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2013/02/28

歴史のお話その50:ローマ帝國の発展②

<ローマ②>

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ハンニバル将軍のアルプス越え

2)地中海世界の統一

 ローマは周辺の都市国家や部族を征服し、紀元前272年にはイタリア半島を統一しました。
ローマの他国支配の方法は、特異な方法でした。
例えばローマが、A市を降伏させると条約を結びローマの同盟国とします。
A市は自治を認められ、ローマに対して納税の義務はないのですが、ローマが何れかで戦争をするときは兵隊を出す義務があります。
この様に色々な国を支配すると、同様な条約を結び同盟国を増やす形で、領土が増えていくのです。領土というより、緩やかな連合体でしょうか。

 ローマがその服属諸都市と結んだ条約の中身ですが、都市毎に待遇が違うのが大きな特徴です。
差別待遇の為、服属諸都市間の利害が一致しにくく、団結してローマに抵抗すると行動が起きにくいのです。
この統治方法を、分割統治と呼び、更にローマは、服属都市の支配層である貴族達にローマ市民権を与えます。
つまりA市の支配者は同時にローマ市民に成り、支配者であるローマ人と同等に成る訳です。
これではローマに逆らう理由は無く、この様な支配の仕方がローマ人は実に上手いのです。
但し、この様な支配の方法は、イタリア半島の支配地域だけでした。

 やがて、ローマは海外に進出します。
イタリア半島の南部、シチリア島にローマは勢力を伸ばします。
この地はギリシア系の都市が多いのですが、カルタゴの勢力圏で、ローマが最初に衝突した強敵がこのカルタゴでした。
カルタゴはフェニキア人が建設した植民都市でしたが、当時は西地中海貿易を支配する大国になっていました。
カルタゴ人をローマ人はポエニ人と呼んでいましたので、このローマ・カルタゴの戦争をポエニ戦争と呼びます。
ポエニ戦争は紀元前264年~紀元前146年になっていますが、前後三回大きな戦闘があって、中間期は中休みでした。

 最初の戦闘が紀元前264年~紀元前241年。
シチリア島の争奪戦で、海戦に慣れないローマがはじめは大苦戦しますが、最終的に勝利をおさめシチリア島からカルタゴ勢力を駆逐しました。

 第二目の戦闘は紀元前218年~紀元前201年。
この戦いには、名将ハンニバルが登場するので有名で、別名ハンニバル戦争。

 ハンニバルはカルタゴの将軍の家系に生まれます。
父親が最初の戦いでシチリアをローマに奪われた後、現在のスペインを開拓します。
当時スペイン内陸部はまだ未開地で、様々な部族集団も居り、ハンニバルは父親とともにスペインの諸部族を味方に付けながら開発をおこない、軍隊の養成もしていました。
やがて、父親が死んで跡を継ぐのですが、シチリアを奪ったローマに何とか逆襲したいというのが、ハンニバルの宿願です。
軍隊を率いて海路ローマを攻めれば良いと考えますが、その頃の制海権はローマに握られていたのです。
従って、海上からローマを攻略するのは不可能でした。

 そこでハンニバルが考え出したのが、アルプス越えという奇策で、陸路アルプスを越えてイタリア半島侵入を試みました。
登山道も何もない時代、この作戦は不可能に近く、一種の天然の要害でローマもアルプス方面に軍事的な防衛をしていません。
従って、逆にもしアルプス越えに成功すれば、一気に勝利を勝ち取る機会も大きい。

 紀元前218年の春、ハンニバルは約5万の兵を率いて、スペインを出発しました。
この部隊には37頭の象を連れており、そのほか騎兵隊も編成されている為、当然馬も含まれています。
これらを引き連れてアルプスを越えたのが10月、途中の山道は雪に埋まり、谷間に落ちたり、山岳民の襲撃を受けたりして、イタリア北部に辿り着いた時の兵力は半分の2万5千人でした。
ところがこの2万5千人の兵力で、ハンニバルはまる16年間イタリア半島で闘い続けるのです。 

 紀元前216年、カンネーの戦いでは5万人を超えるローマ軍を殲滅しました。
これは戦史に残る殲滅戦で、その後もハンニバルはローマ軍を破り続けました。
ハンニバルの用兵思想は天才的で、繰り出す軍団が次々に全滅に近い損害を被る為、ローマは決戦を避けて持久戦にはいります。
ハンニバルはある程度の都市を攻略するのですが、10年かかっても決定的な勝利は得られませんでした。

 原因の一つは、ハンニバルはローマの同盟市が離反して自分を支援することを期待していたのですが、分割統治が功を奏して、離反が無かった事。
もう一つはハンニバルの戦略そのもので、彼は「戦争に勝利することを知っているが、勝利を利用することを知らない。」と評されました。
カンネーの戦いで大勝利した後で、なぜローマ市を直接攻撃しなかったのか、今でも彼の戦略のなさが指摘されているところです。

ローマ・続く・・・

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2013/02/27

歴史のお話その49:ローマ帝國の発展①

<ローマ①>

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ロムルスとレムスの発見

1)ローマの発展

  現在ユーロ圏で話題に成っているイタリアの首都ローマは、その起源となるのは小さな都市国家でした。
ギリシアのポリスに似た構造で、アテネに比べて200年くらい遅れて発展してきました。
アレクサンドロス大王がペルシアを滅ぼした後、何故そのままインド方面に向かったのでしょうか?西の方向、つまりイタリア半島方面への遠征を考えなかったのは何故でしょう。
現在のイタリア方面には遠征するだけの魅力が無く、後進地帯だったわけです。

 このローマがやがて大発展してアレクサンドロスの後継国家、つまりヘレニズム国家の総てを支配する大帝国に発展して行きます。
ローマは紀元前8世紀頃ラテン人によって建国されました。
このラテン人はインド・ヨーロッパ語族に属し、今でもイタリア人やスペイン人をラテン系民族と呼ぶのは、ローマ帝国の支配下に入ってラテン人の血を引き継いでいるという意識から来るようです。
都市国家ローマには最初、王が存在しましたが、紀元前6世紀には王を追放して共和政が始まりました。
王がいる政治制度が王政、王がいないのは共和政です。
因みにアメリカ合衆国は共和政、イギリスは王政、韓国は共和政、では日本は?
王では無く天皇陛下が居られますので、分類的には王政に分類されます。
(但し天皇の英語約は、皇帝を意味するEmperorが使われていますので、ある意味帝政かもしれません。昭和20年迄は大日本帝国が国名でした。)

 ローマでは紀元前6世紀に共和政が始まって以来、元老院と呼ばれる貴族議会が政治を主導してきました。
外国の使節がローマの元老院を見て、王が何百人も集まっている様だと言った位に、彼らは誇り高かく、又共和政という政治制度に自信を持っていた様です。
元老院という訳語は伝統がある古い訳で、如何なる議会形態なのかと言えば、現代政治で在れば上院とか貴族院と訳されます。

 政府の役職で最高位がコンスル、執政官と訳され、現代的に訳せば大統領で在り、任期1年で2名おかれます。
2名なのは独裁政治に陥らない様に互いに牽制させる為で、ローマでは王や独裁者が出現する事を極端に警戒しました。
しかし、執政官2人の意見が異なると国家存亡の非常事態に対応が遅れて困る事にもなります。
この点を解決する為に設置される臨時職にディクタトールが在り、これは独裁官と訳し、半年任期で1名です。
決して半年以上は任に着かないのは、独裁者に成る事を恐れた結果でした。

