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2012/10/31

人類の軌跡その505:第一次世界大戦②

<第一次世界大戦のはじまり②>

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フォッカーDr.I

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マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(Manfred Albrecht Freiherr von Richthofen, 1892年5月2日 - 1918年4月21日)

◎戦争の始まり

 ロシアがセルビアを支援する為に7月30日総動員を開始すると、8月1日、ドイツがロシアに宣戦布告して第一次大戦が勃発、ドイツは3日に、フランスに宣戦布告、ドイツ軍が中立国ベルギーに侵入すると、4日にはイギリスがドイツに宣戦しました。

 もともとドイツと共通の利害は存在せず、オーストリアとは未解決の国境問題を持ち合わせていたイタリアは、戦争が始まると中立を宣言し、翌年、連合国側で参戦しました。
そのため同盟国はドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリアの四国となりましたが、オーストリア軍は弱体でヨーロッパ戦線はドイツ一国で支えている状態でした。

 連合国側には主力の英仏露以外にセルビア、モンテネグロ、日本、後にアメリカ合衆国等最終的に27カ国が参戦し、日英同盟を理由に参戦した日本は、中国山東省と南太平洋のドイツ軍基地を攻略します。
開戦時の兵力は、ドイツ軍400万人、オーストリア軍250万人、フランス軍360万人、ロシア軍500万人、イギリス軍35万人でした。

◎第2インターナショナル

 反戦を訴えていた第2インターナショナルですが、大戦が勃発するとその主張を貫くことが出来ず解体、国境を越えた労働者の団結よりも、各党が所属する国家の「防衛」を優先したのです。
強硬に反戦を唱えたフランス社会党の指導者ジョレスは、7月31に暗殺され、第2インターナショナルを支えていたヨーロッパ最大の社会主義政党ドイツ社会民主党は8月3日に「我々は危機に際し祖国を見捨てないであろう」と宣言したのです。

◎長期化と総力戦

 大戦は予想を超えた長期戦となり、膨大な人命と物資を消耗する総力戦となりました。
従来の戦争とは異なり、銃後の国民も負担を強いられ、植民地からも兵力は動員されました。

 二正面作戦を強いられるドイツは、最初にフランスに兵力を集中し、短期決戦でフランス軍を殲滅したのち反転し、東部戦線でロシアと戦う作戦でした。
防備の薄いベルギー国境からフランスに侵入したドイツ軍は、パリ近くまで進撃しますが、9月になると体勢を立て直した英仏連合軍にマルヌの戦いで敗れ、西部戦線は膠着し持久戦となりました。
互いに相手を包囲する為、前線はフランドル海岸からスイス国境まで延び、両軍は塹壕を掘って対峙しました。
塹壕の総延長は両軍あわせて約4万キロに及び、1914年末迄で、ドイツ軍68万人、フランス軍85万人の死傷者を出すという大規模な戦争になりました。

 東部戦線では、1914年8月タンネンベルクの戦いでドイツ軍がロシア軍に大勝しましたが、その後は持久戦と成り、バルカン半島では同盟国側が優勢でセルビア、モンテネグロ、北アルバニアを占領しましたが、大勢に影響を与えるものではありませんでした。
1916年5月、英独両海軍はユトランド沖海戦でも勝敗はつかず、その後イギリスは海上封鎖によってドイツを包囲します。

◎莫大な戦死者数と新兵器開発

 1916年のドイツ軍の総攻撃、ヴェルダンの戦い(2月末~年末)では、ドイツ軍33万7000人、フランス軍37万7000人の死傷者を出すものの前線を突破できず、同年の英仏軍の総攻撃、ソンムの戦い(7月~11月)では、連合軍250万とドイツ軍150万が戦い、死傷者は連合軍90万、ドイツ軍60万を数えました。

 この戦いでも莫大な犠牲を出しながら相手の陣地を抜く事は出来ませんでした。
戦況を打開の為、ドイツ軍による毒ガス使用、イギリス軍の戦車開発、飛行機による爆撃など新たな兵器や戦術が開発されましたが、膠着状態は続いたのです。

続く・・・
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2012/10/30

人類の軌跡その504:第一次世界大戦

<第一次世界大戦のはじまり>

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 バルカン半島で発生したサライェボ事件は、三国協商と三国同盟の戦争に発展し、第一次大戦が始まりました。
短期決戦を目論んだドイツの作戦は挫折し、戦争は長期化します。

◎両陣営に分かれる西欧列強

 19世紀末、急速に工業化を遂げたドイツが、植民地獲得に乗り出した事を警戒したイギリス・フランス・ロシアは露仏同盟(1891)、英仏協商(1904)、英露協商(1907)によって結ばれ、三国協商と呼称される枠組みが成立しました。

一方ドイツは、1882年にオーストリア、イタリアとともに三国同盟を締結しており、オーストリアはバルカン半島への領土拡大を狙い、汎・スラブ主義を掲げてバルカン半島進出を画策するロシアと対立していました。

◎バルカン半島におけるオーストリアとロシアの対立

 20世紀初頭のバルカン半島では、オスマン帝国の衰退に伴って紛争が相次ぎ、1908年、オスマン帝国でミドハト憲法の復活を求める軍人達の結社「青年トルコ」によるサロニカ革命が起きると、その混乱に乗じて、自治国のブルガリアが独立を宣言し、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合しました。
セルビア人住民の多いこの地域の合併を望んでいたセルビアは、ロシアを後ろ盾にオーストリアと激しく対立したのです。

 1912年にはロシアの後押しで、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシアはバルカン同盟を締結してオスマン帝国と戦い(第一次バルカン戦争)、イスタンブールを除くバルカン半島の全領土を奪取したのですが、1913年、その領土の分配をめぐって、ブルガリアと他のバルカン諸国の間に戦争が起き(第二次バルカン戦争)、結果敗れたブルガリアは、大幅な領土を喪失したのです。
この後、ブルガリアはロシアから離れ急速にオーストリアに接近しました。

 こうして、ロシアとオーストリアの対立を背景に小国が分立するバルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」とよばれる紛争地帯となっていました。

◎サライェボ事件

 1914年6月28日、軍事演習観閲の為ボスニアの州都サライェボを訪れた、オーストリア皇太子夫妻が、自動車で市内を移動中に暗殺されました。
犯人がボスニア出身のセルビア人学生だったため、オーストリア政府は、セルビア政府の陰謀としてその責任を追及し、7月28日、セルビアに対して宣戦布告、ドイツはオーストリアとセルビアの戦争が三国同盟と三国協商の戦いに発展することを予測したうえで、オーストリアの宣戦布告を事前に認め、短期間のうちに勝利をおさめて、ドイツの国力にふさわしい位置をヨーロッパ列国に認めさせようと考えていたのでした。

続く・・・

2012/10/29

人類の軌跡その503:第一次世界大戦前夜

<帝国主義諸国の世界分割>

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 19世紀後半、独占資本・金融資本が発達すると列強は、資本輸出先として植民地を求め帝国主義政策を選択し、やがて、植民地獲得の為、帝国主義国間の対立が激しくなります。

◎先進資本主義国が植民地を求めた理由

 1870年代から先進国では重化学工業が発展してきました。
膨大な資本と設備を必要とする為、生産は少数の大企業に集中し、企業合同(トラスト)、企業連合(カルテル)、企業結合(コンツェルン)の形で企業が巨大化し、独占資本が形成されました。
同時に金融資本も成長し、独占資本に資金を供給する大銀行が諸産業に大きな影響力を持つようになります。

 独占資本・金融資本は国内では投資しきれない過剰な資本を海外への輸出に振り向けます。
その為に、政府を動かして投資先の国と条約を締結していきますが、相手国が西欧と異なる外交・経済体制を持ち、資本輸出が困難な場合には、軍事力によって条約を強制し、時にはその国家を滅ぼし直接支配しました。
これが、従属国や植民地を求めた理由で、古代ローマ帝国の様に領土拡大を目指した事から、このような政策を帝国主義政策と呼称し、各国は先を争って世界分割に乗りだし、又、その為に軍備を増強したのです。

◎資本輸出としての鉄道建設と借款

 典型的な資本輸出は鉄道建設で、資本と技術が集約された鉄道建設は、製鉄、機械工業に需要を与え、沿線での工場建設や鉱山開発を促進し産業全体を牽引しました。
1870年代から世界中で鉄道建設が盛んになり、総延長距離は例えばアジアでは1870年に8000キロだったものが、10年事に倍増し1910年には102000キロに延びています。
この大部分は帝国主義列強により建設されたもので、ロシアがフランスの資本を導入して建設したシベリア鉄道は有名です。

 相手国政府に資金を貸し付ける借款も資本輸出の一つの形態で、これは相手国の関税収入や鉄道敷設権を担保にして、半植民地化する手段としても有効でした。

◎アフリカ分割をめぐる帝国主義国の対立

 1880年代以降に成ると、列国の植民地獲得競争は激化します。
アフリカ大陸に関して、ヨーロッパ諸国はお互いの衝突を回避する為に、1885年のベルリン会議で、「先に占領した国が領有する」(先占権)と云うルールを一方的に作り分割していきました。
イギリスはエジプトからケープ植民地迄、自国の植民地を連続させるアフリカ縦断政策を、フランスはアルジェリアからジブチを連結するアフリカ横断政策をとりました。
その過程で両国軍が、1898年スーダンのファショダで衝突し(ファショダ事件)、両国間の緊張は開戦寸前迄に高まりましたが、フランスの譲歩で戦争は回避されたのですが、植民地分割が帝国主義国間戦争に発展する可能性を示した事件でした。

