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2013/01/31

歴史のお話その26:東地中海に開花した文明④

<東地中海文明・番外編①トロイを求めて・少年時代の夢に捧げた半生>

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Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann, 1822年1月6日 - 1890年12月26日

◎ハインリッヒ・シュリーマン

 彼の生涯を決定付け、考古学の歴史に、重要な一章を書き加えるきっかけと成った、クリスマス・プレゼントを父親から贈られた時、ハインリッヒ・シュリーマンは、僅か7歳の少年でした。
その贈り物とは、挿絵の入った本で、古代ギリシアの軍勢に攻め落とされ、火炎に包まれるトロイの情景が描かれていました。

 この絵を見た瞬間から、シュリーマンの幼い心は激しく、直向な思いに捕らわれたのです。
トロイの遺跡を見つけ、疑い深い世間に、ホメロスのトロイ攻略の話が全くの真実であり、単なる詩的な空想ではない事を、証明してやろうと思ったのでした。
此れは、雑貨屋の使い走りをしている、貧乏牧師の息子には、殆んど不可能な目標に見えましたが、来るべき仕事に備えて、古代ギリシア語を独学し、40歳代の初めには、仕事をやめても十分生活していけるだけの蓄財を築き上げたのでした。
その上、1869年には、理想的な妻となる、ギリシア人の花嫁を見つけました。
彼女は、ソフィアといい、まだ10代のアテネ娘でした。

◎トロイの地

 頭の中を駆け巡る、ヘクトル、アキレス、アイアスの名前を片時も忘れる事はなく、47歳のシュリーマンとソフィアは、ホメロスの「風強きトロイの野」を求めて、ダーダネルスに向けて旅立ちました。
彼は、100人余りの作業員を雇い、発掘作業を開始したのです。
シュリーマンは、トロイがヒッサリックという、標高49mの丘に存在したと云う、地方の伝承を信じ、この話は、ホメロスに関する彼の知識と一致していました。
その丘には、何らかの遺跡が埋蔵されている事は、現地では既に知られていましたが、当時、考古学は現在の様に学問として確立された分野ではなく、又シュリーマン自身も、実際に発掘に携わるのは初めての経験でした。

 作業員達は、ヒッサリックの地下に何が存在するのか確認する為、北側の急斜面に深い溝を掘りました。
一行は、直ぐに何時の時代に属するのかも判らない、入り組んだ遺跡に到達しましたが、後日、この複雑な遺跡は、9個の異なる都市の痕跡が、階層を成して互いに重なり合っているものである事が判明したのです。

 シュリーマンは発掘作業を継続し、終に失われた都市の、高さ6mは在ったと推定される、城壁後に行き着いたのでした。
嘗て、ヘレネの誘拐に報復する為、ギリシア軍の進行をパリスが見守っていたのは、当にこの城壁に上からのはずでした。

◎ヘレネの財宝?

 2年間に及ぶ作業の後、1873年6月14日、彼の目の前には、目も眩む様な財宝が広げられていました。
8700点にのぼる、感嘆すべき金の装飾品の数々で、中でも特に注目に値する出土品は、16,000個の純金の小片で作られた、額から肩まで届く宝冠でした。

 喜びの涙を浮かべながら、彼は美しい妻に宝冠を被せ、彼女を抱きしめて叫んだのです。
「私達の生涯で最も素晴らしい瞬間だ!お前はトロイのヘレネの生まれ変わりだ!」と。
この発見は、発掘作業のロマンティックな終焉に相応しいものでしたが、シュリーマンの判断は間違っていたのです。
彼が発見した古代の都市は、トロイではなく、もっと古い時代に属する都市で、問題に宝冠は、紀元前2300年頃の物であって、ヘレネが生れる1000年以上も昔の、別の王族が身に付けた物でした。

 現在、考古学の定説では、ホメロスによって詠われたトロイは、紀元前1200年頃、ギリシア軍の侵略によって滅亡したものと推定されており、9層に堆積した都市遺構の上部から3層目の都市遺構が、此れに当たるとされています。
シュリーマンは、作業員達がこの層を掘り抜いてしまった為、この都市遺跡を見逃したのでした。

◎夢を追って

 彼が発見した財宝は、ヒッサリックの丘の低部に近い部分に埋没した、他の時代に属する都市の物で、後に彼はその間違いを認めています。
其れでも、現在の研究者達は、ホメロスのトロイ発見の功績と、同じく、更に古い先史青銅器文化の属する古代都市の発見者の名誉を、ハインリッヒ・シュリーマンのものとして彼の功績を称えています。
此れは、夢を追う事に生涯を捧げ、終に其れを成し遂げた、雑貨屋の使い走りの少年に相応しい碑銘でした。

東地中海文明・続く・・・
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2013/01/30

歴史のお話その25:東地中海に開花した文明③

<東地中海文明③>

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◎トロヤ戦争

 シュリーマンが信じたトロヤ戦争の話をご紹介。
女神テティスが人間の男性ペーレウス(ギリシアの王の一人)と結婚するところから始まります。
女神と人間の結婚なので、披露宴は盛大に行われ、神々も出席し、ギリシアの主だった王様達も列席します。
祝宴は大いに盛り上がるのですが、一人だけ宴会に招待されなかった女神がいました。
これが、嫉妬と争いの女神エリスなのですが、結婚披露宴に嫉妬と争いは不要ですかね。
ところが、エリス女神は披露宴に呼ばれない事に嫉妬してしまい、腹を立てた彼女は、披露宴に争いを持ち込みます。
その方法は、宴会場に黄金のリンゴを投げ込むのですが、突然、宴会場に転がり込んできた黄金のリンゴを取り上げて見ると、次のような言葉が書かれていました。

「最も美しい女神へ」

 さて、「そのリンゴは私が貰う権利がある」と、三人の女神が名乗りを上げました。
「私が一番美しい」と三人の女神は大喧嘩を初めてしまい、宴会の席は滅茶苦茶に成ってしまいました。
三人の女神の顔ぶれは、女神ヘラ、彼女は主神ゼウスの妻で、女神の中では一番偉い、世界の支配を司ります。
次が女神アテナ、戦いの女神、最後が美の女神アフロディーテでした。
 
 「私は美しい」と、論戦を展開するのですが決着が着かず、そこで三人はゼウスの処に行って、「誰が一番きれい?」って聞くのですが、ゼウスも困ります(当然)。
思った事を言って残りの二人に恨まれたらたまりません。

 そこで、ゼウスは「美の判定者」を指名して、その人物に最も美しい女神を決めさせる事にしましたが、「美の判定者」とされたのが、人間の羊飼いの少年パリスです。

 此処まで来ると、女神達は意地でも「美しい」と言われて、黄金のリンゴを手に入れたい訳なので、
女神達はパリスのところに行って買収工作をするのです。
その内容は、
 ヘラは、一番にしてくれたら、「貴方を世界の支配者にしましょう」。
 アテナは「あらゆる戦での勝利が、貴方のものに」。
 アフロディーテは「人間の中で一番の美女を貴方の妻に」。
 まさに三択問題です。
この内容は、ギリシア人の人生観が伺えて、最高に面白いですね。

 結果的にパリスは、美女を選択しますが、世界の支配よりも、勝利よりも、美なのです。
ギリシア人らしい選択と思います。

 さて、最も美しい女神はアフロディーテで決着し、彼女は、約束どおり最高の美女をパリスに与えるのですが、それがなんと人妻だったのです。
ギリシアは、スパルタ王メネラーオスの妻ヘレネーです。
パリスは、アフロディーテの手引きで彼女を拐って、自分の妻としますが、パリスは実はトロヤの王子だったのです。
妻を略奪された、メネラーオスは当然激怒(当たり前!)して妻を取り返すため、兄のミケーネ王アガメムノーンに助力を頼みます。
アガメムノーンは、全ギリシアの盟主なので、彼の号令で、全ギリシア軍が出動しました。
海を渡ってヘレネーを奪い返す為に、トロヤに攻め込みましたが、これがトロヤ戦争です。

 ギリシア軍の中には、ギリシア随一の戦士アキレウスもいます。
アキレウスは戦争の発端となった宴会の主役女神テティスが、人間との間に生んだ子で、テティスは死すべき定めにある人間の息子を不死身にする為に、生まれたばかりのアキレウスを不死の泉に浸けます。
その時テティスは、アキレウスの足首をつかんでいたので、そこだけが不死の泉に浸からず、彼の唯一の弱点となります。(アキレス腱)
 

 この様な話を信じて、トロヤを発掘しようとするシュリーマンは、凄いと思います。
ミケーネの遺跡からは、黄金の仮面が出土しており、これは「アガメムノーンのマスク」と呼ばれています。

 このトロヤ戦争が始まって10年目、戦争の最終段階をアキレウスを主人公に描いたのが、ホメロスの叙事詩『イーリアス』です。
因みにホメロスは、紀元前8世紀のギリシア詩人です。
叙事詩『オデュッセイアー』もホメロスの作品で、これは、ギリシア随一の知恵者オデュセイウスがトロヤ戦争の終了後、トロヤから故郷へ帰る長い旅を描いた物語です。

 トロヤ戦争の最終段階でトロヤを撃破する作戦を考えたのが、オデュッセイウスでした。
両軍とも名だたる英雄、勇士は次々に死んでいき、それでも決着はつかず、オデュッセイウスは有名な「木馬の計」を提案します。
全ギリシア軍は撤退するふりをしてトロヤの海岸から引きあげて、浜辺には大きな木馬だけが残っているのですが、木馬にはギリシアの戦士が隠れているのです。

 トロヤ側は「今日も戦だ」、と海岸に来てみるとギリシア軍がおらず、撤退したと思いこみます。海岸に残された木馬を戦利品として、トロヤ城内に持ち込んで、夜は勝利の宴会でした。
トロヤの兵士達が飲みつぶれたのを見計らって、隠れていたギリシア兵が木馬から忍び出、内側から城門を開き、外の兵と合流してトロヤを攻略し、トロヤは炎上して滅亡したと云います。
このトロヤの陥落炎上を描いた絵本が、シュリーマンに強烈な印象を与えたのでした。

東地中海文明・続く・・・

2013/01/29

歴史のお話その24:東地中海に開花した文明②

<東地中海文明②>

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「アエネイアスのトロイ脱出」 1598年作

◎ミケーネ文明とトロヤ文明

 クレタ文明は紀元前15世紀頃滅亡します。
理由は現在も詳細に解明されていませんが、アカイア人の南下が原因とも云われており、やや遅れて南下してきたドーリア人とあわせて、彼等がギリシア人の原型を形成しました。

 クレタ文明の滅亡と前後して、アカイア人がミケーネ文明を創り上げます。
この文明は辺境国家の体裁を持ち、小規模ですが、ギリシア本土のミケーネ、ティリンスが中心です。 
まだ、青銅器文明の段階で、国家は後のギリシア文明のような民主的なものではなく、専制的だったと推定されています。

 トロヤ文明は紀元前2600年位から存在しており、小アジアのトロヤを中心に、青銅器段階で国家は専制的、民族系統は不明です。

 ミケーネ文明もトロヤ文明も紀元前1200年頃に滅亡しました。
同じ頃、ヒッタイトが滅び、エジプト新王国も「海の民」という謎の集団に襲われて弱体化していますので、推測ながら、民族移動等大規模な変動が在ったと思われます。

 この二つの文明は文明そのものよりも、発掘した人物によって有名になりました。
その人物がドイツ人、シュリーマン、1870年代にこの二つの文明に属する遺跡を発掘すします。

 彼は幼い頃から寝物語に、何時もギリシア神話を読み聞かされていました。
その中で、大好きな物語がトロヤ戦争のお話でした。
大人になったら絶対に、トロヤの町を見つけようと子供心に決意するのですが、当時ではギリシア神話はあくまで神話であって、実際にトロヤ戦争が起こったとか、トロヤの町が在った事を誰も真実と考えていませんでした。

 シュリーマンは若い頃から働きに働いて、商売で大成功して資金を作り、50歳近くなってから財産を投じて自力で発掘をはじめます。
周囲の人達は、おとぎ話に挑戦する人物の様に思われていました。

 しかし、彼は発掘をやり遂げます。
結果的にトロヤの遺跡だけではなく、トロヤ戦争の物語でトロヤに攻め込んだと語られている、ギリシア本土のミケーネの遺跡まで発見しました。

