2011/09/30

人類の軌跡その207:歴史の狭間で22

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:イギリス 大英帝国の威信を賭けてその④>
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イギリス海軍戦艦 HMSキング・ジョージ5世

◎軍  備その②

海 軍

 第一次世界大戦前は、全世界の半数を保有する程の栄光に包まれたイギリス海軍は、大戦後の財政悪化による軍縮により、更にワシントン軍縮条約(1922年)、ロンドン軍縮条約(1930年)に従い、その規模はアメリカ海軍と同等のレベルに迄低下します。
大戦間の海軍の役割は、世界にある海外植民地と本国間の海上路(シーレーン)防衛という限定的なものになりました。

 しかし、ドイツの脅威が顕著となった1936年から、軍備拡充が本格化し、空軍に次いで2番目の優先順位であるものの、35,000t級の新戦艦キングジョージ5世他、数隻が新規建造されたのみであり、殆どが、第一次世界大戦当時の旧式戦艦の近代改装を行ったに過ぎませんでした。

空 軍

 1918年4月陸軍航空隊と海軍航空隊を統合して成立したイギリス空軍は、第一次世界大戦時には、世界一の配備数を誇りましたが、大戦後陸軍、海軍と同様。軍縮政策によりその保有数は激減しました。
しかし、1935年のドイツ再軍備宣言は、一般国民の間に、万が一ドイツとの戦争になれば、まずドイツ空軍機によるイギリス本土先制空襲が行われるとの、強迫観念ともいえる危機感を抱かせ、空軍はイギリス本土に対する攻撃を阻止する力を整備強化する為に、1935年から5年間の軍備増強計画では、空軍が優先され、是が後に、「バトル・オブ・ブリテン」でイギリスに勝利を齎す事と成ります。

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続く・・・


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2011/09/29

人類の軌跡その206:歴史の狭間で21

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:イギリス 大英帝国の威信を賭けてその③>

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◎軍  備

陸 軍

 第一次世界大戦後のイギリス陸軍は、緊縮財政の煽りを受け、大幅な兵力削減を行いました。
しかし、ヒトラーの台頭によるドイツの脅威が顕著となった、1936年から軍備拡充に路線を変更します。
只、四方を海に囲まれたイギリスにとって陸軍は、海軍、空軍に比べると優先順位は下位を甘んじていました。
是は第一次世界大戦での塹壕戦による、甚大な人的損害の記憶が生々しく、陸軍部隊のヨーロッパ大陸派遣を行う決断が出来なくなっていた為、ヨーロッパ大陸に於いて、ドイツ覇権を阻止するのでは無く、本土防衛が第一の目的であった為なのです。

 陸軍の正規部隊は、少数の職業軍人で構成されており、主な予備役は地方別志願制予備軍で、訓練は不十分の上、装備も不足していましたが、緊急時には容易に動員できる利点を有していたのです。
伝統的にイギリス陸軍は、志願制を導入していましたが、第一次世界大戦終結後に、志願した兵士の大部分が大量失業した事実から、志願者が定員に達しない慢性的な定員不足問題に悩まされており、其の為、限定徴兵制を行い、1940年には50個師団までの編成を行います。

 戦車運用は、第一次世界大戦の戦場に、世界最初の戦車を実戦投入した、戦車先進国でした。
しかし、当初の目的が、塹壕戦に於ける歩兵の援護の為、この運用思想の域を出る事が出来ず、戦車は歩兵の援護が最大の運用目的だったのです。

 1927年にイギリス演習機械化軍(EMF)が編成されます。
是は、戦車、装甲偵察車、歩兵、砲兵、航空機支援を含み、将来の機甲師団の主要な編成の全てを網羅していましたが、旅団規模であり編成も短命に終わりました。
しかしこの実験演習は、戦車の有効性を示すに十分で、この運用実績に従い、陸軍は1934年、足の遅い歩兵支援用の戦車(歩兵戦車)と敵の戦車と対抗可能な機動性を有した戦車(巡航戦車)を要求していましたが、海空軍が優先された事も在り、遅々としてその配備は進みませんでした。

続く・・・



2011/09/28

人類の軌跡その205:歴史の狭間で20

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:イギリス 大英帝国の威信を賭けてその②>

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1938年 ミュンヘン会談


◎宥和政策とチェコスロヴァキア問題

 宥和政策とは、1937年に首相に就任したネヴィル・チェンバレンが押し進めた政策で、ナチス・ドイツに譲歩する事によって平和を維持しようとする政策でした。
1938年2月、対独強硬派で在った外相アンソニー・イーデンが、首相と対立して辞任に追い込まれた後、宥和政策が顕著となります。
後世、この政策は弱腰外交と非難されるが、当時ドイツに対抗可能な戦力を再建する為の時間稼ぎの性格も有していたのです。

 この宥和政策の典型となったのが、チェコスロヴァキア問題での対応でした。
当時、チェコスロヴァキアのドイツ系住民が多数住んでいた、ズデーテン地方の割譲をヒトラーが要求し、その要求が拒絶された場合には、戦争をも辞さない強行姿勢を貫いていました。
是に対し、チェコスロヴァキア政府は、要求を断固として拒否し、国内に動員令を布告し、戦火を交える事をも辞さない態度を取りましたが、世界大戦に発展する事を恐れた英仏列強は、イタリアの仲介によりミュンヘンでチェコ問題を協議したのでした(ミュンヘン会談)。

 しかし、この会談は独伊英仏の4国のみで、当事国で在るはずのチェコスロヴァキアは除外され、その会談の結果、チェコスロヴァキアは、ドイツへのズテーデン地方割譲と引き換えに、チェコスロヴァキアに国家としての独立保障が取り決められます。
チェコスロヴァキア政府は、止む無くズデーテン割譲を容認せざるを得ず、この会談によって、イギリス首相ネヴィル・チェンバレンは戦争回避を宣言します。
最もヒトラーは、ミュンヘン協定を尊重する事は無く、1939年、ミュンヘン会議の取り決めを無視し、チェコ(ボヘミア・モラヴィア地方)を併合し、スロヴァキアを保護国化する行動を起こし、この結果、イギリス政府は完全にその体面を傷つけられ、従来の宥和政策を捨て去り、ドイツとの対決を明確にするようになりました。

続く・・・


2011/09/27

人類の軌跡その204:歴史の狭間で⑲

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:イギリス 大英帝国の威信を賭けて>
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イギリス海軍 戦艦ヴァンガード

◎経済不況と軍備

 イギリスは、第一次世界大戦には勝利したものの、人的、経済的損失は膨大なもので、戦前のイギリスの国際的な優位(パックス・ブリタニカ)は失われ、膨大な戦時債務だけが残る結果となりました。
1920年代には、国債償還の為の予算が年間予算の半数、GNP7%という膨大なものとなり、財政的硬直化が顕著で、衰退傾向にあった伝統的輸出産業の繊維、鉄鋼、石炭、造船産業の国際競争力の弱体化による恒常的な不景気は、大量の失業者を生み、経済再建は遅々として進まず、1929年の世界大恐慌の決定的な追い打ちを受ける事となり、この為、大戦間は、財政再建の為に思い切った軍縮に迫られました。

