2012/09/29

人類の軌跡その484:アヘン戦争以後の中国③

<太平天国その③>

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◎太平天国

 1851年、洪秀全は広西省金田村で挙兵し、反乱の名前は太平天国、挙兵時の拝上帝会会員は1万から2万だったといいます。
老若男女を含む大集団は、清軍と戦いながら北上を開始しました。

 太平天国軍は信仰のもとに団結し、規律が厳格に守られ、腐敗した清の正規軍よりも強力でした。拝上帝会に入会し、反乱に参加した信者は全員、すべての財産を拝上帝会に寄進します。
その為、負けたら何も一切が消滅、勝つしかないです。
又、信仰心で自分たちの正義を信じているから強く、軍隊と称しても、貧民の集まりですが、男女を分けて軍隊を組織して、夫婦といえども別々に行動しました。
博奕やアヘンは絶対禁止、略奪行為も許されず、必要な食糧や物資は支給されました。

 戦闘に勝利を治め、何れかの町を占領すると、役所の倉庫や地主、商人等の金持ちから、食糧・物資・財産を没収し、太平天国軍共同金庫で保管します。
信者への配給品はそこから配られ、没収した食糧等は、占領地の貧民にも配給された為、貧民の多い一般民衆は太平天国軍がやってくるのを待ちわびています。
占領地に対して3年間の租税免除も宣伝したから、太平天国への支持は急拡大しました。
略奪暴行等悪業の限りを尽くす、清朝正規軍は民衆の支持が全くなく、清軍が負けるのは当然です。

 太平天国軍は清朝正規軍を撃破し、占領地を拡大しながら北上をつづけ、1853年に南京を占領し、ここを首都にして天京と改名しました。
拝上帝会の会員数は100万に達しまし、この段階で中国南部の広大な地域を勢力下に置いており、清という国の中に、太平天国という国が成立している状態に成りました。

 しかしながら、反乱勢力で在り、正規の国家では在りません。
洪秀全等、太平天国の指導者は、清朝打倒をめざし、北伐軍を北京に出撃させましたが、これは失敗し、清朝を滅ぼすという目標は遠のきました。
以後は、支配地域を維持しようとする太平天国側と、これを壊滅させようとする清朝との戦いが約10年間続きます。

続く・・・
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2012/09/28

人類の軌跡その483:アヘン戦争以後の中国②

<太平天国その②>


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◎洪秀全②


 いくら優秀でも、簡単に受からないのが科挙です。
因みに、洪秀全の住んでいた地域の受験場所は広州でしたが、一回目の受験は当然失敗、二回目の挑戦が1834年、この時も、不合格でしたが、受験会場のそばでキリスト教のパンフレットを貰いました。
唯一の貿易港広州には、すでに中国人のキリスト教信者がいて、未来の官僚に布教活動をしていたのです。
このパンフ『勧世良言』という題名ですが、家に帰った洪秀全は、これを書棚に放り込んだままで読みませんでした。

 1837年、三回目の受験をしますが、これも失敗し、流石にこの不合格は堪えた様子で、そのあと、洪秀全は高熱を出して寝込んでしまいました。
高熱で苦しみながら、洪秀全は夢を見ました。
夢の中で竜や虎や牡鶏や多くの人に導かれて、光り輝く場所に着き、案内されるままに大きな宮殿のような建物の中に入っていくと、豪華な大広間が在り、高いところに金色の髭を生やした老人が座っていました。
その老人が洪秀全を見て涙を流しながら言います。
「世界中の人間はわしが作り、わしが養っているのに、人間たちは皆わしを忘れて悪霊を崇拝している。悪魔を絶滅し、兄弟姉妹を助けよ。」
そう言って、ひとふりの剣を洪秀全に授けました。
変な夢で、それ以外にも、夢の中で洪秀全が兄と呼ぶ中年の男がしばしば現れて、一緒に悪霊退治を行います。
洪秀全は夢の意味がわからないままに、やがて熱も下がり、夢も見なくなります。
彼は、再び受験勉強を始めたわけですが、夢のことはずっと覚えていました。

 1843年、四回目の受験です。アヘン戦争直後の広州での受験だから、いろいろなことを感じたと思います。
結果はまたもや不合格、落胆して家に帰った洪秀全は、かつて書棚に放り込んだままだった『勧世良言』を、ふと手にとって読み始めました。
結果、かつて見た不思議な夢が、今読んでいるキリスト教のパンフレットで解釈できるとかれは思ったのです。

 つまり、夢に出てきた老人は神、兄はイエス・キリスト、そして、自分は神の子で、イエスの弟だったのです。
人びとが信じている邪教は、儒教の事で、孔子廟とか、さまざまな偶像をつくって拝んでいます。
この偶像こそが老人が言っていた妖魔にちがいないと、この様に、キリスト教の教えを、どんどん自分に引きつけて解釈していきました。

 こうして、自分が神の子、イエスの弟、救世主と確信した洪秀全は、科挙の勉強を放棄し、宗教結社「拝上帝会」を興しました。
上帝とはヤハウェ神のことです。

 布教活動をはじめると、最初は幼なじみの受験仲間などが信者になり、1847年ころからは広西省の紫荊山区という山間の貧しい地域で、客家・貧民・少数民族中心に信者が増え始めました。
拝上帝会は、キリスト教の影響を強く受けているので、神の前の平等を説きます。
これが、アヘン戦争後急速に生活が悪化した人びと、その中でも差別に苦しむ人々の気持ちをつかんだのでした。

 また、拝上帝会は偶像崇拝を否定しましたが、中国は偶像崇拝の国です。
儒教でも、仏教でも、偶像をつくって拝むのは当たり前ですが、洪秀全たちは、それを悪だと教えるのですから、一般の中国人と馴染むはずが在りません。
拝上帝会は、実際に行動し、村の廟に祭られている孔子様の像や、関帝廟や様々な信仰の対象となっている像を壊します。
やがて、土地の有力者からにらまれ、政府の役人から迫害されるようになりました。
こうして、ついに洪秀全は地上に天国をうち立てるため挙兵を決意しました。

続く・・・

2012/09/27

人類の軌跡その482:アヘン戦争以後の中国①

<太平天国その①>

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◎アヘン戦争後の中国

 アヘン戦争後、中国南部の民衆の生活が悪化しますが、その原因は大きく二つに求められます。
一つは、清朝政府による重税で、清朝はアヘン戦争に関わる戦費の調達、賠償金の支払いの為に増税を行いました。
ここが不思議なのですが、清朝は、増税を全国一律で行いません。
アヘン戦争に関連した中国南部の地域でだけ、増税を行い、戦争で荒廃している処に増税なので、民衆の負担はさらに大きくなりました。

 二つめの原因が、通商交易路の変化です。
南京条約で上海が開港されると、貿易の中心が広州から上海に移り、上海は中国の中央部を流れる長江の下流に在り、また長大な南北海岸線のほぼ中央、当に広大な中国大陸の要衝です。
広州は中国最南部で不便な場所ですから、上海に交易の中心が移るのは当然です。

 それまでは、各地の産物を広州に運ぶ為に、中国南部の民衆の多くが陸上運送に関わる仕事をしていたのですが、広州の港が衰退し彼等の多くは仕事を失いました。
そこに、増税なので、当に踏んだり蹴ったりなのです。
生活基盤が崩れていくという状況が広がっていました。

◎洪秀全

 生活困窮し疲弊している中国南部に、新しい宗教が生まれました。
この宗教を作った人物が洪秀全(1813年~64年)、広西省の客家(ハッカ)出身です。
ここで客家とは、中国南部に広く分布している人々で、普通の中国人とは文化風習や言葉が少し異なり、宋代の頃、戦乱から逃れて中国北部から移住してきた人びとの子孫だと言われています。
後から移住してきたので、その多くが人の住んでいない山間部の荒れた土地に住みつきました。
そのため、客家の多くは貧しく、周囲の人々と溶けあわず独自の文化を守りつづけた為、差別されていました。
洪秀全は、その様な客家の人です。

 中国では、いくら貧しくても、一発逆転で富と名誉を手に入れる方法が有りました。
それが、科挙です。
科挙は男子であれば、誰でも受験する事が可能で、客家でも問題は在りません。
しかしながら、超難関試験で誰でも簡単に合格できる試験では無く、今日で言う秀才型でないと合格は難しいものでした。
従って、中国では、神童と呼ばれる様な賢い男の子が誕生すると、親戚中でお金を出し合って、塾に行かせて科挙の準備をさせます。
もし、その子が科挙に合格して、官僚になれば一族全員が間違いなく大金持ちになれるからです。

 洪秀全は、まさしくその様な神童で、親戚全員から期待されて、一族の総てが朝から晩まで野良仕事をしている中で、小さい頃から一人、勉強だけをさせられました。

続く・・・

2012/09/26

人類の軌跡その481:アジアに翻るユニオンジャック⑭

<アヘン戦争その⑨>

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南京条約締結

◎アヘン戦争②

 一方、北京の宮廷では、イギリス艦隊が広州に去ると強硬論が強まりますが、実に政治方針が場当たり的で節操が無く、政府は琦善が結んだ条約案を拒否し、琦善は解任、北京へ呼び戻されました。

 条約案は決裂し、広州とその周辺で清軍とイギリス軍との戦闘が始まりました。
しかし、林則徐が作り上げた防衛体制は消滅しており、総ての戦闘でイギリス軍が圧倒的優勢を保ち、各地で暴行略奪の連続でした。
一方の清軍は、装備は劣り、士気規律が全く無く、近代的な国民軍ではないので、清の兵士が同じ中国人に対して暴行略奪を行い、しかもイギリス軍が攻撃を開始すると、戦わずに逃亡を繰り返します。

