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2012/08/31

人類の軌跡その463:アジアに翻るユニオンジャック①

<イギリスのインド支配①>

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◎インドの政治状況

 インドは、16世紀以降、ムガル帝国が統治していましたが、第6代皇帝アウラングゼブ(在位1658年~1707年)の死後、衰退が著しく、各地で在地勢力が自立していきます。

 代表的なものが、インド中部のデカン高原を中心とするマラータ同盟、インド北部パンジャーブ地方のシク教国です。
マラータ同盟はマラータ族の諸侯連合でヒンドゥー教の国。
シク教国は、その名の通り宗教であるシク教によって建てられた国で、シク教は16世紀前半にナーナクが創始した宗教で、イスラム教とヒンドゥー教を融合したものです。
シク教徒の男性は、長く伸ばした頭髪をターバンで包び、名前の最後に必ずシング(シン)とつけるのが特徴で、現在でもそれは変わりません。
シク教徒は勇猛果敢で知られています。

◎イギリス東インド会社によるインド征服

 ムガル帝国の衰退と入れ替わるように、イギリスがインドに登場します。
イギリスは17世紀以降、マドラス、ボンベイ、カルカッタに商館を建設し、此の地を拠点として貿易を本格化させます。
商館と称していますが、実際には要塞で、商売だけでなく、地元の権力者との交渉や戦いによって土地も獲得していきました。

 フランスも、17世紀後半には、同様に商館を建設しました。
フランスが拠点にしたのはシャンデルナゴルとポンディシェリで、シャンデルナゴルはベンガル地方にあってカルカッタに近く、ポンディシェリも南インドでマドラスに比較的近い処です。
当然、イギリスとフランスは競合することになります。

 一時は、フランスがイギリスを圧倒した時期もあったのですが、18世紀の半ばに南インドでイギリスとフランスが戦ったカーナティック戦争で、イギリスが勝利してからは、南インドでフランス勢力は衰退します。

 そして、ベンガル地方でイギリス(イギリス東インド会社)とフランス(フランス東インド会社)の戦闘が、1757年のプラッシーの戦いです。
イギリス軍の兵力は約3000。
但し、イギリス兵は950名程で残りの2000名は、イギリスが現地で雇った傭兵でした。

 対するフランス軍は、フランス兵は僅か50名、しかし、フランスは現地の支配者であるベンガル太守と同盟を結んでおり、このベンガル太守軍の兵力約6800。
イギリス対フランスの戦争と云われますが、戦いの中心となっているのはインド人同士なのが特徴的です。
又、イギリス本国兵とフランス本国兵の少なさは、意外ですがヨーロッパからインドまで兵士を派遣するのは、イギリスもフランスも大変な負担だったのです。

続く・・・

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2012/08/30

人類の軌跡その462:改革への道のり③

<オスマン・イラク・中央アジアその③>

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◎イラン②

 1891年に発生したタバコ=ボイコット運動は、政府がイギリスにタバコの製造販売の利権を与えた事に抗議しておこった国民的大衆運動です。
ウラマーと呼ばれる宗教指導者達が先頭に立って民衆を組織し、反政府・反英運動を展開し、利権をなくさせることに成功しました。
イランでは、宗教指導者が強い影響力を持っていて、今から約30数年前にも、宗教指導者ホメイニ師のもと、革命が成功して国王を追放しました。
1978年のイラン革命で、私には非常に印象的な事件で、現在のイランも大統領がいますが、宗教指導者の支持がないと権力を維持できないようです。

 1906年には、専制政治に反対してイラン立憲革命が成功し、議会が開設されますが、ロシアの圧迫によって、議会は閉鎖されました。
ロシアやイギリスにとっては、弱体化したガージャール朝による専制政治の方が、コントロールしやすく都合が良かったのです。
この後、1925年迄、ガージャール朝は存続しました。

◎アフガニスタン・中央アジア

 アフガニスタンには、パシュトゥーン人等多くの民族が住み、単一国家として成立したのは、18世紀の半ばです。1747年、パシュトゥーン人の軍人アフマド=シャー=ドゥッラニーが、イランから独立してドゥッラニー朝を建国したのが、現在のアフガニスタンの始まりです。

 このアフガニスタンの北、中央アジアでは、ロシアが勢力をのばし領土を拡大していました。
アフガニスタンの南東インドを支配したイギリスは、ロシア勢力の南下を阻止する為、アフガニスタンを勢力範囲に収める事を画策し、19世紀以降、インドからアフガニスタンに侵入し、イギリス・アフガニスタン戦争をおこしました。
 
 ところが、現在でも大国の支配をなかなか受けつけない国家アフガニスタンです。
イギリス軍は、地方に強い影響力をもつ部族勢力のゲリラ活動に悩まされ、アフガニスタンを完全に支配する事はできず、1879年に、どうにかアフガニスタンの外交権を獲得し、間接的にロシアの南下を抑える事に成功しました。

 アフガニスタンの北からアラル海にかけての中央アジアの地域には、トルコ系のウズベク人が、ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国を建てていました。
これらの国家は、1860年代から70年代にかけて、ロシアの保護国になるか滅ぼされて淘汰されます。

◎アフガーニー

 北アフリカから西アジア、中央アジアのイスラム諸地域は、西欧諸国の植民地若しくは、半植民地の地位に落ち込んでいくのですが、このような状況に危機感を覚え、反西欧の主張を全面に押し出し、イスラムの連帯と改革を訴えた人物がアフガーニー(1838~97)です。
反イギリス、反帝国主義の運動をする為に、イスラム世界の各地を旅して、イスラムの連帯を訴えました。
アフガニスタンから、イラン各地、イスタンブール、カイロ、更に、ロンドン、パリ、モスクワ等世界各地を訪れ、出版物を出し、政治結社を作り、西欧に抵抗する為のネットワークづくりを行いました。
エジプトのウラービー=パシャの革命運動や、イランのタバコ=ボイコットに大きな影響を与えたと云われています。

 以前は、余り書物に現れる人物では在りませんでしたが、現代イスラム社会に焦点があたり、研究が進む中で、最も早く西欧と対抗してパン=イスラム主義を唱えた人物として注目されています。

改革への道のり・終わり・・・

2012/08/29

人類の軌跡その461:改革への道のり②

<オスマン・イラク・中央アジアその②>

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ガージャール朝第3代 モハンマド・シャー(1808年1月5日-1848年9月5日)

◎イラン

 オスマン帝国の東に接するイランの情勢は、どの様に成っているのでしょう。
過去の歴史を振り返って見れば、最初に登場するのが、アケメネス朝ペルシア、BC550年からBC330年迄、オリエント地方を大統一しました。
ギリシアに侵攻したペルシア戦争が後世迄語り伝えられ、アレクサンドロス大王に滅ぼされ、一時は、ギリシア人の支配下に入りますが、BC248年から226年迄は、パルチアが成立。
パルチアはペルシア人の国家で、西のローマ帝国と対立していました。

 パルチアの滅亡後、ササン朝ペルシアが成立(226年~651年)、ゾロアスター教を国教と定め、この王朝で作られた美術工芸品が、シルクロードを通って日本にもたらされ、現在も正倉院に残されています。
ササン朝は、イスラム教を奉じるアラブ人によって滅ぼされ、以後、この地域はイスラム化すると同時に、ペルシア人ではない異民族によって支配されます。
ウマイヤ朝、アッバース朝、イル=ハン国、ティムール帝国が次々に勃興、滅亡を繰り返します。
他民族の支配下に入るものの、高い文化と伝統を持つペルシア人からは有能な人材が多く、各王朝で官僚として活躍し、宰相に成った人物も存在します。

 1501年、サファヴィー朝が成立、ササン朝以来のイラン民族王朝の復活です。
サファヴィー朝はシーア派を国教にして、西のオスマン帝国と対抗し、サファヴィー朝の支配のもとで、イラン人の民族意識が芽生えたと言われています。

 サファヴィー朝衰亡の後、18世紀末にイランを支配したのがトルコ系王朝ガージャール朝でした。
イラン人の多くはシーア派ですが、ガージャール朝の支配者はスンナ派です。
ガージャール朝は南下政策を推進するロシアに圧迫され、1828年、不平等条約であるトルコマンチャーイ条約をロシアに締結させられ、アルメニア地方をロシアに割譲、治外法権を認めました。
1841年には、イギリスとも不平等条約を結び、以後、北のロシア、南のイギリスに、徐々に従属していきました。

 植民地化に抵抗するイラン人の運動として、1848年から50年にかけて発生したバーブ教徒の乱が有名です。
バーブ教は、イスラム・シーア派から派生した新興宗教で、ヨーロッパ人に従属する中で、混乱を続ける社会を改革し理想社会を創る為に反乱を起こしました。
創始者バーブは、政府に逮捕され1850年に処刑されましたが、その後も、バーブ教は反政府運動を継続するものの、激しい弾圧でやがて勢力を失っていきました。

 不平等条約で庶民生活が困窮するなかで、民族主義や外国人排斥、政治改革を訴える新興宗教が勢力を拡大して、反乱をおこすというパターンは、バーブ教の反乱だけではありません。
中国の太平天国の乱や、朝鮮の東学党の乱(甲午農民戦争)と、同一のパターンで、西欧諸国から圧迫をうけたアジア民族の典型的な反応です。

 イラン政府(ガージャール朝)は、この後も、さまざまな利権をイギリスなどに与えていきます。

続く・・・
2012/08/28

人類の軌跡その460:改革への道のり①

<オスマン・イラク・中央アジアその①>

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アブデュルハミト2世(II. Abdülhamit, 1842年9月21日 - 1918年2月10日)