 シュリーマンは『古代への情熱』という自伝を書き留めています。
シュリーマンのトロヤ発掘は、後で紹介します。

東地中海文明・続く・・・
2013/01/28

歴史のお話その23:東地中海に開花した文明①

<東地中海文明①>  

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◎クレタ文明

 エジプトやシリアで諸民族の活動が活発になると、地中海を通じての交易も生まれてきました。
東地中海沿岸とそこに浮かぶ島々のあいだに交易圏が発生します。
この交易圏に生まれたのがクレタ文明で、文明と呼ぶような大規模なものでは在りませんが、この様な言い方をするのは、ギリシア文明に先行する位置にある為です。

 クレタ文明、クレタ島、ギリシアの南に浮かぶ小島で発生しました。
1900年、イギリス人エヴァンズが、この島の中央部クノッソスで巨大な宮殿跡を発掘しました。
クノッソス宮殿と呼ばれ、この宮殿は周囲に城壁を持たず、又内部が多くの小部屋に分かれている事が特徴で、壁画にはタコやイルカなど海の生き物達が実に生き生きと描かれていました。

 クレタ文明が栄えたのは紀元前2000年から紀元前1500年位迄の約500年間で、絵画等、当初はエジプト等オリエント文明の影響が色濃いのですが、次第に独自色がでてきます。
クレタ文明の担い手達はギリシア本土を支配していたと推定され、ギリシア神話の中にそのことを思わせる話が残っています。
その一つがミノタウロスの伝説です。

◎ミノタウロス伝説

 クレタ島には、ミノタウロスと呼ばれる化け物が住んでいました。
クレタに支配されていた、ギリシアのアテネでは、毎年ミノタウロスに生け贄を奉げなければ成らない定めになっていました。
生け贄は少年少女それぞれ7人、彼等はクレタ島のクノッソスに連れて行かれた挙句、ミノタウロスに食べられてしまう運命なのです。
毎年生け贄の子供を決める時期が来ると、アテネの親達は悲しみに沈みながら、くじ引きをする。
当たりくじを引いた瞬間、自分の子供が生け贄に決まるのでした。

 このミノタウロスは何者かについて、この様な話が伝わっています。
クレタ島の王ミノスは、王位に就く時に海神ポセイドンの力を借りました。
その時、王になったら美しい牡牛をポセイドンに捧げると約束したのですが、実際に王に成ると、牡牛を捧げる事が惜しく成り、ポセイドンとの約束を守らなかったのです。
怒ったポセイドンが、ミノス王に神罰を下します。

 ミノス王には、妃パーシパエが居り、そのパーシパエに牡牛を好きになってしまう呪いをかけるのです。
呪いをかけられたパーシパエは牡牛に惚れてしまい、やがて名匠ダイダロスに雌牛そっくりの模型をつくり、その中に入って牧場で草を食べている牡牛に近づきます。
牡牛は本物の雌牛と勘違いして、交わってしまいます。
王妃パーシパエは想いを果たすのですが、時が満ちて彼女は懐妊しますが、産まれた子供が、顔が牛、体が人間と云う化け物、ミノタウロスでした。

 ミノス王は困り果て、自分のポセイドン神に対する裏切りが原因なので、ミノタウロスを殺すこともできず、生かすこともできず、悩んだ挙句に考えついたのが迷宮を造って、ここにミノタウロスを閉じこめる事でした。
一度入ったら二度と出られない迷路宮殿で、この宮殿の奥には、ラブリスと呼ばれる両刃の斧が置かれていたので、この迷宮をラビリントスと呼び、英語の迷路ラビリンスの語源と成りました。

 さて、アテネから連れてこられた子供達は、この迷宮に閉じこめられ、やがては迷宮の中でミノタウロスに出会って食べられてしまう運命です。
時は進み、アテネに少年英雄テーセウスが登場します。
彼は旅からアテネに帰ってくると、少年達が生け贄として捧げられる事を聞いて、「自分が化け物を退治する」と言い、自ら生け贄に志願してクレタ島に送られました。
クレタに着くと、ミノス王の娘、王女アリアドネがテーセウスを見て一目惚れ。

 アリアドネは静かにテーセウスに近づいて「自分の夫になってくれますか」と尋ねました。
テーセウスは彼女を妻にする約束をし、未来の夫がミノタウロスに殺され食べられては困るアリアドネは、テーセウスにこっそりと麻糸の玉と短剣を渡します。
 
 迷宮に閉じこめられたテーセウスは、入り口に麻糸の端を結び、糸玉をほどきながら迷宮の奥に進んでいきます。
やがてミノタウロスと出会い、アリアドネから渡された短剣を使ってミノタウロスを倒す事ができ、最後に糸を伝って無事に迷宮からの脱出したのでした。

 実際のクノッソス宮殿の遺跡には、数多くの小部屋が造られており、古代ギリシア人達はこれを迷宮と考えたのでしょう。
生け贄をささげると云う話しは実際にあった話かもしれませんし、少なくともギリシアの人々は、クレタ島の支配者に対して貢納義務等があったのでしょう。

東地中海文明・続く・・・

2013/01/26

歴史のお話その22:オリエント史⑦

<オリエント史⑦>

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◎ゾロアスター教(拝火教)

 開祖ザラスシュトラ(紀元前16世紀乃至紀元前10世紀頃の人物とされるも詳細は不明)は、古代アーリア人の既存の宗教に反旗を翻し、ゾロアスター教を成立させました。
後の時代に編纂される経典が「アヴェスター」です。
ゾロアスター教は、興味深い宗教で、ユダヤ教が一神教とすれば、ゾロアスター教は二神教で、神が二人います。
一つが光の神、光明神アフラ=マズダ、対立するのが闇の神、暗黒神アーリマンなのです。

 ゾロアスター教によれば、アフラ=マズダとアーリマンは永遠に戦いつづけ、それぞれ天使の軍隊と悪魔の軍隊を率いて戦っています。
そして、この世に起きるあらゆる出来事は総て、この二人の神の戦いの現れと考えるのです。
永遠に戦うと述べましたが、どの位時間が必要なのか判りませんが、やがて勝敗が決まり、最後には光の神アフラ=マズダが勝つのです。
実に興味深い箇所として、アフラ=マズダの勝利の後で救世主が現れ、救世主はそれ迄この世に生をうけて死んでいった人々を総て蘇生させるのです。
そして、復活した人々を善悪に振り分け、天国と地獄に選別するのですが、この部分がゾロアスター教に於ける「最後の審判」です。

 何処か、キリスト教や、ユダヤ教に似ているのですが、それではユダヤ教とゾロアスター教は、どちらが先に成立したのかを考察するとゾロアスター教の方が早いのです。
ユダヤ教の救世主待望思想や最後の審判の観念は、ゾロアスター教の影響を受けて生まれたと云われています。

 因みにユダヤ教、キリスト教はヤハウェ神信仰の一神教であると先に書きましたが、聖書を読んで見ると悪魔の存在に気付きます。
悪魔は一体どの様な存在なのでしょうか?
旧約聖書の「ヨブ記」等では、神が悪魔の挑発に乗って義人ヨブに試練を与えますが、神は悪魔とほとんど同じレベルで論争しています。
この悪魔もゾロアスター教のアーリマンがユダヤ教の中に紛れ込んだものと云われています。
ヘブライ人は、アケメネス朝の支配下でユダヤ教を確立していますので、理解できると思います。

 このゾロアスター教は、西方のヘブライ人だけでなく、東方のインドにも影響を与えました。
アフラ=マズダはインドに入り、光明仏ヴィローシャナに成り、更にヴィローシャナは中国、朝鮮半島を通って日本にも渡来しました。
これが毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、奈良の大仏です。

 ゾロアスター教は現在でも信者が、イランに4万5千人、インドのムンバイを中心に10万人程存在しています。

オリエント史・終わり・・・

2013/01/25

歴史のお話その21:オリエント史⑥

<オリエント史⑥>

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ペルセポリス復元想像図(部分)

◎アケメネス朝ペルシア

 4カ国総てを統一したのがアケメネス朝ペルシアで、小アジアからインダス川に至る大帝国を建設します。
アケメネスは支配王家の名前で、ペルシア人はインド=ヨーロッパ語族で、同じ民族系統に属するメディアに服属してイラン高原南部に住んでいました。

 紀元前550年、メディアの政権を奪い、続いてリディア、新バビロニア、エジプトを征服した後、一旦王位を巡って内乱状態に陥りますが、この内乱を鎮圧して統一を回復した国王がダレイオス1世です。
彼は自分の再統一の功績を記念碑に残しましたが、以前紹介したベヒストゥーン碑文で、この時代がアケメネス朝の絶頂期です。

 ダレイオス1世は帝国の支配制度を整備し、全国を20の州に分けて総督(サトラップ)を派遣します。
更に、監察官が上位に位置してサトラップを監督、監視するのですが、この役人を「王の目」「王の耳」といいました。
「王の耳」は密偵、隠密で、サトラップが不穏な動向を見せると王に報告します。
又駅伝制度を整備し「王の道」と呼ばれました。

 アケメネス朝には著名な都がいくつかあるのですが、その代表的なものがスサ、そしてダレイオス1世が建設したのがペルセポリスです。
ペルセポリスは現在、廃墟に成っていますが、当時は壮麗な都でした。
この都はダレイオス1世が儀式用に建設したもの云われており、アケメネス朝は広大な領土を支配している関係から、方々から他民族の使節団や、朝貢使節が来朝します。
その謁見目的に都を造営してのですから、当然ながらペルセポリスを訪れた他民族は、アケメネス朝の威容を見せつけられます。
現在に残された壁のレリーフは、ダレイオス1世が外国の朝貢使節を謁見している姿が描かれています。

 ペルセポリスを廃墟にした人物が、かの有名なアレクサンドロス大王で、ギリシア人を率いて攻め込んできたマケドニア王アレクサンドロスが、ここを占領した時に火を放ち、総てを燃やしてしまいました。

 アケメネス朝ペルシアの他民族支配は比較的寛容だったようです。
アッシリア帝国が強圧的な支配を行い、内乱で滅亡した経験に学んだのでしょう。
ペルシア人の成年男子の数は10万人程度と推定され、この数字総てが戦士と仮定しても、広大な領土を武力だけで支配し続けるには少いと考えられたと思われます。

 例えば、新バビロニアを滅ぼしバビロンに入城した際には、バビロン捕囚のヘブライ人達に帰国を許しています。
その後も彼らが神殿を建設してユダヤ教を信仰していく事に対して、とりたてて干渉をしていません。
結果的には、支配下の民族がペルシアに対して税を納め、戦時には軍役に服せば、それ以外は何をしてもほぼ自由でした。

 徐々に拡大してきたオリエントの交易圏を完全に包む形でこの帝国は成立します。
大統一国家の誕生でアラム人等は商売が容易に成りますが、因みにペルシア人の言語はペルシア語ですが、帝国支配の公用語としてはアラム語が使われています。

オリエント史・続く・・・

2013/01/24

歴史のお話その20:オリエント史⑤

<オリエント史⑤>

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ニネヴェ王宮復元図

◎アッシリア

 紀元前8世紀から紀元前7世紀、メソポタミアからエジプト迄のオリエント全域をアッシリア帝国が統一しました。
この国を建国したアッシリア人はセム語系です。
紀元前20世紀以前から、ティグリス川上流の都市アッシュールを中心に交易活動等を行い、古バビロニア王国やミタンニに服属していたのですが、紀元前14世紀に、一時独立を回復しますが、その後暫くは目立った活動はありませんでした。

 紀元前9世紀頃から急速に勢力を伸ばし始めますが、この時期から、オリエントは鉄器時代に突入し、アッシリアはこの新技術を取り入れると同時に、常備軍を組織しました。
そして騎兵隊を導入するのですが、当時の馬には未だ鞍もあぶみもついていません。
騎兵が鞍が無い状態で槍を持って敵をつくと反動で馬のうしろに落下し、あぶみ無しで剣を振りおろすと馬の横に滑り落ちる事に成り、騎兵隊の武器は弓を使っていました。