 住民達は、自分達の村を自衛するしかなく、連敗の中国側で唯一イギリスを迎撃した軍事組織がこの農民自衛組織でした。
広州郊外の三元里の農民2万人が平英団と呼ばれる自衛軍を組織し、イギリス軍部隊1000人を包囲するという事件がありました。

 この様に地元の住民達を組織して戦えば、武器が劣っていても、勝つ可能性は存在したかも知れませんが、清の政治家達にはそんな発想は在りませんでした。
平英団も、広州知府(広州の行政長官)の圧力で解散させられ、イギリス側が広州知府に包囲されたイギリス部隊の救出を要請して、その為の解散命令なので、清朝の役人は誰の味方なのか理解に苦しみます。

 広州一帯を荒らし回ったあと、1841年8月、イギリス艦隊は再び北上、廈門(アモイ)、寧波(ニンポー)などを制圧し、42年5月には長江に入り、7月、大運河の入り口に当たる鎮江を占領し、大運河を封鎖した為、8月ついに清朝は降伏し、南京条約を締結しました。

 南京条約の内容は、五港(上海、寧波、福州、廈門、広州)の開港、公行の貿易特権の廃止、香港島をイギリスに割譲、賠償金2100万ドルの支払い、イギリスの領事裁判権の承認、関税自主権の放棄等が謳われていました。
この条約こそ、中国が結んだ最初の不平等条約で在り、五港開港は、開港場を増やす事で、中国市場へイギリスの工業製品を売り込む狙いです。

 この条約は、アヘン取締を発端に起きた戦争で有るにも関わらず、アヘン貿易については一言も触れていません。
イギリスにとって、麻薬貿易は不名誉な事なので、あえて条約には書かなかったと考えてください。この戦争のあと、清朝はアヘン貿易を公然と黙認(?)し、イギリスにとっては事実上アヘン貿易を認めさせたのと同じ事です。

 1844年には、アメリカとフランスが、清朝に迫り同様の条約を締結し、アメリカとの条約が望厦(ぼうか)条約、フランスとの条約が黄埔条約です。

※余談。
戦争の発端と成った林則徐は、1841年にアヘン戦争の責任を問われ、中央アジアのイリ地方に左遷されました。
林則徐はイリでも行政官として多くの仕事を残し、民衆から慕われ長く語り継がれました。
没年は1850年。

 林則徐は欽差大臣を解任されたとき、広州で収集したすべての外国情報を友人の魏源に託しました。魏源はその資料をまとめて『海国図志』を著しました。
この本はすぐに日本に伝えられ、幕末の志士たちが世界情勢を学ぶ貴重な情報源と成ったのです。

アヘン戦争・終わり・・・

2012/09/25

人類の軌跡その480:アジアに翻るユニオンジャック⑬

<アヘン戦争その⑧>

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◎アヘン戦争

 アヘンの没収と処分は終了しましたが、今後もアヘン貿易を行わない事を約束する、誓約書が提出されません。
林則徐は、イギリス商人に誓約書を要求しましたが、エリオットは断固としてこれを拒否しました。
このままでは貿易を認める事は当然不可能で、林則徐はイギリス商人を広州から追放しました。
この間に、アヘン貿易と関係ないアメリカ商人は誓約書を差し出して広州での貿易量を増加させました。
この様な状況の中、イギリス商人にも、誓約書を出して貿易を行おうとする者も現れましたが、エリオットは抜け駆けを許さず、兵粮攻めにされた上、アヘンを没収された事も許せず、そのアヘンを全て処分されてしまった事も許せません。
イギリスの体面としての問題でも在り、今後アヘン貿易が不可能ならば、イギリスに利益をもたらす事は出来ません。
上記の理由から、誓約書を出す事は出来ず、広州を追い出されたイギリス人達は、マカオに一時避難しますが、ここも追放され香港島周辺で機会を伺いました。

 一方、イギリスでは林則徐によるアヘン没収処分のニュースが伝わると、報復の為戦争をするべきとの議論が高まります。
しかし、麻薬の密輸をして、その麻薬を没収されたから報復するのでは、道理が通りません。
イギリスの政治家にも流石にそう考える人物が居ました。
自由党のグラッドストンは議会でこの様な演説をしています。
「中国にはアヘン貿易を止めさせる権利がある。…これほど不正な恥さらしな戦争は、かつて聞いたことがない。…国旗の名誉はけがされた…。」
しかし、多数決の結果は開戦賛成271、反対262、1840年2月、イギリス政府は出兵を決定しました。

 林則徐は、アヘンを処分して以来英字新聞などを入手して、しきりに海外情勢を研究しました。
イギリスが報復の為、実力行使にでるかもしれないと予想し、広州周辺の沿岸漁民を民兵に組織して軍事訓練を行い、広州湾近辺の要所要所に砲台を築く等、戦争に備えて防備を固めました。

 1840年6月、軍艦16隻、輸送船27隻、陸軍約4000人のイギリス軍が中国に到着しました(42年5月には軍艦25隻、陸軍1万6千人等の援軍到着、うち8割はシパーヒー)。
イギリス軍は、林則徐によって広州周辺の防備が固められている事を察知し、沿岸を北上、杭州湾沖にある船山列島を占領し、渤海湾に入り天津に向かいました。
天津は北京に一番近い港湾都市で、アヘンをめぐるイギリスとの抗争は遠い広州の出来事と考えていた清朝宮廷は、イギリスの艦隊が北京に近づくと大変動揺したのです

 林則徐の抜擢を苦々しく思っていた弛禁論の官僚たちは巻き返しに出ました。
この責任は林則徐の責任で在り、彼を罷免しろという声が政府内で大きくなります。
この様な状況に陥り、道光帝その人の、心が傾いてしまいます。
イギリス艦隊を北京から遠ざける為、道光帝は林則徐を解任、変わって弛禁論の琦善(きぜん)を欽差大臣に任命し、琦善はイギリスに広州で交渉するよう要請しました。

 これを受けてイギリス軍は南下し、広州で琦善とイギリス全権使節ジョージ・エリオットの交渉が始まりました。
琦善は、イギリス人は林則徐を憎んでいるだろうから、林則徐が行った事を全部もとに戻せば、イギリス人が納得し、交渉が有利に進むと考え、林則徐が設置した砲台を撤去し、沿岸に組織した民兵を解散、要所に配置した部隊の兵員削減を進めました。
イギリス側は琦善の態度を見て、陽動作戦を展開します。
イギリス軍が広州への入り口を守る虎門砲台に攻撃を加えると、琦善はイギリスの要求を次々に受け入れた条約案を作成したのでした。

続く・・・


2012/09/24

人類の軌跡その479:アジアに翻るユニオンジャック⑫

<アヘン戦争その⑦>

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アヘン処理貯水槽のジオラマ

◎林則徐のアヘン取締戦争

 道光帝の期待を一身に担い、林則徐は北京から広州へ向かいました。
この旅の途中でも有名なエピソードが生まれます。
林則徐は、広州迄の街道沿いにある府や県の長官に事前に手紙を出し、欽差大臣林則徐は、何月何日にその地域を通過するが、決して接待をするなと云う手紙です。
宿泊、食事をする予定の地域の行政長官には、「同行人数は何名である、食事はこれだけのものを用意すれば十分である、それ以上の料理を決して出すな」、と書き送り、しかも、これは遠慮しているのではなく、命令であるから絶対守れと書き添えました。

 当時の中国では、中央の大官が、地方に出向くときは接待を受けるのが当然、賄賂を受け取るのも当然でした。
地方の長官とすれば、皇帝お気に入りの大物官僚に気に入られたい、少なくとも悪印象を持たれて皇帝に告げ口をされては堪りません。
その為、全力で接待を行う事が普通ですが、これは地方長官にとっては大きな負担でした。
しかも、その負担は最終的に地方住民への税金に転嫁されます。
地方長官を長く務めた林則徐は、その様な風習を苦々しく思い、そこで、自分が逆の立場になったいま、あらかじめ接待を禁じる命令を出したのです。

 欽差大臣としては、異例の簡素な旅行でした。
林則徐が賄賂を受け取らない清廉潔白な人物であると云う噂はすぐに広州にも伝わったのです。

 広州でアヘン貿易を行なっているイギリス商人達は、アヘン取締の命を受けた大臣、林則徐がやって来ると云う話を知りました。
最初は全然気にする事も在りません。
なぜなら中国の役人は、誰でも賄賂を握らせれば形だけの取締をして、後はアヘン貿易を黙認する事が常でした。
従って林則徐も、賄賂でなんとかなるだろうと考えていたのでが、林則徐が接待を禁止しながら広州に向かっている情報が入ると、これは今までの役人とは違うかも知れないと考えはじめたようです。
イギリス商人よりも、最も彼の存在を恐れた面々が広州の役人達です。
彼らのほとんどが、イギリス人から賄賂を受け取っており、林則徐が着任したら、自分たちはどういう目に遭うのか、大変な騒ぎに成りました。

 1839年、広州に着任した林則徐は、中国人アヘン商人と、その便宜を図っていた役人や軍人で特にその行いの悪い者を逮捕しましたが、その他大勢の役人、軍人については、今後は心を入れ替えよということで、過去の振る舞いは不問にしました。
厳しいばかりではない、この様な態度が、部下の気持ちを掴み、かえって綱紀粛正が進んだようです。

 林則徐は早速イギリス商人に対して、アヘンを総て差し出す事と、今後アヘン貿易を行わないという誓約書を出す様に迫ります。
広州には300人近いイギリス商人が住んでおり、政府から派遣されている貿易監督官チャールズ・エリオットが彼等を指導していました。
エリオットは、取敢えず林則徐の権威を保つ為に少しだけアヘンを供出して、後は有耶無耶にしてやろうと考えたのです。
1037箱のアヘンを差し出して、これで全部ですと言う。
ところが、林則徐は事前にアヘンの消費量や取引量などを計算していて、2万箱近いアヘンが沖合の貯蔵船にあると踏んでいました。