 執政官、独裁官、元老院議員は総て貴族から選ばれます。
これに対して平民達が不満を持つ様になるのはギリシアと同様で、ローマでも平民が武器自弁で重装歩兵として戦場に出陣するのですが、これは貴重な戦力です。
ところが、戦場での活躍だけが期待されて政治的権利が無い事に関して、平民が貴族に対して抗議活動をおこないます。
紀元前494年の聖山事件が発生しますが、平民達が聖山に立て籠もって抗議行動を起こした事件で、
ローマの貴族達は護民官設置を認める事で平民に歩み寄りました。

 は2名、執政官の政策に対し、それが平民の不利益になると判断すれば拒否権を発動することが出来、護民官が不可と判断すれば執政官は何もできない事に成ります。
更に、護民官は身体不可侵で、誰も護民官を肉体的に傷つけることは許されず、独特の宗教的ともいえる権威を持つようです。
その後も徐々に平民の権利は拡大します。

 紀元前451年、十二表法制定。
12枚の銅板に法律を刻み誰もが、閲覧出来る様にしました。
貴族独占だった法律情報の公開で、元老院はアテネに使節を派遣してドラコンの法等を参考にしたといいます。
紀元前367年、リキニウス・セクスティウス法。
執政官のうち1名を平民から選出する法律です。
紀元前287年、ホルテンシウス法。
平民の議会である平民会の決定を国法とする法律です。
元老院と対等に立法出来るように成りました。

 この段階で、ローマに於ける身分闘争は終結し、政治は安定し、外に向けて発展していきます。
執政官も、貴族・平民から一名ずつ選ぶようになり、立法権も平等にあるから、二つの身分は対等のように見えますが、根本は異なります。
例えばアテネでは貴族、平民も一緒になった民会が国政の最高機関になりましたが、ローマでは貴族は元老院、平民は平民会と、二つの身分は分離したままです。
そして、常に貴族は大金持ちで財産も在りますが、平民には在りませんから、財産を築いた平民は貴族の仲間入りを目指します。
ローマで実質的に政治権力を握っているのは、元老院を中心とする貴族なのです。

ローマ・続く・・・

2013/02/26

歴史のお話その48:ギリシア・ヘレニズムの文化⑧

<ギリシア・ヘレニズム文化⑧>

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ディオゲネス

6ヘレニズム文化

 アレクサンドロスの東方遠征から、プトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの文化をヘレニズム文化と云います。
ヘレニズム文化の特徴はコスモポリタニズムで、世界市民主義と訳しています。
ポリスという枠の中で活動していたギリシア人ですが、アレクサンドロス以後世界観が広がり、自然に彼らの視野も広がりました。
世界市民として如何に生きるかが、課題に成ったと考えれば良く、如何に生きるかと云う点では、ストア派とエピクロス派の2つの哲学の流れが生まれます。

 ストア派は哲学者ゼノンから始まり、禁欲主義と訳されます。
エピクロス派はエピクロスから始まり、快楽主義と訳されていますが、この快楽の意味は、心の平安が最高の快楽と考える学派です。
ストア派は禁欲主義で快楽主義とは正反対の様に思えますが、禁欲する事によって心の平安を目指し、目標はどちらも同じでした。

 この時期の哲学者にディオゲネスがいます。
犬儒学派と云われる人物で、ストア派には分類されないのですが、この時期の哲学者の典型と思うので紹介しておきます。
この人物の渾名は犬、家は壊れた酒樽、心の平安の為には一切の財産、肉親を不必要と考えて、最小限の身の回りの品物だけを袋に詰め込んで路地裏に転がっている酒樽の中で生活していました。
現代流では一種のホームレスですが、有名な哲学者である事に変わりは在りません。

 突飛な振る舞いが多く、エピソードも多々伝わっています。
ある時、子供が手で水をすくって飲んでいるのを見てディオゲネスは叫びました。
「この単純な生き方に於いて、私はこの子に敗れた!」
そして、自分の袋に入っていた水飲みを投げ捨てたと云います。

 又、ある時アレクサンドロス大王がギリシア中の哲学者を集めました。
ところがディオゲネスは呼ばれましたが、参加せず、逆に興味を駆り立てられたのがアレクサンドロス。
ディオゲネスの樽まで自ら出かけると、ディオゲネスは樽の前でゴロリと寝そべって日向ぼっこをしています。
大王は近づいて名乗ります。
「余はアレクサンドロス大王である。」
ディオゲネスはひっくり返ったままで名乗りました。
「余はイヌのディオゲネスである。」
普通は立ち上がって挨拶するところですから、ディオゲネスの態度は滅茶苦茶無礼で、憤激する側近を押し留めて、大王は質問します。
「そなたは、余が怖くないのか。」
ディオゲネス「お前は善い人か?」
大王「余は善い人である。」
ディオゲネス「なぜ、善い人を怖がる必要があるか。」
アレクサンドロスはすっかりディオゲネスが気に入ってしまいます。
そして尋ねた。「そなたが望むものを何でもやろう。遠慮なく申せ。」
ディオゲネスはすかさず答えました。「そこをどいてくれ。お前のせいで影になって寒い。」

 日向ぼっこの邪魔だからどけ、彼の望みはこれだけ、しかも如何なる財産でも手に入る時にも関わらず、欲しがらないのです。
財産等は心の平安にとっては意味がない、とディオゲネスは考える人なのです。
禁欲して、心の平安をひたすら求める態度としては確かに徹底した生き方ですね。
只、厳しい見方をするとソクラテスやプラトンの時代に比べたら活力を失っています。
もし、プラトンが大王から同じ事を言われたら、理想の国家建設の為に何か政策を進言したのではないかと思います。
ディオゲネスは自分の事しか考えておらず、あくまでも自分の心の平安にしか関心が在りません。
これがコスモポリタニズムの一面でもあります。

 ヘレニズム文化で忘れてはならないのが、エジプトの首都アレクサンドリアに作られた王立研究所「ムセイオン」です。
ここでは多くの学者が自然科学の研究をしました。
幾何学を大成したのがエウクレイデス、比重、てこの原理で有名なアルキメデス、地球の自転・公転説をとなえたアリスタルコス、地球の周囲を測定したエラトステネス。

 エラトステネスは地球の周囲を3万9700キロメートルと測定しました。
現在の計測では4万70キロ、可也の精度です。
ムセイオンを中心とする科学研究は、相当なレベルに到達していたのです。
只、プトレマイオス朝エジプトが滅亡しムセイオンが閉鎖されると、これらの知識は忘れられてしまい、やがて、地球は平らで太陽が地球の周りを回ると信じられて行きました。
正しい知識が獲得されても失われることがあり、貴重な教訓だと思います。

ギリシア・ヘレニズム文化・終わり・・・

2013/02/25

歴史のお話その47:ギリシア・ヘレニズムの文化⑦

<ギリシア・ヘレニズム文化⑦>

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◎アリストテレス

 プラトンの弟子がアリストテレス。
ギリシアの哲学、科学の集大成をおこなった哲学史上の巨人です。
現代でも哲学の基礎はアリストテレスですね。

 このアリストテレス、師であるプラトンとは考え方が異なり、彼はイデアを認めません。
この目の前にある存在以外に本質的な存在があるとは考えず、「美しいバラの花」が無くなれば「美しい」も無くなると説きました。
この様な考え方を実在論哲学と云い、彼はその元祖です。

