2011/08/31

人類の軌跡その184:末路26

<ナチス全体主義への道その7>

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◎軍  備その2

空軍

 ドイツ空軍の歴史は、1910年に始まり、当初は偵察任務が中心でしたが、第一次世界大戦に於いては、多種多様な戦闘機、偵察機、重爆撃機、飛行船等を使用し、特にツェッペリン飛行船は、ロンドン爆撃を行います。

 ヴェルサイユ条約によって一切の空軍力の保有を禁止されますが、1922年に制約が緩和され、限られた性能の民間航空機の生産・保有が認められ、ここにドイツ国内に航空機メーカーが再建されるように成りました。

 そこでドイツは、極秘裏に爆撃機に転用可能な民間旅客機の研究に対し、補助金を与えるなどの空軍再建の為の準備を開始します。
又、1922年に締結されたラパロ条約により(軍部のみの秘密協定事項が存在し、ドイツ政府にも極秘で)、1924年からソ連国内でも奥地に位置するリューベックの軍事施設をドイツが使用することが可能と成りますが、これはヴェルサイユ条約の軍備制限事項から逃れる、絶好の隠れ蓑の役割を果たし、ドイツは保有を禁止されている戦闘機や戦車の実験、パイロットの養成を行うことが、1933年のヒトラー政権成立迄可能と成りました。 

 1935年の再軍備宣言によって、空軍省が設けられ、大臣に就任したヘルマン・ゲーリングの卓越した政治力も有り、急速に空軍力は増強されました。
この空軍再建は、偏にヒトラー率いるナチスの恩恵であり、陸海空三軍の中で最もナチス色の強い組織として、発展して行きます。

続く・・・
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2011/08/30

人類の軌跡その183:末路25

<ナチス全体主義への道その6>

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ドイツ4号戦車J型後期型

◎軍  備

 ヒトラーは、1935年3月16日に再軍備宣言を行い、10万人の国防軍を一気に30万人へ増強し、保有を禁止されていた戦車、航空機の再保有と云うヴェルサイユ条約に反した再軍備宣言を行いました。

陸軍

 再建の最優先順位となった陸軍は、1935年の再軍備宣言によって10万人から一気に30万人に拡張され、その後随時拡張されていきました。 
ドイツの戦闘シナリオでは、戦車と飛行機の連携作戦は、電撃戦に欠かせません。
更に戦車運用研究に熱心であった事は、現在でもよく知られています。
第一次世界大戦に初登場し、次々に塹壕陣地を突破していく戦車の姿を見たドイツ兵は、心理的恐慌状態に陥り(因みに、当時の戦車数は僅かであり、戦局を十分に左右できる程の影響力は在りませんでしたが)、ひいてはドイツ軍が敗北した遠因の一つとなった事が影響していました。
之は、戦車先進国の英仏が、戦後、戦車の有効性を過小評価していったのとは対照的です。

 この頃の英仏は、戦車を歩兵支援の為の補助戦力と位置づけし、各歩兵部隊に分散配置していました。
これに対し、ドイツ軍は戦車を主要戦力と見なし、戦車を集中配置(機甲師団)させ、空軍支援の下、敵前線を一点突破させ、敵後方を攪乱させて混乱させるという、電撃戦構想を持っていました。
その為、戦車と自動化(機械化)された歩兵で構成された機甲師団が創設されるように成りました。
開戦当時、この機甲師団の戦車兵力は、火力の弱い1号戦車、2号戦車が多数を占め、対戦車攻撃を主とする3号戦車、火力支援の4号戦車は少数であり、内情は脆弱性が指摘されていました。
事実、機動力が発揮できない市街戦となると被害が増大しましたが、空軍との強力な連携がこの弱点を補ってあまりある成果を生んだのです。

続く・・・

2011/08/29

人類の軌跡その182:末路24

<ナチス全体主義への道その5>  

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ポーランド国境ゲート破壊

◎領土拡張その2

4.チェコスロヴァキア解体(1939年3月)

 オーストリア併合後、ヒトラーは、チェコスロヴァキア併合を画策します。
そもそもチェコスロヴァキアはドイツ人国家では在りませんが、ドイツ系住民が多数を占めるズデーテン地方を有していました。
まずヒトラーは、チェコスロヴァキアに於いて、ドイツ系住民が弾圧されているというプロパガンダを展開し、その保護を行うという名目で、チェコスロヴァキア政府にズテーテン地方併合要求の圧力を加えました。
この圧力に対し、チェコスロヴァキア政府は、断固としてこれを拒否し、当時東欧諸国の中でも唯一ドイツに対抗できる実力を有していた軍事力を頼みに、戦争をも辞さない態度を維持しました。

しかし、戦争を回避したい英仏を主力とする、ヨーロッパ列強の思惑により見捨てられ、ミュンヘン協定により、ズデーテン地方割譲を決定させられます。
国際支援を受けられないチェコスロヴァキアは、1938年にはズデーテン地方をドイツへ割譲をせざるを得なくなり、事実上ドイツに対抗するだけチャンスを永遠に失ったばかりでは無く、更に翌年1939年3月には、武力によってチェコスロヴァキア自体が解体されました。
チェコはドイツ領として併合され、スロヴァキアはドイツの従属国として独立し、地図から消滅します。

5.ポーランド問題 -第二次世界大戦へ(1939年)

 チェコ解体後、ヒトラーはダンツィヒ周辺の所謂ポーランド回廊割譲をポーランド政府に要求しました。
この一帯はかつてのドイツ領で第一次世界大戦後のポーランド誕生に伴い、放棄させられた場所で在り、ドイツにとってこの回廊はドイツ本国と飛び地となっている東プロイセンをつなぐ要衝であると同時に、内陸国ポーランドにとっては、唯一の海港であるダンツィヒ(現グダニスク)を有する重要な地方でした。

チェコスロヴァキア解体の時と同様に、ヒトラーはドイツ系住民が弾圧されているというプロパガンダを行い、その保護を行うという名目でポーランド政府に割譲要求を行いました。
対するポーランドは断固として拒否しますが、前回宥和政策でチェコ問題を解決しようとした英仏列強は、結果としてチェコを失ったという教訓から、ポーランドには領土保全とドイツが侵攻した場合には無制限の援助を行うという確約を与え、ヒトラーと対決を辞さない態度を示しました。
しかし、これには隣国のソ連の協力が不可欠なのですが、ポーランドとソ連は第一次世界大戦後間もない頃に国境紛争を起こしたこともあり、その関係は険悪でした。
英仏の交渉が難航している中、1939年8月には独ソ不可侵条約が締結されましたが、この条約はお互いを仮想敵国として対立していた国家同士間の条約であり、当に電撃的な条約締結は世界を驚せます。
この条約には、ポーランドを東西分割するという軍事秘密条項があり、ポーランドの運命はここに決したのです。

続く・・・

2011/08/27

人類の軌跡その181:末路23

<ナチス全体主義への道その4>

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オーストリア併合

◎領土拡張

1.ザール地方併合(1935.1.13)

 ヴェルサイユ条約によって、国際連盟の管理下に置かれていたザール地方は、1935年1月13日に行われた住民投票で、圧倒的賛成によりドイツへの復帰が決まりました。

2.ラインラント進駐(1936.3.7)

 同じくヴェルサイユ条約によって、ドイツ領土でありながら、非武装地帯とされたラインラント地方に対して、ヒトラーは、1936年3月7日にドイツ軍3個大隊を進駐させる賭に出ます。
特にフランスの反発が予想され、進駐したドイツ軍将兵の緊張も可也のもので、もしフランス軍が対抗した場合、即座に撤退するように命令されていたが、フランス軍に動きは無く、進駐は成功します。

3.オーストリア併合(1938.3.12)

