2011/05/31

人類の軌跡その112:歴史に残る財宝探索①

<ナポレオンの財宝その1>

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◎始めに

 昭和27年(1952年)の年末、アフリカ南部の大西洋に浮かぶセント・ヘレナ島で、遺構の修築工事が開始されました。
ナポレオン・ボナパルトが、失意の生涯を終えた島で、島自体はイギリス領ですが、ナポレオンが晩年を終えた建物はだけは、フランスの所有で、その建物が長年の風雨と白蟻に侵食された為、フランス政府がイギリス人建築家バシル・ハート氏にその修築を依頼したのでした。

 遺構の修築と言う、現在なら良く伝えられる事柄なのですが、別の観点からこの作業を注目した人々が、存在したのも事実です。

 昭和36年(1961年)11月、旧ソビエト連邦の青年共産同盟機関紙「コムソモリスカヤ・プラウダ」が、モスクワ・スモレンスク間に位置する、ストヤーチエ湖についての報告書を掲載しました。
同湖の銀含有率が、通常の湖水の100倍に達し、又水底調査の結果、湖底に“伝導性の高い硬い物体”が存在している事が判明しました。

 ナポレオンの遺構の修築工事と、ソビエト領内の湖水の銀含有量調査結果が、どの様な関係にあるのでしょうか?
つまり、遺構修築工事において、ナポレオンがロシア遠征のおり、ロシア領内から略奪した貴金属品の埋蔵場所を印す何かが発見されるのでないか?と期待された上、上述のソビエトの新聞発表が余りにも符合するのです。

 このお話が、事実なのか、虚構なのかは判りませんが、2世紀近くを経過しても尚、存在し続ける歴史の謎なのです。
一代の英雄偉人には、まず必ずと言って良い程、財宝伝説がまといつきます。
其れは、英雄偉人その人に抱く尊敬や懐かしさの念の変形であり、一攫千金の夢の仮託なのでしょう。
しかし、“ナポレオンの財宝”に関する限り、其れは明らかに「史実」と云われています。

続く・・・
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2011/05/30

人類の軌跡その111:歴史と女性⑳

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメ番外編>

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◎余談

 マルティニク島生まれのフランス女性エイメが、海賊に囚われ、オスマン・トルコ帝国の後宮に送られ、後のトルコ皇帝の妃に成った様に、この時期よりも少し早く、アイルランド出身の女性が、アフリカの首長の妃に成った事が在りました。

 アイルランドの南部、コーク州エメラルド生まれの女性、マリー・ソンプスンは、同島の出身で、スペインのカディスで商人として成功した一人の男性から、墓参の為に帰国した折、見初められて結婚の申し出を受けました。
彼女は、暫し考える時間を求め、男性は後ろ髪を引かれる思いで、スペインに帰国する事にしました。

 マリーは熟慮を重ねた末、男性の申し出を受入れる事を決め、単身、カディスに向う事としスペイン行きの船に乗り込みました。
天気はよく晴れ渡り、波も静かで、彼女の前途を祝福するかの様に思える程、順調に航海も進み、船旅の終盤、間も無く目的地に着くと思われた時、突如、バルバリア海賊船の襲撃を受け、彼女は捕らえられ、モロッコの奴隷市場に送られました。
彼女の美貌を伝えるニュースは、メクネス(モロッコ)の宮廷の主、シディ・マホメッドの下にも伝えられていました。
宮廷の主は早速、大金を投じて、彼女を自分の物とし、その美貌に見せられて妃とします。
かくて、マリーは首長と王座を分ける事30年(1760年~1790年)に及び、その懸命さと、慈悲深さにより、臣民から敬愛されました。

 その頃、エイメは既にトルコ皇妃として、イスタンブールの宮廷の奥深く、ベールに包まれていたのでした。

終わり・・・
2011/05/29

人類の軌跡その110:歴史と女性⑲

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその11>

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◎英雄の末路

 ナポレオンは、ロシア皇帝アレクサンドル一世と講和を望みましたが、ロシア皇帝は、侵略軍がフランス本国から全く孤立し、飢餓と寒さの為、急激に消耗しつつある事を知っていたので、最後まで講和を拒否します。
ナポレオンのモスクワ撤退の物語は、世界史に残る、最も凄まじく、最も悲惨な出来事の一つとして、永遠に語り継がれる事に成りました。
(第二次世界大戦に於ける、ドイツ軍のスターリングラード(現:ヴォルゴグラード)の敗退も、ナポレオンの逸れに匹敵しますが)
ナポレオンは、ロシア軍の姦計に翻弄され、命からがら逃げるより、他に道は残されていませんでした。

 厳しいロシアの冬に襲われ、全身傷つき、飢餓に瀕した10万人の敗残部隊は、食料、援軍、弾薬もそれら一切が補給される望みは無く、10月19日、モスクワを退却しました。
その内7万人は、未だロシア軍が退路を閉塞している地点にすら到達しない間に、寒気と飢餓で倒れて行きました。
ベレジナ河では、ロシア軍の激しい砲撃の中、強行渡河を試み、更に犠牲者は増えていきます。
敵陣を突破し得たナポレオンと敗残部隊は、僅かな人員に過ぎず、ナポレオン自身も危うく捕虜となる処でした。

 エイメは見事に復習を遂げたのでした。

 エイメ自身は、最後迄、自分の素性を明らかにせず、彼女の事を知っていたのは、ハミット一世とマフムト二世だけかも知れません。
従姉妹のジョセフィーヌにさえ、彼女の境遇を知らせた痕跡は無く、二人の間に私信の遣り取りが、行われた事も無かったと思われます。
エイメは、なぜ自分の境遇を従姉妹にすら、秘密にしていたのでしょう?
ジョセフィーヌの注目さえ、避ける事が、エイメの意識的な終始変わらぬ考え方でした。
彼女は、常に人目を避け、ベールの陰に隠れ、大臣、外国使節の一人にさえ姿を見せず、政府の干渉も、国民からの尊敬、時には敵意さえうける事無く、マフムト二世に忠告を与え、自由に支配する事が出来たのでした。
之には、エイメ自身が、宮廷内部でも外部でも、殆ど誰にも知られる事が無く、一般の人々が近寄る事の出来ない地位に居り、そして、一見幽閉されたような境遇に置かれた事に、その力が根ざしていたのでした。

続く・・・
2011/05/28

人類の軌跡その109:歴史と女性⑱

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその10>

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               死の行軍・スモレンスク街道

◎モスクワ遠征の失敗④

 ナポレオンは、この恐るべき報告を聞いた途端、困惑と絶望の色を浮かべ、黙然とその場に座り込んだと云われています。
この報告は、彼の前途に対する、死刑宣告に等しいものでしたが、あれ程迄に信頼していたオスマン・トルコ帝国が、なぜその方針を転換したのか、彼はジョセフィーヌの離婚と、従姉妹エイメの心情を推し量る事など、到底出来ませんでした。

 エイメが、この重大な一国の向背に、決定的な役割を演じた事を証明する文書は、フランス、ロシア、トルコの何れにも残されてはいません。
彼女がジョセフィーヌの報復の為、ロシア側に寝返った話は、推測に過ぎませんが、歴史の上で今まで対抗関係に在ったトルコが、その時敗色濃いロシアと急転直下、講和する理由を見つける事が出来ないのです。

 エイメは、ベールの陰に隠れ、密かに行動を起こしましたが、其の為彼女は、一層効果的な役割を演じたのでした。
彼女は如何なる公職にも就く事なく、只、息子を擁護するのみでしたが、その息子・・・オスマン・トルコ帝国第30代皇帝 マフムト二世・・・を通じて、トルコ帝国を我が物とし、政治外交軍事一切を支配していました。

続く・・・
2011/05/27

人類の軌跡その108:歴史と女性⑰

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその9>

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             ボロディノの戦い(ロシア軍騎兵隊)