 ギリシア・ヘレニズム文化の冒頭で引用した名画は、イタリアの画家ラファエロの「アテネの学堂」です。
巨大な建物の中に古代ギリシアの哲学者、自然科学者(ラファエロ本人もちゃっかりと参加)を大集合させた絵ですが、中央に並んで描かれている人物が、プラトンとアリストテレスです。
この人物配置から、二人が哲学上如何なる扱いを受けていたかが分かります。
古代ギリシア学問の頂点に君臨しているのですから。

 「アテネの学堂」、左側プラトンの右手は指を立てて天を指し、左手には自著「ティマイオス」を持ち、彼はアリストテレスに語りかけています。
「イデアの世界が存在するのだ」と。
それに対してアリストテレスの右手を見れば彼は地を示し、左手には自著「ニコマコス倫理学」を持ち、プラトンに反論しているのです。
「ここです。ここ以外に世界はありません、師よ」。
描かれている一人ひとりの思想やエピソードを知って鑑賞すると面白い絵です。

 アリストテレスは、若きアレクサンドロス大王の家庭教師をしていた事でも有名です。
アリストテレスが41歳、アレクサンドロスは12歳、それから3年間くらい共に過ごしました。
当時考えられる最高の教師で、アレクサンドロスは、「私は生きる事をフィリッポス(父)に、美しく生きる事をアリストテレスに学んだ」と云ったといいます。

 哲学だけでなく、論理学、政治学、自然科学あらゆる学問に精通していたアリストテレスに影響を受けたアレクサンドロス大王は、東方遠征に出かける時、数多くの学者を引き連れて出発しました。
東方の自然、文化の研究を目的としてですが、この行動を後に真似たのがナポレオンで、エジプト遠征の時に学者を連れて行き発見したのがロゼッタ・ストーン、という話は以前に書きました。

5文芸

◎詩
 ホメロス(紀元前8世紀)「イーリアス」「オデュッセイア」トロヤを舞台にしたお話で、シュリーマンにも影響を与えています。
ヘシオドス(紀元前700年頃)「労働と日々」「神統記」

◎悲劇
 アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス(紀元前5世紀)。
この三人は三大悲劇作家として有名で、ギリシア神話を題材に悲劇を書きました。
ギリシアでは演劇が盛んにおこなわれており、劇のコンクールも開催されていました。

◎喜劇
 喜劇作家では、アリストファネス(紀元前5世紀)。
この人物はソクラテスと同時代の人で、彼の作品「雲」には、ソクラテスがソフィストとして描かれています。

 代表作「女の平和」の内容を少しだけ。
「女の平和」は反戦劇なのですが、この作品はペロポネソス戦争中に書かれているのです。
それだけでも驚きですが、ともかくアテネとスパルタの女性達が、戦争に明け暮れる男達に腹を立てて、なんとか戦争をやめさせようとするものです。
男と名のつく物が好きなモノは何か?それは今も昔も夜の営みです。
だから男達が戦争を止める迄、私たち女性は馬鹿な男どもの相手をするのは止めにしようと云う訳で夜の奉仕をボイコットするのです。
男達は、合戦が終わって家に帰ってきて、夜の営みを要求しても戦争を止めないと一切拒否されてしまいます。
戦争と女性のどちらを選択するのか、結局戦争を捨てる、という筋書きです。

ギリシア・ヘレニズムの文化・続く・・・
2013/02/23

歴史のお話その46:ギリシア・ヘレニズムの文化⑥

<ギリシア・ヘレニズム文化⑥>

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◎プラトン・国家論

 プラトンは「国家論」と題する政治の本も書いています。
プラトンは、民主政治を嫌悪しました。
彼の敬愛する師である、ソクラテスはなぜ死刑に成ったのでしょう?
陪審員の役割を担った市民達によって、死刑判決を受けたのです。
では市民達は如何なる資格で陪審員と成ったのでしょうか?
抽選で陪審員に当選した結果で、しかも、陪審員はアテネ市から日当が支払われました。
偶然抽選で選ばれ、裁判に参加した市民達に、ソクラテスの思想が理解できるのでしょうか?
そしてソクラテスを裁く権利が在るのでしょうか?
これが、プラトンの発想で、民主政治を嫌悪するのです。

 では、如何なる政治を理想としていたのかと言えば、哲人が王となることでした。
プラトンはエジプトを旅行して感激しています。
エジプト人は、王、ファラオを神の化身として崇める伝統が在ります。
アテネ市民の議論の応酬を繰り返す連中を哲人王が支配すれば、国民は王の言うことを良く聞いて素晴らしい国になるに違いないと考えたようです。

 話は戻りますが、ソクラテスも民主政治を批判するようなことを言っています。
そのお話とは、「貴方が家を建てるときどの様な大工に仕事を頼むか?大工を集めて抽選で当たった大工に頼むか、それとも最も腕の良い大工に頼むか?」
「腕の良い大工に頼むであろう。ならばなぜ、我々アテネ人は政治を行う者を抽選で選ぶのか。」
なかなか辛らつな批判と思います。
当時のアテネの人々は、民主政治に絶大な自信と誇りを持っていましたから、こんな発言はやっぱり許しがたい発言と思われます。
ソクラテスが死刑になった原因には、この様な発言が在ったことかも知れません。

 アカデメイアはプラトンが作った学校です。
現在でも科学アカデミー、アカデミックな書物等、物事を権威で飾りたいときの修飾語に成っていますが、それくらいプラトンには権威が在り、その学校アカデメイアにも権威が在ったと云うことです。

ギリシア・ヘレニズムの文化・続く・・・

2013/02/22

歴史のお話その45:ギリシア・ヘレニズムの文化⑤

<ギリシア・ヘレニズム文化⑤>

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洞窟の喩え

◎プラトン・イデア論

 プラトンは、ソクラテスの意志を継いで普遍的な真実を追求しました。
そして、彼が辿りついた答えが「イデア論」です。
イデアとは何か?
例えば今日本は「梅の花」が咲いていますが、やがて時がたてば、花は絞みます。
そのときに「美しさ」は消えてしまったのか、ということなのです。
梅の花が枯れても、「美しさ」は何処かに存在しているのではないか、目の前に見える形で存在していなくても、どこかの世界に実在するもの、これをイデアと云います。

 イデアの世界が存在する、とプラトンは言います。
完璧な正三角形を現実に描くことは大変難しいですが、正三角形は存在します。
其れがイデアで、英語のidea(アイデア)の語源です。

 プラトンはこんな例を出しています。
洞窟が在り、そして、我々人間は皆洞窟の中で縛られて固定されている、と説明しています。
手足が縛られていて身動きできないのですが、どちら向きに縛られているかというと、洞窟の奥の方を向いて縛られているのです。
洞窟の入り口には光が在り、そして、その光と縛られている我々の背中の間をいろいろな物が通ります。
美しい花が通ったり、正三角形が通ったり、重装歩兵が通ったり、真実が通ったり、正義が通ったりします。
すると、洞窟の奥の壁に通過するモノの影が映る訳です。
我々は、壁の奥を向いて生きているので、その影を物の本当の姿だと思い違いをしている、と説いています。
背中のうしろを通過している物、それが物の本体、イデアだ、と云う訳です。

 そして、手足を縛られているわれわれですが、首を動かすことは可能です。
影を見慣れてしまっていますが、勇気をもって後ろを振り向けば、そこにイデアが見えるのです。
今目の前に在る全てのものは、総て影に過ぎません。
プラトンのイデア論が、何となく分かると思います?

