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2011/12/27

人類の軌跡その272:伝記の陰の真実その⑩

<アンクル・サム>

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 食肉缶詰工場を経営する、ウィルソン兄弟は、日頃から自分たちの工場は、1日に牛150頭を処理し、缶詰にする能力が有るので、ニューヨーク州一だと自慢していました。
その様な時、アメリカとイギリスが1812年に戦争に突入した時、自身満々の兄弟は軍隊に樽で、牛肉と豚肉を供給する契約を取り付けました。
兄のサミュエル・ウィルソンは得意満面で、その陽気な性格から、可也の人気者で、アンクル・サムと呼ばれていたのです。

 或る日、彼の工場を訪問した人物が、樽の総てにE.A.-U.S(政府側の契約者エルバート・アンダーソン、アメリカ合衆国の頭文字)のスタンプが押してある事に気づき、工員の一人にこの文字が何を意味するか尋ねました。
「知らないよ」と工員は答えましたが、訪問者はすかさず、「エルバート・アンダーソンとアンクル・サムの事かね?」と言ったと云います。

 之は、後に長く語り継がれるジョークと為り、訪問者や工員が、この話を周囲に広めて行きました。
1830年代に漫画家が、題材として選び始め、サムは1854年にこの世を去りましたが、ついに議会が彼の名前を、国民の心に永遠に残すように取り計らい、1861年、サミュエル・ウィルソンをアメリカ合衆国のシンボルと公式に認める決議が採択されました。

 因みに、イギリスのまるまると太った陽気なマスコット、ジョン・ブルには、アンクル・サムの様なモデルになった実在の人物は存在しません。
1712年に「法律は底なしの穴」の題名で出版されたジョン・アーバスノットの不器用な政治風刺文学で、ジョン・ブルは誕生したのでした。

 この本は後に「ジョン・ブル」の歴史と呼ばれる様に成りましたが、その中でジョン・ブルがイギリス人を、リュイス・バブーンがフランス人を、ニコラス・フラッグがオランダ人を代表していました。
しかし、ジョン・ブルだけが、歴史家、評論家、漫画家の心を捕え、彼らによって不朽の存在となったのでした。

続く・・・
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2011/12/26

人類の軌跡その271:伝記の陰の真実その⑨

<組合長ブロディー:ジキル博士とハイド氏のモデル>

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ウィリアム・ブロディー(ウィキペディアより)

 18世紀半ば、スコットランドのエジンバラに、ウィリアム・ブロディーと云う信望を集める人物が居ました。
厳格な気風の街に在って、彼は市民の模範でした。
富裕な家庭に生まれ、石工ギルドの組合長と市会議員を務めていました。

 しかし、この組合長は、イギリス文学上の最も恐るべき主人公のモデルでも在りました。
ロバート・ルイス・スティーブンソンの精神分裂症を病む科学者ジキル博士は、彼を基に生まれたのです。
ジキル博士と同じく、ブロディーは高潔な仮面の下に、秘密の生活を隠していました。
昼間は実業家の仮面を被り、夜は賭博師、盗賊に成りました。
誰も彼の秘密を知ることは無く、彼との間に5人の子供をもうけた情婦も、お互いの存在さえ気づきませんでした。

 ブロディーが悪の道に入ったのは、27歳の時で、1768年8月、彼は市立銀行の合鍵を造り、800ポンドを盗みますが、それ以来、18年間の間に幾多の建造物侵入を繰り返しましたが、誰も彼を疑う事は有りませんでした。

◎逃亡と逮捕

 しかし、1786年にもなると、さすがの悪運も尽き始め、この年、彼は3人のコソ泥と組み、其れまで以来の大胆な計画、スコットランド間接税務局本部の襲撃に乗り出します。
だが、局員に発見されブロディーは逃走するものの、共犯者の一人が逮捕され、彼の名前を供述します。

 ブロディーは警察に逮捕され、エジンバラで裁判を受けますが、状況は決定的に不利でした。
合鍵、拳銃等、警察側は彼の二面性を明かす証拠を握っており、ブロディーには死刑の判決が下りました。
死刑執行の前夜、彼は絞首台に釣り下がった瞬間の衝撃を緩和する為、首から踵迄の着衣に針金を入れ、縄で窒息しない様に、喉には銀のチューブを入れました。
しかし、結果はこの努力にも拘わらず、1788年10月1日、彼はエジンバラの絞首台で処刑されました。

 2年後、スティーブンソンは同じテーマで、「ジキル博士とハイド氏」を執筆しました。
人間の暗黒面を描いた、彼の代表的短編小説で、その中で、ジキル博士は或る薬の実験を通じて、「人間は1体ではなく、本当は2体なのだ」と悟り、「如何にして私は、人間の根本的、絶対的な二重性を認識するに至ったか」を述べます。

 そうして、実験の虜になった理由を、彼は次の様に言います。
「もし人間一人一人が、異なった人格に成り代わりさえ出来れば、人生の耐え難い苦痛は全て除かれるであろうと、私は考えた。
不正なる魂は、より道徳的なその片割れの向上心や自責の念から解放されて、己の道を行くだろう。
正しい魂は、邪悪な伴侶が犯す不真面目や恥辱にもはや悩まされず、善を為す事に喜びを覚えながら、天に向かう道をしっかりと確実に辿って行く事ができるだろう」

 人間の心に潜む生来の悪が、善良な組合長ブロディーを蝕んだ理由を、スティーブンソンは以上の様に語っています。

続く・・・

2011/12/24

人類の軌跡その270:伝記の陰の真実その⑧

<大いなる遺産>

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ディケンズの小説「大いなる遺産」に登場する老いた世捨て人、ミス・ハビシャムは、実際に男に捨てられた花嫁の話が、物語の下書きに成っているそうです。

オーストラリアのシドニーに住んでいた、エリザ・エミリー・ドニーソンと云う女性は、悲劇な事に1856年の結婚式当日、祭壇の前で一人でした。
夫と成るべき男性は、終に姿を見せず、この出来事に彼女は深く傷つき、自宅に篭ってしまい、この悲劇の日から30年の歳月、彼女は一歩も戸外に出る事は在りませんでした。

