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2012/11/30

人類の軌跡その526:ヴェルサイユ体制の崩壊④

<イギリス>

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ズデーテン地方に侵攻したドイツ機甲師団(1号戦車)

◎経済不況と軍備

 イギリスは、第一次世界大戦には勝利したものの、人的、経済的損失は膨大なもので、戦前のイギリスの国際的な優位(パックス・ブリタニカ)は失われ、膨大な戦時債務の山だけが残りました。
1920年代には、国債償還のための予算が年間予算の半数、GNP7%という膨大な数字に達し、財政的硬直化が顕著に成ると同時に、衰退傾向にあった伝統的輸出産業の繊維、鉄鋼、石炭、造船産業の国際競争力の弱体化による恒常的な不景気は、大量の失業者を生み、経済再建は遅々として進まず、1929年の世界大恐慌の決定的な追い打ちを受けたのです。
この為、大戦間は、財政再建のために思い切った軍縮に迫られる事に成りました。

 しかし、1933年にドイツでヒトラー率いるナチス党の権力掌握は、イギリスに危惧を抱かせ、これに呼応して、1934年には国防関係委員会は、防衛費の増額と、ヨーロッパで戦えるだけの兵力の増強を政府に勧告します。
又、1935年ドイツのヴェルサイユ体制の重大な違反である再軍備宣言を行った事に対応して、イギリスは英独海軍協定を結んで、ドイツの再軍備化を部分的認める事と引き替えに、イギリスはドイツを国際協定の枠内に引き込みました。
更に1937年に第二次海軍協定をドイツと結び、第二回ロンドン海軍条約の国際制限を尊重させる政策を取りますが、結局長続きしませんでした。
大戦を避けられないと判断したイギリスは、1935年から向こう5年間に15億ポンド規模の再軍備計画を行いますが、軍備が整う間の時間稼ぎの為、ドイツを刺激しないように譲歩を重ねる政策(宥和政策)を進めたのです。

◎宥和政策とチェコスロヴァキア問題

 宥和政策とは、1937年に首相に就任したネヴィル・チェンバレンが押し進めた政策で、ナチス・ドイツに譲歩を行い平和を勝ち取ろうというものでした。
1938年2月には、対独強硬派であった外相アンソニー・イーデンが首相と対立して辞任に追い込まれた後、宥和政策が顕著と成り、後にこの政策は弱腰外交と非難される事になりますが、当時ドイツに対抗できる戦力を再建する為の時間稼ぎの一面も存在したのです。

 この宥和政策の典型と成ったのは、チェコスロヴァキア問題での対応で、当時、チェコスロヴァキアのドイツ系住民が多数住んでいたズデーテン地方の割譲をヒトラーが要求し、その要求が受けいられない場合は戦争をも辞さないという恫喝を行っていました。
これに対し、チェコスロヴァキア政府は断固として拒否、国内に動員令を布告し、戦争をも辞さない態度を示しましたが、世界大戦に発展する事を恐れた英仏列強はイタリアの仲介で、ミュンヘンでチェコ問題を協議(ミュンヘン会談)します。
 
 この会談は独伊英仏の4国のみで、当事国であるはずのチェコスロヴァキアは参加せず、会談の結果、チェコスロヴァキア政府のドイツへのズテーデン地方割譲とチェコスロバキアの独立保障が取り決められたのでした。
チェコスロヴァキア政府は已むなく、ズデーテン割譲を容認せざるを得ず、この会談によって、英首相ネヴィル・チェンバレンはこれで戦争は避けられたと宣言したのです。

 しかしヒトラーはミュンヘン協定を尊重する気配は一切持ち合わせず、1939年、ミュンヘン会議の取り決めを無視し、チェコ(ボヘミア・モラヴィア地方)を併合し、スロヴァキアを保護国化するという暴挙犯します。
これに対し、イギリス政府は面木を失い、従来の宥和政策を捨て去り、ドイツとの対決を明確にするようになりました。

続く・・・

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2012/11/29

人類の軌跡その525:ヴェルサイユ体制の崩壊③

<スペイン内戦(1936-1939)細目編>

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ハインケル He51 コンドル軍団所属

 1936年2月の総選挙で、親ソ派の人民戦線政府が成立したものの、人民戦線内部に於いて、社会党、共産党、アナーキストの権力闘争が激化、社会混乱が続く中、軍を代表する右派の人民戦線政府への不満が募り、ついに、1936年7月18日、スペイン領モロッコのメリリャ駐屯軍の反乱を発端として、スペイン各地で軍が蜂起しました。
是が所謂「スペイン内戦」の始まりであり、軍と政府が国土を二分して戦う事と成りました。

◎初期(1936年)

 反乱軍の実権は、参謀総長を歴任し、当時カナリア諸島軍司令官フランシス・フランコ将軍が掌握し、9月29日、サラマンカで開催された最高評議会で国軍最高司令官に任命され、10月1日には、プルゴスの教会で行われた集会に於いて国家主席に就任し、反人民戦線側の最高指導者と成りました。

 しかし、反乱軍の主力であるモロッコ駐留軍は、海空軍が政府側の為、スペイン本土へ進撃する事が不可能で、フランコはドイツ・イタリアに支援を要請しました。
こうしてドイツ・イタリアによる反乱軍支援が開始され、ドイツのユンカースJu52/3m輸送機によって本土に空輸された反乱軍は、北部の反乱軍と呼応してマドリードを南北から挟撃し攻略する作戦を展開しますが、1936年末には頓挫し戦線は膠着状態と成ります。

◎中期(1937年)

 膠着状態と成った両陣営は諸外国に支援を要請。
政府軍側には、ソ連から軍事顧問団、兵員と共に戦闘機、戦車・火砲などが送られ、更に世界各国からの義勇兵で編成された国際旅団が加わりました。
反乱軍側には、ドイツからコンドル軍団(空軍義勇兵部隊)と戦車部隊、イタリアからも空軍部隊と陸軍部隊(正規部隊)が派遣されます。

 マドリード攻略に固執するフランコは、イタリア軍4個師団でグアダラハラ方面から攻撃を実施するも、大損害を被り敗退。
其処で、北部地方への攻勢に作戦を変更した反乱軍は、コンドル軍団の本格的航空支援の下に大規模な攻勢を開始します。
1937年10月にはバスク地方を含む北部全域を制圧しますが、この時のゲルニカ空襲は世界に衝撃を与えました。

◎末期(1938~39年)

 南部地域での政府軍の攻勢を撃退した反乱軍は、一気に地中海方向へ攻勢に転じ、カタルーニャ地方とヴァレンシア地方の分断に成功。
しかし、政府軍はエブロ川で反撃に転じ両軍激戦と成り、双方で2万名以上の戦死者を出します。
この頃、ミュンヘン会談を巡るヨーロッパの政治情勢の変化と、ソ連国内での大粛正の影響によって、ソ連の義勇軍の引き上げと国際旅団の解散が在り、政府側はエブロ川攻撃の失敗も重なりますます不利と成っていきました。

 1939年1月には反乱軍は、カタルーニャ地方攻略の為の大規模な攻勢を開始し、政府軍を次々に撃破して行きました。
バルセロナは間も無く陥落し、2月にはフランス国境に到達してカタルーニャ地方を完全に制圧し、政府側は、之によって戦意を喪失し、ついに3月末、フランコはマドリードに入城し、4月1日には内乱終結宣言を行いました。

続く・・・
2012/11/28

人類の軌跡その524:ヴェルサイユ体制の崩壊②

<ヴェルサイユ体制の崩壊②>

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フランシスコ・フランコ・イ・バアモンデ(Francisco Franco y Bahamonde1892年12月4日 - 1975年11月20日)

◎スペイン内乱

 左右両派の激しい対立が続いていたスペインでも、1936年2月に人民戦線内閣が成立しましたが、7月、右派勢力の軍部がこれに反発し内乱が発生しました。
武装した市民と労働者の活躍によって反乱軍はいったん鎮圧されましたが、ドイツとイタリアが反乱軍のフランコ将軍を支援し、モロッコに孤立していた3万7千のフランコ軍をスペイン本土に空輸した為、反乱軍は攻勢に転じ、内乱は長期化します。

 ドイツ、イタリアはこの後も、反乱軍に物資や援軍を送りフランコを助けました。
是れに対して人民戦線政府を支援する為、50数カ国から延べ5万人の国際義勇兵がスペインに渡り、義勇兵は共産主義者から自由主義者までを含み、スペイン内乱は世界のファシズム勢力と反ファシズム勢力の代理戦争の様相を呈したのです。

 しかし、国家として人民戦線を支援したのは武器援助をしたソ連とメキシコだけで、戦火の拡大を恐れた英仏は不干渉政策をとり、内乱は39年4月、反乱軍の勝利に終わりました。
この後フランコはスペインに独裁政治を布き、1975年の死までその座に君臨したのです。

