2012/01/31

人類の軌跡その295:時には日本について②

<日本武尊②>

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火の鳥 大和編より

◎東国征伐

 そしてこの年、小碓皇子は東国の征伐を命じられます。
西国は大陸との交通路であり、古くから大和朝廷も重視していたと思いますが、東国は崇神天皇の御代に、四道将軍の大彦命と武渟川別の征伐が有る程度で、大和朝廷の勢力がそれ程及んでいる地域では無く、苦戦が予想されました。
10月7日、皇子は伊勢に立ち寄り、20~30年前から、その地では皇子の叔母である倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が天照大神(アマテラスオオミカミ)の祭祀を行い、皇子は恐らく、この遠征が自分の最後の仕事に成る事を予想し、叔母に挨拶に行ったと思われますが、倭姫命は皇子に御神宝の天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を授け、心して行くよう告げました。

 この剣は昔素戔嗚尊(スサノウノミコト)が八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を倒した時に、その尾から出たと伝えられる剣で、天照大神の孫である邇邇芸命(ニニギノミコト)が、この国に御降臨した時に、一緒に持参したと云う由緒ある宝刀でした。
倭姫命は、この征伐は正に神のご加護が必要である事を感じたと思われます。
皇子が駿河の国(静岡県東部)迄出向いた時、皇子達一行を狙って草むらで、火攻めに遭遇しますが、皇子はこの時、この剣で周りの草を切り払い、火攻めを防ぎました。
この故事により、この剣はその後、草薙剣(クサナギノツルギ)と呼ばれる様に成り、この場所もこの故事により焼津と呼ばれる様に成りました。

 相模(神奈川県)からは海路を通って上総(千葉県)に渡りますが、武蔵国(東京都)付近に強力な勢力が存在した為、衝突を避けたと思われます。
この時も、途中で海が荒れ、一行を乗せた船が遭難仕掛かる程でした。
その時、この旅に同行していた皇子の妃の弟橘媛が「これは海神の仕業でしょう。私が皇子の身代わりに海神様の所へ参ります」と言って、海に入ると暴風雨は直ぐに止みました。

 皇子の一行は弟橘媛のお陰で無事上総に到着する事が出来、其処から常陸(茨城県)・甲斐(山梨県)へと進み、やがて碓氷峠に差し掛かった時、皇子は東南の方角を顧みて、海の底へ消えた妻の弟橘媛の事を想い「ああつまや」と涙を流します。
この故事に因んで、この地方を「あづま」と呼ぶ様に成りました。
皇子はここで吉備武彦に軍勢の一部を分け、越国(北陸)の方に回るよう命じて、自らは信濃(長野県)へと進みます。

続く・・・


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2012/01/30

人類の軌跡その294:時には日本について①

<日本武尊①>

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火の鳥 ヤマト編より

◎はじめに

 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、景行天皇(垂仁天皇と日葉洲姫の子)の第二皇子でした。
双子の兄の大碓皇子が、天皇に従順で無く、弟である小碓皇子に注意を促すと、大碓皇子が小用中に殺害を行い、その豪胆さが、天皇を恐れさせました。
その為、皇子は皇太子の地位に在りながら、日本中を遠征し、大和朝廷(三輪王朝)の勢力範囲を大いに広げる事に成ります。

◎熊襲征伐と出雲平定

 九州の熊襲(クマソ)がその勢力を広げ、これを征伐するよう命じられます。
小碓皇子は女装して熊襲の王である川上梟師(カワカミタケル)の宴に紛れ込み、川上梟師は小碓の美しさに目を付け、近くへ寄せ、酌をさせいろいろと戯れます。
やがて宴も終わりに近づき、人影も疎らに成り、王もこの美女と今夜は楽しまれるのだろうと周囲が思い、側を離れた頃、突然隠し持っていた剣で川上梟師の胸を刺したのでした。

 その時初めて、小碓皇子がその名を名乗ると、川上梟師はその大胆さに感心し、以後は「日本武皇子(ヤマトタケルノミコ)」と名乗られるようと言い残して息絶えます。(この話の意味は、今迄は自分がこの国で最も強いと考え「たける」を名乗っていましたが、その自分を倒したのだから「たける」の名を譲る、としたのです)

 後に、出雲の勢力が従わなかった時、再び皇子が派遣され、皇子は初め出雲の首長・出雲建と友好を結ぶ仕草を見せ、頃合いを見て山中に誘い出します。
そして肥の川で沐浴をしている最中に、彼の刀を模造刀とすり替えてしまい、そして「太刀合わせをしましょう」と言って刀を抜くのですが出雲建の剣は模造品、焦っている間に皇子に切られてしまいました。

 小碓皇子は「日本武尊」等という勇ましい名前に似合わず、恐らくは細身の、小柄な人だったのでしょう。
腕力も強くなかったのかもしれませんが、だからこそ女装等も自然に出来たと思われ、自分に足りない腕力を知恵で補って、敵対勢力を倒して行ったものと思われます。

続く・・・


2012/01/28

人類の軌跡その293:失われたイスラエルの10支族その⑤

<失われたイスラエrの10支族⑤>

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ヨルダン川を渡る

◎開  放

 紀元前538年の新バビロニア王国の滅亡と、その後のペルシア帝国の寛容な宗教政策により、南朝のイスラエル2支族はパレスチナ地方へ帰ることが出来ました。
彼等はソロモン神殿を再建し、徹底した契約厳守の律法主義に基づく「新ユダヤ教」を形成し、現在のユダヤ人へと至る“目に見える歴史”を辿りました。

 南朝のイスラエル2支族が、故郷の地に帰還した時、既にアッシリア帝国は滅亡しており、そこへ捕囚されていたイスラエル10支族は、パレスチナ地方へ帰還できる筈でした。
しかし、彼らは戻りませんでした。
しかも捕囚されたアッシリア帝国の地にも、彼らの姿は無く、ユダ2支族よりも神から多くの祝福を受けていた筈のイスラエル10支族は、歴史の表舞台から消滅してしまいました。

◎終わりに

 興味深い事に、紀元1世紀の著名な歴史家フラビウス・ヨセフスは、『ユダヤ古代誌』の中で、イスラエル10支族は膨大な数に成り、ユーフラテス川の彼方に広がっていると記述しています。
また、聖書外典の「第二エズラ書」は、以下の様に、イスラエル10支族は絶対神ヤハウェを信仰し、過去と同じ過ちを犯さない為に、信仰の邪魔に成る者が存在しない土地を目指したと伝えています。
「これらは、ヨシア王の時代に捕らえられ、その領土から連れ出された支族である。アッシリア王シャルマネセルがこれを捕虜として連れて行き、河の向こうへ移した。こうして彼らは異国へ連れて行かれた。しかし彼らは異邦人の群れを離れ、かつて人の類が住んだ事の無い、更に遠い地方へ行こうと相談した。それは自分の国では守っていなかった律法をそこで守る為であった。こうして彼らはユーフラテス川の狭い径を通って入って行った。」

現代の歴史学的通説では、彼らは捕囚中に死滅した或いは、現地の人間と同化したと云う事に成っていますが、確たる証拠があるわけでは無く、世界のベストセラーである『旧約聖書』の主人公であり、神から一番愛されていた民族(選民)である彼等が、何の断りもなしに消滅する事が在るのでしょうか?
彼等の行方は今もって不明で在り、その為イスラエル10支族の行方は、世界史の謎の1つとされているのです。

終わり・・・
2012/01/27

人類の軌跡その292:失われたイスラエルの10支族その④

<失われたイスラエルの10支族④>

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◎分  裂

 ヤラベアムを支持するルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、エフライム族、マナセ族の10支族、そしてレビ族の一部が、サマリアを首都とする「北イスラエル王国(北朝)」の建国を宣言し、一方、ソロモンの息子を正統と考えるユダ族、ベニヤミン族の2支族、そしてレビ族の一部は、エルサレムを首都とする「南ユダ王国(南朝)」の建国を宣言します。
 
 イスラエル統一王国の分裂は、単に政治的な面に留まらず、宗教的な面に於いても分裂を引き起こし、南ユダ王国は、以前と同じ様にソロモン神殿で「絶対神ヤハウェ」を信仰していましたが、一方北イスラエル王国は、黄金の子牛像を作り、これを礼拝する事により、偶像崇拝に陥り、後に「ヤロベアムの罪」と呼ばれています。
北イスラエル王国の偶像崇拝は、日毎に激化し、パレスチナ地方の異教の神々をも礼拝し始め、そして、最終的には本来の古代ユダヤ教とは全く異質な信仰と化してしまいます。
『旧約聖書』では指摘されている通り、偶像崇拝がイスラエル10支族の霊的堕落の大きな原因と成りました。
「神」は北イスラエル王国にエリヤ、エリシャ、ホセアといった預言者を送り、民族の霊的回復を図りますが、この預言者達の必死の呼びかけも空しく、もはや信仰的回復は不可能とでした。

