2012/12/30

正月のお話③

<正月のお話③>年末は志向を変えて

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◎大晦日の由来

 大晦日は12月31日、一年の最後の日です。
大晦日の「大」は、一年の最後の月の最終日であることを意味しています。
又、大晦日の「みそか」は、本来「三十日」と書き、月の30番目の日という意、一方、晦日は「つごもり」と呼ばれていました。
つごもりとは、「月隠(つきこもり)」が訛ったもので、満月の15日から月はどんどん欠け、30日には「つき隠れ」すなわち「月隠」になります。
「三十日」は「月隠」であり、それが訛って「つごもり」になり、「つごもり」は「晦日」であるため、30日は晦日に成りました。

 簡単に説明すると、「大晦日」とは12月31日の事なのです。
大晦日の行事は非常に古くからある風習なのですが、何時頃から始まったのか、詳しい事は研究されておらず、仏教が伝わる6世紀より前から存在したとも云われています。
ただし、除夜の鐘は、仏教が浸透した江戸時代以降に行われるようになったとの事。

 昔、一年の最終日である大晦日、それは歳神様を祀る為の一連の準備の日で、当時は、日没が一日が終わりと考えられていた為、大晦日の夜が新年の開始に相当します。
その為、日中は一年間の罪や穢れを祓う為の大掃除を行い、その後正月の準備を整え、夕方から祝い膳を囲んで「年取り」を行い、心身を清めて神社に篭もり、一晩中起きて歳神様を迎えたのです。
現代では大晦日の意義も薄れてしまいましたが、今年はその由来を考え、気持ちを新たに、歳神様を迎え入れるための大晦日を過ごす事も良いのではないでしょうか?

平成24年の更新は、本日で終わります。
来年も宜しくお願い致します。

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2012/12/29

正月のお話②

<正月のお話②>年末は志向を変えて

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◎年越し蕎麦

 大晦日に年越しそばを食べるのは、日本全国に見られる風習で大晦日の風物詩の一つとも言えます。
でも、なぜ大晦日に蕎麦なのでしょう?
その理由には諸説あり、以下
・そばのように細く長く達者に暮らしたいという願いから
・そばは長いけれど簡単に切れることから、その年の苦労を大晦日で断ち切り、翌年に持ち越さないようにという願いから
・家族そろって食べることが多いことから、末長く、そばにいられるようにとの願いから
・雨や風で倒れても、太陽の光を浴びるとすぐに立ち直るそばの生命力にあやかるため
・年末は忙しすぎて、自分達で食事をこしらえる暇がなかったから,などなど。

 地域によっては、蕎麦ではなくうどんを食べる地方も有り、大晦日には細く長い食べ物を摂る風習が日本には存在する様です。
大晦日に年越し蕎麦を食べる人は多いと思いますが、「健康長寿」「家運長命」などを祈願して食べるようです。
年越し蕎麦の呼び方は、みそか蕎麦、大年蕎麦、つごもり蕎麦、大晦日蕎麦、年取り蕎麦、年切り蕎麦、縁切り蕎麦、寿命蕎麦、運蕎麦、福蕎麦、思案蕎麦など多々あります。
 
 では、この大晦日に年越し蕎麦を食べる風習、何時ごろから始まったのでしょうか?
諸説が在り、定説では江戸時代の中期頃、毎月の末日に蕎麦を食べる「三十日蕎麦(みそかそば)」と云う習慣があり、大晦日のみにその習慣が残ったのではないかとされています。
宝暦6年(1756)に刊行された書物の中に「大年蕎麦」の言葉があり、江戸時代中期には、大晦日に蕎麦を食べる事が習わしとなっていたようです。

続く・・・

2012/12/28

正月のお話①

<正月のお話①>年末は志向を変えて

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知恩院・除夜の鐘

◎除夜の鐘

 大晦日に除夜の鐘の音を聞くと、古い年が去って新しい年が来るのだと、感慨深い気持ちになります。
仏教行事に由来する除夜の鐘は、12月31日の深夜0時を境に寺院で行われます。
中国の宋の時代に始まったとされていますが、日本へは鎌倉時代に伝来し、江戸時代以降、盛んに行われる様になりました。

 一般に除夜の鐘は108回つく習わしですが、寺によっては参拝者につかせる処もあり、この場合、108回という数にはこだわらない様です。
大晦日の夜、厳かに響き渡る除夜の鐘を聴きながら、一年の反省と新しい年への決意をするのも良いものではないでしょうか。

 除夜の鐘は108回鳴らすとされています。
この108という数字は人間の煩悩の数で、108回鐘をつくことで煩悩を消し去る意味があり、その為に108回つくとされています。
一方、1年の12カ月と24節気、暦の季節的な分け方である72候をすべて合計した数であり1年間を表す数字だとか、四苦八苦を取り払う意味で、4×9+8×9=108などという説もあるようです。

 除夜の鐘をつく行事は、大晦日にお寺で行われる法会の一部で、宗派によっては除夜会(じょやえ)とも云い、除夜の鐘は、過ぎ去ってゆく一年を振り返って反省し、来たるべき年を迎える行事なのです。

続く・・・
2012/12/27

人類の軌跡その554:太平洋戦争開戦前夜の日本⑭

<開戦前夜⑤>

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◎アメリカ政府の意図②

 アメリカ戦略情報局は、フェルディナンド・メイヤーに日本大使館の状況を探る様指示し、彼は日本大使館の来栖大使を訪ねたのです。
メイヤーは驚きます。
確かにこの日は土曜日で在り、しかも日米開戦にとって重要な日で在る事は間違い在りません。
日本本国からの暗号電文が、続々と送られて、メイヤーは日本大使館がその対応に追われ、騒然となっていると思っていました。
しかし、日本大使館は驚くほど静かで、その時、日本大使館員は南米に赴任する職員の送別会の準備で、大使館を離れていたのです。

 その頃、アメリカ情報局は続々と送られてくる、日本本国からの暗号の解読に忙殺されていました。午後8時30分、米陸海軍省に解読分が届けられ、午後9時30、清書された翻訳文がホワイトハウスに到着します。
戦線布告になる筈の14部目の電文は翌7日未明、ワシントンに到着、午前5時頃迄に解読を完了し、ルーズベルト大統領がその文章に接したのは午前10時頃であったと云われています。

 ルーズベルトは軍情報部から送られた電文を前に「遂にその時がきた」と云います。
しかし、その後ルーズベルト大統領は思わぬ発言をしたのです。
「ハル国務長官、直ちに天皇に、親電を送るように手配してくれ」。
其れは、日本軍のよる真珠湾攻撃の僅か29時間前でしたが、ルーズベルト大統領は以前から、日本特命全権大使である来栖から次の様に依頼されていました。
「もし、大統領が天皇陛下に親電を送達して頂ければ、陛下は日本と中国の和平の仲立を大統領に依頼されるでしょう。大切な事は対話を続ける事であり、大統領の側近のハリー・ホプキンズ氏の様な特使を派遣してもらうのも良い方法だと思います。現在、対米開戦を避ける事が出来る人物は、アメリカ大統領と天皇陛下の御二人しか存在しません。御二人が決められた事は、誰にも妨害できません。御願いです、日米の平和の為に大統領閣下から天皇陛下に直接連絡を取ってもらえないでしょうか。」

 しかし、この来栖大使の頼みを、ルーズベルトは無視して来ました。
ルーズベルトはハル国務長官に親電を打電する事を依頼すると、その夜、ホワイトハウスの2階にいた妻のエレノア婦人に語りました。
「人の子である私は、ほんの少し前、神の子に最後のメッセージを送った」。

 午後9時(日本時間7日午前11時)ハル国務長官は大統領の親書を打電したのですが、グルー駐日大使が受け取ったのは11時間半も過ぎた、7日午後10時30分(日本時間)でした。
之には日本陸軍が、電文の配達を妨害したと云われています。

 結果、グルー大使が東郷外相に電文を手渡したのは、8日午前3時で在り、この時間は日本が宣戦布告文書をアメリカのハル国務長官に手渡す予定時間で在って、真珠湾に第一発目の爆弾が投下される僅か25分前だったのです。

 ルーズベルトの親書はあまりにも遅く、この為にルーズベルトが、後世に自分が最後迄戦争を回避しようと親書を送ったとの説も存在あいますが、暫定案を僅か半日で撤回、最後通牒とも言えるハルノートを日本に渡したルーズベルト大統領の性格と、妻であるエレノア婦人に語った言葉を考えると、ルーズベルト自身は、土壇場で日米開戦を避けようとしたのであると思われるのです。

 しかし、このルーズベルト大統領の神に対するメッセージは、終に神のもとには届かなかったのです。

開戦前夜、終わり・・・

2012/12/26

人類の軌跡その553:太平洋戦争開戦前夜の日本⑬


<開戦前夜④>

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ハルノート原文

◎アメリカ政府の意図

 現在、ハルノートでアメリカ政府が何を意図していたか明確では在りません。
ハル国務長官はハルノートを野村・来栖両大使に渡す際には、難色を示す両大使に「何ら力ある反駁を示さず」、「説明を加えず」、「ほとんど問答無用という雰囲気」であり、「投げやりな態度」であったと云います。

 更に両大使と会見したルーズベルト大統領は、態度は明朗であるにも関わらず、案を再考する余地はまったくないように思われたと云います。
ハルノートの提示は陸海軍の長官にも知らされておらず、スティムソン陸軍長官はハル国務長官に電話で問い合わせたときに、「事柄全体をうち切ってしまった、日本との交渉は今や貴下たち陸海軍の手中にある」と伝えられたと答えています。

 又ハルノートはアメリカ議会に対しても十分説明されていません。
ルーズベルト大統領は、暫定協定案でも日本が受諾する可能性はあまりないとイギリスに語っており、ハルノートが受諾される見込みはないと考えていたのでしょう。
しかし攻撃を受けた翌日開戦を決議する為の12月8日議会演説ではハルノートにより交渉を進めていたように演説をしているのです。

 スティムソン陸軍長官は、真珠湾攻撃10日前の日記に、ルーズベルト大統領との会見時の発言として「我々にあまり危険を及ぼさずに、如何にして彼ら(=日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか」と記録しています。

 以上を考察すれば、日米開戦はアメリカが巧妙に仕組んだ罠とも思えます。
日本が1937年に中国大陸を攻撃した早い段階で、東南アジアに植民地を持つ西洋列強と会合を持ち、日本の行動予測を行なっています。
西洋列強も日本が中国大陸で泥沼状態になれば、次は東南アジアを狙うと予測していたのですが、西洋諸国はヒトラーの台頭で、一切の余裕を欠き、アメリカに頼るしか他に道がなかったのです。
そこでルーズベルトは議会にはからず、独断で日本を戦争におびき寄せる計画を進めました。
当時のアメリカ議会は保守的で、ヨーロッパの危機にはほとんど無関心でした。

 12月4日、シカゴ・デーリー・トリビューン紙は一面トップで「ルーズベルトが戦争計画」と云う見出しで「500万人の米軍がドイツに向けて動員される。しかも、動員総数は145658人にのぼり、二つの海洋と三大陸にわたる全面戦争」と報じ、この報道にルーズベルトは激怒します。
ヨーロッパ戦線にアメリカが介入する事にアメリカ国民の世論は、反対一色で在り、又海軍も開戦に消極的でした。

