2011/10/31

人類の軌跡その230:地中海文明の曙④

<エーゲ文明その④>

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◎聖なる洞窟

 クレタ文明に於いて、公共の神殿は建てられなかったと推定され、丘上の聖域や聖なる洞窟で、大地母神・獣神・狩猟の女神等、多くの神々を礼拝していたとみられます。
一部の礼拝所では、疾病を表したものや、治癒を願う手足や内臓を模った物が供えられており、疾病の治癒を祈とうしたものと考えられ、一般の家の神棚には、両手に蛇を持った女神の像が、しばしば祭られていました。

◎両刃の斧(ラブリュス)

 両刃の斧(ラブリュス)は、重要な宗教上の象徴で在り、黄金製で彫刻を施した高さ8.5cmの両刃の斧が、アルカロコリの聖なる洞窟に奉納されていました。
又、クノッソス宮殿地下室の角柱に、両刃の斧がデザインされ、ギリシャ神話では、ミノス王の宮殿はラビュリントス(両刃の斧の館)と表現されています。

尚、英語で迷宮や迷路を意味する labyrinth は、この語に由来しており、クレタ文明時代の宮殿は、後のミケーネ文明時代の宮殿と比べると、規模は大きいものの構造が、無秩序で安定感が無いと評価されています。

◎陶 器

 BC1900年頃に 轆轤 がクレタ島へ伝えられ、卵殻陶器と呼ばれる薄手で美しく装飾された陶器が作られました。この陶器は地中海東部で交易されたと推定され、キプロス島、レバント地方(シリア・パレスチナ地方)、エジプトからも出土しています。

 又、クレタ島の人々は、青銅や銅などの金属細工、宝石細工、ファイアンス焼(エジプトの陶芸技法)、象牙細工、石製の碗の製造に熟達していました。

続く・・・

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2011/10/29

人類の軌跡その229:地中海文明の曙③

<エーゲ文明その③>

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◎クノッソス等の宮殿

☆クノッソス Knossos

 クノッソス宮殿は、クレタ島中央部より北側に位置し、イギリス人アーサー・エヴァンズにより、1900年から発掘を開始し、発見されました。

 クノッソス宮殿の下には、BC6000年頃の物と推定される、初期の集落遺跡が発見されており、BC3000年頃には大きな集落に発展していました。
BC2000年頃に最初の宮殿が造営され、後に地震で倒壊し、BC1700年頃に再建された推定されています。
その大きな特徴は、どちらの宮殿も、城壁を持たず、宮殿の中央と西側に中庭が在り、中央の中庭は神聖な宗教儀式に用い、西側の庭は見物人の集まる競技(例えば牛跳び)等に使用していたと考えられます。

 玉座の間は中央中庭の西側にあり、グリュプス(鷲の頭・翼とライオンの胴を持つ怪獣)のフレスコ画が描かれ、彫刻の施された石膏石を用いた玉座が置かれていました。

 王族の住居は宮殿の南東部で、夏には山からの涼しい風が入る場所に在り、3階から4階建て構造であり、大階段で繋がり、採光用の吹き抜けや本格的な水道と排水設備が整備されていました。
穀物・オリーブ油・ワイン等の貯蔵に使用した大規模な貯蔵室が在り、宮廷職人の仕事場も在りました。
宮廷職人は、青銅細工、宝石や象牙・金・銅などの細工、陶工、羊毛の織物、フレスコ画家、戦車や武具の製作者等が居住していたと推定され、宮殿が地域経済の繁栄に重要な役割を果たしていた事が分かります。

☆ファイストス Phaistos、マリア Mallia、ザクロ Zakro

 クノッソスから300年程遅れたBC1700年頃以降になると、ファイストス、マリア、ザクロにも宮殿が造営され、何れの宮殿にも王族の部屋が在り、諸国家が並立する様に成ったものと考えられます。
これ等の宮殿は何れも、クノッソス同様、城壁を持ちません。

 ファイストスはクレタ島南側の中央に位置し、マリアはクノッソスの東方に、ザクロはクレタ島の東端に位置しています。

続く・・・


2011/10/28

人類の軌跡その228:地中海文明の曙②

<エーゲ文明その②>

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◎エーゲ文明の時代区分その②

☆ミケーネ文明

 BC2000年頃、クレタ島での文明が栄えるなか、インド・ヨーロッパ語族の一派であるギリシャ人が大陸側のギリシャ本土へ侵入しました。
先住民を支配し、混血を繰り返しながら、クレタ文明の影響を受けて文明化していきます。
BC1600年頃には、ペロポネソス半島のミケーネ、オルコメノス、ティリンス等、城壁で防御された強固な王宮が建てられました。

 ミケーネ文明は、クレタ文明に比較して戦闘的であり、線文字(A種)を模倣した線文字(B種)を用いました。
ホメロスの叙事詩「イリアス」と「オデュッセイア」は、此の時代のトロヤ(トロイ)戦争等について、口頭伝承されたものをBC800年頃に編纂した英雄伝説です。

☆ドーリア人の南下

 BC1200年頃、ギリシャ人の別の一派(ドーリア人)が南下し、ギリシャ本土へ侵入しますが、先に定住していたギリシャ人の諸部族を支配し、ギリシャ全体が大混乱する時代と成りました。

 この時ミケーネ文明は崩壊し、文字も失われ、BC1200年頃からBC800年頃迄は、文字による史料が存在せず、詳細な歴史が解明できない為、ギリシャ史上の暗黒時代 Dark Age とも呼ばれています。
この暗黒時代の後に、ポリス(都市国家)を中心とする古代民主制の時代が到来する事と成ります。

続く・・・

2011/10/27

人類の軌跡その227:地中海文明の曙①

<エーゲ文明その①>

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 エーゲ海周辺を中心とする一帯では、エジプト文明やメソポタミア文明の影響を受けて文明化が進み、その範囲は、クレタ島、ギリシャ本土、小アジア(アナトリア)等のエーゲ海周辺及び、イオニア海に面する地域でした。

 この地域は石灰岩の山々が、海中に没して入り組んだ複雑な海岸線を形成し、多くの島々が点在しており、陸上は、小さな地域に分断され、農耕に適する平地が少なく、雨量も少ないことから、オリーブ、ぶどう、イチジクなどの乾燥に強い果樹が代表的な作物と成りました(地中海性気候)。
又、陸上交通が不便な為、海上交通が発達して、シリア方面へも達し先進文明と接触していました。