 目の前に見えているこの世界、これを真実と考えず別の世界に理念的な存在の実在を認め、そこに物事の本質が在る、この様な考えを観念論哲学と呼びますが、プラトンのイデア論はその代表です。
プラトンは「万物の根源は数」と云う、ピタゴラスの影響も結構受けている様です。

ギリシア・ヘレニズムの文化・続く・・・

2013/02/21

歴史のお話その44:ギリシア・ヘレニズムの文化④

<ギリシア・ヘレニズム文化④>

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◎ソクラテスの死

 ソクラテスは、自分なりのやり方で、必死になって真実を追究して行きました。
しかし、その晩年には有力者に憎まれ、告訴され裁判で死刑判決を受けてしまいました。
罪状は「青年を腐敗させ、国家の認める神々を信じない」と云うもので、これは現代から見れば罪とは言えない様な罪状でした。

 裁判で、ソクラテスは得意の弁論で、自分の無実を主張するのですが、結局有罪を宣告されました。
アテネの裁判は陪審制で票数は281対210と云われています。
有罪が確定した後、如何なる罪状とするかの裁判が続くのですが、ソクラテスはその公判の場面で、開き直って告げました。
「自分はアテネの為に尽くしてきた。悪いことは何一つ犯していない。そんな私にふさわしい罰はアテネの町が私にお金を贈ることしかない」。
此れは陪審員を敵に回す様なもので、彼を訴えた輩は、幾らなんでも死刑を執行しようとは思っておらず、悪くても国外追放(アテネ市追放)、ソクラテスが今後論述を展開しなければそれで良しと考えていたのですが、結局死刑判決が出されてしまいました。

 ソクラテスは収監されるのですが、牢番は結構いい加減で弟子や友人達が、牢獄のソクラテスに会いに来る事を拒まず、更には面会の人物が、現れては彼に逃亡を勧めるのです。
「手はずは整えているから逃げよう」、この様な会話でしょうか?
しかしソクラテスは断わります。
「私は逃げない」と。

 なぜ逃げないのでしょうか?
ソクラテスは自分の思想を裏切りたくなかった、そして彼は自分の信じるままに行動してきた、それは真実の為で在り、より良く生きる事でした。
その結果が死刑判決ならば、それを受け入れる以外に彼の道は無かったのでしょう。

 ソクラテスの死刑は自殺形式の死刑執行で、自分で毒杯を飲むものです。
当にソクラテスが、毒杯を飲んで死んでいく瞬間にも、弟子達が彼の傍に付き添っているのですが、その弟子達を前にして、「足の感覚が無くなってきた、死が近づいてきた」等と会話をしています。
更にはソクラテスが、泣いている弟子を慰めたりしながら、最後迄自分の哲学を語り続け、堂々とした立派な死を遂げたのでした。

 この様なソクラテスの生き方全体が、友人や多くの弟子達に深い感銘を与えたのです。
より良い生き方を求め、自分の思想を裏切らないソクラテスの姿勢は、議論で勝つ為の弁論術の教師とは全く異なる姿でした。

 プラトンはソクラテスの弟子で、ソクラテスの死後にその言動をまとめて沢山の本を書いています。

ギリシア・ヘレニズムの文化・続く・・・

2013/02/20

歴史のお話その43:ギリシア・ヘレニズムの文化③

<ギリシア・ヘレニズム文化③>

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デルフォイの神殿跡

ソクラテスその②

 ソクラテス自身は本を残していませんが、彼の弟子や友人が彼の行動や言葉を記録しており、その幾つかをご紹介します。

 ソクラテスが40歳代の頃、彼の友人にカイレポンという男がいました。
カイレポンはソクラテスに心酔しておりある時、彼はデルフォイの神殿に行ったのです。
カイレポンは神様に尋ねました。
「ソクラテスよりも賢い人間がいるか?」と、すると巫女に神様が乗り移って言うには「ソクラテスより知恵のある者はいない」。
カイレポン、「やっぱり!」と嬉しくなってアテネに帰って、ソクラテスにその神託を教えたのです。
「デルフォイの神託で、お前がこの世で一番知恵のある男と分かったぞ!」。
当のソクラテスはそれを聞いて、「私よりも知恵のある人はたくさんいる。私が一番知恵者であるはずがない」。
しかし、ソクラテスもこの時代の人なので、デルフォイの神託を信じてもいる訳です。
神様が嘘をつくはずもない、とも思いました。

 そこで、彼は神託の真意を知る為に色々な人を訪ねてまわり、アテネで尊敬を集めている人、知恵者と呼ばれている人、立派な政治家、才能ある芸術家、その様な人物を次々と訪ねて、質問をぶつけてその人の持つ知恵について確かめたのです。

 例えば、ソクラテスはある人を訪ねて質問するのです。
「友人に嘘をつくことは正しいか、不正か?」
相手は答えます。
「それは不正である。」
更にソクラテスは質問します。
「では、病気の友人に薬を飲ませる為に嘘をつくのは正しいか、不正か?」
相手は答えます。
「それは正しい。」
そうすると、ソクラテスはここぞとばかりに突っ込むのです。
「貴方(貴女)は、先ほどは嘘をつくのは不正と言い、今は正しいと言った。一体、嘘をつくのは正しいのか不正なのか、どちらなのかね?」
聞かれた方も困ります。
「そういわれると私にはもう分からない。」
ここで、ソクラテスは追い打ちをかけました。
「貴方(貴女)は、何が正しいことで、何が正しくないかを知らないのに、今まで知っていると思っていたのですね。」

 この様な調子でソクラテスは、アテネの有名人を次から次へと質問責めにしたのです。
端から聞いていれば、こんなに面白い会話は在りません。
多分アテネの若者達が、ソクラテスについて歩いてこの様な会話を聞いたのでしょう。
若者達からは人気者に成りましたが、彼に質問責めにあった有力者達はたまりません。
皆の見ている前で恥をかかされるのですから、困った男と思われても仕方ないですね。

 ソクラテス、多くの人と話をして、最高の知恵者という神託について結論を出しました。
「自分より多くの知識を持つ者はたくさんいる。知恵の量では自分は取るに足らない者だ。しかし、自分と他の者には決定的な違いがある。自分より多くを知っている者も全ての事を知っているわけではない。なのに彼らは全てを知っているつもりでいる。私は何も知らない、無知である。しかし、自分が無知であることを知っている。もしも、自分が他の者より知恵があるとすれば、それを知っているからだ!」

これが、「無知の知」といわれるものです。

ギリシア・ヘレニズムの文化・続く・・・
2013/02/19

歴史のお話その42:ギリシア・ヘレニズムの文化②

<ギリシア・ヘレニズム文化②>

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アテネの学堂より、プラトンとアリストテレス

2、ソフィスト

 やがて、人々の関心は自然の成り立ちから人間の生き方へと移っていきます。
如何に生きるべきか、真とは、美とは、善とは、この様な事をギリシア人達は考えはじめ、この中で初期に活躍したのが、ソフィストと呼ばれた人たちでした。
ソフィストは弁論術教師のことを意味します。