 イギリス商人達は広州城外の一角に作られた外国人居住区に住んでいたのですが、林則徐は軍隊でこの居住区を封鎖し、食糧、水を断ち、いわゆる兵粮攻めを行ったのです。
48時間の封鎖で、エリオットをはじめとするイギリス商人達は音を上げて、結局沖合に隠してあったアヘンを全部差し出しましたが、その量は約2万箱、1425トン、林則徐の計算とほとんど同じでした。当時の金額で1500万ドル相当と云う莫大な金額です。

 1400トンのアヘンは保管する倉庫もないくらいのものすごい量で、北京からは現地で処分する様命令が出ました。
しかも、周辺住民や外国人に処分するところを見せつけてやれという命令です。

 林則徐は処分方法を徹底的に研究しました。
林則徐が素晴らしいと思う事は、事前に情報を集めて検討し、確実に仕事をこなして行くその確実さです。
素人考えですと、処分するなら燃やすなり埋めるなりすればいいと簡単に考えてしまいますが、相手がアヘンと云う麻薬であり、処理する時に有害物質が発生せず、処分した後の廃棄物を回収できず、回収しても麻薬成分が残っていない様にしなければ成りません。
焼却処分してみると、燃やしたあとの土から麻薬成分が回収できる事が判り、しかも燃焼させればアヘンの煙が大量に発生し、1400トンも燃やしたらどういう事になるか!
焼却処分は不可能、埋めても後に掘り出される可能性が在ります。

 研究の結果、林則徐は海岸に50メートル四方の貯水槽を二つ設営し、この槽にアヘンを溶かし込んだうえに、塩と石灰を入れました。
石灰は水と反応して熱が発生します。
アヘンの麻薬成分は塩と石灰に弱いのでこの方法で処理を行いますが、溶け残っていたり、害になっていないアヘンが残っているかも知れません。
そこで、引き潮の時に貯水槽の水門を開けて、アヘンの溶けた熱水を海に流しました。
引き潮と一緒に水は沖合へ流れ出て、ここまでやれば、もう誰も回収できません。
大勢の群衆が見物するなか、20日間かけて全てのアヘンを処理しました。

続く・・・

2012/09/22

人類の軌跡その478:アジアに翻るユニオンジャック⑪

<アヘン戦争その⑥>

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密輸阿片倉庫

◎厳禁論と弛禁論②

 その取締方法とは、まず布告を出して、1年後にアヘンを吸飲した者、アヘンやアヘンを吸飲する為の道具を持っている者を死刑にすると住民に告げます。
アヘン中毒になっている者は、1年以内に断ち切る事、アヘンや吸飲道具を持っている者は、自主的に役所まで差し出した者については、1年以内ならば罪に問わない、としました。

 更に、林則徐は密告を奨励したのです。
1年経過後、アヘンを吸飲している者がいれば密告する様に告知します。
密告は、住民同士が監視しあい疑心暗鬼に成り、社会が暗くなります。
密告を奨励する政治が、まともな政治でない事を林則徐は、十分承知しているので、この様に言います。
「密告と云う手段は、良くない、無実の者を冤罪で密告し、密告された者が処刑されたらとんでもない事でが、アヘンの場合は無実の者が罰せられる事は決してない。
アヘン吸飲で密告された者を逮捕して、一日椅子に座らせておけば無実かどうかすぐわかる。
アヘン吸飲者であれば、禁断症状が出るから一目瞭然、吸飲者でなければ、平然としているだろう。そうならば、すぐに釈放してやり、密告した者を逆に逮捕して罰することができる。
だから、アヘン取締に関しては、密告という手を使っても大丈夫だ」と。

 林則徐の意見書は、論理的で理路整然としており、何よりも清朝を憂う気持ちにあふれていました。
林則徐に興味を抱いた道光帝は、かれを北京に呼び寄せ、直接面談をする事とします。

 林則徐は、北京に到着すると、即座に紫禁城に赴き、皇帝とアヘン問題について話し合いました。
道光帝は、林則徐の考えや人柄を大いに気に入り、一回の話では満足せず、明日も来い、又明日も来い、と呼びだし続け、二人の話し合いは連日8回に及んだと云います。

 しかも、呼び出す度に、道光帝による林則徐の待遇が良くなりました。
紫禁城は広大ですが、広大であるにも関わらず、役人達は歩いて宮殿内を移動します。
林則徐も最初は徒歩で入城し、皇帝の執務室迄赴くのですが、林則徐を気に入った道光帝は、「この広い紫禁城の奥迄歩いてくるのは大変だろう、明日は乗馬で入城するのを許す」、と言うのです。
之は破格の特別待遇で「紫禁城賜騎(しきんじょうしき)」と言われ、有名なエピソードです。
林則徐はこれに応えて翌日は、馬に乗って登城、乗馬したまま紫禁城内も移動しました。
ところが、林則徐はあまり乗馬が上手ではなかったので、道光帝は、これを見ていたらしく、「明日は椅子駕籠で来い」、と言います。
これは八人で担ぐ御輿の上に椅子を設置したもので、馬よりも更に位が高い扱いに成りました。
異例中の異例、あり得ないような好待遇なわけです。
当然、城内では、物凄い話題と成り、林則徐がどれ程皇帝陛下に信頼されているか、誰も知らない者はなくなるわけです。

 林則徐との話し合いを重ねて、ついに道光帝はアヘン厳禁に踏み切りました。
道光帝は林則徐を欽差大臣に任命し、広州に派遣しアヘン貿易の取締を命じます。
欽差大臣は、皇帝と同等の権限を持つ大臣で、欽差大臣の命令は皇帝の命令に等しく、それくらい重い役職です。

 道光帝は、馬鹿ではないから、官僚達の多くが弛禁論者であるなかで、単純に厳禁論者の林則徐にアヘン取締をさせても、反対派の抵抗にあって手腕を発揮できない事を恐れたのだと思われます。
その為に、乗馬や駕籠を許し、如何に皇帝が林則徐を信頼しているかを官僚集団全体に見せつけたのでした。
皇帝との信頼関係を見せつけられれば、弛禁論者も林則徐の仕事を妨げようとは思わないでしょう。

続く・・・

2012/09/21

人類の軌跡その477:アジアに翻るユニオンジャック⑩

<アヘン戦争その⑤>

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林 則徐(Lín Zéxú、1785年8月30日 - 1850年11月22日)Wikipediaより

◎厳禁論と弛禁論

 清朝政府はアヘンに対する禁令を繰り発布していますが、余りにも効果は見られませんでした。
密貿易が行われて広州では、清朝側の官僚や軍人は、イギリス商人に買収されており、実質的に禁令は形式だけになっていたのです。
清朝政府も、本気でアヘンを取り締まる姿勢は見られず、首都北京から見ると、広州は実に遠い辺境地域です。
だからこそ、広州でのみ外国との貿易を行なっているのであり、辺境地域で少々麻薬密貿易が存在しても、中央政府が必至になる問題ではないと考えていたのです。

 ところが、1830年代に成り、アヘン貿易による銀の流出、財政の悪化、中毒患者の増大と、さまざまな問題が表面化し、軍隊内部や皇室関係者にもアヘン中毒患者が現れます。
こうなると、流石に清朝政府内部で、アヘン問題に対しての議論が盛んなってきました。

 アヘン問題に対する意見は大きく二つに分かれました。
一つは弛禁論(しきんろん)、禁令を緩めよ、と云う意味で、アヘン貿易を厳しく取り締まるのをやめて、逆に、公認しようという立場です。
アヘン貿易を公認すれば、輸入アヘンに税金を課す事が可能となり、政府の収入が増え、銀の流出を止める為には、銀での取引を禁止して、物々交換で輸入すれば良く、又、国内で「けし」の栽培を奨励して、自国でアヘンを生産すれば輸入を減らす事が出来ます。

 アヘン中毒患者対策としては、官僚や軍人のアヘン吸飲は流石に禁止を主張しますが、一般民間人に対しては取り締まらず、放任する事を主張しました。
弛禁論者はこの様な理屈を言います。
「アヘンを吸うような者は、皆意志の弱いだらし無い者ばかりだから、その様な連中の事を気にかける必要はない。中毒患者はやがて廃人になり死に絶える。そんな連中がいくら死んでも、中国は人口が多いのだから、大した問題ではない。逆に、だらしの無い連中が死に絶えて、健全な中国人だけが生き残るから、かえってよろしい」と。

 これに対するのは厳禁論。
その名のとおり厳しく取り締まれ、と主張します。
こちらも主眼は銀の流出を如何に止めるかというところにあるのですが、その為にアヘン吸飲者を死刑にしろといいます。
厳罰で挑めばアヘン吸飲者は減る。消費が減れば輸入も減る。輸入が減れば銀の流出も減る、という理屈です。
輸入そのものを取り締まるのではなく、吸飲者を減らす処に出発点があるのが、現在の感覚では少々変わった理屈です。

 この様に、有名無実の禁令が出ているだけで、密貿易は増加の一途で、何らかの対策が必要でした。時の皇帝は道光帝(どうこうてい)、1838年、道光帝は全国の地方長官にアヘン対策についての意見書を提出させました。
回答した29名中、アヘン厳禁に賛成したものはわずか8名、残り21名は厳禁に反対でした。
清朝の官僚達の雰囲気が判りますが、ここまで広がったアヘンを今さら取り締まるなんてもう無理、と主張している様に思えます。

