2012/05/31

人類の軌跡その390:フランス革命・恐怖政治②

<フランス革命⑫>

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最高存在の祭典(La fête de l'Être suprême)

◎ジャコバン派独裁その②

 そして、ジャコバン派独裁の最大の特徴が「恐怖政治」で在り、この時期に、反革命罪で非常に多くの人達が処刑されました。
ジャコバン派独裁の初期、国内各地で反革命の反乱が起きていたので、革命政府を守る為には、厳しい処分で反対派を押さえ込む必要が在りました。
又、最高価格令等、下層市民には有益な法律ですが、商工業者等上層・中層市民には、値上げが出来ず迷惑な法律です。
最高価格令を守らせる為には、強引な手段が必要で、その為、充分な裁判もないまま死刑が乱発されました。

 この時期に処刑された人数を考察すると、パリに革命裁判所が設置された1793年4月から94年6月10日迄の処刑が1251人。
一ヵ月平均130人前後で、一日では4.5人。
現在日本で一年間に、死刑執行される人数がほぼ同数です。
しかも、この数字はパリのみの数字で在り、94年6月11日からは裁判が簡略されて、処刑が激増し、7月27日迄の47日間に1376人、一日平均29人、昼間の8時間に死刑執行が行われると仮定すれば、一時間平均3.6人です。
当然、無実の罪で処刑された者も多かった筈で、ロベスピエールに冷酷な悪魔の様なイメージを持っている人が居るのも、これが原因です。

 ジャコバン派独裁の末期になると、ロベスピエールは同じジャコバン派の政治家達も処刑対象に成ります。
当然ながらジャコバン派の中にも、考え方の違いが生じ、下層民の支持を背景に、更に過激に革命を推進する左派グループと、上層市民に近い立場から穏健な政策を求める右派グループに分かれていきました。
ロベスピエールのグループは中間派で、自分達の路線を守る為に、左派、右派共に政敵として処刑します。
1793年3月には、下層市民に人望の高い左派のエベールとそのグループを処刑し、4月には、右派のダントンとそのグループを処刑します。

 ダントンは、ロベスピエールと並んで、嘗てはジャコバン派のリーダーの一人でしたが、金銭スキャンダルが絶えず、上層市民に近い立場をとっていた為に、処刑されたのです。
ダントンは、ロベスピエールの下宿の前を通ったときには、2階を見上げながら、「ロベスピエール、次はお前の番だ」と叫んだと云い、最後まで個性的で激しい男でした。

 この様な事態に至り国民公会の議員達は、皆「次は俺がやられるのではないか」と、不安に成ります。
国民公会には、ジャコバン派以外に平原派とよばれる一団の議員達が居り、彼らはジロンド派の追放とジャコバン派独裁を黙って見ていたグループです。
その平原派が、恐怖政治の行き過ぎ、ロベスピエールの独裁に不安を持ち、反ロベスピエールで結束します。

 ジャコバン派のなかでも、「やりすぎた」ロベスピエールは孤立します。

続く・・・
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2012/05/30

人類の軌跡その389:フランス革命・恐怖政治①

<フランス革命⑪>

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ジャコバン派の本拠地「ジャコバン修道院」Wikipediaより

◎ジャコバン派独裁

 1793年6月、ジャコバン派は、武装したパリ市民の力を背景に、ジロンド派の主要幹部を、国民公会から追放しました。
これ以降、約一年間、ジャコバン派独裁が続きます。

 政治の中心となったのは、ロベスピエール、6歳で母親を亡くし、10歳の時には父親が蒸発、兄弟達の面倒を見る為に、苦学して法律を学び、弁護士となった人です。
正義感が強く弁護士として、貧しい庶民の弁護を多く引き受けて有名になりました。
愛読書はルソー、三部会が開かれた時に、議員に選ばれ、パリに出て政治活動を開始します。
大変まじめな人物で、自分の理論を信じ、其れに従って自分の行動を律する事ができる人物で、生涯独身を通しました。

 金銭にも潔癖で、彼はパリでは指物職人の家に下宿暮らしです。
高い地位に成っても、自分の屋敷等を持つ事は無く、革命に総てを奉げた人物だったのです。

 このロベスピエールを中心に、ジャコバン派独裁が行われますが、彼等はあくまでも、フランス革命と共和国を守るための非常手段と考えていた。
組織としては、公安委員会が政府の中枢で、国民公会に設置された委員会で、ロベスピエール達は、この公安委員会に権力を集中し、革命を推進していきます。

 ジャコバン派がこの間に行った主な政策は、以下の様なものです。

1、封建的特権の無償廃止。
1789年8月に、国民議会が封建的特権の廃止を宣言していますが、そのときは「有償」、今回は「無償」です。
お金を払って、権利を買い取らなくても良く、更に亡命貴族の土地を小分けして農民に売却しました。
しかも、10年間支払を猶予したので、農民は土地を比較的容易に手に入れることができました。

2、最高価格令。
インフレを抑制する為に、政府が強制的に商品の最高価格を決定しました。

3、徴兵制の採用など軍政改革。
義勇軍と正規軍を統合し、軍隊内の体刑を廃止し、これによって、フランス軍は、国境に迫る諸外国軍を打ち破る力を持つ軍隊に成長していきます。

4、革命暦の制定。
グレゴリウス暦はキリスト教と結びついている為、新しい暦を制定しました。
季節に応じて月の呼び方も変え、ブリュメール、テルミドール等、フランス革命期の事件の名前で出てくるのが、この革命暦の月の名前です。

5、メートル法の採用。
度量衡の統一と、基準の客観化を行いました。

6、最高存在の祭典。
革命のモラル向上の為「最高存在」を奉る祭典を実施しました。
最高存在は、理性を意味していると思います。
ロベスピエールは、キリスト教そのものを否定していた訳では在りませんが、それに替わる崇拝の対象を求め、この祭典は、後世に全然影響力を持ちませんでした。

7、ジャコバン憲法(93年憲法)の制定。
男子普通選挙等を含む民主的内容の憲法ですが、未実施に終わります。

続く・・・

2012/05/29

人類の軌跡その388:フランス革命・第一共和制②

<フランス革命⑩>

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Maximilien François Marie Isidore de Robespierre,1758年5月6日 - 1794年7月28日

◎ジャコバン派独裁政治の始まり

 国内でも経済危機が深刻化し、経済政策をめぐって政治的対立が激しく成りました。
政府は財政難の為に紙幣を増刷し、インフレが進行、紙幣の価値が下がる一方で、農家は小麦を売っても紙幣の価値が下がれば損なので、売ろうとせず、商人達も、売り惜しみをします。
結局市場に小麦が出回らず、インフレによる物価高と食糧不足で、生活を直撃されるのが下層市民で、彼等の不満は政府の無策に向けられました。

 政権を担当していたのはジロンド派でした。
国民公会では、大きく分けてジロンド派とジャコバン派の派閥が存在しており、ジロンド派は、裕福な商工業者である上層・中層市民が支持し、政策は穏健、急速な改革は好まない現実主義的です。
一方ジャコバン派は、職人、小商人など下層市民が支持し、急進的に革命の理念を実現しようとする、理想主義的派閥で、指導者にはロベスピエール、マラー、ダントンがいました。

 パリで商人達の買い占め、売り惜しみで食糧不足になると、下層市民は政府に対策を求め、ジロンド派の大臣ロランの言葉を引用すれば、「議会が食糧について成し得る唯一の事は、議会は何も成すべきではないと云う事、あらゆる障害を取り除く事を宣言する事であろう」。
食糧不足に対して「何も成すべきではない」と言っているのです。
この言葉の裏には、ジロンド派の自由を好む姿が見て取れます。
革命前、貴族達に頭を押さえつけられて自由は存在せず、フランス革命で自由に成りました。
政府は自由を制限すべきではないと考えており、経済活動も自由、買い占めや売り惜しみも自由、それで儲かる人には儲ける自由がある、と考えるのです。

 確かに理解出来ない事も在りませんが、現実に飢えている下層市民はどうなるのでしょう。
自由の名の下に、ジロンド派は市民を見殺しにしようとしているのだ、とジャコバン派は反論します。
民衆に近い立場のエベールという政治家の発言は、「商人達に祖国はないのだ。彼らは革命が自分達に有利だと思われた間はそれを支持し、貴族と高等法院を破壊するためにサン=キュロット(下層市民)に手を貸した。しかし、それは自分たちが貴族にとって代わる為だった」、「十分理解出来ます。

 ロベスピエールは、「権利のうち第一のものは生存する権利である。だから社会の法は社会のすべての成員に生存の手段を確保する法であった。他のすべての法はそれに従属する」。
大商人の経済の自由よりも、下層市民の生きる権利の方が大事で在ると述べています。

 サン・ジュストは、「金持ちも貧乏人もあってはならない。富裕は汚辱だ」、「富裕は汚辱」、実に過激です。

 マラーは、「過激な手段によってしか自由をうちたてることはできない。諸国王の専制を打ち破る為には、一時的に自由の専制を組織しなければならない時がきたのだ。」
本当の自由を手に入れる為には、自由を制限しなければならない時がある、と云いジロンド派では駄目だ、と云う意味です。
ここで、「諸国王の専制」意味は、対仏大同盟の事で、対外的な戦争の危機も迫っているのに、経済問題でジロンド派と議論に時間を費やさず、強力な権力を打ち立てて、機敏に危機に対処していかなければいけない、とジャコバン派は考え、パリの民衆も、その考えを支持します。

 1793年6月、終にジャコバン派は、実力で議会からジロンド派を追放し独裁政治を開始しました。
フランス革命は終盤、ジャコバン派独裁を迎えます。

第一共和制 終わり・・・
2012/05/28

人類の軌跡その387:フランス革命・第一共和制①

<フランス革命⑨>

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ルイ16世の処刑

◎国民公会

 8月10日事件で、王権を停止すると同時に、新しい議会を開く事が決められ、立法議会は立憲君主制の1791年憲法を基準としていましたから、新憲法を制定する為の議会が1792年9月に成立しました。
この議会が、国民公会で在り、男子普通選挙で選出された議員で構成されていますが、ここで普通選挙は、財産や納税額で選挙権を持つ人を制限していません。
8月10日事件は下層市民の力で成功し、対外戦争の危機を乗り切る為には、下層市民の力を結集しなければ成りませんでした。

 国民公会は、王政の廃止と共和政樹立を宣言しました。
共和政は国王や皇帝の存在しない政治制度で、これ以後のフランスの政治体制を第一共和政と云います。

 最大の問題は、ルイ16世の処遇でした。
王政が消滅した今、彼を如何なる処遇にするか裁判が始まり、王宮の隠し戸棚から、国王が外国の使節と密かに交わしていた文書が多数発見され、国王がフランス政府と国民に対する背信行為は、十分立証できます。
 結局、賛成387票、反対360票で死刑の判決が下りますが、賛成387票のうち、26票は条件付き賛成と云う内容で、それを除けば、361票対360票と云う僅差な評決でした。

 1793年1月21日、パリの革命広場で二万人の市民が見守るなか、国王は断頭台の露と消えました。
最後の言葉は、「私は無罪だ。私は敵を許そう」と言ったと云われていますが、国王の言葉に、市民が動揺しては良くないので、最後の方の言葉は、兵士の鳴らす太鼓の音にかき消されて良く聞こえなかったと云います。

 10月には王妃マリー・アントワネットも死刑に成ります。
マリー・アントワネットは心労で髪が真っ白に成っていたと云いますが、長い髪は短く切られています。
断頭台での処刑は、髪が長いと邪魔に成る為短く切られ、その頭には、市民がつける帽子をかぶらされていました服装は良く解りませんが、質素な物の様で、後ろ手に縛られて馬車の台に座らされて、処刑場に向かいました。
このころは政治の変動が激しくて、彼女の処刑はあまり話題にものぼらなかったようです。