続く・・・

2012/10/27

人類の軌跡その502:中国大陸⑤

<袁世凱の台頭>

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武昌蜂起

◎清朝の改革

 日露戦争後、清朝政府は改革の必要性をようやく認識し、1905年には科挙を廃止、1908年には憲法大綱を発布し10年後の国会開設を公約しました。
しかし、早期国会開設を求める人々はこの公約に失望し、清朝が科挙に代わる人材育成を目的とした、日本に送り出した多くの留学生は、反清思想に触れて帰国しました。

◎武昌蜂起の成功と中華民国の成立

 1911年、鉄道国有化令が公布され、民間鉄道である川漢(四川~湖北)鉄道、粤漢(広東~湖北)鉄道の敷設権を国有化し、これを担保に外国から借款を得ようする政策であり、国権を外国に売り渡すものとして、成長しつつあった民族資本家層を中心に、沿線各省で猛烈な反対運動が起こり、四川省では大規模な暴動に発展しました。
10月には湖北省の武昌で湖北新軍が挙兵、革命政府を樹立し、清朝からの独立を宣言しました(武昌蜂起)。
新軍(新建陸軍)は、日清戦争後に作られた洋式陸軍で、将校には日本留学者が多く、兵士も含めて革命派が多く所属しており、湖北新軍では15000の兵のうち三分の一が革命化していたといいます。

 武昌蜂起成功が伝わると、湖南省、陜西省、江西省などに蜂起は広がり、14省で革命政府が成立し清朝からの独立を宣言しました(辛亥革命)。
1912年1月、独立した革命派諸省は南京を首都に中華民国の成立を宣言し、亡命先のアメリカから帰国した孫文が臨時大総統に就任したのです。

 武昌蜂起後、清朝政府は西太后死後失脚していた軍の実力者、袁世凱を起用し革命鎮圧を命じました。
資金難のうえ各省の足並みが揃わない南京政府には、列強の支持を受け北洋陸軍を率いる袁世凱を破る軍事力はありませんでした。
ようやく成立した革命政府を守るためには、袁世凱を味方につけるしかないと判断した孫文は、宣統帝を退位させ共和政を守るならば、臨時大総統の地位を袁世凱に譲ると約束しました。
この申し出を待っていた袁世凱は、1912年2月宣統帝を退位させ(清朝の滅亡)、3月には北京で臨時大総統に就任しました。

 このような経過で大総統となった袁世凱には、革命や三民主義への共感はなく、あるのは権力欲だけでした。
1912年、中国最初の選挙で中国同盟会を母体として結成された国民党が圧勝すると、袁世凱はこれを弾圧し、結果として国民党の指導者宋教仁は暗殺され、1913年各地で反袁反乱(第二革命)が起きましたが失敗に終わり、孫文は再び亡命します。
袁世凱は、翌年には国会を停止し独裁を強化し、1916年には帝位に就きますが、これは時代錯誤として内外から強い反発を受け(第三革命)、帝政を撤回したのち病死しました。
袁世凱死後、彼の部下の将軍達が軍閥として地方割拠し、中華民国とは名ばかりの分裂状態となり、列強は各軍閥と結びつきながら利権を獲得して行ったのです。

続く・・・
2012/10/25

人類の軌跡その501:中国大陸④

<挫折した清朝の変法運動その②>

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孫 文(1866年11月12日 - 1925年3月12日)

◎西太后の反動

 保守派の西太后は改革に反対なのはもちろんの事、自分を無視して改革を断行した光緒帝を許すことができませんでした。
変法が開始された4日後には、光緒帝から高級官僚の任命権を奪い、軍隊を掌握する直隷総督兼北洋大臣に自分の側近を任命して改革に圧力を加えはじめました。
光緒帝も、保守派官僚の罷免と変法派の登用を行い抵抗したのですが、思うように改革は進展せず、西太后派による光緒帝廃位計画も検討されるなか、変法派は日清戦争後創設された近代的装備を持つ新建陸軍の指揮官袁世凱に西太后派の排除を要請しました。
袁世凱は李鴻章の後継者として頭角をあらわしてきた軍人で、1895年に変法運動に資金援助をした事も在り、最後の頼みの綱とされたのです。

 しかし、袁世凱は排除計画を西太后に告げ、西太后派は逆にクーデタを決行(戊戌の政変)、変法が始まって3ヶ月後のことでした。
光緒帝は、北京の湖南海に浮かぶ小島瀛台(えいだい)に幽閉され、康有為と梁啓超は日本に亡命し、その他の変法派のメンバーは皆処刑されたのです。

 西太后は再び政権を掌握し、光緒帝は崩御の瞬間迄、皇帝として在位したまま、幽閉生活を送ります。
1908年、光緒帝が没した翌日に、西太后は次の皇帝を指名して亡くなりました。
光緒帝は、死期を悟った西太后によって毒殺されたと云われ、彼女が指名した宣統帝(愛親覚羅溥儀・在位1908年~12年)が清朝最後の皇帝(映画ラストエンペラーのモデル)となりました。

◎変法運動の失敗が示したもの

 変法運動が清朝内の権力闘争で失敗した事は、清朝を倒さなければ中国の再生があり得ない事を若い知識人達に示す結果となり、これ以後の改革運動は反清革命運動となって展開する事になります。

◎清朝打倒をめざす革命団体

 清朝の打倒をめざす革命団体が19世紀末から結成されはじめます。
担い手となったのは留学生や華僑等、外から中国を見る機会を持った人々でした。
1905年日露戦争に刺激を受け、興中会、華興会、光復会等革命組織が結集し、東京で中国同盟会が結成されました。
中国人留学生300人がこれに参加し、後に彼等が帰国する事によって、革命運動は中国全土に広がり、これ以後、革命派による武装蜂起が中国各地で繰り返されました。

中国同盟会の指導者となったのは孫文(1866~1925)でした。
広東省の貧農の家に生まれ、小さい頃から太平天国の洪秀全にあこがれていたといいます。
12歳の時ハワイで成功していた兄のもとに渡り、西洋式の教育を受け、1894年には興中会を組織し革命運動を行なっていました。
孫文の唱える「三民主義」(民族の独立、民権の伸張、民生の安定)は、中国同盟会の指導理念と成ったのです。

続く・・・
2012/10/24

人類の軌跡その500:中国大陸③

<挫折した清朝の変法運動>

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 日清戦争後、光緒帝は立憲君主政等の政治改革を主張する変法派を登用し、改革に着手しました。しかし、西太后ら保守派のクーデタで改革は潰され、清朝再生の機会は永遠に失われたのです。

◎日清戦争敗北の原因

 清軍は、洋務運動により近代的な装備を保有し、特に最新鋭の軍艦を配備された北洋海軍は、日本海軍に匹敵する、戦闘能力を有していました。
その様な軍事力を保有しながら、日清戦争に敗れた理由は、直接的には政府部内の不統一と為政者の自己保身が原因でした。
日本軍と戦った清の北洋海軍と淮軍は、直隷総督(河北省長官)兼北洋大臣(外交軍事の責任者)を務めた李鴻章が、洋務運動によって作りあげた私軍とも云うべきもので、李鴻章は勝利よりも、軍を温存して権力基盤を守ることを優先したのです。
その為、ロシア等に仲介を求め、決戦を回避しつづけ、日本軍は有利に戦争を進める事を可能としたのです。
又、宮廷の実権を握る西太后は、自分の還暦記念の為、頤和園改築工事に清国海軍軍事予算を流用する始末でした。

 清朝は日本に対する2億両の賠償金支払いの為、海関税等を担保に西欧諸国に借款を求め、これをきっかけに各国は鉄道敷設権、沿線の鉱山採掘権等を清朝から獲得していきました。
又、1898年にドイツが宣教師殺害事件を発端に、山東半島膠州湾の租借を皮切りに、ロシアが旅順、大連、イギリスが威海衛、九龍半島、フランスが広州湾を租借し、鉄道敷設権を獲得した地域と合わせて排他的な勢力範囲を形成し、中国の分割が一気に進行しました。

◎政体変革の主張と光緒帝

 日清戦争の敗北により、洋務運動が国力強化に繋がらない事が明白と成り、強まる列強の圧迫のなかで、若手知識人から政体変革を求める変法運動が起こってきました。
運動の中心となった康有為、梁啓超らは、明治維新を模範として立憲君主政や議会の開設による清朝再建を目指していました。
1888年に皇帝に政治改革を求める上書をして、既に有名になっていた康有為は、1895年、科挙の会試受験で北京に滞在した際に、下関条約に反対して1200名の受験生の署名を集め抗議活動をおこない、科挙に合格してからも、康有為のグループは雑誌出版等で変法=政治改革の必要性を訴えましたが、その意見は保守派の官僚に阻まれ皇帝には届きませんでした。