 しかし、1933年にドイツでヒトラー率いる、国家社会主義労働者党の権力掌握は、イギリスに危惧を抱かせるに十分であり、これに呼応して、1934年には国防関係委員会は、防衛費の増額と、ヨーロッパで戦えるだけの兵力の増強を政府に勧告し、又、1935年ドイツのヴェルサイユ体制の重大な違反である再軍備宣言を行ったことに対応して、イギリスは英独海軍協定を締結し、ドイツの再軍備化を部分的認める事と引き替えに、イギリスはドイツを国際協定の枠内に引き込みました。
更に1937年に第二次海軍協定をドイツと結び、第二回ロンドン海軍条約の国際制限厳守を履行せる努力を行ったものの、結果的に失敗に終わり、大戦を避けられないと判断したイギリスは、1935年以降5年間も15億ポンド規模の再軍備計画を画策しますが、一方で軍備が整う間の時間稼ぎの為、ドイツを刺激する事が無い様に、譲歩策(宥和政策)を進めたのでした。

続く・・・


2011/09/26

人類の軌跡その203:歴史の狭間で⑱

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:イタリアその④>

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ハイレ・セラシエ1世 エチオピア帝国最後の皇帝

◎国際連盟の態度

 1935年1月の事、フランス外相ラバルが、イタリアを訪問してムッソリーニと会談した時、ムッソリーニはラバルに「我々は、フランスがモロッコで行った行為と同様の行為を行った場合、フランスは抗議する理由があるか」と質問しました。
ラバルは暫く考えて抗議する理由はないと答えたと云います。
エチオピア侵略に対して、国際連盟の態度は及び腰でした。
其れでも、イタリア軍による全面的なエチオピア攻撃が始まると、国際世論に押されて国際連盟理事会は、イタリアに制裁を加える事を決定しました。

その内容は以下

①イタリアに武器を輸出禁止
②信用を停止
③イタリア商品を輸入禁止
④アルミニウム、ゴム、鉄、スズ等の軍用物資の輸出禁止、でした。

 しかし、国際連盟の「経済制裁」の実施は様々な口実で引延ばされ、侵略開始後1ヶ月半を経過し、しかも、イタリアへの輸出禁止物資の中から、石油と石炭が削除されます。
石油に関して「石油無くしてエチオピア戦争の継続は不可能」と迄云われた程、イタリアにとって重要な戦略物資でした。
1935年12月8日、英仏はエチオピア問題について、一つの調停案を作り上げます。

その内容は以下

①イタリアにエチオピア領の約半分割譲。
②エチオピアにエリトリアの一部を領土に加える
③南部エチオピアをイタリアの経済的独占権の下に置く

 内容は当に、イタリアの侵略の結果をそのまま認めるに等しいものであり、エチオピア皇帝は「これは、国際連盟の忠実な加盟国エチオピアを非道に解体させ、滅亡させるもの」と非難しました。
1936年5月エチオピア皇帝は終に、首都アジス・アベバを離れ、ロンドンに亡命し、首都はイタリア軍に占領され、ムッソリーニは「エチオピアを併合した」と宣言しました。
国際連盟は、7月イタリアに対する制裁を撤回したのでした。

続く・・・


2011/09/22

人類の軌跡その202:歴史の狭間で⑰

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:イタリアその③>

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◎エチオピア侵略の目的と計算

 1935年10月1日、ムッソリーニは国民に向かって、「イタリアは、日のあたる場所を求める」と演説しました。
「日のあたる場所」即ち植民地を獲得する為、エチオピアに侵攻(侵略)する事を提唱したのです。
翌日、一切の宣戦布告も無しに、イタリア軍が大挙してエチオピアの領内に侵入しました。
エチオピアは直ちに反撃を開始し、同時に国際連盟にイタリアの侵略行為を即時停止する様訴えます。

 エチオピアはコーヒーと皮革の輸出国であり、更にその国土には、豊かな鉱産資源が利用されないまま眠っていると云う噂も当時広く流布していたのです。
イタリアの財界、企業はこの広大な土地を支配する事によって原料・資源を手に入れることを期待し、一方ムッソリーニには、エチオピアを侵略しても英仏を中心とする国際連盟は、強い態度に出て来ないとの計算が存在していました。

 その根拠は、1931年に始まった日本の満州侵略に対して、国際連盟が日本の行為を非難しながらも、それを阻止する為に有効な手段を一切選択しなかったからなのです。
そして前年の1934年に、イタリアはイタリア領ソマリランドとエチオピアの国境線が、未確定である事態を上手く利用して紛争(ワルワル事件)を起こしており、この陽動作戦は、英仏の反応を確かめる事にも成っていました。

続く・・・


2011/09/21

人類の軌跡その201:歴史の狭間で⑯

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:イタリアその②>

◎軍 備

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1942年,北アフリカ・キレナイカ・イタリア軍M13/40戦車

 イタリアは、工業全般について未熟であり、基盤が弱く、エチオピア侵攻とスペイン内戦介入は、軍備消耗を招いていました。
其の為、軍備の機械化は著しく遅れ、既に第二次世界大戦時、米英と前面的に交戦できるだけの工業力、経済力を失っていたのです。

陸 軍

 当時陸軍は37個師団を擁していたが、小銃は1891年製と云う既に骨董品扱いされていた代物であった事からも伺う事が可能です(ちなみに日本陸軍の正式歩兵銃である38式歩兵銃は、1902年製である)。

 更に、戦車運用に関して、険しい山岳地帯が多いイタリア国土に対応するべく、軽量化・小型化が優先されるという決定的な試行錯誤を演じ、この事は、後のアフリカ戦域で、イギリス戦車、対ソ戦では、ソ連製の戦車に全く対抗できませんでした。

海 軍

 自国沿岸海域と地中海域を主要な作戦海域とし、フランスとの戦闘を念頭に置いて整備されていましたが、高速性を優先し、防御力を犠牲にした事は、致命的ともいえる結果を齎します。
すなわち、爆弾一発で沈没しかねない危険性を有する事と成り、事実、戦艦ローマは1943年にドイツのたった一発(二発の説有り)の誘導爆弾「フリッツX」(艦対艦もしくは艦対地巡航ミサイル、トマホークの前身にあたる「誘導爆弾」)で沈没する醜態を晒す事に成りました。

空 軍

 陸軍とは対照的に、早くも1911年の対トルコ戦で世界に先駆けて飛行機を実戦使用したという先進性を有していましたが、工業力の未熟さ、飛行機の命とも言える高性能エンジン開発の失敗等、工業的な問題から、更には雑多の飛行機メーカー(22社あったという)がそれぞれの飛行機を生産する、不統一性の為、低い工業力のイタリアにとっては、種類が多い割には生産機数が少ない事態を生じさせてしまいます。

 また、前述した多種多様な機体存在した為、メンテナンスには多大な苦労が存在し、稼働率は全保有機の1/3以下と少なく、結果として、一部では名機を輩出しながらも、全体的には多種多様で統一性のない内容と成りました。

続く・・・


2011/09/20

人類の軌跡その200:歴史の狭間で⑮

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:イタリア>

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ベニト・ムッソリーニ

 イタリアは、第一次世界大戦の戦勝国と成りましたが、「未回収のイタリア」と云われたトリエステ地方と、チロル地方を宿敵旧オーストリア=ハンガリー帝国から得たに過ぎませんでした。
更に第一次世界大戦の軍事的負担は、戦後のイタリア経済を逼迫させる事と成り、戦勝国にも拘わらず、得るものが少なかった事に対する国民の不満が増大し、ファシズムが台頭して行きます。
ベニト・ムッソリーニ率いるファシスト党による一党独裁体制が確立すると供に、古代ローマ帝国の失われた栄光の復活を目指し、軍備拡張、植民地獲得の為、当時アフリカ大陸の数少ない独立国エチオピア王国を侵攻、更にはスペイン内戦に介入したのでした。