 なぜソフィスト達が活躍の場を得たことに関しては、民主政の発展に関係が在り、民会では6000人が集まる会議の席上で、自分の意見を人に聞いてもらい、更に人々の支持を得て、自分の意見を主張しようとすれば、話術が上手いことが絶対条件なのです。
面白くなければ聞いてもらえないず、議論で相手に勝てなかったら意味がないので、議論や話術が上手く成るには、悪い表現を使えば屁理屈をこねる能力が必要なのです。
理屈が上手いのは、知恵のある人たち、つまり哲学者なので、彼等哲学者に政治家志望の若者達が教えを請いました。

 ソフィストの本来の意味は「知恵のある人」で在って哲学者を指しているのです。
そのソフィストで最も有名な人物がプロタゴラス(紀元前490年頃~紀元前420年頃)です。
その講義の値段は、軍艦一隻の建造費と同じ位と云われていますが、1万ドラクメがその相場と云われています。

 プロタゴラスの言葉、「万物の尺度は人間である。」
エジプト人は人間の身体に鷹や山犬の頭をつけた獣人(?)を神と考え、ペルシア人は火を神と崇め、ヘブライ人は神をヤハウェのみとし、ギリシア人はまた別の神を持っています。
神ですら、時と所が違えば変わるのですから、絶対的な真理や善が在るのでしょうか?
「万物の尺度は人間」=価値相対主義。
議論で相手を打ち負かす事が目的になりますから、絶対的真理なんて追い求めていてはいけません。ある時は黒を白と主張し、またある時は白を黒と主張する事が必要になりますが、そう考えると「万物の尺度」を「人間」と考える事は、実に都合良い事なのです。

3、ソクラテス

 ソフィスト達の主張は結構現代人には共感できる点が多いと思います。
「奴隷制は人間性に反する」「神は頭のいい男が人々を従わせる為に発明したものだ」等ですが、哲学史上は評価が低い。

 そしてソクラテス(紀元前470年頃~紀元前399年)が登場します。
当時の記録では、彼は非常にブサイクな男とされており、頭は禿げ上がり、目はギョロ目、鼻は獅子鼻で、分厚い唇、更には小太りでお腹は突き出し、非常に毛深かったそうですが、彫刻を見る限りではその様な男性には見えません。

 彼は、ギリシアの人々にとって、偉大な人生の教師でした。
アテネで生まれ、アテネで死にますが、時代は当にペロポネソス戦争末期の時代と彼の人生は重なります。
若い時から哲学の勉強を行い、当時はソフィスト全盛の時代なのですが、彼はソフィストと決定的に違う点が在りました。
彼は若い弟子達に哲学を語りますが、決して授業料は取る事は無く、金儲けの為の哲学ではなかったのです。
そしてより良く生きる事を考え、普遍の真実や善や美が存在する事を信じて、それを追及し続けたそんなソクラテスには、友人や若い弟子達が数多く居たのです。

ギリシア・ヘレニズムの文化・続く・・・

2013/02/18

歴史のお話その41:ギリシア・ヘレニズムの文化①

<ギリシア・ヘレニズム文化①>

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アテネの学堂

1、自然哲学

 世界で最初に哲学を生み出したのがギリシア人でした。
古代ギリシア市民は、余暇の時間がふんだんに在りました(羨ましい!)。
畑仕事等の労働は奴隷が行い、夫婦で家事を分担する発想は全く無く、家事は基本的に女性が行いました。
市民=男は、特に決まって行う仕事は在りませんでしたから、昼間からアゴラと呼ばれる広場に集まって、友人達と会話を楽しみ、次の戦争の為に身体を鍛えたのでした。

 人間は余暇の時間が沢山在ると色々なことを考えるものです。
「何で世界は出来ているのか?」。
最初の哲学は自然哲学と云い、現在なら科学分野に相当することを思考したのです。
世界の成り立ち等ですが、実験道具も何も無い時代なので、頭の中で論理を組立てたのです。

 その最初の人物がタレース(紀元前580年頃)です。
タレースはイオニア地方ミレトス人で、ギリシア本土では在りませんが、タレース以外にも自然哲学者は、イオニア地方やシチリア島の人が目立ちます。
ギリシア本土でことが、伝統に因われず他民族の刺激等を受けて、新しい発想が生まれたとも言われています。

 タレースの言葉「万物の根元は水である」。
これが最初の哲学の言葉で、世界は水から出来ている、と云う発想は幼稚に思えるかも知れませんが、やはり画期的なのです。
一つは、世界の成り立ちを追及した点、そして二つ目に、最も重要な箇所ですが、世界の成り立ちを神様の存在を抜きで考えたことで、この発想は独特でした。

 タレースはただ哲学をしただけでは無く、日食を予言し、川の流水量を調整して軍隊の渡河を可能にしたりと、色々な技術を持っていました。

 ヘラクレイトス(紀元前500年頃)は「万物の根元は火である」と説きました。
最も有名な言葉は「万物は流転する」ですが、炎が止まっていない様に、全てのものは一瞬も同じところに止まらない、と考えたと云われています。
火でも水でも空気でも何でもありで、いろいろな考えが出てきますが、やがて発想は抽象的になってきます。

 その中でもデモクリトス(紀元前460年頃~紀元前370年頃)は、特に重要です。
「万物の根元は原子(アトム)である」。
物を極小の世界に向かって行くと、最後は小さな原子になると説きました。
現在の物理学の知識と基本的に同様ですが、頭の中で考えるだけでも、ここまで到達できるのです。

 抽象の極限がピタゴラス(紀元前6世紀)で、数学の基礎を創った人物ですが、彼は「万物の根元は数である」と説きました。

ギリシア・ヘレニズムの文化・続く・・・

2013/02/16

歴史のお話その40:アレクサンドロス王④

<アレクサンドロスの東方遠征④>

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エジプトにて、伝説の結びを切るアレクサンドロス

◎アレクサンドロス③

 アレクサンドロスはその後も旧ペルシア領を支配下に納めながら、東に向かって転戦していきました。
紀元前326年にはインダス川を渡りインドに侵入しました。
この頃になると、故郷のギリシアは遥かに遠く、彼の率いる兵士達は不安になります。
東方遠征に出発してから既に8年の時間が過ぎ、兵士達の望郷の念も一層激しいものに成ってきました。
アレクサンドロスも兵士達の気持ちが伝わったのか、ここでようやく遠征は終わりアレクサンドロスの軍は帰途につきました。
ただ、アレクサンドロスがマケドニアに帰ることはありませんでした。
彼はペルシア帝国の後継者として、バビロンから帝国を統治したのです。
しかしながら、彼の作り上げた大帝国には名前がありませんでした。
この後すぐにアレクサンドロスは、死んでしまい、通常アレクサンドロスの帝国と呼ばれます。

2)アレクサンドロスの政策

 彼は新たに征服した領土に、アレクサンドリアと名づけた都市を建設します。
中でもエジプトのナイル河口に築いた、アレクサンドリアが有名ですが、帝国各地に支配の拠点として同じ名前の都市を数多く造り、全部で70以上の街が存在します。

 この新しく造った都市には、アレクサンドロスがギリシアから連れてきた、ギリシア兵達が住むことに成りますが、中央アジアやインドに近いアレクサンドリアに住むことに成ったギリシア人達はギリシア本土から遠く離れている為、次第に現地の人々と結婚等により、土地の人たちに吸収されていきますが、ギリシア風の文化がこの様な地方にも広がることに成りました。