◎モスクワ遠征の失敗③

 食料を絶たれたフランス兵は、病気や飢えの為、毎日多数が命を失いましたが、ナポレオンは凍土の地を奥深く前進し、パリから東方へ2560km(鹿児島県鹿児島中央駅から本州を経由し、北海道函館本線小沢駅に達する距離)の、モスクワを一望できる場所に到達した時、60万人の大部隊は15万人程度にまで減少していました。
しかもその間にトルコ帝国との講和により、移動可能となった5万人のロシア精鋭部隊は、ナポレオン軍の伸びきった補給路線を中央から、遮断する為に強行軍を続けて北上していたのでした。

 ナポレオンが残存部隊を引き連れて、モスクワに進駐した時、街の中は殆ども抜けの空で、僅かの残っている人間は、動かすことの出来ない、病人、負傷者だけで、当時30万の市民は、食料、牛馬、馬車、更に芸術品や貴重な品々を移動可能なものは全てを伴って退却した後であり、間髪をいれず、市内十数か所から、一世に火の手が上がり、モスクワは三日三晩燃え続け、四日目に降りだした雨の為に漸く鎮火したものの、市内の7割は灰燼に帰しました。
ロシア人による、焦土作戦の成果でした。

 9月30日、一つの報告が、ナポレオンの本営に壊滅的な報告をもたらします。
ルーマニアで、トルコ軍と交戦していると信じていた、ロシア軍5万人が、モスクワの西方640kmの地点に到達し、フランス軍の補給線を遮断、ベレジナ河の西岸に陣地を構築し、退路を絶たれた事を知ったのでした。

続く・・・

2011/05/26

人類の軌跡その107:歴史と女性⑯

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその8>

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                 ナポレオン軍モスクワ入城

◎モスクワ遠征の失敗②

 1812年、帝政ロシアはトルコ帝国との戦いを交えており、軍隊の大部分をトルコ領土内に進駐させていました。
ナポレオンはこの事実を良く考慮した上で、同年5月、好期を得たとして、モスクワ遠征を開始したのでした。
ナポレオンは、この作戦の為に歴史上に於いて、最大かつ最も装備された、60万人を超える大部隊をもって、モスクワ攻略に向いました。
フランスは、ナポレオンの賭けとも言える作戦に、あらゆる資源を総動員し、投入します。
しかし、ナポレオンにとってこの作戦は、賭けでもなく、十分な勝算が有っての事であり、この大軍を止める軍隊がヨーロッパ大陸に存在しない事を知っていたのです。
ロシア陸軍の主力は、遥か南方に展開していたので、彼はトルコ帝国皇帝マフムト二世に対し、ロシア軍に対する一層激しい陽動作戦を展開する事を条件に、巨額の反対給付を提供する事を申し出ます。

 之に対してマフムト二世は、一切の約束をせず、ナポレオン軍がドレスデンを出発し、ロシア国境に向った日、トルコ皇帝は、あらゆる情報からロシア軍が、崩壊寸前に陥っているとの確証を握っているにも係わらず、ロシア皇帝と秘密講和条約に調印し、その要求に従ったのでした。
この条約の為に、訓練された5万人のロシア精鋭部隊は、後退の自由を得て、直ちにフランス軍の補給線を遮断する為に、北方へ移動を開始しました。

 この情報は、ナポレオンには察知されず、彼の軍隊は更にロシア領内深く進攻して行きます。
最も、彼は全くロシア軍の抵抗を受けない訳ではなく、フランス軍の侵攻を阻止しようとするロシア軍の間には、砲火を交え数万人の戦死者をだしていました。
ナポレオン軍は損害を顧みず、ロシアの防衛軍を押し返しながら進軍を続けました。
ロシア軍は退却の際、焦土作戦を展開し、残された食料や家屋に火を放ち、少しでも侵略者の利益になる物資を尽く破壊していきました。

続く・・・

2011/05/25

人類の軌跡その106:歴史と女性⑮

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその7>

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                帝政ロシア軍砲兵部隊

◎モスクワ遠征の失敗①

 その時、突然パリから劇的な知らせが・・・トルコ宮廷を180度急転回させる知らせがもたらされました。
皇帝ナポレオン一世が皇后ジョセフィーヌを離婚したのです。
理由は、ジョセフィーヌが容貌の衰えを恐れ、ナポレオンの後継者である実子を産もうとしなかったとの事ですが、この時既に、ナポレオン一世はオーストリア皇女マリー・ルイズとの政略結婚を画策していたのでした。

 この一報を聞いたエイメの目は険しく成りました。
「そんな不条理な事を!そんな恩知らずな事を!しかも愛する貞節な婦人の対してこの様な、仕打ちをするとは。この報いはきっとナポレオンに受けさせてやる。」
之まで、エイメは彼の栄誉をそのまま我が栄誉と思うほど、秘密の同盟者をもって任じてきましたが、其れも終わりの時が来たのでした。
彼女は直ちに其れまでのフランス同盟主義を捨てて、今迄彼の為に成るように尽くしてきた努力を、今日以後は、彼の為に成らない様に努力し、従姉妹ジョセフィーヌの為に報復する事でした。

 そして、エイメは侮辱されてのが、彼女自身であったとしても、とてもこれ以上の方法で計画的に返報は不可能であると思われる方法で、ナポレオン皇帝に当たったのでした。
その時期の来るまで、すなわち1812年・・・おそらく1814年迄の近代史上、最も多彩な年・・・迄彼女は3年待ちました。
彼女はナポレオンに思い知らせる日が、間近で在る事を感じ取っていました。

続く・・・

2011/05/24

人類の軌跡その105:歴史と女性⑭

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその6>

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         露土戦争・カルスの包囲(Wikipediaより)

◎オスマン・トルコ皇妃③

 皇帝マフムトの母親エイメに対する感情には、母への愛情以上のものが在りました。
其れは正しく崇拝と言うに相応しいもので、エイメは若きマフムトの賢明にして、献身的な相談相手でした。
そして、23歳の若さでトルコ皇帝になったマフムトは、彼女を実質的な摂生として、国政の一切を委任する結果と成りました。

 トルコ政府の実際の頭であるエイメが、生粋のフランス人であり、彼女の愛する従姉妹ジョセフィーヌが、フランス皇帝ナポレオン一世の皇后に成っていたので、フランス対残余のヨーロッパ諸国との戦争に於いても、トルコは全力を上げてフランス側に組します。
フランス軍将校はトルコ軍を訓練する為に派遣され、フランス海軍将兵は、トルコ海軍艦艇に配備され、フランスの砲兵は、イギリス艦隊をイスタンブールから駆逐したのでした。

 フランスの流行、フランスの学校、フランス語がトルコ人の間に風びし、ナポレオン一世自身も、このトルコのフランス一辺倒には驚いたに違い在りません。(現在でも、トルコ共和国において、最も普及している外国語はフランス語です)
イギリスは完全にトルコ帝国領内から、閉め出された格好に成りました。
誰も、トルコ女性のベールを被り、後宮のカーテンの後ろで物静かに控えめに座っているエイメ・・・トルコ皇帝マフムドの生母が、生粋のフランス人・・・祖国フランスを愛するフランス婦人・・・であり、長く異教の地に在りながら、ジョセフィーヌやマルティニク島を夢見ている人物で在る事に、気づきませんでした。
この状況は、1809年迄続き、エイメは46歳に、そして皇帝マフムトは24歳に成っていました。

続く・・・
2011/05/23

人類の軌跡その104:歴史と女性⑬

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその5>

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◎オスマン・トルコ皇妃②

 一方、エイメはイスタンブールに在って、トルコ皇帝の皇妃として、それ以上に身辺多事の日々を送っていました。
皇位継承問題の中、彼女とハミット一世との間に誕生したマフムトは、第三皇子にあたり、トルコ後宮では、当然の成り行きと思われる、マフムトに対する命がけの陰謀が企てられていました。

 異母兄弟の長男セリム、次男ムスタファは共に宿敵となり、その母親達は、一層の敵意を燃やし、隙あらば、相手の子供を毒殺し、政敵側の勢力を失墜させようと画策していました。
しかし、エイメは三人の母親の内で、最も機知に富み、息子の身辺に迫る敵の魔手を最後迄防ぎおおせます。