 そのなかで、厳禁論を主張した官僚は、このままアヘンを放置していては国が滅びると云う強い正義感を持った人びとでした。
道光帝は、この厳禁論に賛同します。
なかでも、湖広総督(湖北省・湖南省の長官)林則徐(りんそくじょ)の意見書に、道光帝は注目しました。
厳禁論を主張する林則徐は、ただの理論として厳禁論を言うのではなくて、具体的に取締の実施方法まで細かく提案していたのです。

続く・・・
2012/09/20

人類の軌跡その476:アジアに翻るユニオンジャック⑨

<アヘン戦争その④>

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アヘン窟

◎アヘン貿易②

 中国流入アヘン量(年平均)は次の様に増加して行きました。

1800~1804年 3,562箱
1810~1814年 4,713箱
1820~1824年 7,889箱
1830~1834年 20,331箱
*1箱=約60㎏

1820年代くらいから急増しているのがわかります。

 アヘン貿易は中国に如何なる影響を与えたのでしょう?
アヘン貿易の拡大に伴い、銀が急激に中国から国外へ流出し、中国の貿易赤字が始まりました。
しかも、清朝の税制である地丁銀制では、税を銀で納める事に成っており、農民であれば、農作物を売って銀に換えて税金を支払うのですが、アヘン貿易による銀の大量流出で、中国国内の銀価格が高騰しはじめます。
通常より多くの農作物を売却しても、以前のように銀が手に入らず、税金を納める事が苦しく成りました。
之は事実上の増税で、銀の高騰は、諸物価も上昇させ、民衆の生活を圧迫するようになりました。
一方で、清朝政府としては、税金の滞納未納が急増し、物価高と合せて財政難に陥りました。

 又、アヘン中毒患者の増加は、風紀の乱れ、治安の悪化を招きました。
アヘン中毒患者の推定数は、1820年36万人、1829年100万人、1845年3000万人、当時の中国の人口がほぼ4億人ですから、中毒患者3000万人は、全人口の7.5%にあたります。

 中毒患者は、如何なる手段を講じても、アヘンを手に入れたいのですが、一所懸命働く訳では有りません。
財産を切り売りしてアヘンを買う。
家、土地を売って、売るものが無くなったら、女房子供を奴隷に売り、最後は、犯罪に走ってでもお金を手に入れるように成ります。
麻薬が蔓延する事は社会が崩壊する事で在り、アヘン貿易は、中国社会を危険な状態に追い込んでいきます。

 アヘン貿易は、インドにも被害をもたらし、飢饉の増大という形で現れました。
インド農民は、イギリスによって「けし」の栽培を強制される為、その分、食糧生産が減少するのです。
 
 イギリスにも影響が出はじめます。
インドでのアヘン生産が中国販売用としても、大量にアヘンを作ってイギリス国内に侵入しない筈は無く、この時期、イギリスにもアヘンが一般的に広がっていたようで、貧しい労働者の妻が、お乳を欲しがってなく赤ん坊に、アヘンを水に溶かしたアヘンチンキを飲ませていた、と云う文章を目にした事が在ります。
低賃金で、お乳も出ないほどの苦しい生活をしていても、アヘンなら買えたのでしょう。

 私は子供の頃から『シャーロック・ホームズ』が好きです。
イギリスの作家コナン・ドイルが19世紀後半に書いた探偵小説ですが、子供向けに翻案したものではなくて、正規の翻訳を読むと、主人公ホームズは何か事件が発生すると、生き生きと行動するのですが、何も無い時は倦怠感に浸っている人物です。
小説を読んでいると、その様な時、刺激を求めてホームズがモルヒネを注射しているシーンが出てきます。
彼の設定は、成程と思わせるものが在ります。
更に『ホームズ』シリーズには、インド帰りの人物がしばしば登場します。
インドを支配しアヘン貿易を行なっていた、当時の大英帝国の状況を知っていると、此方も成程と思わせる物が多いものです。

続く・・・

2012/09/19

人類の軌跡その475:アジアに翻るユニオンジャック⑨

<アヘン戦争その③>

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◎アヘン貿易

 イギリスの望む綿工業製品の輸出は叶わず、対中国貿易の赤字だけが増大します。
この状態が何時までも続く事は、イギリスにとって最悪でな状態で、綿工業製品が売れなくても、とりあえず、何かを中国に売って、貿易赤字増大だけは防ぎたい。
そう考えたイギリスが始めたのが麻薬の密貿易でした。
具体的にはアヘンです。

 アヘンは「けし」の樹液から採取されます。
けしの花が咲いた後実がつくのですが、種が完全にできる前に実を傷つけると乳液が出てきます。
これを乾燥したものがアヘンです。

 此処で「けし」に関して、日本では、農業試験場等、特別に許可された農家だけが栽培しています。
けしの実が完全に熟すると、小さい種がたくさんでき、これがいわゆる「けし粒」。
アヘンを精製して造られる薬品がモルヒネです。
現在、病院で麻酔や鎮痛剤として使用されていますが、麻薬で有る事に代わりはなく、その取り扱いや管理も厳格です。

 アヘンを吸引した場合、幻覚作用が起こり、一種の無気力状態に陥ります。
気持ちよく寝ているが、麻薬だから、クスリが切れると禁断症状が起こり、やがては脳が冒されて廃人に成ってしまいます。
中国ではアヘンが流行し始めると、アヘン窟(くつ)淫語で呼ばれる、アヘンを吸飲させる専門店がたくさん出現しました。

 イギリスは、このアヘンに目に着目しました。
昔でも、麻薬は禁止なのは、当然で清朝でもイギリスでも許されものでは有りませんから、犯罪行為と知りつつ、これをイギリスは実行しました。
密貿易で中国にアヘンを販売すれば、アヘンは麻薬なので、中毒性が在り、簡単にやめることはできません。
一度アヘンの快楽を知った者は、その命が尽きる迄、アヘンを買い続け、吸飲が流行して中毒者が増えれば増えるほど、イギリスは富を得る事になります。

 イギリスは、このアヘンの生産をインドでおこないました。
インド農民に「けし」を栽培させ、アヘンを生産し、これを中国広東に運び密輸します。
この販売自体は、犯罪行為なので流石に東インド会社は直接取引に参加せず、民間業者に委ねました。密輸品のアヘンを広州港に持ち込めないので、イギリス商人は、沖合の島影にアヘン貯蔵専用の船を用意して、ここにアヘンを蓄えました。
そこに中国の麻薬販売業者が舟でやってきて、海上で取引がおこなわれますが、支払いは銀です。
 
 イギリス側は、中国人の好みに合わせて、アヘンの味等も改良を加え、中国でのアヘン貿易はどんどん発展してイギリスの対中国貿易の柱に成長して行きました。

 その結果、イギリス、インド、中国の間で、三角貿易が成立しました。
イギリスからインドへ綿工業製品が、インドから中国へアヘンが、中国からイギリスへ茶が輸出され、この商品の流れと逆方向に銀が移動します。
イギリスが買う茶よりも、中国が買うアヘンの金額が大きくなれば、イギリスの貿易は赤字から黒字に成り、実際に1827年には、アヘン貿易が茶貿易を逆転しています。

続く・・・

2012/09/18

人類の軌跡その474:アジアに翻るユニオンジャック⑧

<アヘン戦争その②>

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カティサーク(Cutty Sark)

◎清朝の貿易制限策②

 特に茶は重要で、イギリスの国民飲料紅茶は、中国から輸入するしか当時有りません。
インドで茶の栽培が盛んに成るのは、19世紀の後半にからなので、イギリスは中国で茶を買い付け、イギリスに運びました。
有名な大型高速帆船カティーサーク号等、一般にティークリッパーと呼ばれる艦船に茶葉を満載して、新茶を一番にイギリスに運ぶ為のレースが行われる事も在りました。

 当時国際貿易の決済は銀で行われていましたから、イギリス商人は中国から買い付けた商品の支払いを銀で行います。
イギリス側は、中国に売る商品が無い、訳では無いのですが、中国側が、買ってくれないので、イギリスは銀を支払うばかりで、清とイギリスの貿易は、一方的にイギリスの貿易赤字が続きます。
若し、中国側がイギリスからも、なにがしかの商品を買ってくれれば、一方的にイギリスが損をする事は有りません。

 イギリスには中国で売りたいものがありました。
それは、綿工業製品です。
産業革命が進展し、綿織物工業はその中でも特に発展し、イギリスの産業資本家は、その製品を世界中で売りたい、人口の多い中国は、絶好の市場として期待されました。
そこで、イギリスは中国に綿工業製品を買ってもらうための交渉を行います。
乾隆帝時代の末期の1793年、イギリスはマカートニー使節団を清朝に派遣しました。
マカートニーは、乾隆帝に面会して、綿工業製品の販売拡大の為、貿易制限の廃止を求めました。

 この時の乾隆帝の答えはこうでした。
「我が清朝は「地大物博」、つまり、領土は広大で、如何なる物も在るから、お前の国イギリスから買いたいものなど何もない。現在、広州でイギリスと貿易を行なっているのは、お前達イギリス人が中国のお茶や生糸を欲しいと欲しいと望むから、かわいそうに思って恩恵として貿易をしてやっているのである。それなのに、調子に乗って、綿製品を買ってくれとはどういう事か。文句があるのなら、現在おこなっている貿易を停止する。それでも、中国は全然困らないのだ。」
と、この様な意味の会話を交わし、マカートニーは、返す言葉もなく、引き返すしかありませんでした。
この段階で、清朝とイギリスとでは、清朝側が上手にたっています。

