2012/03/30

人類の軌跡その340:アジア貿易③

<アジア貿易その③>

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オランダ東インド会社(正式名、連合東インド会社): Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOC

◎オランダの進出その②

 翌1624年、オランダは台湾南部を占領、現在の台南の近くにゼーランディア城を建設します。
ゼーランディアは、中国と日本に対する貿易拠点として造られたもので、当時の台湾は、如何なる国の領土でも在りませんでした。
この後、オランダは日本との貿易も着々と伸ばしますが、この時期、徳川幕府が徐々に鎖国の方針を固めて行き、ポルトガル、スペインは日本から撤退して行きますが、オランダだけは巧妙に幕府に取り入り、以後日本と貿易を継続する事に成ります。

 例えば、1637、38年、キリシタンの反乱の島原の乱が起きますが、この時オランダはキリスト教国にも関わらず、幕府を援助して海上から原城跡に立て篭る反乱軍に砲撃を加えました。
ポルトガル船が日本への来航を禁止されて、オランダによる日本貿易の独占が始まる時が、島原の乱鎮定後の1639年です。

 オランダは、1641年ポルトガルからマラッカを攻略、1652年にはアフリカ大陸最南端にケープ植民地を建設し、ヨーロッパとアジアを結ぶ重要な中継地点と成ります。
こうして、オランダはアジア航路を確保し、アジア内貿易で蓄積した富をヨーロッパに送る体制を構築しました。

◎「商業の時代」から植民地経営へ

 16世紀から17世紀前半迄、アジアは活気在る「商業の時代」でした。
ところが、17世紀後半から長い不況に入ります。
原因は幾つか在りますが、日本の鎖国もその一つです。
最大の要因は中国の政変で、中国では1644年、明朝が滅亡し、変わって満州から侵入した女真族の清朝が成立します。
一方、明朝の復活を図る勢力が、台湾を根拠地にして清朝に抵抗しました。
この指導者こそが鄭成功で、彼等は中国沿岸地域で軍事活動を展開し、清朝は、これに対抗する為に、1655年以降「海禁政策」を採用します。
海外貿易禁止で、貿易が鄭成功勢力の資金源に成っており、更に、1661年には「遷界令(せんかいれい)」を布告し、福建省・広東省等の海岸から20キロ迄の住民を強制的に内陸部に移住させ、鄭成功達の孤立企てます。
「遷界令」は二十年近く継続しました。
中国は巨大市場で、陶磁器や絹など多くの特産品が在り、この中国が国際交易から完全に消滅した結果、大きな不況をもたらしたのです

 更に、同じ時期にヨーロッパで胡椒の大暴落が発生、香料貿易で以前の様な暴利を望む事は切望的に成った事も原因です。
オランダは商業活動から植民地経営へと政策を転換し、商品を移動させる事では無く、商品を生産する道を選びました。
領有地を拡大し、プランテーションをつくり、コーヒー等を栽培して、ヨーロッパに輸出するのです。
商館を中心とした点の支配から、面の支配に変わり、当然、人も支配する様に成りました。
植民地経営の始まり、その結果、ジャワ島のバンテン王国、マタラム王国等の国々を圧迫していくことに成りました。

アジア貿易終わり・・・

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2012/03/29

人類の軌跡その339:アジア貿易②

<アジア貿易その②>

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オランダ東インド会社 バタヴィア交易船

◎ポルトガルの衰退

 しかし、ポルトガルのアジア貿易独占は長く続きませんでした。
16世紀後半からポルトガル勢力は衰退して行きますが、最大の理由はオランダとイギリスの参入です。オランダ、イギリスと対抗する為、軍事費が増大、その負担に耐えられませんでした。
ポルトガルの当時の人口は150万人、この中でアジア貿易の為、海を渡る事の出来る成年男子は数が少なく、国家の人口規模に比較してあまりにも広大な交易圏を独占しようとした為とも云われています。

 ポルトガルが香料貿易を独占した時、その香辛料の取引量は全体の14%に過ぎず、従来からのインド商人、ムスリム商人がポルトガルをとの競合を避けながら、交易をつづけていたのでした。
例えば、この時期に、スマトラ島西端にアチェー王国、ジャワ島西部のバンテン王国、中部にはマタラム王国が発展してきますが、これらは、ポルトガルを避けて開拓された航路沿いに発達した国々です。

 ところで、16世紀から17世紀前半の東南アジア地域は「商業の時代」と云われる程に貿易が活発でした。
中国明朝の経済発展が著しく、中国貿易が活発になるのは当然の成り行きですが、ポルトガルも中国貿易に進出するものの、1571年にはスペインもフィリピンにマニラを建設して、アジア貿易にのりだします。
スペインは、ポルトガルとは逆回りのアメリカ大陸経由でアジアに到達したのでした。

 堺等日本人商人が、積極的に海外に進出したのも、この時期で、イエズス会のフランシスコ・ザビエルがインドで日本人に出会ったのも、その例の一つです。
他にもタイのアユタヤ朝で活躍した山田長政が有名です。

◎オランダの進出

 オランダは、1602年に東インド会社を設立しました。
そして、ポルトガルを追い落としながら、積極的に植民地経営とアジア貿易の独占をめざしていきます。
東南アジアの各地に商館を建設しましたが、その中心になったのが、ジャワ島中部に建設されたバタヴィア、現在のインドネシアの首都ジャカルタです。
オランダは、更に東の香辛料の特産地モルッカ諸島にも根拠地を建設します。

 イギリスも香辛料貿易に参入してきます。
しかし、当時はオランダの方が強く、後発のイギリス勢力を、東南アジアからの駆逐を企てて発生した事件が、1623年のアンボイナ事件です。

 モルッカ諸島のアンボイナに、オランダの商館がありました。
商館の機能よりも、要塞の性格に近い施設ですが、1623年2月、この要塞に日本人の傭兵が入り込みます。
この日本人はイギリス人に雇われた傭兵で、当時の日本では応仁の乱以来、戦国の世が長く続いていましたから、傭兵としての価値を見出され、アジア各地で活躍していました。
当然、オランダ側はこの行為を不審に思い、イギリス商人たちを捕らえて尋問します。
実際は可也激しい拷問を加え、苦痛に耐えかねたイギリス商人たちは、オランダ商館襲撃計画を告白しました。
その結果、オランダはイギリス商人とその仲間を処刑しましたが、この事件をアンボイナ事件と呼びます。
処刑されたのはイギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1人でした。
この事件を発端とした、イギリス勢力はモルッカ諸島から撤退、同年に日本に在った平戸商館を閉鎖し、オランダによる香料貿易の独占が実現したのです。

続く・・・

2012/03/28

人類の軌跡その338:アジア貿易①

<アジア貿易その①>

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長崎のポルトガル船

◎ポルトガル人の進出とアジア貿易

 ポルトガルはインド航路に如何にして進出して行ったのでしょう?
ポルトガル人が進出する以前から、インド洋には海上交易路が確立されていました。
インド商人、イスラム商人が進出していたのですが、特にエジプトのマムルーク朝が海上貿易を積極的に推進し、アジアとヨーロッパを繋ぐ中継貿易で利益を得ていました。

 ポルトガルの進出は、マムルーク朝の権益に、割り込む事となり、ポルトガルは、ライバルとなるマムルーク朝の海軍を撃破して、紅海・インド洋海路を確保しました。
当時、アジアでは、ポルトガル人の装備した大砲と鉄砲の威力は卓越しており、ポルトガルはインド洋沿岸各地を占領して要塞を建設します。
場所を羅列しただけでも、アフリカ東海岸には、マリンディ、キルワ、モザンビーク、アラビア半島の沖合のソコトラ島、ペルシア湾岸のホルムズ、インド西海岸には、ディウ、ダマン、バセイン、チャウル、ゴア、アンジェディヴァ、オノール、マンガロール、カナノール、カリカット、コーチン、セイロン島にコロンボ。
ポルトガルが、香辛料貿易を独占した事を実感するものです。

 香辛料貿易が如何に利益を生む商材で在ったのか?
1506年のリスボンでの価格は、香辛料1キンタル(50.8kg)当たり、輸送料を含めた原価と、販売価格は以下の通りです。

 コショウ原価6.08クルザード、販売価格22クルザード、利益率262%!
クローヴ原価10.58クルザード、販売価格60~65クルザード、利益率467~514%!!
ナツメグ原価7.08クルザード、販売価格300クルザード、利益率4137%!!!
(コレだけ粗利が在れば、資金繰りは不要!)
之が要塞を各地に作ってインド航路を独占する理由で、独占すれば値段は更に自由に設定できます。

 ポルトガルがアジア貿易に参入する過程を辿ると、インドの要衝ゴア占領が1510年、翌年の1511年にはマレー半島のマラッカを占領しています。
マラッカは香辛料の原産地、モルッカ諸島とインドの中間点に位置し、狭隘なマラッカ海峡を支配下に置く為の重要な中継地点でした。
1517年、中国の広州で中国貿易に進出。
中国の当時の王朝明とポルトガルは、明の倭寇対策に協力する見返りに、1557年にはマカオに居住権を得ています。
ポルトガル人の日本渡来は1543年、火縄銃を種子島に伝えたのが最初と云われ、その後ポルトガル人は九州各地に進出して貿易を行居ます。
日本史では南蛮貿易です。