◎アッシリア帝国と新バビロニア王国

 紀元前722年、メソポタミア地方に勢力を急速に拡大してきたアッシリア帝国が、パレスチナ地方に侵入し、北イスラエル王国を攻略します。
必死の防戦も虚しく、北イスラエル王国は滅亡し、しかもイスラエル10支族は、そのままアッシリア帝国へ連行され、完全に捕囚( ニネベ捕囚)されてしまいました。
アッシリア王サルゴンの年代記によれば、「サマリア(北イスラエル王国の首都)の貴族階級27,290人をアッシリアに連行した・・・」と記録されています。

 北イスラエル王国滅亡を目の当たりにした、南ユダ王国のユダ族中心を中心とするイスラエル2支族は、改めて偶像崇拝を自戒し、「ダビデ王統」を守り続けて行きます。
時が経ち南ユダ王国もまた同じ過ちを冒し、北朝滅亡から135年後の紀元前587年、 新バビロニア王国によって滅亡、南朝のイスラエル2支族はバビロンへと移送され、不滅と伝えられた「ソロモン神殿」は破壊され、ユダ族の人々は国も神殿も王も失い、遠くバビロンの地で捕囚の身と成りました。

続く・・・


2012/01/26

人類の軌跡その291:失われたイスラエルの10支族その③

<失われたイスラエルの10支族③>

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◎モーセ

 苦境の中にあったイスラエル人が待ち望むメシアにして、偉大なる大預言者で在りました。
彼は紀元前1290年、全イスラエル民族を率いてエジプトを脱出、(出エジプト)以後40年間にも及ぶ集団放浪生活を送りますが、この間に“神”はイスラエル民族に「十戒」・「マナ」・「アロンの杖」と云う三種の神器と、それを入れる「契約の聖櫃(アーク)」を授けました。
これは“神”とイスラエル12支族との契約の証しで、古代ヘブライ教(原ユダヤ教)の成立を意味したのです。
紀元前1250年、預言者モーセの後を引き継いだヨシュアは、イスラエル12支族を率いてヨルダン川を渡り、 約束の地カナン(パレスチナ地方)へと侵入しました。
イスラエル12支族は、神が約束した土地であるという大義の下で先住民と戦い、瞬く間に是を征服し、支族毎に12の領地に分割しました。
ここにイスラエル王国の基礎が築かれ、当初は戦争の英雄がイスラエル12支族を統治していたのです(士師時代)。

◎イスラエル王国

 紀元前1000年頃、預言者サムエルはサウルと云う英雄を王にして、統一国家を建国しようとします。
しかし、サウルは傲慢さゆえに失脚し、代わって羊飼いの青年ダビデが大王として選任されると、ダビデは混乱していた全イスラエル民族を完全に統一し、ここに歴史に名を残す「イスラエル統一王国」が誕生したのでした。
この「イスラエル統一王国」は、ダビデの息子ソロモンの時代に頂点を極め、イスラエル史上最大の栄華を誇ったソロモン王は、それまでの移動式の幕屋を堅固な固定式の幕屋に改め、贅沢な材料を大量に使用して巨大な神殿を造影し、後に伝えられる「ソロモン第一神殿」の誕生です。
「イスラエル統一王国」が国家として隆盛を誇る反面、民は重税と強制労働に大きな不満を抱き、それがソロモン王の死後、遂に噴出し、ソロモンの息子レハベアムが即位すると、エラフイム族のヤラベアムが反乱を起こし、戦火は王国内に拡大し、内乱へと発展して行きました。

続く・・・
2012/01/25

人類の軌跡その290:失われたイスラエルの10支族その②

<失われたイスラエルの10支族②>

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◎歴  史②

 アブラムは、後に神からの勅命を受け、アブラムをアブラハムに改名します。
彼はイシュマエルとイサクという2人の息子を授かり、イシュマエルは「アラブ民族の父」と成ります。
一方、イサクはエサウとヤコブと名づけた双子の息子を授かり、弟のヤコブは神の勅命によって名前を「イスラエル」と変えましたが、彼こそが『旧約聖書』に登場する「イスラエル民族の父」と成るのでした。
このヤコブ(イスラエル)は、4人の妻に12人の息子を生ませ、生まれた順にルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミンと名付けました。
父ヤコブの死後、それぞれが皆、一族の長と成り、ルベン族、シメオン族……と云う支族が誕生しました。
但し、レビ族だけは祭祀を司る専門職で有る為、通常、イスラエルの12支族には数えません。
レビ族だけを抜いて数える場合、11男ヨセフの二人の息子であるマナセとエフライムを独立させ、それぞれマナセ族、エフライム族とします。

 ヤコブに寵愛を受けていた、11男ヨセフは、一番下の弟ベニヤミンを除いた兄達の嫉妬をかい、エジプトに売られてしいますが、当時世界中を襲った大飢饉から逃れる為、ヤコブと息子達の一族が全ての財産と家畜を伴いエジプトに赴くと、其の地で彼等を迎えたのは、ファラオに次ぐ地位で在るエジプト首相に就いていた11男ヨセフでした。
ヨセフは兄弟達を許し、イスラエル一族はエジプトの地で子孫を増やして大いに栄えますが、ヨセフの死後、ヒクソス人が駆逐されると、ヘブライの勢力を恐れたファラオは、彼等を奴隷の境遇に落としてしまいます。

続く・・・



2012/01/24

人類の軌跡その289:失われたイスラエルの10支族その①

<失われたイスラエル10支族その①>

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◎はじめに
  
 「イスラエル民族」とは厳密には「12支族で構成された連合集団」を指しており、その内の1支族である「ユダ族」を中心とした末裔が後に「ユダヤ人」と呼ばれるように成りました。
従って、「イスラエル民族」と「ユダヤ人」とを同一視する事は出来ず、「イスラエル民族」を「ユダヤ人」として総称する事もできません。
「ユダヤ人」という言葉は、紀元1世紀の歴史家フラビウス・ヨセフスによる造語だと云われています。

 ユダ族が「ユダヤ人」として活躍したのとは対照的に、ユダ族以外の選民、エフライム族やガド族をはじめとする有力なイスラエル諸族は、歴史上から姿を消してしまいました。
現在では、彼らは失われた種族と成っています。
では、「ユダヤ人」以外の失われた選民とは何なのでしょう?「イスラエル12支族」は如何なる集団なのでしょう?そして、彼等の大部分は姿を消してしまったのでしょうか?
 
◎歴  史①

 紀元前2000年、古代バビロニア王国が隆盛を誇っていた時代、メソポタミア地方に一つの家族が住んでいました。
家族の長の名はアブラム、彼は広大なメソポタミアの平原を羊と共に移動しながら暮らしており、その為地元のメソポタミアの人々は、彼らの事を「移動する人々」という意味で「ハビル人」と呼びました。
後に、彼等はユーフラテス川地域からパレスチナ地方、エジプトへ移動した為、「川の対岸からやって来た」と云う意味でハビル人→ヘブル人→ヘブライ人と呼ばれる様に成ります。

続く・・・
2012/01/23

人類の軌跡その288:チンギス・ハーン

<チンギス・ハーンの墓は何処に>

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 広大な草原を、一群の人々が、1頭の雌ラクダを引いて現れました。
或る処迄来た時、人々は立止り、雌ラクダを放すと、ラクダは草原の中を歩き周り、やがて一箇所に立止ると、天に向かって、悲しげに嘶きました。
人々は、其処が1年前に造った墓で有る事を知ったのです。

 1年前、この場所に死者は埋葬されたのでした。
埋葬した後、土を被せ、その上を数百頭の馬を走らせて、しっかりと踏み固め、親子のラクダを連れて来ると死者を埋めた真上で、仔ラクダを殺しました。
その時、親ラクダは、子供の死体の匂いを嗅ぎながら、悲しく嘶いたのでした。

 1年が経ち、墓所には、草が一面に茂り、どの位置が墓所で在るのか見当がつきません。
其処で、昨年の親ラクダを連れて来たのですが、親ラクダは、自分の子供の死んだ場所を、永く覚えているからです・・・モンゴル人の埋葬習慣に関する書物には、この様に記されています。

 モンゴル人をはじめ、北アジアの人々は、死者を埋葬しても墓所の目印を、設けませんでした。
従って、王の墓所で在っても、長い年月が経つ内に忘れ去られ、モンゴル帝国の皇帝達の墓所も、現在では確認出来ず、チンギス・ハーンについても同様なのです。

 1227年の夏、チンギス・ハーンは、タングート攻略の為、中国西部、現在の甘粛省深くに遠征した折、病に倒れ、死去は、8月18日の事と伝えられますが、この英雄の死は、厳重に伏せられ、其れは又、チンギス・ハーンの遺言で在ったとも云われています。
遺骸は、モンゴルの兵士に厳重に守られ、粛々と草原の道を北に向かい、その途中で葬列に出会った者は、例外無く命を絶たれました。
かくして、ケルレン河の源に近い本営に達した時、初めて喪は発せられ、遠征中に皇子や将軍達の下にも、使者が急ぎました。
最も遠くに遠征していた者は、3ヵ月の後にようやく、本陣に到着したのでした。

