸玉を渡します。
「テセウスは土牢に入るにあたり、密かに糸玉の端を戸口に止め、糸を引きつつ内に入りぬ。ラビュリントスの最奥にミノテウロスの姿を見出し、隠し持てる短剣にて怪物の首を突き刺し、糸玉を手繰り戻り、迷宮を抜け出し、アリアドネ姫を伴い、島を逃れ、アテナイに戻りぬ」

◎神話から現実へ

 以上のお話は、ギリシア神話のお話として有名ですが、後世の人々は此れを荒唐無稽のものとしていました。
しかし、ギリシアの人々は古くからこの話を真実とし、アテナイではテセウス王子を第一の勇者と称え、物語や詩歌に詠われ、大理石や青銅の像と成り、しばしば陶磁器の絵柄と成りました。

 19世紀、啓蒙の時代、批判的な歴史家が隆盛するに従い、伝説を史実と見なさない事が科学的な考え方であるとする風潮が一般的と成り伝説は単なる空想的産物に過ぎないと考える様に成りました。
この時代の風潮に相対したのが、ドイツの富豪で探検家のハインリッヒ・シュリーマン(1820年~1890年)で、彼は幼少の頃から、ホメロスの「イリアス」と「オデッセイア」について、事実を詠ったものであると信じ、トロイの発掘を決意し、実行し、成功を修めます。
幼い時代、想像をかきたてたアガメムノンの城壁に内に在った武具、黄金装飾品を発掘し、ホメロスの「黄金のミケナイ」が真実で或る事を世に示しました。
そして、ミケナイ、ティリンス、オルコメノス等、ギリシア黎明期の文明を明らかにすると供に、これ等文明の源を成しているのが、クレタ文明であると考え、シュリーマン自身もクノッソスの発掘を計画し、現地調査迄行いましたが、実現する事無く世を去ります。

続く・・・

2011/04/06

人類の軌跡その57:現実と神話の狭間①

<クレタ島のミノス宮殿1>

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◎神話の世界

 エジプトとギリシアの中間、地中海とエーゲ海が接する処にクレタ島(ギリシア領)が在ります。
地中海で4番目に大きな島で、エーゲ海文明の中心地として繁栄し、首都クノッソスにはミノス王の宮殿が在り、数多くの伝説が生まれた処でも在ります。

 ミノス王は聡明な統治者であり、その強力な海軍力は地中海世界を席捲し、首都クノッソスは当時人口8万人を要し、当時地中海世界最大の都市でした。
ミノス王には、アンドロゲオスとアドリアネの二人の子供が居り、アンドロゲオス王子は成人に達する頃、国一番の競技者と成り、当時競技の盛んなアテナイに出かけて競技に加わり、ギリシア本土の選手を皆負かしてしまいます。
この事は当時、アテナイを支配したアイゲウス王に伝わり、王はその事実を大変悔しがり、帰国途中のアンドロゲオス王子を殺害してしまいました。

 この事件は、ミノス王を激怒させると供に、その大艦隊はアテナイを攻略し、更に9年の間、毎年12人の貴族出身の若い男女を貢物として、クノッソスに献上する様に命じました。
この男女は、この世で最も残酷な運命が待ち受けているのでした。

 伝説によれば、ミノス王の妃パーシファエは性行に飽く事を知らず、終には己が欲望を満たす為、職人の長ダイダロスを説き伏せて牝牛の形を作らせ、その中に妃が身を潜めて、牡牛と交わったと云います。
かくして生まれたのが、ミノタウロスと云う半身牡牛、半身人間の怪物で、ミノス王は之を恥じ、ダイダロスに命じて造らせた宮殿の真下の地下室、迷宮に閉じ込めたのでした。
迷宮は、多くの通路、階段、部屋、袋小路を伴い、一度この中に入った者は、二度と再び地上に出る事は不可能で、アテナイから貢物として、毎年送られた12人は、この迷宮の中でミノタウロスの餌食と成って行きました。