 しかし、これ等の軍事駆動で得るものは無く、唯いたずらに軍事力を消耗させる事に成りました。
又、エチオピア侵攻は国際世論の反発を招き、更には国際連盟による対伊経済封鎖を引き起こす失態を晒したのでした。
特にこの経済封鎖は、度重なる軍事行動によって弱体化していたイタリア経済に深刻な問題を起こしたのです。
国際連盟の行動に反発したイタリアは、連盟を脱退すると共に、同じく国際的な孤立を深めていたドイツ、日本へ急接に接近して行きました。

◎イタリアの第二次世界大戦

 1939年9月のドイツの対ポーランド進行作戦時、イタリア軍はドイツ軍と行動を共にする程に整備が進んでおらず、中立を保つ更には1940年5月の独仏開戦に当たっても当初の中立を保っていました。
しかし、1940年6月10日、フランス崩壊間際に、嘗てのイタリア領であるサヴォイア、ニース地方に急遽侵攻し、対英仏宣戦布告を行ったものの、戦力的優位に在るイタリア軍が、遥かに劣勢のフランス軍守備隊に対し、敗北を期すると云う醜態を晒す事に成りました。

 この場合は、フランスの対独降伏によって、対面は保たれますが、その後、アフリカ、ギリシア、ソ連で連戦連敗を記録し、「戦えば必ず敗北する」と云う有難く無い神話を確立する事に成ります。
終には1943年にいち早く無条件降伏して、三国同盟から脱落し、更に対独宣戦布告を行い、ドイツの敵国と成りました。
全く、同盟国としてドイツの足を引っ張る事ばかりでした。

 もしも、イタリアが対独参戦をせず、中立を保ったのなら、ドイツ軍は遥かに有利に戦局を主導できたのではないかと云う研究成果も存在しています。
事実、ヒトラーはイタリア軍の不甲斐なさに何度も激怒し、イタリアが中立国であればと思った事も一度成らず有ったと云われています。

☆逸  話

 イタリアが対仏宣戦を行った時、てっきりイタリアがドイツに攻めてくると早合点したヒトラーが、国境に一個師団を派遣すれば、イタリア軍に対抗できるだろうと判断して部下に命じた処、参謀達からイタリアがフランスに攻め込んだと云う報告を受け、改めてヒトラーは、万が一イタリア軍がフランス軍に敗北し、オーストリア経由でフランス軍にドイツを南部から攻撃される事を懸念したヒトラーは、2個師団をイタリア国境に派遣して、イタリア軍援護を命じたと云います。
話の真偽はともかくとして、笑うに笑えない話なのです。


続く・・・


2011/09/17

人類の軌跡その199:歴史の狭間で⑭

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:フランス悲劇の陸軍大国その②>

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フランス海軍 戦艦リシュリュー

◎軍  備

 フランスは、対独宣戦布告を行った直後、第一次世界大戦の時と同じく、大量動員を行い全人口(4000万人)の1/8の500万人と云う規模でしたが、大量の熟練工迄を動員した事により、軍需工場が操業停止する等、経済的な大混乱を発生させました。

陸 軍

 第一次世界大戦時に、従来の輸送手段で有った馬に代わり、いち早く自動車を取り入れる進歩性を有していたフランス陸軍でしたが、大戦後は、時代錯誤とも言える防御的退化性を示し、前述した輸送手段については、自動車から馬に逆戻りし、更に戦車運用に関して、歩兵の為の補助的な役割しか与えられず、各歩兵部隊に分散配置されてしまいました。

 又、防御思想の極致で在るマジノライン建設は、膨大な軍事予算を必要とし、更に政情不安による軍事費削減も重なり、新規兵器調達費、兵器開発費等が大幅に削減された結果、独仏開戦時には、物量に於いてドイツの対抗可能でも、装備内容に関しては多種多様な戦車、中には第一次世界大戦時に製造された旧式戦車が第一線に配備されていたと云うお粗末さで、とてもドイツに対抗できる状態では在りませんでした。

海 軍
 
 ヨーロッパ屈指の陸軍国フランスは、世界各地に保有していた海外植民地と、本国との海上交通路(シーレーン)を確保する必要が在り、特に地中海域にはアフリカ進出を狙うイタリアを牽制する意味から、その軍事力に対抗できる海軍力を配置しましたが、その内容は、当時弱体化したイギリス海軍や、凋落傾向にあった陸軍とは対照的に近代化が進んでいました。
之は、海軍大臣だった故ジョルジュ=レイグの手腕と海軍総司令官フランソワ=ダルランの能力によるところが大きく、開戦時には、前弩級戦艦3隻の他、イギリスの巡洋戦艦に相当する26,000t級ダンケルクとストラスブールが在籍しており、35,000t級リシュリューとジャン=バールも竣工寸前でした。
この2隻は当時世界最強の戦艦と成る筈で、更に18隻の近代型重巡が配備され、28隻の対魚雷用艦艇(イギリスの軽巡に相当、さらに24隻が建造中)を保有していました。

 しかし、第二次世界大戦では、地上戦で陸軍が早期にドイツに撃破された為、海軍の活躍が殆ど無く、更に戦闘艦艇がドイツに引き渡されてドイツ海軍に編入される事を恐れたイギリス首脳部が、フランス領モロッコ等の海外植民地の各港に係留中のフランス艦艇を攻撃する悲劇が発生しました。

空 軍

 空軍力の配備機数は1938年に最低線まで落ち、その後、回復したものの、ドイツに遠く及ばず、この原因は、フランス航空産業の国有化に失敗し、機体製造に不可欠なアルミニウム生産が少なかった為と云われています。

【参考 第一次世界大戦の人的被害について】

 死者150万人、更に負傷者は500万人に上り(そのうち身体障害者150万人)、死者に関して、連合国中ではロシアに次いで、ワースト2で在り、実に30歳以下の若年人口の1/8に達し、人口統計学上からも、既に人口が横這い状態のフランスにとっては致命的被害と云えるものでした。

続く・・・

2011/09/16

人類の軌跡その198:歴史の狭間で⑬

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:フランス悲劇の陸軍大国>

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ドイツ国防軍 巨大列車砲「DORA」

 第一次世界大戦に勝利したものの、甚大な経済的、人的被害を受けたフランスは、被害を最小限に押さえる為、大戦間の国防方針は明らかに防御的なものとなりました。
これは有事の際、被害を恐れる余り消極的と成って行く危険性も有していたのです。

 経済的には、中央ヨーロッパやアジアの植民地経営が成功し、一時的には往時の繁栄を取り戻したかに見えたが、1929年に始まる世界大恐慌によるダメージは甚大であり、更に大戦間のフランス政局は、右翼と左翼(共産党等)の対立によってしばし混乱し、長期的な視野に立って政策を実行し得る内閣が存在しなかった為、恐慌からの脱却が立ち行きませんでした。
この様に人的資源の面からも、経済的側面からも、ドイツの軍部拡大に太刀打ちできるだけの余力がない状態で、ドイツとの戦争に突入して行きました。

◎国防:マジノライン

 第一次世界大戦で、甚大な人的被害を被ったフランスは、大戦間の国防方針を、乏しい人的資源の減少を避ける意味から、保守的・防御的と成らざるを得ず、この象徴とも云えるものが、対独国境に建設されたマジノ要塞でした。
因みに、建設当時の陸軍大臣アンドレ・マジノにちなんで命名されたこの要塞は、膨大な費用と、当時最新技術を駆使した要塞で、少なくとも正面からの攻撃に対して、無敵でしたが、マジノ線は以下の欠点を有していたのです。