婚礼の祝宴が開かれるはずだった部屋の扉には、鍵がおろされ、盛り花や披露宴の食事が、手付かずのままテーブルの上で腐っていきました。

◎小説の中の女性

チャールズ・ディケンズの小説でも、ミス・ハビシャムはエリザと同じ様に生き、そして死を迎えます。
この驚くべき老婦人に初めて会った「大いなる遺産」の若き主人公ピップは、その印象を次の様に語ります。
「花嫁衣裳を身にまとった花嫁は、衣装そのものと同じに、古い花の様に萎れていた。
落ち窪んだ目の光を覗くと、輝かしさは何処にも残っていなかった。
かつて、若い女性のまろやかな体を包んだ衣装も、今は締まり無く緩み、それをまとう体は骨と皮にちぢんでいるのだった」

ディケンズが、エリザをモデルにミス・ハビシャムを形作ったという、決定的な証拠は存在しません。
しかし、彼は旅行家や新聞記者等と広い交友が在ったので、地球の反対側に住んでいる世捨て人と成った女性の話をロンドンで聞いた可能性は有るのです。

エリザの婚約者が姿を消してからちょうど5年後、1861年に小説は脱稿されました。

続く・・・
2011/12/22

人類の軌跡その269:伝記の陰の真実その⑦

<椿  姫>

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 オペラは、時として荒唐無稽な古代伝説を、題材に選ぶ事があります。
しかし、ベルディの「椿姫」は、パリの街に巣食う実在の浮かれ女と、小説家アレクサンドル・デュマ(子)の才能のもとに生まれました。
ヒロインのモデルは、ローズ・アルフォンシーヌ・プレシと云い、1824年にノルマンディー近郊のノナン村で、生まれました。
15歳の時、彼女は家を飛び出し、一文無しでパリに辿り着きます。
そして、彼女は食べて行く為に、たちまち売春婦と成りました。

 18歳に成る頃には、家族の追及をかわす為、名前をマリー・ヂュプレシと変え、名高い高級売春婦に成っていました。
一等地のマドレーヌ大通りに住居を構え、ロシアの前ウィーン駐在大使ド・スタッケンベルグ伯爵等、大富豪を客に迎えていました。

◎出会い

 デュマが始めて彼女に出会ったのは、プールス広場で、マリーが馬車から降りようとしている処でした。
彼は、たちまちその美しさに魅せられ、パリエテ座のボックス席で再開するや、伝を頼って知り合いと成りました。

 二人のロマンスは、彼女が別の男性と結婚してもなお、彼女の死迄続きました。
慢性の結核に罹っていたマリーは、デュマに言いました。
「私を愛人にすると、ろくな事に成らないわ。神経質で、病弱で、悲しくて、悲しみよりもっと惨めな陽気さに浮かれる女よ。私の恋人達は直に、私を捨てたわ」
しかし、恋に盲目と成っていた若いデュマにとって、彼女の忠告等、耳に入りませんでした。

 彼女の病状は悪化の一途を辿り、デュマは医師の支払いの為、終に破産します。
マリーが、昔の愛人ベルゴーニ子爵と結婚した時でさえ、彼は彼女に忠実でした。
1847年2月3日、マリーは23歳で旅立ちます。
生前、こよなく愛した花椿に覆われて、棺はモンマルトル墓地に埋葬されました。

 マリーの死後、デュマは直ぐに「椿姫」に着手します。
後に彼は、この小説を戯曲に書き改め、その上演を見たベルディが、インスピレーションを得て、1853年オペラ化したのでした。
こうして、マリーは音楽の世界で、永遠のヒロインとなったのでした。

続く・・・


2011/12/21

人類の軌跡その268:伝記の陰の真実その⑥

<ローマ市建設の伝説>

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 ローマに伝わる伝説によると、ローマの建国者はロムルスで、それはBC753年で在ったと伝えられています。

 有名なトロヤ戦争でトロヤが陥落した時、トロヤの英雄アエネアスは父と子を伴って脱出し、ギリシャ各地やカルタゴを通り、イタリア中部のラティウム地方(イタリア中部西海岸にある今日のラッティオの南半分)に辿り着きました。

 アエネアスから16代目の王ヌミトルは、弟のマムリウスに王位を簒奪され、ヌミトルの娘は巫女にされてしまいます。
巫女は終生処女で有る事が定めですが、彼女が水くみに森に出た時、軍神マルスに犯され、ロムルスとレムスの双子の男子を産みました。
双子は籠に入れてティベル川(ローマを流れる川)に流されますが、岸に着いた双子の赤子は、1匹のオオカミに助けられ、その乳を飲んでいる処を、羊飼いに発見されて育てられました。
やがて自分の出自を知った二人は、王位を奪ったマムリウスを殺し、祖父に当たるヌミトルを復位させます。

 その後、ロムルスとレムスは新しい都市(ローマ)の建設に取りかかります。
伝説では、ローマには7つの丘が存在したとされ、ロムルスはパラティヌス丘に都市を建設する事を主張しましたが、レムスはアウェンティヌス丘に建設する事を主張し、之が争いと成りレムスは殺されてしまいます。

 ロムルスは、パラティヌス丘に都市の建設を始め、又カピトリヌス丘を避難所と定めて各地からの逃亡者を受け入れた事から、人口がしだいに増加しました。
しかし、女が居ない事から、北隣に住むサビニ人を祭礼に招き、見物中の娘達を計画的に拉致した事から争いと、成るものの、さらわれた娘達が仲裁に入り、以後サビニ人のタティウスとロムルスがローマを共治する事に成ります。
後にタティウスが死亡すると、ロムルスが一人でローマ市を統治したのでした。

 ロムルスの後に6代の王が続きますが、第5代と第7代の王はエトルリア人の名前でした。
(注:エトルリア人は、イタリア半島の北部、今日のラッティオの北部・ウンブリア・トスカナ地方に住んでいた。ヘロドトスは、エトルリア人は小アジアから移住したという伝説を伝えており、タルクィニアという町で発掘されたエトルリア人の地下墳墓から、ギリシャ文字を使って書かれた文字が発見されたものの、何語であるか解読されておらず、インド・ヨーロッパ語系では無いと推定されている。)

◎考古学

 パラティヌス丘とフォールム(公共広場)及び、その周辺の発掘調査が行われており、調査結果によれば、パラティヌス丘の最古の住居跡はBC750年頃以降のものと推定され、伝説の時期と一致しますが、その住居跡は簡易建築の小屋を集めた村落状の集団で、都市とは規模も、構成も異なると考えられています。