◎エーゲ文明の発生

 新石器時代に、エジプト方面、シリア方面、東ヨーロッパ方面等、夫々独自の文化を持った人々が、此の地域へ渡来し、BC2600年頃、青銅器時代が到来、エーゲ海地域の全体にほぼ共通の文化が普及しました。
之を総称してエーゲ文明と呼びます。

◎エーゲ文明の時代区分

☆クレタ文明(ミノア文明)

 最初に、ギリシャ人が南下する以前の先住民により、クレタ島を中心とするクレタ文明が繁栄します。
クレタ島はエーゲ海の南側に位置し、エジプトやシリアの文明地域に近い位置に近く、BC2600年頃に青銅器時代を迎え、海上貿易も発達しました。

 BC2000年頃にはクノッソスの宮殿が造営され、BC1700年頃以降には、ファイストス、マリア、ザクロにも宮殿が相次いで造営されました。
宮殿を中心とする都市が発達し、ギリシャの伝説では、クノッソスのミノス王は、強大な海軍を擁してエーゲ海の島々を支配したと伝えられる事から、ミノス王の名前を冠してミノア文明とも呼称されています。
明るく平和的な海洋文明と推定されています。
既に文字が使用され、初期の絵文字から、線文字(A種)へと進歩した事が判明しています。

 クレタ文明は、BC1450年頃、忽然と姿を消してしまいます。(注:BC1400年頃とする文献も多い。)
この滅亡は、ギリシャ本土へ侵入し、ミケーネ文明の担い手と成っていた、ギリシャ人によって滅ぼされたとする説と、クレタ島の北30キロにあるテラ島の噴火による地震・津波・火山灰によるものとする説が存在しています。

続く・・・

2011/10/26

人類の軌跡その226:中国王朝伝説⑥

<伝説の中国夏王朝その⑥>

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◎二里頭遺跡

 考古学的研究によれば、中国の中原地方(現在の洛陽から鄭州を中心とした黄河中流地方)に於いて、中原龍山文化→二里頭文化→二里岡文化→殷墟文化と云う発展段階が認められています。
二里頭文化を夏王朝、二里岡文化を殷王朝の初期に比定する説も存在しますが、現在の処、確証は発見されていません。

 二里頭文化を代表する遺跡が、二里頭遺跡で、BC2000年前後の物と推定され、この遺跡は次の4期に時代区分されています。
 第1期 ~ 一般的な小規模集落
 第2期 ~ 急速に発展し、中心的な集落へ発展
 第3期 ~ 大型の宮殿2基と大型の墓1基を伴う
 第4期 ~ 衰退期(この時期に二里岡文化が出現)

 二里頭文化では、青銅器に二つの面で飛躍的な発展が見出され、一つは実用的な物で武器等、もう一つは儀礼的に用いられたとおもわれる容器類なのです。
後者の青銅器は、玉器と共に、祭政的システム「礼」に関係する器物と推定されており、中原地方が発展した理由として、中国大陸の地域間交流の交差点に、位置していたからではないかとする説が有力です。

本編終了・・・

2011/10/25

人類の軌跡その225:中国王朝伝説⑤

<伝説の中国夏王朝その⑤>

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◎帝顓頊(ていせんぎょく)

 黄帝の孫で、共工(きょうこう)が、顓頊と帝位を争って敗れたという説話が存在します。(注:共工は、女媧の時にも名前が見えます。)

◎帝嚳(ていこく)

 黄帝の曽孫、顓頊の曽孫の重黎(ちょうれい)は、帝嚳に仕え、共工(きょうこう)の反乱討伐に失敗して誅殺されたとされ、後任に弟の呉回(ごかい)が任命されました。

◎堯(ぎょう)

 堯のとき、十の太陽が並んで出て、五穀を焦がし、草木を枯らし、人民は食べるものがなく、さまざまな魔物が出現したと云います。
この時、弓の名人であった羿(げい)は、堯に命じられて九つの太陽を射落とし、魔物を退治しました。
之により、堯は天子と成ったと云います。

 堯は、鯀(こん)に命じて治水を行なわせたが、9年たっても成功せず、舜が禹(う)を推薦して、禹が成功させた。(注:禹は、後に夏王朝の始祖となる。)
 堯が帝で、舜が摂政のとき、共工を幽陵に流して北狄に変え、驩兜を崇山に追放して南蛮に変え、三苗を三危に遷して西戎に変え、鯀を羽山に殛して東夷に変えると云う処分を行ないますが、四夷は、中原から追放されて辺境へ落ちていきました。

 堯には丹朱(たんしゅ)という嫡男が居ましたが、帝位を舜に禅定し、丹朱は諸侯として封じられ、現在の山西省の東南部辺りを領地としたと思われます。

◎舜(しゅん)

 舜は東夷の人とされ、庶民の出身でした。
父は盲人で、実母が早く死に継母が家に入り、継母・異母弟・父に辛く当たられたと云う説話が多く残っています。
其れでも、舜は孝行を尽くして二十歳で名をはせ、三十歳で堯に登用され、五十歳で摂政となり、五十八歳の時堯が死に、六十一歳で帝位に就いたと云います。

 堯の二人の娘を妻としましたが、この二人と結婚する迄、舜は独身で在ったとする説話と、その前に登比(とうひ)氏という妻があり宵明(しょうめい)と燭光(しょくこう)という二人の娘を得たという説話が存在します。

 舜は39年間帝位に在り、南方を巡察の際に、蒼梧(そうご)の野(現在の湖南省南部あたり)で崩御し、葬られた所は零陵と呼ばれました。
舜の死を知った二人の妻は急いで南へ向かったが、湘水まで来て水死します。
身を投げたとも、船が沈んだとも云われ、姉の娥皇を湘君と呼び、妹の女英を湘夫人と呼ぶ様に成りました。
後の儒者は、堯と舜を聖王として称えています。

続く・・・


2011/10/24

人類の軌跡その224:中国王朝伝説④

<伝説の中国夏王朝その④>

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◎女媧(じょか)

 女媧は創造神とされており、「五色の石を練って蒼天を補った」、「黄土をまるめて人間をつくった」等様々な創造神話が存在します。
伏犧と女媧は男性神と女性神で同一神とみる説がある一方、伏犧の後が女媧で、女媧は制度をほとんど変えず笙簧(しょうこう)という楽器をつくったのみとする説話も在ります。
又、女媧の天下を狙って共工(きょうこう)が反乱を起こし、祝融(しゅくゆう)がこれを平定したという説話もある。

