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2012/07/31

人類の軌跡その440:大英帝国③

<19世紀後半のイギリスその③>

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アイルランド西部キャプチャ

◎アイルランド問題

 海外に植民地を数多く保養するイギリスですが、最初の植民地といえるのがアイルランドでした。
16世紀からイギリスに侵略され、ピューリタン革命の時にはクロムウェルにより土地を没収され、アイルランド人農民はイギリス人に搾取される小作人に成っていました。
アイルランド人は、民族的にはゲルマン人よりも古くからヨーロッパに居住したケルト人です。
言語もアイルランド語で英語では無く、又、宗教はカトリックが大多数を占め、これ等の違いは、私達日本人からは理解し難いのですが、イギリス人にとっては大きな違いで、アイルランド人を差別し続けていました。

 イギリスに征服された後も、アイルランドには形だけの議会が存在したのですが、此れが1801年にイギリス議会に併合され、これ以降、イギリスの正式国名は、グレート・ブリテン・アンド・アイルランド連合王国と云い、略して連合王国、ユナイテッド・キングダム(U.K.)です。

 併合された結果、アイルランドがイングランドと平等に成った訳では無く、アイルランド人小作農への迫害は続きました。
その中で、オコンネル等の運動によって1829年にはカトリック教徒解放法が制定されて、カトリックが大多数を占める、アイルランド人に対する宗教上の差別は法律上、廃止されたのですが、依然その生活状態は改善されません。

 1840年代にジャガイモ飢饉と名づけられた大規模な飢饉がアイルランドを襲います。
アイルランド人の主食はジャガイモで、ジャガイモの別名は「貧者のパン」と云います。
痩せた土地でも栽培可能で、収穫も簡単、脱穀や製粉をせずにそのまま茹でて直ぐに食べる事が出来ます。
本来はアメリカ大陸原産ですが、16世紀末にアイルランドに伝わると、直ぐに全土に広がり主食に成りました。

 ところが、このジャガイモの伝染病が大流行し、収穫が激減、それがジャガイモ飢饉です。
1845年から数年間に100万人が餓死、80万人が飢えから逃れて北アメリカに移住しました。
飢饉前のアイルランド人口は850万人程ですから、ものすごい被害です。

 35代アメリカ大統領ジョン・F・ケネディの、曽祖父がジャガイモ飢饉から逃れてアメリカに渡って来た事は有名なお話で、ウォルト・ディズニーも曽祖父の代に、ジャガイモ飢饉を逃れてアメリカに渡っています。
ディズニーの創ったキャラクターの名前ミッキーは、アイルランド人によくある名前マイケルの愛称で、因みに、アメリカでは、20世紀前半迄は、貧しいアイルランド系移民を見下す時にミッキーと呼んでいましたが、ミッキー・マウスが国民的人気者になってから、見下すニュアンスは無くなったそうです。

 その後もアイルランド人農民の一揆、自治や独立を求める運動は活発化します。
有名なのがボイコット運動で、ボイコットは、イギリス人地主に雇われていた実在の土地管理人の名前でした。
このボイコット氏が、法外な小作料の取り立てを実行し、激怒した小作人達が、ボイコット氏の家に配達される郵便物や食料品を実力行使でストップさせて困らせました。
これが、アイルランド全土に、小作人の闘争方法として広がり、不買運動や集会等への不参加運動と云う意味で現在も使われます。
 
 イギリス側も、アイルランド人の反イギリス闘争が過激に成らない様、1870年アイルランド土地法等で、アイルランド人小作人の生活安定化を目指します。
アイルランド側の政治運動としては、1905年に結成されたシン=フェイン党が有名で、この政党は急進的独立運動を進めていきました。

19世紀後半のイギリス、終わり・・・
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2012/07/30

人類の軌跡その439:大英帝国②

<19世紀後半のイギリスその②>

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◎イギリスの政治の特徴

1、選挙権の拡大
19世紀後半より進展し、1867年、第二次選挙法改正。
都市労働者に選挙権が与えられ、有権者数は106万人から200万人に増加。
1884年、第三次選挙法改正。
農業労働者と鉱山労働者に選挙権付与、有権者数は440万人。

 選挙というと、投票用紙に名前を書いて投票箱に入れます。
誰に投票したかは、他人に判らない様にする、秘密投票が今では当たり前ですが、1872年迄は、イギリスでも秘密投票では在りませんでした。
有権者はひとりひとり役人の前で、投票予定者の氏名を順番に名乗っていました。
選挙権を保有するのが、一握りの大金持ち地主ばかりだった時代は、皆が仲間同士、秘密にする必要もなかったのでしょうが、有権者が増えて労働者や農民も参加すれば、当然利害の対立も激しくなり、圧力もかかります。
公正な選挙にする為、秘密にする必要が生まれてきたと思われます。

2、労働・社会立法

 1870年、教育法成立。
8歳から13歳までの義務教育が実施されますが、19世紀前半迄、教育は上流階級の独占物で、庶民に教育など必要はないと考えられていました。
1843年の数字ですが、男子の32%、女子の49%が自分の名前を書けませんでした。
産業が発展する過程で次の様な言葉が、公にされました。
「農民の子でも職人の子でも、予め産業制度用に育てられれば、後の仕込みの手間が大幅に省ける。すなわち公共教育こそ、産業社会には不可欠である。」(社会学者、アンドリュー・ウールの発言)

 先の選挙法改正にも関係しますが、本来選挙権は「教養と財産を持つ者」の権利と考えられており、有権者が無学では困るという発想も存在しました。
これらが、教育を権利として要求する労働者側の要求と一致して、教育法は制定されたのです。

 1871年、労働組合法成立。
労働組合の法的地位が認められ、社会主義運動では、1884年フェビアン協会が結成されます。
著名な知識人が多く、マルクス主義とは違う立場から社会主義を唱え、又、労働運動を積極的に支援しました。
労働組合運動とフェビアン協会等の活動が、後の労働党の結成に結びついていきます。

3、海外発展

 中国に対しては、1840年から42年にかけてのアヘン戦争と、1856年から60年のアロー号戦争を遂行し、中国を半植民地化していきます。
 
 インドでは、18世紀後半からイギリス東インド会社が領土を拡大していたのですが、インド人の大反乱を鎮圧したのち、1877年インド帝国を建国しヴィクトリア女王が、初代インド帝国皇帝に即位、全インドを支配下に入れました。
 
 エジプトでは、エジプトの財政難に乗じて、スエズ運河を買収。
スエズ運河はエジプト領内に位置しますが、運河はイギリスの所有物と成り、やがて、イギリスはスエズ運河警備の名目で、軍隊をエジプトに駐屯させ、エジプトを事実上支配する様に成ります。
 
 イギリス人が移住した地域で自治領が成立します。
カナダ連邦(1867年)、オーストラリア(1901年)、南アフリカ連邦(1910年)(カッコは自治領となった年)、イギリス人が原住民を排除して定住し、生活基盤を形成した場所で、まさしく植民地です。
イギリスは、これ等を全部含んで、大英帝国と呼ばれます。

続く・・・

2012/07/28

人類の軌跡その438:大英帝国①

<19世紀後半のイギリスその①>

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ヴィクトリア女王載冠式(ヴィクトリア女王とカンタベリー大司教)

◎ヴィクトリア時代のイギリス

 イギリスが19世紀前半から自由主義的改革を実施しましたが、議会を通じて徐々に改革を進めて行く方法が、イギリス政治の特徴になっています。

 17世紀にピューリタン革命とクロムウェルの独裁、名誉革命等の大変革を経験し、此れをフランスに当てはめれば、ピューリタン革命はフランス革命、クロムウェルの独裁はナポレオンの第一帝政、名誉革命は二月革命に比較する事が出来ます。
以上の様にイギリスは、フランスよりも100年以上社会運動で先行しており、ヨーロッパ諸国が革命運動や統一運動で激動している19世紀は、イギリスにとっては安定と発展の時代でした。

 そのイギリスの繁栄を象徴するのがヴィクトリア女王で、1837年に18歳で即位して、1901年迄在位しました。彼女の在位期間は、まさにイギリスの繁栄の時代でした。

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クリスタルパレスに於ける開会式展

 第一回万国博覧会が1851年ロンドンで開催されます。
最大の呼び物がクリスタルパレス、此れは、鉄骨とガラスで建設した大パビリオンで、建設地に生えていたニレの巨木を伐採せず、そのままクリスタルパレスの中に入れました。
ガラスで出来た建物ですから、太陽光線は当たるので木は枯れず、この様な建築物さえ出来ると云うイギリスの工業技術力を世界に見せつけたのです。
クリスタルパレスの中には、ニレの木が生えているだけではなくて、産業革命で造られた様々な工業製品が展示されていました。

 このロンドン万博の開会式で、ヴィクトリア女王は「わが生涯で最も光栄ある日のひとつ」とスピーチしました。
5ヶ月間の開催期間中の延べ入場者は600万人、トマス・クックが団体割引で入場者を集める旅行代理店業をしたのも有名です。

 イギリス国王は「君臨すれども統治せず」が原則ですから、ヴィクトリア女王が、直接政治運営に関与していた訳では在りません。
19世紀後半のイギリスを動かしたのは、二人の政治家でした。
政権交代で交互に首相に就任した、自由党のグラッドストンと保守党のディズレーリです。

 グラッドストンは自由主義的政策を推進した事で有名です。
敬虔なクリスチャンでキリスト教的人道主義の立場から戦争をあまり好みませんでした。

 ディズレーリは逆に、帝国主義的な政策を進めた人物で、侵略戦争に積極的です。
アジア・アフリカで植民地を拡大していきます。
ディズレーリは、祖父の代にイタリアからイギリスに移住したユダヤ系の家系で、移民出身でも首相に成れると考えれば、日本人とヨーロッパ人では国籍、民族の感覚が違います。
ディズレーリは、何時も原色のけばけばしい服に、レースの縁取りをあしらい、香水の匂いを漂わせて、かなり奇抜な感じでした。
一方、グラッドストンはイギリス人がイメージする予言者のような風貌で、ディズレーリとは正反対の雰囲気の持ち主で国民には人気が在ったのです。

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黒衣の女王

 ヴィクトリア女王は、ディズレーリがお気に入りだったと云います。
夫アルバート候と死別して、引篭っていた女王を元気付け、公式の場に出て来る様に計らったのは、ディズレーリでした。
政党も個性も違うグラッドストンとディズレーリが、交互に政権交代を行ったのは、時代や状況の変化に応じて柔軟に政策を転換して行った事を意味します。

続く・・・

2012/07/27

人類の軌跡その437:フランスの状況③

<ナポレオン3世時代のフランスその③>

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◎パリ・コミューン

 パリの市民達は、臨時政府の降伏に怒りを覚え、更にヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の戴冠式を挙行される屈辱が我慢できません。
アルザス・ロレーヌの割譲も、50億フランの賠償金も、講和の条件のすべてが屈辱でした。
「フランスはもっと戦える」、そう考えたパリ市民が1871年3月、臨時政府に反乱を起こしたのです。パリ市民は、パリに新たに政府を組織しました。
これがパリ・コミューンです。
ティエールをはじめとする臨時政府はパリから脱出しヴェルサイユに移動しました。