 12月5日、ソ連軍反攻、モスクワ近郊のドイツ軍が撤退を開始、この事はルーズベルト大統領に日米開戦を確信させました。

 12月6日、東京の外務省からワシントンの大使館に長文の電文が続々と送られ、電文は13部に分けられ、最後の部分は別途届く手筈に成っていました。
もはや、誰の目にも日米開戦は不可避だったのです。

続く・・・
2012/12/25

人類の軌跡その552:太平洋戦争開戦前夜の日本⑫

<開戦前夜③>

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宋美齢(左)とフランクリン・ルーズベルト大統領(右)1943年2月22日撮影

◎日本政府の状況

 日本政府内では当初妥協派が優位でしたが、この条件を提示されたことで、軍部の中に強硬意見が主流になり、その影響で天皇も「開戦やむなし」と判断されたと云われています。
海軍を中心にアメリカとの戦争には勝てない、とする意見が根強く存在したのですが、ハルノートに書かれた条件を受け入れることが出来ない陸軍が、強引に押し切り開戦に踏み切ったとの評価が一般的です。
(但し、当時の日本の石油消費者の半分が海軍であり、残りの3分の2が陸軍、3分の1が民間であること、また日露戦争以来、対米戦だけを念頭に戦備を整えてきたのも海軍であることも事実です。更に開戦直前、石油の備蓄量は海軍が2年半分、陸軍と民間が僅か半年分の確保が成されているに過ぎませんでした。)

 尚、日本がアメリカに提示した交渉の為の乙案は以下の通りです。
1、日米は仏印以外の諸地域に武力進出を行わない。
2、日米は蘭印(オランダ領インドシナ)において石油や錫などの必要資源を得られるよう協力する。
3、アメリカは年間100万キロリットルの航空揮発油を対日供給する。

備考
A、交渉が成立すれば日本は南部仏印進駐の日本軍は北部仏印に移駐する。
B、日米は通商関係や三国同盟の解釈と履行に関する規定について話し合い、追加挿入する。

◎アメリカ政府の状況(ハルノートの提示経緯)

 アメリカ政府は日本の乙案に対し11月21日協議し対案を示す事としましたが、その原案はそれ以前に検討されており22日迄に更に協議され以下の様に修正されました。

『アメリカ政府の暫定協定案』

1、日本は南部仏印から撤兵し、かつ北部仏印の兵力を25000人以下とする。
2、日米両国の通商関係は資産凍結令(7月25日)以前の状態に戻す。
3、この協定は3ヶ月間有効とする。

 この案は3ヶ月間の引き延ばしを意味しており、当時軍部から要望されていた対日戦準備迄の交渉による引き延ばしに沿った案で在り、アメリカ政府はこの暫定協定案についてイギリス、中国、オランダにも連絡をしており、反対する多くの電報を受け取っています。
しかも25日迄はこの暫定協定案が検討されており、推定によれば26日早朝迄に、ハル国務長官とルーズベルト大統領の協議によりこの案は放棄され、26日午後ハルノートが手交されたと思われます。
なぜ急に暫定協定案を放棄しハルノートを提示したかは現在迄、明確では在りません。

 ハル国務長官は、個人の日記で25日に中国からの抗議により暫定協定案を放棄したような記述が存在しており、ルーズベルト大統領については26日午前、スティムソン長官からの日本軍艦艇が台湾沖を南下している情報に激怒し「日本側の背信の証拠なのだから、全事態を変えるものだ」と云えられています。

 一般的な推測では、25日午後乃至26日早朝、ルーズベルト大統領はスティムソン長官からの知らせを受け、日本は交渉を行いながらも軍の南下を行っていると受け取り、暫定協定案を放棄しハルノートを提示したと思われています。
この情報は日本軍の特別な移動を伝えるものでは在りませんが、それまでの過程でルーズベルト大統領、ハル国務長官は日本へ不信を高めており、感情的に譲歩の姿勢を放棄したと思われます。

 ハルノートの原案は、モーゲンソウ財務長官が18日にハル国務長官に示したものであり、それは更に彼の副官ハリー・ホワイトの作成によるものでした。
これは建設的な案として事前に閲覧、暫定協定案と平行して検討されており、暫定協定案が維持されていても同時にこの協議案が日本に提示されていた可能性は存在します。
ホワイト原案はハルノートにかなり近いと思われますが、中国については原案では明確に満州を除くという記述が存在していました。

続く・・・
2012/12/24

人類の軌跡その551:太平洋戦争開戦前夜の日本⑪

<開戦前夜②>

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単冠湾に終結する帝國海軍機動部隊・小川晴久(画)


◎ハルノート:アメリカ合衆国と日本国の間の協定で提案された基礎の概要(Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan、日米協定基礎概要案)

 太平洋戦争直前の日米交渉末期、ハル国務長官により1941年(昭和16年)11月20日の日本の野村吉三郎大使による打開案(乙案)に対する回答として提示され、同時に口頭で乙案を拒否しています。
ハルノートでは、アメリカが日本と大英帝国、中華民国、オランダ、ソ連、タイとの包括的な不可侵条約を提案する代わりに、日本が日露戦争以降に東アジアで築いた権益と領土、軍事同盟の全てを直ちに放棄することを求めています。

内様は以下の10項目から構成されています。

1.アメリカと日本は、大英帝国、中華民国、オランダ、ソ連、タイ間の包括的な不可侵条約を提案する。
2.フランス領インドシナからの日本の即時撤兵。
3.日本の中国及び印度支那から即時の撤兵、
4.日米が(日本が支援していた汪兆銘政権を否認して)アメリカの支援する中華民国以外の全ての政府を認めない 。
5.日本の中国大陸における海外租界と関連権益全ての放棄。
6.通商条約再締結のための交渉の開始。
7.アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除。
8.円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立。
9.第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄。
10.本協定内容の両国による推進。

中国(原文China)が、日本の傀儡国家とされる満州国を含むかには議論があり、アメリカ側は満州を除いた中国大陸を考えていたと言う説があるが、満州国は法律上、中国からの租借地であるという歴史があり、日本側も満州を含んだ中国大陸と考えていたと思われます。

◎日本の反応(攻撃までの経緯)

 東郷茂徳外相はハルノートに大変失望し外交による解決を断念しました。(以下東郷外相の言葉)
「自分は目も暗むばかりの失望に撃たれた」
「長年に渉る日本の犠牲を無視し極東における大国たる地位を捨てよと言うのである、然しこれは日本の自殺に等しい」
「この公文は日本に対して全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義、即ち日本に対する挑戦状を突きつけたと見て差し支えないようである。少なくともタイムリミットのない最後通牒と云うべきは当然である」

 当時、東郷外相は中国の暗号を解読することで、アメリカ側に於いて日本の乙案よりも緩やかな暫定協定案が検討されている事を知っていた可能性が指摘されています。
東郷外相の失望はそれ等を合わせものとも考えられ、日本政府は最後通牒であると受け取り、当時総理大臣であった東条英機も「これは最後通牒です」と述べています。

 この結果、12月1日御前会議で対英米との開戦が決議され、ハルノートが提示される前に択捉島の単冠湾を出航していた機動部隊に向けて、12月1日5時30分「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の攻撃命令が発せられたのでした。

続く・・・
2012/12/23

人類の軌跡その550:太平洋戦争開戦前夜の日本⑩

<開戦前夜①>

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野村、来栖両大使に挟まれたハル国務長官

◎ハルノート(Outline of proposed Basis for Agreement Between The United States and Japan)
 
 1941年11月26日、ハル国務長官は野村・来栖両駐米大使にハルノートを提示しました。
この書簡には、モーゲンソウ財務長官の経済案もルーズベルト大統領の暫定案も記されておらず、日本に対する一切の妥協は存在しませんでした。

 この案では日本は中国、フランス領インドシナからの完全撤兵、満州国の承認も無く、日本がこのような提案を承諾する等有り得ない事を、ハル国務長官は知っていたと思われます。
親日家として知られるハル国務長官が、一夜にしてこのハルノートを提出した背景には、ルーズベルトの強い要請乃至命令が存在したと思われます。

 野村大使は「暫定案は如何に」との質問に、ハル国務長官の返答は無く、野村・来栖両大使が部屋を出ると国務長官は陸軍長官スティムソン次の様に語ったと云います。
「私の仕事は終わった。後は君とノックス海軍長官の出番だ」。

 同日アメリカがハルノートを提示する直前の午前10時30分、マーシャル陸軍参謀総長は幹部の将軍たちを集めて「日米交渉が停止した時点で、日本軍がフィリピンを攻撃する可能性が強まる」ことに言及しました。

 しかし一方、マーシャル国務長官は大型爆撃機ボーイングB17を既にフィリピンに派遣していることから、「日本もフィリピン攻撃という危険は犯さないであろう」と楽観的な見通しを持っていたのです。
しかし、同時にフィリピンの軍備強化が完了するまでは、日本に対する挑発的な行動を出来るだけ控えるようにと、米極東軍司令官マッカーサーに伝え、以下の開戦準備警告を発したのです。
「戦争状態突入以前であっても、日本軍の輸送船が接近する等の状況下にあってはそれを攻撃し、撃沈する。将来の攻撃目標である台湾の日本軍基地に対する偵察飛行を早急に実施する。その際、空中戦も辞さない。海軍は太平洋艦隊の2隻の空母(レキシントン・エンタープライズ)を使って早急にウェーキ、ミッドウェー両島の戦闘機配備を完了し、フィリピンのB17爆撃機編隊を支援する。」

 この司令でアメリカ太平洋艦隊の空母は、ウェーキ島、ミッドウェー島に戦闘機を配備する為に真珠湾を離れます。
山本五十六が目指した真珠湾には、空母は1隻も停泊していませんでした。

 余談ですが、この当時アメリカ軍部は日本の暗号解読に成功しており、その解読器はパープルと呼ばれ、8台が完成していました。
ワシントンに4台、ロンドンに3台、そしてフィリピンに1台を配置していたのですが、太平洋戦争勃発時に、最も最前線で戦うべきアメリカ太平洋艦隊司令部のある、真珠湾には1台も配置が無かったのです。

 ハルノートは直ちに東京に打電されました。
ハルノートを読んだ東郷外相は「目も暗むばかりの失望に撃たれた」と書き残しています。
アメリカのグルー駐日大使は「ハルノートは最後通牒ではない」ことを強調し、日本は一縷の希望を抱いたのですが、グルー駐日大使は一夜にして暫定案を断念した、ルーズベルト大統領の意向を未だ知らされていなかったと思われます。

 11月27日、ハルノートが日本に手渡されると、イギリス諜報部員は本国に「対日交渉終了、2週間以内に戦争となるであろう」との打電を行いました。

 11月28日正午、ハル国務長官は「東京の駐日大使グルーに大使館と領事館閉鎖に伴う職員の引き揚げ準備を早急に検討してほしい。勿論この事は極秘で行わねばならない」との暗号電文を送付、この時グルー駐日大使は、明確にハルノートが日本に対する最後通牒と知ったのでした。