1.マジノ要塞には常時大軍を配置せねばならず、またマジノライン防衛を戦略最優先事項とした為、機動性等の柔軟性を欠いていました。

2.建設に当たって膨大な費用(当時の軍事予算を使い切った)が嵩み、又同様、維持に莫大な費用がかかり、他の兵器生産や開発への予算が枯渇していました。

3.「マジノラインが存在する限りフランスは安全である」と云う一種の幻想に似た過剰な期待を国民に抱かせ、心理的影響迄与えてしまい、この当時のフランス国民は、ナポレオンが残した教訓である「要塞にこもった敵は必ず撃破される」と云う言葉を完全に忘れていました。

4.地理的に重大な欠点をマジノラインは有していました。
第一に対独防御を想定した事、第二にベルギーを刺激しない為の配慮で、対ベルギー国境には建設しなかった事でした。
この重大な欠陥は、ベルギー国境付近を突破されれば容易に背後に回り込まれ、無力化できる事を示していました。事実、第一次世界大戦時に、ドイツ軍が直接対仏国境を攻撃せず、ベルギー国境を通って、フランスを攻撃した(シュリーフェン・プラン)前例があり、当然考慮検討しなければならない重大項目でした。
対独宣戦布告後、急ピッチで対ベルギー国境にもマジノライン延長工事を行ったものの、間に合う事無く、開戦時には対戦車防御のコンクリート製バリケードすら不十分で、まだ土塁のみの箇所も多々存在したのです。

続く・・・

2011/09/15

人類の軌跡その197:歴史の狭間で⑫

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:ユーゴスラヴィア・民族対立の果て>

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1941年パルチザン掃討作戦

 1919年のヴェルサイユ体制によって成立したユーゴスラヴィアは、セルビア人と、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人等の多種多様な民族から構成される、人為的に作られたモザイク国家です。

 しかし、第一次世界大戦の当事国であり、戦勝国でもあるセルビア王国と、敗戦国のオーストリア=ハンガリー帝国のボスニア=ヘルツェゴヴィナ地方、クロアチア地方及びスロヴェニア地方で構成されていた為、戦勝国であるセルビア人は優遇され、敗戦国であるオーストリア=ハンガリー帝国に属していたクロアチア人、スロヴェニア人は冷遇される結果と成りました。
この様な民族間の対立の為、建国当初から国家分解の危機をはらんでいました。

◎外交政策

 東西を二つの大国であるドイツ、ソ連に囲まれ、又潜在敵国であるハンガリーに接し、一種剣呑な状況に置かれたうえ、更に国内に民族対立を抱えていたユーゴスラヴィアは、チェコスロヴァキアが提唱した同盟で平和を確保しようと画策します。

 すなわち、チェコスロヴァキアとルーマニアとの間で三国協商を締結しますが、盟主的立場にあったチェコスロヴァキアが1939年にドイツによって解体され、仮想敵国ハンガリーのドイツへの接近により孤立化し、1940年のフランス敗北を引き金に、正に国家存続の危機に迫られました。

◎国家消滅

 1939年のチェコスロヴァキア崩壊に続き、仮想敵国のハンガリーのドイツへの接近、なにより致命的と云える1940年のフランスの敗戦により、1941年時点でユーゴが中立を宣言しても、戦火が免れる状況では在りませんでした。
唯一これを免れる方法は、ドイツの同盟国、現実的には隷属国家となるしか方法が無く、ユーゴスラヴィアは、1941年3月25日、日独伊三国同盟に加盟しました。

 しかし、1941年3月26日にベオグラードで発生した、セルビア人将軍シモノビッチによる反独クーデターによって親独政府は転覆、三国同盟は破棄されます。
このクーデターの意義については、単にユーゴスラヴィアを戦火に曝し、更に国家消滅をさせた愚かな行動との評価がありますが、ヒトラーの逆鱗に触れ、来る独ソ戦の為に必要な、バルカン諸国の支配力強化を目的とした、イギリスの同盟国ギリシア制圧作戦(作戦名「マリタの件」)に急遽ユーゴスラヴィア制圧作戦が組入られたのでした。

 4月6日、ドイツ軍は、ヴァイクス将軍指揮の第2軍とリスト将軍の第12軍の計33個師団が、オーストリアとブルガリアから、更にハンガリーからハンガリー第3軍、ルーマニアからは第41機械化軍団が侵入を開始し、ユーゴスラヴィア軍31個師団を撃破して行きます。 

 4月11日にはイタリア第2軍が侵攻し、4月12日には首都ベオグラードが陥落し、ユーゴの敗戦が決定的となり、4月17日にはユーゴスラヴィアは降伏します。
この戦後処理は厳しいものであり、ユーゴスラヴィアは国家としての存在を認められず、解体されますが、このユーゴスラヴィア侵攻は、ドイツの主要目的である対ソ戦(バルバロッサ作戦)の開始を5月15日から6月22日へと延期させることになり、この遅れが、後にドイツ軍に致命的な結果をもたらす事に成ります。

 国家解体後、ドイツは民族憎悪を利用した支配を実施し、ドイツ民族に近いクロアチア人の傀儡国家を成立させ、セルビア人弾圧の先兵として利用しました。
このしこりが、50年後のユーゴ内戦の遠因となった事は、現代史に明らかです。

続く・・・


2011/09/14

人類の軌跡その196:歴史の狭間で⑪

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:ハンガリー・失地回復に願いを託した国家その②>

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アウシュビッツ到着

◎ヒトラーから10万人を救った外交官

外交官:ラウル・グスタフ・ワレンバーグ(1912年~?)/スウェーデン

 第二次世界大戦の最中、民族浄化の名の下にユダヤ人への迫害が繰り広げられていたナチス占領下、ワレンバーグはスウェーデン外交官として、ハンガリーへ赴任しました。
この時から「10万人のユダヤ人を救った英雄」としての人生が始まります。
「セーフハウス」と呼ばれる31軒の家を造り、1万5千人ものユダヤ人を保護し、さらにはワレンバーグの写真とスウェーデン国旗を印刷した保護証明書を発行し、これを大量に配布しました。
この保護証明書には、法的な権限は全く有りませんでした、意外なほど効力を発揮し、大勢のユダヤ人が難を逃れることが出来たのです。

 しかし、彼の行動は一外交官の裁量を大きく逸脱する行為で在り、賄賂や脅しなどの手段も躊躇なく使ったと伝えられています。
時には、強制居住地区のユダヤ人抹殺命令を受けていた、ドイツの将軍シュミットフーバーを相手取り「これを実行すれば、戦後責任を取らせて貴方を確実に絞首刑にする」と脅して、未然に計画を阻止し、又10万人ものユダヤ人を180キロの道程を、一切の食料なしで強制移動させた「死の行進」の際には、列車で駆けつけ食料を与え、保護証明書を配布し、世論に訴えかけるという手段によって、これも阻止しました。

 その様なユダヤ人の英雄ワレンバーグは、アメリカ合衆国からの資金援助を受けていた事から、スターリン独裁下のソビエトには、アメリカのスパイと認識されてしまいます。
そして、1945年1月、ナチスを破りハンガリーへと侵攻してきたソ連軍と、以後のユダヤ人保護政策について話し合う為その会見場へと向かった時が、ワレンバーグの最後の姿と成りました。
ワレンバーグはソ連の収容所へと送られ、1947年頃死亡したと言われていますが、ワレンバーグの死は公式には未だ認められていません。
戦後、各地に彼の英雄行為に対する碑が作られ、イスラエルでは栄誉国民を、アメリカでは名誉市民権を与えられています。

