2012/04/28

人類の軌跡その363:清朝③

<清朝その③>

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鄭成功

◎清の全盛期

 順治帝を継いだのが、康煕帝(在位1661年~1722年)。
その後に続く雍正帝(在位1722年~35年)、乾隆帝(在位1735年~95年)の三代が清朝の最盛期であり、中国の長い歴史の中でも、平和で繁栄した時代です。

 康煕帝が即位した当時、まだ清朝の中国支配は不安定な面が存在していました。

 1673~81年に三藩の乱が勃発、呉三桂ら、藩王に封ぜられていた漢民族の将軍の反乱でした。
呉三桂の他に二名の藩王が反乱に加わった為この名前で呼ばれています。
清朝の支配が安定するに従い、大きな領土を持ちなかば独立国の様な藩王の存在は邪魔でした。
そこで、清朝は呉三桂らの領土や権限を停止しようと考えましたが、この事が反乱の大きな原因です。
呉三桂らは、「満州族の支配に反対する。滅んだ明朝を復活させるための戦い」と称して、自分の反乱を正当化しましたが、清が中国を支配したのは彼の寝返りで在り、その様な大義名分は、世論の支持を得る事は不可能です。
反乱軍は中国西南部を制圧して、一時は清朝に脅威を与えましたが、結局鎮圧されました。
結果、反乱が終息した後、清朝の支配はより強固なものに成っていました。

 1683年には鄭成功の台湾政権を滅ぼし、台湾を中国の領土に編入しました。
尚、清朝が北京に入城した時、中国南部には明朝の皇族を擁立した地方政権がいくつか誕生します。
清の中国支配に抵抗しますが、どの政権もそれほど大きな勢力に発展せず、すぐに清朝に滅ぼされていきます。
その中で最後迄、明朝の復活を唱えて清朝に反抗し続けたのが鄭成功でした。
この人物の父親は鄭芝龍と云い、密貿易に従事して日本にも来航しており、平戸の日本人女性との間に産まれたのが鄭成功なのです。
明が滅ぶと、海上から沿岸各地を攻撃して清に抵抗し、清朝は鄭成功勢力を孤立させるために、1661年遷界令をだして、沿岸住民を強制的に内陸部に移住させました。
この様な対策を実行する事事態、如何に鄭成功の力に手を焼いていたかという事です。

 因み、鄭成功は徳川幕府に幾度も使者を送り、援軍を要請しています。
幕府は、清朝側が優勢な事を知り、援軍を送る事は在りませんでしたが、明朝に忠節をつくして清に抵抗をつづける鄭成功は、母親が日本人と云う事も重なり、日本では有名に成りました。
近松門左衛門の『国姓爺合戦』という人形浄瑠璃があるのですが、鄭成功が主人公です。

 遷界令が発布されると、鄭成功は拠点を台湾に移します。
当時台湾にはオランダ人がゼーランディア城に要塞を築いていましたが、鄭成功は2万5千の兵力でゼーランディアを攻略して、オランダ人を追放し、ここに独自の政権を作りました。
鄭成功の台湾政権であり、翌年、鄭成功自身は死去しますが、その後20年間、台湾政権は大陸の清朝に攻撃を加え続けていたのです。
清朝には、当初海軍力が存在せず、台湾を攻略する事が出来ませんでした。
この台湾政権を滅ぼして、台湾島を併合したのが、1683年、康煕帝の時代でした。

 対外的には、1689年、ロシアとの間にネルチンスク条約を締結し、対等な条約で国境線を確定しました。
更に、中央アジアで大きな勢力を有していた遊牧国家ジュンガルと戦い外モンゴリア地方を領土に併合します。

 康煕帝は、自ら上記の反乱鎮圧等を指導し、指導力は抜群でした。
それだけでなく理想の皇帝に成る為、常に努力していた事で有名です。
早起きで、早朝の4時か5時頃には、政務を司り、午前中に政務を終えて、午後は学習の時間に成っていました。
儒学だけでなく、イエズス会の宣教師から、天文学、数学等も学びました。

彼の姿をイエズス会の宣教師ブーヴェが次の様に描いています。
「康煕帝は孔子の著書を大半、暗記されておられますし、シナ人が聖書と仰いでいる原典もあらかた暗唱されております。…皇帝はシナの古代大家の教説に対する尊敬を示されようとして親しく序文を執筆されて、注釈書の巻頭に掲げられ、御名をもってこの書を印刷せしめられたのであります。(ブーヴェ『康煕伝』より)」
 この本は、ブーヴェがルイ14世に献上したもので、ルイ14世に理想の君主像として康煕帝をお手本にして欲しいと思っての事でした。
中国歴代皇帝の中でも、指折りの名君と評価され、漢の武帝、唐の太宗、と並んで語られる事の多い皇帝です。

続く・・・
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2012/04/27

人類の軌跡その362:清朝②

<清朝その②>

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李自成

◎明帝国の滅亡

 宦官の横暴や党派闘争による政治の混乱、増税等で明帝国国内では反乱が続発する様に成りました。
その代表が李自成の乱で在り、1630年代以降、流賊と呼ばれる反乱集団が多数発生しますが、李自成の反乱軍もそのひとつでした。
流賊は都市を攻略し略奪を働き、明朝の正規軍が現れると、直ぐさま退却し今度は全く異なった別の地方に現れ都市の略奪を繰り返します。
馬を移動手段とする為、行動範囲が広く、流賊と呼ばれました。

 李自成の反乱軍は、極初期には略奪集団と全く異なる部分は無く、集団が大きくなるに従い儒学者の参謀が付き、李自成に新しい王朝を建てる様に進言します。
李自成もその意見に耳を傾け、略奪を繰り返す事は王朝建設にはむしろ逆効果、殺人や略奪は行わず、貧民に施しを行い、民衆の中に根ざした運動を意識する様に成りました。

殺牛羊
備酒漿
開了城門迎闖王
闖王来時不納糧

(訳)
牛と羊を殺せ(食事の為に)
お酒の用意をしよう
城門を開いて闖王(李自成)を迎えよう
闖王が来たら税金を取られないぞ
(『中国の大盗賊』高島俊男、講談社現代新書)

 この様な歌を、配下の者に歌わせて流行させ徐々に、民衆にも人気が出て来ました。

 明朝が、全力で李自成軍を鎮圧しようとすれば、其れは可能と思われます。
ところが、明朝は李自成軍鎮圧に全兵力を投入出来ませんでした。
理由は、北の清軍に備えて国境を防衛する必用が在り、明の精鋭部隊は万里の長城の最東端、山海関に貼りつき、離れる事が不可能でした。

 間隙を突いて勢力を増した李自成軍は、1644年、40万の大軍で北京を占領します。
明朝最後の皇帝崇禎帝は宮殿の裏山で、自決しあっけない明帝国の滅亡を迎えます。
李自成は、明朝に変わって新しい王朝を建国し、混乱続く中、明朝の行政機構を掌握して、皇帝即位式の準備を始めました。

 山海関を守備する明軍の司令官が、呉三桂将軍で清軍との戦闘中に、北京から知らせが来て、明朝が滅亡した事を知ります。
彼は明朝に仕える将軍なのですが、李自成からの手紙も届きます。
その内容は、明朝は滅んだが、李自成の新王朝の将軍として引きつづき山海関を守れ、と。
 呉三桂は、流賊出身の李自成に仕える気等無く、一転清側に寝返り、清朝のもとでの高位高官を交換条件に山海関を開き、清軍を中国本土に導き入れました。
清軍は呉三桂を先導役に、北京に向かって進撃します。

 李自成は清軍を迎え撃ちますが、簡単に撃破され、清軍の強力さを悟った李自成は、あわただしく皇帝の即位式を済まし北京を脱出します。
その後を追うように、清軍が入城して北京の新しい支配者となりました。
李自成が北京を占領したのが3月19日、清軍の北京入城が5月2日、僅か一月半が李自成の天下でした。
このあと、李自成は西安に逃れ、翌年、更に逃亡の途中、山中で武装勢力に殺害されてしまいます。

 明から清への王朝交替は、単なる皇帝家の交替では無く、清は満州族の国の為、漢民族が異民族の支配を受ける事を意味しました。
この事件の主人公である呉三桂の行動はその後論議を呼びました。
何故、彼は李自成ではなく、清に味方したのか、種々の話が存在します。

 一般に伝えられている話が「女性問題」説。
呉三桂将軍には陳円円と云う美しい愛人が居り、彼女は北京の呉三桂邸に住み、山海関を守っている呉三桂とは離ればなれです。
李自成が北京を占領した時、呉三桂が一番気にしたのが、陳円円の安否で、部下を北京に派遣して様子を探らせ、李自成は評判の美女陳円円を既に自分の宮殿に連れ込んでいました。
怒り狂って呉三桂は、清側に寝返ったと云いますが、講談等でおもしろおかしく話された後世の逸話と思われます。

 1643年、ホンタイジ崩御、6歳の息子が清の皇帝に即位し順治帝と成りました。
実権を握っているのは摂政のドルゴン、ホンタイジの弟です。
ドルゴンの指揮のもとで、清軍は各地の抵抗勢力を平定して中国全土を支配しました。
但し、当時の満州族の人口は60万、兵力は15万、この規模の軍事力で中国全土を支配するのは、物理的に無理で、清朝は投降してきた明の漢民族の将軍達を積極的に利用し、呉三桂がその代表なのです。
統一後は、漢民族の将軍達を藩王として、中国南部地方の支配を任せ、呉三桂は雲南地方の藩王となりました。

 北京入城前後の清軍と行動をともにした日本人がいます。
1644年4月に越前三国を出港したあと、漂流して満州に漂着した日本船が在り、乗組員は満州人に助けられ、彼等と一緒に11月に北京に入りました。
その日本の漂流民が清朝の印象を書き残しています。
「御法度、万事の作法は、ことのほか明らかで正しくみえる。上下ともに慈悲深く、正直である。嘘をいうことは一切ない。金銀がそこらにちらかしてあっても、盗み取るものはない、という。これにくらべて北京の方が風紀も悪い」
満州族が持つ素朴さ、朴訥さを誉めています。