 オーストリアは、ドイツの失われた領土では在りませんが、同じドイツ民族の国家であり、又、ヒトラーの出生地で在る為、併合を目論みます。

 ヒトラーは、オーストリア=ナチス党を使って、ドイツへの併合気運を盛り上げさせ、時にはオーストリア首相ドルフス暗殺を行う等の(1934.7.25)反対派の封じ込めを行いました。

 1938年2月半ば、オーストリア首相シュシニクは、ヒトラーのベルヒテスガルテン山荘に呼びつけられ、オーストリア併合を強要されます。
之に対し、帰国したシュシニクは、ドイツによるオーストリア併合を回避する為、国民投票の手段に訴えようとしました。
しかし、ドイツはこの動きを封じ、3月11日に事実上の最後通告を発し、翌日3月12日午前8時、急遽オーストリアへ電撃的軍事侵攻を敢行しました。
オーストリア軍は一切の抵抗行わず、無血併合に成功、シュシニクは亡命し、代わりに首相となった親独派の内相ザイス=インクヴァルトは、この軍事進駐を要請の形で容認したのでした。
1938年3月13日に、「ドイツ帝国とオーストリア共和国の再統合に関す法律」の署名により、正式にオーストリアはドイツによって併合され、地図から抹消されました。

続く・・・

2011/08/26

人類の軌跡その180:末路22

<ナチス全体主義への道その3>

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ドイツ復興

◎経済政策 

 ヒトラーの経済政策は、国が公共投資を始めとする有効需要を生み出すと云うケインズ政策でした。
しかし、一般に景気拡大期となると、通貨発行量が増大するので、通貨価値の下落、所謂インフレーションが発生するのですが、ドイツ国立銀行総裁と経済相を兼任したヒャルマー・シャハトはインフレーションを抑えて好況を実現し、溢れていた失業者を激減させた為に「マルクの魔術師」と賞賛されました。
インフレーションなき好況は、理想の経済状況と言えます。
公共投資で有名な例は、アウトバーン(高速道路)なのですが、このアウトバーン建設については、当時の自動車普及率を考えると不要の物という意見も存在したものの、飛行機の滑走路として使用する事や、兵員や物資の移動といった軍事的利用の側面から見れば、必ずしも不要とは言い切れません。

 この公共工事を行う為には巨額の資金が必要ですが、この財源は適正な財政規模を遙かに上回る巨額の赤字国債で賄われました。
しかしこれでもt財源不足をきたすと、「メフォ手形」を発行します。
これはドイツ国立銀行総裁シャハトが考案した方法で、「金属調査会社」というダミー会社を設立し、兵器発注をおこなわせ、支払は同社発行の手形で行い、その信用保障を国立銀行が行いました。
手形の償還期限は3ヶ月、但し、期限がくると自動的に3ヶ月延長され、5年まで延長を繰り返すことができました。
この手形は、一種の国債による方式での通貨増発を伴わないので、インフレの心配が在りませんが、事実上の偽装国債なのです。
「金属調査会社」の略称は「メフォ」。
そこでその手形は「メフォ手形」と呼ばれ、一般には会社の性質は秘密とされました。

 このメフォ手形で得た資金の大半は、国民生活向上よりも軍需に充当されました。
しかし、この巨額の借金はいずれにしても、返済が必要なものであり、初期に発行されたメフォ手形の償還期限(5年間)である1939年時点では国家財政は当に火の車ででした。
この国債の償還の為には、通貨発行を増大してハイパーインフレーションを起こすか、国債の最大の引受先である欧米の債権団から踏み倒す方法、つまり戦争の道でした。
又、戦争によって被占領国から財産を強奪すれば、債務償還できるといった考え方も可能なのです。

 更に、国内産業を過剰なまでに保護した結果、ドイツ工業の国際競争力の低下も著しく、その結果として当然、外貨準備高の不足も危険な水準に達し、軍需生産に必要な鉄鉱石などの資源の購入にも支障をきたしはじめていました。

続く・・・
2011/08/25

人類の軌跡その179:末路21

<ナチス全体主義への道その2>

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再軍備宣言

◎戦後のドイツの軍事とドイツ再軍備宣言

 ヴェルサイユ条約によって、ドイツは、その軍備に於いて徹底的な制限を受けました。
1.陸軍総兵力10万人以下、将校4000人以下、戦車の保有の禁止、戦争遂行機関(参謀本部)の解体。
2.飛行機の保有の禁止。
3.旧式戦艦6隻、軽巡洋艦6隻、駆逐艦12隻に削減、更に戦艦は1万トン以下、装備砲11インチ以下、潜水艦及び空母の保有の禁止。
4.化学兵器保有の禁止。

 しかし、新生共和国国防軍初代総司令官フォン・ゼークト将軍の尽力によって、軍備拡張時に不可欠となる優秀な中堅、上級指揮官を慎重に選び出して、共和国軍内に取り込む事に成功、これは後のドイツ再軍備宣言時の急激な兵力拡張時に真価を発揮することと成ります。

 1933年に政権を握ったヒトラーは、ヴェルサイユ条約によって、解体寸前に落ちいっていた軍備の増強を断行。1935年3月には10万人の国防軍を一気に30万人へ増強し、保有を禁止されていた戦車、航空機の再保有というヴェルサイユ条約に反した再軍備宣言を行いましたが、この時当然反発すると予想された、英仏両国からの目立った反応は在りませんでした。
特に、第一次世界大戦で直接の戦場に成らなかった、イギリスは過酷なヴェルサイユ条約を課された、ドイツに対する同情的でも在り、其の為、1935年には英独海軍協定がフランス抜きで調印され、事実上のドイツ再軍備容認をしました。

続く・・・

2011/08/24

人類の軌跡その178:末路⑳

<ナチス全体主義への道>

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ドイツ・ハイパーインフレーション

◎ナチス党独裁以前

 第一次世界大戦に敗北したドイツは、ヴェルサイユ講和条約によって、軍備の制限、海外領土のすべてを喪失、本土の一部喪失、天文学的な賠償金を課されましたが、これはドイツにとって、大いなる屈辱以外のなにものでもありませんでした。

 ドイツ国民の中には、この敗戦を純粋的な軍事敗北ではなく、国内の異分子による背後からの騙し討ちであるとの考えを持った者が存在し、ワイマール共和国への反発を持った者は多かったのです。
この中には、アドルフ・ヒトラーも居ましたが、戦後期の政治的、経済的混乱は確かに在りましたが、その後には、アメリカ資本の流入により一時的な経済復興が成されました。

◎世界大恐慌

 しかし、1929年のアメリカ・ウォール街で発生した、株の大暴落に端を発する世界大恐慌によって、ドイツ復興の中心的な役割を果たしていたアメリカ資本が撤退・縮小してしまい、ドイツは先進国中最悪の経済状態に陥ります。
失業率は30%を越え、国民は恐慌に有効な手を打てない現政権に幻滅し、有効な手を打てるだけの強力なリーダーシップを有する指導者を渇望し、民主政治よりも独裁政治をも求める様に成りました。

 そこで脚光を浴びたのは、国家社会主義労働者党、通称ナチス党党首であったアドルフ・ヒトラーであり、ヒトラーは持ち前の弁舌で、この様な状態を上手く利用したのでした。
彼は、現在の恐慌状態を造りだしたのは、ヴェルサイユ条約であり、更にユダヤ人の脅威を前面に押し出した、単純明快な弁舌で人々の心を掌握し、1932年の総選挙では、一躍第一党に躍進し、翌年1933年1月31日には念願の首相に就任しました。

◎国内での権力掌握

 政権を獲得したヒトラーは、この状況を最大限に利用します。
1933年に起こった国会議事堂放火事件を政敵である共産党の仕業として(共産党による放火説、ナチス党による謀略説などが存在しますが、犯人は不明)、共産党を弾圧し、又嘗ての政権党であった社会民主党などの政党を弾圧・解体を断行します。

