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2012/06/30

人類の軌跡その416:産業革命と社会運動②

<産業革命その②>

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ロコモーション号

◎技術革新

 1764年、同時に複数の糸を紡ぐジェニー紡績機が発明され、糸車の回転を複数の紡錘に伝え、レバーで糸と紡錘の角度を変えることによって、よりをかける作業と巻き取り作業を切り替えることができる機械です。
発明者はハーグリーブス、ジェニーはハーグリーブスの奥様の名前です。

 次いで、1769年、アークライトの水力紡績機が登場します。
綿をローラーで引き延ばしてからよりを掛ける機械で、人力ではなく水車の力で動かしたので水力紡績機といいます。
アークライトはこの発明で特許を取り、水力紡績機の工場が各地で建設され大成功しました。

 1779年には、クロンプトンがミュール紡績機を発明。
これは、ジェニー紡績機と水力紡績機の長所を取り入れたもので、ジェニー紡績機の糸は細いが切れ易く、水力紡績機の糸は、丈夫だが太いのですが、ミュール紡績機の糸は、細くて丈夫でした。

 1785年、カートライトが力織機を発明。
ミュール紡績機の登場で、糸の供給は大幅に増加し、今度は逆に、糸の生産に織布が追いつかず、糸が在庫過多に成りました。
布を織る工程の改良が望まれ、登場したのが力織機で、力織機は織機の動作を自動化して、一人で何台もの織機を操作できるようにし、更に、動力として蒸気機関を使うという画期的な発明でした。

 1793年、ホイットニーが綿繰り機を発明。
この人物はアメリカ人で、今までの発明家はイギリス人です。
綿繰り機は、収穫した綿花から種を取り除く機械で、水力を動力として、作業能率がそれまでの50倍に上昇しました。

 以上、綿工業の技術革新、機械の発明を紹介しました。
産業革命は、この技術革新が、他の産業にもどんどん波及していくのです。
例えば、力織機やミュール紡績機などの機械を作る為の機械工業が発達し、又、機械の原料としての製鉄業の技術革新が始まります。
大量の綿製品を工場から港に運ぶ為に、輸送手段でも技術革新が始まるのです。

 その中でも、大事なのが動力で、1710年には、ニューコメンによって蒸気機関は作られていた。これは、炭坑の地下水を排水する為のポンプとして使用されましたが、効率の非常に悪い代物で、1769年、ワットが改良を加え、以後、さまざまな機械の動力として利用されていきました。

 蒸気機関を輸送手段に応用した、最初の人がトレヴィシックです。
1804年、蒸気機関車を作りますが、レールが弱く実用化には向きませんでした。
(蒸気機関車が発明される前から、イギリスには鉄道馬車が発達していました。
レールの上の車両を馬が牽引するもので、トレヴィシックの蒸気機関車は、このレールの上を走行しましが、その重量にレールが耐えきれませんでした。)

 1814年、スティーブンソンの蒸気機関車が登場します。
1825年、ストックトン・ダーリントン間の鉄道開通に彼の開発したロコモーション号、1830年のマンチェスター・リヴァプール間の鉄道開通運転ではロケット号が運転され、これ以後、実用化され各地に鉄道が建設されていきます。

 蒸気機関車は、まさしく鉄のかたまりで、これ以後、製鉄業など重工業も発達して行く事になります。

 船では、1807年、アメリカ人のフルトンが、蒸気船クラーモント号を建造しました。
この時代には、スクリューは発明されておらず、船の両脇に大きな外輪を装備して、蒸気機関で回転させます。


続く・・・
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2012/06/29

人類の軌跡その415:産業革命と社会運動①

<産業革命その①>

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◎技術革新

 産業革命とよばれる産業構造の変化が18世紀後半のイギリスで始まりました。
産業革命は、やがて世界中にひろがり、社会経済の仕組みをそれまでとは全く違ったものに変えていきます。
言い換えれば、ここから資本主義社会、工業化社会が誕生するのです。
では、産業革命はどの様に始まったのでしょう。

 17世紀に、イギリス東インド会社がインド貿易を開始し、インド綿布はイギリスで大流行しました。
手触りは柔らかく、軽くて暖かい、白い布地は染めやすく、プリントも簡単にできるのが綿布の特徴。一方、イギリスの毛織物業者は、綿布の流行で、売り上げがひどく落ちこみ、危機感を持った毛織物業者の働きかけで、イギリス政府は1700年、インド綿の輸入を禁止します。

 しかし、禁止されても綿布の需要は存在します。
輸入が駄目なら、西インド諸島等から原綿を輸入して、イギリス国内で綿布の生産が始まりました。
綿布は人気が在り、作る先から次々に売れ、消費に生産が追いつきません。
そこで、大量に生産する為の技術の改良が始まり、これが、産業革命の発端でした。

 産業革命の発明史の中で、最初に登場する人物がジョン・ケイです。
彼は1733年「飛び杼(とびひ)」を発明しました。
布は縦糸と横糸が交差して織られますが、「杼」は横糸を載せる道具で、これを縦糸の間に通して横糸を張ります。
織り職人は、機織り機の向こう側に手を伸ばして、右手と左手で「杼」を受け渡しして横糸を通す訳ですが、これは時間が掛かり、布の横幅は両手の届く幅より広く作れません。
 
 これを改良し、「杼」を手で持たず、ひもを引っ張ることで、左右に飛ばす様にした機械が「飛び杼」です。
横糸を通す作業が簡単になり、布を織るのに掛かる時間が短縮されました。
画期的な発明ですが、ジョン・ケイは、成功できませんでした。
この様な機械を作られたら、仕事が無くなると考える職人達に恨まれて、生まれ故郷の町に住めなくなります。
後には、使用料を払わずに機械を使う輩が現れて、使用料の支払いを求める裁判の費用が払えずに最後は破産してしまいました。

 「飛び杼」によって、布の生産能率が向上すると、今度は糸の生産が追いつかなく成りました。
製糸は、昔ながらの方法で行われていたからです。

 糸は、繊維に「より」をかけて作られています。
昔は、綿のかたまりから細く繊維を引っぱり出し、これに紡錘という棒状の道具をつけてぶら下げ、ぶら下げた紡錘を手でひねって回転させると、糸がよじれて「より」が掛かります。
ある程度「より」が掛かると、糸を紡錘に巻き取って、また新たに繊維を繰り出して同じように「より」をかけ、この繰り返しで、糸を作っていきます。
これが、一番単純な糸の作り方で、何の機械も必要とせず、紡錘一本あれば良いわけです。

 もう少し進歩した方法が、糸車を使い、糸車を回すと、ベルトでつながっている紡錘が高速で回転し、片手で綿を繰り出し、もう片方の手で糸車を回します。
これで、よりを掛けたり、糸を巻き取る方法が、産業革命前でした。
ぶら下げた紡錘を回転させる「より」は、能率が良いのですが、一人に一本しか糸を紡げない為、「飛び杼」で織布の能率が上がると、糸不足になったのは理解できます。

続く・・・


2012/06/28

人類の軌跡その414:ナポレオン以後のヨーロッパ⑦

<ウィーン体制その⑦>

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19世紀、産業革命期のロンドン

◎イギリスの諸改革②

 七月革命で、フランスの市民階級が政権に参加したのを見て、イギリスでも都市商工業者が、腐敗選挙区を無くし、意見を国政に反映させようとした。

 その結果、1832年、第一次選挙法改正がおこなわれ、都市の富裕な市民階級にも選挙権が与えられました。
但し、女性、工場労働者や農業労働者には選挙権は無く、有権者は全人口の4.6%にすぎません。
それでも、産業資本家層が、直接議員として国政に参加するように成り、その結果、政党が再編され、地主の利益を代表する保守党、商工業者の利益を代表する自由党と云う、二つの政党によって政策が争われる様に成ります。
自由党が主導権を握り、産業資本家に有利な法律が制定されて行きました。

 産業資本家は、自分達の作った商品を海外に販売して利益を上げ、貴族やジェントリが持っている特権を廃止し、自由貿易を求めていました。
この要求に応えて、1833年、東インド会社の中国貿易独占が廃止され、それまでは、東インド会社のみに中国貿易が許可されていたのです。

 1846年には、穀物法が廃止されました。
穀物法は、イギリス国内の地主を保護する為に、外国産穀物の輸入を制限していた法律です。
都市に住んでいる産業資本家にとって、国産、外国産に関係なく、安い小麦が買えればよいので、自由貿易の方が、彼らにとっては理想的なのです。
穀物法廃止に活躍した二人の政治家がコブデンとブライトです。
二人とも産業資本家で反穀物法同盟を結成し精力的に活動しました。

 1849年には、航海法が廃止されました。
これは、1651年クロムウェルの時に作られた法律で、当時ライバルであったオランダ商船を排除する為に、イギリス船でなければ輸入を認めないというものでした。
当時完全に時代遅れの法律でした。

 この様に、1830年代以降、イギリスでは産業資本家が政治の主導権を握って、自由主義的な改革を次々に行っていきました。

ウィーン体制、終わり・・・

2012/06/27

人類の軌跡その413:ナポレオン以後のヨーロッパ⑥

<ウィーン体制その⑥>

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ジョン・コンスタブル・デダムの水門と水車場

◎イギリスの諸改革

 名誉革命後のイギリスは、急激な政治の変化を避け、法律の改正によって徐々に変化していくところに特徴があります。
ヨーロッパ諸国とは、別格の様なイギリスですが、やはり七月革命の影響を受けています。

 宗教の自由化ですが、七月革命以前から行われており、1828年には審査法が廃止されています。この法律は、国教会の信者でなければ官職に就けないという法律ですが、本来はチャールズ2世が、カトリック信者を官僚に採用し、絶対主義を行おうとした背景に対抗して、1673年に制定された法律です。
それから、150年が経過し、時代に適合しなくなった結果で、審査法の廃止により、カルヴァン派等は官職に就く事が可能と成りましたが、カトリックだけは、まだ差別が続いていました。
そこで、翌1829年には、カトリック教徒解放法が制定され、カトリック信者も他の宗派と同じ様に、官職に就く事が可能になり、宗教上の差別が撤廃されたのでした。