続く・・・
2012/04/26

人類の軌跡その361:清朝①

<清朝その①>

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モンゴル・アルハンガイの自然

◎清朝の成立

 明代末期、中国東北地方で女真族が勢力を回復します。
女真族は、12世紀から13世紀にかけて中国北部に金を建国した事も在りましたが、モンゴルに滅ぼされて以来、元、明に服属していました。
しかし、明が朝鮮に侵入した秀吉の日本軍討伐に勢力を注いでいる間隙を突いて、再び力をつけて来たのでした。

 女真族の諸部族を統一したのがヌルハチ(1559年~1626年)、彼は、1616年、明から自立して、後金国を建国しました。
その後を継承した息子が、のホンタイジ(在位1626~43年)です。
彼は、モンゴル高原を勢力下に置き、この時に、モンゴル有力氏族に代々伝えられていた元朝玉璽、つまり元朝皇帝の印章を手に入れます。
これ以来、ホンタイジは女真族のハーンであると同時に、モンゴル人の大ハーンの地位を兼ねる事に成りました。
又、後金国の本拠地中国東北地方には、女真族に比較して何倍もの漢民族が定住しており、ホンタイジは女真族、モンゴル族、漢族を支配する事に成ったのです。

 1636年には、国号を清と改め、ホンタイジ自身も改めて皇帝に即位し、中国風の国号を採用する事で、多くの民族を支配する中華帝国の支配者となる事を宣言したのです。
この後、ホンタイジは中国本土への侵入を繰り返し、万里の長城を境として明との戦いが続きました。

 清の軍制が八旗で在り、女真族を八つの集団に編成して、そこから兵士を出させる制度で、清朝の正規軍と成りました。
それぞれに旗印があるので八旗と云います。
ホンタイジ時代にはモンゴル人、漢民族にも八旗を編成させ、蒙古八旗、漢軍八旗が編成されました。
八旗は、同時代の徳川幕府に於ける旗本の様な存在で、建国初期には大活躍しますが、特権的地位に安住して、清朝末期には、軍隊として使いものに成らなく成ったところも良く似ています。
これ以外にも、後に緑営と云う軍制度が作られますが、この制度は明の衛所制を引き継いだもので、主に地方の治安維持を担当しました。

 女真族には文殊菩薩信仰が存在し、文殊の音マンジュをとって、女真族を満州族という言い方があるのですが、ホンタイジの時代に、この表現が定着し又、中国東北地方を満州という地名で呼ぶ様に成りました。

続く・・・
2012/04/25

人類の軌跡その360:明帝国中期以降③

<明帝国中期以降その③>

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李朝・李舜臣将軍・秀吉の倭軍を閑山島沖で撃破

◎朝鮮半島

 一時、モンゴル帝国に服属していた高麗は、中国に明朝が成立すると、明の冊封国となりました。冊封は、中国の王朝と周辺国との関係で、冊封国は中国に対して、臣下の礼をとり、出兵の要請に応じ、朝貢するなどの義務を負いますが、中国の保護を受ける事が出来ました。

 高麗は倭寇の侵入で衰退し、倭寇撃退に活躍した将軍李成桂が高麗を倒して新しい王朝を建てました。
これが朝鮮(1392年~1910年)であり、李氏の王朝なので李朝と呼び、地名と区別する為に李氏朝鮮とも呼称します。
首都は漢城、現在のソウルに定めました。
政治は中央集権的で、中国例に倣って科挙を行いますが、政治の中枢は両班(ヤンパン)という貴族階級が掌握していました。

 外交的には明の冊封国と成り、後に明が滅ぶと清の冊封を受けました。
儒学の中でも朱子学が奨励され、国教的な扱いを受け、朱子学的な倫理、行動が何よりも重んぜられる国に成ります。

 李氏朝鮮成立前後の倭寇の被害は、可也激しいものが在りました。
例として、1397年に慶尚南道晋州を襲った倭寇は、騎馬700、歩兵2000という規模であり、私達が想像する海賊とは、大きく異なり軍隊そのものでした。
九州付近の守護大名規模の人物が関わっているとも思えます。

 李氏朝鮮と足利幕府は外交関係が存在し、朝鮮通信使と云う使節が何度か日本に渡航します。
1429年に来日した朝鮮通信使・朴瑞生の帰国報告を紹介すると、

「倭賊嘗て我が国を侵略し我が人民を虜し、以て奴婢と為し、或いは遠国に転売し、永く還らざらしむ。
其の父兄子弟、痛心切歯するも、未だ讐に報いることを得ざる者、幾何人か。臣等の行くや、船を泊する処毎に、被虜の人争いて逃げ来たらんと欲すれども、其の主の枷鎖堅囚するを以て未だ果たせず。誠に愍れむべきなり。
日本は人多く食少なく、多く奴婢を売り、或いは人の子弟を竊みて之を売る。
滔々として皆是なり。(『世宗実録11、12乙亥』より)」

文意
 日本に行ってみると、倭寇に拐われ奴隷にされた朝鮮人が数多く居て驚きます。
通信使を見て、助けを求められますが、皆鎖につながれて逃げる事もできません。

 この時代から少し降って、戦国時代には、戦国大名間で敵の領地から人を拐い、奴隷として売ることが日常的に成りました。
奴隷は海外にも輸出されていて、南蛮貿易でポルトガル商人が日本で買いつける重要商品のひとつでした。
秀吉の朝鮮侵略でも多くの朝鮮人を奴隷として連行しています。

 李氏朝鮮の国王で、重要な人が世宗(在位1418年~50年)。
セジョンと発音し、世宗は「訓民正音」を制定しました。
現在のハングルの事で、それ以前迄は朝鮮半島で使用された文字は漢字だけで在り、民族の言語を表す文字は存在しませんでした。
ハングルは非常に合理的につくられた文字ですが、朝鮮では中国文化の影響力は圧倒的で、訓民正音制定後も公式文書は漢文でした。
ハングルが一般に広まるのは19世紀の末です。
因みにハングルの意味は「偉大な文字」であり、この様な名称で呼ぶ習慣は、朝鮮が日本の植民地に成った後でした。

 15世紀以降の朝鮮は、両班(ヤンパン)の党派闘争が続くのですが、朝鮮の政治を見ていると、政治闘争が朱子学の倫理と密接な関係を持って展開するので非常に解りづらいものが在ります。
党派党争は存在しても、流血の事態は多く在りません。

 16世紀末には豊臣秀吉の侵略を受け、壬辰・丁酉の倭乱が起こりました。
劣勢に立たされた朝鮮は明軍の救援を求めますが、水軍を率いた李舜臣(イスンシン)など、後世に名前を残した朝鮮人将軍も存在します。
多くの戦いに勝利をもたらした亀甲船は、船の上を亀の甲羅状に板で覆い、日本兵の斬り込みを防ぎ、側面の隙間から大砲を撃って攻撃を行いました。
海を渡って兵士に糧食を補給しなければならない日本側は、李舜臣率いる亀甲船の水軍におおいに苦しめられたのでした。

明帝国中期以降終わり・・・
2012/04/24

人類の軌跡その359:明帝国中期以降②

<明帝国中期以降その②>

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日本、対馬・壱岐に上陸した朝鮮軍

◎張居正

 北慮南倭の対策で、国防費が増加し、国家財政は大赤字に成り、永楽帝以来、明の皇帝は凡人が続いて、宦官の横暴がまかり通っています。
この状態を一時立て直したのが張居正、10歳で即位した万暦帝(在位1572年~1620年)の後見人として政治を担当した大臣です。
非常に剛胆な性格で、正しいと思った事は、反対に屈せず実行に移しました。
又、綱紀を粛正し、税金は取り立てを厳格に行い、浪費を戒め、官僚組織を引き締めます。
この結果、税の滞納率20%、年間100万両以上の赤字が、1576年には390万両の黒字に成ったと云います

 一条鞭法と云う新しい徴税方法がこの時期、全国に広がります。
さまざまな徴税項目が存在し、非常に煩雑な租税と力役を、それぞれ銀納化した制度で、徴税事務が簡素化され、里長クラスの農民の負担が軽く成りました。

 張居正が後見人を担当している時期に、彼の父親が亡くなりました。
父が亡くなれば、当然喪に服して仕事を休む事に成りますが、中国は儒教の本場です。
官僚は儒教道徳のお手本ですから、親が亡くなれば一年乃至二年は故郷に帰って喪に服し、仕事から離れるのが常識でした。
ところが、張居正は、皇帝に頼んで、「父の喪に服さず、正常の勤務をつづけよ」と命令を自分に出させます。
つまり、政務を継続したのですが、儒教道徳から見れば、前例の無い行動でした。
それ程、皇帝に使え、明朝の政治を引き締めた人物でした。

 張居正が約10年間宰相として政務を担当した間は、彼を批判できる人は誰も居ませんでした。
実績も上げていたので当然ですが、彼の死去した後、特に父親の喪に服さなかった事等が批判の対象となり、残された家族は弾圧されました。
又、張居正が存命中は、真面目に政務に臨んだ万暦帝も、彼の死後、急に政務に対して熱意を失い堕落した生活を送る様に成ったと云います。

◎明末期の政治

 張居正が建て直した明の財政でしたが、その後軍事費負担が再び増大し、急速に悪化します。
1592年から98年迄、豊臣秀吉が朝鮮を侵略し、日本では、文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と呼ばれています。
秀吉が朝鮮に戦争を仕掛けた理由は、種々存在する様ですが、この時期の秀吉は、中国を征服しようと真剣に考えたと思われます。
その為、中国への道筋にある朝鮮に協力を命じますが、朝鮮は、明朝の冊封国の立場ですから、秀吉の命令等に従う筈は無く、秀吉は朝鮮を罰するとの名目で、諸大名に命じて朝鮮侵略戦争を開始したのでした。