 紀元前8世紀末サルゴン2世の時から首都をニネヴェに定め、飛躍的に領土を拡大し、その後、一時はエジプトも支配下に治めて約100年間の絶頂期を迎えます。

 アッシリアは全国を属州、属国として、多くの民族を支配したのですが、その支配過酷でした。
抵抗した都市の住民の生皮を剥いで城壁に貼りつけ、串刺しにし、力で押さえつけるものですが、
その代表が「強制移住政策」というものです。
この政策は、前回の「ユダヤ人のバビロン捕囚」でも述べましたが、抵抗しそうな地方の民族を総て別の場所に移住させるものです。
生活の基盤を奪われて、一から生活を築いていかなければ成らない為、強制移住を強いられた民族はアッシリアに抵抗する力は在りません。

 しかしながら、この様な強圧的な力による支配は強そうで、その実は脆弱なのです。
支配といは飴とムチを上手に使い分けるものですが、アッシリアの場合は強権だけの政策でした。
100年程、最盛期が続いた後は、各地で反乱が頻発し、一気に衰退の道を辿り、北方のスキタイ人の攻撃と支配下のカルデア人、メディア人等の反乱で首都ニネヴェは紀元前612年に陥落し、紀元前609年、アッシリア帝国は滅亡しました。

◎四国分立時代

 アッシリア滅亡後、オリエントには4つの国が成立し、四国分立時代(紀元前612年~紀元前525年)と呼びます。

 メソポタミアからシリアにかけてのいわゆる「肥沃な三日月地帯」を中心に建国したのが新バビロニア王国、カルデア王国とも呼ばれ、バビロニア南部に居住するカルデア人の建国で、都はバビロン。
この国王ネブカドネザル2世は、ユダ王国を滅ぼして「バビロン捕囚」を実行した人物です。
これは、アッシリアの政策を受け継いでおり、アッシリアもイスラエル王国を滅ぼした時に強制移住を行なっていますから、ネブカドネザル2世の時だけが何故バビロン捕囚として、ユダヤ教成立に大影響を与えたか。不思議に思うのです。

 小アジアに建国したのがリディア王国、この国は最古の鋳造貨幣を造った国で、ギリシア方面とシリア、メソポタミアを結ぶ交易路に位置した事と関連があるのでしょう。
かつて、ほぼ同じ場所にあったヒッタイトで最古の製鉄が行われている事を考えると、この地域は何か特殊な金属加工についての伝統があったのかもしれません。

 イラン高原を中心にできたのが、メディア王国。

 エジプトは独立を回復してサイス朝が成立します。

オリエント史・続く・・・

2013/01/23

歴史のお話その19:オリエント史④

<オリエント史④>

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ヘブライ人その2

 新バビロニアは、征服したユダ王国の民、約5万人を首都バビロンに強制移住させました。
この事件を「バビロン捕囚」と呼び、この時の国王がネブカドネザル2世です。
この強制移住政策は、被支配民族の抵抗を封じ込める目的で、当時は頻繁に実行されていましたが、ヘブライ人はこの捕囚を非常に深刻に受け止めます。

 ここからが、ユダヤ教成立の第2段階に成ります。
「何故、我々ヘブライ人はこの様な悲惨に遭遇するのか」と彼等は考えました。
普通「ヤハウェ神を信仰していても御利益がなく、民族として惨めな境遇に追いやられるなら、その様な神様の信仰等捨ててしまいたい」、考えるのですが、彼等は逆の発想をしました。
即ち「我々はモーセ以来の戒律を厳格に守り、ヤハウェ神のみに信仰を捧げただろうか」と、深く反省し、「戒律を厳守しない生活を送っていたから、神は我々にこの様な試練を与えたのだ」、と考えたのでした。
結果として、苦難の中でヤハウェ神に対する信仰が一層強まり、民族としての団結心が強化されたと考えられます。

 50年程バビロンに強制移住させられた後、新バビロニアの滅亡に対応して、彼等は故郷の地に帰ることが許されます。
故郷に帰った人々は、喜び勇んでヤハウェ神の神殿を建設し、一層熱心に戒律を守り宗教指導者のもとで生活をする様に成りました。
これを持って、ユダヤ教が成立したと考えます。

 やがて、ヘブライ人をユダヤ教を信じる人々として、ユダヤ人と呼ぶ様になっていきます。
彼等はユダヤ教を自民族の自己同一性として守りつづけ、結果としてシュメール人もアッシリア人も、アラム人も、フェニキア人も現在は多民族との同化が進み、単一民族としては存在しませんが、ユダヤ人は現在でも世界中で活躍しています。
中国人や、インド人の様に歴史に登場して以来同じ場所で活動して、現在まで存続している集団はとは異なり、ユダヤ人は後のローマ帝国時代に国を失いますが、国を失ってもユダヤ教を信じる事でユダヤ民族は存在しつづけたのです。

◎ユダヤ教の特徴

 最大の特徴が一神教である事。
唯一神しか信じてはならない宗教を形成したのはヘブライ人だけです。
それ以外の民族は様々な神を同時に存在させていて、時に応じて拝み分けています。
日本人は、正月には神社に行き、葬式はお寺の坊さん呼んでお経をあげ、結婚式はキリスト教会でと、様々な神様、仏様をその時々に拝んでいます。
ギリシア神話の神々やインドの神々を考えてもらえば、多くの神が共存しているのが一般的なあり方だと理解できると思います。
キリスト教が浸透する迄のヨーロッパ人もいろいろな神々を持っており、自然現象の中に多くの神々を感じる感性を我々同様、持っているようですが、この感覚は多くの民族に共通です。

 ヘブライ人だけが特別だった、と考えた方が自然です。
キリスト教、イスラム教も一神教ですが、二つともユダヤ教から生まれたものですから、突きつめれば一神教を生んだのはヘブライ人だけなのです。

「偶像崇拝の禁止」が2番目の特徴。
この部分は私達には理解し難い部分で、ここで偶像とは、仏像やその絵画、信仰の対象を彫刻に刻んだり、絵に描いたりしたものはみな偶像です。

 拝むべき神は唯一ヤハウェのみですが、彫刻を拝むと行為はヤハウェではないものを神として拝む事に成り、この時点で一神教から外れてしまいます。
十戒の二つめの戒律は「おまえは偶像を刻んではならぬ」と成ります。
この偶像崇拝の禁止はユダヤ教から生まれたキリスト教、イスラム教にも受け継がれます。
キリスト教の神も、イスラム教の神もユダヤ教と同じ神、ヤハウェですが、キリスト教のイエスやマリアの絵は存在しても、ヤハウェの図像は描かれていません。

 3番目の特徴として、ユダヤ教には選民思想が存在します。
バビロン捕囚の中でヘブライ人達は自分達が惨めな生活を強いられている理由を考えます。
そして自分達の運命を合理化して「神は自分達を選んでいるから、試練を与えてくれている」と考えました。
ヘブライ人は、神からその名を教えて貰っていますから、特別と考える事も当然かも知れません。
他の民族は神から選ばれていないから、試練すら与えられていない、最初から神に見捨てられていると考えたのです。

 「だから、最後の審判の日にはヘブライ人のみが救われるのだ」と成るのです。
その為、ユダヤ教はユダヤ人という範囲を越えて他民族に広がる事は少なかったのです。
のちに登場するイエスはユダヤ人で、ユダヤ教の改革者として布教活動を行いますが、イエスはこのユダヤ教の排他性を取り払った人なのだと思います。

 4番目の特徴。
バビロン捕囚の辛い経験の中から、ヘブライ人は何時か救世主が現れて自分達を救い出してくれる、と云う願望を持つ様に成り、この考えを救世主待望思想と呼びます。
イエスが登場した時に彼を救世主と考える人々が、後にキリスト教を形成して行くのですが、救世主をギリシア語でキリストと云います。
当然、イエスを救世主とは考えない人も多数存在しており、この人々は現在に至る迄ユダヤ教です。

 最後にユダヤ教の経典が旧約聖書ですが、旧約聖書と云う名称はキリスト教の立場からの言い方です。
旧約の意味は古い契約・約束の意味で、契約は、神と人間との契約。
アダムとイヴからはじまって旧約聖書は、神と人の約束をめぐる物語と言って良いでしょう。
古いと云うのは、キリスト教の立場から、イエスと神の契約を新しい契約「新約」と考える処から名づけられたものです。
 
 旧約聖書はイスラム教でも尊重される聖典で、イスラム教は旧約聖書は認めますが、イエスを救世主とはせず、並の預言者として考えます。

オリエント史・続く・・・

2013/01/22

歴史のお話その18:オリエント史③

<オリエント史③>

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セシル・D・デミル「十戒」パラマウント映画1956年度作品より

ヘブライ人

 彼等はその宗教で、後の時代に大きな影響を与える事に成ります
ユダヤ教はやがて、キリスト教、イスラム教の基礎と成りました。

 ヘブライ人は部族集団に分かれて、オリエント地域の到る処で遊牧を中心に暮らしていました。
紀元前1500年頃、一部がパレスチナ地方に定住を開始し、一方別の集団はエジプトに移動しました。しかしながら、エジプトでは、彼等の境遇は悲惨でファラオから次々と圧迫をうけるのですが、聖書にはエジプトを「奴隷の家」と表現される程でした。
そこで、エジプトから逃れようとするのですが、これが有名な旧約聖書の「出エジプト(Exodus)」の物語に成ります。

 時は紀元前13世紀頃、脱出するヘブライ人達を導いた人物がモーセです。
聖書ではモーセは神に導かれ、様々な奇跡を起こしながら、ヘブライ人をエジプトから脱出させるのですが、そのクライマックスが紅海の道を渡る物語です。
チャールトン・ヘストン主演の『十戒』でも描かれているので、私達にも馴染みのあるお話です。

 映画では逃げるヘブライ人の集団を追ってファラオの軍勢が迫って来ますが、モーセ一行の前には紅海が広がり逃れる場所は在りません。
「こんな事なら奴隷でもいいからエジプトにいるべきだった」等の言葉も出る始末ですが、モーセが皆に向かって「主の救いを信じなさい」と叫び、持っている杖を海に差し出すと、暴風が吹いて海が二つに割れ、海の底に道が現れます。
ヘブライ人達はその道を通って逃げる事が出来ましたが、後から追いかけてきたファラオの軍勢が海の道に入ると、とたんに海水の壁が一気に崩れてきて兵士も馬も皆溺れ死んでしまいます。

 現実に起こった現象では無いものの、苦難の末にヘブライ人達が、エジプトから逃げてきた事を象徴している物語と思います。

 エジプトから逃れたモーセ達はシナイ半島に入り、此処で、モーセは神の声に導かれてシナイ山に登ります。
山に登ったモーセに神が語りかけるのですが、此処がユダヤ教成立の第1段階です。
その言葉は「神様は唯一」「他の神様を信じてはならぬ」、これが一神教です。

 旧約聖書では、「私は御前の神ヤハウェ、エジプトの地、奴隷の家から御前を導き出した者である。御前には私以外に他の神が在ってはならぬ。……」
この様に、神の戒自が十個続きますが、宗教なので命令ではなくて戒律なので、「十戒」と呼ばれ、モーセが神と結んだ契約です。
神はこの十戒を自らの指で2枚の石版に刻んでモーセに授け、モーセは山から下りて、ヘブライ人たちに教えを伝えます。

 その後、モーセに率いられたヘブライ人の集団は放浪生活を続けるのですが、長い年月(一説には40年)の後に、ヨルダン川を渡りパレスチナ地方に定住したようです。
 
 さて、このモーセに関する話、余りに非現実的なので、このまま歴史として信じる方は少ないと思いますが、ヘブライ人達がこの物語を信じていた事は明白で、そして信じる事によって彼等は歴史に独特の足跡を残すのです。

 現実の歴史としては、ヤハウェ神への信仰と十戒を持つ様になったヘブライ人達は、紀元前10世紀に自分達の国家を建設します。
この国家がヘブライ王国で、場所は現在のイスラエルとほぼ同じ、首都はイェルサレム。
この町は、後世にイエスの活躍の舞台に成り、イスラム教を伝授したムハンマドが天に昇った場所とされていて、現在でもユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地なのです。

 ヘブライ王国は、ダヴィデ王、ソロモン王の時代に中継貿易で繁栄しますが、そののち南北に分裂、北部に成立した国家がイスラエル王国(紀元前932年~紀元前722年)、南部に成立した国家がユダ王国(紀元前932年~紀元前586年)。
イスラエル王国はアッシリアにより征服され滅亡し、ユダ王国はアッシリア時代には、国家を維持しますが、アッシリア滅亡後のメソポタミアに成立した、新バビロニア王国に征服されました。