 1898年、康有為らの主張は遂に光緒帝(位1875~1908)の知る処と成り、6月、光緒帝は康有為らを登用して変法を開始しました(戊戌の変法)。
科挙の改革、近代的学校制度の創設、官庁の統廃合等、康有為らの改革案が皇帝を通じて次々と発せられました。
しかし、改革案には財政的裏付けが無く、又保守派官僚が強硬に抵抗した結果、その多くは実行されず、更に西太后が変法に反対した為、多くの官僚が傍観的態度をとり、光緒帝を含む変法派は孤立していきました。

 西太后は、1861年以来、5歳で即位した同治帝(位1861~75)の生母として、また4歳で即位した光緒帝の伯母として権力を握りつづけた人物で、光緒帝が成人に達すると政権を譲りましたが、宮中に隠然たる勢力を保ち、光緒帝も西太后に逆らう事はできませんでした。
その様な状況の中で、戊戌の変法は、光緒帝がはじめて西太后の意向を無視して行った政治的決断だったのです。

続く・・・

2012/10/23

人類の軌跡その499:中国大陸②

<義和団事件から日露戦争へその②>

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◎日露戦争②

 開戦前はロシアとの戦争に懐疑的だった日本国内の世論は、あいつぐ戦勝の知らせに沸き立ち、社会主義者の幸徳秋水やキリスト者の内村鑑三らわずかな反戦論を除き好戦的気分に浸っていました。
しかし、もともと後発資本主義国の日本にとって、戦争による消耗は国力の限界に近づいており、武器弾薬を調達する戦費も底をつきはじめていたのです。
事実、奉天会戦後の日本軍には、退却するロシア軍を追撃するだけの弾薬は残っておらず、20億円近い戦費の45%をイギリスとアメリカの外債に頼っていた日本にとって、これ以上の戦争継続は不可能でした。

 又、ロシアも1905年1月にペテルブルクで民衆のデモ隊に軍隊が発砲し死者を出した「血の日曜日事件」をきっかけに、専制政治に反対する労働者のストライキ、農民の蜂起や軍隊の反乱が頻発し戦争継続は困難に成りつつあったのです(ロシア第一革命)。

◎戦争終結

 1905年9月、アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトの仲介により、ポーツマス条約が締結され戦争は終結しました。

内容は、以下
1、日本の韓国に対する保護権を承認。
2、遼東半島南部の租借権と南満州鉄道と沿線の利権を日本に譲渡。
3、南樺太をロシアが日本に割譲。

以上が主な内容ですが、ロシアからの賠償金支払いは無く、日本国内ではこれを不満として暴動も起こりましたが、日本のぎりぎりの勝利を反映した内容でも在りました。

◎アジア諸国への影響

 日露戦争は、植民地分割をめぐって戦われた初めての帝国主義国間戦争でしたが、ヨーロッパにアジアが勝利した戦争として、列強に侵略されているアジア諸民族を鼓舞する一面もありました。
インドでは「アジア人に対するヨーロッパ人の絶対的優位性の神話は崩れ去った。インド人も民族的自信を持つべきだ」と唱えるティラクの指導でインド国民会議派による反英運動が活発化しました。
第二次大戦後にインド首相となるネルーも「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国々に、大きな影響を与えた。わたしは、少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえによくはなしたことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そしておとながおなじ感激をした。」と書いています。
又、1906年のイラン立憲革命や1908年のトルコのサロニカ革命も日露戦争の影響があると云われています

 しかし、その後の韓国の植民地化と中国侵略は日本がヨーロッパ列強と同様の帝国主義国であることを示すものでした。

◎日露戦争後の韓国の抵抗と日韓併合

 1905年日露戦争で勝利をおさめた日本は韓国に第二次日韓協約締結を強制し、韓国の外交権を奪い保護国化しました。
1907年、高宗は第二次日韓協約の無効を世界に訴える為、オランダのハーグで開催されていた、第2回万国平和会議に密かに使節を派遣しましたが、日本も参加する平和会議は、韓国使節の参加を認めず、使節の1人が抗議の自殺を遂げる事件に発展しす(ハーグ密使事件)。

 日本は事件を理由に、高宗を退位させ、第三次日韓協約で内政をも監督下に置き、韓国軍を解散します。
この後、元兵士を中心に義兵闘争が活発化し、1908年には義兵と日本軍との交戦回数は1400回を数え、1909年、伊藤博文を満州鉄道のハルピン駅で暗殺した安重根(アンジュングン)も義兵でした。

 やがて、義兵も徐々に日本軍に制圧され、1910年12月22日、日韓併合条約によって韓国は日本に併合され、この夜、京城の朝鮮統監寺内正毅は「小早川加藤小西が夜にあらば今宵の月をいかに見るらん」と詠みました。
秀吉の猛将達が成し得なかった、朝鮮征服を成し遂げた事を詠んだのですが、反対に、韓国併合のニュースを聞いた石川啄木は「地図の上、朝鮮国にくろぐろと、墨をぬりつつ秋風を聞く」と詠んでいます。

続く・・・


2012/10/22

人類の軌跡その498:中国大陸

<義和団事件から日露戦争へ>

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義和団鎮圧 8カ国連合軍

 中国民衆の排外運動で在る義和団事件は、清朝の植民地化を一層進める結果となりました。
事件後、中国東北部地方への進出を目論む日露の対立は深まり、日露戦争が勃発します。

◎義和団事件

 1860年の北京条約でキリスト教の布教が自由に成り、外国人宣教師が中国奥地に入るようになると、治外法権を利用した横暴な振る舞いは、中国民衆との紛争を頻発させます。
山東省では1890年代末から大刀会や義和拳等、武術を習得した人々を中心として、宣教師や教会を襲撃する仇教(きゅうきょう・反キリスト教)運動が活発化しました。
彼らは義和団と呼ばれ、1899年頃からその参加者と規模は拡大し「扶清滅洋(清を助けて西洋を滅ぼす)」を唱える大規模な武装排外運動に発展、1900年には鉄道、電信の破壊闘争を行い天津と北京を占拠、北京では公使館地区を包囲しました。

 清朝政府は当初列強の要請を受け、義和団鎮圧に従事しましたが、1900年6月、運動の盛り上がりを背景に、義和団に協調し外国勢力を排除する方向に転換し、列国に宣戦布告、これに対し、日・露・英・米・仏・独・伊・墺の八カ国は共同出兵し2万の兵を送り込みました。
連合軍は7月に天津、8月には北京を占領し、清朝は降伏、徒手空拳で果敢に戦った義和団も鎮圧され、清朝は翌1901年の北京議定書で北京への外国軍の駐屯、賠償金4億5千万両等を受け入れ、半植民地化は一層進行したのです。

◎日露の対立

 義和団事件後、各国軍が撤兵した後もロシア軍のみは中国東北部に留まり、この地域を事実上占領しました。
その結果、朝鮮半島から中国東北部への勢力拡大を画策する、日本との間に緊張が高まります。
イギリスもロシアの南下を警戒しましたが、南アフリカでボーア戦争が発生していた為、極東に大軍を送ることができず、ロシアを牽制するため日本を支援して1902年日英同盟を締結、日本にとって世界最強国であるイギリスとの同盟は願ってもない事でした。

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日本帝国海軍戦艦「三笠」

◎日露戦争

 1904年、日露戦争が勃発、戦場は中国東北部であり、ロシア軍の籠もる旅順要塞の攻防戦が最初の激戦となりました。
日本軍は旅順要塞を陥落させましたが、155日間に渡る戦いで59000名もの戦死者を出し、与謝野晶子が「君死にたもうことなかれ」と歌ったのは、旅順に出陣している弟を思っての事でした。
その後、日本軍は、25万の兵力で北上し、1905年3月、奉天会戦でロシア軍本体32万と激突、激戦の末ロシア軍を退却させることに成功、5月には対馬沖の日本海海戦で、バルト海からアフリカを回航してきたロシアのバルチック艦隊(第二、第三太平洋艦隊)を撃破(ロシア海軍は38隻中19隻が沈没)、日本の優位は確定しました。

続く・・・

2012/10/20

人類の軌跡その497:朝鮮半島②

<日清戦争と日本による朝鮮の植民地化>

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1895年4月17日、下関「春帆楼(しゅんぱんろう)」に於ける条約締結

 朝鮮の農民反乱に端を発した日清戦争で、日本は勝利をおさめましたが、朝鮮政府はロシアに接近して日本の排除を試みました。
日本の半島支配は、日露戦争の後に確立されます。

◎甲午農民戦争から日清戦争へ

 1894年、全羅道を中心に、甲午農民戦争と呼ばれる農民反乱が勃発しました。
指導者全 準(チョンボンジュン)は、東学の指導者で、此処で東学とは19世紀末に儒教、仏教、道教を融合して成立した宗教で在り、西学=キリスト教に対抗する意味で東学と名づけられたのです。