 この時フランスに二つの政府が形成され、パリ・コミューンは労働者の政府で政策も急進的、選出された議員には社会主義者が多く、政府の機構や政策から、史上初の社会主義政権という評価も存在しています。
政府といっても、パリの街を実効支配しているだけですが、人口160万に及ぶフランスの首都であり、
ドイツ=プロイセンは臨時政府に圧力をかけ、対ドイツ=プロイセン徹底抗戦を叫ぶパリ・コミューンに対して臨時政府はどう対処するか、迫ります。
臨時政府としては、パリ・コミューンを鎮圧したいものの兵力が無く、ドイツ=プロイセン軍の捕虜になっていたフランス兵を釈放して貰い、13万の兵力でパリを包囲し、5月にはパリに突入、パリを守るコミューンの兵士=パリ市民との市街戦に発展していきました。
同じフランス人同士の戦いで、更に、市街戦が行われているパリの周囲にはドイツ軍が陣取り、戦いの成り行きを見守る状況です。

 最終的に、装備で勝る臨時政府側が鎮圧に成功してパリ・コミューンは崩壊しました。
コミューン側の死者3万、この後、臨時政府はドイツと正式な講和条約を結び、ドイツ=プロイセン軍はフランスから撤兵していきました。

 僅か72日間で崩壊しましたが、パリ・コミューンは当時ヨーロッパで注目を集め、其れは、この政府が、労働者によってつくられたからです。
労働者と反対の立場の人も含めて、この政府の結末を、固唾をのんで見守っていました。
崩壊後も、社会主義を実現させたものとして、多くの政治学者の研究対象になっていますが、マルクスはパリ・コミューンを高く評価している事で有名です。

 パリ・コミューンを鎮圧した臨時政府は、この後ティエールが大統領となり政治を運営します。
しかし王党派と共和派の対立が続き、1875年ようやく新憲法が制定され、此れを第三共和国憲法と云い、ナポレオン3世退位後のフランスの政体は共和政、フランス史上三回目の共和政なので第三共和政、従って憲法も第三共和国憲法。

 第三共和国発足後のフランス政局は、小党分立状態が続き安定せず、クーデター事件も起こりますが、一方では海外に植民地を獲得し、資本主義はますます発展していきました。
第三共和政は、1940年、第二次世界大戦でドイツに敗れる迄続く事になります。

フランスの状況終わり・・・


2012/07/26

人類の軌跡その436:フランスの状況②

<ナポレオン3世時代のフランスその②>

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ナポレオン3世とビスマルク

 ロシア、中国、ベトナム、当時のフランスより弱体で、しかもイギリスとの共同作戦ならば勝利して当然の後進国を相手に戦いました。
当時イギリスもフランスもアジアに、勢力を拡大しようとしている時です。
清朝が衰退の一途を辿る時期で、外交上の不備を突いて、戦争に持ち込み、相手に不平等条約を結ばせます。
アロー号戦争は当にその様な戦争のひとつでした。

 この時期の日本にも、イギリス、フランスは来朝しています。
黒船による開国、不平等条約の締結、尊皇攘夷運動や討幕運動等、騒然としている時期で、英仏とも中国に力を注いでいるので、日本を武力占領する考えは無かったと思われますが、日本の混乱を利用して勢力を拡大しようとしているのは事実です。

 幕末の情勢の中で、イギリスは薩摩と長州が将来の日本を担う勢力だと考えて、軍艦や銃器を引き渡し、これと反対に、フランスは徳川幕府との関係を強めて、日本に利権を得ようとします。
江戸幕府とフランスは友好関係が構築され、ルイ・ナポレオンは徳川慶喜に、贈り物をし、慶喜がルイ・ナポレオンに贈られたフランスの軍服を着ている写真が存在しています。
幕府軍の近代化の為にフランスから軍事顧問団を招き、フランス式の軍事教練を行い、1867年のパリ万博には、徳川幕府も茶店のパビリオンを出展しました。
当時、特に世界に誇る工業製品も無い日本では、茶店を建てて着物姿の芸者さんが、来館者にお茶を出したそうです。

 戊辰戦争の時勘定奉行の要職に在った小栗上野介は、慶喜にフランスから資金、武器、軍隊迄も借入可能なものは総て借入れ、徹底的に薩長と戦う事を訴えました。
慶喜には、勤皇派に対抗する意思は、殆ど無く容易く江戸幕府は倒れましたが、若しフランスの援助で戦争を継続した場合は、幕府が勝利しても、日本はフランスからの借金過多と成り、フランスの半植民地に成っていた事はほぼ確実です。

 イギリスやフランスは他国の内乱に乗じて、侵略するパターンが多く、当に、幕末日本も同様でした。
外史が伝える処によれば、小栗上野介は、フランスの援助と引き換えに日本の領土の一部を割譲する提案を行っていたと云います。

 最終的に、江戸幕府は倒れて、薩長主体で明治政府がつくられましたから、フランスは日本に大きな足掛かりを作れませんでしたが、場合によってはナポレオン3世によるフランスの栄光の中に、日本占領が加えられていたかもしれません。

 同時期、ペリーを派遣して日本を開国させたアメリカ合衆国は、南北戦争が勃発し、日本に対応する余裕は在りませんでした。

 ナポレオン3世が、セダンの戦いで捕虜になり退位した後、1870年9月フランス臨時政府が成立します。
政府首班はティエール、怒濤の勢いで進撃してくるドイツ=プロイセン軍に勝てる見込みはないと判断した臨時政府は、翌1871年2月にドイツと仮講和を結んで降伏し、ドイツ皇帝の戴冠式がヴェルサイユ宮殿でおこなわれたのがこの前月1月でした。

続く・・・


2012/07/25

人類の軌跡その435:フランスの状況①

<ナポレオン3世時代のフランスその①>

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ストラスブール一揆のルイ・ナポレオン

 ルイ・ナポレオンは、ナポレオン1世の弟の子供で、大統領選挙に出馬迄は、七月王政時代に陰謀事件を二回企て、共に失敗し、イギリスで亡命生活を送っていました。
二月革命が起きるとフランスに帰って大統領選挙に立候補する迄、ルイ・ナポレオンが如何なる政治的な信条を持つ政治家なのか、殆ど知られていませんでした。
しかし、彼が立候補すると、その名前だけで当選を果たします。
ナポレオン1世の戦争で多くのフランス人が命を落とし、1世が没落する時、殆どのフランス人がそ知らぬ振りでした。
二月革命の時代は、1世の時代から既に30年以上を経過し、戦争で家族を無くした思いも薄れていいたのでしょう。
ナポレオン1世時代にフランスが、ヨーロッパ全体に号令した栄光の記憶だけが、思い出されました。

 ルイ・ナポレオンは、当選を果たしても、協力的な支持基盤が存在する訳ではなく、あまり後世の評価は高いとは言えませんが、結局20年以上も権力の座に君臨した事からも、有能な政治家だったと思います。

 1852年には、ナポレオン1世同様に国民投票によって皇帝に即位しました。
皇帝としての名前がナポレオン3世。

 政策として、資本家の為には、国内産業の育成に力を入れ、ルイ・ナポレオンの時代に、フランスの製鉄、紡績工業は大きく発展しました。
又、その成果を世界に誇示する為に1855年と1867年の二回、万国博覧会をパリで開催します。

 労働者、農民に対しては、公共慈善事業や社会政策を推進し、病院や孤児院を建設しました。
首都パリを大改造したのも有名な活動で、現在のパリの街並みはナポレオン3世によってつくられたものです。
それまでのパリは細い路地が入り組んだ迷路のような町で、上下水道も整えられず衛生状態も劣悪でしたが、なによりも市民が路地にバリケードを容易に築ける事を防ぐ事が、第一の目的と思われます。

 しかし、ナポレオン3世は、フランスの栄光を常に国民に意識させる事を念頭に置いていました。
万博の開催もその一つですが、ナポレオン1世と同様に戦争で勝利を収める事ですが、ルイ・ナポレオンは戦争の指揮を自ら行う訳では在りません。
世界の政治情勢を窺い、好機とみれば、つまり勝てそうな戦争があれば軍隊を送り込むのです。

 具体的には、ロシアと戦ったクリミア戦争(1853年~56年)、中国清朝と戦ったアロー戦争(1856年~60年)、この二つともイギリスとの連合軍でした。
インドシナ出兵(1858年)、イタリア統一戦争(1859年)。
メキシコ侵略戦争(1861年~67年)、この戦争は、メキシコ内政に干渉し、自分の傀儡をメキシコ皇帝に擁立する事を目的とした戦争ですが、失敗しルイ・ナポレオンの威信が低下する原因と成りました。
 
 更にプロイセンのビスマルクに挑発されて1870年普仏戦争を遂行しますが、この時に戦場に出向いた結果、逆に捕虜に成り退位させられました。

続く・・・

2012/07/24

人類の軌跡その434:南下政策とツァーリズム番外編

<番外編>

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Florence Nightingale,1820年5月12日 - 1910年8月13日

◎クリミアの天使

 イギリスのナイチンゲールが従軍看護婦として活躍して有名になったのも、クリミア戦争です。
ナイチンゲールは、新聞報道で激戦の様子を知り、負傷者の看護をしたいと考え、仲間の看護婦を募って戦場に出かけ、負傷者の看護に尽くしました。
野戦病院の衛生状態を改善して、負傷者の死亡率を40%から2%に引き下げ、劇的な改善を行いまいした。
 
 彼女は、敵味方の区別なく、すべての負傷者の手当をし、この人道的な行いが、後の1864年の国際赤十字の設立に繋がっていきます。
もう一つの功績は、看護婦の地位を高めた事で、看護婦は、ナイチンゲールが有名になる迄は、下層階級の女性が行うどちらかというと卑しい仕事、召使いの仕事と見られていました。
確かに、他人の血や膿に触れ、下の世話も必要、伝染病に曝される可能性も高い職業でした。
ところが、ナイチンゲールは、上流階級の出身にも係らず、この仕事に誇りを持って取り組み、彼女の活動が、看護婦を女性の仕事として価値あるものに高めたのです。
(現在は看護師とよび、男女の区別をしませんが、今日のように女性の社会進出が一般的ではなかった時代には、働く女性の代表的な仕事でした。現在の視点から19世紀のナイチンゲールを看護師と表現するのはそぐわないと考えて、あえて看護婦としています)。

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James Brudenell, 7th Earl of Cardigan

◎カーディガンの由来

 カーディガンという衣類が作られたのも、クリミア戦争が発端でした。
前線で負傷した兵士が、次々に野戦病院に運ばれてきますが、胸や腹に銃弾を受けている為、治療では服を脱がせなければなりません。
当時は防寒の為にセーターを着用しています。
ところが治療の為に、脱がせるには両腕を上げなければならず、苦痛で悶えている負傷兵のセーターを脱がせる事が一苦労でした。
そこでイギリス軍人カーディガン伯爵が、脱がなくても前を開けられる様に発明した衣類がカーディガンなのです。
クリミア戦争が其れまでにない激しい戦争で在り、ロシア軍は100万内52万が戦死、傷病死したという数字も存在しています。