 因みにドイツはスペインを新兵器の実験場と見なし、1937年4月、ドイツ空軍はバスク地方の都市ゲルニカへ世界初の無差別爆撃を実行し、1600名を超える市民を殺害しました。
スペイン出身の画家ピカソは怒りを込めて、同年のパリ万博スペイン館に壁画『ゲルニカ』を描いたのです。

※ゲルニカ空襲と作品「ゲルニカ」

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ゲルニカ(バスク語:Gernika、スペイン語:Guernica)

 1937年は、世界史の中でも大きな転回点となった年でした。
中国大陸では7月、廬溝橋事件を皮切りに日中戦争が勃発し、11月には日独伊防共協定が成立、そして
12月には南京虐殺事件が発生します。
欧州ではナチズムが猛威をふるいはじめ、スペインでは前年に勃発した内戦が全国に拡大し、この年の4月28日、フランコ将軍の独裁を支援するナチス・ドイツ派遣軍が、スペイン北部バスク地方の古都、ゲルニカを空襲しました。

 人口7000人の小さな街はこの日1日の空襲で廃墟と化し、地上から姿を消しました。
非戦闘員である市民を殺戮する「無差別爆撃」が世界で初めて行われた瞬間でした。
これを契機に近代戦争の様相は一変します。
市民を大量殺戮する狂乱は、日本軍による重慶等の中国の都市への爆撃、東京大空襲など日本各地への米軍による空襲、そして広島・長崎への原爆投下、さらに現在の中東、北アルリカに至る迄続いているのです。

 世界史に一気に暗雲が発ちこめた、この年、フランス政府は5月24日~11月25日まで、パリで万国博覧会を催しました。
パリで万国博覧会が開かれるのは1900年以来の事であり、スペイン共和国もパビリオンを建てて参加したのですが、そのスペイン館の壁画を依頼されたのがピカソでした。

 依頼を引き受けたにも関わらず、当初、ピカソは何を題材にするか発想が浮かびませんでした。
その折りに、故郷スペインからゲルニカの悲劇のニュースが飛び込みます。
ゲルニカ空爆の第一報がパリの新聞に載った翌々日の5月1日には、ピカソはゲルニカを主題とする6枚の素描を描き上げ、以後、10日間に20点のスケッチを完成させた。そして、5月11日に、ピカソは高さ3.3メートル、幅7.5メートルの巨大なキャンバス向かい、一気呵成に作品を描き上げたのです。

 1937年の6月4日、大作「ゲルニカ」は完成し、6月下旬、エッフエル塔下に広がる万博会場に運び込まれました。
1937年のパリ万国博覧会のテーマは「現代生活に応用された芸術とテクノロジー」。
テクノロジーの象徴として注目を浴びたパビリオンは「航空館」であり、巨大テクノロジーの象徴として来たるべき航空機時代を予見する「光」のパビリオンでした。

 そして、その対局の「陰」の役割を「スペイン館」が期せずして果たす事に成りました。
スペインは前年から内戦に突入していましたから、スペイン館は、反乱軍の仕掛けた内戦によって危急の場におかれた共和国政府が、世界に向けて救援を求める情報発信基地の役割を担っていたのです。

 そのスペイン館の入り口に巨大壁画「ゲルニカ」が掲げられましたが、それは単にスペインの窮状を訴えるという役割を越えて、隣接する「航空館」の威勢を制御し、航空大時代のもたらす狂気を露わにし、人類への鮮烈な警告灯と成りました。

 「ゲルニカ」は万博が終了後もスペインに帰る事は無く、スペイン本国はその後、1977年迄、フランコ将軍の独裁体制へと突入していきます。
「ゲルニカ」は、ロンドン・ニューヨークへと流転し、1981年、ピカソ生誕100年を区切りにスペインに帰郷したのでした。

続く・・・
2012/11/27

人類の軌跡その523:ヴェルサイユ体制の崩壊

<ヴェルサイユ体制の崩壊>

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 ナチス・ドイツはヴェルサイユ条約を無視し再軍備を開始しましたが、英仏はこれを阻止せず、スペイン内乱ではドイツ・イタリアの援助をうけたファシズム勢力が勝利おさめます。

◎ドイツ の再軍備 

 ヒトラーは政権を獲得した1933年に、軍備平等権を主張して、これが容れられない事を理由に国際連盟を脱退しました。
1935年1月、国際連盟管理下のザール地方が、住民投票でドイツに併合され、同年3月、ドイツは再軍備宣言をおこない、徴兵制の復活、10万に制限されていた常備軍を50万に増強する事、空軍が存在することを表明し、公然とヴェルサイユ条約を無視したのです。

◎ドイツの行為を阻止できなかったイギリス・フランス

 これに警戒感を抱いたフランスとソ連は35年5月に、ドイツを仮想的として仏ソ相互援助条約を締結しました。
反対に、イギリスはドイツの要求を認める事が国際社会の安定につながると考え、同年、英独海軍協定を締結、ヴェルサイユ条約でドイツの潜水艦保有が禁じられていたにもかかわらず、この協定で、イギリスはドイツの潜水艦保有を認めました。
この様なイギリスの対応は、ドイツを増長させただけでなく、イタリアがエチオピア侵略に踏み切るきっかけとなりました。

 1936年3月、ドイツ軍はライン川の右岸50キロから独仏国境まで設けられていたラインラント非武装地帯に進駐、英仏はドイツを非難し、国際連盟はドイツ問責決議案を採択しましたが、具体的な行動でドイツの行為を阻止せず、実態としては黙認でしか在りませんでした。

◎ファシズム諸国

 1935年10月のエチオピア侵略によって、国際社会で孤立したイタリアはドイツに接近、36年10月、両国は友好関係を深めベルリン=ローマ枢軸が形成されました。
枢軸とは、ヨーロッパ諸国の中心機軸という意味でムッソリーニが使った言葉です。
11月にはソ連を仮想的として日独防共協定が締結され、既に日本は中国東北地方に満州国を建国しており、翌37年にはイタリアも加わり日独伊三国防共協定が成立、全体主義国家三国の枢軸が形成され、この年イタリアは国際連盟を脱退します。

◎反ファシズム人民戦線

 1930年代半ばにはファシスタ党やナチスに刺激され、ヨーロッパ各国でファシズム勢力が登場し、フランスでは1934年右翼勢力による議会攻撃の争乱事件が起きると、それまで敵対していた共産党と社会党、急進社会党が人民戦線を結成し反ファシズムで統一行動をとるようになりました。

又、コミンテルンは35年、モスクワに65カ国の代表を集めて第七回大会を開き、平和と民主主義の擁護が各国共産主義運動の課題であるとして、ブルジョワ自由主義者も含めた反ファシズム統一戦線の結成を呼びかけ、翌36年には、6月フランスの総選挙で人民戦線が過半数を獲得し社会党のブルムを首班とする人民戦線内閣が成立します。

続く・・・

2012/11/26

人類の軌跡その522:ナチスの台頭②

<ドイツに誕生したナチス政権②>

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◎独裁政治

 政権を獲得したヒトラーは独裁政権を樹立する為、すぐさま議会を解散し総選挙を実施し、選挙期間中の2月に国会議事堂放火事件が発生すると、ナチスは共産党の犯行を示唆する一方的なプロパガンダを展開し、約4000人の共産党役員を逮捕して激しい弾圧をおこないました。
それ以外にも、ナチスのテロ行為で50人以上が殺害され、この様な選挙妨害にも関わらず、ナチスの議席は総議席647の内、288で過半数に届きませんでした。

 しかし、ナチスは次の国会で、反対議員に対する恫喝と欠席議員を出席と見なす奇策によって、ヒトラーに無制限の立法権を付与する全権委任法を成立させ、又7月にはナチス以外の政党組織を禁止し一党独裁を確立したのです。

 1934年8月にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは大統領と首相を兼ねる「総統」に就任しました。
これ以降のナチス支配下のドイツを第三帝国と呼ぶ事があります(神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に続く帝国という意味)。

◎失業

 ナチス政権は失業者を減らす事に成功し国民の支持を集めました。
自動車専用道(アウトバーン)建設等の公共事業や軍需生産の拡大によって雇用を拡大した事、又世界恐慌の底辺から景気上昇期と重なり、1933年1月に600万を超えていた失業者数が、35年1月には300万を切り、37年秋には50万以下となりました。

 又、労働者のレクリエーション組織「歓喜力行団」によって労働者に旅行や観劇等のサービスを提供する、先進的な取り組みも行われたのです。

◎秘密国家警察と強制収容所

 一方で、言論思想統制は厳しく、市民生活は秘密国家警察(ゲシュタポ)によって監視されていました。
ゲシュタポは「保護拘禁」の名目で誰でも逮捕して収容所に送り込む権限を持ち、最初の強制収容所は、早くも1933年3月にミュンヘン郊外に建設されました。

 収容所には政治的反対派だけでなく、障害者やロマ、ユダヤ人等の少数者も収容され、ドイツ民族の優秀さと純血を誇示するナチスは、「不純」な分子を排除しようとしたのです。

