2011/06/30

人類の軌跡その137:ミステリー⑲古美術を贋作した名人の失策

<エトルリアの像の親指その3>

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◎マンガンと通気孔

 その次に作られたのが「大戦士」で、一家が完成できた最後の作品です。
リッカルド・リッカルディは、この像が完成する直前に、落馬事故で他界し、像がメトロポリタン美術館に売れた後、一家は仲間割れを起こし、チームとしての共同作業は終わりを告げました。

 メトロポリタン美術館は、3点の像を1933年2月に展示を開始しましたが、多くのイタリア人専門家は偽物の疑いをかけ、1937年に美術館がこれ等3点に関する論文を出版すると、論争は表面化したのでした。

 美術館側が弁明の為の調査を開始したのは、実に22年の歳月が過ぎてからでした。
徹底的な調査の結果、3点の像の上塗りにマンガンが含まれている事が判明し、紀元前800年頃に繁栄したエトルリアでは、マンガンを発色剤として、使用されていませんでした。

 しかし、美術館当局は、まだ詐欺に遭遇したとは信じていませんでした。
決定的な証拠は、1年後、本物のエトルリア古美術を調査した専門家によって発見されました。
エトルリア人は、常に塑像を始めから完成した姿で作り、焼いていました。
従って、炉に入れた時、焼きにムラが出来ない様に、塑像には通気孔を開ける習慣が在ることが、判明したのでした。

 リッカルディ一家は、塑像を部分ごとに焼き上げ、通気孔を作っていなかったので、塑像が巧みな模造品である事を、この失策が証明しました。

 そして、問題に異論の余地の無い決着を付けたのは、像の制作に協力した彫刻師アルフレード・フィオラパティでした。
1961年1月5日、当時75歳の老匠は、ローマのアメリカ大使館に出向き、自分の所業を統べて語り、自分が真実を語っている証拠に、彼は「老戦士」の左親指を提出したのでした。
彼は、仕事の記念品として、其れを保管していたのでした。

終わり・・・
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2011/06/29

人類の軌跡その136:ミステリー⑱古美術を贋作した名人の失策

<エトルリアの像の親指その2> 

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◎「老戦士」の誕生

 一家の手がけた最初の大作は、青銅製の2輪戦車でした。
1908年12月、中部イタリアのオルピエート近くのエトルリア遺跡で、完全な「ピガ(2頭立て戦車)」が発掘されたと云う知らせが、大英帝国博物館に届きました。
2500年間土に埋まっていたと思われ、汚れを洗う作業はリッカルディ一家が行っているとの事でした。

 博物館がピガをフスキーニから購入したと公表したのは、1912年の事でした。
同年、リッカルディ一家は、仕事場をローマの場末からオルビエートに移します。
その後間も無く、ピオが死亡しましたが、一家はすぐに仕事を再開しました。
今回はアルフレード・フィオランパティと云う、腕のよい彫刻士の協力を得て「老戦士」と呼ばれる像を製作しました。
この像は、高さ2m、羽根兜と胸甲、具足を付け胸甲からひざ下までは裸で、右腕と左手の親指が有りませんでした。
右腕については、如何なる姿勢をとらせるかで、製作者の意見が分かれ、結局付けない事にしたのでした。


 「老戦士」は、完成するなり、メトロポリタン美術館に購入され、同美術館は、一家の大作「巨人像頭部」と呼ばれる作品も買い上げました。
この作品は、顎の下から兜の頂上迄、1.4m余りの高さが在り、この作品を見た専門家は、本来の像の高さは7m程度在ったと考えましたが、この2点の買取価格は僅か数百ドルでした。

続く・・・
2011/06/27

人類の軌跡その135:ミステリー⑰古美術を贋作した名人の失策

<エトルリアの像の親指> 

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 古代エトルリア戦士を模ったその粘土塑像は、高さ2m余り、重さは少なくとも500kg近くも在りました。
像に上塗りと着色が施され、周囲の足場がゆっくりと取り外されました。
3人のイタリア人彫刻家達は、後ろへと下がり、作品の出来栄えをほれぼれと眺めていましたが・・・と思うと、彼らはやにわに像を押し倒しまし、砕け散りました。
彼らは次に、破片を拾い集めて、又ひとつひとつと繋ぎ合わせ、やがて、罅と亀裂が無数に走る古代エトルリア像が出現しました。

 この像をニューヨークのメトロポリタン美術館4万ドルで購入しまた。
時に1921年、当時としては、空前の価格でした。

◎専門家を24年間欺く

 美術館が偽造に気づいたのは、それから40年後でした。
偽造は家族ぐるみの仕事で、ピオ・リッカルディとアルフォンソ・リッカルディの兄弟、彼らの3人の息子達の協力で始められました。

 エトルリアはイタリア中部に繁栄した古代文明で、後にローマに征服されますが、その遺品は現在も発見される事があり、博物館や個人収集家の人気も高いものでした。

 「大戦士」の名で有名に成った巨像の偽作を計画したのは、ピオの長男リッカルドで、しかも偽作はこの仕事が最初ではありませんでした。
ローマ在住に古美術商ドメニコ・フスキーニと組んだ彼らの腕には、年季が入っていました。

続く・・・

2011/06/25

人類の軌跡その134:ミステリー⑯名画盗難事件

<モナ・リザ盗難その2>

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              レオナルド・ダヴィンチ

 パリに仕事場を移して3年後、二人組みに新たな3人の仲間が加わりました。
彼らは或るアメリカ人に、ルーブルから「モナ・リザ」を盗み出してやると、持掛けました。
彼らが見せたのは、勿論シュードロンの贋作でしたが、件のアメリカ人は一味をすっかり信用し、一味は最初の仕事が首尾よく成功したことにすっかり自信を持ちました。

 その上、一味は本物の「モナ・リザ」を盗み出そうと決心したのです。
1911年8月21日、この日は月曜日で、美術館は清掃日でした。
バルフィエルノが仲間の引き入れたピンチェンツオ・ペルージャと名乗るイタリア人と二人の共犯者が、清掃員に返送して、前日から倉庫に潜入していました。
ペルージャは「モナ・リザ」を保護するガラス箱を製作した職人で、絵がどの様に掛けられているのかを大変良く知っていました。

 清掃員に変装した3人は、何気ない素振りで、「モナ・リザ」の掛けられている「カレーの間」に入り、そして8kgの絵画を取り外すと、又何気ない素振りで外へ出て行きました。

