2011/11/30

人類の軌跡その252:半島の歴史⑪

<高句麗の建国その⑥>

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◎広開土王以降

 427年、王都を丸都城(がんとじょう・現在の輯安(しゅうあん)付近・鴨緑江中流)から平壌城(大同江流域)へ遷都。
 551年、百済・新羅・加羅諸国の連合軍が、高句麗から、百済の旧王都の漢城地方を奪回。
 552年、新羅は一転して高句麗と連合し、百済から漢城地方を占領。百済・加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼。

◎隋の時代の高句麗

 581年に隋が成立すると、高句麗と百済は朝貢を始める。
 586年、都を平壌城の隣の長安城に遷都。
 589年に隋が陳を滅ぼして中国を統一、高句麗は警戒心を強めて隋の侵入に備える。これに対して、隋の高祖は国書を送り、高句麗も大きな動きは無し。
 598年、高句麗は遼西へ侵入、隋は高句麗を討伐の動きを示したものの、隋内部で流行病が広がり、高句麗も謝罪使を送り終結。

 612年、隋の煬帝は、200万人の大軍を派遣し高句麗の遼東城(現在の中国遼寧省遼陽付近)を包囲、陥落は容易ではなく、一方、隋の水軍は山東半島から黄海を横断して、平壌へ進行、一旦高句麗軍を破るが、平壌城下で壊滅的な打撃を受ける。
又、30万5千人の別働隊が鴨緑江河口に集結したが、巧みな戦術により撃破され、終に隋軍は撤退。

 翌613年、激怒した隋の煬帝は再度出兵し、大型の攻城兵器を動員して平壌城を攻撃したが、国内で反乱が起こり兵を引く。
 翌614年、隋では度重なる出兵で民心が離れつつあり、各地で盗賊が横行し、徴募兵も十分集まらない状況にもかかわらず、3度目の出兵が決行される。
高句麗は毎年の戦いで疲労困憊しており、隋の要求を受け入れて講和したが、王自らの朝貢等その約束を履行せず。
 617年、隋は4度目の出兵を計画するが、中国全土に農民反乱が起こって隋は滅亡。

続く・・・

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2011/11/29

人類の軌跡その251:半島の歴史⑩

<高句麗の建国その⑤>

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◎広開土王碑

 広開土王碑は、現在の中国吉林省通化専区揖安県に在り、近くには将軍塚と大王陵(いずれも広開土王陵と比定)が現存しています。
高さ6.3メートル、幅1.4~1.9メートルの四角柱状の角礫凝灰石で、碑文は3段からなり、第1段は高句麗の開国伝承と建碑の由来、第2段は広開土王の事跡、第3段は守墓人烟戸に関するものです。

 1880年に、苔蔓に埋もれていた碑を、この地の農民が発見し、翌年に清国の役人の関月山がその一部を拓本に取りました。
1884年、日本陸軍の砲兵大尉酒勾景信が日清戦争への諜報活動中にこの拓本を得て、その解読を参謀本部で行い、倭・任那に関する碑文について改ざんを行なったのではないかという学説が存在します。

 第2段の「広開土王の事跡」の概要は以下。
 395年、王はみずから碑麗(ひれい・沃祖地方)を討伐し、翌396年、王は水軍を率いて百済国を討つ。
その理由は、百済と新羅はもとから高句麗に隷属し朝貢していたが、倭(注)が辛卯の年(391年)に海を渡り百済などを打ち破って臣下とした為である。
王は百済の多くの城を占領したにもかかわらずなお抵抗したので、漢江を渡り、王城を攻め、百済王は多くの貢物をだし、家臣になる事を誓い、王の弟等を人質として凱旋した。
 
 398年に息慎(そくしん・粛慎(しゅくしん))地方に出兵し、服属さ、翌年百済は先年の誓いを破り倭と和通した。
そこで王は百済を討つ為平譲に向かい、其の時新羅からの使が「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下とした。どうか高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。400年、5万の大軍を派遣して、新羅を救援し、新羅王都に至ると、王都内の倭軍が退却したので、これを追い任那・加羅に迫るも、安羅軍等が手薄に成った、新羅王都を占領した。

 404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入、これを討って大敗させた。
407年には5万の大軍を派遣し、現在の京畿道北部で兜と鎧一万余領の戦利品を得るほど大勝した。410年には東扶余を討ってこれを服属させた。

(注:「倭」については、時代にその対象が変化しています。内蒙古地方の倭、中国南方の倭、南朝鮮の倭等。ここでは、南朝鮮の倭で加羅諸国を指すとする説と、日本の大和朝廷を指すとする説が存在します。)

続く・・・


2011/11/28

人類の軌跡その250:半島の歴史⑨

<高句麗の建国その④>

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◎五胡十六国時代の高句麗

 中国が混乱期を迎え、高句麗は亡命者を迎え入れて、国政を整え、軍備を拡張しました。
遼西郡に基盤を置いた鮮卑族は、AD337年に自立して燕国を建て、AD339年には高句麗に侵入、高句麗は講和を申し入れ、燕に朝貢する事に成るも、対立は数度繰り返され、AD342年、燕の侵略を受けて王母・王后・先王の屍迄虜と成りました。
高句麗は、度重なる謝罪を行いAD350年に許され、又、燕から征東大将軍営州刺史楽浪公に冊封され、朝鮮の諸王国が中国王朝から冊封を受ける初めての例でした。

 AD369年、高句麗は国力をつけた百済の雉壌(ちじょう)に侵入するも、百済に撃退され、AD371年に、高句麗は再び百済に派兵するも、百済の伏兵に敗れ、勢いに乗った百済軍は逆に高句麗の平壌城を攻めて、高句麗王を戦死させ大勝しました。
次世の高句麗王は、国力の充実に努め、AD372年、秦から、はじめて仏教が公伝。
同年、大学を建て初めて儒教の教育も行い、翌AD373年には、律令を頒布しています。
この間に、百済(AD346年建国)と新羅(AD356年建国)も国力を拡大して行きました。

◎391年 高句麗の広開土王(好太王)即位

 現存最古の朝鮮の歴史書「三国史記」でBC37年の建国と伝えられる高句麗は、中国の設置した遼東郡や周辺諸民族と激しい攻防を続けました。
広開土王(在位391~412・日本では好太王とも呼ぶ)の代になると、再び領土拡大を謀り、高句麗の最盛期を迎えます。
広開土王の事跡等を記した碑が現在迄残り、この碑文には記載されていませんが、中国の遼東郡での攻防があり、それをも勝利したと推定されています。

続く・・・


2011/11/26

人類の軌跡その249:半島の歴史⑧

<高句麗の建国その③>

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◎魏の時代の高句麗

 公孫氏や高句麗が中国の呉と連合すると、AD238年に中国の魏は司馬宣王を派遣して公孫氏を滅ぼし、この時、高句麗は魏に援軍を送っています。
楽浪郡と帯方郡は、魏に受け継がれ、魏がこの2郡の政治的経済的運営を開始し、朝鮮半島南部の韓族や日本の邪馬台国からの使節が朝貢を開始します。