◎ローマのその後

伝説の様なローマ人とサビニ人の両部族が融合した後、北方のエトルリア人が勢力を増して一時期ローマをも支配下に置きました。
 この間に、城壁が巡らされ、石造りの家が茅葺の木造小屋に代わり、沼沢地が大下水渠によって排水されて、其処にフォールム(公共広場)が建設されました。
又、ローマ人の宗教はエトルリア人から多くの影響を受けており、ラテン・アルファベットはエトルリアの文字に由来しています。

 その後、エトルリアが北方のケルト人や南方(イタリア半島南部)のギリシャ人に押されて衰退すると、ローマの貴族の反抗によってエトルリア人の王が追放され、王の代わりに貴族の中から執政官(コンスル。定員2人、任期1年。)を設置する共和制が始まりました(BC509年)。
貴族によって構成される元老院と、市民全体で構成される民会が存在し、元老院が大きな力を行使していきます。

続く・・・

2011/12/20

人類の軌跡その267:伝記の陰の真実その⑤

<シンデレラはガラスの靴を履いていた>

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 シンデレラ物語の原型である、フランスの古い御伽噺では、彼女が履いていたのはPentoufles de vah、つまり毛皮の靴でした。
しかし、14世紀頃には、vah(毛皮)が死語となり、フランスの作家シャルル・ベロー(1628~1703)が、この物語を1697年に書き直した時、毛皮の古語を知らなかったので、同音異語であるverre(ガラス)と解釈したのでした。

 西洋世界に広く流布した、シンデレラの物語は、全てベローの作品が原型に成った為、この物語を語る場合、「ガラスの靴」が定番の小道具に成りました。

 シンデレラ物語の起源は、遠く漠然とした民話で、別伝は500以上のバリエーションが存在しますが、その全てに靴が登場し、それぞれが黄金、宝石、真珠散りばめた姿で語られています。
この民話は、ヨーロッパに限らず、全世界に広まり、現存する最古のバリエーションは、中国で西暦9世紀に書かれた物語です。

続く・・・


2011/12/19

人類の軌跡その266:伝記の陰の真実その④

<エデンの薗でイヴはアダムに林檎を与えた>

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 林檎は禁断の木の実として、人間堕落のシンボルに成っていますが、「創世記」第3章に述べられている誘惑の物語には、りんごに関する記述が一言も登場しません。
単に「楽園の只中になる木の実」とだけ記述されており、アダムとイヴが果実を食べた後、無花果の葉で身を覆った事から推察すれば、その実は無花果であったと考える研究者も存在します。

 林檎は、恐らくギリシアとケルトの神話から、物語に紛れ込んだと思われます。
これらの神話ではもとの林檎は愛の女神のもので、欲望を象徴しているのです。

 西暦2世紀に、ポントゥスのアイクラが「ソロモンの歌」をヘブライ語からギリシア語に翻訳した時、「余は汝を林檎の樹の下で育てた。其処で我母は、汝を産み落とした」という原文を「余は汝を林檎の樹の下で育てた。其処で汝は堕落した」と訳しました。
明らかに原文が、禁断の果樹を意味していると誤解したのではないでしょうか?
聖ヒエロニムス(西暦340年?~西暦420年:ラテン語訳聖書の完成者)も旧約聖書を翻訳する時、この先例にならい、其れ以来、誤った俗信が今日迄続いているのです。

続く・・・


2011/12/17

人類の軌跡その265:伝記の陰の真実その③

<ジョージ・ワシントンは桜の木を切り倒した>

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 6歳の時、未来のアメリカ合衆国初代大統領は、父の大事な桜の木を切り倒した為に叱責されていました。
「僕には嘘は言えません」と父に告白します。
「僕が斧で切り倒しました」

 少年ワシントンの告白は、子供らしい悪戯と正直さが融合した、魅力的なエピソードなので、アメリカ史上最も有名な事件の一つと成りました。
此処には、大指導者の少年時代に似つかわしい、率直な性格が表れています。

 しかし、ワシントンの少年時代に関しては、殆んど何も判明していません。
説教師メイスン・ウォームズが書いた最古の伝記でも、少年時代に関す記述は、僅かに1ページなのです。

 大統領の死の翌年、1800年に出版された「ジョージ・ワシントンの生涯」初版には、桜の木の故事に関する記述は存在しません。
後に重版される段階で、ジョージ少年が手斧で悪さをした話を始め、大量の挿話が新たに付け加えられたのです。

 ウォームズは、問題の話をワシントン家と親しく交際していた、匿名の老婦人に聞いたと主張していました。
しかしながら、この筆者は、自分の著作に「伝記的秘話」を創作する、時には自分の書いた、全く別の人物の伝記から幾つかの話を、転用する癖があるので有名でした。

 後年、桜の木の話も、その一つであると言明した訳では在りませんが、ウォームズ自身創作を書き加えた事を認めています。
ペンシルバニア州の建設者である「ウィリアム・ペンの生涯」では、彼はネイティブアメリカンと移住民が協定を結んだ話を創造し、条文の引用迄書いていますが、現実には、その様な協定は存在していません。

 ウォームズの書いたワシントン伝は19世紀中に70版を重ね、桜の木の話は、アメリカの民間伝承として、広く海外にも広まりましたが、現在の伝記作家達は、この話を史実と認めず、全く記述から排除しています。

続く・・・


2011/12/16

人類の軌跡その264:伝記の陰の真実その②

<サー・ウォルター・ローリーはエリザベス1世の通り道にマントを敷いた>

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 従者を従えて、しずしずと歩くイングランド女王の両脇を固める人垣の中に、若く端正な顔立ちの紳士が居ました。
彼の前に差し掛かった時、女王はふと立止りました。
道に水溜りが在ったからなのです。
名前をウォルター・ローリーというこの海の男は、機転の利く伊達男でも在りましたので、水溜りの上に即座に自分のマントを投げます。
女王は彼の手際の良さに感じ入り、マントを踏んで渡りながら、彼女の足を守る為に彼が払った高価な犠牲に笑顔を持って報いました。
二人の歴史的人物に相応しいロマンティックな出会いと思われますが、是は史実では在りません。