 これによって有名無実化した議会に全権授権法を可決させ、事実上の独裁者と成りました。
1934年には、既に如何なる実権も掌握していないものの、ヒトラーの政治的な最後の障害と目していた、大統領フォン・ヒンデンブルクの死去に伴い、大統領職をも兼務し、自らを総統(Fuerer)と称したのはこの時でした。

続く・・・
2011/08/23

人類の軌跡その177:末路⑲

<ドイツ史の流れを変えた議事堂炎上その2>
ナチス全体主義への道

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◎独裁制への道

 「今すぐに共産主義者の役人を銃殺せよ!共産党の議員を絞首刑にせよ!同情は禁物である!」
ナチスには、ドイツ国民を反共産主義に、転じさせる必用が在りました。
議会でナチスは、最多議席を占めていましたが、左翼勢力が独裁制への道を阻んでいたからです。
1夜のうちに共産主義者5000人以上が逮捕され、指導者4人が放火の陰謀に加担した罪で、告発されました。
1933年3月5日に実施された総選挙でも、ナチスは未だ全権を掌握するために必用な3分の2の議席を取る事が出来ませんでした。
ナチスの得票率は44%だったのです。

 しかし、共産党代議士が議会に出席する事を妨害して、ヒトラーは自ら率いる内閣に、全権を与える法案を通過させる事をやり遂げたのでした。
ベルリンの消防署の専門家は、放火事件は単独犯では在りえず、6名乃至7名の共犯者が存在したと考えていたにも関わらず、ライプチヒ法廷は、フォン・デル・ルッペの共犯とされた4名の釈放を命じ、ヒトラーは放火事件を共産主義者の陰謀としましたが、他の国々では、ナチス自身が放火の陰謀をめぐらしたと確信したのでした。

 共産党は、激しい反共宣伝の洗礼を受けながらも、ゲーリングとその一味が地下道を通り、国会議事堂に放火した後、又同じ道を通ったのだと反論したのでした。
第二次世界大戦のニュルンベルグ裁判で、旧ドイツ軍参謀長のフランツ・ハルダー将軍は、ゲーリングが1942年に「ライヒスターク炎上の真相を知っているのは私だけだ。放火したのは私なのだから」と自慢したと証言しています。

 ゲーリングはハルダーの証言を否認しましたが、周知の通り、ナチスにおいて嘘と裏切りは日常茶飯事で、真相も戦後2転3転します。
新たな調査から、別の結論が引き出されました。
ナチスも又、濡れ衣を着せられた訳で、フォン・デル・ルッペは4束の焚きつけとマッチ1箱を使って、完全に自分の意志で放火を行ったらしく、ゲーリングとその部下は、消火活動を妨害しただけでした。

続く・・・
2011/08/22

人類の軌跡その176:末路⑱

<ドイツ史の流れを変えた議事堂炎上>
ナチス全体主義への道

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 1934年1月10日、オランダ人マリニュス・フォン・デル・ルッペが死刑執行を受けました。
罪状は、ベルリンのドイツ国会議事堂下院(ライヒスターク)への放火でした。

 しかし、ナチスを憎んだ共産主義者のフォン・デル・ルッペは本当に有罪だったのか?
ヒトラーとナチス支持者の生贄になったのか?
他にもこの陰謀に加担した人物は存在しなかったのか?

 議事堂炎上事件は、近代ドイツ史の流れを変えた事件で、ヒトラーはこの事件を契機に、権力の座に着いたのでした。
事件に最初に気付いたのは、ハンス・フロッターという神学生で、彼は1933年2月27日午後9時過ぎに、議事堂の側を歩いていました。
ガラスの割れる音につられて顔を上げると、2階バルコニーに燃えるものを手にした男が居ました。
フロッターは警官に急を告げ、警官達が議事堂に向うと、2階の窓から窓へ、松明を翳して走り回る男に、銃を向けたのでした。

 午後9時40分頃には、60台程の消防車が現場に集まりましたが、議事堂は火炎に包まれ、更に燃え広がっていました。
ビスマルク・ホールで警官の1人が、上半身裸の汗まみれになった男を逮捕し、所持していた身分証明書から、名前は、マリニュス・フォン・デル・ルッペ、24歳という事が判明します。
検察官に犯行の動機を問われた時、彼は「抗議する為だ」と答え、更に「他の公共建造物3棟にも放火しようとしたが、果たせなかった」とも自白しました。

 火災の政治的影響は大きく、当時ドイツ首相に就任して僅か27日目だった、アドルフ・ヒトラーは、この事件を契機に第三帝国総統の地位迄登りつめる結果となるのです。
放火事件とフォン・デル・ルッペの逮捕をヘルマン・ゲーリングから報告された時、ヒトラーは次の様に語ったと伝えられています。
「天の知らせだ。是はコミュニスト蜂起の前兆である」

続く・・・
2011/08/19

人類の軌跡その175:末路⑰

<アドルフ・ヒトラーの最後その3>
第一次世界大戦終結から第二次世界大戦開戦直前のドイツ

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 1945年5月2日、総統官邸を占領したソビエト軍は、即座にヒトラーの遺骸を掘り返します。
官邸の庭には、ヒトラー夫妻以外にも、爆撃や戦闘で死亡した多くの将兵の死体も在りました。
総統官邸占領直後、その管理は、ソビエト軍からソビエト情報機関の手に移り、以後連合軍がベルリンに入城した時は、総統官邸に残された物は殆んど無く、内部情報は殆んどソビエト情報部によって持ち去られた後でした。
さて、占領直後から、ソビエト情報部は、ヒトラーの歯科医や技工士を拘束し、ヒトラーの遺骸を確認し、是をモスクワに送ります。

 しかし、時のソビエト連邦最高指導者 ヨゼフ・スターリンは、自ら“最悪の宿敵”と称したアドルフ・ヒトラーの死亡を信じておらず、その為も有ってソビエト連邦政府は、ヒトラーの死亡確認を公表せず、又ヒトラーの遺骸の所在は、現在でも発表されていません。
第二次世界大戦終結後、西ドイツ首相アデナウワーは、最高裁判所にアドルフ・ヒトラーの死亡確認書を発行させ、亡き総統の失われた遺骸の埋葬という行事を挙行しましたが、ヒトラーの遺骸が旧西ドイツ側に存在する訳では有りません。
現在においても尚、熱狂的なヒトラー崇拝者が存在している以上、現ロシア政府も発表を躊躇い続ける理由の一部
ではないでしょうか?

 20世紀末、ヨーロッパの社会主義国家群は、その社会体制の激動激変期を迎え、ソビエト社会主義共和国連邦も民主化の要求に屈し、独立国家共同体と成った現在、アドルフ・ヒトラーの最後は、ローパーの著作のお陰で判明しました。
しかし、近年でも元ナチスの高官がアルゼンチンで逮捕された事例も存在し、第二次世界大戦当時中立国であった、フランコ総統統治下のスペインに、逃亡した事例も多々存在する事から、戦争末期のヒトラー生存説は根強く、是に拍車を掛けるように、遺骸の場所すら公表されない事も何時しか、アドルフ・ヒトラーを伝説中の人物にしたものと思われます。

 明日からは、時代を戻し、第一次大戦後ベルサイユ体制下で、台頭した国家社会主義労働者党を中心に進めます。

続く・・・

2011/08/18

人類の軌跡その174:末路⑯

<アドルフ・ヒトラーの最後その2>
第一次世界大戦終結から第二次世界大戦開戦直前のドイツ

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 ローパーは、1945年4月30日、ヒトラーの死に至る時迄、彼の側に居合わせた人々を入念に調査し、彼らからの聞き取り調査を繰り替えし、ヒトラーの最後を克明に知る事ができました。
ローパーは後に、この時の調査結果を「ヒトラー最後の日」と題して出版し、我国でも翻訳された事から、私達は、1945年4月30日ドイツ第三帝国総統官邸における、ヒトラーの最後の様子を知る事ができます。