1894年2月、全羅道古阜(コブ)郡で役人の不当な徴税に抗議して千人規模ではじまった反乱は、5月には1万人に増加、道都全州を占領するに至りました。
「悪政改革、外人追放、万民福利、逐洋斥倭(ちくようせきわ・西洋人と日本人を追い払え)」を唱え、開国以来目に見えて生活が悪化していた民衆の支持を集めます。
朝鮮政府は、これを鎮圧できず清に援軍を要請し、清は出兵すると共に天津条約に基づき日本に通告した為、日本も居留民保護を名目に朝鮮への出兵を決定しました。

 侵略の足がかりに成る、日本の出兵をのぞまない朝鮮政府は、日本に撤兵を要請する一方、出兵の口実をなくすため農民反乱軍と交渉してその要求を受け入れたため、農民軍は全州を退去しました。
反乱終結を理由に、朝鮮政府は日清両軍に撤兵を要求しましたが、これを機に清と戦って朝鮮に対する支配権を確保したい日本は要求を拒否、7月末、逆に王宮を軍事制圧し親日政権を樹立し、朝鮮西海岸で清国艦隊に攻撃を開始しました(宣戦布告は一週間後)、こうして日清戦争が始まりました。

◎日本の勝利と下関条約

 戦闘は日本軍の優勢のうちに展開され、9月には平壌会戦と黄海海戦で勝利し、10月には清朝領内の遼東半島、翌年1月には山東半島に侵攻、3月には澎湖島を占領しました。

 1895年3月、清は降伏し、下関条約が締結、全権代表は日本が伊藤博文、清は李鴻章でした。
内容は、
1、朝鮮の独立。
2、遼東半島・澎湖島・台湾の日本への割譲。
3、賠償金2億両などです。

 此処で、朝鮮の独立とは、清が宗主権を放棄し日本の朝鮮への干渉を容認することを意味しました。
賠償金2億両は当時の日本政府の歳入4年2ヶ月分に相当します。

◎ロシア等による下関条約への干渉と朝鮮政府

 日本が清に勝利し、広大な領土を獲得したことは、ヨーロッパ列強の警戒感を招きました。
特に、中国東北部への進出を目論むロシアは、フランス・ドイツを伴い遼東半島の清朝への返還を日本に要求しまします。
此れを三国干渉と呼称し、日本はこの要求に屈して、遼東半島を清に返還しましたが、この後ロシアを仮想敵として軍備拡張を推進します。(映画にも成った「八甲田山の雪中行軍の悲劇」はこの様な背景で発生しました)

 日清戦争以来、朝鮮では親日派政府が成立していましたが、閔妃は三国干渉の結果を見て、日本の勢力を排除するためにロシアへの接近を図ります。
1895年10月、これを阻止しようとした日本公使陸軍中将三浦梧楼は、深夜に日本兵と壮士を引き連れ王宮に乗り込み、閔妃を斬殺し遺体を焼却するという事件を起こします。
朝鮮人同士の事件に偽装する計画が、アメリカ人軍事教官とロシア人技師に目撃され国際問題となる一方、各地で王妃殺害に憤激した義兵(義勇軍)による反日闘争が発生します。
国王高宗はロシア公使館に移り親露派政権が誕生し、ロシアは軍事顧問、財政顧問を送り朝鮮への影響力を強めました。
因みに、日本へ召還された三浦たちは裁判で証拠不十分として無罪になっています。

 1897年、高宗はロシア公使館から王宮に戻り、国号を朝鮮から大韓帝国に、称号も王から皇帝へと改め、独立国としての気概を示しましたが、国の置かれている状況を変えるものではありませんでした。

続く・・・
2012/10/17

人類の軌跡その496:朝鮮半島

<朝鮮の開国と日清両国の動き>

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◎日本に強要された朝鮮の開国

 1871年に日本は清朝と日清修好条規を結び、朝鮮にも国交求めました。
しかし、朝鮮は清国を宗主国とする伝統的な外交秩序のなかに自国を位置づけ、西欧諸国に対しては鎖国政策を行なっていた事から、近代化した日本との通商を拒否しました。
1875年、朝鮮の首都京城に近い江華島の沖で、日本の軍艦雲揚号に朝鮮軍が砲撃を加える事件が発生(江華島事件)しますが、雲揚号が無断で測量を行い、朝鮮側を意図的に挑発した結果でした。
日本は、江華島事件の責任を問う形で朝鮮と交渉を推進し、1876年、日朝修好条規が結ばれました。
この条約により朝鮮は開国し、釜山など三港を開港しましたが、この条約は日本の領事裁判権を認める不平等条約でも在り、ペリーが日本に対して行った事例と同じ事を、日本は朝鮮に迫った結果でした。
この後、朝鮮はイギリス、ドイツなどとも同様の条約を結びます。

◎朝鮮政府内の対立

朝鮮政府内では、国王高宗(在位1863年~1907年)の実父大院君と王妃閔妃(ミンビ)がそれぞれ派閥を作り権力闘争を展開しており、開国後の政権運営についても、清朝の庇護の下で伝統を守ろうとする守旧派と、近代化をめざす開化派の路線対立も生じていました。

 1873年から政権を掌握した閔妃派政権は、開化路線を選択し日本から軍事顧問を招き、洋式軍隊の創設に着手しますが、これに不満を抱いた旧式軍の兵士達が、1882年反乱を起こすと(壬午軍乱)、開国後の米価高騰に不満を持つソウルの下層民衆もこれに加わり、閔妃派と日本公使館が襲われます。
この反乱を利用して大院君は政権を奪取したものの、宮殿から脱出した閔妃が清に救援を要請した為、清軍3000名が出動して反乱を鎮圧、大院君は捕らえられ中国に送られました。
返り咲いた閔妃派政権は、保守的傾向と清への依存を深めるように成り、一方、軍事顧問が殺害された日本も出兵し、公使館に兵士を駐屯させる権利を得ました。

◎急進開化派の動向

 事件後、朝鮮は謝罪使を日本に派遣しましが、その中に金玉均(キムオクキュン)等の若手開化派官僚が含まれていました。
金玉均は1882年にも日本に視察旅行を行い、朝鮮の改革に期待を寄せる福沢諭吉の紹介で井上馨、大隈重信、渋沢栄一等と面識を得ており、今回も福沢などと接触して、日本をモデルにして一刻も早く朝鮮の近代化を図る事が必要と考えるようになりました。
帰国後、金玉均らは急進開化派として政治改革を試みますが、守旧派の抵抗で身動きがとれず焦りを募らせていました。

 1884年12月4日、金玉均ら急進開化派は、クーデタを決行し、京城駐在日本公使が軍事援助を約束したのです。また清の朝鮮駐屯軍が清仏戦争の影響で3000名から1500名に減らされたことも好機と考えられました。
金玉均らは、国王の身柄を確保した上で閔妃派の政府要人を殺害し、5日には新政権樹立と改革を宣言しました。この間日本兵約150人は王宮の占拠に従事していましたが、6日に袁世凱率いる1500名の清軍が王宮に至り日本軍を攻撃すると、日本軍は小競り合いの後に金玉均ら開化派を見捨てて退去したのです。
又事件を知った民衆によって、日本公使館が焼き討ちに遭遇し、日本公使も京城から逃れました。
閔妃派の守旧派政権が復活し、事件に関わった開化派は処刑され金玉均は日本に亡命しますが、この事件を甲申政変と呼びます。

 事件の翌月、日本は京城に軍隊を派遣し、自らの責任には触れず、朝鮮政府に公使館焼き討ちに対する謝罪と賠償を要求して認めさせました。
又、日清両国は朝鮮に駐屯する両軍の衝突を避ける目的で、1885年、天津条約を締結、朝鮮からの日清両国軍の撤兵、朝鮮へ派兵する場合は、相互に事前通告する事を確認しますが、いずれ清朝との戦争を不可避と考えた日本は、この後戦争準備を推進します。

◎金玉均と福沢諭吉

 亡命した金玉均は日本政府にとっても利用価値はなく、小笠原の父島や、北海道に移送され罪人同様の扱いをうけました。
日本に見切りをつけた金玉均は1894年上海に渡りますが、その地で朝鮮政府から派遣された刺客に暗殺され、遺体は京城に運ばれ「大逆無道玉均」として晒され、「日本が東洋のイギリスならば、朝鮮はフランスに…」との彼の夢は、日本の軍事力を頼ったため破れたのでした。

 福沢諭吉は、近代化されたアジア諸国との連帯を模索していましたが、甲申政変以後、朝鮮近代化への期待を捨て「脱亜入欧」を唱える事になります。

続く・・・

2012/10/16

人類の軌跡その495:幕末⑤

<日本の開国その⑤>

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台湾出兵・旗艦「龍驤」(初代)

◎日本の改革②

 しかしながら、庶民のプライベートの時間迄、洋装になるには、まだまだ時間がかかっています。
この1871年には裸体禁止令が発布されます。
裸で出歩く人が可也の数に及び、外国人の目にはまさしく野蛮そのものに見えたのが、恥ずかしかったのでしょう。
昭和の初期、地引き網を引いている漁師の写真を見ると、素っ裸の人が可也目に付きます。
夏目漱石が学生時代に、瀬戸内の友人の家に遊びに行って、ふんどし一丁で海に遊びに行き海岸で貝をたくさん捕ったのですが、両手に持ちきれないので、ふんどしをほどいて、これに貝を包んで、素っ裸で宿に帰ったという話もあります(伊藤整『日本文壇史』)。
浮世絵を見ても、ふんどし姿の男が多く登場し、日本の文化の根底は、裸に寛容だと思います。