 マカートニー使節団の交渉が失敗した後、1816年、イギリスは再び貿易制限撤廃を求めてアマースト使節団を派遣しました。
この時の清の皇帝は嘉慶帝、アマーストは貿易交渉をするどころか、嘉慶帝に面会すら出来ませんでした。
清朝側は、皇帝に面会するに当たってアマーストに「三跪九叩頭礼(さんききゅうこうとうれい)」を要求しました。
これは、臣下が皇帝に謁見する時にする礼で、両膝を三回床につく、れが、三跪。
そして、一回ひざまずく度に、三回頭を床にこすりつける、これが叩頭。
三回ひざまずくので、叩頭の回数は、合計九回、なので、この礼を「三跪九叩頭礼」と云います。

 伝統的な中国の世界観では、中国と対等な国は世界に存在しません。
全て中国王朝より格下ですから、どの国の使者であろうと、清朝皇帝の御前では、臣下の礼をとらなければなりません。
その建前に立って、清の役人は、嘉慶帝に謁見するのであれば、「三跪九叩頭礼」を行いなさいと言う。
アマーストは、自分はイギリス国王の臣下ではあるが、清朝皇帝の臣下ではない。
イギリス国王の使者である自分が、清朝皇帝に跪く事は、イギリス国王が、清朝皇帝に跪く事であって、絶対に承服できない、と拒否しました。

 マカートニーの時は、同様に「三跪九叩頭礼」を要求されたのですが、マカートニーが拒否すると、片膝を床につくだけの略式の礼で許されました。
乾隆帝は鷹揚なところを見せたわけですが、今回はどうしても駄目で、両者折り合わず、マカートニーは最終的に何の交渉も出来ず、イギリスとしては、貿易交渉は失敗に終わりました。

続く・・・
2012/09/17

人類の軌跡その473:アジアに翻るユニオンジャック⑦

<アヘン戦争その①>

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広東十三行外貿易特区

◎18世紀後半の清朝

 康煕帝、雍正帝、乾隆帝、清の最盛期を具現した皇帝ですが、18世紀後半、乾隆帝の時代に清の領土は最大となり、現在の中国よりも広い地域を支配しました。
経済は繁栄し、人口は爆発的に増加、18世紀後半に中国の人口は2億を突破し、その後も増加をつづけ、辺境地域、山岳部の開拓や、東南アジアへの移住が進むのもこの時期です。

 1795年、乾隆帝は在位60年で退位しますが、これは、尊敬する祖父康煕帝の在位61年を越える事を憚った為で、皇位を継承したのは嘉慶帝(かけいてい)、乾隆帝の息子です。
嘉慶帝は決して無能ではありませんでしたが、乾隆帝の引退と同時に、各種の問題が表面化します。例えば、乾隆帝の長い在位の間に、官僚の腐敗が進行していた様子が在り、嘉慶帝は、父乾隆帝が崩御すると、乾隆帝の傍に仕え、尚且つ不正蓄財していた官僚を処罰しています。

 又、1796年には嘉慶白蓮教徒の乱という、大規模な反乱が起こっています。
白蓮教は、暗黒の現世に救世主が現れて光明の世界を実現すると云う教えを持ち、仏教やマニ教の影響を受けて生まれた中国独自の民間信仰です。
白蓮教は種々の系統が存在し、救世主は、弥勒仏や地母神として説かれている部分も在ります。

 明を建国した朱元璋が参加していた紅巾の乱も、本来は白蓮教の反乱が母体でした。
朱元璋が国号を「明」としたのは、光明の世界を実現すると云う白蓮教の教えの影響を受けていたからだ、との説もあります。
清の時代にも、民衆の間で白蓮教の信仰が継承されていたのですが、この時の反乱は、山間辺境地域に移住した民衆が起こしたもので、白蓮教に対する役人の弾圧と重税が直接の原因でした。
この反乱は、1804年迄続き、清朝の支配体制が動揺し始めている、裏付けでも在りました。

◎清朝の貿易制限策

 清朝は18世紀後半から貿易制限策をとり、欧米諸国との貿易は広東省の広州一港に限定していました。
更に、イギリス商人が取引を行う相手は、清朝政府の許可を得た特権商人に限定されていました。この中国側の特権商人を公行(コホン)と言い、十三の商人に限られていたので広東十三行とも云います。
イギリス商人は、好む相手と自由に取引が出来ない状態が続いていました。
又、イギリス人等の商人が滞在する、外国人居住区を広州の一区画に限定していたのです。

 同様な事例は、江戸幕府が海外貿易を長崎に限定し、オランダ人商人を出島に隔離したのと同じですが、基本的に西欧人の文化に対する違和感、警戒感が存在し、可能な限り接触したくないと云う感覚が存在した様子です。

 清朝と積極的に貿易を行った国はイギリスでした。
イギリスは、中国から輸入した品目が数多く存在し、その代表が、茶、絹、陶磁器です。

続く・・・
2012/09/15

人類の軌跡その472:東南アジアの国々⑤

<東南アジアの動向⑤>

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ボロブドゥール

◎インドネシア

 東南アジアの島嶼部で、オランダの植民地となった部分が現在インドネシアとして独立していますが、オランダに支配されるまではさまざまな国が存在していました。

 スマトラ島を中心とするシュリーヴィジャヤ(7世紀~14世紀)、マラッカ海峡の要衝に位置し、貿易船のルートとなり繁栄しました。
インド迄海路を旅した唐の僧義浄(ぎじょう)が著した『南海寄帰内法伝』に登場しています。

 ジャワ島ではシャイレーンドラ朝(8世紀)、有名な石造りの仏教寺院の遺跡ボロブドゥールを残した国です。
 ジャワ島ではもうひとつシンガサリ朝(1222年~92年)、この国は元の侵入を撃退しています。
ジャワ島の三つ目がマジャパヒト王国(1293年~1520年?)、スマトラ島のシュリーヴィジャヤを圧倒し、東南アジア交易を支配しました。
島嶼部最後のヒンドゥー教国であり、マジャパヒト王国以後は、島嶼部にはイスラーム国家が成立していきます。

 16世紀以降になると、この地域にポルトガル、やがてオランダが来航します。
オランダは、1623年のアンボイナ事件で、イギリス勢力を駆逐しインドネシアでの貿易を独占しましたが、17世紀以降は、過剰供給でヨーロッパでの胡椒価格が暴落し、香辛料貿易中心の商業活動だけでは利益を計上する事は困難に成り、オランダはジャワ島を中心に、ヨーロッパで高価で販売できる商品作物の栽培をおこなうようになった。

 その為に行った政策が、強制栽培制度で在り、1830年以降、オランダは、コーヒー、サトウキビ、藍などの商品作物の栽培をインドネシアの農民に強制したのです。
耕地の5分の1に強制が実施され、その結果、食糧生産が減少し、オランダは莫大な利益を得ましたが、1845年からの凶作では多数の死者が出ました。
1904年、オランダはインドネシア全域を占領し、植民地オランダ領東インドが成立しました。

◎マレー半島

 マレー半島には、14世紀マラッカ王国が成立します。
この国家は東南アジア最初のイスラーム国家で、これ以後、小さなイスラーム国家が半島に多数成立していきました。
マレー半島は、マラッカ海峡に面する海上交通の要所で、マラッカ王国は貿易港として繁栄しますが、1511年ポルトガルによって占領され、その後、1641年にはオランダがポルトガルから奪い、1795年にはイギリスが更にオランダから奪いました。

 イギリスは、1786年にペナン島、1819年にはシンガポールを獲得し、マラッカと併せて1867年に海峡植民地としました。
1895年には、更に領土を拡大してマレー連合州を編成しますが、現在のマレーシアにあたります。
イギリスは、マレー半島で錫高山の開発をおこない、労働力不足を補うために、中国人やインド人の移民が多数集められました。
その為、原住民であるマレー人とインド系、中国系等さまざまな民族が混住する複合社会が形成されました。

東南アジアの同行・終わり・・・
2012/09/13

人類の軌跡その472:東南アジアの国々④

<東南アジアの動向④>

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チャクリー王朝の第4代国王ラーマ4世(1804年10月18日 - 1868年10月1日)

◎カンボジア

 カンボジアの主要民族はクメール人で、彼らの国家として最初に登場するのが扶南国(ふなんこく、1世紀~7世紀)、メコン川の下流に位置していました。
この国にはオケオ港と呼ばれる港湾都市が在り、その遺跡からはローマの金貨が出土します。
インド方面と活発な商業活動をしていた事が読み取れます。

 6世紀になるとメコン川中流域で、扶南国の属国だった真臘(しんろう)が独立し領土を拡大しまが、民族は同じクメール人。
中国の歴史書に出てくる国名で表記しているので中国的な文化を連想しますが、その文化はインド系でヒンドゥー教を取り入れ、7世紀には扶南国を滅ぼし領土を拡大するものの、8世紀には分裂します。

 9世紀に再統一され、クメール王国若しくはアンコール朝と呼ばれています。
有名な仏教寺院遺跡アンコール・ワットや首都アンコール・トムは、この時に建設され、大規模灌漑工事による農業開発もおこない12世紀前半に最盛期を迎えました。

 しかし、13世紀前半に西北のタイ人が独立し、スコータイ朝を建国すると、徐々に衰え、14世紀になるとタイのアユタヤ朝に数回に渡って首都アンコールを占領されます。
1432年にアユタヤ朝に侵略された時、終にアンコールを放棄し首都をプノンペンに移しました。
それ以後は、衰退の一途を辿り、タイやヴェトナムに圧迫され、両国に朝貢して二つの国の属国の様な存在と成ります。

 やがて、ヴェトナムがフランスの勢力下にはいると、カンボジアにはタイの属国になるかフランスの保護国になるかという選択肢しかなくなり、1863年にはフランスの保護国に成ってしまいました。

