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2011/07/30

人類の軌跡その160:末路②

<ロマノフ家最後の1年その2>

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                   臨時政府閣僚

◎地下室の惨劇

 1918年7月の革命政府発表は世界に、とりわけロマノフ家と血縁関係にあるヨーロッパ王室に衝撃を与えました。
しかし、数ヶ月後更に恐ろしいニュースが伝わり、皇帝一家は全員、1918年7月19日の夜、銃殺隊によって処刑されたと革命政府が発表したのでした。
報告によると、処刑命令はモスクワ(ウラル州革命政府説在り)から届けられ、ユーロフスキーの指揮の下、死刑宣告が成され、一家殺戮の最初の引き金は、彼自らが執行したのでした。

 皇帝一家は、事前に何も知らされず、彼らは階段を下りて地下室へ行き、其処で一列に椅子に座らされ、ユーロフスキーの射撃命令を合図に、一斉射撃が行われました。
彼らが使用した銃は、この非常な任務の為に、特に兵器庫から持ち出した、当時最新の連発銃でした。

 皇帝一家には、宮廷医ボトキン博士、3人の召使が付き添っていました。
彼らは全員、皇帝一家と行動を共にする様、命じられており、射撃が終了した時、床には11人の遺体が転がり、兵士達は、銃剣とライフル銃の台尻で、一人一人その死亡を確認したのです。

 明け方、死体は待機していたトラックに積まれて、エカテリンブルグから23km離れた“四人兄弟鉱山”へ運ばれ、其処でガソリンを撒かれ火葬にされ、焼き尽くされた遺体と、手回り品は硫酸で溶かされ鉱山の廃坑に遺棄されました。

 4日後の7月23日、エカテリンブルグが白軍によって陥落します。
地下室の壁の一部は既に洗い落とされていましたが、部屋にはまだ血痕が残っていました。
しかし、其れが皇帝一家のものであるか否か、当時確認する術は在りませんでした。

続く・・・

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2011/07/29

人類の軌跡その159:末路①

<ロマノフ家最後の1年>

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 嘗て、全ロシアに君臨した皇帝ニコライ・ロマノフは、「数えきれない邪悪な罪」によって処刑された、と1918年7月末、モスクワのボリショビキ革命政府は発表しました。
公式発表に続いて、皇后や皇太子、王女達が秘密の場所に移された事も告げられました。

 しかし革命政府は、処刑報道を一度ならず訂正した為、真相そのものに強い疑惑を残したのです。
皇帝一人が死刑に処されたか否か、歴然とした証拠は歴史家も把握していません。
皇帝と一緒に王家の一族も銃殺されたのか、其れとも一族全員が秘密裏に亡命したのか、当時判然としていなかったのです。

 ニコライ2世は1917年春、ロシア革命で権力の座から追われ、皇后アレクサンドラと5人の子供達(アレクセイ・オリガ・マリア・タチアーナ・アナスタシア)共々セントペテルブルグ郊外のツァールスコエ・セロの宮殿に革命政府によって幽閉されました。

◎白軍の脅威

 1917年8月、皇帝一家は、シベリアの寒村、トボリスクに移送されました。
ここは、辺境の田舎町で、皇帝支持派からの救援は、ほとんど期待できませんでした。
1918年に成ると、皇帝一家は再び、ウラル山脈に近い町、エカテリンブルグの一軒家に移されます。
エカテリンブルグの住民は、革命政府派で皇帝一家に冷たく接しました。
その間、皇帝支持派は、幾度か皇帝奪還を試みたものの、成功しませんでした。

 モスクワの革命政府が、皇帝処刑を決意(現在も諸説在り)したのは、皇帝が自由を得て、白軍の指導者になる危険を恐れた為であったと思われ、その脅威が無ければ、皇帝死亡を公表して事実を隠匿する可能性も考えられます。

続く・・・

2011/07/28

人類の軌跡その158:ミステリー40 歴史の狭間⑫

<二重スパイ マタ・ハリ>近代史上、最も有名な女スパイ。

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 マタ・ハリはダンサーとしての芸名であり、本名はマルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ。
若き日の彼女は、教師を志すが失敗、その後結婚し2児を儲けるも離婚した後、パリに移り住みジャワ島からやって来た舞姫と云う触れ込みで、ダンサーと成り人気を得ました。
又、多くの高級士官或は、政治家を相手とする高級娼婦の一面も在りました。

 当時は第一次世界大戦最中、敵対するフランスとドイツの両国が、彼女の美貌と職業柄、高級士官との接触が取りやすいとの点に目をつけ、スパイの話を持ちかけます。
金銭的な魅力に引き付けられた彼女は、この話を受け入れます。
しかし、結果的に二重スパイ行為は明るみとなり、逮捕の直接要因は、彼女が暗号名H-21なるドイツのスパイと交わした通信が、フランスによって解読された事でした。
フランスに於いて、二重スパイと為り第一次世界大戦で多くのドイツ、及びフランス人兵士を死に至らしめた、との容疑で起訴され、彼女は有罪と成り、銃殺刑に処せられました。
是には、当時戦況が不利に成っていた、フランス側に取って、彼女のスパイ活動を誇大に宣伝する事で、国威発揚に好材料と成った事も又、事実なのです。

 処刑についても様々の逸話が伝えられています。
有名な話しでは、処刑の際、銃殺隊は彼女の美貌に惑わされない様、目隠しをしなければならなかったというものや、処刑前の彼女は毅然とした態度を崩さず、気付けのラム酒は受つけましたが、目隠と処刑の木に縛られる事は拒絶した、と伝えられています。
実際、彼女のスパイ活動の詳細は分かっていませんが、実際の処はフランス・ドイツ両国にとって、単なる情報伝達係りでしかなかったのですが、その魅惑的な美貌から伝説的な女スパイとして造り上げられ後世に名を残したのでしょう。

終わり・・・
2011/07/27

人類の軌跡その157:ミステリー39 歴史の狭間⑪

<ニュルンベルグの孤児その3>

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 アンセルム・リッター・フォン・フォイエルバッハ(ウィキペデアより)
 
◎陰  謀

 1830年3月に家長の大公が亡くなると、大公の相続人の友人であるイギリス人、スタンホープ伯爵がカスパーの後見人を引き受けます。
スタンホープ伯爵は、カスパーの出身はハンガリーで、バーデン大公家とは何の繋がりもないと事有る毎に主張し、彼は執拗に人々の其れまでの意見を変えさせて、カスパーはペテン師であると言わせる様に努めました。
しかし、アンセルム・リッター・フォン・フォイエルバッハは、次に様に断言します。
「カスパーの自由を奪った犯罪は、憎悪や仕返しが目的ではなく、利己的な利益の為に引き起こされたものである。カスパー・ハウザーは高貴な家柄の嫡出子であり、他の者が相続権を奪う為に彼を排除した」

 フォン・フォイエルバッハは1833年に突然世を去り、世間はカスパーの高貴な出身の証拠を発見した為に毒を盛られたのだと噂されましたが、その様な証拠が公表された事は在りませんでした。

 短い生涯において、常にそうであるように、カスパーの死は悲劇と謎に満ちていました。
1833年の或る日の午後、高貴の出生について情報を伝えるとの伝言で、彼はアンスバッハ公園に誘き出され、待っていた人物は、やにわに彼の心臓にナイフを突き立てました。
カスパーは、家迄よろめきながらも辿り着いたものの、3日後に死亡します。