 カトリック教徒差別の問題は、実はアイルランド問題です。
ピューリタン革命時に、イギリスはアイルランドを植民地にしました。
それ以来、アイルランド人はイギリスにより、搾取され差別され続けてきました。
このアイルランド人の宗教がカトリックで、カトリックを差別する法律は、事実上はアイルランド人に対する差別なのでした。

 政治的には無権利状態に置かれたアイルランド人の中から、オコンネルが登場します。
若い頃にフランスに渡り勉学した後、ロンドンで弁護士資格を獲得し、その後はアイルランド人の弁護に大活躍して、有名になります。
やがて、オコンネルは、ひとつひとつの裁判でアイルランド人を守るよりも、政治家としてアイルランド人の地位向上を目指したいと考えて、1828年下院選挙に出馬、当選します。
ところが、オコンネルはカトリック教徒なので、当選しても官職である議員に成る事が出来ないのです。

 此れまで、オコンネルは、合法的に運動を展開していました。
しかし、「カトリックは官職に就けない」では、オコンネルを支持するアイルランド人の反乱を恐れて、イギリス政府が宗教の自由化に踏み切った背景が在ります。

 七月革命の影響を受けて、イギリスで行われたのが第一次選挙法改正です。
イギリスでは、古くから選挙が行われていましたが、選挙区の区割りが産業革命以前の古い時代に作られたもので、産業革命後の人口の変化が全然反映されていませんでした。
例えば、マンチェスターやバーミンガムの様な新興都市は、10万人以上の人口でも、全く議員が選出されず、逆に、過疎化した農村の選挙区から、議員が選ばれていました。
極端な話、全く人が居なくなってしまった土地から、議員が選出されました。
この様な場合は、その土地の地主が議員に成り、その選挙区を腐敗選挙区と云います。

 古い選挙区割りで得をするのは、貴族やジェントリなどの地主でした。
逆に、都市で経済力をつけてきた産業資本家、商工業者、市民階級は、議員を選べず、又議員に成れませんでした。

続く・・・
2012/06/26

人類の軌跡その412:ナポレオン以後のヨーロッパ⑤

<ウィーン体制その⑤>

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七月革命

◎革命の第二波(1830年の諸革命)②


 オルレアン家は、ルイ14世の弟からはじまるブルボン家の分家で、王族ですが、進歩的な家風を持ち、代々自由主義に理解が在り、ルイ・フィリップの父親は、フランス革命の時、国民公会の議員としてルイ16世の処刑に賛成しています。
ルイ・フィリップも、ジャコバン派に所属していた経歴の持ち主で、自由主義に理解が在り、シャルル10世を批判する自由主義者達の集会に、自分の屋敷の庭園を開放する事も在り、王族では在りますが、自由主義者には人望が有りました。

 ルイ・フィリップも、オルレアン家が長年望んでいた王位を手中に治める事が出来、喜んで王位に就きました。

 七月革命で成立したフランスの政治体制を「七月王政」と呼びます。

 七月革命は、シャルル10世を退位させる事には成功しましたが、新しい王を即位させて終わりました。
上層市民階級が権力を掌握した事が、この革命の成果で、有権者の数は、9万人から17万に増加しました。

◎七月革命の影響

 フランス七月革命の成功は、ウィーン体制の下で抑圧されていた、ヨーロッパ各国の自由主義運動に影響を与え、各地で革命運動が起こりました。

 1831年、ウィーン会議の結果、オランダに併合されていたベルギーで独立運動がおこり、フランスやイギリスの支持を受けて独立達成。

 同じく1831年、ポーランドで独立運動がおこりますが、ロシア軍の出動で鎮圧され、失敗に終わりました。

 因みに、ポーランド出身の作曲家ショパンは、この時二十歳。
音楽活動の為ウィーンに滞在しており、独立運動のニュースを聞き、自分も運動に参加したいと考えたのですが、「おまえは音楽に専念しろ、独立運動は俺達に任せろ」と云う父親の手紙で、帰国を思い留まります。
その後、ショパンはパリに向かう旅の途中のシュツットガルトで、ワルシャワがロシア軍によって陥落したと云うニュースを知ります。
自分の友人達が革命運動に参加して、ロシア軍に殺されたかもしれないと考えると、居ても立ってもいられない気持ちに成り、怒りと、絶望と、悲しみと、後悔の混ぜ合わさった感情のまま、パリに着いて作曲したのが、エチュード「革命」と伝えられています。

 同年、ドイツとイタリアで立憲政治運動がおこりますが、これもオーストリアの鎮圧で失敗します。

 イタリアでは、もうひとつ、マッツィーニを指導者に政治結社「青年イタリア」が組織されました。
この組織は、イタリア統一を目指して、この後長く活動を続ける事になります。
 
 この時期のイタリアは、まだ中世さながらに小国に分裂したままで、「青年イタリア」の活動は、イタリアに統一国家、国民国家を形成しようとする運動が、徐々に本格化していきます。
この統一運動を妨害し続けるのがオーストリアなのです。
イタリアを自国の影響下に置いておきたいオーストリアは、イタリアが小国分裂状態に放置した方が統治に都合が良く、此の為、統一イタリアの誕生は、先の事に成ります。

続く・・・
2012/06/25

人類の軌跡その411:ナポレオン以後のヨーロッパ④

<ウィーン体制その④>

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Louis-Philippe Ier 1773年10月6日 - 1850年8月26日

◎革命の第二波(1830年の諸革命)

 ウィーン体制のもとで、ヨーロッパ諸国の自由主義は、抑圧されたのですが、フランス本国は如何なる状況なのでしょう。

 ナポレオンがワーテルローで敗北し、セント・へレナ島に流刑された後、ブルボン家のルイ18世が、再び王位に就きました。
しかし、ブルボン朝が復活しても、総ての状況をフランス革命以前の状態に戻す事は不可能です。
革命やナポレオン時代を経て、フランスの経済も人々の意識も大きく変化しています。
ルイ18世の下での政治形態は立憲王政、革命の成果である法の前の平等や所有権の不可侵等の原則は、そのまま認められました。
但し、この時期に実施された制限選挙では、有権者数は人口3千万人のうち9万人、人口の0.3%にすぎませんでした。
広い土地を持つ貴族と、一握りの上層市民による政治が行われていたのです。

やがて、ルイ18世が崩御し、1824年、王の弟シャルル10世が即位しました。
この人物は、極端に反動的な思想の持ち主で、有権者の数を更に減らし、アンシャン=レジームを復活させようと考えていました。

 シャルル10世の反動的な政治は、自由主義者との対立を激化させ、更に、経済不況や凶作が重なり、民衆の暴動が頻発するように成りました。
緊張が高まる中、1830年、シャルル10世は、議会を解散、言論統制強化、選挙権制限を企てます。これに対して、7月、パリの民衆が武装蜂起し、民衆を鎮圧する筈の軍隊の一部が、民衆側に寝返ってしまう程、王に対する反感は強かったのです。
シャルル10世は退位に追い込まれ、ウィーン体制後、初めて市民の革命運動が成功し、この革命を七月革命と云います

 上層市民階級は、フランス革命の時の様に、下層市民が権力を握り恐怖政治が行われる事を恐れました。
上層市民は、銀行家等、莫大な財産を持つ市民で、彼らは、シャルル10世の政治には反対ですが、徹底的な革命も望みません。
自分達だけが、権力を掌握して革命を終結させようと考えました。
 
共和政を求める市民も多く存在しましたが、組織化されておらず、七月革命の流動的な政治状況のなかで、次の政権の主導約を果たす事が出来ませんでした。
その結果、上層市民階級は、自分達の権力を認める新しい王を即位させ、革命を終結させます。

 この人物が、オルレアン家のルイ=フィリップなのです。

続く・・・

2012/06/23

人類の軌跡その410:ナポレオン以後のヨーロッパ③

<ウィーン体制その③>

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デカブリストの乱(12月党員の乱)

◎革命の第一波(1820年代の革命)

 ナポレオンは没落しましたが、ヨーロッパの人々は、彼によって一度は自由を味わってしまいました。
ウィーン体制は、それを力で抑圧しようとする体制ですから、当然、ウィーン体制に反発して、自由や民族独立を求める運動が起こってきます。

 1820年代を中心に自由主義運動の大きな波があります。

 最も早い時期に発生した運動が、1817年のドイツのブルシェンシャフト運動(ドイツ学生連合結社)。
ドイツ各地の大学生達が組合を組織し、自由とドイツの統一を求めた運動です。
オーストリアのメッテルニヒが中心となって、この運動は弾圧されました。

 1820年にはスペイン立憲革命が発生します。
ナポレオンからの独立戦争を戦っていた自由主義者達が、反動的な政策をとるスペイン王に反対して、自由主義的憲法を認めさせた事件です。
しかし、国王が神聖同盟に援軍を要請して、出動してきたフランス軍に弾圧されました。

 同じく1820年、イタリアではカルボナリの反乱が発生します。
カルボナリは「炭焼き党」と訳されますが、イタリアの自由主義者の秘密結社です。
このカルボナリが、政治的自由を要求して反乱を起こしますが、スペイン立憲革命に刺激されて、一時期ナポリで自由主義的革命政府をつくることに成功します。
オーストリア軍の介入によって弾圧されます。

 1825年、ロシアでデカブリストの乱。
此の反乱は、ロシア軍の自由主義的将校による反乱で、ロシアの将校は、貴族階級です。
なぜ、これが自由主義者なのでしょう。
貴族階級は自由主義に反対するのが普通ですが、これは、彼等が軍隊を率いる将校である事に理由が在ります。
ロシア軍は、ナポレオンとの戦争で、常に敗北していました。
ナポレオンのロシア遠征では最後には勝利を治めますが、実際には、ロシア軍は侵入してきたナポレオン軍から敗走を続け、冬の寒さと飢えがナポレオン軍を負かしたのでした。

 自国の軍隊が弱く、連戦連負は、将校としては非常に悔しく、一部の貴族将校達は、ロシア軍を強くする為の方策を真剣に考えました。
そのお手本になったのがプロイセンで、プロイセン改革により、プロイセン軍は僅かの時間で見違える様に近代化され精鋭と成りました。
農奴に自由を与えて、兵士に愛国心を持たせなければ軍隊は強くできないというのが、彼らの結論でした。
その為には、ロシアの政治に自由主義を取り入れ、立憲政治を行い、農奴を解放すべきだ、と考えたのです。
しかし、ロシアの政治は皇帝による専制政治の為、自分達の考えを実行するには反乱しかなかったのです。
この反乱は、直ぐに別の部隊によって鎮圧されます。

