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2012/02/29

人類の軌跡その318:絶対主義の終焉①

<絶対主義の終焉:イギリスその①>

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◎ステュアート朝の成立

 イギリス国王エリザベス1世は1603年、崩御しました。
独身なので、実子は事実居ませんでした。
イギリス王室に後継者問題が発生、イギリス議会はエリザベス1世と家系的血縁の在る候補者を選定し、最終的にスコットランド王が国王に選定されました。

 文章の中でイギリスと表現していますが、正確にはイングランドを意味しています。
現在、イギリスの正確な名称は「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)」略してユナイテッド・キングダム(United Kingdom、UK)であり、連合王国は、複数の王国が一緒に連合して成立した王国を意味し、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドが、現在日本人の思い浮かべるイギリス全体の姿なのです。
 
 エリザベス1世統治時代のイングランドは、現在の大ブリテン島の南半分が版図で、北部はスコットランドでした。
スコットランド王ジェームズ6世はイギリス議会からの要請を承諾し、イギリス国王ジェームズ1世と成りました。
この王朝がステュアート朝で、ジェームズ1世はイギリス(イングランド)国王に即位しますが、スコットランド王を退位する訳では無く、一人で二ヵ国の王位を兼任します。
ジェームズ1世はイギリス国王として即位する為、スコットランドからイングランドに向かい、その国境には、イギリス議会の代表が新国王を出迎え、イングランド領に入ったジェームズ1世は議会代表と一緒にロンドンに向かいました。
 
 ロンドンで即位したジェームズ1世は、王権神授説を信奉して、イギリス議会を軽視しました。
ジェームズ1世の言葉を借りれば「聖書の中で王は神と呼ばれており、かくして彼等の権力は神の権力にも例えられる。(王は)臣下全員に対し、あらゆる裁き手で在り、しかも神以外の何者にも責任を負わない。」と言い残しています。
又、ジェームズ1世はイギリス国教会を国民に強制し、ピューリタンを圧迫しました。
商工業者やジェントリにはピューリタンが多く、彼等は議会でも多数の議席を確保していた為、王と議会の関係は険悪な状況に陥りました。

 ジェームズ1世崩御の後、その息子のチャールズ1世(在位1625年~49年)が即位しますが、チャールズ1世も父親同様の思想を持ち、議会に対する強権発動は多数に及び、ピューリタンに対する弾圧は激しさを増し、ピューリタンの布教を厳しく禁止し、反抗者の処罰、国民の権利、財産を無視する様々な行為が続いたのでした。

 議会は国王に対して、議会と国民の権利を尊重する様に要請書を提出します。
今日「権利の請願」(1628年)と呼ばれる要請書で、内容は議会の承認無しに課税を行わない事、法律を無視して勝手に国民を逮捕しない事を王に確認させました。
しかし、チャールズ1世は、絶対主義時代の国王で在る為、議会の要請を履行する事無く、1629年国王は議会を解散、以後11年間に及ぶ専制政治を遂行します。
この期間、チャールズ1世による、イギリス国教会強制政策は、スコットランドの強烈な反発を招き、国王自ら軍隊を率いて反乱鎮圧に向かうものの、反乱軍優勢のまま退却せざるを得ず、その後も、チャールズ1世は戦費不足に苦戦を強いられ、最後にはスコットランド軍が国境線を超えてイングランドに侵攻、国王は賠償金を支払い降伏する事に成りました。

続く・・・


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2012/02/28

人類の軌跡その317:絶対主義のの台頭③

<絶対主義その③>

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 イギリスはスペインに変わり、1600年、東インド会社を設立してアジア貿易に進出。
エリザベス1世の統治は46年間に渡り、その間に国内の宗教問題を解決し、イギリスの国際的地位を向上させ、経済発展の基礎を固めたのでした。

◎絶対主義

 スペインのフェリペ2世やイギリスのエリザベス1世の時代は、其々の国で国王による中央集権化が成立する最後の段階でした。
諸侯や貴族には以前の様な力は無く、国王が比較的自由に国政をリードする事が可能と成り、所謂「絶対主義」が成立して行きました。
国王が、貴族・封建諸侯の権力を制限し、絶対的な権力を握った事から、絶対主義と呼称されています。
フェリペ2世や、エリザベス1世以外にも、エリザベス1世の後継者ジェームズ1世、フランスのルイ14世が有名でした。
絶対主義の政治形態を絶対王政、絶対主義の君主を絶対君主と呼称します。

◎絶対主義の特徴

①「官僚制」「常備軍」

絶対君主が権力を行使する手段として、常備軍と官僚制が不可欠となります。
官僚は、従来の貴族や封建領主に代わって国王の支え、常備軍は、常設軍隊で在り、以前は戦時にだけ傭兵を組織しましたが、平時にも常に軍隊を整備し、国内、国外の敵対対象に備えました。

②「重商主義」

 官僚組織、常備軍は常に維持しなければ成りません。
王は彼らに何らかの形で給与を支給する事に成り、その資金が必要に成ります。
資金を得る為、絶対君主は積極的に海外貿易を推進し、各国が東インド会社を設立した大きな理由はここにあります。
海外貿易を行う事により、国家が繁栄する事は当時の経済理論で、「重商主義」と呼称しました。

③「王権神授説」

 国王とこれに反発する勢力も存在します。
嘗ては封建諸侯、新しく力を伸ばしつつある新興市民階級、国王は国民の反発に対して、王権の絶対性を理論化したものが、王権神授説です。
国王の権力は神から授けられたもので在り、国王の言葉は神の言葉に等しく、国王に逆らう事は、神に逆らう事と同じとする理論でした。
しかしながら、最初に国民が国王の権力に対して異議を申し立てたのも、エリザベス1世以後のイギリスなのです。

絶対主義の台頭終わり・・・

2012/02/27

人類の軌跡その316:絶対主義のの台頭②

<絶対主義その②>

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サー・フランシス・ドレイク

◎エリザベス1世の統治

 イギリス国教会を確立の為、「信仰統一法」を1559年に制定、更にネーデルラント独立戦争を援助しました。
ジェントリが生産した羊毛は、ネーデルラントに輸出される為、ネーデルラントの平和と発展は、イギリスの繁栄に直結していました。
スペインのフェリペ2世は、ネーデルラントに重税を課し、これに反発してネーデルラント独立戦争が始まります。
又、イギリスはスペインと宗教問題でも対立しており、スペイン勢力の駆逐は、直接イギリスの勃興に繋がって行きました。
 
 歴史上極めて例外的存在が、私掠特許状です。
イギリスは、四方を海に囲まれた国で、海賊(冒険商人)も多く、エリザベス1世はこの海賊(冒険商人)に「略奪に関する赦免状」と云う一種の免許状を与えました。
これが私掠特許状ですが、絶対にイギリスの商船を襲う事は許されません。
当時イギリスとスペインは、直接戦争している訳では無く、スペイン船を略奪対象とする根拠は存在せず、国家が承認した犯罪行為でした。
 
 海賊(冒険商人)で有名な人物が、ホーキンズ、ドレイク等で、女王から私掠特許状を交付された海賊(冒険商人)は大西洋に船出し、アメリカ大陸から金・銀を満載してスペインに向かう商船を次々と略奪、スペインに多大な損害を与えました。
特にドレイクは1577年から1580年にかけて、世界一周を成し遂げます。
この航海に先立ちドレイク船長は、エリザベス1世、貴族等から出資金を集め、航海の途上スペイン商船やスペイン勢力化の港を略奪し続け、西回り航路で地球を一周しました。
イギリスに帰還した時、30万ポンドの利益を得ていたと云えられ、この金額は当時のイギリス本国の国庫収入に匹敵し、エリザベス1世は、出資金の4700%の配当金を得たとの逸話も残っています。
ドレイク船長の世界周航は、マゼラン艦隊に継いで二番目の快挙でした。

 最初スペインのフェリペ2世は、エリザベス1世がスペイン船に対する、直接海賊行為を援助している事を知らず、海賊の取締を要請します。
しかしながら、エリザベス1世が援助している海賊行為が収まる理由は無く、やがて、フェリペ2世もイギリス側の行動に気づく時が訪れ、更には、ネーデルラントの独立支援も明白に成りました。
1588年、スペインはイギリス侵略作戦を開始し、スペインの誇る無敵艦隊は艦艇130隻、将兵23,000人を乗せてイギリスに出撃します。
スペインは当時ヨーロッパ最強の軍事力を誇り、一方イギリスは弱小国でした。
エリザベス1世が海賊に私掠特許状を与え、スペイン船の襲撃を許した背景には、貿易分野、軍事分野においても、イギリスには、スペインに対し正面から立ち向かう国力が存在しない事を知っている為で、驚くべき事に、当時イギリスには海軍すら存在しませんでした。
 