続く・・・


2012/03/27

人類の軌跡その337:ロシア④

<日本人大黒屋光太夫>

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映画 おろしゃ国酔夢譚より

 エカチェリーナ2世の時代、ロシア領土は拡大し、プロイセン、オーストリアと共同でポーランドを分割、その結果、1793年にポーランドは滅亡します。
南下政策では、オスマン・トルコ帝国からクリミア半島を割譲、クリミア半島は、黒海に面した半島で、ここから地中海を通り、大西洋で在る外洋に進出する事が可能となりました。

 東アジア方面の進出のも積極的に活動し、1792年には日本にラクスマンを使節として派遣しています。
これは日本人商人、大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)が大きく関わっており、彼は現在の三重県伊勢の商人で、1783年米や木綿を積んで伊勢から江戸に向かう途中で難破し、北上する海流に乗り、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着したのでした。
一行は17人は、その島に来ていたロシア人毛皮商人に救助され、ロシア本土に渡る事になります。
光太夫達は日本に帰る事を懇願するのですが、日本は鎖国中、仕方無く、彼等はロシア人商人と共に、シベリアのイルクーツクに1789年に達したものの、その時には光太夫の一行は5人に減っていました。
ロシアの厳しい自然や風土は、当時の日本人が経験した事のないものでした。
イルクーツクで光太夫は、学者で実業家のラクスマンと云うロシア人と知り合い、1791年、ペテルスブルグで皇帝エカチェリーナ2世に謁見する事ができました。

 光太夫がエカチェリーナ2世に謁見した目的はただ一つ、日本への帰国を訴える為でした。
当時、エカチェリーナ2世も、日本貿易に関心が在り、漂着民大黒屋光太夫を日本に送り届けるという名目で、日本に使節を送ります。
使節に選ばれたのが、ロシアで光太夫達の面倒をみたラクスマンの息子でした。

 5人の日本人の内、2人はロシアに残る道を選びました。
ロシア人と結婚し、生活基盤が出来ていたからです。
結局、光太夫を含めて3人が日本に向かうのですが、そのうち1人は根室で死んでいます。

 1792年、ロシア使節ラクスマンは北海道根室に到着しました。
江戸幕府は、漂着民は受け入れますが、外交交渉は長崎でしかおこなわない、としてラクスマンに長崎への入港許可書を与え、日本との貿易交渉は事実上失敗します。
 
 日本側に引き渡された光太夫達は、北海道から江戸に護送され、江戸では幕府の役人から取り調べを受け、光太夫は貴重な海外の情報を数多く持っており、ロシア皇帝に謁見しているくらいですから、ロシア上流階級と幅広い付き合いも在り、ヨーロッパの制度や思想もそれなりに理解していました。この様な人物を、重く用いれば日本にとって、有利なのですが、幕府にはその様な発想は無く、一方幕府から見れば、光太夫は、世界を垣間見た危険な人物で、一般庶民と混じわらせる事は出来ません。
念願の帰国を果たしたのも関わらず、光太夫は江戸に家を与えられ死ぬ迄軟禁生活を送りました。
日本に帰ってきた漂流民が、海外知識を利用して活躍する様に成るのは、幕末のジョン万次郎以後の事なのです。


ロシア終わり・・・

2012/03/26

人類の軌跡その336:ロシア③

<ロシアの台頭その③>

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エカチェリーナ2世: Екатерина II Алексеевна: Yekaterina II Alekseyevna

◎ロシアの発展その③

 ピョートル1世崩御の後、即位した皇帝は短命で、ロシア政局は少々混乱します。
プロイセンとオーストリアの七年戦争に参戦したのもこの時期ですが、七年戦争の時の皇帝はピョートル1世の娘のエリザベータ。
彼女が崩御した後、甥のピョートル3世が即位しますが、敵対国プロイセンのフリードリヒ2世を崇拝し、七年戦争から撤退します。
ピョートル3世のフリードリヒ2世に対する崇拝ぶりは異常で、肖像画に跪き、胸像に接吻し、近衛隊の兵士達に取って屈辱の何ものでも在りません。
自分達の仕えている皇帝が、敵国の皇帝に跪く事は、我慢成りませんでした。
最終的にピョートル3世は殺害され、変わってピョートル3世の妻が皇帝と成りました。
この人物がピョートル1世と並び称される、エカチェリーナ2世(在位1762年~96年)です。

 エカチェリーナ2世は、ピョートル1世の政策を引き継いだ皇帝です。
又、当時東ヨーロッパで流行していた啓蒙専制君主でもあります。
実は、エカチェリーナ2世はドイツ人でした。
ピョートル3世はお后を求めて、候補となる人物を探すのですが、ロシアは辺境の地で野蛮、ヨーロッパ諸国の王家や一流貴族の令嬢は絶対拒否。
結局、ドイツ貴族の中では一流でも無く、ものすごい美人でも無いエカチェリーナが、因果を含められて嫁ぐ事に成りました。
彼女は、教養のある賢い人物で、ロシアに嫁いでからは、夫や宮廷の人々とも付き合い上手、親衛隊からの人望も高いものでした。

 ドイツ出身の彼女が、啓蒙専制君主になるのは、当然ですが、ロシア社会を見て、遅れていると感じる処が数多く在ったと思います。
彼女が残している「訓示」は、
君主は絶対である…。
君主政治の真の目的は…人民からその自然の自由を奪うことではなく最高善に達する為、彼らの行為を正すことである。

一つ目は、当に絶対主義、二つ目は啓蒙主義で、啓蒙専制君主の典型です。

 彼女の理想は素晴らしいものですが、1773年大規模な農民反乱「プガチョフの乱」が起こり、この鎮圧後、農奴制を強化しています。
当時のロシアの新聞には、農奴の売り出し広告が掲載され、一応、農奴は移動と職業選択の自由は存在しませんが、本来売買はされない身分なのです。
1789年では、フランス革命が発生、この様な時代背景の中、彼女の政治は、反動的性格を色濃くして行きました。

続く・・・
2012/03/23

人類の軌跡その335:ロシア②

<ロシアの台頭その②>

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ピョートル1世:Пётр I Алексеевич

◎ロシアの発展

 イヴァン4世崩御の後、ロシアは大混乱に陥ります。
王家の血筋が絶え、偽皇帝の出現、農民反乱、ポーランドやスウェーデンの侵入等が続き、この様な混乱の中、1613年に、貴族によりミハイル・ロマノフが皇帝に選ばれ、ロマノフ朝が始まりました。

 しかしながら、その後も国内政治は安定せず、1667年から71年迄、ステンカ・ラージンを指導者とする大農民反乱が発生します。

 ロマノフ朝ロシア、発展の基礎を築いたのはピョートル1世(在位1682年~1725年)で、彼の時代から正式に国名がロシア帝国と成りました。
ピョートル1世は、ロシアをヨーロッパ風の国に仕立て、近代化を推進したいと考えます。
当時既にイギリスでは、名誉革命により絶対主義が終焉をむかえ、フランスではルイ14世が、絶対主義の絶頂期をむかえていました。
一方、当のロシアは、絶対主義以前の状態で、文化的にも非常に遅れており、ピョートル1世が貴族達のエチケットについて注意を促す程でした。
但し、ピョートル1世も西欧諸国の君主と比較すると、それ程礼儀正しい方では在りませんでしたが。

 ピョートル1世は、ヨーロッパ風の国家体制を確率する為、ヨーロッパ諸国の見聞(視察)自ら行いました。
1697年、総勢250名の大使節団をヨーロッパ諸国に派遣し、ヨーロッパの文物、制度を輸入導入しようと考えたのです。

 17世紀の末期から18世紀初頭にかけて、西ヨーロッパの先進国が採用していた経済政策は、重商主義で在り、オランダ、イギリス、フランスは、東インド会社を設立して、アジア貿易に進出していました。
ピョートル1世も、ロシアの進むべき方向は、重商主義と悟ります。
当時のロシアは現在と異なり、内陸国で港はアルハンゲリスクと云う、北極圏に近い港で、スカンディナヴィア半島の北側を迂回しなければ到達できない辺境の地で、しかも一年の大半は凍結海域に成ります。
 
 当時バルト海沿岸はスウェーデンの領土でしたが、良港を得る為にピョートル1世はスウェーデンと北方戦争(1700年~21年)を起こします。
この戦争に勝利して、獲得した小さな漁村に建設した町がペテルスブルクで、湿地帯の中に在り都市建設には不向きな場所ですが、10年間に4万人の農奴と5千人の職人を動員して港と都市を建設し、この町を新首都として貴族を強制的に移住させました。