◎神農(しんのう)

 農業の神で、鋤や鍬をつくり、その用法を教えたと伝えられ、百草を舐めて医薬を見つけ、八卦を重ねて六十四卦を創ったとも云われ、医薬や易者の神で在り、五弦の瑟(しつ。中国古代の弦楽器。箏(そう)の大きなもの。)を創り、人々に交易を教えたともされ、音楽と商業の神でも在るのです。
神農氏の天下は8代530年続き、彼の子孫が阪泉(はんせん)の野で黄帝と戦って敗れ天下を失ったと伝えられます。

◎黄帝(こうてい)

 黄帝の黄色は、五行説では東・西・南・北・中央のうち、中央を示しており、黄土や黄河とも通じ、中原を意味する民族の代表が、黄帝であると考えられています。
 
 之に対して、神農は南方の苗族を代表しているように思われ、更に蚩尤(しゆう)に代表される民族が説話に加わり、蚩尤は九黎の君と云われており、九つの黎族を統合して勢力と成ったものと思われます。

 又、蚩尤は「初めて乱を起こし、平民に及んだ」との記述も見聞され、蚩尤と抗争していた神農の子孫は、黄帝に援助を求めたと考えられ、黄帝は涿鹿(たくろく)の野で蚩尤と戦います。
この時、蚩尤は大霧を作って黄帝軍に方向を狂わせ、この戦法に対して、黄帝軍は指南車を作って方向を知り、戦いに敗れた蚩尤は、命を落とします。
その後、黄帝と神農の子孫が、阪泉(はんせん)の野で三度戦い、黄帝が勝利を収めたと記述されています。

続く・・・


2011/10/21

人類の軌跡その223:中国王朝伝説③

<伝説の中国夏王朝その③>

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◎三皇五帝(伝説)

 夏王朝の前に三皇五帝の時代を置くのが一般的ではあるが、神話的な要素も強く、矛盾する諸説話が存在する等、実在の人物等ではないとする説が主流を占めます。

 三皇は、庖犧(ほうぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)。
 五帝は、黄帝(こうてい)、帝顓頊(ていせんぎょく)、帝嚳(ていこく)、堯(ぎょう)、舜(しゅん)。

 但し、異説も多く、庖犧を伏犧(ふくぎ)とする説、女媧の代わりに祝融(しゅくゆう)を加える説、燧人を加える説、五帝の黄帝を加える説さえ存在し、又、三皇を、天皇・地皇・人皇(上図挿絵参照)を差すとする説も存在しています。
司馬遷の「史記」では、幾らかでも歴史として信頼出来る説として、五帝から記述を初めていますが、後に唐の司馬貞が三皇の部分を補ったと伝えられています。

◎庖犧(ほうぎ)又は 伏犧(ふくぎ)

 伏犧と女媧についての伝承は苗族(現在は主に貴州省・雲南省に住む)の間に多く、彼らの祖先ではないかという説が有力であり、伏犧と女媧は、蛇身人首とされ、トルファン盆地から出土した彩色絹画では、2人は蛇の体を互いに巻き付け合い、手にはコンパスと定規を持つ姿に描かれています。

 苗族の伝承では、伏犧と女媧は兄妹(あるいは姉弟)で、彼らの父が雷帝と戦った時、雷帝は洪水によって攻め、兄妹(あるいは姉弟)以外の人類は全滅してしまいましたが、2人は夫婦となり人類を伝えたと云います。
「犧」の字は、神や祖先に捧げる「生贄」の意味と、そこから派生して「欠陥がなく整ったもの」「偉大にして秀麗完美なもの」との意味が存在します。

続く・・・


2011/10/20

人類の軌跡その222:中国王朝伝説②

<伝説の中国夏王朝その②>

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 啓が帝位を継いだ時、同属の有扈(ゆうこ)氏が服従せず、啓は、有扈氏を攻め滅ぼし、その治世の間に、「音律を並べて、礼楽を調えた」とされます。
又河南の地で在る嵩山から、河の北へ都を移し、啓は、39年間帝位に就き、78歳で死んだと伝えられています。

 啓の子の大康(たいこう)は、狩猟に熱中して民事に務めず、夷族の羿(げい)(注:羿は、堯の時代にも名がみる。)に天下を奪われてしまいます。

 大康の死後、弟の中康(ちゅうこう)が即位しますが、天下奪回はならず、中康の子である相(しょう)、更に相の子が、少康(しょうこう)で在り、彼の治世の時、寒浞(かんさく。羿を殺して夷族の統領となっていた)を攻め滅ぼして夏王朝を復興しました。

 少康の後の7代目は孔甲(こうこう)で、出来の君主の器ではなく、孔甲の子のコウ(注:漢字が出ません。)が在位3年、その子の発(はつ)は在位7年、発の子か桀(けつ)で、夏王朝最後の王となった。

 桀は、現在の山西省の洛陽に都を置いていたと考えられており、桀の政治は乱れて罪が多いとして、殷(商)の湯(とう)王と宰相の伊尹(いいん)によって攻められ、桀は鳴条へ逃げてその地で大敗し、更に敗走して捕らえられ、南巣(なんそう)に追放されたと云います。
南巣は現在の安徽省の巣湖の辺りと考えられますが、桀王の子孫は諸侯の地位を得て、祖先を祭ったと伝えられますが、夏の祖先の怨霊を恐れたもの考えられます。

続く・・・


2011/10/19

人類の軌跡その221:中国王朝伝説①

<伝説の中国夏王朝>

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 中国の夏王朝は、考古学的な発見が成されていない為、未だに伝説として扱われていますが、「史記」をはじめ多くの書物に記述が存在し、実在した可能性が強く、遺跡等の発見が期待されています。
(注:殷王朝も遺跡(殷墟)が発見される迄は伝説とされていました。)

 夏王朝は、黒陶文化(竜山文化)との関係も推察されていますが、夏の時代には未だ文字が使用されておらず、吉凶を占う為の獣骨にも文字が刻まれていない為、不明なまま現在に至っています。

 夏王朝の前には、三皇五帝の時代が存在したと云われています。
夏王朝の始祖は禹(う)で、禹の父は鯀(こん)とされており、鯀は、五帝のうちの一人である堯(ぎょう)の治世に治水工事を命ぜられたものの、9年の時を経ても完成せず、羽山(うざん)に流されて、命を落とします。
鯀の後を継いだのが禹で、禹は13年間の期間を費やし、終に治水工事を成功させました。