 スペインの覇権を取り除き、イギリスの危機を救う為に集結したイギリス海軍、その本来の姿は、私掠特許状を与えられた海賊(冒険商人)達でした。
現在も歴史に名前を残す、アルマダの海戦が始まります。
ドーヴァー海峡に進出したスペイン無敵艦隊の戦法は、伝統的な衝角(ラム)戦法で、自艦の船首を相手の船体に直接接触させて沈没させる、ギリシア海軍以来の戦法でした。

 一方イギリス船は、射程距離の長い(アウトレンジ)大砲を搭載し、文字通りスペイン艦隊を迎え撃ちます。イギリス船は小型艦が多数を占めていましたが、狭いドーヴァー海峡を敏捷に行動し、無敵艦隊に攻撃を仕掛けるには、好都合の艦艇でした。
無敵艦隊の艦艇は大型艦が多数を占め、イギリス船に接近する以前に大砲の射程範囲に入り、猛烈な砲撃を加えられた上、折からの悪天候も重なり、操船も容易ではなく多数の艦艇と人員を失い敗北します。
イギリス側の追撃にも連敗を重ね、大ブリテン島を一周する形でスペインに帰還しました。
最終的に、艦隊の三分の一を喪失しフェリペ2世のイギリス征服は断念せざるを得ず、その後スペインは世界史の主役の座から後退していきました。

続く・・・

2012/02/24

人類の軌跡その315:絶対主義のの台頭①

<絶対主義その①>

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◎イギリス

 イギリスは、ノルマン征服で成立したノルマン朝以来、他のヨーロッパ諸国に比較して、王権が比較的強い伝統がありました。
しかも、1455年から30年間続いた「ばら戦争」で国内の有力な封建諸侯は没落し、「ばら戦争」後即位したチューダー朝のヘンリー7世は、意欲的に王権の強化に努めたのです。
又、この時代から商人、新興地主層の新興市民階級が力を持ち始め、イギリスでは新興地主層を特に「ジェントリ」と呼び、地主として認められていますが、貴族に列するものでは在りませんでした。
ヘンリー7世を継承したヘンリー8世の時代、宗教改革が断行され、イギリス国教会が成立します。

 16世紀、イギリスの農村ではジェントリによる「第一次囲い込み(エンクロージャー)」が盛んに行われました。
囲い込みとは、ジェントリ達が、自分の土地を耕作している小作人を追放し、広大な農地を柵で囲い、その広大な農地に牧草を育て、大量の羊を飼育しました。
羊から羊毛を取り、その羊毛は、ネーデルラントに輸出します。
ネーデルラントは毛織物工業で発展していましたから、その原料をイギリスが輸出し、その為ネーデルラントの発展は、直接イギリス羊毛輸出量の増加、更にはイギリスの発展に直結するものでした。

 16世紀半ば、エリザベス1世が即位、後のイギリス大発展の基礎を築きます。
25歳で即位し、イギリス女王で独身の為、ヨーロッパ各地の王侯貴族から、婚約の話は多々存在しましたが、その中でも、スペインのフェリペ2世は有名です。
最初フェリペ2世はエリザベス1世の姉、メアリと婚姻していましたが、政略の為メアリ崩御の後、妹であるエリザベス1世に婚約を申し込みます。

 エリザベス1世統治下のイギリスは、ヨーロッパ列国の中では弱小国でした。
スペインやフランスの様な大国の狭間で、国家の独立と発展を図ろうと模索していた時代です。
エリザベス1世は、その独身の身分を最大限に利用し、フェリペ2世等、有力者の求婚を逸らし続ける事で、相手からイギリスに有利な条件を引き出す為、自分への求婚を外交手段として最大限利用したのでした。

 最終的にエリザベス1世は生涯独身を押し通し、イギリスの国益を最優先に一生を過ごしました。
エリザベス1世は「私は国家と結婚している」と常々周囲に語り、この言葉は彼女の生涯を象徴しています。
イギリス国民も又、その様な女王を敬愛し、「愛すべき女王ベス」と呼ばれました。

続く・・・


2012/02/23

人類の軌跡その314:大航海以後のアメリカ大陸⑦

<アメリカの征服とヨーロッパの変容その⑦>

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◎ヨーロッパの変貌

 ポルトガルによるアジア貿易と、スペインのアメリカ植民地支配の結果、ヨーロッパ社会は大きく変化していきました。

1)商業革命

大航海時代以前、イタリアを中心とする地中海貿易圏が、ヨーロッパ商業・経済の中心でしたが、ポルトガル、スペインの活動により、両国を中心とする大西洋岸に移動。
現在のベルギーとオランダは、当時ネーデルラントと呼ばれ、スペイン領土の一部でしたが、ネーデルラントは現在のドイツ、イギリス、フランスに近く、商業の中心として成長して行きました。

2)価格革命

 アメリカから大量にもたらされた金銀が、西ヨーロッパにインフレーションを起こします。
金銀の流入が増加しその価値が低下、反対に商品の値段が上昇しました。
アメリカの金銀は、奴隷労働で採掘している為、その採掘費用は極めて少なく、その金銀がスペインやネーデルラントから西ヨーロッパ全体に流入し、西ヨーロッパ地位がアメリカから略奪した富によって豊かに成りました。
商人の中には莫大な富を蓄えるものが現れ、農民でも富農が誕生し、中世以来の封建的な身分制度を急速に変化させて行きました。

3)国際分業の成立

 ネーデルラントは毛織物業が盛んな地域で、スペインの窓口として商業の中心に成り、この地域と経済的に繋がりの深いイギリス、フランス等西ヨーロッパで商業、工業が発展して行きます。
一方、東ヨーロッパでは、西ヨーロッパの工業地帯に輸出する為、穀物や原材料を生産する事が主要な産業に成り、輸出穀物は安い程売れる為、安く穀物を生産する為には、農民の地位が低い方が好ましく、東ヨーロッパではこの頃から農奴制が強化され、領主達は農民の権利を押さえ込んでいきます。

 アメリカ植民地の存在は、国際貿易の環を形成し、東ヨーロッパが穀物、原材料の供給地と成り、西ヨーロッパはこれ等を利用して工業を発展させ、毛織物等の製品を東ヨーロッパやアメリカ大陸に輸出します。
アメリカ大陸では、インディヘナや黒人奴隷の手により、金・銀・砂糖等が生産され、西ヨーロッパを更に豊かにすると共に、アメリカ、アフリカでは資源や人間そのものが収奪され、伝統的な社会が破壊されて行きました。
この商品の流れの中で主導権を握り、最も繁栄するのは西ヨーロッパで、他の地域には、その役割を押し付け続けて行く事に成ります。

アメリカの征服とヨーロッパの変容終わり・・・


2012/02/22

人類の軌跡その313:大航海以後のアメリカ大陸⑥

<アメリカの征服とヨーロッパの変容その⑥>

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◎スペインによる植民地支配

 スペインは、アメリカ植民地を経営する為に、エンコミエンダ制を導入します。
此れは、スペイン人の入植者に土地と現地人に対する支配権を与え、その代償として、入植者は原住民にキリスト教を布教する義務を負います。
この制度は結果として、スペイン人が被植民地の人民を事実上の奴隷とする政策に他成りません。

 最初スペインは、香辛料を求めてアメリカに到達したものの、香辛料は殆ど無いに等しく、結果的にスペインはカリブ海の島々で農園を経営し、サトウキビを栽培、この砂糖をヨーロッパに運び利益を得ようと考えました。
サトウキビ農園で働かされたのは奴隷と成った現地人ですが、彼等は過酷な奴隷労働に耐えられず、更にはスペイン人が持ち込んだ天然痘や「はしか」等の伝染病に対して、免役が全く無く、これも死亡率を高める大きな原因に成りました。
特に天然痘は、インカ帝国の全人口1600万人の60%から95%を死に追いやりました。

 奴隷を補充する為にキューバ島から、アメリカ大陸に奴隷狩りに向かった船が難破、偶然マヤ文明発見の発端を作りました。
最終的に、カリブ海周辺の島々で、先住民は絶滅し、労働力を補充する為にスペインは、アフリカ大陸の黒人を奴隷として送り込みます。
現在、ジャマイカ、ハイチ、キューバ等の国民の多数は、アフリカ系乃至スペイン系の子孫と成りました。

 アステカ帝国、インカ帝国の征服により、スペイン植民地は一気に拡大し、インカ帝国の旧領土では、ポトシに銀の大鉱脈が発見されてスペインに莫大な富をもたらす事に成りました。
多くのスペイン人は、インディヘナを奴隷扱いにした上、彼等に対する虐殺を人間に対する行為と考えておらず、キリスト教を知らない野蛮人に対する、罪悪感も存在しませんでした。