 国民公会がルイ16世を処刑した事は、諸外国に衝撃を与え、これを発端に、反フランス、反革命のヨーロッパ諸国の軍事同盟で在る、第一回対仏大同盟が組織され、この同盟は1793年から97年迄存続しました。
参加国は、イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセン、スペイン、オランダ等、ヨーロッパの主要国で、どこの国の王家も、国王を処刑する行為を見過ごす事が出来ませんでした。

 対仏大同盟の結成を呼びかけたのは、首相ピットを中心とするイギリスで、そのイギリスもピューリタン革命、名誉革命を経験し、国王を処刑した過去も在るのですが、なぜ対仏大同盟の中心に成り得たのでしょうか。
実は、フランス軍はヴァルミーの戦いの後、優勢に転じて、国境を越えて進軍し、1792年の11月にはベルギーを占領し、ここで封建制を廃止します。
之は革命の輸出であり、別の見方をすればフランスが領土を拡大して、占領地域に自国の政治制度を押しつけていたのです。
フランス軍は、次はオランダに進出するかもしれません。
イギリスにとっては市場を奪われかねず、特に当時のオランダは、金融市場の中心で、ここをフランスに奪われる事は断固阻止する為、すなわち経済的な利害関係からフランスを警戒していたのです。

 やがて対仏大同盟との戦争が国境線ではじまり、フランスの対外的危機は深まります。

続く・・・

2012/05/26

人類の軌跡その386:フランス革命・激動期の始まり④

<フランス革命⑧>

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『テュイルリー宮殿の襲撃』

◎8月10日事件その②

 プロイセン軍がパリに迫り、政府は「祖国の危機」を全土に訴えました。
このままでは、革命はつぶされる、フランス国民よ、祖国を守れ、革命を守れ、と人民を鼓舞し、この訴えにこたえて、フランス全土で義勇兵が組織されて、パリに結集しました。
この時、マルセイユの義勇兵が歌っていた歌が「ラ・マルセイエーズ」で、後にフランス国歌と成ります。

 迫る外国軍、祖国の危機にはせ参じる義勇兵、緊張が高まるなかで、敵は本当に外部だけなのか、フランス軍の連戦連負は、フランスの内部に諜報者が存在するのではないか、と誰もが思いはじめました。
疑惑は以前から存在したのですが、緊張感のなかで、生活難に苦しむ貧しい市民の、想いが爆発します。

 1792年8月10日、パリ市民と義勇兵は、王宮を攻撃しました。
フランスの本当の敵は国王ルイ16世に違いないと考えた結果で、国王の王権は停止され、一家は全員タンプル塔に幽閉されてしまいます。
これを8月10日事件と呼びます。

 この後、パリでは市民が、裏切り者、反革命分子と思われる人々を虐殺しますが、この行為は多くの人々の間で、革命を守る為の必要悪と考えていた様です。
又、前線の指揮官で、国王側に立って政府を裏切っていたものは解任され、多くは亡命しました。
前線で指揮を執っていたラファイエットもこの時亡命します。
彼は革命政府に背信行為を行った訳では在りませんが、国王が幽閉された事を知り、パリへ進撃して国王を救おうとしましたが、部下の兵士が動かず、国王の救出を断念しての亡命でした。
入れ替わりに、前線には、義勇兵が向かいます。

 混乱に乗じて、プロイセン軍は更にパリに迫り、プロイセン軍と義勇兵の最初の戦闘が戦ったのがヴァルミーの戦いです。
プロイセン軍はフランス軍に激しい砲撃を加え、今迄のフランス軍なら、これですぐに退却をはじめるのですが、義勇兵達は怯まずに「ラ・マルセイエーズ」を大合唱します。
異様な雰囲気に包まれたプロイセン軍が、逆に退却をはじめ、戦闘に負けたのではなく、フランス義勇兵の勢いに負けたのでした。
革命を守らなければならないと云う兵士一人ひとりの志気の高さ、之は、如何なる国の軍隊にも存在しないものでした。

 ヴァルミーの戦いにドイツの文豪ゲーテが従軍しており、この戦闘の後に、この様な言葉を残していいます。
「この日この場所から世界史の新しい時代がはじまる」

激動期の始まり・終わり・・・
2012/05/25

人類の軌跡その385:フランス革命・激動期の始まり③

<フランス革命⑦>

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現在のピルニッツ宮殿

◎8月10日事件

 1ヶ月後の9月、正式に憲法が制定されました。
1791年憲法と云い、その特徴は、立憲君主制と制限選挙制です。
平民でも一定以上の税金を納めていない者には、選挙権は与えられませんでした。
革命によって、平民が主役の時代に成りましたが、一部の豊かな平民が政権に参加できるだけで、多くの一般民衆は、不満を持っています。
この頃の民衆の生活は、インフレで喘ぎ、封建制度はなくなっても生活は苦しいままで、政府に対する不満は増大の一途を辿っていたのです。

 フランス革命の発端は、政府の財政難ですが革命後、政府は教会の財産、土地を没収して国有財産化しました。
そして、この土地を売却して財源確保に努めますが、土地が思うように売れず、土地を担保にしてアッシニア紙幣を発行しました。
処が、この紙幣、発行超過でインフレが発生し、物価が高騰、庶民生活は一層苦しくなりました。

 又、フランスから外国へ亡命する貴族が増加し、政府は亡命した貴族の土地財産も没収していきます。
諸外国は、この様なフランスの成りゆきを垣間見て、正しく権力が国王や貴族から、平民階級に移行していく事を実感します。
自国でも、この様な革命が勃発すれば、同様な結果を招いてしまうだろう、今の内に、フランスの革命政府を打倒しなければ成らないと考えます。
ピルニッツ宣言は、その様な諸外国の思惑の所産でした。

 1791年10月、憲法に基づき制限選挙が実施さら、新しい議会が成立しました。
これを立法議会と云い、この議会ではフイヤン派とジロンド派の勢力が対立しました。
フイヤン派は、立憲君主主義を守ろうと考える穏健なグループですが、ジロンド派は共和主義を主張します。
共和主義とは、国王無しの政府を意味しています。

 「ピルニッツ宣言」が出され、この段階でフランス政府と諸外国との対立は激化し、特に、マリー・アントワネットの生家であるオーストリアとの対立は激しものでした。
革命を守る為に諸外国と戦争すべきとする世論が盛り上がり、貧しい市民や農民の暴動がこの頃盛んになります。政府としては、庶民の不満を戦争で逸したい魂胆も在ります。

 一方、国王ルイ16世も、戦争に積極的でオーストリアとの開戦を主張しますが、国王は、戦争でフランスが負けることを期待しているのです。
革命政府が崩壊すれば、自分が元の絶対主義の国王として権力を取り戻せるのですから、議会で開戦を主張し、オーストリア皇帝には密かに連絡を取り、フランスの革命政府打倒を要請しているのです。

 1792年4月、ついに、フランスはオーストリアに対して宣戦布告をし、ベルギー国境でオーストリア軍との戦闘が始まりました。
戦いは、フランス軍の連戦連敗で、オーストリア軍、プロイセン軍は国境を越えてフランス領内に進撃してきます。
フランス軍は一方的に弱く、その理由は、指揮官が激減している為、何百何千という兵隊を動かすには、それなりの技術と経験が必要で、指揮官クラスの軍人である士官は、皆訓練を受けた貴族ですが、革命以来彼等の多くが亡命しています。
1万2千人とも云われる士官の半数が亡命し、指揮系統が崩壊、残っている士官も、革命政府に協力的な訳ではなく、戦わずに降伏する部隊も居る程でした。
ルイ16世は、自分に同情的な士官に対して、負けるように指示していたとも云われ、マリー・アントワネットは敵方に、フランス軍の作戦を漏らしていたとも云います。

続く・・・

2012/05/24

人類の軌跡その384:フランス革命・激動期の始まり②

<フランス革命⑦>

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ヴァレンヌ逃亡事件

◎ヴァレンヌ逃亡事件

 事件を起こしたのは国王ルイ16世。
1791年6月、国王は亡命を企てました。
王妃マリー・アントワネットの生家オーストリアへ逃れ様としたのです。
王妃の愛人で、スウェーデン貴族フェルゼンを中心に亡命計画が立案されました。
以前から、国王が国外逃亡を計画しているとの噂が在り、宮殿の周辺には警備の兵が詰めていたのですが、警備担当責任者ラファイエットの粋な図らいで、フェルゼンが王妃の部屋へ出入りする入口だけは、警備兵が居なかったと云います。

 国王一家はこの出入口を使って宮殿を抜け出し、用意してあった馬車に乗って国境の町メッツに向かいました。メッツには、亡命を手助けする将軍が待っている手筈です。
馬車に乗るのは国王、王妃、二人の子供と王の妹、子供の教育係。八頭立ての大きな馬車ですが、この馬車に多くの荷物を詰め込み、王妃の衣装、ワイン等、重量超過で馬車は当然スピードが落ちます。

 無事にパリから出られたのは良いのですが、馬車の低速に予定の時間は、どんどん遅れて行きます。
王様の鷹揚さなのか、危機感がなく、途中で古くからの知り合いの屋敷に立ち寄りながらメッツに向かいます。
沿道の要所には軍資金輸送の警備との名目で、亡命を助ける為の兵士が警戒に応っていたのですが、途中から予定の時間より相当に遅れた為、警備の兵が引き揚げてしまい、挙句には連絡が上手く出来なくなりました。
更に、ある村を通過する時、王が窓から顔を出して、待っていた警備部隊の指揮官に声を掛けたのですが、其の姿を目撃した村人がいたのです。

 「王が、この様な場所に居るのは不自然、国外への亡命を画策しているのではないか」、との知らせを聞いた革命派の軍人が国王を追います。
軍人にも、王に忠誠心を持っている王党派軍人と、革命に理解を示す軍人と両方いる訳ですが、この段階では多くの指揮官クラスの軍人は、国王に同情的です。

 国王の馬車がヴェレンヌの町に来ました。
この町で味方が替え馬を連れて待っている段取りに成っていましたが、王の到着が遅く、もう夜に成っています。
味方の部隊が見つからず、一行は町に入って、住民をたたき起こして馬の場所を尋ねました。(間抜け)
突然の騒動に、付近の住民が集まり、国王の一行を取り囲み、追ってきた革命派の軍人も合流します。
最初、国王は自分の身分を隠しているのですが、遂に国王と認め、すぐにパリに連絡され、翌日国王一家はパリに連れ戻されました。

 王に対する国民の信頼はこの事件で一瞬に吹き飛んでしまいました。
国王ルイ16世の身柄、立場が問題に成りましたが、取敢えずそのままとしました。
国民議会では憲法が出来上がりつつあって、これが立憲君主制なのです。
穏健な形で、革命を一段落させようと云う事と、もう一つの理由は、国王に対して過激な処罰等を行うと、諸外国がフランスに攻撃を行う可能性が在った為です。
国王を身分を守る事は、言い換えれば、フランスを取り囲む諸国に対する人質です。

 事実、ヴァレンヌ逃亡事件の後、1791年8月には、オーストリアとプロイセンが「ピルニッツ宣言」を行いました。

続く・・・
2012/05/23

人類の軌跡その383:フランス革命・激動期の始まり①

<フランス革命⑥>

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ヴェルサイユ行進

◎ヴェルサイユ行進

 「封建的特権の廃止宣言」「人権宣言」によって、全国的な農民蜂起は終息に向かいます。
ところが、国王ルイ16世は、是等の宣言を承認しませんでした。
この時点では、未だ国の主権者は国王なので、国王が承認しなければ正式の法律として効力を持たないのです。
承認を渋る国王に対して、市民の苛立ちは高まっていきます。