 1820年代の自由主義的運動はすべて失敗に終わるのですが、ひとつだけ成功した運動があります。
ギリシアの独立運動が其れで、ギリシアはオスマン帝国の支配下に在りましたが、ここで民族独立運動が起き、オスマン帝国に対して利権獲得や領土的野心をもつイギリス、フランス、ロシアの援助を得て、ギリシアの独立運動は成功しました。
ウィーン体制の本流とは外れる事件ですが、ギリシアは、ヨーロッパ文明の源流で、当時のヨーロッパでこの事件は、関心を集めました。

続く・・・
2012/06/22

人類の軌跡その409:ナポレオン以後のヨーロッパ②

<ウィーン体制その②>

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Klemens von Metternich1773年5月15日- 1859年6月11日

◎ウィーン体制の成立②

 タレーランは、フランスを擁護する為に「正統主義」を持ち出し、フランス革命以前のヨーロッパの姿が「正統」、全てを革命前の状態に戻そうと主張します。
従って国境線も、革命前の状態に戻し、フランスの領土は減らさず、賠償金も支払わず、との論理を展開します。
フランスは、他のヨーロッパ諸国に多くの被害を与えが、タレーランはこの様に答えます。
 「フランスも被害者です。悪いのはフランスではなくて、革命なのです。革命によって、国王ルイ16世一家は殺されました。私達、フランス貴族も特権を奪われ、多くの土地や財産を奪われました。皆さん方と同じ、被害者なのです。悪いのは、革命であり、市民階級なのです。」
此の理論構成に他国の代表者達も、タレーランの「正統主義」を受け入れます。

 フランス、オーストリア、ロシア等々、国家間の利害の対立はあるのですが、ウィーン会議の出席者達は、「ヨーロッパ全体の貴族階級」と「ヨーロッパ全体の市民階級」の対立の方を、より重大な問題として受け止めたわけです。
フランス革命の様な革命が、再びヨーロッパの何れかで発生した場合、国家間の利害の対立を越えて、市民階級を押さえつける為に、貴族階級全体で協力し合う事を取り決め様と云う事なのです。
この様な視点では、タレーランの言う「フランスも被害者」という主張も受け入れられるのです。

 タレーランは、フランスを守る事に成功しました。

 「正統主義」と並んで、大国による「勢力均衡」が、ウィーン会議のもう一つの基本原則になりました。
オーストリア、ロシア、プロイセン等の大国の利益が優先され、小国の領土が分割され、その際に、突出した力を持つ国が出現しないように大国間の「勢力均衡」が図られました。
「正統主義」という原則の一方で、結局は、強い国が得をし、弱い国が損をしたのです。

◎会議の主な決定事項

1、フランスでは、「正統主義」の立場から、ブルボン王朝の復活が認められ、ルイ16世の弟、ルイ18世が即位しました。

2、ドイツでは、ナポレオンによるライン同盟が解体され、新たにドイツ連邦が結成された。
35の君主国と4つの自由市から構成される連邦で、統一国家では無くプロイセン、オーストリアも、ドイツ連邦に含まれています。

3、ロシアは、ポーランドとフィンランドを事実上支配して、勢力を拡大。

4、オーストリアは北イタリアに領土を拡大。

5、イギリスは、セイロン島とケープ植民地の領有を認められます。
イギリスは、ヨーロッパで勢力を拡大する事よりも、アジアやアフリカに目を向けている事が判ります。
ヨーロッパ諸国よりも、一歩先に進んでいます。

 以上の様に新たな国際秩序が構築され、これを維持する為の同盟が結ばれます。
その一つが、神聖同盟、ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で結成されたもので、正確には国家間の同盟ではなく、各国君主どうしの盟約です。
君主どうし協力し合って、革命を防ぐ事が趣旨でした。

 二つ目が、四国同盟、イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアの間で結ばれた軍事同盟です。
後にフランスも加わって、五国同盟となります。
軍事同盟は、必ず仮想敵を設定します。
四国同盟の仮想敵は、何処かと云う問題ですが、この場合、仮想敵は、全ヨーロッパの市民階級です。
そして、市民階級の求める自由主義。
これ以後、ヨーロッパの何処かで革命運動や自由主義の運動が起こると、四国同盟が軍隊を出動して弾圧する事に成りました。

続く・・・
2012/06/21

人類の軌跡その408:ナポレオン以後のヨーロッパ①

<ウィーン体制その①>

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ウィーン会議

◎ウィーン体制の成立

 ナポレオンがライプツィヒの戦いに敗れ退位した後、1814年9月からウィーン会議が開かれました。
ナポレオンによって強制的に変更された国境線や、各国の政治体制を、今後どの様に維持変更するのか、ナポレオン後のヨーロッパ秩序を話し合う為の会議です。

 会議を主催したのは、オーストリアの外務大臣メッテルニヒ。
ヨーロッパ各国の代表がウィーンに集まり各国とも、少しでも自国に有利な条件で会議を進めようと必死です。
お互いの利害が衝突して、議事はなかなか進展しません。
進展しませんが、参集している人物は、各国の貴族階級ばかりなので、夜になると華やかな舞踏会が開かれて、彼らは毎晩踊っていました。
これが、「会議は踊る、されど進まず」の言葉が生まれた根源です。
ウィーン会議は、結局翌年の6月まで続きますが、ナポレオンがエルバ島を脱出した時も、ウィーン会議は開催中でした。

 会議の中心となったのは、主催者であるオーストリアのメッテルニヒ、フランスの代表タレーラン、ロシアは皇帝アレクサンドル1世、イギリス代表カスルレー。

 メッテルニヒは、オーストリアの名門貴族出身、超保守的な考えの持ち主で、フランス革命や、革命が目指した自由や平等を嫌悪します。
フランス革命からナポレオンの時代にかけて、ヨーロッパ全体に広がった自由主義的な考えを徹底的に押さえつけ、ヨーロッパ全体を、貴族階級が権力を握る昔の体制に戻そうと考えていました。

 ロシア皇帝アレクサンドル1世は、ロシア遠征の失敗でナポレオンは没落したのですから、英雄扱いです。
実際には、ロシアの冬の寒さに敗れたのであって、アレクサンドル1世が、大活躍をした訳では在りません。

 会議のなかで、一番立場が悪いのがフランスです。
ヨーロッパを大混乱させたのはフランスであると指摘された場合、返す言葉は無く、フランス領土割譲、多額の賠償金支払等、各国から要求されても文句を言えない立場です。

 フランス代表タレーランは、政治的能力は抜群で、名門貴族出身。
フランス革命期には、三部会や国民議会の議員で、ナポレオン時代には外務大臣でした。
そして、ナポレオン没落後は、ルイ18世の下で、フランス代表としてウィーン会議に出席しています。
政治体制が変わっても、それに上手く順応して、常に政治の中枢に居つづけた人物です。
「変節と嘘と汚職の天才」「冷徹で偉大な現実主義政治家」等と呼ばれていますが、外交官としては褒め言葉と云えるかも知れません。

続く・・・

2012/06/20

人類の軌跡その407:ナポレオンの生涯⑯

<ナポレオン・ボナパルト番外編その②>

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Ludwig van Beethoven1770年12月16日~1827年3月26日

◎余談

 ベートーヴェンはナポレオンと同じ時代を生きた人です。
生まれはドイツのボン、1770年、家系は、祖父の代から続く音楽家一家ですが、身分は平民、幼い頃から天才ぶりを発揮して、やがてオーストリアの都ウィーンに出て演奏家、作曲家として活躍します。
ウィーンは、当時も現在も音楽活動の盛んな処ですが、オーストリアの貴族達が、音楽を愛好して音楽家達の資金的援助を与えていた為でした。
当時の一流音楽家は、貴族の為に演奏し、作曲活動を行っていました。
ウィーンに出てきたベートーヴェンは、最初ハイドンの弟子に成りますが、ハイドンはハンガリーの大貴族エステルハージ侯爵家の宮廷楽団長でした。
ベートーヴェンが、本当に弟子入りを希望したのはモーツァルトでしたが、モーツァルトは、奇行が多く、貴族社会に受け入れられず極貧のなかで死んでいます。
自分の才能に自信のあるベートーヴェンは、貴族に媚び諂う事を嫌います。

 更に、オーストリアの貴族達も、時代の変化を感じ始めており、フランスで、平民達が革命を起こした様に、オーストリアでも革命が起きるかもしれません。
その結果、貴族階級と謂えども、平民を以前の様に一方的に見くだす事はしませんでした。
モーツァルトとベートーヴェンの運命の違いは、この時代の変化に起因していると思われます。

 ベートーヴェンの指南したハイドンは、晩年イギリスに渡り演奏活動を行い、大成功をおさめます。イギリスでは、市民が入場料を払って演奏会を聞きに来る時代が訪れはじめており、ハイドンは、貴族社会の援助無しに自立した、最初の音楽家と成りました。
ベートーヴェンが活躍した時代は、ヨーロッパが貴族社会から市民社会へと大きく変化する、当に変わり目だったのです。

 ベートーヴェンは、貴族社会に否定的な考えを持ち、ナポレオンが、占領地の封建制度を打ち壊していくのを見て、その働きに同調します。
ナポレオンに心酔するベートーヴェンは、彼をテーマに交響曲を作曲します。
題名は「ボナパルト」、この曲が、完成した時に、ウィーンに居るベートーヴェンの許にニュースが届きました。

 ナポレオンが皇帝に即位したのですが、それを聞いて、ベートーヴェンは激怒します。
本心から貴族社会を否定する人間が、皇帝の身分に就く事件に、ベートーヴェンは、ナポレオンに騙されていたのだと悟とります。
「あの男も俗物だった!」と叫んで、完成したばかりの楽譜を取り出して、題名の「ボナパルト」と書いてある箇所を、塗りつぶしました。
更には、塗りつぶした表紙を、引きちぎって、ゴミ箱に放り込みます。
 