 しかし、スペイン人宣教師ラス・カサスは、インディヘナに対する非人間的な扱いに抗議を唱えました。
この人物は本来従軍司祭として、イスパニョーラ島やキューバ島で現地人の征服に付き従います。
そして村を制圧する方法は、まず、スペイン人達はインディヘナの村に入り、村人を集めスペイン王への服従とローマ教会への改宗を勧告しますが、この勧告はスペイン語で行われ、聞いている現地人達には言葉の意味さえ不明な為、当然降伏も改宗も返答する事は事実上不可能でした。
これをスペイン人は拒否と見做して武力で征服し、時には虐殺も行われ、ラス・カサス自身もキューバ西部カオナオ村で3000人を虐殺した、現場に居合わせました。

 征服戦争に参加した功績でラス・カサスは、土地とインディヘナを手に入れますが、或る日聖書を読んでいて改心し、それ以後、自分の所有していた現地人を解放し積極的にインディヘナの救済運動を開始します。
時のスペイン国王にインディヘナの待遇改善を訴え、その実態に関する報告をヨーロッパに送りました。
相次ぐ反乱や急激な人口激減で、労働力不足も問題に成り、スペイン王カルロス1世はラス・カサスを招いてインディヘナ問題の会議を招集、1543年に彼等の待遇改善の関する新しい法律が発布されます。
効果の程については判断できませんが、当時、現地問題を提起したスペイン人も存在した事は記憶に留めて良いと思います。

 以下は1552年にラス・カサスが記述した『インディアスの破壊についての簡単な報告』の一節を引用します。

「この40年間、又、今もなお、スペイン人達は嘗て人が見た事も読んだ事も聞いた事も無い種々様々な新しい残虐極まりない手口を用いて、ひたすらインディオ達を斬り刻み、殺害し、苦しめ、拷問し、破滅へと追いやっている。例えば、我々が初めてエスパニョーラ島に上陸した時、島には約300万人のインディオが暮らしていたが、今では僅か200人位しか生き残っていないのである。」(染田秀藤訳、岩波文庫)

 結果的には、アンデス山脈の上等、偏狭な地域に生活していたインディヘナ以外、白人と混血するか、殆ど根絶されるに近い状態と成り、スペインは労働力としてアフリカから黒人奴隷を輸入する事に成りました。

続く・・・


2012/02/21

人類の軌跡その312:大航海以後のアメリカ大陸⑤

<アメリカの征服とヨーロッパの変容その⑤>

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◎インカ帝国の征服その②

 アタワルパは、ピサロ一行を運命の町カハマルカで待ちます。
やがてピサロは、使者をアタワルパのもとに遣わして会見を申し込みます。
一方、アタワルパはまず会見に臨み、後にピサロ一行を捕えて奴隷にする魂胆から会見を承諾し、場所はカハマルカ中央の広場と決まります。

 最盛期の人口1600万人、統治下の諸氏族80と兵力で段違いに劣るピサロ側の作戦は、奇襲によってアタワルパを生け捕り、インカ軍の動きを封じる事でした。
ピサロは以前、コルテスから王を生け捕りにする事が出来れば、如何に軍隊が強力でも、スペイン側に平伏す事を聞いており、事前に兵士を広場の周りに配置します。
しかし、スペイン兵の中には圧倒的な敵軍の前に怯え、正気を失う物も居たとも記録されています。

 会見の当日、インカ軍3万は町の広場に入場しました。
其処にピサロは、数人の側近と宣教師を伴い近づいて行きます。
アタワルパは、警護の兵士が担ぐ輿に乗り、ピサロとアタワルパが挨拶を交わした後、宣教師がアタワルパに聖書を渡し、アタワルパは聖書を手に取りページを捲るのですが、インカには文字の概念が存在せず、文字を連ねた本も当然存在しません。
更に、宣教師の言葉は、スペイン語であり両者に意思の疎通を求める事自体、無意味な会見でした。
聖書を渡されても、何の意味も無く、アタワルパが聖書を地面に落とした時、宣教師が「神に対する冒涜だ!」と大声で叫んだのでした。
これを合図に、ピサロは輿に飛び乗るとアタワルパを引きずりおろし、同時に隠れていたスペイン兵が一斉に広場に結集しているインカ軍に対して銃撃を加えました。

 インカ軍にとって、銃は全く未知の兵器であり、突然轟音が轟き、その度に見方の兵士が倒れて行く光景にパニック状態と成りました。
しかも、彼等が終結した広場は、壁に囲まれ、逃げようと出口に殺到した事で混乱に拍車を掛け、押しつぶされて死んだインカ兵も多数存在したと云われています。
大混乱の中でピサロは、アタワルパを生きたまま捕虜とし、王が人質と成ったインカ軍は、抵抗する事が全く不可能に成りました。

 インカ帝国はピサロと200人に満たないスペイン兵によって征服されましたが、捕虜と成ったアタワルパは、ピサロ一行の目的が黄金で在る事に逸早く気づきます。
アタワルパは、自分が囚われている牢獄の中で背を伸ばし、更に真直ぐ伸ばした腕で壁に線を引き、ピサロに告げました。
「この部屋をこの線迄、黄金で満たし、他の2部屋を銀で満たしたら、釈放してくれるか?」
その言葉を聞いたピサロは、当然の様に釈放を約束したので、アタワルパは牢獄の中から帝国の全領土に対して、黄金を集める様に命令を発します。
中央集権的な国で、合理的な通信伝達手段を持っている為、人民は王の命令に従い、町や村、貴族から平民迄黄金が差し出され、極めて短時間に牢獄は黄金で満たされて行きます。
しかし、ピサロが約束を履行する筈は無く、1533年8月、極めて形式的な裁判を開きアタワルパを処刑し、マンコ・インカ・ユパンキを傀儡皇帝として即位させ、インカ帝国を事実上支配しました。

 後にスペイン側の内紛に乗じて、1536年マンコ・インカ・ユパンキは、クスコ奪還に一度は成功しますが、僅かな間に再度クスコを占領され、彼はビルカバンバに後退するも36年間に渡って、スペイン人に対してゲリラ活動を展開しますが、インカ最後の皇帝の子孫、トゥパック・アマルが遂にスペイン軍に敗北。
1572年インカ民族のスペインに対する反抗は、終止符を打ちました。

続く・・・


2012/02/20

人類の軌跡その311:大航海以後のアメリカ大陸④

<アメリカの征服とヨーロッパの変容その④>

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クスコ 現在

◎インカ帝国の征服

 インカ帝国は1533年、コンキスタドールの一人、フランシスコ・ピサロによって滅亡しました。
ピサロは、ヨーロッパ人として、太平洋に到達したバルボアの副官であり、バルボアは黄金を求めてパナマ地峡を探検していました。
ピサロも同様に、このアメリカ大陸の何処かに黄金郷(エルドラード)が存在するものと信じて、一攫千金を夢見ていたのです。
やがてコルテスが、アステカ帝国を滅ぼし、莫大な財宝を手中に収めた話を耳にし、自分も第二のアステカ帝国を発見する事に力を注ぎます。
南アメリカの太平洋岸を南下している途中、現地人から、ペルーの山(アンデス山脈)の上に大帝国が存在する情報を得るものの、探検を行うには、資金、人間、装備が必要で、更に正確な情報提供者を集め、最初の遠征から約7年間の時間を費やし、ピサロはインカ帝国の政治、軍事、地勢等の情報収集を行いました。

 その頃インカ帝国では、前王ワイナ・カパックの崩御に伴い、腹違いの二人の息子ワスカルとアタワルパの間で王位継承をめぐる内紛が起こり、兄のアタワルパが勝利をおさめ13代インカとして、即位しました。
ほぼ時を同じくして、ピサロの一軍は帝国征服為、アンデス山脈に差し掛かります。
ピサロの兵力はコルテスよりも更に少なく、兵168名、馬27頭、大砲1門、対するインカの人口は一千万とも云えられています。

 インカ帝国は、現在のエクアドルからチリ中部迄、アンデス山脈の太平洋岸に連なる長い国で、首都のクスコを中心に道路網が発達、可也の中央集権的な政治機構を備えていました。
歴史的に見れば、部族連合的国家であるアステカ帝国とは大きく異なる部分で、ピサロはコルテスの様にインカに反抗の狼煙を上げる、他の部族を味方につける事は、容易では在りませんでした。

 一方アタワルパは、ピサロ達白人の一行が武器を携えアンデス山脈を進んでいる情報を独自の通信網であるチャスキ(飛脚)により正確に把握していました。
その勢力が200人にも満たない事を知り、アタワルパは疑い、しかも兄弟を倒した内紛の直後で、彼自身3万の兵士を率いているのでした。
そして、ピサロ一行を白き神「ビラコチャ」の再来とも考えていたのです。

続く・・・


2012/02/18

人類の軌跡その310:大航海以後のアメリカ大陸③

<アメリカの征服とヨーロッパの変容その③>

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◎アステカ帝国の征服

 コロンブス以来スペイン人によるアメリカでの植民地経営は、当初キューバ島、イスパニョーラ島が中心で在り、アステカ帝国、インカ帝国の存在知られていませんでした。
原住民の奴隷狩りに向かった船が、ユカタン半島に漂着した事で、初めてスペイン人はマヤ人に接触しました。
マヤ文明は衰退していましたが、マヤ人はそれまでスペイン人が知り得ていたインディヘナとは全く異なる高い文明を保持し、そのマヤ人の情報からアステカ帝国の存在を知ります。