 このお話は、歴史家トマス・フラー(1608年~1861年)の創作と考えられており、彼は退屈な史実をおもしろおかしく語る為に、しばしば作り話を創造して書き加えたのでした。

 更に、サー・ウォルター・スコットが小説「ケニルワース」(1821年)で同じ話を引用したので、この伝説は一層有名になりました。
この小説作品の中でローリーは「私の手元に在る限り」マントにブラシは掛けませぬと誓い、彼の心ばせを多とした女王は「衣服1着、それも最新仕立ての物」を彼に与える勅令を持たせた従者を、ローリーの館に送ります。

 ローリーは1586年に、イギリスへ初めてジャガイモをもたらしたとも云われていますが、この点についても事実か否かは良く解かりません。
ジョン・ジェラードは、其の著書「草本誌」(1597年)の中で、C・クルジウスなる人物が1585年にイタリアで既にジャガイモを栽培していたと紹介しています。
これらの話が真実か否かは別として、ジャガイモは急速に普及し、「草本誌」で紹介されてから、10年と経たぬ間に、ヨーロッパ全土に普及し栽培される様に成りました。

 又、イングランドに初めてタバコをもたらしたのも、一般にローリーだと云われています。
1586年、当時のイギリス植民地バージニアからの帰途、持ち込んだと云う話が定説に成っています。
尚、フランスには是より早く、1559年頃に紹介されており、その紹介者は、フランス人ジャン・ニコで、「ニコチン」は彼の名前から派生した言葉なのです。

続く・・・


2011/12/15

人類の軌跡その263:伝記の陰の真実その①

<ネロはローマ炎上を見ながらバイオリン(竪琴)を弾いた>

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 長い間信じられて来た古代ローマの伝説によると、誇大妄想狂の皇帝ネロは、自分自身の不朽の記念碑として、新たな都を建設する夢にとりつかれ、町を塞ぐ私有地の所有者達に妨害されたので、ローマ市に放火したとされています。

 しかし、ネロが市内の何処かに放火させたと云う歴史的証拠は存在せず、この伝説の中で最も有名な「ネロは都の搭(宮殿のバルコニー)に登ってバイオリンに興じた」と云う部分は、更に真偽の程が怪しいものなのです。
まず、バイオリンが発明されたのは、16世紀に成ってからですが、別の表現では、「彼はホメロスを気取り、リラ(七弦の竪琴)をかき鳴らした」と云う事に成っています。

 ローマの大火が有って間もなく、歴史家タキトゥス(西暦55年~西暦117年)が書いた記録によれば、火災発生時、ネロは80km程離れたアンティウムの別荘に滞在していましたが、大火災を眺めて楽しむ所か、すぐさま都に駆けつけ、消火に努力したそうです。

 動機が何であったかは別として、其れがネロの行った唯一の殊勝な行動でした。
他の面では、この皇帝は忌むべき生涯をおくりました。
17歳の時、母アグリッピナの力で権力の座に就いた彼は、義弟ブリタニクスの帝位継承簒奪者として民衆に憎まれ、更に彼の私生活は、当時のローマの風習に照らしても、恥ずべき醜聞に満ちていました。
人々が取り分け迷惑がったのは、ネロの演じる芝居やオペラを強制的に鑑賞させられる行為で、どうやら、彼は凄まじい迄の大根役者で、更に悪声の持ち主の様であったと思われます。

 ネロはキリスト教徒を過酷に弾圧したと伝えられていますが、当時の初期キリスト教徒は、未だ声望のない小集団に過ぎず、魔術師の集団の様に怪しまれていた為、ネロに取って大火の責任を問う格好の替え玉だったのです。
その為、数百人のキリスト教徒が処刑されましたが、生きたままライオン等の猛獣に餌食にされた記録は存在しません。

 ネロの残忍性と放蕩性は、最後には最も身近な者達も遠ざけ、執政官護衛兵団(皇帝個人のボディガード)も彼を見捨て、西暦68年、降位と処刑の瀬戸際に追い詰められた彼は自殺します。

続く・・・


2011/12/14

人類の軌跡その262:地中海の覇権番外編

<ルビコン川はどの川なのか>

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 歴史上の著名人は、数多く居ますが、ローマ時代のユリウス・カエサル程、色々な意味で引用される人物も少ないのではないでしょうか。
彼のカエサルと言う姓は、後年役職の名称となり、更には「皇帝」を意味する言葉になりました。
帝政ロシア時代、皇帝を意味する「ツァー」、ドイツ帝国時代の「カイゼル」供にカエサルのロシア語、ドイツ語読みであり、この様な事例は、殆んど無いと思われます。
嘗て「太閤」が豊臣秀吉を指す言葉になった例は、ありますが、ゲーテが素晴らしい詩人でも、他の詩人をゲーテと呼ぶ習慣はありません。

 更に、その言葉が、格言化した事例もカエサルが、第一であろうと考えられます。
「さいは投げられた」「ルビコンを渡る」「着たり、見たり、勝ちたり」「ブルータスお前もか」等の諺は、全てカエサルから来ているのです。
尚、「カエサルの物はカエサルに」と云う聖書におけるキリストの言葉は、彼の事を指し示すのではなく、役職としての「カエサル」を示しているのです。
又、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の顔(歴史)は変わっていただろう」と云う有名な言葉は、フランスの哲学者パスカルの言葉で、「カエサル」は表面に出てきませんが、裏の意味として含まれています。

 紀元前60年、カエサルは、ポンペイウス、クラッススと結んで「第一次三頭政治」を始め、元老院に対抗し、彼はガリア(イタリア北部から現在のフランスに至る、ケルト人の居住地域)を平定します。
カエサルの名声が、ガリアの地で高まるにつれ、ポンペイウスは彼から離反し、元老院と結託して、紀元前49年、
カエサルは、任地ガリアからローマへの帰還を命じられました。

 ローマへの帰還は、軍隊の武装解除を意味しますが、カエサルは、ルビコン川の対岸で、しばし熟慮の後「さいは投げられた」と言い、軍隊の武装解除をせずに「ルビコンを渡り」ローマ帝国の国境を越えました。
この事から、思い切った冒険、判断をする時、「さいは投げられた」なる諺が生まれましたが、この言葉は、本来ギリシアの喜劇作家メナンドロスが、劇中に使用した台詞で、これをカエサルは使用したのでした。