 さらに、アレクサンドロスはギリシア文明とオリエント文明を融合させ、具体的には民族融合を考え、ギリシア兵士とペルシア貴族の子女との集団結婚を行い、自分自身もペルシア王族の女性を妻にしています。
広大な帝国を治める為にもペルシア人を登用しますが、アレクサンドロス自身がペルシアに傾いていきました。
この様な状況が、マケドニア以来アレクサンドロスの身近にいた貴族グループとの間に、壁を生み出します。
「アレクサンドロスの勝利はマケドニア人のおかげじゃないか」と、不満を持つ訳です。

 また、エジプトでアレクサンドロスは神殿都市シワーに行くのですが、ここの神殿で神の生まれ変わりというお告げを受けて、エジプト人に歓迎され、もともとエジプトは王を神の化身と考える伝統があるので、神の生まれ変わりと言われ、神の化身のように接待されました。
王を友人のように対等に近い感覚で扱うマケドニア人やギリシア人との落差は大きいです。

 ペルシア人の王に対する態度もエジプトに近く、王を高いところに置いてお仕えします。
ペルシアやエジプトでの王の在り方は「専制主義的」なのです。
アレクサンドロスにとってギリシア風よりもオリエント専制主義に傾いていたのは当然ですが、彼はギリシア人やマケドニア人に対しても神のごとく自分に接するように強制しはじめます。

 その矢先アラビア方面に遠征計画が在り、出陣を祝う宴会で突然倒れ、何日か寝込んだ後で亡くなります。
死因はよく分からず33歳でした。

3)ヘレニズム諸国

 後継者が問題がですが、後継が居らず、妃の一人が懐妊中で、アレクサンドロスの死後息子が生まれますが、生まれたばかりの子供に統治能力は無く、肉親としては腹違いの兄が居たのですが、この人物は障害も持ち合わせていた、王位には耐えられません。

 結果的にマケドニア、ギリシアに建国したアンティゴノス朝マケドニア、旧ペルシア領に建国したセレウコス朝シリア、エジプトにプトレマイオス朝エジプトが生まれます。
そして是等の国々は、その子孫が王位を継承していくことになります。

 セレウコス朝シリアは領土が広大で、中央アジア方面まで統制ができず、中央アジア方面のギリシア人総督は、自立してバクトリアを建設しました(紀元前255年)。
ペルシア本土、現在のイランではペルシア人の国家パルティアが自立します(紀元前248年)。

 この様にして、徐々に旧アレクサンドロスの帝国は分裂していくのですが、アレクサンドロスの東方遠征以来、プトレマイオス朝エジプトが滅亡する紀元前30年迄の約300年間をヘレニズム時代と呼びますが、これはギリシア風の時代という意味で、メソポタミアや、エジプトなどのオリエント地方にもギリシア文化が広まった時代を示しています。

 アレクサンドロスの帝国の流れを汲む国はヘレニズム諸国と呼ばれます。
いちばん長く続いたヘレニズム諸国がプトレマイオス朝エジプトで、最後の王が有名なクレオパトラ。クレオパトラは、民族的にはギリシア系であり、アレクサンドロスの武将プトレマイオスの子孫なのです。
ヘレニズム時代というのはギリシア人が支配者であった時代でもあるわけです。

アレクサンドロスの東方遠征・終わり・・・

2013/02/15

歴史のお話その39:アレクサンドロス王③

<アレクサンドロスの東方遠征③>

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イッソスの戦い・アレクサンドロス&ダレイオス3世

◎アレクサンドロス②

 ペルシア側が軍勢を立て直し、アレクサンドロスを迎えたのがメソポタミア地方の入り口にあたるイッソスです。
この戦いで、初めてペルシア大王ダレイオス3世自身が出陣し、ペルシア軍公称60万人、実際には40万人と云われていますが、それでもギリシア軍の10倍の戦力です。

 しかし、この40万人の中で本体であるペルシア人は、それ程多くないと思います。
純粋なペルシア人の戦士は、全部集めてもせいぜい10万程度で、他の軍勢はペルシア領内の色々な民族から集められているのです。
ペルシア軍にはギリシア人の傭兵も結構居り、食い詰めたギリシア人がペルシア迄出稼ぎに来ているのですが、ギリシアの重装歩兵は強力ですから、重宝されていたようです。

 後の時代の有名なモザイク壁画に、イッソスの戦いを描いた物が在ります。
戦場から脱出しようとする、ダレイオス3世の後ろに控えている、軍勢は長い槍を持っています。
この軍勢が重装歩兵で、ペルシア大王の親衛部隊として、間近に備えているのです。
ペルシア軍は数こそ多いものの、決して一つにまとまった、大きな力を発揮できる状態では在りませんでした。

 さて時は紀元前333年、イッソスの戦いが始まりました。
戦いは乱戦に成り、アレクサンドロスは自分から真っ先に敵に突入し、ペルシア大王の本陣に肉薄します。
ペルシア大王ダレイオス3世は、余り対外戦闘の経験は無く、この様な戦には向いていなかったので、ギリシア軍の突撃に陣を見出し、あわてて戦車の向きを変えて脱出し、イッソスの戦いはアレクサンドロスの勝利でした。

 戦場には財宝がたくさん残されていました。
ダレイオス3世は戦場でも豪勢な生活をする為に、特別の天幕に家具調度品を持ち込んでいた上、自分の母親、妃まで連れてきて居たのですが、彼女達も皆置き去りにして逃亡です。
戦場に残されて母親や妃は、ものすごい美人だったらしい!
本来なら、皆アレクサンドロスのものになるのですが、アレクサンドロスは彼女達には指一本触れず丁重に保護しました。
大変、禁欲的で潔癖ですね。

 この話しを後で伝え聞いたダレイオス3世は、「もし余がペルシア大王でなくなったとき、代わりに玉座に座るのはアレクサンドロスであって欲しい」と云ったとも外史では伝えられています。
真実か否かは時代が進んだ現代では分かりませんが、この言い伝えはアレクサンドロスの意図を想像させます。
ペルシア帝国を滅ぼして、その領土を支配するのなら、ペルシア人の協力は絶対必要ですから、ペルシア人の支持を受けるにはどうすれば良いのでしょう?
彼のペルシア王妃達に対する保護には、その様な深謀遠慮が在ったと思われます。

 イッソスの戦いの後、アレクサンドロスは逃亡したダレイオスを追わずに、進路を南に取ります。
まずフェニキア攻略を目標にし、7ヶ月かけて、ティルス市を攻略し、ギリシアの海上貿易の利益にとって、フェニキアは邪魔な存在でした。
そして、エジプトに入ります。
エジプトではペルシアの支配に対して抵抗が強まっており、ギリシア軍は歓迎されます。
アレクサンドロスは解放者として迎えられました。

 次の戦いが紀元前331年のアルベラの戦いです。
エジプトからメソポタミアに軍を進めたアレクサンドロスとダレイオス3世の最後の決戦です。
ペルシア側は100万の軍勢で、4万のギリシア軍に勝ち目はないと考えたパルメニオン将軍は、アレクサンドロスに進言しました。
「王よ、この大軍に勝つには夜襲しかありません。」
アレクサンドロス答えて言います。
「私は勝利を盗まない。」
これもアレクサンドロス伝説なので、真実か否かは判りませんが、この様な話です。
ペルシア側は、逆にギリシアの勝機は夜襲しかないと考えており、夜襲に備えて全軍に完全武装で眠らない様に命令を出しました。