 アステカ帝国の征服を試みた人物がコルテスで、征服に成功すれば莫大な財宝と地位と名誉が手中に出来ます。コルテスは強引で野心的な人物で、キューバ総督の制止命令を無視して遠征に向います。
兵力は約500名、馬16頭、銃50丁と武力としては極めて非力で、対するアステカ帝国の首都テノチティトランの人口は20万人以上です。
国を征服する将兵の数が500名なのは、戦略的にもアンバランスなのです。
この遠征に先立ち、コルテスはアステカ帝国の首都に侵攻する以前に、周辺の民族からアステカに関する詳細な情報収集行います。
アステカ帝国は、メキシコ高地の民族の中では、後発のアステカ族が建設した比較的新しい国家で在り、その強力な武力を全面に利用した支配の為、支配下に在る多くの民族から反感を買っていたのでした。

 支配民族からの反感の例として、宗教儀式に関して、アステカ族は太陽神を信仰していますが、この太陽神の活力が衰える事を防ぐ為、生贄を捧げる儀式を毎日の様に行なっていました。
当然ながら生贄は生きた人間で、彼らはアステカ族に支配された他民族の捕虜でした。
しかしながら、アステカ族以外の民族は、太陽神を信仰している訳では在りませんでした。

 アステカ族以外のメキシコ高原種族を従え、進撃するコルテスの情報を耳にしたアステカ王は、反抗をする事を躊躇します。
この行動には、アステカ族の神である、「ケツアルコアトル」と白人であるコルテス一行を誤解した事に拠ります。
コルテス一行がメキシコ高原に侵入した頃、正に伝説の神「ケツアルコアトル」がアステカ族の前に戻って来ると伝えられた時期と、偶然符号していたのでした。
やがて首都テノチティトランに無血入城したコルテスは、無抵抗のアステカ王を捕らえ、自分の傀儡としました。
その後、王の不甲斐なさに激昂したアステカの人々が、コルテス不在の隙を見てスペイン軍に反乱を起こします。この時に捕えられたスペイン人の捕虜が、太陽神の生贄にされ、コルテス側は反乱を鎮圧する為、多大な労力を費やし、この過程でテノチティトランは徹底的に破壊されてしまいました。
最終的に1521年、スペイン側がアステカ帝国を滅ぼします。

続く・・・(平成24年2月20日改訂)


2012/02/17

人類の軌跡その309:大航海以後のアメリカ大陸②

<アメリカの征服とヨーロッパの変容その②>

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◎大航海時代以前のアメリカ大陸その②


 アンデス高原には、メキシコとは無関係に独自に文化が開花します。
紀元前10世紀にチャビン文化、7世紀にアンデス高原一帯に都市を建設したティアワナコ文明、トウモロコシ、ジャガイモ栽培、家畜ではアルパカやリャマを飼育します。
この文化を継承する形で15世紀頃に成立したのがインカ帝国(タワンティン・スーユ)です。
首都クスコを中心とした道路網を整備し、中央集権的な国家を建設していました。
クスコの町に今も残る石積みの壁は、全く隙間が無くカミソリの刃一枚通らずない、高度な石造建築が残されていますが、このインカ文明は、文字を知りませんでした。
但し、文字の代わりにキープと呼ばれる記録方法を用い、縄を結んでコマをつくり、その結び目の形や数で数字を表しました。
主たる目的は、税の徴収を記録する為と思われます。

 メキシコ高原のマヤ、アステカ、アンデスのインカに共通するのは、基本的に是等の文明は孤立し、高度な石造建築術や複雑な暦法を創造しているにも関わらず、旧大陸で当たり前の物を知りませんでした。
例えば金属に関して、金、銀、青銅は利用しているものの鉄器を知らず、更に興味深いのは車輪を知りませんでした。
更にコロも使われた痕跡が無く、巨大な石材を如何にして輸送したのか現在も不明です。
動物では馬が原生して居ないので当然ですが騎馬を知らず、マヤ人達はスペイン人の乗馬姿を見て、その姿を一つの動物だと思ったと伝えられています。
鉄器も持たず、馬に乗る事も無いアメリカ先住民達が、スペイン人が侵入した時、簡単に征服された事実は、ある意味、当然かもしれません。

 トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、トマト、唐辛子、アメリカ大陸原産の農作物で、トウモロコシやジャガイモは旧大陸にもたらされ、瞬く間に世界中に広がります。
特にジャガイモは、寒冷で痩せた土地でも収穫が可能な為、世界中で多くの人を飢餓から救う事と成りました。
唐辛子もアメリカが原産地です。
コロンブスがアメリカ大陸をヨーロッパ人として確認した年が、1492年。
その百年後、豊臣秀吉の朝鮮出兵が行われますが、この時に秀吉の軍が朝鮮にもたらしたのが唐辛子だと伝えられ、百年間で唐辛子は地球を一周しています。
反対に病気では梅毒が在り、アメリカにのみ存在したのですが、コロンブスが早速ヨーロッパに持ち帰り、日本で初めて梅毒の記録が現れるのが1512年です(!)。

続く・・・


2012/02/16

人類の軌跡その308:大航海以後のアメリカ大陸①

<アメリカの征服とヨーロッパの変容>

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◎大航海時代以前のアメリカ大陸

 コロンブスの到達以来ヨーロッパ人が続々とアメリカ大陸に来航する事と成ります。
アメリカ大陸の先住民は、約2万年前アジアから到達した、モンゴロイドで在り、シベリアとアラスカの間、ベーリング海峡が結氷していた時代、徒歩で往来したものです。
彼等はやがて南北アメリカ大陸と周辺の島に広がり、中央アメリカのメキシコ高原と南アメリカのアンデス高地に高度な文明が発展します。

 メキシコ高原は紀元前6000年頃、農耕文化が成立します。
主な農作物はトウモロコシが主力作物で、本来アメリカ大陸には小麦、米等穀物は原生していません。
因みに家畜の種類も少なく、アンデス高地にはアルパカ、リャマ等駱駝科の家畜が存在しますが、メキシコ高原には居ませんでした。
 
 メキシコ湾岸地域に最初に現れる文化が、紀元前9世紀頃のオルメカ文明。
オルメカ文明を基礎に紀元前2世紀頃、メキシコ高原を中心に発展したテオティワカン文明です。
マヤ文明は、ユカタン半島で開花しました(3世紀~103世紀)。
マヤ文明は、オルメカ文明の影響を受け成立し、石造りのピラミッドや神殿等、巨大な遺跡が現在に残され、複雑な象形文字も現存しています。
マヤ文明は10世紀を境に衰退し、スペイン人がこの地域に侵入した時、マヤ人達は先祖の様に巨大な建造物を造る力を有していませんでした。

 メキシコ高原では、テオティワカン文明の後、トルテカ文明が引き続いて栄え、数々の民族が興亡を繰り返しますが、スペイン人が侵入した時に繁栄していた国が、アステカ帝国で在り、首都はテノチティトラン、人口20万を数える当時の世界で最大級の大都市でした。
テノチティトランはアストラン湖の中に浮かぶ島で、島に渡る為の堰堤が三本在り、初めてこの都市を見たスペイン人達は、その壮麗さに驚いたと伝えられています。
現在、アストラン湖は消滅し、その場所にメキシコシティが建設されており、アステカ帝国はスペイン人によって滅亡し、テノチティトランも破壊されたのでした。

続く・・・


2012/02/15

人類の軌跡その307:大航海以後④

<スペインとオランダその④>

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◎日本に於ける対外貿易

 スペインからネーデルラントへの貿易主役交替は、日本の歴史でも歴然とした事実でした。
戦国時代、盛んに日本に来航していたのは南蛮人と呼ばれたスペイン、ポルトガルでした。
西暦1600年、オランダ船リーフデ号が初めて日本に辿り着きました。
実はこの船は2年前の1598年オランダを出帆し、胡椒を買い付ける為にインドネシア方面に向かっていましたが、嵐に遭遇後漂流して、現在の大分県近くの海岸に漂着したのでしたもので、出航時110名を数えた船員の殆どは死亡し、生存者は僅か24名、当時の海外貿易が如何に命がけの航海か理解出来ると思います。

 時代は関ヶ原の戦いの直前、徳川家康は世界情勢にも関心が高く、リーフデ号乗組員のオランダ人達から情報収集しました。
後に彼等の殆どはオランダに帰るのですが、徳川家康の意に沿って日本に残留を決意した人物が、ヤン=ヨーステンとウィリアム=アダムスでした。
ヤン=ヨーステンは、屋敷が江戸に与えられ、その屋敷跡が八重洲と成りました。
ウィリアム=アダムスはオランダ人では無く、イギリス人でイギリスがネーデルラントの独立を支援した結果で、彼のリーフデ号での職種は水先案内人、羅針盤等の計測儀を頼りに船の航路を決めていく重要な役割です。ウィリアム=アダムスは、徳川家康の外交顧問と成り、三浦半島に領地を与えられ、三浦按針(みうらあんじん)と名乗ります。
 