 1789年、皇帝アブドル・ハミット一世は逝去し、正当な後継者である、第一皇子のセリムが即位しました。
しかし、第二皇子ムスタファの母親は、決して野心を捨てず、執拗に廷臣達を操り、1807年、終にセリムを退位に持ち込みムスタファを皇位に就ける事に成功します。

 この事態にセリム派の怒りを買い、彼らはムスタファを殺害し、セリムを復位させる為、宮殿を強襲しますが、その強固な扉は硬く閉ざされます。
ムスタファ派は刺客を放ち、セリムだけでなく、エイメの息子のマフムト皇子をも亡き者にしようと図ります。
この計画が成功すれば、後継者問題も一機に解決される筈でした。
刺客達は、セリムの殺害に成功しますが、マフムトはその時、煙突に登り、屋根伝いに逃れ、やがてマフムトの警護隊が駆けつけて彼を助け、一方ムスタファとその母親一味は逮捕され、処刑されました。
ムスタファが皇位に就いた期間は、1年に過ぎず、マフムト皇子は、オスマン・トルコ帝国第30代皇帝の位に就き、(母エイメと共に)インド洋からアドリア海に跨る、大帝国を統治する事に成りました。
終にエイメは、「壮大にして華麗な宮殿で、権力を振るう」事と成ったのです。

続く・・・

2011/05/22

人類の軌跡その103:歴史と女性⑫

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその4>

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◎オスマン・トルコ皇妃①

 オスマン・トルコ宮廷のハレムに伴われたエイメは、此処でトルコ皇帝アブドル・ハミット一世(1774年~1789年)の心を捕らえました。
ハレムには、既にギリシア、アルメニア、サルカシア(コーカサス南西部1829年ロシア帝国に併合)の女性達が、数えきれぬ程居ましたが、その殆どは、無教育な女奴隷に過ぎませんでしたが、エイメは違っていました。
高等教育を受け、読み書きが出来る事、教養が有り文明社会から来た彼女は、事実、何百と居るハレムの女性内で、容貌ばかりではなく、最も知性に溢れていました。
エイメは、皇帝ハミット一世の寵愛を一身に集め、やがて金髪の皇子を産みました。

 エイメは、ハレムに入ると共に、其処からの脱出も、マルティニク島への帰還も、ジョセフィーヌとの再会の希望をも、全て捨て去ります。
事実、トルコ帝国のハレムに入った女性で、今だ嘗て自由の身に成った者は、皆無でした。
其処で彼女は後半生を「壮大で壮麗な宮殿」に住み、「出来得る限りの権力を振るう身と成る」事を決意します。
其れは、幼い日、占い師が予言した事そのものでした。

 この間に、従姉妹のジョセフィーヌも幾つかの冒険をしていました。
彼女は1779年ボ-アルネ-子爵に嫁ぎ、二児をもうけましたが、フランス革命の際、夫は断頭台の露と消え、革命後、彼女は美貌と才知をもって、パリ社交界の花形となり、1795年3月、ナポレオン・ボナパルトと云う、コルシカ生まれの精力的な英才に富んだ三歳と歳下の青年将校と結婚しました。
やがて、ボナパルト婦人の人生は、変化に富むものと成り、彼女の夫はフランスの為に、次々と軍事上の勝利をおさめ、彼女はその妻として、同様の栄誉を受ける身と成りました。

続く・・・
2011/05/21

人類の軌跡その102:歴史と女性⑪

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその3>

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◎受難

 二人の少女は、自らがこの様な波乱万丈の運命になると言われても、全く本気にする事なく、笑いに興じて聞き捨てました。
しかし、占い師の予言は、エイメの場合、この後彼女に起こる様ざまな事柄の半分も、表現していませんでした。

 エイメは13歳に成った時、母国ナントの修道院学校で教育を受ける為、故郷のマルティニク島を後にしました。
その後勃発した英仏戦争は、彼女の帰国を妨げ、8年の歳月が流れていきました。
1784年、漸く戦争も終結し、故郷に帰る事に成ったエイメは、芳紀正に21歳、青みがかった金髪と、黒い瞳を持つ、美しい女性に成長していました。
しかし、エイメはその時も、それから後も、終に再び故郷の土を踏む事は在りませんでした。
彼女を乗せて、マルティニク島に向った船は、歴史上屈指の勇猛果敢さで名を馳せた、アルジェリアのバルバリア海賊船の襲撃を受けます。
彼等は、地中海沿岸、大西洋東部を襲い、又非武装の民間商船を略奪し、その全てを虜にしていたのでした。

 今回、拉致された人々の中で、エイメは一際目立つ存在でした。
多年に渡り、フランスで身に着けた、深い教養は異常な魅力となって、その動作に現れます。
海賊の頭目は、彼女を滅多に見る事の出来ない「上玉」と眼を付け、アルジェリアの太守に引渡しました。

 彼女の体験は、之で終わりに成る事は無く、アルジェリアの太守は、エイメを一目見て、自分の傍に置くには恐れ多いと考えて、自分の主君であり、財政と武器の援助を受けていたオスマン・トルコ皇帝の下へ送る事にします。
当時、アルジェリアは、名目上、尚オスマン・トルコ帝国の一部であり、この美しい異教徒を虜として皇帝に献上し、今までの援助に報いるだけでなく、彼女を元手に新たな援助を得ようと考えたのでした。

 エイメは再びバルバリア海賊船に乗せられて、地中海を東に向かい、ギリシアを過ぎ、エーゲ海に入り、トロイの遺跡を遠くに眺めながら、ダーダネルス海峡を通り、ボスポラス海峡の岸に建つ、首都イスタンブールに運ばれていきました。

続く・・・
2011/05/20

人類の軌跡その101:歴史と女性⑩

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその2>

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                皇后ジョセフィーヌ
  
◎生い立ち

 この女性の存在を始めて発見したのは、ニューヨークに在る銀行の副頭取を務めるベンジャミン・A・モートンで、彼は、フランス領西インド諸島のマルティニク島に渡り、この島で生まれ、少女時代を送った、ナポレオン一世の皇后ジョセフィーヌの事跡を追跡調査中、偶然にも彼女の従姉妹エイメの事跡に遭遇し、然もジョセフィーヌの其れよりも、遥かに波乱万丈な物語を発見したのでした。
この調査記録は後に、「ベールをかけた皇后」と題してプトナム書店から刊行されました。

 西インド諸島東部、小アンティル諸島の中にマルティニク島が在ります。
1635年以来のフランス領で、人口約20万人、サトウキビ、バナナ、パイナップル、ココア、コーヒー等の農産物、牛、豚などの畜産物が在りますが、食料的には不足気味で、米、トウモロコシを輸入している現状です。

 1763年、後にフランス皇后となるジョセフィーヌ・タスシェは、マルティニク島のサトウキビ農場主の娘として生まれました。
父親は、フランス守備隊将校として同地に従軍し、除隊後もそのまま同地に留まり、在住のフランス人女性と結婚して、二人の間にジョセフィーヌを得ましたが、二人とも病がもとで、相次いで世を去りました。

 幼くして両親を失ったジョセフィーヌは、同じく同地で農園を営む伯父夫婦のもとに引き取られました。
伯父の家には、ジョセフィーヌより二歳年上のエイメ・ジュビュクが居ました。
エイメはジョセフィーヌの父ジョセフ・タスシェが独身の頃、現地のマイノリティに生ませたとの説も存在しますが、現実は良く判っていません。
この二人の少女は、大変仲が良く、夫妻のヨーロッパ風な厳格な内にも温情溢れた中で成長していきました。