 1945年4月29日、アドルフ・ヒトラーは、盟友ベニト・ムッソリーニ死亡報告を受けます。
その時、彼はベルリンに在る総統官邸の地下防空壕に踏み止まり、戦闘指揮を続けていました。
しかし、ベルリンはソビエト軍によって、殆んど制圧占領され、戦闘の勝敗は既に絶望的な状況でした。
その日、ヒトラーは、愛人エヴァ・ブラウンと結婚式を挙げ、明けて4月30日、彼は側近の者を集めて昼食の後、その会席者一人一人と握手を交わして、別れを告げます。
その後、ヒトラーは自室に入り、後にエヴァ・ブラウンが続き、間もなく一発の銃声が轟きました。
ヒトラーは、ピストルにより自殺を遂げ、エヴァは毒薬を飲んで、彼の側で事切れていました。
銃弾は、ヒトラーの口から、頭部を貫通しており、ソファと背後の壁は、紅く染まっていたと云われています。
ヒトラー夫妻の遺骸は、総統官邸の庭で、180リットルのガソリンをかけて荼毘に伏されました。

 その時、既にソビエト軍の先遣部隊は、総統官邸の直ぐ近く迄接近しており、機関銃弾や砲弾は、標的を誤らずバラバラと官邸周辺に降り注ぎます。
その極めて危険な状況の中で、夫妻の火葬は遂行されたのでした。
ヒトラーはムッソリーニの悲惨な死に様を聞き、昔から独裁者の最後を知っていた彼は、自分の遺骸を跡形も無くする事で、はずかしめを受けない事を望んだのだと思います。
そして、後継者フィヨドール・デーニッツ元帥は、ヒトラー総統の戦死を発表するのです。

続く・・・

2011/08/17

人類の軌跡その173;末路⑮

<アドルフ・ヒトラーの最後>第一次世界大戦終結から第二次世界大戦開戦直前のドイツ

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 今回は、アドルフ・ヒトラーの最後から遡り、第一次世界大戦の終結からポーランド侵攻に始まる、第二次世界大戦迄のドイツの国状を国家社会主義労働者党(ナチス)の台頭を交えながら、歴史を追って行きたいと思います。


 1945年4月、第二次世界大戦も終結に近づいていました。
4月27日には、ファシスト共和国首相 ベニト・ムッソリーニが逃亡先のコモ湖畔で、パルチザンに逮捕され、ミラノ市に連行、即日銃殺刑に処された後、その広場で、愛人のクララ・ぺタッチ他数人の側近と供に逆さまにつるされ、多くの人々から屈辱を受けました。
この姿は、映画フィルムに納められ、現在でも見ることができます。
 
 しかし、この同じ月の30日午後に自殺した、ドイツ第三帝国総統 アドルフ・ヒトラーの死に関しては、曖昧な点が数多く存在し、その死亡を疑う研究者は、現在でも存在します。

第二次世界大戦が終結した、1945年秋の段階でも、ヒトラーの戦死説、暗殺説、航空機、潜水艦による逃亡説が流布し、バルト海の孤島への逃亡、スペインの修道院、南アメリカの農場等、諸説紛々になる程、彼の最後の状況は、解かり難いものでした。

 1945年4月末、ドイツ第三帝国の首都 ベルリンは、ジューコフ将軍指揮下のソビエト軍に完全包囲され、陥落は時間の問題と思われましたが、残留ドイツ軍やヒトラーユーゲントの頑強な抵抗に遭遇し、ソビエト軍は市街地の建物を一つ一つ制圧するような形で、侵攻せざるを得ませんでした。
5月2日、ベルリンはソビエト軍によって制圧され、ライヒスタークに赤旗が翻り、ソビエトは正式にベルリン占領を発表、ここにドイツ第三帝国は崩壊し、ヨーロッパの戦いは終結します。

 ヒトラーの後継者、フィヨドール・デーニッツ元帥は、ヒトラーの戦死を発表したものの、この後死亡報道が二転三転し、ソビエト側の死亡疑問⇒死体発見・解剖と歯型鑑定⇒イギリス亡命説と混乱を呈します。

 イギリス軍情報部とアメリカ軍情報部は、協力体制を取り、ヒトラー死亡の真相を調査にあたります。
この中心人物が、歴史学者で、当時イギリス軍情報部に勤務していた、トレヴァー・ローパーでした。

続く・・・


2011/08/16

人類の軌跡その172:末路⑭

<ルードヴィッヒ二世 番外編その4>

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◎バイエルン王国の歴史

 現在ドイツ連邦共和国を構成している16州の中で、最大の面積をもつバイエルン州は、神聖ローマ帝国を構成するひとつの公国として1180年からヴィッテルスバッハ家という一族が治めてきました。
1806年から王国に昇格し、1918年迄バイエルン王国(Königreich Bayern/ケーニックライヒ バイエルン)と呼ばれていました。

 ヴィッテルスバッハ家(Wittelsbach)は、ドイツのバイエルン地方を発祥とするヨーロッパの有力な君主、諸侯の家系、バイエルンの君主の家系として有名ですが、その他にもプファルツ選帝侯(ライン宮中伯)、ブランデンブルク辺境伯(選帝侯)、スウェーデン王の家系として続いており、又神聖ローマ皇帝やボヘミア王、ハンガリー王、ギリシャ王も一族から輩出しています。

 1329年以降はバイエルン系とプファルツ系に分かれ、分割統治と成りますが、1777年バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフが世継ぎを残さず崩御した為、バイエルン系は断絶してしまいます。
そこで遠戚でプファルツ選帝侯カール4世フィリップ・テオドールが、バイエルン選帝侯も継承することにより、再統合されました。(バイエルン選帝侯としてはカール・テオドール)

 しかし、カールも世継ぎがないまま1799年崩御したため、その遠戚にあたるマクシミリアンがバイエルン及びプファルツ両選帝侯を継承する事になりました。(バイエルン選帝侯としてはマクシミリアン4世ヨーゼフ)

 1800年のナポレオンの侵攻により神聖ローマ帝国が崩壊すると、選帝侯マクシミリアン4世ヨーゼフは、ナポレオンの承認を得て近隣の領土を併合した上で、ライン同盟に加盟、バイエルン王国を興し、1806年1月1日、自らマクシミリアン1世として即位しました。
バイエルン王国は、ライン同盟に加盟していた王侯国々の中でも最も重要な国で、ナポレオンとの同盟をライプツィヒの戦いの直前まで維持しましたが、オーストリア帝国に地位と領土が保証された事で反ナポレオン側に回り、1815年には一時手放していた旧ライン・プファルツ選帝侯国を回収・併合した後、ライン同盟を脱退し、ドイツ連邦に参加しました。

 1871年1月18日、プロイセンのホーエンツォレルン朝のドイツ帝国が成立する際にも、バイエルン王国は維持したまま、帝国の一領邦となりました。

 1918年、ドイツが第一次世界大戦で敗北すると、混乱の中で勃発したドイツ革命により、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世はオランダ亡命し、ドイツ帝国は11月9日をもって崩壊しました。
バイエルン王国も混乱に陥り、11月13日、国王ルートヴィヒ3世が退位・亡命し、バイエルン王国も終焉を迎えます。
王権を手放し、共和制のドイツの一州となったバイエルンで、ヴィッテルスバッハの家系は現在も続いています。

終わり・・・

2011/08/13

お盆のお話

<お盆>

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 お盆は正式には「盂蘭盆会」と言います。これはインドの言葉の一つ、サンスクリット語のウラバンナ(逆さ吊り)を漢字で音写したものです。