続く・・・
2011/04/05

人類の軌跡その56:清朝の黄昏③

<西太后と戊戌の政変2>

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 しかし、袁世凱は皇帝の密旨を受けると、そのまま西太后の下へ走り、直ちに西太后は、勅令は発し、皇帝派を一斉拘束、処刑してしまいます。
光緒帝も幽閉の身と成り、西太后は三度、摂政の地位に就き、この後の皇帝は正しく、名前ばかりの皇帝で在り、全ての政令は、西太后から発せられました。

 光緒34年(1908年)、明治41年、前年秋から光緒帝の病が伝えられていましたが、西太后も又、大病の床に臥し、既に74歳の高齢と成っており、もし、西太后に万一の事が有れば、皇帝の親政が復活するのでしょうか?
この時迄、西太后の側近として、権力を謳歌して来た官僚達の運命は、如何なる事になるのでしょう?

 病床の西太后は、最後のそして重大な決定を下します。
1909年11月13日、皇太子として当時3歳の愛新覚羅・溥儀が指名を受けます。
光緒帝にも実子が無く、其処で、皇弟の醇親王の子を立てるという次第でした。
溥儀は、宮中に入り、醇親王は摂政王たるべき事も命じられたその翌日、光緒帝は崩御、更に翌日には、西太后も逝去し立て続けの悲報が、宮中を震撼させました。
今回の皇帝崩御に際しても、殺害の風説が宮中に渦巻きます。

 溥儀が清朝最後の皇帝、宣統帝で在り、後に大日本帝国の傀儡国家、満州国初代皇帝に成った事は、現在でも良く知られています。
溥儀の回顧録に以下の様な一節が有ります。
「光緒帝は崩御する前日迄、体調良く元気であった。処が、薬を一服飲んだとたん、症状が一変したと云う。その薬は、袁世凱がよこした物だった」。
「病気は、普通の感冒だった。宮中の人々は、皇帝の容態が重いとの知らせを聞いた時、皆不思議に思った。更に不思議な事に、容態が重いと知らされてから、4時間と経たない間に、崩御の知らせを聞いた」。
以上 “我が半生 上巻”より

 薄幸の皇帝、光緒帝は、本当に病に倒れたのでしょうか?
或は、同治帝や東太后と同様に、西太后の手に掛かってしまったのでしょうか?
しかし、この頃、清朝の命脈も当に尽き様としており、1912年2月、宣統帝は退位し、此処に清朝は事実上滅亡しますが、その水面下で暗躍した人物が、軍閥の巨頭袁世凱で在り、清朝の国務総理大臣と成りながら、一方では、国民党と手を結び、清朝打倒の後には、中華民国政府の初代大統領に就任する事と成ります。

続く・・・
2011/04/04

人類の軌跡その55:清朝の黄昏②

<西太后と戊戌の政変1>

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 1875年1月(明治8年)、清朝の同治帝は、20歳の若さで崩御、子供も無く、死亡原因は、天然痘と発表されたものの、様々な風説が飛び交います。
先帝である、咸豊帝が1861年に崩御した際、皇后(東太后)には実子が無く、そこで妃の子供である同治帝が即位したのですが、其の時、同治帝僅かに6歳、東太后と西太后が供に並んで摂政と成りました。

 東太后は、大人しい女性で、政治上の野心も無い一方、西太后は、才気有る女傑で、この様な人物が並び立てば、権力は自ずと、西太后に集まるのは、成り行きです。
しかし、同治帝の皇后は、東太后の推挙した女性で在り、西太后は、同治帝が皇后と仲睦まじくする事を好みませんでした。
やがては、実子たる同治帝さえも、うとんじる様に成りました。

 その様な空気の中、皇帝は崩御、懐妊中の皇后は自害、良からぬ噂が飛び交っても其れは、致し方の無い事です。
皇帝崩御の当日、西太后は、宮中に人を集め、次なる皇帝を決めてしまいます。
その人物が、光緒帝で、西太后の妹の子で、年齢僅かに5歳、再び両太后が摂政する事が同時に定められました。