こうして、盗難事件後の数ヶ月間に、6人もアメリカ人を始めとする好事家が、真筆の「モナ・リザ」と信じて、30万ドルずつの大金を支払ったのでした。

 しかし、名画それ自体は、一味に一文の金を齎す事は在りませんでした。
と言うのは、ペルージャが真筆の「モナ・リザ」を持ち逃げし、1913年11月に、フィレンチェの美術商に持ち込み、美術商は直ちに、警察に通報しました。
ペルージャ一味は逮捕され、真筆の「モナ・リザ」は今も「カレーの間」に掛けられています。

終わり・・・
2011/06/24

人類の軌跡その133:ミステリー⑮名画盗難事件

<モナ・リザ盗難>

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◎世界的傑作が盗まれた日

 少なくとも6人のアメリカ人が、30万ドルずつを支払い、美術史上最高を謳われた傑作を手中に収めたと思い、悦に入っていました。
6人が手に入れた傑作は「モナ・リザ」、1911年の事でした。

 しかしこの「モナ・リザ」は6点とも、贋作界の巨匠イヴ・シュードロンの作品でした。
6人が全員、すんなりと騙されたのは、この年ルーブル美術館から、「マナ・リザ」が盗難に遭い、行方不明に成っていたからなのです。

 1900年から1910年代にかけて、一流の名画詐欺事件が、世界の関心を集めましたが、それらは総て、侯爵を名乗るエドウァルト・デ・バルフィエルノとショードロンの仕業で、ショードロンは絵画修復の職人で、スペインの画家バルトロメ・エステバン・ムリリョの贋作を得意としていました。

 この二人組みはアルゼンチンで開業し、其処でムリリョを撒き散らした後、メキシコに入り、商売の腕を磨いたのです。
彼らの手口は、まず、シュードロンの贋作を本物の絵の額の裏に入れ、お客を画廊に引き込むと、他の客が居ない事を見計らい、素早く裏を改めさせ、客は贋作に裏の特徴を見覚え、購入してから、送られた絵の裏側を見て、客は安心すると云うやり方でした。

 バルフィエルノは又、名画盗難の新聞記事をでっち上げ、切り抜きを好事家に送りつけて、客を釣りました。
これ等の方法で、二人が如何程の稼ぎを上げたのかは、定かでは在りませんが、ともかく二人は、パリに現れたのでした。

 パリでも二人は、同様な手段で商売を初め、今回はルーブル美術館の便箋さえ、使用していました。
偽物の便箋に、名画盗難の極秘情報を記載し、此れを客に送り付けたのでした。

続く・・・
2011/06/23

人類の軌跡その132:ミステリー⑭史上最低

<慎ましい偽札作りその2>

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                アメリカ合衆国連邦財務局

◎無邪気な犯人

 1948年1月、マンハッタンのウエストサイドの空地で遊んでいた7人の子供達が、いろいろなガラクタの中に、亜鉛の印刷原版と30枚程の1ドル紙幣を見つけました。
おもちゃのお札と考えた彼等は、其れを親に見せたところ、親はその札を警察に届け、警察は財務省検察部に通報しました。
3人の捜査官が調査した結果、最近、空地に近いアパートの屋根裏部屋で発生した小火騒ぎの際、消防士がその部屋に在った、印刷機や紙幣を空地に投棄した事が、判明しました。
捜査官が、問題の屋根裏部屋を訪れてみると、紙幣や印刷機、そしてオールド・エイトエイティ本人が居たのです。

 彼の名前は、エドワード・ミューラー。
73歳の男やもめで、青い瞳や、歯の抜けた口元の微笑み、白髪と形の良い口髭からは、どうみても温厚な人当たりの良い、老人にしか見えませんでした。
9年間に渡って偽札を作り続け、彼の慎ましい暮らしの支えに週10枚から12枚の割合で使用したと、彼は愛想よく語りました。
愛妻は1937年に亡くなっていました。
息子と娘は独立し、住居を遠くに移しており、彼自身は、建設工事監督の職を失い、手押し車で街のゴミを拾う仕事をしていました。
自分で食事の用意をし、自分で洗濯を行い、犬を自分で散歩に連れて行く毎日でした。
そして、現金が必要になると、之も自分で作って用意していたのです。

 「作ったのは」と彼は楽しそうに語りました。
「1ドル紙幣だけじゃった。どの店でも1ドル以上使った事はありゃせん。だから、1ドル以上損をした者はおらんよ」と。

 エドワード・ミューラーは自分を善人と信じて疑いませんでしたから、思いやりのある捜査官が、実は自分を逮捕しに来た事を知って本当に驚いたのです。
1948年9月、連邦地方裁判所で彼は罪を認めましたが、高齢を考慮されて、1年の刑期の内4ヶ月を務めた時点で釈放されました。
刑務所に入る前、オールド・エイトエイティは名目的な罰金を1ドル支払いました。
ほんものの1ドル紙幣で。

終わり・・・

2011/06/22

人類の軌跡その131:ミステリー⑭史上最低

<慎ましい偽札作りその1>

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 以前、史上最大の紙幣偽造作戦、ナイス・ドイツがイギリス経済の混乱を図る為、実行したベルンハルト計画(旧称アンドレアス計画)は、国家を挙げて、持てる最高の設備、技術、資金、そして紙幣偽造の前科者に対して、特赦を条件に動員したポンド紙幣偽造を紹介しましたが、今回はその反対、史上最低の紙幣偽造事件です。

◎孤独な老人のささやかな世過ぎ

 通貨偽造を取り締まる、アメリカ財務省の検察部が、1938年11月、奇妙な捜査に着手しました。
ニューヨーク市内の銀行窓口で、1ドル紙幣の偽札が発見されたのです。
更にその1ヵ月間に、合計40ドルの偽1ドル札が出現し、ベテラン捜査官を困惑させました。
   
 高額紙幣を大量に偽造し、市中に流す、欲深な犯人には、検察部も手馴れたものでしたが、1ドル紙幣ばかり、年間通じて585枚、と言う事は1日僅か2ドル足らずの稼ぎで満足する、犯人等今迄に居たでしょうか?