 バーデン大公妃シュテファーニエは、彼の死を知って号泣したと云われています。
彼女は、カスパーの真の母親と噂されており、夫カールは大公家の末子だったので、世継ぎを設け損なうと、相続権はホッホベルク伯爵夫人の子供に移る事に成っていました。

 大公妃シュテファーニエが長子を出産した時、ホッホベルク伯爵夫人が百姓娘の死産児を密かに宮殿に入れ、生まれたての公子カスパー・ハウザーと入れ替えたとの話しが存在しています。
伯爵夫人は、カスパーをヘンネンフォーファー少佐に預け、少佐は子持ちの退役兵に養育させました。
一説には、ヘンネンフォーファー少佐は尋問を受けて、この一件を自白したと云います。

 しかし、カスパー・ハウザーの秘密は決して解明されないのです。
ヘンネンフォーファー少佐が死亡した時、彼の私文書も全て焼却されてしまい、この事件の真相は永久に葬られたと思われます。

終わり・・。
2011/07/26

人類の軌跡その156:ミステリー38 歴史の狭間⑩

<ニュルンベルグの孤児その2>

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◎育てられた環境

 カスパー・ハウザーは直ぐに、途切れ途切れながら会話が出来る様になり、食物はパンと水しか受け付けませんでした。
牢番の妻が入浴させる時も恥ずかしがらず、男女の違いさえ分からない様でした。
この様な状況から、少年には、背後に何か重大な秘密があるに違いない、と牢番は考えました。

 謎の少年は、次第に人々の興味を呼び始め、若いダウマー博士が彼に教育を施した結果、カスパーは終に、彼の驚くべき過去を垣間見せる事が出来る様に成りました。

 カスパー・ハウザーは、ニュルンベルグにやって来る迄、自分が会った人間は一人きりだったと語り、奥行き2m、幅1.2m、高さ僅か1.5mの小部屋で暮らし、腰掛けるか、横になる姿勢しかとれなかった事、毎朝、目が覚めると水差しと一切れのパンが置かれており、水は時々苦い味がして、飲むと眠くなり、其の後起きて見ると、衣服が変わり体も綺麗になっていた事を話しました。

 或る日、一人の男がやって来て、“Kasper Hauser”の綴り方と「私は父の様に軍人になりたいのです」と言う言い方を教え、その後彼は、カスパーを抱えあげて外は連れ出しました。
太陽の光と外気に初めてふれたカスパーは、気を失い、改めて気が付くと、ニュルンベルグの町を彷徨っていたと言う事でした。

 少年に関する関心は、彼が何か特別な存在と考えられた結果、ヨーロッパに広がり、法律家、医師、役人が次々と彼の基を訪ねました。
顔立ちが良く似ていたので、カスパーの名前がバーデン大公家と関係があるのではないかと囁かれましたが、1812年、カスパーが誕生した頃、大公家の直系の世継ぎとなる二人の幼い公子が、突然の死に遭遇していた為でした。

続く・・・
2011/07/25

人類の軌跡その155:ミステリー37 歴史の狭間⑨

<ニュルンベルグの孤児>

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             カスパー・ハウザー像(アンスバッハ)

 1828年のホイットマンディ(復活祭後第7日曜日の翌日)の事、年齢は16歳位の見慣れぬ顔の少年が、ドイツのニュルンベルグの町に姿を現しました。
擦り切れた野良着を身に付けた彼を、誰もが浮浪者か酔っ払いと思った程でした。
少年は“ニュルンベルグ駐留第6騎兵隊内第4中隊長”宛の手紙を所持していました。

 一人の靴職人が少年を、中隊長の家に連れて行きましたが、少年は鸚鵡の様に「私は父の様に、軍人に成りたいのです」を繰り返すばかりでした。
警察署に移された少年は、あらゆる尋問に「知らない」と答え、この少年の精神年齢は、3歳から4歳で止まっている様でしたが、紙と鉛筆を渡されると“Kasper Hauser”と自分の名前を綴る事はできました。

 カスパー・ハウザーは浮浪者に収容所に送られ、所持していた無署名の手紙が検査され、その手紙には次の様な文章が書かれていました。
「隊長閣下、軍務について閣下にお使えしたいと望む少年をお届します。彼は1812年10月7日に、我家の前に捨てられておりました。私はしがない日雇いに過ぎません。家には10人の子供達が居り、我子を育てる事に精一杯でございます。私は其れでも、1812年以来、少年を我家において参りました。・・・彼をお抱え下さるおつもりが無いのでしたら、殺すなり、煙突の上に吊るすなり、ご随意になさって下さい」。

 カスパー・ハウザーは牢番の家に引き取られましたが、少年の体は良く成長しているものの、足の裏は新生児の其れの様に柔らかく、歩こうとすると、漸く立ち上がった赤子の様によろめきました。

続く・・・

2011/07/23

人類の軌跡その154:ミステリー36 歴史の狭間⑧

<ブルボン家の継承者その3>

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                  ルイ17世(?)

◎自称皇太子その2

 そのような中、カール・ウィルヘルム・ナウンドロフが登場します。
彼は、自分が失われた世継ぎで在ると称し、その主張を裏付ける極めて有力な証拠を持っていました。
皇太子の乳母も、ルイ16世の司法官も彼の主張を認め、皇太子の姉は、ナウンドロフが自分の家族に良く似ていると聞かされましたが、彼との面会は強く拒んだのでした。
彼の支持者は、皇女の拒絶をナウンドロフの主張が正しい証拠と見なしました。
皇女は、正統の王位継承者として、叔父のシャルルを推していたからです。

 ナウンドロフの主張で一つ特異な点は、牢番によって救出されたのではない事で、バラス将軍が彼を牢内の別の場所に移し、身代わりの少年を引き入れたとされていました。
そして、身代わりが死亡した日に、皇太子は密かに連れ出されてイタリアを経由したプロイセンに送られ、其処でナウンドロフの名前を改めて付けられたと主張しました。
認知要求を更に押し進める為、彼は民事訴訟を起こしたものの、直ちに逮捕されフランスから、国外追放に成りました。

 9年後、彼はオランダで死亡し、死亡証明書には、“ルイ16世とマリー・アントワネットの子 ルイ・シャルル・ド・ブルボン、享年60歳”と記載されました。
今日尚、ナウンドロフの子孫はフランスの法廷に認知請求を申し立てていますが、彼も又詐欺師で在ったなら、別の推測が成り立ちます。
即ち、本当のルイ・シャルル・ド・ブルボンは人目に立たない市井に暮らし、身元が明らかになる事を好まなかったかも知れません。
革命の時代に在って、王家の相続人である事は危険すぎると、彼が考えたとしても不思議では在りません。

終わり・・・
2011/07/22

人類の軌跡その153:ミステリー35 歴史の狭間⑦

<ブルボン家の継承者その2>

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               リー・テレーズ&ルイ・シャルル

◎自称皇太子

 ポール・バラス将軍の獄舎訪問に続いて起こった出来事が、女性の話しをある程度裏付けたのです。
新しい牢番が、将軍に皇太子は偽者であると告げ、バラス将軍は直ちに、皇太子捜索の手配を下したのでした。