 ピョートル1世の時代のロシアは、東にも領土を拡張し中国北方迄到達しています。
中国は清朝の絶頂期で在り、その清との間で国境線の確定をネルチンスク条約(1689年)によって行いました。
この条約はロシアと清朝が対等で、この時点では、アジアの国もヨーロッパに劣らず繁栄している証でした。
 
余談
この条約を締結するに当たり何語で書類を作成したのか?
実は条約の原本はラテン語で書かれており、清朝宮廷にイエズス会の宣教師が仕えていた為、彼等が、交渉で活躍したと伝えられています。


続く・・・
2012/03/22

人類の軌跡その334:ロシア①

<ロシアの台頭その①>

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イヴァン4世 Иван IV Васильевич / Ivan IV Vasil'evich

◎モスクワ大公国

 ロシア人はモンゴル帝国以来、キプチャク=ハン国の支配下にありました。
キプチャク=ハン国の衰退に乗じて、1480年にモスクワ大公国が独立、この国が現在のロシアの始祖と成ります。
当時モスクワ大公国を支配した大公がイヴァン3世(在位1462年~1505年)であり、ビザンツ帝国、言い換えれば東ローマ帝国最後の皇帝の姪を伴侶としていました。
その為1453年にビザンツ帝国が滅亡すると、イヴァン3世は「ツァーリ」と云う称号を初めて使用しました。
ツァーリはカエサルのロシア語による呼称で、この称号を敢えて使用する事は、ビザンツ帝国の後継者を意味しています。
ツァーリを日本語に訳す時は皇帝と訳しています。

 モスクワ大公国を更に発展させたのがイヴァン4世(在位1533年~84年)です。
イヴァン雷帝とも呼称されるこの人物は、大貴族を抑圧し、中央集権化を推進し、農奴制を強化して、ツァーリを正式な国家元首の称号として採用しました。

 激情型の性格で、ロシアでは非常に有名な皇帝で在り、現在でも小説や映画の題材に取り上げられています。
短気で凶暴な性格な為、自分に逆らう大貴族達の領地を取り上げて行き、一方貴族達の反発も凄まじく、雷帝は六回結婚していますが、后のうち五人は貴族に毒殺されたと云います。
六人目の后探しの果て、イギリスのエリザベス1世の姪が候補に上り、婚約まで進行したものの、彼女の方が、野蛮な国に嫁ぐ事を拒み、破談に成ったとの話も伝えられています。
イギリスから見て、ロシア、モスクワ大公国が、如何に野蛮で辺境の土地であるかを物語っています。

 当時モンゴル系の勢力も強力な時代で、イヴァン雷帝は、モンゴル王家の血を引く貴族からツァーリの称号を譲られる、と云う形式で即位しています。
イヴァン4世の業績で、最も重要な事象は、シベリア進出でした。
コサック隊長のイェルマークにシビル=ハン国遠征を命じ、このシビル=ハン国はウラル山脈の東に存在したモンゴル系の遊牧国家で、シベリア方面へ進出する足掛かりを築きました。
因みにシビル=ハンは、シベリアと云う地名の語源と成ります。

 先に登場したコサックは、南ロシア・ウクライナの辺境地帯に居住した人々で、逃亡してきたロシア人農奴を中心として、形成された集団です。
如何なる国の領土でも無い平原地帯で、誰にも支配されずに共同体を形成し、居住地域によって、ドン・コサック、ウラル・コサック等と呼ばれていました。
男達は、最初略奪等で生計を立てていた結果、騎馬兵として優秀、豪快で、ロシアはコサック達に自治を認める代わりに、彼らを騎馬兵として利用しました。
20世紀初頭の日露戦争でも騎馬軍団として活躍しています。

続く・・・
2012/03/21

人類の軌跡その333:中世ヨーロッパの軍事国家④

<オーストリア>

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マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ(Maria Theresia von Österreich


◎オーストリア

 ドイツの中で最大の領邦国家は、オーストリアで在り、そのオーストリアを支配しているのはハプスブルク家、神聖ローマ帝国皇帝の称号を、事実上世襲しています。
ハプスブルク家は、巧みな婚姻戦略で領土を拡張しますが、その領土は分散した飛び地が多く、結果的にイギリスやフランスのような中央集権化が物理的に困難でした。

 更に、広い領土の中には、ドイツ民族以外の民族が居住している地域も存在しました。
代表的地域は、ハンガリーとチェコ(ベーメン)です。
ハンガリーはマジャール人、チェコはチェク人、当時のオーストリアは多民族国家で在り、この様な地域を一つの国家としてまとめ上げるには、相当の苦労を伴いました。

 外交面では、16世紀以来、オーストリアの脅威となったのは、オスマン・トルコ帝国でした。
オスマン・トルコ帝国は、度々オーストリアに侵攻し、首都ウィーンは二度オスマン・トルコ軍に包囲されました。
しかし、1683年の第二次ウィーン包囲の後、今度はオーストリアが、オスマン・トルコ帝国に侵攻を繰り返します。

 1699年にはオスマン・トルコ帝国との間にカルロヴィッツ条約を結び、オスマン・トルコ帝国支配下に在った、ハンガリー中央部と東部を割譲しました。
こうして、オーストリアは中央ヨーロッパの大国に発展します。

 マリア・テレジア(在位1740年~80年)が即位するのですが、彼女の即位にプロイセンが異議を唱えて、オーストリア継承戦争が勃発、続く七年戦争でもオーストリアは敗北します。
 
 オーストリア自体の国家的条件が複雑な為、プロイセンの様に近代的な国家形成が不可能な中、マリア・テレジアは、大国を手際良く統治したと思います。
彼女は女帝でありながら、子供も多く居り、しかも、彼女は、産まれた子供を全員自分の手で育てました。
当時の上流貴族たちは子供が生まれると、養育担当者に預けて、自分では面倒を見ないというのが普通でした。
昔から、上流階級は親子肉親の情が薄いと言われる所以です。
子育てと、女帝として国家経営を熟し、プロイセンに敗北はしましたが、人間的には大人物です。
彼女の娘の一人が後にフランス王ルイ16世に嫁ぎ、外交革命で、フランスと友好関係を結んだ証としての政略結婚ですが、その娘がマリー・アントワネットです。

 マリア=テレジアの長男がヨーゼフ2世、将来のオーストリア皇帝・神聖ローマ皇帝と成る彼は、マリア・テレジアにより1765年、共同統治者として、神聖ローマ皇帝に即位し、母子で国政を運営する事としました。
親子関係は良好なのですが、マリア・テレジアは、息子ヨーゼフがプロイセン国王フリードリヒ2世崇拝者で有る事に懸念を抱いていました。
短期間でプロイセンを一流国に押し上げたフリードリヒ2世の政治手法を学ぶ事を望みますが、マリア・テレジアから見れば、祖国オーストリアから領土を奪った宿敵、その人物を息子が崇拝している事は問題でした。

 ヨーゼフ2世は、マリア・テレジアの死後、啓蒙主義的な内政改革を次々に実施します。
ヨーゼフ2世も「啓蒙専制君主」と呼ばれ、その改革内容は、農奴解放令・農民保護の為、土地税制改革・貴族の特権排除・商工業の育成等多岐に渡ります。
しかし、これらの改革は殆どは失敗に終わり、ヨーゼフ2世の改革は、理想は高いものの、オーストリアと云う複雑な国の実状に適合せず、周囲の貴族たちの理解を得なかった事が、失敗の理由と思われます。

オーストリア終わり・・・

2012/03/17

人類の軌跡その332:中世ヨーロッパの軍事国家③

<プロイセンの発展その③>

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フリードリッヒ2世

◎オーストリア継承戦争

 フリードリヒ2世は二度の戦争でプロイセンをヨーロッパの一流国に押し上げる事に成功しました。
その一つがオーストリア継承戦争(1740年~48年)で、この年、オーストリア国王にマリア・テレジアが即位しました。
前王カール6世は、男子が居らず、娘のマリア・テレジアに王位を譲る計画でしたが、オーストリアのハプスブルク家には、此れまで女王の在位は在りませんでした。
しかもオーストリア国王は、同時に神聖ローマ帝国皇帝の称号を兼ね、実体の無い称号ですが、伝統ある称号を女性が名乗ることに対して、ドイツ各領邦国家から反対がある事は当然予想できました。

 カール6世は、各領邦国家の君主に、マリア・テレジアの即位に対して反論しないと云う約束を取り付けていました。
マリア・テレジアの即位に際して、フリードリヒ2世は反論を加えます。
フリードリヒ2世の狙いは、王位継承者が別に男でも女でも構わず、オーストリアに戦争を仕掛ける名目が必要でした。
親父が創り上げた強大な軍隊を利用し、領土を拡大する機会の到来です。
 
 マリア・テレジアは有能な人物で、即位した直後から多民族国家オーストリアを統率して戦い、最終的に「アーヘンの和約」が結ばれて戦争は終結します。
結論としては、マリア・テレジアはオーストリアの相続を承認されますが、代償としてシュレジエン地方をプロイセンに割譲する事に成りました。
シュレジエン地方は、当時工業の発達した地域で、人口も100万人を数え、戦争前のプロイセン人口が200万程度ですから、プロイセンの国力は1.5倍に成りました。