 偽造技術の幼稚さも、謎の一つで安物の紙を使用し、数字や文字は不恰好に捻じ曲がり、ジョージ・ワシントンンの肖像が擦れていました。
おまけに、本来Washingtonであるべき綴りが、Wahsingtonとスペルミス迄されており、一目見れば誰もがふきだす程、馬鹿げた偽物でした。
しかし、ニューヨークの小売商は、紙幣を正確に確認する事は殆ど無く、経験を積んだ銀行の出納係りの手に渡る迄、発見されませんでした。

 事件は検察部ファイルNo880として記録されました。
事件を担当した検察官は、やがて未知の犯人を「オールド・エイトエイティ」と呼びます。
この犯人には、何処か憎めない処が有った為でした。
5年後、オールド・エイトエイティの1ドル札は、2840枚に成りました。
その後も彼は、独自の紙幣を発行し続け、些細なきっかけで逮捕されたのは、捜査開始から9年の歳月が過ぎていました。

続く・・・
2011/06/21

人類の軌跡その130:ミステリー⑬万国博覧会の陰で

<パリ万国博の悪夢その2>

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 馬車を飛び降りると、ロビーに駆け込み、「母の具合はどう?」と彼女は支配人に問いかけました。
支配人は、彼女をまじまじと見つめ、「どなた様の事でございましょうか?お嬢様」。
娘は口ごもりながら、時間が酷くかかった理由を説明しますが・・・。
しかし、「お嬢様、母上の事は何も存じ上げません。あなたはお一人で、お着きに成ったのですから」。

 娘は、半狂乱に成って抗議し、「でも、たった数時間前に、宿帳にサインしたばかりじゃないの!確かめて下さい!」。
支配人は宿帳を開いて、ページに指を走らせました。
中ほどに彼女のサインが在り、しかしすぐ上の、母親が記帳した場所には、別人のサインが書かれていました。
「私と母は、二人ともサインをしたわ!」と娘は言い張り、「母は342号室に入ったわ、今もその部屋に居るはずよ!母にすぐ会わせてちょうだい!」と懇願しました。

 ホテルの支配人は、その部屋にはファランス人が宿泊していると答えましたが、娘は部屋へ向かいました。
342号室には人気は無く、見知らぬ人物の所持品が置かれ、ディープパープルのカーテンも、背もたれの高いソファーも、総て消えうせており、廊下で彼女は、ホテルの医師に出会い、母親の事を尋ねましたが、彼も又、娘に会ったことは無く、ましてその母親を診察した覚えは無いと主張しました。

 娘は、事の次第をイギリス大使館に訴えたものの、大使館側はまともに取り合わず、警察も新聞社も反応は同様で、最後に娘は、精神病尾に隔離されました。

 さて、この奇怪な事件の真相は、娘と母親の出発地がインドであり、当時インドでは、ペストが猛威をふるっていたのでした。
母親を診察した医師は、すぐさまその症状からペストに気づき、この事実が表に出る事は、万国博覧会が台無しになる事を恐れ、事実を隠蔽した結果と思われます。
但し、母親がその後どうなったのか?遺体等の問題等、謎は依然残っています。

終わり・・・

2011/06/20

人類の軌跡その129:ミステリー⑫万国博覧会の陰で

<パリ万国博の悪夢その1>

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 1889年のパリは、折から開催中の万国博覧会で、ごった返し、ホテルは何処も満室でした。
5月の或る日、イギリス人の母娘が、マルセイユからパリに遣って着ました。
インドからの帰途、マルセイユに上陸したのです。
母娘は、パリでも取分け名高いホテルにシングル・ルームを2部屋とりました。

 二人は宿帳にサインを済ませると、部屋に上がっていきました。
母親の部屋は342号室、ディープパープルのベルベットの重々しいカーテン、背もたれの高いソファー、楕円形のマホガニー製のテーブル等、豪華な部屋でした。

 処が、部屋に入るとほとんど同時に、母親は突然発病して、ベッドに伏せてしまいました。
診察を行ったホテル付の医師は、娘を呼んで幾つかの質問をした後、医師はホテルの支配人と部屋の片隅で、なにやら慌ただしく相談をしました。

 医師は娘に指示を与えます。
「母上は重病にかかっておられ、特別の薬が必要なのだが、その薬は、パリのこのホテルから反対側に在る、私の診療所にしか、置いていない。
私は、患者の傍を離れる事ができないので、私の馬車を使って取って来て貰えないだろうか?」

 娘を乗せた馬車は、腹立たしい程のろのろと走り、漸く到着した診療所でも長時間待たされ、帰途も往路と同様苛立たしい速度で走り、彼女が漸く、薬を手にホテルに戻って来た時は、4時間と云う時間が過ぎていました。

続く・・・
2011/06/18

人類の軌跡その128:ミステリー⑪シティーを震撼させた殺人鬼

<切り裂きジャックその4>

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◎謎の死を遂げた容疑者②


 切り裂きジャックの素性に関して、最も説得力のある意見は、作家ダニエル・フォーソンの立てた説の様に思われます。
彼は調査の基礎を、メルビル・マクナフテン卿の調査記録に置きました。
マクナフテン卿は、殺人事件の発生した翌年、スコットランド・ヤードに入り、1903年には犯罪捜査部長に成った人物でした。
彼の調査記録によれば、警察は3人の容疑者に捜査を集中させていました。
ミハエル・オストログという、殺人歴を持つロシア人の医師、コスマンスキという、女嫌いのポーランド系ユダヤ人、そして、モンタギュウー・ジョン・ドルイットという、不良弁護士で、警察はドルイットを犯人と断定していました。

 ドルイットの家系を長年に渡って調査した後、ファーソンもこの意見に賛同しています。
そして、ドルイットの一族も、彼が切り裂きジャックであると考えていたと思われます。
ファーソンの指摘によれば、彼の従兄弟、ライオネル・ドルイット博士は、一番遠い殺人現場からでも歩いて10分の場所にオフィスを構えており、加えて、ドルイットの母親は精神病患者で、ドルイット自身、発狂するのではなかと、恐れていたと云います。

 ドルイットは最後の殺人事件が発生して間も無く、行方不明に成り、7週間後の1888年12月31日、テームズ川に彼の死体が浮かんでいました。
ドルイットは自殺したのか?彼も又殺人者の犠牲に成ったのか?その総てを知っているのは、切り裂きジャックだけなのです。
しかし、切り裂きジャックが誰であるにせよ、その恐ろしい秘密は永遠の闇に葬られました。

終わり・・・

2011/06/17

人類の軌跡その127:ミステリー⑩シティーを震撼させた殺人鬼

<切り裂きジャックその3>

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           自警団の尾行(イラストレイテッド・ロンドンニュース)