 魏は、AD244年に、鮮卑族や烏丸族を討って勇名を馳せた幽州刺史(長官)毋丘倹(かんきゅうけん)を派遣し、高句麗の王都の丸都城(がんとじょう・現在の輯安(しゅうあん)付近・鴨緑江中流)を占領、翌年、毋丘倹は再び高句麗を攻め、沃沮(よくそ)から更に粛慎(しゅくしん・現在のロシア沿海州)の南部に至りました。
高句麗王の東川王は殆ど単身で南沃沮(現在の朝鮮咸鏡南道)まで逃れたと伝えられています。

◎晋の時代の高句麗

 AD265年に魏に代わって晋が建国。
 AD274年に晋が幽州の5郡を分割して平州の5郡(昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方)を置くと、馬韓・辰韓地方の諸国が晋に朝貢しました。

 AD285年、遼西迄進出した鮮卑族が、扶余国を攻めて占領し、王を自刃させ、1万余人を捕虜にして遼西へ引き上げますが、扶余国は東夷校尉らの援助を得て再建する事が出来ました。

 鮮卑族が遼東郡に勢力を伸ばし、一方高句麗は行く度か遼東郡に出兵し、AD311年に西安平県(現在の遼寧省丹東市付近・鴨緑江河口付近)を陥れると遼東郡と楽浪郡・帯方郡が分断されました。
しかし、この時の晋は、匈奴に攻められ、都の洛陽が陥落し遼東郡への支援をできる状況ではなく、遼東郡を実質的に支配しているのは鮮卑族でした。
高句麗は、更に、AD313年に楽浪郡を侵略し、翌AD314年に帯方郡をも占領するに至りました。
之により、BC108年から続いた、中国による朝鮮半島の直接支配には終止符が打たれ、この後朝鮮半島では、半島南部の馬韓・弁韓・辰韓は新羅と百済に統合され、高句麗・新羅・百済の三国時代へ向います。

続く・・・


2011/11/25

人類の軌跡その248:半島の歴史⑦

<高句麗の建国その②>

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◎新の時代の高句麗

 「漢書」王莽伝では、AD8年、王莽が新国を建て四方に使節を派遣した時、高句麗は扶余と共に外臣の印綬を与えられ、その独立が承認さました。
AD12年、王莽は匈奴を攻撃するため高句麗に出兵を要求しましたが、高句麗王騶(すう)はこれを拒否、王莽は高句麗を討ち騶を打ちます。

◎後漢の時代の高句麗

 後漢時代になると、在地勢力を認めて懐柔政策が用いられ、郡県支配の中心は遼東郡に移ったものと考えられます。
遼東太守の祭彤は、鮮卑族を招いて財宝を与え、朝貢するよう説得し、これに応じて朝貢すると朝貢品を上回る賜物を与え、これを伝え聞いた高句麗は、敵対行為を止めて朝貢したと云います。

 高句麗・扶余を中心に、遼東郡との対立が再び起こり、激しい攻防の時と成ります。
 AD105年に高句麗は遼東郡の6県を一時奪うも撃退され、AD111年には扶余が楽浪郡を攻め、更にAD118年には高句麗が玄菟郡・楽浪郡を攻め、AD121~122年には高句麗が馬韓・濊貊諸種族と共に遼東郡の玄菟城を攻撃していますが、この時扶余は遼東郡について戦いました。

 AD132年には高句麗が、遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡が当時遼東郡へ移動していたと考えられます。
AD167年に扶余は2万の大軍で玄菟郡を襲うも失敗、翌AD168年に鮮卑族・濊貊族が幽州・并州(現在の中国河北・山西両省北部・内蒙古南部)に侵入するも、翌年には後漢軍が中心勢力であった高句麗を撃破、高句麗は再び遼東郡に従属します。
しかし、高句麗は3年後に独立し、これを攻撃した遼東郡の軍隊は大敗しました。

 後漢がAD184年の黄布の乱で危機に瀕すると、玄菟郡の太守であった公孫氏は事実上独立し、遼東郡をも支配すると、高句麗や烏丸(うがん)を撃って勢力を拡大しました。
AD197年、高句麗の王位継承問題で、発岐と延優が兄弟で争い、兄の発岐は遼東郡に援助を求め一応王位につきますが、弟の延優は都を現在の通溝から輯安(鴨緑江中流)に移して新しく国を建て高句麗を名乗りました。

 公孫氏は、AD204年(注:AD205年としている文献も存在)には楽浪郡を分割して帯方郡を設け、郡県制を復興して、東方や南方の民族への影響力を強めたのです。

続く・・・

2011/11/22

人類の軌跡その247:半島の歴史⑥

<高句麗の建国その①>

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 漢の武帝が設置した朝鮮の4郡のうち「玄菟(げんと)郡」は、高句麗の封じ込めの意味を持って設置されたものと考えられていますが、この玄菟郡がBC75年に遼東郡に吸収され玄菟城(現在の中国遼寧省方面)に名目を残すだけと成りますが、逆に之は在地勢力の拡大を暗示しています。

 現存最古の朝鮮の歴史書「三国史記」では、高句麗の建国をBC37年と定めており、高句麗は、本来、扶余種族に属する一小部族で在ると考えられ、強力な中央集権体制を取り入れ軍事力により、近隣の諸部族を征服して拡大し、朝鮮半島の北側大陸部を中心に成長していきました。
(扶余・高句麗ともに、ツングース系の民族と推定され、東部シベリア・満州北部に分布する民族で、モンゴロイド・アルタイ語族。粛慎・挹婁・勿吉・靺鞨・女慎・満州族と呼ばれた民族が、ツングース系に属し、扶余は、高句麗の北側、現在の中国黒龍江省付近が本拠地と考えられています。)


◎高句麗の建国伝説

 東扶余(ひがしふよ)の金蛙王(きんあおう)が、太白山(たいはくざん・現在の白頭山)の南の河岸で女に逢いました。
名を柳花といい、河伯の娘だと名乗り、王がその女を東扶余へ連れて帰ると、間もなく大きな卵を生みました。
王は不審に思い、卵を割ろうとしましたが割る事が出来ず、野原に棄てると鳥達が代わる代わるに温めました。
不思議に思い、改めて住まいに入れ母親に返すと、やがて一人の男の子が生まれ、弓の名人となり、朱蒙(しゅもう)と名乗りました。
他の王子達が妬んで殺そうとしたので、気配を知った母は朱蒙を逃がします。

 朱蒙は3人の従者を連れて逃れ、鴨緑江を渡って更に3人が伴に加わりました。
卒本川(そつほんせん)の地に辿り着き、この地を都と定め、国名を高句麗として王位に就くと、家来を集め、周囲の小国を討従えて領土を広げて行きました。

続く・・・

2011/11/21

人類の軌跡その246:半島の歴史⑤

<百済その⑤>

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◎日本書紀の記述

 日本書紀には、百済に関して次の様な記述が存在しています。

斉明天皇6年(660年)