◎七年戦争

 オーストリアのシュレジエン地方奪回戦争が、七年戦争(1756年~63年)です。
マリア・テレジアはオーストリア継承戦争の経験から、単独でプロイセンに勝利する事は無理だと考え、フランス、ロシアと軍事同盟を締結します。
フランスは伝統的にオーストリア・ハプスブルク家とライバル関係で、常に敵対しており、三十年戦争時、同じ旧教国でありながら、新教側で参戦しました。
その様な過去を持ちながら敢えて、外交交渉を通じてオーストリアはフランスを味方にしたのでした。

 プロイセンのフリードリヒ2世は、当時オーストリアの保有する軍事力を低く評価しており、実戦に成れば有利な作戦が展開出来ると考えていました。
フランスを敵にする事は大変な脅威に成りますが、伝統的にフランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家が同盟を組む事は無いと考えていましたから、両国の同盟に震撼したものと思われます。
このフランス、オーストリアの同盟を「外交革命」と云います。

 七年戦争がはじまると、オーストリア、フランス、ロシアの連合軍の破竹の進撃に、さすがのプロイセンも苦戦します。
ロシア軍がベルリン近郊迄侵攻し、フリードリヒ2世も、死を覚悟する迄に追いつめられますが、時のロシア皇帝エリザヴェータが急死し、ピョートル3世が帝位を継承します。
新ロシア皇帝はフリードリヒ2世の崇拝者でした。
「啓蒙専制君主」としての政治姿勢は、各国君主の共感を呼び、ピョートル3世は自ら崇拝するフリードリヒ2世と戦争を交える気持ちは無く、講和を結びロシア軍を撤退させました。
プロイセンはその後、善戦を重ね最終的に、シュレジエン地方はプロイセンの領土として確定され、オーストリアのマリア・テレジアは何も得るものが在りませんでした。

余談

プロイセンに勝利をもたらした、フリードリヒ2世は、後々迄伝説の大王として語り継がれていきました。
第二次世界大戦末期、風雲急を告げるベルリンで、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、自分の執務室にフリードリヒ2世の肖像画を掲げ、七年戦争の奇跡を願っていたとの逸話も存在しています。
現実にアメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルトが急死するのですが、最終的にドイツは連合軍に破れ、ヒトラーは自ら命を断ちました。


 二度の戦争を通じて、プロイセンはドイツの領邦国家の中ではオーストリアに次ぐ大国の地位を確立しました。
又、「啓蒙専制君主」という政治スタイルは、東ヨーロッパに広まり、ロシアのピョートル3世の様にその崇拝者も多く存在していました。

プロイセン終わり・・・

2012/03/16

人類の軌跡その331:中世ヨーロッパの軍事国家②

<プロイセンの発展その②>

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サンスーシー宮殿でのフリードリッヒ2世によるフルートコンサート

◎啓蒙専制君主

 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の後継者は、息子のフリードリヒ2世(在位1740年~86年)で、プロイセンを絶対主義国家として完成させ、フリードリヒ大王とも呼ばれます。

 彼は幼少の頃から、父親のヴィルヘルム1世との関係が、芳しく在りませんでした。 
息子のフリードリヒ2世は兵隊王ヴィルヘルム1世とは、正反対の趣味を持ち、フランスから詩集や小説を取り寄せて読み、音楽を好みフルートを自分で演奏しました。
父親は将来の国王の姿を軟弱と見たのか、フリードリヒ2世の嗜好をことごとく否定します。
18歳の時、とうとうフリードリヒ2世は家出を決意し、フランスに向かいます。
息子が国を失踪した事を知り、父で在るヴィルヘルム1世は烈火の如く怒り、家出は軍隊で例えれば、脱走と同じで、絶対に許すことは出来ない重罪ですから、追っ手を差し向け、ベルリンに連れ戻されますが、一緒に逃亡した友人は、フリードリヒ2世の目の前で処刑されてしまいます。

皇太子であるフリードリヒ2世の処刑は免れましたが、この事件を発端に、彼は引きこもりがちな陰鬱な人間になりました。
やがて、父王が亡くなり、彼がプロイセン王と成った時には、それまでのヨーロッパに存在しなかった形の国王になっていました。

 フリードリヒ2世は、若い頃から書物を読み、プロイセンがフランス等の先進ヨーロッパ諸国と比較して、制度や文化の面で遅れていることを十分理解していましたから、フランスの先進思想を積極的に取り入れたのです。
当時、フランスでは絶対主義の絶頂期ですが、絶対主義に批判的な思想も生まれていました。
迷信や偏見を打ち破り、合理的、理性的に社会を改革しようと云う啓蒙思想です。
 
 本来、啓蒙思想は絶対主義を批判する思想で、両立しない思想なのですが、フリードリヒ2世は二つの思想を同時に取り入れます。
専制的かつ絶対主義的な政治を遂行しますが、その中で不合理なものを総て排除していく、プロイセンがフランス等の先進国に追いつくには、この方法が一番有効でした。
当時ヨーロッパの思想界で、一番持てはやされていたフランスの啓蒙思想家ヴォルテールとフリードリヒ2世は、文通を行いますが、最後にはヴォルテールをベルリンに呼び寄せ、宮殿で衣食住を供にするのです。

 フリードリヒ2世の言葉として有名なのが「朕は国家第一の僕(しもべ)である」、ルイ14世の「朕は国家である」に比較すると、謙った表現ですが、啓蒙思想の影響を受けた表現です。

続く・・・

2012/03/15

人類の軌跡その330:中世ヨーロッパの軍事国家①

<プロイセンの発展その①>

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プロイセン軍の突撃

◎プロイセン

 プロイセンは、1618年ブランデンブルグ辺境伯領とドイツ騎士団領の領土が合体して形作られた国です。
支配者はホーエンツォレルン家、宗教は新教、プロイセンは飛び地で、大きく東と西に分かれています。
東側の領土はポーランド、西の領土は神聖ローマ帝国の領内でした。
プロイセン成立時の正式国名はプロイセン公国です。
ここで公国は王国よりも下位に位置する国家ですが、後にプロイセンは国力を付け、スペイン継承戦争時では、オーストリアを支援しました。
その見返りとして、1701年王国と成り、正式にプロイセン「王国」が誕生しました。
オーストリアは神聖ローマ帝国皇帝として、諸侯の位に関与できる権限を有していたのです

 以後、プロイセン王国は更に発展し、最初に発展の基礎を成した国王がフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713年~40年)、別名「兵隊王」と呼ばれています。
軍隊を強化して軍国主義的国家建設を推進し、プロイセン軍を強大化することに力を注ぎます。
宮殿の庭園を練兵場にし、常備軍を整備し、徴兵制で農民を集めて軍隊を組織しました。
兵士が不足する時は、徴兵係が農村を廻り、体格の立派な若い農夫を無理矢理、兵隊に編入します。
8万人の常備軍を編成しますが、当時プロイセンの人口が200万人程度なので、人口の4%に匹敵します。

 徴兵された兵士を、命令に服従させる為、プロイセン軍は厳罰主義を取入ました。
強制的に徴兵された兵士達は、脱走して故郷に帰りたいと考えても脱走の罰が、また厳しく「列間鞭打ち」と名づけられた刑罰が在り、脱走した兵士は、裸にされて自分の部隊の兵士達が、二列に並んでいる真ん中を駆け抜け、部隊の兵士達は、各々鞭を持ち、裸で走ってくる脱走兵を打つ事に成ります。
同時期、イギリスやフランスでは兵士に対する鞭打ちは禁止されており、ある意味では遅れた国でした。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、国力的に可也の無理を行い、強力な軍隊を育て、プロイセンをヨーロッパの一流国に押し上げようとしたのでした。

続く・・・


2012/03/14

人類の軌跡その329:三十年戦争その②

<三十年戦争その②>

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当時の農民生活

 三十年戦争の様な長期戦争では、常に戦闘が継続している事は大変稀で、大きな戦闘が一度発生すると、暫くの休戦状態に成ります。
その理由として、諸侯や皇帝は常に莫大な給与を傭兵達に支払わなければならず、大きな戦闘行動を行うと、その賃金支払いが、莫大な金額と成り、傭兵を維持できません。
従って、資金調達が可能と成り、ある程度の蓄財が成された時、傭兵を雇い入れ次の作戦を実行しました。

 傭兵の立場では、雇用が発生し、賃金を手に出来る期間よりも、失業状態の方が長く、失業中でも生活の糧を得る為に、傭兵部隊はドイツの農村を略奪しました。
農民の立場では、一度戦争が発生すれば、重税を課せられ、領主はその金で傭兵を雇います。
村が戦場に成れば、畑が踏み荒らされ、しかも戦争が小康状態の時は、失業中の傭兵部隊に何時襲撃されるか、油断ができず、一旦襲撃の対象になれば、村は略奪、暴行、虐殺と悲惨を極めます。
三十年戦争でドイツの人口は、1800万から700万に激減したと記録されています。
この多くが、傭兵による被害と考えても無理では在りません。
傭兵は、戦争が長引けば長引く程、仕事が継続される為、戦闘を長期化させる事や、危機に乗じて、雇い主に賃上げを要求する等、兵士の質は極めて悪いものでした。