 アレクサンドロスの夜襲攻撃に、すぐさま対抗する作戦でしたが、アレクサンドロスには全くその気は在りません。
ペルシア軍は夜襲攻撃に緊張しながら夜を明かしてしまい、将兵共に徹夜の緊張消耗失くしています。
一方のギリシア軍は、完全な睡眠を取り、朝を迎えました。
実際には、今度の決戦も乱戦に持ち込まれ、又もやダレイオス3世は戦場離脱です。
そのため全軍総崩れに成って、敗走しますが、事実上ペルシア帝国は滅亡し、アレクサンドロスがその帝国の後継者になりました。
逃亡したダレイオス3世は、地方のサトラップ(総督)の裏切りで命を落とします。

アレクサンドロスの東方遠征・続く・・・

2013/02/14

歴史のお話その38:アレクサンドロス王②

<アレクサンドロスの東方遠征②>

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アレクサンドロスとアリストテレス

◎アレクサンドロス

 この若干20歳の跡継ぎこそが、アレクサンドロスでした。
アレクサンドロスは王位を継ぐと、すぐさまマケドニア軍を掌握し、独立を企てたポリスを制圧しました。
その上で、アレクサンドロスは全ギリシアの盟主にして、対ペルシア戦最高司令官になります。
ギリシアの地盤を固めてから、彼がおこなったのが有名な東方遠征です。

 アレクサンドロスは英雄なので、種々の伝説が存在すし、どこまで本当か分からない逸話もたくさん在るのですが、この様な話も在ります。

 準備を整えて東方遠征に出陣するに当って、出陣式を挙行しました。
アレクサンドロスは22歳、まだまだ若い、当然若い仲間の貴族も数多く居り、マケドニアは王と貴族の間が隔離されていませんでした。
貴族の第一人者が王なので、ギリシア人の人間関係は上下関係より横関係の方が強く、王も若い貴族達も仲間同士的な感じで、盛り上がったのでしょう。
このときアレクサンドロスは、自分の財産を気前よく仲間達に分けてしまいます。
森林や領地を気前よく財産分けて、アレクサンドロス自身の持ち物がなくなってしまったので、ペルディッカスが王に尋ねました。
「王よ、貴方には何も残らないのではないですか?」
それに対してアレクサンドロスが言ったと伝えられる台詞(せりふ)。
「私には希望がある。」
考えさせますね!

 父王フィリッポスがマケドニアの勢力を伸ばして、ギリシア全土を制圧していくときに、アレクサンドロスが仲間に言ったと云う言葉。
「困ったものだ。父上が何もかもなされてしまっては、我々のやることがなくなってしまう。」
東方遠征は具体的にペルシア遠征ですが、これは彼の父フィリッポスがすでに計画をしていたもので、息子に残されたと云う事に成ります。

 紀元前334年、アレクサンドロスは東方遠征に出発、率いるギリシア軍は騎兵、歩兵あわせて約4万。
このとき兵糧は30日分と伝えられますか、絶対勝利をおさめ軍資金や食糧は現地調達する予定でした。
ヨーロッパとアジアを隔てるダーダネルス海峡を渡り、まず最初の会戦が、グラニコス河畔の戦いと呼ばれています。
この時のペルシア軍もほぼ4万人くらいですが、この戦いでアレクサンドロスは、敵を蹂躙し、途中の都市を制圧しながらメソポタミア地方に進路をとりました。

アレクサンドロスの東方遠征・続く・・・


2013/02/13

歴史のお話その37:アレクサンドロス王①

<アレクサンドロスの東方遠征①>

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マケドニア式ファランクス

◎マケドニア
 
 ギリシアの北方にマケドニアという国が在りました。
バルカン半島の南端、アテネ等のポリスが点在する地域が先進地域と仮定すれば、マケドニアは後進地域です。
マケドニア人はギリシア人の一派ですが、アテネ等ギリシア中心部の人々と比較して、言葉に地方性が強く、アテネ等の人々はバルバロイ(汚い言葉を話す者達)と呼んで軽蔑の対象と成っていました。日本でも、平安時代の近畿圏の人たちが、東北地方の人々を「蝦夷」として自分たちとは別の人々と考えていたことと似ています。

 更にマケドニア人はポリスを形成しておらず、王の下に貴族層が支配者層を形成しており、その様な意味でも遅れた地方と見なされていたのです。
マケドニアは、南方の先進地域が指導権争いで衰退していく間に、力を付けて行きました。
マケドニアを一大強国に発展させたのが、フィリッポス2世(在位紀元前359年~紀元前336年)。
彼は、若いときにテーベの人質に成った経験が在り、その時期は、エパミノンダスが斜線陣でスパルタを破り覇権を握った頃でした。
そのテーベの時代に、重装歩兵の戦術を肌で学び、マケドニアの王位に就いたのです。

 マケドニアの軍制は、貴族の騎兵が中心ですが、農民を重装歩兵に整備して、フィリッポスは軍制改革を成功させ、王権も強化します。
やがて、相変わらずポリス間の対立抗争が続く、ギリシア本土に進出しました。

 アテネ・テーベ連合軍が、マケドニア軍を迎え撃ったのが紀元前338年のカイロネイアの戦いです。
最終的にマケドニアが勝利を握り、ギリシアのポリス世界はその支配下に入りました。
独立を失った諸ポリスの人々の間に、親マケドニア派と反マケドニア派が発生してきます。
あくまでも独立と民主政の伝統を守る立場の人々は反マケドニア、ポリス間の長い抗争に終止符を打ちたい人々は親マケドニアです。
親マケドニア派は更にマケドニアを押し立ててペルシアに対する報復戦争を考えていたようです。

 この様な情勢の中で、紀元前336年フィリッポス2世が暗殺されます。
齢40代半ばでしたが、反マケドニア派にとっては絶好の機会でした。
独立を回復するにはフィリッポスの死ほどありがたいものは無く、マケドニアはフィリッポス一代で強国に成り上がったのですから、彼さえ居なければマケドニアの支配は、直ぐに崩れるだろうと考えたのです。
フィリッポスには息子が居ましたが、当時20歳で、こんな若者にフィリッポスの跡を継げるわけがないと考えるのは当然の成り行きでした。

アレクサンドロスの東方遠征・続く・・・


2013/02/12

歴史のお話その36:古代ギリシア⑨

<古代ギリシアの社会⑨>

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Alliances in the Pelopennesian War, 431 B.C. 1.Wikipediaより

◎ポリスの衰退

 やがてアテネとスパルタが覇権を争う時がやって来ました。
ペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)です。
アテネはデロス同盟の盟主として、ギリシアの指導的立場に就くのですが、その手法は他のポリスの反感を買うようなことが多く、例えば、現在のアテネでアクロポリスの上にパルテノン神殿が建っています。
この大理石の立派な神殿は、ペリクレス時代に造営されましたが、この建設費の源泉はデロス同盟の資金を流用しています。
デロス同盟は軍事同盟なので、加盟ポリスから軍資金を徴収しますが、この金員をアテネはペルシア戦争で破壊された自分の町の復興の為に流用したのです。

 当然、他のポリスは反感を持ち、その筆頭がスパルタでした。
スパルタは自国を盟主とする、ペロポネソス同盟の盟主でしたから、このギリシアの両雄がギリシア全土の覇権を賭けて衝突したのです。