◎オスマン帝国の改革

 オスマン帝国は、18世紀後半以降、オーストリアやロシアから徐々に領土を奪われ、各地で在地勢力が自立化し、それに対して有効な有効的な政策を実行する事が出来ませんでした。
改革の必要性は、統治者であるオスマン朝の上層部も十分理解していました。

 1826年には、皇帝マフムト2世により、イエニチェリが廃止されます。
1839年には、アブデュル=メジト1世がギュルハネ勅令を発布し、タンジマートの開始を発令しました。
タンジマートとは、西欧化の為の改革の事で、皇帝による上からの改革なので「恩恵改革」と訳されています。
行政、法制度、教育等あらゆる分野で西欧化が推進され、改革は「イスラム・非イスラムを問わず全臣民の法の前の平等」を謳っていたのですから、その発想はかなり進歩的です。
但し、オスマン帝国の隅々迄、改革が実現されていた訳ではなく、また、独立を求めるバルカン半島の諸民族にとっては、タンジマートは満足できる政策ではありませんでした。

 西欧化を推進する事は、必然的に西欧の論理に従わざるを得なくなります。
クリミア戦争で、英仏の援助を受けて勝利したオスマン帝国は、その英仏の要請で、非ムスリムの政治的権利の尊重を約束します。
又、外債受け入れ(英仏からの借財)、鉄道建設、イギリス資本によるオスマン銀行設立などの事業をすすめることになりました。
 
 1838年のトルコ=イギリス通商条約以来、ヨーロッパの工業製品の輸入が急増し、国内の産業が衰退した結果、オスマン帝国の財政は逼迫していました。
その様な状況の中で、借入や鉄道建設を実施した結果、1875年に、国家財政は破綻し、結局、タンジマートは、西欧諸国が経済進出しやすいように制度を整備し、その結果西欧諸国に食い物にされてしまったという結果をまねいたのです。

 経済的には、植民地化したオスマン帝国ですが、教育の西欧化等で、新しい考え方を身につけた改革派の官僚や軍人が育ち、更なる制度改革がはじまります。
1876年に発布されたミドハト憲法がその諸端でした。
立憲君主制を定めたこの憲法は、改革派の宰相ミドハト=パシャが、新皇帝アブデュル=ハミト2世を擁立して発布したもので、アジア初の憲法制定で在り、この憲法に則して、国会も開設されました。

 しかし、翌1877年、露土戦争がはじまると、皇帝アブデュル=ハミト2世は、戦争を理由に憲法を停止し、国会を解散、ミドハト=パシャを国外追放します。
こうして、アブデュル=ハミト2世は、専制政治を復活させました。
この後も、官僚や軍人の中に、専制政治に反対し立憲政治復活をめざす「青年トルコ」と呼ばれるグループが作られ、立憲革命の機会を窺い続けます。

 オスマン帝国では、西欧化=立憲政治をめざす勢力と、専制政治を維持しようとする勢力のせめぎ合いが此の後続き、第一次大戦後、西欧化勢力が政権を握り、現在のトルコ共和国が成立します。
他のイスラム諸国と異なり、オスマン帝国=トルコで、これだけ早い時期から、西欧化の試みが続いたのは、ロシアやオーストリアと国境を接していたことが大きいと思われます。
特に、オスマン帝国はロシアに敗北を続け、領土を次々に失いました。
戦争に勝つためには、西欧化しかないというのが、軍人達の実感ではないでしょうか。
青年トルコでは、軍人達が、その中心メンバーを構成し、第一次大戦後トルコ共和国を建国したケマル=パシャも軍人でした。
現在のトルコでも、イスラム政党が力をつけてくると、これに対抗して政治の世俗主義(非イスラム)を守ろうとするのは軍部です。
軍人は、一般的に保守的・反動的と思われがちですが、トルコでは必ずしも簡単に割り切れない勢力です。

続く・・・
2012/08/27

人類の軌跡その459:列強の進出⑤

<エジプトの自立その⑤>

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アフメド・ウラービー陸軍大佐

◎ウラービー・パシャの革命

 このような状況の中で、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンに、エジプト軍の将校ウラービー・パシャを中心に政治改革運動が起こってきました。

 ムハンマド・アリー以来のエジプト総督達は、近代化には熱心でしたが、立憲政治や議会政治は取り入れず、専制政治を継続しており、近代的な教育を受けたエジプト人の中から、立憲政治をめざす勢力が現れて来るのは当然です。
「エジプト人のためのエジプト」という言葉の中は、英仏から財政権を取り戻そうと云うだけではなく、アルバニア系のムハンマド・アリー朝の総督に対する批判も含まれています。

 ウラービー・パシャは、1882年、権力を掌握し、自分自身は陸軍大臣となって、憲法制定等の改革に着手します。これを見て、イギリスはフランスには通告する事無く、単独でエジプトに軍隊を派遣し、圧倒的な軍事力でエジプト軍と市民の抵抗を鎮圧、エジプトを占領下に置きました。
これ以後、エジプトはイギリスの支配下に入り、ムハンマド・アリー朝の総督はイギリスの傀儡となりました。
イギリス軍はスエズ運河警備を名目に、運河地帯に駐留します。

 改革運動の指導者ウラービー・パシャは、イギリスに逮捕されセイロン島へ流刑と成り、失敗に終わったウラービー・パシャの改革運動は、現在は「ウラービー・パシャの革命」と言われていますが、数年前迄の教科書には「ウラービーの反乱」と題されていました。
イギリスから見れば反乱ですが、視点を変えるだけで、同じ事件でも評価や呼び方が大きく変わる一例です。

 ウラービー・パシャの改革と失敗は、同時代の日本でも大きな関心を持たれ、洋行する日本政府の高官が、セイロン島のウラービー・パシャを訪ねる事が在った様です。
伊藤博文の娘婿が訪問しているとの記録も存在し、農商務省大臣秘書官が東海散士というペンネームで書いた小説『佳人之奇遇』(1885)に、ウラービー・パシャが登場します。
この小説は結構人気を得て、ウラービー・パシャは明治期の日本人にはわりと知られていたかもしれません。
エジプトの先例に学びながら、明治期の日本は国家建設を推進したのです。

エジプトの自立・終わり・・・

2012/08/24

人類の軌跡その458:列強の進出④

<エジプトの自立その④>

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スエズ運河開通記念式典

◎エジプトの自立③

 1838年、イギリスがオスマン帝国とトルコ=イギリス通商条約を結びましたが、オスマン帝国に関税自主権のない不平等条約で在り、この結果、オスマン帝国の領土であるエジプトにもこの条約が適用され、エジプトの貿易は大打撃を受けました。
オスマン帝国から完全に独立を果たせば、この条約から逃れる事ができます。
そこで、ムハンマド・アリーはオスマン帝国にエジプトの独立を求め、1839年、第二次エジプト=トルコ戦争が始まりました。

 イギリスは、第一次エジプト=トルコ戦争の結果に不満を持っていました。
エジプトの領土が拡大し、其れに伴い、この地域でフランスの勢力が増した事が大きな驚異と成ったのです。
そこで、第二次エジプト=トルコ戦争が始まると、早速、この戦争の調停に乗りだし、フランスやロシアとの外向的な駆け引きの末、翌1840年、ロンドン会議で、イギリスは自らの調停案をエジプトに押しつけて戦争を集結させました。

その内容は、
1)エジプトはシリアを放棄する。
2)ムハンマンド・アリー家がエジプト総督位を世襲する。

 ムハンマド・アリーはこの内容に不満でしたが、イギリスの軍事的圧力の前に、これを承諾せざるを得ませんでした。
結局、正式に独立する事は叶いませんでしたが、ムハンマド・アリー家による総督世襲が認められ、これ以後のエジプトを、独立国家として扱っています。

◎スエズ運河

 ムハンマド=アリーの死後、エジプト総督位はその子孫が継いでゆき、ムハンマド・アリーが始めた近代化政策は、その後も引き継がれていきました。
様々な事業の中で、エジプトの運命に大きな影響を与えたのがスエズ運河建設です。
スエズ運河建設を開始した人物は、第4代総督サイイド・パシャ、彼はムハンマド=アリーの三男で、少年時代にカイロに来ていたフランス人外交官レセップスを家庭教師にしていました。
レセップスに可也傾倒していたと云われています。
三男の為、本来は総督位を継ぐ立場では無いのですが、兄や甥が次々と世を去り、総督に就任したのでした。
 
 サイイド=パシャが総督になると、フランスに帰国したレセップスがエジプトに戻り、総督との個人的な関係を利用して、スエズ運河建設を売り込んだのです。
総督は、レセップスにスエズ運河建設の許可を与えました(1854年)。

 レセップスはスエズ運河株式会社を設立し、資金を集めて1859年に着工、10年に及ぶ難工事を経て、1869年に運河は完成しました。
全長167キロメートル、幅60~100メートル、深さ8メートル、総工費は当初の予算2億フランの倍を超える4億5千フラン、工事に駆り出されたエジプト農民の死者は12万人に及びました。
建設費はエジプト政府も負担し、その費用はフランスからの借款に頼り、完成後のスエズ運河は、エジプトとフランスの共同所有となりました。

 スエズ運河の開通によって、ヨーロッパからアジアに向かう船はアフリカを廻らなくてもインド洋に抜ける事が可能と成り、費用、時間は大幅に短縮されました。
現在でも、活発に利用されているスエズ運河は、歴史的な大事業でした。

 スエズ運河開通の時のエジプト総督は、サイイド・パシャをついだイスマーイール・パシャです。
イタリアの作曲家ベルディによるオペラ「アイーダ」は、スエズ運河開通記念に建てられたカイロの大歌劇場で上演する為に、イスマーイール・パシャがベルディに作曲を依頼した作品です。
ストーリーの原案をイスマーイール・パシャが考えたという説も在り、エジプト総督がスエズ運河の開通を祝う行事に、オペラの作成を依頼するのは、当時エジプトの支配層が、ヨーロッパ文化に影響を受けていた結果です。