 一方、革命政府の役人も牢を訪れ、少年が皇太子と似ても似つかぬ人物である事を証明する人物も居り、銀行家プチチバルは、皇太子の死亡証明書を偽造であると非難する程でした。
しかし、それから1年も経たない間に、プチチバルは一家皆殺しに成ってしまいます。
バラス将軍は、政府報告書の中でプチチバル家の者は、「諸君等も御承知の例の少年を除いて」全員死んだと述べています。

 この事から、バラス将軍は皇太子探索に成功し、少年がプチチバル家に居た事を将軍の同僚や、一部の高級官僚は知っていたのだと考えられます。

其れならば、獄中で死亡した少年は、誰だったのでしょう?
1846年、遺体の再検分を行った医師は、10歳と云うよりは、15歳から16歳の少年のものである事を証言し、更に1894年に再度司法解剖され、16歳から18歳の年齢の少年と鑑定され、棺の中の遺体は皇太子では在り得ませんでした。

 1815年のナポレオン・ボナパルト失墜と共に、ブルボン王朝は復活しましたが、自称「皇太子」の引きも切らぬ認知要求に悩まされる事と成りました。
勿論、その殆どが一目で分かる、偽者で在った事は、言う迄もありません。

続く・・・

2011/07/21

人類の軌跡その152:ミステリー34 歴史の狭間⑥

<ブルボン家の継承者>

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              マリー・アントワネットと子供達

 フランスの皇族、ブルボン家の正統な継承者が、今も世界の何処かで、富と名声を相続する権利が、自分に有るとも知らず、ひっそりと暮らしているかも知れません。
ルイ16世とマリー・アントワネットの間に生れた皇太子ルイ・シャルルは、1795年に“死亡”したと成されていますが、彼が子孫を残した可能性も有るのです。

 国王夫妻が1793年に処刑された時、ルイ・シャルルは投獄されて、革命政府の処置を待っていましたが、17ヶ月後、彼は10歳で死亡したと発表されました。

 遺体を検証した5人の人物は、皇太子に間違いないと証言しましたが、生前の皇太子を見た人物はその中に存在せず、又一緒に投獄されていた彼の姉は、死亡後の皇太子の顔を見ていません。
葬儀が行われた時、年端の行かない少年を入れるにしては、棺が大きすぎるとして、人々は不思議がりましたが、その後、様々な事柄を繋ぎ合わせてみると、遺体のすり替えが在ったのではないかという、疑惑が発生したのでした。

◎身代わり

 皇太子の牢番を命じられていた夫婦者が、職を離れる時、皇太子は悪戯盛りの9歳でした。
処が、それから7ヶ月後、後にフランスの独裁者と成ったポール・バラス将軍が獄舎を訪れた時、少年は重い病の床に在りました。
少年の健康状態が驚く程に急変した事情を、牢番をしていた女性が20年後、尼僧の前で懺悔したのです。
牢番夫婦が密かに、別の少年を牢へ連れ込んだのでした。
夫婦は職を離れる日に、皇太子と身代わりの少年を入れ替え、その女性は一言最後に付け加えました。
「私の王子様は、死んではいません!」と。

続く・・・

2011/07/20

人類の軌跡その151:ミステリー33 歴史の狭間⑤

<USSメイン号その2>スペイン帝国の終焉とアメリカ膨張政策の始まり

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 爆発は、乗員居住区画の真下で発生し、将校2名と兵士250人は即死し、8名が重症を負い、沈み行く艦から、シグズビー艦長が最後に退艦したのでした。
救出されたシグズビー艦長が最初に打信したのは、完全な調査が完結するまで、軽率な判断を自重する様にアメリカ人に求めた内容でした。
しかし、アメリカ大衆とジャーナリズムは、忽ち怒りを露わにし“リメンバー・メイン”のバッジが飛ぶ様に売れ、新聞は、弱腰のスペインに宣戦布告せよと、連日書きたてました。
2月17日、ハーストの「ジャーナル」紙は、メイン号報道で、発刊以来初めて100万部の大台に乗りました。

 ハーストは報道員をキューバに派遣していましたから、事件の独自調査結果を連日に様に掲載し、ジョゼフ・ピュリッアーの「ワールド」紙はサルベージ船をチャーターし、沈没船調査に潜水夫迄雇いましたが、調査許可は得られませんでした。

「ジャーナル」紙は戦艦メーン号は、何者かが仕掛けた爆破装置により、沈没したと主張し、一方の「ワールド」紙の見出しは、メーン号の爆発原因は爆弾、水雷の疑い在りでした。

 ハースト系新聞は、メーン号爆発に関して、一斉にスペイン非難の論陣を張りましたが、キューバ領事である、リー将軍自身は事故と考えており、アメリカ海軍当局は、積載した石炭の自然発火が原因ではないかと検証しています。
過去にも同様な事故が、他のアメリカ艦艇でも発生していた為ですが、やはり様々な説が唱えられました。
艦が知らずに水雷に接触した、ハバナからの訪問者が爆破装置を石炭庫に仕掛けた、弾薬が正しく保管されていなかった等などです。

スペイン当局は、爆発は内部の事故により発生したと発表するとともに、その主張を立証する為に迅速な調査活動を命じ、事故から1時間後には、早くも目撃者を尋問していました。
2月20日、外部要因を示す様な証拠は発見できないと、スペイン司法当局は宣言し、アメリカ合衆国はスペインの協同調査申し入れを撥ね付け、独自の調査を実施し、3月末、進歩的な一部の雑誌に機雷が原因であると発表しました。

 4月11日、マッキンレー大統領は、キューバへの軍事介入を議会に諮り、2週間後にセオドール・ルーズベルトの言うところの「みごとな小戦争」が始まり、8月12日アメリカの勝利で終わりました。
敗戦の結果、スペインは西半球とフィリピンから撤退を余儀なくされたのでした。

 しかし、戦艦USSメイン号の謎は、其の後深く残り、1911年に船体をハバナの海底から引き揚げ、調査がおこなわれた結果、爆発箇所は別の疑いが提起されましたが、1912年、艦底部の調査が行われる前に、艦は外洋に引き出され、最高の軍事的名誉を込めた、葬礼の内に波間にその姿を没したのでした。

 さて、このアメリカとスペインの戦争は、後のパリ講和会議で決着するのですが、この戦争で交戦機運を煽ったのは、「ワールド」「ジャーナル」の新聞両紙とその系列通信社であり、可也の誇大報道を繰り返しました。
この様な、行為が許されるのか、発行部数を伸ばす為とは云え、甚だ疑問に思う処です。

 又、アメリカの国内問題として、長年の課題であった先住民との戦闘が殆ど終結し、軍部としても新たな矛先を探していたところでした。
(この傾向は、現在迄アメリカに付いて回る気質の様で、フィリピン独立戦争、第一次・第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争と果てしなく続きます)
しかし、この戦争により、「陽の没する事のない帝国」と呼ばれたスペインの影響力は、その支配地域から急速に失われ、産業革命以後の新興国が、その主導権を掌握した時でも在りました。

終わり・・・

2011/07/19

人類の軌跡その150:ミステリー32 歴史の狭間④

<USSメイン号>スペイン帝国の終焉とアメリカ膨張政策の始まり

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注:文中メイン号を戦艦と表記していますが、当時の分類はACR-1:装甲巡洋艦に成ります。