 ジョセフィーヌが10歳の頃、エイメと一緒に、村で評判の占い師を訪問した際、面白半分に自分達の将来を占って貰った事が有りました。
占い師はまず、ジョセフィーヌの左の手の平を見つめていましたが、やがて、「貴女は、二度結婚する事に成りますが、二度目の夫は、この世界を自分の栄誉で満たし、多くの国々を征服します。貴女も一国の皇后よりも高い地位に昇りますが、後に之を失い、嘗てマルティニク島で過ごした、幼い平和な日々を愛しく思う様に成るでしょう」。
占い師のエイメに対する予言は、更に奇怪なものでした。
「海を渡る時、貴女の船は異教徒の海賊に襲われ、貴女は異教国の後宮に送られるが、その国の皇帝は貴女を見初め、皇帝の後継者を産む事になる。その後貴女はその半生を通じて、壮大華麗な宮殿を我が物として、其処で強大な権力をふるう事に成る」と。

続く・・・
2011/05/19

人類の軌跡その100;歴史と女性⑨

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその1>

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                   ボスポラス海峡より望む

◎始めに

 1812年5月、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト(1769年~1821年)は、60万人の大軍を率いて、モスクワ遠征に赴き、同年9月同市を占領したものの、ロシア軍は焦土戦術を展開し、決戦を回避したので、ナポレオン軍はロシアの冬に悩まされ、10月19日モスクワから退却、その大軍を全滅に近い状況に追い遣りました。
この敗退は、ナポレオンの運命を変える一大転機と成ります。

 ナポレオン軍のモスクワ敗退は、ロシアの冬の到来が大きな原因でしたが、この敗北を決定的にした陰に、一人の女性の大きな魔手、報復の手が伸びていた事を見逃しては成りません。
その女性エイメ・ジュビュク・リベリは、一度ナポレオン一世の皇妃となり、やがて離婚の憂き目を見たジョセフィーヌの従姉妹にあたり、「ベールをかけた皇后」(The Velled Empress)として、後のトルコ皇后と成った人物です。

 イスタンブールの観光案内に登場する、一番高い丘の頂上からは、この連綿と続く歴史的は古都の隅々迄見渡す事が出来ます。
1400年前から造営が続いた「教会の母」聖ソフィア教会、更にマホメット二世寺院のドームやミナレットが聳えていますが、そのマホメット寺院の中庭の一角に、殆ど訪れる者もない墓所が存在しています。
その中には、200年を経た、一人の女性が安置されています。

 この墓の主こそ、これから紹介するエイメ・ジュビュク・リベリであり、この女性程数奇な運命を辿った人物は居ないと思われます。
其れは、アラビアン・ナイトの中で語られる如何なる物語よりも波乱に富み、一層空想的な生涯を過ごし、その美貌を持って大帝国を覆し、自分の頭脳で国家を統治し、征服者を屈服させ、世界史の潮流を変えたのでした。
しかも、この女性を一層注目させる存在としたのは、この人物の存在が歴史の陰に隠れ、極めて少数の人物にしか知られていなかった事なのです。

続く・・・

2011/05/18

人類の軌跡その99:歴史と女性⑧

<砂漠の女王ゼノビアその8>

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◎栄華の終焉

 しかし、彼等がローマへ船団を出航させようとしていた時、パルミュラで市民蜂起が起こり、ローマ軍守備隊を殲滅させる事件が発生してしまいます。
将軍は踵を返してパルミュラを攻略し、火と剣で反乱を鎮圧し、砂漠の中に光り輝いたパルミュラに終末が訪れたのでした。

 ローマ帝国に捕えられた、ゼノビアの最後については、諸説が存在します。
一説には、彼女はパルミュラがローマ軍に蹂躙された事を知ると、30日間の間、食を断ち絶命したと云い、別の話では、アウレリアヌス将軍が、凱旋した時、彼女を捕虜として連れ帰り、将軍が市内を凱旋行進する時、宝石で飾られた彼女を黄金の鎖で戦車の後ろに繋ぎ、市中を引き回したとも云われています。
その後のゼノビアについても二つの伝承が存在し、第一は、彼女は砂漠の故郷と消え去った栄華を偲びながら、寂しく、捕囚の内に死んで行ったと云うもの。
第二は、更に散文的で、後に彼女は許され自由人と成り、アウリアヌスはティベル河畔に邸宅を与え、静かな晩年を送ったと云うものですが、最近の研究では、第二説が正しいとの見解が発表されています。   

 現在のパルミュラは、シリアを通過する国営イラク石油会社のパイプラインが、地中海に向けて3本敷設されていますが、その1本はシリア砂漠の中央をパルミュラ、ホムスと進み、バニヤス港に抜けています。 
パルミュラの廃墟は、東西1.5kmに及び、かつて栄華を誇った頃、街の主要道路は、巨大な円柱が1500本以上立ち並んでおり、ローマ侵攻時その多くは倒壊してしまいましたが、それでも尚若干の円柱が現在でも往時を偲ばせています。
ゼノビアの建立した、ヴェール神殿には370本の円柱が用いられ、その栄華を誇りましたが、今日でもその数本が現存し、当時の面影を留めています。
巨大な建造物の装飾や形態は、ローマの影響よりもむしろエジプトの其れの名残を留めています。

 第二次世界大戦以前、シリアにはフランスの委任統治領として、外人部隊が駐留していました。
パルミュラ近郊に駐留した部隊の兵士に因れば、シリア人は日が暮れると決して廃墟に近づく事は有りませんでした。
幾世紀にも渡って、夜が更けると、女王ゼノビアの亡霊が一つコブの駱駝に跨り、大路を闊歩し、彼女は黄金の兜を冠り、腕も顕にマントを風に靡かせながら、道行く人々の黒い瞳を注ぎ、槍を取って彼女に従い、城壁を取り囲むローマ軍を打ち破る手助けをしてくれる様、懇願している様に思えてならず、シリア人はその恐ろしさ故に、夜間、廃墟に近づく事はしないと云う事なのです。
  
終わり・・・
2011/05/17

人類の軌跡その98:歴史と女性⑦

<砂漠の女王ゼノビアその7>

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        <ローマ皇帝アウレリアヌスと捕らえられたゼノビア>

◎パルミュラの盛衰③


 5日目の明け方、東の空が白く成り始めた頃、駱駝の背に跨るゼノビアの勇士が見られました。
彼女は昨夜から一睡もせず、駱駝を進め、その体は綿の様に疲れていたが、寸刻を惜しみ片時もその歩みを止めませんでした。
明け方の光を通し、遥か前方にユーフラテス川の姿が見え始めます。
其処こそ、ゼノビアの目指す終着地であり、対岸には彼女が助けを求めるペルシアが在ります。

 太陽が昇ると3km程先にシュロの並木が見えました。
川の土手に沿って植えられたものです。
目的地は目前ですが、その直ぐ後方200mにはローマ軍の追撃部隊が、急速に近づいて着ます。
もはや一刻の猶予も無く、ゼノビアは全力を振り絞り、疲れきった駱駝に鞭を入れました。
既に追撃部隊の声が近づき、此処で捕らわれては万事休す、何が何でも川迄、行き付かなければ成りません。
ユーフラテス川の岸に着くや否や、駱駝を飛び降り、岸に下りて小船を捜し求めます。
見れば岸から少し離れた場所に、漁夫を乗せた小舟が一艘浮かんでいます。
ゼノビアは在らんばかりの声で、自分たちを乗せてくれる様に頼み、漁夫は舟を巡らし大急ぎで彼女の処に急ぎます。

 ローマ軍追撃隊と漁夫の競争に成りましたが、残念な事にローマ軍の方に軍配が上がってしまいます。
小舟が岸に着いた時、追撃隊の兵士達は土手を乗り越えて岸に下り、ゼノビアの従者を倒すと彼女を捕らえたのでした。
小舟があと1分早く岸に着いていたら、彼女は逃れその後の歴史も変わっていたかも知れません。
パルミユラに篭城し、飢餓に苦しみ、援軍の到着を一日千秋の思いで待ち望んでいた人々も、ゼノビアがローマ軍に捕らえられた事を知ると、総ての希望を失い、城門を開いてローマの軍門に降ったのでした。
アルレリアヌス将軍は、優れた政治家でも在った為、パルミュラの市民には慈悲を足れ、ゼノビアを捕える事で、一般市民を罰する必要は無いと考え、降伏した市民を許し、僅かな守備兵を残すとゼノビアを連れてローマに凱旋しました。