 当時、日本の武士は、戦国時代を経験し戦さ慣れしており強よく、鉄砲等を数多く保有し、朝鮮軍よりも武器で優れていました。
朝鮮の正規軍は、当初日本軍に連戦連敗し、明に救援を求めます。
朝鮮国は明の冊封体制に組み込まれていて、形式上、朝鮮国王は明国皇帝に対して臣下の礼をとっている為、朝鮮国の上に立つ明としては、助けを求められたら、之に応じなければなりません。
明の大軍が朝鮮半島に遠征し、ここで日本軍と刃を交えました。
最終的に、秀吉が死に日本軍は撤退するのですが、明はこの戦争で10万の戦死者と1000万両の出費を強いられます。

 更に、同時期に南方では少数民族であるミャオ族の反乱、北の国境の町、寧夏ではモンゴル人将軍ボバイの乱等、戦乱が相次ぎ、中国東北部にいた女真族にも動きが在りました。
彼等は明に服属していたのですが、日本軍の侵入で明軍が朝鮮半島に向かった間隙を抜い、部族を統一して急速に力をつけてきます。
1616年、女真族は後金国を建国し、明朝と対立します。

 明の皇帝は、財政赤字を克服する為に、正規の政府機関を使わず、私的に宦官を地方に派遣して、種々名目の新税を徴収しますが、宦官たちは、強引な方法で税金を集めたので、各地で混乱や、騒動が相次ぎました。
都市での商工業者の抵抗を民変、農村での抵抗を抗糧闘争と云い、小作料支払いを拒否する抗租闘争も活発になります。

 更に官僚の中にも派閥対立が生じ、宦官が政治に関わる現状に批判的で、清廉潔白な政治を実現しようとする官僚達が東林党を組織する一方で、宦官との交わりを強くする現実的な官僚達(非東林党)に分かれます。
東林党の志は立派なのですが、宦官達に弾圧され、非東林党との派閥抗争の結果、明の政治は更に乱れていきました。

続く・・・

2012/04/23

人類の軌跡その358:明帝国中期以降①

<明帝国中期以降その①>

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明朝沿岸部を襲う倭寇

◎北虜南倭

 15世紀中頃から、「北虜南倭」と伝えられる事態が、明朝に大きな被害と、軍事支出の増大による財政圧迫を招きます。

 北虜とは、北から攻めてくるモンゴル系遊牧民族の事で、モンゴル高原に退去したモンゴル族は、チンギス・ハーン直系の勢力をタタール、傍系で新しく勢力を伸ばしてきた部族オイラートと呼称する様に成りました。
15世紀中頃、オイラートにエセン・ハンと云う有能な統率者が現れ、勢力を伸ばしました。
エセン・ハンは、西のティムール帝国と東の明帝国を繋ぐ交易路を手中に治め、更に明と朝貢貿易を行い莫大な利益を得ていましたが、明が貿易を制限しはじめると、貿易拡大の要求を掲げて明に攻め込みます。
1449年、時の皇帝が正統帝、宦官の言動に動かされ、自ら軍隊を率いて出撃しますが、北京北方の土木堡で、モンゴル側の捕虜に成りました。
之を、土木の変と云い、エセン・ハンは中国との貿易拡大が目的の為、明を滅ぼす事態には発展しませんでしたが、皇帝が捕虜に成る事は明帝国の大失態でした。

 エセン・ハンの死後、オイラートは衰退を辿り、変わって16世紀後半タタールがモンゴル高原を統一します。
指導者はアルタン・ハン、彼も、中国との貿易を求めて、中国北部に侵入を繰り返し、1542年の侵入では、男女20万人を殺し、家畜200万を奪い、莫大な衣糧金銭を奪ったと記録されています。
毎年の様に、北部国境付近で甚大な被害が発生し、明朝側も国防に相当の努力をはらいました。

 北方遊牧民の侵入を防ぐ為に、国防費は増加し、現在残っている万里の長城は、この時代に建設されたものです。

 南倭は主に中国南岸地方で活動した日本の海賊です。
之は、前期倭寇(14世紀)と後期倭寇(16世紀)に別れますが、倭寇は、日本では足利幕府の時代です。
足利幕府は、三代将軍義満の時迄、非常に不安定な政権でした。
南北朝の政治的混乱が続き、地方は事実上の無政府状態で、幕府は地方の隅々迄、統制する力は在りません。
この様な時代背景の中、五島列島等の貧しい漁民達が、倭寇と成り、更に明は海禁政策を行い、民間人の海外貿易を許可せず、中国貿易を求める商人達が海賊行為を行ったとも云われています。
之が、前期倭寇にあたります。
従って、この時代の倭寇は、足利幕府が安定し、明との間に勘合船貿易が始まると終息を迎えます。

 応仁の乱後、足利幕府の統制が乱れ、再び倭寇が活動をはじめます。
之が、後期倭寇、中国南岸の港に来航し、貿易が上手く行かない場合、海賊として略奪を行う。
沿岸地方だけでなく、河川を遡り、都市を攻略して略奪を行う。
海上で、他の船を襲う海賊行為だけでは在りませんでした。

 「倭人の至る所、人民一空す」と云われ、人間迄拐い、後期倭寇の被害に明は苦しむのですが、この時代、倭寇の構成員は、ほとんどが中国人で、日本人は一割から三割と云われています。
現在の様な国境や国籍の意識は、当時の人達には存在せず、例えば、後期倭寇の大親分で王直と云い中国人が居ますが、彼の本拠地は五島列島でした。
当人達は、海の世界に暮らす者どうし仲間意識は存在しても、日本人、中国人と云う意識は存在しませんでした。

続く・・・

2012/04/21

人類の軌跡その357:明帝国番外編(再録)

<建文帝の行方>

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「世おのづから数といふもの有りや。有りといへば有るがごとく、無しとなせば無きにも似たり」。
幸田露伴の名作「運命」(大正8年)の冒頭の文書で、ここで露伴がえがこうとした題材は、中国明帝国の歴史の一こまでした。

 かくて露伴は・・・
「運移り、命あらたまるの時、多くは神異ありて、天意の属するところあるを示すものあり」。
明帝国を建国したのは朱元璋、即ち太祖洪武帝であり、平民から将軍となり、モンゴル人の元を打倒して、漢民族の中国を回復し、時に1368年、現在の南京に於いて皇帝の位に就きます。
その治世は31年の長きにおよび、1398年病を得て崩御、71歳でした。
長男は、早くに亡くなっていたので、その子供、皇太孫が帝位を引継ぎ、第二代皇帝建文帝と成りました。

 しかしながら、洪武帝には、多くの皇子が居り、皇子達は明の帝国を守るべき者として、それぞれ領地を与えられ、重要な地域に王として、存在していました。
中でも特に大きな勢力を有していたのは、現在の北京、当時の燕京で王と成った四男、燕王で在りました。
洪武帝崩御の時、燕王39歳、是に対して建文帝22歳。

 若い皇帝にとって20人以上に及ぶ、叔父達の王は、目の上の瘤以外何者でも無く、特に武勇の誉れ高い燕王は、一番の邪魔者で有りました。
建文帝は、燕王をはじめ、王達の勢力を削る為、姦計をめぐらせます。

 さて、これら20人以上に及ぶ王達の側には、王を補佐すべき者が洪武帝の命によって付けられており、言い換えれば、お目付け役であり、燕王の処にも侍僧が居ました。
この人物が、怪僧で名を道えんと云い、彼は自ら進んで燕王の付き人と成りました。
其の時「大王(燕王)が私を側に置いてくださいますならば、大王の為に白い帽子を差し上げましょう」、と云いました。
王の文字の上に白という文字を載せれば、皇という文字になります。

 元号は改まり建文元年(1399年)7月、終に燕王は挙兵します(靖難の変)。
挙兵の名目は、君側(皇帝の側)の悪を清めると云うものでありましたが、座して力を失うよりは、立って天下を定めよう、其れが燕王の意志であり、道えんの計で有ったに違い有りません。
建文帝は、互いに大軍を率いて善戦し、戦局は一進一退、3年余りの月日が流れ、最後の勝利は燕王に訪れました。

 1402年6月、燕王の軍は都の城門を埋め、建文帝は、援軍を願ったが終に空しく、城門を開き、文武百官は降伏します。
御殿には火の手が上がり、その中で皇后は自害、建文帝の所在も分からず、後に焼け跡から皇帝の遺骨が探し出されたものの、誰一人、皇帝の遺骸と確認できる者は居ませんでした。

 かくて、燕王は帝位に就き、世祖永楽帝と成り、その治世は22年間に及び、父の洪武帝に劣らぬ英主でした。
北方のモンゴルに遠征する事5回、内3回は、モンゴルの軍勢を打ち破り、又鄭和に命じて、大艦隊を率いて、南海遠征を行う事6回、その足跡は、遠くインド洋を越えアラビアに達し、1度はアフリカ沿岸に及びました。
南海の富は、中国に集まりますが、鄭和の遠征を建文帝の行方を探ろうとするものとの風説も、早くから湧いていました。

 永楽帝の時代、終に建文帝の消息は聞かれず、その後、皇帝の代の変わる事三度、正統帝の御世、正統5年(1440年)に及んでは、建文帝の末も38年の遠きに隔て、その時、老僧の姿と成って、宮中に建文帝は現れます。
勿論、正史には記録は無く、風聞を外史が伝えているのみなのですが・・・。

 外史によれば、「落城に及んで、建文帝は僧の姿となって、ひそかに城を抜け出し、名を改めて応文と称し、南の方を指して落ちていった。
各地を巡り、朝廷の追っ手を逃れつつ、山青く、雲白きところに、静に余生を送っていたのであった。
宮中に赴くや、往年の臣下を認め、直ちにその名前を呼んだと云う。
老僧の左足には、建文帝と同じほくろが在った。
それより、廃帝は老仏と呼ばれ、宮中に向かえられ長寿を保った」と伝えられています。