 又、政治的な混乱と前年の不作の影響でパリの物価が高騰しはじめ、下層市民には食糧が手に入り難くなっていました。
一家の台所を預かるパリの主婦層が、食料調達に苦労を重ねている時に流れてくるのが、ヴェルサイユの噂でした。
ヴェルサイユには食糧が十分在り、国王や王妃達は庶民の暮らしに関心も持たず、今日も十分に食べていると云います。
10月5日、この食料事情を打開しようと、パリ在住の女性がパリ市役所前の広場に集なりました。
人数は7千人とも伝えられ、彼女達を組織した者が存在したのでしょうが、詳しい背景は不明です。
彼女達は、国王と議会に食糧を要求する為に、「パンをよこせ!」と叫びながら、ヴェルサイユに向かって行進を始めました。
武器を携え、大砲迄持ち出します。

 パリからヴェルサイユ迄の道のりは25km程の距離が在ります。
大砲を引き、約6時間歩き続けて、途中から雨が降り出し、全員びしょ濡れに成りながらも、怒りは消えません。
ヴェルサイユに着いたのが夕方4時頃、国王は例によって狩りに出かけていたので、彼女達は更に4時間待たされました。
皆の興奮が冷めやらぬところに、国王は帰ってきて、彼女達の代表と会見しました。
武器を携えた集団ですから、怒らせてはどうなるか解りません。
王は、彼女達に丁重に接してパンの配給を約束し、王妃と一緒に宮殿のバルコニーから挨拶する等のパフォーマンスで、その場を切り抜けようとしましたが、結局、「人権宣言」等を承認させられました。

 更に、女性達は国王一家に「一緒にパリに帰ろう」と進言します。
「ヴェルサイユの様な場所に貴族達に取り囲まれて暮らしているから、私達庶民、第三身分の気持ちがわからない、平民の街パリで一緒に暮らして欲しい」、と云う意味です。
パリにも宮殿が在り、暮らすことは可能ですが、平民に囲まれて針の筵に座る事に成りますから、国王としては辞退した処ですが抵抗しきれず、翌日、国王一家は女性達に連れられてパリに入りました。
女性達の言葉が残っています。
「私達はパン屋とおかみと息子を連れてきたよ!」

 これ以後、国王一家はパリのテュイルリー宮殿に住み、事実上パリ市民に監視されて暮らす様に成り、国王と一緒に議会もパリに移動しました。

 この後暫く政局は安定した状態が続き、国民議会は国王の抵抗なく憲法制定作業を続けていきます。
議会の主導権を掌握したのは、ラファイエットやミラボー等自由主義貴族と云われる人達でした。
彼等は、アンシャン=レジームを壊して国政の改革を考えていますが、それは国王を中心とした政府を考えていました。
イギリス風の立憲君主制で、ラファイエット達は民衆には人望が高く、名門貴族で国王からも信頼されており、これが政局安定の理由です。

 国王は表面上、議会に協調し、このまま何事もなければ、フランス革命はここで終了したかも知れません。
ところが、ここで事件が起きます。

続く・・・

2012/05/22

人類の軌跡その382:フランス革命・ブルボン王朝の終焉⑤

<フランス革命⑤>

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バスティーユ牢獄襲撃

◎革命の勃発その③

 編成した市民軍ですが、肝心の武器が在りません。
7月14日、パリの市民は蜂起します。
まず、軍事施設で在る廃兵院を襲撃し、保管されている武器を確保しました。
武器を手に入れましたが、火薬が不足しています。
当時、火薬の保管場所がバスティーユ牢獄で、市民はバスティーユ牢獄を襲撃しました。
バスティーユ牢獄はパリ市内に在り、牢獄という名称ですが、本来要塞として使われていた建物です。
ルイ14世時代から政治犯を収容する様に成った関係で、専制政治の象徴でも在りました。
市民はバスティーユ牢獄を占領し、これ以後、市民軍は武器弾薬を手にする事に成ります。
この7月14日が、フランス革命勃発の日と云われています。

 この日、ルイ16世は、ヴェルサイユ近郊の森に狩りに出かけていました。
宮殿に帰還して熟睡していた国王を侍従が起こして、パリ市内で起きたバスティーユ牢獄襲撃事件を伝えます。
それを聞いたルイ16世は、「暴動だな」と口にしますが、それに対して侍従は「いいえ、陛下、革命です」と答えたと伝えられています。
 
 ルイ16世の日記が残っており、この7月14日も彼は日記を付けています。
何と書いたか?
ただ一言、「何もなし」。
これは如何なる意味か説明すれば、狩にいって獲物が全然捕れなかったと云う意味です。
自分の身辺に危険が及ぶ可能性が大きな、大事件が起きているのに、その意味を理解できないルイ16世の政治的感覚の無さを伝えるエピソードです。

 一方、パリではバスティーユ牢獄襲撃に成功したパリ市民たちが気勢を挙げ、市民軍が自分達の総司令官に任命したのが、ラファイエットでした。
「新大陸の英雄」ラファイエットは、自由主義貴族ですが、貴族ですから国王に対する忠誠心も存在しています。
この時に、市民はパリの旗を革命のシンボルとして掲げていました。
パリの旗は、赤と青の二色のデザインで、ラファイエットは、赤と青のあいだに白色も入れて三色旗にしようと提案し、市民も賛成して、これ以後、三色旗が革命の旗となります。
因みに、これが現在のフランスの国旗の原型と成りました。

 白色は、実はフランス王家ブルボン家のシンボルなのです。
この色を旗の色に加える事は、「市民諸君、革命も良いが、国王も大事にしたまえ」と云う意味です。
市民がこの提案を受け入れたのは、自分達がアンシャン=レジームを変えようとしてはいても、国王を敵だとは思っていなかったということです。
王様は立派で良い人ですが、マリー・アントワネットや側近の保守的な貴族達によってフランスは悪い社会秩序の方向に流されている、と云うのが一般的な国民の感情だった様です。

 パリでの事件が伝えられると、全国で農民が蜂起し、貴族、領主の館を襲い、借金の証文を焼き捨てる等、地方の農村は「大恐怖」とよばれるパニック状態に陥ります。
農民達が、実力行使で封建的な支配制度を破壊し始めたのです。

 パリや地方の民衆の動きを受けて、8月4日、国民議会は「封建的特権の廃止」を宣言しました。
身分制度と領主制を廃止し、更に8月26日に、国民議会は「人権宣言」を発表しました。
その第一条は「人間は、生まれながらにして、自由であり、権利において平等である。社会的な差別は、共同の利益に基づく場合にしかもうけられることができない」と云う有名な文章です。
この「人権宣言」を起草したのは、ラファイエットです。

 こうして、アンシャン=レジームは終わりましたが、この後に、如何なる政治体制を構築するか、各勢力が凌ぎを削りフランスは激動の時代に突入して行きます。

ブルボン王朝の終焉終わり・・・
2012/05/21

人類の軌跡その381:フランス革命・ブルボン王朝の終焉④

<フランス革命④>

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ウージェーヌ・ドラクロワ (1798-1863)「 民衆を導く自由の女神 」

◎革命の勃発その②

 三部会は冒頭から紛糾しました。
特権階級への課税問題で紛糾した訳では無く、会議の議決方法で紛糾したのです。
三部会の議員は、第一身分308人、第二身分285人、第三身分621人ですから、第一身分と第二身分を合計しても、593人、第三身分の621人よりも少ないのです。
第三身分は貴族への課税に賛成ですから、単純に多数決を行うと、確実に特権階級は負けて、貴族への課税が決定してしまいます。

 そこで、第一、第二身分は議決方法として、人数には関係なく、一身分一票を主張しました。
第一身分に一票、第二身分も一票、第三身分も一票を持ち、合計三票で多数決の採択を考えたのです。
この方法ならば、第一、第二身分は反対に投票しますから、2対1で貴族への課税は否決されます。
一身分一票は、今日の議会運営では馴染みの無い制度ですが、身分制議会の為、この様な考え方も可能でした。
現在で言えば、国際連合がこの方式を採用し、人口に関係なく、国連総会では一国一票で議決を行います。

 さて、招集された三部会は、空転して先に進見ません。
この様な場合、国王が召集した議会でから、国王が、決断下せば良いのです。
国王は、財政改革の為に三部会を招集したのですから、一人一票に賛成すれば良い訳です。
しかし、ルイ16世は、その決断が出来ません。
貴族に課税は行いたいものの、貴族階級は自分の臣下で在り、更に第三身分が主張している一人一票の議決方法に同調して、第三身分の発言権を増したくないという気持ちが存在していました。
貴族社会の第一人者としての立場をルイ16世は乗り越える事が出来ません。

 国王の手を拱く姿に、第三身分代表は失望しました。
6月、三部会に見切りをつけた第三身分代表の議員達は、三部会に決別し、自分達だけで議会を組織しました。
これが、国民議会です。
当然、国王はその様な行為を認ず、三部会の会議場は使用できず、第三身分代表は、ヴェルサイユ宮殿に付属している室内球戯場に参集し、憲法制定、国王が国民議会を正式な議会と認める迄解散しない事を誓います。
これを「球戯場の誓い」と云います。

 その内に、第一身分、第二身分代表の議員の中からも、国民議会の主張に賛同して、合流する者が増えてきました。
貴族の中には、自由主義貴族と呼ばれる人士が存在し、彼等は啓蒙思想の影響を受けて、アンシャン=レジームが時代遅れである事を理解している訳です。
フランスの発展のためには、改革が必要であると感じていた。
例えば、アメリカ独立戦争に参加していたラファイエットは「新大陸の英雄」として、既に国民の人望が在りました。
時代の流れを読みとる事のできた人士は、特権階級であっても、国民議会に参加したのです。

 やがて三部会は、その機能を喪失し、ルイ16世も、国民議会を正式な議会として承認せざるを得ず、国民議会は、新しい国造りの為の憲法制定に着手しました。

 しかし、ルイ16世は第三身分が主導権を掌握した、国民議会を打倒したい気持ちに変わりは在りません。
彼は国民議会に圧力をかける為に、軍隊に動員令を発動し、各地の部隊が、ヴェルサイユとパリに移動を開始します。

 軍隊の移動を察知した、パリ市民は、ルイ16世の意図を見抜き、国王は「軍隊によって国民議会を解散させようとしているのだ」、と考えました。
国王が軍事力を行使するなら、自分達も軍事力で国民議会を守ろうと考えたのです。
緊張が高まる中、財政改革の期待を一身に担っていたネッケルが罷免されました。
遂にパリ市民は、国民議会とパリを守る為に、パリ市民による市民軍を編成したのです。

続く・・・

2012/05/19

人類の軌跡その380:フランス革命・ブルボン王朝の終焉③

<フランス革命③>

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『ベリー公のいとも華麗なる時梼書』より

◎革命の勃発

 「アンシャン=レジーム」に対する批判が、増大を見せた時期の国王がルイ16世(在位1774年~92年)です。肖像画とは異なり、地味で温和な人物と云われています。
国王として難局を乗りきる様なリーダーシップや政治的感覚は持ち合わせていなかったと思われます。
趣味は、狩猟と錠前作り、宮殿の中に工作室を設営して、暇が在れば鍵を作り、話術が苦手で、人付き合いも上手くなく、妃のマリー=アントワネットは夫に不満でした。

 ルイ16世の時代、国家財政の赤字増大が大きな問題になっていました。
国家財政の収入が5億リーブル、支出が6億2千リーブル、財政赤字は45億リーブルに達し、収入の9倍の赤字をかかえていたわけです。

 赤字増加の原因は、まず、ルイ14世時代以来の対外戦争の出費で、これをルイ16世の時迄、解消出来ず、更にアメリカ独立戦争を援助した事も、赤字を増す結果と成りました。
イギリスに打撃をあたえる為にアメリカ独立を援助しましたが、その結果領土が増えた訳でもなく、何の見返りも在りませんでした。