※ナチスによるユダヤ人迫害

 ヒトラーはユダヤ人を劣等民族として徹底的に差別し、失業や不況の原因をユダヤ人に押しつけ、国民の差別意識を煽動しました。
ユダヤ系の作家、学者、文化人は公職を追われ、トーマス・マンやアインシュタイン等の著名人物も国外に亡命しました。

 35年のニュルンベルク諸法では、ユダヤ人を法律で定義し、ユダヤ人とドイツ人の通婚を禁じ、国籍を剥奪したうえ職場からも排除しました。
38年11月には、ドイツ全土で政府の煽動によるユダヤ教会やユダヤ人商店に対する襲撃、破壊事件が発生し、7000軒の商店が壊され、2万6千人のユダヤ人男性が逮捕されたうえ、政府は被害を受けたユダヤ人に総額10億マルクの罰金を課し、全ユダヤ商店の閉鎖を命じました。
割られた窓ガラスの破片から「水晶の夜」と名付けられた事件です。

 第二次大戦が始まると迫害はエスカレートし、「ユダヤ人問題の最終的解決」として組織的大量虐殺が行われ、500万から600万人の罪のないユダヤ人が殺害されたのです。

続く
2012/11/24

人類の軌跡その521:ナチスの台頭①

<ドイツに誕生したナチス政権>

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1927年ニュルンベルク・ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)大会

 ドイツでは世界恐慌の後、国民の不満を組織化したヒトラーのナチスが政権を掌握し、一党独裁政治によって、反ヴェルサイユ体制、反ユダヤ主義を実行していきました。

◎ドイツ経済と世界恐慌

 世界恐慌で特に深刻な影響を受けたのはドイツでした。
恐慌によってアメリカ資本が引き上げられるとドイツ経済は危機に陥り、1931年、合衆国のフーヴァー大統領による、一年間の賠償金支払い猶予(フィーヴァー=モラトリアム)も効果はなく、失業者は1930年には340万人、32年には600万人を超え、当時の政府基盤は脆弱で、社会民主党など既成政党が有効な政策を打ち出せない一方で、ナチスとドイツ共産党が急速に勢力を拡大してきました。

◎ナチスの宣伝活動

 ヒトラーが率いるナチスは、正式名称を国民社会主義ドイツ労働者党と云い、ナチスとは反対派による蔑称が一般化したものです。
ヒトラーは1923年のミュンヘン一揆の失敗後、議会を通じて権力獲得をめざす合法戦術に方針を転換し、ヴェルサイユ条約の破棄、大ドイツ国家の建設、ユダヤ人の排斥、不労所得の廃止などを訴え、特に過激な反ヴェルサイユ体制と反ユダヤ主義で注目を集めていました。

 ナチスは効果的な宣伝で支持者をひろげましたが、ヒトラーの演説は意図的なデマと誇張を利用して大衆の感性に訴えるものでした。
ヒトラー自身が次のように書いています。「大衆の心情は単純で幼稚である。小さな嘘より大きな嘘に引っかかる。」「大衆の理解力は小さく、忘却力は大きい。効果的な宣伝はスローガンのかたちでくりかえせ。」と。

 又、ナチスの軍事組織である突撃隊は反対派に公然と暴力をふるいましたが、失業にあえぐ民衆のなかには、それをある種の力強さと感じる人々が存在したのも事実でした。

◎ナチス政権の誕生

 国会でのナチスの議席数は、1928年の選挙では12議席でしたが、世界恐慌後の30年には107議席と躍進し、1932年7月の国会選挙では230議席を獲得して第一党になり、ヒトラーはヒンデンブルク大統領に首相の地位を要求しました。

 ヒンデンブルクが代表する財界、軍部、ユンカー(地主層)など伝統的保守勢力は、新興勢力であるナチスとは一線を画していましたが、共産党が議席数を着実に伸ばしている(28年54議席、32年12月100議席)ことに危機感を抱き、ヒトラーと手を結びます。
1933年1月、ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に任命し、ナチス政権が誕生しました。
そのときヒンデンブルクは、「ヒトラーのごとき人物を首相に任命する不愉快な義務を負うはめになった」と側近にもらしたと云います。

続く・・・

2012/11/23

人類の軌跡その520:ニューディール政策②

<大恐慌とニューディール政策②>

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◎ニューディール政策

 主要な法案として全国産業復興法(NIRA)、農業調整法(AAA)、テネシー河流域開発公社(TVA)があります。
全国産業復興法は、企業にカルテルを認める一方、企業活動に対する国家統制権を強化し、生産調整と価格安定を図り、労働者には団結権、団体交渉権を認める事で購買力の向上を図るものです。
農業調整法では、農産物価格の安定の為、農家に補償金を与えて作付け制限を実行しました。
テネシー河流域開発公社は、ダム建設や森林開発等、テネシー河流域の総合開発を政府の公共事業として実施し、同時に失業者を雇用するもので、ニューディールの象徴的な事業となりました。

 又ローズヴェルトは、ラジオ放送で「炉辺談話」として国民に語りかけた初めての大統領でした。大統領就任一週間後の「炉辺談話」で「もう銀行は潰れません、安心して下さい」と話したあと、銀行への預け入れ額が引出し額を上まわるようになったと言います。

◎社会改革にむかうニューディール政策

 景気は回復に向かいはじめましたが、失業者は1934年段階で1000万人を数え、労働運動に対する企業の弾圧が激化する等の問題が生じてきました。
これに対し、1935年、ローズヴェルトは、失業保険や老齢年金等の社会保障制度をはじめて確立し、労働者の諸権利を保障したワグナー法を制定します。
労働者や一般大衆の要求に沿った是等の社会改革は、「左傾化」として保守勢力からは批判されましたが、労働者大衆からは圧倒的な支持を受け、リンカーン以来共和党を支持してきた黒人も民主党支持に回りました。

 1936年の大統領選挙でローズヴェルトは再選され、ニューディール政策は継続されましたが37年には不況に見舞われ、財政支出による有効需要創出策とファシズム諸国に対抗する為の軍備拡張によってようやく恐慌から脱出しました。
不況克服という意味ではニューディールの効果は不十分なものでしたが、政府による経済への介入・統制や社会政策はのちに資本主義諸国の経済政策に受け継がれていきました。

◎大恐慌から世界恐慌へ

 大恐慌によって合衆国が輸入を縮小し、海外に投資していた資本を引き上げた為、恐慌は、五カ年計画を実施していたソ連を除く各国に波及して世界恐慌へと発展しました。

 1930年以降、世界貿易は縮小し、各国は国際収支の悪化を防ぐ為、輸入品に高関税をかけ保護貿易政策をとる一方、金本位制を停止し為替を管理下に置いて自国の貨幣価値を切り下げて輸出の拡大を図りました。

 イギリス、フランスの様に広大な自治領や植民地を持つ国は、販路と資源を確保する為、排他的な経済ブロックを形成しましたが、そこから閉め出された日本、ドイツ、イタリアは、軍需産業育成によって恐慌の克服を図り、国際秩序の再編をめざして対外侵略を志向します。
こうして、1920年代後半の国際社会の基調だった国際協調主義や軍縮の流れは断ち切られ、国際的緊張が高まってきました。

続く・・・

2012/11/22

人類の軌跡その519:ニューディール政策①

<大恐慌とニューディール政策①>

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 1929年にはじまった合衆国の大恐慌は世界恐慌に発展し、各国に深刻な影響を与え、合衆国ではローズヴェルト大統領がニューディール政策によって恐慌克服をめざしました。

◎暗黒の木曜日

 アメリカの「永遠の繁栄」を謳った共和党のフーヴァーが、合衆国大統領に就任した半年後の1929年10月24日、ニューヨーク株式取引所で空前の高騰を続けていた株価が急落しました。
所謂「暗黒の木曜日」で、株価は下落を続け、これをきっかけにアメリカ経済は大恐慌に見舞われました。

 国民総生産、工業生産高、個人消費支出共に、1929年と比較して1932年には60%に迄落ち込み、失業者は1929年の150万人から33年には約1300万人に増加、四人に一人が失業者と成りました。
経営悪化と取り付け騒ぎで1930年からの3年間に5000行以上の銀行が破綻し、900万人の預金が引出し不能に成り、都市には配給のパンを求める失業者の列が続き、農村では農作物価格が急落し、輸送代さえ回収できない為、農作物は打ち捨てられ、農民は困窮を極め、破産して小作農に転落する農民が続出しました。

◎フランクリン・D・ローズヴェルト

 自由主義経済を信奉するフーヴァー大統領は、景気の自動的回復機能に期待して積極的な不況対策を講じず、国民の信頼を失い、代わって1932年の大統領選挙では、民主党のフランクリン・D・ローズヴェルトが「ニューディール(新規まき直し)政策」を掲げて当選しました。