さて、ここで「ルビコン川を渡る」と云う諺も出来ましたが、この時渡った「ルビコン川」は、ガリアとローマ帝国の国境に在る川で、ガリアは、アルプス山脈を挟んで両方に存在し、この場合のガリアを「ガリア・キス・アルピナ(アルプスの此方側にあるガリア)」と呼ばれている地域でした。
「ルビコン川」は、赤い川の意味で、歴史地図を見るとたいてい図示されていますが、実際は、アリミニウムの北に位置する川で、アドリア海に注ぐ川は、大変多く、ルビコン川がその多くの川の一つと云う事以外、実際のルビコン川が、今日のどの川に当たるのか、はっきりと解明されていません。
「ルビコン川」を「フィウミキノ川」「ウソ川」とする説も在りますが、何れにせよ、ガリアとローマ帝国の国境に位置した川で、カエサル由来の名高い川で在りながら、不思議な事に学会の意見は、定まっていません。

 ルビコン川を渡った、カエサルは、ポンペイウス、元老院派と戦い、ポンペイウスは、ギリシアのファルサロスで、カエサル軍に撃破され、更にエジプト迄逃れたものの、紀元前84年この地で、果てました。

 ポンペイウスを追ってエジプトに来た、カエサルは、時のクレオパトラを見初め、彼女を愛し、その頼みを受け入れて彼女を援助し、エジプトの女王としました。
先に記述した「クレオパトラの鼻・・・」の言葉は、この歴史的背景から出てきたものなのです。
その後もカエサルは、東方遠征を行い、ポントスを平定しましたが、この事を友人である。マティウスに知らせた時の彼の手紙が、「来たり、見たり、勝ちたり」でした。
軍人らしい簡潔な文書の上、韻を踏んだこの言葉は、大変有名になりました。

 やがて、カエサルは、ローマに凱旋しますが、皇帝の地位への野心を疑われ、紀元前44年3月15日、元老院で暗殺者の刃に襲われます。
当初、カエサルは、痛手を受けたものの屈せず、勇敢に暗殺者と対峙しましが、その中に息子の様に目を掛けたブルータスが、加わっている事を知り、「ブルータスお前もか」と言って抵抗を止め、殺されたと云います。
彼が最後に息を引取ったのは、ポンペイウスの像の下であると伝えられています。

番外編終了・・・


2011/12/13

人類の軌跡その261:地中海の覇権③

<ポエニ戦争その③>

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◎BC149年 第3次ポエニ戦争(~BC146年)

 カルタゴは、第2次ポエニ戦争の後も。商業国として繁栄していました。
第2次ポエニ戦争の講和の際に「カルタゴはローマの了解無しに、アフリカ内の近隣国と開戦することを禁じられていた」のですが、この条約を巧みに利用して、隣国のヌミディア王マシニッサは、しきりにカルタゴ領に侵入を繰り返し、更にローマ帝国が、カルタゴの開戦を承認しない様、策を巡らせ、一方ローマ帝国元老院にも、大カトー等のカルタゴ撃滅論が根強く、カルタゴの応戦は了解されませんでした。

 カルタゴが、その挑発に耐えきれず、ヌミディアを攻撃すると、ローマ帝国は条約違反と見做して軍隊を派兵します。
カルタゴは、ローマ帝国に使者を送り、弁明をするものの許されず、逆にカルタゴの武装解除・カルタゴ市民の海岸から10マイル以上への立退・カルタゴ市の破壊を命じたのでした。

 この命令に激怒したカルタゴは、決死の籠城戦を覚悟し、女性や解放された奴隷も戦闘に加わり、3年の間抵抗を続けます。
ローマ帝国は当初苦戦を強いられますが、スキピオ・アイミリアヌス(注)が指揮を取り、猛攻の末にカルタゴ市を陥落させたのでした。
(注:ザマの戦いの将軍スキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)の長子の養子。小スキピオ。)

 降伏した際に、生き残っていた5万人はカルタゴ総人口の1割で在り、彼等は総て奴隷として売られ、カルタゴ市街は更地に成るまで17日間に渡って焼き尽くされました。


ポエニ戦争終わり・・・

2011/12/12

人類の軌跡その260:地中海の覇権②

<ポエニ戦争その②>

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◎BC218年 第2次ポエニ戦争(~BC201年)

 第1次ポエニ戦争でシチリア島を失ったカルタゴは、イベリア半島への進出に傾倒し、ハミルカム・バルカスはイベリア半島に渡り、原住民を征服、銀山の開発等を行って富を蓄えました。
彼の子が、有名なハンニバルです。

 ハンニバルは、陣営に生まれ、戦陣のなかで育ち、幼い頃から、ローマに対する復讐心を燃やしていたと伝えられています。
BC221年に25歳で将軍に選ばれた彼は、多数の原住民からなる傭兵部隊を見事に訓練しましたが、この部隊には、後に有名となる象部隊も編成されていました。

 BC218年、イベリア半島の東海岸に在った、ローマの同盟市サグントゥムが内紛に陥ると、ハンニバルはこれを攻め、8か月の攻囲の末に陥落させます。
第2次ポエニ戦争のはじまりでした。

 ハンニバルはイベリア半島から、ローマに向かって進軍を開始、ピレネー山脈を越え、雪のアルプス山脈を越え、ポー川の戦い・トラシメヌス湖畔の戦いでローマ軍を撃破し、イタリア半島を南下、ローマ市よりも南側に回り込み、BC216年にはアドリア海側のカンネーの決戦で、ローマ軍を破り、BC211年にはローマ市に迫りますが、そこで戦線は膠着しました。

 ハンニバルは、イタリア内部にあるローマの同盟市が、ローマから離反すると、目論んでいましたが、これは期待はずれに終わり、BC207年、ハンニバルの弟ハスドルバルが、大軍を率いて援護に向う途中、密書がローマ軍に漏れ、メタウルス川の戦いで殲滅します。
ハンニバルは次第にイタリア半島南部へ追い込まれて行きます。