 幸いにして、楽譜そのものは捨てられませんでしたから、私達はこの曲を聴く事ができます。
ベートーヴェンが、新たに付けた題名は、「一偉人の追憶を称える為の英雄交響曲」、一般には、交響曲第三番「英雄」と呼ばれています。
 
 実際に、後にナポレオンがウィーン迄攻め込んできます。
フランス軍がウィーンに射ち込む砲撃の音が響き、城壁の傍にある弟の家に避難していたベートーヴェンは、枕で頭を抱えて怒鳴り続けました。
「ナポレオンの馬鹿野郎、俺の耳が壊れるじゃないか!」。
この時、既にベートーヴェンの耳は可也悪くなっていたのですが、思想的にも、自分の耳にとっても、ナポレオンはベートーヴェンに、許し難い人物に成っていました。

ナポレオンの生涯・終わり・・・
2012/06/19

人類の軌跡その406:ナポレオンの生涯⑮

<ナポレオン・ボナパルト番外編その①>

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「ナポレオン1世」

◎ナポレオンの歴史的評価

 ナポレオンの政治には、二つの側面が存在し、その一つは、専制君主、軍事独裁者としての側面で在り、皇帝の地位に就くことによって、フランス革命の民主主義的な側面を否定しました。
一方ではフランス革命の継承者としての側面を持ち合わせ、フランス革命から始まるフランスの政治経済の改革を推し進め、革命の成果を確実にフランスに根付かせました。
具体的には、中央集権化、フランス銀行設立、学校教育制度の整備、民法典の整備等の仕事です。

 ナポレオンが行った、ヨーロッパ各地での戦争には、如何なる様な意味があるのでしょう。
第一に、フランス革命を守る為の革命戦争の継続と考えることが可能です。
ナポレオンはフランス軍を解放軍と呼び、服属した地域に、人民主権、自由、平等などフランス革命の理念を広げ、封建制度を打ち壊して行きました。

 又、ナポレオンの戦争は、世界各地の植民地と市場をめぐる、イギリスとフランスとの最終段階と考えることが出来ます。
ルイ14世時代の17世紀末から18世紀全体を通じて、フランスとイギリスは断続的に戦争状態が続いています。
ヨーロッパでは、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争と、常にイギリスとフランスは敵対する陣営として争っていました。
アメリカ大陸やインドでは、アメリカ独立戦争がその好例で、1689年のファルツ継承戦争から1815年のナポレオンの最終的な没落迄、イギリスとフランスとの抗争を第二次英仏百年戦争と呼称する事も在ります。

 その様な意味で、ナポレオンの戦争は、フランスに利益をもたらす戦争でした。
最初、各国の民衆から歓迎されたナポレオンのフランス軍も、次第に自国の利益の為に、他国を抑圧する侵略軍としての側面が垣間見え、ヨーロッパ各地で、フランスの支配に対する抵抗が起きはじめます。
之こそ、ナポレオンが没落していく最大の理由です。

◎ナポレオンの戦争によるフランスの戦死者数

1805年~1809年 198,000名
1810年~1814年 555,000名
1815年 30,000名
1805年からの合計戦死者数 783,000名


2012/06/18

人類の軌跡その405:ナポレオンの生涯⑭

<ナポレオン・ボナパルトその⑭>

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「ナポレオン万歳!」

 1815年2月24日、ナポレオンは側近を引き連れて、7隻の舟でエルバ島を脱出しました。
向かう先はフランス南海岸、ナポレオン脱出のニュースは直ぐにパリに伝えられ、ルイ18世は、上陸するナポレオンを逮捕する為に、軍隊を南仏に派遣します。
軍隊が待ち構えている中を、ナポレオンは上陸するのですが、ナポレオンに「栄光あるフランスの兵士諸君、余は帰ってきた。供に、フランスの栄光を取り戻そう」と言われれば、逮捕するどころか、ナポレオンの指揮下に入ってしまうのです。
ルイ18世は、次々と軍隊を差し向けるのですが、ナポレオンは、彼等を皆自分の味方にして、パリに向かって進軍し、ルイ18世は逃亡し、3月、ナポレオンはパリに帰還、再び皇帝の座に返り咲きます。

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Battle of Waterloo

◎ワーテルローの戦い

 此れに対応して、イギリス、プロイセン等により連合軍が組織され、1815年6月ワーテルローで、ナポレオンとの最後の戦いが行われました。

 ナポレオン率いるフランス軍の兵力は約10万、対する連合国はイギリス軍6万8千とプロイセン軍4万5千、総司令官はイギリスのウェリントン将軍です。
この最後の決戦で、ナポレオンは敗退しました。

 ワーテルローでフランス軍とイギリス軍が激突したのが6月18日、実はその二日前の6月16日に、リニーで、フランス軍とプロイセン軍が戦いました。
この時は、フランス軍が勝利し、プロイセン軍は麦畑の中を散り散りになって敗走し、ナポレオンは3万3千の別働隊をグルーシー将軍に指揮させてプロイセン軍を殲滅するため追撃させました。
一昔前のプロイセン軍ならば、一旦散り散りになれば、兵士は何処かへ逃亡します。
しかし、プロイセン改革を経て、プロイセン軍も変わりました。
逃げた兵士達は、再び指揮官の下に集結して、整然と退却を始めます。

 一方、グルーシー将軍は、プロイセン軍を捕捉する事が出来ませんでした。

 6月18日、ワーテルローで、フランス軍主力とイギリス軍が戦闘を開始した時、グルーシー将軍の別働隊は、帰還しておらず、戦いはフランス軍優勢で進むのですが、グルーシー将軍の3万3千が、今ここに帰ってくれば一気に決着がつくと、ナポレオンは待ち続けました。
ところが、夕方にワーテルローに現れた軍団は、敗走はずのプロイセン軍で、形勢は一気に逆転し、結局フランス軍は惨敗、グルーシー将軍の別働隊は、とうとう現れないままでした。

 この敗北で、ナポレオンは再び退位し、再び流刑に成ります。
今回は、大西洋の絶海の孤島セント・へレナ島に流され、その際同行を許されたのは12名の従者のみで、イギリスによる厳重な監視が行われました。
これ以後、ナポレオンは、一日中島の中を歩き回り、自分の生涯を従者に話して暮らし、流刑の僅か6年後、1821年に52歳で死亡します。
病死ですが、イギリス人に毒を盛られた説が有力です。

 死後、従者がナポレオンの回想録を出版し、この回想録が発端と成って、ナポレオン英雄伝説が広く行き渡る様になりました。

続く・・・
2012/06/16

人類の軌跡その404:ナポレオンの生涯⑬

<ナポレオン・ボナパルトその⑬>

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「ライプツィヒでのナポレオンとポニャトフスキ」

◎ナポレオンの最後

 ナポレオンの支配に不満を持つヨーロッパ諸国にとって、これ以上の機会はありません。
ヨーロッパ諸国は、反ナポレオン連合軍(第6次対仏大同盟)を結成し、ナポレオンに最期の戦いを挑みます。
これがライプツィヒの戦い、別名諸国民戦争と呼ばれています。

 連合軍の主力は、ロシア、オーストリア、プロイセン、その兵力は30万。
対するフランスは18万、ロシア遠征で、軍団が消滅したにも係らず、此れだけの兵力を整備したと思いますが、急遽召集された兵士達で訓練も充分では在りません。
 
事実、フランス国内では厭戦気分が蔓延し、兵士集めに苦労します。
政府が召集した数は42万、しかし、実際に入営してきた若者は17万5千程度で、多くの若者が、徴兵命令を無視して、逃亡したのです。

 ロシア遠征以前の1810年には、既に徴兵忌避者3万2千、脱走兵3万、との記録が現存しますから、ナポレオンの栄光とは裏腹に、長びく戦争に嫌悪感を抱くフランス国民が数多く存在したのでした。
徴兵から逃れる為に、自分で前歯を折り、親指を切断する者が多く出たと云います。
当時の銃は、火薬袋を前歯で噛み切って銃に火薬を装填しなければ成らず、前歯が無ければ徴兵されず、前歯だけでは心配という者は、親指まで落としてしまいました。
これでは、銃が握れませんから、当然徴兵免除です。
又、妻帯者は徴兵免除される為、急いで結婚する若者も多く、村の若い娘は花婿候補が山の様に集まり、更には若い娘が居ないので、60歳の女性と結婚した18歳の若者が居たとの記録も現存します。

 その様な状態で、集められたフランス軍に、以前の様な優位性等存在せず、ライプツィヒの戦いで、フランス軍は敗北、ナポレオンはパリに撤退、これを追って連合軍もパリに進軍、ナポレオンは最後の抵抗を考えましたが、側近の将軍達に退位を迫られて、抵抗を諦め、1814年3月、パリは連合軍に占領されました。

 降伏したナポレオンは、地中海に浮かぶ小島、エルバ島に流刑されます。
但し、皇帝の地位に在った人物の為、連合国は、ナポレオンの名誉を重んじて、エルバ島の「皇帝」の称号と、島の統治を許されます。
又200フランの年金と1200名の近衛兵も与えられました。

 フランスには、革命で処刑されたルイ16世の弟が、亡命先から帰国しルイ18世として即位し、ブルボン王朝を復活させました。
処が、このルイ18世、全く人望が在りません。
ルイ18世の外務大臣として仕えたタレーランは以下の様に述べています。

「ルイ18世はおよそこの世で知る限り、極めつきの嘘つきである。1814年以来、私が王と初対面の折りに感じた失望は、とても口では言い表せない。…私がルイ18世に見たものは、いつもエゴイズム、鈍感、享楽家、恩知らず、といったところだ。」

続く・・・
2012/06/15

人類の軌跡その403:ナポレオンの生涯⑫

<ナポレオン・ボナパルトその⑫>

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「ベレジナ渡河作戦」

◎運命のロシア遠征その②

 モスクワに初雪が降ったのです。
ナポレオンの予想以上にロシアの冬は早く、初夏に遠征を開始したフランス軍は、冬の装備を持っていません。
食料不足に喘でいるこの時に、更に寒さに襲われては、モスクワ占領は継続できません。
即座に、ナポレオンは退却を命じ、何の成果もないまま、ナポレオン軍はモスクワ迄の行軍路を、引き返しますが、退却時の兵力は10万、モスクワ占領の1ヶ月だけで1万人減っています。

