歴史のお話その50:ローマ帝國の発展②
<ローマ②>

ハンニバル将軍のアルプス越え
2)地中海世界の統一
ローマは周辺の都市国家や部族を征服し、紀元前272年にはイタリア半島を統一しました。
ローマの他国支配の方法は、特異な方法でした。
例えばローマが、A市を降伏させると条約を結びローマの同盟国とします。
A市は自治を認められ、ローマに対して納税の義務はないのですが、ローマが何れかで戦争をするときは兵隊を出す義務があります。
この様に色々な国を支配すると、同様な条約を結び同盟国を増やす形で、領土が増えていくのです。領土というより、緩やかな連合体でしょうか。
ローマがその服属諸都市と結んだ条約の中身ですが、都市毎に待遇が違うのが大きな特徴です。
差別待遇の為、服属諸都市間の利害が一致しにくく、団結してローマに抵抗すると行動が起きにくいのです。
この統治方法を、分割統治と呼び、更にローマは、服属都市の支配層である貴族達にローマ市民権を与えます。
つまりA市の支配者は同時にローマ市民に成り、支配者であるローマ人と同等に成る訳です。
これではローマに逆らう理由は無く、この様な支配の仕方がローマ人は実に上手いのです。
但し、この様な支配の方法は、イタリア半島の支配地域だけでした。
やがて、ローマは海外に進出します。
イタリア半島の南部、シチリア島にローマは勢力を伸ばします。
この地はギリシア系の都市が多いのですが、カルタゴの勢力圏で、ローマが最初に衝突した強敵がこのカルタゴでした。
カルタゴはフェニキア人が建設した植民都市でしたが、当時は西地中海貿易を支配する大国になっていました。
カルタゴ人をローマ人はポエニ人と呼んでいましたので、このローマ・カルタゴの戦争をポエニ戦争と呼びます。
ポエニ戦争は紀元前264年~紀元前146年になっていますが、前後三回大きな戦闘があって、中間期は中休みでした。
最初の戦闘が紀元前264年~紀元前241年。
シチリア島の争奪戦で、海戦に慣れないローマがはじめは大苦戦しますが、最終的に勝利をおさめシチリア島からカルタゴ勢力を駆逐しました。
第二目の戦闘は紀元前218年~紀元前201年。
この戦いには、名将ハンニバルが登場するので有名で、別名ハンニバル戦争。
ハンニバルはカルタゴの将軍の家系に生まれます。
父親が最初の戦いでシチリアをローマに奪われた後、現在のスペインを開拓します。
当時スペイン内陸部はまだ未開地で、様々な部族集団も居り、ハンニバルは父親とともにスペインの諸部族を味方に付けながら開発をおこない、軍隊の養成もしていました。
やがて、父親が死んで跡を継ぐのですが、シチリアを奪ったローマに何とか逆襲したいというのが、ハンニバルの宿願です。
軍隊を率いて海路ローマを攻めれば良いと考えますが、その頃の制海権はローマに握られていたのです。
従って、海上からローマを攻略するのは不可能でした。
そこでハンニバルが考え出したのが、アルプス越えという奇策で、陸路アルプスを越えてイタリア半島侵入を試みました。
登山道も何もない時代、この作戦は不可能に近く、一種の天然の要害でローマもアルプス方面に軍事的な防衛をしていません。
従って、逆にもしアルプス越えに成功すれば、一気に勝利を勝ち取る機会も大きい。
紀元前218年の春、ハンニバルは約5万の兵を率いて、スペインを出発しました。
この部隊には37頭の象を連れており、そのほか騎兵隊も編成されている為、当然馬も含まれています。
これらを引き連れてアルプスを越えたのが10月、途中の山道は雪に埋まり、谷間に落ちたり、山岳民の襲撃を受けたりして、イタリア北部に辿り着いた時の兵力は半分の2万5千人でした。
ところがこの2万5千人の兵力で、ハンニバルはまる16年間イタリア半島で闘い続けるのです。
紀元前216年、カンネーの戦いでは5万人を超えるローマ軍を殲滅しました。
これは戦史に残る殲滅戦で、その後もハンニバルはローマ軍を破り続けました。
ハンニバルの用兵思想は天才的で、繰り出す軍団が次々に全滅に近い損害を被る為、ローマは決戦を避けて持久戦にはいります。
ハンニバルはある程度の都市を攻略するのですが、10年かかっても決定的な勝利は得られませんでした。
原因の一つは、ハンニバルはローマの同盟市が離反して自分を支援することを期待していたのですが、分割統治が功を奏して、離反が無かった事。
もう一つはハンニバルの戦略そのもので、彼は「戦争に勝利することを知っているが、勝利を利用することを知らない。」と評されました。
カンネーの戦いで大勝利した後で、なぜローマ市を直接攻撃しなかったのか、今でも彼の戦略のなさが指摘されているところです。
ローマ・続く・・・

ハンニバル将軍のアルプス越え