 以上の段落は、外史の一節ですが、不幸の死を遂げた皇帝や英雄に関して、その遺骸が確認されぬ場合、必ずと言って良い程、その生存説が現れます。
やはり、生きていて欲しいという、人々の願いから発したものに違い無く、では建文帝の場合も同様に虚構に過ぎないのでしょうか?
全ては、遠い歴史の中の出来事となってしまいましたが、「ああ、数たると、数たらざると、・・・ただ天、これを知ることあらん」、数奇の事件を述べ終わり、露伴は、こう結びました。

建文帝の行方終わり・・・

2012/04/20

人類の軌跡その356:明帝国④

<明帝国その④>

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鄭和南海遠征

◎永楽帝の政策

 永楽帝は、即位当初官僚達の人望を集める事が出来ませんでした。
官僚達は、永楽帝に位を簒奪された建文帝に仕えていたので、彼等から見れば、永楽帝は反逆者そのものです。
従い永楽帝と、官僚達との関係は何処か不協和音が伴い、南京の町そのものの居心地も悪いものでした。
暫く後、都を本来の本拠地である北京に遷しますが、これ以来、北京が中国の首都となります。
首都を遷したもう一つの理由は、北方の遊牧民族の来襲に備えるには、南京よりも北京の方が、都合が良いと云う戦略的な利用もありました。
当時の北京は、人口の三分の一がモンゴル人と云われ、元代以来定住したモンゴル人が可也定住していたのです。最近、良く話題に登る北京の裏町を胡同(フートン)と云いますが、これはモンゴル語が変化したものです。

内閣の設置

 洪武帝の時から六部を皇帝直属にして皇帝の独裁政治が進みましたが、実際には、皇帝が単独でできる仕事には限界が在り、皇帝の補佐役、秘書役が必要に成ります。
これが内閣で、中身は違いますが、用語だけは現在の日本に引き継がれています。

儒学の奨励、大規模な編纂事業

 反乱により帝位についた永楽帝は官僚、学者に人望が在りませんでした。
ここで学者とは、儒学を修めた者、儒学をマスターしなければ科挙の試験に合格出来ませんから、官僚も又学者なのです。
首都を北京に遷しても、官僚を動かさなければ帝国を治める事は不可能です。
そこで、学者の人気取りの為に、儒学を奨励し、更に大規模な編纂事業を行いました。
国家事業として大百科事典を作るのですが、百科事典を作る事は大仕事で、多くの学者を必要とします。
永楽帝時代に編纂された本が、『永楽大典』、『四書大全』、『五経大全』、何れも儒学関係の百科事典です。

 この様に学者優遇しますが、永楽帝は官僚、学者を信頼しきれず、宦官を遣って政治を司る事が多く、宦官を秘密警察として利用し、官僚の動向を内通させました。
宦官というのは、皇帝個人の使用人で在り、身分は低く、学問も無く、更に男でもなければ女でも在りません。
本来、政治の表面に出てくる事は、本来在ってはならない事なのですが、以来、明の政治は、宦官の横暴による混乱がしばしば発生しました。

遠征事業

 鄭和の南海遠征、1405年以来七回にわたり、南シナ海、インド洋の国々に大艦隊を派遣します。
これを鄭和の南海遠征と云い、この遠征はスケールが大きく、第一回の時は、62隻の大船団を組ました。
総員2万7千人、一番大きな船は、長さ137メートル、幅56メートル、マスト9本で、コロンブスのサンタ・マリア号は全長23メートル、長さで比較すれば6倍の驚異的な大きさです。

 遠征の目的は、明帝国の偉大さを諸国に知らしめて、朝貢を行わせる事。
もう一つ、裏の目的として建文帝の捜索があったといわれています。
靖難の変で敗れた建文帝は、南京で死んだと云われていたのですが、実は死体が確認されていませんでした。
当然、どこかに落ちのびて生きているのではないかと云う噂が常に在り、ヴェトナム方面で建文帝が生きているとの噂も在りました。

 艦隊の指揮官に任命されたのが鄭和。
この人物は、宦官で永楽帝が宦官を使った一例です。
鄭和は面白い生い立ちで、彼の家は、モンゴル時代に中央アジア方面から雲南省に移住してきた様です。
雲南省はラオス、ビルマと国境を接する中国南部の辺境で、明朝の支配下に入った時、12歳の鄭和は明軍に捕らえられて、南京に連行され去勢されてしまいました。
やがて、即位する前の永楽帝、燕王に宦官として仕える事に成りました。
靖難の変の時には燕王を助けて活躍し、即位後も永楽帝に宦官として仕えます。
鄭和は大男で、身長180センチ、腰回り100センチと云いますから、可也の体格で、性格も剛胆だったので、永楽帝は彼を武将として抱えていました。

 興味深いのは、鄭和がイスラム教徒だったことです。
鄭和の本来の姓は馬と云い、馬と云う姓はイスラム教徒に多い姓で在り、ムハンマドのムの音を漢字表記したものと推定されます。
鄭和の曽祖父の名前が、馬拝顔(バヤン)、バヤンと云う名は漢民族では在りません。
又祖父は、馬哈只(ハッジ)と呼ばれており、ハッジというのは、メッカに巡礼したことのある人に対する尊称です。
鄭和はイスラム教徒のネットワークや、出身民族の横の繋がりで、様々な情報網を持っていた可能性が在ります。その為に南海遠征の司令官に任命されたのでしょう。
インド洋を航海する時、星で緯度を測定するのですが、アラビア式測定器「カマール」を使用し、高度の単位として「イスバ」「ザム」というアラビア語を使用していました。
鄭和の艦隊は、アフリカ東岸に迄達し、第七回遠征では、メッカにも到達しました。

モンゴル遠征

 永楽帝は、モンゴル遠征を五回行いましたが、モンゴル人を服属させることは出来ませんでした。
漢民族皇帝自らモンゴル方面に遠征するのは、前漢の劉邦以来です。
五回目の遠征が65歳の時で、帰る途中に崩御しましたが、戦争で即位して、戦争で他界した皇帝でした。

明帝国終わり・・・

2012/04/19

人類の軌跡その355:明帝国③

<明帝国その③>

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永楽帝

◎永楽帝

 1398年、明朝初代皇帝洪武帝が崩御、第二代皇帝に即位したのが建文帝(在位1398年~1402年)でした。
建文帝は、朱元璋の孫にあたり、皇太子の長男が若くして死去した為、その息子が即位しました。
即位当時の年齢は、16歳でした。

 洪武帝には、死んだ長男以外にも息子が何人も居り、彼は皇太子以外の息子達を国境防衛軍司令官として各地に駐屯させていました。
現在の北京に、軍司令官として駐屯していたのが洪武帝の四男、燕王(えんおう)、此の地は、モンゴル人勢力と接する最前線でした。
元は明に滅ぼされたのではなく、モンゴル高原で存続しているのです。
この時代のモンゴル人の政権を北元(ほくげん)と呼び、後にタタールと呼ぶ様に成りますが、同じ国を指しています。
当然ながら、モンゴル人達は、何時中国に侵入して来るのか知れません。

 国境防衛の一番重要な場所が、北京で、其処の司令官を任されている燕王は、それだけの能力が在ったと思われます。
彼の率いる軍隊も強力ですが、兵士にはモンゴル系も多く在籍していました。

 建文帝から見れば、強大な軍事力を持つ実力者燕王は不気味な存在です。
自分の地位をやがて脅かすかも知れず、建文帝は燕王の持つ権限を奪取する企てを行いました。
両者の緊張が高まり、遂に燕王は建文帝に対して軍を動かしました。
「靖難の変(せいなんのへん)」(1399年~1402年)の始まりです。

 建文帝は、若いながら正統な首都をおさえる皇帝で、官僚、軍隊、殆ど総てが皇帝側に付き、燕王が有能な指導者で強力な軍団を率いていても簡単には勝てません。
結局4年越しの内乱となりますが、最後は燕王軍が皇帝の本拠地南京を一気に突く作戦で勝利し、建文帝は混乱のなかで死んだとされています。
勝利を掴んだ燕王は、皇帝として即位し、永楽帝(在位1402年~24年)と成りました。

続く・・・

2012/04/18

人類の軌跡その354:明帝国②

<明帝国その②>

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光武帝

◎洪武帝の政策

皇帝独裁権力の強化。

 具体的には、中書省を廃止して、六部と軍を皇帝直属に置きます。
唐の時代と比較すると、唐代は皇帝の下に中書省、門下省、尚書省が在り、その下に六部が在りました。
明代には最後に残った中書省も廃止する事により、皇帝の権限が強化されました。
皇帝の権限を制約する機関が、存在しない統治機構を中国史では皇帝独裁と云います。

一世一元の制。

 洪武帝の時代の年号は洪武、洪武何年と云います。
同一皇帝の時代は改元しない事を一世一元の制と云い、日本では明治時代から取り入れました。

衛所制。

 兵士を出す家を軍戸として、一般人の民戸と区別して戸籍を創り、軍戸から軍を編成する制度を衛所制と云います。

村落行政。

 村落行政に関し、元朝時代の放任を引き締める為に、里甲制と云う隣組制度を作りました。
110戸を里という単位に編成して、その中から裕福な農民が輪番で里長として、行政の末端を担わされます。
一種の農村自治制度です。

 里長に任された仕事で一番大変なのが、戸籍と租税台帳の作成。
台帳の事を賦役黄冊(ふえきこうさつ)と云い、税の徴収も里長の責任でした。
決められた税額より少ないと、里長は自腹を切る事に成ります。