 ナポレオン軍が退却を開始すると、既にトルコ戦線から離脱し、ベレジナ河西岸に布陣した5万のロシア軍精鋭部隊が彼等を待ち受けていました。
寒さとロシア軍の猛攻により、ナポレオン軍は激減の一途を辿り、11月3日には5万、11月8日スモレンスクでは3万7千。
スモレンスクの気温は氷点下26度に低下、フランス軍の軍服のボタンはスズ製でしたが、スズという金属は、急激な温度低下で粉々に砕けてしまいます(スズペスト)。
フランス軍兵士は、寒さの中、服のボタンも留められない、想像を絶する状況に陥ります。
死んだ仲間の服を剥ぎ取って身にまとい、死んだ軍馬の肉を食らい、味がないので火薬を振りかけて味付けをしたといいます(!)。
暖をとる為に軍旗を焼きました。
軍旗は、敵に奪われた場合、指揮官が自決する程、部隊の名誉を象徴する重要なものです。
それを、焼く意味は、もう軍隊としての規律も崩壊しかけていると事を意味しました。

 11月26日にはベレジナ川に到達。
ここに来て急に寒さが緩み、それまで凍結していたベレジナ川が歩いて渡れなくなってしまいます。工兵隊が死を覚悟で、氷の浮かぶ川に入り、仮設の橋を架け、なんとか川を渡りましたが、渡る事ができたのは3万でした。
後方から迫るロシア軍を翻弄し、橋を架ける為の時間稼ぎをしたのですが、この作戦は「ベレジナ渡河作戦」と呼ばれる(勇ましい)名前で知られていますが、必死に逃げているだけです。
ベレジナ川を渡る兵士の中には、女性も混じっており、当時、軍隊が遠征する時には、兵士に日用雑貨品を売る商人や、慰安関係を担当する婦人も同行していました。
当時の戦争の一面が垣間見えます。

 12月10日、ニーメン川を越えて、ロシアの勢力圏から帰還できた兵員は僅か5千。
60万で開始されたロシア遠征軍が5千に成ったこの事実は、軍隊が消滅した事を意味し、ナポレオンの権力を支えていた軍隊が消えてしまったのです。

 ロシア遠征は、大失敗に終わりました。

続く・・・

2012/06/14

人類の軌跡その402:ナポレオンの生涯⑪

<ナポレオン・ボナパルトその⑪>

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モスクワ制圧

◎運命のロシア遠征

 1812年5月、ロシア遠征が始まり、ナポレオンの兵力は60万、その総てがフランス兵では無く、24万はフランスの属国、同盟国から動員した兵員で、最初から士気は高く在りませんでした。
ナポレオンが率いる大陸軍が、ニーメン川を渡りロシアの領土に侵入した時の兵力は47万5千。
ナポレオン軍はロシア軍を捕捉する為に猛スピードで行軍を行い、一日60キロの距離を、30kgの装備を背負って行いました。
6月ですが、当時既に猛暑を迎え、この行軍速度に追従できない兵士が次々に脱落していきましたが、その兵士達を見捨てて行軍が続きます。
最初の二日間で5万人の兵士が脱落したと伝えられます。

 ロシア軍は、一旦は国境近くに兵力を集中しますが、ナポレオン軍が迫ると退却を開始します。
ロシアの兵力は約20万、倍以上のナポレオン軍に正面から挑んで勝てる訳も無く、逃げ出したのですが、ナポレオン軍は、追跡を続けます。
しかし、ロシア軍は退却する際に、畑などを焼き払う焦土作戦を展開し、ナポレオン軍は食糧を現地調達できません。
又、ロシア農民も協力的では無く、今回のナポレオン軍は解放軍などではなく、侵略軍だと見抜かれていますから、以前のイタリア民衆の様にフランス軍に好意的では在りませんでした。

 8月、スモレンスクに到達した時には、ナポレオン軍の兵力は15万5千に減少しています。
この時点で、一度も戦闘らしい戦闘は無く、飢えと疲労と逃亡で激減した結果でした。
9月、後退を続けたロシア軍は、首都モスクワの手前ボロディノで、初めて本格的な会戦を行います首都防衛の為なのですが、結果的に敗走する事と成り、モスクワを放棄して更に東に退却してしまいます。
この時、ロシア皇帝からモスクワ市民迄、総てが避難しました。

 9月14日、ナポレオン軍は無人となったモスクワに入城します。
ナポレオンが11万の将兵を引き連れて、モスクワに進駐した時、街の中は殆ども抜けの空で、僅かの残っている人間は、動かすことの出来ない、病人、負傷者だけでした。
当時30万人を数えた大部分の市民は、食料、牛馬、馬車、更に芸術品や貴重な品々を移動可能なものは全てを伴って退却した後であり、間髪をいれず、市内十数か所から、一斉に火の手が上がり、モスクワは三日三晩燃え続け、四日目に降りだした雨の為に漸く鎮火したものの、市内の7割は灰燼に帰しました。
ロシア人による、焦土作戦の成果でした。
この結果、フランス軍将兵の食糧や宿舎にも苦労する始末でしたが、敵国ロシアの首都(実際の首都はサンクトペテルブルグ)を制圧した事は事実で、ナポレオン軍の勝利でした。

 ナポレオンはモスクワから、北方に退去したロシア皇帝に降伏勧告の文書を送ります。
外交交渉が全く進展しないまま、モスクワで待機を続け、9月30日、一つの報告が、ナポレオンの本営に壊滅的な報告をもたらします。
ルーマニアで、トルコ軍と交戦していると信じていた、ロシア軍精鋭5万が、モスクワの西方640kmの地点に到達し、フランス軍の補給線を遮断、ベレジナ河の西岸に陣地を構築し、退路を絶たれた事を知ったのでした。

ナポレオンは、この恐るべき報告を聞いた途端、困惑と絶望の色を浮かべ、黙然とその場に座り込んだと云われています。
そして1ヶ月が経過した10月13日、この日、ナポレオンを驚かせる事件が発生しました。

続く・・・

2012/06/13

人類の軌跡その401:ナポレオンの生涯⑩

<ナポレオン・ボナパルトその⑩>

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イエナの戦い

◎没落のはじまりその②

 最初にフランスの支配に抵抗をはじめたのはスペインで、1808年からフランスに対する反乱が始まりました。
ナポレオンの兄がスペイン国王の為、反乱をおこしたのはスペイン軍では無く、一般の市民が抵抗闘争をはじめたのです。
ナポレオンは反乱鎮圧の為、最終的には30万の軍隊を投入しますが、成果は上がりません。
正規軍との決戦では、フランス軍は無敵ですが、不正規戦は手法が全く異なります。
フランス軍の隙をついて襲撃が行われ、更には反乱側とそうでない市民との区別もつきません。
フランス軍は報復の為に、不審人物を、次々に処刑して行きます。
こうなると、フランス軍は革命軍では無く、ただの侵略軍で、ナポレオンは最後迄、スペインの反乱を鎮圧する事ができませんでした。

 ナポレオンによって領土が半分に縮小したプロイセンは、国を挙げて改革に取り組みます。
これをプロイセン改革と云います。
ナポレオン戦争に於けるプロイセン軍の行動、徴兵制度が鋭く検証されました。
プロイセン兵は、強制的に集められた農民で、しかも彼らの身分は農奴です。
封建領主に経済的にも身分的にも抑圧されている農奴が、封建領主の為に戦う訳が無く、それどころか、ナポレオンに負ける事を願っているかも知れません。

 プロイセン富国強兵の為には、封建制度を撤廃する必要が在りますが、革命は困ります。
そこで、支配者側が、自分達の権力を手放す事無く行われたのが、プロイセン改革でした。

 シュタイン、ハルデンベルグ両大臣が、改革の中心に成りました。
彼等は、農奴制を撤廃し、農民を自由な身分として解放します。
フランス革命の様に、農民が土地を手に入れる様な、徹底的な改革ではありません。
一説によれば、ようやくフランス革命前のフランス農民の状態に近づいた程度とも云われています。
 
 又、軍制改革を推進し、軍隊内でのリンチやむち打ち刑を廃止し、兵士の待遇を改善します。
更に、身分に関係なく、能力のある者は将校に抜擢します。
プロイセン将軍シャルンホルストは、「兵士は国王の召使いではなく、国家の市民でなければならない」と云っています。
素晴らしいセリフですが、彼が民主的な人物だから、この様な事を言っているのでは無く、そうしなければ、フランス軍のように強い軍隊が作れないからです。

 こうして、プロイセンは短期間のうちに、国民皆兵の原則を確立し、フランス軍に近い国民軍を作り上げることに成功しました。
プロイセンの兵士も、「国の為に頑張ろう」、という意思を持ち始めます。
実際に、後のワーテルローの戦いで、ナポレオンが敗北した時に、決定的な役割を果たしたのがプロイセン軍でした。

 プロイセンでは、哲学者のフィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」という講演を行い、民族意識が高まっていきました。

 フランスから最も遠いロシアは、1810年、大陸封鎖令を破って、イギリスとの貿易を再開します。ナポレオンは、大陸封鎖令に従うように警告を繰り返しますが、ロシアは無視します。
ロシアに影響されて、他の諸国まで大陸封鎖令を破り出せば、ナポレオンのヨーロッパ支配は崩れ去る恐れが在りました。
1812年5月、ナポレオンは、側近たちの反対を押し切り、ロシア遠征を開始しました。
兵力は60万、そして、このロシア遠征が、ナポレオンの没落の始まりとなったのです。

続く・・・

2012/06/12

人類の軌跡その400:ナポレオンの生涯⑨

<ナポレオン・ボナパルトその⑨>

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マレンゴの戦い1800年イタリア戦域

◎ナポレオン、フランス軍の特徴その②

 フランス軍の移動が早い理由は、兵士が歩くのでは無く走るのです。
フランス兵の言葉として、「皇帝は我々の足で勝利を稼いだ」が残っています。
又、フランス軍は夜や雨の中でも行軍が可能でした。
夜間行軍は他国の軍隊は不可能で、夜間行軍を行えば、兵士が逃亡し、雨ではサボタージュで動こうとしません。
更にフランス軍は荷物が少なく軽装備の為、走る事が出来ました。
軽装の理由は、現地で必要な物資を調達できる為で、敵地の民衆の協力があるからです。
ロシア軍やオーストリア軍の様に、何ヶ月分かの食糧を、荷車に積んで、戦地へ輸送する必要がないのです。
機動力を発揮し、兵力の集中、中央突破、各個撃破で勝利を治め、戦術の大きな特徴として、歩兵、騎兵、砲兵を有機的に結合させたと云われます。