 エジプトは、スエズ運河の航行料収入を目論んでいましたが、これが思うように伸びず、アメリカ南北戦争のおかげで急成長した綿花の輸出による収入が、南北戦争の終結による合衆国の国際貿易復帰によって大幅な下落を示し、急速な財政悪化に困ったエジプト政府は、保有していたスエズ運河の株式を売却する決定を下します。
1875年、この株式を買収したのがイギリスです。

 この時のイギリスの首相はディズレーリ、積極的な帝国主義政策を推進し、世界に利権を拡大していました。
エジプト政府によるスエズ運河株式売却のニュースを知ると、この機会を逃してはいけないと思い、ディズレーリは議会に図らず独断で株式を買い取りました。
議会の賛成を得ていないから政府から資金の拠出は無く、大富豪ロスチャイルド家から40万ポンド(約1億フラン)を借入れたと云います。
この結果、エジプトの領土に存在するにも関わらず、スエズ運河の所有権はエジプトには無い事に成りました。

 スエズ運河株式を売却したものの、エジプトは外国から借り入れた資金の返済ができませんでした。
スエズ運河以外にも、近代化政策の為、諸外国から多額の借金をしていたのでした。
1876年、遂にエジプト政府が財政破綻すると、債権国であるイギリスとフランスが共同でエジプト財政を管理下に置きました。

続く・・・

2012/08/23

人類の軌跡その457:列強の進出③

<エジプトの自立その③>

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シタデルの悲劇

◎エジプトの自立②

 ムハンマド・アリーは、フランス軍やイギリス軍と、実際に戦闘を交えていますから、ヨーロッパの軍隊の軍事力、組織力の高さを知っています。
そこで、エジプトの支配者となった彼は、ヨーロッパを目標としてエジプトの近代化を邁進しました。

 具体的には、西洋式の陸海軍の創設、造船所、官営工場、印刷所を建設し、近代化を担う人材養成の為、教育制度改革等を行いました。
印刷所は、イギリスやフランスの本をアラビア語に翻訳出版する為に作られたもので、アラブ地域で作られた最初の官営印刷所です。
 
 又、マムルーク達を、式典参加を理由に集合させ、一挙に虐殺することも行いました(1811年)。
彼等は、ナポレオンの遠征以前から、エジプトで一定の政治的勢力を持ち続けており、中央集権化を推進するには邪魔な存在だったのです。

 近代化政策の財源は、農業です。
「エジプトはナイルの賜」ですから、農業生産は高く、ムハンマド・アリーは、農産物輸出事業を独占し、その利益を財源としました。

 こうして、急速に軍事力を高めたエジプトが、その実力を見せたのが、1818年のワッハーブ王国の撃破でした。メッカ、メディナを占領したワッハーブ王国の討伐をオスマン帝国から依頼され、アラビア半島に出兵し、これを撃破したのです。
なぜ、ムハンマド・アリーは、オスマン帝国の要請に従ったのでしょう?
エジプトは自立していますが、其れは自立であって、独立では無く、エジプトは、オスマン帝国の宗主権を認めており、正式にはオスマン帝国の一部、ムハンマド・アリーの肩書きは、オスマン皇帝から任命されたエジプト総督なのです。

 オスマン帝国から見れば、強力なエジプトは、その配下で忠誠を尽くせば、非常に頼りがいのある臣下です。
この後、ギリシア独立戦争が勃発すると、オスマン帝国は、再度、エジプトに出兵を要請しました。
エジプトは、この要請にも応じて、ギリシアに出兵します。
オスマン帝国側は、その見返りとしてシリアの支配権を与える約束をしていました。
ところが、ギリシア独立戦争が集結しても、オスマン帝国側が、約束を履行せず、エジプトはシリアの領有を要求してオスマン帝国と開戦しました。
これを、第一次エジプト・トルコ戦争(1831年~33年)と呼び、結果は、エジプトが勝利を納め、シリアを領有する事になりました。

 この戦争で、南下政策を実現させたいロシアは、有利な条件を引き出す為にオスマン帝国を支援し、エジプトの利権獲得を目指すフランスは、エジプトを支援しました。
この地域は、アフリカ、アジア、ヨーロッパに跨り、戦略的要衝で在り、ヨーロッパ列国の関心が高く、ここでの紛争は、ヨーロッパ列国にとって、利権を拡大する絶好の機会でした。
もはや、オスマン帝国、エジプトと云う当事者だけの争いでは収まらず、当事者よりも、背後に控えるヨーロッパ列国の方が、経済的にも軍事的にも圧倒的に優位で在り、最終的には当事者を飛び越えて、ヨーロッパ列国が紛争を操り、自分達に都合の良い秩序を作り上げて行く事になるのです。

続く・・・
2012/08/22

人類の軌跡その456:列強の進出②

<エジプトの自立その②>

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1821年3月25日、戦いの宣誓を行うパトラ府主教パレオン・パトロン・ゲルマノス

◎ギリシアの独立

 1821年にはギリシアで独立戦争が始まりました。
当時、ヨーロッパ列国はウィーン体制のもとで、民族運動には冷淡でしたが、ギリシアはヨーロッパ文明の根源で在り、イギリスの詩人バイロンが義勇軍として独立戦争に参加し、フランスの画家ドラクロワが「シオの虐殺」と題するオスマン軍による、ギリシア人虐殺事件を描き、次第にヨーロッパ人に注目されます。

 また、南下政策を推進するロシアが、この機会にバルカン半島への勢力拡大を画策し、ギリシアを支援してオスマン帝国と開戦、イギリス、フランスもギリシア独立に介入して、1829年のアドリアノープル条約で、ギリシアは独立を達成しました。

 バルカン半島には、独立したギリシア以外にも、スラブ人、ギリシア正教徒が多数住んでいますから、彼等もこの後オスマン帝国からの自立を求めて、運動を活発化させ、オーストリアやロシアがこの運動を援助しますから、オスマン帝国政府は、ますます難しい状況になっていきます。

◎エジプトの自立

 既に18世紀から、アフリカ北岸地域では、在地勢力が、オスマン帝国の宗主権を認めながらも、地方政権をたてていました。
エジプトはオスマン帝国から自立しただけでなく、ヨーロッパをモデルに国家建設を理想としました。
しかも、その理想は、一時実現を見る処迄達成されるのですが、最終的には、失敗してイギリスの植民地になってしまいます。
従って、19世紀のエジプトの歴史は、アジア・アフリカ諸民族が、最も早い時期に欧化を目指し失敗した先駆的な例となり、ヨーロッパがアジア・アフリカを従属化、植民地化していく一つの典型なのです。
又、エジプトの試みが、オスマン帝国の衰退と絡み合いながら進行していった事も重要です。

 エジプトの自立はナポレオンの遠征から始まります。
1798年、ナポレオン率いるフランス軍がエジプトを占領し、これに対抗して、イギリスはエジプトに軍隊を派遣しましたが、エジプトはオスマン帝国の領土なので、当然、オスマン帝国政府も各地の部隊をエジプトに送り込みました。
この時、派遣されたオスマン軍の将校の一人が、ムハンマド・アリーです。
アルバニア系と云われ、エジプト人でも、トルコ人でも在りません。
このムハンマンド・アリーが、徐々に頭角を現し、やがて、エジプト派遣軍を掌握、1801年と1803年にフランス軍とイギリス軍がそれぞれ撤退した後、カイロの有力者達の支持を得て、1805年にはエジプト総督を名のります。オスマン帝国政府は、これを追認するしか無く、この段階で、オスマン帝国の宗主権のもとに、ムハンマド・アリーのエジプトが自立したのです。

続く・・・
2012/08/21

人類の軌跡その455:列強の進出①

<エジプトの自立その①>

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サウジアラビア・聖地メッカ

◎オスマン帝国の衰退

 16世紀半ば、スレイマン1世の時代に全盛期を迎えたオスマン帝国は、その後、徐々に衰退していきます。
1683年、第二次ウィーン包囲失敗が、衰退の大きなきっかけとなりました。
第一次ウィーン包囲(1529年)以後も、オーストリアとは断続的に武力衝突が発生していましたが、第二次ウィーン包囲失敗後は、オーストリアやロシア等との戦争になり、敗北したオスマン帝国は、1699年、カルロヴィッツ条約で、ハンガリー等をオーストリアに割譲しました。

 その後も、ロシアとの戦争で、18世紀後半には黒海北岸の領土を失います。
国内的には、地方総督の自立化傾向、帝国内の諸民族の独立運動が起きてくるのですが、オスマン政府は有効な対策を取る事ができず、衰退していきます。

◎ワッハーブ王国の成立と崩壊

 オスマン帝国の衰退を象徴する最初の事件が、ワッハーブ王国の成立です。
18世紀半ば、アラビア半島でイブン・アブドゥル・ワッハーブが、ワッハーブ派と呼ばれる宗派をおこしました。彼によれば、当時のイスラムのあり方は、ムハンマドの教えから 外れている為、ムハンマド時代の教えに帰れ、と云うものです。
確かに、当時多くのムスリムの心を捕らえていたスーフィズム(神秘主義)や、聖者崇拝等は、コーランの何処を探しても出てきません。
イスラムがアラブ人以外の民族に広がるなかで、つけ加えられていったものです。(現在でも、スーフィズムや聖者崇拝はあります)