 百済の滅亡後、鬼室福信と余自進が其々に、離散した百済兵を集めて城を守る。
鬼室福信は、唐人の捕虜百余人を日本へ送り、日本の援軍を乞うと共に、日本へ送られていた王子の余豊璋の国王即位を伝える。

斉明天皇7年(661年)

 斉明天皇は、百済へ援軍を派遣する為、筑紫(現在の福岡県)に移られたものの、ここで崩御。
後の天智天皇が後を継ぎ、正式な即位の無いまま、筑紫で政務を司り、百済への援軍と武器・食料を送らせ、その後、百済の王子豊璋に冠を授け、妻を娶らせた上、5千人の兵を添えて百済へ派遣。
百済では、鬼室福信が迎えて、豊璋に政務を任せる。

天智元年(662年)

 高句麗は、唐と新羅の連合軍に攻められ、日本に援軍を求める。
日本は兵を送り疏留城(そるさし・都々岐留山(つつきるのむれ))に構え、唐は南進を諦め、新羅は西進を阻む。
日本が勅して豊璋を百済国王とし、又福信の労を労い、百済を救う為武器を整え、船を準備し、兵糧を蓄える。

天智2年(663年)

 日本から2万7千人を派兵し、百済王豊璋は、福信に謀反の心が在る事を疑い、福信を殺害、良将で在った福信が斬られた事を知った新羅は、百済王の居る州柔(つぬ)攻略を計画し、この計画を知った百済王は、自分は日本の援軍を白村江(錦江の河口付近)で迎えると諸将に告げて上洛。

 その後に、新羅が城を囲み、唐の軍船170余艘が白村江に陣を敷き、日本の先着した水軍は是に敗北、翌日、日本軍と百済王は、隊伍の乱れた中、軍を率いて先陣を争い、唐軍に左右から船を挟んで攻撃され大敗。
百済王は数人の従者を従え船に乗り、高句麗へ逃れその後州柔城も降伏。
日本軍と余自進を含めた多くの百済人が日本へ逃れ、この年 、対馬・壱岐・筑紫国等に防人(さきもり)と烽(すすみ・狼煙台)を置き、筑紫に大堤を築いて水を貯る。

百済の項終了・・・



2011/11/18

人類の軌跡その245:半島の歴史④

<百済その④>

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◎隋・唐時代の百済

581年に隋が成立すると、高句麗と百済は直ちに 朝貢した。
百済は、隋が成立すると、しきりに高句麗を討つよう要請している。

597年、百済の王子阿佐を日本に派遣する。(「日本書紀」推古天皇5年の条)
隋は高句麗に対する3度の遠征に失敗し4度目の出兵を計画するものの、国内に内乱が起こって自滅。

618年、唐が成立する。

624年、百済、高句麗、新羅が相次いで唐に朝貢した。

636年、漢江流域の孤立を画策して、新羅の独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を襲う。

645年、唐が高句麗に出兵、新羅も呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略。

642年、百済は、新羅の国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を併合、更に新羅の唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗と共に攻略、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を攻略し、大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻を殺害。

655年、高句麗と百済の連合軍が、新羅の北部の33城を奪い、新羅は唐に救援軍を要請。
唐は遼東郡に出兵するも、大きな効果無し。

658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵。
これが失敗に終わると、唐は新羅と結んで先に百済を滅亡させる作戦を展開。

660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で挙兵。
新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗沘城(しひじょう・錦江の下流域)を攻略。百済王はいったん旧都の熊津城(錦江の中流域)に逃れたものの、皇太子らと共に降伏し、百済は滅亡。

百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道琛(どうちん)・日本へ送られていた王子豊璋が、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦う。
日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗。
古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。
尚この時、多くの百済人が日本へ亡命した。

続く・・・

2011/11/17

人類の軌跡その244:半島の歴史③

<百済その③>

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◎五胡十六国の時代の百済:年代を追って②


512年、百済が日本へ使節を派遣、任那4県の割譲を要請し、認められる。
(「日本書紀」の継体天皇6年の条)

513年、百済の将軍らと五経博士(儒教の博士)を日本に派遣し、判跛国(はへこく(はひこく)・現在の慶尚北道星州郡)が百済の己汶(こもむ・現在の全羅北道南原郡と任実郡および全羅南道谷城郡)地方を奪ったので審判のうえ返還してほしいと申し出た。
判跛国も珍宝を日本に献じて、己汶の地を与えてくれるよう願い出たが、日本は己汶と帯汶(たさ・現在の慶尚南道河東郡)を百済の領有と認めた。(「日本書紀」の継体天皇7年の条)

514年、判跛国は帯汶と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地に狼煙台を作って日本に備えた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)

515年、百済から日本への使節であった将軍らが帰国を願い、物部連を伴って帰国させると、判跛国が軍備を増強しているとの情報を聞き、使節の将軍らは新羅を通って帰国させ、物部連は500人の海軍を率いて帯汶江へ行ったが判跛国軍の襲撃を受け命からがら逃げ延びた。(「日本書紀」の継体天皇9年の条)

516年、百済は物部連らを己汶で迎え入れ、多くの労い物を与え、帰国の際には、新たな五経博士を送って先の博士と交代させた。
別に百済の使節が高句麗の使節を連れて日本へ入朝。(「日本書紀」の継体天皇10年の条)

538年、百済から日本へ仏教が伝えられた。

538年、都を熊津から泗沘(しひ・現在の忠清南道扶余郡扶余邑)に遷都、錦江に沿って25km下り、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移る。

551年、百済の聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧王都の漢城地方を奪回。

552年、新羅は一転して高句麗と連合し、漢城地方を新羅に奪取、百済と加羅(大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼。

554年、百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立、これを救う為、父の聖王が函山城を攻めたが、聖王は死亡。

562年、加羅諸国が新羅に占領。

続く・・・


2011/11/16

人類の軌跡その243:半島の歴史②

<百済その②>

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五胡十六国の時代の百済:年代を追って①

 346年、近肖古王の即位、近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。
 367年、百済と新羅が共に初めて日本に朝貢。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)
 371年、高句麗の平壌城を攻略し占拠した。此の時、高句麗の古国原王は流れ矢に当たり戦死。
 (高句麗が百済を攻略、これを撃破したとする文献もある。)

 372年、東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。
 同372年、日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を贈る。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)
 同372年、慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmの位置)へ遷都。
 377年、北朝の前秦へも朝貢。
 384年、西域の僧侶摩羅難陁(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。
 387年、東晋から、百済の太子余暉が使持節都督鎮東将軍百済王の号を授けられる。
 391年、倭が海を渡り百済を撃破し臣下とする。(広開土王碑の碑文)
 396年、高句麗の広開土王が、平壌城を奪回。
 397年、倭と結んで高句麗と戦う為、百済の太子腆支を倭国へ送る。
 402年、百済から倭国へ使者を送る。
 403年、倭国から百済へ使者を送る。
 404年、倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出。(広開土王碑の碑文から)

 405年、百済の阿莘王が死去に伴い、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注の報告では、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の碟礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽率に入国しないで欲しい。」と言う。
そこで、太子は倭人と共に島に立て篭もり、その間に貴族達が碟礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。