 これ以後、オランダ、イギリスの商船が日本に来航する様に成りますが、オランダは、宗教活動を一切行わず、商業活動に徹し、イエズス会宣教師を常に伴うスペインを打破、やがて日本貿易を独占します。
ヨーロッパでの力関係の変化が、そのまま日本との貿易にも反映されているのです。

スペインとオランダ終わり・・・
2012/02/14

人類の軌跡その306:大航海以後③

<スペインとオランダその③>

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◎オランダの台頭

 フェリペ2世時代にスペインの領土で在ったネーデルラントは、現在のベルギー、オランダの地域で在り、古くから商工業が発達し、経済的に繁栄していました。
地理的には東ヨーロッパと西ヨーロッパ、イギリスを結ぶ交通の要衝で、ハンザ同盟都市として繁栄、毛織物工業が隆盛し、百年戦争の原因の一つはこの地域の帰属問題でした。
ネーデルラントでは、富裕な商工業者の発言力が強く、彼らがこの地域の牽引役であり、宗教はカルヴァン派が多数占めます。
カルヴァン派は蓄財を認めますから、商工業者に信者が多く、ネーデルラントの人々は経済的な利害を共にし、団結力が在りました。
傑出した英雄や指導者は存在しませんが、市民達一人一人が協力して、ネーデルラントを発展させました。

 ネーデルラントの人々の立場では、自分達の住む「地域」は、封建領主の結婚で所有者が変わり、スペイン、フェリペ2世の領土に成っているだけで在り、スペインに対して忠誠心は存在しません。
フェリペ2世は、ネーデルラントの都市に重税を掛け、更には宗教もローマン=カトリックを強制しました。
この様な要因が重なり、1568年、ネーデルラントの人々は独立戦争を開始したのでした。

 指導者はネーデルラントの名門貴族オラニエ公ウィレム。
フェリペ2世はスペインから軍隊を派遣、ネーデルラント側との戦いが開始されました。
当時スペインは強国ですから、その軍事力は強大で在り、その最中ネーデルラント南部10州が独立戦争から脱落します。
南部はローマン=カトリックの信者が比較的多い事も脱落の原因でした。
これに対して、北部の7州は、粘り強く戦闘を継続、1579年ユトレヒト同盟を結成します。
ここで重要な事は、ネーデルラントは本来統一国家では無く、都市、州等の地域毎に団結していました。
ユトレヒト同盟は1581年に独立を宣言、ここにネーデルラント連邦共和国が成立しました。
但し、スペインはネーデルランドを放棄した訳では無く、この後も戦争は続いて、1609年スペインと休戦条約が締結され、事実上の独立を達成しました。
因みに脱落した南部10州は、後のベルギーと成ります。

 ネーデルラント独立戦争は、イギリス女王エリザベス1世がネーデルラント側を援助しています。
ネーデルラントの商人達は、スペインとの戦争中も、海外貿易を活発に繰り広げていました。
当時、海外貿易に利用できる大型帆船は、ヨーロッパ全体で2万隻、その内ネーデルラント船籍の船が1万6千隻でした。
17世紀前半のネーデルラントは、最先端の造船技術を誇り、フランス等から新教徒の商工業者が多数ネーデルラントに移住し、ヨーロッパの中で唯一無二の経済的な地位を獲得、アムステルダムは国際商業・金融の中心として繁栄しました。
その貿易の中心を担う事と成るのが1602年に設立されたオランダ東インド会社で、この場合、東インドと云う名称は、正にアジアを意味しています。
コロンブスがアメリカ大陸をインドと思いこんだ影響で、アメリカ大陸方面をインドと呼ぶ慣習が出来、実際のインドと区別する為にアメリカ大陸一帯を西インド、インド亜大陸及びアジアを東インドと呼ぶ習わしが存在した名残です。
やがて、オランダは衰退の一途を辿るスペインに代わり、アジア・アメリカ貿易を手中に収める事と成ります。

続く・・・

2012/02/13

人類の軌跡その305:大航海以後②

<スペインとオランダその②>

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無敵艦隊の敗北

◎スペインの繁栄と衰退②

 スペイン王としては息子のフェリペ2世(在位1556年~1598年)時代、彼は太陽王と呼ばれ、この王の時代、スペインは、陽の没する事の無い帝国と呼ばれ、最盛期を謳歌します。
フェリペ2世の相続した領土の内、ネーデルラントは特に重要で、宗教的にはローマン=カトリック(旧教)、対宗教改革の中心と成り、新教諸派を弾圧しローマ教会を保護しました。
1571年には、レパントの海戦でスペイン艦隊は、オスマン=トルコ帝国海軍を撃破、オスマン帝国は陸軍海軍共に、当時破竹の進撃を行い地中海に覇権を伸ばし、ヨーロッパ諸国の軍隊は連戦連敗の中、この勝利はスペインに大きな自信を与えました。
さて、レパントの海戦でオスマン海軍を撃破したスペイン艦隊は「無敵艦隊(アルマダ)」と呼ばれ、『ドン=キホーテ』を著した文豪セルバンテスがこの海戦に参加して、片腕を失ました。

 1581年には、フェリペ2世の母親がポルトガル王家出身の為、ポルトガル王位も兼ね、ポルトガルは既にアジア方面に多くの商館を建設していましたから、これも総てフェリペ2世の支配下に成りました。
全世界にスペインの領土が存在し、この時代のスペインを名実共に「陽の没する事の無い帝国」と成りました。

 経済的には、アメリカ大陸から黄金がスペインに流入し、ネーデルラントはヨーロッパでも商工業が発展した豊かな地域で、この地から納税される税金も多額に成ります。
フェリペ2世は、この有利な条件を利用して、上手に国家経営を行う事も可能ですが、これに失敗。
彼の時代から400年を経た現在、スペインには嘗て世界の富を手中に収めた黄金時代の面影は無く、ヨーロッパ諸国ユーロ圏の中で、経済的大問題に遭遇している国家の一つに成りました。

 フェリペ2世は、その莫大な国家収入を国土の開発、産業の振興等、更にスペインを発展させる投資を行わず、軍隊の拡充や宮殿の造営に当て、やがて無尽蔵と思われたアメリカ大陸の金銀もやがて枯渇し、重税に喘ぐネーデルラントの人々が、スペインからの独立戦争を始め、スペイン・ハプスブルグ家フェリペ2世の手元には何も残りません。
彼の治世にネーデルラントが独立戦争を開始し、スペイン無敵艦隊もイギリス海軍に撃破され、フェリペ2世の晩年からスペインは急速に衰退して行きました。

続く・・・

2012/02/10

人類の軌跡その304:大航海以後①

<スペインとオランダ>

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スペイン王カルロス1世・神聖ローマ帝国カール5世

◎主権国家の成立

 大航海時代と同時期、イタリアを舞台に戦争が起こりました。
是をイタリア戦争(期間1494年~1559年)と云い、分裂状態に在ったイタリアの支配権を巡り、ドイツ皇帝、フランス王、スペイン王が覇権を競った戦争でした。
複雑な国際関係が、当時既にヨーロッパには誕生し、ヨーロッパはこの時期に成り、漸く国家が成立してきました。
正確に言えば「主権国家」です。

 以前、主権国家は存在せず、例えばイギリス国王がノルマンディー公として、フランス王の家臣として存在していました。
現実問題として、王の権力が及ぶ範囲が明確で無く、又その様な混沌とした世界が中世ヨーロッパでした。
商工業の発展に伴い、商工業で経済力をつけてきた市民階級を味方にした王が政治の中心として確固たる地位を得、その王達が主権を争ったのがイタリア戦争でした。
 
主権国家と云う国家は、誕生してまだ500年程度歴史しか存在せず、アジアや古代国家、は主権国家では無く、「王朝」国家と考えられます。

◎スペインの繁栄と衰退

 コロンブスをアメリカ大陸に送り出したスペインは、16世紀になって絶頂期を迎えます。
その絶頂期を迎える国王は、カルロス1世(在位1516年~1556年)、母親がスペイン王女の家系で在り16歳でスペイン王位に就き、父方の祖父がハプスブルク家神聖ローマ皇帝出身の為、彼はハプスブルク家の出身となります。
スペインだけでなく、ハプスブルク家の領地も相続するので、カルロス1世の領土は膨大な広さを誇り、スペインはもちろん、ネーデルラント、オーストリア、南イタリア等、そしてアメリカ大陸の殆どの部分をも領土と成りました。
 