 葬儀の終了後、遺骸は聖なるブルカン山の山中に深く埋葬され、其処は、オノン・ケルレン・トラの3河が源を発する土地でした。
嘗て、チンギス・ハーンは、この地で狩猟を試みた時、一本の大樹の陰に休んだ折、左右の者に、自分が身罷ったら此処に葬って貰いたいと語ったと伝えられています。

 チンギス・ハーンがこのブルカン山中に埋葬された事は、恐らく事実と推定されますが、場所の特定が全く出来ないのです。
伝えられる話では、やがて墓所には、樹木が繁茂して密林と成り、果たしてどの場所に英雄が眠っているのか、知る者が無くなってしまいました。
又、チンギス・ハーンの墓所は、如何なる者も近づく事は禁じられ、彼の死から1世紀後の世でも、モンゴルの人々に神聖視されていました。

 処で、チンギス・ハーンは何歳で、この世を去ったのでしょうか?
是も又、多くの説が在り、72歳、66歳、60歳と分かれているのは、その生年が、1162年とする説と、1167年とする説が現在でも対峙している為で、是等を特定させる資料も存在しませんが、12世紀中葉に生きた人物で在り、日本では、平清盛の時代に相当します。
出生の年では、正確な事例は、存在せずとも出生に関しては、明確です。
尚、源義経が北海道から、シベリアを経てモンゴルの地に至り、チンギス・ハーンに成ったと云うお話は、良く耳にされると思いますが、是は後世の創作で、事実無根の俗説です。

 チンギス・ハーンの父親は、イェスゲイで在り、モンゴル国の由緒正しい貴族且つ豪傑で、その家系もモンゴル人の間で伝承され、十代前迄正しく辿る事ができます。
母親は、ホエルンと呼ぶ才女で、最初メルキト国の男性に嫁していたところを奪い取られて(略奪婚)、イェスゲイの妻に成ったのです。
ホエルンから、チンギス・ハーンの他、4人の弟妹が生れました。
尚、井上靖の「蒼き狼」では、ホエルンがメルキトに居た事から、チンギス・ハーンの本当の父親もメルキト人では無いかとの話も在りますが、是は、作品におけるフィクションで、事実とは異なります。

続く・・・
2012/01/21

人類の軌跡その287:シベリア出兵その⑤

<シベリア出兵その⑤>

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◎兵士にとっての大義その2

 シベリア出兵は日本人側で無く、ロシア人側に有利に働きました。
そして軍人も日本の歴史家も取り上げず、この出兵で貢献できた事は、この4年3ヶ月シベリアに飢饉が生じなかった事でした。
この全期間を通じて、ヨーロッパロシアは人肉市場ができるまでの食料不足に喘ぎ、少なくとも1000万人以上が1919年から1925年迄の間に餓死しました。
この事態は、ヨーロッパロシアの南部穀倉地帯で発生し、この事実は不思議に思えますが、飢饉は穀倉地帯の方が発生しやすく、日本でも米騒動は富山県から発生しました。
歴史的に見れば、飢饉になると首都等には、強制力をもって穀物が集約され、また首都に住む人間は流通ルートを熟知しており購買力が高く、穀倉地帯の周辺の都市にはそのいずれもが欠落しています。

 シベリアの食料は、満州を通過して得ており、東支鉄道は白軍が一貫して保持し、その先は南満州鉄道に接続しています。
日本軍の補給もボルシェビキの協力(!)も在り順調で、食料はシベリア全土でほぼ円滑に流通し、また治安も悪くは無く、結果として白系の人々の脱出に大いに貢献しました。
帝政ロシア軍の将校で白軍に加わった人々の60%はシベリアを経由し脱出し、またその後もパリの将校団がボルシェビキのスパイと化した事実と比較して、誇りを持って生きる環境は、極東の方により存在したのでしょう。
多くのロシア人将校、貴族は上海へと向かい、その後渡米しました。
日本軍が撤退した後、シベリアはラーゲリ(強制収容所)と軍事基地の集積地へと変貌していきます。

 この戦いに参加した日本兵は延べ約22万人、参加した兵士は参戦の理由に納得がいかなかったと、戦後も長く語り継がれます。
日本軍の兵士は国の要請に従い、それが義務だと思い戦い、或る者は極北の地に倒れ、彼らはおそらく第1次大戦で最後に倒れた兵士でした。
彼らを描写する言葉は、全てが始まった時1914年9月ロイドジョージの演説がふさわしいと思われます。
「国家にとって必要な永久に続く偉大なこと、それは平和の時代には忘れられている。名誉、義務、愛国心だ。輝く白衣に包まれて、犠牲の偉大な尖塔は遥かなる、天空を指している。」
そして4年3ヶ月は、シベリアが流刑地でなかった短い一瞬でも在りました。

シベリア出兵終了・・・


2012/01/19

人類の軌跡その286:シベリア出兵その④

<シベリア出兵その④>

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◎兵士にとっての大義その1

 兵士は出兵目的を理解していたのでしょうか?
領土獲得が本意としても、事実を広言できる時代では既に無く、当然兵士は何も説明を受けていません。
多くは同盟、日本は連合国(当時イギリス、フランスはその様に呼称しましたが、日本、アメリカではあまり一般的では無く、アメリカは参戦が遅いから理解も出来ますが、日本に関しては、不可解です)の一部に属しており要請されたからだと受け取りました。
従って、シベリア出兵は他国の戦争で、これでは防衛戦争(敵国内で戦うにせよ)に比べ士気も上がりません。
問題として当時の日本軍はドイツ式の徴兵の軍隊で在り、会計上も外征の為、徴兵軍を使用すると特別の費用支出という認識が弱く成ります。

 イギリス、フランスは同盟、外征の為には志願兵の部隊又は、傭兵を使用しました。
志願と徴兵の2本立ての軍組織で在り、アメリカは現在でも外征には原則全員志願の海兵隊を第一義に使用します。一方、日本には徴兵軍しか存在せず、当初ハルビン特務機関は、この隘路を打開する為日本人義勇軍を編成しますが、失敗に終わります。

 シベリア出兵は、連合国の大義に従った出兵と大半の人間は理解し、領土獲得も地図獲得も徴兵軍を納得させる目的が欲しいが為の口実の様に思えます。
第1次大戦で、この様に抽象的な理由で参戦した国にイギリスが在り、イギリスはベルギーの中立侵犯を理由に参戦し、結果として100万人の戦死者を出し、戦後イギリスには絶対平和主義が流行しましたが、被害の少ない日本には、その様な世論も起こりませんでした。
同盟を理由として参戦する事は、普通次の戦争でその同盟国が味方と成り、戦う事を期待します。
ところがシベリア出兵以降、極東で唯一の大国と成った日本に、同盟国は不必要と認識され、本来最大の目的、連合国の一員としての行動は忘れ去られ、また将来の味方として期待する事も放棄したのでした。
現在でも他国の紛争に巻き込まれるな、という声が存在しますが、その声に従うと双務的な軍事同盟や中立保障条約を全て否定する事に成ります。
その事実を如実に表すのが、シベリア出兵が終了(同時にワシントン会議)後、1936年の日独防共協定成立の間であると思います。

続く・・・


2012/01/18

人類の軌跡その285:シベリア出兵その③

<シベリア出兵その③>

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◎原 敬の果たした役割その2

 この点はウィルソンの14ヶ条提案の前文に良く表現されており、この前文は、当時新聞報道も殆ど無く、当時の外務官僚も大きな注意を払いませんでした。
外務官僚の最大の注意点は、国際連盟の提案でアソシエーション(Association)を如何に翻訳するかで在り、アメリカにとってツアー反動政権が崩壊した事は、歓迎すべき事態でした。
勿論マルクス主義が、アメリカ社会に影響を与える事も無く、脅威も存在せず、この時点で既にアメリカ社会は日本やヨーロッパと異質で在った事が分かります。
アメリカは現在に至る迄、共産主義イデオロギーに全く脅威を感じない唯一の大国なのです。

 田中義一は撤兵後、出兵についての利益を尋ねられ、「地図(兵要地誌)を作った」と語りました。
現在でもアメリカ軍の使用する、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)以西バイカル湖迄の地図は、全て旧日本軍が作成したもので(航空写真では地名まで判別できない)あり、確かに後世に於いても役立つ物に異議は在りませんが、当初の目的は違っていました。
本来の目的はシベリア東部3州(沿海州、黒龍州、ザバイカル州)を領土化する事で在り、留意すべきは既にこの様な考え方は時代遅れで在って、第1次大戦の戦後処理でも、国際連盟の委任統治という考えが途上しています。時代は暴力的手段で、不動産の搾取を実行する事自体、文明的で無いと考えられ、そして植民地保有が直接利益を生まなくなった事を人々は理解し始めていたのでした。