 ローズヴェルトはニューヨーク州の名家出身で、26代大統領のセオドア・ローズヴェルトは彼の伯父にあたり、少年時代には毎夏ヨーロッパに避暑に出かけるような生活の中で何不自由なく成長し、20代で上院議員となり、第一次大戦時には海軍次官補、1920年には副大統領候補とエリートコースを進みますが、21年に小児麻痺を患い、その後7年間闘病生活をおくった事は、彼に政治家として幅をもたらしたのです。

 1933年大統領に就任したローズヴェルトは最初の「百日議会」で矢継ぎ早に「ニューディール政策」実施の為の法案を成立させていきました。

続く・・・

2012/11/21

人類の軌跡その518:第一次世界大戦後の朝鮮・中国③

<北伐>

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 中国革命の為、中国国民党と中国共産党は合同して国民政府を樹立しますが、革命軍司令の蒋介石は、北伐の途上で共産党を弾圧し、国民党の主導権を握って中国統一を達成しました。

◎国民党と共産党

 五・四運動に於ける大衆運動の高揚を見た孫文は、秘密結社による革命運動を転換し、1919年10月、国民大衆に基盤をおいた中国国民党を結成し、革命派軍閥の協力を得て広州に広東政府を樹立しました。

 又、1921年にソ連・コミンテルンの指導のもと、陳独秀や李大釗により中国共産党が結成され。反帝国主義の立場から民族独立を支援するソ連は孫文にも接触し、1923年、孫文はソ連との協力にふみきり反帝国主義、反軍閥を掲げて、「連ソ・容共・扶助工農(ソヴィエト政府と連携し、共産党を受け入れ、労働者農民を助ける)」の三大政策を発表しました。

 翌24年、国民党が改組され、共産党員がその資格のまま国民党に入党する事によって、両党は合同しました(第一次国共合作)。
又、広州には黄埔軍官学校が設立され、革命軍幹部の養成が始まり、高い政治意識を持つ革命軍を持つ事で、軍閥勢力の打倒をめざそうとしたのです。
校長に国民党の蒋介石、政治部主任には共産党の周恩来が就任しました。

 蒋介石は、1907年に日本の陸軍士官学校に留学した際に孫文と知り合い、それ以来忠実な態度で孫文に接し、軍閥に煮え湯を飲まされ続けた孫文に信頼された数少ない軍人でした。
1923年には孫文の名で、モスクワに渡り軍事組織の研究を行っています。
広州にはソ連から資金や武器が届けられ、コミンテルンの政治顧問も派遣されてきました。

◎北伐の始まり
  
 1925年、上海で労働者のデモ行進にイギリス警察が発砲し、多数の死傷者を出す(五・三〇事件)事件が起きると、これに抗議して上海、北京、香港等、全国でストライキが組織され反帝国主義運動が高揚しました。

 孫文はこの年の3月「革命いまだ成らず」の遺言を残し癌で死去していましたが、7月、国民党は運動の高揚を好機ととらえ、広州で国民政府の成立を宣言し、翌26年7月、蒋介石を国民革命軍総司令官として北伐を開始し、10万の北伐軍は、共産党に指導された農民運動や労働運動の支援を受けて、各地の軍閥を破りながら北上し、12月に武漢に政府を移動し、翌年3月迄に上海、南京を占領し中国南部を制圧したのです。

◎蒋介石

 蒋介石は、孫文には忠実でしたが反共主義者で在り、北伐の過程で勢力を拡大する共産党に危機感を強め、同じく共産党を警戒する民族資本の浙江財閥や列強の支持を受け、27年4月上海で共産党に対する弾圧をおこない、多数の共産党員や労働運動指導者を殺害しました(上海クーデタ)。
蒋介石は、南京に国民政府を樹立し、共産党との連携を主張する国民党左派を排除し武漢国民政府を吸収、国民党の支配権を握り、同時に国共合作は崩壊しました(国共分裂)。
28年4月、蒋介石は25万の国民革命軍を率いて北伐を再開しますが、共産党を排除してその性格は変質し、蒋介石自身が最大の軍閥とも云うべき存在となっており、諸軍閥を傘下に編成しながら北京に進撃します。

続く・・・

2012/11/20

人類の軌跡その517:第一次世界大戦後の朝鮮・中国②

<第一次大戦と朝鮮・中国②>

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魯 迅 1881年9月25日 - 1936年10月19日

◎日本による中国に対する干渉強化
 
日本は、第一次大戦中の1915年、ヨーロッパ列強が中国から後退した間隙をついて、袁世凱政府に二十一ヶ条の要求を突きつけました。
その内容は、ドイツが租借していた山東省膠州湾などの権益の日本への譲渡、中国東北地方での権利拡大、中国政府に日本人の政治・財政・軍事顧問を置く事等、中国の主権を侵害するものでした。
袁世凱政府が最終的にこの要求を受けいれると、民族的危機意識が中国民衆に広がり、袁世凱死後も、その後継者段棋瑞が利権と引き替えに、日本から多額の援助を得る等、軍閥による政府の私物化は続いたのです。

◎文学革命

一方で、1910年代後半から、新中国・新社会をめざす文化・思想運動が始まりました。
文学革命とも新文化運動とも呼ばれるこの運動の中心となったのは、陳独秀が発行した雑誌『新青年』でした。
「民主主義と科学」を標榜し、封建制度や儒教思想、特に個人を縛り付ける伝統的家族制度を批判する論陣を張り、青年層に大きな影響を与え、同誌を舞台に、胡適による白話文学運動(文語だった書き言葉を口語に変えることを提唱)が展開され、魯迅は口語文学の傑作『狂人日記』『阿Q正伝』等を発表し、又、李大釗はマルクス主義を初めて中国に紹介しました。
やがて彼等を教授陣として迎えた北京大学は、文学革命の拠点と成って行きました。

◎中国全土に広がった五・四運動

 1919年、第一次大戦が終わり、パリ講和会議が始まると、中国代表は「民族自決」に基づいて、日本の二十一カ条要求の破棄と、山東省の権益返還を要求しました。
しかし、中国政府の要求は拒否され、そのニュースが伝えられると、5月4日、憤激した北京の学生を中心に、二十一カ条と親日的軍閥政府への抗議デモが行われ、政府の弾圧にも関わらず抗議運動は全国に広まっていきました(五・四運動)。
上海では学生・労働者のストライキと商店の休業が8日間続き、終に北京の軍閥政府は、親日官僚を罷免すると共にヴェルサイユ条約の批准を拒否、大衆運動が政府を動かしたのは中国史上初めての事でした。

※魯迅

 少年時代に民間療法で病気の父を亡くした魯迅は、医者を志し1904年日本の仙台医学専門学校(現東北大医学部)に入学しました。
日清戦争後、中国人に対する蔑視が広がりつつあるなかで、藤野厳九郎教授が魯迅を気にかけ、ノートの日本語を添削する等の指導をしてくれた事を、彼は後年、深い感謝の気持ちとともに書き記しています(『藤野先生』)。

その仙台時代の事、幻灯機を使ったある講義で、時間が余ったのか教授が日露戦争の写真を映写しました。
勝利の場面が映し出される度に、学生達は熱狂して万歳と叫んでいました。
やがて、ロシア軍のスパイとして捕らえられた中国人が日本軍に銃殺される場面が映し出され、学生達はやはり万歳と叫びました。
その時、魯迅にとってショックだったのは、彼等の態度よりも、映し出された写真の中で、多くの中国人が銃殺される中国人をのんびりと見物している事だったのです。
このとき魯迅は、中国にとって必要なのは医学ではなく「彼らの精神を改造すること」だと思い立ち、1906年、医学校を退学した魯迅は文学の道を歩み始めました。

続く・・・
2012/11/19

人類の軌跡その516:第一次世界大戦後の朝鮮・中国

<第一次大戦と朝鮮・中国>

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 第一次大戦後の朝鮮では、民族自決に期待して大規模な三・一独立運動が湧き起こり、中国でも、大戦中の日本による二十一カ条の要求に対して、五・四運動が起こります。

◎ウィルソンの民族自決

 1918年、米大統領ウィルソンが「十四カ条の平和原則」を発表すると、自由に活動のできる海外在住の朝鮮人から「民族自決」に期待した運動がおこりました。
アメリカにいた李承晩(イスンマン)は、ウィルソンに韓国独立を要望し、上海の新韓青年党呂運亮(ロウンヒョン)はパリ講和会議への代表派遣を計画しました。
これらの動きが日本留学生に伝わると、1919年2月東京神田朝鮮YMCA会館に600名の留学生が集まり「独立宣言大会」が開かれ、朝鮮半島でもこれに呼応して、宗教団体等の指導者33名によって独立宣言が起草され、前月(1月)に死去した元国王高宗の葬儀にあわせて、ソウルの中心パゴダ公園で独立宣言を読み上げることになりました。