 更に、1519年には神聖ローマ皇帝に選定され、神聖ローマ皇帝としての名前はカール5世。
皇帝は、宗教改革と其れに伴う内乱、オスマン=トルコ帝国によるウィーン包囲等、困難な問題に直面し、大事件が続発しました。
結局、宗教改革の混乱は、アウグルブルグの宗教和議(1555年)で収拾されますが、この時にカール5世は退位し、オーストリア領地と神聖ローマ皇帝の地位を弟フェルディナントに継承させ、スペイン、南イタリア、ネーデルラント、アメリカ植民地を息子フェリペに譲りました。
この結果、ハプスブルク家は、オーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に別れます。
カルロス1世は神聖ローマ皇帝カール5世としての活動が、歴史上重要で、スペイン王としての影は薄く、彼は、生まれも育ちもフランドル地方、今のフランス北部からベルギー一帯の為、スペイン語が流暢に話せたのかは疑問です。

続く・・・

2012/02/09

人類の軌跡その303:新大陸へ⑦

<大航海時代⑦>

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◎クリストバル=コロン以後その②

 マゼラン以前にも、アメリカ大陸を抜ける海峡を探検した船乗りは多く存在しますが、例えば、ラプラタ川の河口は、100km以上の距離が在り、川とは思わず大陸を抜ける海峡と信じて、何日も航海続け、試しに海の水を汲むと塩辛く無い事から、川だと解って引き返す程でした。

 更にマゼラン海峡は潮流が速く、風も強い海峡で、現在でも航路としてはあまり使われていません。
実際、マゼランの海峡通過以前に5隻の船団のうち1隻は難破、1隻は逃亡します。
マゼラン海峡を抜けて、アメリカ大陸の西側に出たマゼランは北上を開始します。
当時、太平洋に関する知識は皆無で、北に進めばインドに着くと思われましたが、何処迄も大海原が続き、進路を西に取ります。
西廻りインド航路開拓が目的ですが、当時未知の太平洋を横断する勇気には驚きます。

 マゼラン一行は太平洋進む事98日間、陸を全く見る事無く航海を続け、当然食糧は尽き、船の中のネズミやアブラムシを捕食し、其れをも食べ尽くすと、今度は船材のおがくず、革、帆等を口に入らざるを得ませんでした。
1521年3月、漸く辿り着いた陸地がグアム島で、偶然に任せて船を進め、良くぞグアム島の様な島に着いたと言わざるを得ません。
西への航海は続き、4月にはフィリピンに到達、マゼランはポルトガル時代にアジアに航海した経験が在る為、フィリピンの言葉を聞いてアジアに着いた事を確信します。
インドは近い!
マゼランは、この地の人々を征服してスペインの領土とする事を考え、セブ島やマクタン島で島民とトラブルを起こして戦闘に成り、マクタン島ではマゼラン自身が戦闘で命を落とします。
この戦闘の勝者は現地部族の指導者、ラプラプ王でした。
マゼランは非業の死と考えられますが、現地人達の立場では、征服者を撃退したラプラプ王は英雄なのです。

 戦闘で船員も更に減り、残された一行108人は2隻のうち1隻をこの地に遺棄して、更に西へ向かいます。
11月にモルッカ諸島に到達、別名香料諸島、香辛料の原産地で、一行は此の地で香料を初めて手に入れましたが、モルッカ諸島は、既にポルトガルの勢力圏で在り、若しポルトガル船に遭遇すれば、間違いなく攻撃を受け撃沈される運命でした。
船は既に戦闘行動は疎か、通常の航海も危険な状態に陥り、ポルトガル船に遭遇せずに無事故国スペインに辿り着く事は極めて困難と思われました。
この様な状況から、モルッカ諸島に残留希望者が多く、スペインに向けて出帆したのは僅か47名、指揮官はセバスティアン=デル=カーノ、指揮する船はヴィクトリア号、マゼラン艦隊最後の一隻でした。
ヴィクトリア号の航路を地図で確認すると、モルッカ諸島から南下、極端に南に進路を取りますが、この航跡はインドネシア、インド、アフリカの沿岸に近づいてポルトガル船に遭遇する事を極端に恐れた事が理解出来ます。

 ヴィクトリア号が香辛料を満載してスペインに漸く帰り着いたのは1522年9月、モルッカ諸島を出帆して更に10カ月後の事で、帰還者は18名に過ぎませんでした。
彼等は命を賭けて、地球が丸い事を実証しましたが、その名前は一般の教科書に記載されていません。
在るのは途中で死んだマゼランだけなのです。

 大航海時代の人物は、ポルトガルのエンリケ航海王子、バルトロメウ=ディアス、ヴァスコ=ダ=ガマ、カブラル、スペインではコロンブス、アメリゴ=ヴェスプッチ、バルボア、マゼラン。
大航海時代に冒険航海を行なった人物は多く、例えばイギリスやフランスは北東廻りでインドに到達可能か否か探索を行いました。
更に北アメリカ沿岸を探検し、ハドソン湾から太平洋に抜ける事は可能か否か等、数多くに失敗の中で、大胆な実行力と勇気、そして幸運に恵まれた一握りの者が歴史に名前を残しました。

 最後にコロンの評価について。
最初にアメリカに到達したコロンは、長い間英雄として扱われてきました。
しかし、一方ネイティブアメリカンからは、その評価に対して多くの疑問の声が挙げられ、コロン以後ヨーロッパ人が続々とアメリカに渡り、その結果、ネイティブアメリカンの暮らしは徹底的に破壊され、現在迄続いているのです。

最後に北アメリカのスー族の言葉を引用して大航海時代を終わります。
「インディアンと云う名前は我々のものではない。道に迷ってインドに上陸したと思いこんだ或る間抜けな白人がくれたものだ。」

大航海時代終わり・・・

2012/02/08

人類の軌跡その302:新大陸へ⑥

<大航海時代⑥>

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アメリゴ=ヴェスプッチ 新大陸到達

◎クルストバル=コロン以後

 コロン以後、多くの探検家が大西洋を横断しアメリカ大陸に向かいました。

1、ポルトガル人の船乗りカブラル

 ヴァスコ=ダ=ガマが1498年第1回目のインド航海から帰った後、ポルトガル政府から、インドに派遣されました。ところがアフリカの西を南下している途中で嵐に流され、大西洋を横断してしまい、漂着した場所が現在のブラジルでした。
コロンブス以来アメリカ方面は基本的にスペインの勢力範囲になりますが、カブラルによってブラジルだけはポルトガル領と成り、現在でも中南米諸国の国語は、スペイン語ですが、ブラジルだけはポルトガル語です。
尚、カブラルが帰国せず、ポルトガル王は、再度ガマにインド航海を命じます。
これが、ガマ二回目のインド航海と成ります。

2、イタリア人アメリゴ=ヴェスプッチ

 彼はアメリカ大陸へ向かった航海者達の記録を検証し、アメリカがアジアでは無い事を論証しました。
アメリカの呼び名は、アメリゴに由来します。

3、バルボア

 アメリカ大陸がアジアとは全く別の土地ならば、インドは更にアメリカ大陸の先に存在する事に成ります。
当時の地理的知識は不十分でしたから、アメリカ大陸の姿も判明せず、多くの探検家がアメリカ大陸の向こう側に抜け様と探索を行いました。
アメリカ大陸で、東西が一番細い箇所がパナマ地峡で在り、この場所を横断して太平洋を初めて望見した人物がスペインのバルボアでした。
彼は黄金を求めて、探検していて偶然パナマ地峡を横断しました(1513年)が、特にアジアに繋がる海を探索していた訳では在りません。

4、マゼラン

 マゼランは、ポルトガルの船乗りで、インドやマラッカに航海した経験も豊富でしたが、待遇問題でポルトガルに不満を感じてスペインに移ります。
ポルトガルはインド航路で巨万の富を手中に収め始めていた時期でも在り、スペインも早く西廻り航路でインドに到達したいと考えていました。
マゼランは、この実現を期待されて1519年、5隻の船に約250人の船員を乗せて出帆、南米大陸南端の海峡、後にマゼラン海峡と名付けられた、この荒れ狂う海峡を通過して太平洋に出たのは有名です。
そのまま彼は、世界周航を成し遂げました(1519年~1522年)。

続く・・・


2012/02/07

人類の軌跡その301:新大陸へ⑤

<大航海時代⑤>

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◎クリストバル=コロンの航海

 コロンは、1492年8月3日パロス港を出帆、コロン自ら乗るのがサンタ・マリア号、積載能力150t、全長23m、幅7.5m、三本マストの当時としてはごく普通の船でした。
残りの二隻はピンタ号とニーニャ号、こちらはサンタ・マリア号の約半分の大きさです。
しかし、乗組員は、なかなか集まりませんでした。
前人未到の西廻り航路で、インドに(辿り)着く事が可能なのか、途中で世界の端に存在する(と信じられた)大滝に落下するとも云われ、苦肉の策で、囚人も帰還後の特赦を条件に乗船させた為、未熟練者が多数を占める事と成りました。