 416年、東晋から、百済王余映(腆支王)が同様に鎮東将軍百済王の号を授けられる。
 420年、宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。
「宋書」東夷百済国伝に、高句麗が遼東郡を支配し、百済が遼西郡を支配した、との記述がある。
一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかと考えられる。

 475年、高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲攻撃。
 百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出に失敗し捕虜となる。攻められる前に子の文周らを南に逃し、文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を定める。

 478年、大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。
 479年、解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取る。
 次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を拡大。
 501年、東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺害され、武寧王が立ってこれを討った。

続く・・・

2011/11/15

人類の軌跡その242:半島の歴史①

<百済その①>

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 朝鮮半島の南西部に存在した、馬韓の一小国、伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展しました。

 伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢しています。
346年は、近肖古王の即位の年とされています。(但し、近肖古王は、第13代目の王とされています。)

◎百済の建国伝説

 高句麗の始祖である朱蒙(しゅもう)には3人の子があり、長男の類利(るいり)が高句麗を継いだので、弟の沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)は高句麗を出て、自分達の国を建てようと南へ向かいますが、その時10人の臣下と大勢の農民が此れに従いました。
(「三国史記」別伝に由れば、沸流と温祚は朱蒙の実の子ではなく、朱蒙が生まれた東扶余の有力者の娘で召西奴の子としています。)

 やがて漢山(かんざん・現在の京幾道広州郡)へ辿り着き、2人は臣下と共に負児岳(ふじがく)の頂に登り周囲を見渡すと、沸流は海の見える方向が気に入りましたが、10人の臣下は口を揃えて反対し、「其れよりも、此方の方です。北に江が流れ、東に山を控え、南は平野、西は海、こんな究竟な良い場所は在りません。都はぜひ、此方へお建てに成る事です。」と勧めましたが、沸流はどうしても聞着いれません。
農民達を半分に分けて、自分だけ海辺の方へ都を置く事に成りました。
この場所が弥鄒忽(みすこつ・現在の仁川)であり、弟の温祚は臣下達の意見に従って、漢山の慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡)に都を定め、10人の臣下に因んで、国の名を「十済」と呼ぶ事にしました。

 弥鄒忽は土地が湿っているうえ水が塩辛く、農民の苦労も多大なものでした。
沸流が弟の様子を見に慰礼城へ来てみると、何の不足もなく幸せに暮らしています。
自分を恥じた沸流は、それを苦にして病となり亡くなり、その後、農民達は慰礼城へ移り、人民が増えたので、国号を「百済」に改めました。
百済は、ここから領土を広げて大きく成っていきました。
(実際には、百済として大きな勢力となったのは、高句麗の建国よりも約400年後の事と推定されています。)

続く・・・


2011/11/14

人類の軌跡その241:邪馬台国③

<魏志倭人伝その③>

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◎神武天皇の東征

 神武天皇(この名前は後世からの諡(おくりな)ではないでしょうか?)の東征は実際に起った出来事と思われます。
従って、大和政権の祖先は九州に在り、其の地から一部の者が近畿地方へ移動し、後の大和政権の基礎を築いたと考えられます。

 一部の研究者の中には、『古事記』『日本書紀』に記述されている内容が、大和政権の都合のよいように作り上げられた内容を含んでいると云う意見も在りますが、公式の歴史書の中に虚偽を記載する事は容易では在りません。
伝世のうちに誤りが生じたり、幾つかの解釈が可能なものについて一番都合の良い解釈をしたり、都合の悪い事に触れないと云う事は可能でしょうが、政権にとって都合のよい記述を作為する事は、そのメリットよりも、作為した事が明らかに成って、政権の信用を失墜させるデメリットの方が遥かに大きいと思います。

 そして、もう一つは、国の成り立ちの根本に係わる出来事を、個人的なレベルで書き換えてしまう等と云う事が簡単に可能とは思われません。
昔の出来事を可能な限り、正確に後世へ伝え様と考えるのが普通ではないでしょうか?
辻褄の合わない箇所を正しく補正しようとして誤りを犯した可能性も在りますが、当時の人も現代の人と同様に厳正な気持ちで取り組んでいたに違い在りません。

 ドイツのシュリーマンが、ホメロスの記述が過去の出来事を正確に伝えている事を、遺跡の発掘によって証明したように、何時の日か、『古事記』『日本書紀』の記述が正確に事実を伝えている事が明らかにされるであろう事を、信じて疑いません。

 神武天皇がなぜ東征を実行したのかについては、必ずしも明確では在りません。
そして、政権全体が東へ遷都したのか、一部の者が東へ向かったのかも明記されていません。
 
推測されるのは、政権の中心にあった血筋(天皇家の始祖ともいうべき血筋)を引く者の一人が九州から東征し、その子孫と家臣達が近畿地方で一大勢力を作り上げたものと解釈しています。

 例えば、天照大御神の下から飛び出したスサノオ(日本書紀では「素戔鳴」、古事記では「須佐之男」)の様な存在ではないでしょうか?
又、『古事記』『日本書紀』には、神武天皇自身が東征の途中で、同じ高貴な血筋の者(天神の御子で饒速日命(にぎはやひのみこと))と出会うという話しも記載されており、当時から他にもそのような者が居た事が伺われます。

魏志倭人伝終わり・・・


2011/11/12

人類の軌跡その240:邪馬台国②

<魏志倭人伝その②>

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仮説4 倭国 = 和国

 中国では「倭」という卑しい漢字があてられたが、日本では「和」という字を用いたのではないでしょうか?

仮説5 和国 → 大和国 (ヤマト国)

 元々は「和」国で当てたものが、国々の連合体或いは大国への発展により「大和」という文字を用いる様に成ったのではないでしょうか?
魏志倭人伝のなかに「国国市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。」という表現が存在し、此処での「大倭」は役職の様な物と考えられますが、この語が発展して行ったと仮定する事も可能です。
 
「大和」と書いてなぜ「ヤマト」と読むか。其れは、和国の基礎がヤマトに在ったと云う事で、和国の中に在った「ヤマト」が、次第に勢力を持ち、「ヤマト」と「大和」が同義に成って行ったと仮定すれば、卑弥呼の邪馬壹(臺)国がそのヤマトではないかと考えられます。

仮説6 卑弥呼の邪馬壹(臺)国は、九州に散在した 

 卑弥呼が『古事記』『日本書紀』での天照大御神で在ると考えると、此れは神武天皇の東征前となります。
当時の邪馬壹(臺)国(=ヤマト国)は九州に在って、其処から政権中心者の血筋を引く神武天皇が東征し、近畿地方で一大勢力と成ったと考えると、日本の資料と中国の資料がうまく組み合わせて解釈でき、神武天皇の東征は、遷都では無く一部の者が東へ向かったものだと考えられます。

(追記)