続く・・・

2012/01/17

人類の軌跡その284:シベリア出兵その②

<シベリア出兵その②>

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◎原 敬の果たした役割その1

 この出征期間4年3ヶ月のうち、原敬は3年4ヶ月に渡って首相を務めました。
原は農商省及び外務省に在籍経験の有る、官僚出身なのですが、実質初めての政党政治を開始した人物でした。
志半ばにしてテロに倒れますが経綸、人格共に一流の人物で在った事は疑い在りません。
その様な人物がトップに居ながら、なぜシベリア出兵が長期化したのでしょう。
理由として、この時代国民の意識と離れて政治を行う事が困難に成った事、軍部・外務省の情報判断の失敗と其視野の狭さを部門の長が補う事が出来なかったのです。
そして出兵を長期化させたのが、尼港事件でした。

 外交上の問題はアメリカの存在でした。
イギリス、フランスは日本にシベリア出兵を要請しますがアメリカが反対し、少数の陸軍軍人の内心は、将来的に沿海州での傀儡政権樹立をアメリカに見抜かれたと考えていたのでした。
更には、一部アメリカ鉄道資本がシベリア鉄道に関心がある為であると考えたのです。
軍人の欠陥は、外国を善意で見ず、常に敵愾心で眺める事でした。

 又、当時今日から見れば興味深い現象ですが、イギリスを軽視しアメリカを重要視する傾向が、大衆の中に存在していました。
現実の問題として、既に世界経済の中心がアメリカに移行している事を大衆の方が理解していたのかもしれません。
この時、アメリカはボルシェビキとの協調を思考していました。
以後の政策から意外にも感じますが、第1次大戦でアメリカは、途中での部分講和を禁止する1914年のロンドン協約に参加していません。
この為、イギリス、フランスや日本と異なり、ボルシェビキ政権の違約=ブレストリトウスク講和に異議を唱える事は在りませんでした。
又アメリカの根本的外交政策の立脚点に孤立主義が存在し、他国に軍事介入する事へ常に警戒的で在った事も事実なのです。
そして介入するのであれば、日本と共同歩調を選択したかったのでした。

続く・・・


2012/01/16

人類の軌跡その283:シベリア出兵その①

<シベリア出兵その①>

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 1918年8月、日本はシベリアに出兵しました。
直接の目的はチェコ軍の救出でしたが、実際はザバイカル州以東に白色傀儡政権を樹立する事でした。
後に1922年10月、4600人の戦病死者を出し撤兵、・・・最盛時3個師団(7万人)で4年3ヶ月、実戦としては軽微な損害でした。
この4年3ヶ月は第1次大戦と同じ長さに成ります。

◎出兵への評価

 当時の日本の世論も出兵を支持せず、そして現在でも何の益もない出兵であったと評価されています。
しかし出兵に益が伴われなければ成らないか否か、益とは不動産や資金を意味するのか?日本が出兵する時は領土、賠償金、駐兵権が必要なのか?そして同盟に加わるとは何か?昭和陸軍はシベリア出兵を政略出兵が故に失敗したと結論付けています。
政略出兵とは政治上の要請で、日本の防衛範囲(生命線と定義)以外に出兵する事を意味します。
逆は軍略(戦略)出兵で、優れた作戦計画に基づき攻勢に出る事を指します。

 陸軍は、この頃から出兵は、通常文民政府の要請に従って行われるという認識が欠如していました。
それを隠蔽する言葉が無益、政略という言葉なのです。
もちろん文民政府は出兵が可能か否か、軍部のアドバイスを求めるべきですが、最終的な決定と責任は文民政府に存在します。
当時、権力の分散が顕著と成り統制が取れず、第1次大戦の参戦は外相の加藤高明が決定し、シベリア出兵は参謀本部次長の田中義一が決定したものです。
更に、政党政治家にも問題が種々存在し、まず語学で見劣りし、漢文は理解可能でも当面の相手国、英米独露とコミュニケーションが不可能に近いものでした。
従って欧米コンプレックスの為か、大アジア主義者が多く、当時この種類のコンプレックスを持たないのは、留学経験のある薩長藩閥出身者と外交官、エリート軍人だけでした。
相互に対立すると国としての政策が打ち出せず、日本の問題は独裁では無く、常に過度の権力分散で、これは現在でも変わっていません。

続く・・・


2012/01/14

人類の軌跡その282:過去の記事から⑩

<サラエヴォの悲劇>

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第一次世界大戦のj発端と成ったサラエボ事件が発生したプリンツィップ橋

 第一次世界大戦は、「サラエヴォの悲劇」から始まりました。
この事件は、時のオーストリア・ハンガリー帝国皇太子夫妻暗殺であり、皇太子フランツ・フェルディナンドと大公妃ゾフィアは、ボスニアで行われた陸軍大演習を視察した後、サレエヴォ市の歓迎行事に出席しました。
1914年6月28日、この日は偶然にも夫妻の結婚記念日でもありました。

 良く晴れた日曜日、夫妻は市役所に向かって川沿いのアッペル・ケイ通りを自動車で通過していた時、暗殺団の一人、チャプリノヴィッチが小型の手投げ弾を皇太子の自動車に向かって投げました。
手投げ弾は、皇太子の乗った自動車の幌の部分に当り、道路に落ちそこで爆発し、皇太子は何事もなく、大公妃は少々の掠り傷を負ったものの大事には至りませんでした。
しかし、隊列後部の自動車に乗っていた女官や、沿道に居合わせた市民の中には、重症者も出て辺りは騒然と成りましたが、皇太子は落ち着いて「狂人のやった事だ、さあ行け」と運転手に命じたと伝えられています。

 犯人のチャプリノヴィッチは用意していた毒薬を飲むと川に飛び込みましたが、毒薬は古くて薬効が無く、川には生憎水が少なく、泥の中でもがいている内に警官に取り押さえられます。

 市役所での歓迎行事が終わった後、随員は、今後一切の予定を取り止め、宿舎のイリッジェ城に帰る事を進言しましたが、ボスニア知事は「同じ日に暗殺を企てる者があるはずは無い」と言い張ります。
皇太子は予定の民族博物館行きを中止し、先の爆弾事故で負傷した人々を病院に見舞おうと申し出ます。
その為、予定のフランツ・ヨーゼフ通りを通過せず、もう一度アッペル・ケイ通りを通る事に成りましたが、何故か皇太子乗車の運転手には、行き先の変更が伝わっていませんでした。

 経路の変更を知らされていない運転手は、当初の予定通りアッペル・ケイ通りからフランツ・ヨーゼフ通りに曲がろうとした時、ボスニア知事が「違うぞ!止まれ!」と叫び自動車は速度を緩めました。
当にその時、二発の銃声がおこり、皇太子の首と大公妃の腹部に弾が命中しました。
病院に着くと間もなく、大公妃が死亡し、暫くの時間を空けて、皇太子が死亡しました。

この時の犯人プリンチップもその場で、取り押さえられ、先の犯人チャプリノヴィッチ共々、警察で厳重に調べられた結果、彼らはセルビアの暗殺団員で在る事が判明し、25人もの関係者が逮捕されます。

さて、この事件の発生から終結迄、不可解な事例が多い事に気づきます。

1、暗殺未遂事件が発生したにも関わらず、何故か、それ以降の行事を中止しなかった事。
2、暗殺未遂事件発生以後も、何故か、拳銃を持ったプリンチップが逃げずにその現場近くに居た事。
3、プリンチップは、皇太子の行事予定変更を知らなかった筈なのに、都合の良い場所で狙撃できた事。
4、暗殺未遂事件が発生したにも関わらず、警察は警備をより厳重にしなかった事。
5、皇太子の運転手は、何故か、行き先変更を知らされていない事。
6、最後に、この暗殺を計画した「蜂・ピアス」と呼ばれたデミトリエヴィッチ大佐は、計画中止を決定していたにも関わらず、何故実行されてしまったのか?
単に偶然では済まされない、何かが有るような状況と思います。

 しかし、戦争は“偶然”が重なって勃発する事が良く有るようです。
第一次世界大戦も、第二次世界大戦もその様な傾向を予見させます。

 この事件で、オーストリア政府がセルビアに突きつけた最後通告を、セルビア政府は相当に無理な条項が存在しても、受け入れる事としていました。
しかし、10ヶ条の要求に内、第6条に「暗殺犯人とその一味の裁判の為、調査にオーストリアも協力させよ」という条項が在り、セルビアはこれを「裁判に協力させよ」という意味に解釈し、それは憲法違反になり、受け入れられないと拒絶します。
処が、それは通告文書がフランス語で書かれていた為の解釈間違いで、「裁判の為の調査にセルビアも協力する事」をオーストリア政府が要求したものであって、裁判そのものに干渉する意思は有りませんでした。