 出帆後約2ヶ月間陸地を見る事無く、西への航海が続き、陸地が見えない事に船員の不安が高まり、反乱勃発寸前に迄なりますが、コロンは成功時の報酬を上乗せし、時には脅し航海を続け、遂に10月12日に現地ではグアナハニと呼ばれる島を海上に望見し上陸しました。
この島が、現在のサン・サルバドル島です。

 以前、ヨーロッパ人に取って歴史的発見をコロンの「新大陸発見」と伝えていました。
しかし、アメリカ大陸には数万年前から人類が居住し、この表現はヨーロッパ人の「新大陸」「発見」でしか無く、現在では、ヨーロッパ中心の偏った表現として意識的に避けられ、「大航海時代」と呼ぶ事が今では一般的です。
更に、この航海でコロンは西インド諸島の島々を探検しましたが、アメリカ大陸本土には到達していません。
サン・サルバドル島に上陸したコロン一行は、此の地をスペインの領土と宣言します。
その後約三ヶ月間コロンブスは、周辺の海域や島々を探索し、インドへの入り口を探査します。

 この間にもコロン艦隊には事件が発生し、11月にピンタ号が行方不明に成り、12月にはサンタ・マリア号がハイチで座礁し、残りはニーニャ号一隻だけと成りました。
全員の乗船は不可能であり、サンタ・マリア号の材木を利用して砦を造り、39名を残して1月、コロンは帰路に就きました。
香辛料の発見は出来ませんでしたが、インド(カリブ海)周辺に到達し帰還した事は事実で、コロンの航海は大成功として受け取られ、彼はイザベラ女王の前で報告会を開き、持ち帰った金を女王に献上し、連れ帰った7人の原住民に賛美歌を歌わせました。

 1493年、コロンは第2回目の航海を行い、今回は17隻の大船団を率い、総勢1500人の探検隊を組織しますが、ハイチの砦に戻ると残留した船員39名は、原住民の襲撃を受けて全滅していました。
香辛料の発見は今回も叶わず、香料発見に関する目的は完全に失敗で在り、最終的にコロンは、合計4回の大西洋横断航海を実施しするものの、到達した場所がインドの一部で在る証拠を遂に発見できず、コロンが到達した場所はインドやアジアではないとの主張も日増しに多く成り、コロンは失意の晩年をおくりました。

続く・・・

2012/02/06

人類の軌跡その300:新大陸へ④

<大航海時代④>

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◎大西洋 

 ポルトガルはアフリカ大陸を南下してインド航路を開拓しましたが、当時のスペインは、ポルトガルに完全な遅れを取っていました。
バルトロメウ=ディアスが喜望峰に到達した段階(1488年)で、ポルトガルが直接インドに到達出来る事は既に可能でした。
ポルトガルは、人命を掛けて開拓したインド航路の独占を考える事は当然で、他国の船団がアフリカ西岸を南下出来ない様、早急に対抗策を実行に移して行きます。
「ギニア海岸に接近した外国船は、直ちに撃沈又は捕獲さるべき事。拿捕した船の士官と乗組員は、この方面に棲息するサメ群の中へ投げ込まれるだろう」
上記の文章は、ポルトガル王ジョアン2世の1481年布告で在り、既に喜望峰到達以前から、航路独占を視野に収めている事が理解出来ます。
1491年にはベニン湾のエル・ミナに大規模な要塞と倉庫の建設を開始します。

 従って、スペインがアフリカを廻ってインドを目指す事は、既に非常に難しい状態で、この時に登場する人物が、クリストバル=コロンで、彼はイタリア、ジェノバ出身の船乗りで、商売の関係からポルトガルの有力者の娘と結婚し、アフリカ沿岸の航海も経験しており、更にこの頃からコロンブスは地理書等を研究し、西廻りインド航路に関する研究を始めています。
当時イタリア人の地理学者トスカネリが「地球球体説」を唱え、コロンは西廻りでインドに到達する可能性を問い合わせ、賛成意見を貰いました。

 コロンはアラビアの地理書やマルコ=ポーロの『世界の記述』等、当時取得し得る限りの情報を収集し、大西洋を横断すれば、インドに到着可能と確信し、自分の計画をポルトガル国王に売り込みます。
しかし、当時ポルトガルでは、アフリカ廻りのインド航路開拓が着々と進行中であり、ポルトガルは彼の計画を受け入れませんでした。

 コロンは自分の計画をスペイン、イギリス、フランス等海洋進出に関して、ポルトガルに遅れている大西洋岸の国々に売り込ますが、協力する国は現れませんでした。
その理由として、成功するか否かが全く不明、しかも遠洋航海は当時莫大な費用を要し、一種の冒険に出資する価値を国家が見出せない事に在ります。
例えば、16世紀初頭ポルトガルが、インドに船団を送る為の費用は、1年で22万クルザードが必要でした。
ポルトガル王室は、その内5万クルザードしか用意できず、残りの資金はジェノバ、南ドイツの商人等からの借金で賄われ、大船団をインド迄送る事は、王室の財源だけでは賄えない程、莫大な資金が必要でした。
従って、当然コロンの計画を実行すれば莫大な資金が必要と成り、しかも成功するか否か一切の保障が無いのですから、如何なる国も躊躇してします。

 1492年、スペインがグラナダを陥落させてレコンキスタが終了し、財政的にも余裕ができたスペイン女王イザベラは、コロンの計画を受け入れる決定をします。
この時コロンは、スペイン政府に対して成功報酬も要求しています。 
その内容は、以下
1、インドで発見した宝の10分の1を自分の財産とする事。
2、発見した土地の総督と副王の地位。
3、大洋提督の称号授与。
4、スペイン貴族に列する事。
以上でした。

続く・・・

2012/02/04

人類の軌跡その299:新大陸へ③

<大航海時代③>

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◎ヴァスコ=ダ=ガマの航海について

 ヴァスコ=ダ=ガマのインド航路開拓は、やはり遠洋航海であり、命がけで在る事に変わりは在りませんでした。彼等の一行は、リスボンを出港する時170名の船員が在籍して居ましたが、帰国を果たしたのは44名。
残りの船員は航海途中で命を落として居るのです。
原因は壊血病、ビタミンC不足で起きる病気で、当時の長期間に及ぶ航海で、船員達は新鮮な野菜や果物を食べる事が不可能なので、必ずと壊血病になり、関節が膨張し歯茎から血が流れ出して止まらず、やがて死に至る病気でした。
ヴァスコ=ダ=ガマの航海では、彼の弟も参加していたのですが、この人も壊血病が原因で亡くなり、大航海時代当時の船員達には、逃れられない病気でした。

 従って、この時代の船乗りは本当の意味で冒険家(命知らずの破落戸者)です。
この様な船乗り達を統率する船長は、ディアス、ガマ共に、相当に勇ましい性格の持ち主と想像されます。
では、危険な遠洋航海に参加する理由は何かと言えば、無事に故国へ期間した時の報酬の大きさでした。
一攫千金を夢見る連中が海に出て行くのですが、危険率が極めて高い航海には、誰も参加しません。
コロンブスの航海では、船乗りがなかなか集まらず、遂には航海終了後の釈放を条件に囚人を乗せたと伝えられています。

 1502年、ガマは二度目のインド航海に出発しました。
二度目は、前回の様な轍を踏まず、しかし、正当に取引を行なっても大量の香辛料を買い付ける事は出来ません。今回、ガマは軍事力を背景に商売(!)を強行し、15隻の大船団を組んでインドに到着すると、武力を背景にして太守を恫喝をし、香辛料を手中に収めました。
ヨーロッパとアジアの歪んだ関係がこの時から始まりました。

続く・・・

明日2月5日で、ジロくんは6歳に成ります。
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2012/02/03

人類の軌跡その298:新大陸へ②

<大航海時代②>

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 ポルトガル、スペインが香辛料貿易を実行に移そうとしたその時期、地中海交易はイタリア商人に独占されており、別のルートでインドに直接到達する方法を模索する事に成ります。
この時期に羅針盤の改良が行われ、地球球体説も学説として登場し、遠洋航海への技術的な裏付けも整備されてきました。
マルコ=ポーロの「世界の記述(東方見聞録)」が発表され、アジアへの関心も高まり、コロンブスの読んだマルコ=ポーロの本が現存しています。
以上の様なアジアへの関心が高まり、インドとの直接貿易の欲望が台頭して大航海時代が訪れるのです。

◎インド航路

 大航海時代の先駆けと成った人物は、エンリケ航海王子(1394~1460)で、ポルトガル王子でした。
ヨーロッパ中から腕利きの船乗りを雇入れ、アフリカ沿岸の探検航海を指揮した人物でした。

 エンリケ航海王子の時代は、現実問題として船で直接インドに到達出来るとは考えられていませんでした。
なぜエンリケは、如何なる理由で探検航海を指揮したのでしょう?
まず、レコンキスタの延長で、アフリカに在るイスラム勢力拠点の攻略が最初の動機であり、更に、アフリカ西海岸の調査が在り、これが後のインド航路開拓への基礎に成ります。