 アメリカ合衆国海軍戦艦USSメイン号は、1898年1月、艦長チャールズ・D・シグズビー指揮の元、フロリダ州キーウェストに停泊し、145km南方のキューバ、アメリカ領事フュイッツヒー・リー将軍から届くであろう“2ドル”の暗号電信を待っていました。
暗号は、スペイン支配に抵抗するキューバ人の革命で、アメリカ人の人命と財産が脅かされ、アメリカ軍の支援が必要になったとの意味でした。

 当時、アメリカ合衆国には、革命介入の口実を得る機会を狙う人物も存在し、激しい新聞報道に煽動されたアメリカ一般大衆は、経済的動機と半官びいきの感情から、キューバの愛国者達に心情的応援を送っていたのです。

 やがて届いたリー将軍からの暗号は、誤報でしたが、アメリカ合衆国大統領ウィリアム・マッキンレーの指示により、メイン号はキューバのハバナへ公式儀礼訪問の為出港し、1月25日ハバナ港に投錨します。
その間、アメリカ海軍は、戦闘用艦艇をキーウェストに集結させ、戦闘準備を整えました。

 キューバ政府からの反アメリカ的意思表示はないまま、数日が経過し、2月9日アメリカとスペインの関係悪化を招く出来事が発生します。
ワシントン駐在のスペイン公使が、キューバの友人に出したスペイン語の私信が盗まれ、その文面が、ウィリアム・ハーストの経営する「ジャーナル」紙に掲載されたのでした。
スペイン公使は、率直な言葉づかいで、マッキンレー大統領を田舎者の弱虫と記しており、戦争状態を回避したい、スペイン本国は、急遽その公使を本国に更迭したのです。

 2月15日午後9時40分、将校26人、兵士328人のメーン号乗員は、艦上で通常の兵役任務を遂行していました。シグズビー艦長は、自室で家族宛の手紙を書き終え様とした当にその時、2度に渡って艦内で爆発が起こり、その衝撃で彼は床に叩きつけられました。
キューバ公使館で、中米スペイン公使の私信について、ワシントンに報告する、至急公文書を書いていたリー将軍は、窓に駆け寄り、火炎に包まれたメイン号が船尾から海中に没する姿を目の当たりしたのでした。

 6682tの戦艦が沈没し、その弾薬が海中で爆発する最中、その場に居合わせたスペイン人船員達は、犠牲者を収容する事に懸命でした。

続く・・・
2011/07/16

北九州の夏祭り:小倉祇園太鼓

いよいよ小倉祇園太鼓ですね!

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 北九州市の小倉を代表する夏祭りである小倉祗園太鼓は、全国的にも珍しい両面打ちを特徴とし、昭和三十三年、福岡県指定無形文化財に指定されました。
小倉祗園太鼓の伝統的な姿は、山車の前後に太鼓を据え、山車を曳きながら打つ姿で、太鼓二台の両面打ちで四人、ジャンガラ二人、計六人というのが、基本的な構成です。
又、装束は、向こう鉢巻に浴衣又は法被、白足袋に草履が基本。
太鼓は面によって音が異なり、低く腹に響く音がする面をドロといい、祇園太鼓のリズムをとり、もう一面はカンといい、高い軽やかな音がし、メロディとなります。

 太鼓の起源は、祇園祭は、鉦(かね)、鼓(つづみ)、笛(ふえ)を用いていたと記録にあり、その叩き方は「能」の形式でした。
「祗園会神事神山次第」に「万治三年(1660年)、囃方清五郎が藩主のお供をして江戸表に上がり、山王神事の囃し方を聞き覚え、小倉に帰国後、子供四人を集め、教授しが始め也」とあり、その頃から今の撥さばきが始まり、今から三百四十年前の事でした。

 現在の形が出来たのは、江戸時代、ご神幸に城下の各町内から、いろいろな趣向を凝らした山車、踊車、人形引車、踊り子などが随従するという豪華なものでしたが、明治時代以降、山車に据えつけた太鼓を叩き、それに調子をとるジャンガラ(摺り鉦)が加わり両面打ちを主体とした祗園へと変化して行きました。

 祗園祭の起こりは無病息災の祈りからで、平安時代、夏になると悪疫が流行したり稲などに害虫がつき、これを悪霊の仕業と考え、この悪霊を慰め退散させる為に神に祈った事を起源とする祭りでした。
旧六月に行われてきた「小倉祗園」は、小倉城を築城した細川忠興が、無病息災を祈るとともに、城下町繁栄のひとつとして、元和三年(1617年)に祗園社(現在の八坂神社)を建て、京都の祗園祭を小倉の地に取り入れたものです。

参考:小倉祇園の歴史
2011/07/15

人類の軌跡その149:ミステリー31 歴史の狭間③

<革命を呼んだネックレスその3>

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◎王妃の激怒

 ド・ロアン枢機卿が見たのは、王妃と同じ背丈と体つきのシルエットだけでしたが、彼が跪いて敬礼すると、彼女は1輪のバラをその手に渡し、身を翻して闇の中に消えました。
枢機卿は狂気しました。
王妃は彼を許したばかりか、明らかに彼を愛してさえいたのでした。
その為、彼女の為にネックレスを買い取って欲しいと云う手紙を受け取った時、彼は喜んで承諾しました。
当然、買い上げは秘密にしなければならず、只一人の仲介人は王妃の信頼する、親友ド・ラ・モット伯爵夫人以外に在りませんでした。

 枢機卿はネックレスを買い、ジャンヌに手渡しました。
ジャンヌの夫は其れを持って、直ぐにロンドンに渡り、その地でネックレスを分解して、宝石商に売り飛ばします。
伯爵は賢明にもイギリスに残りましたが、ジャンヌはパリに住み続け、夫が送って遣した金で、自分の情夫たちを持成したのでした。

 枢機卿が勇気を奮い起こして、何故ネックレスを身に着けられないのかと、王妃に尋ねる迄に6ヶ月の期間を要しました。
当然の事ながら、マリー・アントワネットは激怒します。
事件は議会の知る事と成り、ジャンヌは有罪と成って「ボルーズ(泥棒)」を意味するVの烙印を押され投獄されました。

 事件は落着したかに思われましたが、民衆の間に嵐を呼びます。
マリー・アントワネットは民衆の人望を失っており、枢機卿を彼女の愛人で、彼女はフランスの人民が飢えているにも関わらず、高価な贈り物を要求したと、大衆は容易に信じたのです。
暴動が勃発し、無実の生贄と見なされたジャンヌは、イギリスに逃れ、自分の無実を主張する手紙を新聞に公表しました。

◎二人の女性の死

 ネックレスの事件は、疑いなくフランス革命の導火線に成りました。
1793年、マリー・アントワネットは革命裁判に引き出された時、ジャンヌとの関係も尋問されました。
王妃は彼女に会った事は、一度も無いと抗弁しましたが、その声は怒号にかき消され、大衆の人望を失った王妃は、断頭台の露と消え、ジャンヌはその2年前、ロンドンで客死していました。
債権者から逃れる為に、エッジウェア・ロードの宿の窓から転落したのでした。