続く・・・
2012/01/13

人類の軌跡その281:過去の記事から⑨

<リンカーン暗殺>

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 1963年11月22日のジョン・F・ケネディア メリカ合衆国大統領暗殺事件は、幾度か映画化され、その真相についても、水面下での議論が続いています。
ケネディ射殺犯人は、公式発表ではオズワルドですが、彼は事件の真相を殆んど供述する事無く、ルビィと云う余り素行の良くない人物に収監されていた、警察署の中で簡単に殺されてしまいました。
現在でも、オズワルドと事件の関係を疑問視する、研究者は多く、一般に広く報道された狙撃の瞬間映像も、僅か1発の銃弾で、大統領が撃たれた様には見えません。
時のアメリカ政府は、厳密な調査の結果、オズワルドが真犯人である事を発表しましたが、この事件の真相は、未だにはっきりとしていません。

 さて、先のケネディ大統領は、第35代アメリカ合衆国大統領でしたが、第16代大統領で在る、エイブラハム・リンカーンも同様に暗殺されました。
1865年4月14日夜、リンカーン大統領は、夫人メアリー、陸軍のラズボーン少佐、その婚約者のクララ・ハリスと供にワシントン市のフォード劇場で「アメリカの従兄弟」という喜劇を観覧しました。
午後9時過ぎ、その劇に第三幕が演じられていた時、ピストルの銃声と、メアリー夫人若しくはクララ嬢の鋭い悲鳴がして、リンカーン大統領は座っている椅子から倒れました。
大統領は、背後から拳銃で、狙撃されたのでした。

 ピストルを持っている青白い顔の青年に、ラズボーン少佐が飛び掛ると、青年は刃物で切りかかり、少佐を負傷させ、その隙に大統領のボックス席から舞台に飛び降りたものの、その時飾られていた星条旗に足を捕られ、足をくじきました。
しかし、立ち上がると「是が暴君の運命だ!」と役者の様に見得をきりましたが、この言葉は、南北戦争の間、南部バージニア州で使われていた、合言葉でした。

 犯人の青年は、舞台裏から楽屋口に出、用意していた馬に乗って逃走しましたが、この青年が劇場の構造を熟知し、役者の様な大見得をきったのも当然で、彼は、シェークスピア劇の俳優で、名前をジョン・ウィルクス・ブースと云いました。

 リンカーン大統領は、劇場前に在る宿に運び込まれましたが、そのまま意識を回復せず、翌朝7時21分に死亡しました。
ブースは、仲間と1週間程逃げ回り、或る農家の納屋に隠れたものの、軍隊に包囲され、降伏を勧められ、仲間は納屋から出て来て投降しましたが、ブース本人は現れず、終に軍隊の一斉射撃の後、納屋には火が放たれました。
しかし、この直後から納屋で死んだ男は、ブースではなかったと言う噂が流布し、アメリカ議会でも取り上げられ、調査も行われました。
結果、犯人はブースで在り、納屋で死亡した人物もブースで在るとの結論に達しましたが、現在でもこの見解を疑っている研究者も多く、アメリカ合衆国史では、謎の一つとして残っています。

 リンカーン大統領暗殺事件には、不可解な部分が存在する事も事実で、事件当日、本来の観覧予定で在ったグローバー劇場から、急遽フォード劇場に変更されたのか、予てより招待されていた、グラント将軍が当日に成って観覧を辞退した事が上げられます。
ブースの仲間は結果的に8名の男女が、公安当局によって逮捕され、死刑に成りましたが、実際には、もっと大きな背後関係が大統領暗殺の背景に在ったのでないかとも云われています。
アメリカ大統領がその任期中に死去する例として、不可思議な符合が在ります。
1840年に選出された、第9代ハリソンが就任一ヶ月後に死亡、1860年に選出されたのがリンカーン、1880年が第20代ガーフィールド、1900年が、第25代マッキンレーでハリソン以外の3人は全て、暗殺による死亡で在り、1920年選出のハーディングは遊説中急死、1940年選出のフランクリン・D・ルーズベルトは病死、1960年選出がケネディ、1980年選出が、ドナルド・レーガン(彼は、暗殺されていませんが、遊説中狙撃)なのです。
アメリカ大統領暗殺事件は、上記4名以外にも4~5例が在るようですが、これらは未遂か、命に別状は有りませんでした。

続く・・・


2012/01/12

人類の軌跡その280:過去の記事から⑧

<ナポレオンは毒殺されたのか>

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 1769年8月15日、地中海のコルシカ島で、下級貴族の息子として生れた、ナポレオン・ボナパルトは、1821年5月5日アフリカ西南に位置する、セント・ヘレナ島で51歳で他界しました。
ナポレオンは、この島で、極僅かな人々に看取られながら息をひきとります。
彼の最後の言葉は、「フランス・・・軍隊・・・ジョセフィーヌ・・・」で在ったと云われています。

 彼の死因は、胃癌で在ったと伝えられ、ナポレオン自身も自分は、癌であると思っていました。
彼は死去する一週間程以前に、彼の主治医であるアントマルシに「こう吐いてばかりいるのは、私の病気が胃にあるせいだろう。多分私も、父と同じ胃癌だろう」と語り、そして「自分の息子(フランソワ・シャルル・ジョセフ・ボナパルト)に会ったら、癌にならない様に薬を与えて欲しい」と頼んだと伝えられています。

 さて、時は流れて第二次世界大戦の終結後、ナポレオンの遺髪を分析してみると「ヒ素」が発見され、彼は多分イギリス人によって毒殺されたと推察されました。
ナポレオンの晩年については、比較的詳細に記録が残されており、この部分も検証する事が可能です。

 セント・ヘレナ島は、南緯16度付近に位置し、熱帯で湿度の高い島で、ナポレオンは熱帯で在りながら、時々湿気避けの為にストーブを焚かせていますが、この様な気候の為か、ナポレオンは病気がちに成っていきました。
1816年5月イギリス軍軍医ウォルデンが、ナポレオンを診察した時、ナポレオンは発熱を訴えましたが、健康と診断されたにも関わらず、その年の8月には、毎日の頭痛をフランス人医師オメーラに訴え、その後も度々同様の症状を示していますが、是は湿度と暑さの為と思われます。
10月には、歯が痛み一切の面会を拒否、11月には発熱の為、寝たきりに成ります。
オメーラが「長生きをする為には、もっと運動を為さらなくては」と勧めると、ナポレオンは、「1日も早く死んだ方が良い」と言ったと記録されています。
翌1817年3月には、神経痛が発祥し、夏には腹部に痛みを感じ、気管支炎に成り、足や唇に浮腫みが現れますが、是を赤痢とした記録と、胃癌の兆候であるとする記録が存在します。

 一方、ナポレオンの病は、虚構でフランス人医師オメーラは、病気であると宣伝していると言う噂が立ち、彼はフランス本国に召還されてしまいます。
1819年1月には、肝臓病にかかるものの秋には、回復し1820年夏迄は、平穏な時間が過ぎました。
しかし、11月から再び肝臓の痛みがひどく、気を失う事も在り、1821年2月には、胃の痛みが激しく、手足が冷え、食欲、記憶ともに減退し、3月には吐血、嘔吐が激しく、食事も殆んど不可能に成り、5月5日を迎えたのでした。

 1819年9月から、ナポレオンの伯父フェシュが、医師アントマルシをセント・ヘレナ島に送り、身の回りの世話を行っており、アントマルシは、ナポレオンの遺言に従って、遺体を解剖しました。
確かに、胃癌でしたが、肝臓は余り悪くなく、肝臓が本当に悪くないのであれば、毒殺にしろ、胃癌にしろ不自然です。
症状から判断すれば、毒殺説も成り立たないようで、解剖から胃癌が確認されたのなら、胃癌が死因と認める方が良いのですが、医師が度々、替えられた事、又ナポレオンの投薬、食事は、厳しく管理されていたのは、毒殺を警戒した為であるので、毒殺説は成り立ち難いと思われますが・・・。

続く・・・
2012/01/11

人類の軌跡その279:過去の記事から⑦

<シェークスピアは実在したのか>

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マクベス&バンクォー 

 シェークスピアの名前を聞いて、どの作品を思い出しますか?
「ハムレット」「マクベス」「リア王」「オセロ」「リチャード三世」「ロミオとジュリエット」「真夏の夜の夢」等悲劇、喜劇が浮かびますね。
嘗て、インドが大英帝国最大の植民地で在った頃、「インドは失っても、シェークスピアは失いたくない」とイギリスでは、言われていました。
さて、この世界的に有名なシェークスピアの生い立ちが、実際の処、良くわからないのです。

 1964年4月は、「シェークスピア生誕400年祭」がイギリスで行われ、記念行事も多数開催されました。
シェークスピアは1564年4月23日に生れ、1616年4月23日に死去した事になっています。
しかし、実際には、彼の生没は、きっちりと判明している訳ではなく、彼が生れたとされる、ストラト・フォン・エイヴォン市の教会には、1564年4月26日に洗礼を受けた記録が、存在していますが、キリスト教では、生後まもなく洗礼を受けてキリスト教徒に成りますので、誕生は多分洗礼を受けた日から、それ程遠くない日であると推定され、更に没年月日が極めて近い為、同月日にされた(!)らしいのです。