 魚鱗図冊と云う、全国的な土地台帳も編纂されましたが、この土地台帳の名称は、土地の形が魚の鱗状に描かれている所から付いた名前です。

 明の時代は、元代に蔑ろにされた伝統的中国的秩序を回復しようと云う意識が在りました。
里甲制もその一つですが、更に、朱元璋は『六諭』を発布しています。
これは、法律と云うよりは、道徳の教科書にあたり、「親には孝行しろ」、「目上の者を尊敬しろ」、「村の仲間は仲良くしろ」、等儒教的な道徳を六つならべたものです。
この書物を、月に数回、村々の老人達に、皆の前で読ませました。
皇帝が直接、この様な形で、民衆にお説教をする行為は、それまでの時代には存在せず、明治時代に日本が真似ました。
教育勅語がそれで、500年後の日本が朱元璋の政治から影響されているというのは、興味深いものが在ります。
法律でも唐の律令を意識し、大明律令を編纂しますが、之も中国的秩序回復の一環でした。

続く・・・

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2012/04/17

人類の軌跡その353:明帝国①

<明帝国その①>

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南京:閲江楼

◎明の成立

 明(1368年~1644年)は、朱元璋によって建国されます。
皇帝としての呼び名が洪武帝(在位1368年~98年)、出身は貧しい農家の四男坊でした。
流行病で親も死に、口減らしの為にお寺の小坊主と成りますが、元朝末期、各地に群雄割拠し、政情は不安定に成りました。
お寺でも食べて行く事は困難な為、放浪の乞食坊主に成り、三年間程、各地を放浪しました。
未だ十代の朱元璋は、生活苦から、紅巾軍に参加しようと決意します。

 紅巾軍は、白蓮教の宗教結社からおこった元朝末期の反乱軍のひとつで、紅巾軍は多くの部隊が各地で活動していました。
朱元璋は、その紅巾軍の一部隊に志願するのですが、元朝の密偵と疑われて、志願を認められません。
やがて、部隊長が現れて、朱元璋の顔を一べつし、やっと志願が叶いました。
多分部隊長は、人並み外れた人相に、何かをやる男かもしれないと感じたのでしょう。

 朱元璋は紅巾軍部隊の中で目覚しい活躍し、軍の中で地位を上げていきます。
暗殺の手段をも使い、最後には紅巾軍の中心人物に迄登り詰めました。
当時元朝は、北京を中心に中国北部は支配していますが、反乱勢力を鎮圧する力は既に存在せず、中国南部には、様々な勢力がそれぞれ支配地域を作り抗争に明け暮れていました。
朱元璋は南京を本拠地に、次第に対立する勢力を打倒して中国の統一に成功しました。
明朝の成立でした。
その時、元朝のモンゴル人は、中国を放棄してモンゴル高原に退去します。

 中国歴代王朝の創始者は、その殆どが名門出身です。
何の身分の内、農民が王朝を開いたのは前漢の劉邦と、朱元璋だけでした。
無一文の身分から身を起こし、立身出世する歴史上の人物は、普通は民衆の心を捉えます。
例えば、日本では豊臣秀吉、中国でも劉邦も同様ですが、この朱元璋は全くそうでは在りません。

 理由は、非常に残虐で猜疑心が強く、皇帝に即位後、異常な迄に多くの人物を処刑しています。
なかには、自分が皇帝になる前に紅巾軍で、苦労を共にした部下達も数多く存在しています。
例えば、胡惟庸(こいよう)の獄(1380年)、李善長の獄(1390年)、藍玉(らんぎょく)の獄(1393年)という事件が起こりましたが、是等の指導者は、若い頃から朱元璋に仕えていて大臣や将軍に成り、謀反の罪で処刑された事件です。
事件そのものは、朱元璋による創作と思われますが、是等の事件で処刑された人数が常識を逸脱しています。
胡惟庸の獄が15,000人、李善長の獄も15,000人、藍玉の獄が20,000人。
一族郎党、関係者、少しでも嫌疑の在る者総てを処刑した結果です。
更に付け加えれば、皇帝の昔の乞食坊主時代を知っている者は、総て口を閉ざされた事を意味しています。

 朱元璋の后に馬皇后が居ます。
紅巾軍時代に二人は結婚し、互いに皇帝、皇后に即位した後も馬皇后は以前と同じ様に、夫の食事を作り身の回りの世話をしました。

 馬皇后にはこの様な話が伝わっています。
馬皇后は、51歳で病死するのですが、死ぬ前から長く病んでいました。
ところが、医者に診察を受けず、薬も全然飲もうとしません。
朱元璋が心配して差し向ける医者も総て追い返してしまいます。
心配した侍女が、「何故、医者に診てもらわないのですか」と尋ねると、馬皇后は「私はもう歳だし、どんな名医に診てもらっても助からない事は自分が一番良く判っている。もし、診察を受けて私が死んだら、夫は責任を追及して医者を殺すでしょう。だから、私は誰にも診てもらわないのです」。

 馬皇后は、夫の残虐な行いを嗜める事ができる唯一の人でした。
この様な人柄から、朱元璋が人望の無い反面、皆から敬愛されたのでしょう。

 朱元璋は全国を統一した後も、本拠地を変える事無く、現在の南京を首都としました。
当時の呼び名は金陵、統一王朝で、首都を中国南部にしたのは、明が最初でした。

続く・・・

2012/04/16

人類の軌跡その352:オスマン帝国の東④インド

<サファヴィー朝とムガル帝国その④>

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黄金の玉座に座り、手に鷹を乗せるアウラングゼーブ Wikipediaより

◎帝国の晩年

 父親を監禁して帝位を得た人物がアウラングゼーブ(在位1658年~1707年)でした。
ムガル帝国が繁栄していた最後の時代の皇帝です。
アウラングゼーブは、南インドのデカン高原を平定して、ムガル帝国の版図を最大にする一方、彼は非常に敬虔なイスラム教徒で、インド人に妥協してイスラムの教えを曲げる事を嫌いました。
その為、アクバル以来廃止されていたヒンドゥー教徒への人頭税(ジズヤ)を復活すると共に、ヒンドゥー教徒やシーク教徒を弾圧しました。

 是等の政策は、当然インド人の反発を招き、非イスラム教徒の離反、反乱が相次ぐ様に成り、アウラングゼーブは反乱鎮圧の為、王座に座る暇は在りませんでした。

 アウラングゼーブの様子を伝えるイギリス外交官の報告書が残っています。

 「ムガル軍のキャンプは不潔このうえない泥土の中にあり、兵士達の俸禄は一年以上滞っている。宮廷人は腐敗の極みにあり、何一つするにしても賄賂を要求する。
だが老皇帝一人だけは、尚可也の威厳を持ち純白の衣裳で前線を回る。
多くの兵が皇帝を見ようと群れる。
だが皇帝は彼らの方を見ず只手中の本のみに目を凝らす。
その本はコーランだった。」(1699年イギリス使節報告)

 コーランを頼りに一人でムガル帝国を支えている、アウラングゼーブの孤高の姿を伝えています。アウラングゼーブは軍人としては有能で、彼が生きていた間は、ムガル帝国は何とか、嘗ての栄光を保ちますが、彼の死後、各地の勢力がムガル帝国から自立し、帝国は急速に衰退し、デリー周辺を領土に持つだけの、一地方政権に成っていきました。

 変わって勢力を拡大した政権が、パンジャブ地方のシーク教国、ラージプート諸侯国、マラータ同盟等でした。
シーク教というのは、ヒンドゥー教とイスラム教を融合した宗教で、シーク教国は彼等の国で、マラータ同盟はマラータ族諸侯の連合政権でした。

 又、やがてインドを支配する事に成るイギリスが、マドラス、ボンベイ、カルカッタに商館を築いたのも、時期的にはアウラングゼーブの時代に重なります。
ほぼ同時期にフランスもシャンデルナゴル、ポンディシェリに商館を開いています。

ムガル帝国終わり・・・

2012/04/14

人類の軌跡その351:オスマン帝国の東③インド

<サファヴィー朝とムガル帝国その③>

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タージ・マハル

◎ムガル帝国の発展②

 成人後のアクバルは、軍事、政治共に才能を発揮し、まだ不安定だったムガル帝国をインドの大帝国に発展させました。
首都アグラを中心に、その領土は、現在のアフガニスタンから北インド一帯を支配下に治めました。

 アクバル他、ムガル帝国の支配者一族はトルコ系民族で在り、インド人では在りません。
しかも宗教はイスラム教で、支配地域のインド人は、その大多数をヒンドゥー教が占めています。
その為、ムガル帝国がインドを統治するには、インド人達に受け入れられる必要が有りました。
アクバルは、インド人に対して融和的支配を行います。
具体的には、ヒンドゥー教徒へのジズヤ(人頭税)を廃止しました。
ジズヤは、イスラム教の支配下に在る、非イスラム教徒が支払い義務を負う税でした。

 アクバルは最終的に、イスラムでもヒンドゥーでもない新しい宗教を創り、インド統合を考えていた様です。
もう一つは、積極的に北部インドの有力部族であるラージプート族の諸侯と婚姻関係を結びました。ラージプート族は、非常に好戦的な種族で、ムガル帝国でも統治が難しい相手でした。
この様な政策で、インド人の反発を事前に防ぎ、ムガル帝国の最盛期を現出しました。
只、インド全体を支配しているのでは無く、インド南部にはヴィジャヤナガル王国が繁栄しています。

 五代皇帝がシャー・ジャハーン(在位1628年~58年)。
タージ・マハルを建設した事でした。
タージ・マハルは、皇帝シャー・ジャハーンが愛妻ムムターズ・マハルの死を悼んで、彼女を祭る為に造営した廟です。
ムムターズ・マハルは17歳でシャー・ジャハーンと結婚し、36歳で産褥死しています。
18年間の結婚生活の間に、14人の子供を産みました。
ムガルの皇帝は、玉座に座る事はあまり無く、頻繁に一族や有力諸侯の反乱が起こり、国境で戦闘が行われた時は、皇帝みずから軍隊を指揮して、転戦しました。
ムガルの一族は本来遊牧民族の為、各地を転戦する時には家族を引き連れていました。