◎謎の死を遂げた容疑者①

 25歳のメアリー・ケリーの生前の姿を最後に見たのは、ジョージ・ハッチンと名乗る通りすがりの男でした。
彼女は、彼に一夜の宿の代金を強請り、それからメアリーは鳥打帽を被った、小柄な身なりの良い男性に近づいて行きました。
翌朝、メアリーの惨殺死体が発見されました。

 メアリー・ケリーは切り裂きジャックの最後の犠牲者で、スコットランド・ヤードの刑事達は、以来彼の痕跡を追跡していましたが、決定的な証拠は見つかりませんでした。
やがて関係機関資料は、1992年迄スコットランド・ヤードに保管され公開されない事に成りました。(2011年現在公開された痕跡は無し)

 さて、切り裂きジャックはその痕跡を殆ど残すことなく、殺人を犯す度に、恐怖に騒ぎ立てる群衆の後ろに姿を消しました。
彼が貧困の中で育ったのであれば、外科的医学知識は何処で身につけたのでしょう?
逆に富裕者なら、何故イーストエンドの貧民窟で、目立たずに溶け込めたのでしょう?
そして、当時の外科医の推測では、数々の恐るべき犯行は、最低でも1時間を要したはずですが、何故、人知れず犯行を繰り返す事が出来たのでしょう?
これ等の疑問は、現在も解けておらず、メアリー・ケリー事件の後、数ヶ月にして事件は迷宮入りしてしまいました。

続く・・・

2011/06/16

人類の軌跡その126:ミステリー⑨シティーを震撼させた殺人鬼

<切り裂きジャックその2>

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           スコットランド・ヤード(ロンドン警視庁 旧館)

◎疑心暗鬼

 イーストエンドには、様々な噂が飛び交い、殺人鬼はナイフを、小さな黒い袋に入れているとの噂が、一番に流れ、そのような袋を持っている人間が居ると、決まってヒステリー状態の群集に追い回される事に成りました。
自警団が組織され、街路を徹夜で巡回し、警察が誤認逮捕した人物も、数十人に上る有様でした。

 しかし、切り裂きジャックは何一つ手掛かり残さず、司法医師が推測出来たのは、犯人が左効きで、医学知識の心得が在ると言う事だけでした。

◎警察署長の不可解な命令

 9月30日の夜、切り裂きジャックは更に2人の女性をその犠牲者に加え、そして唯一の手掛りを残して行きました。
その一人、リズ・ストライドは発見当時、未だ生きていました。
その場所から僅かな場所に、ケート・エダウズの哀れな亡骸が放置され、とある建物の入り口に血痕が続き、其処にチョークで書かれた殴り書きが見つかりました。
「ユダヤ人は、故無くして、責められる民族では無い」
この言葉は、切り裂きジャックが、ユダヤ人で、彼をつま弾きにする、社会に復習している事を意味している様でした。
このメッセージの意味は、極めて重要な筈でしたが、当然成すべき調査は実施されず、不可解な事に、警察署長チャールズ・オーエン卿は、文字を消す様に命じたのでした。

 シティーは一夜に2人の連続殺人事件に戦慄し、流言飛語が増大しました。
切り裂きジャックは、頭の狂った医者だ、ロシア帝国の秘密工作員が、スコットランド・ヤードの信頼を失墜させようとしている、この街の悪徳と憎悪する清教徒だ・・・・・等。
切り裂きジャックの実態は男性ではなく、女性で売春婦に狂信的な憎悪を持った人物とも噂されました。
しかし、誰にも、正体を明かすことなく、11月9日、彼は次の殺人を実行しました。

続く・・・
2011/06/15

人類の軌跡その125:ミステリー⑧シティーを震撼させた殺人鬼

<切り裂きジャックその1>

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            タワーブリッジとイーストエンド

◎伝説に残るロンドンの連続殺人魔

 霧の渦巻くロンドンの夜に、5度目立たない小男が出歩き、5度、男は町の女に声を掛けました。
そしてその度、女が死んで行きました。
ジャック・ザ・リッパー(切り裂きジャック)と呼ばれた殺人鬼の手口で、切り殺されて・・・。

 この小男が誰なのか、数十人の探偵がさまざまな推理をしましたが、決定的な解明をした者は居ません。
その残念な犯罪は、発生時点から120年余りを経た現在もなお、不可解で興味の尽きない謎なのです。

◎スラム街

 ビクトリア時代のロンドン・イーストエンドは、イギリスの表玄関の恥部でした。
腐臭を放つ通りの両側に小さな家が犇めき合い、塵に埋まっていました。
あばら家の中では、ぎっしり詰め込まれた住人達が、可能な限り自分の場所を確保しようと争い、戸外では男も女も子供達でさえ、惨めな稼ぎを得る為に血眼に成り、当たり前の様に法律を犯し、唯一の憂さ晴らしは、数ペニーのジンを買うことだけでした。
この貧困と悲惨の坩堝へ、切り裂きジャックが1888年の秋に踏み込み、恐怖とパニックが遣ってきました。

◎恐怖時代の幕開け

 メアリー・アン・ニコルスは、齢42歳を数え、男を引き付ける色香は失せかけ、その晩は安宿に一夜のねぐらを求める代金4ペニーさえ、持ち合わせていませんでした。
有り金全部をジンに費やしてしまい、だから狭い路地で男が一人近づいてきた時、メアリーはベッドでゆっくり手足を伸ばして眠る機会が来たとしか、考えませんでした。

 彼が物陰に彼女を引き寄せた時も、メアリーは別に驚くことは有りませんでした。
2~3m先には、通行人が居たのです。

 何か怪しいと彼女が気づいた時には、手遅れでした。
切り裂きジャックは、彼女の後ろに回り、口を手のひらで塞ぎ、それから、彼は女の咽喉を切り裂いたのです。
1888年8月31日金曜日の早朝、荷馬車の御者がメアリーの哀れな死体の発見者でした。
是が、切り裂きジャックの恐怖の始まりでした。

 其れから、1週間後、彼は次の仕事を行います。
犠牲者は、その後の犠牲者がすべてそうであった様に、売春婦で47歳のアニー・チャップマンでした。
彼女は、切り裂きジャックの魔手に掛かった時、重度の肺結核でしたが、その死体の足元には、彼女の指輪や僅かな所持金がきちんと並べられていました。
彼女の死に様も、痛ましいものでした。