 邪馬台国が九州に存在したか、大和地方に存在したかの論争の根源は、魏志倭人伝の方位と距離をそのまま読むと海の彼方へ行ってしまう為、方位と距離のどちらかが間違っているのであろうという点から始まっています。
しかし、古田武彦氏は、「倭人伝を徹底して読む」朝日文庫のなかで、「漢代の一里は約435mであるが、魏志倭人伝を含む『三国志』では魏・西晋朝の時だけ公認されていた短里で書かれているのではないか。そして、その短里は約77mで、漢代の長里に比べると約1/5であろう。」という主張をされています。
方位と距離のどちらかが間違っているといった説よりも、ずっと説得力があります。
因みに、古田武彦氏は北九州説を取られています。

続く・・・


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2011/11/11

人類の軌跡その239:邪馬台国①

<魏志倭人伝その①>

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 所謂「魏志倭人伝」に、倭国の邪馬壹(臺)国の女王卑弥呼が、魏に遣いを送り朝献したと云う記述が存在します。

 「魏志倭人伝」の正確には『三国志・魏志』巻30・東夷伝・倭人の条に、『三国志』は晋の陳寿(233~297)が選んだ物で、その大半が魚拳の『魏略』に縁った物で在るとされているが、『魏略』はすでに散逸しています。
日本には、この時代の文献が存在せず、日本を知る為の貴重な資料と成っており、その解釈を廻って様々な論争が行われています。

◎日本の古代史に関する仮説

☆邪馬壹(臺)国の卑弥呼

 中国の歴史書に取り上げられている日本の中心的な人物「卑弥呼」が、日本の歴史書に全く登場しないと謂う事は、不自然ではないでしょうか。
当時の日本に文字が無かったとは言え、『古事記』『日本書紀』と云う形で現在に伝わる物が存在しており、倭国の代表として中国へ使者を遣わす程の人物について、全く触れられていないと謂う事は考えにくく、むしろ、中国の歴史書に記載されている名前が、日本の歴史書に記載されている名前と異なると考えた方が、自然ではないでしょうか?

特に、中国では周辺国の名前に卑しい漢字を当てる習慣が在り、此れが日本の名前との関連を難しくしているのではないでしょうか。

仮説1 邪馬壹(臺)国 = ヤマト国

「魏志倭人伝」には、「邪馬壹国」と記載されており、「壹」は「壱」であり「一」であり、そのまま読めば、「ヤマイ国」であるが、それが、なぜ「邪馬台国」であり「ヤマタイ国」なのでしょう?

 古田武彦著「倭人伝を徹底して読む」朝日文庫に縁れば、松下見林(1637~1703年)の説で、その著『異称日本伝』(1693年)の中で、「邪馬壹国」は「邪馬臺(台)国」の誤りであり、それは「大和国」であるとした、と云います。

「邪馬台国」と書きながら、「ヤマタイ国」であって「ヤマト国」では無いと云うのは、不可思議です。
又、「邪」と「馬」が一字で一音だから、「壹」或いは「臺(台)」も一字で一音の方が自然ではないでしょうか?

(追記)古田武彦著「倭人伝を徹底して読む」朝日文庫のなかに「「臺」の字は三国時代にもっぱら天子を指すのに使われており、この字を夷蛮に使うはずがない。」という主旨の記述があります。これは、非常に注目すべき指摘だと思います。 

仮説2 卑弥呼 = 日の御子 または 日の巫女

「倭」や「邪馬壹(臺)国」が音(読み)を写しているように、「卑弥呼」も音を写していると考える説。

仮説3 卑弥呼 = 天照大御神

 魏志倭人伝にある、「鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年巳(すで)に長大なるも夫婿(ふせい)なく、男弟あり、佐(たす)けて国を治む。」と云う表現は、『古事記』『日本書紀』での天照大御神に関する記述と符合し、尚、「天照大御神」と云う名前は、後の世に付けられたものではないかと思われます。

続く・・・


2011/11/10

人類の軌跡その238:伝説から歴史へ⑦

<朝鮮半島の歴史その③:楽浪郡>

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◎ 楽浪郡等4郡設置

 漢の武帝は武力により朝鮮を攻め、BC108年に衛氏朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮の故地に「楽浪(らくろう)郡」「真番(しんばん)郡」「臨屯(りんとん)郡」「玄菟(げんと)郡」を置いて直接支配を行いました。

 しかし、BC82年、設置から26年で「真番郡」と「臨屯郡」は廃止され、「玄菟郡」は西方(現在の中国吉林省方面)に移され、更にBC75年、「玄菟郡」は遼東郡に吸収され玄菟城(現在の中国遼寧省方面)に名目を残すだけと成りました。
その理由を「魏志」東夷伝では、住民が郡県の支配を嫌って抵抗した為としています。
「楽浪郡」だけが永く続きますが、「楽浪郡」の都は、当初、現在の平壌に在ったと推定され、中国の東方進出の拠点と成った他」、朝鮮半島の韓(はん)族・濊(かい)族・海を越えた倭(日本)おも圧力をかけて来ました。

 この頃から、朝鮮半島の在地首長達は、中国的な青銅器製の車馬具・鏡鑑・武器、鋳造の各種鉄器、漆器等を用いる様に成り、その後、時を経て青銅器は儀式用に限られ、実用のための鉄器の作製・使用が盛んになりました。

 AD30年に、楽浪郡の中国人系の在地豪族である王調(おうちょう)が反乱を起こし、半年以上も楽浪郡を占拠したが、在地勢力の発展を伺わせます。
AD44年には、朝鮮半島南部の国家形勢が進展し、楽浪郡に朝貢するものが現れ、AD49年にも南朝鮮の倭(注)・韓族の朝貢が伝えられています。
(注:「倭」についても、時代によって指すものが変化している。内蒙古地方の倭、南朝鮮の倭、南方の倭。此処では、南朝鮮の倭。)

 後漢時代には、楽浪郡の組織も在地豪族を主体とするものと成り、中国の郡県支配の中心は遼東郡(現在の遼寧省方面・大陸部)に移り、AD132年に、高句麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害している事から、楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられます。

 玄菟郡の太守であった公孫氏は、遼東郡をも支配し、AD204年(注:AD205年頃としている文献も存在。)には楽浪郡の屯有県(現在の黄海北道黄州方面)以南を帯方郡とし、郡県制を復興して、東方や南方の民族への影響力を強めようと努めました。
AD238年、中国の魏は司馬宣王を派遣して公孫氏を滅ぼし、この時、高句麗は魏に援軍を送り、楽浪郡と帯方郡は、魏に受け継がれ、魏がこの2郡の実行支配を行うと、朝鮮半島南部の韓族や日本の邪馬台国からの使節が朝貢しはじめます。

 AD266年に魏に代わって晋が建つと、AD274年に平州の5郡(昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方)を置き、AD311年に、高句麗が西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)を陥れると、遼東郡と楽浪郡・帯方郡の連絡が断ち切られました。

 しかし、この時の晋は匈奴に攻められて都の洛陽が陥落し、遼東郡への支援を継続できる状況で無く、遼東郡を実質的に支配しているのは鮮卑族で在り、高句麗は、更にAD313年、楽浪郡・帯方郡をも占領するに至りました。
此れにより、BC108年から続いた中国による朝鮮半島の直接支配には終止符が打たれ、後に半島南部の馬韓・弁韓・辰韓の小国の集まりは、新羅と百済に統合し、高句麗・新羅・百済の三国時代へ移行していきます。