オリエント史・続く・・・
2013/01/21

歴史のお話その17:オリエント史②

<オリエント史②>

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◎オリエント地方で独自の活動をした民族

アラム人

 アラム人、彼等は内陸貿易で活躍する商業民族で、中心都市がシリアのダマスクス。
彼らが中継貿易で活躍したのは理由が在り、アラム人は、初めて「らくだ」を運搬に利用したのです。
更にアラム語は、後にギリシア語が共通語になる迄は、商業用語として広まり、この地方の共通語になっていきます。
イエスの時代もアラム語が共通語で、彼もアラム語を話していました。
アラム文字も内陸部に伝えられ、インドや中央アジアで使われた文字の起源は皆アラム文字で、有名なものでは、ソグド文字、ウイグル文字、突厥文字があります。

◎地中海東岸の諸民族

フェニキア人

 地中海貿易で活躍した海洋民族がフェニキア人です。
中心都市はシドン、ティルス、アフリカ北岸には彼等の植民都市カルタゴが在ります。
カルタゴは後に、ローマと地中海の覇権を巡って死闘を繰り返す事になります。

 フェニキア人が海洋民族として活躍できたのにも理由が在るのです。
彼等の居住地は現在のレバノン、前に「ギルガメッシュ」でも触れましたが、当時は未だレバノン杉が豊富な為、その杉材を利用して船を建造したのです。
更に、レバノン杉自体が、重要な交易品と成りました。
フェニキア文字は、ギリシアからヨーロッパに伝えられアルファベットの原型と成りますが、本来商人達が帳簿を付ける為に考案された文字なので書き易く読み易いものでした。
一般の民衆に開かれた文字ですが、例えばエジプトの神聖文字等は、神官、書記等支配者だけに独占された文字なのです。
従って、伝える者が途絶えると解読不可能に成りましたが、その点がフェニキア文字との違いです。

余談:フェニキア人のアフリカ大陸周航

 ポルトガル人の西アフリカ探検に先立つ2000年前の事、「スエズからジブラルタル海峡迄、アフリカ大陸を周航した」と云う、フェニキア人の言葉を信じる人物は誰も居ませんでした。

 この話の中で、最も信用されなかった部分は、アフリカの南端を回った時、真昼の太陽が自分達よりも北側に位置していたと云う部分で、古代社会では、太陽は常に自分達の位置から南側と、誰も信じて疑わなかったのですが之は、北半球で生活する人間に取っては、当然の常識でした。

 偉大なギリシアの歴史家ヘロドドスは、このフェニキア人の話を紹介していますが、彼でさえ、こんなばかげた話は無いと一笑に伏しています。
しかし、フェニキア人の冒険家が、その言葉とおりにアフリカ大陸周航を実行した事は、事実なのでした。

 彼等は、「喜望峰を回って西へ進んだ時、真昼の太陽が右手に見えた」と語り、古代人達は、この話しを聞いて、彼らの話は、嘘の固まりだと思い込みますが、古代人がフェニキア人の嘘の証拠とした証言が、現代から見れば、彼らが本当にアフリカを回ったと信じる根拠になっている事が、大変興味深く思われます。

◎古代エジプト人の思考

 地中海と南回帰線の南では、太陽の位置が反対に成ります。
いくら、海洋民族のフェニキア人でも、この様な事柄を考えつく事は、不可能に違いなく、実際に自分の眼で検分しない限り、思いも因らぬ事なのでした。

 この航海自体は、古代エジプト王 ネコ2世が紀元前600年頃に計画した事でした。
エジプトの東海岸の紅海から、西海岸のアレクサンドリア迄航海する事が可能であれば、人の交流、物資の交流がより便利になるに違いないと考えたのでした。
紅海からアレクサンドリア迄、船で行くには、砂漠に運河を掘る手段が在りますが、ネコ2世は、アフリカ南海岸を回って現在のモロッコに行く方法が、最も簡便な方法と考えたのでした。

 しかし、エジプト人は航海に秀でた民族では無かったので、ネコ2世は、当時地中海を縦横に航海していた、フェニキア人を雇い入れます。
50本の櫂を持ったガレー船で船団を組み、紅海を南下し、アフリカの南端を回って、現在のジブラルタル海峡である「ヘラクレスの柱」迄行くように命じたのでした。

◎未知への船旅

 フェニキア人の船乗り達も、この冒険を大変喜んで引き受けました。
当時、ライバルで在ったギリシア人が押さえている海域を通過する事無く、西に向う海路を捜していたのでした。
しかし、此処で最大の問題は、ネコ2世もフェニキア人も、是から向うアフリカ大陸が、如何なる形で、如何に広大なのか、知る術は無かったのです。

 彼の航海を際限してみると、出帆は11月、アフリカ東端のグアダフイ岬に向かい、此処で船首を南西に向け、季節風に乗りました。
海岸線が西に曲がる日を今日か、今日かと期待しながら、航海を続けましたが、その日は一向にやって来ません。

 太陽が次第に北へ北へと移って行く事を彼らは、気づきながら船を進めました。
航海に目安となる、北極星は今や全く姿を消し、彼らも途方にくれた或る日、海岸線は大きく西へと曲がりました。
船は、アフリカの南端部分を900km進み、出帆の翌年5月、現在の喜望峰を回り、針路を北へと変えたのです。

 アフリカの北西部は大きく張り出しています。
この部分を回る為に、更に10ヶ月の苦しい航海を続けなければ成りませんでしたが、終にジブラルタル海峡を望み見る事が出来ました。

 紅海を出帆してから、2年以上の歳月と24000kmの航海を成し遂げた船団は、順風満帆、地中海をエジプトへ向かいました。
しかし、彼らの偉業が認められるには、其れから更に、2000年の時間が必要でした。

オリエント史・続く・・・
2013/01/19

歴史のお話その16:オリエント史①

<オリエント史①>

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◎インド=ヨーロッパ語族

 メソポタミア地方、エジプト、更にイラン高原や小アジアを含めた地域をオリエント地方と総称します。ヨーロッパから見た表現なのですが「東方」という意味です。

 メソポタミア地方ではシュメール人の都市国家、アッカド王国、古バビロニア王国は、最初に「メソポタミア文明」で紹介しましたが、この地域はシュメール人を除いてセム語系民族なのですが、紀元前2000年頃から、新しい民族が登場します。
これがインド=ヨーロッパ語族なのです。
 
 此処で云う語族は、現在の様な厳密な民族研究に基づくものでは無く、言葉の系統が同じと云う意味です。
紀元前2000年から紀元前1000年にかけての1000年間は、インド=ヨーロッパ語族の大移動の時代です。
彼等の本来の居住地は何処なのか、何時頃、形成された民族なのか現在も模糊としていますが、黒海、カスピ海の北方から移動してきたと考えられています。
推測ながら気候の変動が原因で移動を開始したのではないでしょうか?

 一つの集団は、イラン高原に南下した後、東に向かい、インダス川を越えてインドに侵入しました。これがアーリア人で、以前からインドに定住していた諸民族と共に現在のインド文明を築きます。
 イラン高原に入った集団はペルシア人に成りました。
 西方に移動したグループは、ギリシアに南下した集団がギリシア人、イタリア半島に入った集団がラテン人となり、黒海北岸から、ドイツにかけて定住したグループがゲルマン人と成りました。

 当然、当時最も豊かなメソポタミア地方に移住した集団も存在し、その彼等が最初にこの地域で形成した国家がヒッタイト、ミタンニ、カッシートの三国です。

◎ヒッタイト

 ヒッタイトは紀元前1600年頃、古バビロニア王国を滅亡に追い込み、小アジアに建国します。
この国は史上初めて鉄器を使用しますが、周辺の諸国はまだ青銅器ですから、鉄の武器を持ったヒッタイトは強国に成長します。
当然ですが、製鉄技術はヒッタイトの国家機密として門外不出で、ヒッタイトが滅んで初めて製鉄技術は各地に広まります。
 もう一つが戦車(戦闘用馬車)で、ヒッタイトの戦車には画期的な工夫が車輪に施されています。
スポークを使用しているのですが、以前の車輪は丸く切った板を張り合わせなので、重量が在ります。スポークの採用によって車輪の軽量化が実現され、戦車のスピードが速く成りました。
スポークの使用はヒッタイトが最も初期です。

 ヒッタイトは、エジプト新王国とシリア地方の領有権をめぐって対立関係にありました。

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 古バビロニア滅亡後、メソポタミアの北部に建国した国家がミタンニで、エジプトのイクナートンの妃ネフェルティティは、ミタンニからエジプトに嫁いだと云われています。

 メソポタミアの中南部に建国した国家がカッシート。
彼等は、それまで縦書きだったくさび形文字を横書きに変更しました。

 やがて、ミタンニに服属していた小国アッシリアが、ミタンニの弱体化に乗じて発展し、紀元前8世紀から紀元前8世紀にかけてオリエントを統一する帝国を建設する事と成ります。

オリエント史・続く・・・
2013/01/18

歴史のお話その15:エジプト文明⑧


<エジプト文明⑧>

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余談・ピラミッドのお話

 エル・ギザ(ギゼー)のピラミッドは、何れも第四王朝(紀元前2600年~紀元前2480年)に造営されたもので、最大のピラミッドは、ケオプス(クフ)王のものと云われています。
次位がカフラ(ケフレン)王、三位に位置するものがメンカウレ(ミュケリノス)王のものと云われています。


 ケオプス王のピラミッドはその底辺の長さ233m、夫々の面が東西南北に面し、その誤差は最大1度につき12分の1の過ぎず、四つの角は、ほとんど完全な直角をなしています。
入口の通路と小さな内室を除けば、総ては石灰岩で形作られています。
このピラミッドを構成する、石灰石のブロックの総数は、230万個とも250万個とも推定され、その総重量は684万8千tに達すると計算されています。

 これ等の石灰石は、ナイル河の東岸、カイロ近郊のモッカタム丘陵の採石場から、切り出されました。
モッカタム丘陵には、洞窟の様な砕石場所の跡が、現在でも存在しています。
後世のアラブの人々は、大変迷信深かったので、この場所に足を踏み入れる事は、殆ど無かったと伝えられています。
この洞窟の奥で、葦を用いて作られた長い網が発見され、当時のエジプト人作業員の残した遺物として、貴重な遺産と成りました。

 「歴史の父」と呼ばれるギリシアの歴史家ヘロドトス(紀元前484年~紀元前425年)は、このケオプス王のピラミッド造営について次の様に、推測しています。
「石を切り出し、筏で運び、工事用の道路を作り、ピラミッドの基礎工事を行うだけでも、少なくとも10万人の奴隷が10年を費やし、更にその形に組み上げる迄に20年以上の歳月を経たであろう」と。

 ピラミッド造営の頃、エジプトには車輪、動物を動力にすると云った運搬方法は皆無で、梃子とコロ以外は人力に頼らざるを得ませんでした。
何百人もの人力によって、採石場から運ばれた、巨大な石材は、筏に乗せられて河を渡り、対岸に到着すると再び人力によって、造営地点に運ばれました。
陸上では、丸太を利用したコロを使用し、石材の重量でコロが沈み込まない様、その道路は石畳によって、一種の舗装道路とされました。

 石材を階段状に積み上げる作業は、傾斜路と滑車を用いて、ロープの力で引き上げて行きましたが、階を重ねるに従い、傾斜路をより遠方から整備したと云います。
この作業だけで10年以上、いったい犠牲者の数はどれ程に成るのでしょうか?
唯、ピラミッドの様な巨大建造物が、紀元前のこの時代に造営された事は、驚異であり21世紀現在の土木、建築技術を駆使しても同規模のものを造営する事に、どれ程の時間が掛かるのでしょう?