続く・・・
2011/06/14

人類の軌跡その124:ミステリー⑦或る歴史学者の受難

<イズミル行き急行列車その3>

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                 ミケナイの黄金

◎着かなかった手紙

 1959年11月「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」紙上に発見を公表した後、自分に浴びせられた汚名を雪ぐ長い苦しい闘いの期間を通じて、メイラートは2つの失敗を返す返す、悔やまなくては成りませんでした。
彼は事前にトルコ共和国の考古局に、発表計画を通知していましたが、その手紙は配達されませんでした。

 メイラートのスケッチが掲載された記事が、公表されると、当然ながらトルコ当局は激怒します。
宝物は何処にあるのか?何処で発見されたのか?なぜ是まで隠匿されていたのか?当局は返答を要求してきました。
貴重な国家の文化財が失われたとして、関係者はメイラートを責め立てます。
メイラートは、知りうる限りの情報を提供したものの、アンナと名乗る少女と宝物は、忽然と消え失せていました。

◎非難

 宝物の喪失にメイラートが何らかの形で、関与していた証拠は見つかりませんでした。
にもかかわらず、トルコの新聞各紙は、人身攻撃のキャンペーンを展開します。
「宝物は、第一次世界大戦直後、ドラクと云うギリシアの寒村で発見されたと少女が語った」と云うメイラートの話は彼の創作で、事実は謎の少女とイズミルに居た、1950年代に発掘されたのだと。
新聞の憶測記事は、直ぐに否定されましたが、個人攻撃と敵視は続きました。
トルコ公安機関の取調べは終了したものの、メイラートの其れまでの貢献は無視され、それ以後トルコの考古学的遺跡での一切の調査を禁止されてしまいます。

 背後に何かが動いている様子が存在しました。
彼らはメイラートが自分の出世の為に、この話を仕組んだと思わせて、彼の信頼を失墜させようと仕組んだのでしょうか?
メイラートは既に考古学の世界で、世界的な名声を得ており、改めて自己宣伝の策略を弄する必要は在りませんでした。

 では、アンナと名乗る少女は何者なのでしょう?
あの日、列車にメイラートと乗り合わせたのは、全くの偶然ではなく、身に着けた腕輪が考古学者の関心を引かずには置かない事を十分に心得た何者かが、少女を向かい側の席に座らせたのではないのでしょうか?

◎組織の囮

 メイラートは、古美術品の密売グループが仕掛けた、巧妙な罠の餌食に成ったとも、現在では考えられます。
彼らはドラクの財宝を隠し、売却する機会を窺がっていたのではないのでしょうか?

 メイラートの様な名声の高い専門家の鑑定が在れば、闇市場での商品価値は上昇し、当然ながらその値段も急上昇する事を密売グループは、十分知っていました。

 権威有る、「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」紙の記事は、密売グループに取って、品質保証書に匹敵する価値あるものでした。
其れゆえ、宝物は既に世界各国に存在する、コレクターの元に送られてしまったものと思われます。
若しも、この推測が正しいなら、少女アンナと失われた財宝の真相は、永遠に封じられた事に成ります。

終り・・・

2011/06/13

人類の軌跡その123:ミステリー⑥或る歴史学者の受難

<イズミル行き急行列車その2>

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                      トロイ遺跡

◎歴史を書き変える発見

 メイラートにとって、発見の意味は呆然とする程、大きなものでした。
宝物は4500年前、青銅器時代の遺物であり、ギリシアの詩人ホメロスが、叙事詩「イーリアス」に詠った古代都市トロイの近くに、大海上交易都市が栄華を極めた事を立証する、初めての証拠に、自分が行き会った事を彼は知ったのでした。
この都市の発見は、考古学者の永年の悲願でも在りました。

 或る夜遅く、彼は漸く調査を終えて、少女の自宅をあとにしました。
彼が少女とその宝物を見たのは、其れが最後で、発見の鍵を握る少女自身の事について、殆ど何も知らない事にメイラートが気づいたのは、相当後に成ってからでした。
彼女がアメリカ訛りの在る、英語をしゃべっていた事位しか、彼には思い出せませんでした。
住所はカジム・ディレク通り217番地、名前はアンナ・バストラーティと少女は名乗っていました。

 裏づけを一切取らず、彼女の言い分を鵜呑みにしたのが、メイラートの躓きの第一歩で、後にトルコ政府の調査官が調査した処、少女の存在もそして彼が数日を過ごした住所も存在しない事が明白に成りました。

 更に、アンカラのイギリス考古学協会の上司シートン・ロイド教授に報告した時、メイラートは第2の失敗を犯しました。
ロイド教授の助手をしていた彼は、6年前に秘密を発見したが、今迄発見を公表する許可が得られず、伏せていたと嘘を報告したのでした。
彼は4年前に結婚したいたので、他の女性と数日間、一つ屋根の下で暮らした事がゴシップと成り、妻を悩ませたく無いと言う事なのですが、他愛の無い理由からとは言え、嘘を報告した事に変わりは在りませんでした。

続く・・・
2011/06/11

人類の軌跡その122:ミステリー⑤或る歴史学者の受難

<イズミル行き急行列車>

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◎同席の少女

 イスタンブールからの車中で、向かい側の席に乗り合わせた黒髪の少女を、考古学者ジェームス・メイラートは最初全く気に留めていませんでした。
しかし、彼女の腕輪が目に入ると、無関心では居られなく成りました。
腕輪は明らかに数千年の歳月を経た、純金の品でしたが、この腕輪を目に留めた事がメイラートを膨大な宝の山へ、そして誹謗、中傷から身を守る長い闘いへと導く結果と成りました。

 全てはペテンなのか?其れともメイラートの名声を損なおうと企てられた、罠に落ちたのか?何れにせよ、事の発端では、彼は突然現れた幸運に、我目を疑うばかりでした。

 その腕輪を見て無関心で居られる考古学者は、一人として居なかったでしょう。
トルコの田園をゆっくりと走る列車の中で、メイラートは少女に話しかけました。
腕輪は自宅に在る物の一つで、他に在るから見せてあげましょうと答えました。

 エーゲ海に面するイズミル(スルミナ)が近く成った頃、メイラートは期待の余り、正気を失いそうに成りました。
1958年の或る夕べの事、気も漫ろにフェリーとタクシーを乗り継いで少女の家へと急ぎ、其処で彼は衣装棚から取り出される宝物を目の当たりにしたのでした。

 メイラートは仰天しました。
ツタンカーメンの王墓発見に等しい大発見が、目の前に展開されているのです。
写真撮影を少女は断ったものの、スケッチなら構わないと答え、その間、自宅に滞在する事を許したのでした。
当然の様にメイラートは、その申し出に飛びつき、数日間、寝食を忘れて夢のような財宝の調査に没頭しました。
不雑な文様を模写し、象形文字の拓本を取り、あらゆる細部を記録していきました。