終わり・・・

2011/07/14

人類の軌跡その148:ミステリー30 歴史の狭間②

<革命を呼んだネックレスその2>

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◎枢機卿と伯爵婦人

 マリー・アントワネットがそのネックレスよりも嫌っていたものは、少女時代の彼女の母、オーストリア女王の宮廷にフランス大使として駐在していたド・ロアン枢機卿でした。
彼女の嫌いなこの二つは、背俗臭が強く、不道徳と云う点で共通していました。
ド・ロアンの情事は、ヨーロッパに於いて知らない者は、まず居ませんでしたが、廷臣であると同時に教会の権力者として、彼は賄賂で私腹を肥やし、其れを殆んど愛人の為に費やし、王妃に嫌われている事を本人は、十分承知していたので、彼は王妃のご機嫌取りに懸命でした。

 自称伯爵夫人のジャンヌ・ド・ラ・モットが物語りに登場するのは、この時からで、彼女は旧姓をジャンヌ・ド・サンレミと云い、古いフランス王家バロア家の直系子孫とも云われていました。
夫のド・ラ・モット伯爵は一文無しの陸軍将校で、伯爵の称号が得られたのは、ひとえに女房の血筋のお陰でした。

 ジャンヌは、人を説いて如何なる事でも、信じさせてしまう不思議な能力が在ったと云い、彼女は王妃に影響力が在り、従ってド・ロアン枢機卿に対する王家の不興を解く力があると、あらゆる手段を用いて枢機卿に信じさせようと努めました。
物腰の柔らかなその説得は、数ヶ月間も続き、共犯者を使って王妃の筆跡を真似た手紙を何通も偽造し、マリー・アントワネットが枢機卿に対して、心を和らげたと見せかけました。

 其れから彼女は、愈々大仕事に取り掛かります。
マリー・アントワネットに良く似た少女を見つけ出し、枢機卿と偽王妃を、ベルサイユ宮殿内の暗い木立で、深夜に引き合わせる手はずを整えました。

続く・・・

2011/07/13

人類の軌跡その147:ミステリー29 歴史の狭間①

<革命を呼んだネックレス>

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 歴史上で最も厚かましい、取り込み詐欺が始まったのは、1772年の事でした。
発端は、老王ルイ15世の愛人デュバリー夫人が、世界一高価なダイヤモンドを愛欲に目の眩んだ国王に強請った事でした。

 ルイ15世は彼女の言いなりでしたから、王室御用達の宝石商ベーメルに、ヨーロッパ中を探して、最も高価なダイヤを持参するように命じたのでした。
ベーメルは張り切ります。
彼は600個のダイヤを買い、そのダイヤを用いてネックレスに仕立てました。
こうして200万リーブル(現在の価格で700万ドル、6億3千万円)という、価格の面でも、見かけの悪さでも、目を剥く様な装飾品が完成したのでした。

 ベーメルは意気揚々と、ベルサイユ宮殿からの呼び出しを待っていました。
しかし、タイミング悪くルイ15世は、天然痘で崩御し、破産の危機が宝石商に迫っていました。
新王ルイ16世も、20歳に王妃マリー・アントワネットも、「スカーフの様な」外観のネックレスをひどく嫌っていたのです。

 ベーメルは、何年間もベルサイユに参内し、王妃に子供が生まれる度に、彼女が気まぐれを起こして、子供の洗礼用にと、ネックレスを購入してくれる様にと儚い望みを抱いていました。
しかし、王妃は1度も気まぐれ等、起こしませんでした。

続く・・・

2011/07/12

人類の軌跡その146:ミステリー28 現実の鉄仮面

<鉄仮面その2>

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                   ルイ14世と家族

 学者で在り、又政治家でもあるクイックスイッド卿が発表した推論は、既知の事実と符合す様に思われます。
囚人は、ルイ14世の真実の父親ではなかったのか、と言う推論なのですが・・・。

 ルイ13世とアンヌ・ドートリッシェは22年間の結婚生活中、一人の子宝に恵まれませんでした。
当時フランスの実権を掌握していたのは、リシュリュー宰相で、彼は自分の権力維持の為に王の世継ぎの誕生を待ちあぐねていました。
ルイ13世の子が王位を継承すれば、リシュリュー派は引き続き権力を行使できます。
しかし、王と王妃は、14年前から別居生活を続けていましたが、宰相は何とか、公式の和解を取り持ち、そうして全フランスが驚天動地した事に、王妃は1638年、男子をもうけました。

 それ以前に国王夫妻に子供が生れる事は無く、しかも二人は互いに嫌いぬいていましたから、王子の父親となる夫の国王の変わりに若い貴族の男性を受け入れる様に、王妃をリシュリューが口説き落としたと想像できるのです。
当時、パリには身持ちの悪いアンリ・ド・ナバールの私生児・・・全てルイ13世の異母兄弟・・・が数多く居たので、ブルボン家の血統を引く人材を捜す事に、苦労は無かったと推測されます。
リシュリューは、容姿に優れ、彼の意志に従順なブルボン家系の青年を容易に見つけ出し、窮地を抜け出るには他の方法は無いと王妃を説得したのでしょう。

 事実、少年時代のルイ14世は逞しく活動的で、父王であるルイ13世に少しも似ていないと、宮廷の中で噂されていた事実が存在します。

 この推論が正しければ、真の父親は海外、多分カナダのフランス植民地に送られ、やがて過去の経緯も忘れた頃を見計らい、若しくは今や全能の太陽王と成った息子、ルイ14世を頼って、フランスに戻って来たのではないでしょうか?
父親と息子は互いに、余りにも似すぎていた為、彼の出現は宮廷を困惑させ、王権自体を脅かす存在で在ったと考えられます。

 簡単な解決方法、即ち彼を暗殺する事は、おそらく問題外で有り、ルイ14世にしても自分の父親の殺害は阻止せざるを得なかったはずであり、結果、完全な秘匿、生活に一切の不住は無いものの、看守以外の人間からも一切隔離された生活しか他に手段は無かった・・・と思われます。

 囚人は生前のとおり、顔を知られず無名のまま死にました。
その素性は、死後もなお隠され、バスチーユで生涯を終えた者の例にもれず、彼は仮名で埋葬されました。
太陽王ルイ14世の父親であったかもしれないその人物は、“ウスタード・ドージェ:下僕”と記録されたのでした。

終わり・・・
2011/07/11

人類の軌跡その145:ミステリー27 現実の鉄仮面

<鉄仮面>

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              バスチーユ監獄

 ルイ14世の治世60年目の1703年に、バスチーユ監獄である囚人が死亡しました。
34年間を獄中で過ごしたその男は、ベルベットの仮面をつけ、監獄の誰にも顔を見せぬまま、世を去りました。

 フランスの一公女から、イギリスの宮廷に居る友人のもとに「昔の囚人」について書かれた手紙が届きます。
「仮面をつけた一人の男が、長年バスチーユで暮らし、仮面をつけたまま死んだ。近衛兵が二人、常に彼を見張り、仮面を外そうものなら直ぐに殺す用意をしていた。・・・是には何か訳があったのだろう。他の面では彼は厚遇され、快適に生活できるよう配慮され、望むものは全て与えられていたから。・・・彼が何者であったのか、誰も知る事は出来ませんでした」。
 