 12月1日、御前会議で対米蘭に対して開戦を決定し、もはや外交交渉での決着は完全に閉ざされたのです。

続く・・・
2012/12/21

人類の軌跡その549:太平洋戦争開戦前夜の日本⑨

<ゾルゲ事件④>

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◎一斉謙虚、情報団の終焉

 検察側の調査によれば、ゾルゲ情報団は、ソ連擁護の為にコミンテルンの手により日本国内に設置され、ソ連共産党中央委員会及び赤軍第四本営に直属して日本の政治、外交、軍事、経済等の機密を探知し、これをソ連共産党最高指導部すなわちソ連政府最高指導部に提報していた秘密諜報集団であり、その主要な任務は、日本の対ソ攻撃からのソ連の防衛乃至、日本の対ソ攻撃の阻止に役立つ諜報の探知蒐集でした。
その中には、1933年末ゾルゲの来日前にソ連首脳から与えられた一般的任務、35年ゾルゲが報告のため約20日間モスクワに滞在した際に上部から与えられた具体的任務、随時無電によって与えられた指令、及び対日諜報機関設置後、日本国内に発生した重要事件に基づいて本機関自ら課した任務が在りました。
収集した情報を無選択にモスクワに通報した訳ではなく、適確な資料を集め、総合分析判断した結果、一定の結論を出し、それに意見を付して報告していたのです。

 収集した主要情報は1934年7月から1941年10月迄、100項以上(約400件)におよび、これを無電又は伝書使による写真フィルムの手渡しによって行なっていたと云います。
無電による発信回数(及び語数)は1939年50回(約23、000語)、1940年60回(約29,000語)、1941年21回(約13,000語)に登りましたが、東京の各地から発信される是等暗号電報は、情報団が検挙に到る迄、日本の官憲はついに本体をつきとめることが出来ませんでした。

 日本に於ける活動期間は、1933年から1941年まで約8年にですが、情報団が強力な組織と成り、その機能を十分に発揮出来る様に成ったのは1936年の秋頃からと思われます。
組織のメンバーは総て、如何なる国の共産党員でもなく、又諜報活動以外、政治的性質を持った宣伝や組織機能に従事することを固く禁じられており、如何なる個人や団体にも一切の政治的な働きかけを行わない方針は忠実に守られました。

 只一つの例外は、近衛内閣の中で対ソ平和政策を選択させ様と努力した、尾崎秀実の積極的な行動でした。
検察側が事実に反して、ゾルゲ情報団の構成員をコミンテルン本部の指令に基づく諜略組織と決めつけたのは、赤軍やソ連を治安維持法の条文に云う処の結社とすることが不可能な為であったと云われています。

 関係者の検挙は1941年9月28日、警視庁特別高等警察第一課と同外事課の共同により、和歌山県下での北林トモ夫妻の検挙に端を発し(伊藤律による密告であったと云われているが、謀略の可能性が高い)、10月10日宮城与徳、10月13日秋山幸治と九津見房子、10月15日尾崎秀実、10月17日水野成、10月18日リヒャルト・ゾルゲとブランコ・ド・ヴーケリッチ、10月22日川合貞吉が検挙されています。
引き続き1942年4月28日迄に合計35名(うち外国人4名、女性は6名)が検挙投獄され、この中には、犬飼健、西園寺公一などの知名人士も含まれていたのです。

 この時、ゾルゲは、同盟国で在るドイツ駐日大使オイゲン・オットー(陸軍武官)の私設秘書を務め、尾崎秀実は、時の近衛文麿首相のブレーンの一人でした。 
(事件後、オットーは1942年にドイツ大使の地位を失い、北京に家族と共に移り住みました。)
内務省警保局によれば、このうち「諜報機関員」17名、「情を知らざる者」18名とされています。
ゾルゲの訊問調書によれば、彼の直接の協力者は尾崎秀実・宮城与徳・ブランコ・ド・ヴーケリッチ、一時期在籍したギュンター・シュタイン、無線技師としてマックス・クラウゼンだけであったと言います。
尚この事件に関連して、1942年6月、上海に於いて「中国共産党諜報団事件」として中西功、西里竜夫ら10名(うち中国人3名)が検挙されました。

ゾルゲ事件終わり・・・

2012/12/20

人類の軌跡その543:太平洋戦争開戦前夜の日本⑧

<ゾルゲ事件③>

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◎諜報活動

 1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻を契機に第2次世界大戦が勃発すると、ゾルゲはモスクワ発緊急指令として、独ソ戦に関する日本軍の動向を探る命令を下されます。
重大指令を粛然と受け止めたゾルゲと尾崎は、あらゆるルートを駆使して日本の対ソ戦回避を画策し、その成果として、ヒトラーのソ連侵攻や日本の南進政策決定を事前に捕捉してモスクワに打電していました。

 当時ナチス・ドイツは、電撃作戦を持ってイギリスを除く全ヨーロッパを支配下に収め、その矛先をソ連侵攻に向けていました。
初戦で、尽くソ連軍は撃破され独ソ戦はドイツの優勢のままに推移し、ソ連はウラル山脈西部のほとんどの地域を失い、首都モスクワさえ、占領の危機に陥っていました。
ドイツと日本は、イタリアを含めた三国同盟を結び、枢軸国として世界を席捲しつつ在る中、ソ連は、西側でドイツ、東側で日本との闘いに挟撃される結果となり、ソ連指導部は、対ドイツ・日本との二正面作戦を避け、対ドイツ戦に的を絞る必要が最重要課題でした。

 ゾルゲ情報団に対して、モスクワは「独ソ開戦で、ドイツの同盟国である日本は、如何に動くか?」改めて日本の対ソ参戦決意を探る旨の指令が届き、ゾルゲは、謀報団のメンバー全員に命令を発し、日本の最終意志決定の方向を全力をあげて探らせたのでした。
在京の各国大使館や海外から派遣された外国人のジャーナリストも、対ソ戦に引き込もうとするドイツの働きかけに対して、日本はどう反応するのか、必死の謀報活動を展開したのです。

 この戦略には、先にも少し触れましたが、当時の日本陸海軍内部の対立が大きく関係しており、太平洋戦争の方針を巡って陸軍は「北方進出論」、海軍は「南方進出論」を主張していたのですが、この問題が如何に決着するのか、如何なる手段、犠牲を払っても知り得たい情報で在ったことは確かです。
「北方進出論」とは、共産主義国ソ連との闘いを最優先せねばならないとする理論であり、「南方進出論」とは、資源小国の日本は多種多様な資源の供給路を確保するために南洋諸島へ進出すべしとする理論ですが、この問題に決断を下す為、政府は御前会議を数次開催し、最終的に南方進出を決定します。

 「日本は南方進出を最終決定。日本にソ連攻撃の意図なし」。
ゾルゲはこの情報を尾崎秀実から入手し、モスクワに向けて打電しました。
これこそ、モスクワの知りたい情報でした。
ウラル山脈に舞台を移した独ソ戦で、当時絶望的な戦いを強いられていたソ連はこの情報により、日本の侵略に備えて極東に配置していた精鋭部隊をウラル戦線に移動させることが可能と成り、やがて1942年、冬の訪れとともにソ連はウラル山脈の麓、スターリングラードでの激戦の末ドイツ軍を敗走させます。
これが転機となり、独ソ戦の戦局は一気にソ連に傾き、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの敗北を決定させた戦闘と成りました。

 スターリンのゾルゲ情報活用については、異説が存在しています。
「当面日本がソ連に進撃しないという報告」は、1941年6月22日に始まったドイツの侵攻作戦(ドイツ名・バルバロッサ作戦)への対抗策として、戦略上極めて常用度の高い情報でしたが、この報告に対してスターリン指導部はその真の価値を見出し得なかった、とも云われています。
スターリンは日本の南進を知り、シベリア狙撃兵軍団を東部戦線に送り、モスクワ前面でナチス・ドイツ軍を阻止したとされていますが、スターリンは実際には極東に大戦中40個師団を継続して配置していたとも云われており、この数は関東軍のいずれの時期をも上回っていたと云う指摘も存在し、其れが事実で在るならば、ゾルゲの情報は生かされなかったと云うことになり、その悲劇は計り知れないものが在ります。

 迎えた1941年9月、御前会議に於いて日本軍の南進策が決定し、任務を遂行し終えたゾルゲと尾崎は、ようやくその任務を解かれようとした矢先の10月、警視庁特別高等警察(特高)にゾルゲの組織は、国防保安法、治安維持法違反等の罪状で逮捕されます。
当に日米開戦前夜の為に「国民の士気に影響する」との理由で逮捕情報は秘匿され、数年経ってからようやく発表されるという秘密裏の事件でした。

続く・・・


2012/12/19

人類の軌跡その542:太平洋戦争開戦前夜の日本⑦

<ゾルゲ事件②>

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◎ゾルゲ情報団(コードネーム・ラムゼイ)と尾崎秀実

 1930年1月、リヒャルト・ゾルゲがドイツの社会学雑誌記者ジョンソンと名乗り、上海に現れます。この当時、中国のコミンテルン組織は1927年の蒋介石による上海クーデター及び武漢政府の弾圧により破壊されており、その再建の為の中国入国という背景が在り、彼の身分はコミンテルンから赤軍参謀本部第4局に移されていたのです。

 1933年2月11日、フランス共産党員ブランコ・ド・ヴーケリッチはコミンテルンの密命を受け、
フランスの写真雑誌ラ・ヴュウ及びユーゴスラビアの日刊紙ポリチイカの東京特派員という職名を持って横浜より入国。

 1933年5月、ゾルゲはモスクワからベルリンへ向かい、フランクフルター・ツァイトゥング紙の日本特派員の資格を取得し、ナチス党員と成りました。
アメリカに渡り、組織との連絡を取った上、カナダ・バンクーバー経由で日本に向い、1933年9月6日、フランクフルター・ツァイトゥング紙の東京特派員という名目で、横浜に上陸、東京麻布区永坂町30番地に住居を得て、日本に於ける諜報活動を開始したのです。

 1933年9月、尾崎秀実は日本に戻り、大阪朝日新聞社の外報部に入社。

 1933年10月初旬、アメリカ共産党員、画家の宮城与徳がロスアンゼルスから横浜に到着。
12月下旬、ヴーケリッチの仲立ちでゾルゲと宮城与徳が会談し、連絡体制を構築していきました。
 
 1934年2月11日、天津から大阪に戻った川合貞吉が、尾崎秀実と連絡を取り、至急組織の連絡体制の構築を要請。

 2月、ゾルゲと尾崎秀実が奈良の若草山で再会、本拠を日本に移したゾルゲと会談し、親密な関係を構築しました。

 ゾルゲ諜報団は、各国から送り込まれたコミンテルン・メンバーに加え、国際共産主義運動の実現に燃える日本人活動家達によって構成され、中でもゾルゲが絶大の信頼を寄せた人物、当時朝日新聞記者であった尾崎秀実は、近衛文麿首相の側近として日本政府の中枢まで潜り込み、決死の覚悟で次々と国家機密をゾルゲに通報して行きます。
その中には日独防共協定、第2次上海事変、ノモンハン事件、そして、最高国家機密である御前会議の内容迄が含まれていました。
ゾルゲは、こうした情報に独自の分析を加え、無線やソビエト大使館員を通じてモスクワのスターリンへ送り続け、やがて、日本の対ソ参戦回避と南方進出を暴露し、ソ連の軍事行動をより有利に導いて行く事になります。