 其れから6年後、東太后は急死。
この時も毒殺との風説が、宮中に湧き上がったものの、真偽の程は定かではなく、権力は西太后の一身に集まりました。

 光緒13年(1887年)、皇帝も成年に達し、西太后の摂政を止め親政する旨が、公表されます。
しかし、西太后の権力は、衰える処を知らず、光緒帝自身も重要な政務には、その都度、西太后の指示を仰がなければ成りませんでした。
その上、皇后も西太后の姪を押付けられる形になり、青年皇帝の不満は、増える一方でした。
やがて、西太后やその側近に反対する勢力は、自ずと光緒帝の下に集まり、太后派と皇帝派の権力闘争は、次第に表面化して来ます。

 その爆発が、戊戌の政変(1898年)で、光緒帝は少壮の官僚を当用して、諸政策の刷新を断行します。
親政が現実に開始されたのですが、勿論、西太后や旧保守派の側近達の反動は、日増しに激しさを増して行きます。
終に皇帝派は、最後の手段として、軍閥の首領たる袁世凱を味方に引き入れ、西太后派を打倒すると供に、西太后本人を政権の座から、永久に隔離しようと考えました。

続く・・・

2011/04/03

人類の軌跡その54:清朝の黄昏①

<南京の陶塔と太平天国の乱>

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 中国南京の中華門外、雨花台の北側の三国時代、呉代(3世紀)に建立された、報国寺が在ります。
中国全省480寺の名刹としても、名高い古寺として有名です。
この寺の境内に在った「陶塔」は、その名の通り陶器で造られた塔で、この塔を遠距離から望むと、日光に映えて眼も眩むばかりだったと伝られています。
残念な事に1850年の太平天国の乱に遭遇し、原型を留めぬ迄に破壊され、現在は僅かな遺構が残るに過ぎません。

この「太平天国の乱」は、清朝末期に於いて、大きな意味を持つ反乱でした。

◎太平天国の乱・滅満興漢

 1851年,清末期に発生した大規模な反乱であり、洪秀全を天王とし,キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって主導されました。
南京条約締結以降,銀価騰貴と税金の増加により困窮化した貧農層が、洪秀全を支持し広西省金田村で挙兵し、中国初の革命政権「太平天国」を建国したのでした。
南京を攻略して首都と定め、天京と改称、洪秀全は天王として君臨しましたが、変革の不徹底と内紛激化により弱体化し、1864年に清朝側に立ったフレデリック・タウンゼント・ウォード、チャールズ・ゴードン等の指揮するアメリカ、イギリス義勇軍を主力とした軍隊によって鎮圧されました。

この反乱の特徴として

Ⅰ首領の洪秀全は広東省花県の客家出身である事。
Ⅱ西欧宗教であるキリスト教が関係している事。
Ⅲ華南地方を支配下に置き,南京を首都にした事。
Ⅳ最後は列強の軍隊によって鎮圧された事。
Ⅴこの乱の背景に急激な人口増加があった事。

 近代以降の中国の革命や反乱は、その殆どが華南で発生する傾向があり、南京が拠点となる事は、後の辛亥革命も同様なのです。
そして,最大の要因となる事象に、革命の成否が外国の意思により決定されている事であり、若し太平天国の乱が列強諸国に寛容であり、さらに西洋文明に寛容で在ったなら、清朝はより早い段階でその歴史を閉じていたと思われます。
更にもう一つの側面として,清朝末期に中国全土の人口が、急激に増加し、其の為食糧不足が乱の主因と成りました。
尚、この乱によって,膨大な犠牲者が発生したと云われますが、この様な人口増加と内乱、多数の犠牲者というパターンは,近代以降の中国史で繰り返し見られる傾向です。