 一方、ローマ軍は開戦当初からイベリア半島を攻略しますが、BC206年、将軍プブリウス・スキピオ(大スキピオ)が終に半島を制圧。
ローマに凱旋したスキピオは、一気にカルタゴ本国を攻め、BC204年に北アフリカへ上陸、BC203年に北アフリカのヌミディア王国と連合してカルタゴ軍を撃破しました。
BC203年、カルタゴ本国政府は急遽ハンニバルの軍隊をイタリアからカルタゴ本国へ呼び戻し、再度ローマとの決戦を挑みますがBC202年にザマの戦いで決定的な敗戦を迎えます。

 BC201年にカルタゴは、ローマの提示した厳しい講和条件を受諾しました。
その内容は、カルタゴは20隻以外の全ての船をローマに引き渡し、50年間に渡って毎年200タラントの賠償金を課すもので、又、ローマの了解無くアフリカ内の近隣国と開戦することも禁じられました。

 ハンニバルは将軍職を辞した後、BC196年に最高行政官である、スーフに選ばれて国制の改革を断行しますが、一部貴族の猛反発とローマの介入にあって翌年失脚、シリアへ亡命、そしてシリアがローマに破れると逃避行を続け、ローマへの反抗を続けますが、BC183年、小アジアのビテュニアに亡命していた時、ローマの身柄の引き渡しを求めに際して、毒を仰いで自ら命を絶つ事と成ります。

続く・・・


2011/12/09

人類の軌跡その259:地中海の覇権①

<ポエニ戦争その①>

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◎BC264年 第1次ポエニ戦争(~BC241年)

 カルタゴは北アフリカの地中海沿岸に位置し、当初はフェニキアの植民市として建設されました。
現在のチュニジアの首都チュニスの近傍であり、イタリアのシチリア島にも近い位置に存在しました。当時、多くの植民市を地中海沿岸、北アフリカ西部、イベリア半島東南海岸に建設し、サルジニア島とコルシカ島の全域と、シチリア島西半分もその勢力下に治めていました。

 カルタゴは西地中海での商業貿易によって繁栄し、強力な海軍を編成し、本国のフェニキアが没落した後も繁栄を続け、交易は、西地中海に留まらず、ブリタニアの錫(青銅の製造に必要)、アフリカ西海岸の金・象牙にも及び、又、農業も重んじられ、カルタゴ市の後背地では小麦が作られていました。

 ローマ人がフェニキア人の事をポエニ人と呼んでいた事から、ローマ帝国とカルタゴ間の戦争もポエニ戦争と呼ばれています。

 第1次ポエニ戦争の発端は、シチリア島から始まりました。
シチリア島西部は、カルタゴの支配下に在りましたが、東部には独立のイタリア人傭兵隊が支配するメッサナと、カルタゴと結ぶシラクサが存在していました。

 シラクサの王ヒエロン2世がメッサナを攻略すると、メッサナはローマ帝国に救援を求め、ローマの元老院は、カルタゴとの全面戦争と成る事を見通して躊躇いますが、民会は援軍の派遣を決議し、こうして、BC264年に第1次ポエニ戦争が勃発しました。

 最初の戦闘はシチリア島で行われ、シラクサ王ヒエロン2世はカルタゴからローマ帝国に寝返り、更にローマ軍はカルタゴの支配下に在ったアグリゲントゥムを攻めて困難な攻囲戦の後に陥落させました。
 その後膠着状態と成った戦局を打開する為、ローマ軍はカルタゴの海軍力に対抗し得る大艦隊の建造を開始、艦隊はBC260年に完成し、BC256年にはカルタゴの艦隊を破って、ローマ軍は北アフリカのカルタゴ本土に迫りますが、そこで大敗を喫し、ローマへの帰路に暴風に合い艦艇の大半を喪失します。

 その後シチリア島での攻防が続き、カルタゴは強力な傭兵部隊を組織し、BC243年にはローマ帝国側の敗色が濃厚となります。
この時、ローマ帝国元老院には打開策を模索できず、富裕なローマ市民が私財を投じて200隻の艦隊を建造し、カルタゴの艦隊を全滅させることが可能と成りました。

 結果、BC241年、カルタゴは和議を請い、シチリア島を放棄し、巨額の賠償金を支払う事と成ります。
更に、ローマは、戦後間も無く、サルジニア島とコルシカ島も奪取する事に成功したのでした。

続く・・・


2011/12/08

人類の軌跡その258:アレクサンドロス大王⑤

<アレクサンドロス大王の遠征その⑤>

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☆東西文化の融合

 アレクサンドロスは、東西文化の融合を図り、占領地のペルシア人にも、マケドニア人やギリシア人と対等の地位を与えた他、ギリシア・マケドニア人とペルシア人の結婚を奨励し、自らもバクトリアの郷士の娘ロクサネと結婚した他、スーサに凱旋したBC324年には、ペルシア王の娘を第二婦人とし、兵士達にもペルシア女性との合同結婚式を行わせました。

 又、アレクサンドロスは、さかんにペルシアの衣装風俗を取り入れ、臣下にプロスキュネシスの礼(ペルシア式に跪いく拝礼)や、オリエントの宗教や国家感を尊重しています。
エジプトではアレクサンドロスにファラオの称号が贈られており、ギリシアへも自分を神の様に崇拝するよう指示しました。

☆アレクサンドリア市の建設

 アレクサンドロスは各地にアレクサンドリア市を建設し、ギリシア人の移住を促進しました。
その数は、「プルタルコスの英雄伝(対比列伝)」では70カ所と伝えていますが、現代の研究では20~30カ所と推定されています。

☆エジプトのアレクサンドリア(アル・イスカンドリア)

 エジプトのアレクサンドリアは、その後、プトレマイオス朝の首都となり、学園(ムーセイオン)・図書館・天文台・動物園・灯台などが造られ、オリエント文化・商業の中心地として、繁栄しました。
ムーセイオンは「学芸の女神ムーサ達を祭る場所」を意味し、各地から学者が集い、物理学のアルキメデス、天文学のアリスタルコス、幾何学のエウクレデス等を輩出しています。

 図書館にはパピルスの無数の蔵書が集められ、ホメロス以下のギリシア古典も此処から後世に伝えられました。
灯台は高さ約100m(一説には180m)を誇り「世界の7不思議」に数えられる程、巨大な建造物でした。
アレクサンドリアは、ローマ時代やイスラム時代にも繁栄を続け、現在にその名を残していますが、近年、古代アレクサンドリアの一部が海中に没している事が判明し、調査が進められています。