 その後、尾崎は、転勤工作で東京朝日新聞本社詰記者となり、東亜問題研究会の新設で東京本社に呼ばれ、中国問題の評論家として頭角を現わして行きます。
1936年末に突発した西安事件の本質をいち早くとらえた事で有名と成りますが、尾崎は当時すでにすぐれたジャーナリストであり、中国問題の専門家として言論界の重鎮に成っていました。

 1937年4月、昭和研究会に参加、風見章の知遇を得、翌年7月、朝日新聞社を退社、第1次近衛内閣の嘱託となり、近衛内閣の有能なブレーンとして首相官邸内に部屋を持ち、秘書官室や書記官長室に自由に出入りし、政界上層部の動向に直接ふれる事のできる地位に在りました。

 1939年1月、尾崎は朝日を退社し、満鉄東京支社調査室へ勤務します。

 1940年7月、第2次近衛内閣の成立前後には、風見の依頼で国民再組織案を練る等、国策に参与する機会を得、36年以来本格化した諜報活動の中で、高度な情報と正確な情報分析を提供して、ゾルゲ情報団の日ソ間に於ける戦争回避とソ連防衛の為の活動を援助します。
中国社会の全体的・動態的把握を試みて、中国の民族解放運動=抗日民族統一戦線の意義を解明した尾崎は、日本自体の再編成を必要と考え、東亜共同体論提起しますが、その根本は帝国主義戦争の停止と日中ソ提携の実現であり、その前提として、戦争の不拡大が当面の目標とされたのです。

続く・・・
2012/12/18

人類の軌跡その541:太平洋戦争開戦前夜の日本⑥

<ゾルゲ事件>

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リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実

 ゾルゲ事件とは、世界初の共産革命で在ったロシア革命によるソビエト連邦の成立と、それに続くコミンテルン活動、「紅い正義」が信じられていた時代に、その活動に殉じて心身を捧げた革命家達による、第二次世界大戦前夜の「赤色諜報団事件」を云います。
その中心人物が、ドイツ・ナチス党員、そしてソビエト赤軍諜報部員のリヒャルト・ゾルゲで在り、その日本に於ける最高協力者が、近衛文麿内閣の有能なブレーンとして活動をしていた尾崎秀実でした。
この事件に関係したとして検挙された者は、時の政界、報道、芸術関係者の多く含み、総計34名とされています。

 ゾルゲ事件は「20世紀日本に於ける最大のスパイ事件」と形容され、研究者に拠れば、「太平洋戦争前夜の日本を揺るがせた国際スパイ事件であり、歴史上数多いスパイ事件の中でも、その影響力の大きさは比類無き事件で在り、世界の歴史を変えたスパイ事件であるとの評価は現在でも不動のものである」とされています。

 リヒャルト・ゾルゲは、1930年代より赤軍のスパイとして諜報活動を展開し、1933年9月、ドイツ、フランクフルター・ツァイトゥング紙の記者として来日、ナチス党員として駐日ドイツ大使館に出入りする傍ら、駐日大使オットー陸軍武官の私設情報担当となって活動し、日本の政治、外交、軍部の動向、軍事に関する情報の入手、その通報に尽力しました。 

◎情報戦

 当時ヨーロッパの情勢は、ナチス・ドイツがソ連へ侵略を開始し、独ソ戦に突入していました。
ドイツ軍は首都モスクワに迫りつつ在り、スターリン率いるソ連は、三国同盟を結び強固な関係にあった枢軸国ドイツと日本に、東西から挟み撃ちされる危機に陥っていたのです。
当時日本軍部内では、太平洋戦争の方針を巡って激論が続いており、陸軍は仮想敵勢力をソ連に据えて「北方守備論」を唱え、海軍は同じく仮想敵勢力をアメリカに据えて「南方進出論」を唱えており、その他戦略戦術を廻って決着が着かない状況でした。
この問題に決断を下す為、政府は御前会議を開催し、最終的に南方進出の道を選んだのですが、ゾルゲは、この情報を満鉄(南満州鉄道)調査部嘱託であり、時の近衛文麿首相のブレーンの一人であった尾崎秀実から入手したのです。

 尾崎からの情報を基に「日本は南方進出を最終決定。日本にソ連攻撃の意図なし」と打電したゾルゲの情報が如何に価値をもっていたでしょうか?
日本の南進政策決定を事前にキャッチして、モスクワに打電している事は、以後のソ連の行動に対し多大な功績が在ると思われるのですが、史実を精査すれば、この報告に対してスターリン指導部はその価値を見出し得なかったとも云われています。

 ソ連指導部の解釈が如何で在るにせよ、スターリンはゾルゲからの情報により、日本の侵略に備えて極東に配置していた精鋭部隊をヨーロッパ戦線に移動させる事に成功します。
ソ連は1942年、冬の訪れと共にスターリングラードでの激戦の末ドイツ軍を敗走させ、この戦闘が転機となり、独ソ戦の戦局は一気にソ連に有利に働き、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの敗北を決定づけたのでした。

続く・・・

2012/12/17

人類の軌跡その540:太平洋戦争開戦前夜の日本⑤

<太平洋戦争勃発の原因⑤>

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◎ゴー・ストップ事件(天六事件、進止事件)

 『大阪朝日』は事件を以下の様に伝えています。
「昭和八年六月十七日午前十一時ごろ、大阪市北区天神橋筋六丁目の新京阪電車前市電交差点で、赤信号であるにも関わらず歩兵第八連隊第六中隊所属の中村政一1等兵(24)が横断した。これを見ていた曽根崎交通巡査、戸田定夫(27)が注意したところ口論になった。二人は天六巡査派出所内で殴るけるのケンカに発展、中村一等兵は左鼓膜が破れる三週間の負傷、戸田巡査も下口唇に一週間の怪我を負った。」

 この事件の発端は、この様な些細な一等兵と巡査の喧嘩であり、赤信号を無視して道路を渡った兵隊に過失があったので、ここで中村一等兵が不注意を認めて謝っていたならば、ことは簡単に済み、よくある交通違反の一つとして処理された筈ですが、事件は意外な方向へと発展して行きます。

 中村一等兵は「何ら手出しをしないのに巡査に撲られた」と主張し、「停止信号に気づかず横断しかけたところ、はじめて赤信号に気づいた。線路手前で停止したが、ちょうど自動車が来たので、危険と思い線路を渡った時、戸田巡査が飛んできて後ろから首筋をつかまれた。『見っともないから離してくれ』と言うにも聞入れられず、交番へ連行しようとするので更に『行くから放せ』と言っても、どうしても放さないのでふり切った。ところが、同巡査は前から上着をひっつかんで派出所に連行、その際ボタンが全部はずれてしまったので、通行人が『兵隊に無茶するな』と言った事から、戸田巡査と口論になり、殴られた。その際、よけるために突き飛ばしたので、同巡査の第二ボタンが取れた」(『大阪朝日』六月十八日朝刊)軍と警察の言い分は180 度違っていました。

 戸田巡査の言い分は全く違っていた。「信号を無視する軍人がいるので注意したところ、注意を聞かず進行して行くものですから、天六の派出所へ同行を求め注意を与えようとすると、突然、私の顎を突き上げ二週間のケガをさせ、その上、第二ボタンを引きちぎったのです。たとえ、相手が軍人であろうと私の職分をつくしたことに間違いない」(同)警察側は「兵士が先に手を出した」と、確かに双方の言い分は180度食い違ったものでした。

 そして、22日、軍部はこの種の事件では例のない長文の声明書を発表します。
「中村一等兵は全く抵抗しておらず、仮に非行をしたにしても憲兵隊に通知して引渡せば足る」として「皇軍組成の一分子に対する警察官の不法暴行事件で皇軍感情に関する重大問題」と非難し、それまで、「一兵士一巡査の偶然的事故、警官が皇軍を侮辱したものではない」と黙視していた警察側も俄然緊迫。
「軍人と警官が殴り合いをしたのは実に遺憾だが、軍隊が帝国の軍隊なら、警官も帝国の警官で、その間断じて軽重はない。共に国家の重大任務を負担している点にいささかの軽重もあるべきでない」と真正面から受けて立ち、軍部を批判したのです。

 事件後1ヵ月、大阪憲兵隊が調停役を降り、中村一等兵は戸田巡査を名誉毀損、傷害等で告訴、警察側も負けず中村一等兵が交通違反をそれまでに七回も犯していたことを暴露、ドロ試合と成りました。
事件解決は長びき、第四師団対内務省の争いに発展、互いに意地とメンツから負けられない一戦と成り、荒木貞夫陸軍大臣も現地に乗り込み、全国在郷軍人会が応援、警察側も内務省警保局や各府警警察部がバックアップしました。
和田検事正はなんとか円満解決を目ざしたが、軍側が謝罪と戸田巡査の処罰を要求して強硬姿勢を崩さず事件は完全に暗礁に乗り上げたのです。
ところが、約5ヵ月後の11月18日、和田検事正の調停、白根兵庫県知事の斡旋で急転直下、和解にこぎ着けました。

 その裏事情とは、10月中旬から福井県下で陸軍特別大演習があり、天皇が荒木陸軍大臣へ「大阪でゴー・ストップ事件というものがあったが、どうなったのか」と御下問が在り、大あわての荒木陸軍大臣は内務省と急きょ、話し合うように指示したのです。
天皇のツルの一声で解決に向かったのですが、斡旋内容は互いに双方を訪ねて挨拶を交わすというものでしたが、解決の共同声明を見ると、警察が軍部に屈伏した事は明らかでした。

 結果として、軍部はこの事件で皇軍の名誉、威信をタテに横車を押し、国内の秩序、警察権を踏みにじり、軍部にかろうじて対抗できた権力集団の警察は屈服し、無法が国民注視の中でまかり通り、以後、警察側は軍人に関する事故はすべて監察官に報告し憲兵隊に処理をまかせる消極的姿勢と成って行きました。

続く・・・

2012/12/15

人類の軌跡その539:太平洋戦争開戦前夜の日本④

<太平洋戦争勃発の原因④>

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◎軍部大臣現役武官制

 軍部の大臣(陸・海軍大臣)は現役の武官(軍人)でなければならない事を定めた制度。
1900年(明治33年)の第二次山縣有朋内閣において、当時力を付けて来た議会勢力の軍事費削減攻勢を恐れ、また議会(政党)を嫌悪する山縣によって、軍部大臣とも大臣は「現役」陸軍(海軍)大中将に限るとする陸海軍省官制勅令(法律では無く、かつ勅令であり、陸海軍省官制の定員表の備考に記されたのみであった)が公布されました。
この時に大臣、次官とも現役中少将に制限され、この時点で軍部大臣現役武官制の基礎が出来たと思われます。