 ロマン派の小説家アレクサンドル・デュマ(父)は仮面の材質に多少の脚色を加えて、「鉄仮面」を書き、素性不明の囚人が、ルイ14世自身、若しくは双生児の弟という説を広めました。
しかし、是までに判明した事実から、より一層奇怪な推測が生れています。

 1669年、港町ダンケルクで逮捕された瞬間から、この囚人は異常に用心深い保護を受けました。
当時フランス領で在ったトリノ近郊のピニェロル監獄に彼が、護送されてきた時、責任者のM・サンマルスは次のような命令を与えられました。
「日用生活必需品以外の物事に関し、彼が口を開こうとした時は、死の脅しを持って制しせよ」。
サンマルスが他の監獄に移動する度に、その任地に囚人も蝋紙で目隠しをした、籠に入れられ一緒に移動しました。
囚人は、激怒の余り気も狂わんばかりであったと記録されています。
囚人の逮捕からほぼ30年が経過したにも関わらず、尚もこの人物が人目に触れないように、あらゆる手段を尽すよ
う命じられていました。
 
 仮面は罰ではなく、用心の為で有り、この長い期間、囚人は公然の存在では有りませんでした。
では、なぜかくも厳重な警戒が必要だったのでしょうか?
謎を解く鍵として、かの人物は、誰か極めて重要な人物と驚く程似ていたのかも知れず、そして容姿が似ている事が大変に不都合であったのではないでしょうか・・・?

続く・・・

2011/07/09

人類の軌跡その144:ミステリー26 ウィリアム・シェークスピアに因んで

<ロンドン搭の二王子>

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        リチャード3世の紋章                 リチャード3世

 17世紀末にロンドン搭の階段の下で、少年の遺骨が2体発見された時、古い伝説がようやく立証されたたかに見えました。
残忍な王リチャード三世は、幼い甥達を暗殺したこの上なく非常な叔父と、語り継がれています。
しかし、この伝説を誰かがによって、確証されている訳では有りません。
リチャードとロンドン搭に幽閉された王子殺しを描いた、シェークスピアの戯曲を通じて、王の悪名は広く知られる事となりました。

 しかしながら歴史家の一部には、もしリチャードを今日の裁判にかけたら、証拠不十分で不起訴になるという意見があります。
確かに新しい証拠によっては、事件は全く違った展開を見せる可能性もあるのです。

 1483年にエドワード四世が崩御した時、弟のリチャードは国王の摂政と成り、エドワードの王子達、幼い国王のエドワード五世とその弟、ヨーク公リチャードの後見人を任命されました。

 エドワード五世の載冠式の準備がロンドンで進められていた時、リチャードはノーザンプトン近くのストーニー・ストラトフォードに馬を走らせ、少年王をロンドン搭に連れ戻しました。
弟のヨーク公も母親の手でウエストミンスター寺院の内陣に匿われていましたが、程なく兄の居るロンドン搭に移されました。

 搭の中庭で兄弟の遊ぶ姿が、幾度か見かけられましてが、その後少年達は、公衆の面前から永遠に姿を消してしまいます。
トーマス・モアはリチャード三世伝の中で、彼が少年達を枕で窒息死させたと書き記しましたが、其れは30年以上後の噂話でしか有りません。

 リチャードが王子達を暗殺して、得をするような立場にあったかについて、確かな証拠は存在せず、父王の死後、僅か2ヶ月目に少年達はロンドン搭の説教師達から、正統な嫡子ではないと指弾されていました。
彼らの母親、エリザベス・ウッドビルと1464年に結婚する以前、エドワード四世はシュロウズベリー伯爵家の娘と婚約しており、当時、この様な正式の婚約には、結婚そのものと同様の拘束力が存在した為、王の結婚は法律的には無効でした。
つまり、合法的な王位継承者はリチャードだったのです。

 しかし、リチャードが少年達を暗殺したのでは無いとすれば、誰が手を下したのでしょうか?
少なくともそうする動機を持っていたのは、誰なのでしょう?
研究者の間では、ヘンリー・チューダーであった可能性が強いとする意見が多いのも事実なのです。
後に、1485年ボスワースの戦いでリチャード三世を倒し、ヘンリー七世となった人物、其の人です。

 ヘンリーはエドワード七世の庶子の曽孫で、其の為、王位継承順位から締め出されており、王位に就く為には、力に頼らねば成らず、彼は自分の地位を築く為に、ロンドン塔の王子達の姉、エリザベスと結婚し、エリザベスを王位継承者として布告します。

 しかしながら、リチャードの場合同様に、ヘンリーの有罪を立証する証拠も又存在しないのです。
只、少年達は叔父の手によって殺されたと、ヘンリーが公表したのは、ようやく1486年7月16日、リチャードの死後ほぼ1年を経過してからでした。
ヘンリーは、王座を獲得するやいなや、リチャードの残忍さと暴君ぶり暴き立てた彼が、なぜ幼児殺しの告発をそれ程にも遅らせたのでしょう?

終わり・・・
2011/07/08

人類の軌跡その143:ミステリー25 ローマ・カトリックの正当性

<コンスタンティヌスの誓書>

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 ローマ・カトリック教会の歴代の法王は、600年間に渡って、キリスト教世界の支配者たる資格を「コンスタンティヌスの誓書」においていました。

 コンスタンティヌスは、キリスト教に改宗した最初のローマ皇帝で、西暦315年に彼は、宗教的発心とハンセン氏病からの奇跡的な回復を感謝して、帝国の半分を奉納したとされていました。
帝国譲渡を記した彼の誓書によって、地球上のあらゆる教会に対する、精神的権威とローマ、イタリア全土、西欧世界の世俗的権力がローマ法王に与えられました。
それを打ち破ろうとする者は、「地獄の奈落で炎に焼かれ、悪魔や不信心者と共に滅ぶ」のです。
 
 3000語からなるこの誓書は、9世紀に初めて存在が知られ、東方対西方教会のいがみ合いに強力な後ろ盾と成りました。
この宗教紛争は、1045年に東方正教会とローマ・カトリック教会の分裂という悲劇を招きました。

 少なくとも10人の法王が、誓書をその権威の拠所と主張し、15世紀迄、それが贋作であると疑われた事は在りませんでした。
しかし、15世紀最大の神学者、クーザのイコラス(1401年~1461年)が、コンスタンティヌス大帝と同時代であり、その伝記を書いたカイザリア(パレスチナ北西部の古代都市)のエウセピウスが、皇帝の帝国譲渡に何も触れていない事に気づいたのでした。

 現在、誓書は保々贋作と、大部分の神学者は考えており、西暦760年頃ローマで編纂されたと見なされています。
しかもこの編纂者は、特に博識な人物では無かったらしく、例えば、誓書にはコンスタンティノープルに対する、ローマ法王の主権を書き記していますが、この都が建設されたのは、時代が全く異なり、フランスの哲学者、ボルテールが、「もっとも、鉄面皮な贋造物」と評したのも無理のない話です。

終わり・・・
2011/07/07

七夕のお話

<七夕の由来>

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 今日は、七夕。
何時もの歴史関係のお話は、お休みにします。
私の住んでいる街では、今年、七夕飾りを殆んど見かける事が在りません。
しかも、梅雨の末期症状で、天候の移り変わりが激しく、星の姿も見えません。