 230万個とも250万個とも推定された石の1個当たりの重量は、平均2500kg。
総重量は684,万8千tに達すると計算される建造物ならば、長い年月の間に基礎が沈下し、崩壊や歪が発生するのでしょうが、エジプトのそれは、何の狂いも無く聳え立っているのです。

 では、何の為に、ピラミッドは造営されたのでしょう?
一人の権力者の墓所、そして現在エジプトに残る70基余りのピラミッドも其れであると云います。
唯、権力者の遺骸を収容する為に、膨大な物的人的資源を利用し、極めて長期間に渡って働いた事実も現在では、奇跡に近いお話なのです。
只、一つの遺体を保護する事意外、特別な目的を持たず、膨大な資材と10万人とも云われる労働者を動員し、しかも20年間も働かせ続ける事は、現在の私達から考えても奇跡に近いと思われます。

 当時のエジプトで広く信じられていた宗教では、人間の霊魂は一度死ぬとその肉体を離れるものの、後に再び元の体に返って生き返ると考えられていました。
当然、エジプト人は、遺体をミイラにして大切に保管しました。
ミイラの製造方法には、庶民の行い方から、貴族、聖職者、ファラオと夫々に違った工程が存在し、特にファラオは、崇拝されていたので、最高の方法でミイラにされ、ピラミッドに収められたと考えられています。
ファラオが崩御した後、黄泉の国での生活に困る事が無い様、身の回りの考えられる全ての物や、黄金、宝石が収められたのでした。

エジプト文明・終わり・・・
2013/01/17

歴史のお話その14:エジプト文明⑦

<エジプト文明⑦>

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王家の谷での発掘作業

◎ツタンカーメンその3

 ツタンカーメン自身ついて、彼はイクナートンの息子と推定されています。
イクナートンが32歳で病死した後、王位に即くのですが、エジプトの王位は王の血統を継ぐ娘を妻にする事によって正統なものとされます。
ツタンカーメンはイクナートンの娘アンケセナーメンを妻にして王になりました。
アンケセナーメン自身は、ツタンカーメンより何歳か年上なのですが、一緒に育てられた幼年時代から一緒に暮らしていた様です。
遺宝の中に少年王ツタンカーメンと若い妻アンケセナーメンが、仲睦まじく描かれている玉座も残されています。

 このアンケセナーメンですが実は2回目の結婚でした。
一人目の夫は誰あろう実の父イクナートンなのですが、イクナートン自身はアメン神官団との対立の中で自分の王位を強化する目的で、王の娘、自分の娘を妻に加えたと思われます。
父であり夫であるイクナートンが崩御して、彼女は幼なじみのツタンカーメンの妻に成りました。

 ツタンカーメンは即位の時、僅か8歳の少年なので、実際に政治を司ってはいないと思います。
執政としてアメン神官団の力が盛り返し、イクナートンの宗教改革を総て取り去ってしまいました。
この時代、実際に政治を取り仕切っていたのが、三人のファラオに仕えてきた老大臣アイと将軍ホレンヘブです。
因みに、ツタンカーメンの死後ファラオとなったのは労大臣アイでした。
そして、アンケセナーメンの3人目の夫でも在りました。

 さて、その後も新王国は対外活動に積極的で、シリア方面で外交活動を続けています。
紀元前1285年カデシュの戦いは、新王国とヒッタイトとの戦いでした。
この戦いは、戦争の歴史から見ても重要で、ヒッタイトは史上はじめて鉄器を製作、利用した国で在り、エジプトは青銅器なのです。
鉄器対青銅器の衝突で、結果はヒッタイトの勝利に終わったと思われます。
尚、この戦いの記録が、エジプトでも、ヒッタイトの領土で在った小アジアでも出土しているという点でも有名です。

 これ以後、エジプトは「海の民」と呼ばれる人々の侵入をうけて徐々に国力を落とし、紀元前671年にはアッシリアに占領されます。

余談・墓泥棒

 王家の谷は、厳重なカラクリを施しても、何時かは墓泥棒に荒らされてしまう現実から、トトメス1世の時、初めて王族の埋葬場所を隠す目的で造営された岩窟墓所でした。

 それ以前のピラミッドの玄室は、入口を厳重に塞ぎ、その入口自体も更に厳重に偽装されましたが、盗掘の被害を免れる事は、殆ど不可能でした。
西暦818年、イスラムの支配者 ハルン・アル・ラシッドの息子、アル・マモウムがエジプトのカリフに成った時、彼はピラミッドの中には、膨大な金銀宝石がケオプス王のミイラと供に、眠っていると聞き、その古えからの伝承を信じて、発掘作業を実行しました。

 ピラミッドは、厳重に封印されている様子で、本来の入口は発見出来ませんでしたが、彼は多くの労働者を動員して、石のブロックに横穴を穿ちながら、前進して行きました。
石の硬さと道具の貧弱さから、何度も諦め掛けた時、偶然の一撃が本来の回廊の壁を打ち抜いていたのでした。
結果は、残念ながら金銀宝石も巨大な墳墓の主の遺骸も既に遥かな昔、略奪されていたのですが、アル・マモウムの努力は、現在の私たちに取って全くの無駄ではなく、彼の穿った通路のお陰でピラミッドに内部に入る事が出来るのです。

エジプト文明・続く・・・
2013/01/16

歴史のお話その13:エジプト文明⑥

<エジプト文明⑥>

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◎ツタンカーメンその2

 彼が発掘現場に着いた時、作業員頭のアリが走ってきて叫んだのです。
「岩を刻んだ階段が出てきた!」
そして、2日目、封印された扉に通じる急な階段が掘り出され、カーターは直ぐに、カーナボン卿に電報を打ちました。

 「終に、谷で素晴らしい発見、盗掘の痕跡の無い封印のある壮大な王墓。到着迄は、元通り埋め戻しておきます。おめでとう」。

日付は、1922年11月6日の事でした。

 カーナボン卿の到着を待ち、数日かかって扉を壊し、石が詰まった通路を整備し、そして二人は第二の封印された扉の前に立ちました。
其れは、考古学者ハワード・カーターにとって、重大な瞬間でした。
カーナボン卿が肩越しに覗き込んでいる間に、カーターは扉の一部を削り、明かりを差し込んで、中を覗けるだけの穴を開けました。

彼は次の様に書き残しています。

 「初め、私は何も見えなかったが、内部から流れ出す熱い空気が炎をゆらめかせた。しかし、目が明かりに慣れるにつれ、靄の中から、ゆっくりと部屋の中の細かい様子が見えて来た。奇妙な動物、彫像、そして黄金、あたり一面、黄金が輝いていた。少しの間、私は驚きにあまり、口が聞けなかったが、側に立っている人々には、その時間が永遠と感じられたに違いない。カーナボン卿は、この沈黙に耐えられず、心配そうに訪ねた。『何かみえますか?』私は只、『ええ、素晴らしいものです』と呟く事しか出来なかった。」

 王墓は、4つの部屋からなり、其処には宝石箱、壺、宝石のはまった金張りの玉座、家具、衣装、武器等が詰まっていました。
埋葬室には、2体の黒い彫像に側面を守られ、4重の金色の厨子と、内側に3重の棺を納めた石棺が在りました。

 いちばん内側の棺は純金で、作られており、宝石を散りばめた経帷子に包まれて、ツタンカーメン王のミイラが納められており、顔は水晶とラピスラズリを象眼した、黄金のマスクで覆われ、首から胸にかけて、ヤグルマギク、ユリ、ハスの花で作られた、花輪が置かれていました。
3300年の時を経過したにも関わらず、その花は、まだ微かな色合いを残していたのです。
カーターは、ツタンカーメンの遺物のなかで、黄金や宝石でできた多くの副葬品よりもこの花輪が一番胸を打ったと語っています。
愛する夫を失ったアンケセナーメンが、最後の蓋を閉める前にそっと置いたのかも知れませんね。

 王墓の中には、キリストがこの世に現れる、1350年前のエジプトの伝説的なファラオの日常生活が、そっくりそのまま納められていたのです。
この発掘作業は、考古学史上の発見の内でも、もっとも素晴らしいものの一つでした。

 一番有名な黄金のマスクは、ツタンカーメンのミイラの上にかぶせてあったものです。
ミイラは四重の厨子、石棺、三重の人形棺の中に入れられており、一番内側の人形棺は黄金製、そのほかにもアマルナ芸術の影響もあるのか、芸術性の高い遺宝が2000点も発見されましたが、これでも王墓の中では異例に小さいものと云われていますので、栄華を極めた大王の王墓にはどれ程の財宝があったか想像もできません。

エジプト文明・続く・・・
2013/01/15

歴史のお話その12:エジプト文明⑤

<エジプト文明⑤>

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◎ツタンカーメン

 ツタンカーメンの正式名は、トゥット・アンク・アメン。
アメン神の名前が残るこのファラオは、その王墓に残された財宝で大変有名です。

 この時代の王族の墓は、王家の谷に集中していますが、その殆ど総てが長い歳月の間に、盗掘されています。
19世紀からヨーロッパ人による発掘が、本格的に始まりますが、完全な形の王墓が発見される事は在りませんでした。
そしてツタンカーメン王の墓だけは、発見される事も盗掘される事もなかったのです。

 盗掘されなかった理由の一つは、ツタンカーメンが当時無名の王様で在り、8歳から18歳位迄在位しただけの少年王で、格別な業績も記録されていなかったのでした。
当然ながら王墓も大変小規模で、墓泥棒が見逃す程でした。

 もう一つ理由は、ツタンカーメンの後の時代にラムセス6世と云う偉大なファラオが存在し、その大規模な墓がツタンカーメンの墓のすぐ横に造営されるのですが、その工事の為の人夫小屋がツタンカーメンの墓の上に造られてしまいました。
その為、ツタンカーメンの墓は隠れてしまい、やがて、歳月と共にその存在も忘れられてしまったのです。

 発掘したのはイギリス人ハワード・カーター、発掘する為にはエジプト政府の許可が必要ですが、それまで発掘権を持っていたアメリカ人学者が、王家の谷には新たな発見は無いと判断して、発掘権を返上した結果、発掘許可を与えられたのでした。

 ハワード・カーターは、次第に絶望的になって行きました。
彼は25年近くも、少年王ツタンカーメンの墓を探し続けてきましたが、発掘の資金は、既に尽き様としていました。
更には、仲間達の間からも、次第に疑問の声が、上がり始めたのです。

 この英国人考古学者は、その墓が古都テーベの地に在る、王家の谷の何処かに存在する事に、間違い無いと確信していました。
彼がそう信じた理由は、近郊のルクソールの神殿に、ツタンカーメンに関する碑文が存在する事、又その王墓は依然として略奪を受けていないと考えました。
是まで、ツタンカーメン王の遺品が、何一つ報告されていない為でしたが、発掘を開始してから10年間に発見された物は、壺が数個と王に名前が入った、衣類程度に過ぎませんでした。
その後には、谷を隈なく掘り返しても、何の成果も在りませんでした。

 カーターは明け方の涼しい砂の上を、発掘現場に向かって、ゆっくりと歩きながら、彼の後援者で、アマチュア考古学者のカーナボン卿の事を考え、イギリス、ハンプシャーの館での最後の話し合いを思い出していました。

 カーナボン卿は、発掘の中止を望んでいましたが、カーターはもう一度、最後の費用を捻出する事を訴えたのでした。
カーナボン卿は言いました。
「先生、私は賭博師のようなものだ。もう一度、君に賭けよう。もし、失敗したら、それで終わりだ。何処を掘ろうと言うのかね?」
カーターは、王家の谷の地図を見せながら、ラムセス6世の墓への出入口になっている為、未だ未調査の小さな区画を示して言いました。
「此処です!残っている最後の場所です!」

 今、発掘現場に近づきながら、カーターは此れが、彼の夢の侘しい結末らしいと考えており、彼と作業員は、此れまで3ヶ月間、その場所を掘り返したものの、何も発見できませんでした。

エジプト文明・続く・・・
2013/01/14

歴史のお話その11:エジプト文明④

<エジプト文明④>

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ネフェルティティ(ネフレテリ)ベルリン・エジプト博物館

◎イクナートン

 アメンホテプ4世、別名イクナートン(紀元前1379年頃~紀元前1362年頃)です。
エジプトは多神教の世界で、様々な地域に其々固有の神様が祀られており、時代と変化と共に信仰も変化するのですが、新王国で最も信仰されていたのがアメン神です。
そしてアメン神に仕える神官達の勢力が、王権を左右する程に非常に大きくなって行きました。

 アメンホテプのアメンは神の名前に由来していますが、アメンホテプ4世自身は神官達が、神の名を騙って政治に介入するのを嫌いました。
しかし、神官の背後には神が存在する為、真っ向から対立することは、殆ど不可能でした。
此処に、エジプト史上最初の宗教改革が断行されます。

 ネフェルティティ(ネフレテリ)は、第10代の王イクナートン(アメンホテプ4世)の王妃でした。
彼女の名前の由来は、「美女は来たりぬ」と云う意味なので、ネフェルティティ(ネフレテリ)は、外国から嫁いで来た美女になります。
古代エジプトの三大美人とも云われる、大変美しい人物でした。