 タージ・マハルの後ろにはジャムナ川が流れています。
伝説では、シャー・ジャハーンは、川の対岸に黒大理石で、タージ・マハルと同じ形の自分の廟を建て、川に橋を架けて二人の廟をつなごうと考えていたと云います。
実際には、シャー・ジャハーンの晩年、帝位を息子に奪われ、アグラの宮殿に監禁されました。
死ぬ迄の8年間は、監禁された部屋の窓から、タージ=マハルを眺めて泣き暮らしていたと云います。

続く・・・

2012/04/12

人類の軌跡その350:オスマン帝国の東②インド

<サファヴィー朝とムガル帝国その②>

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フマーユーン廟

◎ムガル帝国の発展

 オスマン帝国、サファヴィー朝と同時期にインドでもイスラムの大国が出現しました。
ムガル帝国(1526年~1858年)です。

 建国者はバーブル(在位1526年~30年)。
バーブルは、ティムール帝国王族の血を引く人物で、本来中央アジアの都市、サマルカンドを本拠地にしてフェルガナ地方を支配していました。
ウズベク人の南下の際、本拠地を追われ、一族を率いて各地を転戦し、アフガニスタンのカーブルに根拠地を移し、サマルカンド奪還を目指しました。
ウズベク人の勢力との抗争を繰り返しますが、古地の奪回は果たせず、中央アジアで、国家を再建を放棄し、変わってインドに侵入しました。

 1526年、デリーを本拠地にしていたロディー朝を、パーニパットの戦いで撃破。
以後、本拠地をデリーに移して、インドの王朝として発展しまが、この時がムガル帝国の始まりでした。
ムガルの国名は、モンゴルが鈍ったもので、民族的にはトルコ化していますが、バーブルはティムールの子孫で、ティムールはチンギス・ハンの血を引いている事に成ります。
ティムール帝国、更にはモンゴル帝国の復活を意味するとも考えられます。

 インドに国を定めたバーブルですが、本当はサマルカンドに国家を再興する事が目的でした。
気候的に安定した中央アジアを好み、高温多湿のインドは、彼の好む処では無く、何かに付け、サマルカンドを懐かしみ、涙を流したと云います。
武人として、政治家としても有能だったバーブルは、文学の才能にも優れ、彼の「バーブル詩集」は、トルコ文学の傑作とされています。
 
 バーブルの後継者は、息子のフマーユーン。
フマーユーンには、次の様な伝承が残っています。
フマーユーンが大病を患い、心配したバーブルは息子のベッドの回りを巡りながら、自分を身代わりとして息子の命を助けてくれる様、神に祈りました。
やがてフマーユーンの病気が回復した直後、本当にバーブルは48歳で、逝ってしまいました。

 さて、ムガル帝国は未だインド全域を支配している訳ではなく、北インドには対抗勢力が数多く存在しフマーユーンは、この対抗勢力に敗走し、一時イランのサファヴィー朝に亡命します。
後に、サファヴィー朝の兵力を借りながら勢力を盛り返し、再びデリーを奪還します。

 変わって即位したのが、当時13歳のアクバル(1556年~1605年)で、この後50年間位に渡り、ムガル帝国を大帝国に発展させた、重要な皇帝です。

続く・・・
2012/04/11

人類の軌跡その349:オスマン帝国の東①

<サファヴィー朝とムガル帝国その①>

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ハナス湖とバインブルク高原

◎サファヴィー朝

 オスマン帝国とほぼ同時期に、イランで繁栄した王朝がサファヴィー朝(1501年~1736年)です。ティムール帝国が崩壊した後のイランに建国されました。
建国者はイスマイール1世、彼は名門の出身で、第四代正統カリフ、アリーの息子フサインと、ササン朝最後の君主ヤズデギルド3世の娘シャハル・バーヌーの血を受け継ぐと云われました。
イスラム教創始者とペルシア王家ですから、イスラム教徒のペルシア人にとってこれ以上の高貴な血筋は存在しません。
更に、イスマイール1世の生家は、サファヴィー神秘主義教団と云うイスラム宗派の教祖でも在り、可也の信者を集めていました。
イスマイール1世は、名門としての人望と、教団の指導者としての影響力を利用して、サファヴィー朝建国に成功したのです。
サファヴィー朝の特色として、イスラム教の中でもシーア派を国教とします。
伝統的にイラン人はシーア派が大多数を占め、西のオスマン帝国がスンナ派の為、対抗する意味も在りました。
皇帝の称号は、シャーを使用します。
これは、イランの伝統的な王号で、イスラム教国で在ると同時に、イラン民族の国家を意識したものでした。

 最盛期の皇帝がアッバース1世(在位1588年~1629年)。
オスマン帝国からイランの一部とアゼルバイジャン地方を奪還して領土を拡大し、更にホルムズ海峡に要塞を築いていたポルトガル人を追放、新たに首都イスファハーンを造営しました。

 アッバース1世の死後、サファヴィー朝は衰退していきます。

◎ティムール帝国衰退後の内陸アジア

 カスピ海、アラル海北部にカザフ草原が在ります。
この地域で、15世紀以降、キプチャク・ハン国に属するトルコ人と、トルコ化したモンゴル人の集団が合体し、ウズベク人という民族が生まれました。
彼等が、ティムール帝国崩壊後に、東トルキスタン地方に南下し、アラル海に注ぐシル川、アム川流域のオアシス地帯に達しました。
この地域にウズベク人が建国した国が、ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国、通称ウズベグ三ハン国と云います。
19世紀後半、ロシアに併合される迄存続し、現在CISの構成国ウズベキスタンに成りました。

 カザフ人は、キプチャク・ハン国に属していた遊牧部族が、ウズベク人が南下した後のカザフ草原で、数々の遊牧集団を吸収してできた民族です。
トルコ系で16世紀頃には、中央アジアで一大勢力に成長しますが、18世紀にはロシアの支配下に入ります。

 ウイグル人は、唐の時代から、モンゴル高原に在住したトルコ系の民族です。
本来は遊牧生活でしたが、この時期には東トルキスタンのオアシスに定住して交易に従事しました。東トルキスタンは、パミール高原東部の中央アジアで、トルコ系のウイグル人が定住してからトルキスタンと云う地名が生まれました。
14世紀以降にイスラム化し、政治的には、大きな勢力に服属をつづけ、チャガタイ・ハン国、モンゴル系遊牧国家ジュンガル、中国の清朝等の支配下に入ります。

続く・・・


2012/04/10

人類の軌跡その348:オスマン・トルコ帝国⑤

<オスマン帝国その⑤>

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レパントの海戦

 スレイマン1世は、イスラム教スンナ派を国教とし、壮大なスレイマン・モスクを造営しています。

◎オスマン帝国の統治

 バルカン半島、アナトリア地方、シリアの一部は、皇帝直轄地で、それ以外のエジプト、アラビア半島等は、在地の有力者に統治を任せて、税金だけを納めさせるという、比較的緩やかな支配の仕方でした。
直轄地では、ティマール制と呼ばれる軍事封土制を行いますが、之はセルジューク朝やマムルーク朝で行われていたイクター制を発展させたものでした。
騎士で在る、スィパーヒーに、一定の地域の徴税権を与える代わりに、軍事奉仕を義務づけるものです。

 オスマン帝国の皇帝、スルタンは、「二聖都の守護者」として宗教的権威を持ちます。
之はイスラム教の二大聖地であるメッカとメディナを支配下に治めていた事によります。
オスマン帝国は、各地にマドラサと呼ばれるイスラム法学の高等教育機関を設けて、ウラマー(イスラム法学者)を育成しました。
ウラマーは、更に有能な官僚として、民族に関係なく行政や司法、教育を担当し、イエニチェリ等奴隷出身の者でも、有能で在れば高い地位に就く事を可能としました。

 オスマン帝国の領土には、イスラム教以外の宗教を信じる者も存在します。
ギリシア正教、ユダヤ教等ですが、オスマン帝国は、是等宗教の信者にミッレトいう共同体を形成させ、それぞれのミッレトに自治と安全保障を与えました。
イスラム法に基づく生活を強制せず、自分達の問題は自分達で処理する事を認めたのです。
外国から商売等で入国する異教徒には、カピチュレーションと云う特権を与えました。

◎衰退

 スレイマン1世以後のオスマン帝国は、徐々に衰退していきます。
1571年レパントの海戦で、スペイン艦隊に敗北しますが、スペイン艦隊が無敵艦隊と呼ばれる切掛を作りました。
オスマン帝国は、この敗北で一気に地中海の支配権を失った訳では在りませんが、ヨーロッパ人にとって、レパントの海戦は象徴的な勝利でした。
この時期から、東西貿易の流れが地中海から大西洋に移りますが、之はオスマン帝国にとっては大きな後退を意味します。

 オーストリアとの紛争は断続的に続き、1683年オスマン軍がウィーンを再び包囲攻撃します(第二次ウィーン包囲)。
この包囲戦が失敗に終わると、今度は逆にオーストリア側が優位に立ち、劣勢のオスマン帝国は、1699年にカルロヴィッツ条約でハンガリーの支配権を放棄し、ハンガリーはオーストリアの支配下に入ります。

 ロシアも、黒海北岸にあるオスマン帝国の領土を徐々に簒奪して行きます。
フランスやイギリスもカピチュレーションを逆手に取って、オスマン帝国から利権を獲得して行きました。
17世紀後半以後は、国内でもスィパーヒーの反乱、地方総督の自立化傾向が強まり、オスマン帝国の弱体化が更に進行します。

 △余談

 モーツァルトに「トルコ行進曲」と云う曲が在ります。
モーツァルトは18世紀後半の人で、ウィーンで活動していました。
ウィーン包囲から百年も後に、なぜこの様な曲が生まれたのでしょうか?