 禹は、嵩山(すうざん)の畔を本拠とし、妻の二人は塗山(とざん)氏の娘で、禹は結婚4日でまた治水工事の為に家を出たと云います。
禹は険路を行く時に熊の姿と成って走り、之を見た妻は逃げ出して石になったという説話が存在しますが、妻はこの時既に身ごもっていて、禹が「子を返せ」と叫ぶと、石が割れて子が生まれたと伝えられますが、この人物が啓なのです。

 禹は、後に舜(しゅん)の後を継いで帝位に就き、夏という国号は、禹が最初に封じられていた国の名から採ったと云われています。
治世の間に、車・酒・井戸の技術が開発され、九鼎を鋳造したと云う金属利用の説話も存在しています。

 禹は、東に巡幸した際に、現在の浙江省の会稽(かいけい)で崩御したと伝えられており、禹は、帝位を、自分を補佐してくれた益(えき)に譲りますが、禹が死んで三年の喪が明けると、益は帝位を禹の子である啓に譲って、自分は箕山(きざん)に隠棲してしまい、夏王朝の世襲制が始まりました。

続く・・・

2011/10/18

人類の軌跡その220:歴史の狭間で35

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:ソビエト連邦その⑥>

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大祖国防衛戦争

◎軍 事

 ソ連赤軍は、帝政ロシア軍を母体として、トロツキーによって創設された軍事組織ですが、前述した赤軍大粛清により、大量のしかも有能な将校が粛清された為、指揮命令系統が機能せず、又トハチェフスキーによって赤軍再編成や機械化部隊・空挺部隊の導入等の機械化、近代化に努めていたが、彼の粛清によって再編成計画は頓挫し、近代化は著しく遅れていました。

 この事実は、ソ連・フィンランド戦争で、数的に圧倒的優勢であったソ連軍の予想以上の苦戦を強いられた事からも、証明され、ヒトラーはソ連軍を、「腐った建物は、戸を蹴破れば全体が崩れる」と言い放ちましたが、この表現は当を得たものと思います。

 又、独ソ国境の防御配備は、寸土たりともドイツに譲らないと云う、硬直した思想が原因で、部隊を国境集中配置しましたが、此れは一見強力な防御体制と考えられますが、一端、一個所でも突破されれば、防備が手薄な背後に侵入され、背面攻撃・包囲される危険性が極めて高く、実際にその通りに成りました。
国境守備は、1939年迄に国境線に構築された要塞線「スターリン線」を基本としましたが、1939年にポーランドの東半分を併合した為廃棄され、新しい国境線に要塞線を急遽構築を開始しますが、完成には程遠く、要塞陣地が点在する形と成り、防御力は脆弱でした。

 独ソ戦初期は特に、前線への撤退禁止命令が乱発され、督戦隊と云う逃走防止部隊まで派遣され、前線後方で待機し、退却する兵達を銃殺し、更には、無謀とも思える突撃命令が頻発され、損害を大きくする原因と成りました。

本変終了・・・
2011/10/17

人類の軌跡その219:歴史の狭間で34

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:ソビエト連邦その⑤>

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労働でパンができる!

◎経 済

 1918年の10月革命以降の内戦期に於いて、ソビエト政権は、戦時共産主義(1918-1920)に基ずく、一連の諸政策を実行しました。
内容は、ロシア革命後に地主を解体して土地を没収し、国有地として農民に分配、工場・銀行・外国貿易を国営化しました。

 更に1919年には「全てを戦場に」のスローガンの下で「穀物割当徴発制度」等が実施され、外国による対ソ干渉戦争と反革命軍との内戦の危機に対処したのでした。
この制度により、余剰作物の公定価格での買い上げを廃止し、強制的徴発を断行、食料を配給制にしたのですが、この農村での穀物収奪とも言える強引な手段により、農民の耕作意欲は減退し、農村は疲弊する結果となりました。

 この戦時共産主義は、内戦時に於ける急激な共産化と云う強制的側面と、非常事態への対応の面が強く、この強制措置によって、内戦を戦い抜く事が可能と成ったものの、7年間に渡る戦争・内乱でロシア経済は荒廃し、1920年の工業生産は戦前の約14%・穀物生産も約2分の1に減少していました。

 こうした状況を打開する為、内戦もほぼ沈静化した1921年、レーニンは政策の転換を図り、ネップ(新経済政策)(1921-1925)が導入されます。
食料税の導入と、税納付後に残った残余農産物の自由な処分を可能とした事が特徴で、共産主義経済の緩和と云う意味合いが有り、このネップによって、ロシア革命と内戦の混乱で疲弊した、ソビエト連邦の経済はようやく立ち直り、1927年迄にはロシアの工業・農業生産は1913年(戦前)のレベルに近づきました。

 しかし、生産残余物を自由に売買できる事から、ネップマン(ネップ期に投資などによって富を蓄積させた)やクラーク(富農)といった富裕層の出現により、貧富の差が拡大し始め、国家統治理念である社会主義との矛盾を生ずる事に成りました。 
1928年スターリンによって、ネップ(新経済政策)を改めて、第一次五カ年計画(1928~32)による計画経済体制が施行され、重工業、特に軍需工業に重点をおく工業化と農民の集団化が実勢されます。

 この計画は、ネップによって潤ったネップマンやクラーク等の富裕層は、多大な犠牲を強いられ抵抗も強いものでしたが、政府は投獄や処刑等の強硬手段で之に対抗しました。
富裕層は事実上消滅し、この経済計画は1930年代の世界大不況の影響を受ける事無く、対外的には大成功との宣伝が大々的に行われましたが、実際は政治犯、囚人による強制労働、農民の集団化に至っては、強制的に行われた為、各地で大飢饉が続発し、多数の餓死者を生み出しました。
この様な犠牲の上に成り立った五カ年計画によって、第二次世界大戦勃発直前迄には、世界第二位の工業力であったドイツを抜いて、ソビエトは世界第一位のアメリカに次ぐ工業力を誇ったのです。

続く・・・


2011/10/15

人類の軌跡その218:歴史の狭間で33

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:ソビエト連邦その⑤>

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◎東部戦線開戦迄

 1939年8月23日の独ソ不可侵条約の締結は、全体主義と社会主義と云う、相容れない関係と見られていたドイツとソ連の接近であり、全世界に衝撃を与えました。

 しかし、ドイツは、避けられないと予想されるイギリス、フランス戦に専念する迄、その背後の憂いを絶つ目的から、ソ連は赤軍大粛清で弱体化したソ連軍を再建する為の時間稼ぎの為と云う、お互いの思惑が存在していました。
将来、何れかの国が、この条約を不要とした場合、条約を破って侵攻してくることは明かでしたから、其の為、ソ連は自国の安全を最優先し、独ソ不可侵条約で同時に調印され、秘密議定書によって認められていた独ソ間による北欧・バルト三国・東欧諸国のお互いの勢力分布に基づいて、領土併合の野望を顕わにするのです。