 さて今でも、時々七夕に成ると、本当に星が接近するのですかと、尋ねられ説明に困る事があります。
こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られ、織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。

 夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルで、夏彦もまた働き者で、天帝は二人の結婚を認め、目出度く夫婦と成りましたが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなりました。
この為天帝は怒り、2人を天の川を隔てて引き離しましたが、しかし年に1度、7月7日の七夕の日だけは会うことが許されたのでした。
雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡る事が出来ませんが、其の時は何処からか無数のカササギが遣って来て、天の川に自分の体で橋を架けてくれると云います。(以上ウィッキペディアより抜粋)

 さて日本古来の年中行事は、1年を半分に分けた時、1月からの行事と7月からの行事で、似通ったものが2回繰り返されると云われます。
例えば7月15日のお盆(新盆)と1月15日の小正月、どちらも祖霊祭に原義が在り、半年を周期に年月の流れを取られていた為と云われています。
では7月7日の七夕は、1月の如何なる行事に似ているでしょうか?
それは、若水汲みになります。

 吉成直樹『俗信のコスモロジー』(白水社1996年)に沿って紹介すると、高知県等での七夕に関する俗信の調査では、「里芋の葉にたまった水を集めて顔を洗うと肌が綺麗になる」「その水でイボや傷・吹き出物につけると直る」と云った事が言われます。
他には「その水で墨をすって字を書くと字が上手なる」と云うものも在りますが、之はこの日に技芸の上達を祈るという中国の乞巧奠の影響だろうということです。
里芋の葉の水とは、天から落ちてきた水だと考えられました。
そして肌や皮膚に関して人が若返るという信仰は、盆に備える為に禊で清めるというものとは異質のものだろうと云います。
皮膚が若返るとは、脱皮を意味するもので、水神=蛇を模したもので、その水神は天に住んでいるのだという信仰なのです。

 同じ調査では、6日の晩に14歳以上の未婚の少女たちが一つの宿に集まって、夜を通して、苧(お)を績(う)む行事が在ったと報告され、嘗ては全県で同様の行事が在ったと云います。
「苧を績む」とは麻の繊維から麻糸を作る事です。
辞書によれば「苧績み宿」「糸宿」ともいい「娘宿の一。夜間、娘達が集まって麻糸を紡いだり糸引きの仕事をしたりする集会所。糸引き宿。よなべ宿。」(大辞泉yahoo版)と説明され、全国的な民俗だった様です。
機織りについて糸を績む事と類似の行為と見て良いと思います。

 七夕とは、神を祭る棚機姫(たなばたつめ)と呼ばれる女性が、水辺の棚の上で、機を織りながら、神の来訪を待つ神事だと云われ、其れは選ばれた特別の女性の様なイメージなのですが、村の総ての少女が集団で行なってきた事でした。

 七夕の伝説が一人の美しい女性の物語と成ったのは、物語だからそう成ったと云えばそれまでですが、神に選ばれたと云う結果から解釈された物語なのかもしれません。
神に選ばれたとは、毎年の糸引きや神祭りを続ける事によって誰もが結婚の資格を得た事を意味しているのでしょう。
未だ学校の無かった時代ですから、娘宿では機織等の他にも学ばねばならない事柄は沢山在り、或は春先に、日中に外へ出て若菜を摘んで自炊したり、様々な経験をする処が娘宿だった様です。

おしまい・・・
2011/07/06

人類の軌跡その142:ミステリー24 この厳粛な茶番劇はいつ終わるのか

<シェークスピアを創作した男その2>

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  ウィリアム・シェークスピア生家(ストラトフォード・アプオン・エイヴォン)

 劇作家のリチャード・シェリダンがその戯曲を読み「素晴らしい着想は確かに認められるが、生硬でこなれきっていない。非常に若い時の作品と判断せざるを得ない。真に彼の作品で在るか否か、という疑問について言うなら、この原稿を見て、誰が其れを古い物と思わずに居られようか」

 シェリダンは300ポンドの即金と、舞台上演の収益から、一定の配当を支払う条件で、戯曲を買い取りました。
主演俳優のジョン・ケンブルは、戯曲を偽物と確信しており、初演をエイプリル・フールの夜に行おうと努めましたが、不成功に終わりましたが、同じ興行中に「この日の嘘」と云う演劇を、上演させることには成功しました。

 初日の夜、ケンブルは次の様な、荘厳な死神へのモノローグを朗誦しました。

 かくて汝、荒々しき哄笑と奇怪なる術を用いて、汝が騒がしき指を横腹に打ちつけたり。

 それからケンブルは一息入れ、対の台詞を「墓穴から聞こえてくる様な声で」述べました。

 この厳粛なる茶番劇はいつ終わるのか・・・・・・・

 ケンブルの意図は、観客に直感的伝わり、観客席から爆笑が湧き上がって、10分間も続き、この時に模様をアイアランドは後に次の様に述べています。
笑いがようやく静まった時、ケンブルはもう一度舞台中央に戻り、その場を演じ終える前に、同じ台詞を「まじめくさった面で」繰り返しました。

 アイアランドのゲームは終わりました。
否定論者が急激に力を増し、著名なシェークスピア研究家のエドマンド・マローンは「ボーディガン」を真っ赤な偽物と公然と非難し、こうしてドルリー・レーン劇場の上演は、初日の1回だけで終了しました。

 少年の父親が、偽作の犯人として非難され始め、アイアランドは自白しましたが、多くの人々は、少年が父親をかばっているのだと考え、父親は、息子は誰かをかばって嘘の自白したのだと思っていました。

 少年は其れでも尚、ウィリアム征服王からエリザベス1世迄、歴代の王朝を舞台にしたシェークスピア劇を創造する計画を放棄しませんでしたが、彼の「ヘンリー2世」は完全に無視され、1835年にこの世を去る迄、彼は自分の名前で小説と詩を数編発表しましたが、人々の記憶に残ったのは、偽りのシェークスピア劇だけでした。
そして、問題の原稿は現在も尚、大英帝国博物館に展示されています。

終わり・・・
2011/07/05

人類の軌跡その141:ミステリー23 この厳粛な茶番劇はいつ終わるのか

<シェークスピアを創作した男>

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             ウィリアム・シェークスピア

 ドルリー・レーン劇場は、超満員の観客の熱気が渦巻いていました。
1796年4月2日、この夜、新しく発見されたシェークスピアの戯曲「ボーティガンとロウィーナ」が初演を迎えたのでした。
ブリトン族の王ボーディガンとサクソン族族長の娘ロウィーナの恋物語で、ボーディガンには当代の人気役者ジョン・ケンブルが扮していました。

 しかし、この新たに発見されたシェークスピアの戯曲は、当時17歳の少年による偽作でした。
その少年、ウィリアム・ヘンリー・アイアランドはロンドンに住む書籍装丁師の息子で、10歳の頃、ウィリアム・シェークスピアの生地、ウトラトフォード・エイボンを訪問し、深い感銘を受けて偽作の真似事を始めたのでした。

 エリザベス朝時代の書物から、何も書かれていないページを抜き取り、人工的に古びさせたインクを使用して、彼はまず、シェークスピアの署名のある賃借契約書を作りました。
其れを父に渡し、知り合いの金持ちの男性が、少年の古文書に対する関心を知って、家伝の書類をくれたのだと説明し、父は狂喜しました。