 現在判明している、彼の生い立ちでは、実家は皮細工商で、父親は一時町の名誉職に就きましたが、稼業に失敗し、其の為シェークスピアは、学校教育もまともに受ける事が出来なかったと伝えられています。

 処が、彼の作品はどれも、相当の教育を受けた、ギリシア、ローマの古典にも通じた人物でなければ、書く事が出来ない様に見受けられます。
その為、「“ストラト・フォン・エイヴォン”で生れたシェークスピアと多くの作品を残したシェークスピアは別人で在り、他の人物が彼の名前を借りて、是等の作品を書いたのだ」と云われ、一部には、哲学者フランシス・ベーコンの名前や、劇作家マーローの名前さえ称えられた事が在りました。
今から40年以上前に成りますが、とある人物が、劇作家マーローの墓所を調査すれば、本当は、マーローがシェークスピア劇を書いた事を証明できるとして、イギリス政府の許可を取り(!)彼の墓所を調査しましたが、証拠の発見には至りませんでした。

 又、シェークスピアは短詩(ソネット)も書いていますが、「それ等は、国王ジェームズ一世の宮廷に仕えていた人物で無ければ、書く事は不可能で、常に創作活動を行い、劇場に出入していた人物が書いたとは思えない」と詩人で文学博士のブランデン氏が述べた事が在ります。
実在を疑われた、著名人は“キリスト”“マホメット”“シャカ”等多数存在しますが、シェークスピアの様に、比較的時代が新しい人物で、その実在を疑われている事は、珍しいと思われます。

 現在でも多くの専門分野の方々が、シェークスピアについて、文献を著していますが、基本部分として、彼の伝記が明確でない事に起因しているのです。
何時か、これ等の疑問に答える、明確な当時の文献が発見され、謎が謎で無くなる時が来るでしょうが、例え本当の作者云々が無くても、シェークスピア劇の面白さ、巧妙さは、色あせません。

続く・・・

2012/01/07

人類の軌跡その278:過去の記事から⑥

<ゼロを発明した民族(中米編)>

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マヤ文明の数字(20進法)

 彼らは農耕民族で、最後迄、車輪の概念を持ちませんでしたが、其れでも古代アメリカの他のどの文明も達し得なかった芸術的、知的文明に到達しました。
彼らは天体の運動を計算し、驚くべき正確さで、遠い未来の天体活動、月食、日食を予想する事ができました。
しかし、一方では、建築工学における、単純なアーチを作る事が出来ず、その文字は、未発達の絵文字でしたが、樹皮を紙の様に加工して、是を折りたたみ、長く繋いで作った書物も存在しています。
又、彼らの数学体系は、古代エジプトでさえ、足元に及ばず、その数の概念は億の単位迄、把握する事が可能で、ヨーロッパ人より1000年も早く0(ゼロ)の概念を持っていました。
中央アメリカのマヤ族は、華麗で、しかも荒削りな文明、急激な没落の為に歴史上最も謎の多い文化を築き上げたと云われています。

マヤ文明の謎

 農民や漁民の単純な村落共同体が、如何にして紀元前1000年前後に、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラ、ユカタン半島、メキシコの南部に迄広がる、強力な文化に発展したのかは、現在でも明らかではありません。
しかし、現実にマヤの人々は現実に是等を成し遂げて行きました。

 緩やかにマヤの人々は、階級制度を発達させ、世襲貴族、神官等の支配層、労働する自由な平民層、戦争捕虜である奴隷の区別が存在し、特に他部族の高位の者が戦争捕虜になると、彼らはマヤの神々の生贄とされました。

 マヤの数字は、3種類の記号だけを使用し、点・は1、棒Iは5、貝の形は0を現し、この組合せによって億単位の計算すら可能でした。
如何なる理由が存在したのか、現在では解明も不可能ですが、マヤの人々は紀元前3114年を天文学的事象の計算と時間軸の出発点と定めました。
天文学の水準は極めて高く、当時他の如何なる文明よりも遥かに正確な暦を作り上げ、1年365日は、20日づつ18ヵ月に分けられ、それにセバと呼ばれる5日が加えられました。

 西暦300年頃から900年がマヤ文明の黄金期で、壮麗な都市が築かれますが、建物は驚く程に美しく、最上階に神殿を載せたピラミッドは、密林の木々を背景に空に浮かび上がっていました。

 興味深い点と云えば是等の都市は、支配階層が住む儀式の場で、農民は郊外の農地に住み、商売や宗教的祭礼、球技の試合等の時だけ都市の広場に集まりました。

 しかし、突如10世紀初頭、是等の都市は放置、廃棄され、マヤ文明は崩壊してしまいます。
この終焉を説明する為に、数多くの研究文献が出版されました。
研究者に因れば、土壌の消耗と生産性の低下の為、彼らの農耕制度が崩壊し、都市の急激な人口減少を招いた、或は、地震、疫病、戦争、メキシコ高地人種の侵入を説き、又、被支配階級が支配階級に対して、一種の革命を起こした可能性も提唱されています。

 考古学上、最新の研究に因れば、西暦900年頃、神官階級が支配権を喪失し、社会的、経済的平等化が発生したのではないかと言われています。
祭儀の場所は廃棄され、続く数世紀の間にその繁栄を極めた、マヤ文明は衰退した様に思われます。

続く・・・


2012/01/06

人類の軌跡その277:過去の記事から⑤

<レオナルド・ダ・ヴィンチの裏文字>

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   レオナルド・ダ・ヴィンチ 飛行機械

 ルーブル美術館にある「モナ・リザ」或は「ジョコンダ」と云われる美しい女性の肖像画は、描かれている唇の両端を僅かに上げた微妙な表情は“謎の微笑”と呼ばれています。
「モナ・リザ」を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチと云う名前を聞くと、私達は天才画家と連想しますが、彼は画家とは一口で言えない人物でした。

 ダ・ヴィンチの活躍した15世紀から16世紀の頃、イタリアは「ルネサンス(文芸復興)」と云われ、ミケレンジェロ、ラファエロ、ボッティチェリ等、天才的な画家や彫刻家達が、次々と登場した時代で、芸術の分野のみならず、建築、文学、科学にも多くの人物が、登場した時代でした。
その上、この当時の人々の才能は、一つの方面にだけ特に優れて発揮されたのでは無く、一人の人物が多方面に、同時に才能を示したので、彼等を「万能の人」と呼び、ダ・ヴィンチもその一人でした。

 彼は、ミラノのロドヴィゴ公に仕える時、自分の推薦状を自ら書きます。
その推薦状は、10ヶ条から成り、自分は橋、攻城機、大砲、船舶の設計制作に優れ、最後の部分に、彫刻、絵画も得意であると書きました。
以上から推察される様に、ダ・ヴィンチは彫刻、絵画を自分の才能の一部と思っていた様です。

 彼は、あらゆる事象に関心が有り、見聞した事や自分の発想を記録していました。
現在でも是等の記録は、6000ページに相当する数が現存し、イタリア、フランス、イギリス等の図書館、博物館に所蔵され、又その大部分は、文献として出版され、私達も見る事ができます。

 処が、この文書は、大部分が不思議な文字で書かれ、行は右から始まり左方向に向かっており、その一文字一文字が、裏返しに成っていて、鏡に写して見ると、普通の文字として判読できる事から「鏡書き」等と呼称される事も有ります。
その上、短い単語が組み合わされたり、長い単語を短く切断したりされており、文節、文法も無視され、省略は至る処に存在する為、大変読み難く、理解し難いものと成っています。

 なぜ、ダ・ヴィンチは裏文字を書いたのでしょうか?
彼は晩年、リューマチか神経痛で右手が不住に成ったと云われていますが、問題の裏文字は、20歳代から既に始まっており、最初の頃は、所々に少し混じる程度ですが、見受けられるので、単純に病気の為だけでは成さそうです。
彼の生きた時代は、教会勢力の強い時代で、異端審問も可也の頻度で行われていましたから、彼自身の本当の考えが外部に洩れる事を恐れて、わざと読み難い文字を使用したのではないか?と考える説も在ります。
当時は、捕らわれない心で自然を見、理性で物事を判断する人間が現れはじめましたが、その様な人々の中には、正統な神を信じない人は“異端者”とされ、処刑される者も多数に上りました。
ダ・ヴィンチは、異端者と疑われる事の無い様に、自分の手記記録を他の人物に読まれる事が無い様に、判り難い文字で書いたのだと思われます。