続く・・・
2011/04/02

人類の軌跡その53:現代に伝わる建造物⑫

<ピサの斜塔>

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 イタリアのピサの斜塔は、ピサ市に在るキリスト教大聖堂の一部です。
大聖堂は、中世都市国家のピサが1063年、パレルモ沖海戦で、サラセン艦隊に大勝した事を記念して着工、1118年に完成しました。
その後も1世紀半に渡り、増築・改築が繰り返されたものの、統一感は見事です。
8階建ての斜塔は、建設中の1173年~1350年に土台の片方が地面にめり込み傾きましたが、計算の結果、そのまま完成させても倒壊する心配が無い為、建築が続行されました。
高さ59m、直径17mのこの斜塔は塔として、又建造物として特色のある建造物では在りませんが、傾斜したが故に有名に成りました。
ピサの寺院は、この斜塔に礼拝堂(1153年~1278年)とカンポサント(14世紀)が在り、これ等のものが組み合わされて、大聖堂を形成しています。

◎ガレリオ・ガリレイ

 トスカナ大公国のピサ大学でガリレオが担当したのは、ユークリッド幾何学とプトレマイオスの天文学書の翻訳作業でした。
ガリレオは、数学教師の立場から、理論的或いは実際的な天文学を教える事は無かった筈です。
理論的な天文学は、哲学者がアリストテレスの著作に基づいて講義しており、ガリレオの範疇では有りませんでした。

 この頃、ガリレオが真剣に取り組んでいたのは、力学であり、運動、特に自由落下の問題に関する分野で、重さの異なるふたつの物体の落下速度について考察を巡らしていました。
ガリレオの有名な逸話に「ピサの斜塔の実験」が在ります。
斜塔の最上階から重さの違う二つの重りを落下させ、どちらが先に接地するかを実験した、と伝えられる有名なお話なのですが、ガリレオが実際にこの実験を行ったと云う資料は見つかっていません。
思考実験としては考えていた様子は在るのですが、実際の実験は行っていないと思われます。
この様に、伝説が存在するのもガリレオの偉大さを示していると言えるのではないでしょうか?

続く・・・
2011/04/01

人類の軌跡その52:現代に伝わる建造物⑪

<聖ソフィア寺院2>

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◎寺院の変遷

 嘗て、フランスの一歴史家が、十字軍に従軍しビザンチウムを通過した折、聖ソフィア寺院を見て以下の様に記述しています。
「之は美のパラダイスであり、神の栄光の冠である。其れは天に迄達し、地上の驚異である」と。

 しかし、当時最も文明の進んだ、偉大な都市ビザンチウムにも運命の日が訪れました。
預言者マホメットの教えを信奉するトルコやアラブの国々は、キリスト教の本山と云うべきビザンチウムを嫉み、奪取する事を考えたのでした。
 
 1453年、イスラム勢力の台頭により、東ローマ帝国が滅亡し、首都ビザンチウムと聖ソフィア寺院もイスラム勢力の手中と成りました。
彼らは、寺院を破壊する事はせず、モスクに改修したのでした。
キリスト教を表わす物は、建造物とその周辺から尽く排除され、聖人の肖像画の描かれた天井には、コーランの一節が記され、銀の祭壇や真珠の装飾も取り除かれ、ドームの頂上に在った十字架は、イスラム教のシンボルである三日月に交換され、更に寺院の四隅にはミナレット(尖塔)が加えられました。

 聖ソフィア寺院は、一時期イスラム勢力によって、イスラム教の寺院として存在しましたが、その後トルコに革命が起こりスルタン制から共和制に移行すると供に、イスラムの僧侶は寺院から追放されます。
現在、トルコ共和国は、聖ソフィア寺院を博物館として維持管理し、イスラム風の絨毯、祭壇、装飾は撤去され、コーランの詩句も削られて、ユスチニアヌス1世時代のキリスト教風の装飾に変更されてその姿を残しています。

続く・・・