続く・・・


2011/09/13

人類の軌跡その195:歴史の狭間で⑩

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:ハンガリー・失地回復に願いを託した国家>

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「双頭の鷲」オーストリア・ハンガリー帝国 ハプスブルグ家

 ヨーロッパ列強の一つで在った、オーストリア=ハンガリー帝国が第一次世界大戦敗戦によって崩壊し、帝国を構成していたハンガリーは単独国家と成りました。

しかし戦後、トリアノン条約により、敗戦国として厳しく処罰され、多数の領土を喪失します。
更にその後、旧帝国領から誕生した新生国家であるチェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、戦勝国ルーマニアが三国小協商を結んで、ハンガリーに対抗した結果、国内外ともに混乱の極みと成りました。

 同じ敗戦国であるドイツで、ナチスが台頭するに従い、摂政ホルティ提督の基、ハンガリーは急速にドイツに接近し、独伊防共協定、日独伊三国同盟(1940年11月)に参加し、完全なドイツの同盟国と成り、直接ソ連とは敵対関係には無いものの、独ソ戦開始と共に対ソ宣戦布告し、ドイツとの運命共同体と成りました。

◎領土問題

 第一次世界大戦敗戦後、ハンガリーは敗戦国としてトリアノン講和条約により、2/3に上る領土を喪失しました。
領土は93,000平方キロメートル、人口850万人に迄に減少させられ、領土回復の願いはドイツと同様強ものでした。1938年のドイツによるチェコスロヴァキア解体時に多少の旧領土を回復しましたが、最大の失地回復目標はルーマニアで在り、そのルーマニアは第一次世界大戦の戦勝国で、ハンガリーから可也の領土を得ていた為、ハンガリーから強い恨みを買っていたのでした。
1939年当時には両国の関係は険悪となり、開戦も時間の問題でしたが、その都度ヒトラーの取りなしで回避を繰り返し、1940年6月にソ連が強引にルーマニア領ベッサラビア併合すると、ハンガリーも旧領であるルーマニア領トランシルヴァニアの併合を目論みます。

 しかし、バルカン地方の混乱が、ソ連に進出する余地を与えてしまう事に危機感を抱いたヒトラーは、バルカン諸国の混乱を一気に解決すべく、いわゆるウィーン裁定と呼ばれる強硬な決定によって、ルーマニア領トランシルヴァニアのハンガリー帰属を決定し、又、1941年4月のドイツの対ユーゴスラヴィア戦に参加したハンガリーは相当の旧領を回復しました。
これら領土回復はひとえにドイツの恩恵であり、ハンガリーはその後、ドイツと密接な同盟国と成りました。

続く・・・


2011/09/12

人類の軌跡その194:歴史の狭間で⑨

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:スペイン内戦(1936-1939)その②>

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「ゲルニカ」パブロ・ピカソ1937年作

ゲルニカ空襲と作品「ゲルニカ」

 1937年は、世界史の中でも大きな転回点となった年でした。
中国大陸では7月、廬溝橋事件を皮切りに日中戦争が勃発し、11月には日独伊防共協定が成立、そして12月には南京虐殺事件が発生します。
欧州ではナチズムが猛威をふるいはじめ、スペインでは前年に勃発した内戦が全国に拡大し、この年の4月28日、フランコ将軍の独裁を支援するナチス・ドイツ派遣軍が、スペイン北部バスク地方の古都、ゲルニカを空襲しました。

 人口7000人の小さな街はこの日1日の空襲で廃墟と化し、地上から姿を消しました。
非戦闘員である市民を殺戮する「無差別爆撃」が世界で初めて行われた瞬間でした。
これを契機に近代戦争の様相は一変します。
市民を大量殺戮する狂乱は、日本軍による重慶等の中国の都市への爆撃、東京大空襲など日本各地への米軍による空襲、そして広島・長崎への原爆投下、さらに現在の中東、北アルリカに至る迄続いているのです。

 世界史に一気に暗雲が発ちこめた、この年、フランス政府は5月24日~11月25日まで、パリで万国博覧会を催しました。
パリで万国博覧会が開かれるのは1900年以来の事であり、スペイン共和国もパビリオンを建てて参加しましたが、そのスペイン館の壁画を依頼されたのがピカソでした。

 依頼を引き受けたにも関わらず、当初、ピカソは何を題材にするか発想が浮かびませんでした。
その折りに、故郷スペインからゲルニカの悲劇のニュースが飛び込みます。
ゲルニカ空爆の第一報がパリの新聞に載った翌々日の5月1日には、ピカソはゲルニカを主題とする6枚の素描を描き上げ、以後、10日間に20点のスケッチを完成させた。そして、5月11日に、ピカソは高さ3.3メートル、幅7.5メートルの巨大なキャンバス向かい、一気呵成に作品を描き上げたのです。

 1937年の6月4日、大作「ゲルニカ」は完成し、6月下旬、エッフエル塔下に広がる万博会場に運び込まれました。
1937年のパリ万国博覧会のテーマは「現代生活に応用された芸術とテクノロジー」。
テクノロジーの象徴として注目を浴びたパビリオンは「航空館」であり、巨大テクノロジーの象徴として来たるべき航空機時代を予見する「光」のパビリオンでした。

 そして、その対局の「陰」の役割を「スペイン館」が期せずして果たす事に成りました。
スペインは前年から内戦に突入していましたから、スペイン館は、反乱軍の仕掛けた内戦によって危急の場におかれた共和国政府が、世界に向けて救援を求める情報発信基地の役割を担っていたのです。

 そのスペイン館の入り口に巨大壁画「ゲルニカ」が掲げられましたが、それは単にスペインの窮状を訴えるという役割を越えて、隣接する「航空館」の威勢を制御し、航空大時代のもたらす狂気を露わにし、人類への鮮烈な警告灯と成りました。

 「ゲルニカ」は万博が終了後もスペインに帰る事は無く、スペイン本国はその後、1977年迄、フランコ将軍の独裁体制へと突入していきます。
「ゲルニカ」は、ロンドン・ニューヨークへと流転し、1981年、ピカソ生誕100年を区切りにスペインに帰郷したのでした。

続く・・・



2011/09/10

人類の軌跡その193:歴史の狭間で⑧

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:スペイン内戦(1936-1939)その①>

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ロバート・キャパ:崩れ落ちる兵士

 1936年2月の総選挙で、親ソ派の人民戦線政府が成立したものの、人民戦線内部に於いて、社会党、共産党、アナーキストの権力闘争が激化、社会混乱が続く中、軍を代表する右派の人民戦線政府への不満が募り、ついに、1936年7月18日、スペイン領モロッコのメリリャ駐屯軍の反乱を発端として、スペイン各地で軍が蜂起しました。
是が所謂「スペイン内戦」の始まりであり、軍と政府が国土を二分して戦う事と成りました。

◎初期(1936年)

 反乱軍の実権は、参謀総長を歴任し、当時カナリア諸島軍司令官フランシス・フランコ将軍が掌握し、9月29日、サラマンカで開催された最高評議会で国軍最高司令官に任命され、10月1日には、プルゴスの教会で行われた集会に於いて国家主席に就任し、反人民戦線側の最高指導者と成りました。