◎タイ

 タイは、中国雲南地方から南下してきたタイ人が国家を形成します。
最初の国が、スコータイ朝(13世紀~15世紀)、真臘に従属していたタイ人達が自立した国です。

 スコータイ朝が衰えた後に成立した王朝がアユタヤ朝(14世紀~18世紀)、チャオプラヤ川中流に建国され、国王が貿易を独占管理して、西欧諸国や中国とも積極的に外交・通商をおこないました。外国人達は、アユタヤの王を商人王と呼んでいて、この国も港市国家と考える研究者もいます。
アユタヤ朝はミャンマーのコウバウン朝に滅ぼされました。

 次に成立したのがバンコク朝(別名ラタナコーシン朝、チャクリ朝)(1782年~現在)、現在までつづく王朝です。
首都がバンコクなので、一般的にはバンコク朝と呼びます。
バンコクは、18世紀末で人口約40万、その半数は中国人で、タイ人は三割に過ぎなかったという記録があります。
この時期の中国は、人口が爆発的に増加していて、溢れる様に中国人が華僑(華人)として、東南アジアに移住しています。
彼ら華僑の多くは王の保護のもとで貿易に従事していたと思われます。

 バンコク朝の貿易は国王に独占されており、西欧の商人の貿易は制限していましたが、1855年、イギリスとの間にボウリング条約を結んで開国をしました。
これは、治外法権を認める不平等条約で、このときの国王がラーマ4世(モンクット王)。
タイは、本来米の輸出国でしたが、この条約を結んだあと、イギリスの要求に応えて米の輸出を増やすため、未開拓だったチャオプラヤ川のデルタ地帯の開発がはじまりました。
開国後の50年で50万ヘクタール近くが水田となり、輸出量は1857年の5万9千トンから、1907年には89万トンに激増、更にこの後も増え続けました。
西欧列強が中心となる世界経済の中で、米の生産輸出国として位置づけられたのです。
タイから見れば、植民地にされないよう、世界情勢の変化に必死に対応した姿でした。

 ラーマ4世は、自分自身が英語を学ぶなど、積極的に西欧の諸制度を研究し、王子の教育にはイギリス人女性を家庭教師に任命します。
この家庭教師の話が、『王様とわたし』という有名なミュージカルのモデルに成りました。

 次の王ラーマ5世(チュラロンコン王)は、日本の明治時代とほとんど重なり、タイ政府の近代化を進めて、タイの独立をまもりました。
中央集権化もすすみ、地方長官を派遣して辺境地域の領土を確定するのもこの時代です。

続く・・・
2012/09/12

人類の軌跡その471:東南アジアの国々③

<東南アジアの動向③>

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◎ヴェトナム③

 この阮朝が成立して約60年後、フランスでは、ナポレオン3世の時代になり、積極的な海外での軍事行動を展開しましが、その標的となったのがヴェトナムでした。
阮朝ではキリスト教を禁じていたにもかかわらず、密入国したフランス人宣教師の活動が途絶えることが無く、阮朝政府は、しばしば宣教師を弾圧処刑していたのですが、却ってこの行為がナポレオン3世の出兵口実となりました。

 1858年、フランス軍が中部の港町ダナンに上陸し、侵略が始まりました。
阮朝は、成立当初から国内各地で反乱が絶えず、軍事的には弱体で、フランス軍を撃退する事ができず、1862年、サイゴン条約を結び、ヴェトナムの南東部をフランスに割譲しました。

 フランスは、次にメコン川を遡り、中国南部との通商路を確保する行動を取り、1863年にはメコン上流にあるカンボジアを保護国化します。
但し、メコン川流域探検の結果、途中に滝等の障害が多く中国に到達することは不可能だとわかります。
中国に辿り着く河川を探索する名目で、次は北部ヴェトナムを得るために、阮朝への侵略戦争は続いたのです。

 この時、劉永福率いる中国人義勇軍「黒旗軍」が、ヴェトナム政府の為にフランス軍と闘っています。
之より少し前、中国では太平天国の乱が起き、劉永福達は、この反乱軍の一部隊で、反乱が鎮圧されたあとヴェトナムに逃れてきていたのです。
劉永福は、更にこの後、台湾に渡り、日本軍とも闘い、国境を越えて、帝国主義国の侵略に抵抗した象徴的な人物として取り上げられているようです。

 結局、阮朝はフランス軍に破れ、1883年、ユエ条約でヴェトナム全土がフランスの保護国となってしまいました。

 清朝は、ヴェトナムの宗主国でした。
近代的な支配従属関係では在りませんが、清朝は阮朝の保護者的立場に立っています。
宗主国で在る清朝は、ヴェトナムがフランスの保護国になったのを黙って見過ごすわけには行きません。
その結果勃発した戦いが清仏戦争(1884年~85年)ですが、結局清朝が敗走し、1885年の天津条約で、ヴェトナムに対する宗主権を放棄し、フランスの保護権を承認しました。

 1887年、フランスは、ヴェトナムとカンボジアを合せてインドシナ連邦としました。
1899年には、ラオスもインドシナ連邦に編入され、第二次大戦中の日本占領下の一時期を除き、1945年迄フランスはこの地域を植民地としたのでした。

続く・・・

2012/09/11

人類の軌跡その470:東南アジアの国々②

<東南アジアの動向②>

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ピエール・ジョゼフ・ジョルジュ・ピニョー (Pierre Joseph Georges Pigneau, 1741年11月2日 - 1799年10月9日)

◎ヴェトナム②

 10世紀になると中国から独立し、11世紀にはヴェトナム北部を統一する王朝が成立します。
最初に成立したのが李朝(1010年~1225年)、王朝名も人名も、中国文化の影響を受けて漢字で表記され、李朝は治水によってホン川デルタを開発した。

 次が陳朝(1225年~1400年)、この時代に、漢字を基本に、ヴェトナム独自の文字であるチュノムが作られました。
また、北方からの元の侵入を撃退し、南ではチャンパーを圧迫し、領土を南に拡大しましたが、これには、南シナ海貿易に参入しようという意図があったようです。

 陳朝が衰えた後、1407年から1427年にかけて、ヴェトナムは再び中国明朝の支配下に入りますが、1428年、黎(れい)朝(1428年~1789年)が成立し、独立を回復しました。
黎朝は、中国風の国家建設を行い、儒教を柱に律令を整備し、科挙を実施しました。
1471年には南にあったチャンパーを滅ぼしています。

 しかし、16世紀には内乱で衰え、黎朝の王は名目だけの存在となり、北部は鄭氏、南部は阮氏が実権を握ります。
阮氏政権は領土を更に南に拡大し、カンボジア領だったメコンデルタ地帯迄を支配下に入れました。
この頃には、オランダ、ポルトガル、フランス等の商人や宣教師がヴェトナムに渡来しますが、当時の日本は戦国時代で、南蛮貿易が活発に行われていた時です。

 やがて鄭氏、阮氏を倒し、黎朝を滅ぼし、ヴェトナムを再統一し、ほぼ現在と同じ領域を支配したのが、西山(タイソン)朝(1778年~1802年)です。
西山(タイソン)党と呼ばれる山岳地帯から起こった反乱軍が建てた王朝で、反乱軍のリーダーが阮氏三兄弟ですが、先の阮氏政権とは全く無関係な人物です。

 そして、1802年、この西山朝を倒して成立したヴェトナム最後の王朝が阮朝。
この阮朝を建国した人物は、阮福映で、西山朝に倒された阮氏政権の末裔にあたる人物です。
阮福映は、阮氏政権崩壊後、タイ王国に亡命し、タイ国王やフランス人宣教師ピニョーの援助を受けて、ヴェトナムで政権を奪還したのでした。
ピニョーは亡命中の阮福映と出会い、彼を援助する事で、東南アジアにキリスト教王国を建設しようと考えました。
ピニョーは、当時4歳だった阮福映の息子を連れてフランスに帰国、国王ルイ16世に謁見し、ヴェトナムからの領土割譲と引き替えに軍事援助の約束を取り付けました。
フランス革命の僅か2年前、1787年のことです。

 この後、ピニョーはヴェトナムに戻るのですが、フランスのインド総督と対立し、実勢にはフランス軍の援助は得られず、ピニョーは独力で義勇軍を編成し、阮福映に協力しました。(但し、ピニョーは、阮朝成立直前に死亡しています。)

 ところが阮朝は、建国後すぐに、中国清朝を宗主国として、西洋諸国に対しては事実上の鎖国体制を採り、中国を中心とする伝統的な東アジアの国際秩序に納まってしまのです。
フランスの援助を得ていながら、何故この様な事が可能だったのでしょう?
此処で注意すべきは、ピニョーの援助は、フランス政府の援助では無く、ピニョー自身も建国時にはこの世に存在せず、阮福映としては、フランスに義理を感じる必要は在りませんでした。

 因みに阮朝に対して、清朝は越南国という名前を与えます。
この越南の意味は、中国の南にある国を示し、ヴェトナムの国号はここから生まれました。
それ以前は、同様い中国王朝が命名した、大越と呼ばれていました。

続く・・・

2012/09/10

人類の軌跡その469:東南アジアの国々①

<東南アジアの動向①>

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◎ミャンマー

 イラワディ川流域に最初に登場する国はピューと云い、建国した民族はピュー人、8世紀から11世紀くらい迄存続しました。

 この国を滅亡に導いた民族がパガン朝。
イラワディ川中流のパガンを都に繁栄し、ミャンマー最初の統一王朝とされます。
民族はミャンマー人、スリランカから上座部仏教を導入し、雲南地方とベンガル湾をむすぶ交易で繁栄しましたが、元の侵入が原因で1287年に滅びました。

 13世紀から16世紀にかけて、イラワディ川下流地域にはモン人のペグー王国が繁栄します。
モン人は、チャオプラヤ川下流でも7~8世紀にドヴァーラヴァティーと呼ばれる国を形成しています。
ドヴァーラヴァティーは、港市国家連合で、モン人は、ミャンマーからタイにかけて、海上貿易で活躍した民族のようです。