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Marie Sklodowska(16歳のマリー)

◎マリー・キュリーの少女時代

 ノーベル賞を取った女性科学者マリー・キュリーは、独立運動鎮圧後のポーランドで少女時代をおくっており、伝記によればロシアの支配の様子が判って面白いです。
ポーランドの学校では、ロシア語で授業が行われ、ポーランドの歴史等民族主義的な授業は禁止されていました。
ところが、生徒も先生もポーランド人なので、ロシア人の監督官の目を盗んで、先生はポーランド語でポーランドの歴史を教えます。
監督官が学校に入って来る姿が窓から見えると、先生はサッと黒板を消して、生徒は机の中からロシア語の教科書を出して、さも今までロシア語の勉強をしていましたという振りをします。
監督官が教室に入ってくると、先生はマリーを指名し、小さい頃から賢く、指名されたマリーは、ロシア語で流暢に答えます。
それを見て、監督官は満足そうに頷き、教室から出ていきます。
この様な空気の中、ロシアへの反感と、独立への想いがいっそう強くなっていくのです。

南下政策とツァーリズム終わり・・・
2012/07/23

人類の軌跡その433:南下政策とツァーリズム③

<19世紀中頃のロシアその③>

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アレクサンドル2世載冠式

◎ロシアの改革

 クリミア戦争の敗北は、ロシアにとって大打撃でした。
クリミア戦争を始めた皇帝ニコライ1世は、戦争中に亡くなっていますが、死因は薬の飲みすぎと云われており、戦況を苦にして、事実上の自殺ではないかと考えられています。
ニコライ1世は、19歳の時にイギリスを旅行して議会を見学していますが、市民達が議論しながら法律を決めていく様子を見て嫌悪感を抱いたと云います。

 ニコライ1世の後継者が、アレクサンドル2世です。
圧倒的な兵力と地理的優位にも関わらず「なぜ、ロシアは敗れたのか?」
結論は、イギリスとロシアでは、政治経済制度が全く異なり、イギリスは、既に工業社会に入っているが、ロシアではまだ農奴制が続いているのです。
アレクサンドル2世の自由主義的改革が始まります。

 因みに、クリミア戦争が始まった1853年は、日本にペリーが来航した年で、黒船来航で、幕末の争乱と明治維新が始まる時期も状況もそっくりです。
幕末の志士達が「何か手を打たねば、日本は滅びる」と考えたのと同じように、アレクサンドル2世も「何か手を打たねば」と思ったのでしょう。

 アレクサンドル2世の自由主義的改革の中心が、1861年の農奴解放令で、当時ロシアには2000万の農奴が存在し、彼らが自由な市民と成り、ロシア国民としての自覚を持つことで、ロシアは生まれ変わる事ができると皇帝は考えました。

 処が、実際に農奴を支配している貴族階層は、本気で農奴を解放する気は無く、形だけの解放になります。
身分は自由に成っても、土地は貴族の所有物ですから、大きな変化は無く、農奴時代の年貢よりも高い小作料を払わされて、反対に生活が苦しくなりました。
農奴解放と云われて期待していただけに、農民の失望と怒りは大きく、農民一揆が続発します。

 数字を挙げれば1862年に884件、1863年には509件の農民蜂起が発生し、皇帝としては、自由を与えにも係らず農民は何故蜂起するのか、と逆に農民に対する不信感が増すだけでした。

 更に、1863年には、アレクサンドル2世の自由主義的政策に刺激されて、ポーランドで独立反乱が起きます。
ロシア軍に鎮圧されて失敗するのですが、皇帝はこれらの経験を通じて、自由を与えれば臣民達は増長し、勝手な振る舞いをして、国を乱すだけで在り、こんな民は、やはり上から押さえつけるしかない、と考える様に成りました。

 アレクサンドル2世は、自由主義的政策を放棄し、ツァーリズムと呼ばれる皇帝による専制政治を一層強化します。

 しかし、西ヨーロッパの自由主義的政治体制を理想と考え、ツァーリズムに反対する知識人や学生が、当時のロシアにはある程度生まれていました。
イギリスやフランスに留学して、ロシアの後進性を肌で感じている人が結構存在していました。
知識人の事をロシアでは、インテリゲンツィアと呼びます。

 この様な反体制派のインテリ達が、政治改革を目指して1870年代から80年代にかけて行った運動がナロードニキ運動で、「ヴ=ナロード(人民の中へ)」というスローガンを掲げた為にナロードニキ運動と云います。

 この運動は、学生達が農村へどんどん入っていって、政治意識の遅れた農民達に啓蒙運動を行おうとする行動でした。
貧困で苦しむ農民の意識を変えなければ、ロシアは変わらないと考えたのですが、彼らの行動や考えは農民にはなかなか理解されませんでした。
農民から見れば、いきなり都会の若者が村にやってきて政治宣伝を始め、「自分で働きもしない貴族か金持ちの青年が何を言っているのか」、と冷ややかな目線は当然でした。
活動家達は、「農民よ、めざめよ、立ち上がれ、皇帝政治に反対せよ、革命だ!」と説きますが、普通の意識の農民達から見れば、とても過激で危険な事を言っているのです。
多くの農民達は、皇帝に対しては素朴な敬愛の感情を持っていたそうですから、とんでもない事を言う怪しい連中だと思ったようです。

 政府によるナロードニキ運動に対する弾圧は激しく、逮捕された若者の多くがシベリアに流刑に成りました。
農民の支持を得られなかったナロードニキ運動は、80年代を過ぎると衰えていきます。
そのなかで、一部の活動家は、テロリズムに走りました。
啓蒙活動よりも、直接的暴力でツェーリズムを倒そうと考え、何度か、皇帝の暗殺未遂事件が企てられ、ついに1881年、アレクサンドル2世は、乗っていた馬車に爆弾を投げつけられて命を落としました。
しかし、皇帝を暗殺しても、次の皇帝によって専制政治は引き継がれ、何の解決にもなりませんでした。

続く・・・

2012/07/21

いよいよ小倉祇園太鼓ですね!

いよいよ小倉祇園太鼓ですね!

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 例年、比較的好転に恵まれる「小倉祇園太鼓」ですが、今年は雨に祟られる事が、多い様です。

 北九州市の小倉を代表する夏祭りである小倉祗園太鼓は、全国的にも珍しい両面打ちを特徴とし、昭和三十三年、福岡県指定無形文化財に指定されました。
小倉祗園太鼓の伝統的な姿は、山車の前後に太鼓を据え、山車を曳きながら打つ姿で、太鼓二台の両面打ちで四人、ジャンガラ二人、計六人というのが、基本的な構成です。
又、装束は、向こう鉢巻に浴衣又は法被、白足袋に草履が基本。
太鼓は面によって音が異なり、低く腹に響く音がする面をドロといい、祇園太鼓のリズムをとり、もう一面はカンといい、高い軽やかな音がし、メロディとなります。

 太鼓の起源は、祇園祭は、鉦(かね)、鼓(つづみ)、笛(ふえ)を用いていたと記録にあり、その叩き方は「能」の形式でした。
「祗園会神事神山次第」に「万治三年(1660年)、囃方清五郎が藩主のお供をして江戸表に上がり、山王神事の囃し方を聞き覚え、小倉に帰国後、子供四人を集め、教授しが始め也」とあり、その頃から今の撥さばきが始まり、今から三百四十年前の事でした。

 現在の形が出来たのは、江戸時代、ご神幸に城下の各町内から、いろいろな趣向を凝らした山車、踊車、人形引車、踊り子などが随従するという豪華なものでしたが、明治時代以降、山車に据えつけた太鼓を叩き、それに調子をとるジャンガラ(摺り鉦)が加わり両面打ちを主体とした祗園へと変化して行きました。

 祗園祭の起こりは無病息災の祈りからで、平安時代、夏になると悪疫が流行したり稲などに害虫がつき、これを悪霊の仕業と考え、この悪霊を慰め退散させる為に神に祈った事を起源とする祭りでした。
旧六月に行われてきた「小倉祗園」は、小倉城を築城した細川忠興が、無病息災を祈るとともに、城下町繁栄のひとつとして、元和三年(1617年)に祗園社(現在の八坂神社)を建て、京都の祗園祭を小倉の地に取り入れたものです。

参考:小倉祇園の歴史
2012/07/20

人類の軌跡その432:南下政策とツァーリズム②

<19世紀中頃のロシアその②>

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セヴァストーポリ包囲戦

◎クリミア戦争②

 エジプトは、連戦連勝、その背景にはフランスが居り、フランスは、エジプトを援助して利権を拡大しようという魂胆が在ります。
オスマン帝国は、これに対抗するため、ロシアに海峡の軍艦通航権を与えて味方側に付けようと考えました。

 エジプトが勝利を収め、フランス、オスマン帝国が勝てばロシアが、この地域に勢力を拡大する事になり、その様な事態を恐れたイギリスが、この戦争に介入してきます。
当時イギリスの軍事力は最強で、外交手腕も抜群でしたから、最後はイギリス主導で戦争の決着がつけられたのでした。
 
 内容として、
1、エジプトは占領した領土をオスマン帝国に返還。
2、代償として、ムハンマド・アリーの一族がエジプト総督の地位を世襲する事を認める。

 事実上のエジプト王国で、オスマン帝国に対しては、ロシアに与えた海峡の軍艦通航権を取り消させ、ロシアの南下政策はイギリスによって挫折したのです。
この間、1838年、イギリスはオスマン帝国と不平等条約を結び、南下政策を企てるロシアと利害が激しく対立する様に成りました。

 1853年から56年にかけて、ロシアとイギリス、フランス、オスマン帝国の間で発生した戦争がクリミア戦争です。
戦争のきっかけは、フランスがオスマン帝国から聖地イェルサレムの管理権を得たのに対抗して、ロシアがオスマン帝国に、オスマン帝国領土内のギリシア正教徒保護権を要求して、拒否された為でした。
 
 オスマン帝国は、現在のルーマニア、ブルガリア、セルビア等があるバルカン半島を支配していました。
この地域は、キリスト教のギリシア正教の信者が多数存在し、ロシアはギリシア正教徒の保護者である事を自認しており、保護権を要求しました。
保護権を前面に出すことで、バルカン半島への勢力拡大を画策し、オスマン帝国としては、ロシアが自国の領土に干渉してくる事は、当然拒否します。
ロシアの南下を阻止したいイギリスとフランスが、オスマン帝国と同盟を結び参戦します。
又、イタリア半島の小国サルディニア王国も、英仏側に立って参戦しました。

 主戦場が黒海に突き出たクリミア半島、特に、クリミア半島にあるロシアのセヴァストーポリ要塞の攻防戦は両軍共に多数の死傷者を出した激戦として有名です。

 この戦争は、産業革命によって工業化を進めつつあるイギリス・フランスと、遅れをとったロシアとの力の違いをはっきりと世界に示しました。
ロシアは兵力100万、しかも戦場は、自国若しくはその周辺、英仏は合わせて兵力7万、しかも、本国から遠く離れた戦場です。
これだけ見れば、ロシアが圧倒的に優勢な筈ですが、実際に戦闘が始まるとロシアは大苦戦を強いられ、1856年パリ条約で事実上敗北を認めました。
ロシア軍の装備はナポレオン戦争の時からほとんど進歩が無く、ロシア軍の大砲の着弾距離は、英仏軍の半分しかなかったと云います。
技術力の違いを見せ付けられ、更に、ロシアは戦場に武器弾薬糧食、兵員を輸送する為、荷馬車を使用しました。
道路は舗装されておらず、雨でも降ると道は泥濘で馬車は進めません。