 しかし、反乱軍主力であるモロッコ駐留軍は、海空軍が政府側の為、スペイン本土へ進撃する事が不可能で、フランコはドイツ・イタリアに支援を要請しました。
こうしてドイツ・イタリアによる反乱軍支援が開始され、ドイツのユンカースJu52/3m輸送機によって本土に空輸された反乱軍は、北部の反乱軍と呼応してマドリードを南北から挟撃し攻略する作戦を展開しますが、1936年末には頓挫し戦線は膠着状態と成ります。

◎中期(1937年)

 膠着状態と成った両陣営は諸外国に支援を要請。
政府軍側には、ソ連から軍事顧問団、兵員と共に戦闘機、戦車・火砲などが送られ、更に世界各国からの義勇兵で編成された国際旅団が加わりました。
反乱軍側には、ドイツからコンドル軍団(空軍義勇兵部隊)と戦車部隊、イタリアからも空軍部隊と陸軍部隊(正規部隊)が派遣されます。

 マドリード攻略に固執するフランコは、イタリア軍4個師団でグアダラハラ方面から攻撃を実施するも、大損害を被り敗退。
其処で、北部地方への攻勢に作戦を変更した反乱軍は、コンドル軍団の本格的航空支援の下に大規模な攻勢を開始します。
1937年10月にはバスク地方を含む北部全域を制圧しますが、この時のゲルニカ爆撃は世界に衝撃を与えました。

◎末期(1938~39年)

 南部地域での政府軍の攻勢を撃退した反乱軍は、一気に地中海方向へ攻勢に転じ、カタルーニャ地方とヴァレンシア地方の分断に成功。
しかし、政府軍はエブロ川で反撃に転じ両軍激戦と成り、双方で2万名以上の戦死者を出します。
この頃、ミュンヘン会談を巡るヨーロッパの政治情勢の変化と、ソ連国内での大粛正の影響によって、ソ連の義勇軍の引き上げと国際旅団の解散が在り、政府側はエブロ川攻撃の失敗も重なりますます不利と成っていきました。

 1939年1月には反乱軍は、カタルーニャ地方攻略の為の大規模な攻勢を開始し、政府軍を次々に撃破して行きました。
バルセロナは間も無く陥落し、2月にはフランス国境に到達してカタルーニャ地方を完全に制圧し、政府側は、之によって戦意を喪失し、ついに3月末、フランコはマドリードに入城し、4月1日には内乱終結宣言を行いました。

続く・・・

2011/09/09

人類の軌跡その192:歴史の狭間で⑦

<失われた国々その⑦:ポーランド~過去の栄光に驕り、時代の趨勢を見誤った国家の末路~>

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ポーランド騎兵部隊

2.動員計画 

 有事に際して、ポーランド陸軍は、予備役の大量動員による兵力増強で対処する事に成っていました。
其の為、本来の常備歩兵は30万人と少なく、近隣諸国、特にドイツの動向に対応し、二度にわたる動員を行ました。第1回目は、ドイツのチェコ併合時の1939年3月に20万人、第2回目は、ドイツとの関係悪化の1939年8月に60万人であり、開戦時の1939年9月には兵力110万人を数え、さらに200万人が動員途上でした。
しかし、動因兵力の部隊編成完了迄には12~14日を要していたのです。

 対するドイツ軍は170万人を数え、ポーランド軍は数的に劣勢であるにも拘わらず、ポーランド軍首脳は、仮に戦線が突破されても、騎兵による遅滞作戦などの時間稼ぎを行えば、部隊編成を完了できるものと考えていました。しかし実際には、ドイツ軍がポーランド軍首脳部の予想を大きく上回る機動力を発揮し、開戦1週間で戦線を粉砕、ポーランド軍は事実上崩壊し、予備役200万人の編成完了は出来ませんでした。
もし、この200万人の編成が開戦前に完了できていたら、戦況は史実と異なっていたでしょうか?

3.装  備

 19世紀後半の火器の飛躍的な進化によって優位を脅かされ、第一次世界大戦での塹壕戦によって存在意義が決定的に失われたのにも関わらず、ポーランド軍の主力は依然として騎兵でした。
この兵站思想の根底には、1920年のソヴィエト・ポーランド戦争で、騎兵が大国ソビエトに対する勝利へ貢献した為なのですが、この戦争では、機関銃等の近代兵器が戦局を左右する程には使用されず、前近代的な機動戦の様相を呈した為、伝統的機動兵力である騎兵が重要な役割を演じ得たのでした。
この成功によって、ポーランド軍上層部は騎兵を有効な戦力として評価・維持し、各国で急速に推進されていた戦車や自動車への転換(機械化)の重要性を全く理解せず、其の為、機械化が決定的に遅れてしまい、装備も第一次世界大戦当時の旧式、陳腐化したままと成っていました。

続く・・・
2011/09/08

人類の軌跡その191:歴史の狭間で⑥

<失われた国々その⑥:ポーランド~過去の栄光に驕り、時代の趨勢を見誤った国家の末路~>

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ポーランド侵攻・1号戦車

 中世以来、中欧最大の強国を誇ったポーランドは、18世紀末のヨーロッパ列強のポーランド分割による国家消滅(最終的には、19世紀初頭にナポレオンによって成立したワルシャワ大公国の消滅)を経験した後、永らくロシア帝国による苦痛に満ちた支配が続きました。

 しかしロシア革命によるロシア帝国の崩壊、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制の民族自決の精神に基づいて悲願の国家復活を遂げますが、復活して間もない1920年に勃発したソ連=ポーランド戦争が今後のポーランドの進む道を決定しました。
ポーランド騎兵を中心とした軍部の働きによって大国ソ連に勝利を収めた結果、軍部の政治介入を増大させ、特にピウスツキ元帥の独裁体制(大佐政権とよばれた)の確立によって、軍部独裁が事実上行われる結果と成りました。

 外交的には、過去の国家消滅という悲痛な経験をした為、神聖な国土を再び失いないたくないとの意識から、また軍部独裁政権下に有って、近隣諸国に対しても、問題が発生した場合、まず話し合いでの解決ではなく、武力での解決という高圧的な態度で対処したのでした。
その結果、対ソ共同防衛協定を結んだルーマニア以外とは敵対状態であり、有事に於いて、近隣諸国との共同歩調をとることは不可能であり、ドイツのチェコスロヴァキア解体後に結ばれた英仏との同盟も実効性を持たない空文であったにも拘わらず、ポーランドはこれに縋り付き、ドイツとの戦争に突入したのです。

1.国防方針 

 ポーランド軍の体勢は、1939年9月の開戦時に不十分であり、動員もその途上に在りました。
更にその少ない軍(23個師団)をさらに7個軍団に分散させ、其すべてを国境に配置したのですが、この部隊展開は、一度国境を突破された場合、侵略軍を防御出来ない、欠点を有していました。
又、ドイツ侵攻を行う為に、ポーゼン突出部に兵力を集中させましたが、この配置は、ドイツ軍により容易に分断包囲される危険性を有していました。
事実、ポーランド軍は、ドイツ軍の圧倒的な機動力の前に、国境の至る所で突破され、混乱した指揮系統を整えるだけの時間を得ることはできず、包囲・殲滅、撃破されていきました。

続く・・・

2011/09/07

人類の軌跡その190:歴史の狭間で⑤

<失われた国々その⑤:エストニア、ラトヴィア、リトアニア~悲劇の小国家~>
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ドイツ軍、リトアニア侵攻

 通称バルト三国である、エストニア、ラトヴィア、リトアニアは、ロシア帝国崩壊により、第一次世界大戦後に独立を果たしたものの、小国であるが故に、その存続は危ういものでした。
 