続く・・・
2011/05/16

人類の軌跡その97:歴史と女性⑥

<砂漠の女王ゼノビアその6>

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◎パルミュラの盛衰②

 この様な作戦は、アンチオケでも、ホムスでも試みられ何れも成功しています。
アウレリアヌス将軍の為に敗走したゼノビアは、戦線を縮小し、残存兵力をパルミュラに後退させ、城門を硬く閉ざし、敵に降伏するよりはむしろ死を選ぶ覚悟で、パルミュラを死守する道を選んだのでした。

 アウレリアヌス将軍は、降伏を求め、若し平和の内に城門を開き、街を引き渡すならば、街に危害を加えず、ゼノビアの命も保証しようと申しいれますが、彼女は頑強にこの申し出を拒否しました。
ローマ軍の強烈な包囲攻撃が火蓋を切り、昼夜を分かたぬ猛烈な攻撃には、流石の武勇を持って聞こえたゼノビア軍も、一歩一歩と絶望の淵に追い詰められて行きます。
ゼノビアは、勇敢にも城壁を見回り、兵士達を励ます一方、自ら槍を取ってローマ軍に立ち向かう事もしばしばでした。

 この様なゼノビアの鼓舞激励にも関わらず、守備軍の士気は日一日と衰え、食料も極度に欠乏し、このままでは全員餓死するより他に術の無い処迄、追い詰められ、何処からか援軍の手が差し伸べられない限り、パルミュラの運命は当に風前の灯でした。

 事態を打開する為、彼女は包囲されたパルミュラを脱出し、仇敵ペルシアに救いを求める事にしました。
暗夜、城壁からロープを垂らし、其れに蔦ってローマ軍の野営陣地の真ん中に降り立ち、予ねてより準備した、一つコブの駱駝に跨り、数名の従者を従えて、ローマ軍の最前線を脱出しました。
其れからは、砂漠に光る星の位置を頼りに、東方の国ペルシアに向けて駱駝に鞭を入れたのです。

 ゼノビア一行は、夜間に駱駝で移動し、昼間は谷間に姿を隠して、周囲が暗くなる時間を待ちました。
一行はローマ軍の追撃を恐れ、人家の在る町や村を避け、喉の渇きに苦しめられながら、人目をはばかり夜間の旅を続けたのでした。

続く・・・

2011/05/15

人類の軌跡その96:歴史と女性⑤

<砂漠の女王ゼノビアその5>

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ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス(ウィキペディアより)

◎パルミュラの盛衰①

 しかし、彼女には心の平安を迎える時は無く、ローマ帝国は着々と戦力を整備し、機会を見てパルミュラを攻略し東方世界の覇権を復活させんとしている事を感じていました。
ゼノビア自身も準備を怠ること無く、戦力を増強し、占領地には強固な要塞を設け、来るべきローマ帝国との戦闘に国全体の防御を固めたのでした。

 その日は終に訪れました。
ローマ帝国は、最精鋭の軍団を派兵し、ゼノビア軍を一気に殲滅する事を目的に、そのローマ軍の指揮にあったのは、当時第一の武人としての誉れの高い、アウレリアヌス将軍でした。
将軍の手により、西暦270年エジプトはローマ帝国に奪還され、翌271年愈々アジアにその鉾先を向け、ゼノビアは駱駝騎乗隊を持って、之を迎え撃ちます。

 両軍はアンチオケで対峙し、第二回目の会戦はホムスで行われ、彼女は何時も軍団の先頭に立ち「ダイアナの如く武装し、ヴィーナスの様に輝いて見えた」と云われています。
ゼノビア軍は善戦し、ローマ軍騎兵隊の間中に突入する事も厭わず、勇敢でした。
一方、ローマ軍は姦計を巡らし、軍団を急遽反転させ、ゼノビア軍にはあたかも軍団が敗走しているかの様に思わせ、その追撃に疲れさせる戦法を取りました。
合図と共にローマ軍は再び反転し、ゼノビア軍を蹂躙します。

続く・・・

2011/05/14

人類の軌跡その95:歴史と女性④

<砂漠の女王ゼノビアその4>

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◎東方の女王③

 今やパルミュラは、世にも優れた国王と女王を戴き、近隣にその比を見ぬ程の強国に成りました。
その絶頂にあった時、オディナトウスとその息子の一人が、マエオニウスに暗殺されました。
マエオニウスは、以前国王が狩猟に出かけた折、無礼な行いが有り、罰せられたことを恨み暗殺を企てたのでした。
 気丈なゼノビアは、夫の死をいたずらに嘆く事なく、その意思を継ぎ、自ら絶対君主と成って「東方の女王」を名乗ったのでした。

 新たにシリアの独裁者に成ったゼノビアは、新しく征服する国を探し求め、遥か西方に地味豊かな文化の進んだエジプトが在り、その地は彼女の祖先クレオパトラの国でもありました。
彼女は7万の軍勢の先頭に立ってパルミュラを離れ、オディナトウスが既に平定していたアラビアを超え、シナイ半島のネゲブ砂漠を横断し、エジプトに向かいました。
僅か一度の戦いで勝利を収め、長子のワハブ・アルラートが「王」の称号でエジプト全土を支配しました。

 今やゼノビアに立ち向かう国は、もはや存在しない様に思われました。
彼女は純白の駱駝に跨り、紫色のマントを翻しながら、砂漠を縦横に駆け巡り、戦いにつぐ戦いをもって、勝利を収め、シリア、パレスチナ、バビロニア、アラビア、ペルシア、小アジア、エジプトはかつての遊牧の民ゼノビアの前に膝を屈し、彼女を最高君主として受け入れたのでした。
ローマ帝国は、かつて領有していた領土の大半を、彼女の強靭な褐色の手で奪われ、それもたった一人の女性で此れほどの広い領土を支配した者は無く、その後にも見出す事はできません。

 かくしてパルミュラは、尊敬と富と栄光に満ち、アジアに於けるローマたる事が約束されたかの様に見えました。
新しい宮殿が建ち、寺院や神殿が建立され、城門の内外には東西の富を満載したキャラバンが集まり、ゼノビアの宮殿には東西の優れた芸術家や学者が大勢おとずれ、ゼノビアはこれ等全ての栄華と光輝を一身に集めていました。
黄金の兜を被り、槍を携え、戦車に乗り、大理石で造られた市内を巡視し、市民は我等の女王に心からの賛美を捧げ拍手を送りました。
特に兵士達の間の人望は、非常に高く彼女の姿在る処、賞賛の歓声は絶える事が在りませんでした。

続く・・・
2011/05/13

人類の軌跡その94:歴史と女性③

<砂漠の女王ゼノビアその3>

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◎東方の女王②

 トレベリウス・ポリオは、彼女の美しさについて「肌の色は暗褐色で瞳は黒く、ただならぬ輝きを放ち、顔立ちは神のごとく表情豊かで、人格は挙措優雅で、歯は真珠の様に白く、声は澄み力強かった」と記録しています。
又、「ローマ帝国衰亡史」の著者エドワード・ギボン(1743年~1794年)は「彼女は言葉の知識だけでも、彼女が勤勉な習慣を身につけさせられた事を示し、又彼女が読んだ、ラテン、ギリシアの文学から、将軍達やオディナトウスよりも世界について深い知識を持っていただろう。彼女はロンギノスの指導の基に、ラテン、ギリシアの作家研究を続け、ロンギノスは同時代の哲学者及び古典学者間でも卓越した人物だった」と述べています。
レオナード・コットレルは「彼女はラテン語、ギリシア語、シリア語に加えてエジプト語にも通じていた。多分、彼女はアレクサンドリアで育ったのだろう」と述べ、更に「美しい才女は、数少ないとは言え、居ない事は無いが、優れた騎手で、軍団の先頭に立って遠征し、将兵と寝食を共にし、将軍としてローマの軍勢を破った才女の如きを聞いた事は無く、ゼノビアは正にその通りで、其れも一時はナイル川からユーフラテス川迄の広大な帝国を支配しながらの事だった」とも書き残しています。