 思う様に、戦場に物資が輸送できないロシア軍に対し、一方の英仏は、蒸気船で本国から物資を輸送し、港から戦場迄鉄道を敷設して、前線に武器弾薬を輸送しました。
部隊の駐屯地には水道も設置し、工業力の違いが格段に現れたのです。
本国から遠い英仏軍の方が、輸送が円滑、兵士への補給は順調なのは驚異です。

 又、ロシア軍の一般兵士や輸送の人夫は、農奴が徴発されて行われ、戦争に勝敗は彼らには無意味でした。
早く終わって無事に故国に帰りたいだけ、一方の英仏は、既に市民社会が成立している為、自分達が払った税金で行われている戦争の成り行きに注目しています。
イギリスの新聞社は、戦場に特派員を派遣して、毎日の戦況を報道しましたが、此れは、世界初の従軍記者です。
最新のニュースは、蒸気船や発明されて間もない電信で伝えられ、現代の報道の原型が、クリミア戦争で既に現れています。

続く・・・
2012/07/19

人類の軌跡その431:南下政策とツァーリズム①

<19世紀中頃のロシアその①>

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クリミア戦争 開戦 (1854年03月28日)

◎クリミア戦争

 ロシアは、19世紀半ばになっても、ツァーリズムと呼ばれる皇帝の専制政治が続き、自由主義思想は厳しく弾圧されていました。
ウィーン体制崩壊後のヨーロッパの政治の流れから、完全に取り残されているのですが、広大な領土と、強大な陸軍力でヨーロッパの国際関係の中で大きな位置を持ち続けます。

 ロシアは18世紀中頃から、南下政策と呼ばれる外交戦略を立て、ロシアの領土は広大ですが、内陸部が多く、僅かな海岸線は緯度が高い上、冬季には港が皆凍ってしまうのです。
海外貿易を推進する上でも、冬でも凍らない不凍港が是非とも欲しかったのです。
その為南へ南へと領土を拡大し、ロシアの南に位置する国がオスマン帝国です。
16世紀の最盛期には、東地中海を取り巻く大帝国として、ヨーロッパ諸国に脅威を与えていましたが、17世紀後半から衰退を始めます。

 19世紀に入ると、ギリシアが独立、エジプトも自立、そして、何度かの戦争で、ロシアに北方の領土を少しずつ削り取られていきます。
衰退のオスマン帝国に照準を合わせて、ロシア、イギリス、フランスがこの地域に勢力を拡大する機会を伺い始めます。
オスマン帝国を巡るヨーロッパ列国の利権争いが、19世紀の国際紛争の焦点で、これを東方問題と呼びます。

 さて、ロシアが不凍港を求めて南下政策を進めながら、目標としたのが黒海です。
オスマン帝国に勢力が存在する頃、黒海の周囲は総てオスマン帝国領でしたが、18世紀末エカチェリーナ2世の時代に、ロシアは黒海北岸のクリミア半島を獲得しました。
黒海は冬でも凍りません。
これで、不凍港を手に入れたのですが、大きな問題が横たわっています。
黒海にロシア船を浮かべる事ができても、地中海へ出なければ、外洋に出る事が出来ません。
ところが、黒海と地中海の間には、ボスフォラス海峡とダーダネルス海峡が存在しています。
ボスフォラス海峡は、オスマン帝国の首都イスタンブールに面する海で、重要な軍事的要所でも在り、オスマン帝国にとって宿敵ロシアの艦船が、この海峡を通過する為にはオスマン帝国から海峡の通航権を得なければ成りませんでした。

 ロシアは18世紀末以降もオスマン帝国と紛争を繰り返し、その度に両海峡の通航権を与えられ、再度停止されたりしています。
1829年以後、ロシアは商船の通航権を得て、小麦を大量に輸出するように成りますが、通航できるのは商船だけで、軍艦は許可されていませんでした。

 ところが、1831年から33年迄と、1839年から1840年の二回に渡ってエジプト・トルコ戦争が勃発し、この時にオスマン帝国は、ロシアに軍艦の通航を許可します。
エジプトは元よりオスマン帝国の領土ですが、ナポレオンのフランス軍に一時占領された後、総督のムハンマド・アリーが、オスマン帝国から事実上独立し、更に領土拡大を画策しておこした戦争が、エジプト・トルコ戦争です。

続く・・・
2012/07/18

人類の軌跡その430:統一国家の成立⑦

<ドイツ統一その④>

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伊藤博文 

◎同時代の出来事

 1860年代は、ドイツだけではなく、幾つかの国でも大きな転換期を迎えます。
1、1861年には、自由主義的改革を目指すロシアで農奴解放令発布。
2、1861年に、イタリアが統一されイタリア王国が成立。
3、アメリカ合衆国で南北戦争が始まるのも1861年。
4、日本で徳川幕府が大政奉還により倒れ、明治政府が成立したのが1868年。
5、1871年にドイツ帝国成立。

 1860年代に、中央集権的近代国家を目指した国は、やがて帝国主義国として他国に勢力を伸ばし、それに遅れた国や地域は植民地か半植民地に成りました。

 明治新政府は、国創りの参考にする為に、さかんに欧米の制度を吸収します。
明治憲法を制定する為に、伊藤博文が一番参考にした国がドイツで、国家建設の時期も殆ど同じ、封建的な分裂状態から中央集権国家を形成する状況も良く似ており、参考にしたのは当然でした。
伊藤はヨーロッパ各国の制度を調査するのですが、イギリスは議会政治が成熟していて一から始める日本の参考にならず、フランスは人民の力が強く手本にするには危険だと考えました。
一方ドイツは、状況も似ており、皇帝の権限が強い立憲君主制なので、天皇を中心とする国家を考えていた伊藤の構想に適合したのでしょう。

 伊藤はビスマルクにも面会し、このヨーロッパを代表する大政治家にかなり影響された様です。
伊藤が中心になって作った憲法は1889年、大日本帝国憲法として発布されます。

 統一後のビスマルクの課題は、ドイツ帝国の内政の整備で、文化闘争、社会主義鎮圧法、社会政策の3つです。
 
 文化闘争は、1871年から80年迄続くビスマルクによるカトリック勢力への弾圧の事を云います。南ドイツに多いカトリック教徒が、中央党を結成し、ビスマルクの政策に抵抗したのが原因です。

 社会主義鎮圧法、1878年に制定され、社会主義運動や労働運動を弾圧する法律です。
社会主義政党である、ドイツ社会主義労働者党が勢力を伸ばして事に対抗した法律です。
 
 政策は、労働者など民衆の不満を和らげる為に行われた政策、具体的には、災害保険、疾病保険、養老保険等を実施しました。

 統一以後のドイツは急速に工業化がすすみ、イギリス、フランスに続く大国に成長していきました。

◎オーストリアの動向

 1866年の普墺戦争で敗北したオーストリアは、北ドイツ連邦から排除され、翌1867年にオーストリア=ハンガリー帝国として国を再編成します。
 
 ハンガリーに住むマジャール人は、以前からオーストリアからの独立を求めており、このマジャール人の要求を受け入れる形で、オーストリアはマジャール人の自治を認めハンガリー王国が成立します。
但し、ハンガリー国王はオーストリア皇帝が兼ねる事に成ります。
これでハンガリーはオーストリアと対等の国と成り、国名がオーストリア=ハンガリー帝国と成りました。

 オーストリア支配下には、現在のチェコやスロヴァキア等スラブ系民族が住む地域が数多く存在し、これ等のスラブ系住民が、マジャール人政策に不満を持つのも当然で、これ以後、スラブ系民族の自治権要求が活発化します。
スラブ系民族は、オスマン帝国にも多く住んでおり、国境を越えてスラブ人どうしの連帯意識、政治意識が高まってきました。
これを、汎=スラブ主義と云います。

 スラブ人の国であるロシアが、この汎=スラブ主義を利用して、自国の影響力をオーストリアやオスマン帝国に強めようと考えるのは、南下政策からして当然の成り行きでした。
この汎=スラブ主義がやがてヨーロッパ政治の重大問題に発展していく事になります。

ドイツの統一終わり・・・

2012/07/17

人類の軌跡その429:統一国家の成立⑥

<ドイツ統一その③>

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ヴェルサイユ宮殿に於ける戴冠式

◎真の統一に向けて

 北ドイツ連邦を名実共に統一し、更に北ドイツ連邦に参加していない南ドイツの領邦を取り込む為に、ビスマルクはもう一度戦争を考えます。
より強大な外部の敵と戦う事によって、不統一な内部をまとめようと云う考えです。
その相手がフランスなのです。

 フランスは、ナポレオン3世の統治下で、ビスマルクはフランスと開戦する口実を作る為に、外交関係に摩擦を生じさせました。
ビスマルクは、国王の電報の改竄まで行い、ドイツ全土にフランスに対する敵愾心を煽ります。
終にナポレオン3世は、ビスマルクの挑発に乗り、1870年、フランスとドイツの戦争が始まります。ドイツとの戦争ですが、実質的にドイツの中心はプロイセンですから、この戦争を普仏戦争と呼びます。
 
 戦争が始まると、バイエルン等北ドイツ連邦に参加していない領邦もドイツ=プロイセン軍と共に戦闘に参加しました。
戦争自体は、ドイツ軍の連戦連勝でフランス領内に攻め込み、ナポレオン3世は、1世同様自ら指揮を執る為に前線に向かいます。
しかしながら、ナポレオン3世には、将軍としての経験も1世の様なカリスマも無く、セダンで、ドイツ軍に包囲されて、8万のフランス軍と共に降伏し、捕虜になってしまいました。
皇帝自身が捕虜に成り、フランス軍は為す術が無く、ドイツ軍はそのまま進軍を続けてパリを包囲し、1871年1月、ナポレオン3世が捕虜に成った後パリで成立したフランスの臨時政府は、ドイツに降伏し、普仏戦争は終結しました。

 僅か半年間の戦争でしたが、この戦争でドイツはプロイセンを中心に結束し、1871年1月、ドイツ帝国の成立が宣言されました。
プロイセン国王ヴィルヘルム1世が、初代ドイツ皇帝に即位し、その戴冠式が行われたのが、ヴェルサイユ宮殿です。
ヴェルサイユはフランス・ブルボン朝の宮殿で在り、伝統あるフランスの宮殿で戴冠式を行う事自体、フランス人にとってはこの上のない侮辱です。
即位式が挙行された時、ドイツ軍はまだパリ包囲中で、戦争が継続しているのです。

 この戴冠式の絵は有名で、左側の壇上に立っているのがヴィルヘルム1世、右側に白い服を着て目立つ人物が帝国宰相になったビスマルク、臣下でありながら、絵全体の中心に居ます。
彼の果たした役割と立場を象徴していると思います。