◎三・一独立運動
 
 3月1日、パゴダ公園に集まった青年学生を中心とする5000名は、独立宣言を読み上げた後、市街に出て「大韓独立万歳」と叫びながらデモ行進を行い、隊列はたちまち数万の規模に膨れあがりました。
この三・一独立運動は朝鮮全土218の府郡のうち211カ所に広がり、示威運動の回数は1200回をこえ、参加者はのべ110万人に達したのです。

◎日本の弾圧
 
 これに対して、朝鮮総督府は朝鮮常駐の二個師団に、日本本国からの援軍を加えて、徹底的な武力弾圧を実行し、水原郡堤岩里(チエアムリ)では村民全員を焼き殺す虐殺事件の現場がアメリカ人宣教師たちに目撃されています。
三・一独立運動での朝鮮人の死者約7000人、負傷者約4万5000人、逮捕者約5万人に及びました。

 運動は鎮圧されましたが、総督府はこれを契機に統治方針を従来の武断政治から文治政治に切り替え、具体的には憲兵警察を普通警察にかえ、日本人官吏教員の帯剣を廃止する等、示威的武力支配を改め、出版・集会・結社の自由を一部許可する様に成ったのです。

続く・・・

2012/11/17

人類の軌跡その515:インドの民族運動②

<高揚するインドの民族運動独立②>

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「塩の行進」

◎「塩の行進」

 一時沈滞していた運動は、1929年のインド国民会議派ラホール大会で「プールナ・スラワージ(完全な独立)」の方針を決定し、ふたたび高揚期を迎えました。
運動に復帰したガンディーは1930年イギリスに抵抗する象徴的な行動として「塩の行進」を実行します。
「製塩禁止法」に反対して、自宅のあるアフマダバードから約380キロ24日かけてダンディー海岸まで行進し、自ら塩を作ったのです。
ガンディーと78名の弟子が歩く沿道には人々が群がり、一行は数千人の規模に膨らんでいきました。
「塩の行進」では、ガンディーを含め6万人以上が逮捕投獄され、この運動に注目していた国際社会に、イギリスの圧政を印象づける事になりました。
「塩の行進」に刺激され全土で製塩運動やボイコット運動等、非暴力・不服従運動が広まり、第二次サティヤーグラハ運動がはじまりました。

◎英印円卓会議

 イギリスはインド独立運動を懐柔する為、インド各界の代表者をロンドンに招き円卓会議を1930年から32年迄に3回開催しました。
円卓会議とは座席に上座下座の区別を作らず対等に話し合う形式で、この為に釈放されたガンディーも、国民会議派の代表として独立の条件を獲得する為、第二回会議に出席しましたが、会議は成果無く終わります。

 1935年イギリスは新インド統治法を発表し、各州の地方自治は認めるものの、インドの自治や独立とは程遠い内容に国民会議派の指導者の一人ネルーは「これは奴隷憲章だ」と反発したのです。

※ガンディーについて

 ガンディー(1869~1948)は、イギリスに留学し弁護士資格を取得した後、1893年インド人企業の顧問弁護士として人種差別の激しい南アフリカに渡りました。
南アフリカのダーバンについて一週間後、一等客車に乗っていたガンディーは、後から来た白人の為に席を譲り貨物車に移るよう車掌に命令されました。
ガンディーが一等の切符を示して拒否すると、車掌はガンディーをプラットホームに放り出してしまいました。
ガンディーは寒さと屈辱に震えながらプラットホームで一夜を明かします。
「権利の為に戦うか、それともインドに帰るべきか」と考えながら。
「義務を果たさずに逃げるのは卑怯だ」と云うのが彼の結論で、こうして1915年までの22年間、南アフリカでインド人の権利擁護運動を続け、そのなかでサティヤーグラハ運動を確立していきます。

 粗末な衣服、菜食主義、妻帯しながら禁欲生活を貫く等、独特のスタイルは留学経験のある知識階層としては特殊なものでした。
又、闘争の最高潮期に、流血事件を理由に闘争中止を命じるガンディーの姿勢は、ネルー等、他の国民会議派指導者の反発を招きましたが、一種宗教的ともいえる彼の思想と行動は、多くの民衆を惹きつけた

続く・・・

2012/11/16

人類の軌跡その514:インドの民族運動

<高揚するインドの民族運動独立>

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 第一次大戦後、熱望していた自治を与えられなかったインドは、国民会議派のガンディーの指導で非暴力・不服従運動を展開しました。

◎インド国民会議派によるインド民族主義の高揚

 1905年、インドでは日露戦争で日本が勝利した影響で、民族運動が盛り上がり、インド総督カーゾンはこれを抑える為、ベンガル分割令を発令しました。
反英闘争の盛んなベンガル地方を、ムスリムの多い東とヒンドゥー教徒の多い西に分割する事で民族運動の弱体化を狙ったものでした。
これに対して猛烈な抗議行動が展開され、1906年インド国民会議派のカルカッタ大会では「スワデーシー(国産品愛用)」「スワラージ(自治)」「イギリス商品のボイコット」「民族教育」の四大綱領が採択されました。

 インド国民会議は、1885年にイギリスがインド統治の円滑化の為、イギリスの高等教育を受けたインド人を集めた組織でした。
当初、インド国民会議に参加した弁護士、学者、ジャーナリスト等は、イギリスに協力する事でインド人の地位向上を図ろうと考えていましたが、徐々に反英色を強め独立運動を指導するようになったのでした。

 一方、ヒンドゥー教徒が主導するインド国民会議に対して、少数派のムスリムはイギリスの支援を受け1906年インド=ムスリム連盟を結成しましたが、これにはインド人同士を宗教で対立させる事を狙った、イギリスの分断統治策でもありました。

◎イギリスの自治付与約束

 第一次大戦が始まると、イギリスは戦後の自治と引換に、インドに兵力・戦費の負担を求めす。
ところが、戦後1919年に制定されたインド統治法は形式的な自治しか認めず、同時に制定されたローラット法は、令状なしの逮捕、裁判なしの投獄、政治犯の上告不可と云う民族運動弾圧法そのもので在り、抗議行動が全土に広まりました。

◎ガンディーの指導

 この時「非暴力・不服従」運動を掲げて国民会議派の指導者として登場したのがガンディーでした。ガンディーは、非暴力・不服従の抵抗を「積極的な非暴力には真理と勇気が含まれる」として「サティヤーグラハ(真実をつかむ)運動」と名付けました。

 イギリスは農民や下層労働者も参加したサティヤーグラハ運動にインド大反乱の再現を恐れ、パンジャブ地方のアムリットサール市では、2万人が集まった集会にイギリス軍が発砲し375人(国民会議派調査では1200人)が虐殺される事件が起き、反英運動はさらに勢いを増し、国民会議派とムスリム連盟の協力関係も築かれました。
全国を遊説するガンディーを、民衆は熱狂して迎え、洋服を着た他の国民会議派の指導者とは全く異なり、国産木綿の粗末なインド服をまとい自ら糸を紡ぐガンディーの姿は、「スワデーシー(国産品愛用)」と「イギリス商品のボイコット」を身をもって示すものでした。
各地で人々はイギリス製の綿製品を積み上げて火を放ち、「非暴力」とは言いながらも運動の高揚にともなって流血事件はしばしば発生します。
1922年2月ある町で警官22名が群衆に殺される事件が起きると、ガンディーは統制の取れない運動の中止を命じ、その後ガンディーは逮捕投獄されます。

続く・・・

2012/11/15

人類の軌跡その513:オスマン・トルコ帝国の崩壊

<独立を回復したトルコとアラブ地域の再編>

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共和国建国10周年記念式典

 オスマン帝国を滅ぼしたケマル・パシャのトルコ新政府は、連合国と条約を結び直し独立を回復し、イラク、トランスヨルダンでは形式的なアラブの独立がおこなわれました。

◎敗戦後のトルコ(オスマン帝国)

 オスマン帝国は親ドイツ政策をとり、同盟国として参戦し敗北しました。
1918年の休戦条約で、イスタンブールは連合国に占領されシリア、パレスティナ等アラブ人の住む地域だけでなく、トルコ人住民が多数を占めるトルコの本土であるアナトリア地方も分割される危機に陥り、自己保身に奔走した皇帝は、連合国の傀儡同然でした。

◎ケマル・パシャによるアンカラ政府の樹立

 1919年5月には、領土拡大を目指すギリシア軍がイギリスの支持を受け、トルコ第二の港湾都市イズミルとその周辺を占領し住民虐殺と云う蛮行に走ります。
イスタンブールの皇帝政府は如何なる対応も行う事は無く、これに対して抵抗を組織したのが、第一次大戦でダーダネルス海峡突破を試みた連合軍をガリポリの戦いで破った、国民的英雄ケマル・パシャでした。

 ケマルはアナトリアの中央部の都市シバスで「アナトリア・ルメリア権利擁護委員会」を結成し領土保全を国民に訴えます。
1920年4月にはアンカラで、イスタンブールから脱出した帝国議員も含むトルコ大国民議会を開催してアンカラ政府を樹立、ケマルはその首班に就任し、この結果イスタンブールとふたつの政府が並立する事になりました。