 ワッハーブが唱えたのは、コーランに書いていない事は認めない、イスラム原理主義です。
これは、当時の状況を考えると、トルコ人のオスマン帝国に支配されているアラブ人が、宗教を通じて自己主張を展開している姿でした。

 やがて、このワッハーブ派を信奉したアラビア半島中央部、ネジド地方の豪族サウード家が、オスマン帝国の支配に反対し、半島にワッハーブ王国を建設、徐々に領土を拡大し、19世紀初頭には、メッカとメディナの2聖都を支配する迄に発展しました。
オスマン帝国にとって、メッカ、メディナを失う事は大失態で、辺境アラビアの出来事と、放って置く訳にはいかないのですが、この時既に、オスマン帝国は、独力でこれを討伐する力が存在しなかったのです。
結果的に、エジプト総督の援助を受けて、1818年ワッハーブ王国を滅ぼしました。

 しかし、1823年ワッハーブ王国は復興し、89年に再び滅亡しますが、20世紀初頭、サウジアラビア王国として、再度復活し、現在のサウジアラビアと成りました。

続く・・・

2012/08/20

人類の軌跡その454:アメリカ合衆国⑥

<アメリカ合衆国の発展その⑥>

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チャタヌーガの戦い

◎南北戦争

 共和党のリンカーンが当選すると、奴隷州の南部11州はジェファソン・デヴィスを大統領とし、アメリカ連合国を結成しました。
1861年、リンカーンは大統領に就任すると南部諸州の離脱を許さず、ここに南北戦争がはじまりました。
この段階で、リンカーンは奴隷制度を撤廃する事を明言せず、あくまでも戦争目的は、南部の分離独立の阻止でした。

 1858年、大統領に当選する前のリンカーンはこんな演説をしています。

「私は過去に於いても白人黒人両人種の社会的政治的平等を実現する事に賛成した事は無く、今日でも同様である。又黒人に投票権を与える事や陪審員にする事、役人に任命する資格を与える事や白人との結婚に賛成した事も無く、今日も賛成しない。又更に私は、白人黒人の間には身体的相違があり、その相違ゆえに社会的政治的平等の条件の下で両人種が共に生活する事は永遠に無理な事と考える。」
 リンカーンが奴隷解放をした人物である事を思い出せば、選挙前の演説とは言え、多くの人の支持を集める為の言葉なので、どこまでが彼の本音かわかりませんが、人種差別反対の旗を高く掲げていた訳では在りませんでした。

 南北戦争が始まった後、1862年の演説では、
「この戦争での私の最高の目的は、連邦を救う事にあるのであって、奴隷制度を救う事でも無ければ、また破壊する事でも無い。若しも私が、一人の奴隷を解放しなくても連邦を救えるものなら私はそうするだろう。又、若しも私が、総ての奴隷を解放する事によって連邦を救えるものなら、私はそうするだろう。」

 この連邦とは、合衆国の事で、救うというのは、分裂させないという事です。
実際に、この後リンカーンは、南部に勝つ為には奴隷を解放する事が必要だと考えるのです。
北部の人口2200万、南部は人口950万、しかもその内350万は黒人奴隷、工業力も北部が優越、北軍(合衆国政府軍)は強力ですが、実際には、南軍が北軍を圧倒する粘りを見せ激戦が続きました。
勝利と奴隷制度廃止を切り離す事が不可欠と考えたリンカーンは、1862年に初めて黒人兵を18万人採用し、1863年には、奴隷解放宣言を出しました。

 南北戦争の勝敗を決定づけたのが、1863年のゲティスバーグの戦いで、北軍8万7千、南軍7万5千が戦い、合計4万5千人が戦死する激戦でした。
南北戦争と日本では呼称しますが、アメリカでは「Civil War」、つまり内戦と呼びます。
同じアメリカ人どうしが殺し合っている訳で、戦闘が終わったゲティスバーグには、敵味方入り乱れて4万5千人の死体が散在していました。
 
この惨状を放置する事が出来ず、政府が戦場跡を整備して、戦闘の4ヶ月後、戦死者追悼集会が開かれました。ここでリンカーンは「人民の人民による人民の為の政府」と云う有名な言葉を含むスピーチを行ったのでした。
因みに、今では、民主政治の核心をつかんだ名言として有名な言葉ですが、発言現場では全然話題にならず、失敗したスピーチと思われた様です。

 ゲティスバーグで勝利した北軍は、以後優勢に戦いを進め、1865年には南軍が降伏して、戦争は終結、両軍死者、61万8千人、この戦死者数は第二次大戦での合衆国の戦死者31万8千人をも上回るものです。
南北戦争が、合衆国にとって如何に大きな事件で在ったかを、理解しておくべきです。
この後、合衆国は北部の商工業を基礎に発展していく事に成ります。

 合衆国の分裂を回避し、奴隷解放をしたリンカーンですが、勝利の5日後に暗殺され、犯人は南部出身の奴隷制支持者でした。

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黒船来航

◎日本との関連

 合衆国の海軍提督ペリーが4隻の艦隊を率いて、日本の浦賀に現れたのが1853年。『アンクル・トムズ・ケビン』出版の翌年でした。
日米和親条約が結ばれた1854年に、共和党が結成。
日米修好通商条約が結ばれた1858年、リンカーンは大統領選挙の運動中。
鎖国の日本を、武力で脅して無理矢理開国させた合衆国は、リンカーン以後、幕末日本に登場しなくなる理由は、南北戦争で、日本を相手とする余裕を欠いていた結果でした。
幕末の日本と、南北戦争はほとんど同時期ですが、明治維新の直前迄、合衆国に奴隷制度が存続した事が、大変な驚異で、南北戦争という大きな犠牲を払ってでも、奴隷制度を撤廃する事は、歴史の必然でしょう。

アメリカ合衆国、終わり・・・

2012/08/18

人類の軌跡その453:アメリカ合衆国⑤

<アメリカ合衆国の発展その⑤>

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◎奴隷制度への批判

 南北の対立は、経済的な理由だけではありません。
南部で行われている奴隷制度も、対立の大きな原因でした。
「すべての人は平等につくられ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され…」と謳った独立宣言と奴隷制度が相容れる筈は無く、そのことは、当時のアメリカ人も当然わかっていました。

 奴隷制度反対の世論を一気に盛り上げたのは、ストウ夫人の小説『アンクル・トムズ・ケビン』(1852)でした。

『アンクル・トムズ・ケビン』
 主人公トムは黒人奴隷で、さるプランテーションで働いています。
働き者で正直で、熱心なクリスチャンで、白人から見たら理想的な奴隷です。
農場主である主人も、それなりに良心的な人物で、トムは妻子(もちろん奴隷)を持ち、農場の中の小屋に家族と共に生活しています。
 
 農場主には男の子が居り、この少年が奴隷のトムが大好き。
何時もトムの小屋に遊びに行き、トムも、この少年を可愛がっていました。
ところが、農場主が事業に失敗、借金を抱えて農場を手放す事に成り、農場で働いていた奴隷達も、売られていく事になりました。
トムの様に、家族のいる奴隷にとって、これは悲惨な事で、妻も子供も、バラバラに引き裂かれて売られていく事に成ります。
トムが売られていく時に、農場主の息子の少年が、トムに約束すします。
「ぼくが大きくなったら、農場を取り戻し、トムを買い戻すから」と。

 物語は、ここからトムの人生を辿り、彼は様々な白人に転売され、色々な主人に仕える事に成ります。
いくら正直者のトムでも、主人次第でその運命はどうなるか判りません。
読者は、「何とかしてやれないのか」ともどかしい思いで、トムの運命を読み進む訳です。

 トムが最後に売られた先が、サディストの白人農場主、奴隷に暴力を振るうのを楽しみにしている様な人物です。そこでも主人には逆らわないトムですが、或る日、主人が、女奴隷に暴行しようとするのを思わず邪魔してしまう。怒り狂った主人が、トムに無茶苦茶な暴行を加え、虫の息に成ったトムが言葉に成らない言葉を呟いているので、何を言っているか聞いてみたら、「この人も神様が救ってくださいます様に」と祈っています。
それを知って、主人は更に逆上、暴行は加速、「重傷」だったトムは「重体」状態になり、瀕死で馬小屋か何処かに放り込まれます。

 そこに、最初の農場の少年が成長して登場します。
成人した少年は、農場を再興して、約束どおりトムを探していました。
終に探して当ててみると、トムは当に死の床で、懺悔する少年が見守るなか、トムは死んでいきます。
少年は、ここで悟ります。
「トムを見つけて、買い戻せば良いと思っていたけれど、それは間違い。奴隷制度が問題にある。自分は故郷に帰ったら、農場の奴隷達をみんな解放する」と誓うのでした。

 当時の北部の白人達も、この物語に賛同しました。
南部の人々は、「この様な事あるはずがない。何も知らない北部人の作り話だ」と反発した。
奴隷制度反対論は、新たな州が奴隷州か自由州かという問題、南北対立とが深く結びついていたのです。

 その中で、奴隷制度の拡大に反対する共和党が結成され、1860年の大統領選挙で、それまで続いていた民主党に替わって、初めて共和党のリンカーンが当選し、南北はついに内戦に突入します。

続く・・・

2012/08/17

人類の軌跡その452:アメリカ合衆国④

<アメリカ合衆国の発展その④>

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◎南北の対立

 西部開拓が進展し、西部に新たな州が誕生していくなかで、北部諸州と南部諸州の対立が激しくなっていきました。
対立の原因は、両地方の産業構造の違いで在り、北部では商工業が発展しつつ在った中、南部では、奴隷を使った大規模農場プランテーションが産業の中心でした。