 三十年続いた戦争もようやく集結し、戦争に関わったドイツ国内の封建諸侯、その他フランスやスペインなどの参加国によって、1648年ウェストファリア条約が締結されました。

◎ウェストファリア条約

1.ドイツ国内諸侯の独立状態を承認

 当時のドイツは、名目上神聖ローマ帝国皇帝が統治する帝国でしたが、現実には統一国家ではなく、皇帝は名目的なものでした。
この実体を認め、これ以後、諸侯の統治する地域は領邦国家と呼称され、事実上の国と成り、諸侯は「領邦主権」を持って、その国を統治しました。
以前と同様、神聖ローマ帝国皇帝は存在しても、単なる名誉称号に成り、この称号を保持するのはハプスブルク家ですが、その領邦はオーストリアの為、必然的に神聖ローマ帝国皇帝が実際に支配している地域は、オーストリアとそれに付随する地域だけに成りなした。

2.ドイツに於ける、ルター派と共にカルヴァン派にも信仰が承認。

3.スイス・オランダの独立を正式に承認。
 
 スイスもオランダも以前から事実上独立を果たしていましたが、この条約で正式に認められた、スイス、オランダ共に、ハプスブルク家の領地の為、承認された経緯が在ります。

4.フランスがドイツの一部であった、アルザス地方を獲得。

5.スウェーデンもドイツに領土を拡大。
 
 最後に三十年戦争の結果、ドイツの農村や産業が徹底的に荒廃し、イギリス、フランスが中央集権化を進めているにも関わらず、逆に国家の分裂を固定化させてしまいました。

余談

 三十年戦争による極端な人口の減少は、農業経済の基盤を破壊し、このとき破局的な農業生産性を回復させたのは、ジャガイモでした。
1570年代から80年代にかけて、新大陸からスペインに入ったジャガイモは、単位土地面積あたりの生産量が大きく、気候不順による凶作時にも生育する「救荒(きゅうこう)作物」として、とりわけプロシャの人間社会を救いました。
それ以来、中部ヨーロッパの人々は、ジャガイモを主食としています。


三十年戦争終わり・・・

2012/03/13

人類の軌跡その328:三十年戦争その①

<三十年戦争その①>

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ロクロアの戦い

◎三十年戦争

イギリスやフランスが、絶対主義国家として中央集権化を図る最中、ドイツでは三十年戦争(1618年~48年)が発生していました。
三十年間つづいたので三十年戦争と云い、宗教対立を発端とした戦争でした。
1555年、神聖ローマ皇帝カール5世は、アウグスブルグの宗教和議を行い、ドイツの宗教内乱は一旦収まりました。アウグスブルグの宗教和議は、新教徒にも信仰の自由を認めるものでしたが、問題点も存在し、その一つは、個人に信仰の自由が与えられなかった事。
領主が選んだ教会をその土地に住む住民は信仰しなければならず、ここで信仰の自由とは、領主にとっての自由で在り、更にはカルヴァン派の信仰が、認められていなかった事でした。

 オーストリア(現在のチェコ)にベーメンという土地が在り、オーストリア・ハプスブルク家によって支配されていましたが、民族はチェク人で在り、宗教改革以前からローマ教会と馴染まない風潮が存在していました。
ベーメンの人々は新教を信じ、更に従来ベーメン人達は信仰を認められていたものの、1617年、支配者が代わり、新教徒に対する弾圧が始まりました。
この弾圧に対してベーメンの新教徒貴族が反乱を起こし、当初はハプスブルク家領内の内乱に過ぎない小規模な紛争でしたが、他の新教の諸侯がこの内乱に参加し、戦争規模が拡大、ドイツ以外の国も新教、旧教を援助して介入した結果、収拾のつかないまま30年間にも及ぶ紛争に成りました。

◎新教側と旧教側

 新教側は、ドイツの新教諸侯、デンマーク王クリスチャン4世、スウェーデン王グスタフ・アドルフ、フランスもリシュリューが新教側を援助して戦争に介入します。
フランスは旧教国ですが、領土拡大を画策していまし、デンマーク王やスウェーデン王が参加した理由も同様でした。

 旧教側は、神聖ローマ帝国皇帝が中心と成り、同じハプスブルク家のスペインも旧教側で参戦しました。
旧教側では、傭兵隊長の皇帝軍総司令官ヴァレンシュタインの活躍が有名で、皇帝の支払う巨額の資金で2万人以上の傭兵部隊を率いて戦いました。

 三十年戦争に参戦した兵士の大部分が傭兵で在り、傭兵がドイツの農民等、一般民衆に対して膨大な被害を与えました。
傭兵は、お金で雇われる兵隊で、国を守る為に志願して兵士に成る様な、近現代の兵隊とは全く異なり、給料さえ支払われれば、誰にでも雇われる戦力でした。
ヨーロッパの何処かで紛争は発生すると、傭兵は自分達を売り込み、更に高い賃金で雇い入れる陣営に参加しました。

続く・・・

2012/03/10

人類の軌跡その327:フランスの絶対主義番外編③(再録)

<鉄仮面>

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ルイ13世

 ルイ14世の治世60年目の1703年に、バスチーユ監獄である囚人が死亡しました。
34年間を獄中で過ごしたその男は、ベルベットの仮面をつけ、監獄の誰にも顔を見せぬまま、世を去りました。

 フランスの一公女から、イギリスの宮廷に居る友人のもとに「昔の囚人」について書かれた手紙が届きます。
「仮面をつけた一人の男が、長年バスチーユで暮らし、仮面をつけたまま死んだ。近衛兵が二人、常に彼を見張り、仮面を外そうものなら直ぐに殺す用意をしていた。・・・是には何か訳があったのだろう。他の面では彼は厚遇され、快適に生活できるよう配慮され、望むものは全て与えられていたから。・・・彼が何者であったのか、誰も知る事は出来ませんでした」。

 ロマン派の小説家アレクサンドル・デュマ(父)は仮面の材質に多少の脚色を加えて、「鉄仮面」を書き、素性不明の囚人が、ルイ14世自身、若しくは双生児の弟という説を広めました。
しかし、是までに判明した事実から、より一層奇怪な推測が生れています。

 1669年、港町ダンケルクで逮捕された瞬間から、この囚人は異常に用心深い保護を受けました。
当時フランス領で在ったトリノ近郊のピニェロル監獄に彼が、護送されてきた時、責任者のM・サンマルスは次のような命令を与えられました。
「日用生活必需品以外の物事に関し、彼が口を開こうとした時は、死の脅しを持って制しせよ」。
サンマルスが他の監獄に移動する度に、その任地に囚人も蝋紙で目隠しをした、籠に入れられ一緒に移動しました。
囚人は、激怒の余り気も狂わんばかりであったと記録されています。
囚人の逮捕からほぼ30年が経過したにも関わらず、尚もこの人物が人目に触れないように、あらゆる手段を尽すよ
う命じられていました。
 
 仮面は罰ではなく、用心の為で有り、この長い期間、囚人は公然の存在では有りませんでした。
では、なぜかくも厳重な警戒が必要だったのでしょうか?
謎を解く鍵として、かの人物は、誰か極めて重要な人物と驚く程似ていたのかも知れず、そして容姿が似ている事が大変に不都合であったのではないでしょうか・

 学者で在り、又政治家でもあるクイックスイッド卿が発表した推論は、既知の事実と符合す様に思われます。
囚人は、ルイ14世の真実の父親ではなかったのか、と言う推論なのですが・・・。

 ルイ13世とアンヌ・ドートリッシェは22年間の結婚生活中、一人の子宝に恵まれませんでした。
当時フランスの実権を掌握していたのは、リシュリュー宰相で、彼は自分の権力維持の為に王の世継ぎの誕生を待ちあぐねていました。
ルイ13世の子が王位を継承すれば、リシュリュー派は引き続き権力を行使できます。
しかし、王と王妃は、14年前から別居生活を続けていましたが、宰相は何とか、公式の和解を取り持ち、そうして全フランスが驚天動地した事に、王妃は1638年、男子をもうけました。

 それ以前に国王夫妻に子供が生れる事は無く、しかも二人は互いに嫌いぬいていましたから、王子の父親となる夫の国王の変わりに若い貴族の男性を受け入れる様に、王妃をリシュリューが口説き落としたと想像できるのです。
当時、パリには身持ちの悪いアンリ・ド・ナバールの私生児・・・全てルイ13世の異母兄弟・・・が数多く居たので、ブルボン家の血統を引く人材を捜す事に、苦労は無かったと推測されます。
リシュリューは、容姿に優れ、彼の意志に従順なブルボン家系の青年を容易に見つけ出し、窮地を抜け出るには他の方法は無いと王妃を説得したのでしょう。