 又、宮廷の浪費、マリー・アントワネットの浪費は国民の反感を招いていましたが、国王も負けず劣らずで、例えば、ルイ16世が所有している馬車は217台、馬が1500頭。
馬の世話は手間が掛かり、1500頭の馬を維持する事は、飼育係もそれ相応の人数が必要に成ります。
狩猟の為の猟犬が1万頭、宮殿で使うローソク代だけで数万ルーブルを要したと云います。
無駄な出費と理解していても、国王の体面も在り、簡単に止める事も出来ません。

 このままでは、国家財政の破綻は目に見えています。
ルイ16世は財政改革をおこなう決意を示し、テュルゴーを財務長官に任命し、財政改革を推進させました。
財政改革の実行には、貴族階級の特権を制限せざるを得ず、当然、貴族達は財政改革に反対して、テュルゴーは十分な仕事が出来ないまま、財務長官を退きました。
その後、財務長官に任命されるのが銀行家出身のネッケルです。

 政府の収入を増やすには増税を行う事が得策ですが、第三身分からはこれ以上増税する事ができない位課税されています。
現在迄一切の免税特権を保っている第一身分と第二身分に課税する事が浮上します。
彼等は、資力を保有していますが、免税特権を手放す事に、聖職者や貴族が賛成する筈も在りません

 遂に、国王ルイ16世は、第一、第二身分へ課税を実施すべく、三部会を召集しました。
三部会は、第一、第二、第三の三つの身分の代表から構成され、国王が国民の支持を取りつける為に開かれる身分制議会です。
しかし、絶対王政の時代には、国民の支持など関係なく国王は権力を行使しますから、1614年以降は開かれていませんでした。

 1789年5月、三部会がはじまります。
全国から選ばれた各身分の代表が、ヴェルサイユ宮殿に集まりました。
ここで、ルイ16世の態度が問題でした。
国王は、貴族に課税を行いたいが為に三部会を召集したのですが、彼自身の心情として、平民に大きい顔をさせたく在ません。
第二身分の議員が集まると、個別に謁見してねぎらいの言葉をかけたりするのですが、第三身分の議員には慇懃無礼、全然態度が違うのです。

続く・・・

2012/05/18

人類の軌跡その379:フランス革命・ブルボン王朝の終焉②

<フランス革命②>

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一般庶民の生活

◎革命前夜のフランス②

 ルイ16世の妃マリー・アントワネットは「私は退屈が怖いのです」と云いました。
彼女はオーストリア・ハプスブルク家から輿入れしてきたお姫様ですが、夫のルイ16世とは、相性が良くなかった様子で、贅沢三昧の日々を過ごします。
庶民感覚からは、信じられない位の贅沢をし、ハプスブルク家出身と云う意味も在り、平民の恨みを一身に背負うのですが、それでも贅沢三昧を止まりません。

 彼女だけでなく、貴族達は、本当に贅沢な暮らしをしていました。
タレーラン、この人物はフランス革命後も外交官として活躍するのですが、彼が革命後に、アンシャン=レジームの下での暮らしを思い出して云う、「1789年以前に生きた事のない人に、人生の甘美さは判らない」。
1789年はフランス革命の起きた年です。

 一方でアンシャン=レジームに対する批判も高まってきます。
その一つが、啓蒙思想で、理性の力によって迷信や偏見を打破して、社会不正を改革しようとする合理主義的思想です。
啓蒙思想家で一番有名な人物がヴォルテール(1694年~1778年)でした。
本来は詩人ですが、フランスの政治体制や社会不正を徹底的に告発して有名になり、貴族にも彼の支持者が居り、ポンパドゥール夫人は、フランス政治を批判して、亡命していたヴォルテールがヴェルサイユ宮殿に出入りできる様に取りなしました。
プロイセンのフリードリヒ2世が、ヴォルテールに共鳴し、ベルリンに招いた事も在ります。

 『社会契約論』の著者で人民主権を唱えたルソー(1712年~78年)も、同時代の啓蒙思想家の一人です。
これら啓蒙思想家264人が集まって編纂した百科事典が『百科全書』でした。
『百科全書』の編集責任者がディドロ、ダランベール、『百科全書』の出版は当然、政府当局の妨害を受けるのですが、政府の役人の中にも、彼らの出版を援助する者も存在し、実際に刊行されると、ポンパドゥール夫人の机の上に乗りました。(昨日の記事の挿絵参照)
貴族も啓蒙思想に、時代の流れを感じていたということでしょう。

 又アメリカ独立宣言も、アンシャン=レジーム批判に大きな影響を与え、独立宣言には、天賦人権思想や平等、自由、幸福追求の権利が謳われており、フランスは独立戦争に援軍を送っていた事から、実際にアメリカで戦ったフランス人兵士も存在し、彼等は当然アメリカ独立の精神を肌で感じて帰ってきています。
フランスの制度に批判的になるのは当然です。

 そして、フランス革命が勃発する1789年初頭、僧侶シェイエスが『第三身分とは何か』と題する、アンシャン=レジームを批判するパンフレットを発行しました。
このパンフレットで、シェイエスは説きました。
「第三身分とは何か?それは総てである」なぜなら、「フランス国民の大部分は第三身分であり、特権階級は第三身分に寄生しているだけであるから」、そして、更に問う。
第三身分とは何か?「それはゼロである」、なぜなら、「政治的に何の権利もないから、総てであり、ゼロである」
、と云う第三身分の状況、アンシャン=レジームの矛盾を訴える内容でした。
『第三身分とは何か』は大反響を起こし、この年の夏にフランス革命が勃発する事に成ります。

続く・・・
2012/05/17

人類の軌跡その378:フランス革命・ブルボン王朝の終焉①

<フランス革命①>

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Madame de Pompadour:1721年12月29日 ~ 1764年4月15日

◎革命前夜のフランス

 イギリスの名誉革命、アメリカの独立革命は、共に市民が権力を掌握する政府を樹立しました。
従って、是等の革命を市民革命と云い、産業を担う市民達が、経済の他、政治をも動かす様に成り、国家の形態も合理的に成ります。

 一方、イギリスの宿敵フランスは、古い社会制度のままでした。
このフランスの社会制度をアンシャン=レジームと云い、「旧制度」と訳します。
アンシャン=レジームを代表するのが身分制度で、三つの身分に分かれ、第一身分が聖職者、第二身分が貴族、第三身分が平民でした。
第一身分と第二身分が特権階級、平民には、都市の商工業者、職人、農民などが含まれ、都市の商工業者は、所謂市民階級です。
経済的には力を持ちはじめていましたが、身分的には一番下に位置し、この身分制度に対しての不満は大きなものが在りました。
 
 更に、第一身分である聖職者は14万人、第二身分の貴族は40万人、第三身分の平民は2600万人でした。
人口の僅か3%の勢力しかない、圧倒的少数の第一身分と第二身分が、国土の40%を領有して、各種の特権を行使していました。
最大の特権は、免税特権で在り、彼等は莫大な資産を保有しながら、納税義務が無く、納税負担は総て、第三身分に押しつけられていたのでした。

 特に、農民の暮らしぶりはかなり悲惨で、当時イギリス人のアーサー・ヤングがフランスの農村を旅行した際、老婆と思った女性が28歳と知って驚いたと書き残しています。

 特権階級である貴族達は、アンシャン=レジームをどのように考えていたのでしょうか。
ルイ15世の愛人、ポンパドゥール夫人は、「我らの後に洪水は来れ」と云う言葉を残しています。
その意味は、ヨーロッパ人が洪水と言えば、旧約聖書に書かれたノアの箱船の洪水を意味しています。
神を忘れて、堕落した生活をおくる人間を見て、神は人類を皆殺しにして消し去ろうと考えました。
只、ノアと云う男だけが、神に深い信仰を持ち続けていたので、この男とその家族だけは助けてやろうと考え、神はノアにお告げを与え、大きな箱船をつくらせました。
やがて、神は大洪水を起こし、他の人間は、根絶されましたが、箱船に乗ったノアとその家族、諸々の動物達だけが助かった、というお話です。

 ここで洪水とは、神があたえる天罰、それによって人間は滅ぼされるお話ですが、ここで、ポンパドゥール夫人が、洪水という言葉を使っているのは、自分達貴族が平民達を犠牲にして、贅沢三昧な生活を続けている事に対して、神の罰がくだるだろうと自覚しているわけです。
堕落した生活だと分かっていますが、その快楽から逃げる事が出来ない、何れ天罰が下る時が来るのですが、「神様、罰を与える時は私が死んだ後にして下さい」と云う気持ちが、「我らの後に洪水は来れ」と云う言葉に表現されているのです。
貴族にも、アンシャン=レジ-ムの身分制度が時代遅れで此の侭ではいけないと、理解していた人物も存在していました。

続く・・・


2012/05/16

人類の軌跡その377:アメリカの独立④

<アメリカ独立その④>

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ヨークタウンの戦いより英国軍コーンウォリス将軍の降伏

◎アメリカ合衆国の成立

『独立宣言』の内容は非常に明確で、「すべての人は平等」と書かれていますが、奴隷制度の事を如何に考えていたのでしょうか?
此処で述べられた「すべての人」の中には黒人奴隷やネイティヴ・アメリカンは入っていません。
独立できても黒人奴隷やネイティヴ・アメリカンに自分達と同じ権利を与える気持ちは全く在りませんでした。

 実は、独立宣言執筆の中心で在るトマス・ジェファーソンは、奴隷制度の廃止を考えており、彼が最初に書いた宣言の原稿には、其の事がはっきりと記述されています。
しかしながら、起草委員は複数居り、ジェファーソンの原稿に書かれた、「奴隷制廃止に触れるのは如何なものか?」との意見が出てきます。
植民地側の指導者達の中には、奴隷を使ってプランテーションを営む者も居ます。
例えば、軍司令官ジョージ・ワシントンは何百人もの奴隷を使い農園を経営していました。
奴隷制廃止は、この様な人物には重大問題と成りますし、不協和音が起こり、独立戦争を戦えません。
結局、ジェファーソンの原稿から奴隷制度に触れた部分は削除されたのでした。

 ジェファーソンの逸話として、ジェファーソンは妻を亡くした後、自分の身の回りの世話をしていた黒人奴隷の女性と関係を持ちます。
結果、その黒人女性との間に子供をもうけていますが、この様なお話は、結構一般に流布していましたが、ジェファーソンは自分の体験から奴隷問題を真剣に考えたのでしょう。
因みにジェファーソンは、後の第三代合衆国大統領に成りました。

 戦争は、1781年のヨークタウンの戦いで、アメリカ・フランス連合軍の勝利が決定的と成ります。
この時の兵力が、アメリカ軍8800人、フランス軍7000人。
やがて、1783年パリ条約で、イギリスは正式にアメリカ合衆国の独立を承認しました。

 1787年、合衆国憲法が制定され、その特徴は、人民主権、三権分立、連邦制でした。
合衆国は、自然に出来上がった国では無く、植民地の人々がその国の方向性を議論しながら作った国です。
最新の政治学説を取り入れて理想の国づくりを目指し、三権分立はフランスの思想家モンテスキューが専制政治を阻止する為の方法として唱えたものです。
現代世界で、先進資本主義国はほとんど三権分立を採用している程に普及している形態ですが、合衆国がその最初でした。

 連邦制、独立前の13の植民地が独立後は州と成り、州の独立性を重視し、州の連合体が合衆国との考え方です。国名のUnited States of Americaに反映され、アメリカ合衆国と一般的には訳しています
建国当初、中央政府と、州政府の力関係を如何にするか、大きな論争に成りました。
独立前の13植民地は、その成り立ちに従った方法で、植民地を統治していましたから、中央政府には大きな権限を持たせず、州の独自性を尊重する考え方が、建国当初の方針でした。

 今でも、アメリカでは州毎に州法が存在し、州警察が組織され、州兵制度による軍隊が編成されています。
州警察は、その州の中でしか活動できず、例えば、カリフォルニア州で殺人事件を起こした犯人がニューヨーク州に逃げると、カリフォルニア州の警察はもう捜査できません。
ニューヨーク州の警察は、自分の管轄で起こった事件ではないので犯人を捕まえる事ができず、州をこえて犯罪捜査をおこなえる警察として組織されたのが連邦警察、FBIなのです。