 もう一面として、彼は多分、“左利き”で在った為この様な文字を書いたのではないか?との疑問も存在します。
美術書に因れば、彼のデッサン類を深く見聞すると、陰影の部分に引かれた細い影付けの線が皆、左上から右下に向けて描かれています。
普通は、右上から左下へ線を引きますが、是は彼が左利きの為左で描いた為で在り、先に述べた記録は、他人に見せる事を前提にしていないものなので、書き易い左手を使った為、裏文字に成ったと推測されます。
その為、他人に読んで貰う書面、先の10ヶ条の推薦書は、普通の文字で書かれています。

続く・・・
2012/01/05

人類の軌跡その276:過去の記事から④

<ゼロを知らなかった数学>

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 今、私の手元に業界新聞が有ります。
この通し番号は、32164号。
1年について、362回の発行があるとすれば、32164号は、何年分に当たるのでしょうか?
この様な問題を出されたら、パソコンや計算機を使わずとも、私達は紙に書いて、計算(筆算)によって、直ちに答えを導き出す事ができます。
其れは、計算に便利な算用数字と筆算の方法を知っているからです。

 処が、単純に見える計算でも、昔の人々には、大作業で、明治以前の人ならば、「三万二千百六十四を三百六十二で除する」と書いて、頭をひねったのです。
勿論、紙の上での計算は出来ません。

 ソロバンの使用方法と、割り算の「九九」を知っている人ならば、ソロバンの上で答えを導きだしたでしょうが、ソロバンも現在の様に普及したのは、江戸時代(17世紀頃)以来の事なのです。
ですから、それ以前の人にとって、複雑な掛算や割算は、大変難解な事でした。

 是は、ヨーロッパ人に取っても同様で、現在の算用数字(アラビア数字)が用いられる以前、ヨーロッパで用いられていたのは、ローマ数字であり、上の問題をローマ数字で表せば以下の様に成ります。

((I))((I))((I))(I)(I)CLXIV(割る)CCCLXⅡ

 是を見ても筆算は到底不可能である事が解かると思います。
ギリシア人で在っても同様で、ギリシア文字で書いたのですから、筆算出来ない事に変わりは有りません。
つまり、ヨーロッパで用いられていた数字は、計算の結果と資料としいての数値を記録するものに過ぎず、実際の計算には、アバークスと言う計算器を用いたのですが、アバークスの操作は、途方も無く複雑で、ソロバンの比では無く、昔のヨーロッパ人は、わざわざアバークスを用いて苦労を重ねた上に、ようやく答えを導き出したのでした。

 実際、計算に便利な算用数字はアラビアからも伝わって、是を用いた筆算の方法も12世紀初頭には、イタリアで紹介されていましたが、当時のヨーロッパ人にとって、アラビアは異教徒の土地であり、敵国でも在った為、教会勢力を中心とする保守派は、頑なにアラビア数字を排撃し、その使用を禁止さえも行った為、アバークスは、尚数百年にわたって利用され続けました。

 さて、私達は、数学の天才と言うと、近代では、ニュートン、デカルト、ガウスを連想します。
しかし、ヨーロッパにおいて、近代数学が発展するのは、17世紀以後の事であり、アバークスのレベルでは、方程式を解く事は不可能でした。
近代数学は、アラビア数字を用いる事で、発達したのです。
アラビア数字は“1~9”と“0”の記号を組み合わせて、あらゆる数を表す事が可能であり、日本のソロバンの様に、位取りの方法によって、大きな単位の数も簡単に表す事が可能で、新しい記号を作る必要は、皆無でした。

 この“0”の記号化と位取り法の発明は、アラビア人ではなく、本来はインド人が発明したもので、其れをアラビア人が取り入れて、用いられる様になったのです。
インドにおいて「ゼロ」の記号は、実に紀元前2世紀には用いられ、其れは「無:シューヌヤ」と呼ばれました。
誰がこの記号を発明したのか、そして「ゼロ」を数字の一つと考えて、計算に用いる様にしたのかは、現在でも判明していません。
更に、何故インドにおいて「ゼロ」の思想と「位取り法」が発明されてのでしょう?

 一部の学説では、是をインド人の「無」の思想、「空」の思想と結び付けて考える人物も存在しますが、この様な偉大な発明も「本来は社会的環境の所産であり、その時代のある切実な要求に答えたものである事を、想定しなければならない」(ネルー)でしょう。

 確かに古代のインドでは、商業が盛んで、簡便な計算法が無くては、商業計算は無理でした。
ギリシア人は、その思索の中から、高度な幾何学を発達させたのも、商業や航海の上から必要に迫られた事に相違無いものの、ギリシアの天才達も、終に「ゼロ」の発見は出来ず、算術や代数は発達しませんでした。

 如何なる説明も、不明な面の一部を解くに過ぎず、ヨーロッパ人はインドやアラビアに学ぶ迄、終に「ゼロ」の概念も簡便な計算方法も知らなかったのです。
16世紀の数学者の著書「少数論」を次に人々の為に記しました。
「天文学、測量士、織物の計量士、重量の測定士、及び商人の皆様」
当時のヨーロッパにおいて、数の計算作業を、如何なる人々が携わっていたかを示しています。

続く・・・

2012/01/04

人類の軌跡その275:過去の記事から③

<紀元の年>

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神武天皇東征

 12月25日はクリスマス、イエス・キリストの降生祭ですが、イエスが、この日に生れたと云う証拠が在る訳では有りません。
事実、降生祭も1月6日に行われた事も在れば、5月25日に行われた事も在りました。

 現在の西暦紀元を、イエス誕生の年と定めたのは、6世紀の神学者ディオニシウスで、この時、イエスの誕生は、ローマ建国紀元754年とされました。
後年、ディオニシウスの計算は、誤りである事が判明し、実際のイエスの誕生は、この紀元より4年程遡る、恐らく西暦紀元前4年であると考えられています。

 宗教の開祖については、その教えが広く人々に信じられる様になると供に、その生涯は、曖昧模糊となって行きます。
仏教の開祖「釈迦(仏陀)」にしてもその生没は明らかでないものの、シャカは、イエスよりも少なくとも、500年以上も前の人物なので、生没年に異説が多く存在しても不思議ではないと思われます。
その入滅、即ち仏滅の年は、西暦紀元前485年とも紀元前386年とも云われています。

 日本の平安時代には、仏滅の年を西暦紀元前949年と考える説が、最も有力で、仏滅から2000年を経過すると、末法の世に入ると考えられていました。
従って、平安時代中期の永承7年(西暦1052年)は、当に末法の入る年であり、この年、藤原頼通は、宇治の山荘を平等院と名づけて寺院とし、翌年には阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立しました。
仏教徒の間でも、この様に仏滅の年が紀元とされる場合が、少なくないのですが、基準と成るべき仏滅の年に、異説が多ければ、年の換算も又、複数存在するのも無理からぬ事でした。

 その点、イスラム教の場合、その起源が新しいだけに、年月日も明らかで、イスラム歴の紀元元年は、マホメットがメッカからメジナに移った年、所謂、ヘジラの年(西暦622年)で在り、マホメットがメジナに到着したのは、9月20日です。
但し、イスラム歴の基点は、この年の太陰暦の元日に当たる、6月16日とされました。
イスラム歴は、純粋な太陰暦を用い、従って平年は354日と成り、太陽暦とは、年毎に10日から11日の誤差が生じて来ます。

 この様に考えれば、世界各地で用いられている紀元の年は、曖昧なものと言わねば成りませんし、是等の紀元は、何れも宗教上の習慣に基づくものなので、国家として制定したものでは有りません。

 国家が、その建国の年を紀元する例は多く、古くはローマ建国紀元であり、インドのグプタ朝建国紀元があり、フランス第一共和制の基では、共和国成立の西暦1792年9月12日を所謂、革命歴第1年元日と定めていました。
現在でも、台湾の中華民国政府は、その成立の年である、西暦1912年1月1日を紀元として。民国の年何年と数え、中華人民共和国では、「公元」と称して西暦を用います。
嘗て、中国では、伝説上の皇帝である、黄帝即位の年を以って紀元とする、黄帝紀元を称えた時代も在りました。
大韓民国では、開祖壇君即位の年(西暦紀元前2333年)を以って、公式の紀元とします。

 日本では、暦が始めて用いられたのは、聖徳太子の時代、推古天皇の12年(西暦604年)であり、其れまでは、歴法が存在していない為、正確な年月を計算する事が出来ません。
しかも日本の建国の日は、中国で流行した讖緯説に従って、推古天皇9年(西暦601年)の辛酉の年から1260年遡った、辛酉の年(西暦紀元前660年)正月元日と定められました。
所謂、神武紀元です。

 「紀元節」は、この神武紀元の正月元日を太陽暦に換算して、明治6年に制定されたもので、西暦紀元前660年の日本は、縄文文化時代であり、金属器も知らず、農耕も殆んど行われる事無く、勿論、現在の概念で言う国家も発生しておらず、暦が存在していないので在るから、現実には、換算の方法は存在しないはずなのです。