☆アフガニスタンのアイ・ハヌム遺跡

 アフガニスタン北部のタジキスタンとの国境付近にあるアイ・ハヌム遺跡が、ギリシア人の造営したアレクサンドリアではないかと推定され調査が進行しています。
 
ギリシア様式の建造物遺跡や、ペルシア式の宮殿様式跡など、東西文化の交流が顕著で、神殿に祭られた神の像も、ギリシアのゼウス神と中央アジアのミトラ神(太陽神)が融合した像と推定されています。

アレクサンドロス大王終了・・・


2011/12/07

人類の軌跡その257:アレクサンドロス大王④

<アレクサンドロス大王の遠征その④>

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アレクサンドロスのバビロン入城

◎アレクサンドロス大王BC356年~BC323年(在位 BC336~BC323年)

マケドニア王フィリッポス2世の子、母はマケドニアの西エペイロスの王族の娘でオリンピアス。
BC336に父のフィリッポス2世が暗殺されると、アレクサンドロスが20歳でマケドニア王に即位、マケドニア内部の反対者を処刑し、軍隊をコリントに進めギリシア諸都市に忠誠を誓わせると伴に、父の後を継いでペルシア遠征軍の指揮官と成りました。

 マケドニアの北方の諸部族を討伐し、ドナウ川(ダニューブ川)まで遠征、後方の脅威を排除、又、この際に生じたギリシア諸市の反乱を鎮圧し、特にテーベ市は全市を破壊され、市民は奴隷として売却されました。
BC334年の春に、ペルシア遠征を開始します。

◎アレクサンドロス大王軍の部隊編成

 アレクサンドロスの部隊は、父フィリッポス2世の計画を踏襲し、騎兵の割合が高く、投石具・攻城用やぐら・破城槌等の重兵器を装備し、訓練された兵が配置されました。
 
「斜線陣」と呼ばれる戦術(テーベがスパルタに対してレイクトラの戦いで用いた。)も取り入れられ、レイクトラの戦いでテーベ軍は左翼を強力にし、他の部隊を少し後方へずらして斜めの陣形をとり、まず左翼で敵を撃破して全体を包囲するという新戦術により勝利しました。
フィリッポス2世やアレクサンドロスもこの戦術を多用したのです。

続く・・・


2011/12/05

人類の軌跡その256:アレクサンドロス大王③

<アレクサンドロス大王の遠征その③>

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◎フィリッポス2世BC382年~BC336年(在位 BC359~BC336年アレクサンドロスの父)

 アレクサンドロスの父フィリッポス2世は、マケドニア王で在った兄が戦死した為、兄の子アミュンタス4世の摂政となり(BC359)、ついで軍隊に推されて王と成りました。
農民の生活基盤を安定させ、彼らを重装歩兵隊に組織し、小貴族を騎兵隊に組織して軍事力を強化し、新戦術を持って軍を統率しました。
マケドニア東方のパンガイオンの金山を支配下におき、財政資金を獲得した他、領土を拡大して植民を行いました。

 アレクサンドロスの母オリンピアスの他に5人の周辺有力者の娘を妻とし、政略結婚も行なっています。
BC343年にアリストテレスを迎えて、アレクサンドロスや同年輩の貴族の少年達を教育させ、アレクサンドロスは、是によりギリシア的教養を身につけ、博学・好学であったと伝えられています。
この当時、ギリシアは、ポリスの栄光の時代を過ぎ、ポリス間の抗争や革命に終始し衰退期に入っていました。
フィリッポス2世がマケドニアに隣接するテッサリアやトラキアへ支配を拡大するなか、アテネの同盟市で在るオリュントスを占領しビザンティオンを攻撃すると、アテネはテーベと連合して援軍を派遣しました。
両軍は、BC338年にカイロネイアで会戦し、マケドニアが勝利します。

 フィリッポス2世は、テーベには厳しく、アテネには寛大に臨み、翌BC337年、フィリッポス2世は、ギリシアの各市をコリントに集めコリントス同盟(ヘラス連盟とも)を結成しましたが、スパルタだけは参加しませんでした。
この同盟では、盟主にフィリッポス2世が選ばれ、各ポリスの自治と自由を保証・内政不干渉・革命の禁止などを決議し、マケドニアの勢力の下で、ギリシャポリス間の抗争に終止符が打たれ、又、ペルシアへの遠征が決定され、フィリッポス2世が全権指揮官に選ばれたのでした。

 遠征の準備が進むなか、翌BC336年、フィリッポス2世は、娘の結婚の宴席で暗殺されます。

続く・・・


2011/12/03

人類の軌跡その255:アレクサンドロス大王②

<アレクサンドロス大王の遠征その②>

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◎紀元前331年、ティグリス河上流ガウガメラの戦い(アルベラの戦い)

 フェニキアの沿岸地方とエジプトを平定し、背後の安全を確保したアレクサンドロスは、ペルシアの本拠地へ向かって進軍を開始しました。
ペルシア軍は、戦車の活動しやすい平坦な地を選び、アッシリアの山地と平野の接点に位置する、ガウガメラで防備を固めました。

 しかし、アレクサンドロスはペルシア王の本陣を突き、ペルシア軍の戦線は大混乱に陥って大敗し、メディアの山地方向へ敗走し、翌日、アレクサンドロスは敵をアルベラに追撃し、多数の捕虜と戦利品を獲得します。

◎紀元前331年、バビロン入城

同年、神殿の再建とサトラプにはペルシア人を任命。
同年、スーサ市に入城、ペルシアの莫大な財宝を獲得。
同年、ザクロス山脈を越え、ペルシアの首都ペルセポリスを占拠。
紀元前330年、ペルセポリスの王宮を焼却処分。

 ペルシア帝国が滅亡した後、ギリシア・マケドニアの連合軍は解散し将兵には応分の手当が与えられて故国のギリシアへ戻ります。
アレクサンドロスは、新しい傭兵とマケドニア将兵からなる新部隊を編成し、ダレイオス3世を追撃しつつ、辺境の地域を平定する為遠征を継続しました。
紀元前329年、中央アジアのパルティアを通り、バクトリアへ、そしてソグディアナへ兵を進めます。