 1939年のソ連・フィンランド戦争、1940年のバルト三国併合、同年のルーマニアのベッサラビア地方併合がその例ですが、このベッサラビア地方併合は、ドイツが有する唯一の油田地帯であったプロエスティ油田に近く、ドイツを刺激することになりました。
仮にそこを占領されれば、ドイツは戦争遂行能力に重大な影響を与える為であり、バルカン地方の混乱によって、同地域にソ連が進出する余地を与えてしまう事に重大な危機感を抱き、ヒトラーはバルカン諸国の混乱を一気に解決すべく、ウィーン裁定と呼ばれる強硬な決定によって、ルーマニア領トランシルヴァニアのハンガリー帰属、ブルガリアへの領土割譲を決定してしまいます。

 その代償として、ドイツは軍事使節団という名目でドイツ軍を派遣し、ルーマニア領土の安全保障に責任を負う事となり、一応の安定を取り戻しました。
しかしその安定も長期化せず、独ソ間の緩衝地帯を手中にした両国は1941年6月22日、ドイツによる不可侵破棄を迎えます。

続く・・・

2011/10/14

人類の軌跡その217:歴史の狭間で32

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:ソビエト連邦その④>

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◎赤軍大粛清(1937-38年)

 1937から38年までに赤軍内で吹き荒れた大粛清。
 その発端は、1937年6月、国内戦の英雄で、赤軍最高の頭脳であったトゥハチェフスキー元帥(国防人民委員代理)を始めとする赤軍最高幹部8名が、スパイ容疑で突如逮捕され、7名(1名は逮捕直前に自殺)が6月11日の秘密軍法会議で有罪判決を受け、控訴なしでモスクワのルビヤンカ刑務所で即刻銃殺されたことに始まります。

 この大粛清が起こった背景には、スターリンの赤軍への強い猜疑心と、トゥハチェフスキー元帥への個人的な恨みが背景に存在し、赤軍は、帝政ロシア軍を母胎として、スターリンの政敵であるトロツキーが創設した軍であり、スターリンから見れば、いつ自分を裏切るかという猜疑心よりも恐怖心が常に存在していました。

 又、スターリンは第一次世界大戦直後の1919年に起こったソ連・ポーランド戦争では、南西方面軍軍事委員としてワルシャワ前面のトゥハチェフスキーにブジョンヌイの第1騎兵軍を送らず敗北させた責任を問われて、革命軍事会議議員から罷免されたことを逆恨みしており、レーニンの死後、後継となったスターリンは、1926年12月の党大会でトロツキーなどの党の反対派約70名とレーニンの盟友の殆ど総てを党から除名し、主要な者達を流刑地に追放して行きました。

 これらの党内の権力争いは1934年までに、スターリンの勝利に終わりますが、それでも猜疑心の強いスターリンは不十分と考え、党と軍部の粛清(反対派の完全除去)を断行し、1934年12月、キーロフ暗殺を発端としてスターリンの粛清行動がまず党内で動き出し、次々に粛清されるべき分派活動や破壊分子が作り出され、多数の古参党員が粛清されて行きました(ほとんどが冤罪であったという)。

 しかし、軍部、特に国内戦の英雄で、国民に慕われていたトゥハチェフスキー元帥にはさすがのスターリンも手を付けることが出来ず、1937年ドイツのスパイ容疑という罪状で粛清する事に成功します。
トゥハチェフスキー元帥という後ろ盾をなくした軍は、以後1937年から38年までの間粛清という名の大虐殺が吹き荒れ、元帥5名中3名、軍管区司令官(大将相当)15名中13名、軍団長(中将相当)85名中62名、師団長(少将相当)195名中110名、旅団長(准将相当)406名中220名、大佐階級も四分の三がその対象となり、旅団長以上の幹部と政治将校の実に45%、高級将校の65%が粛清されました。
政治局員(共産党から赤軍監視のために派遣されている党員たち)も最低2万人以上が殺害され、同期間中に赤軍全体で4万名以上が粛清され、また赤軍軍人で共産党員だった者は30万人いたが、そのうち半数の15万人が1938年中に命を落とし、これら上部・中堅司令官を大量に失った赤軍は瓦解寸前の状態に陥りました。

続く・・・

2011/10/13

人類の軌跡その216:歴史の狭間で31

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:ソビエト連邦その③>

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◎キーロフ暗殺と大粛清の始まり

 セルゲイ・キーロフは、党幹部で在ると共に政治委員で在り、その弁舌力と真摯な態度で民衆に大きな人気が在りました。
そして、共産党幹部で唯一スターリンに正面切って諫言を述べる事が出来た人物だったのです。
1934年12月1日にキーロフは、レオニード・ニコラエフという青年によって暗殺さます。
キーロフ暗殺については、キーロフの名声に嫉妬(!)したスターリンが命じたとする説も存在しますが、確証は無く、何れにしても、スターリンは容疑者として、嘗てスターリンが党から追放したジノヴィエフ、カーメネフとその支持者を逮捕し、その背後にトロツキーが国内に組織したテログループが存在するとの捏造工作を行います。

 以後、そのテログループ殲滅を口実に、後に「大粛清」と呼ばれる嵐がソ連に吹き荒れ、大粛清の犠牲者は党幹部から党員そして一般市民、軍人にまで拡大し、諸説入り乱れ、裁判によって処刑された者は約100万人、強制収容所での強制労働や農業集団化により死亡した者は一般的に2,000万人と云われています。
又同時期に行われたシベリアへの農民強制移住は悲惨を極め、その正確な犠牲者数は未だに不明なのです。

☆ドイツのスパイ容疑

 事件の発端は、チェコスロバキア大統領ベネシュが、トゥハチェフスキー元帥をドイツのスパイと立証し得る資料が存在すると、ソ連の在プラハ公使に通報した事に始まります。

 真相はソ連を攪乱する目的で、ドイツ保安機関が該当する資料を捏造し、自然な姿でベネシュに流れる様に仕向け、ベネシュは自国の安全保障の為、ソ連在プラハ公使を通じてスターリンに通報させた事は保母間違いない事実と判明しています。
更に、ドイツを上記行動に仕向ける様、ソ連保安機関が工作を行ったと云う有力な見解も存在しますが、この事象を証明する証拠は現在迄発見されていません。