 そして、彼女は王妃と成り、是までのエジプトの宗教を一変させた女傑でもありました。
彼女はアメンホテプ4世の為にそれ迄の神々の一切を否定し、太陽神、中でも夕陽の太陽「アテン神」のみを信仰する宗教改革を断行します。
しかも夫であり、国王のアメンホテプ4世の名前まで変える徹底ぶりで、「アメン」=「満足する」という意味を、アクエンアテン(=アテンに捧げる)へと改名しました。

 ネフェルティティ(ネフレテリ)が、エジプトの神を統合し、彼女は後の宗教家達に多くの影響を与えました。
ユダヤ教徒もキリスト教徒も、ネフェルティティ(ネフレテリ)が、自分達の宗教の基を創ったと考え、大変な信仰を受けています。
このネフェルティティ(ネフレテリ)の姿を表わしているものとして、最も有名なのが、ベルリンのエジプト博物館に存在する、彼女の胸像なのです。

 更に、アメン神官団の勢力の強い首都テーベを遷都し、アマルナ(テル・エル=アマルナ)を建設します。
イクナートンとネフェルティティは、古代エジプトの宗教改革者と呼ばれているのです。

 彼の時代は、芸術も従来の様式から抜け出して、非常に写実的な彫刻などがつくられます。
イクナートンの像も残っていますが異様に写実的で、この時代の芸術をアマルナ芸術と呼びます。

 しかし、ファラオとアメン神官団との対立は激く、イクナートンが崩御すると、次のファラオによってアトン信仰は捨てられアメン信仰が復活しました。
次のファラオが有名なツタンカーメンなのです。

エジプト文明・続く・・・
2013/01/12

歴史のお話その10:エジプト文明③

<エジプト文明③>

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◎古代エジプト史の流れ

 古王国(紀元前2700年~紀元前2200年頃)
 中王国(紀元前2100年~紀元前1700年頃)
 新王国(紀元前1600年~紀元前1100年頃)

それぞれの隙間の期間は中間期と云い、エジプトが一つにまとまっていなかった時期です。

 古王国、都はメンフィス、エジプトの下流地域を下エジプトと云い、ここに都が置かれました。
古王国はピラミッドが造られた時代で、最大のクフ王のピラミッドをはじめ、現存するピラミッドはすべてこの時代のものです。
 
 エジプトでは、王をファラオと云いますが、ピラミッドはそのファラオの墓だと一般には考えられていますが、墓と断定しない学者も多数存在します。
墓室が存在し、棺が在って、王墓ではないのと云われるのか?
実は今迄、あらゆるピラミッドから一つもミイラが発見された事が在りません。
一人のファラオが、複数のピラミッドを建設した例も在るので、単純に王墓ではないのかも解りません。

 次の中王国はナイルの上流、上エジプトのテーベが都。
中王国はエジプト初の外来民族であり、混成民族集団ヒクソスの侵入によって衰退しました。
ヒクソスは、アジア方面から侵入したのですが、その結果、馬と戦車がはじめてエジプトにもたらされました。
それまでのエジプトには、馬が存在しなかった為、外界とは孤立した世界だったのです。

 この時代、馬は騎乗する動物では無く、馬に乗って戦う為には、鞍とあぶみが必要ですがまだ発明されていないのです。
馬は戦車を牽かせる為に使い、御者が一人、そして弓を持つ兵士が一人乗って敵を狙いました。
エジプト兵は皆歩兵ですから、ヒクソスは圧倒的に機動力で優れていたのです。
その馬と戦車にエジプトは征服されますが、やがてエジプトはこの新戦法を自分のものとしてヒクソスを撃退します。

その結果成立した国家が、都をテーベとする新王国。
この時代のエジプトは馬と戦車で強国となり領土を広げ、シナイ半島を越えて、地中海西岸のシリア・パレスチナ方面に進出します。

 新王国の成立の少し前に、かつてハンムラビ国王が治めた、古バビロニア王国が滅亡し、この時期、メソポタミア地方中南部はカッシート王国、北部にミタンニ王国、小アジア地方にはヒッタイト王国が存在しており、新王国エジプトはこれらの国々と抗争をくりかえします。
やがてトトメス3世(紀元前1504年頃~紀元前1450年頃)の時にエジプトの領土は史上最大になります。

エジプト文明・続く・・・
2013/01/11

歴史のお話その9:エジプト文明②

<エジプト文明②> 

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◎エジプトの文化②

 洪水の水が引いた後、農民達はその上で農耕を開始するのですが、土地の境界線が増水の後は泥に埋もれて全然わからなくなります。
その為、エジプトでは測地術も発展します。

 文字は独特の絵文字を発達させ、鳥、獅子、秤等の象形文字が発達し、象形文字でも神聖文字、神官文字、民衆文字という字体が存在しました。

 この神聖文字の解読は、シャンポリオンによる研究成果が大きいのですが、18世紀末、フランスのナポレオンがエジプト遠征した際、遠征軍に165人の学者を引き連れて行きました。
強烈にエジプト世界に対して興味を持っていたのでしょう。
ナポレオンはエジプトで戦闘を交えながら、各地に部隊と学者を派遣して発掘作業を遂行し、発見されたのが「ロゼッタストーン」なのです。
高さ1メートル程の碑文には、国王を讃える布告が、神聖文字、民衆文字、ギリシア文字で刻まれていました。

 記念碑は、異なる言語を話す民族でも理解できる様に、同一内容を複数文字で記します。
ギリシア文字はアルファベットなので、碑文全体の解読の手助けに成りました。
ロゼッタストーンの発見によって、神聖文字解読の大きな手がかりが与えられたのです。

 ところがその後20年間解読は遅々と進まず、多くの研究者が神聖文字の絵の形に惑わされて、これを表意文字と考えたのです。
1822年、解読に成功したのがフランスのシャンポリオンでした。
彼は碑文の中の枠で囲まれたある一連の文字に注目したのです。
枠で囲まれているのは、重要な単語だからに違い無く、ではエジプトで重要な単語とは何なのか?
 
彼は、それが王の名前を表しているのではないかと考え、対応するギリシア文字の場所に、プトレマイオス、クレオパトラ等王の名が書かれていたのです。

 更に研究が進むと、絵文字のプトレマイオスのP、クレオパトラのPにあたる部分に同じ絵文字が(小さな四角の文字(□)で)書かれていました。
シャンポリオンは、絵文字が表意文字でなく表音文字である事をはじめて発見し、これ以降、解読は早いスピードで進行して行きました。
この解読成功によって、古代エジプトの歴史が一気に明らかに成り、そのロゼッタストーンは現在、大英博物館に展示されています。

◎精神世界

 エジプト人は死後の世界に対して独特の関心を持っており、彼等の死後の世界を描いたのが「死者の書」、冥界、黄泉の国を書いています。
死者の魂は黄泉の国に行って、神々の審議を受けます。
秤が在り、秤の左側に乗っているのが真実の羽、右側に乗っているのが死者の心臓を入れた壺。
この秤の審査に合格すると、再びこの世に再生できます。
このエジプトの死生観は、のちのユダヤ教、キリスト教の「最後の審判」に影響を与えたと云われています。

エジプト文明・続く・・・
2013/01/10

歴史のお話その8:エジプト文明①

<エジプト文明①> 

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◎「エジプトはナイルの賜物」

 エジプトでは紀元前5000年頃に農耕が始まり、紀元前2700年頃には統一王朝が成立します。
エジプトは周囲を砂漠に囲まれている為、メソポタミアの様な激しい民族の侵入や王朝の興亡は少なく、独特の文化を築きます。
 
 エジプトが文明を持ったのは、ナイル川と云う自然に恵まれた結果でした。
ナイル川が毎年もたらす肥沃な土壌と水が、エジプトの豊かな農業を可能にしました。
毎年ナイル川の定期的に発生する洪水で、上流から肥沃な土壌が流れてくる為、自然の力だけで地力が維持できるのです。
重要な事は、洪水が引いていく時に水の管理が、厳格に行えれば問題はありませんでした。

 「エジプトはナイルの賜物」、紀元前5世紀、ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉は有名です。
エジプトの衛星写真を見るとナイル川に沿った縁の部分が緑になっており、流域から少し外れると砂漠が広がっています。
 
 エジプト文明を形成した人々はハム系に属する言語系統で、現在のエジプト人はハム系の流れも汲んでいますが、アラブ人と混じり合っており、彼等自身もアラブ人であると自覚しています。

◎エジプトの文化

 エジプトの暦は太陽暦、1年365日です。

 ナイル川はティグリス・ユーフラテスの様に不定期な大洪水は発生しません。
1000キロ以上上流のエチオピア高原に降ったモンスーンの雨でナイル川は増水し、毎年決まった時期に同じ様なペースで水嵩が増していきます。
エジプト人は何時ナイル川が増水するか、最大の関心事であり、その時期に合わせて農耕の準備をするのです。

 神官達は、天体を観察しながら、ナイル増水の時を調べました。
7月中旬の明け方の東の地平線すれすれに、大犬座のシリウスが一際輝く時が在り、ちょうどその時からナイルが増水する事が解っていました。
翌年同じ場所にシリウスが輝く迄が365日、又その時にナイル川の増水が始まるのです。

 この様に形成された暦が太陽暦ですが、正確には太陽の動きでは無く、洪水周期かシリウスの周期運動暦なのですが、この暦が古代ローマ帝国からヨーロッパに伝わり、今日世界的に使われている暦の原型に成りました。

 1日を24時間と定めた文明もエジプトです。
エジプトは10進法で、初期には昼と夜をそれぞれ10に分けて20でしたが、昼と夜の境界の時間をそれぞれに付け加えて24にしたと云われています。

エジプト文明・続く・・・

2013/01/09

歴史のお話その7:メソポタミア文明⑦

<メソポタミア文明⑦>

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バビロンの空中庭園

◎空中庭園

 「空中庭園」は、新バビロニア王国のネブカドネザル2世が造営したと、伝えられる建造物で、浮かんでいるという意味ではなく、平地に土を盛り上げ、小山の様に形造った一種の人工の山ですが、草、花、木々を数多く植え、あたかも遠距離から望見すると、天井から吊り下げられた庭に見えるところから、その名前が生まれたのでした。

 ネブカドネザル2世がなぜ「空中庭園」を造ったのかについては、以下の様なお話が、現代に伝わっています。
「ネブカドネザルが、バビロンの王に即位した時、北方のメディア王、キアクセレスの王女を妃に迎えました。
メディアは山国で、果実と花に溢れる土地でしたから、その地で生まれ育った王妃は、平坦でしかも雨の降らないバビロニアが退屈で、何時も生まれ故郷であるメディナの緑の丘や木々、咲き乱れる花々の美しさを懐かしがっていたのでした。
其処で、王は王妃を幸せにする為に、故郷のメディナに在る如何なる種類の庭園よりも、美しい庭園をバビロンの地に造ろうと決心します。
王は優秀な建築家、技術者、工匠を各地から集め、その構想を実現しようと努めます。
王宮の広場の中央に縦横400m、高さ15mも土台を築き、その上に階段状の建造物を建てました。
最上階は、60平方m位の広さですが、高さは、105m(!?)、現在の30階建てのビルに匹敵するものでした。

 雛壇が完成すると、その上に何tもの土壌を運び上げ、一種の花壇を造り夥しい種類の草木を植えたのでした。
処で、この雨の殆ど降ることの無い、乾燥した地方で、此れほど大規模な庭園に水を供給することは、大問題でした。
王は建造物の最上部に水槽を置き、ユーフラテス河の水を汲み上げ、その水を最上階から低部に向けて流したのでし、水は、絶えず花壇に適度な湿り気を与え、更に庭園の低い部分の内側は、常に涼しい状態に保たれた、幾つかの部屋が設けられていました。
この部屋の上部からの水漏れを防いだのは、瀝青を敷き詰め物と云われています。

 二千数百年の昔、メディアの美しい王女を喜ばせた「空中庭園」は、現在、バベルの塔と供に現存していません。
ネブカドネザル2世の名前は、旧約聖書に留められていますが、美しいメディア王女の名前は、現在に伝わっていません。
このお話も一種の、伝説なのです。