 ゼノビアはローマの専横を極度に憎んでいたので、オディナトウスの妻と成ったその日から、夫を助けてパルミュラをローマの圧制から解放する為に、密かに指導的な役割を演じていました。
例えばアラブ兵の訓練に従い、軍事計画に加わり、馬上で幾日も過ごす事を学び、野営に参加し、士官達と食事を共にしました。
間もなくゼノビアは、自らの手で訓練した精鋭を直接指揮する機会に恵まれます。
ペルシア王シャープルがユーフラテス川を越えて侵入し、ローマ辺境守備隊の一軍団を壊滅させ、パルミュラに侵攻する矛先を向けた時、オディナトウスはゼノビアにペルシア軍迎撃を命じたのでした。

 ゼノビアは長年に渡って訓練した精鋭を率い、暗夜に密かに砂漠を行軍し、ペルシア軍の野営地に夜襲を敢行します。
寝込みを襲われたペルシア軍は、戦意を喪失してユーフラテス川を越えて退却させる事に成功し、ゼノビアはパルミュラに凱旋します。
ローマ皇帝ガリエヌスは、オディナトウスの功績を称え、東方総督の称号を与えて是に報い、ローマ東方帝国の支配を彼に委ねました。

続く・・・
2011/05/12

人類の軌跡その93:歴史と女性②

<砂漠の女王ゼノビアその2>

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◎東方の女王

 街に住む彼等は、パルミュラを防護する為に、街の周囲11kmに及ぶ城壁を築き、城門から城門を石造りの円柱に支えられた回廊で結びアーケードを形作りました。
神殿、宮殿もその建築は多くの円柱を用い、その円柱にはどれも優れた彫刻が成され、3世紀中葉、荒涼とした砂漠の中央部に、シュロの葉陰と円柱の回廊に囲まれた、パルミュラの街こそは当時世界に比類ない富み栄えた都市国家であったのです。

 当時、東方世界にその版図を広げつつ在ったローマ帝国は、パルミュラの繁栄を我物にする為、軍団を遠征させ、この豊かなオアシス国家を併合し、帝国の領土に編入しました。
最もパルミュラは、ローマの主権を認めながらも、その独立は放棄しませんでした。
しかも、パルミュラの住民の内には、自由をこよなくするアラブ人が多数を居り、彼等は機会を伺いながら反乱を起こし、ローマ帝国からの束縛を跳ね返そうと考えていたのでした。
時のローマ皇帝ティベリウスから元老の位を授けられ、ローマ帝国の名の下にパルミュラを統治していた、アラブ系の若い貴族オディナトウスもその様な一人で、彼は反乱分子を指導訓練する為に、密かに街を離れ砂漠に来た折、其処で図らずも、ベドゥインの首領ザッパイとその娘ゼノビアに出会ったのです。

 オディナトウスは美貌で気高く、才にたけ、駱駝乗りの名人でもあるゼノビアを一目見て求愛し、父ザッパイの許しを得て彼女を妻としました。
二人は程なく、パルミュラの館に移り住みます。
歴史上、ゼノビアの様に優れた女王に恵まれた国は殆ど無く、彼女は当時18歳に成ったばかりでしたが、美人の多いパルミュラの街でも、一際目立つ存在でした。
黒い瞳の彼女に勝る美しい女性を探す事は困難でしたが、国事に関しても大臣達は彼女の知恵に驚き、将軍達は彼女の勇敢さに舌を巻きました。

続く・・・
2011/05/11

人類の軌跡その92:歴史と女性①

<砂漠の女王ゼノビアその1>

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                   パルミュラを望む

◎パルミュラ①

 「荒野のタドモル」と呼ばれ後にギリシア人によってパルミュラ(パルム→ナツメヤシ→ナツメヤシの都)と改名した街で、シリア砂漠の中央部に位置します。

 3世紀初頭、東部シリアの砂漠にゼノビアと名づけられた、女の子が誕生しました。
父は、アラブのベドゥインの首領ザッパイ、母はクレオパトラの末裔と称される程の美貌を持った、ギリシア女性でした。
彼らの住居は、シュロの葉陰のオアシスに設けられた、駱駝の皮で造った幕舎で、多くの家畜と共に牧草を追う遊牧の民でした。
ゼノビアは子供の頃から、才色とも優れザッパイの部下達も「これ程に美しい少女を見た事が無い」と感心する程で、彼女は父に似て、アラブ人特有の青褐色の肌を持ち、母に似てギリシア風の輝かしい黒い瞳を持っていました。
「その内にきっとクレオパトラの様に美しい娘になる」、母は何時も自慢げに話しをしていたそうです。
しかし、ゼノビアは単に美しいというだけで無く、学問の秀でた才能を見せ、強靭な身体と勇敢さを兼備えていました。
12歳の時には既に、もはや如何なる男達にも負けない程に駱駝を乗りこなし、若くして父ザッパイに変わってベドゥインを率いたのでした。

 その当時、シリア砂漠の中に、際立って有名なオアシスが在りました。
オアシスの名前は、パルミュラと云いシリアの東半分をその勢力化に置き、又この地域はキャラバンの要衝にも辺り、中国の絹、インドの宝石、ペルシアの真珠、アラビアの香料等東方の物資は一旦、パルミュラに集積し、バザールが立ち、ダマスクス(当時の人口200万人)や、ローマをはじめとする裕福な地中海世界へ運ばれて行きました。
大海原に浮かぶ緑の島の様なパルムの都には、ギリシア、アラビア、ユダヤ、シリア等の商人が多数居住し、豪邸を構え、絹、絨毯、ナツメヤシ、多様な穀物、香辛料を蓄える倉庫も多数立ち並んでいたと云います。

続く・・・

2011/05/10

人類の軌跡その91:大航海時代⑳

<太陽の乙女達その7>
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           インティ・ライミ(ペルー共和国 クスコ)


◎太陽の乙女達③


 1533年、ピサロの一隊がクスコに入城した時、身の危険を察した「太陽の乙女達」は、太陽神インティに仕える神官の案内で、神殿からウルバンバ渓谷に逃れ、更に険しい山道を辿ってマチュ・ピチュに至り、下界との一切の交渉を断ち、その生涯をこの町で終えたのだと考えられています。

 伝説は次の様に伝えています。
太陽の乙女達は、年と供にその美しさも衰え、次第に年を重ね、一人又一人と此の世を去って行き、やがては数人を残すのみと成りました。
更に年月は流れ、疲れ、衰え、世を忘れ、世に忘れられ、終に残った二人の内の一人が世を去って行きました。
たった一人に成ったその人は、最後の墓に友を葬ると、既に語る友も無く、廃墟の中にただ一人、遠くの川の囁きを聞きながら、その時を待つばかりでした。

 帝国の最盛期、人口1,100万人を誇ったインカの民も現在その人口は、極めて少数に成っています。
彼らは、嘗ての首都クスコ(現在の人口30万人)で、彼ら本来の言葉であるケチュア語もスペイン語に変わりましたが、そのインカの昔話はケチュア語で、伝承されています。
現在のクスコは、インカ時代の基礎の上にスペイン式の建造物が並ぶ街で、嘗ての黄金で装飾された神殿や王宮は存在しませんが、モロッコのフェス、インドのバラナシ、サウジアラビアのメッカ、イスラエルのエルサレムと同じく、「太陽神の都」であり「聖都」なのです。

 スペイン人は彼らから、全ての物を奪い去って行きました。
土地、自由、富、信仰の対象である太陽さえも。

終わり・・・

2011/05/09

人類の軌跡その90:大航海時代⑲

<太陽の乙女達その6>

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                  マチュ・ピチュ復元イラスト