 第二次ウィーン包囲の時、ウィーンを取り巻いたオスマン軍には、軍楽隊が在り、ウィーン市民に心理的圧迫感を与える為、何らかの音楽を演奏していたと思われます。
その音楽の記憶が、人々の間に微かに残り、やがてオスマン帝国が衰え、トルコ人が恐怖の対象から、異国情緒の対象に成った時代が18世紀後半と思われます。

オスマン帝国終わり・・・


2012/04/09

人類の軌跡その347:オスマン・トルコ帝国④

<オスマン帝国その④>

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ウィーン包囲

◎オスマン帝国の拡大その③

 最終的にオスマン軍は、ウィーンを陥落させる事に失敗し撤退しました。
しかし、このころからオスマン帝国は、ヨーロッパの国際関係に大きな影響力を持つように成ります。
特にイタリアの支配権を巡って、ドイツ、スペインのハプスブルク家と対立関係にあったフランスは、オスマン帝国に接近して友好関係を結びました。
 
 スレイマン1世は、フランス王フランソワ1世に恩恵として、オスマン領内のフランス人に対する治外法権、港湾での通商権、イェルサレムの守護権等の特権を与えますが、この保護特権をカピチュレーションと云います。
19世紀以後に成ると、フランス等ヨーロッパ諸国はこの特権を利用して、オスマン帝国に圧迫を加える事に成りますが、この時代のカピチュレーションは、オスマン帝国からのフランスに対する恩恵です。
オスマン帝国の立場の方が強力で在った証拠です。

 1538年には、プレヴェザの海戦で、スペイン・ヴェネツィア連合軍を撃破、東地中海の制海権を確立し、更にチュニジア、アルジェリア等アフリカ北岸、イラクを併合して、地中海を取り囲む大領土と成りました。

 絶頂期のスレイマン1世の姿を、オーストリア大使は以下の様に記しています。

「スルタンは地面から1フィート程度の、むしろ低い玉座の上に座っていた。
玉座は多くの高価な絨毯と精巧な細工を施したクッションに覆わていた。
…スルタンの表情は、厳しい威厳が満ちあふれ、我々が到着した際、式部官は手を取ってスルタンの面前に案内してくれた。
スルタンは私が口上を読みあげる間、耳を傾けていた。
わが皇帝陛下(カール5世)の要求に対して、見下すような物腰で、言葉少なく「良し、良し」と答えるだけであった。」
(オーストリア駐トルコ大使ビュスベックの書簡)

 スレイマン1世が、神聖ローマ皇帝カール5世宛に出した手紙は以下、

「朕は、諸スルタンのスルタン、諸君主の証、地上に於ける神の影(カリフ)、地中海と黒海、ルメリアとアナドル、ルームとカラマン、エルズルムとディヤルバクル、クルディスタンとルーリスタン、イランとズルカドゥリエ、エジプトとダマスカス、ハレプとエルサレム、全アラビアの諸地方、バクダードとバスラ、アデンとイェメンの諸国土、タタールとキプチャク平原の諸地域、ブダとそれに属する諸地、そしてまた我らが剣をもって勝ちえた多くの諸国土の大王でありスルタンである。
スルタン・セリム・シャー・ハンの子、スルタン・スレイマン・シャーである。
その方、スペインの諸地方の王カールであろう。以下の事を知れ……」
(スレイマン1世から神聖ローマ皇帝カール5世への親書)

 自分の支配する地名を列挙した挙句、カール5世は只「スペイン諸地方の王」との表現のみ、その権力の違いを見せつけています。

続く・・・


2012/04/07

人類の軌跡その346:オスマン・トルコ帝国③

<オスマン帝国その③>

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艦船を陸路で金角湾内に運ばせるメフメト2世


◎オスマン帝国の拡大その②

 難攻不落のコンスタンティノープルを攻略する為に、メフメト2世が行った奇抜な作戦が「山越え」でした。
海から金角湾に侵攻できないのなら、船に山を越えさせろと命令しました。
湾を一山こえた反対側の海岸から艦隊を陸揚げして、70隻の艦船が山を越えて、金角湾に侵入しました。
ビザンティン側はこの意表を突いた作戦に動揺します。
更に、城壁を破る為に「ばけもの」とよばれる超大型大砲を建造し、その長さ8メートル、砲弾の重さ600キロ、60頭の牛に引かせて、アドリアノープルから陸路移動しました。

 陸と海からの総攻撃で1453年5月29日、遂にコンスタンティノープルは陥落、ビザンティン帝国は滅亡、最後の皇帝コンスタンティヌス11世は、乱戦の中で戦死したと云われています。
この時オスマン帝国のメフメト2世は、23歳の若さでした。

 この後、オスマン帝国は、コンスタンティノープルに遷都し、やがてイスタンブールと呼ばれる街に成ります。

 セリム1世(在位1512年~20年)の時代には、西方に進出し、イランのサファヴィー朝を圧迫、更に、エジプトに侵攻し、マムルーク朝を1517年に滅ぼしました。
マムルーク朝は、モンゴルの攻撃で滅亡したアッバース朝のカリフを保護していたという話が在り、セリム1世は、マムルーク朝を滅ぼした時、カリフの子孫を見つけて、その「カリフ」の地位を譲り受けました。
事実は、19世紀頃にオスマン帝国の権威を形造る為に創作された伝説らしいのですが、少し前迄は事実として語られていました。
世俗の王とか皇帝等を意味する称号がスルタン、全イスラム信者の指導者としての称号がカリフ、両方を兼ね備えたオスマンの皇帝を「スルタン=カリフ」と19世紀頃から呼ぶようになります。
セリム1世の時代、オスマン帝国は、アジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸に領土を持つ大帝国に発展しています。

 更に領土を拡大して、オスマン帝国の最盛期を成した皇帝が、スレイマン1世(在位1520年~66年)です。
1526年、モハーチの戦いでハンガリーを撃破、属国化し、更にドイツ、神聖ローマ帝国に侵攻、神聖ローマ皇帝カール5世の領地であるオーストリアの都ウィーンを包囲しました。
1529年の第一次ウィーン包囲では、イエニチェリ1万5千、スィパーヒー4万で、ウィーンを攻めました。
 
 当時ドイツではルターの宗教改革が始まった頃、ルター派諸侯とカール5世の対立が激しく、カール5世は、オスマン帝国の攻撃を凌ぐ為、この時ルター派の信仰をいったん認めました。
因みに、ルターは「トルコ人はヨーロッパの腐敗に対する神の罰だ」と言っています。

続く・・・

2012/04/06

人類の軌跡その345:オスマン・トルコ帝国②

<オスマン帝国その②>

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コンスタンティノープル攻略

◎オスマン帝国の拡大

 ムラト1世の時代、イエニチェリと呼ばれる軍隊が組織されました。
これは、新に領土バルカン半島で、白人キリスト教徒の少年を奴隷として組織した軍隊です。
40戸に1戸の割合で、身体強健、眉目秀麗な少年を差し出させ、彼等は、首都に集められた上、イスラムに改宗させられ、共同生活を営みながら軍事訓練を受けるのです。
イエニチェリはオスマン帝国を支える軍事力として、他国から恐怖の対象とされました。イエニチェリの部隊が移動する時は、先導に軍楽隊付き、演奏に合わせながら行進し、その先頭には、軍旗として大きな鍋が掲げられていました。
これは、部隊の兵士は皆、同じ釜の飯を食う仲間を意味し、彼らの団結の証で、バルカン半島各地では、遠くからイエニチェリの軍楽隊の音楽が聞こえてくると、農民は農作業を放棄した、家に隠れたと云います。
後に、ヨーロッパ各国も、イエニチェリを真似て、軍楽隊を編成する様に成りました。

 バヤジット1世(在位1389年~1402年)の時代、ニコポリスの戦い(1396年)で北方のハンガリー王ジギスムントと戦い勝利をおさめ、バルカン半島を支配下に置いたオスマン帝国は、東のアナトリア地方で領土拡大を図りますが、その方面にはティムール帝国が存在していました。
モンゴル帝国の復活を試みるティムールは、中央アジアを統一後、イラン・メソポタミアを領土に加えて、アナトリア地方に迄進出して来ました。
オスマン帝国は、ティムールをアンカラの戦い(1402年)で迎え撃ちますが、結果は、ティムールにバヤジット1世は捕虜とされてしまいます。
この時点で、オスマン帝国は一時は滅亡するのですが、一方ティムール自身も1405年には死亡し、オスマン帝国はその後再興されるのです。

 復活したオスマン帝国は、短期間の内にアンカラの戦い以前の領土を回復し、更に領土を拡張して行きます。
1453年メフメト2世は、コンスタンティノープルを陥落させ、ビザンティン帝国を滅亡させました。
ビザンティン帝国は、古代ローマ帝国からの流れを受け継いだ国家の為、1500年存続したローマ帝国が滅亡したとも考えられます。

 1000年以上もビザンティン帝国の都として反映した、コンスタンティノープルの守りは厳重を極め、三重の城壁に囲まれていました。
メフメト2世は10万の大軍でこの都を攻撃するのですが、城壁を破る事が叶わず、2カ月が過ぎます。
ビザンティン最後の皇帝コンスタンティヌス11世は、コンスタンティノープルが陥落する事は、既に明白で事実、多くの市民は都を逃れており、皇帝が戦える者を集めた時には、4773人しか存在しませんでした。
しかし、僅か4千で10万の軍勢を凌ぐ事が可能な程、鉄壁の守りだったのです。

 コンスタンティノープルの海に面している部分は、防御が弱く、オスマン海軍は海からの攻略を企てますが、ボスポラス海峡は潮流が速くてこの作戦は無理でした。
コンスタンティノープルには、金角湾と云う入り江が存在し、この入江に侵入できれば海上からの攻撃も可能です。
しかし、ビザンティン側は金角湾の入り口を巨大な鎖で閉塞し、オスマン海軍の侵入を妨げていました。