 お盆のはじまりについて「盂蘭盆経」の中の親孝行の大切さを説いた教えが昔から知られています。それは、「お釈迦様の弟子の中で、神通力一番とされている目連尊者が、ある時神通力によって亡き母が飢餓道に落ち逆さ吊りにされ苦しんでいると知りました。そこで、どうしたら母親を救えるのか、お釈迦様に相談にいきました。するとお釈迦様は、おまえが多くの人に施しをすれば母親は救われると言われました。そこで目連尊者はお釈迦様の教えに従い、夏の修行期間のあける7月15日に多くの層たちに飲食物をささげて供養したのです。すると、その功徳によって母親は、極楽往生がとげられました。」という話です。

 それ以来(旧暦)7月15日は、父母や先祖に報恩感謝をささげ、供養をつむ重要な日となったのです。わが国では、推古天皇の14年(606)に、はじめてお盆の行事が行われたと伝えられています。日本各地で行われるお盆の行事は、各地の風習などが加わったり、宗派による違いなどによって様々ですが、一般的に先祖の霊が帰ってくると考えられています(浄土真宗では霊魂が帰ってくるとは考えない。)日本のお盆は祖先の霊と一緒に過ごす期間なのです。

(資料提供:出版社名-鎌倉新書 出典名-2分でわかる仏事の知識)

さて、この時期、もう一つ思い出される行事。

「精霊流し」 8月15日に行われます。
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 1974年(S.49)、コーラスグループ“グレープ”が歌ったさだまさしさんの名曲でも有ります。
精霊流しは、長崎県の旧盆の伝統行事で、最近の一年間に亡くなった人の御霊を船に乗せて西方浄土に送るものです。
長崎の精霊流しを一度でも見た人は、爆竹が雨あられのように舞う喧騒(けんそう)の中で、歌詞にあるような「華やか」さを感じることがあるかも知れません。

 しかし、どんなに華やかで騒がしい中にあっても、これが新しく仏になった、精霊様を送る儀礼であることを思うとき、喧騒は消えてしまいます。
そこには、誰にも知られない、一人ひとりの深い思いがこめられており、他の人を近づけない静寂さえが感じられます。

8月14日から15日迄、ブロクの更新をお休み致します。
2011/08/12

人類の軌跡その171:末路⑬

<ルードヴィッヒ二世 番外編その3>

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◎ウィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー

 1813年5月22日ライプチヒに生まれました。ウェーバーの「魔弾の射手」とベートーヴェンの 「第9交響曲」 を聴いて感動し作曲家となることを決意します。
 1842年、ドイツのドレスデン宮廷歌劇場で自作のオペラ「リエンツィ」を初演し、大成功を収め、この成功により宮廷楽長となったワーグナーは、ロマン的オペラ「タンホイザー」や「ローエングリン」を完成させますが、 1849年にドレスデン蜂起に荷担して逮捕状を発せられ、スイスに亡命を余儀なくされます。

 このスイス亡命時代に総合芸術論「オペラとドラマ」と「ニーベルングの指輪」四部作を書きあげ、ロマン的オペラから楽劇への決定的一歩を踏み出しました。亡命時代を経て、1860年からはヨーロッパを演奏旅行します。このときリストの娘で指揮者ビューローの妻コジマと恋愛関係になります。

 経済的困窮は極まるばかりでしたが、 64年バイエルン国王ルードヴィッヒ二世の強力な援助を受け、作曲に没頭し、70年にはコジマと正式に結婚、その後自作上演のためのバイロイト祝祭劇場を建て、念願の「ニーベルングの指輪」四部作などを上演していきました。
その後「パルジファル」 を完成してバイロイトで初演しますが、翌年83年2月13日、ヴェネツィアにおいて心臓発作に襲われ息を引き取りました。

 ワーグナーの芸術は、作品の規模の大きさばかりでなく、土台となっている知識の広さによっても特徴づけられます。
彼は自分で舞台作品の台本を書きましたが、そこでは一般にいわれるゲルマン神話ばかりでなく、ギリシア神話をはじめとして、シェークスピア劇などありとあらゆる世界文学が下敷きとなっています。
そうした台本が、そのまま作曲上の試みとして、音楽に移し変えられているところに、彼の作品の特徴があるといえます。
2011/08/11

人類の軌跡その170:末路⑫

<ルードヴィッヒ二世 番外編その2>

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◎ノイシュヴァンシュタイン城その2

 城の建築には何百人もの職人が従事していましたが、この時代には革新的な社会制度も存在していました。
建設従事者が病気や傷害で働けなくても賃金を保証する「職人協会」が存在し、王自身が多額の援助をしていました。
ルートヴィヒは多額の建築資金を王室費などの私財をつぎ込んで調達しましたが、それでは十分ではなく、多額の負債を国家が背負う事になります。

 ノイシュヴァンシュタイン城の築城には、約620万マルクかかった事が記録されていますが、当時の物価等を考慮して算出すると現在の250億円程の金額に相当します。
建築熱にとりつかれたルートヴィッヒは、ノイシュヴァンシュタイン城の建築中に、リンダーホーフ城とヘレンキムゼー城の築城改築も始め、お金に頓着のない彼は、その必要とする莫大な費用に当てる為、次々に多額の負債を生じさせ、王国の財政、更には国民の生活さえ圧迫させる事に成ります。

 ルードヴィッヒ二世も若い頃は、国政に対する意欲もありましたが、次第に政治的にも孤立し、心の拠り所だったワーグナーもこの世を去ると、極度の人間嫌いになって何より孤独を好むように成りました。
数人の侍従以外は人を寄せ付けず、空想の世界に閉じこもり、ホーエンシュヴァンガウ城から建設中のノイシュヴァンシュタイン城を見上げ、その完成を心待ちにしました。
1880年頃には城の主な部分の建設が終わりましたが、ようやく実際に住める状態になったのは1884年頃でした。そして、城はまだ工事中だったにもかかわらず、1884年5月から6月にかけて13日間、ルートヴィヒ2世が最初の滞在をしたとされています。
 
 それから 2年後の1886年、ルードヴィッヒ二世は失意の中、退位を余儀なくされ、謎の死を遂げましたが、その間にこの城滞在したのは計172日だと云われており、そして、王の死後もノイシュヴァンシュタイン城の工事は続けられ、工事がすべて終了したのは1892年のことでした。

 注目すべきは、城は工事中だったにもかかわらず、1886年8月にはすでに城は一般公開されたという事です。
王の死から数週間後の事で、入場料は当時の生活水準からするとかなり高価だったようですが、それでも公開後半年で1万8千人もの見学者が訪れました。
やはり、現実の世界とかけ離れたメルヘン王ルートヴィヒの夢の城は、当時の人々にとっても一度は訪問してみたい夢の世界なのでした。

続く・・・
2011/08/10

人類の軌跡その169:末路⑪

<ルードヴィッヒ二世 番外編>

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◎ノイシュヴァンシュタイン城

 中世の騎士に強い憧れを抱いた、孤高のバイエルン王ルードヴィッヒ二世の夢の凝縮した、絢爛豪華なおとぎの城。
ドイツ南部・バイエルン州の南方、森に囲まれたホーエンシュヴァンガウに建設され、緑豊かな自然の景観の中に溶け込んだ白亜の城のシルエットは、溜息が出るほどの美しさ。
バロック、ゴシック、ルネサンスなどあらゆる建築様式を取り入れられ、ディズニーランドのシンデレラ城のモデルにもなり、ロマンチック街道の終点フュッセンの近くにあり、ヨーロッパでも有数の観光地です。
 
 ルードヴィッヒ二世は、即位から4年目の1868年に新しい城の築城を命じ、その新しい城の構想は、ホーエンシュヴァンガウ城で過ごした幼年期に傾倒を深めた、中世の騎士道の伝統に沿って、ルートヴィッヒの頭の中に生み出されたものでした。
 其れにふさわしい場所としてルートヴィヒが選んだのは、生まれ育ったホーエンシュヴァンガウ城を目の前に臨む岩山の上でした。
ホーエンシュヴァンガウ城は、ルートヴィヒの父マクシミリアン2世によって、1830年代に再建したものでしたが、ルートヴィヒが新しく城の建築を考えたのは、まさに再建される前のホーエンシュヴァンガウ城があった場所でした。
その岩山に1869年9月、新たなルートヴィヒの城の建設が始められました。

