人類の軌跡その252:半島の歴史⑪
<高句麗の建国その⑥>

◎広開土王以降
427年、王都を丸都城(がんとじょう・現在の輯安(しゅうあん)付近・鴨緑江中流)から平壌城(大同江流域)へ遷都。
551年、百済・新羅・加羅諸国の連合軍が、高句麗から、百済の旧王都の漢城地方を奪回。
552年、新羅は一転して高句麗と連合し、百済から漢城地方を占領。百済・加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼。
◎隋の時代の高句麗
581年に隋が成立すると、高句麗と百済は朝貢を始める。
586年、都を平壌城の隣の長安城に遷都。
589年に隋が陳を滅ぼして中国を統一、高句麗は警戒心を強めて隋の侵入に備える。これに対して、隋の高祖は国書を送り、高句麗も大きな動きは無し。
598年、高句麗は遼西へ侵入、隋は高句麗を討伐の動きを示したものの、隋内部で流行病が広がり、高句麗も謝罪使を送り終結。
612年、隋の煬帝は、200万人の大軍を派遣し高句麗の遼東城(現在の中国遼寧省遼陽付近)を包囲、陥落は容易ではなく、一方、隋の水軍は山東半島から黄海を横断して、平壌へ進行、一旦高句麗軍を破るが、平壌城下で壊滅的な打撃を受ける。
又、30万5千人の別働隊が鴨緑江河口に集結したが、巧みな戦術により撃破され、終に隋軍は撤退。
翌613年、激怒した隋の煬帝は再度出兵し、大型の攻城兵器を動員して平壌城を攻撃したが、国内で反乱が起こり兵を引く。
翌614年、隋では度重なる出兵で民心が離れつつあり、各地で盗賊が横行し、徴募兵も十分集まらない状況にもかかわらず、3度目の出兵が決行される。
高句麗は毎年の戦いで疲労困憊しており、隋の要求を受け入れて講和したが、王自らの朝貢等その約束を履行せず。
617年、隋は4度目の出兵を計画するが、中国全土に農民反乱が起こって隋は滅亡。
続く・・・

◎広開土王以降
427年、王都を丸都城(がんとじょう・現在の輯安(しゅうあん)付近・鴨緑江中流)から平壌城(大同江流域)へ遷都。
551年、百済・新羅・加羅諸国の連合軍が、高句麗から、百済の旧王都の漢城地方を奪回。
552年、新羅は一転して高句麗と連合し、百済から漢城地方を占領。百済・加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼。
◎隋の時代の高句麗
581年に隋が成立すると、高句麗と百済は朝貢を始める。
586年、都を平壌城の隣の長安城に遷都。
589年に隋が陳を滅ぼして中国を統一、高句麗は警戒心を強めて隋の侵入に備える。これに対して、隋の高祖は国書を送り、高句麗も大きな動きは無し。
598年、高句麗は遼西へ侵入、隋は高句麗を討伐の動きを示したものの、隋内部で流行病が広がり、高句麗も謝罪使を送り終結。
612年、隋の煬帝は、200万人の大軍を派遣し高句麗の遼東城(現在の中国遼寧省遼陽付近)を包囲、陥落は容易ではなく、一方、隋の水軍は山東半島から黄海を横断して、平壌へ進行、一旦高句麗軍を破るが、平壌城下で壊滅的な打撃を受ける。
又、30万5千人の別働隊が鴨緑江河口に集結したが、巧みな戦術により撃破され、終に隋軍は撤退。
翌613年、激怒した隋の煬帝は再度出兵し、大型の攻城兵器を動員して平壌城を攻撃したが、国内で反乱が起こり兵を引く。
翌614年、隋では度重なる出兵で民心が離れつつあり、各地で盗賊が横行し、徴募兵も十分集まらない状況にもかかわらず、3度目の出兵が決行される。
高句麗は毎年の戦いで疲労困憊しており、隋の要求を受け入れて講和したが、王自らの朝貢等その約束を履行せず。
617年、隋は4度目の出兵を計画するが、中国全土に農民反乱が起こって隋は滅亡。
続く・・・
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