 ペグー王国を滅ぼして建国した国がトゥングー朝(1531年~1752年)。
ミャンマー人とモン人の連合国家でパガン朝に続く、ミャンマー二度目の統一王朝で在り、一時はタイのアユタヤを支配した事もあります。

 トゥングー朝がモン人の反乱の為に滅亡した後、ミャンマー人が建国した国がコンバウン朝(1752年~1885年)。
清朝支配下の雲南地方に侵入し(1765年)、タイのアユタヤ朝を滅ぼし (1767年)、軍事的には活発でした。
1822年にはインドのアッサム地方を征服しますが、これを契機に、その2年後の1824年にはイギリスとの第一次イギリス・ビルマ戦争が始まりました。
イギリス・ビルマ戦争は、1852年の第二次、1885年の第三次と断続的に発生し、1885年にコウバウン朝は滅ぼされ、ミャンマーはインド帝国に編入されました。

◎ヴェトナム

 ヴェトナムの歴史は大きく北と南に分かれ、北には中国の影響を受けながらヴェトナム人国家が、南部にはチャム人の国家が形成されてきました。

 南部にあったチャム人の国家チャンパーは、2世紀頃に成立し、15世紀後半にヴェトナムの黎朝に滅ぼされました。
南シナ海貿易で繁栄し、中国の歴史書には、林邑(りんゆう)、占城(せんじょう)という表記で登場します。
文化的には、インド文化の影響を大きく受け、東南アジア地域は、北部ヴェトナムを除いて、インド文化の影響が強い地域です。

 チャンパーは黎朝に滅ぼされましたが、チャム人は少数民族として、現在もヴェトナム南部に存続しています。

 北部は、東南アジアで唯一中国文明の影響を強く受け、紀元前214年、秦の始皇帝によって、現在の広西省、広東省からヴェトナム北部にかけて南海郡、象郡など3郡が設置されました。
秦が衰えると、南海郡の漢人が自立して、南越国が成立しましたが、漢の武帝はこれを滅ぼし、紀元前111年、ヴェトナム北部に、交趾(こうし)郡、日南郡など3郡を設置しました。
この後、唐が滅亡する10世紀前半迄、中国の王朝が交代しても、ヴェトナム北部は中国の支配下でした。
その中で紀元40年のチュンチャク、チュンニ姉妹の反乱は、ヴェトナムの独立反乱として有名です。独立こそ果たせませんでしたが、指導者のチュンシャク、チュンニの姉妹は、現在ヴェトナムでは民族的英雄です。

続く・・・


2012/09/08

人類の軌跡その468:アジアに翻るユニオンジャック⑥

<イギリスのインド支配⑥>

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初代インド皇帝:ヴィクトリア(在位:1877年1月1日 - 1901年1月22日)

◎インド大反乱その④

 ムガル帝国皇帝は、イギリス東インド会社から年金を受け取り、名目だけのムガル皇帝として存在していたので、彼はただの飾り物で、何の指導力もありませんでした。
反乱勢力は、統一した作戦や、反乱成功後の共通目標もなかったのですが、不意をつかれたイギリス側は、一時、インドから撤退しました。
やがて態勢を整えて反撃を開始、反乱に参加していなかったシク教徒によるシク兵、イラン兵、ネパール人のグルカ兵を動員し、9月にはデリーを反乱軍から奪還、以後は各地の反乱勢力を各個撃破し、1859年までには、完全に反乱を鎮圧しました。

 イギリスは、反乱を起こした者達に徹底的な報復を行い、反乱側についた町や村の住民を虐殺し、反乱軍の捕虜を大砲の砲身にくくりつけて吹き飛ばし、牛や豚の血を無理矢理飲ませてから殺すなど、見せしめ的な処刑をおこなっています。

 結局、反乱は失敗したわけですが、この反乱で活躍したインド人の武将達は、現在も民族の英雄として慕われています。
例えば、インドのジャンヌ=ダルクと呼ばれているラクシュミー=バーイー、彼女はジャーンシー藩王国という国の王妃でしたが、イギリスに国を奪われ、反乱が起きると女性ながらも兵士を率いてイギリス軍と戦いました。養子にした幼い子供を背負って、馬に乗っている彼女の肖像画があります。最後には戦死するのですが、ゲリラ戦でねばり強く戦いつづけた女性でした。

 インドの大部分が参加した反乱で在り、しかも、東インド会社軍の傭兵部隊シパーヒーまでが反乱側で有るにも関わらず、なぜ、反乱は敗北したのでしょうか?
最大の理由は、反乱側内部の不統一で、最初から反乱軍は烏合の衆で指導部もありませんでしたが、加えて、地域間の対立、カースト間の対立によって、インド人同士の結束が出来ませんでした。
イギリス側は、この様なインド人同士の対立を巧妙に利用し、同じインド人でありながら、シク教徒がイギリス側に従っている事がそのよい例です。

◎その後のインド

 反乱をほぼ鎮圧した1858年、イギリス本国政府は、東インド会社を解散させ、インド全土を直接支配する事に成り、名目だけ存続したムガル帝国も完全に滅亡させられます。
 
 1877年には、インドにインド帝国が成立します。
イギリス政府がインドに新しい国を建国し、その国の名前がインド帝国で在り、インド帝国の皇帝に即位したのがイギリス国王のヴィクトリア女王でした。
従って、この時点から、ヴィクトリア女王はイギリス国王兼インド皇帝と成ります。
但し、ヴィクトリア女王はインドに赴く事は無く、その所在地はイギリス本国です。
イギリスのエリート貴族達が、インド帝国の高級行政官としてインドに赴任し、インド人の役人を指揮しながらインドを支配するインド帝国は、イギリスの完全な植民地でした。

 イギリスのインド支配は巧妙で、インドが団結してイギリスに抵抗しないよう分割統治をおこないました。
インド帝国は、イギリスの直轄領と、550以上の藩王国から構成されていて、藩王国は外交権は無く、イギリスの監視付きではありますが、マハラジャと呼ばれる藩王の自治が認められていました。
マハラジャからすれば、無理してイギリスに抵抗せず、このままマハラジャの地位を認めてもらった方が安泰です。
旧勢力を温存し、旧支配者層の抵抗を薄めながら支配した、このインド帝国は第二次大戦後の1947年迄存続しました。

イギリスのインド支配・終わり・・・

2012/09/07

人類の軌跡その467:アジアに翻るユニオンジャック⑤

<イギリスのインド支配⑤>

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処刑

◎インド大反乱その③

 シパーヒーへの家族からの手紙が急増したのを不審に思ったイギリス人上官が、手紙の中身をチェックすると、「新式銃の火薬包みの使用を拒否せよ、拒否しなければカーストから追放する」と書かれていたと云います。
又、ある駐屯地で、シパーヒーが民間の作業員に水を分け与えようとしたら、その作業員が「あなたはまもなく自分のカーストを失うから」と言って、水を拒否したと伝えられています。
ヒンドゥー教のタブーを犯して、所属カーストから追放されると、アウトカースト、不可触民にされ、「そんな最低の身分の者から、水をもらえない」と云うことです。
新式銃の導入に伴う噂が、一般にも広がり、関心が持たれていた事が伺われます。

 他に、反乱の直前、インドの村から村へチャパティーがリレーされるのを、イギリス人が目撃して報告しています。
ある村から別の村へチャパティーが届けられると、その村では、新たに数枚のチャパティーを焼いて、さらに別の村に届けていったと云います。
チャパティーは小麦粉を焼いたパン状も食べ物で、このリレーに如何なる意味があるのか、目撃したイギリス人には理解できませんでしたが、異様なものを感じて、記録したのでしょう。
同様に、東インド会社軍の部隊から部隊へと蓮の花がリレーされていて、これも何かの合図だった可能性があります。

 不穏な空気が広がるなかで、1857年5月、シパーヒーが反乱を起こしました。
発端は、メーラトに在った部隊での事件でした。
この部隊で、新式銃を使った演習が行われたのですが、イギリス人上官の命令を拒否して、90名の兵士中85名が弾薬筒に触ろうとせず演習が不能になりました。
軍隊にとって命令拒否は重い罪で、軍法会議の結果、問題の兵士達は、見せしめの為に、他の兵士たちが集合させられている前で、軍服をはぎ取られ足かせをはめられて牢に入れられました。
残りのシパーヒー達は、これに反発し、翌日牢に入れられた仲間を救うために蜂起し、反乱はメーラト以外の各地の駐屯地に広がったのです。
 
 各地のシパーヒーが蜂起すると、東インド会社軍と無関係の民衆も蜂起し、インド全体が反乱状態となりました。
これをインド大反乱と呼び、以前は、シパーヒーの反乱、もしくはセポイの乱とも呼ばれていましたが、反乱に参加したのはシパーヒーだけではないので、現在はインド大反乱と呼んでいます。
 
 反乱にはイギリスに滅ぼされた地方政権、インドでは藩王国と呼びますが、この藩王国の旧支配者層など、さまざまな勢力が加わり、全インドの三分の二が反乱に参加したと云います。
ただし、各地の反乱軍は、互いに連携するわけでもなく、全体の指導部も存在せず、デリーを占領した反乱軍は、引退していたムガル帝国皇帝を、反乱軍のトップとして擁立しました。

 彼は、イギリス東インド会社から年金を受け取り、名目だけのムガル皇帝として存在していたので、彼はただの飾り物で、何の指導力もありませんでした。

続く・・・

2012/09/06

人類の軌跡その466:アジアに翻るユニオンジャック④

<イギリスのインド支配④>

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◎インド大反乱その②

 原因は種々存在しますが、そのひとつが、イギリス人のインドの伝統文化に対する無理解です。
例えば、インドのバラモン等の上級カーストに、サティという風習が在り、インドでは人が死ぬと、一般に火葬を行いますが、夫婦で夫が先に亡くなった場合に、火葬をしている炎のなかに、未亡人が飛び込んで自ら命を断つ慣行が在りました。
夫の死を悲しんでその後を追う行為は、貞淑な妻の鏡であり、素晴らしい行いであるとして、サティが奨励されていた。