 アメリカ合衆国初代大統領が、独立戦争の英雄ジョージ・ワシントン。
ワシントンにはこの様な逸話が伝わっています。
独立が決定し、アメリカの今後の方針を議論している時、一部の軍人グループがワシントンを国王にしようと考えました。
故郷の農園に帰っているワシントンの所に出かけて、王様になって下さいと頼んだと云います。
若し、ここでワシントンが承諾していれば、アメリカ合衆国でなくて、アメリカ王国になっていたかも知れません。又、ワシントンは軍司令官で軍を掌握していますから、その可能性も皆無では在りませんでした。
しかし、ワシントンは、「これからは王様の時代ではない」と断わり、他に候補者は存在せず、選挙で国家元首を選ぶことにしました・・・・結果はワシントンが選ばれました。

 さて、ワシントンが大統領に就任し、役人や、議員達は大統領に対してどう呼びかけて良いのか解りません。
ヨーロッパでは国王に対して「選ばれし陛下」とか「いと高き仁慈深き御方」等、儀礼用語を使用します。
側近「どのようにお呼びしたらよろしいでしょうか?」、ワシントン「ミスター・プレジデントでいいよ」日本語に訳したら、「大統領さん」くらいの感じでしょう。
親しまれる大統領の伝統が、ここから生まれ、大統領就任は1789年、後年描かれた肖像画のワシントンが手に持っているのが、新しく建設する首都の設計図で、彼の名前を因み、現在の首都ワシントンに成りました。

アメリカの独立終わり・・・

2012/05/15

人類の軌跡その376:アメリカの独立③

<アメリカ独立その③>

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独立宣言への署名

◎独立戦争その③

 第一回大陸会議が開催された頃、イギリスから独立を企てる植民地人は、多数派では在りませんでした。
ところが、翌1775年、イギリス本国から派遣された軍隊と、植民地人の民兵の間で戦闘が始まります。
アメリカ独立戦争の開始です。
戦争という既成事実に則り、独立を主張する世論が、後から生まれてきました。
 
 独立戦争が始まった時、植民地人口は約250万人、この内、イギリス国王に忠誠を尽くす王党派が30万人、独立を目指す愛国派が80万、中立派が120万でした。
この時に独立の世論を盛り上げたのが、トマス・ペインの発行した「常識」を意味するパンフレット『コモン・センス』でした。
植民地の権利を守らないイギリス本国から独立するのが常識だと主張する論文で、12万冊発行されたと云います。単純計算で20人に一人がこのパンフレットを手に入れた事に成りました。

 実際に戦争が始まり、植民地側は植民地軍を編成し、その司令官に選ばれたのがジョージ・ワシントンです。
フレンチ・インディアン戦争での活躍を評価されての起用でした。
ワシントン率いる植民地軍の兵力は1万2000人、その内、泥濘でも歩ける長靴を履いていたのが900人、小銃をは三人に一人の割合でした。
残りの兵士は、サンダル履き、農具を武器に、軍隊というよりは農民一揆で、もちろん、ほとんどの兵士は、軍事訓練を受けていない、素人集団です。
対するイギリス軍は兵力3万、当然こちらは正規軍です。

 兵力も装備も訓練も劣る植民地軍は如何なる戦いを繰り広げたのでしょう。
その戦法は、正面から大戦する事は、殆ど無理な話なので、イギリス軍が、休息中や山間の狭い道を分散して通過したりする時を狙って攻撃を仕掛けます。
相手が反撃に転じた場合は、一目散に退却、植民地軍は地の利が在るので、それを最大限利用して戦いました。
この様な戦法を散兵戦と云い、ワシントンは、植民地軍を良くまとめて負けない戦いを継続しました。

 しかし、この様な戦法では、戦闘期間が長引くばかりです。
植民地がイギリス本国と戦い続ける為には、他国の援助が絶対必要でした。
そこで、ヨーロッパでも有名なフランクリンがフランス等で外交活動を行い、植民地への援助を要請しました。
フランスは当時絶対王政、貴族達がサロンで政治の流れを形作った時代、洗練されたフランス貴族から見ると、アメリカ大陸の植民地人は、どんな粗野な人間だろうかと興味津々でした。
フランクリンは、その期待に応える為に、わざと田舎臭い、野暮ったい恰好、熊の毛皮を身につけて社交界に出入りしました。
しかし、彼の話も面白く、サービス精神旺盛な為、フランクリンはフランス社交界で有名人に成りました。

 そんな努力の甲斐が在り、ヨーロッパ諸国は次第に植民地を支援する様に成ります。
ヨーロッパから義勇兵として植民地に来たのがフランスのラファイエット、ポーランドのコシューシコ、ワシントンの副官として活躍します。
彼等は、後にフランス、ポーランドでも、それぞれ活躍します。

 フランスは1778年に、正式に参戦して、アメリカに軍隊を派遣します。
フレンチ・インディアン戦争の復讐戦で、スペイン、オランダもイギリスに宣戦し、1780年、ロシアがプロイセン、ポルトガル等と武装中立同盟を結成してイギリスに敵対します。
これらの動きは、植民地の独立を支援すると云うより、イギリスにダメージを与えたいという各国の思惑から派生したものですが、国際的な反イギリスの動きが、植民地の独立戦争を有利にしました。

 植民地側が1776年に発表したのが『独立宣言』。
「我々は、自明の真理として、総ての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求のふくまれることを信じる。」からはじまる歴史的文書です。

 内容的には、基本的人権、革命権、平等・生命・自由・幸福追求の権利等を謳い、イギリスの思想家ロックの社会契約説の影響を強く受けています。
 独立宣言が独立戦争の最中に出されたのは、ヨーロッパ諸国の援助を得る為に自分達の独立の正統性と、イギリスの暴虐ぶりをアピールするという目的がありました。
この宣言で、国名をUnited States of Americaと表記しました。
起草者は複数いますが、中心となったのがトマス=ジェファーソン、フランクリンも起草者の一人です。

続く・・・

2012/05/14

人類の軌跡その375:アメリカの独立②

<アメリカ独立その②>

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ボストン茶会事件

◎独立戦争その②

 1765年、イギリス本国政府は13植民地に対して、印紙法を施行しようとしました。
これは、植民地で発行されるすべての印刷物に課税を意味するもので、フレンチ・インディアン戦争での戦費を植民地人に負担させるのがこの税金の目的でした。
 
 植民地側からすれば、入植地が拡大したわけでも無く、税金だけ徴収するのは本国政府の横暴です。
しかも、それまで13植民地は、税金を徴収される事は無く、税金無しは、一見羨ましく思いますが、植民地人は納税の義務がない代わりに、参政権も存在しませんでした。
植民地に住んでいても、国籍はイギリス人です。
ところが、イギリスの国会議員を選ぶ権利は無く、参政権を与えられずに、納税だけを迫られたので、13植民地は猛反発しました。
このときの植民地側のスローガンは後世迄残る名言で、「代表なくして課税なし」。
代表は、もちろん自分達が選ぶ国会議員のことです。

 イギリス政府は植民地の猛反対で、印紙法を廃止しますが、この後も同様な法律を制定していきます。
その中で、再び植民地側の猛反発を受けたのが、1773年の茶法でした。

 茶法は、イギリス東インド会社の茶しか、13植民地での販売を認めない法律、植民地人は、この法律にひどく反発しました。
当時お茶はイギリス人にとって国民的飲料に成っていました。
イギリスでは、東インド会社が中国から茶を輸入して以来、お茶が瞬く間に国民の間に広がりました。
もちろん紅茶です。
常に食卓に在る飲みのが、お茶ですから、茶法は植民地の人達にとって、イギリス本国の強引なやり方の象徴となりました。

 そこで、本国政府の強引な徴収方法に過激な方法で対抗する植民地の人々が、ボストンの港に入港した東インド会社の貿易船に乱入して、積み荷の茶を海に投げ捨てました。
これが、1773年ボストン茶会事件で、この事件は、アメリカでは切手にもなりました。
事件は夜に発生し、植民地人達がボートに乗って貿易船に近づき、ネイティヴ・アメリカンに変装して、海に箱を投げいれました。
9万ドル相当分の茶が台無しに成りました。

 ボストン茶会事件は、事件としては実にささやかなものですが、植民地人が本国に対して、実力行使をしたという点で、画期的でした。
植民地人達の反抗心に火を付け、アメリカ独立史の出発点と成った、アメリカ人にとっては記念すべき事件なのです。
 
 現在のアメリカ人はあまり紅茶を飲ません。
アメリカの国民飲料は、アメリカンコーヒーで、「イギリスの紅茶なんか飲めるか!」と茶法に反発した植民地人達が、紅茶の代用品として飲み始めたのです。

 此処まで対立が深まると、イギリス本国政府との対立は避けられません。
そこで13植民地の代表者が参集し、第一回大陸会議(1774年)が開催されます。
それまでは、13植民地の成立事情、成立時期が異なり、お互いの連絡は皆無に等しい状況ですが、本国との対立が実力行使までに発展したので、今後はお互いの協力を約束しました。
開催地はフィラデルフィア、後の独立後最初の首都になる都市です。

続く・・・
2012/05/12

人類の軌跡その374:アメリカの独立①

<アメリカ独立その①>

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フレンチ・インディアン戦争

◎13植民地の特徴

 本国イギリスは、13植民地に対して如何なる支配をしていたのでしょうか?
 
 実は、イギリス本国政府は、アメリカに成立した13植民地に対して無関心でした。
植民地の人達の生活に、規制や干渉を加えず、税金も徴収しませんが、政府としての行政行為も一切行いません。
言い換えれば、植民地の自由です。

 従って、植民地の住民は、イギリス本国政府を頼りにする事無く、全部自分達で実行解決を行いました。
そのたま、早い段階から植民地で議会が成立します。
一番は初期に成立したのが、1619年のヴァージニア植民地議会でした。
政治的にも、自主自立、自助努力が植民地の人達にとって、当然の生活態度になります。
自由な気風が尊ばれ、イギリスの一部でありながら、イギリスとは違った文化風土が生まれはじめていました。

 産業も徐々に発達してきます。
北部の植民地では、商工業が発達すし、農業は自営農民が主流となります。
南部の植民地では、プランテーションが発達し、気候にあった商品作物として、タバコ、綿花の大規模栽培が行われました。
これらの農作物は、多くの人手を必要とし、その労働力不足を補う為に、南部では奴隷制度が発達しました。
奴隷はアフリカから連れてこられた黒人達で、同じイギリスの植民地でも、北部はプランテーションは存在しないので、奴隷制も存在しませんでした。

◎独立戦争その①

 1754年から63年まで、フレンチ・インディアン戦争が北アメリカで勃発しました。
イギリスとフランスの植民地戦争で、同時期、ヨーロッパでは七年戦争が発生しています。
この戦争の原因は、北アメリカに於ける領土の奪い合いで、フレンチ・インディアン戦争と云う名称は、フランスがネイティヴ・アメリカン(インディアン)と同盟を結んで、共同でイギリスと戦ったところから名づけられました。ネイティヴ・アメリカン達には、土地を奪うイギリスの植民者は憎い存在ですが、フランスは毛皮交易等を目的に植民地を経営しており、結果的に利害の対立は無く、フランスと同盟を結んでイギリスと戦うのは道理です。

 フレンチ・インディアン戦争は、イギリスの勝利で終わり、勝者のイギリスはパリ条約で、ミシシッピ川以東のルイジアナ地方を獲得した結果、フランスの勢力は北アメリカから消滅しました。
この戦争では、13植民地の人々も当然イギリス側として参戦しました。
結果は、イギリスが勝利し内陸部のフランス領がイギリス領に成り、更に内陸部を開拓して、農地を広げる事が可能と成りました。