 ナポレオンは追撃戦も得意で、会戦でフランス軍が勝てば、敗れた敵軍は退却します。
ナポレオン以前の戦争では、敵が退却すれば、戦闘は終了しますが、ナポレオンは、退却する敵を追撃して、徹底的に殲滅しました。
 
 ナポレオン以前は、戦火を交えても、戦っているのは封建領主同士、貴族同士です。
属している国が違うだけで、身分としては仲間同士の為、勝敗が決すれば、深追いしてそれ以上の損害を与える事は在りませんでした。
ナポレオンのフランス軍は、封建領主の軍隊では在りませんから、完璧な勝利を追求します。
又、追撃命令を出すと、部隊は散開して指揮官の目が届きません。
封建領主の軍隊では、兵士の逃亡、サボタージュは当たり前の為、行いたくても追撃を命令できませんでした。
最終的には、フランス兵の士気の高さに、総てが起因しています。

※同時代人の証言

「彼が戦場に姿を現せば兵士4万人分に値する」(英・ウエリントン将軍)
「我々は一種の光芒に包まれて進軍しているような感じだった。私は50年後の今でさえ、その温もりを感じる事ができる。」(仏・マルモン元帥)
「望みを叶えようとする時のナポレオンの声には、強烈な説得力と魔力があり相手をその気にさせ、自分の欲望通りに事を運ぶ事にかけては、どんな手練れの女性も叶わなかった。」(ナポレオンの侍従長コーランクール)


◎没落のはじまり

 1810年前後が、ナポレオンの絶頂期で、やがて、ナポレオンの大陸支配が個人的栄光とフランス産業の利益の為という事が明らかに成って行きます。
最初は封建制度を打ち倒すフランス軍を歓迎していた諸国民も、ナポレオンの支配に抵抗をはじめます。
ナポレオンが自由・平等という考えを広めた結果、皮肉な事に各国で民族意識が高まり、特に、諸国の批判を受けた政策が、大陸封鎖令でした。
ヨーロッパ諸国は、一番産業の発展しているイギリスに、原材料や食糧を輸出して経済が成り立っていいました。
その行為を禁止したのですから、反発は当然です。

続く・・・
2012/06/11

人類の軌跡その399:ナポレオンの生涯⑧

<ナポレオン・ボナパルトその⑧>

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アルコレ橋を渡るナポレオン(イタリア戦域1796年)

◎ナポレオン、フランス軍の特徴

 一番の特徴は、フランス兵の士気の高さです。
兵士一人ひとりが戦う自覚を持っていました。
それは、抽象的にいえば「革命の成果」、具体的には「土地」を守りたかったからです。

 フランス革命によって、封建制度が消滅したフランスでは、ジャコバン派の政策等により、亡命貴族の領地が政府に没収され、多くの農民達がこれを手に入れました。
フランスが、対仏大同盟に負ける事は、フランスに王政が復活し、亡命貴族達が元の鞘に納まり、手に入れた土地が取りあげられると事を意味します。
革命によって手に入れた土地と自由を失いたくない意識が、フランス人の気持ちであり、兵士の気持ちです。
例え自分が戦場で命を落としても、我が家の土地を守れるのだと思えば、必死に戦います。
之が、フランス軍の強さの理由です。
当時のフランスは、ロシアを除いて最大の人口が在り、当然兵士の数も多かったのです。

 では、他の国はどの様な状況なのでしょう。
フランス以外の兵士は、全然戦う意欲はありません。
金で雇われた傭兵で在り、プロイセンの様に、農民が無理矢理兵隊に徴兵され、戦争の意義を理解し、自分の意志で戦っているわけでは在りませんでした。
従って、ヴァルミーの戦いでは、フランス義勇軍の雄叫びを聞いただけで、プロイセン軍は恐れをなして退却しています。

 二つ目の理由として、フランス軍には、被占領地、被征服地の民衆の協力が在り、「敵領の民衆を圧政から解放しよう。われわれは革命軍なのだ」と云った様に、ナポレオンは自由・平等の旗をかかげて戦争を遂行しました。
敵国に侵攻しても、敵はその国の支配者階級である封建領主や貴族で在り、民衆は味方なのです。
イタリアでナポレオンが歓迎された様に、各地の民衆、つまり平民階級はナポレオンの軍隊が、自分の国に攻めてきて封建制度を打ち倒すことを期待しました。
 
 三つ目の理由として、ナポレオンの戦術の上手さを挙げます。
ナポレオン軍の機動力を重視し、常に敵軍よりも早く行軍し、戦場に到着するや、敵軍が結集する前に、攻撃を加えます。
例えば、フランス軍4万、ロシア軍6万の兵力での、戦闘を仮定すると、兵力ではフランスが劣りますが、ロシアは6万でも、予定戦場に一度に6万人の兵士が到着する訳では無く、現在の様に整備された道路が存在する訳では在りませんので、軍隊は部隊毎に多くのルートに分かれて、徐々に終結します。
フランス軍は、ロシア軍が終結するより早く、行軍を完了し、まだ敵軍が分散している時に攻撃をしかける事で、数的劣勢は充分に補う事が可能でした。

続く・・・
2012/06/09

人類の軌跡その398:ナポレオンの生涯⑦

<ナポレオン・ボナパルトその⑦>

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アウステルリッツの戦い

◎ナポレオンの大陸支配その③

 アウステルリッツの戦い以後、ナポレオンはヨーロッパ各地で勝利を収め続け、イギリス、スウェーデン、オスマン帝国以外の地域をほぼ勢力範囲に収めます。
そして、フランスの利益にかなうように、国境線を引き直し、属国を建設し、属国に出来ない、オーストリアやロシア等の大国は、同盟国としてフランスの影響下に置きました。
所謂ナポレオン帝国の形成です。

 1806年、神聖ローマ帝国を解体し、ドイツの小国を集めてライン同盟を組織し、フランスの支配下に置きます。
名目だけの存在でしたが、千年続いた神聖ローマ帝国が消滅する事は、中世の封建社会が終わる象徴的な出来事で、これによって、オーストリアのハプスブルク家は神聖ローマ皇帝の称号を失い、ただのオーストリア皇帝になります。

 最後迄ナポレオンに抵抗していたプロイセンとロシアも、1807年のティルジット条約でフランスに屈服し、ナポレオンは、プロイセン領土の半分を割譲し、この地にワルシャワ大公国を建設、フランスの属国とします。
 ナポレオンは、自分の兄弟等の身内をオランダやイタリア、スペインの国王に任命し、ヨーロッパ大陸をほぼ支配下に収めました。

 この間、1806年、プロイセンに勝利し、首都ベルリンに入城したナポレオンは、ここで非常に重要な命令を出しています。
大陸封鎖令、別名ベルリン勅令、と云われる法律で、ナポレオンの支配下、及び同盟関係の諸国に対して、イギリスとの貿易を禁止する法律でした。

 軍事的にイギリス征服を諦めたナポレオンは、ヨーロッパ大陸との貿易からイギリスを排除する事で、経済的にイギリスを追いつめようとしたわけです。
これは、ナポレオンの戦争が最終的に何を目標にしていたかを示す大事な法律で、フランス産業の発展が究極の目的です。

 ナポレオンは、フランス皇帝となり、ヨーロッパ全域を支配下に収めました。
ナポレオンはヨーロッパ最高の権力者に成るのですが、古い伝統と格式を持つヨーロッパ各国の貴族から見れば、コルシカの田舎貴族に過ぎません。
ナポレオンは伝統と格式をその手中に収めたいと願います。
もうひとつが、後継者問題で、皇帝の地位を継がせる男子を願っていました。
ナポレオンとジョセフィーヌとの間には子供が無く、後継者を産んでくれる若い皇后が欲しい、と考えました。

 この二つの問題を、一挙に解決する為に、1810年、ナポレオンは、オーストリア皇帝の娘、ハプスブルク家の皇女マリー・ルイーズと結婚します。
マリー=ルイーズ、18歳、ナポレオン、40歳です。
完全な政略結婚で、ナポレオンには、ジョセフィーヌという妻が居ます。
マリー=ルイーズにとっては、ナポレオンは、理解不可能な、ただ恐ろしいだけの男で、二人の間にどれ程の感情の繋がりが在ったかは良く分かりません。
しかし、彼女は結婚の翌年には、男子を出産しました。

 この時期が、ナポレオンの絶頂期です。

続く・・・
2012/06/08

人類の軌跡その397:ナポレオンの生涯⑥

<ナポレオン・ボナパルトその⑥>

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トラファルガー海戦

◎ナポレオンの大陸支配その②

 ナポレオンの野心は留まる所を知らず、1804年、ナポレオンは皇帝に即位しました。
皇帝としての呼び名はナポレオン1世、これ以後、1814年迄のフランスの政治体制を第一帝政と呼びます。

 皇帝は世襲の地位ですから、フランス革命の民主主義的な理念と矛盾します。
その為、ナポレオンは、即位前に国民投票を行い、「余が皇帝になる事に賛成か、反対か?」と、国民に問うています。
結果は圧倒的賛成多数、形式的ですが、革命以来の民主的伝統は辛うじて維持されて様に見えます。

 ナポレオンの即位は、周辺諸国を刺激し、イギリスの主導で第三回対仏大同盟が結成され、オーストリア、ロシア、スウェーデンがこれに参加します。
イギリスはアミアン条約を破棄し、フランスと諸外国との戦争が再会されました。

 フランスの主敵はイギリスですから、まず、ナポレオンはイギリス上陸作戦を実施します。

 1805年10月、33隻のフランス艦隊がスペインのカディス港から出撃しますが、直後にイギリス海軍と遭遇して、トラファルガーの海戦が発生します。
イギリス艦隊は27隻で、艦船数では劣勢でしたが、圧倒的な勝利を収めます。
フランス側は、沈没3、捕獲17、逃亡13隻、これに対して、イギリスの喪失船は皆無という結果でした。
この時、ナポレオンは、パリから指令を出しており、作戦の直接の指揮は執っていません。
海軍の指揮は陸軍とは全く別のものなのです。