 ダレイオス3世は、バクトリアのサトラプに拉致され、アレクサンドロスの先遣隊が急追した時には、重傷のダレイオス3世が置き去りにされていました。
水を与えると、アレクサンドロスが、彼の家族を丁重に扱った事に対する、感謝の言葉を口にしながら息絶えたと云います。
ソグディアナにはアレクサンドリア・エスカテの町が建設されましたが、この名は最も遠方にあるアレキサンドリアと云う意味です。

 バクトリア地方で傭兵を補充したアレクサンドロスは、紀元前327年にヒンズークシ山脈を越え、紀元前326年には、インダス河の上流を渡ってインドのパンジャブ地方(現在パキスタンに属する)へ入りました。
パンジャブ地方の王ポロスをヒュダスペス河畔の戦いで降伏させ、更に東ヒュパシス川へ進出します。
アレクサンドロスは、更に進軍の継続を考えますが、兵士達はそれ以上の進軍を拒否した為、この地域が遠征の際東端と成りました。

 ヒュダスペス川を下り、途中でクラテロスの率いる西進隊と別れ、更にインダス河口付近でネアルコスの率いる船隊と別れ、異なる経路で帰路を辿り、3つの隊は再会し、紀元前324年の春にスーサに入城しました。
同年夏にメソポタミアのオポスに達し、紀元前323年の初頭にバビロンへ到着。

 アレクサンドロスは、アラビアへの遠征計画を計画していましたが、同年(紀元前323年)5月末に熱病にかかり6月10日に、32才で急死しました。

 その後、大帝国は分裂の道を辿ります。

続く・・・


2011/12/02

人類の軌跡その254:アレクサンドロス大王①

<アレクサンドロス大王の遠征その①>

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 紀元前334年、マケドニア王アレクサンドロス Alexandros(アレクサンダー Alexander)は、マケドニアとギリシアの連合軍を率いて、現在のダーダネルス海峡を越えて小アジアへ渡り、ダリウス3世時代のペルシア軍と対峙し、次々と勝利を収めました。

◎紀元前334年小アジア北端のグラニコス川の戦い

 ギリシア・マケドニアの連合軍は歩兵約3万・騎兵約5千人で、ヘレスポントス(今のダーダネルス海峡)を渡り、一方ペルシア軍は、約4万人(ギリシア人傭兵2万人を含む)をグラニコス河畔に待機させていましたが、アレクサンドロスは自ら騎兵隊の先頭に立って、渡河作戦を決行しペルシア軍に突撃、その間に味方が河を渡りペルシア軍を撃破しました。

◎紀元前333年シリアへの入り口に近いイッススの戦い

 アレクサンドロスは、山が海に迫った狭い地形のイッソスで、ダレイオス3世率いるペルシア軍の精鋭を迎え撃ちました。
ここでも、アレクサンドロスは自ら敵陣へ突撃しダレイオス3世に肉薄し、ダレイオス3世は腿に傷を受けて命からがら逃れ、ギリシア・マケドニアの連合軍は大勝します。
ペルシアは精鋭を選りすぐった筈の大部隊が敗北を喫し、主戦力を喪失しました。

 多くの捕虜と伴に、取り残された王母・王妃・2人の王女も捕虜となるも、アレクサンドロスは王族として手厚く持成したと云います。
ペルシア軍の残した多くの金銀塊を取得、又後方のダマスクス市に残された莫大な財宝を手中に収めた事は、遠征軍の財政難を一挙に解決したのでした。

◎紀元前332年ペルシアに支配されていたエジプトの解放

 アレクサンドロスは、フェニキアの海岸に沿って南下しながら途中の町々を征服し、エジプト領内に進入。
 紀元前525年からペルシアに支配され、サトラプの厳しい統治下にあったエジプトは、アレクサンドロスを歓迎し紀元前332年に首都メンフィスへ無血入場を果たしました。

続く・・・

2011/12/01

人類の軌跡その253:半島の歴史⑫

<高句麗の建国その⑦>

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◎唐の時代の高句麗と滅亡

 624年、百済、高句麗、新羅が唐に朝貢。
 641年、新羅の七重城(しちじゅうじょう・現在の京畿道坡州郡)を攻略。
 642年、新羅から唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗と百済が攻撃。
 百済に攻められた新羅は、金春秋(のちの太宗武烈王)自ら高句麗を訪ねて救援を求めたが、高句麗は百済と伴に新羅領土の侵略を画策しており、彼を捕らえるものの、同情する高句麗の家臣に助けられて脱出。

 642年、泉蓋蘇文(せんがいそぶん)のクーデターが勃発。
泉蓋蘇文の父が逝去の時、当然、彼が後を継ぐ予定であったが、彼の残忍で横暴な性格の為、貴族達はその職に就く事を拒んだ。
彼は貴族達に哀訴して父の地位を得たが、その凶暴さを発揮すると王は彼を左遷。
彼を庇う王の弟が逝去すると、彼を誅殺する密議が行なわれ、この事実を伝え聞いた泉蓋蘇文は、そしらぬふりで大臣達を招集し、配下の兵を総動員して有力者百余名を殺害したうえ、王宮に乱入して王を殺し遺骸を切断して溝の中に捨てた。
王の子を即位させ、自分は莫離支(ばくりし)という官職に就いて後見人として全権を掌握。

 645年、唐と新羅が高句麗に出兵したが、失敗、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略。
 655年、高句麗と百済の連合軍が新羅北部の33城を奪うと、新羅は唐に救援軍を要請。
唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果は無し。
 658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃する。
 660年、唐は水陸13万人、新羅軍5万人の大軍を動員して百済を攻略。
百済王は一旦王都の泗沘城(しひじょう)から旧都の熊津城に逃れ、降伏して百済は滅亡。
百済の滅亡後も、664年迄、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けた勢力が執拗に唐・新羅連合軍と戦う。

 661年、百済を滅ぼした唐・新羅連合軍は、一時、高句麗の王都の平壌城を包囲。
高句麗軍の善戦に阻まれ、新羅の大宗が崩御し、百済の復興軍が勢力を増し、唐の国内でも毎年の出兵で人心が動揺しはじめ撤兵。
唐・新羅連合軍は、百済の復興軍との戦いに専念。
 666年、高句麗の泉蓋蘇文が死去すると、唐・新羅連合軍は、再び高句麗を攻撃し、高句麗も善戦したが、668年に降伏して高句麗は滅亡。

半島の歴史終了・・・