続く・・・


2011/10/12

人類の軌跡その215:歴史の狭間で30

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:ソビエト連邦その②>

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◎レーニンの死去とスターリンの権力掌握

 1924年のレーニンの死後、後継者問題から権力闘争が激化し、党内右派のブハーリンと手を組んだスターリンが次第に頭角を現し、最大の政敵であった党内左派のトロツキーを最終的には1929年に国外追放する事に成功します(1940年に亡命先のメキシコで殺害)。

又、同じく対立していたカーメネフ、ジノヴィエフを1926年まで失脚させる事に成功(後に大粛清で処刑)。
しかし、そのブハーリンも後に粛清され、1938年5月13日銃殺、非業の死を遂げます。
大粛清によってジノヴィエフは、キーロフ暗殺事件に連座したとして党を除名の上、逮捕され、1935年に禁固10年の判決を受け、ウラルの政治犯収容所に収監、翌1936年「モスクワ裁判」でジノヴィエフは1932年にスターリン等党指導部に対するテロが計画されたという「合同本部」事件で告発され、十月革命の『裏切り』の件迄、追求されました。

ジノヴィエフは、スターリンに生命の保証を約束され有罪を認めた挙句、1936年8月25日にカーメネフら15人と共に死刑判決を受け、即刻同日に、助命嘆願を拒否された末銃殺されます。

 1934年12月セルゲイ・キーロフ暗殺事件をきっかけに大粛清が開始され、カーメネフは逮捕、党を除名され1935年「モスクワ本部」事件で禁固5年の刑に、翌1936年別件で禁固10年の刑が宣告され、「合同本部」事件を処理する「モスクワ裁判」で、ジノヴィエフと同様にスターリンの奸計に嵌り、処刑を逃れる事を条件に有罪を自白したものの、1936年8月25日銃殺刑が執行されました。

続く・・・


2011/10/11

人類の軌跡その214:歴史の狭間で29

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:ソビエト連邦>

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「我らがモットーは全人民のための自由である」「人民の英雄であるポチョムキン水兵たちに栄光あれ!」

◎成 立

 第一次世界大戦のさなか、1917年11月17日の12月革命によって、権力を掌握したボルシェビキ勢力(ソ連共産党)には、幾多の難関が存在していました。

 最初の難関は、交戦国ドイツとの関係修復で在り、当初は抗戦継続が行われたものの、1918年2月のドイツ軍大攻勢により戦線は崩壊、ドイツ軍が大挙して越境侵入する状況に陥ります。
ボリシェビキ政権は、レフ・トロツキー外相を中心に、1918年3月にドイツとの間に、ブレスト・リトフスク講和条約を締結します。
この条約には、旧ロシア領で在る現在のバルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)、ベラルーシ、ウクライナを含める、西部の広大な(そして肥沃な)領土を割譲しなければなりませんでした。

 次の難関は、この屈辱的条件を課したブレスト・リトフスク講和条約を結んだボリシェビキ政権に反抗し、ロシアの内外で反政府運動が活発化し、ロシアに内戦が勃発し、更にドイツとの単独講和に反発した連合軍が、懲罰を目的に内政干渉を行い、反ボルシェビキ勢力を援助した事でした(干渉戦争、シベリア出兵)。
この様にして発生した内戦は1920年までには終結しましたが、1922年に至るまで大規模な内乱・蜂起が散発し、シベリア沿海州における白軍政権の崩壊をもって内戦は終結、1922年にソビエト社会主義共和国連邦が成立したのでした。

続く・・・

2011/10/08

人類の軌跡その213:歴史の狭間で28

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:番外編・リリー・マルレーン>

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ドイツ映画:リリー・マルレーン(1981年)より

 第二次世界大戦でヒットした曲と言えば、往年の大女優マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich)の歌う「リリー・マルレーン」を思い出す人が多いのですが、実はこの「リリー・マルレーン」を最初に歌ったのは、ラーレ・アンデルセン(Lale Andersen)で在る事は余り知られていません。

 この歌は、1915(大正4)年に、ドイツの詩人ハンス・ライプ(Hans Leip)の詩集"Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht"に収録されていた詩を基に、1938年、作曲家ノルベルト・シュルツェ(Norbert Schultze)が曲を付けたものを、大戦が始まる7ヶ月前の1939年2月、歌手ラーレ・アンデルセン(Lale Andersen)によって録音されました。

 しかしその時には、60枚とも600枚とも言われる”伝説”が在る位売れず、曲も忘れ去られ、レコード会社には多くの在庫が残ったのですが、このレコードの内2枚がどういう経緯か前線慰問用のレコード中に紛れ込み、1941(昭和16)年6月14日21時57分、ベオグラード放送から北アフリカ戦線のドイツ兵向けに、この曲が流されたと伝えられています。

 この曲は、忽ち戦線のドイツ兵の心を捉え、 多くの兵が故郷を思い、涙を流したと云われていますが、 ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行した為、ナチスはこの歌を禁止しました。

 尚、ドイツ生まれの大女優マレーネ・ディートリヒは、ナチスを嫌い、アメリカに亡命し、戦時中アメリカ軍兵士の慰問にヨーロッパ各地を巡りました。
彼女は、此の時から「リリー・マルレーン」の歌を歌い、以後、彼女の持ち歌の一つと成りました。

 ラーレ・アンデルセンは、この歌で人生が大きく変わり、「リリー・マルレーン」のヒットに目を付けたナチスは、彼女にベルリンのマンションを与える等の大スター待遇で迎え、前線慰問などに動員しましたが、彼女の「絶頂期」は長くなく、1942年夏、イタリアでの演奏旅行に出かけた彼女は、突然ゲシュタポに逮捕されてしまいます。

 スイスに残してきた夫がユダヤ人で、亡命を図ったからではないかと言われますが、当局の追及に疲れた彼女は、睡眠薬自殺を図るものの、一命を取り留めます。
彼女の命を助けたのは、イギリスBBCのドイツ向けラジオ放送でした。
「貴方方の憧れの”リリー・マルレーン”を歌ったラーレ・アンデルセンは最近収容所に入れられて、そこで死んだ」と報道したのです。
ナチスの非道を宣伝する為の放送だったのですが、ナチスはその放送を否定し、彼女の健在ぶりを示す為、再びドイツ国民の前に出さざるを得ませんでした。
彼女は釈放されましたが、宣伝大臣ゲッベルスは、レコード原盤を持つエレクトローラ社に原盤の破棄を命じ、彼女にリリー・マルレーンを歌う事を禁じたのです。