◎栄華の跡

 「バベルの塔」も「空中庭園」もその痕跡を現在に留める物では在りませんが、古都バビロンの廃墟は、現在もその面影を残しています。
古都バビロンの発掘は、ドイツの考古学者ロベルト・コルデヴェーの手により、1899年より開始され、20世紀に入ると供に発掘作業は更に、進行したのでした。
メソポタミアで最も著名な都の栄華を極めた時代の宮殿、イシュタール門、城壁等が次々に姿を現したのでした。

 長い時間、人間の世界から全く忘れ去られたバビロンの都は、再び太陽の下に姿を現し、かつての征服者がキャリオットに乗り通った道は、修復され、ライオンを模った色彩タイルは、再びその輝きを取り戻し、イシュタール門も修復され、神殿、宮殿、塔楼の跡も明らかにされました。

 紀元前586年、ナブカドネザル王は、イスラエルの都エルサレムを攻略し、ソロモンの神殿は破壊され、イスラエル人はバビロンに捕囚の身となりました。
その中で、予言者ダニエルは、異邦の神に従わぬ故を持って、ライオンの穴に投げ込まれましたが、神の助けにより何の危害も受けず、無事ライオンの穴から脱出することが出来たと、旧約聖書ダニエル書第六章は伝えています。

 ダニエル書第五章の伝える処によれば、ネブカドネザル王の王子ペルシャザルが、1000人の臣下と大宴席を設け、エルサレムの神殿から略奪した、金杯、銀杯で酒を酌み交わし、偶像を賛美した処、ペルシャザルの前の壁に「メネ、メネ、テケル、ウルバシン」と云う文字が現れ、ダニエルがその言葉の意味を解き明かし、その言葉の通りにペルシャザルは、その夜の内に殺され、バビロニア滅亡の発端と成りました。

 発掘が進み始めた当時、バビロンの廃墟を訪れた旅行者は次の様に述べています。
「かつては、バビロニアの精鋭軍を送り迎え、諸国からの公益で多くの富を積んだ車で賑わったイシュタール門も、今はひっそりとして、薄気味悪い影が漂い、至る処に不気味な静けさが満ち溢れている。
夜更けの冷たい風が、荒廃した城壁の間を吹き抜け、野犬の遠咆が、夜の静寂を破って聞こえて来るばかりである」と。

メソポタミア文明・終わり・・・

2013/01/08

歴史のお話その6:メソポタミア文明⑥

<メソポタミア文明⑥>

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バビロンの繁栄(想像図)

◎バビロンの栄華

 ハンムラビ王(バビロン第一王朝)の時代(紀元前1729年~紀元前1686年)が最大の繁栄期であり、後世からも模範とされた古典時代を現出しました。

 後の時代、北方に勢力を伸ばしたアッシリアが、次第に勢力を拡大し、メソポタミアの地に侵入を繰り返します。
紀元前7世紀に至り、ネブカドネザル2世(在位紀元前605年~紀元前562年)の時代から再び栄光の時代を取り戻し、新バビロニアと成ります。

 新バビロニアが最も繁栄した時代は、先のネブカドネザル2世の時代で、その当時のバビロニアは「全ての国の中で、最も美しい国」称されました。
首都のバビロンは、その面積が現在のロンドンに匹敵する程の広さを誇り、日干し煉瓦で造られた城壁は、総延長64kmに及び、夥しい塔楼と青銅造りに門が存在し、中でも有名な物が現在に残る、イシュタール門なのです。

 城壁は広く、当時戦闘に使用された四頭立てのシャリオットが、自由に走行出来たと云われ、この都を訪れたキャラバンは南の門から入り、北の門に辿り着く為に1日を費やしたと記録が残されています。
強力な軍隊に警護され、難攻不落を誇ったバビロンもやがては、度重なる戦火によって破壊され、廃墟と化しました。
記憶に残るこの華麗なる都は、多くの伝承によって何時しか伝説の都と成り、「バベルの塔」「空中庭園」の話が現在に伝えられているのです。

◎バベルの塔

 バビロンの都の近く、ユーフラテス河から1km程の平原の中に、山の様にそびえる巨大な建造物が存在し、現在の人々は此れを「バベルの塔」と呼んでいます。
バベルの塔は、明らかに神を祭った神殿ですが、なぜこの様な大建造物を建立したのでしょう?
話は、創世記に伝えられるノアの洪水迄、遡ります。
聖書に由れば、この洪水は神の怒りにより、地上の悪を滅ぼす為に起こされたもので、信仰心の厚いノアの家族だけが、箱舟に乗ってこの災いを逃れる事が出来ました。
この箱舟に乗っていた、ノアの三人の息子、ハム、セム、ヤペテがやがてメソポタミア地方を支配する事に成り、ハムは、バビロンの都を築いたと云われ、子孫のニムロデは、バビロンの王に成りバベルの塔を築いたと云われます。

 「さあ、町と塔を建てて、その頂きを天に届かせよう。そして我々の名を上げて、全地の表に散るのを免れ様」(創世記十一章四節)
聖書が塔の建立者の口を借りて、語らせたことばです。
バベルと云うことばは、「神の門」の意味ですが、高い塔を空高く積み上げる事は、取りも直さず、天の神に近づく事であり、人々はこの為に高い塔を建て、天に昇る入口を造ろうとしたのでした。

 伝承に由れば、工事は一日に30cmずつ、レンガを積上げ、塔の頂きは雲に隠れる程であったと云い、その影の長さは、3日も掛かる長さに伸び、頂上に行き着く迄には、半日を要したと云われます。
私達は、現在その偉容に直接接する事は、永久に出来ませんが、バベルの塔が跡形も無く消滅してしまったかについて、聖書は語りません。

 伝説には、ニムロデが巨大な塔を完成させた時、人々は天の神に近づく事が出来ると言って喜び、ニムロデは「今こそ、自分は神に勝る強大な存在であり、天地を支配する権力を握る事が出来た」と豪語したと云います。
神は、人間の傲慢な振る舞いに怒り、そして言いました。
「見よ、彼らは皆同じ言葉を持った一つの民である。そして、その最初の仕事が此の有様だ。今に彼らが行おうとする事は、何事も留められなくなるだろう。彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じない様に仕向けよう」
神は、嵐を巻き起こし、塔の上部を吹き飛ばし、稲妻は激しい炎を放ち、塔を焼き尽くして、地上の人間を散らしてしまったので、彼等は、町を造る事を止めました。
其処でその町の名前は「バベル(混迷)」と呼ばれ、神が全ての土地の言葉を乱し(バーラル)、其処から彼等を全ての土地に散らせたのでした。

 その後、塔はセミラミス女王とネブカドネザル2世の時代に再建され、紀元前460年頃、バビロンを訪れたハリカルナッソスの歴史家ヘロドトスは、再建されたバベルの塔について、次の様に述べています。
「聖域の中に、縦横とも1スタディオン(185m)の堅固な塔が造られ、塔の上に第二の塔が存在し、この様にして8層の塔が積重ねられている。外側は、回転式の一種の休息所が在り、塔を上る者は腰を降ろして休息した。
最上部には、大きな神殿が在るものの神像の類は存在しなかった・・・神は時々神殿に来て、其処で休んだのだろう」

 バベルの塔は、現在その姿を想像する以外に方法は有りませんが、12世紀、ロマネスク時代の鐘楼にその在りし日の姿が描かれた事をはじめ、ヘルツォーク(15世紀)、ブリューゲル(16世紀)、マシュウ・メリアン(17世紀)等の手によって、今日に姿を知らしめています。
尚、メソポタミア地方には、現在でも階層を成したバベルの塔を小さくした粘土の塔が、沢山存在しますが、此れはジグラットと呼ばれ「山の家」の意味なのです。

メソポタミア文明・続く・・・
2013/01/07

歴史のお話その5:メソポタミア文明⑤

<メソポタミア文明⑤>

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ハンムラビ王

◎アッカド王国

 紀元前2400年頃、シュメール地方にはじめて統一国家が誕生します。
アッカド王国、建国したのはシュメール人ではなく、メソポタミア北部の山地に住んでいたアッカド人でした。
民族系統はセム系の属すとされており、残された言語で民族系統を判断するのですが、セム系は現在のアラブ人と同じです。

 アッカド王国の王の名前で、良く登場する人物がサルゴン1世。
史上最初の大王と呼んでも差し支え無い人物で、サルゴン1世の伝説を記した粘土板も発見されています。
サルゴン1世の父親はアッカド王なのですが、母親は巫女でした。
巫女がサルゴンを懐妊、出産するのですが、巫女が子供を産む事は許される筈はなく、彼女は生まれたばかりのサルゴンを籠に乗せて川に流します。
サルゴンは灌漑人夫に拾われ、彼の息子として育てられますが、成長したあと、女神イシュタルが彼を愛し、やがて王として王国に君臨した話です。

 英雄とは一度捨てられ、成長してから別世界から特別な力を身に付けて帰って来て、本来あるべき地位につく話ですが、この様に展開する話を英雄流離譚と呼びます。
世界各地に似た様な道筋を辿る神話や物語が残されていますが、アーサー王出生の話や、旧約聖書のモーセも同様です。

 尚、母親が巫女である部分、イエスの母親が処女マリアと云う話を連想します。
アッカド王国のサルゴン1世によって統一されたメソポタミアも、200年程後、山岳民族の侵入によって再び分裂します。

 豊かで、文化程度の高いメソポタミア地方は周辺の蛮族にとっては格好の略奪対象で、運良くその土地を支配できれば良く、メソポタミアの歴史は次から次へと、この地に侵入する諸民族の歴史とも云う事が出来ます。

 アッカド王国滅亡後、一時はシュメール人のウル第三王朝が繁栄しますが、これもエラム人の侵入により崩壊します。

◎バビロニア王国

 次にメソポタミアを統一した民族がセム系アムル人で、紀元前19世紀に建国された、古バビロニア王国で在り、別名バビロン第一王朝、紀元前17世紀迄存続しました。
都はバビロン、最盛期の王は、ハンムラビ王です。

 ハンムラビ王の編纂したハンムラビ法典は、シュメール時代からこの地方におこなわれてきた法律を集大成した法典です

ハンムラビ法典の特徴二つ在り、

1,同害復讐の原則「目には目を、歯には歯を」

「もし人が自由人の目をつぶしたときは、彼の目をつぶす。」(第196条)
誰かに危害を加えたら、同じ事を報復として実行される事は、非常に厳しい法律の様に感じます。
しかし、同害復讐の原則は復讐行為に合理的な限度を定めた点で、社会が発展した事を示しています。
 
多くの民族が侵入し、戦を繰り返したメソポタミア地方では、生活の営みは、常に緊張の連続だったと思います。
古バビロニア王国の支配者はアムル人、支配されているのはシュメール人、アッカド人、その他種々の民族が生活していたと想像します。
違う言語を話し、違う風習で暮らしている中で、争いが起こった時如何に仲裁するか、合理的な規則が必要でした。
その中で生み出されたのが同害復讐の原則であると思います。

2,身分差別的刑罰

「もし奴隷が自由人の頬を殴ったときは、かれの耳を切り取る。」(第205条)
奴隷が自由人に危害を加えた場合、より重い刑を受けるのですが、逆に身分の高い者が奴隷を傷つけても罰金で終わりでした。
厳しい身分差別が存在した事を示しています。

以上二つの特徴を見ると現代的感覚からは残酷な感じを受けます。

 しかし、ハンムラビ法典の後書きには、次の様な文章が記述されています。
「強者が弱者を虐げない様に、正義が孤児と寡婦とに授けられる様に」この法を創った事。
単純に古い時代は野蛮とは、簡単に考えていけない文章です。

 古バビロニア王国は前1600年頃には、北方から移動してきた別の諸民族に滅ぼされます。

メソポタミア文明・続く・・・
2013/01/06

歴史のお話その4:メソポタミア文明④

<メソポタミア文明④>

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◎「もののけ姫」少し意外に思われるでしょう?