 ドイツは、戦争に勝利しましたが、フランスを支配し統治する計画は当初から存在していません。飽く迄、戦争を通じてドイツ統一を完成する事が目的ですから、講和条約を結び、戦後処理が終了すると、フランスから撤退しました。
講和条約で、ドイツはフランスから多額の賠償金と、アルザス・ロレーヌ地方を獲得し、アルザス・ロレーヌを奪われた事は、フランスのドイツに対する深い恨みの元となり、この地方の帰属問題は第二次大戦迄、長く尾を引く事に成りました。

 ドイツ帝国の政治制度は立憲君主制、皇帝の権限は大きく、それに比較して、議会の権限はあまり大きく無く、連邦制は維持され、各領邦は残地されています。
連邦制の伝統は根強く、現在でもドイツの正式名称はドイツ「連邦」共和国といい、かつての領邦である州の権限が強いようです。
帝国政府の要職は、ユンカー身分の者が占めました。
ユンカーは、プロイセンの地主貴族で、ビスマルクもユンカー出身、彼等がドイツ帝国を事実上仕切っているのです。

 オーストリアは、ドイツ帝国から分離され、全く別の国家になります。
今でもオーストリアはドイツとは別の国ですが、オーストリア人はドイツ民族で言語もドイツ語なのです。

続く・・・
2012/07/16

人類の軌跡その428:統一国家の成立⑤

<ドイツ統一その②>

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ヴィルヘルム1世とビスマルク

◎ドイツの統一②

 プロイセンは軍備を増強しますが、それでもオーストリアに勝てるか否かは、ビスマルクにとって心配でした。
その様な時、1864年にドイツ連邦とデンマークの間で、領土紛争が起こります。
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両地方の帰属を巡って、デンマークとドイツ連邦諸国が開戦しました。此れをデンマーク戦争と云います。

 デンマーク戦争が勃発すると、ビスマルクはオーストリアを誘って共同出兵し、デンマークからシュレスヴィヒ・ホルシュタインを割譲し、プロイセンとオーストリアで分割統治を主張します。
両国が協力すればデンマークは敵では無く、オーストリアは、要請に従って出兵しました。
結果は、戦争に勝利して、シュレスヴィヒはプロイセンが、ホルシュタインはオーストリアが獲得します。
 
 ビスマルクが、デンマーク戦争でオーストリアに出兵を要請した真の目的は、ドイツ統一の為にオーストリアと将来戦うのは確実ですが。その前にオーストリア軍の実力を知っておきたかったのです。戦争は博打ではありません。
勝算が皆目検討がつかない場合に、開戦では、首相として失格と思います。
勝利を確実にする為に、プロイセンは敵を探りました。
共同作戦を行えば、手に取る様にオーストリア軍の内部事情が一目瞭然で、装備、指揮系統、指揮官の能力、兵士の士気、これ等が総て判ってしまう。
そのための共同出兵でした。
オーストリアは、ビスマルクの姦計を知らず、領土を拡大し、その間にビスマルクは、オーストリア軍の実態を掌握しました。
装備から用兵まで、ナポレオン戦争時代から殆ど進歩しておらず、これなら勝利できると考えたのです。

 終に1866年、オーストリアと戦争に踏み切ります。
普墺戦争の始まりですが、僅か7週間で勝負がつき、プロイセンの圧勝でした。
 
 この戦争で、プロイセン軍は実戦で初めて後装式ライフル銃を使用しました。
弾丸を銃の後ろから装填する方式を後装式と云い、腹ばいになったまま弾丸を装填できるので、攻撃には有利です。
後装式ライフル銃の存在は、ヨーロッパ各国に知られているのですが、実戦に使えるか疑問視されており、どの国も正式装備に成っていませんでした。
プロイセンだけが、正式に軍隊に採用していたのですが、一方のオーストリア軍は先込め式を使用していました。
 
 新兵器を次々に取り入れるのがプロイセン軍の強さの源で、鉄道や電信等もフル活用して戦争にあたりました。
単なる軍事力の違いでは無く、工業力や国の姿勢が根本的に違っていたのです。

 勝利の後、プロイセンはドイツ連邦を解体、翌1867年、オーストリアを排除して北ドイツ連邦を結成しました。
この北ドイツ連邦には、22の領邦が参加した連邦で、事実上プロイセンが支配します。
オーストリアに近い立場をとる南ドイツの幾つかの領邦は、これに加わっておらず、まだ完全なドイツ統一とは言えません。
又、北ドイツ連邦も連邦国家の為、各領邦国家が残存し、軍事的な圧力で統一を進めるプロイセンの方法に納得している訳では無く、北ドイツ連邦の中身は、真の統一を欠いていました。

続く・・・
2012/07/14

人類の軌跡その427:統一国家の成立④

<ドイツ統一その①>

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ケーニヒスベルク城に於けるヴィルヘルム1世戴冠式

◎ドイツの統一

 ドイツでは、ナポレオンによってつくられたライン同盟が、1815年ウィーン会議で解体され、ドイツ連邦と成りました。
35の君主国と4つの自由市によって構成され、統一国家としての実態は在りません。

 これに対して、民族主義の立場からひとつのドイツを求める学生や市民の運動が起きてくるのです。現実問題としても、35の国に分かれている事は非常に不都合が多いものでした。
経済的発展に伴い、ドイツはひとつに結びついて行きますが、例えばミュンヘンからベルリン迄、旅するだけで、幾つ者国境を通らねばならず、商品を運べば、国境を通過する度に関税が掛かるのです。
ドイツ経済が発展して行く為には、ドイツの統一が是非とも必要な事は、誰の目にも明らかでした。

 1833年、プロイセンが中心となってドイツ関税同盟が結成され、加盟国間で関税を撤廃し、自由貿易による経済発展を目指したものです。
プロイセンは国が二つの地域に分かれ、ベルリン含む東の領土と、ライン川沿いの西の領土が存在し、その中間には別の国が存在しています。
プロイセンを東西に往来するだけで、他国を通らなくてはならず、関税同盟を必要とした理由は良く理解できます。
又、プロイセンはドイツ連邦の中ではオーストリアに次ぐ第二の大国で、他の小国を従わせるだけの実力が有り、何時か自国が中心と成ってドイツを統一したいと考えていました。
その様な背景から1848年の二月革命時に、フランクフルト国民議会によるドイツ皇帝推戴を拒否したのでした。

 イタリア王国が成立と同じ1861年に、新しいプロイセン国王ヴィルヘルム1世が即位しました。新国王は、ドイツ統一に乗り出し、サルディニアのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が、カヴールを首相に指名した様に、ヴィルヘルム1世が、ドイツ統一の為に首相に任命した人物がビスマスクでした。

 ビスマルクがドイツ統一の為に採用した有名な政策が「鉄血政策」。
鉄は兵器、血は兵士を表し、軍事力を強化して、征服によってドイツを統一する事を宣言し、着々と軍備を整えて行きます。
プロイセンが武力によるドイツ統一を考える時、障害になるのがオーストリアです。
オーストリアはドイツ連邦を構成する最大の国で在りながら、オーストリア帝国として、ハンガリー、ベーメン等他民族をも支配している大国で在り、更にこれ等地域を切り離す事は無いと宣言していました。
従って、ドイツを統一する為にはオーストリアを排除しなければならず、オーストリアと戦って勝利できなければ、ドイツ統一は不可能なのです。

続く・・・
2012/07/13

人類の軌跡その426:統一国家の成立③

<イタリアの統一その③>

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アスプロモンテのガリバルディ

◎ジョゼッペ・ガリバルディの登場

 ガリバルディは、青年イタリアのメンバーとして以前から統一運動で活躍していた人物です。
1860年5月6日の事、彼は、全く個人的に義勇兵約1000人を集めて、2隻の船でサルディニアの港からシチリア島に向けて出発しました。
イタリア半島の南部からローマに向かって進軍し、イタリア統一を完成させるのが目的です。
彼の部隊は、そのメンバーの数から千人隊、若しくはガリバルディの赤いシャツから赤シャツ隊と呼ばれています。

 シチリア島はイタリア半島の南半分にあるナポリ王国の領土で、この時ナポリの支配に抵抗する農民反乱が起きていました。
シチリアに上陸したガリバルディと千人隊は、農民達の支援を受けてナポリ王国軍を敗退させ、島を占領し、その勢いで、対岸であるイタリア半島先端に上陸、半島を北上し、ナポリ王国を滅ぼしてしまいました。
ガリバルディは、更に北上しローマ教皇領に攻め込もうとします。

 イタリア半島の中央部は、フランク王国のピピン以来ローマ教皇領と成っており、特殊な場所です。ローマ教皇領の為、単純に武力で征服する訳には行かず、ローマ教会の信者は、イタリア人だけでなく全ヨーロッパに存在しており、ローマに対しては特別な感情を持っていますから、ここを武力征服してローマ教皇を敵に回せば、国際問題に発展しかねません。
事実、1860年のこの時点では、フランス軍がローマに駐留していますから、サルディニア王国も、ローマ教皇領には手が出せませんでした。
教皇領の存在がイタリア統一の大きな障害になっていたのです。

 ガリバルディがローマに進軍して、フランス軍と戦闘に成った場合を苦慮した人物カヴールです。
フランスはイタリア統一戦争から後退していますが、ローマで武力衝突すれば、逆に統一を潰す方向で軍事介入してくる可能性があります。
カヴールは、サルディニア国王ヴィットリーオ・エマヌエーレ2世自身に出陣を願い、ガリバルディを止める為、サルディニア軍を率いてイタリア半島を南下します。
 
 10月26日、ヴィットリーオ・エマヌエーレ2世は、ナポリの北にあるテアーノでガリバルディと会見します。
ガリバルディは、この直前におこなわれた住民投票で、ナポリ王国のサルディニア王国編入が決まったことを王に報告し、自分が占領した土地を王に献上しました。
ここでイタリア半島の統一がほぼ完成した訳ですから、二人の会見は劇的なものとして、幾つかの絵に描かれています。

 実際には、この場でガリバルディはローマ進撃の許可を得ようとするのですが、王はこれを禁止し、彼の義勇軍をサルディニア正規軍に編入されてしまい、ガリバルディにとっては失意の会見だったと思われます。
此の後、ガリバルディは政治の表舞台を去り、カプレラ島で農業を営みながら余生を送りました。
ヴィットリーオ・エマヌエーレ2世にとって、青年イタリア出身で民衆にも人望のあるガリバルディは、危険人物に思えたようです。
更に青年イタリアは、基本的には共和政を目指していましたから当然です。

 ガリバルディの活躍で、ローマ教皇領とオーストリア支配下のヴェネツィアを除き、イタリアの大部分がサルディニア王国によって統一され、ヴィットリーオ・エマヌエーレ2世は、1861年イタリア王国の成立を宣言し、初代イタリア国王に即位しました。
イタリアという国家が生まれたのは、此の時です。

 此の後、ヴェネツィアは1866年、教皇領は1870年にイタリア王国の領土に編入されました。
1870年以降にローマがイタリアの首都となりますが、教皇領は完全に消滅した訳ではなく、小さいながらも現存します。
ローマ市内のローマ教皇庁の建物がある場所が其れで、バチカン市国と呼ばれています。

 イタリアの統一に話を戻すと、ヴェネツィア編入以後もオーストリアとの領土問題は残ります。
これを「未回収のイタリア」と云い、オーストリア領のティロルとトリエステがイタリアの領土であるとして返還を要求し続けたのですが、この問題は第一次世界大戦迄持ち越されます。

 政治的にイタリアは統一されましたが、長い間の分裂で北と南は経済的には大きな格差ができていました。
北イタリアは、工業が発展して豊か、南イタリアは農業中心で貧しい農村が多く、統一後も格差は埋まらず、現在迄続く問題と成っています。

 南イタリア、とくにシチリア島からは、多数の農民が豊かな生活を夢見てアメリカへ渡りました。アメリカ映画に登場するマフィアは、イタリア移民が多く、夢を持ってアメリカに来たものの、既にイギリス系アメリカ人が政治経済の主流であり、英語も満足に話せないイタリア移民は、アメリカ社会の底辺から出発しなければ成りませんでした。
その様な背景から、同郷出身者同士で結束し、犯罪に走ったのがマフィアの原型なのです。

イタリアの統一終わり・・・
2012/07/12

人類の軌跡その425:統一国家の成立②

<イタリアの統一その②>

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Camillo Benso, Conte di Cavour:1810年8月10日 - 1861年6月6日

◎サルディニア王国②

 では、国力で勝るオーストリアに、対抗する手段はあるのか?