 ところが、この風習をイギリス人が見れば、驚き以外の何物でも在りません。
夫が死んで、妻が後を追う姿は、老夫婦を思い浮かべるかもしれませんが、イギリス人が見た夫婦は全く異なる姿でした。
50代60代の富豪のバラモン男性が、年をとってから、14歳15歳の花嫁を迎えると事が当時は普通に行われており、60歳で死んだ夫を焼く炎のなかに飛び込むのは、まだ子供と言っても過言では無い少女なのです。
どう考えても、この様な少女が、自ら死にたいと願っている訳がない。
「早く火に飛び込め」、という親族一同の視線に晒されて、死なざるを得ない様に精神的に追い込まれていく姿が、実際の姿で在った様です。

 そこで、イギリスは、野蛮きわまりない行為として、サティ禁止令を出しました。
ところが、サティはバラモン身分の者には、自分たちの身分にだけ許された美しい慣行で有り(低位カーストではサティは行われていませんでした)、それを、一方的に野蛮と決めつけられ、イギリスに反発します。
インド古来からの風習を、イギリス人は野蛮と感じ、見下します。
インド人からすれば、イギリス人とは価値観は違うかもしれないが、インドは3千年以上の歴史を持つ文明国です。
一方的に野蛮人扱いされる事に我慢できず、シパーヒー達も、さまざまな不満をイギリス人に対して持つようになるのです。

 その中で、シク戦争が終了し、インド征服が完了すると、シパーヒーへの待遇が悪化しました。
更に、ヒンドゥー教のタブーに係わる命令が出され、シパーヒーの不満は増大します。
命令の中には、シパーヒーに対する海外派兵、新式銃の使用が在りました。
まず、バラモン等の上級カーストでは、インドの外に出ると身分が汚れると考えられていた為、海外派兵に反発します。

 新式銃が、反乱の直接的な原因になります。
この時代、銃は基本的に日本の戦国時代と同様、銃の先端から火薬と玉を入れて、銃身底部に押し込める先込め銃でした。
東インド会社軍が採用しようとした新式銃、エンフィールド銃も、先込め銃なのですが、火薬と弾丸が一緒に筒状の油紙に包まれており、以前では、装填時に、火薬は火薬入れから取り出し、玉は別のところから取り出して、銃に込めていました。
エンフィールド銃は、この火薬と玉が一対になっているので、同時に取り出せるわけです。
弾薬包みを取り出して、歯で噛みちぎり、包みから火薬を銃に流し込んだあと、油紙がついたままで弾丸を落とし込むのですですが、この油紙の油に牛と豚の脂が使われているという噂が流れました。
これがシパーヒー達の猛反発をよびました。

 弾丸を込める時に油紙を噛みちぎるから口に触れる。
牛はヒンドゥー教徒にとって神聖な動物で、その脂を口にするということは絶対にできません。
身分が汚れてカーストから追放です。
又、豚はイスラム教では不浄の動物とされ、ムスリムのシパーヒーもこれを口にする事を拒否しました。

 イギリス人の軍幹部は、牛と豚の脂は使用していないと、否定しましたが、一度広がった噂は消すことが出来ませんでした。
それまでの、イギリス側の姿勢に対する反感も手伝って、各地の部隊で不穏な雰囲気が高まっていきました。

続く・・・

2012/09/03

人類の軌跡その465:アジアに翻るユニオンジャック③

<イギリスのインド支配③>

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インド大反乱(セポイの乱)

◎イギリス東インド会社によるインド支配

 イギリス東インド会社が、インドを支配するように成り、インドは重い負担に苦しむようになりました。
まず、税負担では、イギリス東インド会社の徴税額は、1765年ベンガル太守時代には、82万ポンド、1770年東インド会社時代になると234万ポンド、1790年には340万ポンドと、増加しつづけています。
別の資料によると、東インド会社による地租(土地税)収奪は、1771年から72年にかけて234.2万ポンド、これを指数100とすると、1821年から22年が1372.9万ポンドで、指数589、1856年から57年が1531.8万ポンドで指数654、どんどん税額が増えている事が判ります。

 税を増やすだけでなく、東インド会社は、インド農民に高く売れる商品作物の栽培を強制します。綿布の染料に使う藍や、麻薬アヘンの原料となるケシ等、小麦など食糧をつくるべき畑で、食糧を作る事を許されず、食糧生産量は落ち、藍やケシをいくら栽培しても、人間の空腹を満たす事は出来ず、この結果、飢饉が激増しました。

インド大飢饉の回数は以下

18世紀 大飢饉3回 死者数不明
1800年~25年 大飢饉5回 死者100万人
1826年~50年 大飢饉2回 死者40万人
1851年~75年 大飢饉6回 死者500万人
1876年~1900年 大飢饉13回 死者1600万人

 19世紀に2000万人以上が餓死しているのは、イギリスの支配によって、インドは貧困に追い込まれた結果なのです。

◎インド大反乱

 イギリス東インド会社は、インドを支配するための軍隊を保有していました。
東インド会社の軍隊であり、全兵力23万8千人、兵力の内訳はイギリス兵、つまりイギリス人の軍人が、その人数は3万8000人、残りの20万人がインド人傭兵です。
このインド人傭兵をシパーヒー(またはセポイ)といいます。
シパーヒーは上級カースト出身者が多く採用され、イギリス側は、カースト制度を利用して効率よく支配するために、上級カースト出身者を採用したのでしょう。
また、上級カーストの者にとって、たとえ支配者がイギリス人であっても、自分達が支配者側の一員になることは抵抗感が少なかったのかもしれません。
俺たちは偉いのだから、イギリス人が雇うのは当然、イギリス人と同じ支配者階級になるのは当然、と思っていたのかもしれません。
この約20万のシパーヒーが、イギリス東インド会社のインド支配の最終手段、暴力装置でした。
シパーヒー達がイギリス東インド会社から離反すれば、イギリスの支配は不可能になります。
イギリス東インド会社軍としては、シパーヒーを飼い慣らし、手なずけておかなければならないのですが、1857年シパーヒーの反乱が起こりました。

続く・・・
2012/09/01

人類の軌跡その464:アジアに翻るユニオンジャック②

<イギリスのインド支配②>

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イギリス東インド会社傭兵(シパーヒー・セポイ)

◎イギリス東インド会社によるインド征服②

 プラッシーの戦いは、イギリス側3000、フランス側6800なので、フランス側が圧倒的に有利です。ところが、この戦いでイギリスが勝利します。
その立役者として活躍したのが、イギリス東インド会社のクライブで、インドに於けるイギリスの活動主体はイギリス政府ではなく、イギリス東インド会社で在り、イギリス政府が指揮しているのでは在りません。

 クライブは、ベンガル太守軍の将軍に買収工作を行い、太守を裏切りイギリス側に寝返ったら、戦後、ベンガル太守の地位につけると約束をしたのです。
将軍は買収に応じ、戦いが始まると、この将軍、ベンガル太守の命令を無視し、軍を動かさず、結局この裏切りの結果、イギリスが勝利することになったのです。
この買収工作で、クライブは、イギリス本国で一躍英雄となりました。

 この戦闘が、結果としてインドの運命を変えることになりました。
イギリス東インド会社は、この後フランス勢力をインドから一掃しただけではなく、新しいベンガル太守を傀儡(かいらい)としました。
1765年には、イギリス東インド会社はベンガル地方の徴税権を獲得し、貿易会社が、他国の一地方の税金を徴収するのです。
それは、貿易会社ではなく、統治機関で在り事実上、ベンガル地方を支配するようになったということです。
因みに、ベンガル地方というのは、現在のバングラデシュ一帯の地方です。

 これ以後、インドはイギリス産業の原料供給地兼製品市場とされていきました。
イギリス東インド会社はインドから木綿を買い付け、イギリス本国に輸出します。
折からの産業革命で、発展しつつある綿織物工業の原材料で、イギリスの機械制大工場で生産された綿織物が、今度はインドに輸出されます。
インドは世界有数の綿織物生産国でしたが、手工業が災いし、イギリスから輸出される大量生産で安価な綿織物に対抗できず、インドの綿織物工業は大打撃を受けました。
「世界に冠たる織物の町」と云われたダッカの人口は、わずかのうちに15万から3万に激減しました。

 インド総督ベンティングは、1834年にイギリス本国に送った年次報告に「世界経済史上、このような惨状に比すべきものはほとんど見いだせない。職工たちの骨がインドの平原を白色に化している」と書いたほどです。

 お金とモノの流れを単純に考えてみると、イギリス東インド会社は徴税権を持ち、インド人から税金を徴収し、その税金で、インド農民から原綿を買い付けると考えれば、ただで原料を手に入れている、もしくは奪っているのと同じことです。
それを加工した製品をインド人に売るという事は、奪った原料で作った製品を、奪った相手に売りつけているわけで、富は一方的にイギリスに流れることになります。
イギリス側にとって、これほど儲かる商売はないし、インド側からみれば、最大限搾取されているわけです。

 この後、イギリスは、インド各地の地方政権を次々に支配下に置いていきました。
インド征服のための大きな戦争としては、南インドのマイソール王国とのマイソール戦争(1767年~99年)、マラータ同盟とのマラータ戦争(1775年~1818年)、シク教国とのシク戦争(1845年~49年)があります。
シク戦争の勝利で、イギリスによるインド征服は事実上完了しました。

続く・・・