 工業が発展しつつある北部の工場経営者にとって、ライバルはイギリス製品です。
安くて質の良い綿織物等の工業製品が、イギリスから次々に輸入されては、自分達の製品が売れません。
そこで、イギリスからの輸入品に高関税をかけて、北部の工業を保護する様に政府に求めました。
保護貿易主義の始まりです。
ここで注意が必要なのですが、貿易は、相手が存在する事が前提で、若し、合衆国が関税を引き上げれば、当然それに対抗してイギリスも関税を引き上げます。

 この様な事態を招聘して、困るのが南部でした。
南部では、綿花等の農産物をイギリスに輸出して利益を上げていましたから、当然、イギリスが高い関税を設定されれば、税金のお陰で販売価格は上昇し、当然ながら売り上げが落ちます。
その為、南部は、保護貿易主義には反対を唱え、関税をできるだけ低くする自由貿易主義を主張しました。

 この貿易をめぐる南北対立を、激化させたのが西部開拓でした。
フランスやスペインから獲得した新領土は、特定の地域で人口が増加し、一定の条件を満たすと、新たな州に昇格する事になっていましたが、この時、その新しい州に奴隷制度を認めるか否かが大きな問題に成って来たのです。
奴隷制度を認める州を奴隷州、認めない州を自由州と呼び、南部は奴隷州、北部は自由州です。
1819年迄は、22の州が在り、奴隷州11、自由州11と、両者は同数でしたが1820年に、ミズーリが州に昇格する時、北部と南部の対立が激化します。

 重要なのは、上院議員の数でした。
合衆国の上院は、各州から2名選出され、ミズーリ州が奴隷州に属するか、自由州に属するかで、北部南部の何れが国政の主導権を握る事に成ってくる訳です。
この時は、南北間で妥協が図られ、ミズーリ州は奴隷州と成りましたが、東部の自由州を分割して自由州も一つ増やす事で決着を図り今後については、新しい州ができた場合、北緯36度30分以北は自由州、以南は奴隷州にするというミズーリ協定がつくられました。

 ところが、紆余曲折の後、ミズーリ協定は破棄され、1854年のカンザス・ネブラスカ法で、州の住民投票で奴隷州か自由州かを決める事に成りました。
その結果、昇格直前の州に、奴隷州・自由州其々から移住者が流入し、多数派を占めようと画策し、住民どうしが武力抗争を繰り返します。
奴隷制度反対論者ジョン・ブラウンは、奴隷制論者を5人殺害して北部で英雄扱いに成りました(1856年)。
殺人で英雄扱いは、既に異様な状態で、以前の様に妥協によって、南北の対立を先送りする事が限界に近づいていました。

続く・・・

2012/08/16

人類の軌跡その451:アメリカ合衆国③

<アメリカ合衆国の発展その③>

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◎政治②

 西部開拓と関連して重要な人物が第七代大統領ジャクソン(在職1829年~37年)です。
東部の名門出身者が大統領に選ばれてきた中で、初の西部出身の大統領で取り分け有名で、西部出身の粗野な荒くれ男というイメージが、彼の「売り」なのです。

 彼にまつわるお話で、良く知られている話に、大統領に就任してから、書類を決裁する時に「All Correct」(承認)の略でACと書くべき所を、ジャクソンは綴りを知らなかった為、OKと書いてしまいました。
しかし、大統領の無学を指摘する事も憚られるので、そのままOKを使い続け、何時の間にか、普通の言葉になってしまったと云う逸話があります。
このお話は、決してジャクソンを馬鹿にしている逸話では無く、逆にアメリカ国民が彼に親しみを抱くプラスのエピソードだったのだと思います。

 近づきがたいエリートでは無く、西部出身の庶民の味方で、彼の人気は高かく、西部の小農民や南部の奴隷所有の農園主が熱烈にジャクソンを支持しました。
彼の時代に、普通選挙制度が各地に広がり、民主主義の発展した時代として、ジャクソニアン・デモクラシーと呼びます。

 ジャクソンは大統領になる前から、米英戦争で活躍した軍人として人気があったのですが、その「活躍」の中身は、先住民(ネイティブ・アメリカン)に対する迫害でした。
土地を求める白人地主・農民の為に、邪魔な先住民を追い払う事、その様な「実績」で人気が在ったのです。

 大統領に就任してからは、先住民の土地収用を合法的に大々的に実施しました。
先住民に対する強制移住政策を行い、豊かな土地で農業をしていた先住民の部族から、無理矢理に移住の同意を取り付け、僅かな補償金と引き替えに、西部の不毛な土地に移住させました。
チェロキー族は移住のその道程で、途中多くの死者を出し、その旅路は「涙の道」と呼ばれています。

 では新しい土地に移住させられ、先住民はどうやって生活して行ったのでしょう?
生活基盤を破壊された、先住民の人口は激減し、推計ですが、1845年には100万人以上を有した人口は、1870年には2万5千人、農地を奪われても、従来ならバッファローを狩る事で、先住民は生活を維持できたのですが、そのバッファローも白人の乱獲によって激減します。
1865年の1500万頭が、1880年には数千頭に迄激減しました。

続く・・・

2012/08/13

今日からお盆です

<お盆>

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小文字焼き

 お盆は正式には「盂蘭盆会」と言います。これはインドの言葉の一つ、サンスクリット語のウラバンナ(逆さ吊り)を漢字で音写したものです。

 お盆のはじまりについて「盂蘭盆経」の中の親孝行の大切さを説いた教えが昔から知られています。それは、「お釈迦様の弟子の中で、神通力一番とされている目連尊者が、ある時神通力によって亡き母が飢餓道に落ち逆さ吊りにされ苦しんでいると知りました。そこで、どうしたら母親を救えるのか、お釈迦様に相談にいきました。するとお釈迦様は、おまえが多くの人に施しをすれば母親は救われると言われました。そこで目連尊者はお釈迦様の教えに従い、夏の修行期間のあける7月15日に多くの層たちに飲食物をささげて供養したのです。すると、その功徳によって母親は、極楽往生がとげられました。」という話です。

 それ以来(旧暦)7月15日は、父母や先祖に報恩感謝をささげ、供養をつむ重要な日となったのです。わが国では、推古天皇の14年(606)に、はじめてお盆の行事が行われたと伝えられています。日本各地で行われるお盆の行事は、各地の風習などが加わったり、宗派による違いなどによって様々ですが、一般的に先祖の霊が帰ってくると考えられています(浄土真宗では霊魂が帰ってくるとは考えない。)日本のお盆は祖先の霊と一緒に過ごす期間なのです。

(資料提供:出版社名-鎌倉新書 出典名-2分でわかる仏事の知識)

さて、この時期、もう一つ思い出される行事。

「精霊流し」 8月15日に行われます。

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 1974年(S.49)、コーラスグループ“グレープ”が歌ったさだまさしさんの名曲でも有ります。
精霊流しは、長崎県の旧盆の伝統行事で、最近の一年間に亡くなった人の御霊を船に乗せて西方浄土に送るものです。
長崎の精霊流しを一度でも見た人は、爆竹が雨あられのように舞う喧騒(けんそう)の中で、歌詞にあるような「華やか」さを感じることがあるかも知れません。

 しかし、どんなに華やかで騒がしい中にあっても、これが新しく仏になった、精霊様を送る儀礼であることを思うとき、喧騒は消えてしまいます。
そこには、誰にも知られない、一人ひとりの深い思いがこめられており、他の人を近づけない静寂さえが感じられます。

8月14日から15日迄、ブロクの更新をお休み致します。
2012/08/11

人類の軌跡その450:アメリカ合衆国②

<アメリカ合衆国の発展その②>

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USS Constitution vs HMSGuerriere

◎政治

 ルイジアナ西部をフランスから買収した人物が、ワシントン、アダムズに続いて第三代大統領に就任したジェファーソン(在職1801年~09年)です。
ジェファーソン大統領就任について、民主主義の発展と良く云われますが、その意味は、ジェファーソンは初代大統領ワシントンのもとで国務長官を務め、同じくこの時副大統領のアダムズと政治方針で対立していました。
やがて、アダムズはフェデラリスト党、ジェファーソンはリカブリカン党の中心となり、アダムズは、第2代大統領に当選すると、フェデラリスト党で政府を固めて、リカブリカン党を弾圧しました。
ところが、第三代にはリカブリカン党のジェファーソンが選出されました。
重要なのは、対立する党派間であっても、政権交代がスムーズに行われた事で、民主主義の発展と後世に伝えられたのでした。

 此の間、ヨーロッパではフランス革命、ナポレオン戦争と、激動が続き、アメリカ合衆国にも影響を与えます。イギリスはフランスの貿易に打撃を与える為に、ヨーロッパに向かう合衆国の商船を拿捕し、通商を妨害します。合衆国はヨーロッパの戦争に対して、中立を宣言しているですが、大英帝国には通用しません。

 終にアメリカ合衆国は、イギリスに宣戦布告し、米英戦争(1812年~14年)が勃発します。
北米大陸で僅かな戦闘も行われましたが、アメリカとイギリスが雌雄を決する様な戦いは無く、合衆国はイギリスに攻め込む戦力は存在せず、一方イギリスも合衆国を必要に攻撃する意思は無く、ナポレオンの没落と共に、勝ち負けなく戦争は終わります。
しかしながら、この戦争により、イギリスからの輸入が途絶えた為、合衆国内で綿工業が発達しました。
イギリスからの経済的自立が達成された意味を踏まえて、この戦争を第二次独立戦争と呼ぶ事もあります。

 ナポレオンが没落し、ヨーロッパの秩序がウィーン体制で再編成されると、1823年、合衆国第五代大統領モンローが、いわゆる「モンロー宣言」を出します。
ナポレオン戦争に乗じて、独立を達成した中南米諸国を、スペインが再び植民地化しないように訴えたものです。ヨーロッパ諸国がヨーロッパで何をしようと、合衆国は干渉しない、反対に、ヨーロッパ諸国は新大陸に干渉する事を拒絶する内容でした。