 少年時代のルイ14世は逞しく活動的で、父王であるルイ13世に少しも似ていないと、宮廷の中で噂されていた事実が存在します。

 この推論が正しければ、真の父親は海外、多分カナダのフランス植民地に送られ、やがて過去の経緯も忘れた頃を見計らい、若しくは今や全能の太陽王と成った息子、ルイ14世を頼って、フランスに戻って来たのではないでしょうか?
父親と息子は互いに、余りにも似すぎていた為、彼の出現は宮廷を困惑させ、王権自体を脅かす存在で在ったと考えられます。

 簡単な解決方法、即ち彼を暗殺する事は、おそらく問題外で有り、ルイ14世にしても自分の父親の殺害は阻止せざるを得なかったはずであり、結果、完全な秘匿、生活に一切の不住は無いものの、看守以外の人間からも一切隔離された生活しか他に手段は無かった・・・と思われます。

 囚人は生前のとおり、顔を知られず無名のまま死にました。
その素性は、死後もなお隠され、バスチーユで生涯を終えた者の例にもれず、彼は仮名で埋葬されました。
太陽王ルイ14世の父親であったかもしれないその人物は、“ウスタード・ドージェ:下僕”と記録されたのでした。

鉄仮面終わり・・・
2012/03/09

人類の軌跡その326:フランスの絶対主義番外編②(再録)

<太陽王の宮殿②>

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 ユール川の流れを変える計画が中止されたのは、人命の喪失や、財政圧迫が原因で工事が中止に成ったのではなく、無報酬労働部隊の兵士が、本業の戦争に必用と成ったからでした。
結局、ヴェルサイユとランブイエの間にある台地の水を集め、水路網を通じて庭園に流し込む方法が採用されました。

◎不  便

 1682年、宮廷がヴェルサイユに移り、1789年迄此処は、フランス国王の住まいと成りました。
其れまでのルイ14世の宮殿同様、壮大華麗な建造物で、9000人の軍隊、1000人の廷臣、4000人の召使が生活をともにしましたが、豪華で華麗な部屋の数々も、日常の生活には不便な事この上なく、暖房は事実上不可能、トイレ等の衛生設備も皆無でした(!)。

 ルイ14世の死後、その曾孫にあたるルイ15世がヴェルサイユ宮殿を更に増築し、この部分が後日、ルイ16世の王妃マリー・アントワネットお気に入りの休息場所となった「小トリアノン」なのです。
ルイ16世は、マリー・アントワネットの為に続きの間を増築しました。

 しかし、ヴェルサイユ宮殿の権力と影響力は、1789年のフランス革命で終焉を迎えます。
革命後、家具調度品や装飾品は、売却され、盗まれ、宮殿自体も手入れもされず放置されていましたが、修復作業は19世紀半ば、ルイ・フィリップによって行われ、アメリカ合衆国が是をしました。
時代は移り、ヴェルサイユ宮殿は、王朝政治華やかなりし頃を象徴する、博物館として今日に至っています。


補遺「マリルの機械仕掛け」

 水不足は、終始ヴェルサイユに付きまとった大問題でした。
飽くことを知らない、ヴェルサイユの需要を満足させる事が可能な水量が、確保された事は一度も在りませんでした。
庭園用だけでも、ルイ14世は1400の泉への給水を命じました。
必用な水量は、パリ全体の需要を賄うに足る程で、国王がヴェルサイユ宮殿の庭を散策するとき、庭園付の召使が制御装置を操作し、噴水が出る様にしました。
もし、噴水が作動していなければ、庭園監督官は、罰金を徴収されたそうです。

 ルイ14世が、庭園を潤うに足る大量の水を求めた事が契機となり、さまざまな計画や発明が生れたのでした。
その内、現在でも最も有名な機械装置が、巨大な「マリルの機械仕掛け」なのです。
建造が始まったのは、1681年で、その目的は本文でも触れた様に、セーヌ河から絶え間なく水を汲み上げる事でした。
幅11mの巨大な14機の水車が221個のポンプを稼動させ、セーヌ河に続く丘の斜面を、160mの高さ迄水を運び上げる事に成っていました。

太陽王の宮殿終わり・・・


2012/03/08

人類の軌跡その325:フランスの絶対主義番外編①(再録)

<太陽王の宮殿①> 

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ルイ14世で少々触れたヴェルサイユ宮殿に関する記事を再録しました。

 一人の国王の虚栄心が、一国の財政を破局に追い込みましたが、私達はそのおかげで、異常なほどに壮麗な宮殿を現在でも見る事が出来ます。
その国王とは、フランス、ブルボン王朝のルイ14世、財政を破局に追い込んだ建築物とは、ヴェルサイユ宮殿の事なのです。
ヴェルサイユ宮殿は、フランスの宮廷と政治の中心に成りましたが、そもそもの始まりは、狩猟用の質素な館でした。
ルイ13世はこの館を、宮廷の仕事や政務の煩わしさから、逃れる安息の場所として使用していましたが、1627年、この場所に小さな城を建てました。
ルイ13世の死後、息子の「太陽王」ルイ14世は、城を建て替え、壮麗な宮殿によって、自分の栄華を後世に伝え様と試みたのです。
1661年、造営工事が開始されましたが、世界で最も素晴らしい建物を建てる為に選んだ土地は、建築家にとって、当に悪夢の様な土地でした。
土壌が細かい砂の為に基礎の土台の一部は沈下し、その周囲は見渡す限り荒涼とした場所でした。

 ルイ14世は、建設作業を自ら監督する熱心さで、費用が幾ら掛ろうとも、国民の生活が如何に困窮しようとも、そして工事による犠牲者が幾人でようとも、一向に気に止める事は有りませんでした。
ヴェルサイユ宮殿造営の現場では、1日3万人以上もの人間が工事に携わりましたが、是等人間の多くは無報酬か、強制労働であり、更にその作業環境は劣悪を極め、伝染病が蔓延して、多くの人間が死亡しました。
さすがにルイ14世も、余りの死者の数に多さに、廷臣がこの問題を口にする事を禁じた程なのです。

◎一流好み

 時間、創意、金銭が惜しみなく注ぎ込まれ、ヴェルサイユ宮殿造営現場は、フランスの建築工学の一大展示場となり、植樹が行われ、庭園造営の為、大理石、青銅の像が運び込まれ、時にはルイ14世はパリからフランス宮廷の総勢を引き連れて進捗状況を見聞した程でした。

 ルイ14世は自分の野望を満たす為に、当時フランスで最高の建築家を登用し、まず手始めにルイ・ボーが、ルイ13世時代の建物を改築する仕事にあたり、次いで1678年、ジュール・マンサールがこの仕事を引継ぎ、城の主要部分を改造し、両側に北ウイングと南ウイングを建設し、正面の全長600m、窓の数は375を数える迄に成りました。

◎水不足

 庭園の面積は100ha、造園にあたったのは、アンドレ・ルノートル。
ルイ14世は花を好み、毎年400万個ものチューリップの球根を輸入していました。
この庭園最大の呼び物は、テティスの洞窟と動物園の二つで、洞窟は小石と貝殻で覆われ、水力で作動するオルガンが内部に納められており、更に水が流れ出る仕組みも隠されていました。

 動物園にはエキゾティックな動物や鳥類が収集されており、更にルイ14世は全長1600m、幅60mの運河を掘削して、如何にも運河らしさを演出する為に、ゴンドラを始めとする色々な船が浮かべられました。
又、1684年、マンサールはオレンジの成木を輸入して、オレンジ園を作りました。

 この庭園の最大の呼び物は、泉と滝で、是には膨大な水道設備と巨大な揚水設備が必用で、セーヌ河から導水する為に1681年から1684年に渡って「マリルの機械仕掛け」を作り導水する計画でしたが、この装置は度々故障を繰り返し、計画通りには進みませんでした。
その為、今度は、ユール川の流れを変える計画が実行に移されたものの、人命の犠牲、財政支出は膨大となり、1686年に中止と成りました。

続く・・・


2012/03/07

人類の軌跡その324:フランスの絶対主義③

<フランスの絶対主義その③>

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ルイ14世と家族

◎ルイ14世の統治

 ヴェルサイユ宮殿には国王以外に貴族も居住していましたが、ヴェルサイユ宮殿に住めるのはルイ14世の近くに使える者だけでした。
起床から、着替え、食事、散歩に至るまで国王の行動は儀式化され、選ばれた側近がその儀式に参加する事が可能でした。
コップやハンカチを国王に渡す役が、貴族達に割り振られ、その役目を貰う事が名誉なのです。
朝食後の散歩で、どの貴族がお供するかは、国王の名指しでした。
指名された貴族達は、その栄誉を感じつつ散歩に同行したのでした。