 この制度が設けられた理由は、現役でなければ現在の軍部の動向に通じておらず、職務が全うできないと云う事が表面上の理由でしたが、実際には、この様な規定をつくれば、陸軍や海軍が「大臣を出さない」と言ったら最後、内閣を組閣出来ない事となるのです。

 こうして、政党政治家が、軍に影響力を持たない様に仕向けた制度で、軍部大臣になりたいと思っている軍人にとっても、人事権を握っている陸海軍省を無視することが出来ませんでした。
すなわち、「予備役に入る事」と言われれば軍部大臣に就任できず、後年の話に、陸軍予備役大将宇垣一成が内閣組閣の大命降下を受けたものの、陸軍省から陸軍大臣の推薦を拒否され、電話でかつての部下、小磯国昭朝鮮軍司令官に陸軍大臣就任の依頼をしたものの、陸軍軍部の推薦が無いなら、仮に自分が受けたとしても、朝鮮海峡を渡っている間に、電報一本で予備役に編入され駄目になると答え、結局宇垣内閣は成立しなかった(「宇垣内閣流産」と言われた)一件は好例です。

 この軍部にとっての「伝家の宝刀」は後に1912(大正元)年、西園寺内閣のとき、本当に切られる事に成りました。
第二次西園寺公望内閣の上原勇作陸軍大臣の2個師団増設問題に於いて、極度に悪化した国家財政建て直しを理由に西園寺首相が上原大臣の要求を渋った結果、上原大臣が単独で天皇に辞表を提出し陸軍大臣職を辞し、陸軍はこの軍部大臣現役武官制を利用(悪用)して後任の大臣を出さず(「陸軍のストライキ」と言われた)、第二次西園寺内閣を瓦解に追い込みました。
この事件以降、流石に「そんなやり方はひどい」と思った人たちは多く、各界から護憲運動がおこり、軍部大臣現役武官制が日本の政治において問題とされる様に成ります。

 その後、1913年(大正2年)第一次山本権兵衛内閣は、山本首相と木越安綱陸軍大臣の英断で、軍部の強い総反発を押し切って(自ら軍を追われる事を承知の上で)「現役」の2文字が外されました。
しかし、実際の運用面では予備役・後備役・退役将官等から軍部大臣に就任した例はなく、一旦現役に復帰してから大臣に就任しており、この規定により任用資格が予備役・後備役・退役将官まで選択肢が広がり、以後組閣時の苦労が激減したのも事実です。
ちなみに英断を下した木越安綱陸軍大臣はその後、軍部の恨みを買って、いうまでもなく昇進の道を失い、まもなく休職し、予備役に成りました。

 しかし、1936(昭和11)年広田弘毅内閣は、寺内寿一陸軍大臣の提案で、23年ぶりに「現役」の2文字が復活。口実として二・二六事件に関与したと思われた皇道派の首領、真崎甚三郎(当時予備役に編入)が軍部大臣に就任を阻止する為とされています。

 内閣は、明治憲法の第55条や第11条等により、元来、軍政コントロールの権限を有していませんでしたが、軍部大臣現役武官制度の定着によって、内閣による文民統制は完全に止めを刺され、喪失しました。
つまり、現役の中大将でもある軍部大臣がノーといえば内閣一体の原則があるので、閣議決定は成立せず、内閣は崩壊してしまいます。
これによって、軍部大臣にだけ拒否権がある、軍部大臣が事実上の首相であるような結果を招き、実際その後、宇垣一成の組閣流産や米内光政内閣の瓦解等、軍部による組閣介入が本格化し、日本の軍国主義の深刻化に拍車をかけることに成ります。

続く・・・

2012/12/14

人類の軌跡その538:太平洋戦争開戦前夜の日本③

<太平洋戦争勃発の原因③>

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※五・一五事件

海軍青年将校が起こしたクーデター未遂事件。
首相官邸、内務大臣官邸、立憲政友会などが襲撃され、犬養毅首相を射殺。
「話せばわかる」と言った犬養首相に対し、青年将校は「問答無用」として射殺し、これによって、犬養毅内閣は崩壊、政党内閣は終焉しました。


※二・二六事件

 皇道派の陸軍青年将校が起こした戦前最大のクーデター事件。
約1400名を率いた反乱軍は、首相官邸、大臣官邸、警視庁などを襲撃し、永田町一帯を制圧して政府の閣僚や要人たちが次々に殺害しました。

 この事件の際、高橋是清大蔵大臣、首相経験者の斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、首相秘書官松尾傳蔵が殺害され、岡田啓介首相も襲撃されたが、首相官邸に襲撃した青年将校が他人を間違えて射殺して引き返したため、奇跡的に無事でした。
その他、牧野伸顕内大臣、鈴木貫太郎侍従長も襲われましたが、助かっています。

 クーデターの首謀者たちは、川島義之陸軍大臣に対し、政府の改革断行と統制派の排除を迫り、川島陸相は、彼らの行動に理解を示す陸軍大臣告示を発し、政府改革を約したが、この弱腰の行動に激怒した昭和天皇は、「あの青年将校らは、私の大切な重臣を殺した凶悪なものたちで反乱軍ではないか」と言い、「もしだれも鎮圧する気がないなら私自ら近衛兵を率いて鎮圧する」と断固たる姿勢を示しました。
この言葉によって、政府も弱腰的態度を改め、反乱軍鎮圧に向かいます。

 陸軍部内では同士討ちを避けたる目的で、ラジオ放送やアドバルーン、ビラなどをまいて、反乱軍に投稿を呼びかけました。
「兵士達に告ぐ、今からでも遅くない、原隊へ帰れ。抵抗するものは賊軍と見なす。お前たちの両親は悲しんでいるぞ」というラジオ放送は有名です。

 結果的に、2.26事件は4日後に鎮圧され、首謀者の青年将校や彼らの行動に影響を与えた思想家北一輝が非公開の軍事裁判で銃殺刑と成りました。
この事件の影響は非常に大きく、岡田内閣が責任をとって総辞職、広田弘毅内閣が成立するものの、組閣に当たり軍部が圧力を加え、親軍派を多く閣僚として送り込むことに成功し、更に陸海軍大臣を現役の大将、中将に限るという陸海軍大臣現役武官制を復活させ、陸海軍が人材を派遣しなければ内閣が組閣できない事となり、軍部の影響力が一気に強大化して行きました。

続く・・・

 又、軍部内でも、皇道派関係者が大量に処分され、以後統制派が実権を握って行きます。
2012/12/13

人類の軌跡その537:太平洋戦争開戦前夜の日本②

<太平洋戦争勃発の原因②>

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◎統帥権②

 しかし問題は、1930(昭和5年)年4月下旬に始まった第58帝国議会(特別議会)で発生しました。
この年2月の総選挙で大敗した野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎が衆議院で、「軍令部の意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」との攻撃を、外交・軍事両面にわたり穏健政策を進めた民政党濱口雄幸内閣に対して行い、続いて枢密院議長倉富勇三郎もこれに同調する動きを見せたのです。

 それまで常備兵額を定めるのは「統帥権」ではなく「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム(第12条)」と規定されていた「編成大権」の管轄事項であり、予算が重要に絡む事項である為、予算編成権を有していた内閣(海軍省)定め、それを統帥部が承認して決定されており、誰も是等の行為を統帥権の干犯だとは思っていませんでした。

 政友会の目的は、海軍の強硬派と連携して統帥権干犯を口実にした倒閣に在ったのですが、やがてこうした反対論は同条約に不満を持つ軍令部の反対派や右翼団体を大いに刺激し、政友会に呼応して加藤軍令部長が6月、統帥権干犯を批判し天皇に辞表を提出したものの、条約自体は、7月末から批准の為枢密院での審査に入り、世論の支持と元老及び内大臣の了解を背景とした、濱口首相らの断固とした態度から帝国議会と枢密院を押し切って(枢密院本会議を通過は10月1日)、10月2日天皇の裁可を受け批准の運びと成ります。

 その後、1930年11月14日、濱口雄幸首相は右翼団体員に東京駅で狙撃されて重傷を負い(翌年8月26日死亡)、濱口内閣も1931年(昭和6年)4月13日総辞職、軍部の力を借りて濱口雄幸内閣倒閣に成功し、後継総理となった政友党総裁の犬養毅は軍縮を推進しようとした為、後に1932年5月15日に起こった五・一五事件によって皮肉にも決起した青年将校によって暗殺されます。
この五・一五事件によって、以後政党内閣は成立せず、加藤高明内閣以来続いた政党政治が終焉を迎える事と成り、犬養と共に統帥権干犯として濱口内閣を攻撃した鳩山一郎は、戦時中には軍の圧力により逼塞状態におかれ、戦後に総理就任を目前にしてGHQから、この事を追及されて、軍部の台頭に協力した軍国主義者として公職追放となる皮肉な歴史を辿る事と成りました。

 なお、海軍内部ではこの過程において条約に賛成する「条約派」とこれに反対する「艦隊派」の対立構造が生まれたのですが、後に「大角人事」による条約派幹部提督の一掃によって艦隊派の勝利に終わっています。
この後、「統帥権の独立」の名の下に下記の事件に象徴されるような軍部の暴走がはじまり、日本は戦争の道へと突き進んでいく事に成ります。

 満州事変(1931年(昭和6年)9月18日)
 五・一五事件(1932年(昭和7年)5月15日)
 ゴー・ストップ事件(1933年(昭和8年)6月17日)
 二.二六事件(1936年(昭和11年)2月26日)

※満州事変

 1931年9月18日夜、板垣大佐、石原中佐ら関東軍幕僚達は、中国軍(張学良軍)側の仕業に見せかけて、自らの手で日本の権益である南満州鉄道を奉天(現在の瀋陽)北郊の柳条湖付近で爆破し(柳条湖事件)、これを口実に、日本軍は奉天・北大営にある中国軍に対して攻撃を開始しました。
当時日本の新聞は真相を知らぬまま、関東軍の情報によって、中国側の仕業として広く報道したのです。

 事変とは国際法の交戦国条項を免れる為の言葉で、宣戦なき事実上の戦争で、政府は当初、事態不拡大の方針を決定していたにも関わらず、閣内の不一致と、関東軍の要請に応じた朝鮮軍が越境するなど事態が拡大するとこれを事実上認めてしまいます。
事変が起きた時、総会を開会中の国際連盟に対し中国は提訴し、連盟は日中双方に撤収交渉を求める決議を採択したのですが、関東軍は錦州爆撃に始まる戦線を拡大、翌年2月までに中国北東部三省の主要都市や鉄道沿線を占領する既成事実をつくり上げ、更に関東軍は1932年7月から1933年3月熱河省も占領、国民政府もついには既成事実を黙認する事となります。

 1932年3月1日には関東軍は清国最後の皇帝宣統帝溥儀を執政の座に据え、「満州国」を樹立、支配下に起きますが、国際連盟が派遣したリットン伯爵を団長とする調査団が日本の主張を否認する報告書を採択すると、日本は連盟を脱退し、日本は国際的孤立化を深めて行く事と成りました。