続く・・・

2011/06/10

人類の軌跡その121:ミステリー④

<ドレイクの併合宣言その4>

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◎科学の投げた疑問②

 書体と綴りについては、ボルトン博士の支持者達が、否定論者に反論しました。
ドレイクの船には、一人も学者が乗船していなかったのでしょうか?
或いは少なくとも、ローマン書体の手本になる本が一冊も積まれていなかったのでしょうか?
これ程短い文章なら、綴り文字が統一されるのは、むしろ自然であると思われます。

 そして間も無く、別の領土建設趣意書の中でドレイクが”herr”の文字を使用している事が、明らかに成りました。
今や反論できない批判はただ一つ、ドレイクが白い岸と崖の近くに上陸した点に絞られて行きました。
そして、驚くべき報告が齎されたのでした。

 ペリル・シンの発見のニュースが公表されると、一人の人物が名乗りを上げました。
彼はシンの発見から4年前、ラグーナビーチで主人の帰りを待っているとき、暇つぶしに靴の先で地面を蹴っていると、地中から真鍮版が姿を現し、その上の文字を彼は中国語と思ったが、「ドレイク」の署名だけははっきり読む事が出来ました。

 彼は暫くその真鍮版を手元に置いていましたが、数ヶ月前ペリル・シンが板を発見した場所から、然程遠く無い場所に板を投げ捨てました。
その場所は、以前からドレイクの上陸した地点と伝えられる場所で、その最も目立つ地形的特長は、高い白い崖でした。
真鍮版の汚名は、無事に晴れ、ドレイクの不動産権利証書はカリフォルニア大学に納められましたが、イギリス本国は寛大にも、領土権の主張をしていません。

終わり・・・
2011/06/09

人類の軌跡その120:ミステリー③

<ドレイクの併合宣言その3>

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◎科学の投げた疑問

 しかし、攻撃の中心は、失われた文字と書体に集中し、記されている文字は全て、エリザベス朝時代に一般的であった装飾的なチューダー書体よりもむしろ、学者しか使用しなかったローマン書体でした。
更に言葉の綴りが一定せず、ページによって変化する場合の多かった時代の文章にしては、全て揃っている事が疑惑を呼びました。

 しかも16世紀にしばしば使用された古い綴り、例えば“Yngland”(イングランド)”Kyng”(王)“Quene”(女王)と言った単語が全て現代綴りで記されていました。
そして、否定論者達は決定的な部分として、碑文中の”herr”(彼女)の綴りは当時存在しなかったと主張しました。

 ボルトン博士は、加えられたこれ等の批判の全てに反論し、ネイティブアメリカン達は、公式に領土を6月26日迄譲渡しなかったかも知れませんが、航海日誌には「我々の到着したその日に」に告知文書が刻まれたと述べられているのでした。

 更に新たな科学的な分析によって、真鍮版は新しい物ではなく「いく歳月を経て形成された」皮膜で自然に覆われており、窪みの部分に在った植物の花粉は「疑いなく炭化し」ており、この事実は板が相当長い時間、空気中に曝された場合にのみ生じうる現象でした。

続く・・・
2011/06/08

人類の軌跡その119:ミステリー②

<ドレイクの併合宣言その2>

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                    ゴールデン・ハインド号

◎カリフォルニアに降臨した神

 白熱した議論が巻き起こりました。
フランシス・ドレイクが1579年、世界周航の途中カリフォルニアに立ち寄った事は知られています。
南アメリカ南端を回り太平洋を北上した時の事でした。

 現在のカナダ北部で太平洋と大西洋が繋がっている、と古い時代の航海者は信じていました。
伝説の北西航路に向かおうとしていたドレイクは、現在のカリフォルニアのサンフランシスコに近い場所に上陸しました。
一行は現地のネイティブアメリカンの暖かい歓迎を受け、ドレイク達を神の降臨と思い、太平洋岸の彼らの土地をドレイクに提供したのでした。

 航海日誌に拠れば、ドレイクは申し出を礼儀に従って受け入れ、海岸に領有宣言の告知文を掲示し、この国がエリザベス女王の領地と成り、以後ノバ・アルビオンと呼ばれる事を宣言したのでした。

 当然のことながら、学会は大騒動と成り、真鍮版を偽物と決め付けた学者も居ました。
当時の航海日誌にドレイクは、「白い岸と崖」が目印の場所に上陸したと、記録されている事が、論争の中心に成りました。
真鍮版の発見場所には、その様な地形が存在しない上、板に刻まれた日付の信憑性が問題に成り、ドレイクの上陸は6月17日ですが、ネイティブアメリカンは6月26日迄領土を譲らなかったと航海日誌は述べているのです。

 真鍮版を分析した結果、16世紀の物にしては、当時の標準より亜鉛の含有量が多い事が、判りました。
更に板の表面には、大量の炭素が含まれている事が、実験で証明されました。
恰も、火で焼いて古びさせた、模造の骨董品と同様に・・・。

続く・・・

2011/06/07

人類の軌跡その118:ミステリー①

<ドレイクの併合宣言その1>

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               サーフランシス・ドレイク

◎カリフォルニアはイギリス領?

 サンフランシスコに住むペリル・ジンは、1936年の夏、ゴールデンゲイトブリッジの北側の浜辺にピクニックに出掛けました。
何気なく岩を持ち上げると、その下に汚れた古い真鍮版が隠れていました。
彼は車を修理する時に役立つかもしれないと考えて、その板を自宅に持ち帰りました。

◎女王陛下の名に於いて

 彼は板を自宅のガレージに置いたまま、8ヶ月間程忘れていました。
そして1937年の初め、改めて板の存在に気づき、石鹸水で磨いてみると、大きさは縦13cm、横20cm程の板で、底部に凹凸の窪みが在り、表面には線文字が刻まれ、微かに「ドレイク」の文字は判読出来ました。

 この真鍮版の発見が、アメリカ史研究家や冶金学者、中世英語学者を巻き込む国際的な騒動に発展したのでした。
板に刻まれていたのは、フランシス・ドレイク(1540年~1596年)による1579年のカリフォルニア併合宣言だったからです。