◎太陽の乙女達②

 其れから400年の歳月が経過し、100人の乙女達の事も伝承の彼方に消え去ろうとしていた頃、1911年、偶然の事から、この伝承が真実として語られる時が、やって来ました。
1911年7月、アメリカ合衆国エール大学考古学教授 ハイラム・ビンガム博士(Dr Hiram Bingham)と同僚のハリー・ワード・フォート(Harry Word Foote)、ウィリアム・G・アービング(Willam G,Erving)と共に、ウルバンバ渓谷のインカ時代の遺跡を調査した際、現地人ガイド、メルコール・アルテガに導かれて、マチュ・ピチュ(老いたる峰の町)を発見しました。

 ガイドは、「或る古い高台」を望見する為に、博士一行を禁断の山の頂上に案内します。
ビンガム博士一行は、道の険しさに、幾度もその希望を棄て様と考えましたが、熱心なガイドに励まされ、ようやく禁断の山の山頂に立つ事が出来ました。
その場所こそ、インカの伝承に在る「天使の建てた町」でした。
町の中央に在る神殿に近い神聖な墓地から、什器備品に混じって173体にも及ぶ遺骨が発掘されましたが、その内150人迄が女性であり、彼女達こそ太陽神インティに仕えた「太陽の乙女達」であると信じられています。

 1533年、ピサロの一隊がクスコに入城した時、身の危険を察した「太陽の乙女達」は、太陽神インティに仕える神官の案内で、神殿からウルバンバ渓谷に逃れ、更に険しい山道を辿ってマチュ・ピチュに至り、下界との一切の交渉を断ち、その生涯をこの町で終えたのだと考えられています。

続く・・・

2011/05/08

人類の軌跡その89:大航海時代⑱

<太陽の乙女達その5>

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◎太陽の乙女達

 しかし、皇帝アタワルパはピサロの命令により、自由の身と成る代わりに、カハマルカの町の広場で、火刑の処せられましたが、インカ人は、皇帝をインカ=太陽神(神)と信じていた為、皇帝がスペイン人に殺されたのは、インカの民を見捨てて逃げ去ったのだと解釈し、反抗を止めてしまいます。

 ピサロの勢力は、先の13人に加え兵士154人、重火器1門、馬27頭でしたが、その戦力は皇帝アタワルパの率いる8万人のインカ軍を完全に凌駕していました。
ピサロを含めた14名の侵略者は、飽くことを知らず、略奪を繰り返して行きましたが、常に飢え、乾き、苦汁を強いられ、少しも状況は変わる事無く、彼らの内で最後まで生き残ったのは、3名に過ぎず、ピサロ本人は、アタワルパの身代金の内、57,000ペソの分け前を受けたものの、故国の土を踏む事は叶いませんでした。

 例えば、レギサーノと云う一騎兵は、戦利品の分け前として、インカ帝国の太陽神をかたどる、黄金品を手に入れましたが、たった一晩の博打ですっかり消えてしまい、以来スペインでは「フェサ・エル・ソル・アンテス・ケ・アマネスカ」(日の出前に太陽を使い果たす)と云う諺が有名に成りました。

 さてこれより先、クスコには一生を太陽神インカに仕える為、上流階級から選抜された清純な乙女達100人から成る「太陽の尼僧院」が存在していました。
ピサロの一隊は、クスコに入場するや、まずこの尼僧院を襲い、彼女達を虜にして隷属させ様と考えましたが、彼等がその場所に到着した時、既に一切の人間は残らず何処かに移動した後でした。
彼女達が、何処に身を隠したのか、全くの秘密とされ、誰も知る者も無く、恐らく太陽神の導きにより、何を逃れたのだろうと伝えられていました。

続く・・・
2011/05/07

人類の軌跡その88:大航海時代⑰

<太陽の乙女達その4>

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◎コンキスタドール②

 ピサロが、現在のペルーの地に上陸し、アンデス山脈を登り始めた時、初めて白人に遭遇したインカの民は、彼らを伝説の白い人ビラコチャと思い、友好的な態度を示しました。
ピサロはこのインカ人の心情を巧みに利用し、インカ帝国第13代皇帝アタワルパ(Atahuallpa)を姦計にかけました。

 時に1533年11月16日、現在のペルー共和国北部に位置する、カハマルカ(Cajamarca)の町でピサロとアタワルパは会見の時を持ちます。
ピサロとビンセント・デ・バルベルデ神父らの随行者は、皇帝アタワルパとの会見に臨み、バルベルデ神父は通訳を通し、スペイン本国への服従とキリスト教への改宗とを要請した文面を読み上げますが、通訳障害の為、アタワルパは神父によるキリスト教の説明に困惑し、使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われています。
アタワルパは、ピサロの使節が提供したキリスト教信仰について更に質問を試みたが、スペイン人達は皇帝の随行者を倒し、皇帝アタワルパを人質として捕らえたのでした。

 後日、皇帝アタワルパは、ピサロ一行がインカ帝国を訪れた本当の理由は、黄金に在ることを知り、今自分が軟禁されている部屋いっぱいの黄金と引き換えに、自由の身とされる事を申し出ます。
アタワルパが軟禁されていた部屋は、幅5.1m、長さ6.6m、高さ2.7mあり、1ヶ月後には、クスコの王宮や神殿、貴族から持ち込まれた黄金で、いっぱいに成りました。

 しかし、皇帝アタワルパはピサロの命令により、自由の身と成る代わりに、カハマルカの町の広場で、火刑の処せられましたが、インカ人は、皇帝をインカ=太陽神(神)と信じていた為、皇帝がスペイン人に殺されたのは、インカの民を見捨てて逃げ去ったのだと解釈し、反抗を止めてしまいます。
 
続く・・・

2011/05/06

人類の軌跡その87:大航海時代⑯

<太陽の乙女達その3>

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◎コンキスタドール

 インカには文字が存在しませんでしたが、彼らは縄の結び目で数を記録する「キープ」と呼ばれる結縄文字を用い、その結び方や色で、意味を表しましたが、この方法を理解する為には、特別に教育を受けた専門家(キープカマヨ)が必要で、その数は限られたものでした。

 インカは、道路、つり橋、灌漑設備、城砦、宮殿、神殿を設計し建造し、鉱物資源である金を用いて、色々な細工物や神像を創り、更にインカ人の崇拝する太陽に見立て、金の持つ光を太陽神の象徴として扱い、神殿には大量の黄金製品を置きました。
スペイン人はこの噂を伝え聞き、黄金を手中に収め様と考え、この事がインカや先のアステカ侵略の大目的でした。

 1531年1月、スペインのコンキスタドール、フランシスコ・ピサロは、三隻の帆船に165名の兵士と27頭の馬を乗せ、パナマを南下しペルーに向う途中、現在のエクアドル沖で遭難し、辛うじて小島に上陸して難を逃れます。
スペイン国王は、直ぐに二隻の帆船を急派し彼らを救助しますが、ピサロの求めたものは、救助ではなく征服への糸口でした。
彼は、海岸の砂の上に剣で一本の線を引くと其れを眺める部下達に言いました。
「諸君!この線の向こう側には、辛苦と空腹、不毛の地と暴風雨、荒廃と死が待ち構えている。しかし、其れを乗り越えたなら、計り知れぬ富を擁した場所が待っている。線のこちら側は、安易と快楽、家庭と貧困が待っている。諸君!祖先を辱しめぬ立派なカスティリア人(スペイン人)と成る最善の道を選べ!私は言う迄も無く南に行く!」
ピサロに続いて、13人の若者が之に従いました。

 本国からの救助船は、ピサロを含めた14名を残し、旅立ちますが、大海原に浮かぶ小さな島には、食料も陸地に渡る舟すら無く、衣類も無ければ、武器も無く、更には之から向うインカに対する知識さえ在りませんでした。
只、インカ帝国に対して、自らが十字軍と成る事であり、ピサロは万難を排して13名の部下と共に海を渡り、インカ帝国攻略に立ち向かいます。

続く・・・

2011/05/05

人類の軌跡その86:大航海時代⑮

<太陽の乙女達その2>

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マチュ・ピチュ

 古代インカ人は、優れた民族で太陽を神と崇め、偉大な文化を築き上げて発展しました。
9世紀初頭、ヨーロッパ全土が暗黒時代の頃、インカ人はアンデス山脈の東側に居住し、標高3,000m余りの高地に、石造りの都市を建設し、この場所を「マチュ・ピチュ(老いたる峰の町)」と名づけました。
 