 戦闘自体は1933年5月の停戦協定によって終結しましたが、「満州事変」はこの後1937年7月の盧構橋事件を発端とする日中全面戦争と続き、1941年から始まるの太平洋戦争への序盤でした。

続く・・・
2012/12/12

人類の軌跡その536:太平洋戦争開戦前夜の日本①

<太平洋戦争勃発の原因①>

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帝國海軍戦艦長門

 太平洋戦争が勃発した原因の一つとして、「軍部の暴走」がまずあげられますが、この軍部の暴走の基と成ったものが「統帥権」の扱いと「軍部大臣現役武官制」でした。

◎統帥権

 統帥権とは、軍隊の最高指揮権の事であり、戦前は天皇大権の一つとされ、大日本帝国憲法(明治憲法)では下記のとおり規定されていました。

第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム

 内容的には陸海軍の組織と編制等の制度、及び勤務規則の設定、人事と職務の決定、出兵と撤兵の命令、戦略の決定、軍事作戦の立案や指揮命令等の権限でした。
1878(明治11)年の参謀本部独立に伴い、軍政(人事、予算などの軍に関する行政事務)と軍令(作戦立案に関する統帥事務)は分離され、天皇は軍令について、陸軍参謀総長及び海軍軍令部長の輔弼(天皇の権能行使に対し、助言を与えること)、軍政については陸軍大臣及び海軍大臣の補弼を受け陸海軍を統帥しました。

 明治期より第一次世界大戦時迄は、元勲・藩閥が政治・軍事両面を掌握していた為、後世に統帥権独立をめぐって発生する様な問題が顕在化する事は在りませんでした

 それが明白に成った事例が、ロンドン海軍軍縮条約に関しての統帥権干犯問題でした。

 第一次世界大戦後、戦場となったヨーロッパでは経済的、人的損害が甚大であった為、国民からの厭戦気分が高まり、更に1929年に起こった世界大恐慌による経済的大打撃によって国家財政は逼迫し、軍隊の縮小、すなわち軍縮の気運がいっそう高まり、この中で調印されたのが、ロンドン海軍軍縮条約をはじめとする軍縮条約でした。

 交渉は、日米の対立もあり難航しましたが、アメリカの妥協案によって、
1、主力艦(戦艦クラス)についてはワシントン条約による建造休止期限を1931年末から1936年末に延長。
2、補助艦(巡洋艦以下クラス)については補助艦総括で日本は対米69.75%、大型巡洋艦で60%とするが、アメリカは3隻の起工を遅らせて、1936年迄の条約期間中は7割とする。
3、潜水艦は3国とも52,700トンとする
等の妥協案が成立しました。

 交渉に先立って日本では補助艦総括対米70%、大型巡洋艦対米70%、潜水艦自主的保有量78,000トンが必要であるとする海軍と、財政緊縮と国際協調の立場から軍縮を主張する濱口内閣が対立しており、妥協案についても加藤寛治軍令部長らの猛烈な反対が在りました。
しかし、岡田啓介軍事参議官らの努力もあって妥協が成立、4月22日に条約は調印されたのです。

 因みに、海軍側の要求は補助艦艇対米70%、条約では対米69.75%と、0.025%少ないだけで在り、トン数に換算すれば6,000トン程度でした。 
又、当時の日米の国力差を考えると対米70%弱という条件は格段に高いもので、実情は日本にかなり有利な内容で有ったと思われます。

続く・・・


2012/12/11

人類の軌跡その535:日中戦争②

<日中戦争②>

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◎南京政府

 蒋介石と並ぶ国民党の指導者汪兆銘(おうちょうめい)が、1938年12月、日本の呼びかけに答えて重慶を脱出しました。
汪は、一時は孫文の後継者と目された政治家で、軍隊を掌握した蒋介石に国民党の主導権を奪われましたが、国民には大きな影響力を持っていました。
日本は汪兆銘に親日的な国民政府を組織させて、その政府と和平交渉を行おうとしたのです。
 
 しかし、重慶を出た汪兆銘は国民から見放され、40年、汪を主席として南京国民政府が樹立されましたが、国民に対する影響力はなく、日本の目論見は見事に失敗しました。

◎ノモンハン事件

 日中戦争の行き詰まりを、更なる戦線拡大によって打開しようとする軍部内部には、ソ連との戦いを主張する北進論と、インドシナ方面への進出を主張する南進論が存在していました。
1938年7月、朝鮮・満州・ソ連の国境で起きた張鼓峰事件と1939年5月、モンゴル・満州国境で起きたノモンハン事件は、北進論の立場から行われたソ連軍との軍事衝突です。
共に日本軍が敗北しましたが、特に、ノモンハン事件では戦車と航空機によるソ連の機械化部隊に日本軍は死者1万人を超す壊滅的打撃を受け、更にノモンハンで戦闘が続く最中の39年8月に、独ソ不可侵条約が締結された事は日本に大きな衝撃を与えました。
日本の対ソ軍事行動は、日独伊防共協定を結んでいるドイツがヨーロッパ方面でソ連を牽制する事を前提にしており、9月にドイツがポーランドに侵攻し第二次大戦がはじまった後、ようやく日ソ間でノモンハン事件の休戦協定が結ばれました。

 この後、第二次大戦のヨーロッパ戦線の推移と連動して、日本は南進策を選択して行きます。

※「事変」と「戦争」の違い

 現在、「日中戦争」と呼ばれる戦いは、勃発当初「支那事変」や「日支事変」等と呼ばれていました。
この「戦争」と「事変」の違い、「事変」とはいったい何であるのかについて調べてみました。

 「事変」とは、広範の非常事態や騒乱の事を指し、「事件」よりも規模が大きい騒乱を意味し、「宣戦布告なしの戦争状態」に用いられます。
 宣戦布告の有無で「事変」、「戦争」呼称が決まるのですが、では上記の日本と中国との騒乱を「事変」と云う名称を用いたのは、日本・中国双方の思惑が存在しからに他なりません。

 日本の場合、国際連盟規約やパリ不戦条約により、国際紛争の解決手段に戦争を遂行する事は。禁じられていたので、「戦争ではない」として国際的な批判を回避したいと云う日本政府の思惑が存在していました。

 一方の当事国である、中国の場合、「戦争」とすれば、戦時国際法によって、交戦国以外の第三国(中立国)が交戦国に援助することが禁止される為(中立義務)、当時中立国であるアメリカからの援助に、大きく依存していた中国にとって、著しい不利と成る為でした(日本も、原油をアメリカに大きく依存していた為、同様な事が言えます)。

 因みに、「戦争」と名称変更に成ったのは、日米開戦によって中立義務の存在を考慮する、必要が無く成った為でした。

(参考)
今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時間ニ付テ閣議決定(昭和十六年十二月十二日)

一、今次ノ対英米戦争及ビ今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ、支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス
二、給与、刑法ノ適用等に関スル平時戦時ノ分界時期ハ、昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス[以下省略]

 此処に云う『支那事変をも含め』とした表現は、1937年7月7日に勃発した〈支那事変〉迄、遡って含めるのではなく、1941年12月8日以後、中国地域での戦争を含めるという意味であり、関係法律としては、昭和十七年二月十七日、法律第九号で、 「勅令ヲ以テ別段ノ定ヲ為シタル場合ヲ除クノ外、各法律中支那事変ヲ『大東亜戦争』ニ改ム」と定められ、一般にも「大東亜戦争」の呼称が定着しました。

続く・・・
2012/12/10

人類の軌跡その534:日中戦争①

<日中戦争①>

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 廬溝橋事件をきっかけに、日本は中国侵略を本格化し日中戦争が勃発、中国では第二次国共合作が成立し、国民政府は重慶へ移って抗戦を継続し、戦争は長期化して行きます。

◎日中戦争の始まり

 1937年7月7日、北京郊外の廬溝橋で日本の支那駐屯軍と中国軍との間で戦闘が始まりました(廬溝橋事件)。
演習中の日本軍に対して中国軍が発砲した事が発端とされていますが、日中双方の言い分は食い違い真相ははっきりとせず、11日には、現地の日本軍と中国軍の間で、停戦協定が結ばれたにもかかわらず、近衛内閣は三個師団の派兵を決定し、これを機会に中国への武力侵略を本格化する姿勢を示しました。
7月末には華北で日本軍の総攻撃が開始され、北京、天津など主要都市を占領、8月には上海に2個師団が派遣されて華中でも戦闘が始まりました。

 こうしてはじまった日中戦争ですが、当時の日本では「支那事変」と呼び、戦争という言葉を使わず、中国に対して宣戦布告を行いませんでした。
之は中国を対等の交戦国と考えず見下していた事と、戦争行為を認める事で、交戦国への輸出制限を定めていた合衆国から、戦略物資の輸入が途絶えるのを恐れた為でした。

◎第二次国共合作

 それまで日本の侵略に対して妥協的態度をとっていた蒋介石ですが、日本軍の総攻撃が開始された、37年7月に徹底抗戦を表明し、9月には終に第二次国共合作が成立し、中国共産党の労農紅軍は国民政府の第八路軍と共に新編四軍として編成され、国民政府軍として日本軍と戦う事になりました。

◎南京占領

 日本軍は11月に上海を占領し、ついで国民政府の首都南京に進撃、12月中旬に南京を占領しましたが、その際に、捕虜、投降兵、一般市民を虐殺し国際的非難を浴びました(南京大虐殺)。
犠牲者の数は4万人から30万人まで諸説ありますが、日本軍が国際法を無視して非戦闘員を大量虐殺した事実は否定できません。

 近衛内閣は、南京の占領で国民政府を降伏に持ち込めると考えていましたが、国民政府が首都を四川省の重慶に移し抗日戦を継続した為、戦争終結への方向性を見失い、38年1月に「国民政府を対手(あいて)とせず」との声明を発表し、講和への道を自ら断ってしまいます。
 
 日本軍はその後華北と華南の占領地をつなぎ、又重慶への補給路を断つ為に、38年10月、広州、武漢を占領しましたが、重慶の国民政府は中央アジアやビルマ経由で米・英・ソ連の物資援助を受け、抗日戦の指導を継続したのです。
華北を中心に広大な地域を占領した日本軍ですが、確実に確保していたのは主要都市と鉄道だけで、農村地域では中国共産党の抗日根拠地が建設されて、八路軍の遊撃戦に日本軍は悩まされ、戦争は泥沼化しました。

続く・・・

2012/12/08

人類の軌跡その533:満州事変②

<満州事変と中国国民政府②>

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朱徳が率いる南昌武装蜂起で残存した部隊が井岡山に移動し毛沢東と合流。
中国共産党の「農村から都市を包囲する」戦略転換において重要な一歩となった。


◎国内の「敵」

 蒋介石率いる国民政府は、日本の侵略に対して国際連盟をつうじた抗議は行ったものの、基本的には無抵抗政策を取り、この為、柳条湖事件勃発時、北京に滞在していた東北軍司令官の張学良は、東北軍11万を錦州に集結しましたが、日本軍が迫ると抗戦することなく錦州を退き、その後も反撃することはありませんでした。