 ペリル・シンは板をカリフォルニア大学のハーバート・ボルトン教授に送り、博士は慎重に汚れを取り除き、その全文を解読しました。

1579年6月17日、本証書により全人民に告ぐ。
神の恩寵と、イングランド女王エリザベス陛下及びその後継者の名に於いて、余はこの王国の領有を宣告する。
ノバ・アルビオンと余が命名し、あまねくこの名で呼ばれるべきこの国は、今後女王陛下に属し、おの王と人民は全地域に於ける権利と資格を自発的に陛下に貢納するもの也。   フランシス・ドレイク


 カリフォルニア歴史学会の席上、唖然とする会員達にボルトン博士は、意気揚々と報告します。
「357年間の喪失から蘇えったドレイクの板だ!この真鍮版こそ、カリフォルニア最大の考古学的遺産だ!」

続く・・・

2011/06/06

人類の軌跡その117:歴史に残る財宝探索⑥

<琥珀の間の行方その2>

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                 泥の海 ロシア戦線

◎琥珀の間の歴史

 エカテリーナ宮殿の踏み込んだドイツ軍が、最初に目をつけたのは、“琥珀の間”でした。
此処は、55㎡に及ぶ室内の壁面全体が、精巧な琥珀の彫刻によって埋められており、部屋そのものが財宝で有り、美術品でした。
琥珀の間に使用された琥珀の総重量は6トン、約10万個に及ぶが、エカテリーナ2世が祝典応接室の名目で1770年に完成させた。

 本来は、1700年代の初め、プロシアのヴィルヘルム一世が自分の書斎として造営を命じ、後にロシアのピョトール大帝に献上した、歴史的宝物で、大帝の没後は、エカテリーナ宮殿の一室に移設されていました。
エカテリーナ2世はこの部屋をこよなく愛し、自らの許しがなければ入室を認めない禁断の部屋でした。
ドイツ軍は“琥珀の間”をそっくり取り外して、他の貴重品と共に、遥かは離れた東プロイセンのケーニヒスベルグ(現:カリーニングラード)へ移送してしまいます。
この作業を指揮したのは、ナチス幹部のエーリッヒ・コッホでした。
独ソ戦終結後、ソビエト共産党は、この為の国家調査委員会まで設置し、関係者に対する懸命な追求を行ったものの“琥珀の間”が一端ケーニヒスベルグの美術館に、隠匿されたところ迄は解明できましたが、其処から先の情報を得る事が出来ませんでした。

 最大のキーパーソンであると思われた、同美術館の館長 ロード博士が、ソビエト国家調査委員会の厳しい尋問のも屈せず、突如、その婦人と共に死体となって発見される事件迄発生しました。

 そして、もう一人の証人、ナチス幹部のエーリッヒ・コッホは、潜伏先のポーランドで逮捕され、重要戦争犯罪人として、死刑宣告を受け、刑務所に収監されました。
しかし、“琥珀の間”については頑強に口を閉ざし、戦後20年を経過した頃、僅かに「ユダヤ人を使い、市内ボナルト地区に在った教会地下室に収納した。作業後、教会を爆破して地下室を塞ぎ、作業したユダヤ人を全て銃殺した」と伝えられています。
肝心の教会の名前や、所在地に関しては「全く忘れてしまって、思い出せない」との言葉で結ばれていました。

 ケーニヒスベルグは、旧ソビエト連邦領でも、ポーランド国境に接した、バルト海に臨む町で、戦火と戦後の都市復興計画で、町の様相は細部に至る迄変貌しています。
現在でも、この町の何処かに・・・?

◎現在の琥珀の間

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 現在のエカテリーナ宮殿にある琥珀の間は、ロシアが国家を挙げて復元しました。
サンクトペテルブルクに建都300年、ドイツ軍に持ち去られてから62年後の2003年5月の事でした。
復元には24年間の歳月を要し、この式典がフランス、エビアン サミットの前だったこともあり、小泉首相はじめ各国首脳が集まった事はまだ記憶に新しいと思いますが、その際琥珀の間も各国首脳に披露され日本のテレビでも紹介されたのでご覧になった方もいらっしゃるのと思います。
もちろん招待された首脳の中にはシュレーダー独首相も含まれており、確かにドイツによって持ち去られた琥珀の間ですが、復元に際し、大きな資金提供をしたのもドイツなのです。

終わり・・・

2011/06/04

人類の軌跡その116:歴史に残る財宝探索⑤

<琥珀の間の行方・その1>

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           エカテリーナ2世肖像

◎20世紀のロシア遠征

 ドイツ第三帝国が、1939年のポーランド侵攻以来、電撃作戦の名の基に破竹の快進撃と続けた時期、ヨーロッパは当に暗黒の時代でした。
非占領地の人々は、レジスタンスを組織し、抵抗を繰り返しましたが、大きな効果を上げる事は出来ませんでした。
ナチスは、その侵略占領地域の美術工芸品を次々と、ベルリンに移送しました。
“琥珀の間”は、東部戦線の開戦後。ソビエト連邦内に侵攻したドイツ軍よって、ソビエト領外に持ちさられた、当時時価5千万ルーブル(180億円以上:資料が古く現在の時価は不明、昭和48年当時)と見積もられる国家的財宝です。

 ドイツ軍は、レニングラード(現:サンクトペテルブルグ)郊外24kmに位置するプーシキン(旧称:ツァールスコエ・セロ「皇帝の小さな村」現:サンクトペテルブルグ市プーシキン区)に侵攻、ここには、エカテリーナ宮殿が在ります。

 女帝エカテリーナ2世と言えば、帝政ロシア華やかなりし頃、その絶大な権力を誇った皇帝であり、エカテリーナの王冠は、頂上に小さな十字架を立て、高さ27cmのドーム型に金銀、ダイヤモンド、ルビー、真珠等総計実に2858カラットの宝物で構成されています。
又、女帝が身に付けていた、巨大ダイヤ“オルロフ”は196カラットと言う比類無い大きさの宝物は、インドで発見され、1773年にアルメニア商人を通じて、ロシアのオルロフ伯爵の手に渡り、翌年、女帝に献上されました。

 以上2点を含む、諸々の財宝は、何れも現在、クレムリン最高会議場近くの宝物貯蔵庫“オルジェイナヤ・バラータ”に収蔵されていますが、此処には、南ウラルで産出した世界最大の自然金塊“大三角”の他ダイヤモンド“皇帝”等の貴石名玉が収納されています。