 中南米諸国を新たな市場と考えていたイギリスが、モンロー宣言に同調した為、スペイン等神聖同盟諸国は干渉を行いませんでした。
モンロー宣言は、中南米諸国の独立を支援する為の宣言ですが、やがて、合衆国は中南米諸国を自国の勢力圏内と考える様に成って行きました。

続く・・・
2012/08/10

人類の軌跡その449:アメリカ合衆国①

<アメリカ合衆国の発展その①>

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19世紀中半のサンフランシスコ

◎領土の拡大

 1783年、パリ条約で独立を達成したアメリカ合衆国ですが、独立時の領土は大西洋岸からミシシッピ川迄でしたこの後、急速に領土を拡大していきます。
1803年には、フランスからルイジアナ西部を買収します。
地域的には、ミシシッピ川からロッキー山脈迄に相当し、領土は倍増しました。
当時、フランスはナポレオンが、ヨーロッパ制覇に乗り出している時期で、ナポレオンとしては、直接的に利益をもたらす事の無い北米大陸から撤退し、ヨーロッパ本土に覇権を集中する目論見であったと思われます。
合衆国はフランスに1500万ドルを支払いましたが、この金額が正当であるか否かは、判断できません。
1818年には、イギリス領カナダとの国境線を確定します。

 1846年にはテキサスを併合します。
テキサスは本来メキシコ領ですが、合衆国からの移住者が増えた結果、1836年にメキシコから独立し、テキサス共和国と成り、更に合衆国に併合されたものです。
合衆国は、メキシコからの領土獲得を画策しており(テキサス共和国は、メキシコ領だったカリフォルニアとニュー・メキシコに対する領有権を主張していました)、両国間で戦争となりました。

 アメリカ=メキシコ戦争呼ばれるこの戦闘は、1848年迄続き合衆国の圧勝で終わります。
一時はメキシコの首都メキシコ・シティを米軍が占領する程の戦闘遂行能力を発揮し、合衆国はカリフォルニアとニュー・メキシコを領土に加えました。

 カリフォルニアの北オレゴンは、1846年イギリスより併合し、合衆国は現在私達が地図で見慣れた形に成りました。

 西部への領土拡大を、アメリカ人は「明白な運命(マニフェスト・デスティニー)」と考えていました。
ここでアメリカ人とは、アングロ=サクソン(イギリス)系の、白人のアメリカ人で在り、彼等は、農地を切実に求めており、新しい領土はフロンティア(辺境)と呼ばれ、豊かな生活を求める農民達が移住、開拓していきました。

 辺境開拓の歴史の中で、有名な出来事が1848年、カリフォルニアでの金鉱発見です。
アメリカン川で金が発見されると、そのニュースはまたたくまに広まり、一攫千金を夢見てカリフォルニアに移住者が殺到しました。
ゴールドラッシュが始まり、カリフォルニアは人口が急増し、特に1848年の金鉱発見のニュースを聞いて、人が殺到した翌1849年でした。
その為、49's(フォーティーナイナーズ)というあだ名が、カリフォルニア人の通称に成っていると云います。

 西部辺境へ人が移動し、新しい町が次々に生まれて行きますが、行政機構の整備が間に合わず、なかでも、治安維持体制が万全でない中で、自衛の為に銃を持つことが当然とされました。
これが伝統となって、現在でも合衆国では簡単に銃を手に入れることができます。
先進国としては、異常な慣習に思えますが、歴史的な背景も存在しているのです。

続く・・・
2012/08/09

人類の軌跡その448:ラテンアメリカの独立⑥

<ラテンアメリカの独立その⑥>

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ブラジル:サン・フランシスコ教会(18世紀バロック様式)

◎独立後の政治と経済

 1825年迄にスペインから独立した南米諸国は、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイですが、これらの国家建設は中々順調に進みませんでした。
この独立は、クリオーリョ等植民地人達の組織的な政治運動の積み重ねの結果、勝ち取った訳では無く、ナポレオンに翻弄されたスペイン本国の動揺に付入ったものだった事。
しかも、ボリバル、サン・マルティンという軍事的天才の活躍に負う所が大きかった事。
後二人が、ラテンアメリカから去って行かざるを得なかったのは、彼等にはクリオーリョ層の永続的な支持を得る事が出来ないからでした。

 独立は達成しましたが、国家構想等は全然存在せず、どの国も政治体制が安定する迄に、可也の年月と混乱を経なければなりませんでした。
これは、メキシコも同様で、副王軍の将軍の裏切りで達成した独立なので、当事者の将軍が帝政を布告し、更に内乱の発生等、政治的安定は中々訪れませんでした。

 黒人共和国として出発したハイチに対しては、奴隷制度を廃止した国として何となく理想的な政治の実現を想像してしまうのですが、ここでも帝政を布告する将軍が登場、更には南北に分裂と紆余曲折を経ました。

 こうした政治の不安定さは、独立の過程だけが原因ではなく、経済的な要因も存在し、独立は果たしても経済構造は変わらず、少数のクリオーリョ地主による農業生産が中心で、工業は未発達のままでした。
ハイチではプランテーションが消滅し、小規模農民が多数生まれたのですが、農業生産性は著しく落ち込み、中産階級、中堅市民層が発展しませんでした。

 貿易は、イギリスに従属する形に成り、イギリスから安価な工業製品が流入し、工業は発展せず、輸出は、農作物と鉱業生産物が中心に成らざるを得ません。
以前から南米大陸を市場として狙っていたイギリスは、ラテンアメリカ諸国の独立によって、その目的を達成したのです。

 市場獲得を実現したイギリスは、ラテンアメリカ諸国の独立を歓迎しましたが、当時ヨーロッパ政界はメッテルニヒが主導するウィーン体制下に在り、自由主義や民族主義運動は抑圧していました。
従って、ラテンアメリカ諸国に干渉し、独立を抑え込む可能性も存在しましたが、この行動に一石を投じたのが、アメリカ合衆国大統領モンローが1823年に出した「モンロー宣言」です。
この中で、モンローは、今まで合衆国はヨーロッパの植民地に干渉した事は無く、既に独立したラテンアメリカ諸国にヨーロッパ諸国も干渉しない事、を謳っています。
アメリカ大陸とヨーロッパ諸国の相互不干渉を唱えたのですが、これは、合衆国が独立したラテンアメリカ諸国を市場として確保したかった野心の裏返しです。

ラテンアメリカの独立、終わり・・・

2012/08/08

人類の軌跡その447:ラテンアメリカの独立⑤

<ラテンアメリカの独立その⑤>

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「メキシコ独立の父」ミゲル・イダルゴ(Miguel Hidalgo:1753年5月8日-1811年7月30日)

◎メキシコの独立

 メキシコは、メキシコ市に副王が置かれ、南米のペルーと並んでスペイン植民地の中心の一つでした。
19世紀に入ると、独立を目指すクリオーリョ層の勢力が成長してきますが、それに劣らず副王政府の支配体制も強固でした。
1810年、ドロレス村の司祭イダルゴ神父の呼びかけで民衆反乱が勃発し、イダルゴ神父は「グアダルーペの聖母様万歳、悪いスペイン人(本国人)を追放せよ」というスローガンを唱え、先住民やメスティーソの気持ちを掴みました。
短期間の内に反乱軍は、6万人に及ぶ勢力に増加し、メキシコ市に向かって進撃を始めました。
此処でグアダルーペの聖母とは、キリスト教が先住民の間に浸透する間に信仰される様になった、メキシコの聖母です。

 この反乱は、最下層の人民からの素朴な独立要求とも言えますが、彼等は、進軍の途中で、白人に対する虐殺を行なった為、独立を求めるクリオーリョ層は、イダルゴの反乱勢力ではなく、副王政府側と協力し反乱鎮圧に回りました。
反乱軍は、人数が多いとは云え、農民層が中心であり、1811年イダルゴは捕まり処刑され、反乱は鎮圧されました。
副王政府は危機を乗り切ったかの様に思えたのですが、スペイン立憲革命の翌年の1821年、イダルゴ反乱軍の残党を鎮圧する為に出動した副王軍の将軍が、副王政府を裏切って独立宣言を出すと云う形で、本国から独立してしまいました。
この事件は、スペイン政府の権威が地に墜ちていた結果と云えるかもしれません。

◎ブラジルの独立

 ポルトガルの植民地であったブラジルは、スペイン領とは違う経過を辿って独立します。
ポルトガルはイギリスとの関係が深く、ナポレオンに屈服しなかった為、1807年、ナポレオン軍がポルトガルに侵攻すると、政府宮廷がイギリスの艦隊に守られてブラジルに避難し、植民地が本国扱いに成りました。
宮廷が疎開したリオ・デ・ジャネイロは、この間に整備され、都市として発展します。

 ナポレオン没落後、1822年に国王はポルトガルに帰還するのですが、この時ブラジルに残留した皇太子が、ブラジル帝国の独立を宣言し皇帝に即位して本国から独立しました。

続く・・・
2012/08/07

人類の軌跡その446:ラテンアメリカの独立④

<ラテンアメリカの独立その④>

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サンマルティン将軍像Jose' Francisco de San Marti'n

◎南米スペイン植民地の独立②


 同じ時期、アルゼンチンのサン・マルティンもペルー攻略の必要性を考えて、軍事行動を起こしていました。
時代が遡りますが、ナポレオン戦争中の1806年、イギリス軍がアルゼンチンのブエノスアイレスを占領した事があり、此の時、ブエノスアイレスのクリオーリョ達が、スペイン軍の力を借りずにイギリス軍を追い出すことに成功して以来、ブエノスアイレスは独立派が強く、1816年にはリオ・デ・ラプラタ連合州として独立を宣言しました。