 福沢諭吉を初めとして啓蒙思想家が、ヨーロッパの思想や制度を次々に紹介しました。
その様な風土の中で、民主主義的な考え方も徐々に広まり、明治政府は基本的には、薩摩・長州出身者による藩閥独裁政治ですが、これに対して、自由民権運動が起こり始めるのは1870年代半ばからでした。
民主化運動の現れです。

 明治政府も、一定の譲歩を示し、徐々に民主化を行います。
1881年には、「国会開設の詔」を発表し、10年後の国会開設を約束、1889年には大日本帝国憲法を発布、1890年には国会を開設しました。

 政治制度も完全に西欧式に変え、明治政府の中心である薩長藩閥グループにとっては、民主化自体はあまりやりたくなくても、西欧列強に日本を文明国として認めてもらうには、憲法を制定し国会を開かなれればならないということは強烈に意識していました。

◎明治政府の対外政策

 明治政府による国境の確定は次のようにすすめられました。
1872年、琉球王国を滅ぼし琉球藩を設置、琉球藩は1879年には沖縄県となり、完全に日本の領土となります。

 北方に関して、徳川幕府が1855年にロシアと結んだ日露和親条約では、樺太は日露雑居地、択捉(エトロフ)島以南が日本領とされました。
1875年には、樺太・千島交換条約によって、樺太はロシア領、シュムシュ島以南の全千島列島が日本領となりますが、領土の大きさからいえば、圧倒的に樺太が広いのです。

 中国との関係では、1871年清朝との間に日清修好条規を締結。
これは、ヨーロッパのルールに基づいた条約で、日本が中国を中心とした従来の東アジアの国際秩序から抜け出し、ヨーロッパ風の国として中国もそれを承認したのです。
この条約で、日本と清は対等に成りました。

 1874年には台湾出兵を行い、約3000名の日本兵が台湾を占領した事件で、2つの意味が在りました。
ひとつは、この戦争の原因は琉球の漁民が台湾に漂着して現地民に殺された事件だったのですが、日本政府が清朝政府に抗議すると、清朝はこれに対して、殺したのは台湾の原住民で清朝の国民ではないから関知しないと報告します。
実は、清朝は日本からの抗議そのものを受け付けないという選択肢があったのです。
琉球はこの時点で、日本によって琉球藩とされていますが、徳川時代からこの時点まで、清朝に朝貢していました。
日本と清に両属しているわけですら、清は、琉球はわが国の属邦である、日本にこれを抗議する権利はないと主張する事が可能でした。

 しかし、清はその様な回答を行わず、日本が琉球を領土としていることを事実上認めたのです。
しかも、清に責任が無いのであれば、台湾の原住民に責任をとらせるために出兵しても良いと云う理屈に成ります。

 幕末維新で活躍した武士、士族階級は、明治に変わってさまざまな特権が奪われ、不満が溜まっていました。
特に、薩摩をはじめとする九州や長州の士族に不満が多く、明治政府としては、この不満のはけ口として、戦争を起こす必要も在りました。
その為、台湾遠征軍には薩摩士族が多く従軍しています。
台湾出兵の背景には、上述の様に国内の旧士族階層の不満を逸らす、目的が有ったのですが、台湾を占領しても、日本はこの土地を領土として維持していくだけの準備も力量も無く、イギリスの調停により撤兵します。

日本の開国・終わり・・・

2012/10/12

人類の軌跡その494:幕末④

<日本の開国その④>

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◎日本の改革

 徳川幕府に代わって成立した明治政府は、次々と大胆な改革を断行し近代的な、言い換えれば、ヨーロッパ的な国民国家をつくりはじめました。

 1871年には、廃藩置県によって藩を廃止、中央集権制度を確立します。
1872年には徴兵令を公布し、国民皆兵の原則を確立、国民国家をつくるためには、徳川時代の士農工商のうち農工商は平民とし、それまでは許されていなかった苗字を許可し、他の身分との結婚、職業選択、移住の自由を認めました。
旧藩主や公家は華族、武士階級は士族となりますが、華族、士族、平民の区別が存在する以上、平等なのかと云う考え方も存在します。
華族は確かに特権階級なのですが、身分間の通婚が自由である箇所が重要であると思います。
現実に、この後、士族と平民という違いは、何の意味も無くなり、人口に占める割合が極少でも華族身分があるので、「四民平等」はまやかしと言えばまやかしなのですが、この言葉自体は実感をともなって広まり、受け入れられたように思います。

 明治政府の目指すところは、西欧列強と互角の国づくりですから、「殖産興業」と云うスローガンのもと、近代工業の育成に力を入れ、工業化によって国を豊かにして、強力な軍隊をつくる。
「富国強兵」政策を推進する事で、植民地化を免れる事が出来ます。

 この明治政府のさまざまな改革の方向性を一言で表した言葉が「文明開化」。
中国の洋務運動の「中体西用」と比べてみるとその特徴が明確に理解出来ます。
中国ではあくまで中国の文明が変更不要の「体」として、中心に据えられていますが、日本の場合は、西洋化によって「文明」が開くのですから、それ以前の徳川時代迄の日本の文化を全面否定していると考えて良いと思います。

 見た目で一番わかりやすいところで言えば、服装。
女性の服装が変化するのはゆっくりですが、男性の公的な場面での服装が一気に替わり、1871年に条約改正のために欧米を歴訪した岩倉使節団では、正使の岩倉具視は着物(和装)を着ていますが、大久保利通や木戸孝允など他の副使以下はすべて背広にネクタイ姿です。
明治維新の3年後ですから、この変化の速さは驚くべき事です。
明治政府は西洋化を推進する為、公務員には洋服を着用させました。
役所の部屋に入室するときも靴を履いたままでいるように命じるのが1871年です。 
伝統であり慣習である服装という文化を一気に変えるのは難しく、そこで、政府は天皇にも洋装させます。
明治天皇の若いころの写真では、伝統的な装束を身につけたものは大変少なく、それ以外すべて洋装、若しくは軍服をつけての写真や肖像画が浮かんできます。
天皇ですら洋装なのですから、役人は全て洋装になるわけです。

続く・・・

2012/10/11

人類の軌跡その493:幕末③

<日本の開国その③>

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◎ペリーの来航と明治維新②

 日米和親条約は、単に日本の開国を決定した条約で、貿易に関する規定はありませんでした。
この為、日米和親条約に基づいて来日した、アメリカ総領事ハリスと幕府の間で貿易に関する条約交渉が開始され、1858年に日米修好通商条約が締結されました。
この条約では、日本の関税自主権が存在せず、アメリカの領事裁判権をも認める、不平等条約でしたが、この後幕府は、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結びます。

 ペリー来航から、日米修好通商条約を結ぶ迄の過程で、それまで独裁政治を行ってきた江戸幕府はその威信を喪失し、朝廷に経過報告を行い、条約調印の許可を求め、諸大名に意見を求める様になりました。
幕府の外交政策に対するこの様な自主性の無さは、江戸幕府を恐れて政治的意見を控えていた諸大名や一般の武士階級を一気に勢いづかせ、更に江戸幕府の権威低下に伴い、朝廷の権威が急上昇する事になりました。

 外交問題に対して、世論は沸騰しました。
このなかで主流となった意見は、江戸幕府の弱腰を非難し、鎖国を守り、外国勢力を撃退せよ、と云うもので、幕府が弱腰ならば、朝廷を押し立てて外国人を追い払えとする「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」の掛け声が広がっていきます。

 しかし、実務を担当する幕政担当者にとって見れば、強大な軍事力を持つ欧米列強を拒絶できるものでは無く、それは、ペリー艦隊を見れば一目瞭然でした。
ペリー艦隊が江戸湾に進入し、砲弾を撃ち込めば、江戸の町は壊滅します。
あの中国でさえ、何千里も彼方から遠征したイギリス軍にアヘン戦争で敗れ、アロー戦争でも敗れつつ在ったのです。

 反対派を大弾圧して、日米修好通商条約を結んだ大老井伊直弼は、「条約を拒否して戦争になり、敗れれば、領土を割かれ、賠償金を支払い、国辱を受けることになる。実害のない方を選択するのはやむを得ない」と語っています。
中国の二の舞、植民地化される事を恐れていたのです。

 この後、尊皇攘夷運動は討幕運動へと展開し、政権担当能力を無くした徳川幕府を倒し世界情勢に対応できる新政府樹立をめざし、下級武士層が、尊皇攘夷運動で世の中を揺り動かし、その運動の流れに乗った、薩摩藩、長州藩が中心となって幕府を倒すことに成功しました。
これが1868年の明治維新と成ります。