 イギリス艦隊の司令官はネルソン提督でした。
提督は、戦闘中、常に甲板の上に出て、自分の姿を部下の水兵達に見せ、味方の志気を高めていました。
姿を現せば、当然敵から狙い撃ちされる為、非常に危険で、実際、以前の戦いで、右目と右腕を失っています。
トラファルガー海戦時も、部下達は甲板に立たない様、願うのですが、いつもの方針を変えず、その結果、海戦では勝利を収めますが、自分自身は戦死してしまいます。
ネルソン提督は、イギリスの英雄に成りました。
現在、ロンドンのトラファルガー広場には、ネルソン提督の像がフランスの方を向いて立っています。

 海軍が大敗した結果、ナポレオンはイギリス上陸作戦を諦め、戦争で勝ち続ける事こそ、ナポレオンが人心を惹きつける手段の為、この敗戦を、次の大勝利によって帳消しにしなければなりません。ナポレオンは自ら軍隊を率いて、オーストリアに進軍します。

 トラファルガー海戦の敗戦から二ヶ月後、1805年12月、アウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア連合軍を撃破、オーストリア・ロシア連合軍の兵力9万、フランスは7万4千と云う劣勢での勝利でした。
この戦いには、オーストリアとロシアの皇帝も直接参加していたので、ナポレオンも合わせて三人の皇帝が戦場で相まみえたということで、三帝会戦とも呼ばれています。

続く・・・
2012/06/07

人類の軌跡その396:ナポレオンの生涯⑤

<ナポレオン・ボナパルトその⑤>

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ナポレオンと参謀

◎ナポレオンの大陸支配

 総裁政府を打倒したナポレオンは、新たに統領政府を組織します。
三人の統領を置いて、これが政務に当たるのですが、ナポレオンは第一統領という地位に就きます。他の二人の統領は、ナポレオンの補佐役ですから、事実上の独裁者です。

 フランスの支配者となったナポレオンは、如何なる政治を行ったのでしょう。

外交

 二回目のイタリア遠征で、勝利を収めます。
クーデターで権力を掌握しても、ナポレオンのリーダーシップは強力で、久々に頼れる政府が出現し、国民は当然ながら彼を支持します。

 更に、1802年、アミアン条約を結び、イギリスとの和平条約を締結します。
この条約で第二回対仏大同盟は解体し、長年の宿敵であるイギリスとの和平を実現して、外交にも並々ならぬ能力の在る所を示し、フランスに久々に平和が訪れます。

内政

 1800年、政府の中央銀行であるフランス銀行を設立し、通貨と経済の安定を図り、フランス産業の発展の基礎を作りました。

 1801年には、宗教協約でフランス革命以来、敵対していたローマ教皇と和解し、フランス人の大半はローマ教会の信者の為、これは多くの国民の信仰心を満足させた。

 このような成果と、国民の人気を背景に、1802年、ナポレオンは終身統領という地位に就任します。

 ナポレオンは独裁者ではありますが、フランス革命の時にはジャコバン派を支持した事もある人物です。
フランス革命の進歩的な理念や理想を理解しており、その成果を守る事が、フランスの発展には欠かせないとも考え、独裁者である事と、「自由・平等」を守るという事は、矛盾するのですが、ナポレオンの中では、この二つが両立するのです。
その為ナポレオンの、独裁的な政治手法を嫌悪する人物もいれば、「自由・平等」の実現者として期待する人物もいます。

 革命の成果を守る立場から、ナポレオンは1789年の革命以来のフランス政府が出した法令を集大成し、ナポレオン法典として1804年に制定されます。
後にナポレオンは云っています。
「余の名誉は幾度かの戦勝にあるのではなく、余の法典にある」

 難しい言い方をすると、ナポレオンは、この法典でブルジョアジーの政治・経済の支配権を確定させたのです。
更に「余はフランス産業を創造した」。
フランス銀行の設立とナポレオン法典によって、フランス産業発展の基礎を固めたのは間違いありません。

続く・・・

2012/06/06

人類の軌跡その395:ナポレオンの生涯④

<ナポレオン・ボナパルトその④>

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エジプト遠征

◎ナポレオンの登場その④

 フランスの国境近くに迫ってくる外国軍と戦闘を行うのでは無く、何故エジプトなのでしょう。
総裁政府の指導者達も、何故エジプト?と思ったようです。
ナポレオンは云う。
「フランスの敵は常にイギリスである。第一回対仏大同盟もイギリスの主導で結成された。イギリスに打撃を与えなければ、フランスの安定と発展はない。そのイギリスは植民地インドとの交易で利益を上げている。エジプトはイギリスとインドをつなぐ中継地である。従って、エジプトをフランスの支配下に置く事で、イギリスに打撃を与える事ができる。」
現実には、フランスがエジプトを掌握しても、イギリスが如何程の打撃を受けるか、未知数ですが、ナポレオンは、反対論を押し切ってエジプト遠征を認めさせました。
その兵力は5万8千人。

 ナポレオンの主張は、イギリスに大きな影響を与えるものでは無く、エジプト遠征は最終的に、ナポレオンの名誉欲、功名心から計画されたと思われます。
ナポレオンは、この頃既に自分自身を英雄と信じて、古代ギリシアの英雄アレクサンドロス大王と自分を重ねており、アレクサンドロスも東方遠征を行って、エジプトを征服した様に、自分も同様の行為を行ったと思われます。
アレクサンドロスは東方遠征の時に、学者を大勢引き連れて行きますが、ナポレオンもそれに倣って、考古学者など165人を同行させました。
当時、ヨーロッパでは、オリエントブームで、エジプトに対する関心も高まっていた様です。
ナポレオンに同行した学者達が、エジプトでロゼッタ=ストーンを発見したのは有名な話です。
ロゼッタ=ストーンの碑文から古代エジプトの神聖文字が解読されました。

 フランス軍は、エジプトでもピラミッドの戦いと呼ばれる会戦で勝利を収めていますが、この戦いの前にナポレオンは兵士に演説しています。

「ピラミッドの上から四千年の歴史が諸君を見下ろしている」


 この時期のエジプトはオスマン・トルコ帝国の領土で、エジプトでフランス軍と戦ったのはマムルークと呼ばれる将軍達でした。

 イギリスとの戦いは、陸軍では、フランス軍に太刀打ちできませんが、海軍は強く、イギリス海軍は、エジプトのアブキール湾に入港していたフランス海軍を攻撃して、これを撃滅させました。
艦船がなければ、フランスに帰る事も出来ず、ナポレオンのフランス軍は、エジプトに孤立する事になります。
更に、イギリスは、オーストリア、ロシア、オスマン帝国等を召集して、再び第二回対仏大同盟を結成します。

 この結果、再び諸外国の軍隊がフランス国境に迫り、イタリアではフランス軍がロシア軍に敗北します。
危機の中で、総裁政府と議会の対立は激しくなり、フランスの政情は不安定になりました。
本来、総裁政府は強い指導力を持たず、頻繁に政変が起きていましたから、不安定な政情の中で、強力なリーダーシップを持った指導者を求める気運が高まってきます。

 エジプトで孤立しながらも戦い続けていたナポレオンの下に、フランス国内の情勢が伝えられると、彼は、僅かな側近だけを引き連れてエジプトを脱出してフランスに向かいます。
政府が、ナポレオンに帰還命令を出した訳でも無く、ナポレオンの勝手な行動で、明らかな軍紀違反です。
自分の指揮する部隊を、遺してフランスに戻る行為は、責任ある軍人として在り得ません。
ナポレオンは、軍人ではなく、政治家として行動し、この機会に自分が権力を握ろうと決断したのです。

 1799年11月、パリに戻ったナポレオンは、弟の協力を得て、合法的に権力を掌握しようとしますが、上手くいかず、軍の力を背景に、総裁政府を倒して権力を握りました。
この事件をブリュメール18日のクーデターと呼び、これ以後、1814年迄、ナポレオンがフランスの独裁者として君臨する事になります。

続く・・・
2012/06/05

人類の軌跡その394:ナポレオンの生涯③

<ナポレオン・ボナパルトその③>

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『アルプス越えのナポレオン』

◎ナポレオンの登場その③

 ナポレオンの大活躍はここから始まります。
イタリア遠征に出発する直前に、ナポレオンはジョセフィーヌと結婚してから、遠征に出かけました。
ナポレオン軍はイタリアで、連戦連勝でした。
ナポレオンは、遠征軍の兵士に向かってこの様な演説をしています。

 「攻勢に出よう。武器も食糧も敵地にある。敵領の民衆を圧政から解放しよう!われわれは革命軍なのだ」
 ナポレオンは、イタリアの封建制度を撤廃し、イタリアの民衆にフランスと同じような「自由」「平等」を与えよう、と言っているのです。
この当時、ヨーロッパでフランスだけが、革命によって封建制度、身分制度が撤廃され、市民による政府が成立していますが、イタリアも含めて、それ以外の地域では、封建制度が続き、平民階級、つまり農民や市民は、貴族・領主によって政治的にも経済的にも抑圧されているのです。

 フランスと同じ様に、イタリアの平民も、封建制度は否定的です。
貴族や領主の支配を覆したいと思っていますが、イタリアの封建領主階級の力はまだまだ強く、更にその後方にはオーストリア軍が控えており、自力で革命を起こす事は不可能に近いのです。
そこに、ナポレオン軍が来て、オーストリア軍と戦い、フランス軍が占領した地域の封建制を無くすと云う。
「敵領の民衆を圧政から解放しよう」と云うのは、この様な意味で、ナポレオンは、フランス革命をイタリアでも実行すると云っているのです。

 イタリアの民衆は、歓喜でフランス軍を向かえ、その状況は、イタリアは「敵地」ではなく、逆にイタリアを抑圧しているオーストリア軍が、イタリア人からは憎まれています。
地の利はフランス、ナポレオンに在り、遠征地の住民の協力が在る為、兵士や馬の食糧も、簡単に現地で調達できます。
「武器も食糧も敵地にある」は、その事を指しています。
物資の現地調達が可能な為、部隊の装備は、オーストリア軍に比べて軽装で、荷物が軽い事は、移動速度が速い事を意味します。
ナポレオン軍は、オーストリア軍の予想を超えるスピードで部隊を集結させて、打撃をあたえることが出来たのです。