◎専門家の太鼓判

 アイアランドはこの成功に味をしめ、1795年にエリザベス朝の書体を使って、「リア王」と「ハムレット」の手稿の一部を作り出し、学者も評論家も一様に、手稿が真筆に間違い無いと証言し、サミュエル・ジョンソン(18世紀のイギリス詩人)の伝記を書いたジェームズ・ボスウェルは、手稿の前に跪いて叫びました。
「我らが大詩人の尊き形見に、今口付けん。神よ感謝す、わが命を永らえさせ、この宝物にまみえ給いし、恩寵を!」

 少年が全く新しい戯曲を「創作」しようと思い立ったのは、自然の成り行きでした。
しかし、適当な題材が見つかりませんでしたが、其の時「父の書斎の暖炉の上にかかっていた絵が、不意に私の注意を引いた。ロウィーナがボーディガンに酒をふるまっている構図だった」。

 アイアランドは、シェークスピア劇の形式や長さには、全くの素人だったので、適当に1篇を選び、その行数を数えました。
下敷きとした作品を彼は明かす事は、ありませんでしたが、気の毒な事にそれは特別長い作品で、2800行にも及ぶものでした。

続く・・・
2011/07/04

人類の軌跡その140:ミステリー22人類の祖先を創作した男

<ピルトダウンの人骨の正体その3>

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◎科学のメス

 骨が科学的な検査を受けたのは、ようやく1949年に成っての事でした。
この年、大英帝国博物館の若い地質学者ケネス・オークリーが、新しい科学的検査法で年代を測定する為に、サンプルを取る許可を得ました。
骨は地中に埋まっている間、土中にフッ素を吸収するので、フッ素の含有量が、地中に埋まっていた期間を測定する決め手に成ります。

 検査の結果、頭蓋骨と顎の骨は、僅か5万年前のものと測定され、ミッシング・リンクより遥かに進化した、ネアンデルタール人と同年代ものでした。

 オックスフォード大学の人類学者J・S・ワイナー博士も実証的な解明を試みた一人です。
博士はピルトダウン人に対する疑問を一つ一つ個別に洗い直し、分厚い人の頭蓋骨と、サルに似た顎骨に生えたヒトの歯(ヤスリをかけたかの様に、平らに磨り減っている)・・・答えは其処に在りました。
チンパンジーの歯を手に入れて、ワイナー博士がやすりをかけ、古さびをつけてみると、ピルトダウン人の歯のほぼ完璧な複製が誕生しました。
オークリー博士は、1953年にもピルトダウン人の骨の調査を再度実行し、ワイナー博士の検証を援護しました。
検査の結果、頭蓋骨は本物の化石であるものの、顎の部分は巧妙に細工された偽物であることが、決定的に証明され、其れは現在のチンパンジーの骨であり、歯は、古びた姿に加工されていました。

 偽造は誰の手で行われたのか、現在でも判明していませんが、あらゆる点からドーソンと判定せざるを得ない様です。
彼は、化石を取得し易い立場の居り、ピルトダウンで出土した骨の破片を改ざんし、古色を付けるに十分な解剖学と化学の知識を十分に持っていました。
彼の死後、発見が停止し、この様な芝居を演じて、何等かの利益を売る人物は、ドーソンだけでした。
彼には金は、必要在りませんでした。
しかし、ピルトダウン人は、彼に金以上に貴重な富、「名声」をもたらしたのです。

終わり・・・

2011/07/02

人類の軌跡その139:ミステリー21人類の祖先を創作した男

<ピルトダウンの人骨の正体その2>

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◎名誉をもたらした化石

 細心の注意を込めて、二人の研究者はピルトダウン原人の生前の姿を復元しました。
この原人は、女性の特徴は見受けられたものの、頭蓋骨には発声筋を固定する、窪みが存在しない為、話す事ができず、歯の摩滅の具合から、彼女は草食性活をしていたと、ウッドウォート博士は判断しました。

 ドーソンには、科学界で最高の栄誉が、与えられる事に成りました。
ウッドウォート博士が大英帝国博物館当局と計り、ピルトダウン人に発見者の名前を冠した学名を付ける事に成り、化石は「エオアントロプロス・ドウソニ」、つまり「ドーソンの原人」の正式学名で記録されました。

 ドーソンの幸運は更に続き、次の3年間に歯と骨、石器が出土し、1915年には最初の発見場所から3km離れた原野で第二のピルトダウン人の化石が発見されました。

 1916年ドーソンは、52歳で他界し、代わってウッドウィード博士が発掘作業を続けましたが、出土品は2度と発見されませんでした。

 発見に関して、不信の声が上がり始めたのは、実はそれよりも以前の事でした。
1913年には、早くもケンブリッジ大学キングス・カレッジの解剖学教授デービット・ウォーターストンが、ピルトダウン人の顎の骨はチンパンジーの其れと、事実上一致すると主張していました。

 おまけにスキャンダラスな噂も伝えられていました。
或る日の事、ドーソンの研究室を訪問した人物が、ノック無しで部屋に入ると、彼は骨を坩堝で焼いて、古色を付ける事に夢中に成っていたと云います。
しかし、ほとんどの学者は、顎の骨と頭蓋骨が同一固体のものであると認め、懐疑論者が削り取って検査等行わない様に、骨は厳重な監視下に置かれました。

続く・・・

2011/07/01

人類の軌跡その138:ミステリー⑳人類の祖先を創作した男

<ピルトダウンの人骨の正体>

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       チャールズ・ダーウィン(30歳頃)

 チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表した以来、彼の学説を証明する「ミッシング・リンク(類人猿と人類の中間に位置すると仮定される生物)の探求が科学界の課題と成りました。
ヒトとサルは、共通の祖先を持つ、とダーウィンは主張しました。
其れならば、とダーウィン批判論者は問いました。
なぜ、その様な古生物の化石が発見されないのか?と。

 何年も無益な探索が続きましたが、ダーウィン派の学者は1912年に漸く、面目を保った様に見えました。
イングランドのイースト・サセックスのピルトダウン共有地近くの砂利坑から、人骨の断面と歯が出土し、約50万年前に存在した、サルとヒトの中間動物の物と考えられました。

◎ミッシング・リンク接続?

 発見者は、チャールズ・ドーソンという弁護士で、アマチュアの地質学者、化石収集家でも在りました。
ピルトダウンの出土品・・・先史時代の打製石器、歯の化石、異様に分厚い人間の頭蓋骨の断片を、ドーソンは大英帝国博物館の知人、古生物学者のアーサー・スミス・ウッドウォート博士に送りました。
博士は、直ぐにドーソンに面会し、発掘史上稀に見る緊密な、連携作業が始まりました。

 頭蓋骨が発掘された場所の近くで、サルの顎をドーソンが発見した時、彼と博士は興奮を隠す事が、出来ませんでした。
なぜなら、その歯の減り方が、人間の顎特有の磨り潰し運動で生じたとしか、見えなかったからなのです。
ミッシング・リンクの条件を総て満たす証拠が、目の前に存在していました。
ヒトの頭脳と使用道具の能力を有しながら、サルの外観をした動物の化石が出土したのでした。

続く・・・