 最初の紀元節は、明治6年1月29日に行われたのは、その日が、旧暦の元日に当たっていた為でした。
しかし、旧暦の元日が、年によって異なるのは、自明で明治6年1月29日が元日でも、1年前、100年前、1000年前の元日がその日に当たるとは限りません。
其の為か、翌年から、2月11日以って紀元節とする事に成りましたが、なぜ2月11日と換算されたのか、その根拠は明らかでは有りません。

続く・・・

2012/01/03

人類の軌跡その274:過去の記事から②

<未解読の文字>

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 10世紀初頭、日本では平安時代前期、延喜7年(907年)、唐は終に滅亡します。
是より、中国華北の地に五つの王朝が、盛衰を繰り返し、そのの地域でも、小国が交替する五代十国の時代と成りました。
同じ頃、モンゴル高原の東部には、モンゴル系契丹人の国が生れ、やがて契丹は、五代の混乱に乗じて、華北の地に侵入し、現在の北京、大同一帯の地域を領土に加え、更に国号を遼とします。

 一方、中国では、宋が五代十国の混乱を治め(960年)、統一国家が復活しますが、遼の国力は、宋の其れを凌駕し、じりじりと宋を圧迫します。
11世紀に成り、中国の辺境の西辺、黄河上流地方を中心に、チベット系国家が建国します。
この国家こそが、西夏であり西域との交通の要衝を治め、強勢でした。

 超えて12世紀、満州の地(東北部)にツングース系女真族(後年の清朝を建国)が、其れ迄、契丹人支配から分離独立を果たし、金を建国します。
金は、宋と同盟関係を構築して、遼を滅ぼし(1125年)、更には盟友である宋を攻め、皇帝一族を捕虜(1127年)とし、此処に宋は、一旦滅亡します。
但し、皇族の一部は、南方に逃れ、開封を都に揚子江流域以南を保ち、宋の王朝を復活するものの、華北の地は、悉く異民族である、金の領土と成りました。

 この様に、契丹、西夏、女真の各民族も中国の王朝を圧迫し、その一部を領土として猛威を振るったものの、武力は強大であっても、その文化は、到底中国に比較できるものでは有りませんでした。
彼等は、中国文化を吸収する一方で、漢字に倣って、独自の文字を創ります。
其れが、契丹文字で在り、西夏文字で在り、女真文字で在りました。

 しかし、どの文字を見ても、其の複雑さは漢字の比ではなく、漢字に似ているものの、読み方、文法も全く異なり、契丹文字は、モンゴル系言語を写したものであり、西夏文字は、チベット系のもので在りました。
彼等の国家では、この文字が正式な文字とされ、公文書の作成は、この複雑な文字が用いられたのです。

 其の読み方に関して、現在迄、数多の研究が進められ、その結果、是等の複雑な文字の構成法は解読され、特に西夏文字は、日本の西田竜雄氏によって、解読されました。
しかし、契丹文字や女真文字は、未だ未解読のまま残されています。

 文字を創るという行為は、民族としての自覚が高くなった結果に相違ないものの、是程に難解な文字を創り、又読みこなせたのでしょうか?
余りに使い難い文字で在った為、国の崩壊と供に忘れられ、誰も読む事が不可能に成るのです。
文字は、使い易くしなければ、普及しません。
日本の「かな」文字の発明が、どれ程、日本文化発展に貢献したでしょうか。

 13世紀のモンゴル人は、ウイグル文字(トルコ系)を真似て、モンゴル文字を創り、後に清朝を建国した、女真族は、更にモンゴル文字を真似て、満州文字を創りました。
この満州文字は、「かな」と同様に表音文字で在り、15世紀に成立した朝鮮文字(ハングル)と供に、後世迄残りました。
中国と接する南の国々、特にベトナムも、日本、朝鮮と同様に中国文化の影響を強く受け、ベトナムも漢字表記では「越南」で在り、「胡志明」と書いてホー・チミンと読み、「奠辺府」と書いてディエンビエンフーと読みました。

 やがて、14世紀には、漢字を利用して、ベトナム語を表記する独特の文字(チュノム)を創りましたが、漢字をそのまま使用したものも在れば、字画を簡素にしたもの、或は合成したものも在りますが、実際に使用するには、不便だったと思われ、事実、フランスがベトナムに進出する様に成ると、ローマ字でベトナム語を表記する事が、一般に普及したのでした。

 中国を廻る諸民族の文字は、何れも簡略化の道を辿りますが、契丹と西夏、更に女真は、殊更に複雑な字形を創り、普及されぬまま、文字も国家も滅亡したのでしょう。
是等の文字も何れ解読される時が、来るのでしょうが、西夏文字を除き、解読不可能な文字として、現在も残っています。

続く・・・
2012/01/02

人類の軌跡その273:過去の記事から①

<マラソン競技の起源>

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1896年第一回近代オリンピック アテネ大会(Wikpediaより転載)

 近代オリンピックの華と呼称される「マラソン競技」ですが、この「マラソン競技」が古代オリンピックにおいても行われていたと考える人も居りますが、それは誤りです。
近代オリンピックは、フランスのクーベルタンの提案で始められ、その第一回大会は、1896年、古代オリンピック発祥の地、アテネで開催されました。

 その第一回大会の時、フランスの言語学者 ミシェル・ブレアルの提案から現在の「マラソン競技」が始りました。
ブレアルは、紀元前490年、アテネ陸軍がペルシャの大軍をマラトンの野に撃破し、ギリシアを救った時に在ったとして伝わっている話を基に「マラソン競技」を提唱したのでした。

 マラトンの野は、アテネの北東に位置し、予てよりギリシア侵略を目論んでいた、時のペルシャ王ダリウスは、紀元前490年、600隻の大艦隊をアテネに送り、マラトンの野に上陸(第二次ペルシャ戦争)し、アテネは、1万人の重装歩兵でこれを迎え撃ちました。
アテネは、スパルタに援軍を求め、俊足のペイディッピデスを伝令に出し、彼は、アテネ、スパルタ間240kmを二日で走破したと伝えられています。

 しかし、その時スパルタは、祭りの最中で、祭りが終わる1週間後の満月の日に成る迄、援軍を出せませんでした。
其の内、援軍の到着を待たずして、ペルシャ軍とアテネ軍の間に戦闘が、勃発しました。
此れを「マラトンの戦い」と云い、ペルシャ軍の勢力は、アテネ軍の10倍と云われますが、戦闘は、地形を有利に展開したアテネ軍の勝利に終わりました。
当時の記録では、ペルシャ軍の戦死者は。6000人を超える数で在ったにも係らず、アテネ軍の喪失は、200人に満たなかったと記録されています。

 この勝利を知らせる為に、ある男がアテネ市迄全力で走りました。
彼はアテネ市の入口で「喜べ!勝った!」と一声叫び、息を引取ったと云います。
此れが「マラソン競技」の起源に成った事件で、今日のマラソン競技の距離42.195kmは、マラトンとアテネの距離と伝えられています。

 しかし、この「マラソン競技」の起源には、多くの不明な点が多く存在します。
まず、第一に本当に戦勝を伝える者が居たのでしょうか?
「ペルシャ戦争」の歴史を記したヘロドトス(紀元前5世紀)は、当時の歴史上のエピソードは殆んど網羅しているにも係らず、この走者の話を伝えていません。

 この走者の話を最初に伝えたのは、「英雄伝」で有名なプルタルコスとルキアノスですが、マラトンの戦いから500年以上の後の人物で、「英雄伝」の中でプルタルコスが紹介しているヘラクレイデスは、紀元前4世紀の人物で、時代が異なります。
この様に勝利を伝えた走者の話は、後世の想像である様です。

 第二の疑問は、走者の名前で、スパルタ迄伝令に走った、ペイディッピデス、更にはテルシッポス、エウクレス、ディオメデスの名前が、伝えられていますが、定かでは有りません。
駄々、勝利を伝える伝令をアテネに出した事は、事実と考えられますが、勝利を伝えて息絶えた下りは、話を面白く脚色したもので、その為走者の名前が、曖昧になっていると考えられます。

 第三の疑問は、マラソン競技の距離の基と成った、マラトン・アテネ間の42.195kmがどの様に計測されたのかと言う点です。
1927年国際陸上連盟が調査を依頼し、翌年ギリシアが、マラトン・アテネ間の距離として出された結果は、36.75kmで、最初の数字の根拠が、依然曖昧なままなのです。

 さて、アテネで開催された「第一回近代オリンピック」では、アメリカがメダルの大多数を占め、開催国ギリシアは、不振でした。
しかし、マラソン競技に優秀したのは、ギリシア人 スピリドン・ルーエスで、記録は2時間55分。
時のギリシア皇太子兄弟が、彼を肩車に乗せて、貴賓席迄運び、ルーエスは、ブレアルの寄贈した記念杯を受け取ったのでした。

続く・・・
2012/01/01

新年明けましておめでとうございます。

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新年明けましておめでとうございます。

旧年中は、応援ありがとうございました。
皆様のご多幸をお祈り致しますと伴に、今年も宜しくお願い申し上げます。

平成二十四年 元旦