続く・・・


2011/11/09

人類の軌跡その237:伝説から歴史へ⑥

<朝鮮半島の歴史その②:衛氏朝鮮>

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◎衛氏朝鮮の建国

 伝説の箕氏朝鮮が実在していたか否かは、現在でも論争が続いていますが、中国の戦国時代に戦国七雄の一つ「燕」が、遼寧に長城を築き、朝鮮に攻め寄せて、「朝鮮」と「真番」が服属したと伝えられます。
また、中国を統一した「秦」は、BC214年に朝鮮に迫り、「朝鮮」は改めて秦に服属しました。

 秦が滅び、漢が成立するまでの間、激しい動乱により「燕」「斉」「趙」等から多数の中国人が朝鮮へ逃れ、司馬遷の「史記」に因れば、漢が中国を統一すると、廬綰(ろかん)を燕王とし、BC195年に燕国が漢と対立して滅亡すると、廬綰は匈奴へ亡命しました。
この時、満は一千余人を率いて朝鮮に亡命し、朝鮮の実権を奪い、朝鮮半島南部の「真番」や朝鮮半島東岸の「臨屯」も支配下に治め、衛氏朝鮮が成立しました。
(注:古代における「朝鮮」「真番」「臨屯」の位置は、必ずしも明確でなく、時代による変遷も在り、この時代の「朝鮮」については、朝鮮半島北西部とする説、中国の遼寧省あたりとする説等が存在します。)

◎衛氏朝鮮滅亡

 BC195年頃に建国された衛氏朝鮮は、中国民族による征服王朝で在り、朝鮮民族等の抵抗に悩み、数代にして衰退していきます。
BC128年に、衛氏朝鮮に反対する濊(かい)君南閭が、28万人を率いて遼東郡に迫り、漢の武帝は、「蒼海(そうかい)郡」(注:朝鮮半島の東岸?)を置いてこの地方の支配を試みますが、失敗に終わります。

 漢の武帝は、BC109年に衛氏朝鮮を攻め、朝鮮王右渠(うきょ)は5万の大軍を迎え撃って此れを破り、7千人の海軍をも撃破しました。
漢の武帝は、和戦両様の策を用い、朝鮮の大臣や将軍が相次いで漢に降り、翌BC108年に朝鮮王右渠は漢に内応した家臣に暗殺されます。
其れでも王城を死守する大臣が居ましたが、彼も内応者に殺され、衛氏朝鮮は滅亡します。

続く・・・


2011/11/08

人類の軌跡その236:伝説から歴史へ⑤

<朝鮮半島の歴史その①:箕氏朝鮮の誕生(伝説部分)>

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 朝鮮の建国伝説については、箕氏(きし)朝鮮についての伝説と檀君(だんくん)伝説の2つが存在します。

 箕氏朝鮮の伝説によれば、箕氏は徳の在る人物で、最初中国殷王朝の最後の王で在る紂(ちゅう)王に仕え、紂王の無道を諌めて疎んじられたが、殷を滅ぼした周の武王により朝鮮に封じられ、民の教化に務めたと云います。

 この伝説は、司馬遷の「史記」にのみ記述が見られ、朝鮮側には文献上も伝承としても類話が一切存在せず、それに類する遺跡も存在しません。
 但し、後の儒者が文献に取り入れ、李氏朝鮮の時代に「箕氏廟」が平壌に造られてもいます。

◎檀君伝説

 一方の朝鮮建国神話が、檀君(だんくん、タングン)伝説で、以下の様に伝えられています。

 天帝桓因(かんいん、ホワンイン)の庶子の王子桓雄(かんゆう、ホワンウン)は、人間世界を治める為地上に降ろす事に成りました。
桓因は桓雄に天符印を三個(剣・鏡・鈴あるいは剣・鏡・曲玉の神器)授けて、「天下って人間界を治めてみよ」と命じ、桓雄は三千の供を率い、太白山頂上の神壇樹(栴檀(せんだん))の木の下に天降り、そこを神市と名づけました。
桓雄は風伯・雨師・雲師の三神を従えて、穀物・命・病・刑・善悪等、人間に関する360余事を司り、人間界を治め、教化に務めました。

 天降った樹の下の洞窟に住む一匹の熊と一匹の虎とが桓雄を慕い、人間に成って忠義を尽くしたいと願ったので、桓雄は百草一束と大蒜二十本を与え、洞窟に籠って百日間の修行をする事を命じました。
ところが気短な虎は、修行に耐えられず逃げ出して人間に成り損ね、熊は首尾よく修行を全うして美女と化しました。
そこで桓雄は、その熊女を娶って王子の檀君王倹(おうけん、ワンゴム)を生ませ、王倹は平壌城(またの名王倹城。今の平壌では無いとする説も在ります。)に都を定め、初めて朝鮮の国を開きました。
その後、都を白岳山の阿斯達(あしたつ、アサダル)に移し、1500年間国を治めましたが、周の武王が箕氏を朝鮮に封じたので、蔵唐京に移り、後に阿斯達に戻って山に隠れ、山神と成り1908歳もの長寿を全うしました。

 この説話が初めて文献としてみられるのは、高麗後期の僧一然(1206~1289年)の「三国遺事」で在り、後に檀君による建国の年は、西暦紀元前2333年に定められました。

続く・・・


2011/11/07

人類の軌跡その235:伝説から歴史へ④

<中国殷王朝その④>

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◎中国殷王朝の遷都

 殷は13回遷都したと考えられていますが、盤庚王の遷都は所謂殷墟への遷都で、殷の最後の遷都と成りました。

 殷の初代は契(せつ)で、第14代の湯(とう)が夏を倒して天下を治め、湯の建国から200年~300年を経過すると、殷の国力も次第に衰え、諸侯が勃興し始め、この事態を打開、再興したのが湯から数えて19代目の盤庚(ばんこう)で、都を遷都して殷を基礎から建て直しました。

 湯が開闢した王朝の国号は「商」でしたが、盤庚王の遷都した地方が殷と呼ばれていた事から、国号も「殷」と呼ばれる様に成りました。

☆殷 墟

 殷墟は、1899年に中国河南省安陽県小屯村(しょうとん村)で発掘され、此処から出土した亀甲や獣骨が、当時、熱病の妙薬として竜骨の名で取引されており、此れに古代文字が書かれている事を劉鶚(りゅうがく)(字は鉄雲)や端方等の人物が発見したのでした。

 調査の結果、この遺跡は、殷王朝最後の都である「商邑(しょうゆう)」で在る事が確実と成り、史記に記されている「殷墟」でした。

 この遺跡からは、宮殿跡、竪穴住居跡が多数発見され、王墓と推定される11個の大墓も発掘されました。
この大墓は人・獣の殉葬を伴い、更に青銅器、石器、玉器、陶器、象牙製品が多数発掘されている他、甲骨文字の刻まれた亀甲・獣骨が数多く発見されました。