 当時、ブエノスアイレスは、アルゼンチンで成長しはじめた農牧業の皮革輸出港として栄えていましたが、南アメリカ全体からみると、経済的にも政治的にも大きな影響力を持っていませんでした。
従って、スペイン本国が立ち直り、ペルー副王が勢力を盛り返せば、独立は潰されてしまう可能性が高かったのです。
そこで、情勢が有利なうちにペルー攻略を計画した人物が、アルゼンチンの軍人サン・マルティンです。
現在のボリビアからペルー方面に侵攻する方法が最短距離なのですが、ボリビア方面の副王軍は強力で簡単に攻め込む事が出来ず、その為、サン・マルティンはアンデスを越えてチリに進出し、チリから海路ペルーに向かうという作戦を立てます。

 1818年、約5000の兵力を率いたサン・マルティンはチリに進入し、スペイン軍を破りチリを解放、チリで艦隊を整え1820年にはペルーの海岸に上陸、21年にはリマに入城しペルーの独立を宣言しました。
只、此の時ペルー副王軍は、戦略的にリマから高原地帯に撤退したもので、その勢力は依然として優勢であり、サン・マルティンは、その後の方策に行き詰まってしまいました。

 時を同じくして、北からボリバル軍が南下、エクアドルを解放したのです。
サン・マルティンはエクアドルのグアヤキルに赴き、ボリバルと会見します。
この時、如何なる話し合が行われたか、不明なのですが、サン・マルティンの援軍要請をボリバルが拒否したらしいのです。
此の後、勢力を保てなくなったサン・マルティンはチリに撤退し、変わりにボリバルの軍隊がペルーに進出、1823年には副王軍を破りペルー解放に成功します。
25年には、ボリバル軍は上ペルーで最後迄残っていたスペイン軍を破り、上ペルーを解放します。
此の時に上ペルーは、ボリビアとして独立を宣言しました。
因みに、この国名はボリバルの名からつけられたものです。

 この時期がボリバルの活動の絶頂期で、アルゼンチンとチリを除くスペイン領南アメリカをほぼ独力で解放したのです。
次の段階としてボリバルは、これら総ての地域を統合した国家建設を目指しましたが、各地域はボリバルの統制から離れて独自に国家形成をはじめ、ボリバルはこの潮流を止める事が出来ず、失意の内にヨーロッパに去る決意をし、渡欧直前の1830年に持病の結核が悪化して死去します。

 一方のサン・マルティンは、リマを去った後は、やはり失意の為に隠遁生活に入り、1824年にはフランスに渡り、世間からすっかり忘れ去られたまま1850年に世を去りました。
ボリバルもサン・マルティンも、現在はラテンアメリカ独立の英雄として讃えられていますが、その晩年は寂しいものが在ります。

続く・・・
2012/08/06

人類の軌跡その445:ラテンアメリカの独立③

<ラテンアメリカの独立その③>

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サン・マルティン(左)とシモン・ボリバル(右)

◎南米スペイン植民地の独立

 スペイン領の独立もナポレオンが本国にもたらした変動をきっかけに始まりました。
ヨーロッパを支配下に置いたナポレオンは、1808年、スペインでブルボン家の王を退位させ、自分の兄ジョセフをスペイン王として即位させましたが、スペイン国民の多くはこれを認めず反乱を起こし、各地に評議会とよばれる自治政府が成立しました。

 アメリカ大陸のスペイン植民地は、いくつかの副王領に分けられ、スペイン国王から任命された副王によって統治されていました。
各地の副王は、ナポレオンの兄のスペイン国王を支持すべきか、評議会側つまり前の国王政府を支持すべきか迷います。
植民地当局の動揺は、独立を求めるクリオーリョ達にとっては絶好機で、政治的経済的にスペイン本国の植民地政策に不満を持っていた彼等が中心に成り、1810年には南米各地で自治と独立を求めて評議会が作られていきました。具体的には、ベネズエラのカラカス、アルゼンチンのブエノスアイレス、チリのサンチャゴ、コロンビアのボゴダ。

 但し、これ等の活動が直ぐに独立そのものに結びついた訳では在りません。
カラカスを中心とするベネズエラでは、1811年に独立宣言が出されますが、スペイン軍によってカラカスは直ぐに制圧されてしまいます。
これに屈せずに、スペインからの独立を目指して戦い続ける人物がカラカス出身のクリオーリョ、シモン・ボリバルでした。

 1811年以後、ボリバルはスペイン軍とカラカスの争奪戦を繰り返します。
1814年にナポレオンが没落し、復活したブルボン王家が植民地の独立派に対して攻勢をかけるようになると、追いつめられてイギリス領のジャマイカに亡命しますが、その後も、黒人共和国のハイチに支援を求め、粘り強く活動を継続しました。

 ベネズエラでの運動が行き詰まったボリバルは、攻撃の矛先をヌエバグラナダ(現コロンビア)の中心都市ボゴダ(現コロンビアの首都)に変え、1819年、スペイン軍を打ち破りボゴダを副王の支配から解放しました。
ここから、ボリバルの大活躍が始まります。

 まず、ボリバルは大コロンビアの樹立を宣言します。
コロンビアは、コロンブスに因んで命名された国名ですが、大コロンビアは現在のコロンビアとは異なり、現コロンビアにベネズエラ、エクアドル、パナマを含めた地域でした。
しかし、実際にはこの時点でベネズエラもエクアドルもスペインが実効支配しています。
 
 ボリバルは南米の植民地を一つにまとめて独立をしようとしていますが、地域毎の利害関係が異なる為に各地のクリオーリョ達は互いに対立し、それぞれ別個に独立を求めています。
しかし、この段階では、一先ず剣を収めて、独立軍を率いてスペイン軍と戦っているボリバルを支援しようとしました。
 
 この後、1820年にスペインで立憲革命が起こり植民地への圧力が弱まると、ボリバルは、21年にカラカスをスペインから奪回し、ベネズエラを解放、翌22年にはエクアドルの中心都市キトを解放しました。
ボリバルは更に南のペルーの攻略を目指します。
ペルーはインカ帝国の中心地域だった地域で、副王が置かれたリマは、スペイン本国による南アメリカ支配の拠点でした。
リマ副王府の支配体制は強固で、スペイン本国の政治情勢の変化にも揺らぐ事はありませんでした。
スペイン本国の情勢の変化によって、植民地の独立運動が左右されてきた事を考えると、大コロンビアの独立を確実なものにするには、情勢が有利なうちにスペイン支配の拠点であるリマ及びペルーの攻略をしておかなければならないと、ボリバルは考えたのです。

続く・・・
2012/08/04

人類の軌跡その444:ラテンアメリカの独立②

<ラテンアメリカの独立その②>

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サントドミンゴの戦い

◎ハイチの独立

 18世紀後半、イギリスの13植民地でアメリカ独立革命が発生しても、ラテンアメリカの植民地では独立への動きはありませんでした。
ラテンアメリカで独立へ向けた具体的な動きは、フランス革命とナポレオン戦争と云うヨーロッパの大変動の影響によって始まりました。

 ラテンアメリカの独立はハイチに始まります。
ハイチは、西インド諸島イスパニョーラ島の西側に位置するフランス植民地で、この島はハイチ島、サント・ドミンゴ島と色々な呼ばれ方をしますが、本来島全体がサント・ドミンゴと呼ばれるスペインの植民地でしたが、17世紀中頃から島の西部にフランス人がスペインに無断で居住を始め、事実上西部を占拠してしまいます。
衰退しているスペインは、フランス勢力を追放する力は既に存在せず、17世紀末にはフランスの行為を追認し、正式にフランスの植民地サン・ドマングが成立しました。
当時の地図を見ると、島の真ん中に直線で国境線が書かれています。
ここでフランス人入植者達は黒人奴隷を使役して、サトウキビ栽培で利益を上げて行きました。
(ハイチの人口構成は、白人4万人、黒人奴隷45万人、ムラート及び自由黒人3万人)

 1789年、フランス本国で革命が始まり、サン・ドマングからも三部会とそれに引きつづく国民議会に議員が送られました。
彼らは、勿論白人プランテーション経営者の利害を代表していたのですが、フランス革命が進行すると、議会では、彼らの意図に反して、奴隷制廃止や自由黒人とムラートへの参政権付与などが検討されはじめます。
その話が伝わったサン・ドマングでは、1791年に島の北部で黒人奴隷が反乱を起こし、南部ではムラートと白人の対立が激しくなり、1792年にはフランス本国の国民公会から、ジャコバン派の政治委員が着任しましたが、奴隷を所有する島の白人は反革命ですから、混乱は更に深まり、1793年、対仏大同盟が発足し、フランスが周辺諸国と交戦状態になると、イスパニョーラ島東部のスペイン植民地から、スペイン軍とイギリス軍が西部のサン・ドマングに侵攻して来ました。

 この時に登場するのが、黒人奴隷反乱のリーダーの一人だったトゥーサン・ルーヴェルチュールです。
解放奴隷で可也の教養が在り、彼は、ジャコバン派政府と手を結ぶと、スペイン軍とイギリス軍を撃退し、サン・ドマングの実権を掌握、フランス政府は、サン・ドマングを敵国の侵略から守る為には、トゥーサン・ルーヴェルチュールの協力が不可欠な事から、1799年には彼をサン・ドマングの副総督兼総司令官に任命します。
国民公会は既に1794年に奴隷制廃止を宣言しており、トゥーサン・ルーヴェルチュールの下で、サン・ドマングの奴隷制は終焉を迎えました。
1801年には、トゥサン・ルーヴェルチュールは独自の憲法を発布してサン・ドマングの終身総督に就任し、事実上の独立に向けて動き出します。