 薩摩藩、長州藩は、幕末の時期に実際に攘夷を実行し、イギリスなどと戦い敗れています。
その実力を知ってからは、幕府を倒し、新政府を樹立し、大胆な開国政策で欧米文化を取り入れていかなければ日本が滅びると考えるようになっていました。
はやくも明治維新が成功する前から、長州藩も薩摩藩も独自に留学生をイギリスに派遣している程で、長州藩の高杉晋作は、上海に密航して中国の現状を実際に見聞し、攘夷(外国人を追い払う)など、出来るはずが無く、欧米に対抗するには、欧米文化を取り入れなければならないと考えたのは無理からぬ事でした。
1861年には、ロシアが約半年間対馬の一部を占領するという事件も起きており(ロシア艦ポサドニック号による。イギリス軍の圧力で退去)、植民地化の恐れは、今私達が想像する以上に、現実的なものだったと思います。

続く・・・

2012/10/10

人類の軌跡その492:幕末②

<日本の開国その②>

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◎ペリーの来航と明治維新

 ペリーは、半年以上の時間をかけて、日本へ開国を要求しに赴くのですから、鎖国を理由に断られて、簡単に引き下がる気持ちはなど持ち合わせていません。
この交渉を成功させる為に、事前に日本について研究し、オランダ人の著作等、日本に関する研究書を40冊以上読破したのです。
長崎に行って開国を要求しても、江戸から回答が来る迄、長時間待たされたあげくに鎖国の国是を理由に拒否される先例も十分に理解していました。

 研究の結果、ペリーが得た結論は以下の通りです。
「日本人は礼儀正しいが、権威に弱く脅しに屈し易い。」
江戸から遠く離れた長崎ではなく、江戸湾の入り口にあたる浦賀に現れ、当に砲艦外交を展開しました。

 オランダからの情報で、ペリーが日本を訪れる事は知ってはいましたが、実際に浦賀沖に現れたアメリカ船を見て、幕府の役人は驚きました。
役人だけでなく、日本中が驚きました。

 まず、現れた船は1隻では無く、4隻の艦隊で来朝しています。
しかもそのうちの2隻、ペリー座乗の旗艦サスケハナ号とミシシッピ号は、世界でもまだ珍しい蒸気船です。
西欧人にとっても珍しい蒸気船で、その大きさも、世界最大級でした。
世界最新鋭の軍艦が目の前に現れたわけです。

 しかも、この2隻は、木造船ですが船体に鉄の装甲が取り付けられ、日本人には鉄の船が浮かんでいるように見えたのでしょう。
他の2隻も防腐の為、黒く塗装されており、日本人は黒船と呼んび、黒い煙を吐き出している姿は、脅威、恐怖の何物でも在りません。

 当時の蒸気船は、スクリューが実用化される前なので、船の両脇に水車状の推進器を持つ、外輪船で、蒸気の力だけには頼れず、帆走併用型でした。

 「日本人は脅しに屈し易い」と読んだペリーの作戦は的中し、黒船の威力に押されて、浦賀に上陸したペリーから開国を要求するアメリカ大統領の親書を受け取った幕府は、とりあえず時間稼ぎに翌年の回答を約束しました。
ペリーは日本を去りますが、アメリカ本国へは帰らずに上海で半年間待機した後、1854年1月浦賀に再び姿を現しました。
この時には、後続艦隊を加えて7隻の艦隊に成っていたのです。

 幕府は、ついに開国に踏み切りました。
横浜に上陸したペリーと日米和親条約を締結、下田、函館の二港の開港と、領事の駐在、アメリカに対する最恵国待遇の付与などがその内容です。

 当時の上海には、列強各国の艦隊が寄港しており、ここでペリーが日本を開国させた情報は西欧列強に直ぐに知れ渡りました。
同じ年には、イギリス艦隊やロシア軍艦も長崎に来航し、もはや鎖国を理由に条約締結を拒否することが出来ない幕府は、同様の条約をイギリス、ロシア、オランダと結んでいきました。

続く・・・

2012/10/09

人類の軌跡その491:幕末①

<日本の開国その①>

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◎ペリーの来航と明治維新

 西欧列強の勢力はトルコ、インド、中国と徐々に東に向かい、いよいよ日本に本格的に来航しました。
これが、1853年、アメリカ海軍提督ペリーの来航です。
時期的には、アヘン戦争終結10年後、太平天国の反乱がはじまって2年目の事です。
ペリーの来航によって、「幕末」がはじまります。
徳川幕府が崩壊して明治維新によって新政府が成立する激動の時代です。

 徳川時代の外交政策は、鎖国政策ですが、実際には、中国、朝鮮、オランダとは貿易をおこない、使節の来朝がありました。
インドや中国がイギリスなどのために如何なる状況に陥っているのか、武士階級を中心とする日本の読書人たちは、長崎にやってくるオランダ人や中国人からの情報で知っていました。
それどころか、徳川幕府の為政者たちは、アメリカのペリーが日本に来航することも、オランダ人からの情報で知っていたのです。

 ペリーが来航する50年以上前の18世紀末から、徳川幕府に貿易を要求するロシア船が来航していました。
1792年にはエカチェリーナ2世がラクスマンを根室に派遣、1804年にはレザノフが長崎に来航し、貿易を求めて拒否されています。
19世紀にはいると、イギリスの捕鯨船の乗員が燃料や水を求めて鹿児島や茨城に上陸したりする事件が起き、日本人漂流者を乗せたアメリカ船を日本側が砲撃して追い払うというモリソン号事件もありました(1837年)。

 当初、幕府は長崎以外の場所に近づく外国船は砲撃して追い払うという方針をとっていましたが、アヘン戦争の成り行きを知ると、燃料不足、食糧不足で困っている外国船には便宜を与えてお引き取り願うという方針に転換します。
 
 しかし、鎖国の方針は変えない。1844年、オランダ国王は世界情勢を説き鎖国をやめるよう幕府に忠告する国書を送るのですが、幕府はこれを無視しています。

 この様な世相の中で来航したのがペリーです。
ペリーの目的は日本を開国させることでした。
開国の理由は、第一に、日本をアメリカの捕鯨船の補給基地として利用したかった事。
当時、アメリカは北太平洋で捕鯨をさかんに行なっていました。
目的は鯨油で、石油が使われる前は鯨油が燃料として利用されていました。
消費されるのは油だけで、鯨肉は食べずに廃棄していました。
年平均100隻の捕鯨船が操業していたといいます。

 もう一つは、蒸気船でアメリカから中国へ直行するための中継基地として日本を利用したかった事既に、蒸気船が遠洋航海に利用されていましたが、当時はまだ太平洋横断に必要な石炭を蒸気船に積めなかったのです。
 
 その為、ペリーが日本に来航したときに、通った航路は東回りです。
太平洋を横断して日本に来たようにイメージしている人が多いと思いますが、ペリーはアメリカ東海岸のノーフォーク港を出発して、大西洋を横断後、アフリカを回ってインド洋、香港、上海、琉球を経由しています。
アメリカの出帆が1852年11月24日、浦賀沖到着が53年6月3日ですから、約半年を費やしています。

続く・・・

2012/10/06

人類の軌跡その490:アヘン戦争以後の中国⑨

<アロー戦争・洋務運動その③>

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ニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵

◎ロシアの東方進出

 イギリス、フランスが南方から中国を侵略した様に、北からはロシアが中国清朝に対して領土的な野心をもって接近していました。
19世紀半ば、ロシアの初代東シベリア総督となったムラヴィヨフは、衰退した清朝からの領土割譲を図り、アムール川(黒竜江)を調査、占領し、1858年、清朝と愛琿(アイグン)条約を結び、アムール川以北の土地を獲得しました。
同時に沿海州(アムール川の支流ウスリー川以東)を清朝との共同管理地としました。
アロー戦争の天津条約を結んだのと同じ年です。

 又、アロー戦争終結の1860年には露清北京条約を結び、沿海州を獲得しました。
この沿海州の南端にロシアが開いた軍港がウラジヴォストークです。
この名前は「東方を支配せよ!」という意味で、ロシアは東方に不凍港を獲得することに成功しました。

 この後1875年、ロシアは日本と結んだ千島・樺太交換条約で、樺太を獲得しています。
ロシアは、東部だけでなく、中央アジアでも清朝の領土を狙います。
1860年代に新彊地域(中央アジア)でイスラーム教徒の反乱が起きると、混乱に乗じてイリ地方を占領し、この後、1881年、イリ条約でイリ地方は清朝に返還されました。
その代償として清朝は、新彊地域の一部、賠償金、貿易特権をロシアに与えたのです。

 ロシアは、1868年には中央アジアのブハラ=ハン国を、1873年にはヒヴァ=ハン国を保護国化していますが、両国は、それまで清朝の朝貢国でした。

◎洋務運動

 太平天国の乱が終息した後、清朝内部で改革が始まり、中心となったのは、郷勇(義勇軍)を組織し、太平天国鎮圧に活躍した官僚達です。
彼等は、その活躍によって、政権内で大きな発言力を持つようになりました。
具体的には、曾国藩、李鴻章、左宗棠(さそうとう)、張之洞(ちょうしどう)といった人々で、太平天国で自分の地元の人々を組織して戦ったわけですから、当然皆漢人です。
清朝は、満州人の政権ですから、基本的には漢人官僚を警戒するのですが、もはやその様なことを意識している場合ではなくなってきたのです。