 その後、全てに疲れ絶望した彼女は、ベルリンを離れ、北海の孤島のランゲウォング島に身を潜めるようにして生活を始めました。
ドイツ敗戦後、彼女は再び歌手に復帰しますが、ドイツ国民は既に彼女の歌を必要とはせず、更に50年代のビート音楽の流行により、古くさい歌謡曲は急速に人気を失いました。
彼女は、民謡歌手に転向しますが、過去の名声は蘇る事なく、1972年8月29日、彼女は自伝のキャンペーン中にウィーンでその生涯を閉じました。

続く・・・


2011/10/07

人類の軌跡その212:歴史の狭間で27

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:アメリカ合衆国 繁栄の陰に番外編>

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◎「事変」と「戦争」の違い

 現在、「日中戦争」と呼ばれる戦いは、勃発当初「支那事変」や「日支事変」等と呼ばれていました。
この「戦争」と「事変」の違い、「事変」とはいったい何であるのかについて調べてみました。

 「事変」とは、広範の非常事態や騒乱の事を指し、「事件」よりも規模が大きい騒乱を意味し、「宣戦布告なしの戦争状態」に用いられます。
 宣戦布告の有無で「事変」、「戦争」呼称が決まるのですが、では上記の日本と中国との騒乱を「事変」と云う名称を用いたのは、日本・中国双方の思惑が存在しからに他なりません。

 日本の場合、国際連盟規約やパリ不戦条約により、国際紛争の解決手段に戦争を遂行する事は。禁じられていたので、「戦争ではない」として国際的な批判を回避したいと云う日本政府の思惑が存在していました。

 一方の当事国である、中国の場合、「戦争」とすれば、戦時国際法によって、交戦国以外の第三国(中立国)が交戦国に援助することが禁止される為(中立義務)、当時中立国であるアメリカからの援助に、大きく依存していた中国にとって、著しい不利と成る為でした(日本も、原油をアメリカに大きく依存していた為、同様な事が言えます)。

 因みに、「戦争」と名称変更に成ったのは、日米開戦によって中立義務の存在を考慮する、必要が無く成った為でした。

(参考)
今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時間ニ付テ
閣議決定(昭和十六年十二月十二日)

一、今次ノ対英米戦争及ビ今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ、支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス
二、給与、刑法ノ適用等に関スル平時戦時ノ分界時期ハ、昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス[以下省略]

 此処に云う『支那事変をも含め』とした表現は、1937年7月7日に勃発した〈支那事変〉迄、遡って含めるのではなく、1941年12月8日以後、中国地域での戦争を含めるという意味であり、関係法律としては、昭和十七年二月十七日、法律第九号で、 「勅令ヲ以テ別段ノ定ヲ為シタル場合ヲ除クノ外、各法律中支那事変ヲ『大東亜戦争』ニ改ム」と定められ、一般にも「大東亜戦争」の呼称が定着しました。

続く・・・


2011/10/06

人類の軌跡その211:歴史の狭間で26

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:アメリカ合衆国 繁栄の陰にその④>

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参戦にNOと訴えた女性 ジャネット・ランキン

 アメリカ合衆国、モンタナ州ミズーラの牧場主と教師の子として生まれた彼女は、モンタナ州立大学を卒業後、ニューヨークに移住、その後シアトルのワシントン大学に入学し、初期の選挙権運動に参加しました。

 1916年下院議員に共和党から出馬し、モンタナ州選出議員として当選を果たしますが、間も無くアメリカは第一次世界大戦参戦への道を進み始めます。
参戦を決める議決において、彼女は他の55名とともに反対し、マスメディアで痛烈に非難され、1918年には無所属候補として立候補しましたが落選してしまいます。

 その後約20年間、ワシントンD.C.でロビイスト(圧力団体の利益を政治に反映させるために、政党・議員・官僚などに働きかけることを専門とする人々)として活動を続け、1940年、彼女は再び政治の舞台を目指します。

 反戦を政策に掲げ、再び下院議員に当選したのですが、日本がアメリカに行った真珠湾攻撃の後に開かれた議会に於いて日本への宣戦布告を採決。
上院 賛成82、反対0、欠席15(採決に間に合わなかった為)
下院 賛成388、反対1、欠席41
アメリカの参戦が決定しました。

 上院・下院を通じてただ一人反対票を投じた彼女は、「私は女なので戦争には行けません。ですから他人を戦場に送ることは拒否します。」と発言したのでした。
轟々たる非難の中、ボディーガードに守られたジャネットは議会を後にします。
もちろん、戦争に突進するアメリカ国内の非難は凄まじく、更にはドイツ・イタリア宣戦布告の採決の際に「インディアンの選抜徴兵反対法案」を提出し全米を敵に回したのでした。

 彼女はマハトマ・ガンジーの穂暴力主義に共感したアメリカ下院初の女性議員であり、国政レベルにおいて投票で選ばれた世界初の女性議員でも在ります。
第二次世界大戦時の反対票を投じたジェネット・ランキンを、カンザス州の地方紙「エンポリア・ガゼット」はこう評していました。
「何という勇気ある行為であろうか。今から100年後のこの国で、道徳的義憤に基づく勇気が、真の勇気が称えられる時、信念のために愚かしくも堂々と立ち上がったジャネット・ランキンの名前が、その業績の故ではなく、その行為故に記念の銅像に刻まれるであろう」
今彼女はアメリカの良心として、モンタナ州・州政庁の前に銅像と碑文が建てられている。
その碑文には、「私は戦争に行くことが出来ません」と刻まれています。

 世界中で未だ戦争は無くなっていません。

続く・・・
2011/10/05

人類の軌跡その210:歴史の狭間で25

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:アメリカ合衆国 繁栄の陰にその③>

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日米開戦 Japan Times 


◎外 交

 第一次世界大戦に参戦したアメリカは、犠牲が多かった割に得た利益が少なく、戦後は従来のヨーロッパへの不介入の孤立主義に逆戻りし、国民の大多数も、孤立主義を支持していました。