◎領土問題

 バルト三国は、ソビエト連邦(以下ソ連)とバルト海との間に位置し、ソ連のバルト海貿易に於ける中継点として繁栄し、又軍事的意味に於いてもバルト海の制海権確保の為に必要不可欠な位置に在りました。
更に歴史的事実から、旧ロシア帝国領で在り、領土回復を目論むソ連の標的と成りました。

◎滅  亡

 1939年8月にドイツとソ連との間に結ばれた独ソ不可侵条約には、東欧、バルト三国での勢力範囲を定めた秘密条項が存在しました。
具体的には、ポーランドの東西割譲、バルト三国のソ連支配の容認であり、1939年9月のポーランド滅亡、1940年6月のフランス崩壊によって、ソ連のバルト三国に対する併合圧力は増加していきます。
ソ連はまず、傀儡である共産党に政権を握らせ、その政権に領土保全の為、駐留要請を行い、ソ連は、この要請を受諾し、1940年8月3日~6日にリトアニア・ラトヴィア・エストニアに軍事駐留しました。
その後、ソ連軍の力を背景に、ソ連邦への編入要請を半ば強制させ、ソ連はこれを受諾し、バルト三国はソ連邦に併合されたのです。

◎軍  備

 バルト三国の総兵力は3万人にすぎず、大国ソ連に対抗する事は、事実上不可能でした。


続く・・・
2011/09/06

人類の軌跡その189:歴史の狭間で④

<失われた国々その④:チェコスロヴァキア~大国の論理に蹂躙された悲劇の小国~>

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第1チェコスロバキア独立歩兵大隊の点呼をとるスヴォボダ将軍

◎国家消滅

 1938年にドイツと、戦争拡大を恐れたヨーロッパ列強によって結ばれたミュンヘン協定によって、チェコスロヴァキア政府はズデーテン割譲を強いられます。
之は、同様に領土拡張の野心を持った近隣諸国、ポーランド、ハンガリーを刺激し、チェコスロヴァキア政府に自国民が多数を占める地方、ポーランドはテッシェン地方(1938年8月併合)、ハンガリーは南部スロヴァキア(1938年11月併合)とルテニア地方(1939年3月併合)の割譲を要求されます。
これに対し、チェコスロヴァキア政府は抗する事も出来ず、唯々諾々とこれを承認してしまいます。

 1939年3月15日、ヒトラーは、チェコスロヴァキア大統領ハーハをベルリンに呼びつけ、チェコスロヴァキア政府に対し、ボヘミア、モラヴィア地方をドイツ領とする協定への署名を強要し、署名されない場合は、チェコスロヴァキアの首都プラハを空襲すると強要します。

 ヒトラーによって周到に仕組まれた国内の民族運動で国内の統一も失われ、ズデーテン要塞地帯を失い丸裸となったチェコスロヴァキア政府はこれに抗することはできず、大統領ハーハは署名し、1939年3月15日~16日、ドイツ軍はチェコに進駐し、同年5月16日にベーメン・メーレン地方はドイツ保護領に、更に9月1日にはドイツに併合されました。

◎軍備

 チェコスロヴァキアは同盟国であるフランスの軍事援助により、東欧有数の陸軍国でした。
陸軍兵力は1938年当時35個師団であり、国境防衛はフランスのマジノ線に範をとった要塞線(ズデーテン要塞地帯)がフランスの支援の下に建設され、兵士の士気も高く、戦車運用では、当時主流の分散配置ではなく、集中運用が可能な近代的編成を行なっていました。

 又、東欧最大の工業国であった事は、陸軍の機械化に大きく貢献する事と成り、オーストリア=ハンガリー帝国時代からの航空機、火砲、戦車などの名門スゴタ社、兵器メーカーとして新参ながら、やはり老舗の機械メーカーであるCKD社がおおいに貢献しました。

 しかし、ドイツと一戦交える事無く、国家解体させられた後、これら企業は、ドイツに組み込まれ、第二次世界大戦ではドイツの軍事遂行のための軍需工場の一翼を担う事と成ります。

続く・・・

2011/09/05

人類の軌跡その188:歴史の狭間で③

<失われた国々その③:チェコスロヴァキア~大国の論理に蹂躙された悲劇の小国~>

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ズデーテン地方併合に伴う、国境標識の撤去

 1918年のオーストリア=ハンガリー帝国崩壊後に独立した、チェコスロヴァキア共和国は、帝国の最良の遺産とも言える、帝国最大の工業地帯で在ったボヘミア、モラヴィア地方を継承しました。
其の為、国民の経済水準と教育水準は高く、民主政体には不可欠とされる中産階級の存在があり、近隣の東欧諸国が王政、独裁政へと進む中、東欧唯一の民主政体国家を保つことが可能でした。

 しかし、ドイツ第三帝国建国を目論むヒトラーは、ドイツ系住民が多数を占めるズデーテン地方併合を画策し、チェコスロヴァキア政府に圧力を加えました。
これに対し、チェコスロヴァキア政府は、断固としてこれを拒否し、戦争をも辞さない事態と成りました。
当時チェコスロヴァキア軍は、東欧諸国の中で唯一ドイツに対抗できる軍事力を有していました。

 戦争を回避したい、英仏ヨーロッパ列強の思惑に翻弄され、ドイツの求めるままにズデーテン地方割譲が決定してしまいます。
国際支援を受けられないチェコスロヴァキアは、1938年にはズデーテン地方をドイツへ割譲をせざるを得なくなり、事実上ドイツに対抗するだけチャンスを永遠に失ったのでした。
更に翌年1939年には、武力によってチェコスロヴァキア自体が解体し、チェコはドイツ領として併合され、スロヴァキアはドイツの従属国として独立し、地図から消滅しました。

◎経済格差:東西問題

 チェコスロヴァキアにとって最大のアキレス腱とも云えるのは、東西間の経済格差問題でした。
そもそもチェコスロヴァキアは、西の工業地帯を有し経済的に恵まれていたチェコ人、東の農業を経済基盤としていた為、経済的に低かったスロヴァキア人、その他少数のドイツ系住民等で構成されていた多民族国家でもありました。

 東西間の経済格差は歴然であり、チェコ人とスロヴァキア人はお互い不満を抱いており、そこに着目したヒトラーは、スロヴァキア人の国家独立を支援するという裏工作を行います。
この策謀により、スロヴァキア人とルテニア人は1938年10月に自治政府を成立させ、翌年には自らの国家樹立を宣言します。
この混乱の中、ドイツ軍はチェコスロヴァキアの首都プラハに無血で武力制圧し、此処にチェコスロヴァキアは国家として解体消滅したのでした。

◎外交政策

 東西を二つの大国であるドイツ、ソ連に囲まれ、また潜在的敵国であるハンガリーに接し、一種剣呑な状況に置かれていた小国チェコスロヴァキアは、近隣諸国との同盟で平和を確保していました。
即ち、ルーマニアとユーゴスラヴィアとの間で三国小協商を締結しますが、この協商は、主にハンガリーと対抗する事を目的としたものでした。

続く・・・

2011/09/03

人類の軌跡その187:歴史の狭間で②

<失われた国々その②:オーストリア~同族ドイツ人国家に併合された独立国~>

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オーストリア併合宣言・ウィーン英雄広場にて

◎ドイツとイタリアとの衝突

 この首相ドルフス暗殺は、彼と密接な友人関係にあった、隣国イタリアのベニト・ムッソリーニを刺激してしまいます。
イタリアは、このドイツによるオーストリア併合を強硬に反対していました。
その背景には、第一次世界大戦後、旧オーストリア=ハンガリー帝国からドイツ系住民が多数を占めるチロル地方を併合しており、ドイツからチロル地方返還を要求されるのではないかとの危機感に襲われていたのでした。