 彼等は、共通して、地方長官となり、西洋の科学技術の導入を図りました。
太平天国との戦いを通じて、軍事技術を筆頭に中国の科学技術が西洋に比べて大きく遅れをとっていることを強く自覚し、この西洋の科学技術導入運動を洋務運動と言い、洋務運動を推進した官僚を洋務官僚と呼びます。
地方長官は、大きな裁量権を持っているので、彼等はそれぞれに鉱山開発や工場建設、鉄道敷設などを行っていきました。

 洋務運動は、中国の文化が世界の最高峰であるという中華意識を捨てて、他の文明を取り入れようとしたという点では、画期的ではあったのですが、清朝を強化するという点では、効果は限定的でした。

 その理由の第一として、中華意識の捨て方が中途半端で在り、洋務官僚の考え方は「中体西用(ちゅうたいせいよう)」でした。
中は中国、西は西洋、中国の文明が本体であり正しいものであって、西洋の文明の便利なところだけを使う事を意味しています。
科学技術は進んでいるから、そこだけは取り入れる、しかし、文明そのものは中国の方が優れているのだから、科学技術以外の西洋文明に見習う点は無いということです。

 しかし、西洋の科学技術は、西洋文明の中から生まれたもので、すぐれた技術は、資本主義経済の競争の中で、常に改良を加えられ発展してきたものです。
又、西欧列強が戦争に強いのは、ただ単に武器が優れているからではなく、国民国家が形成され、兵士ひとりひとりが政府の為に戦う意味を自覚しているからです。
法の下に個人の権利が保障されており、国民全員ではないにしろ、国民の意思を繁栄した議会のもとで政治が運営されています。

 洋務官僚達は、この様な文明全体を考察する事は無く、西欧の政治制度や社会制度については無関心で、清朝に議会を作る、資本家を育成する発想は全く存在しませんでした。

 更に、洋務官僚達は自分の管轄地で、工場建設等を行いましたが、これらの企業は国有ではなく、地方長官の私物というべきものになっていきます。
清朝全体の強化ではなく、洋務官僚個人の権力強化の傾向が強いものでした。

 洋務運動では、軍事工場の建設や西洋式軍隊の育成に重点が置かれたので、西洋式の軍隊を育成した官僚は、そのまま軍閥化し、特に李鴻章は北洋軍を組織し、政治的に強大な力を持ちました。
後の話ですが、李鴻章の部下で、北洋軍を継承した袁世凱(えんせいがい)は、その軍事力を背景に清朝を倒すことになります。

アロー戦争・洋務運動・終わり・・・

2012/10/05

人類の軌跡その489:アヘン戦争以後の中国⑧

<アロー戦争・洋務運動その②>

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◎アロー戦争②

 この2年前の1856年、広西省でフランス人の宣教師が殺害される事件が起きており、フランスもイギリスと共同で清朝に宣戦しました。
フランスはナポレオン3世の時代です。

 1857年に、インドで大反乱が勃発した煽りで、本格的な戦闘は57年末からはじまり、英仏連合軍が海路北上し天津に迫ると、清朝は降伏し、58年天津条約が結ばれました。
この条約には、イギリス、フランスの他に、ロシア、アメリカも参加しています。
条約が結ばれて、英仏軍が去ると、清朝政府内で、対外強硬派が力を持ち始め、喉元過ぎれば熱さを忘れるこの傾向は、清朝政府の対外政策の一貫性のなさで、アヘン戦争以来全然変わっていません。

 1859年に、英仏の使節団が、条約の批准書を交換する為に来朝しますが、天津の近くで清朝側がこの使節団を砲撃して追い返し、1860年には、再び英仏連合軍が北上し、北京に向けて進撃しました。
皇帝(咸豊帝(かんぽうてい))は、北方の熱河の離宮に逃亡し、北京に残された政府が連合軍と北京条約を結び清朝は、再び降伏しました。

 この時に、北京近郊にあった円明園(えんめいえん)は、英仏軍によって略奪破壊されてしまいまいます。
宣教師カスティリオーネがヴェルサイユ宮殿を摸して設計した宮殿でしたが、現在でも、円明園の跡地は廃墟として残されています。

◎北京条約

1)開港場の増加し、天津や南京等11港を新たに開港する。
2)キリスト教の布教の自由。
3)外国人の中国国内の旅行が自由に成り、これにより、商人はどこにでも行けるようになりました。それまでは、開港されていた五港から出ることは出来なかったのです。
4)北京に、外国公使の駐在を認める。
5)イギリスに九龍半島の一部を割譲、九龍半島は香港島の対岸にある半島で、現在では、一般には香港の一部として知られています。
6)アヘン貿易の公認。
アヘン戦争後の南京条約では触れられていなかったアヘンについて、ついに正式に認めさせ、これに伴って、清朝は民間人に対してのアヘン吸飲を認めることになりました。
麻薬貿易も自由、吸うのも自由です。

 北京条約によって、中国の半植民地化は深まり、1862年上海に密航した長州藩の高杉晋作が「上海は中国に属している土地なのに、イギリス・フランスに所属しているといってもよい」と述べるほどに中国の半植民地化は一層進んでいきました。

 忘れてはならないのは、この時期、南京を中心として太平天国の反乱が起きているということです。内側に反乱、外からは外国の侵略と、大変な状態の中で、不平等な条約でも結ばざるを得なかったのです。
英仏にとっては、自分たちの要求を呑ませたわけですから、清朝政府にこの条約を厳正に守らせる為には、清朝に存続して貰う事が重要で、これ以後、太平天国平定に力を貸すように成りました。

続く・・・
2012/10/04

人類の軌跡その488:アヘン戦争以後の中国⑦

<アロー戦争・洋務運動その①>

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アロー号臨検

◎アロー戦争

 太平天国が中国南部を席捲している時、同時進行で、清朝とイギリス・フランスとの戦争が起こっていました。
この戦争をアロー戦争、または第二次アヘン戦争と呼びます。

 アヘン戦争後の南京条約で開港場を増やしたイギリスは、このあと綿工業製品の中国への輸出が増えることを期待していました。
本来、イギリスが一番売りたいのは、インド産のアヘンではなく、イギリスの工業製品なのです。
ところが、開港場が増えても、イギリスが期待した程に綿工業製品が売れません。
これは、中国産業の底力で、中国の綿工業製品は、機械制大工業のイギリス製品に対抗できるだけの価格と品質を備えていたのです。

 しかし、イギリスとしては、開港場をもっと増やせば、輸出は伸びると考え、開港場を増やすには、新しい条約を清朝政府と結ばなければなりません。
基本的には清朝は欧米諸国と貿易を好みませんから、開港場を増やす為にはアヘン戦争の責任をとらせる形で南京条約を結ばせたように、もうひとつ戦争を仕掛けて、清朝を負かして条約を結ぶのが一番確実です。
アヘン戦争後から、イギリスは、次に清朝に戦争を仕掛けるチャンスを狙っていました。

 その戦争の発端と成った事件が、1856年のアロー号事件です。

 事件が起きたのは、広州の港でした。
アロー号が広州港に入港したのですが、この船が、実は海賊船であるという情報が、治安当局に入りました。
そこで、広州の警察が、アロー号に乗り込んで調べてみると、本当に海賊船だったので、その乗組員12名を逮捕しました。
乗組員は全員中国人で、警察が海賊を捕まえるのはあたりまえのことですし、容疑者は中国人なので、何も問題はないはずですが、これにイギリスが異議を唱えます。

 その理由は、この船がイギリス船籍だった事と、清朝の警察が船に乗り込んだ際に、船のポールに掲げてあったイギリス国旗を引きずり降ろした、という事でした。
国旗を引きずり降ろした事が事実か否かは、はっきりしませんが、イギリス側は、イギリスに対する侮辱であると、抗議の狼煙を上げたのです。
もし、本当に国旗を降ろしたとしても、戦争の理由になるような大事件ではありません。
又、アロー号がイギリス船籍だとして、そこに中国の警察が乗り込んだ事を、主権侵害のように非難したのですが、実は、アロー号の船籍登録は期限切れになっていたのです。
車で言えば、車検切れ同様で、イギリス船籍ではなかったのです。

 しかし、イギリスは戦争の口実を模索していたので、この事件を盾にとって強引に清朝政府を責め立て、開戦に持ち込みました。

続く・・・

2012/10/03

人類の軌跡その487:アヘン戦争以後の中国⑥

<太平天国その⑥>

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チャールズ・ジョージ・ゴードン(Charles George Gordon、1833年1月28日 - 1885年1月26日)

◎太平天国に対抗した義勇軍

 太平天国内部では抗争で、弱体化が始まってはいましたが、清朝正規軍はそれよりも脆弱でした。そこで、清朝政府は全国にいる引退した元官僚や、服喪などで帰郷している現役官僚に対して、地元で義勇軍を結成して太平軍と戦うように呼びかけます。
義勇軍の事を郷勇と呼び、清朝で官僚になる人物は裕福な地主出身層が多く、郷土に帰れば名前がとどろいている地域の指導者です。
彼等が中心になれば義勇軍は立ちどころに編成されます。
又、戦乱に巻きこまれれば、郷土が荒廃し自分自身の財産も奪われてしまう訳ですから、義勇軍は必死に戦います。
正規軍に替わって、この義勇軍が太平天国と戦いました。