 初めに王宮建築主任のエドゥアルト・リ-デルに、城の建築が任されましたが、実際に城全体の設計を行うよう指名されたのは宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していた、ミュンヘンの画家クリスティアーン・ヤンクでした。
この城はメルヘン王ルートヴィヒの夢の実現の為に、作られたものなので、城全体が建築としてよりも一つの物語の舞台としてみなされ、徹底的に王の追い求めるメルヘンの世界を作り出すことが優先されました。
従って、本来王城の中心となる聖堂や礼拝堂、玉座を後回しにして、人工の洞窟を造るといった具合で、王自身が納得いくまで何回も変更を加えました。
そして、ノイシュヴァンシュタイン城は、元々、ルートヴィヒ2世が敬愛するリヒャルト・ワーグナーに捧げる殿堂として造られ、ワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」「タンホイザー」「ローエングリン」などの世界が描き出されました。

続く・・・

2011/08/09

人類の軌跡その168:末路⑩

<ルードヴィッヒ二世その2>バイエルンの狂王

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◎逃 避

 其れまで、王は特に変わった振舞いを見せた訳では有りませんが、只、宮殿の衛兵が疲れているに違いないと、ソファーを与えると言った事が有るそうです。(?)
王は国事に関心を持とうと努め、女性に魅力を感じなかったにも関わらず、結婚はしませんでしたが、従妹のゾフィーと婚約さえ行いました。
王が、彼の名前を歴史に残した築城に、情熱を向け始めたのは、この頃でした。
母のマリー王妃は、彼が幼い頃、積み木遊びに夢中であった事を伝えています。

 1868年、王はワーグナーに手紙を送ります。
「ポラート瀑布の近くに在るフォルダーホーエンシュワンガウの古城跡を、私は古代ゲルマン騎士の城と全く同様に改修するつもりでいる。
そこに住むと思うと、いまから血が騒ぐ事を告白しなければ成らない。
其処で“タンホイザー”や“ローエングリン”の精神に生きるのだ」と彼は述べています。
改修建設の工事が、始められました。
是が後の“ノイシュヴァンシュタイン城”、目も眩む急斜面の中腹に建つ、おとぎの城でした。
彼は他にも、バロック式の華麗なリンダーホーフ城と、ベルサイユ宮殿を手本とした、ヘレンキュームゼー城を建てます。
そして、王は遠く国政から離れて、自ら作った城の夢の世界に閉じこもりました。

 王の空想の旅も、馬術訓練所の周辺では終わらなく為り、冬の夜毎、黄金のロココ風馬橇に乗って、危険な雪山を駆けました。
付き添う御者や従者達は、ルイ14世様式の衣装を着けさせられていました。

 政治を忘れ、浪費を続ける彼の生活が、何時までも許されるはずも無く、1886年6月、叔父のルイトポルト公は、王に禁治産者の宣告を下し、摂政として、彼の跡を継ぎました。

 ルードヴィッヒ二世の生涯は、悲劇的で謎めいた終局を迎えます。
6月12日、ミュンヘン郊外のシュロッス・ベルグに幽閉され、翌日彼は、お抱え医師ベルンハルト・フォン・グッテン博士と散歩に出掛けましたが、何時まで経っても二人が戻って来ない為、捜索隊が編成され、やがて岸から20m程の浅瀬に二人の遺体が浮かんでいる処を発見されました。
暗殺、自殺、事故死と様々な憶測、推測が成されましたが、ルードヴィッヒ二世の数奇な生涯が如何にして悲劇の幕を閉じたのか、その謎を解明した者はまだ居ません。

続く・・・
2011/08/08

人類の軌跡その167:末路⑨

<ルードヴィッヒ二世>バイエルンの狂王

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 王の馬術訓練は、午後8時から午前3時迄と決まっていました。
王立馬術訓練所や王宮の周囲で行われるこの訓練を、王は「ミュンヘン・インスブルック間の速駆け」と呼称し、付き従う従者も、彼らなりにこの深夜の速駆けを楽しんでいました。
時折、馬を変えるだけで良いし、途中で味わう食事は、館の中で取る其れよりも楽しく、それに速駆け伴走の褒美は、金時計でした。

 「バイエルンの狂王」と呼ばれたルードヴィッヒ二世の楽しみは、馬術訓練所周囲の距離を計りながら駆け、空想の旅を楽しむ事でした。
只、ルードヴィッヒ二世は昼夜反対の生活を行っていたので、「旅」はどうしても、不自然な時間に行わざるを得ませんでした。

 この様な王にも、1864年3月10日、父王マクシミリアン二世の跡を継いだ時、前途は明るい希望に満ち溢れていたのです。
確かに王家の歴史には、暗い過去も有りました。
祖父リードヴィッヒ一世は、60歳の時、スペイン人の踊り子ローラ・モンテス、実はアイルランド女性エリザ・ギルバートと恋に落ち、国の財政を傾け、叔母のアレクサンドラ公女は、才能豊な女性でしたが、神経を病み、健康に異常な関心を持っていました。

 18歳で即位した、美男の新王は、バイエルン国民の心を捕らえましたが、しかし彼らは、新王が15歳の時、ワーグナーの歌劇「ローエングリン」を聞いて以来、ワーグナーの虜になっている事迄は知りませんでした。

 即位すると直ぐに、王は廷臣を遣って、ワーグナーを探します。
ワーグナーはその頃、巨額の負債を抱えて身を隠していましたが、王は彼の負債の全てを支払い、一生苦労無く作曲活動に打ち込める様、経済的な保証を申し出ます。
こうして、王と作曲家の厚い友情が、開花し、王は作曲家に夢中になり、作曲家の為に様々な芸術的な催しを企て、おぼれ込んで行きます。

 ワーグナーの散財は桁外れで、彼の天才がどれ程金を食うのか、と国民は囁き、或る時、ワーグナーが愛人を銀行に遣って、王の口座から現金を引き出そうとした事が有りましたが、その額は、辻馬車2台を雇わなくてはならない程で、ワーグナーに対するバイエルン国民の反感は、いっそう強いものに成って行きました。

 しかも作曲家は政治にも介入した為、王は友情と公的義務の二者選択を迫られる破目に陥り、ルードヴィッヒ二世は、しぶしぶながら王としての責任を果たす道を選び、ワーグナーにミュンヘン退去を命じますが、王のワーグナー傾倒は、作曲家がこの世を去る迄続きました。

続く・・・
2011/08/06

人類の軌跡その166:末路⑧

<アナスタシア番外編その2>

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20世紀FOX 1956年度アカデミー賞受賞作品「追想(アナスタシア)」より

◎帝政ロシア終焉の謎を語る時に良く登場する皇女アナスタシア2

 1928年ドイツからアメリカに移住したアンナ・アンダーソンが、自分はロマノフ王朝の第4皇女アナスタシアだと主張したことから、アナスタシア生存説のミステリーが生まれ、ペレストロイカ以降、タブーとされていた皇帝一家処刑についてもグラスノスチ(情報開示)で明るみに成り始めました。

 皇帝一家のものと思われる遺体がエカテリンブルグの郊外から発見され、奇しくもアンナ・アンダーソンが死んだ1991年DNA鑑定の結果皇帝一家のものと確認されましたが、当時確認されたのは処刑された11人の遺体の内9体だけで、皇女マリアと皇太子アレクセイの遺体は発見されませんでした。
1998年7月17日殺害から80年、遺体はサンクトペテルスブルグのペトロパブロフスキー寺院にあるロマノフ家の墓に埋葬されますが、単なる偶然なのか、時のロシア大統領がエカテリンブルグ出身のボリス・エリツィンです。