 しかし、イタリアがエチオピア侵攻とスペイン内戦でのフランコ政権への支援によって、国際的孤立に陥っていた為、次第にイタリアは、同じ全体主義政権で在るドイツと親密な関係を構築する様に成り、ドイツのオーストリア併合を容認していきます。

◎オーストリア併合(アンシュルス)

 オーストリア首相シュシニクは、1938年2月12日、ヒトラーのベルヒテスガルテン山荘に呼びつけられ、ヒトラーから、オーストリア併合を強要されます。
これに対し、帰国したシュシニクはドイツによるオーストリア併合を避ける為、国民投票の手段に訴え様と画策しますが、ドイツ(ナチス=ヒトラー)はこの動きを封じる為、3月11日に事実上の最後通告を発し、翌日3月12日午前8時、電撃的にオーストリアへ軍事侵攻しました。
オーストリア軍は一切の抵抗を行う事無く、無血にうちにこの軍事侵攻は成功します。
シュシニクは亡命し、代わりに首相となった親独派の内相ザイス=インクヴァルトは、この軍事進駐を要請の形で容認し、1938年3月13日に、「ドイツ帝国とオーストリア共和国の再統合に関す法律」の署名により、正式にオーストリアはドイツによって併合され、ドイツの1州と成りました。

※参考

「ドイツ帝国とオーストリア共和国の再統合に関す法律」

1938年3月13日に、首相ザイス=インクヴァルトが作成し、大統領W・ミクラスに承認を迫ったものの大統領は署名を拒否。
大統領は辞任して、一切の大統領権限を委託する旨の親書を、首相に手交し、全権委任された首相は午後11時52分に、ヒトラーと署名し、即日発効したのでした。

第一条 オーストリアはドイツ帝国の一州である。
第二条 ドイツ帝国との再統合を確認するための秘密自由国民投票が、4月10日日曜日に行われる。
第三条 国民投票の結果は多数決による。
第四条 本法の施行に必要な準備は政令によって定められる。
第五条 (一)本法は公布の日から発効する。
第五条 (二)政府が本法の施行を主管する。

続く・・・
2011/09/02

人類の軌跡その186:歴史の狭間で①

<失われた国々:オーストリア~同族ドイツ人国家に併合された独立国~>

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ドイツ議会に於けるオーストリア併合宣言

 歴史的にもヨーロッパ列強の一国で在り、第一次世界大戦の発端と成ったオーストリア=ハンガリー帝国は、第一次世界大戦敗戦によって崩壊し、戦後、敗戦国として厳しく処罰され、多数の領土を喪失しました。
戦後オーストリアは、共和国家として再出発したのですが、その前途は多難の道でした。

◎領土縮小

 旧オーストリア帝国を継承したオーストリア共和国は、サン・ジェルマン講和条約により、ボヘミア・モラヴィア、ガリツィア、ブコビナ、スロヴェニア、カルニオラ、ボスニア=ヘルツェゴビナ、トリエステ地方などを放棄させられ、83,000平方キロメートルの領土と650万人の人口を持つ小国家に縮小します。
放棄させられた地方の中には、ドイツ系住民が多数を占めていたにも関わらず、軍事的見地からイタリアに割譲させられたチロル地方も存在していました。

◎経済恐慌

 1929年の世界大恐慌はオーストリア等の東欧諸国にも波及し、輸出量が激減した為、貿易収支は経常的に赤字となり、結果として負債返済の停滞状態に陥りました。
1931年5月には旧帝国領の東欧諸国への融資が不良債権と成り、クレディット・アンシュタルト銀行と東欧諸国との取引関係にあったドイツの銀行が倒産に陥り、東欧諸国の経済に大打撃を与え、経済混乱に更なる拍車を掛ける事と成ります。

 この経済混乱により、失業者は激増し、国民は有効な手を打てずにいる政権に失望し、強力な指導力を持つ独裁者の出現を渇望する事に成りました。

◎首相ドルフス暗殺事件

 1933年に隣国ドイツで成立したヒトラー政権は、嘗ての大ドイツ帝国を復活すべく、近隣のドイツ系住民が多数を占めている領土の割譲を要求します。
その最初の標的となったのがオーストリアでした。
オーストリアは、ドイツと同じドイツ系民族の国家で在る為、併合に抵抗が無いものと当初から予想されていました。

 又、当時のオーストリアは、世界大恐慌の影響で経済混乱していた一方、隣国ドイツでは、ヒトラーによる経済計画の成功によって、経済混乱から脱却しつつある姿を目の当たりにしていた一般民衆は、ドイツとへの併合を渇望する様に成っていたのです。
更にヒトラーがオーストリアのナチス勢力を強力に支援し、オーストリアのドイツ併合のムードを盛り上げて行きました。

 しかし、首相ドルフス率いるオーストリア政権はドイツへの併合を強く反対します。
これに対し、ヒトラーはオーストリアのナチス勢力を使ってドルフス暗殺を行う等の(1934.7.25)反独姿勢の封じ込めを断行しました。

続く・・・

2011/09/01

人類の軌跡その185:末路27

<ナチス全体主義への道その8>

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ドイッチュラント級装甲艦3番艦 アドミラル・グラーフ・シュペー (Die Admiral Graf Spee)

◎軍  備その3


海軍

 ヴェルサイユ条約によって艦艇数の大幅な制限と、潜水艦の保有禁止という厳しい条件を課された海軍でしたが、涙ぐましい努力によって、海軍力の増強を図って行きました。

 その典型とも言えるのは、ポケット戦艦と云われた装甲艦であり、極論すれば、巡洋艦なみの排水量に対し、戦艦なみの攻撃力を持たせた艦でした。

 1935年のドイツ再軍備に際し、保有禁止の潜水艦を保有し、また戦艦などの保有を再開します。
これに追い風となったのは、1935年に調印された英独海軍協定で、海外からの輸入に依存するイギリスが、第一次世界大戦時にドイツ海軍の通商船破壊戦によって危機に陥った過去の教訓から、ドイツの海軍大拡張を封じ込めるために調印されたものであるにも拘わらず、イギリスがドイツ再軍備を事実上容認する形と成りました。 

 しかし、ドイツ再軍備宣言による軍備拡張は、ヨーロッパ屈指の工業力を有するドイツでさえ、その建艦スピードに限界が在りました。
そこで、艦隊決戦を行って制海権確保するものでは無く、あくまでもイギリスの生命線とも言える通商路の破壊といういわば副次的任務であった海軍は陸軍空軍よりも再建優先順位が低かったのです。
更に問題となるのは、通商破壊作戦を如何にして行うかで有り、海軍総司令官レーダー提督は、戦艦などの水上戦闘艦による作戦、潜水艦司令官デーニッツ提督はUボートによる作戦を提唱しました。

 当初レーダー提督の作戦が採用され、当面イギリスとの戦争はないというヒトラーの確約を得て、1939年、レーダー提督は、今後6年間で主力艦13隻、空母2隻、巡洋艦50隻、Uボート250隻などを建造する「Z計画」に取り掛かります。

 しかし、1939年9月1日のポーランド侵攻は、レーダー提督のZ計画を御破算にするもので在り、変わって、水上戦闘艦よりも生産コストが低いUボートを使用するというデーニッツの計画が採用されたのでした。

終わり・・・