 義勇軍の中で、とりわけ強力な部隊が、今風に言えば文部大臣に相当する礼部侍郎(れいぶじろう)の曾国藩(そうこくはん)が郷里の湖南省で結成した湘軍(しょうぐん)です。
湘は湖南地方の雅名で、曾国藩は、清朝軍が内部の腐敗で、弱体化している事を知り尽くしており、自分が組織する義勇軍の将校は、腐敗や堕落と縁のない信頼できる人物だけで固めようとしました。

 そのための方法は、学問上の弟子や同学の友人ばかりを集めます。
科挙に合格して中央の大臣に迄、出世する人物は、学者としても一流の人物である場合が多く、曾国藩はまさしく大学者だったので、地元には同門の者や弟子がたくさんいるわけです。
学問上の信頼関係は結構強い絆で、将校になる連中も、やはり殆どが地主でから、自分たちの土地で働く信頼できる素朴な農民を兵士にしました。

 湘軍は、規律ある軍隊となり、太平天国軍を圧迫していきました。
又、曾国藩の弟子である李鴻章(りこうしょう)も安徽省で同じように淮軍(わいぐん)を組織しました。

 欧米列強は、太平天国の反乱が始まった当初は、太平天国がキリスト教を標榜していることもあり、わりと好意的に中立を守っていましたが、内乱を逃れて多くの難民が上海に集まる等、やがて、内乱が対中国貿易にはマイナスと判断します。
1860年に貿易に有利な北京条約を清朝政府と結んだ後は、積極的に清朝支援を打ち出しました。
米国人ウォードは、中国人を集めて義勇軍「常勝軍」を結成し、かれの死後は、イギリス軍人ゴードンがこれを引き継ぎ太平天国軍と戦いました。
因みに、このゴードンは、太平天国で活躍したあと、エジプトのスーダンで起きたマフディーの乱とよばれる現地住民の反英闘争の鎮圧におもむき、戦死しています。(この物語は、映画ハルツームとして制作されています)

 これらの義勇軍によって太平天国は徐々に支配地域を奪われ、1864年、南京が陥落し太平天国は滅亡しました。
最後迄、神の奇蹟による逆転勝利を信じていた洪秀全は、その直前に病死しており、忠王李秀成は捕虜となり処刑され、翼王石達開はその後もしばらく単独で戦いつづけましたが、これもやがて鎮圧されました。

◎太平天国の意義

 太平天国の反乱は、清朝政府の弱体ぶりを明らかにしました。
又、太平天国が、「滅満興漢」のスローガンを掲げ、民族運動的な性格を持った事は中国革命の先駆けとして位置づけることができます。
事実、後に辛亥革命のリーダーとして清朝を倒した孫文は、少年時代に洪秀全を知る太平天国軍の生き残りの老人の話を聞いて、すっかり影響を受けて友人から洪秀全というあだ名をつけられていたといいます。
中国共産党の軍隊である紅軍の司令官となった朱徳(しゅとく)も、少年時代に翼王石達開の部下だった機織り職人の話を聞き、革命に強いあこがれを持ちました。
脈々と革命の志が受け継がれているのがわかります。

 幕末日本にも影響がありました。
長州藩士久坂玄瑞(くさかげんずい)は「英仏がいまだ日本に武力を加えないのは太平軍が英仏と戦っているからだ」と言っています。
この認識が正しいかどうかは別にして、中国の次は日本が英仏の侵略の標的になる、という危機感が感じられます。
太平軍が時間を稼いでくれている間に、日本を変えなければならない、この意識が、幕府を倒す強烈な原動力になります。

 一方、郷勇を組織し、太平天国を鎮圧するのに活躍した官僚達は、乱後の清朝の政界で大きな影響力を持ち、清朝の改革がはじまります。

太平天国・終わり・・・
2012/10/02

人類の軌跡その486:アヘン戦争以後の中国⑤

<太平天国その⑤>

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◎太平天国の経過

 南京占領までは、破竹の勢いの太平天国軍でしたが、南京を首都にして以来、洪秀全は皇帝にあたる天王という地位につき、その他の幹部も北王、南王、東王、西王、翼王という王号をとなえ、それぞれが南京に豪華な宮殿を造り始めました。

 南京は、明の初期にも首都にもなった中国屈指の大都会です。
中国南方の辺境の、しかも貧しい客家出身の洪秀全達は、大都会の魅力にあてられ、膨大な富を手に入れ、反乱を始めた頃のせっぱ詰まった緊張感を失ってしまったようです。 
一部の軍隊を北伐軍として北京攻略に派遣しましたが、これは失敗に終わっています。
もし、南京に落ち着いたりせずに、太平軍全軍で北京に攻め込んでいれば本当に清朝を滅ぼすことができたかもしれませんが、その機会を逃してしまったのです。

 太平軍の幹部は自分の富を増やし、権力をより強くすることに力を注ぎ始め、互いに仲間割れが始まります。
最高指導者の洪秀全は、宮殿の奥深くに美女たちと篭もり、中々姿を皆の前に見せなくなります。
めったに顔を見せないことによって、自分を神秘化すると云う意味を持っていたのでしょう。

 諸王のなかでもっとも力を持っていたのが東王楊秀清(ようしゅうせい)で、天京(南京)を首都としての国家体制づくりの中心となっていました。
東王は戦争指導も上手く、なんといっても面白いのが、神が彼にとりついてお告げをするということです。
東王が自分でそう言っているだけなのですが、誰にも否定できないので、彼がお告げをはじめると、みんながその命令に従わなければならない。
天王洪秀全も神の命令には逆らえないので、東王楊秀清は、洪秀全と並ぶ高い権威をもって太平天国を指導しました。

 東王の勢力が次第に拡大する事に反感を持ったのが、北王だった韋昌輝(いしょうき)で、彼は自分の部隊を率いて東王の宮殿を襲撃し、東王を殺害してしまいました。
東王の一族やその部隊も皆殺しです。
こうして北王が権力を握ったのですが、次には北王が翼王石達開(せきたつかい)に暗殺されます。
これら一連の事件は1856年に発生し、この内紛で3万人以上が殺されています。

 やがて、翼王石達開はこのような権力闘争に嫌気がさして、自分の部隊を率いて四川省方面に移動し独自の行動をとるようになりました。
代わって、天京で洪秀全と太平天国政府を支えたのは、若い世代のリーダーで忠王という王号を持つ李秀成(りしゅうせい)等でした。
太平天国の末期は、ほとんど李秀成ひとりが支えている感じで、洪秀全は、宮殿に篭もり何もしなくなっていました。

続く・・・

2012/10/01

人類の軌跡その485:アヘン戦争以後の中国④

<太平天国その④>

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『イラストレイテッド・ロンドンニュース』より太平天国軍南京占領(The Illustrated London News)

◎太平天国の政策

 太平天国は、如何なる政策を唱えていたのでしょう。

 第一に、清朝打倒。
「滅満興漢(満州人を滅ぼし漢人の国を興す)」が反乱のスローガンでした。
太平天国軍の男性は、清朝が漢民族に強制していた弁髪をやめて髪を伸ばしましたが、弁髪をやめる事自体が、清朝を否定する反逆行為だったのです。
その為、彼等の髪形を見ればその主張は誰にでも理解されました。
このため太平天国は「長髪賊の乱」とも呼ばれ、太平天国を満州族支配の清朝にたいする漢民族の民族運動と捉えることもできます。

 第二に、土地制度として「天朝田畝制度」を掲げました。
地主の大土地所有を否定して、土地を農民に均等に配分する政策でが、戦いに明け暮れた太平天国なので、実際に土地均分が実施されたかどうかはわかっていません。

 第三に、特徴的なのは、中国史上初めて男女平等を主張したことです。
中国は男尊女卑の国なので、これは画期的なことです。
更に男女平等に関連して、太平天国は纏足を禁止しました。

 纏足(てんそく)は10世紀の宋の時代からはじまった風習で、女の子が4,5歳になる頃から足を布で強く巻いてギブスのように固めて、足が大きくならないようにするのです。
成長期に固められている為、これを行われた女の子は、すごく痛がります。
しかし、小さい足が美人の基準である為、親はなだめすかして子供に我慢をさせたそうです。
成長とともに、足の先が内側に折れ曲がって畸形に成り、地面をしっかり踏みしめられないので、立ち上がると不安定で歩くとふらつきます。
極端に小さな足の女性は、何かにつかまって伝い歩きをしなければならい程だったのですが、よちよち歩く女性の姿と小さい足が、男性にとって魅力的だったのです。

 要するに、男が女性を愛玩物のように扱っていたということです。
この纏足を太平天国は禁止したのです。
洪秀全たち太平天国の指導者の多くは客家出身でしたが、実は客家には纏足の風習はありませんでした。
又、女の子に纏足をしてしまうと歩くことさえままならないのですから、労働力に成りません。
その為、貧しい農家などでは纏足をしていなかったといいます。
実際には、太平天国に参加していた女性には纏足の女性は少なかったかも知れませんが、太平天国は正式に纏足行わなくて良いのだ、と宣言したということでしょう。
太平天国軍では、女性も武器の運搬など、戦場で男と同様に活躍しました。

続く・・・