 ルイ14世の選択基準は、豪華な衣装・装飾を着けている者を選びました。
国王のお供をする者は、総てに最高でなければならず、其れゆえ国王の寵愛を得ようとする為には、借金をしてでも衣装・装飾を準備しなければ成りませんでした。
装飾の世界でフランスがヨーロッパ文化の中心と成った理由には、この様な事情が存在したのです。虚しい贅沢を続ける、貴族達の経済的な負担は莫大なもので、多くの貴族はますます政府、即ちルイ14世に頼らなければ経済的に成り立無い事態と成りました。

 ルイ14世は、フランスの領土拡張の為、積極的に外征をおこない、南ネーデルラント継承戦争(1667年~68年)、オランダ侵略戦争(1672年~78年)、ファルツ継承戦争(1689年~97年)、更にスペイン継承戦争(1701年~13年)と絶え間の無い戦いの時代でも在りました。
スペイン継承戦争はスペインのハプスブルク王家が途絶えた後、ルイ14世は自分の孫をスペイン王に擁立する事を画策しますが、当然将来は両国が合体すると周辺諸国は警戒します。
ブルボン家の肥大化に警戒した周辺諸国は、ルイ14世の孫の即位に反対し、その結果起きた戦争です。

 スペイン継承戦争は、1713年ユトレヒト条約で終結し、この条約でルイ14世は自分の孫をスペイン国王にする事を列国に認めさせる事ができました。
但し、将来に渡ってフランスとスペインが合体しない事を条件とし、又この条約で、海外の植民地の多くを失いました。
領土と引き換えに反対する国々を買収した結果ですが、特にイギリスは、北アメリカや地中海に領土を増やす事に成ります。

 ルイ14世時代のフランスは、度重なる戦争で、僅かな領土を拡大しますが、戦争の負担は重税という形で国民に伸し掛かり、徐々にフランスの経済を悪化させていきます。
ルイ14世の失政の一つが、1685年の「ナントの勅令」の廃止でした。
この結果、信仰の自由を認められなくなったユグノーは、フランスから逃れてオランダ等に移住しました。
ユグノーは、豊かな商工業者がその多数を占め、結果として富裕な市民階級がフランスから消滅し、政府の税収は激減、産業の発展という意味でも大きな損失となります。

 ルイ14世治世末期には、人口の一割が乞食同様と云う記録も存在し、農民反乱もしばしば起こりました。
虚飾の影で、フランスの政治、経済の矛盾は増大し、この矛盾が爆発する時が、ルイ16世時代のフランス革命なのです。

フランスの絶対主義終わり・・・

2012/03/06

人類の軌跡その323:フランスの絶対主義②

<フランスの絶対主義その②>

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ルイ14世(8歳)

◎フランスの絶対主義

 1598年、アンリ4世は、ユグノー戦争を解決する為に、「ナントの勅令」を発布し、カトリック、ユグノーの両派に信仰の自由を認めたのでした。
現在では、信仰の自由は一部の国家地域を除いて国民の権利ですが、当時はカトリックの国が国民に違う宗派の信仰を認める事自体、大変異例の事でした。

 信仰の自由が認められ、ユグノー勢力もアンリ4世を国王として認め、ユグノー戦争はようやく終わり、この内乱の結果フランスの大諸侯の力が衰えた為、アンリ4世は後に続くブルボン朝の安定期を迎える基礎を構築し、絶対主義実現の為の条件が揃っていきます。

アンリ4世の後継者がルイ13世(在位1610年~43年)で在り、彼を補佐した宰相がリシュリューです。
リシュリューは、フランスを発展させる為に誠心誠意努力した人物で「余の第一の目標は国王の尊厳であり、第二は王国の盛大である」とは有名な言葉です。
ドイツで起きた三十年戦争にも介入し、領土を拡大する等、この時代にフランスはヨーロッパの政治に大きな影響力を持つ国家に成長します。

 ルイ13世を継承した国王がルイ14世(在位1643年~1715年)で彼の治世に於いて、フランス絶対主義は絶頂期を迎えました。
ルイ14世は、僅か5歳で即位した為、宰相マザランが執政として政治を司りました。
マザランもリシュリューと同様、フランス王国と王権の発展を目指し、王権を強化する為に貴族階級の既得権を停止する事を画策し、フロンドの乱(1648年~53年)が起こります。
一時期反乱軍がパリを占領し、マザランは幼いルイ14世を連れてパリから逃れますが、最終的に反乱は鎮圧され、結果的に中央集権化が進行しました。
1661年、成年に達したルイ14世の親政が開始されます。

◎ルイ14世の統治

1、経済政策

コルベールを大蔵大臣に任命し、重商主義政策を展開、その活動が殆ど無くなっていたフランス東インド会社を再建し、海外貿易に乗り出しました。

2、文化奨励

現在イメージとして思い浮かべる、ヨーロッパの王侯貴族の礼儀作法や生活態度等を整備した人物がルイ14世です。
宮廷貴族の礼儀作法、服装等、この時代に確立したものが大変多く存在します。

3、ヴェルサイユ宮殿の造営

パリから南西約20キロ離れた場所に、大規模な宮殿を造営しました。
宮殿には国王、貴族、官僚など5000人以上が居住し、宮殿の周囲の付属の建物には、兵士や召使い等1万5000人余りの人間が住んでいたと云います。
宮殿なのですが、国王の住居だけでなく政府機能もここに移動したのでした。
巨大な宮殿を造営した国王ルイ14世の威光は高まり、後にヴェルサイユ宮殿を真似した宮殿が世界中で造られ、日本の赤坂離宮、現在の迎賓館もヴェルサイユ宮殿をまねたものです。
そして、フランスの貴族達は、嘗ての様に王権に反抗するだけの力は存在せず、国王から年金を貰って暮らしている者も居る状況でした。

続く・・・

2012/03/05

人類の軌跡その322:フランスの絶対主義①

<フランスの絶対主義その①>

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アンリ4世

◎ユグノー戦争

 フランスでは1562年から1598年迄の間、ユグノー戦争が勃発し、近隣諸国では、ネーデルラント独立戦争、イギリスではエリザベス1世が即位しています。
ユグノー戦争は宗教戦争であり、フランスはカトリックの国ですが、宗教改革の影響で新教、特にカルヴァン派の影響力が強まり、宗教対立が激しく成った結果起きた内乱でした。
カルヴァン派をフランスではユグノーと呼称します。

 国王を中心とするカトリック勢力とユグノーの諸侯が対立し、長い内戦が続きました。
その内戦の中心的事件は1572年に発生したサン=バルテルミの虐殺事件です。
国王側と、新教側が和解する事と成り、国王の妹マルグリットが、ユグノーの指導者ブルボン家のアンリと結婚しました。
この結婚を祝う為に、全国からユグノーの有力者がパリに集結したのですが、国王側が彼等を騙し討ちで虐殺した事件です。
この事件を発端に内乱は激しさを増して行きます。
サン=バルテルミは聖人の名前で、虐殺の始った日がこの聖人の祝日当たる為、事件名と成りました。

 この虐殺事件を後ろから指示した人物が、国王の母親カトリーヌ=ド=メディシスとされています。
イタリアの名門メディチ家出身の女性で、この女性が虐殺事件を起した訳では無く、単純にイタリア人と云うだけで、虐殺事件の悪役と成りました。
フランスでは、イタリアの名門貴族から王妃を迎える事が比較的多く、理由として当時は、イタリアがヨーロッパ文化の先進地域で、産業もフランスより発達していたと考えられます。

 ユグノー戦争が続く中で、王家ヴァロワ家の血統が絶え、国王の妹マルグリットを妻としたブルボン家アンリに王位が巡り、ブルボン朝が成立します。
当時35歳のアンリは即位してアンリ4世(在位1589年~1610年)と成ります。

 しかしながら、フランス国民の大部分は、アンリ4世を国王と認めませんでした。
フランス人は、カトリック信仰者が多数派でユグノー派は少数、しかもアンリ4世はユグノー派の為、彼をフランス国王と認めたのは全土の六分の一で在り、首都パリに入る事も出来ませんでした。
アンリ4世は、ユグノー派からカトリックに改宗し、この行為によってカトリック派は国王支持派に成りました。
一方、ユグノー派は、アンリ4世の行為を裏切り行為とします。

続く・・・


2012/03/03

人類の軌跡その321:絶対主義の終焉④

<絶対主義の終焉:イギリスその④>

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ウィリアム3世

◎王政復古と名誉革命

 チャールズ2世は即位にあたり、ピューリタン革命中の人々の言動を罪に問わない事、ピューリタンの信仰も認める事を約束し、更に革命中に発布された政策も一部は認めます。
航海法は、チャールズ2世即位後も実施され、ステュアート朝は復活しましたが、政策の総てが革命前に戻った訳では在りませんでした。
チャールズ2世は最初、議会との融和を図りますが、時間の経過と共に絶対主義的な思想が復活してきます。同時期のフランスはブルボン朝ルイ14世が、絶対主義の典型的権力を掌握していました。