 殷王朝も夏王朝と同様に伝説とされていましたが、殷墟の遺跡が発見され、実在した事が証明され、その後、中国各地から殷代の遺構が発見されています。

◎甲骨文字

 亀甲や獣骨の裏に複数の穴を空けて焼き、出来たひび割れを見て、祭祀・軍事・天文・狩猟・穀物の豊凶などを占います。
占いの結果を、ひびの入った亀甲や獣骨の側に刻んだ文字が甲骨文字で在り、象形文字が多数ですが、既に漢字として、一歩進んだものも記述されています。

 この甲骨文字の研究により、殷王朝後半期(BC1400~BC1050年頃)の政治や社会の様子が明らかと成りました。

◎殷王朝後半期の社会

☆政 治

 殷部族の長である王は、祭祀・農耕・政治・軍事など全般にわたって、占いに現れた神意に基づいて決定する祭政一致の政治を行いました。
殷は武力による征服と商業活動によって繁栄し、王は豪壮な宮殿や大規模な王墓を造営し、王都は大邑(たいゆう)と呼ばれ、此れに多くの小邑が隷属していたと考えられています。
 
☆経 済

 農業が基本産業で、木・石・貝などで作った農具を使って、きび・あわ・大麦などを生産し、牛・馬・羊・豚・犬・鶏等の牧畜や養蚕も行われました。

 この時期は中国青銅器文化の最盛期に辺り、王墓の副葬品には、「饕餮(とうてつ)文」と呼ばれる奇怪な動物の文様をもつ青銅器や、象牙細工、白陶などが確認されています。
中央アジアの玉類、南方産の子安貝・象牙等が、交易により遠隔地からもたらされ、戦争捕虜を奴隷として使役していたと推定されますが、これを否定する説も存在します。

中国殷王朝終了・・・

2011/11/05

人類の軌跡その234:伝説から歴史へ③

<中国殷王朝その③>

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◎二里岡(にりこう)文化

 考古学的な研究によると、中国の中原地方(現在の洛陽から鄭州を中心とした黄河中流地方)に於いて、中原龍山文化→二里頭文化→二里岡文化→殷墟文化と云う発展段階が認められています。
二里頭文化を夏王朝、二里岡文化を殷王朝の初期に比定する説も存在しますが、現在、確証は発見されていません。

 二里岡文化に先行する文化として先商文化(下七垣文化)が認められています。
現在の河北省南部・河北省北部を中心とする遺跡で、周囲の諸文化と交流しながら、やがて河南省東部や黄河北岸へ広がり、二里頭文化(夏?)や山東省の岳石(がくせき)文化と接触し、更に、二里頭文化の担い手である最初の王朝に代わって、中原地区で主要な位置を占めるに至ったと推測されています。
その過程で先商文化は二里岡文化へ段階的に移行し、鄭州商城・偃師商城などを建設して殷王朝を確立したものと考えられ、鄭州商城遺跡は、周囲約7kmの長方形の城壁を有していました。

 二里岡文化は、二里頭文化から、初期の礼器としての青銅器や玉器の製作技術の他、若干の儀礼的用途の土器を継承しています。

☆周辺地域の状況

 殷王朝期には、地方に直轄的な軍事的拠点や、資源確保等を目的とした植民的拠点が存在したと考えられます。
湖北省黄陂の盤龍城遺跡は、長江中流域の北岸に近い場所にあり、銅資源の入手の為の拠点でした。この他、山西省・河南省・陜西省に、遺跡が発見されており、何れも、殷王朝の衰退に歩調を合わせて衰退しています。

 山東省東部には、岳石文化があり、中原文化の進出は阻まれていたと考えられ、山東半島の縁辺部に中原王朝の文化が浸透したのは、西周中期以降と推定されています。

 一方、長城地帯の東西(内蒙古中南部・東部、遼西地区、甘粛・青海を加えた華山の北部・西部)には、華北の農耕社会と対峙する様に、牧畜や遊牧が大きな役割を果たす諸地域が存在し、BC2000年前後に、冷涼乾燥化の影響で華北型の農耕が放棄された痕跡が認められます。

 又、長河以南での稲作文化の広がりが、土器の分布によって認められ、江南社会の古い姿が形成されて行きました。

続く・・・

2011/11/04

人類の軌跡その233:伝説から歴史へ②

<中国殷王朝その②>

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 夏王朝の最後の王と伝えられる桀は、現在の山西省の洛陽に都を置いていたと考えられています。桀の政治は乱れて罪が多いとして、殷(商)の湯(とう)王と宰相の伊尹(いいん)がこれを攻め、桀は鳴条へ逃れてその地で大敗を喫し、更に敗走して捕らえられ、南巣(なんそう)に追放されたと云います。
南巣は現在の安徽省の巣湖付近と考えられています。
桀王の子孫は諸侯の地位を得て、祖先を祭りましたが、之は夏の祖先の怨霊を恐れたものと推測されます。

 殷の天下と成り、湯が崩御すると、嫡男の太丁(たいてい)が既に逝去していた為、弟の外丙(がいへい)が即位しますが3年で世を去り、次の弟の中壬(ちゅうじん)が即位して4年で崩御すると、伊尹が嫡男太丁の子である太甲(たいこう)を擁立したと云います。

 太甲は暴虐で湯の法に従わなかった為、在位3年で伊尹により桐宮(とうきゅう。湯が葬られた土地。)へ追放され、伊尹が政務を司りました。
太甲が反省し悔い改めたので、追放3年で王位に戻り、太甲の死後にその子の沃丁(よくてい)が即位し、沃丁の時に伊尹が死去しました。
殷の人達は、伊尹を自分達の祖先と同様に祭り、又伊尹の子の伊陟(いちょく)も宰相と成りました。

 湯の建国から200~300年を経過すると、殷の国力は次第に衰えて、諸侯が入朝しなくなりました。
之を再興したのが湯から数えて19代目の盤庚(ばんこう)で、都を遷都し殷を基礎から建て直しました。
殷は13回遷都したと推定されますが、盤庚王の遷都は所謂殷墟への遷都で、殷の最後の遷都と成りました。

 殷の歴史で明確に解明されている箇所は、殷墟と其処から出土した甲骨文で在り、之は殷墟へ遷都した年以降の王十二代の部分に相当します。

続く・・・


2011/11/02

人類の軌跡その232:伝説から歴史へ①

<中国殷王朝その①>

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 殷王朝は、嘗て夏王朝と同様に伝説とされていた時代が在りましたが、遺跡(殷墟)、甲骨文字の発見により、その実在が証明されました。

 殷の開祖は契(せつ)で、夏王朝時代に諸侯の列に加わっていたものと考えられ、当初は河南省の商(しょう)と云う国に封じられていた事から「商」と呼ばれますが、後に殷に遷都したため「殷」とも呼ばれています。
司馬遷の「史記」では殷として示されており、甲骨文では全て商と表され、自称は商であったと思われます。