2)地中海世界の統一
ローマは周辺の都市国家や部族を征服し、紀元前272年にはイタリア半島を統一しました。
ローマの他国支配の方法は、特異な方法でした。
例えばローマが、A市を降伏させると条約を結びローマの同盟国とします。
A市は自治を認められ、ローマに対して納税の義務はないのですが、ローマが何れかで戦争をするときは兵隊を出す義務があります。
この様に色々な国を支配すると、同様な条約を結び同盟国を増やす形で、領土が増えていくのです。領土というより、緩やかな連合体でしょうか。
ローマがその服属諸都市と結んだ条約の中身ですが、都市毎に待遇が違うのが大きな特徴です。
差別待遇の為、服属諸都市間の利害が一致しにくく、団結してローマに抵抗すると行動が起きにくいのです。
この統治方法を、分割統治と呼び、更にローマは、服属都市の支配層である貴族達にローマ市民権を与えます。
つまりA市の支配者は同時にローマ市民に成り、支配者であるローマ人と同等に成る訳です。
これではローマに逆らう理由は無く、この様な支配の仕方がローマ人は実に上手いのです。
但し、この様な支配の方法は、イタリア半島の支配地域だけでした。
やがて、ローマは海外に進出します。
イタリア半島の南部、シチリア島にローマは勢力を伸ばします。
この地はギリシア系の都市が多いのですが、カルタゴの勢力圏で、ローマが最初に衝突した強敵がこのカルタゴでした。
カルタゴはフェニキア人が建設した植民都市でしたが、当時は西地中海貿易を支配する大国になっていました。
カルタゴ人をローマ人はポエニ人と呼んでいましたので、このローマ・カルタゴの戦争をポエニ戦争と呼びます。
ポエニ戦争は紀元前264年~紀元前146年になっていますが、前後三回大きな戦闘があって、中間期は中休みでした。
最初の戦闘が紀元前264年~紀元前241年。
シチリア島の争奪戦で、海戦に慣れないローマがはじめは大苦戦しますが、最終的に勝利をおさめシチリア島からカルタゴ勢力を駆逐しました。
第二目の戦闘は紀元前218年~紀元前201年。
この戦いには、名将ハンニバルが登場するので有名で、別名ハンニバル戦争。
ハンニバルはカルタゴの将軍の家系に生まれます。
父親が最初の戦いでシチリアをローマに奪われた後、現在のスペインを開拓します。
当時スペイン内陸部はまだ未開地で、様々な部族集団も居り、ハンニバルは父親とともにスペインの諸部族を味方に付けながら開発をおこない、軍隊の養成もしていました。
やがて、父親が死んで跡を継ぐのですが、シチリアを奪ったローマに何とか逆襲したいというのが、ハンニバルの宿願です。
軍隊を率いて海路ローマを攻めれば良いと考えますが、その頃の制海権はローマに握られていたのです。
従って、海上からローマを攻略するのは不可能でした。
そこでハンニバルが考え出したのが、アルプス越えという奇策で、陸路アルプスを越えてイタリア半島侵入を試みました。
登山道も何もない時代、この作戦は不可能に近く、一種の天然の要害でローマもアルプス方面に軍事的な防衛をしていません。
従って、逆にもしアルプス越えに成功すれば、一気に勝利を勝ち取る機会も大きい。
紀元前218年の春、ハンニバルは約5万の兵を率いて、スペインを出発しました。
この部隊には37頭の象を連れており、そのほか騎兵隊も編成されている為、当然馬も含まれています。
これらを引き連れてアルプスを越えたのが10月、途中の山道は雪に埋まり、谷間に落ちたり、山岳民の襲撃を受けたりして、イタリア北部に辿り着いた時の兵力は半分の2万5千人でした。
ところがこの2万5千人の兵力で、ハンニバルはまる16年間イタリア半島で闘い続けるのです。
紀元前216年、カンネーの戦いでは5万人を超えるローマ軍を殲滅しました。
これは戦史に残る殲滅戦で、その後もハンニバルはローマ軍を破り続けました。
ハンニバルの用兵思想は天才的で、繰り出す軍団が次々に全滅に近い損害を被る為、ローマは決戦を避けて持久戦にはいります。
ハンニバルはある程度の都市を攻略するのですが、10年かかっても決定的な勝利は得られませんでした。
原因の一つは、ハンニバルはローマの同盟市が離反して自分を支援することを期待していたのですが、分割統治が功を奏して、離反が無かった事。
もう一つはハンニバルの戦略そのもので、彼は「戦争に勝利することを知っているが、勝利を利用することを知らない。」と評されました。
カンネーの戦いで大勝利した後で、なぜローマ市を直接攻撃しなかったのか、今でも彼の戦略のなさが指摘されているところです。
ローマ・続く・・・
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