 更にチャールズ2世は、カトリック信者を官僚に任命しますが、イギリス国王はイギリス国教会首長の立場に在り、チャールズ2世は隠れたカトリック信者の為、カトリックの官僚を利用して専制政治の復活を目論見ます。
一方議会は1673年に「審査法(審査律)」を制定し、イギリス国教会信者以外の官職登用を否定し、更に、1679年、「人身保護法(人身保護律)」を制定し、国王による不当逮捕と投獄を禁じ、議会と国王の対立は徐々に高まりました。

 チャールズ2世崩御の後、弟のジェームズ2世が即位しますが、彼も政治的信条は絶対主義でした。
しかも、ジェームズ2世はカトリックである事を公言していた為、イギリス国教会の首長として相応しい人物では無く、議会との不協和音は高まるばかりでした。
しかし、議会は沈黙を守ります。
ジェームズ2世の即位は52歳で、後継者たる息子は存在せず、年齢的に王子が誕生する可能性は極めて少ないと考えられていましたが、そのジェームズ2世に息子が誕生した事から、議会も動き始めました。

 議会はジェームズ2世を追放し、新王を選定する協議を開始した矢先に彼は亡命し、国王自ら国事を放棄した事から、議会は一滴の血を流す事も無く革命に成功し、これを名誉革命と呼称します(1688年)。
流血が無かった事が名誉であり、国王を処刑した先のピューリタン革命は名誉では無く、現在のイギリス人も余り触れたくない歴史的事件でした。

 ジェームズ2世に代わって、イギリス国王として招かれた人物は、オランダ総督ウィレムとその妻メアリでした。
メアリはジェームズ2世の娘で、二人はイギリス国王として招かれるにあたり、イギリス議会の要請を受け入れ、議会の権利、伝統的な国民の権利等を尊重する宣言を布告します。
これを「権利の章典」(1689年)と呼称し、成文憲法の存在しないイギリスで、国民の権利を定めた法律として現在でも重要な地位に在ります。

 ウィレムとメアリ夫妻はイギリス国王として、ウィリアム3世(在位1689年~1702年)、メアリ2世(在位1689年~94年)と成り、二人は同時に国王と成り共同統治が開始されました。
名誉革命以後、イギリス国王は政治上の主導権を発動する事無く、基本的に議会に国政を委ねました。

 1714年ステュアート朝は断絶、ドイツのハノーヴァー選定侯から遠縁の在る貴族が、イギリス国王として招かれました。
ハノーヴァー朝ジョージ1世の即位を迎えますが、この人物は生粋のドイツ人の為、英語は殆ど理解出来ず、殆どの国政は、大臣閣僚達に任せ、本人はドイツに住み、殆どイギリスでは生活せず、一方大臣閣僚達は国王に国家の運営を任された重責の為、一切の国政行為を担わざるを得ず、イギリスでは責任内閣制が発展し、イギリス国王の特徴として有名な「君臨すれども統治せず」の始まりでした。

 17世紀末、イギリスと他のヨーロッパ諸国を比較すると、フランスはブルボン朝、絶対主義の全盛期です。
ドイツやロシアは、絶対主義以前の段階で、国王が何とか貴族・諸侯の力を抑えたいと悪戦苦闘していました。
イギリスは、絶対主義の時代が終焉を迎え、国王の権力を制御出来る程に議会が力を持っていました。
議会運営の中心を担う階級が、海外貿易や産業を支配している市民階級で、イギリスはオランダと並んでいち早く、市民階級が権力を握る様に成った国でした。

絶対主義の終焉:イギリス終わり・・・

2012/03/02

人類の軌跡その320:絶対主義の終焉③

<絶対主義の終焉:イギリスその③>

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◎共和政時代のクロムウェルの政策

1、1649年アイルランド侵略

 イギリスは、王党派の地盤で在ったアイルランドに軍隊を派遣し、この島を占領します。
征服されたアイルランドの人口は半減し、クロムウェルはアイルランド人の土地を徹底的に没収しました。
この結果、耕地の三分の二はイギリス軍将校と、戦費を出資したロンドン商人の所有物と成り、アイルランドの農民は小作人として徹底的に搾取され、飢餓に見舞われた生活を送ります。
これ以後、アイルランドは20世紀に至る迄イギリスの植民地と成りました。

2、1651年航海法制定

 イギリスの海外貿易上最大の競争相手、オランダに打撃を与え、イギリスの産業を保護する為の法律でした。オランダ船籍の貿易船が、イギリスとその植民地の港への寄港を拒否します。
この法律が原因となりオランダとの間に第一次英蘭戦争(1652年~54年)が勃発、数度の海戦が発生しますが、勝敗はつかず、講和条約はイギリス側に有利に結ばれました。

3、1653年クロムウェル護国卿に就任

 護国卿の地位に関する歴史的解釈について、クロムウェルは本来国王の地位を望みましたが、軍部の反発を招き護国卿の地位に甘んじたとも云われ、反対に、国王の地位は望みませんでしたが、イギリス国民は国王同様の存在を望んだ結果、国民の要望に応えたとも云われています。

 クロムウェルは1658年に死去します。
終身護国卿として独裁政治を継続し、晩年にはその政治に対して不満を持つ勢力も存在していました。
クロムウェルの政治は、厳格でしかも熱心なピューリタン出身の為、酒や賭事は禁止され、庶民には楽しみの少ない時代と思われます。
クロムウェル死後、息子のリチャードが護国卿の地位を継承すると民衆の不満が爆発、リチャードには父親程政治的手腕が無く、政治運営は窮地と成り、翌年には政権を放棄しました。

 政権混乱の中、議会は王政復活を決定し、ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世の息子を、チャールズ2世としてイギリス国王に選定しました。
チャールズ2世は父親1世が処刑された後、フランス等ヨーロッパ各地を流転の生活を余儀なくされていました。
1660年、チャールズ2世が即位し、王政復古が成し遂げられ、ステュアート朝が復活します。

続く・・・

2012/03/01

人類の軌跡その319:絶対主義の終焉②

<絶対主義の終焉:イギリスその②>

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オリヴァー クロムウェル

◎ピューリタン革命

 さて、賠償金を支払う財源は、既存税率の引き上げ、すなわち増税です(現在アジアの東側に位置する何処かの国と似ています)。
しかし新たな課税を行う為には議会を開催する事が必要で、チャールズ1世は議会を開催しますが、当然議会は其れまでの国王の専制政治を批判し、チャールズ1世と対立しました。
結果的にピューリタン革命(1642年~49年)が勃発し、国王軍と議会軍が衝突を繰り返し、国王を支持する貴族達を王党派、議会側を議会派と云い、王党派は軍事的に圧倒的優位を誇り、一方議会派はジェントリや商工業者が中心の為、本来戦闘行為に熟れておらず、その兵士も義勇兵等の民兵が中心でした。

 軍事的に不利であった議会派を勝利に導いた人物がクロムウェルで、出身階層はジェントリ、宗教はピューリタン、典型的な議会派でした。
彼は、鉄騎隊を組織、王党派軍を撃破して行きました。
この鉄騎隊は、他の部隊と異なり、敬虔なピューリタンの信者を選抜して兵士に採用し、戦闘前夜にはクロムウェルと共に神に祈りを捧げ、宗教的な団結力のある部隊でした。
しかも、クロムウェルは兵士達に給金を払いました。
給金の遅配、欠配が当たり前の時代に画期的な行為で在り、更には兵士に能力が有れば、身分に関係なく隊長に任命しました。
出身が靴屋や馬飼いの隊長が存在しましたが、当時のヨーロッパは完全な身分制社会の為、能力本位の人材抜擢は非常に珍しい事でした。
部隊に規律と信頼、能力主義が、鉄騎隊の強さの裏づけ成りました。

 鉄騎隊の活躍は、やがて議会派軍の全てが、鉄騎隊を基本にした新型軍に改変され、クロムウェルは事実上その司令官と成り、新型軍は1645年にネイズビーの戦いで王党派軍を撃破、その後、戦況不利と成ったチャールズ1世はスコットランドに逃亡するものの、スコットランド軍に身柄を拘束され、イギリス議会に引き渡されました。

 この頃、議会派は三つのグループに分かれ、其々長老派、独立派、水平派と呼ばれていました。
長老派は穏健なグループで、国王に対して妥協的、革命に対してあまり熱心では無く、独立派は、王と妥協せず革命を遂行し、出身はジェントリが多数を占め、ピューリタン革命の中心勢力で在り、クロムウェルもこの派閥でした。
水平派は最も過激なグループで人民主権を主張し、貧しい農民出身の兵士に影響力が在りました。

 チャールズ1世を拘束した後、クロムウェルは国王に妥協的な長老派を追放、「暴君、反逆者、殺戮者」の罪名で国王を処刑します。
その後、国王の存在しない政治体制が10年程続きますが、この期間はイギリス史上唯一の共和政の時代で在り、政治を司るのはクロムウェル自身、彼は水平派の勢力も弾圧し、独立派のリーダーとして事実上イギリスの独裁者と成りました。

続く・・・