◎外国軍の撤退とオスマン帝国の滅亡

 イスタンブール政府は、8月に連合国との講和条約である、セーヴル条約を締結しますが、その屈辱的な内容に不満を持つトルコ国民はアンカラ政府に結集し、1921年には反帝国主義運動を支援するロシア・ソヴィエト政府から軍事援助を受け、アンカラ政府軍は21年8月には内陸部に侵攻してきたギリシア軍をサカリア川で撃破、翌22年にはギリシア軍を駆逐し、イズミル地方の主権を回復しました。
それ以前に、フランス、イタリアのトルコ進駐軍はアンカラ政府との徹底対決を避け撤退しており、イギリスも本国の世論に押されアンカラ政府軍のイスタンブール入城を武力で阻止する事は不可能であり、ケマルは22年皇帝メフメト6世を退位させ、此処にオスマン帝国は滅亡したのです。
但し、オスマン皇帝は世俗の支配者スルタンであると同時に、全ムスリムの指導者カリフも兼ねており、廃止されたのはスルタン制のみ為、メフメト6世亡命後はその甥が宗教的権威のみを持つカリフ位に就任しました。

◎独立

 唯一の政府となったアンカラ政府はセーヴル条約を破棄し、改めて連合国と1923年ローザンヌ条約を締結、領土は保全され治外法権は廃止され財政管理権も取り戻しました。
敗戦によって国中が疲弊していたにも関わらず、国民の力を結集したアンカラ政府はオスマン帝国が100年にわたって奪われつづけてきた独立を勝ち取ったのです。

 アンカラ政府は、10月トルコ共和国成立を宣言し、ケマル・パシャが初代大統領に就任、これがトルコ革命です。

◎脱イスラム改革

 大統領ケマル・パシャは、脱イスラム化政策で世界の注目を集めました。
1924年にはカリフ制を廃止、マドラサ(イスラム法学校)とイスラム法廷を閉鎖、28年にはイスラムを国教と定めた憲法の条文を削除し、イスラム世界で初めて政教分離を実現、そのほかに女性のベール着用禁止や、トルコ語のアラビア文字表記をローマ字表記改める文字改革など一連の改革をおこない、近代化を進めました。

 ケマルは独裁政治家でしたが、1934年には大国民議会からアタチュルク(トルコの父)という姓を贈られ、現在でもトルコ国民に敬愛されています。

続く・・・

2012/11/14

人類の軌跡その512:第一次世界大戦後のヨーロッパ・アメリカ④

<第一次世界大戦の終焉④>

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◎「新経済政策」

 1922年、ソヴィエト政府はソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)の樹立を宣言しますが、その前年1921年には「戦時共産主義」を停止し、「新経済政策(ネップ)」を採用、生産回復を図るために自由市場を復活させ、小農や私企業の経営を認めました。
これは資本主義的経済方式を導入したものでした。

 ソヴィエト政府成立直後のボリシェヴィキ指導者は、経済発展の遅れたロシア一国で社会主義を建設するのは不可能であり、進んだ西ヨーロッパでも社会主義革命が起きる事が必要だと考えていました。しかし、最も可能性の高かったドイツでも社会主義革命はおきず、西ヨーロッパ全体で革命運動が退潮すると、ロシアは一国だけで社会主義建設をおこなわざるをえませんでした。
「新経済政策」はその一つの試みであり、資本主義諸国から見ると、ソ連が以前ほど危険な存在ではなくなった事を意味し、まず、敗戦国として孤立していたドイツが1922年に最初にソ連を承認すると、1924年には英・仏・伊、25年には日本が承認します。(合衆国は1933年に承認し、翌34年に国際連盟に加盟)。

◎レーニンの死とスターリンの権力掌握

 1924年、ソ連と共産党の指導者であったレーニンが死去すると、党指導部内で後継者争いが始まり、皮肉な事にレーニンが遺書で「粗暴すぎる」から解任する様に求めていた、党書記長スターリンが、実務を握る立場を利用してライバルたちを失脚させていきます。
レーニンの後継者と目されていたトロツキーの「世界革命論(永続革命論)」に対してスターリンは「一国社会主義論」を唱え、路線論争の装いをとりながら権力闘争が展開され、権力闘争に敗れたトロツキーは1927年に国外追放となり、以後スターリンは独裁体制を強固なものにして行きます。

◎第一次五カ年計画

 1928年にはスターリンの指導により、社会主義計画経済である第一次五カ年計画が開始され、コルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国営農場)による農業の集団化がすすめられ、農産物の飢餓輸出による犠牲のうえに、重工業が建設されて行ったのです。

続く・・・
2012/11/13

人類の軌跡その511:第一次世界大戦後のヨーロッパ・アメリカ③

<第一次世界大戦の終焉③>

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◎大戦後のイタリアの政情とファシストの暴力

 大戦後、思惑どおりに領土を獲得できなかったイタリアでは、右翼的民族主義運動が盛り上がると同時に、インフレや失業の増大の中で革命運動や労働運動、貧農雇農による土地分配運動が活発化します。
社会党とカトリック系の人民党に挟まれて、自由主義勢力による政府は指導力を発揮できず不安定な政局が続いていました。

 1919年国粋主義者で詩人のダヌンツィオは義勇軍を率いて、パリ講和会議で獲得できなかった港市フィウメを占領し、大戦中に社会主義から国家主義に転身した新聞記者ムッソリーニは、「戦闘ファッシ」を結成しファシスト運動を開始します。

 一方で、社会主義革命をめざす社会党は1919年の総選挙で、議席の3分の1を占め第一党となり、1920年夏には北イタリアで50万人の労働者が工場を占拠し自主管理を行い、革命前夜の様相を呈しましたが、政府の調停によって労働争議が終息すると、社会党の分裂も発生し、社会主義運動は徐々に下火になっていきます。

 20年秋からファシストによるテロが横行しはじめ、黒シャツ隊と呼ばれたテロ部隊は、社会党が政権を握る地方自治体に拳銃や棍棒を持ってトラックで乗り付け、暴力で町を制圧し、労働組合や農民組合の事務所や指導者を襲い、最後に市長に辞職を迫りました。
抵抗した場合は家族を誘拐し、更には本人を殺害する事態に発展する事も発生し、この様な剥き出しの暴力で地方の支配権を握る「懲罰遠征」は参加者を増やしながら活動範囲を広げていきました。
地主や資本家はこの運動を支援し、警察もファシストの暴力行為を黙認していたのです。

◎ムッソリーニによる独裁政治の樹立

 1921年の総選挙では35名の当選者を出し、ムッソリーニは「戦闘ファッシ」を「ファシスト党」に改組し自ら統領の地位につきました。
この間も地方でテロ活動を続け、1922年10月には「ローマ進軍」を行い、2万6千の武装したファシスト党員がローマに向かって進軍すると、内乱を恐れた国王は、戒厳令を求めて容れられず辞職したファクタ首相にかわってムッソリーニを首相に任命し、ファシズム政権が誕生しました。

 35議席しかないファシスト党は、1924年の総選挙で、対立候補に対して暴行、脅迫、殺害など徹底的な選挙妨害をおこない535議席中375議席を獲得し、議会でファシストの選挙妨害を非難した国会議員は暗殺され、1926年にはファシスト党以外の政党は禁止となり、一党独裁体制を樹立、1928年にはファシスト党の機関であるファシスト大評議会を国家の最高機関として独裁体制を完成させました。

 権力掌握の過程でムッソリーニは資本家層と接近してその支持を取り付け、また1924年にフィウメを併合、27年にはアルバニアを保護国化して領土拡大を望む大衆も満足させる事に成功します。
イタリアのファシズム政権の誕生は当時の国際社会で、大きな問題にはなりませんでしたが、ムッソリーニの政治手法はドイツのヒトラーに大きな影響を与えたのでした。

続く・・・

2012/11/11

人類の軌跡その510:第一次世界大戦後のヨーロッパ・アメリカ②

<第一次世界大戦の終焉②>

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スパルタクス団の蜂起・ベルリン1919年

◎ドイツ・ワイマール共和国の成立と混乱

 ドイツでは1919年ワイマール憲法が制定され、社会民主党のエーベルトを初代大統領として、いわゆるワイマール共和国が発足しました。
ワイマール憲法は男女普通選挙、団結権や労働者の経営参加権を認め、当時最も先進的民主的憲法でしたが、敗戦直後から不安定な政情は続き、ロシア革命の影響をうけ、1919年1月ベルリンで社会主義政権樹立をめざすスパルタクス団の蜂起がおこります。

 この蜂起は鎮圧され、革命運動は退潮するのですが、1920年にはヴェルサイユ条約で決まった兵力削減に不満を持つ軍部がクーデタを起こしベルリンを占拠(カップ一揆)、結果ベルリン市民のゼネストによる抵抗でクーデタは失敗しましたが、ヴェルサイユ条約に反対する旧軍人や右翼の活動は以後も続きました。
失敗に終わりましたがヒトラーが政権奪取をめざしたミュンヘン一揆(1923)もその一つで、彼ら右翼勢力は、ドイツ革命が起きなければ、先の大戦でドイツ軍は勝利したはずだと考えていたのです。