 フランスと同盟を結び、オーストリア勢力に対抗する事、そこでカヴールは、数多の外交作戦を駆使してフランスに接近しました。
フランスは1849年以降、ルイ・ナポレオンが支配者です。
最初大統領に当選しますが、やがて皇帝に即位してナポレオン3世と名のりました。
カヴールは、ナポレオン3世の好意を得る為に、1853年のクリミア戦争に1万5千のサルディニア軍を派遣し、ナポレオン3世から見れば、サルディニアの様な小国が援軍を差し向けた事に感謝します。
当然イギリスもサルディニア王国に好意を持ち、クリミア戦争への参戦は、サルディニア王国にとっては大きな負担でしたが、イギリス・フランスの二大国に接近できたことは、大きな成果でした。
カヴールは、クリミア半島での戦争がイタリア統一の第一歩だと激励して、兵士を送り出したそうです。

 クリミア戦争で恩を売ったカヴールは、ついにナポレオン3世と同盟を結ぶ事に成功しました。
オーストリアと戦争した場合にフランスが援軍を派遣する事と成り、交換条件として、サルディニアはフランス国境に近いサヴォイア、ニースという二つの地方をフランスに割譲するという条件付きでした。

 1859年、サルディニア王国はイタリア統一戦争を開始しました。
サルディニア軍は東隣のロンバルディアに攻め込みますが、ここにはオーストリア軍が駐屯しており、更に援軍も増援される為、この戦争は、事実上オーストリアとの戦争です。
オーストリア軍22万、対するサルディニア軍は7万、フランス軍は12万8000、フランスの援助が無ければ勝負に成りません。

 サルディニア・フランス連合軍はオーストリア軍を破り、ロンバルディアはサルディニアに併合されます。
これに呼応して、パルマ、モデナ、トスカナ各国で反オーストリアの反乱が起こり、これ等の国々では、住民投票によって、サルディニア王国への編入が決まります。
順調に統一が進行するイタリアに、ナポレオン3世は、脅威を感じました。
簡単にサルディニア王国が、領土を拡大するとは考えておらず、フランスの南にいきなり巨大な統一国家が存在する事は得策ではないと、考えたナポレオン3世は、オーストリアと単独で講和条約を結びイタリアから撤退しました。
フランスの援助がなければ、戦争遂行は不可能で、ヴェネツィアを除く北部イタリアの併合に留まり、サルディニアの統一戦争は頓挫しました。

続く・・・
2012/07/11

人類の軌跡その424:統一国家の成立①

<イタリアの統一その①>

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ヴィットリーオ・エマヌエーレ2世

◎サルディニア王国

 イタリアは、統一国家が形成されず、中世以来分裂状態が続いていましたが、19世紀になると、イタリア人としての民族意識が高まり、統一運動が活発になって来ました。

 ウィーン体制時代には、カルボナリ党、マッツィーニの青年イタリア党が、独立・統一の為に活動をしていました。
ここで独立の意味は、イタリアに散在する小国は、神聖ローマ帝国時代以来ドイツの影響下に置かれており、19世紀においても、オーストリア・ハプスブルク家に従属している国が多かったのです。
ヴェネツィアやミラノにはオーストリア軍が駐屯し、反オーストリア的な政治運動に圧力を掛け、自由主義的運動や統一運動が活発化すると、必ずオーストリア軍が出動して弾圧する事態が続いていたのです。
又、フランスもイタリアに大きな政治勢力が出現する事を嫌い、イタリアに干渉する事が多く在りました。

 1848年の二月革命時に、イタリア各地で独立・統一運動が盛り上がりを見せますが、この時もオーストリアとフランスの干渉で、総ての運動が失敗しています。
ローマ共和国が成立した時は、フランスが軍隊を派遣して鎮圧し、以後ローマにはフランス軍が駐屯しました。

 1849年以後、イタリア統一の中心となるのが、サルディニア王国で、この国はフランスと国境を接する半島北西部とサルディニア島を領土に持ち、イタリアの中では比較的大きな国でした。
ナポレオン1世時代には、フランスに支配されて封建的な古い制度は消滅しており、イタリアの中では、最も近代的な国でした。

 1848年にはオーストリア軍と戦い、領土拡大を図りましたが敗北。
しかし、此の頃からサルディニア王国が中心と成りイタリアを統一する事が、一番現実的であると多くのイタリア人は考えていたのでした。
1849年、サルディニア王国に新しい王が即位します。
ヴィットリーオ・エマヌエーレ2世、彼は、自由主義的改革による近代化とイタリア統一を目指します。
その為にカヴールが、首相に任命されました。
彼はイギリスの議会を見学した事もある、自由主義的立場の政治家です。
カヴールは、イタリアからオーストリア軍を排除しなければ統一は絶対に不可能だと考えました。
しかし、サルディニア王国の軍事力ではオーストリア軍と戦って勝てる見込みは在りません。

続く・・・
2012/07/10

人類の軌跡その423:産業革命と社会運動⑨

<二月革命その⑤>

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フランクフルト国民議会

◎フランクフルト国民議会

 ドイツでは、1815年、ウィーン会議によってドイツ連邦が結成されます。
これは、統一国家ではなく,35の領邦国家と4つの都市による連邦で、事実上ドイツは分裂状態です。
当時、イギリス、フランスは、中央集権的な国家体制を、既に形成し政治経済両面で発展をしていました。
分裂状態のままでは、ますますドイツが遅れをとる事は、明白です。
従って、ドイツ民族による統一ドイツを建設する事は、多くのドイツ知識人の共通理解でした。
1848年3月、ドイツ各地で自由主義民族主義運動が盛り上がる中で、各領邦の代表がフランクフルトに集まり、統一についての議会が開かれたのです。

 グリム童話で有名なグリム兄弟の兄、ヤコブ=グリムも、議員に選出されてフランクフルトに来ています。
グリム童話を単なる子供向けの童話と思っている方も多いと思いますが、グリム兄弟には別の動機が在り、彼等は、政治的には分裂しているが、ドイツ民族は単一である事を広く訴えたかったのです。その為に、ドイツ各地の民話を集めて、民族の財産として出版しました。
彼らの志は、ドイツで知らぬ者は存在せず、グリムの兄は議員に成っています。
因みに、彼らの本業は大学教授でした。

 さて、ドイツを統一する為に一番単純簡単な方法は、ドイツ連邦の中で有力な領邦の君主をドイツ皇帝に推戴して、そのもとにドイツをひとつにまとめる事です。
統一ドイツの中心に成る事が可能な候補の領邦国家が二つ存在しています。
その一つがオーストリアで、もう一方がプロイセンです。
オーストリア中心の統一ドイツを目指す思想が大ドイツ主義、プロイセン中心を小ドイツ主義と云い、この二つがフランクフルト国民議会では対立しました。

 オーストリアは確かに大国で、ハプスブルグ家は、嘗て神聖ローマ皇帝でもあった名門中の名門です。
ただ、問題点も多く、オーストリアの領土は広大で、ハンガリーやベーメンなど、ドイツ人以外の民族の住む地域も支配しており、これらの地域は、ドイツ連邦の領域には含まれていないのです。
オーストリアは多民族国家を形成しており、ドイツ連邦に含まれている部分と、そうでない部分が存在していました。
以上の事実から、ドイツ民族国家を建設するにあたり、オーストリアを中心にするには無理が有ったのです。

 最終的に、小ドイツ主義が勝利して、フランクフルト国民議会は、プロイセン国王をドイツ皇帝に推戴しますが、プロイセン王は、此れを拒否します。
自由主義者が集まった議会の推戴で、皇帝に即位しても、国民議会の制約を受け、その様な皇帝は、プロイセン王にとっては何の魅力も在りませんでした。
こうして、プロイセン国王に拒否され、フランクフルト国民議会は解散し、プロイセンはこれから約20年後、軍事力によってドイツを統一する事になります。

2月革命終わり・・・
2012/07/09

人類の軌跡その422:産業革命と社会運動⑧

<二月革命その④>

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ドイツ3月革命

◎諸国民の春

 フランスで成功した二月革命は、ヨーロッパ各地の自由主義運動、民族主義運動を刺激し、革命運動の連鎖がはじまり、これを「諸国民の春」と呼びます。

 1848年3月、オーストリアのウィーンで民衆が蜂起、「ウィーン三月革命」です。
ウィーン体制の大立て者メッテルニヒがロンドンに亡命して、ウィーン体制は崩壊、オーストリアの農奴制は廃止。
 
 同じく、3月、プロイセンで「ベルリン三月革命」、プロイセン国王は、国民に憲法制定を約束し、自由主義内閣が成立しました。
 
 オーストリアの支配下にあったハンガリーでは、コシュートら民族主義者の指導で独立運動が展開
し、同じく、オーストリア支配下のベーメンでは、チェク人が自治権獲得に成功、ポーランドでも独立運動が活発化します。

 イギリスでは、チャーチスト運動が盛り上がり、500万人分の署名を議会に提出しました。
中世以来分裂状態が続いていたイタリアでは、サルディニア王国がイタリア統一運動に乗り出し、此れとは別に、青年イタリアのマッツィーニは、統一を目指しローマ共和国を樹立します。
 
 同じく領邦に分裂していたドイツでも統一への気運が盛り上がり、各領邦の代表がフランクフルトに集まり国民議会(フランクフルト国民議会)を開き、ここでは、ドイツの統一と憲法制定について討議されました。

 こうして列挙すると1848年には、ヨーロッパ各地で、自由主義、民族主義の運動が激動している事がわかります。

 ただ、フランスで労働者による六月蜂起が鎮圧されたのと歩調を合わせるように、各国の運動も徐々に後退していきました。
ハンガリーとポーランドの独立運動はロシアの出兵で失敗、サルディニア王国のイタリア統一運動は、オーストリアの介入で失敗、ローマ共和国の試みもフランスの介入で失敗、チャーチスト運動も、政府の圧力によって失敗、フランクフルト国民議会も成果なく解散します。
失敗する運動もありますが、1848年の「諸国民の春」によって、ウィーン体制は過去のものと成りました。