 ところが、1763年、イギリス王は新しくイギリス領になったルイジアナ地方を国王の直轄地として、13植民地人の入植を禁止し、13植民地と、国王直轄地との間に引かれた境界線を「国王宣言線」と呼びます。
当然13植民地は、この国王宣言線に対して反発し、フレンチ・インディアン戦争で戦ったのは何の為なのか、と云う主張が成されました。
これが、13植民地とイギリス本国政府との最初の軋轢です。

続く・・・

2012/05/11

人類の軌跡その373:アメリカ合衆国成立以前の北アメリカ⑤

<17世紀における北アメリカの植民地化⑤>

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Benjamin Franklin

 フランクリンは印刷所で成功を収めた後は、別の分野にも興味を持ちました。
 当時、発達しはじめていた科学の中でも電気科学の分野は、種々の仮説が発表されていました。
フランクリンは、持ち前の好奇心で電気の研究を始めます。
有名な研究が雷で、フランクリンは、雷は電気ではないかという説を立てて、嵐の日に凧を飛ばした、有名な実験です。
結果は、見事に凧に雷が落ち、凧に取り付けられた電線を通じて、フランクリンの足下に置かれた蓄電池に、見事に電気が伝わってきたのです。
この研究で、電気科学の研究者としてヨーロッパでも有名になります。
処で、凧を持っていたフランクリンは何故感電しなかったのか不思議ですが、一言で言えば運が良かったのです。
フランクリンの実験結果を知り、スウェーデンの科学者が追認実験を行いましたが、その人は感電死しています。

 その他、フランクリンの活動は止まるところを知りません。
ストーブの改良、アメリカではじめての図書館の設立、奴隷制度反対協会設立、等々。晩年は政治家、外交官としても活躍して、アメリカ独立に貢献しました。
独立宣言の起草者の一人でもあります。
誰にでも陽気に声をかけて冗談を言う、「最初のアメリカ人」なのです。

 最後にフランクリンと先住民との関係について。
 昨日の記事に、未開の荒野が無限に広がっていると書きましたが、その荒野には遙か昔から先住民が住んでいました。
必然的に、自営農民達にとって、ネイティヴ・アメリカンは邪魔な存在でした。
農民にエールを贈るフランクリンの立場も同様で、奴隷制度に反対していたフランクリンが彼等に関してこんな言葉を残しています。

「ラム酒はインディアンを消してしまう為に、神が我々に与えたもうた」

 白人達が、ネイティヴ・アメリカンから土地を奪う時によく使った手法で、ラム酒を持ってネイティヴ・アメリカンの村に挨拶に行き、一緒に食事をして、「飲め飲め」とラム酒を勧めます。
ラム酒は強い酒で、ネイティヴ・アメリカン達はその様な強い酒を飲んだ経験が無いので、猛烈に酔っぱらってしまいます。
前後不覚に成った処で、土地の譲渡契約書に無理矢理サインをさせて、引き上げます。

 翌日、ネイティヴ・アメリカンの土地に杭を打ち込んで囲い込みます。
彼等が抗議に訪れると、契約書を見せて、「誰其れはこの土地を俺に譲ると署名した」、と主張し譲りません。
合法性を装い、先住民から土地を奪う為の武器がラム酒だったのです。
フランクリンはそのラム酒を讃えている訳で、この辺が、アメリカ史の複雑な処です。

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※フランクリンの科学・技術の功績

1、ライデン瓶の実験から、電気に興味を持ち1752年、雷を伴う嵐の中で凧をあげ、凧糸の末端にワイヤーで接続したライデン瓶により雷雲の帯電を証明するという実験を行った。また、雷の電気はプラスとマイナスの両方の極性があることも確認したといわれている。この命がけの研究結果によってフランクリンはロンドン王立協会の会員となった。
この話は有名になったが、同じような実験を行い死者が出たため(フランクリンは事故を起こさないよう、かなり慎重に実験の準備を進めたことが明らかになっている)、現在はあまり紹介されない。
2、避雷針
3、フランクリンストーブとして知られる燃焼効率の良いストーブ
4、ロッキングチェアー
5、遠近両用眼鏡

等を発明しましたが、これらの発明に関する特許は取得せず、社会に還元しました。

尚、夏時間を考案したが、この時代には採用されなかった。1~5 Wikipediaより)

17世紀における北アメリカの植民地化終わり・・・
2012/05/10

人類の軌跡その372:アメリカ合衆国成立以前の北アメリカ④

<17世紀における北アメリカの植民地化④>

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「大草原の小さな家」より(少々時代と地域は違いますが)

 さて、昨日の記事に書き連ねた「ことわざ」ですが、「早起きは人を健康に、金持ちに、賢くする」と云うと意味は??と思いますが、「早起きは三文の得」と翻訳されて、日本でも有名です。
しかし、早起きは健康には良いですが、金持ちになりますか?
9時から仕事が始まるサラリーマンが朝の4時に起きて5時に会社に行くことは出来ません。
 
 しかし、13植民地の人々は、このことわざを読んで、「なるほど、そうだ、早起きして金持ちになろう」と、納得したに違いないのです。
そうでなければ、『貧しきリチャードの暦』がベストセラーになるはずが在りません。

 早起きしたら金持ちになる仕事なんでしょう?
農業なのです。

 植民地に渡ってきた人達の多くは農業に従事していますが、特別な環境に在りました。土地は無尽蔵、未開の荒野が果てしなく広がっています。
早起きして、僅かな広さでも開墾すれば、それが自分の農地となり、翌年の収穫増加につながります。
働けば働く程、耕作地が広がる環境に在ったのが、当時の13植民地なのです。
そして、フランクリンは農民達に、「気を抜かずに頑張れ」、と応援をしている訳です。

 以前放送された、ローラ・インガルスワイルダー作『大草原の小さな家』、あのドラマに登場する、インガルス家のイメージです。
大きな農場を経営しているような農民ではなく、自分の力だけでやっている自営農民です。
頑張るのは、あくまでも自分です。
「天は自ら助くるものを助く」、自助努力の精神とかフロンティア・スピリットとか、アメリカ人の精神的な柱が形成されていきました。

 そして、応援しているフランクリン自身が、自分の才覚と努力で一文無しから大金持ちに成っている訳で、アメリカンドリームを最初に実現した人なので、説得力が在ります。

 フランクリンの言葉を紹介して今日は終わりにします。

「ヨーロッパでは名門に価値があるが、…アメリカでは他人の事を『あの人はどういう身分か?』とは聞かないで、『あの人は何ができるか?』と聞くのである。
その人に有用な技能があれば歓迎されるし、それを行なって上手にできれば、彼を知る者から尊敬される。
だが、ただ家柄が良いと云うだけの人が、そのためだけの理由で、何か官職か俸給を得て、社会に寄食しようとすれば、軽蔑され無視されるであろう」

終わり・・・

2012/05/09

人類の軌跡その371:アメリカ合衆国成立以前の北アメリカ③

<17世紀における北アメリカの植民地化③>

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感謝祭

 ヴァージニア植民地がイギリス最初の植民地で、その後、様々な集団が移住し、植民地を建設します。
アメリカ大陸に移住する集団は、それぞれ国王から場所を指定した許可状を交付され、植民地に名前を付けられます。
基本的には植民地どうしの連携はありません。
 
なかには、イギリス本国で迫害を受けたピューリタンが、信仰の自由を求めて建設した植民地もあります。
1620年、ピルグリム・ファーザーズのグループが建設したプリマス植民地で、1732年に成立したジョージア植民地まで、13の植民地が成立します。
この13植民地を基礎に、現在のアメリカ合衆国になるのです。

◎13植民地の生活

 13植民地の人々はどんな暮らしぶりだったのでしょうか。
13植民地でベストセラーになった『貧しきリチャードの暦』を通して見てみたいと思います。
『貧しきリチャードの暦』を出版したのはベンジャミン・フランクリン(1706年~1790年)です。

 フランクリンは父親の代にアメリカ大陸に移住し、父親はボストンでロウソクや石鹸をつくっていました。
家は貧しかったので、小学校も満足に行っていませんでしたが、12歳で印刷屋をやっていたお兄さんのところで働きはじめます。
兄貴と上手くいかず、17歳の時に無一文でボストンを離れて、フィラデルフィアに移りました。
ここで、印刷工として働いて、22歳の時には独立して自分の印刷所を持つ迄に成りました。
まじめに働き、いろいろな事に好奇心を持ち、自分の頭で考える事が得意な人物でした。
 
当時、印刷所はカレンダーをつくって販売していました。
今でも、カレンダーは印刷会社が作りますが、フランクリン時代の13植民地では、誰もカレンダーを現在の様に貰えません。
買うしかないので、カレンダーは絶対売れますが、どこの印刷所でもカレンダーを印刷して販売していました。
ところで、カレンダーは、1から31までの数字と曜日さえ書いてあれば良いので、どこの印刷所のカレンダーも同じようなものです。

 フランクリンは、ここで知恵を絞ります。
たくさん売れる為には独自性を出さないといけません。
そこで思いついたのが、カレンダーの余白に「ことわざ」を印刷することでした。
聖書をはじめとするいろいろな本から、人生訓的なものを探し出してカレンダーを埋め尽くし、足りない場合は、自分でことわざを創りました。
そうして、出来上がったのが『貧しきリチャードの暦』と云うカレンダー。
ものすごい人気を呼んで、売れに売れ、フランクリンは有名になり、金持ちになりました。

『貧しきリチャードの暦』はロングセラーにも成り、ことわざを入れ替えながら、これ以後25年間出版され続けます。
これだけ売れたのは、「ことわざ」を入れるという工夫の為だけではなく、フランクリンの選んだ「ことわざ」そのものに、当時の植民地の人々を揺り動かす何かがあったと考えられます。

 いったいどんな「ことわざ」が載っていたのでしょうか。

「女と灯火のない家庭は魂のない人のようだ」
「軽い財布、重い心」
「よく愛し、よく鞭打て」
「生きるために食い、食うために生きるのではない」
「金をためすには火、女をためすには金、男をためすには女」
「寝ている狐は一羽の鳥も捕まえない」
「怠惰は何でもことをむずかしくするが、勤勉はすべてをたやすくする」
「仕事を追い、仕事に追われるな」
「早起きは人を健康に、金持ちに、賢くする」
「必要のないものを買えば、まもなく必要のあるものを売らなければならなくなる」
「御馳走が多いと意志がやせる」
「天は自ら助くるものを助く」
「今日の一日は明日の二日」
「空の袋は立ちにくい」

 どこかで聞いた事のあるものですが、フランクリンの「ことわざ」を読んでいくと、共通点がいくつか見えてきます。
彼が繰り返し繰り返し訴えているのは、勤勉、節約、蓄財です。
働きなさい、無駄遣いはいけません、貯めなさい、まさしくカルヴァン派、ピューリタンの教えなのです。

続く・・・

2012/05/08

人類の軌跡その370:アメリカ合衆国成立以前の北アメリカ②

<17世紀における北アメリカの植民地化②>

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スミスを助けるポカホンタス(後世の作で事実とは描写等が異なります)

昨日の続きから

 飢えに苦しんだジェームズタウンの住民は、先住民から食料をわけてもらうために奥地に出かけました。
一行はキャプテン・スミスに率いられて、ポウハタン族の集落へ行き、そこで酋長ポウハタンに食料をわけてくれるように交渉しました。

 そのときの酋長の言葉が伝わっています。

「キャプテン・スミス殿。あなたがこの地に来たことについて、私は疑問をもっている。私は親切にしてあげたいのだが、この疑問があるので、それほど親切に救い手をさしのべるわけにはいかないのだ。というのは、あなたがこの土地に来たのは、交易のためでなく、私の人民を侵し、私の国をとってしまうためだ、と多くの人が言っているからだ。この人達が貴方にトウモロコシを持って来ないのは、貴方がこの通り部下に武装させているのを見ているからだ。この恐怖を取り払って我々を元気づけるよう、武器を船においていらっしゃい。ここでは武器は要らない。われわれはみな友人なのだから…」。