◎経済崩壊を招いたフランスのルール占領とドイツの再建

 1923年、ドイツの賠償金支払いが不能になると、フランスとベルギーがドイツ最大の工業地帯ルール地方を占領(~25年)、これに対して、ドイツ政府は「消極的抵抗」を呼びかけ、ストライキによって生産が停止した為、フランスは利益を得る事が不可能に成った反面、ドイツ経済も大打撃をうけ、インフレが一気に進行しマルクの価値が戦中の1兆分の1にまで下落、市民生活は混乱し、ドイツ共産党による武装蜂起が計画され、ヒトラーのミュンヘン一揆が起き、社会不安は増しました。

 この時、新たに首相に就任したシュトレーゼマンは、不動産と商工業資産を担保にした新紙幣レンテンマルクを発行することによって、超インフレを奇跡的に終息させ、更に1924年ドイツの賠償金支払いを可能にする為の合衆国の提案、ドーズ案が成立しました。
合衆国がドイツに多額の借款を与え、ドイツはこれによって賠償金の支払いと経済復興を軌道に乗せる事が可能と成りました。

◎合衆国の資金に支えられたヨーロッパの安定

 外相となったシュトレーゼマンは協調外交を展開し、英仏等と集団安全保障を定めた1925年のロカルノ条約と翌26年の国際連盟加入で国際社会に復帰し、賠償金が順調に支払われはじめた事と相まって、ヨーロッパの政情は安定期を迎えました。
しかしこの安定は、ドイツに投下されたアメリカ資本に支えられたものでした。

◎大戦後のイタリアの政情とファシストの横行

 大戦後、思惑どおりに領土を獲得できなかったイタリアでは、右翼的民族主義運動が盛り上がると同時に、インフレや失業の増大の中で革命運動や労働運動、貧農雇農による土地分配運動が活発化します。
社会党とカトリック系の人民党に挟まれて、自由主義勢力による政府は指導力を発揮できず不安定な政局が続いていました。

 1919年国粋主義者で詩人のダヌンツィオは義勇軍を率いて、パリ講和会議で獲得できなかった港市フィウメを占領し、大戦中に社会主義から国家主義に転身した新聞記者ムッソリーニは、「戦闘ファッシ」を結成しファシスト運動を開始します。

 一方で、社会主義革命をめざす社会党は1919年の総選挙で、議席の3分の1を占め第一党となり、1920年夏には北イタリアで50万人の労働者が工場を占拠し自主管理を行い、革命前夜の様相を呈しましたが、政府の調停によって労働争議が終息すると、社会党の分裂も発生し、社会主義運動は徐々に下火になっていきます。

 20年秋からファシストによるテロが横行しはじめ、黒シャツ隊と呼ばれたテロ部隊は、社会党が政権を握る地方自治体に拳銃や棍棒を持ってトラックで乗り付け、暴力で町を制圧し、労働組合や農民組合の事務所や指導者を襲い、最後に市長に辞職を迫りました。
抵抗した場合は家族を誘拐し、更には本人を殺害する事態に発展する事も発生し、この様な剥き出しの暴力で地方の支配権を握る「懲罰遠征」は参加者を増やしながら活動範囲を広げていきました。
地主や資本家はこの運動を支援し、警察もファシストの暴力行為を黙認していたのです。

続く・・・
2012/11/09

人類の軌跡その509:第一次世界大戦後のヨーロッパ・アメリカ

<第一次世界大戦の終焉>

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T型フォード(最初期型1911年以前)

◎ドイツとの講和と対ソ干渉戦争

 ソヴィエト政府の休戦よびかけを無視した連合国は、自国民に戦争継続の意義を説明する必要に迫られ、アメリカ合衆国のウィルソン大統領は「平和に関する布告」に対抗して「14カ条の平和原則」を発表しました。
ドイツは、1918年3月、ソヴィエト政府とブレスト=リトフスク条約を結び単独講和を行います。
この条約はドイツへの領土割譲を含み、ソヴィエト政府にとって不利なものでしたが、レーニンはドイツでも社会主義革命が起きることを期待して条約締結に踏みきりました。
ボリシェヴィキの公約でもある平和はようやく実現されたかにみえました。

 しかし、1918年には、連合国の支援を受けた旧ロシア軍人など反革命勢力との内戦がはじまり、4月以降には、英・仏・日・米などの連合国軍が対ソ干渉戦争を起こしてロシアに侵入しましたが、是等一連の行動は、資本主義国にとって、社会主義政権の存在と革命の波及は脅威だったのです。

 一時は崩壊寸前迄追いつめられた、ソヴィエト政府ですが、軍事人民委員トロツキーによって組織された赤軍(=革命軍)の反撃や、民衆の抵抗等により反革命軍は鎮圧され、列国の軍隊も1920年には撤退し(日本のシベリア出兵だけは1922年まで継続)、ソヴィエト政府は危機を乗り越えたのです。しかし、その間実施された、農村からの食糧の強制徴発や全工場の国有化、労働義務制など「戦時共産主義」に対する不満は強く、1921年にはクロンシュタット軍港で水兵の反乱が起きる程でした。

◎第一次大戦後の欧米諸国

 戦後、アメリカ合衆国はイギリスに変わり世界経済の中心として繁栄しました。
一方、敗戦国ドイツでは政情不安と経済混乱が続きます。
イタリアでは、テロで勢力を拡大したファシスト党のムッソリーニの独裁政治が誕生し、ソ連では、社会主義建設の模索がつづくなか、レーニン死後スターリンの独裁が確立しました。

◎アメリカ合衆国

 大戦中の貿易で利益をあげ、戦争の被害も少なかった合衆国は、大戦後、「黄金の20年代」と呼ばれる空前の経済繁栄を謳歌しました。
世界の工業生産の4割を占め、世界の金の44%を保有し、大戦中からの英仏などへの融資で世界最大の債権国に成ります。

 経済の繁栄は、国民の生活水準を引き上げ、大衆社会が出現しました。金持ちの贅沢品だった自動車の普及がそれを象徴し、フォード社は組立ラインによる大量生産を考案し価格を引き下げ、3世帯に2台の割合で自家用自動車が普及しましたが、この数字は、日本では1970年代末の水準に相当します。
電気冷蔵庫やラジオも普及し、プロ野球や映画が大衆の娯楽として登場し、ミッキーマウスが生まれたのもこの時代で、大量生産、大量消費、大衆文化と云う現代生活が出現したのでした。

 一方で、豊かな生活を求めて、南部の農村地帯から北部工業都市への黒人の移住や、東欧・アジアからの新移民が増加したことは、それまでのアメリカ社会の主流を占めていた「WASP」の反発を生み、保守的・排外的風潮を生みました。
1919年の禁酒法や1924年の移民割当法による移民制限、人種差別集団KKK団の復活は、そのあらわれでした。
国際政治では、孤立主義を主張する議会の反対により、ウィルソン大統領の提唱した国際連盟に加入しませんでした。
注:WASPとは、W=ホワイト(白人)、AS=アングロサクソン(イングランド系)、P=プロテスタントを意味します。

続く・・・

2012/11/05

人類の軌跡その508:第一次世界大戦⑤

<ロシア革命>

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 最も遅れた帝国主義国ロシアは総力戦に耐えきれず、三月革命によって帝政が崩壊し、十一月革命によって社会主義のソヴィエト政権が誕生し、大戦から撤退しました。

◎後進的帝国主義国ロシア

 ロシアは帝国主義諸国の中で、政治的にも経済的にも最も遅れた国でした。
1905年、日露戦争による国民生活の悪化によって第一次ロシア革命が発生、この時に初めて議会が開設されましたが、それ以後も専制政治(ツァーリズム)は続いていました。

◎三月革命

 第一次大戦が長期化し総力戦の様相を見せはじめると、厭戦気分が蔓延し、輸送は停滞し、食糧不足と物価高騰により国民生活は窮乏し社会不安は増大しました。
1917年3月(新暦、ロシア暦2月、以下新暦使用)首都ペテログラードで20万人規模の反政府デモが連日発生すると、首都防衛軍もこれに加わり無政府状態と成ります。
混乱を収拾する為に皇帝ニコライ2世は退位し、弟ミハイルに譲位しようとしましたが、ミハイルがこれを拒否したためにロマノフ朝は崩壊しました(三月革命)。
 
 国会臨時委員会を基礎に、新たに成立した臨時政府は、戦争の継続と普通選挙による議会召集を約束しました。
産業資本家層に支持され、穏健な自由主義的立場に立ち、戦争継続を掲げる臨時政府の成立を連合国は歓迎しましたが、一方、臨時政府とは別に各地にソヴィエトが組織されます。