続く・・・

2012/07/07

七夕のお話

<七夕の由来>

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 今日は、七夕。
何時もの歴史関係のお話は、お休みにします。
私の住んでいる街では、今年、七夕飾りを殆んど見かける事が在りません。
しかも、梅雨の末期症状で、天候の移り変わりが激しく、星の姿も見えません。

 さて今でも、時々七夕に成ると、本当に星が接近するのですかと、尋ねられ説明に困る事があります。
こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られ、織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。

 夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルで、夏彦もまた働き者で、天帝は二人の結婚を認め、目出度く夫婦と成りましたが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなりました。
この為天帝は怒り、2人を天の川を隔てて引き離しましたが、しかし年に1度、7月7日の七夕の日だけは会うことが許されたのでした。
雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡る事が出来ませんが、其の時は何処からか無数のカササギが遣って来て、天の川に自分の体で橋を架けてくれると云います。(以上ウィッキペディアより抜粋)

 さて日本古来の年中行事は、1年を半分に分けた時、1月からの行事と7月からの行事で、似通ったものが2回繰り返されると云われます。
例えば7月15日のお盆(新盆)と1月15日の小正月、どちらも祖霊祭に原義が在り、半年を周期に年月の流れを取られていた為と云われています。
では7月7日の七夕は、1月の如何なる行事に似ているでしょうか?
それは、若水汲みになります。

 吉成直樹『俗信のコスモロジー』(白水社1996年)に沿って紹介すると、高知県等での七夕に関する俗信の調査では、「里芋の葉にたまった水を集めて顔を洗うと肌が綺麗になる」「その水でイボや傷・吹き出物につけると直る」と云った事が言われます。
他には「その水で墨をすって字を書くと字が上手なる」と云うものも在りますが、之はこの日に技芸の上達を祈るという中国の乞巧奠の影響だろうということです。
里芋の葉の水とは、天から落ちてきた水だと考えられました。
そして肌や皮膚に関して人が若返るという信仰は、盆に備える為に禊で清めるというものとは異質のものだろうと云います。
皮膚が若返るとは、脱皮を意味するもので、水神=蛇を模したもので、その水神は天に住んでいるのだという信仰なのです。

 同じ調査では、6日の晩に14歳以上の未婚の少女たちが一つの宿に集まって、夜を通して、苧(お)を績(う)む行事が在ったと報告され、嘗ては全県で同様の行事が在ったと云います。
「苧を績む」とは麻の繊維から麻糸を作る事です。
辞書によれば「苧績み宿」「糸宿」ともいい「娘宿の一。夜間、娘達が集まって麻糸を紡いだり糸引きの仕事をしたりする集会所。糸引き宿。よなべ宿。」(大辞泉yahoo版)と説明され、全国的な民俗だった様です。
機織りについて糸を績む事と類似の行為と見て良いと思います。

 七夕とは、神を祭る棚機姫(たなばたつめ)と呼ばれる女性が、水辺の棚の上で、機を織りながら、神の来訪を待つ神事だと云われ、其れは選ばれた特別の女性の様なイメージなのですが、村の総ての少女が集団で行なってきた事でした。

 七夕の伝説が一人の美しい女性の物語と成ったのは、物語だからそう成ったと云えばそれまでですが、神に選ばれたと云う結果から解釈された物語なのかもしれません。
神に選ばれたとは、毎年の糸引きや神祭りを続ける事によって誰もが結婚の資格を得た事を意味しているのでしょう。
未だ学校の無かった時代ですから、娘宿では機織等の他にも学ばねばならない事柄は沢山在り、或は春先に、日中に外へ出て若菜を摘んで自炊したり、様々な経験をする処が娘宿だった様です。

おしまい・・・

2012/07/06

人類の軌跡その421:産業革命と社会運動⑦

<二月革命その③>

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◎二月革命

 労働者階級と社会主義思想が発展しつつある中、19世紀前半のヨーロッパの政治状況は貴族階級による反動的政治が続いています。
ところが、1848年フランスで二月革命が勃発します。

 フランスでは、1830年の七月革命以後、銀行家等の少数の大資本家と国王ルイ・フィリップによる七月王政が続いていました。
有権者は人口の1%で、資本家の大多数である中小資本家は政権に参加する事ができず、労働者も当然参政権はなく、当初から政府に対する不満は大きなものでした。
1846年には凶作、1847年には不況と、国民生活が悪化する中で、参政権拡大を要求する運動も活発化するのですが、これに対して、首相ギゾーは、「働け、そして金持ちになれ。そうすれば有権者になれるだろう。」等の発言を繰り返しました。
 
 ついに、1848年2月、パリ市民が武装蜂起し、国王ルイ・フィリップは退位、亡命しました。

 国王亡命後、臨時政府が組織され、この政府は、名前の通り臨時の政府です。
政府の中核は、参政権拡大を求めていた資本家層ですが、二月革命を成功に導いた民衆・労働者階級の勢力も無視できず、社会主義者のルイ・ブランを政府に参加させる等、労働者階級に対する配慮も在りました。
革命直後は、どのグループが政府の主導権を握るか流動的で、寄り合い所帯の政府が作られたのです。
ただ、もやは、国王は不要であると云う点では、意見は一致し、二月革命以後のフランスの政治体制が、第二共和政と成ります。

 臨時政府は、自由主義的政策を推進しました。
男子普通選挙、出版言論の自由を認め、ルイ・ブランが中心と成り、10時間労働制を制定し労働時間の短縮も行いました。
臨時政府の施策の中で、最も有名なものが、国立作業所の設立で、ルイ・ブランが国立工場の経営というプランを持っていた事は、既に記述しましたが、これを具体化したわけです。

 ところが、いきなり工場を建設できる訳は無く、国立作業所では、登録した労働者に公共土木作業をさせて賃金を支払いました。
現実には、失業対策事業になってしまい、失業者の間で、国立作業所に登録すれば仕事が貰えると云う評判が広がり、登録者は急激に増加しました。
3月には1500人、4月には6万6000人、5月には10万人に迄膨れ上がり、10万人も労働者が集まっても、それに見合う仕事は存在しませんが、政府は仕事がなくても登録者には、賃金を支払いました。
当然、これは政府の財政を圧迫し、6月、臨時政府は国立作業所の廃止を決定します。
此の頃には、ルイ・ブランは政府の中で完全に孤立していました。
いよいよ臨時政府での中で、資本家が主導権を握る事がはっきりして来ます。

 労働者の要求を切り捨てる臨時政府の方針に反対して、パリ民衆が武装蜂起を起こしました。
これを六月蜂起と云い、臨時政府は、軍隊を出動させて、徹底的にこれを鎮圧しました。
死者、逮捕者共に1万人以上と云われ、ルイ・ブランはイギリスに亡命し、10時間労働制も廃止されてしまいました。

 労働者の政治的要求は潰されましたが、フランスは、二月革命によって、貴族の時代が完全に終わりを告げ、産業資本家など中産市民階級を中心とする政治体制が定着していきます。

 此の後、12月に大統領選挙が実施され、臨時政府はその役割を終えました。
この大統領選挙で当選した人物が、ルイ・ナポレオン、名前から推測されますが、ナポレオン1世の親族で、甥に当たる人物です。
ルイ・ナポレオンは1848年12月に大統領に当選して以後、1870年迄フランスを支配する事に成ります。

続く・・・

2012/07/05

人類の軌跡その420:産業革命と社会運動⑥

<二月革命その②>

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カール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx)

◎社会主義思想②

 しかしながら、この成功は長くは続きませんでした。
オーウェンの企業運営に感激して、良く働いていた労働者も、暫くする内に、その待遇の良さに慣れて、当たり前の様に思ってきます。
素晴らしい事も、日常に成ってしまえば感激は無くなり、やがて、オーウェンの工場の労働生産性も他の工場と変らなくなり、福利厚生に出費している分だけ負債が超過し、工場は潰れてしまいました。

 オーウェンは、失敗の原因を、他の業者との競争に有る為と考え、競争の無い所で運営すればとの発想から、アメリカ・インディアナ州に、私財を投じて自給自足を目指した、農場や工場のある共同体ニューハーモニーを建設しますが、これも失敗。
最終的には総て試みは失敗に終わるのですが、彼のユニークなその試みは、後の工場法制定の基礎と成りました。

 オーウェンの試みは、資本家個人の努力で問題を解決しようというものでしたが、社会を変えることで労働者の状態を改善しようとする思想も生まれます。

2、フーリエ(フランス1772年~1837年)

 フーリエは、少年時代にマルセイユの米穀問屋に奉公していた事が在り、その時に、主人の命令で、腐った米を海に捨てさせられました。
米が腐った理由は、値上がりを待って倉庫に寝かせた結果でした。
食べられるものを、儲けの為に売らず、挙げ句の果ては、腐らせて廃棄する。
この様な利潤追求に、必然的につきまとう不合理に疑問を持った事が、彼を社会問題に目に対して関心を持たせた根源でした。

 フーリエは、雇う者も雇われる者も無く、競争も無い社会を作る為には、自給自足の共同体しかないと考えました。
共同体を目指すところは、オーウェンと似ています。

3、ルイ・ブラン(フランス1811年~1882年)

 同じ社会主義でありながら、フーリエ等とは、違う発想をします。
不合理な競争を無くし、労働者を保護する為には、国家が生産を統制すればよいと考えました。
国が工場を経営すれば、競争に巻き込まれる事も無く、労働者を搾取する必要が無くなると考えたのでした。
後に、ルイ・ブランは、フランスの大臣と成りこの政策を実行します。

4、プルードン(フランス1809年~1865年)

 彼は無政府主義です。
政府は権力者である金持ちの味方で在り、その様な政府は存在せずとも、協同組合が生産を管理すれば社会は成り立って行けると考えました。
彼の有名な言葉で「財産とは何か?窃盗である。」があります。
金持ちが金を持っているのは、労働者階級から搾取した結果であり、搾取の結果蓄えた私有財産を否定します。

 この様な過激な発想が生まれるのは何故なのでしょう?
私達は、当たり前の事として受け入れていますが、当時の社会主義者は、貧富の差が生じる事自体がそもそも間違っていると考え、働いている労働者が貧しく、働かない資本家が豊かなのはおかしいとのです。

 理想社会の追究は、オーウェンの様な資本家個人の良心の問題から出発して、経済問題、そして国家の在り方の問題へと、より広く深く成って行きます。

◎社会主義思想の集大成、カール・マルクス(1818年~1883年):フリードリッヒ・エンゲルス(1820年~1895年)

 共にドイツ出身ですが、活動したのは主にロンドン。
マルクスが主で、エンゲルスが従ですが、主著は二人の共同作業です。
『共産党宣言』『資本論』は有名な書物で、『共産党宣言』の最後の言葉、「万国の労働者、団結せよ!」は、更に有名です。
現在でも、北京天安門広場前に位置する、紫禁城の城壁には、このスローガンが毛沢東の肖像とともに掲げられています。