 しかし、1933年ドイツでヒトラー政権が発足して、次第に軍備拡張・領土拡張政策をとりヨーロッパの戦雲が立ちこめる1930年代後半、次第にアメリカは外国への介入を始める様に成ります。
同様にも、アジア地域でも日本が領土拡張政策をとり、権益を巡ってアメリカと対立する様に成りました。

 ルーズヴェルトが日本との戦争を決断するのは、1940年9月の日本による北部仏印進駐、同年の日独伊三国同盟締結時と云われています。
しかし、アメリカは民主主義国家である為、大統領が戦争を決断したとしても、直ぐに戦争実行が可能では無く、国民にはアメリカが直接攻撃されない限り、宣戦布告をしないと言わざるを得ず、又、ヨーロッパ地域に於けるドイツとの戦争についても、その対応は同様でした。

 この様な対外姿勢の中で、アメリカが、第二次世界大戦勃発後の1939年11月3日、ルーズヴェルト大統領による中立法修正案に署名、1940年12月29日、ルーズヴェルト大統領による「民主主義国の兵器庫」宣言を行い、1941年3月11日には、「米国大統領が其を防衛する事が合衆国の防衛に不可欠と考える国の政府に、船舶、航空機、武器その他の物資を売却、譲渡、交換、貸与、支給し、処分する権限を大統領に与えるもの」と規定された武器貸与法が施行され、イギリス、中華民国等に飛行機、武器、弾薬、軍需物資等の供給を開始したのでした。

◎第二次世界大戦への道

 南方資源獲得を目指す日本は、その足がかりとして、1941年7月28日、南部仏印進駐を行います。
是によって、産油地帯であるオランダ領東インドやアメリカの太平洋での拠点フィリピンへ接近する事に成り、アメリカを刺激して行きます。

 1941年8月1日、アメリカは即座に対日石油輸出禁止を発表し、日本の対米資産凍結等、次々と対日経済制裁を発動し、日米関係の悪化は決定的と成りました。
原油の7割をアメリカに依存していた日本は、窮地に追い込まれ、ついに1941年9月6日、御前会議に於いて対米開戦を決意 (「帝国国策遂行要領」決定)し、12月8日、運命の日米開戦となる真珠湾攻撃へと突入します。

続く・・・


2011/10/04

人類の軌跡その209:歴史の狭間で24

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:アメリカ合衆国 繁栄の陰にその②>

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テネシー川流域開発公社50周年記念切手

◎ニューディール政策

 ニューディール政策とは、1933年3月、大統領に就任したフランクリン・ルーズヴェルトによって行われた世界大恐慌克服の為の一連の経済政策で在り、その根幹と成る物は、従来の古典的経済学的な自由放任政策による国家の経済への最小限度の介入から、ケインズ理論を中心とした、国家による経済への積極的介入への大転換でした。

 最初に、連邦緊急救済局(FERA)がつくられて、300万家族、1250万人に援助の手が差伸べられ、次第に重工業・ダム建設などの大規模公共投資が行なわれました。
民間資源保存局(CCC)は、植林事業を展開し、テネシー川流域開発公社(Tennessee Valley Authority:略称TVA)は、テネシー渓谷にダムを造り、水運と治水改善を行い、水力発電によりアメリカ南西部の広大な地域に電力供給を目的とする事業で、多くの人材が必要と成り、数多くの失業者が再雇用されました。
このニューディール政策により、政府支出のGDPに占める割合は4.5%(29~32年の平均)から9.5%(33~36年の平均)へ急拡大しています。

 このニューディール政策は、後期の1930年代後半、国内の反対派への妥協の為、規模が縮小されて景気が悪化し、特に1938年には、政府債務の累積を憂慮する財政均衡主義者の声に押されて、連邦支出を削減した結果、GNPは6.3%減少し、純投資も46億ドルのプラスから66億ドルのマイナスに転落し、失業率も1933年の25.2%から1937年には14.3%にまで下がったものの、翌年には19.1%に迄急上昇する結果と成りました。
其の為、ニューディール政策の有効性について、今でも議論が成されているものの、景気を下支えした事では見解の一致を見ているのです。
尚、本格的な景気回復は、皮肉な事に第二次世界大戦参戦によって、大量の軍需が発生してからでした。

続く・・・


2011/10/03

人類の軌跡その208:歴史の狭間で23

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:アメリカ合衆国 繁栄の陰に>

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◎1920年代の大繁栄

 無傷の戦勝国アメリカは、第一次世界大戦後の1920年代、大戦での軍需特需によって重工業が発展し、帰還兵による住宅・自動車購入等の消費の拡大、モータリゼーションの発展による自動車工業の拡大によって、空前の好景気に沸き、「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的成功を成し遂げました。

 しかし、農業の機械化に起因する過剰生産により、農産品価格の暴落と、相次ぐ気象異常が追い打ちをかける形となり農村は疲弊し、更に農業不況に加えて、鉄道や石炭産業も不振に成っていたにもかかわらず、株式や不動産への投機熱が煽られ、経済はバブルの様相を呈していました。
戦後のベビーブームの終息や移民の停止により、住宅需要は20年代後半には半減しており、第一次世界大戦の荒廃から回復出来ない、ヨーロッパ諸国の購買力が回復せず、アメリカ国内の工業生産量が過剰に成りつつ在りました。
しかし、政府は、自由放任主義を取り続け、適切な景気抑制策等の経済政策を行おうとしませんでした。

◎世界大恐慌

 この様な状況下で、1929年10月24日10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した事をきっかけに、株価が大暴落しました。
しかし、ウォール街の大手株仲買人達が、協議して買い支えを行う事で合意した為、株価は値を戻して、数日間は平穏を保ちます。

 後にこの日は「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれる様に成り、この日だけで1289万4650株が売りに出されました。
更に5日後の10月29日には、24日以上の大量の株が軒並み売られ、大暴落が発生し、午後の取引開始早々には、市場を閉鎖する事態に陥り、この日だけで約1640万株が売りに出され、株価は平均43ポイント下がり、9月の約半分程度に迄成りました。
投資家はパニックに陥り、株の損失を埋める為様々な地域・分野から資金を引き上げ始めて行き、後にこの日は「悲劇の火曜日(Tragedy Tuesday)」と呼ばれる様に成りました。
終にアメリカ経済への依存を深めていた、脆弱な各国経済も連鎖的に破綻する事と成り、1929年から1932年にかけての工業生産は50%近く下落、実質GNPは35%以上下落、卸物価は30%以上下落し、失業率は1929年には3.2%であったものが、1932年には24.9%まで上昇しました。

続く・・・