 ロマノフ王朝の始まりは1613年、コストマのイパーチェフ修道院でミハイル・ロマノフがモスクワ大公国の君主として戴冠した時から始まり、1918年ニコライ2世とその家族がエカテリンブルクの商人イパーチェフの館で処刑され幕を閉じます。

 皇帝エカテリーナ1世の名を刻んだエカテリンブルクも、共産党時代には皇帝一家処刑を影で指揮したスヴェルドロフの名を刻みスヴェルドロフスクと呼ばれ、現在はエカテリンブルクに戻りました。
皇帝一家終焉の場となったイパーチェフの館は1975年KGB議長アンドロポフの命令で解体され、その指揮を取らされたのが当時スヴェルドロフスク共産党第一書記だったボリス・エリツィンで、後にこの男によって、共産党支配の歴史も幕を閉じるのですから、歴史の巡り合わせは不思議ですね。

 皇帝一家処刑についてはソビエト時代のタブーだったのですが、アナスタシア生存の謎から西側の研究者達がエカテリンブルク(当時のスヴェルドロフスク)を訪れるように成った為に、市民に皇帝一家処刑を知られる事を恐れた共産党が証拠隠滅したのだと云われています。

 DNA鑑定では皇女アナスタシアの遺体は確認されていることになりますが、アンナ・アンダーソンが別人だったかと云うミステリーについてはまだ疑問の余地が残るのだそうです。

終わり・・・

2011/08/05

人類の軌跡その165:末路⑦

<アナスタシア番外編>

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20世紀FOX 1956年度アカデミー賞受賞作品「追想(アナスタシア)」より

◎帝政ロシア終焉の謎を語る時に良く登場する皇女アナスタシア

 最近ではディズニーアニメでも取り上げられ、古くには映画「追想」の中でイングリット・バーグマンがアナスタシアを演じています。
1917年の二月革命以後、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその家族は臨時政府によってサンクトペテルスブルク(当時の名前はペトログラード)郊外のツァールスコエ・セローの離宮に幽閉されていましたが、7月に就任した首相ケレンスキーは一家を流刑地シベリア(トボリスク)送りにします。

 ニコライ2世の妻アレクサンドラは、イギリスのヴィクトリア女王の孫娘に当たりますので、親戚に当たる英国王室からの救援を最後まで期待していたと云われています。
後に十月革命が勃発してボルシェビキ政権が確立したとはいえ、当時のロシアは赤軍と白軍の勢力が拮抗していた時代で、皇帝一家の存在が情勢を大きく左右させる可能性も在り、当時の政府で皇帝一家の命運を握っていたのがスヴェルドロフで、彼は皇帝一家をモスクワに移送する途中、自分の故郷エカテリンブルクに立ち寄らせ、商人イパーチェフの館に滞在させます。

 そして運命の1918年7月16日、館にボルシェビキ軍が押し寄せ、皇帝夫妻、4人の皇女と皇太子アレクセイ、従者4人を含む11人が銃殺されたのでした。
現在考えられているのは、皇帝一家虐殺でヨーロッパ諸国からの非難を恐れたスヴェルドロフは、対外的には自分の故郷エカテリンブルクの狂信的なボルシェビキの一方的な仕業に仕立て、本人はモスクワ移送を計画していたとし、この時処刑したのは、皇帝ニコライ2世一人と表向きに公表しそれ以降、この問題を語る事自体、党内部ではタブーとしたのです。

 虐殺から数日後、白軍がエカテリンブルクを奪回し、皇帝一家が処刑された事実を調査しましたが、遺体は何処に埋められたのか判明せず、難を逃れた皇女達が何処かに生きていると云う噂が広まり、一説にはシベリアを横断し日本に逃げたと言う説まで存在しました。

続く・・・

2011/08/04

人類の軌跡その164:末路⑥

<アナスタシアその2>近代史最大の皇族身分詐称事件

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20世紀FOX 1956年度アカデミー賞受賞作品「追想(アナスタシア)」より、アナスタシア(イングリット・バーグマン)マリア・フョードロヴナ皇太后(ヘレン・ヘイズ)

◎真偽論争

 ベルリンのロシア人社会は、完全に二分され、多くは彼女を皇女アナスタジア・ニコライブナと認めましたが、一方ペテン師との非難も少なく無かったのです。
皇女をはっきりと見覚えている人物は、既にほとんど鬼籍に入っており、彼女の主張が認められれば、ロマノフ家の財産の分け前を失う人物も多く存在した事も事実なのです。

 皇帝一家のフランス語家庭教師で在った、ピエール・ジャリールは、彼女を偽者と確信しました。
なぜなら、彼女はロシア語を解さず、ロシア正教の流儀より、ローマ・カトリックの流儀で十字を切る、と言う事がこの論拠に成っていました。

 皇帝の従兄弟で、生き残ったロマノフ一族の長老シリル大公は、彼女との会見も、其の問題に触れる事すらも拒否した程でした。

◎法廷の判断

 皇后の妹、プロイセンのイレーネ公女は、彼女の額と目が、当にアナスタシアのものであると断言しましたが、イレーネ公女がアナスタシアを最後に見たのは、10年以上も昔の事でした。

 皇帝の従兄弟、アンドレーエフ大公は、彼女を完全に承認し、「彼女は真の皇女」であると公言しました。
アンナ(アナスタシア)は後に、叔父のヘッセン大公エルンストが、1916年、ロシアとドイツが交戦していた時に、ロシアを訪問したと主張しますが、大公はこの事柄を完全に否定し、アンナは「ずうずうしい嘘つき」と公言したと伝えられています。
しかしながら、1949年の事、元ロシア皇帝連隊の一人、ラルスキー大佐がアンナの主張した時期に大公が、確かにロシアを訪問した事を宣誓した上で供述しました。

 1933年、ベルリン法廷は、アナスタジア・ニコライブナの死亡を正式に認め、ドイツにある皇帝財産を生存する縁者6名に相続させる証書を認定します。
こうして、アンナの認知への闘いは、振出しに戻りました。

◎その他諸々の証拠

 アンナは病院で、精密な医学検査を受け、X線検査で、銃の台尻による打撲傷と見える傷跡が、頭部に発見され、足には、皇女と全く同じ場所に、黒子が存在し、更に黒子を取った肩の傷跡は、アナスタジア・ニコライブナのカルテに記載されたものと同じでした。

 左手の中指に残る小さな傷跡は、幼い頃、下僕が不用意に馬車の扉を閉めて、彼女の指を挟んだ為に出来たものであるとアンナは語り、この話しは彼女の元侍女の一人が、其の話しを立証します。

 1938年、彼女の弁護士が1933年の証書認定を破棄するよう申し立てますが、第二次世界大戦の勃発で、法廷の審議は行われずに終わり、1968年5月、ハンブルグの法廷は、アンナに不利な裁決を下しましたが、その後も法廷での審議は続いたのです。

続く・・・

2011/08/03

人類の軌跡その163:末路⑤

<アナスタシア>近代史最大の皇族身分詐称事件

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20世紀FOX 1956年度アカデミー賞受賞作品「追想(アナスタシア)」より、アナスタシア(イングリット・バーグマン)ボーニン将軍(ユル・ブリンナー)

 ロマノフ家の末路を包んだ霧の中から、是までに色々な人物が登場し、皇帝一家の一員であると主張してきましたが、その大部分はロマノフ家の莫大な遺産目当ての人物達でした。

 しかし、1920年2月17日にベルリンの運河から、半ば気を失って救い上げられた10代の少女の語った物語は、可也の真実性を帯びて、人々に聞き入れられました。
多くの亡命ロシア貴族も、彼女を本物と認めた程で、彼女は皇帝ニコライ2世の末娘、アナスタジア・ニコライブナであると語ったのです。