 開祖の契は、禹(夏王朝の初代)を補佐して治水工事に功績が在ったと云われています。
契の母は簡狄(かんてき)と云い、有娀(ゆうじゅう)氏の娘で帝嚳(ていこく)の次妃だったと伝えられています。
簡狄は三人で水浴びをしていた時、玄鳥(ツバメ)が卵を落した処を目撃し、その卵を飲んだ処身篭り、契を生んだと云う説話が存在しています。

 夏王朝を倒して天下を簒奪したのは、契から数えて第十四代の湯(とう)の治世の時で、其の時の宰相は伊尹(いいん)でした。

 伊尹には、変わった説話が多く存在し、彼の母は伊水の畔に居て身篭った時、夢で神のお告げを聞きました。
「水に臼が浮かんでいたなら、東へ一目散に走って、けっして振り返ってはならぬ」と告げられ、翌日、臼が見えたので東へ走った処、十里進んだ所で振り返ってしまうと、村は皆水となり、彼女は空桑(なかが空洞の桑の木)と成ってしまいました。
有莘国の女が桑の葉を摘みに来て、空桑の中に赤子を見つけ、有莘氏の君に献じると君は料理人にその子を育てさせました。
これが、伊尹で在ると云う説話が有ります。

 「晏子春秋」では、伊尹の姿を「黒くして短く、蓬頭にして髯づら、頭は上が大きく下が尖り、せむしで声が低い」と描写しています。
伊尹は有莘(ゆうしん)氏の娘が湯へ輿入れする時に料理人として伴ったと云う話や、逆に、湯が有莘氏を歴訪した際に小臣で在った伊尹を所望し、その後に有莘氏の娘を妃に迎えたという話も残っています。

 伊尹は湯に仕えた後、夏に赴き、夏の無道を憎んで湯の下へ戻ったと云う話は、夏への諜報活動を行ったものと考えられます。
夏へ赴く際に、伊尹が湯の怒りに触れ、湯は伊尹に矢を射て殺そうとし、伊尹は命からがら夏へ逃げ込んだと云う偽装工作を行い、夏には3年留まりますが、その間夏の桀王は女好きで岷山(びんざん)国を攻めた時に二人の美女を手に入れます。
之を快く思わない桀王の妃の妹喜(ばっき)は、後に、殷へ戻った伊尹へ夏の軍隊配置等の重要情報を知らせたと云う話も残っています。

続く・・・

2011/11/01

人類の軌跡その231:地中海文明の曙⑤

<エーゲ文明その⑤>

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◎文 字 

☆絵文字
 クレタ文明の人々は、当初、絵文字を使用しており、この絵文字は、現在解読されていません。

☆ミノア線文字A
 クレタ文明の絵文字は、時を経て線文字Aと呼ばれる音節文字に進化し、BC1550年頃からBC1450年頃に使用され、ギリシャ語とは異なる系統と推定され、ヒッタイト語に近い方言を表していると考えられています。
近年、ノルウェーのクウェル・アールトンがこの線文字Aを解読したと発表していますが、その成果を確認する為には、まだ時間が必要と思われます。

☆ミノア線文字B
 ミケーネ文明の担い手と成ったギリシャ人は、クレタ文明の人々が使用していた線文字Aを改良して線文字Bを創りだし、古代ギリシャ語を表記する為に使用しました。
クレタ島では、クレタ文明が崩壊したBC1450年以降、BC1200年頃迄使用され、1952年に、イギリスのマイケル・ヴェントリスが、ギリシャ語を手掛かりにして解読に成功しています。


<ミノア文字の解読:マイケル・ヴェントリス>

 クレタ文明には、「ミノア文字」呼ぶ文字が、存在し、絵文字と線文字に判れ、更に線文字は、二体(A&B)ある事が、アーサー・エバンズの発掘調査以来判明していましたが、これを解読する事は、容易ではありませんでした。

 1936年の事、アーサー・エバンズは、ロンドンで「誰にも読めない文字の話し」と題して、学術講演を行い、この「ミノア文字」を紹介しました。
その時、マイケル・ヴェントリスという当時14歳の少年が、この講演を熱心に聞き、「自分がこの文字を読み解く」と決心したのです。

 マイケル少年は、幼い頃から、古い文字に興味を持ち、7歳の時には、お金を貯めて、エジプトの象形文字について書かれたドイツ語の書物を買う事もある程でした。
彼は、英国の比較的裕福な家庭に生まれ、父はインド駐留の陸軍将校、母はポーランド系の才能ある女性でした。
その為か、語学には天才的な素質を持ち、幼い頃から数ヶ国語を自由に話す事が、出来ました。
しかし、学業では言語学を専攻せず、建築学を選び、第二次世界大戦に従軍し、暗号解読を任務としました。
建築学の道に入った、ヴェントリスは、少年時代の決心を忘れた訳ではなく、エバンズの講演を聞いた後も「ミノア文字」の研究を続け、その研究レポートを時々、学者達に送り指導を仰いでいました。(20回以上もレポートを作成した事が判っています)

 彼の他にも「ミノア文字」を研究している人々が、勿論居り、ブルガリアのゲオルギエフの他、自分はミノア文字を解読したと称する学者は、多く存在しましたが、正しい解読と認められず、アメリカ・コロンビア大学のアリス・コーバーに至っては、もう少しの努力で、解読できる処迄来ていながら「これはとうてい読み解けない文字である」として、研究を中断してしまう程でした。

 さて、1939年、ペロポネソス半島のピュロスから、ミノア線文字Bで書かれた粘土版が多数発掘され、比較材料が増えた事により、研究も進み解読の手掛かりも幾つか判明してきました。
「ミノア線文字B」は、文字数88、此れは表音文字としては多く、表意文字としては少なすぎる事から、日本のカナ文字の様に母音と子音の組合せであろうと推定され、又、語尾変化、接頭語、文節記号も判明してきました。
この難解な文字をヴェントリスは、少年時代に決心して通りに、終に解読しました。
 
 但し、解読出来たのは、「ミノア線文字B」のみでした。
彼は、此れを古代ギリシア語を表現する文字と考え、日本のアイウエオを表す50音表の様な「ミノア線文字B」の「音の格子」と名づけた表を作成し、88文字にも上る線文字Bを格子に当てはめ、1952年、何時もと同様にレポートを作成しました。

 ケンブリッジ大学のギリシア語教授 チャドウィックが、ヴェントリスのレポートを読み、彼の解読作業に協力を申し出、この二人の共同研究の結果は、翌年学会に発表され、大論争が起こりましたが、後年、ヴェントリスの解読を証明する、新たな粘土版が発見され、今日、彼の解読は正しいものとして承認されています。

しかし、ヴェントリスは、1956年9月自動車事故の為、僅か34歳の若さで急逝し、ギリシアの人々の間では「神々に愛された者は若死にする」と云う諺が有りますが、彼も神々に愛された為に若死にしたのだと人々を惜しませました。
死に到迄にヴェントリスは、「ミノア線文字B」に関する研究書を著し、後の世の人々が更に研究を進める為の手引きを完成させました。
こうして、「ミノア線文字B」の解読は成功したものの、「ミノア線文字A」「絵文字」の解読は、現在でも成し遂げられていません。

地中海文明の曙終了・・・