 非常に筋が通った内容と思います。
武器を船においていらっしゃい、というセリフを見るとスミス達がそれまで如何なる態度であったか想像できます。

 さて、この様に云われたキャプテン・スミスはどうしたでしょうか。
一説によると、いきなり酋長の横に立っていた弟を、ぐいっと引き寄せて、その頭にライフルの銃口を突きつけながらこの様に言いました。

「トウモロコシを船に積め、さもないとお前らの死体を積むぞ」。

 武器で脅されて、ポウハタン族はイギリス人に食料を供給する事になり、ジェームズタウンの人々は冬を乗り切った、と云うのですが。

 これとは全く違う話も伝わっています。
 此方の話では、食料を求めて奥地に分け入ったキャプテン・スミス達は、ポウハタン族に捕らえられ、村の広場に連行され、スミスは処刑される事に成りました。
スミスが広場の真ん中に引き出されて、両手両足を押さえられてうつぶせに寝かされ、今まさにスミスの首が切り落とされるというその時に、一人の乙女が飛び出してきてスミスの上にかぶさって、命乞いをするのです。
「この白人の男は、きっと悪い人ではありません。どうか命を助けてやって下さい」と、願い出ました。
この女性がポカホンタスで、酋長ポウハタンの娘でした。
娘の願いに負けて、酋長はスミス達を許し、更に、食料までもらってジェームズタウンに帰る事ができた、と云います。
ポカホンタスもスミスとともにジェームズタウンへ行きました。

 何故、ポカホンタスがキャプテン・スミスを助けたのか、これは一目惚れという事です。

 全然違う二つの話、どちらを信じますか。
常識的に考えて、ポカホンタスの話はイギリス人が作り上げた伝説でしょう。

 ただ、ポカホンタスというネイティヴ・アメリカンの娘は実在しているのです。
実際に、ジェームズタウンに住んでイギリス男性と結婚して子どもも生まれています。
但し、夫になったのは、キャプテン・スミスではなく、ジョン・ロルフという人物ですが。

 実際のポカホンタスは、人質として、ジェームズタウンに無理矢理連れてこられたのではないでしょうか。
ただ、現在のアメリカ合衆国の主流派である白人達にとっては、少々後ろめたい話なので、それを、恋愛物語に仕立てて語り伝えてきたのではないかと思います。

※ディズニー映画で数年前に公開された『ポカホンタス』は、恋愛バージョンの話を映画化したものです。

 先住民の娘ポカホンタスはジェームズタウンでイギリス人と一緒に生活する様に成りました。
彼女は先住民の農業をイギリス人に教えました。
彼女はタバコ栽培を教え、コロンブス以来、ヨーロッパに喫煙の風習が伝えられて、流行しはじめていました。
タバコを栽培してヨーロッパに輸出すればいい儲けに成ります。
ジェームズタウンの人々は黄金は発見出来ませんでしたが、タバコ栽培で成功したのです。

 以後、イギリスからタバコ栽培目的で移住してくる人が増加し、イギリスの植民地が農業中心になるのはこれ以来です。

 ジェームズタウンのある場所は、ヴァージニア植民地と云い、現在、ヴァージニア州。今でも、タバコ栽培を行なっています。

続く・・・
2012/05/08

人類の軌跡その369:アメリカ合衆国成立以前の北アメリカ①

<17世紀における北アメリカの植民地化①>

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 先住民はモンゴロイド系のネイティブ・アメリカンで、17世紀当時の北アメリカ大陸には、約100万人が居住していましたが、国家は形成されず、部族数500、言語系統50と云われています。
生活の仕方も部族事に様々で、狩猟採集生活、農耕も種族単位で行われていました。

最初にアメリカ大陸に到達したスペインは、北米大陸の中西部を領有します。
しかし、中南米や西インド諸島の経営が中心の為、この領有は形式的なものでした。

 フランスは、セントローレンス川沿いとミシシッピ川沿いを領有し、それぞれカナダ、ルイジアナと呼ばれます。
フランス人は、先住民との毛皮取引中心の植民地経営を行い、先住民の土地を奪うこともなく、両者の関係は比較的友好的でした。

 イギリスは東海岸沿いに植民地を建設しました。
イギリス人達は、家族単位で移住し、先住民から土地を奪って、農業をはじめます。
この点が、スペインやフランスと違うところでした。

 最初にアメリカ大陸に渡来したイギリス植民者は、キャプテン・スミスに率いられた約100人のグループでした。
この100人は全員が男です。
これは、定住する計画では在りません。
定住するのなら、家族を伴いますから、当然女性もいます。

 では、キャプテン・スミス達は何をしに来たかと言えば、黄金探しでした。
インカやアステカの様な黄金の国の存在を夢見て、一攫千金を求めてやってきた連中です。しかし、東海岸では黄金は出ません。
先住民を捕えて、黄金の在処を聞こうとするのですが、聞いても無いものは答えようも無く、スミス達は、拷問まがいの事も行い、当初、スミス達と友好関係にあった先住民の部族も、当然ながら敵対するように成りました。

 1607年、そのスミス一行がつくった最初の町がジェームズタウンです。
三角形の壁に囲まれた変わった形の町で、先住民の襲撃をさけるためにこの様な作りに成りました。

 黄金探しは失敗し、やがて冬が近づいてきて、食料が底をついてきます。
イギリスからの船も到着せず、飢えに苦しんだジェームズタウンの住民は、先住民から食料をわけてもらうために奥地に出かけました。
一行はキャプテン・スミスに率いられて、ポウハタン族の集落へ行き、そこで酋長ポウハタンに食料をわけてくれるように交渉しました。

続く・・・

2012/05/05

人類の軌跡その368:清朝⑧

<清朝その⑧>

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マテオ・リッチ<左>と徐光啓<右>

◎ヨーロッパ人宣教師の来航

 明の時代の後半から、ヨーロッパ人宣教師が中国に入国しました。
宣教師達は、まず西洋の科学技術を手土産に、中国の支配者階級に取り入ろうと考え、一方中国の歴代皇帝は、西洋技術を珍重し、宣教師を迎え入れます。
しかし、キリスト教に入信する事は無く、この姿勢は清の時代でも同様でした。

※代表的な宣教師

 マテオ・リッチ。
中国名は利瑪竇(りまとう)。
宣教師達は中国名を持って活動しました。

 彼はイエズス会士で、中国布教の先駆者で在り、1601年、初めて明の万暦帝から中国での伝道許可を得ました。この時、マテオ・リッチが万暦帝に献上した品物は、キリストとマリアの像、バイブル、ロザリオ、台付きの時計、万国図誌。
万暦帝の気に入ったのが台付き時計で、この時計が故障した時、マテオ・リッチが手際よく修理し、皇帝に気に入られたと云います。
この様な事情で布教許可が成されたので在り、皇帝は宗教そのものに関心が有った訳ではありません。

 それでも、マテオ・リッチの持つ科学技術が中国で尊敬の的に成り、以後、中国に入国する宣教師は、科学技術の知識をそなえた者が多く成りました。

 マテオ・リッチが1602年に出版した世界地図が『坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)』。

 『農政全書』を著した徐光啓は、マテオ・リッチに会い、キリスト教に入信しています。
徐光啓は明朝の中枢で大臣として活躍した大物官僚なので、彼の入信はマテオ・リッチの功績でした。
ただ、当時の信者は北京でも300人位で、爆発的に信者が増える事は在りませんでした。
マテオ・リッチと徐光啓が共同で著した数学の本が『幾何原本』です。

 アダム・シャール。
中国名、湯若望(とうじゃくぼう)。
明の末期に徐光啓に呼ばれて、西洋の天文学を基本に暦の改変をおこないます。
彼の著した西洋天文学の本が『崇禎暦書』。
大砲の製造技術も伝授し、明は中国本土に侵入しようとする清軍を山海関で阻止しましたが、彼の造った大砲はそこで大活躍し、呉三桂が寝返る時、清軍への最大の見返りが大砲でした。

 明が滅んだ後は、清に仕えて天文台の長官を拝命しますが、康煕帝の時に、キリスト教に反感を持つ中国人官僚に糾弾されて、逮捕投獄、最後は獄死しています。

 フェルビースト。
中国名、南懐仁(なんかいじん)。
アダム=シャール亡き後、中国の伝統的な暦法よりも西洋の暦法の方が正しいことを証明して、康煕帝の信頼を得て、天文台の長官になりました。
三藩の乱が勃発した時には、康煕帝の為に大砲440門を製造しています。

 ブーヴェ。
中国名、白進(はくしん)。
康煕帝の信頼を得て、側に仕え、勉強好きな康煕帝は、数学や天文学等、疑問がある時はブーヴェに訪ねたと云います。
ブーヴェは中国全土の測量作業を手がけ、『皇輿全覧図(こうよぜんらんず)』を完成させます。

 カスティリオーネ。
中国名、郎世寧(ろうせいねい)。
康煕、雍正、乾隆の三代に仕え、宮廷画家として活躍しました。
円明園という皇帝の別荘の設計を行いますが、之はヴェルサイユ宮殿をモデルにしたものです。
1860年にイギリス・フランス連合軍に破壊されて、現存していません。

 以上の宣教師はすべてイエズス会士です。
歴代皇帝は利用できるなら、宣教師でも何でも利用しました。
イエズス会の側も、まずは中国社会に入り込むことが第一と考えて、中国の伝統文化に妥協します。
具体的には、キリスト教に入信した中国人が、孔子を拝み、祖先の霊を祀る事を認めました。
因みに康煕帝の時代に、中国全土に30の教会が在ったと云います。

 後に、イエズス会に遅れて中国に布教に来た、ドミニコ修道会、フランチェスコ修道会が、イエズス会の布教活動に異議を唱え、中国人に対して如何に布教すべきか論争になり、これを典礼問題と云います。

 北京の宮廷に出入りする宣教師達が皇帝の前で、お互いの非難をはじめます。
清朝の皇帝にとって、典礼問題はローマ教会内の問題で、中国とは何の関係も無いのですが、典礼問題は、ローマ教皇と中国皇帝とどちらが偉いかというような論争に発展して行きました。
やがて、ローマ教皇が、中国人の信者に孔子や祖先を祭る事を禁止する命令を出すと、康煕帝はイエズス会以外の布教を禁止し、次の雍正帝はキリスト教の布教を全面禁止しました。
但し、布教が禁止されただけなので、イエズス会宣教師が宮廷に仕える事は変わりません。

 この時期のキリスト教は、西洋の技術や文物を伝えただけで、中国の文化に大きな影響を与える事は在りませんでした。

清朝終わり・・・
2012/05/04

人類の軌跡その367:清朝⑦

<清朝その⑦>

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『金瓶梅』より

◎明清の文化

 学問の中心は陽明学です。
 明代の儒者王陽明が開祖で、宋代に生まれた朱子学を批判します。
王陽明は官僚出身で有能な地方官でした。
何度か反乱鎮圧にも活躍して軍事的才能も在りましたが、ある時、宦官に憎まれて左遷されます。
このときに、儒学に悟りを開いて陽明学を確立しました。

 王陽明は、朱子の「性即理」に対して「心即理」説を唱え、朱子は書物を読んで物の「理」を研究する必要性を説きましたが、王陽明の「理」は、自分の心の中にあるはずだと云います。
其れを現す言葉が、「わが心に問うてみて納得できぬことは、たとい孔子の言でも肯定しない」なのです。

 「知行合一」説も有名ですが、非常に哲学的で難解な内容ですが、普通理解されているような「正しいと思ったら行動をしなければならない」という意味では全く在りません。

 陽明学派には過激な思想家が多いのですが、その代表格が李卓吾、李贄(りし)とも云います。
彼の説はあまりにも過激なので、最後は捉えられ獄中死してしまいます。
儒学者でありながら、「論語は偽善者の養成所」と痛烈な批判を行なっています。