 蒋介石は、国内を安定させてから外敵を退ける「安内攘外」策をとり、東北地方は切り捨てたのでした。
蒋介石が総力を挙げて戦っていたのは中国共産党でした。
中国共産党は、国共分裂で国民政府を追われて以降、農村で農地解放を進めながら根拠地建設を行い、1930年には15の根拠地と紅軍(中国共産党の革命軍)兵力6万を擁し、三百余県を支配する迄にその勢力を拡大していたのです。
31年11月には毛沢東を主席として、江西省南部の瑞金を首都に中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立し、満州事変前後の時期に、国民政府は40万を越える戦力を投入して共産党根拠地を攻撃しており、蒋介石は「われわれの敵は倭寇(日本)ではなく、匪賊(共産党)である」と公言していました。

◎中国共産党労農紅軍の長征

 数次にわたる国民政府軍の攻撃を撃退した労農紅軍ですが、1933年、蒋介石が自ら指揮して100万の兵力と飛行機200機を投入し、経済封鎖も交えた包囲戦が開始されると、根拠地を維持できず、34年、10万の軍は瑞金を脱出し、以後、国民政府軍の攻撃を逃れながら1万2500キロの道のりを踏破し3万の兵力に減少しながらも、36年に陜西省延安に到着して、ここに新たな根拠地建設を開始しました。
この過程を長征と呼びます。

◎八・一宣言と抗日意識

 長征途上の35年8月1日、中国共産党は八・一宣言を発表し、内戦の停止と民族統一戦線の結成による救国抗日を訴えましたが、之はコミンテルンの呼びかけた反ファシズム統一戦線にそったものです。

 満州国建国後も日本による侵略は継続され、1935年には河北省東部に日本の傀儡政権である冀東防共自治政府が成立しました。
この「自治政府」は、沿岸でおこなわれていた日本の密貿易を低関税で公認し、又その支配地域を通過して満州国で生産されたアヘンが中国各地に流れた為、北京の学生は反日デモを行い、救国抗日感情が高まって行きます。

◎西安事件

 蒋介石は抗日戦を求める中国国民の期待に応える事なく、36年、張学良を中共討伐戦司令に任命し延安の共産党討伐を命じました。
しかし故郷を日本軍に奪われた張学良とその指揮下の東北軍は、共産党の抗日救国の訴えに動かされ、対共産党戦に消極的でした。
36年12月、蒋介石が督戦の為張学良の司令部のあった西安に赴くと、張学良は蒋介石を監禁し抗日戦を迫りました(西安事件)。

 中国共産党の周恩来も延安から西安に入り蒋介石の説得を行い(二人は黄埔軍官学校の同僚でした)、抗日戦に同意した蒋介石は、監禁を解かれ南京に戻りました。
この後、中国共産党に対する攻撃は中止され、翌37年、日本の中国侵略が本格化すると、ついに第二次国共合作が成立し国民政府=中国国民党と中国共産党はともに日本と戦う事に成ります。

※その後の張学良は

 西安事件後、蒋介石に従って南京に戻った張学良は罪に問われ軟禁されました。
1949年に国民政府が台湾に移った後も、台湾で軟禁は継続され、解放されたのは1991年でした。
2001年ハワイで101歳の大往生を遂げましたが、晩年の張学良は、関係者がすべて死去していたにもかかわらず、西安事件で周恩来が蒋介石を説得した具体的な内容については、決して話そうとしませんでした。

続く・・・
2012/12/07

人類の軌跡その532:満州事変①

<満州事変と中国国民政府>

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 日本が満州事変で中国侵略を本格化した後も、中国国民政府は中国共産党討伐を優先し、抗日戦を回避していました。
1936年の西安事件を経て、蒋介石はようやく抗日を決意したのです。

◎世界恐慌と日本

 日本では、1923年の関東大震災による震災恐慌、27年の金融恐慌と経済危機が続き、更に訪れた世界恐慌は1930年の金輸出解禁による不況と重なり、昭和恐慌と呼ばれる深刻な事態となりました。財閥は恐慌を利用して多くの産業分野で支配権を強め、政党はこれらの財閥と結びつき国民の信頼を失って行きます。

一方で、中国侵略によって現状打破をめざす軍部が台頭し、1932年の五・一五事件、36年の二・二六事件など右翼や軍人によるテロやクーデタが続く中で、政党内閣は崩壊し、軍国主義化が加速して行ったのです。

◎軍部と傀儡国家満州国

 1931年9月18日、関東軍は奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)、この事件を中国軍の犯行として、中国東北地方で中国軍と戦闘に突入します(満州事変)。
関東軍の一部軍人による独断で始められた戦争で、立憲民政党若槻内閣は不拡大方針を表明しましたが、関東軍はこれを無視して軍事行動を続けた為、内閣は総辞職し、代わった立憲政友会犬養内閣は、関東軍が東北地方を占領してしまった事実を追認するしかありませんでした。

 32年3月、日本は侵略行為を糊塗する為、東北地方を日本の領土とはせず、清朝最後の皇帝溥儀を執政(34年には皇帝)として満州国を建国しましたが、日本の傀儡国家であることは明白でした。

 この前の1月には、中国東北地方から世界の目を外らす為、排日運動が盛り上がった上海に日本軍が上陸し中国軍と交戦する上海事変が起きています(3月に停戦)。
 
 中国の要請によって、国際連盟から現地に派遣されたリットン調査団は、満州事変を日本の自衛行動とは認めず、又満州国が日本の傀儡国家であるとした為、33年、日本はこれに抗議して国際連盟を脱退したのです。

続く・・・

2012/12/06

人類の軌跡その531:ヴェルサイユ体制の崩壊⑨

<ソビエト連邦④>

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◎経 済

 1918年の10月革命以降の内戦期に於いて、ソビエト政権は、戦時共産主義(1918-1920)に基ずく、一連の諸政策を実行しました。
内容は、ロシア革命後に地主を解体して土地を没収し、国有地として農民に分配、工場・銀行・外国貿易を国営化しました。

 更に1919年には「全てを戦場に」のスローガンの下で「穀物割当徴発制度」等が実施され、外国による対ソ干渉戦争と反革命軍との内戦の危機に対処したのでした。
この制度により、余剰作物の公定価格での買い上げを廃止し、強制的徴発を断行、食料を配給制にしたのですが、この農村での穀物収奪とも言える強引な手段により、農民の耕作意欲は減退し、農村は疲弊する結果となりました。

 この戦時共産主義は、内戦時に於ける急激な共産化と云う強制的側面と、非常事態への対応の面が強く、この強制措置によって、内戦を戦い抜く事が可能と成ったものの、7年間に渡る戦争・内乱でロシア経済は荒廃し、1920年の工業生産は戦前の約14%・穀物生産も約2分の1に減少していました。

 こうした状況を打開する為、内戦もほぼ沈静化した1921年、レーニンは政策の転換を図り、ネップ(新経済政策)(1921-1925)が導入されます。
食料税の導入と、税納付後に残った残余農産物の自由な処分を可能とした事が特徴で、共産主義経済の緩和と云う意味合いが有り、このネップによって、ロシア革命と内戦の混乱で疲弊した、ソビエト連邦の経済はようやく立ち直り、1927年迄にはロシアの工業・農業生産は1913年(戦前)のレベルに近づきました。

 しかし、生産残余物を自由に売買できる事から、ネップマン(ネップ期に投資などによって富を蓄積させた)やクラーク(富農)といった富裕層の出現により、貧富の差が拡大し始め、国家統治理念である社会主義との矛盾を生ずる事に成りました。 
1928年スターリンによって、ネップ(新経済政策)を改めて、第一次五カ年計画(1928~32)による計画経済体制が施行され、重工業、特に軍需工業に重点をおく工業化と農民の集団化が実勢されます。

 この計画は、ネップによって潤ったネップマンやクラーク等の富裕層は、多大な犠牲を強いられ抵抗も強いものでしたが、政府は投獄や処刑等の強硬手段で之に対抗しました。
富裕層は事実上消滅し、この経済計画は1930年代の世界大不況の影響を受ける事無く、対外的には大成功との宣伝が大々的に行われましたが、実際は政治犯、囚人による強制労働、農民の集団化に至っては、強制的に行われた為、各地で大飢饉が続発し、多数の餓死者を生み出しました。
この様な犠牲の上に成り立った五カ年計画によって、第二次世界大戦勃発直前迄には、世界第二位の工業力であったドイツを抜いて、ソビエトは世界第一位のアメリカに次ぐ工業力を誇ったのです。

続く・・・
2012/12/05

人類の軌跡その530:ヴェルサイユ体制の崩壊⑧

<ソビエト連邦③>

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トゥハチェフスキー元帥
 
◎赤軍大粛清(1937-38年)②

 これらの党内の権力争いは1934年までに、スターリンの勝利に終わりますが、それでも猜疑心の強いスターリンは不十分と考え、党と軍部の粛清(反対派の完全除去)を断行し、1934年12月、キーロフ暗殺を発端としてスターリンの粛清行動がまず党内で動き出し、次々に粛清されるべき分派活動や破壊分子が作り出され、多数の古参党員が粛清されて行きました(ほとんどが冤罪であったという)。

 しかし、軍部、特に国内戦の英雄で、国民に慕われていたトゥハチェフスキー元帥にはさすがのスターリンも手を付けることが出来ず、1937年ドイツのスパイ容疑という罪状で粛清する事に成功します。
トゥハチェフスキー元帥という後ろ盾をなくした軍は、以後1937年から38年までの間粛清という名の大虐殺が吹き荒れ、元帥5名中3名、軍管区司令官(大将相当)15名中13名、軍団長(中将相当)85名中62名、師団長(少将相当)195名中110名、旅団長(准将相当)406名中220名、大佐階級も四分の三がその対象となり、旅団長以上の幹部と政治将校の実に45%、高級将校の65%が粛清されました。
政治局員(共産党から赤軍監視のために派遣されている党員たち)も最低2万人以上が殺害され、同期間中に赤軍全体で4万名以上が粛清され、また赤軍軍人で共産党員だった者は30万人いたが、そのうち半数の15万人が1938年中に命を落とし、これら上部・中堅司令官を大量に失った赤軍は瓦解寸前の状態に陥りました。

6月11日の秘密軍法会議にかけられた”容疑者”

 トゥハチェフスキー元帥(国防人民委員代理)
 ヤキール一等軍司令官(キエフ軍管区司令官)
 ウボレヴィッチ一等軍司令官(白ロシア軍管区司令官)
 コルク二等軍司令官(フルンゼ陸軍大学校校長)
 プリマコフ三等軍司令官(レニングラード軍管区副司令官)


◎東部戦線開戦迄

 1939年8月23日の独ソ不可侵条約の締結は、全体主義と社会主義と云う、相容れない関係と見られていたドイツとソ連の接近であり、全世界に衝撃を与えました。

 しかし、ドイツは、避けられないと予想されるイギリス、フランス戦に専念する迄、その背後の憂いを絶つ目的から、ソ連は赤軍大粛清で弱体化したソ連軍を再建する為の時間稼ぎの為と云う、お互いの思惑が存在していました。
将来、何れかの国が、この条約を不要とした場合、条約を破って侵攻してくることは明かでしたから、其の為、ソ連は自国の安全を最優先し、独ソ不可侵条約で同時に調印され、秘密議定書によって認められていた独ソ間による北欧・バルト三国・東欧諸国のお互いの勢力分布に基づいて、領土併合の野望を顕わにするのです。