ソヴィエトは「評議会」と訳しますが、職域や地域等で民衆が作る政治組織で在り、1905年の第一革命の時の経験にならって再び組織されたのです。
ペトログラードに成立した労働者・兵士ソヴィエトは労働者と兵士の代表によって構成され、その決定は労働者や兵士に大きな影響力を持ちました。
3月14日の「命令第一号」では兵士に対してソヴィエトの指令に従う事を命じています。

 ソヴィエトも事実上の政府で在り、ロシアには二つの政府が成立する二重権力状態が現出したのでした。
民衆は臨時政府の戦争継続方針には不満でしたが、ソヴィエトに強い影響力を持っていた社会主義政党の社会革命党とメンシェヴィキは、祖国防衛の立場から臨時政府と戦争継続を支持しましたが、なお政治状況は流動的でした。

◎レーニンの帰国とソヴィエトの掌握

 1917年4月、戦争反対を唱えていた社会主義政党ボルシェヴィキの指導者レーニンが、亡命先のスイスから封印列車でロシアに帰国しました。
ドイツ政府はロシアの混乱が増す事を期待して、レーニンの乗る列車のドイツ通過を許可しましたが、ドイツで途中下車して革命運動を行う事が無い様に列車に封印をしたのでした。
 帰国したレーニンは「四月テーゼ」を発表し、戦争の即時停止と、社会主義革命に向けて「すべての権力をソヴィエトへ」集中し臨時政府を支持しない事を訴えました。
戦争停止の訴えは多くの支持を獲得し、ボルシェヴィキは急速に勢力を伸ばし、これに対して7月、臨時政府はボリシェヴィキを弾圧し、一方で労働者の支持を得る為に社会革命党のケレンスキーを首相に迎え、多くの社会主義者を入閣させたうえで、戦争を継続しました。

 ところが、9月に軍の最高司令官コルニーロフ将軍が反革命クーデターを企て、首都に進撃すると臨時政府はボルシェヴィキとソヴィエトの協力でようやくこれを撃退した為、ボルシェヴィキは再び勢力を盛り返し、ペトログラードとモスクワのソヴィエトで主導権を掌握したのです。

◎世界初の社会主義革命十一月革命

11月、レーニンの指導でボリシェヴィキは武装蜂起し、臨時政府を打倒してソヴィエト政権を樹立(十一月革命)、世界初の社会主義政権の誕生でした。
政府成立の翌日にソヴィエト政府は、「平和に関する布告」で全交戦国に無併合・無賠償・民族自決による即時講和を訴え、「土地に関する布告」で土地の私有権廃止を宣言しました。

 1918年1月、ボリシェヴィキは憲法制定議会を解散し一党独裁を開始、3月には共産党と改称し1919年に世界革命の指導部としてコミンテルンを創設し、世界各国の革命運動の組織と援助を開始したのです。

続く・・・
2012/11/03

人類の軌跡その507:第一次世界大戦④

<同盟国の降伏とヴェルサイユ体制>

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ルシタニア(RMS Lusitania)

 1917年にはアメリカの参戦、ロシア戦線離脱で戦局が大きく変化し、18年にはドイツで革命が起こり戦争は終結、「14カ条の平和原則」をもとに講和会議が開かれました。

◎アメリカの参戦

 第一次大戦当初、中立を宣言したアメリカ合衆国ですが、1915年5月ニューヨークを出航したイギリスの客船ルシタニア号がドイツの潜水艦に無警告撃沈され、アメリカ人乗客128人が死亡してからは、対独参戦論が高まっていました。
1917年2月ドイツがイギリスの海上封鎖に対抗して、中立国の船も撃沈する無制限潜水艦作戦を開始すると、4月に合衆国は連合国側に立って参戦し、最大の工業国アメリカ合衆国の登場は、戦力の均衡を破りました。

◎革命によるロシアの戦線撤退

 総力戦に耐えきれなかったロシアでは、1917年、十一月革命でソヴィエト政権が成立し、全交戦国に即時講和を呼びかけ、1918年3月にブレスト・リトフスク条約でドイツと単独講和を締結、この結果、東部戦線は消滅しドイツの負担は軽減され、戦力を西部戦線に集中する事が可能となりました。

 ロシア革命は、各国の反戦運動を刺激し、1917年にはドイツで戦争終結を訴える独立社会民主党が結成され、議会でも講和を求める決議が可決され、18年1月には軍需労働者100万人の反戦ストライキが発生します。

 しかし、軍部は独裁体制を強め、東部戦線の兵力を西部戦線に回送し、1918年3月から大攻勢を開始しましたが、7月以降アメリカ軍100万が加わった連合国が逆襲に転じ、ドイツ軍は占領地を放棄し退却を開始します。
9月にブルガリアが、10月にはオスマン帝国が降伏し、11月にはオーストリアも臨時政府が成立して降伏、同盟国は崩壊、ドイツでは、11月、無謀な出撃命令を拒否してキール軍港の水兵が反乱を起こすと、各地に反乱が広がり、全国で労働者と兵士によるレーテ(評議会、ロシアのソヴィエトにあたる)が組織されました。
ベルリンでゼネストと労働者の武装デモが起きる中、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し(ドイツ革命)、社会民主党を中心とする臨時政府が休戦条約に調印し、第一次大戦はここに終結したのです。

 連合国同盟国あわせて約6500万人が兵士として動員され、戦死・戦病死者約802万人、戦傷者数約2123万人、非戦闘員死者数約664万人を出した未曽有の戦争でした。

続く・・・
2012/11/02

人類の軌跡その506:第一次世界大戦③

<第一次世界大戦のはじまり③>

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塹壕戦

◎第一次大戦の特徴である総力戦

 第一次大戦は、交戦国が自国の工業力、技術力、労働力等国力の総てを戦争遂行に動員する総力戦となりました。
例えば、砲弾の消費量は各国首脳陣の予想を上回る膨大なもので、1914年9月のマルヌの戦いで独仏両軍は日露戦争の全消費量にあたる弾薬を消費、ヴェルダンの戦いでは両軍で2000万発以上、136万トンの砲弾を消費しています。
フランスは開戦1ヶ月で、ドイツは2ヶ月で備蓄砲弾の50%を使い果たし砲弾不足に陥り、参戦各国はこの様な事態に対応して、武器弾薬の増産体制を敷かなければなりませんでした。
又、前線で戦う何十万という兵士に物資を供給する為には道路や鉄道、水道の建設も必要で、ヴェルダンの戦いでフランス軍は道路を新設し4000台の自動車をフル回転させ前線に物資を供給したのです。 
総力戦においては、何らかの形で全産業、全国民が戦争遂行に協力する必要がありました。

◎国民生活の変化

 戦争は国民の生活も変えました。
男性の出征による労働力不足で女性が職場進出し、イギリス首相ロイド=ジョージは全女性に対して軍需工場で働く事を要請し、弾薬工場では労働者の60%を女性が占め、フランスでも軍需産業労働者の4割が女性でした。 
ドイツでは、イギリスの海上封鎖により物資の輸入が困難となり、食糧、綿花、銅、ニッケル、石油、ゴムなどが不足、戦時統制経済によって軍需生産を維持しましたが、食糧不足の為、1915年1月からパンの切符制が導入され、1916年末に労働力確保のため、政府が全成人男性に必要な労働を命じ転職を禁じる「愛国的労働奉仕法」が制定される等、国民生活への統制が強まりました。
ロシア、オーストリアでも国民生活は急激に悪化していったのです。

◎インド兵

 志願制のイギリス軍は、兵力不足を補う為、1916年から徴兵制を導入しただけでなく、植民地からも兵士を動員し、インド兵144万人を筆頭にカナダ兵82万、オーストラリア兵41万等がヨーロッパ戦線で銃を握り、中国人10万が物資輸送人夫として動員され、フランスもアルジェリア等海外領土から兵士を動員します。

◎トルコに対するアラブの反乱

 イギリスは、行き詰まっていた対トルコ戦を打開する為、メッカ太守であり、アラブの名門ハーシム家のフサインにオスマン帝国への反乱を要請し、1915年フサイン・マクマホン協定で大戦後のアラブ人国家樹立を約束しました。
翌年フサインの息子ファイサル率いるアラブ人部隊はヒジャーズ地方(アラビア半島西部)を制圧しました。
有名な「アラビアのローレンス」はイギリス軍から派遣された連絡将校です。
イングリッシュ美術・-アラビアのロレンス
アラビアのローレンス

 ところが、イギリスは1916年にフランスとサイクス・ピコ協定を結び、両国による戦後のアラブ地方分割を密約し、更に1917年には英米のユダヤ人財閥の支援を得る為、バルフォア宣言を発表し、アラブの一地域であるパレスティナ地方でのユダヤ人国家建設を約束しました。
アラブ人やユダヤ人を利用するために出されたイギリスの相矛盾する宣言は、ほぼ1世紀を経た現在に続く、パレスティナ問題の元凶と成ったのです。

続く・・・