人類の軌跡その484:アヘン戦争以後の中国③
<太平天国その③>

◎太平天国
1851年、洪秀全は広西省金田村で挙兵し、反乱の名前は太平天国、挙兵時の拝上帝会会員は1万から2万だったといいます。
老若男女を含む大集団は、清軍と戦いながら北上を開始しました。
太平天国軍は信仰のもとに団結し、規律が厳格に守られ、腐敗した清の正規軍よりも強力でした。拝上帝会に入会し、反乱に参加した信者は全員、すべての財産を拝上帝会に寄進します。
その為、負けたら何も一切が消滅、勝つしかないです。
又、信仰心で自分たちの正義を信じているから強く、軍隊と称しても、貧民の集まりですが、男女を分けて軍隊を組織して、夫婦といえども別々に行動しました。
博奕やアヘンは絶対禁止、略奪行為も許されず、必要な食糧や物資は支給されました。
戦闘に勝利を治め、何れかの町を占領すると、役所の倉庫や地主、商人等の金持ちから、食糧・物資・財産を没収し、太平天国軍共同金庫で保管します。
信者への配給品はそこから配られ、没収した食糧等は、占領地の貧民にも配給された為、貧民の多い一般民衆は太平天国軍がやってくるのを待ちわびています。
占領地に対して3年間の租税免除も宣伝したから、太平天国への支持は急拡大しました。
略奪暴行等悪業の限りを尽くす、清朝正規軍は民衆の支持が全くなく、清軍が負けるのは当然です。
太平天国軍は清朝正規軍を撃破し、占領地を拡大しながら北上をつづけ、1853年に南京を占領し、ここを首都にして天京と改名しました。
拝上帝会の会員数は100万に達しまし、この段階で中国南部の広大な地域を勢力下に置いており、清という国の中に、太平天国という国が成立している状態に成りました。
しかしながら、反乱勢力で在り、正規の国家では在りません。
洪秀全等、太平天国の指導者は、清朝打倒をめざし、北伐軍を北京に出撃させましたが、これは失敗し、清朝を滅ぼすという目標は遠のきました。
以後は、支配地域を維持しようとする太平天国側と、これを壊滅させようとする清朝との戦いが約10年間続きます。
続く・・・

◎太平天国
1851年、洪秀全は広西省金田村で挙兵し、反乱の名前は太平天国、挙兵時の拝上帝会会員は1万から2万だったといいます。
老若男女を含む大集団は、清軍と戦いながら北上を開始しました。
太平天国軍は信仰のもとに団結し、規律が厳格に守られ、腐敗した清の正規軍よりも強力でした。拝上帝会に入会し、反乱に参加した信者は全員、すべての財産を拝上帝会に寄進します。
その為、負けたら何も一切が消滅、勝つしかないです。
又、信仰心で自分たちの正義を信じているから強く、軍隊と称しても、貧民の集まりですが、男女を分けて軍隊を組織して、夫婦といえども別々に行動しました。
博奕やアヘンは絶対禁止、略奪行為も許されず、必要な食糧や物資は支給されました。
戦闘に勝利を治め、何れかの町を占領すると、役所の倉庫や地主、商人等の金持ちから、食糧・物資・財産を没収し、太平天国軍共同金庫で保管します。
信者への配給品はそこから配られ、没収した食糧等は、占領地の貧民にも配給された為、貧民の多い一般民衆は太平天国軍がやってくるのを待ちわびています。
占領地に対して3年間の租税免除も宣伝したから、太平天国への支持は急拡大しました。
略奪暴行等悪業の限りを尽くす、清朝正規軍は民衆の支持が全くなく、清軍が負けるのは当然です。
太平天国軍は清朝正規軍を撃破し、占領地を拡大しながら北上をつづけ、1853年に南京を占領し、ここを首都にして天京と改名しました。
拝上帝会の会員数は100万に達しまし、この段階で中国南部の広大な地域を勢力下に置いており、清という国の中に、太平天国という国が成立している状態に成りました。
しかしながら、反乱勢力で在り、正規の国家では在りません。
洪秀全等、太平天国の指導者は、清朝打倒をめざし、北伐軍を北京に出撃させましたが、これは失敗し、清朝を滅ぼすという目標は遠のきました。
以後は、支配地域を維持しようとする太平天国側と、これを壊滅させようとする清朝との戦いが約10年間続きます。
続く・・・
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