 1802年、フランスで独裁者となったナポレオンが、アミアンの和約でイギリスと和平を結ぶと、フランス艦隊はイギリス海軍に妨害されず大西洋横断ができるようになりました。
ナポレオンはサン・ドマング独立の動きを許さず、2万2千の遠征軍を送ってトゥーサンを捕らえ、フランスに送られたトゥサンは1803年に獄中で死亡します。
しかし、トゥーサン・ルーヴェルチュールの部下の抵抗によってフランス軍はサン・ドマングを制圧に失敗し、1804年にはサン・ドマングは国名をハイチとして独立を宣言しました。
世界初の黒人共和国の成立で、アメリカ大陸及びカリブ海地域では、アメリカ合衆国に次ぐ2番目の独立国と成りました。

続く・・・
2012/08/03

人類の軌跡その443:ラテンアメリカの独立①

<ラテンアメリカの独立その①>

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ハイチ:シタデル要塞

◎ラテンアメリカの住民構成

 ラテンアメリカとは、ラテン系民族の国家であるスペインとポルトガルの植民地となった、アメリカ大陸の地域を指しています。
具体的には、中南米とカリブ海地域で、現在のアメリカ合衆国とカナダ以外の地域です。
この地域が、1810年代以降、次々と独立を達成していきます。

 スペインの植民地の場合、支配者はスペイン人ですが、これは二つのグループに分かれます。
一つはスペイン本国人で、現在は植民地に来ているが、スペイン本国で生まれ、いずれは本国に帰国するだろう人々。
もう一つは、植民地で生まれ育ったスペイン人でクリオーリョと呼びます。
スペイン本国政府からみれば植民地は、本国を豊かにする為の領土ですから、重商主義政策によってその富を吸い上げようとします。
結果として、植民地生まれのクリオーリョは、経済的には本国政府に不満を持ちます。
此れは、イギリスと北米13植民地の関係と同様でした。

 次に先住民、インティヘナです。
北米と違って、中南米にはアステカ帝国、インカ帝国など高度な文明国が繁栄していた結果、メキシコ、ペルーでは先住民の人口も多く、(メキシコ中央高原の先住民推定人口は、1518年で2520万人、インカ帝国の人口推計は、400万~1500万の幅が存在しますが)少数のスペイン人が直接統治するのは不可能で、先住民の首長層を利用して間接支配を行いました。
又、スペイン国王は理論上、先住民をスペイン人と同様に臣民としていました。
この部分は、イギリス人が先住民を単なる邪魔者として、その存在を無視した態度と大きく異なるところです。

 先住民は、スペイン人が持ち込んだ各種の伝染病に対して免疫が存在せず、17世紀前半迄に極端な人口減少が続きましたが、その後は人口増加に転じます。
又、メスティーソと呼ばれる、先住民とスペイン人の混血の人々も多く、分類上は先住民に入れて考えます。
(インカ帝国を滅ぼしたピサロは、インカ皇帝一族の娘達との間に複数の子供をもうけ、子供の一人はピサロの遺産を相続しています。)
 
 労働力不足を補う為にアフリカ大陸からつれてこられた奴隷、及びその子孫の黒人もカリブ海地域やブラジルでは大きな比重を占め、黒人とスペイン人の混血の人々は特にムラートと呼ばれました。

続く・・・


2012/08/02

人類の軌跡その442:オスマン・トルコ帝国の衰退②

<露土戦争②>

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ベルリン会議

◎露土戦争その②

 この休戦条約で在るサン=ステファノ条約は、ロシアが大ブルガリア国の独立をオスマン帝国に認めさせました。これは、ロシアの南下政策にとっては、画期的な成果でした。
大ブルガリア国の領土は、現在のブルガリアよりも可也広く、黒海海岸を領土に持つと同時に、地中海岸にも領土が存在し、結果として大ブルガリアの地中海岸の港にロシアの軍艦を配備する事により、ボスフォラス海峡とダーダネルス海峡を通過しなくても、地中海で軍事行動を実行可能と成ります。
クリミア戦争後、両海峡は軍艦の通航が禁止されている為、ロシアにとって最大の戦略的効果を行使できると共に、大ブルガリアはロシアのおかげで独立し、完全なロシアの同盟国となります。
ロシアの要求を拒絶する筈は無く、ブルガリアの港がロシアの軍港として利用されるのは確実でした。

 この条約の条項に強い反発を行った国が、イギリスとオーストリアでした。
イギリスは、東地中海地域を勢力圏に置き、ロシアの南下政策を止めたい、一方オーストリアは、バルカン半島に領土的野心を持っていたので、大ブルガリア国の成立によってロシアの勢力が拡大する事を阻止したかったのです。
両国は、サン=ステファノ条約に反対してロシアと対立し、ロシアとイギリス・オーストリア連合の戦争が勃発する可能性が極めて高く成りました。

◎ベルリン会議

 一触即発の国家間情勢の中、ドイツの宰相ビスマルクが、この対立の仲裁を行いました。
当時ビスマルクは、海外に植民地を持つ、更にはドイツの勢力圏を拡大する事は、一切考慮外の事でした。
ビスマルクには、ドイツの内政整備が最重要課題で、ドイツ帝国成立以来年数も少なく、建国以来10年を経過していません。
国内問題に専念し、その為には、平和を欲していたのです。
ドイツが戦争を好まなくても、国境を接する他国が戦争を始めれば、当然その影響がドイツにも及び、国内政治に専念する為の条件として、ビスマルクは「ヨーロッパの安定」を何よりも望んでいまいした。
ロシアもオーストリアもドイツの隣国ですから、この両国が戦火を交える事は絶対に阻止したかったのです。

 ビスマルクは「誠実な仲介者」として、戦争回避の為の会議を呼びかけ、各国に於いても、戦争を行う事無く問題を解決できるのなら、ぜひとも戦争は回避したい。
ビスマルクに領土的野心が無い事は、周知の事実で、この提唱に応じて1878年ベルリン会議が開かれます。

 会議の結果締結された条約がベルリン条約で、内容は以下の通りです。

1、ブルガリアは領土を縮小して、オスマン帝国内の自治国とする。
この意味は、地中海岸の領土を削り、ロシアの南下政策を阻止しますが、ロシアの面目丸つぶれと成り、「誠実な仲介者」の意味に成らない事から、ブルガリア以外にも、スラブ人の国家の独立を承認しました。
新たに独立を認められた国が、セルビアとモンテネグロ、スラブ系ではありませんが、ルーマニアも独立を承認されました。

 しかしスラブ系国家の独立が増加すれば、バルカン半島にロシアの影響力が大きくなります。
その為、
2、オーストリアと国境を接するオスマン帝国の二つの地域ボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権をオーストリアに与える。

3、イギリスはキプロス島を獲得、キプロス島は、シリア・パレスティナ・エジプト方面に対する戦略的要衝です。

 処でオスマン帝国は、自分の領土を割譲され、独立させられていますが、この会議には召集されませんでした。
当に弱体化の極みと云わざるを得ません。

オスマン・トルコ帝国の衰退、終わり・・・
2012/08/01

人類の軌跡その441:オスマン・トルコ帝国の衰退

<露土戦争①>

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◎19世紀後半のヨーロッパ諸国

 オランダ・ベルギー両地域は、ヨーロッパでも先進地域であり、立憲君主国として工業が発展します。
スペイン・ポルトガルは、商工業ブルジョアジーの基盤が弱く、大地主による政治支配が続いています。
スウェーデンでは、19世紀初頭に憲法を制定し、責任内閣制度が確立。
ノルウェーは、当時、ウィーン会議後スウェーデン領に成っていましたが、1905年に国民投票で独立を果たします。
デンマークでは、1864年、デンマーク戦争でシュレスヴィヒ・ホルシュタイン地方をドイツに割譲され、農業牧畜による経済建設を進めていました。
フィンランドは、1809年以降ロシアの支配下と成りますが、1917年に独立。
スイスは、1848年に民主的連邦制憲法を制定。

◎露土戦争

 オスマン帝国の弱体化に関しては、以前にも触れましたが、ヨーロッパで勃興していた政治や経済の変化を取り入れる事が出来なかった事が、衰退の大きな原因です。

 オスマン帝国のヨーロッパ部分の領土がバルカン半島で、オスマン帝国の弱体化に迎合する様に、このバルカン半島でスラブ人による民族運動が活発化していきます。
これを、汎=スラブ主義と呼び、スラブ人の大国であるロシアが、この汎=スラブ主義の運動を後押ししていました。
オスマン帝国内のスラブ人の独立運動を支援するこの行為は、当に南下政策の表れで、ロシアの友好国乃至は同盟国を形成する事によって、南方に勢力の拡大を図り始めた結果でした。

 具体的に、1875年には、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでオスマン帝国の支配に対して反乱が起こり、ブルガリアでも独立運動が起こります。
当然、これ等はオスマン帝国によって、弾圧されましたが、背後に存在するロシアとオスマン帝国の対立は、一層根深いものに成りました。

 険悪な空気が漂う中、終にロシアとオスマン帝国の間で、砲火を交える事態が発生しました。
1877年から78年迄続いた露土戦争で、オスマン帝国内のスラブ人救済を名目にロシアが宣戦してもので、戦争が長期化し、クリミア戦争の時のようにイギリスやフランスが介入する事が無い様、ロシアは戦いを有利に進めると、急いで休戦条約を締結しました。

続く・・・