 当時の航法は、近海航法で、常に陸地が見える場所を航海します。
大変合理的に思えるこの航海航法は、現実的には大変危険な航法で、陸地が見えるのは水深が浅く、沿岸には島も暗礁も多く存在し、座礁、沈没の可能性が極めて高いものでした。
後に、遠海航法が確立されて、船乗り達はコンパス等の計測儀を頼りに沖合を航海する様に成りました。

 エンリケ航海王子の死去の後もポルトガルは、アフリカ沿岸探検を継続します。
又、アラビア半島等陸上ルートの探索から、インド洋が閉じた海でなく、大西洋と繋がっている事が朧げながら判明し、インド航路の実現が現実視される様に成りました。

 1488年、バルトロメウ=ディアスが、アフリカ南端に最初に到達しました。
ポルトガルに帰還したディアスは、熱狂的な歓迎を受け、アフリカ南端を確認し、インドへの航路の存在を実証しました。
宮廷で航海の経過報告が行われ、その席には後にアメリカへ到達する事になる、コロンブスも出席していました。
「嵐の岬」は後にポルトガル王により「希望の岬」と改名され、喜望峰の名称が定着して行きます。

 ポルトガルが実際にインドに到達するのは、この10年後の1498年。
ヴァスコ=ダ=ガマが、インド航路を開拓し、西海岸の港町カリカットに到達しました。
この時、ガマは、喜望峰を回り、アフリカ東海岸の港に立ち寄りながらインドに向かいます。
アフリカ東海岸はインド洋を囲む商業圏の一部で在り、イスラム商人やインド商人が既に大規模な取引を展開していました。
彼は現地のイスラム商人をアフリカ東海岸で雇い入れ、水先案内人としてインドに向かったのでした。

 カリカットは、街に香辛料が溢れ、これを仕入れてヨーロッパに帰れば、巨万の富を得る事は間違い在りません。
ガマは早速、カリカットの太守に挨拶に向かいますが、その宮殿で故国ポルトガルとインドの圧倒的な富の差を実感する事と成りました。
貿易取引を太守に許されて、一行は、ポルトガルから運んできたヨーロッパの商品を売り、香辛料を買い付けましたが、ガマ達のヨーロッパ製商品は、インドでの値打ちは無いに等しく、散々に買い叩かれて僅かな香辛料しか買付け出来ませんでした。
取引終了後、ガマはカリカット太守の下に出向きますが、この時に商業税と港の使用料を請求されます。
ところが、彼らの資金は全部香辛料の買い付けに使われており、税金と使用料を払う余裕が無く、税金未納のままに出港を強行します。
ポルトガル国王の使節として、恥ずかしい行為でしたが、ポルトガルに帰国するとカリカットで仕入れた香辛料は、買い付けた60倍の値段で取引されました。
これ以後、ポルトガル政府は次々と貿易船をインドに送り、莫大な利益を得る事になります。

続く・・・

2012/02/02

人類の軌跡その297:新大陸へ①

<大航海時代①>

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◎大航海時代とは

スペイン、ポルトガルをはじめとする西欧の国々が、大西洋やインド洋に進出していった時代を大航海時代と呼びます。
15世紀の末から16世紀の初期を指す言葉で、ヨーロッパ人が世界に拡大していく最初の時代に成ります。

◎大航海時代が始まった理由

 当時スペインやポルトガルは、当時建国間もない国家でした。
両国が存在するイベリア半島は、8世紀初頭以来イスラム勢力の支配下に在り、フランスとの国境地帯に住むキリスト教徒の領主達が、少しずつイスラム勢力から領土を奪回していきました。
一般にこの祖国回復運動をレコンキスタと呼び、この戦いで生まれたのがポルトガルとスペインでした。

イベリア半島最後のイスラム教国グラナダ王国が、スペインによって滅亡したのは1492年、コロンブスがスペインの援助でアメリカ大陸に到達したのが同じ年なので、イスラム教徒との抗争の中で、大航海を援助したのです。この時期のスペイン、ポルトガルには猛烈な領土拡大への意欲が存在し、イスラム教徒との抗争の中で養われた、キリスト教の布教と云う宗教的な背景も存在していました。

 更に、両国は王室権力強化の為に財源を求め、海に囲まれたイベリア半島の利点を活かし、海上貿易に着目します。
当時最大の利益をもたらすものが、香辛料貿易でした。
香辛料は軽く輸送が容易であり、高価で取引され、当時のヨーロッパでは同じ重さの銀と交換されました。
当時のヨーロッパ人は香辛料無しでは、食生活が成り立たなかったのです。

 時代の食生活に関して、ヨーロッパは緯度が高く、寒冷な地域で本来農業生産に適していませんでした。
必然的に、小麦等の穀物栽培以外に豚や牛等の家畜も飼育し、森や休耕地で放し飼いが基本でした。
肉は干し肉、薫製等保存の為に加工しますが、その多くは塩漬けにして樽に保存します。
是等塩漬け肉は、冬の食料として、保存されますが冬とは言え肉は傷み、やがて腐りかけた肉等も食べる事になります。
十字軍等を発端に東方の産物である胡椒をヨーロッパ人は知り、胡椒を腐りかけた肉に掻ければ、臭みが見事に消えてしまい、一度胡椒の味を知ると日常的な必需品と成りました。

 地中海交易圏でイタリア商人が、イスラム商人から輸入した重要な商品が香辛料でした。
胡椒は、インド西海岸のマラバール海岸や、ジャワ、スマトラ、マライ半島で栽培されていました。
クローヴ(ちょうじ)、ナツメグはインドネシアのモルッカ諸島周辺のみで、栽培されていました。
どの場所もヨーロッパからは遙かに遠いアジアであり、是等の香辛料はインド商人、アラビア商人、イタリア商人等多くの仲買人を経て運ばれますから、ヨーロッパでの末端価格は驚く程高価に成ります。
胡椒を扱うヨーロッパの小売商人は、風や息で吹き飛ばないように窓を閉め切りマスク着用して、慎重に量り売りを行いました。

続く・・・
2012/02/01

人類の軌跡その296:時には日本について③

<日本武尊③>

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火の鳥 手塚治虫

◎美濃の国へ

 この信濃越えは皇子達一行を苦しめ、深い霧で度々方向を見失い、やがてこの山の神が白い鹿の姿を借りて皇子達の前に現れ、皇子はそれとは知らずにその鹿に蒜(ニンニクの類)を投げつけ、鹿は死んでしまいました。
しかし、それと同時に一行は、たちまち道に迷ってしまいました。
今度は白い犬が現れ、皇子達が導かれる様にその後に従うと、一行は美濃国(岐阜県)に出ることが出来ました。
その山では今まで多くの人が突然病気になったりして苦しんでいたのですが、それより後、蒜を噛んで山に登るとそのような害に遭うことがなくなったそうです。
美濃では皇子達は、越国を迂回した吉備武彦の軍と合流します。
一行は尾張国で休憩を取りますが、ここで皇子は尾張氏の娘の宮簀媛を娶ることになります。

 死を覚悟で出発した東国遠征、尾張まで辿り着き、大和国は目前でした。
皇子は伊吹山に民を苦しめる神が居ると伝え聞き、征伐に向かうのですが、この時、其れまで身から離さなかった草薙剣を初めて外して、宮簀媛に託して山に登ります。
伊吹山に来た皇子を見て、山の神は蛇に変じて皇子の道を塞ぐのですが、皇子は蛇が山の神とは知らず、その蛇を踏みつけて山の奥へと入っていきました。
怒った神は雹を降らせ、霧を出して皇子を道に迷わせました。

 皇子は命からがら山を下り、そのまま宮簀媛の家に戻らず、伊勢を目指しますが、皇子の命数は尽きようとしていました。
鈴鹿の能褒野迄来た時、皇子は余命を自覚し、「東国の遠征は果たしましたが、自分は生きて戻れそうにありません」という天皇への遺言を吉備武彦に託し、その地で亡くなります。

皇子の霊魂はその後白鳥と化し、河内国に至ったと云われます。
そして皇子のお墓は亡くなられた能褒野と、途中その白鳥が立ち寄った大和の御所と河内国の3ヶ所に祀られる事に成りました。
皇子が宮簀媛に託した、草薙剣は結局、尾張氏がそのままお守りする事と成り、その祭祀の為に建てられたのが現在の熱田神宮です。

 なお、この年代ですが、日本書紀の1年をそのまま現在の1年と考えると、紀元110年に成りますが、貝田禎造の推算ではこの時期の1年は現在の3ヶ月に相当するとして紀元367年という計算に成るとの事です。
安本美典の推算では紀元390年頃の計算になりますから、4世紀後半の物語と考えて良いでしょう。

日本武尊終わり・・・