 最終的に、ナポレオンが率いるイタリア遠征軍に敗北したオーストリアは、フランスと和約を結び、これによって、第一回対仏大同盟は崩壊しました。

 フランスではナポレオン人気は急上昇し、英雄に成ります。
ナポレオン自身も自分の軍事的、政治的な才能に自信を持ちはじめ、フランスに戻ったナポレオンは、自らエジプト遠征と云う新しい軍事作戦を提案します。


続く・・・
2012/06/04

人類の軌跡その393:ナポレオンの生涯②

<ナポレオン・ボナパルトその②>

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ヴァンデミエールの反乱

◎ナポレオンの登場その②

 ナポレオンが軍人となって6年目、1789年、フランス革命が始まり、革命の進行に従って、フランスを捨てて国外に亡命する貴族達が増えます。
軍隊の将校は総て貴族階級で、亡命者の中には軍の将校も居り、更に革命に非協力的な指揮官は、軍務を外され処刑される事も在ります。
将校が少なくなれば、革命政府に忠実で、真面目に励む将校には出世の機会で、しかも、ジャコバン派独裁の時期には、身分に関係なく能力本位で将校の抜擢もはじまりました。

 ナポレオンは、この機会を逃さず、出世の為の努力を開始します。
まずは、ジャコバン派の独裁を支持する内容のパンフレットを自費出版し、ジャコバン派に近づき、ロベスピエールの弟と知り合いになって、自分を売り込むのです。
更には、港町ツーロンを占領していたイギリス軍と王党派の反乱を撃退するという功績をあげ、25歳で少将に昇進し、革命の混乱期でなければ、あり得ないような出世です。
少将は、軍隊の階級の中では大将、中将に次ぐ将官の階級です。
 
 テルミドールの反乱で、ロベスピエールのグループが処刑され、ジャコバン派の独裁が終焉を迎え、更にナポレオン自身も、ジャコバン派という事で逮捕されてしまいました。
釈放されますが、軍務をはずされて左遷状態に置かれ、この不遇の時に、ナポレオンは復活の機会を掴もうと、有力者のサロンをあちこち訪れました。
社交界に出入りするのですが、そこでナポレオンが見初めた相手が、ジョセフィーヌです。
彼女は、貴族出身の未亡人で、ナポレオンより6歳年上、夫はジャコバン派独裁で処刑され、死んだ夫との間に二人の子供が居り、しかも、ナポレオンと知り合った当時は、バラスと云う愛人が居ました。
 
 ジョセフィーヌの愛人バラスは、大物政治家で、のちに総裁政府で総裁になるという実力者です。
このバラスが、ナポレオンのツーロン反乱鎮圧の活躍を覚えていて、彼に機会を与えるのです。

 1795年10月、ヴァンデミエールの反乱が起こります。
王党派がパリ中心部でおこした武装蜂起で、街の中心部で発生した反乱だけに、政府も鎮圧に手間取りますが、この時に、バラスがナポレオンに鎮圧を命じるのです。
ナポレオンは、バラスに大砲の使用許可を上申します。
都会の真ん中で大砲を使用する事は、無関係の市民に被害が及び、その被害の予想も出来ないので、誰も実際に使用経験が在りません。
結局、使用許可が下り、ナポレオンは大砲を使って、見事に反乱を鎮圧します。

 この功績で、26歳のナポレオンは国内軍司令官に就任、見事に復活を遂げます。

 1795年10月、総裁政府が成立します。
翌年1796年、ナポレオンはイタリア方面軍司令官に任命され、第一回対仏大同盟との戦争は継続され、イタリア経由でフランスに侵攻するオーストリア軍を阻止する事が、ナポレオンに与えられた任務でした。

続く・・・
2012/06/02

人類の軌跡その392:ナポレオンの生涯①

<ナポレオン・ボナパルトその①>

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Napoléon Bonaparte・1769年8月15日 - 1821年5月5日


◎ナポレオンの登場

 ナポレオン・ボナパルトは、1769年にコルシカ島の貧乏貴族の家に生まれました。
コルシカ島は、現在フランス領になっていますが、以前はイタリアのピサやジェノバの領土であった時代も在ります。
ナポレオンが生まれる直前に、ジェノバ領からフランス領に成りましたから、フランス領としての歴史は比較的新しく、コルシカの人々は、フランス領に成ってからも独立運動が繰り返されました。
ナポレオンの生きていた時代、フランス人としての自覚は無く、ナポレオン本人も、フランス人としての自覚はあまり無かったと思います。

 ナポレオン、コルシカ島がフランス領に成った関係で、法律上フランス人に成り、貧乏貴族が出世する近道は、軍人になる事でしたから、少年ナポレオンは首都パリに出て士官学校に入学します。

 軍隊は二種類の人間で構成されています。
武器を持って敵軍の正面に出て戦うのは「兵」、その「兵」を指揮し、作戦を立て、命令をするのが「将」です。
将校、士官、種々の階級が在りますが、「兵」は、命令されて動くだけなので、体力さえあれば良く誰でもなれますしかし、将校は、戦術、用兵等の知識や技能、経験を身につけなければならず、専門教育が必要で、将校を養成する教育機関が士官学校です。

 当時は、まだフランス革命勃発前で、アンシャン=レジーム時代のフランスです。
将校になれるのは貴族だけ、平民は兵士と決まっており、士官学校に入学できるのも貴族の子弟だけです。
ナポレオンはコルシカ出身ですが、貴族階級なので、士官学校に入学できました。

 学校でのナポレオンは、暗くて目立たず、無口で友人も居ません。
無口だったのは、ナポレオンが傲慢な性格で他のクラスメートを馬鹿にしていたからとも、訛りが酷くて、話すと周囲に笑われたからだとも、云われています。
成績も士官学校卒業時の席次が58人中42番です。

 当時の士官学校には、騎兵科、歩兵科、砲兵科の3つの科が在りました。
一番華やかで人気があるのが騎兵、次が歩兵、一番人気のないのが砲兵です。
当時、砲兵科は出来て間もない学科で、重たい大砲を戦場まで引っ張って弾を撃つだけなので、兵科としては好まれませんでした。
ナポレオンが学んだのは、この砲兵科で、後に大砲を上手に戦術に取り入れて、勝利を重ねる事になります。

 1784年、ナポレオンは士官学校を卒業し、フランス王国の将校としての軍務が始まりました。
このときの年齢が16歳、今の常識から考えると驚くべき若さで、貴族出身、士官学校出身というだけで、16歳でも部隊を指揮する資格を与えられるのです。
アンシャン=レジーム下での貴族の特権というのを考えさせられます。

続く・・・
2012/06/01

人類の軌跡その391:フランス革命・恐怖政治③

<フランス革命⑬>

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テルミドールの反動 

◎テルミドールの反動

 1794年7月、終に国民公会で、ロベスピエールの逮捕が決議され、ロベスピエールはパリ市庁舎に逃げ込みますが、武装したパリ市民を味方に付けて、国民公会に反撃しようと考えたのです。
市庁舎の一室で、パリ市民への指令書を書いていると、そこに国民公会から差し向けられた兵士が踏み込んできました。
ロベスピエールは机の中からピストルを掴み、振り向いて反撃をしようとしますが、逆に兵士の撃った弾で顎をうち砕かれてしまい、ロベスピエールの顎から、血が滴り落ちました。
この時の、血染めの命令書が現存しています。
ロベスピエールは逮捕され、サン・ジュストらと共に翌日には処刑されました。
ロベスピエールのグループとして処刑された人数は108人にのぼります。

 ロベスピエールの逮捕と処刑で、ジャコバン派の独裁と恐怖政治は終わり、この事件を「テルミドールの反動」と云います。
テルミドールは革命暦で7月を表しています。

 ジャコバン派独裁が終焉を迎えた背景として、独裁当初は、外国軍の侵攻、内乱や経済危機が在り、この危機を乗り切る為には独裁政治しかない、と云う意識が国民には在りました。
しかし1794年に成ると、戦況は好転、物価も安定して、危機は山場を越え、ジャコバン派独裁の恐怖政治を、もう我慢する必要が無くなったと国民は感じ始めていたのです。

◎革命の終幕

 多くの歴史学者は、1789年に始まったフランス革命は、「テルミドールの反動」で終わると考えています。
確かに、「テルミドールの反動」以降は、民衆が政治の前面に登場する事は無く成り、武装した下層市民の政治運動は下火に成ります。
運動の指導者が殆ど処刑されましたから、ジャコバン派独裁で、フランス革命の政治的試みは、終点迄行き着き、今度は、ジロンド派が国民公会に戻り、再び上層市民が政治の主導権を取り戻します。

 1795年には新しい憲法が制定され、下層民を排除した制限選挙によって新しい政府が樹立されました。
この政府が総裁政府で、富裕市民、土地所有農民の利益を代表し、財産を持っている人の為の政治を担いました。
5人の総裁が行政を担当し、独裁を回避する為に5人の総裁を設置しましたが、逆に指導力の弱い政府と成り、総裁政府の弱点でした。
又、恐怖政治が終焉を迎え、政治的な緊張が緩む一方で、政府転覆の策謀が繰り返され、政局は非常に不安定に成りました。

 その一つが、王党派の策謀で、国王による政治と貴族社会を復活させようとするグループです。
総裁政府は、ジャコバン派の様に過激では在りませんが、フランス革命の成果を引き継いでいますから、王党派は許すことの出来ない政敵でした。

 バブーフは、下層市民の立場から政府転覆を企て、事前に計画が漏れて反乱は失敗しますが、一種の共産主義社会をめざしていた点で、思想的に重要視されています。
バブーフは、極少数のメンバーでの武装蜂起を計画しましたが、ベルサイユ行進や8月10日事件の様に、市民大衆の直接行動が政治を動かす時代は、もう終わっていたのです。

 総裁政府の下で、国民は強力な指導者を求めはじめ、そこに登場するのがナポレオンなのです。

フランス革命・終わり・・・