 ギルガメシュ叙事詩からお話をもう一つ紹介します。
旧約聖書の物語に基礎に成っていると説明しましたが、日本映画の基礎にも成っています。
その映画の題名は「もののけ姫」。
私自身、映画館、VTR、DVDと何度も繰り返し見ています。
この映画の基礎に成っている物語が、ギルガメシュ叙事詩で、5000年前シュメール人が書き記した物語が、現代人に訴える力を持ち続けているのです。

 ギルガメシュ叙事詩の粘土版2から7にこの様な話が語られています。
当時からメソポタミア地方は、森林資源には乏しく、英雄ギルガメシュは町を建設する為に木材を求めていました。
地中海に面したレバノンには、レバノン杉と呼ばれる杉の深い森が在りました。
そのレバノン杉の森に木を採る為に、「祟りが在るから止めよ」、と云う周囲の制止を押切り、ギルガメシュは親友のエンキムドゥと共に旅立ちました。
 
 やがてギルガメシュとエンキムドゥは、レバノン杉の森に到着し、その美しさに立ちつくし、美しさに圧倒された二人は呆然と森を眺め続けました。
しかし、ギルガメシュは気を取り直してこう思ったのでした。

「この森の木を切り出し、ウルクの町を立派にする事が、人間の幸福になるのだ」

 森の中に入いると其処には、森の神フンババが住んでおり、森を守る為にギルガメシュ達と闘うのですが、最後には森の神フンババはエンキムドゥに殺されてしまいます。
フンババは頭を切り落とされて殺されたのですが、エンキムドゥは「頭をつかみ金桶に押し込めた」のですが、このお話は此れから可也続きます。
その後、エンキムドゥは、祟りで別の神に殺される事に成りますが。

 此処迄のお話、「もののけ姫」と大変似ていると思いませんか?
エンキムドゥ⇒「タタラ場」のエボシ御前、森の神フンババ⇒シシ神様、首を落として桶に詰める場面迄同じですね。
ギルガメシュ叙事詩では、森の神フンババが殺された後「ただ充満するものが山に満ちた」と書かれているのですが、「もののけ姫」では、シシ神様の残った体から吹き出した「どろどろ」が森や山を枯死させ、タタラ場を破壊し、生き物の命を奪って行きます。

 エンキムドゥは祟りで死にますが、エボシ御前は、山犬モロの君に片腕を食いちぎられるものの、命は取り留めます。

 人間が文明を発展させれば、必ず自然を破壊し、森を破壊しなければ生きていけません。
しかし、森を破壊すれば、その因果は必ず人間に帰ってきます。
ではどうすればいいのか?「森とタタラ場、共に生きる道はないのか」と「もののけ姫」ではアシタカが苦悩する場面が在りますね。
5000年前に既に、自然破壊の問題が起こっていた事実は、記憶に留めていて良いと思います。

 レバノン杉は、地中海東岸のレバノン山脈から小アジアにかけて広く分布していました。
しかし、シュメール人の時代、既にレバノン山脈東側の、メソポタミア地方に面している地域は殆ど伐採されていた様です。
現在では、西側地中海に面した地域も僅かに残っているだけで、現在のレバノン国旗の真ん中には、レバノン杉が描かれています。

 森林資源が乏しい為に、メソポタミア地方ではインダス川流域からも木材を輸入していました。
レバノン山脈から運ぶよりも、インドから海上輸送した方が簡単な為ですが、そのインダス川下流地域も今は森林資源が枯渇しています。

メソポタミア文明・続く・・・

2013/01/05

歴史のお話その3:メソポタミア文明③

<メソポタミア文明③>

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◎大洪水(ノアの箱舟)

 人々が神に対する信仰を失い、自堕落な生活を送っている時、ノアだけが信仰を守って敬虔な生活をしていました。
神は、信仰を忘れた人類を滅ぼそうと考えたのですが、ノアだけは助け様とします。
或る日、「方舟をつくれ」と、ノアにお告げ、ノアはお告げに従って、家族全員で箱舟をつくりました。
「長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビト」と、神は方舟について細かいお告げをします。
他の人々は、そんなノアを笑うのですが、やがて大洪水が襲い、方舟に乗り込んでいたノアの家族と、あらゆる動物をつがいだけが難を逃れるのです。

 このノアの方舟の話も、シュメール人の話に起源が在るのです。
シュメール人が残した粘土板の中に『ギルガメシュ叙事詩』と呼ばれる物語が在り、そこにノアの箱舟と良く似た話が書かれていました。
 
 神のお告げ、「シュルパックの人、ウパラ・トゥトの息子よ、家を打ち壊し、舟を造れ。(中略)すべての生きものの種を舟に積み込め。おまえが造るべきその舟は、その寸法を定められた通りにせねばならぬ。(中略)六日六晩にわたって、嵐と洪水が押し寄せ、台風が国土を荒らした。七日目が巡ってくると、洪水の嵐は戦いに敗れた。(中略)そしてすべての人間は泥土に帰していた。(中略)舟は六日間ニシルの山にとどまった。(中略)七日目、私は鳩を解き放してやった。鳩は立ち去ったが、舞い戻ってきた。(中略)私は大烏を解き放してやった。大烏は立ち去り、水が引いたのを見て、ものを食べ、飛び回り、帰ってこなかった。そこで私は(中略)、生け贄をささげた。」(ギルガメシュ叙事詩の洪水物語、高橋正男訳)

 聖書にも大嵐がおさまった後、ノアが鳥を飛ばして陸地が現れたかどうか確かめる場面が在りますが、大変良く似ています。

 キリスト教を信仰するヨーロッパ人は聖書に書いてある事は、真実の物語と考えていたのですが、『ギルガメシュ叙事詩』が発見されることによって、旧約聖書が成立する1000年以上前に、その原型となる話が存在する事が解ったのです。

 洪水神話はメソポタミア地方全域で広く普及した物語であったのでしょう。
古代の説話のひとつとして、聖書が相対化されたという意味で、ヨーロッパ人にとってギルガメシュの物語は大発見でした。

 実際にシュメールの遺跡発掘が進む過程で、彼等の都市国家が大きな洪水に襲われている事も判って来ました。

 『ギルガメシュ叙事詩』には、次の様な記述も在ります。
或る時ギルガメシュは、太陽神ウトゥに訴えます。
「心悲しいことに、わたしの町では、人はすべて死ぬ。わたしは城壁の外を眺めていて、死体がいくつも河面に浮いているのを、見てしまったのだ」

 ティグリス・ユーフラテス河の氾濫の記憶がしだいに大洪水の神話物語に発展したのだと云われています。

メソポタミア文明・続く・・・
2013/01/04

歴史のお話その2:メソポタミア文明②

<メソポタミア文明②>

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「楽園追放」(部分)ミケランジェロ

◎エデンの園

 シュメール人の文化、暮らしは色々な伝説や物語に、大きな影響を与えました。
例えば、旧約聖書にはシュメールの影響を見る事が出来ます。

1、旧約聖書創世記(天地創造)

 神が「光あれ」と言って光が生じ、これが一日目1日目ですが箇条書きにすると
1日目 暗闇がある中、神は光を作り、昼と夜が出来た。
2日目 神は空(天)をつくった。
3日目 神は大地を作り、海が生まれ、地に植物を生えさせた。
4日目 神は太陽と月と星をつくった。
5日目 神は魚と鳥をつくった。
6日目 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくった。
7日目 神は休んだ。
この七日間の区切りは、シュメールの七曜の影響が出ています。

2、アダムとイヴ(エデンの園)

 神が泥からつくりあげた最初の人間がアダム。
一人では、寂しいであろうと、神はアダムの肋骨を一本採って、女イヴを造ります。
二人は、裸のままの姿で、それを恥ずかしいとも思わずに、働かなくても暮らせる地上の楽園、エデンの園に住みました。

 神は二人に一つの約束をさせます。
エデンの園の真中に知恵の木が在り、その実だけは、絶対に食べてはならないという約束です。
ところが、蛇がイヴを誘惑し、「知恵の木の実を食べても死ぬ事は無い」、イヴは言葉につられて終に禁断の木の実を食べてしまう。
更にアダムも食べてしまうと、急に知恵が付き、彼等は互いに裸である事に気が付いてしまします。

 約束を破った事が神に知られ、その怒りに触れて二人はエデンの園を追放されました。
追放された場所がエデンの東、そこでは、地には這いつくばって、厳しい労働をしなければ生きていけない場所でした。

 さて、エデンの園の話がシュメールと如何なる関係が在るのでしょうか?
エデンの園はシュメール人が住んでいた実在の場所と推定され、ラガシュとウンマの二つの都市国家が、紀元前2600~紀元前2500年頃に「グ・エディン」(平野の首)と云う土地をめぐって戦争を繰り返しています。
この「グ・エディン」がエデンの園の原型と思われます。

 旧約聖書を形づくったのはヘブライ人です。
彼等は紀元前10世紀頃に自分達の国家を建設しますが、それ以前は部族毎に分かれて牧畜等を営みながら、メソポタミア地方からエジプトにかけて移動生活をしていました。
豊かなシュメールの土地に定住を試みたものの、その土地に入り込むだけの勢力は無く、「なぜ自分達はあの豊かな土地に住めないのか」、と云う不満・不運を自分達自身に納得させる為、楽園追放の物語がつくられたのではないかと思います。
エデンの地は、豊かなシュメールの、その中でも最も豊かな土地の象徴であると思われます。

3、バベルの塔(混迷の塔)

 人間が天迄届きそうな高い塔を建て、これを知った神が、この塔を打ち壊します。
「神の傍に届こうとする不届きな振る舞いだ」と神が怒ったと一般に云われていますが、聖書にはその様な表現は存在しません。
神は塔を破壊し、人々は地上に散らばり、お互いに話す言葉が通じなくなった話ですが、このバベルの塔のモデルがやはりシュメールに存在しています。
 
 シュメール人が建設した神殿にジッグラトが在り、高い塔の形をした神殿で、その遺跡は現在も見る事ができますが、この塔がバベルの塔のモデルと云われています。

メソポタミア文明・続く・・・

2013/01/03

歴史のお話その1:メソポタミア文明①

<メソポタミア文明①>

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◎シュメール人

 世界で最初に生まれた文明とされているのがメソポタミア文明です。
紀元前3500年頃には都市国家が成立し、文明を形成したと考えられます。

 メソポタミアは、川の間を意味し、ティグリス、ユーフラテスの二つの川に挟まれた地方を指しており、現在の国名はイラク共和国です。

 このメソポタミア地方の川下、河口付近に初めての文明が発生します。
この文明を創り上げたシュメール人は、現在でも民族系統不明の民族なのです。

メソポタミアに最初に文明が生まれた理由は、農業生産性が非常に高く、麦と羊の原産地であり、麦の収穫量が非常に高かったのです。
1粒の麦を播いて、20倍から80倍の収穫があったと云われています。

 この数字の意味する処は、19世紀のヨーロッパで麦の収穫は播種量の5、6倍程度、現代でもヨーロッパで15倍から16倍、アメリカで23倍と云う数字があります。
現代と同等かそれ以上の収穫が在り、収穫が多ければ、当然生活にも余裕が生まれ、その余裕が後世に残る文明を生み出したのだと思われます。
因みに、日本の米は、江戸時代は30倍から40倍、今は110倍から144倍なのです。

 シュメール人はメソポタミア地方に多くの都市国家を築きました。
ウル、ウルク、ラガシュ等の都市が現在迄伝わっているものの、都市国家間の抗争が激しく、統一国家が形成される事は在りませんでした。
政治形態は、神殿を中心に神権政治が中心と推定されています。

◎シュメール人の文化

1、暦(こよみ)、世界初の暦であり月の満ち欠けで、年月を測る太陰暦。
2、数字は60進法、現在も残る時間計測。
3、土器は彩文土器。
4、文字は、くさび形文字を発明。
紙がまだ存在しない時代、粘土板に葦を切ったものでくさび形に字を刻み込んでいきました。
シュメール人が歴史から消えた後も、メソポタミア地方では長い間この文字を使用します。

 シュメール人の時代から二千年程後、アケメネス朝ペルシアが大帝国を形成しますが、この国もくさび形文字を使用しており、ダレイオス大王が、自分の功績を刻んだベヒストゥーン碑文を残しました。
これは三つの言語をくさび形文字で刻んだもので、くさび形文字解読のきっかけとなった重要な碑文です。
19世紀、解読したのはイギリス人ローリンソンですが、この碑文は地上100メートル以上の絶壁に刻まれ、ローリンソンは命がけで碑文を模写しました。

 最後に印章、これもシュメール人の発案です。
円筒印章と呼ばれ、絵が刻まれており、これを粘土の上で転がすと長い絵が浮かび上がります。
円筒印章は中心にひもを通して首に懸けるように成っており、これを身につけているのが高い地位の象徴と成されていた様です。

メソポタミア文明・続く・・・