続く・・・

2012/04/05

人類の軌跡その344:オスマン・トルコ帝国①

<オスマン帝国その①>

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1389年6月15日 コソヴォの戦い

◎オスマン帝国の隆盛

 14世紀から20世紀初頭迄、長い間繁栄を続けたイスラムの大帝国がオスマン帝国です。呼び方も様々で、オスマン朝、オスマン・トルコとも云い、19世紀以降は単にトルコと書かれている事も多い様です。
国名の由来は、建国者の一族がトルコ人のオスマン族に由来します。

 トルコ人は本来、モンゴル高原から中央アジア一帯の草原地帯で遊牧生活を営んでいました。
やがて、長い年月と共に西に移動し、最初は、イスラムの国々で軍人として重宝されました。
遊牧民族の為、騎馬兵の戦力としては、右に出る者は無く、古くはマムルーク、つまり奴隷、として西アジアにつれてこられて、活躍する者も存在しました。
やがて、部族事にイスラムに改宗して、西に移動して行きます。

 オスマン族も同じ様に、東から移動し、1299年、現在のトルコ共和国のアナトリア地方に国を建てました。
建国者はオスマン=ベイ、都はブルサに定めます。
当初は、地方政権の一つに過ぎず、アナトリア地方には、同様な勢力が群雄割拠していました。

 オスマン帝国は、ヨーロッパに向かって領土を拡大しました。
ヨーロッパとアジアを隔てるのがマルマラ海、一番狭い箇所が、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡。
オスマン帝国は、ダーダネルス海峡を渡り、イスラム国家として、初めてバルカン半島に領土を獲得しました。
ムラト1世(在位1359年~89年)の時、バルカン半島のアドリアノープルに首都を移します。
コンスタンティノープルに都を定める、ビザンティン帝国は、次第にオスマン帝国に領土を奪われ、周囲を包囲された形に成りますが、コンスタンティノープルは難攻不落、ビザンティン帝国は海上貿易を継続し、此の後100年間存続します。

続く・・・

2012/04/04

人類の軌跡その343:貿易③

<商業覇権の推移その③>

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即位式 1837年6月20日
ヴィクトリア女王: Queen Victoria、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国女王(在位:1837年6月20日 - 1901年1月22日)、初代インド女帝(在位:1877年1月1日 - 1901年1月22日)

 ヨーロッパで戦争がおこると、それに呼応して北米大陸のイギリス勢力とフランス勢力が戦いました。
年代順に記すと
 1689年~97年、ファルツ継承戦争に対応して、北米で、ウィリアム王戦争。
 1702年~13年、スペイン継承戦争に対応して、北米で、アン女王戦争。
 1744年~48年、オーストリア継承戦争に対応して、北米で、ジョージ王戦争。
 1755年~63年、七年戦争に対応して、北米で、フレンチ=インディアン戦争。
これらの戦争を通じて、イギリスはフランスから植民地を奪い、北アメリカ大陸の支配権を確立していきました。戦争の名前は、フレンチ=インディアン戦争を除き、各戦争時のイギリス王の名前です。

 フランスはインドにも進出していて、1757年プラッシーの戦いを契機に、イギリスは本格的なインド支配をはじめ、フランスとの百年間の抗争は、イギリスの勝利で終わり、これ以後、イギリスが世界経済の中心と成って行きます。
20世紀、アメリカ合衆国が台頭する迄、この状態は続きました。

◎最後に

 ヨーロッパの商業覇権の移り変わりと、政治体制を整理すると、16世紀、商業覇権はカルロス1世、フェリペ2世時代スペインに在り、政治的には絶対主義、経済政策は重商主義でした。

 16世紀末、オランダがスペインから独立、国内産業の発展がなかったスペインはそのまま没落し、オランダが商業覇権を掌握し、一方ポルトガルもスペインと同じ運命を辿ります。

 オランダ独立を援助したイギリスは、エリザベス1世以後、政治的には絶対主義でしたが、17世紀中葉、ピューリタン革命、名誉革命で絶対主義が崩壊し市民階級が権力を掌握し、以後イギリスは急速に力を伸ばし、オランダを追い抜いて、覇権を握ります。
一方のフランスは、絶対主義の絶頂期ですが、イギリスに対抗して重商主義政策を推進、アメリカやアジアでイギリス、フランスがその勢力拡大に邁進します。

 18世紀後半、イギリス、フランスの先進的な部分を取り入れて、プロイセン、オーストリアの啓蒙専制君主は国家改造を画策した人物が、フリードリヒ2世やヨーゼフ2世でした。
プロイセン出身でロシア皇帝となったエカチェリーナ2世も、啓蒙専制君主として政治改革をします。
これらの国々は、イギリスやフランスの様に海外に進出できる様な地理的な条件が整わず、国内産業が未発達の為、穀物を西ヨーロッパに輸出する事で、貿易を成り立たせようとしました。
安い穀物を生産する為に、農民に対しては抑圧的政策を取り、海外貿易で富を蓄積し、市民階級が発言力を増すイギリス、フランスとは、反対の政治風土が生まれていきました。

商業覇権の推移終わり・・・
2012/04/04

人類の軌跡その342:貿易②

<商業覇権の推移その②>

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イギリス東インド会社・本社

◎商業覇権の移動

 海外貿易で富を蓄積した最初の国はスペインでしたが、オランダ独立の頃からスペインは衰退し、変わって17世紀前半、オランダが商業覇権を掌握します。
中継貿易と加工工業で繁栄し、アムステルダムはヨーロッパ金融の中心と成り、イギリスも海外貿易に乗り出しますが、オランダには対抗出来ませんでした。

 時代が進むと、ピューリタン革命、名誉革命の頃から、イギリスは急速に力を付け、オランダを凌ぐ様になります。
クロムウェルが制定した航海条例は、オランダを標的にした法律で、航海条例が原因で1652年から英蘭戦争がはじまります。
この戦争で商業覇権が、オランダからイギリスへ移りました。
たとえば、北アメリカではオランダが建設した植民地ニューネーデルラントが、1644年にはイギリス領に成り、後に、ニューアムステルダムと云う町が、ニューヨークと名前を変えて発展する事に成ります。

 アジアでは、モルッカ諸島から撤退を余儀なくされた、イギリス東インド会社はインド貿易に転換し、インドの綿織物をイギリスに運んだ結果、爆発的な人気を呼びました。
今では、綿布は、珍しい存在では在りませんが、木綿は軽く手触りが柔らかく、あたたかい。
しかも白い色には清潔感が在り、手軽に染める事も可能でした。
これは、それまで一般的だった毛織物にはなかった特色です。
香料貿易はオランダに独占されましたが、インド綿布の貿易でイギリス東インド会社は、莫大な利潤を得るように成り、やがて、綿織物を自国で安く生産する事を目的として、産業革命が始まります。
通常、イギリス東インド会社と総称していますが、厳密にはロンドン東インド会社(旧会社)、イングランド東インド会社(新会社)、合同東インド会社(合同会社)という三つの会社から成り立っていました。

 オランダにかわってイギリスが覇権を掌握するのは17世紀後半ですが、このイギリスのライバルとして、登場してくるのがフランスでした。
ルイ14世時代以来、積極的な重商主義政策を推進し、各地でイギリス勢力と衝突し、これを第二次英仏百年戦争(1689年~1815年)と云います。

続く・・・
2012/04/03

人類の軌跡その341:貿易①

<商業覇権の推移その①>

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奴隷売買

◎大西洋の三角貿易 

 アメリカ大陸と西インド諸島では、ヨーロッパからの入植者がサトウキビ、綿花、タバコを栽培する一方、金・銀を採掘しましたが、その労働力となったのは、アフリカ大陸から強制的に連れてこられた奴隷達で在り、生産した商品はヨーロッパに向けて輸出されました。

 一方ヨーロッパからは、工業製品、銃等の武器、綿織物やガラス工芸品等の雑貨をアフリカ、取分けギニア湾に面した地域に輸出します。

最後にアフリカが輸出する商品が奴隷で、ヨーロッパ商人は雑貨を売って、奴隷を買い、アメリカ大陸に運び、三角貿易は達成されました。
三角貿易の影響に関して、奴隷貿易で一番活躍した国がイギリスで、特にリバプール商人が有名で、この結果イギリスは、資本を蓄積して工業化を推進して行きます。

 アメリカ大陸では三角貿易の結果、農業のモノカルチャー化が進行し、単一種の作物しか栽培しない為、生産する作物が値崩れすると、モノカルチャー経済の国は経済破綻に遭遇しました。

 奴隷の供給と成ったアフリカは、社会に破壊的な影響が発生し、16世紀後半から19世紀初頭迄で、一千万人以上のアフリカ人が、奴隷として連れ去られたと云います。
更に多い数字を主張する研究者も存在しますが、人口が急速に減少した場合、その社会が発展する事は不可能です。
現在、アフリカは貧困で喘いでいますが、これは奴隷貿易によるダメージから、回復していないと考えて良いと思います。

 ヨーロッパの奴隷商人達は、奴隷狩り等の行為を行う事無く、ヨーロッパからの船がアフリカの港に入港した時には、現地の奴隷商人達によって、必要な奴隷が準備されていました。
アフリカ人の奴隷商人が居り、彼等は奥地に入って違う部族の村を襲撃して、奴隷を狩り集めました。
ベニン王国など、奴隷貿易で繁栄した国が成立したりもします。

 集められた奴隷達は、アメリカ大陸や西インド諸島に運ばれるのですが、この奴隷船こそが地獄でした。
奴隷船の内部構造は、一回の航海で、可能な限り多く運べる様に、船の内部を低い天井で仕切って奴隷を横に寝かせています。
逃亡や反抗が起きない様、全員の足首が鎖でつながっていました。
男女とも頭は剃られ全裸で在り、腕には会社のブランドマークが焼き付けられていました。

 大西洋横断に要する日数は約40日から70日。
船中の、衛生状態は最悪な為、伝染病、衰弱等で、奴隷達の死亡率は8%から25%、ほぼ6人に1人の割合で死んでいきました。

続く・・・