 町には400戸程の家々や神殿、宮殿も造営され、神殿の祭壇は100トンを越える、一枚岩で造られています。
石材の組立てには、モルタル等の接着剤を用いず、石と石の隙間が殆ど判らない位、巧みに組み上げられ、1,000年以上を経過した現在も、少しの狂いも生じていません。
これ等の石材を採掘した石切り場は、600m下の峡谷の底に在り、その巨大な石材を階段状のテラスを持つ町の頂上に運び上げたのか、又、鉄製品を知らない彼らが、如何なる方法で石材を切断し、組み上げたのか、近代建築史上大きな疑問なのです。
この地に古くから住んでいる、インティヘナの人々は、古代インカ人は「天使の建築家」が作業を援助し、魔法の技術で峡谷を横切り、巨大な石を断崖の頂上まで運んだと云います。

 200年の間、インカ人はマチュ・ピチュに居住しましたが、人口の増加に比例して、食料が不足した為、46km離れたアンデス山脈の西側に位置するクスコ高原に移住します。
スペイン人の記録によれば、12世紀初頭、マンコ・カパックの子シンチ・ロカ(Sinchi Roca)が、その妹ママ・クーラ(Mama Cura)を妻に迎え、当事クスコ渓谷に居住していたケチュア族(Quichua)の統治者と成り、彼もまた両親の様に、もはや神話上の人物では無く、既に歴史上の人物と成っていました。
ロカの孫マイタ・カパック(Mayta Capac、1195年~1230年)の時代と成ると、統治面積は更に広大と成り、更に第9代ハイナ・カパック(Huayna Capac,1438年~1471年)の時代、その領土は北部コロンビアから南はアルゼンチン北部乃至チリに達し、インカ帝国の最盛期を向かえ、人口は1,100万人を数えました。


続く・・・
2011/05/04

人類の軌跡その85:大航海時代⑭

<太陽の乙女達その1>

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                    チチカカ湖

◎太陽の王国

 コロンブスがアメリカ大陸に到達した頃、現在のメキシコから中央アメリカにかけてアステカ王国が、ユカタン半島を中心にマヤ王国が、そして南アメリカのアンデス山脈一帯にはインカ帝国(タワンティン・スーユ)が繁栄し、非常に高度な独自の文明を営んでいました。
インカの起源についての研究は、現在でも進められていますが、未だその成り立ちが確立されておらず、ケチュア族、アイマラ族の古くからの伝承によって、幾つかの説話が知られていますが、勿論歴史的事実として正式に認められている訳では在りません。

 ペルー共和国とボリビア他民族国の国境を跨ぎ、アンデス山脈のアルティプラノ南部に位置するチチカカ湖(神の黄金の鉢)は、全長176km、最大幅46km、面積8,280平方km、標高3,810mに在り、南アメリカ大陸最大の湖であるばかりでなく、世界最高地点に位置する湖なのです。
古来、この湖はインカ人にとって、最も神聖な地域の一つに数えられました。
この天上の湖の中に大小40余りの島が存在していますが、伝説によれば、インカ初代皇帝マンコ・カパック(Manco Capac)とその妻ママ・オクリョが、太陽神の命令でインカの国を建設する為、地上に降臨した際、初めて第一歩を踏み出した場所であり、嘗てこの二つの島は、金と銀で固められていたと云います。
太陽神の子として、国民から尊敬されたインカ皇帝は、この島に宮殿と太陽神の神殿を建立し、黄金の太陽神像を創り、朝夕2回、聖なる湖に捧げものを投じたと伝えられており、現在、島には考古学上重要な遺跡が存在していいます。

 湖畔の土地は、耕作に十分な雨量を確保し、湖水の存在が冬季並びに昼夜の寒暖差を緩和する為、現在も多くのインティヘナが居住し、麦、ジャガイモ、とうもろこしを栽培し、リャマ、羊等を飼育しています。
ヨシの一種トトラ(バルサ)で作られた舟が一般に移動手段として用いられ、更に食料にも成っています。
チチカカ湖では、漁業も行われていますが、固有種は小魚が中心で、日本の援助でニジマスの養殖が行われています。

続く・・・

2011/05/03

人類の軌跡その84:大航海時代⑬

<雨の神の花嫁(チェチェン・イッツア)その6>

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◎ククルカンの墓②

 トンプソンの発見は、聖なる泉の探索に留まらず、或る日の事、彼はククルカンの神殿の頂上にある祠の床を清掃していた際、その真ん中に、滑らかに仕上げられた大きな石蓋が存在する事に気づき、その石蓋を注意深く動かすと、その下に石壁で囲まれた大きな四角い穴が在り、縦穴の3.5m下の床には、長さ4m余りの大蛇がとぐろを巻いていました。

 彼は、大蛇を始末すると、その下から古い二人の人骨を発見し、その人骨の下には、最初と同様な石蓋が在り、その石蓋の下には更に別の縦穴の墓所が存在していました。
この様に同様な発見を繰り返し、5番目の石蓋を取り除くと、岩をくり抜いた階段が現れ、同じく岩を広げた部屋に辿り着きました。
この場所は、神殿の底部に位置するものと考えられました。

 階段とそれに続く部屋には、木灰が沢山詰まっており、可也の時間を費やして之を取り除き、床の上の石蓋に辿り着き、この下には更に大きな穴が開いており、その深さは15mに達し、其処には宝石の詰まった花瓶、真珠の首飾り、腕輪等が無数に散らばっていました。
ここは、位の高い神官の永久の寝室かも知れませんが、マヤ族の伝説に存在する、彼らの大指導者、有翼の蛇をシンボルとした、文化英雄ククルカンの墓所の可能性も在りました。

 トンプソンの発見は、ハワード・カーター(Howard Carter)、カーナヴォン卿(Lord Carnavonn)による1922年11月、王家の谷に於ける、ツタンカーメン王墓の発見とは比べる事は出来ませんが、古代マヤ文明を世界に知らしめた功績は、多大なものと言えるでしょう。

終わり・・・
2011/05/02

人類の軌跡その83:大航海時代⑫

<雨の神の花嫁(チェチェン・イッツア)その5>

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◎ククルカンの墓①

 今迄のお話は、ランダ神父の著作に記された事柄ですが、この記録を信じ、聖なる泉を調査、探検しようと志す者が居ます。
1885年から25年間に渡り、この地方のアメリカ領事を務めた、エドワード・トンプソンは、40年以上をユカタン半島で過ごし、精魂を傾けてマヤ族の遺跡を調査しました。
その長い期間の内に、彼は原住民の仕掛けた、毒ねずみの罠に係り足が不住となり、聖なる泉の調査では水中に潜って耳が不住になり、しかも幾度も風土病に悩まされ続けました。
彼は、チェチェン・イッツアを訪れた時、聖なる泉の伝説を知り、その真偽を確かめ様と考え、友人を口説き落として資金を集め、浚渫機器を揃えスキンダイビングを習得しました。

 トンプソンは聖なる泉の最も有望と予想される位置に、浚渫機を設置し、泉の底を浚い始めました。
最初は、汚泥や木々の枝等が殆どで、この状態が長期間に及び流石に楽観主義者のトンプソンも、自分の考えに誤りが有るのではないかと疑い始めたます。
しかし、ある日の事、浚渫機は香料の塊をすくい上げ、それから数ヶ月の間に、花瓶、香炉、矢尻、槍の穂、斧、金製の盤、玉の飾り等が次々と発見され、花嫁の伝説を裏付ける若い男女の遺骨も発見されました。
トンプソンは潜水服に身を委ね、毎日聖なる泉の底に潜り、調査を続け結果、その発見した黄金の品々は、水鉢と杯、40枚に上る平皿、指輪20個、鈴100個、無数の金塊、金細工300個と膨大な価値のもので、泉の伝説を立証するに十分な発見でした。

続く・・・