 彼等は、資本主義経済の分析から始まり、国家論、歴史、哲学等を含む膨大な思想体系を作り上げました。
一般にこの思想をマルクス主義と云い、マルクス主義が、後世の人文社会科学全般に与えた影響は、計り知れないものが在ります。

 何故、大きな影響力を持ったのか?
1917年、ロシアのレーニンがマルクス主義思想に基づいて革命を成功させ、ソビエト社会主義共和国連邦を建設したからです。
その後、東欧・アジア等世界各地で社会主義国家が誕生しましたが、これ等の国も、マルクス主義を国家建設の理論に使用しましたから、在る意味では、歴史を作った思想です。

 ソ連を始めとして、殆どの社会主義国が崩壊してしまった現在、マルクス主義は過去のものとされつつあるようです。

続く・・・
2012/07/04

人類の軌跡その419:産業革命と社会運動⑤

<二月革命その①>

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ニュー・ラナーク保全トラスト(New Lanark Conservation Trust)

◎労働運動の形成

 産業革命の進展と共に、労働者階級が増大し自覚も高まると、労働者自身による権利獲得の運動が発生してきます。
そのひとつが労働組合運動で在り、イギリスでは、19世紀の前半迄、労働者の団結が禁止されていましたが、やがて労働組合は社会的にも認知され、労働条件の改善や政治改革を目指す様に成ります。
イギリスに於ける、労働者階級の最初の政治運動がチャーチスト運動で、1832年の第1回選挙法改正で、労働者階級の参政権が認められず、そこで彼等は、1838年、「人民憲章」を作成し、これを採用するように政府に迫りました。
この運動をチャーチスト運動と呼び「人民憲章」は「People’s Charter(ピープルズ・チャーター)」なので、チャーチスト運動です。
 「人民憲章」には、男子普通選挙や、議員の財産資格廃止等が謳われていました。
スローガンは「土地を総ての人民に、総ての人に家を、総ての人に選挙権を」。
「すべての人に家を」は、当時の労働者の状態を想像させます。
この運動は、集会を開き、署名を集めて議会に請願を繰り返す、穏健な運動で在り、1848年当時迄、運動は継続しますが、議会はこの要求を受け入れず、チャーチスト運動は成果無く終わります。

◎社会主義思想

 一方で、労働者階級の貧困を解決しようとする思想も生まれ、これを社会主義思想と云います。

1、ロバート・オーウェン(イギリス1771年~1858年)
 
 彼は、工場経営者で、スコットランドのニューラナークで紡績工場を経営していました。
経営者は利益を上げる為に、可能な限り賃金を低く抑えるのが普通です。
ところがオーウェンは、人道主義的な立場から、労働者の貧困生活を何とか救いたいと考え、経営者としては前例の無い事を初めました。

 まずは、自分の工場の労働者の賃金を引き上げ、更に、労働者の劣悪な住宅環境を改善する為、社宅を建設して労働者を住まわせます。
工場内に給品所を設置し、日用雑貨・食料品等を安く労働者に販売します。
親が工場で働いている間、小さい子供達の為に幼稚園までつくりました。
この施設が、世界最初の幼稚園と云われています。

 しかし、この様な企業活動は、当然ながら経費が掛かり、経営を圧迫します。
経費を製品の販売価格に上乗せすれば、他所の工場との価格競争に負けるはずです。
ところが、これ等を実行に移すと、オーウェンの工場の売り上げが上昇しました。
一言で云えば、労働生産性が向上したのです。
つまり、労働者がオーウェンの待遇改善に感激して、本気で働きました。
当時の労働者は、普通は一所懸命働く事は少なく、監督に見張られていない限りは、手抜きを行います。
解雇されない程度に、可能な限りサボタージュを行う事が、普通だったのです。
経営的にも成功しながら、しかも労働問題も解決出来、彼の工場は評判となり、見学者も続々訪れる様に成りました。

続く・・・
2012/07/03

人類の軌跡その418:産業革命と社会運動④

<産業革命その④>

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未成年労働

◎産業革命の波及

 労働者に多くの負担を強いながらも、産業革命によりイギリス経済は発展していきます。
安い商品の大量生産が可能と成ったイギリスは、他国よりも優位に立ち、やがて世界経済の覇権を握る事に成ります。

 イギリスの後を追い、他の諸国でも産業革命が始まります。
ベルギー、フランスは1830年代、ドイツでは1850年代に産業革命が始まり、一番遅れて産業革命をおこなったのが、ロシアと日本で1890年代、この時期迄に、産業革命を経た国は、20世紀初頭には列強として植民地獲得競争に乗り出します。
産業革命を経験しなかった国や地域は、植民地、半植民地として資本主義国の利益の為に搾取され、従属的な位置に押し止められる事に成ります。

 アジア、アフリカ諸国は、こうして世界経済の中で従属地域と成って行くのです。

◎イギリスで産業革命が起きた理由

1、イギリスでは17世紀にピューリタン革命、名誉革命という二つの革命をおこない、封建領主など古い特権を持った勢力が既に存在しなかった事により、自由な生産活動が可能に成っていた事。

2、綿織物工業が発展する以前から、イギリスでは毛織物工業を中心に工場制手工業(マニュファクチュア)が発達していた事。

3、植民地貿易の利益が蓄積されていた事(資本の蓄積)。

4、第二次囲い込みにより、多くの農民が、都市へ流入し、これが豊富な労働力の供給源に成った事。

◎最期に…家族と時間

 産業革命が、生活の深い処にもたらした影響を述べておきます。

 歴史の教科書には、次の様な記述に良く出会います。
「…家族のあり方にも変化をもたらした。夫の賃金労働が主となり、妻の労働は補助収入のためとみなされ、賃金を得られない家事労働は低く見られるようになった」
さりげなく書かれていますが、実に含蓄のある文章です。

 産業革命以前の労働は、農業が中心で、家族全員で働き、夫も妻も子供も一緒です。
誰が何をしているのか、皆が知っています。
処が、産業革命後の労働者の家庭では、夫だけが工場に働きに行き、何を行っているのか、妻や子供には見えません。
家族の結びつき方が、それまでとは全く違ったものに成りました。
家事労働が低く見られる様に成ったと云う事は、女性の地位が低く成ったと云う事で、これ等は、産業革命以後の変化だと云っているのです。

 人間の生活が時計によって縛られる様になったのも産業革命以後の事です。
労働者にとって、出勤時間や労働時間など、時間によって一日が区切られ、拘束される様に成り、労働時間は自分の時間ではなく、労働時間が終わって、やっと自分の時間が始まる様に、時間によって生き方が分割される様になりました。
現代に生きる我々も、細切れにされた時間の中で生きています。
それ以前の人間は、時計等は必要なく、時間を気にせずに毎日を過ごしていたのです。

 家族関係や時間意識の変化は、歴史の年表に載る様な事件ではないので、余り意識しません。
しかし、当たり前と思っている常識や感覚も歴史の中で作られたもので在る事を知っておく事は大事と思います。

続く・・・


2012/07/02

人類の軌跡その417:産業革命と社会運動③

<産業革命その③>

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産業構造の変化、重工業の成立

◎資本主義の確立と社会問題の発生

 産業革命の進展によって、イギリスでは工場制機械工業が産業の中心となります。
工場の経営者、産業資本家が社会・経済・政治の主導権を握るようになります。
これが、資本主義社会で、1830年代以降のイギリスの諸改革は、まさに産業資本家達の主導のもとに行われた改革です。

 資本主義社会のもとで、それまでの社会の構造が大きく変化しました。
まず、伝統的な手工業が衰退し、没落した手工業者は、工場労働者となり、同時に、此の頃のイギリスでは、「第二次囲い込み」といわれる地主による経営規模の拡大化が行われ、多くの農民が農村を離れ、都市に流入していました。
彼らも、職を求めて工場労働者に成りますが、産業革命の進行に従い、工場で働き、賃金を受け取って生計を立てる賃金労働者、プロレタリアートが増加します。

 資本主義社会では、労働者階級が人口の多数を占める様に成り、産業資本家と並んで、社会を動かす二大階級となります。
現在のイギリスでは二大政党は、労働党と保守党ですが、労働者階級と産業資本家の利益を代表しています。
これが、二大政党制のあるべき姿だと思います。

 産業革命が始まった当初は、労働者を保護する法律等は存在せず、しかも、資本家は、労働者を安い賃金で長時間働かせました。
当時は、労働環境が劣悪で、19世紀前半イギリスでは労働問題が深刻化し、低賃金、長時間労働、児童労働が社会問題と成って行きます。

 イギリス政府も、次第に児童労働を問題として取り上げ、1832年イギリス児童労働調査委員会の報告書によれば、6週間に渡って、少女達が午前3時から午後10時乃至は午後10時半まで働かされた事、5分でも遅刻すると、賃金を4分の1カットされ、事故で指を無くした少女もいたが、その段階で賃金支払いが停止された事等が報告されています。

 又、紡績工場、マッチ工場等その業種に関係無く、工場内の空気は汚れ、幼い頃から長時間働き続ける子供達は、肺病等で短命でした。
1842年の「平均寿命の比較調査」では、リヴァプールの労働者の平均寿命はなんと15歳、同じリヴァプールの「知識層・ジェントリ地主」は、35歳ですから半分の短さです。

 労働者は、平均寿命だけでなく、平均身長もどんどん小さく成り、フランス人の平均身長との差がどんどん開いていく事に危機感を覚えたのが、イギリスの陸軍でした。
体が小さければ、白兵戦になれば完全に不利ですから政府としても、問題となりました。

 児童労働、長時間労働の酷い実態が明らかになり、多くの社会改良家の運動も在り、1833年工場法が制定されました。
繊維工業の工場で9歳以下の少年労働を禁止、13歳未満の者の労働時間を一週間48時間、18歳未満のものは一週間69時間としました。
労働時間を制限する法律は、これ以前にも存在しましたが、工場法は工場監督官の制度も施工され、法律が実行される様に成りました。

 また、新興工業都市が急速に発達し、そこに職を求めて人口が集中した結果、様々な社会問題が生まれます。
人口の急増を示す記録として、マンチェスターの人口は、1760年3万人、1861年46万人、100年間で15倍の増加、リヴァプールの人口は、1760年4万人、1861年49万4千人、100年間で12倍の増加したのです。

 人口増加に住宅建設が追いつかず、上下水道も整備されない中で、住宅問題、衛生問題が発生し、また、低賃金や失業等から極端な貧困生活をおくる人も増加し、犯罪も比例して増加、所謂スラム街が、歴史上初めて出現します。
後に、工業化によって多くの国が、同様な都市問題を経験するのですが、イギリスでは世界初の経験でした。
多くの人が、驚きを持って、当時のイギリスの都市の状態を書き記しています。

 「平均寿命の比較調査」でも、農村地帯であるラトランド州では「知識層・ジェントリ地主」は52歳、労働者は38歳であり、どの身分でも都市住民より長命です。
都市は大気汚染や伝染病の蔓延など、劣悪な衛生環境に在った事が想像できます。

続く・・・