続く・・・
2011/06/03

人類の軌跡その115:歴史に残る財宝探索④

<ナポレオンの財宝その4>

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             スモレンスクの戦い

◎黄金の湖

 さて、木箱、大ダルと説は様々ですが、それが分散隠匿されて可能性も充分に在り、その総領は判りません。
その所在地も、ビリノ(リトアニア共和国・ヴィリニュス市)、ロシア共和国スモレンスク・オルシャ(ベラルーシ)間、ボリゾフ近郊と様々ですが、この何れもが、ナポレオン軍のモスクワ遠征軍退却路上に位置する事も確かで、何れかが正しいなら、他は間違いと言う意味では有りません。

 この中で最も可能性が高い場所が、モスクワ・スモレンスクのほぼ中間に位置する付近。
1812年11月2日、クツゾフ将軍の追撃を受けた際、「“財宝”をスモレンスク街道に沿った小さな湖水に沈めた」との通説が最有力候補なのです。

 ナポレオン軍のモスクワ撤退開始は、10月19日、スモレンスク到着は、11月中旬です。
逆算すれば、先之11月2日は、恐らくモスクワ・スモレンスクの中間に位置するロシア共和国ウイジマ市付近と推定されています。

先に記述した、ソビエト政府によって水質、土質調査されたストヤーチエ湖は、ウイジマ市から39kmの場所に位置し、勿論、セント・ヘレナ島の改修工事では、この種の記録は発見されませんでしたが、同湖を基準点と判断するのは無謀な事とは、思えません。

 はたして、同湖水の高濃度銀含有量は、“財宝”の場所を暗示するものでしょうか?
例え、発見された時は、他にも多くの“ナポレオンの財宝”が、現実に隠匿埋蔵されている事の証明にも成ります。
古くから云われる様に、スモレンスク街道は、“黄金の街道”なのでしょうか?

本編終了・・・
2011/06/02

人類の軌跡その114:歴史に残る財宝探索③

<ナポレオンの財宝その3>

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◎史実に残る財宝

 ナポレオンがモスクワ撤退にあたって、膨大な数に及ぶ、美術品、宝石、什器、武具等を略奪したのも、史実に明らかなのです。

 飢えと寒さによって疲弊した軍隊、激しい追撃を行うロシア軍、900kmを越す長い道程、この状況で多量の“財宝”を加える事は到底無理な話で、ナポレオン軍は、略奪した是等を、廃棄若しくは、隠蔽するしかないのでした。
恐らく、敗走時には、フランス士官によって管理運搬されたのでしょうが、やがて“荷物”となり部下の将兵に預けられ、更には“厄介物”としてプロイセン、オーストリア、オランダ、バイエルン、ポーランド等の外国人傭兵にリレーされ、最後は命に替え難いとされ、遺棄乃至隠匿されたと推察する説が大部分なのです。

◎歴代ロシア皇帝による探索

 この様な経過から、ロシアの地の何処かに“財宝”は隠匿される事と成りましたが、この事実が現実のものとして明るみに出たのは、第二次世界大戦終結後、当時のソビエト政府が旧帝政ロシア外務省の未発表資料を公開した時の事でした。

例1
 1815年10月21日付、元プロイセン首相エンゲルハルトより、同国国王宛書簡
1812年3月、エンゲルハルト私邸にロシアから生還したフランス人将校2名が止宿した。その2名の目撃談として、「コブノ市(現:リトアニア共和国カプナス市)郊外の教会付近で、土木作業中のフランス砲兵を見かけた。彼らは財宝を詰めた木箱を地中に埋め隠したが、80万フランに相当する金額であると言っていた」。
同書簡はプロシア国王から、ベルリン駐在ロシア大使を通じて、当時のロシア皇帝に渡されているものの、発掘作業が実際に行われたか否かについては、記録されていません。

例2
 1823年10月付、近衛兵本部副官フリデリクスより、本部宛書簡
「ナポレオン軍に徴兵され、捕虜と成ったドイツ人傭兵の告白により、大ダル4個に分納された財宝の隠匿先が判明した為、その証言に基づき旧ミンスク・ボリゾフ市近郊のベレジナ川流域探索を行った」。
この書簡も結果については、不明ですが、皇帝の特令によって、発見の暁には、その半額が下賜される旨、明記されています。

 この後、侍従武官長ペンケンドルフの指揮の基行われた大捜索(1839年~1840年)迄、歴代皇帝は、度々“ナポレオンの財宝”捜索を実施し、又は半額下賜の夢を追って、ロシアへの入国申請を行う者も多数に上りました。

続く・・・

2011/06/01

人類の軌跡その113:歴史に残る財宝探索②

<ナポレオンの財宝その2>

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◎悲劇のモスクワ撤退

 私達が、ナポレオン・ボナパルトに関して抱くイメージは、戦争、軍隊と云った荒々しい面ですが、一方、国民投票によって皇帝に就任した彼は、カトリック信仰を解禁し、フランス銀行を設置し、初等・中等教育拡充の為学校を大々的に増設し、メートル法を制定し、個人の自由平等を柱とする民法典を作りと云った面は、佳麗な戦闘記録に隠されて、つい見落とされがちです。

 同様にモスクワからの雪の退却についても、もっぱら彼の悲劇的運命のみが強調され、モスクワで“取得した物”については、語られる事は少ないのも事実ですが、“奪われた人々”に取っては、忘れる事は出来ない事も事実なのです。
帝政ロシアに在っては、“ナポレオンの財宝”探索の長い歴史が存在します。

 ナポレオンが、ヨーロッパ各国から徴兵した、大混成遠征軍が、アレクサンドル一世統治下の都モスクワに入城したのは、1812年9月15日、ロシア軍は焦土作戦を展開し、火を放ってモスクワから撤退します。

 缶詰と言う“近代食品”はナポレオンがこの遠征の為に、携行用保存食のアイデアを公募して生まれたものと云われています。
しかし、結果的に食料欠乏が、ナポレオン軍の致命的失策となり、途中の町にもモスクワにも、ロシア軍の撤退した後には、一粒の麦も残されていませんでした。
そして迫り来る“無敵の冬将軍”後年、ナチス・ドイツ機械化部隊を尽く破滅に持ち込んだロシアの冬。
飢えと寒さに追われて、ナポレオン軍は空しく、モスクワから撤退します。
ニーメン川を渡って進軍を開始した時、60万人を数えた遠征軍は、モスクワ撤退時10万人、兵站基地と成ったスモレンスク迄到達した時5万人、ベレジナ川を渡ってロシアの勢力圏を脱した時には、3万人に満たない数でした。

続く・・・