 考証学
 明末清初の王朝交代期には、儒学者たちは身の処し方に悩みます。
「忠」という儒教道徳からすれば、明に仕えていたのなら、清の支配を認めてはならない筈なのです。
 顧炎武、黄宗義という学者は明末清初の学者で、清に仕えることを潔しとしなかった人達です。
彼らがはじめたのが考証学、彼らは明が滅亡したのは、明の時代の学問が現実の問題に役に立たなかったからだと考え、そこで、実地検証にもとづいた実践的な学問を確立しようと試みました。
 
 考証学は、実証的な学問方法として発展し、現在の近代的学問方法と変わる処なく、歴史研究では多くの成果を挙げました。
特に清代の考証学者銭大(せんたいきん)は有名です。

 庶民文化の活況
 明代に「四大奇書」が成立し、『水滸伝』『三国志演義』『西遊記』『金瓶梅』が之に当たります。
宋や元の時代から、講談やお芝居で演じられてきたものが、現在に伝わる小説の形に成りました。
江戸時代の日本文学にも大きな影響を与え、 有名な怪談『牡丹灯籠』の原作『牡丹亭還魂記』もこの時代のものです。

 清代では曹雪斤の『紅楼夢』が有名で、作者は、満州八旗の名門貴族出身、祖父は康煕帝の側に仕え、政府が南京で運営する織物工場の長官でした。
康煕帝が、南京に行幸した時には、彼の家に宿泊しています。
但し、曹雪斤の時代には没落していて貧しい暮らしをしていたと思われます。
『紅楼夢』は、自分の家をモデルにして、満州貴族の繁栄と没落を描いた作品です。

 実学の発達
 明代の文化の特徴に実学の書物が多く書かれた事です。
 李時珍の薬草の百科事典『本草綱目』
 宋応星の工業技術解説書『天工開物』
 徐光啓の農業の解説書『農政全書』等
 実際に役に立つ学問は庶民が必要としているもので、先の小説類も庶民が楽しむものでした。
そろばんが流行、普及したのも明の時代で有った事も記述しておきます。

続く・・・
2012/05/03

人類の軌跡その366:清朝⑥

<清朝その⑥>

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メキシコ銀貨

◎明清の社会

 明清の時代は、王朝は交代しますが、社会・経済・文化はひとつづきのものとして発展していきます。

 蘇州、杭州など、特に長江下流地域に商工業都市が発展し、工業では綿織物、絹織物工業が発展、宋代からはじまる景徳鎮の窯業も盛んです。

 米の主産地は、長江下流域から中流域に移動し、この時代は「湖広熟すれば天下足る」と云われ、湖広とは湖北、湖南、江西省の長江中流域を意味しています。

 商業も盛んで、山西商人、新安商人などによる遠隔地交易が盛んになり、山西商人は山西省、新安商人は安徽省徽州府出身の商人で、同郷者どうし協力しあい、ネットワークをつくって中国全土を舞台に活躍しました。
各地に「会館」「公所」と呼ばれる自分たちの宿泊施設や、商品の倉庫をつくりましたが、会館の名前は、日本語にもなっています。

※銀の大量流入

 明清時代に中国国内に大量の銀が流入します。
これは、海外貿易で中国からの輸出品の代金として支払われたもので、当時、アジア地域の国際貿易は銀で決済していました。
その訳は、大量の銀が存在しており、その出所は、日本とメキシコでした。
戦国時代から江戸時代の半ばにかけての日本は、世界的にみても大量の銀が採掘されており、代表的な銀山が兵庫県の生野銀山で、この銀が、オランダなどを通じて中国に流れ、メキシコからはスペインが大量の銀をアジアに運んだのです。

 大量の銀が中国国内に流通するように成り、明の一条鞭法や、清の地丁銀など税の銀納化が進行しました。
戦国時代や江戸時代の日本の農民が、年貢を銀で支払う、ことは想像できません。
如何に明清時代の中国で、貨幣経済が発展していたか理解できると思います。

 地域社会で指導的な役割を持ったのが「郷紳」と呼ばれる人々です。
かれらは郷村社会の指導者であると同時に、科挙官僚もしくはその予備軍でも在り、経済的には地主階級です。
宋の時代に「士大夫」と呼ばれていた人たちとほぼ同じですが、郷紳と呼ぶ様に成ったのは、地域社会で彼らの存在が大きくなってきた為と思われます。

続く・・・

2012/05/02

人類の軌跡その365:清朝⑤

<清朝その⑤>

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『康熙字典』

◎清の政治

 満州族王朝の清が、多くの人口と独自の伝統文化を持つ漢民族を支配するには、可也の工夫が必要でした。
漢民族に受け入れられる為、儒学者を擁護し、大規模な編纂事業を行い、儒学者を優遇します。
永楽帝が、儒学者に『永楽大典』を編纂させた事に似ています。
 
 康煕帝時代に行われた事業が、『康熙字典』『古今図書集成』の編纂です。
『康熙字典』は漢字辞典で在り、漢字の数は異体字を含めると可也の種類に成りますが、それを集大成しました。
「へん」「つくり」で漢字を分類する方法も『康熙字典』から確定し、現在日本で用いられている、すべての漢和辞典の種本で、内容的にも現在まで価値が衰えていません。

 行政機構では、漢民族を差別せずに満州族と同様に扱いました。
「満漢併用制」と云い、役所の長官など満州族と漢民族を同数配置した。科挙は明代に引き続き行われています。

 以上のような優遇制度をとる反面で、綱紀粛正は容赦無く実施されました。
「文字の獄」、反清的な書物は禁書処分等、清の統治の初期は、明を懐かしがって清に抵抗する学者も結構存在していました。

 清は中国を支配すると、清を認めるかどうかの踏み絵として漢民族に弁髪を強制しました。
弁髪は、満州族の髪型で頭頂部を残して頭を剃り、残した部分を長くのばして三つ編みにします。
漢民族の伝統的な髪型は総髪。
どこも剃らずに伸ばして結います。
当時、モンゴル人、満州人、日本人、中国周辺の民族は、頭髪を剃る習慣が在り、日本の武士階級も額から頭頂部は剃られていました。
漢民族から見ると、野蛮人の風俗を強制されました。

 清は「頭を残すか、髪を残すか」と漢民族に迫り、髪を剃らなければ、死刑に成りますから、結局漢民族は弁髪を受け入れざるを得ませんでした。

 広大な領土を支配する為、清朝は支配地域を直轄地と藩部の二つに分けます。
直轄地は、満州、中国本土、台湾、是等の地方には官僚を派遣して中央集権的支配を行いました。
藩部は、モンゴル、青海、東トルキスタン、チベット、是等の地方は間接統治で、各民族の伝統的な支配に任せ、清朝は、理藩院を設置して、藩部の統治を監視しました。
これ以外に、清の宗主権を認めた国が、朝鮮、ヴェトナム、シャム(タイ)、ビルマで、是等の国は独立国ですが、理念的には清の属国です。

続く・・・
2012/05/01

人類の軌跡その364:清朝④

<清朝その④>

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紫禁城

◎内政

 康煕帝を継いだのが息子の雍正帝、康煕帝の四男で、あまり目立たない人物でした。
康煕帝の後継問題は混乱が在り、康煕帝臨終の時に次期皇帝に指名したのが雍正帝なのですが、この部分は謎に包まれています。
即位した雍正帝は、後継者問題で今後混乱がないように「皇帝密建の法」を定めました。
これは、早い段階で皇太子を決定すると、他の皇子たちが陰謀などをめぐらせる為、皇帝は後継者を決めても公表せずにその氏名を紙に記して、秘密の箱に入れておき、皇帝が崩御後、はじめて箱が開かれ次の皇帝が発表されるというものです。
従って、皇帝は息子たちの日頃のおこないを見て、一度決めた皇太子の名前を書き換える事も可能であり、誰にも公にしない為、書き換えが政治的な混乱や陰謀を生むことも在りません。
長男が後を継ぐ原則も存在せず、優秀な息子を指名可能で、結果清朝の皇帝はこの後も比較的優秀な人物が続きます。

 雍正帝は父親の康煕帝の様な華やかさとは無縁の人物ですが、実に真面目に皇帝としての職務を全うし、清朝の支配体制を引き締めました。

 例えば、清朝の地方長官は、行政組織を通さずに手紙を直接皇帝に送る事ができました。
雍正帝は地方情勢全般について皇帝に手紙で報告する様、命じていたので毎日、全国から手紙が届きます。
日照り、農作物の不作、洪水被災、米価の上下等、雍正帝は、是等地方からの報告を全部読んで、その総てに指示事項まで付け加え返事を書くのです。
地方の役人も、報告を送らないと怠慢と思われますから、真面目に働かざるを得ないのです。

 又、この様な話も伝わっています。
ある時、大臣が四人集まって麻雀をした。
雍正帝は官僚には賭事を禁じていたのですが、やっぱりやめられません。
徹夜で、牌を振っていると、牌が一枚無く成り、いくら探しても、出てこないので、大臣たちは、そこでお開きにしました。
翌日、大臣のひとりが雍正帝の前に進み、一通り政務の話を終わった後、雍正帝が訪ねました。
「昨晩、おまえは何をしていた」大臣は、皇帝に嘘をつくことができず、正直に賭け麻雀をしていたと告白しました。
すると、雍正帝は袂から麻雀牌を一枚とりだし、それを大臣に渡して、「以後、気をつけよ」と告げます。
それは無くなった牌だったと云います。
大臣の家に仕えている召使いの誰かが、皇帝の密使なのですが、この様な話は可也現存しており、官僚たちが緊張しながら、政務を遂行している雰囲気が伝わってきます。

◎雍正帝時代の政治的出来事

1)軍機処の設置
 雍正帝時代に、軍事機密を扱う機関として設置されたのが軍機処です。
やがて内閣に代わって軍事・行政の最高機関となり、軍機処の長官を軍機大臣と云います。
後に総理大臣の役割を兼務する地位と成りました。
因みに清は明の政治機構を受け継いで、皇帝独裁政治の為、軍機大臣は皇帝の補佐役です。

2)文字の獄
 思想統制で、康煕帝もおこなっていますが、雍正帝が特に有名です。
清朝の皇帝を批判するような文章はいっさい許さず、例えば科挙の試験問題に「維民所止」という一節が在り、これを見て雍正帝は出題した学者を処刑しました。
何故なのでしょう。
「維」と「止」の上にそれぞれ、「なべぶた」と「一」をつけると「雍」「正」に成り、つまり、この一節は雍正帝の頭を切り落とし、さらに二文字を「民所」で離して、雍正帝の胴を二つに裂いている、と云う意味と考えられ当時は立派に反逆罪に成りました。
清朝は満州族の王朝なので、弾圧は厳しかく、漢民族の儒学者を自由奔放にする事を警戒した様です。

3)地丁銀の全国実施
 地丁銀は税制です。
明の一条鞭法を更に簡素化し、成年男子にかかる丁銀という税金を、土地にかかる税に組み入れて一本化しました。その結果、税の銀納化が一段と進んだのです。

4)キャフタ条約(1727年)
モンゴル北部で未確定だったロシアとの国境線を確定しました。

即位した時に既に45歳の雍正帝は、清の政治を引き締め在位14年で崩御、後を継いだのが乾隆帝です。

 乾隆帝は、雍正帝が固めた土台の上で、対外関係に力を注ぎました。
各地に遠征しますが、重要なのは、チベットと、東トルキスタンを領土にくわえた事です。
この時代に、中国の領土は史上最大と成り、現在の中華人民共和国の領域の原型が形成されました。
ヨーロッパとの貿易は盛んに成りますが、乾隆帝は貿易の管理と治安の維持を目的として、貿易港を広州のみに限定しました。
これは、自由に通商を行う意図の在るイギリスを刺激し、外交問題に発展して行きます。

続く・・・