 話は、大変複雑で、ロマノフ家の財産の殆どは革命直前、密かにロシア国外に持ち出され、西側の銀行に預けられたとの噂が存在し、同家の財産は、現金だけで40億ドルに上ると見積もる事が出来、その他、ドイツには莫大な不動産が存在していました。

◎救  出

 1918年、革命政府の発表では、皇帝自身は処刑されたが、彼の家族は処刑を逃れ、他の場所に送られ事に成っていました。
其れが事実で在るならば、皇太子か皇女が実際に後年、出現しても不思議な事では在りません。

 ベルリンの運河から救い上げられたその少女は、アンナ・チャイコフスキー名義の証明書を所持しており、収容された病院で元気を回復した直後から、自分はアナスタシアであると主張し、処刑を逃れた模様を詳細に物語ました。
彼女は家族と共に、エカテリンブルグの地下室へ処刑の為に連れて行かれたと話し、銃撃を受けて負傷し、彼女は気を失いました。
しかし、意識を取り戻してみると、男女二人ずつが引く、農夫の荷車に隠されていたと云います。

◎ボリショビキ兵に救われて

 二人の男性は、ボリショビキ兵の兄弟で、名前をチャイコフスキーといい、処刑には参加していませんでした。
兄弟が彼女に語ったところでは、少女は死亡したものとして、地下室に床に放置されており、兄弟が死体を地下室から運び出す事になっていました。
兄弟は、彼女にまだ息がある事に気付き、少女を密かにロシア国外へ救い出そうと決心したのだそうです。

 真珠にネックレス、ドレスに縫い込まれていたエメラルドの原石を売却してお金で、少女と救出者達は、ようやくルーマニアの首都ブカレストに辿り着き、其処で一行は、チャイコフスキーの親類宅に身を寄せました。
少女は、革命政府を恐れる余り、隠れ家から一歩も外出する事なく、やがて兄弟の一人と結婚して、子供を一人もうけました。
その後、間もなく、夫は路上で革命政府の通報者によって、脱走兵として射殺され、彼女もまた病に倒れ、子供は養子に出されてしまいます。

 義弟セルゲイ・チャイコフスキーは、彼女をベルリンへ連れて行く事とし、其処ならば革命政府の目からより安全と思われたからです。
しかし、恐怖に満ちた旅路の果てに辿り着いたベルリンで、セルゲイは姿を消し、少女は疲れ果て、絶望の余り運河にみを投じて自殺を図ったのでした。

 その後10年間、彼女はロマノフ家の一員として、資格回復と帝室財産の相続権を主張し続け、皇帝支持者との接触を繰り返します。

続く・・・

2011/08/02

人類の軌跡その162:末路④

<ロマノフ家最後の1年番外編>

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◎番外編

 帝政ロシア最後の皇帝「ニコライ2世」の名誉回復が成されました。
ロシア連邦最高裁は、2008年10月1日、ニコライ2世とその家族の名誉を回復しました。

 一家は、ロシア革命初頭の1918年7月、エカテリンブルクでボリシェビキ(のちのソ連共産党)のメンバーにより、裁判も罪状もないままに軟禁されていた家で、医師、従者共々銃殺されたのです。
殺害されたのは、ニコライ2世、アレクサンドラ皇后、そして5人の子供達。
すなわち長女オリガ、次女タチアーナ、三女マリア、四女アナスタシア、皇太子アレクセイ。
末の皇女アナスタシアだけが生き延びとの噂もあり、「私は、アナスタシア・ニコライヴナ」と名乗る女性が出現した為、依然、特定する事は困難な様に思えますが・・・。

 さて皇帝ら5人は、処刑されたエカテリンブルク郊外で1991年に遺骨が発掘され、1998年、時のエリツィン大統領主導で、歴代の皇帝が眠るサンクトペテルブルクのペトロパブロフスク大聖堂に移され、埋葬されました。
更に、マリアとアレクセイとみられる遺骨もその後発掘され、此れまでに本人である事が、ほぼ確認されています。
皇帝一家は2000年にロシア正教会の聖人にも列せられ、「ロシア社会の和解の象徴」とされ、「事実上の名誉回復は終えている」と冷静に受け止める市民も多いのです。

 一家について、最高裁判所はロマノフ王家の子孫達の上告に対し、「根拠無しに迫害された」「政治弾圧の犠牲者」と判断し、名誉回復するとの裁定を下したのでした。

 ニコライは皇太子時代、1891年4月27日、ロシア海軍軍艦アゾフ号で長崎に来航し、各地を訪問した後、5月11日、琵琶湖遊覧から京都の宿舎に戻る為、滋賀県大津市内を通過中、警備の津田三蔵巡査による襲撃に遭い、怪我をしました(大津事件)。

 この事件の重大さに、時の松方正義首相は無論、明治天皇も急遽、京都の常磐ホテル(現京都ホテルオークラ)に滞在していた皇太子ニコライをお見舞いした程で、当時の国際情勢下で日露開戦となれば、日本が惨敗していた可能性が強いとされています。

終わり・・・
2011/08/01

人類の軌跡その161:末路③

<ロマノフ家最後の1年その3>

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                  皇帝一家

◎密  約

 住民のうち革命主義者28人が、皇帝一家殺害に加担した罪に問われ、5人が処刑されました。
しかし、決定的な証拠は何一つ発見されず、今日尚、ロマノフ家の末路の真相は疑惑に包まれたままなのです。
廃坑の坑道から発見されたのは、歯、眼鏡、衣類の断片だけで、後に眼鏡はボトキン博士の所持品と判明しまし、衣類は使用人のものと推定されました。
革命政府には、皇帝を生かしておかなければならない理由が在ったのです。
彼らは、ドイツと既に皇帝を無傷で亡命させる密約を結んでおり、前皇帝を釈放すれば、革命派の方針が西欧世界を始め多くの国の共感を呼ぶはずでした。

◎イギリス国王の不可解な態度

 地下室で銃殺されたのは、果たして誰なのでしょう?
この部分は、現在、ロシア政府の正式発表と言う形では、皇帝一家であるとされていますが、大きな疑問でもあるのです。
白軍が発見したのは、ボトキン博士と使用人のものだけだったと推察する、研究者も存在し皇帝一家の殺害を偽装し、秘密の亡命を知る人物を抹消する必要から、彼らが殺害されたとも解釈されるのです。

 アメリカとイギリスが革命政府と協定を結んだとの噂も、根強く伝えられ、余談に成りますが1919年に「皇帝救出作戦」と題する書物が出版されましたが、本文において、その著者が皇帝一家を革命政府から救い、亡命させたと述べました(?)。
当然ですが、この本の内容を本気で信じた、研究者や歴史家は皆無です。

 しかし、時代が下るに従って、皇帝一家が生き延びているのではないかと思われる、不思議な出来事が幾つか発生します。
ロンドンで皇帝の追悼式典が執り行われた時、時のイギリス国王 ジョージ5世は自らの出席も代理人の派遣も断りましたが、イギリス国王は、皇帝一家の生存を知っていたのではないか?との憶測を呼び、又アメリカ国務省は、現在尚、ロマノフ家のオープンファイルを保持しているとの事です。

 1961年、ポーランドの情報機関員、ミハウ・ゴレニエフスキーがアメリカに亡命しますが、自分は皇帝の長男アレクセイであると主張し、3年後、ニューヨークで行われた彼の結婚式に出席した2人の女性が、オリガとタチアーネの名前で署名しました。
ゴレニエフスキーはその後、長い間、ロシア皇帝継承権を主張し続けます。

 しかし、ゴレニエフスキーにも、血友病患者ではない自分が、なぜ最後のロシア皇帝の子息で在り得るのか、説明する事は出来ませんでした。
アレクセイは、周知の事実として、遺伝する血友病を患っていたからです。

 エカテリンブルグで起きた事件の証人は、すでに存在しておらず、ロマノフ家の秘密は、彼らと共に葬られたのでしょう。

終わり・・・