 1939年のソ連・フィンランド戦争、1940年のバルト三国併合、同年のルーマニアのベッサラビア地方併合がその例ですが、このベッサラビア地方併合は、ドイツが有する唯一の油田地帯であったプロエスティ油田に近く、ドイツを刺激することになりました。
仮にそこを占領されれば、ドイツは戦争遂行能力に重大な影響を与える為であり、バルカン地方の混乱によって、同地域にソ連が進出する余地を与えてしまう事に重大な危機感を抱き、ヒトラーはバルカン諸国の混乱を一気に解決すべく、ウィーン裁定と呼ばれる強硬な決定によって、ルーマニア領トランシルヴァニアのハンガリー帰属、ブルガリアへの領土割譲を決定してしまいます。

 その代償として、ドイツは軍事使節団という名目でドイツ軍を派遣し、ルーマニア領土の安全保障に責任を負う事となり、一応の安定を取り戻しました。
しかしその安定も長期化せず、独ソ間の緩衝地帯を手中にした両国は1941年6月22日、ドイツによる不可侵破棄を迎えます。

続く・・・
2012/12/04

人類の軌跡その529:ヴェルサイユ体制の崩壊⑦

<ソビエト連邦②>

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◎キーロフ暗殺と大粛清の始まり

 セルゲイ・キーロフは、党幹部で在ると共に政治委員で在り、その弁舌力と真摯な態度で民衆に大きな人気が在りました。
そして、共産党幹部で唯一スターリンに正面切って諫言を述べる事が出来た人物だったのです。
1934年12月1日にキーロフは、レオニード・ニコラエフという青年によって暗殺さます。
キーロフ暗殺については、キーロフの名声に嫉妬(!)したスターリンが命じたとする説も存在しますが、確証は無く、何れにしても、スターリンは容疑者として、嘗てスターリンが党から追放したジノヴィエフ、カーメネフとその支持者を逮捕し、その背後にトロツキーが国内に組織したテログループが存在するとの捏造工作を行います。

 以後、そのテログループ殲滅を口実に、後に「大粛清」と呼ばれる嵐がソ連に吹き荒れ、大粛清の犠牲者は党幹部から党員そして一般市民、軍人にまで拡大し、諸説入り乱れ、裁判によって処刑された者は約100万人、強制収容所での強制労働や農業集団化により死亡した者は一般的に2,000万人と云われています。
又同時期に行われたシベリアへの農民強制移住は悲惨を極め、その正確な犠牲者数は未だに不明なのです。

※ドイツのスパイ容疑

 事件の発端は、チェコスロバキア大統領ベネシュが、トゥハチェフスキー元帥をドイツのスパイと立証し得る資料が存在すると、ソ連の在プラハ公使に通報した事に始まります。

 真相はソ連を攪乱する目的で、ドイツ保安機関が該当する資料を捏造し、自然な姿でベネシュに流れる様に仕向け、ベネシュは自国の安全保障の為、ソ連在プラハ公使を通じてスターリンに通報させた事は保母間違いない事実と判明しています。
更に、ドイツを上記行動に仕向ける様、ソ連保安機関が工作を行ったと云う有力な見解も存在しますが、この事象を証明する証拠は現在迄発見されていません。

◎赤軍大粛清(1937-38年)

 1937から38年までに赤軍内で吹き荒れた大粛清。
その発端は、1937年6月、国内戦の英雄で、赤軍最高の頭脳であったトゥハチェフスキー元帥(国防人民委員代理)を始めとする赤軍最高幹部8名が、スパイ容疑で突如逮捕され、7名(1名は逮捕直前に自殺)が6月11日の秘密軍法会議で有罪判決を受け、控訴なしでモスクワのルビヤンカ刑務所で即刻銃殺されたことに始まります。

 この大粛清が起こった背景には、スターリンの赤軍への強い猜疑心と、トゥハチェフスキー元帥への個人的な恨みが背景に存在し、赤軍は、帝政ロシア軍を母胎として、スターリンの政敵であるトロツキーが創設した軍であり、スターリンから見れば、いつ自分を裏切るかという猜疑心よりも恐怖心が常に存在していました。

 又、スターリンは第一次世界大戦直後の1919年に起こったソ連・ポーランド戦争では、南西方面軍軍事委員としてワルシャワ前面のトゥハチェフスキーにブジョンヌイの第1騎兵軍を送らず敗北させた責任を問われて、革命軍事会議議員から罷免されたことを逆恨みしており、レーニンの死後、後継となったスターリンは、1926年12月の党大会でトロツキーなどの党の反対派約70名とレーニンの盟友の殆ど総てを党から除名し、主要な者達を流刑地に追放して行きました。

続く・・・

2012/12/03

人類の軌跡その528:ヴェルサイユ体制の崩壊⑥

<ソビエト連邦①>

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平和とコミュニズムの為に戦う

◎成 立

 第一次世界大戦のさなか、1917年11月17日の12月革命によって、権力を掌握したボルシェビキ勢力(ソ連共産党)には、幾多の難関が存在していました。

 最初の難関は、交戦国ドイツとの関係修復で在り、当初は抗戦継続が行われたものの、1918年2月のドイツ軍大攻勢により戦線は崩壊、ドイツ軍が大挙して越境侵入する状況に陥ります。
ボリシェビキ政権は、レフ・トロツキー外相を中心に、1918年3月にドイツとの間に、ブレスト・リトフスク講和条約を締結します。
この条約には、旧ロシア領で在る現在のバルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)、ベラルーシ、ウクライナを含める、西部の広大な(そして肥沃な)領土を割譲しなければなりませんでした。

 次の難関は、この屈辱的条件を課したブレスト・リトフスク講和条約を結んだボリシェビキ政権に反抗し、ロシアの内外で反政府運動が活発化し、ロシアに内戦が勃発し、更にドイツとの単独講和に反発した連合軍が、懲罰を目的に内政干渉を行い、反ボルシェビキ勢力を援助した事でした(干渉戦争、シベリア出兵)。
この様にして発生した内戦は1920年までには終結しましたが、1922年に至るまで大規模な内乱・蜂起が散発し、シベリア沿海州における白軍政権の崩壊をもって内戦は終結、1922年にソビエト社会主義共和国連邦が成立したのでした。

◎レーニンの死去とスターリンの権力掌握

 1924年のレーニンの死後、後継者問題から権力闘争が激化し、党内右派のブハーリンと手を組んだスターリンが次第に頭角を現し、最大の政敵であった党内左派のトロツキーを最終的には1929年に国外追放する事に成功します(1940年に亡命先のメキシコで殺害)。

 又、同じく対立していたカーメネフ、ジノヴィエフを1926年まで失脚させる事に成功(後に大粛清で処刑)。
しかし、そのブハーリンも後に粛清され、1938年5月13日銃殺、非業の死を遂げます。
大粛清によってジノヴィエフは、キーロフ暗殺事件に連座したとして党を除名の上、逮捕され、1935年に禁固10年の判決を受け、ウラルの政治犯収容所に収監、翌1936年「モスクワ裁判」でジノヴィエフは1932年にスターリン等党指導部に対するテロが計画されたという「合同本部」事件で告発され、十月革命の『裏切り』の件迄、追求されました。

 ジノヴィエフは、スターリンに生命の保証を約束され有罪を認めた挙句、1936年8月25日にカーメネフら15人と共に死刑判決を受け、即刻同日に、助命嘆願を拒否された末銃殺されます。

 1934年12月セルゲイ・キーロフ暗殺事件をきっかけに大粛清が開始され、カーメネフは逮捕、党を除名され1935年「モスクワ本部」事件で禁固5年の刑に、翌1936年別件で禁固10年の刑が宣告され、「合同本部」事件を処理する「モスクワ裁判」で、ジノヴィエフと同様にスターリンの奸計に嵌り、処刑を逃れる事を条件に有罪を自白したものの、1936年8月25日銃殺刑が執行されました。

続く・・・
2012/12/01

人類の軌跡その527:ヴェルサイユ体制の崩壊⑤

<フランス> 

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 第一次世界大戦に勝利したものの、甚大な経済的、人的被害を受けたフランスは、被害を最小限に押さえる為、大戦間の国防方針は明らかに防御的なものとなりました。
これは有事の際、被害を恐れる余り消極的と成って行く危険性も有していたのです。

 経済的には、中央ヨーロッパやアジアの植民地経営が成功し、一時的には往時の繁栄を取り戻したかに見えたが、1929年に始まる世界大恐慌によるダメージは甚大であり、更に大戦間のフランス政局は、右翼と左翼(共産党等)の対立によってしばし混乱し、長期的な視野に立って政策を実行し得る内閣が存在しなかった為、恐慌からの脱却が立ち行きませんでした。
この様に人的資源の面からも、経済的側面からも、ドイツの軍部拡大に太刀打ちできるだけの余力がない状態で、ドイツとの戦争に突入して行きました。

◎国防:マジノライン

 第一次世界大戦で、甚大な人的被害を被ったフランスは、大戦間の国防方針を、乏しい人的資源の減少を避ける意味から、保守的・防御的と成らざるを得ず、この象徴とも云えるものが、対独国境に建設されたマジノ要塞でした。
因みに、建設当時の陸軍大臣アンドレ・マジノにちなんで命名されたこの要塞は、膨大な費用と、当時最新技術を駆使した要塞で、少なくとも正面からの攻撃に対して、無敵でしたが、マジノ線は以下の欠点を有していたのです。

1.マジノ要塞には常時大軍を配置せねばならず、またマジノライン防衛を戦略最優先事項とした為、機動性等の柔軟性を欠いていました。

2.建設に当たって膨大な費用(当時の軍事予算を使い切った)が嵩み、又同様、維持に莫大な費用がかかり、他の兵器生産や開発への予算が枯渇していました。

3.「マジノラインが存在する限りフランスは安全である」と云う一種の幻想に似た過剰な期待を国民に抱かせ、心理的影響迄与えてしまい、この当時のフランス国民は、ナポレオンが残した教訓である「要塞にこもった敵は必ず撃破される」と云う言葉を完全に忘れていました。

4.地理的に重大な欠点をマジノラインは有していました。
第一に対独防御を想定した事、第二にベルギーを刺激しない為の配慮で、対ベルギー国境には建設しなかった事でした。
この重大な欠陥は、ベルギー国境付近を突破されれば容易に背後に回り込まれ、無力化できる事を示していました。事実、第一次世界大戦時に、ドイツ軍が直接対仏国境を攻撃せず、ベルギー国境を通って、フランスを攻撃した(シュリーフェン・プラン)前例があり、当然考慮検討しなければならない重大項目でした。
対独宣戦布告後、急ピッチで対ベルギー国境にもマジノライン延長工事を行ったものの、間に合う事無く、開戦時には対戦車防御のコンクリート製バリケードすら不十分で、まだ土塁のみの箇所も多々存在したのです。

続く・・・