 最終的にスパルタがアテネを撃破するのですが、アテネに代わったスパルタの覇権は、長期に及ぶものでは在りませんでした。
次に覇権を掌握したポリスがテーベで在り、エパミノンダスが登場し急速に勢力を伸ばしてきたのです。
彼は斜線陣と呼ばれる新しい戦法を編み出し、紀元前371年にレウクトラの 戦いで、スパルタ軍を破り、この時点で覇権はスパルタからテーベに移りました。

 この様にギリシア内部で次から次へと戦乱が続き、ギリシア世界全体として衰退してしまいます。
まずは農業が荒廃して行きました。
例えば、ペロポネソス戦争の時に陸軍では劣るアテネは、籠城戦を行いますが、アテネ市を包囲したスパルタ軍はアテネ近郊に広がる畑のオリーブやブドウの木を切り倒してしまいます。
米や麦ならば一年草なので、刈り取られても翌年は収穫できますが、果樹は切られてしまえば次に苗木を植えても、収穫できる迄には何年も掛かります。
正に農業荒廃で、戦争が終わってもすぐに回復できません。

 農業経営者の中産市民はこの結果、没落する者が続出し、収穫なければ収入も無く農地を売り、財産を処分し、最後には重装歩兵の武具を売る事に成りました。

 更にこの時代の政治は衆愚政と呼ばれ、民主政の腐敗堕落した形態に陥ります。
民主政と見た目で違いはありませんが、政治に関わる市民達の考え方の違いなのですが、ポリス全体の事を考えるのでは無く、目先の自分の利益を第一に考える、そんな者達の民主政です。

古代ギリシアの社会・終わり・・・

2013/02/11

歴史のお話その35:古代ギリシア⑧

<古代ギリシアの社会⑧>

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◎スパルタの国政

 スパルタはアテネと並ぶギリシアの大国(ポリス)ですが、アテネを規範とした民主政は発達せず、ギリシア世界の中でも特殊な国造りをしました。

 スパルタには三種類の身分が存在し、最上位が支配者であるスパルタ人で在り市民です。
その下にペリオイコイと呼ばれる階層が在り、この階層は軍事的兵役義務は在りますが、参政権が無く、不完全市民です。
最下層がヘイロータイ、事実上の奴隷身分です。
ヘイロータイが農業に従事します。
スパルタは広い領土を所有しており、割合に平地も多く、この農村に住んでいる人々が奴隷身分のヘイロータイです。
スパルタがアテネ等と比較して特異な点は、この奴隷の人口が非常に多いことでした。

 アテネの市民は18万人、奴隷が11万人、市民の方が多いですね。
スパルタは、市民が2万5千人。奴隷が20万人、圧倒的に奴隷人口の方が多いのです。
この奴隷が団結して反乱を起こせば、2万5千人では対抗する術は無いに等しいのですが、スパルタ人は非常に単純な答えを出します。
スパルタ人一人ひとりが強い戦士になり、ヘイロータイを常に恐怖を与えること。
そこで、スパルタ人は幼い時から非常に厳しく子供を育てました。

 出生すると、ここからスパルタ式教育が始まり、長老が生まれた赤ん坊を五体満足か?健康に育ちそうか?調べるのです。
障害や虚弱が在る場合、タイゲトス山に捨てて育てません。
7歳になると男の子は、親元から引き離されてみんな合宿所に入れられ、男ばかりの集団生活が始まります。
この合宿生活は、30歳迄続きます。

 30歳になると家庭生活が許されますが、やはり夕食は個人の家で食べません。
男達が集まって、共同で食事をします。
これを行わないと市民の資格を奪われてしまいますので、スパルタでは一家団欒の夕食は存在しません。

 この様な生活を行いながら、肉体を鍛えていきます。
男達同士の団結はものすごいもので、お互いみんな気心が知れあっており、これが密集隊を作って戦場に出てきたら他のポリスは太刀打ちできません。
スパルタ陸軍はギリシア最強でした。

 成人の儀式ではこの様な話も伝えられています。
スパルタの少年は13歳位で成人の儀式を迎え、その年齢になった少年は短剣一本だけを渡されてスパルタの町を追い出されます。
金も食糧も何も持たせずに1年間放浪の旅をしなければ成りません。
食糧調達は、奪うこと!
具体的には近郊には農村が広がっており、奴隷身分のヘイロータイが住んでいます。
彼らから食糧を奪い、ヘイロータイが抵抗したら殺してかまいません。

 ヘイロータイからすれば、常に年頃の少年が短剣を持って徘徊しており、何時襲ってくるか分かりません。
ヘイロータイにはスパルタ人に対する恐怖心を植え付け、少年は放浪を通じて立派な戦士に成長する訳です。

 女の子は合宿生活はないですが、やはり集められて肉体の鍛錬をしました。
これは立派な戦士を産む為でした。
要するに、スパルタは社会全体が準戦時体制のポリスで、このようなポリスの在り方はギリシア全体から見たら特殊です。

古代ギリシアの社会・続く・・・


2013/02/09

歴史のお話その34:古代ギリシア⑦

<古代ギリシアの社会⑦>

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◎ペリクレス時代

 アテネ民主制発展の最終段階がペリクレス時代(紀元前443年~紀元前429年)です。
ペリクレスの時代にアテネの民主制は完成し、この時代アテネの絶頂期でも在りましたので、その時代の指導者の名をとって、 ペリクレス時代と呼んでいます。

 民会、国政の最高機関で、18歳以上の男子市民による直接民主政です。
財産に関係なく、誰でも民会に参加できましたが、この民会は今の日本で言えば国会に相当します。現在の日本では、国会の審議に不満を持ち、一言議会に物申したいと思っても、一国民が国会に行っても議場に入る事は許されません。
私は国会議員では在りませんし、国民に選ばれた者が国政について話し合う現在の仕組みは「間接民主制」、アテネは直接民主政なのです。

 どちらが民主主義として理想かと言えば、誰でも物申せる直接の方が良いので、在る意味このアテネの民主政は、一つのお手本でも在る訳です。

 もう一つのアテネの政治の特徴は、公職担当者を抽選で選んだ点です。
現代に言い換えれば、総理大臣も裁判官も役人もクジで選び、クジに当選した場合は、誰でもその職務を遂行する制度です。
制度的には、少なくとも役人は自分はエリートだと威張る事は少ないと思われ、当人は偶然クジで選ばれただけなので、腐敗も殆ど無いと思います。

 現代の官僚制と比較してこの様な部分は評価できるのだと思います。
現在の政治経済は 非常に複雑な為、抽選制を現在に於いて、実施することは不可能です。

 国家財政の知識が無い人物が、日本銀行総裁に当選しても何をしたらいいか全然分かりませんね。
この時代はポリスの規模も小さく、それほど複雑な行政制度も存在しないので抽選が可能でした。
アテネの人々はこの様な政治制度を誇っていましたし、ある意味では徹底的に公平なのです。

 政府の公職はクジで選んだのですが、例外の職務が存在していました。
軍人、其れも将軍です。
戦争の指揮は、誰でも出来るものではなく、ある種の才能や人望が必要です。
もし無能な者が将軍になって戦争に負けた場合、其れはポリスの滅亡崩壊を意味します。
その為将軍職は選挙で選びました。
ペリクレスは、この将軍職に15年連続して選ばれ、その地位からアテネの政治を指導したのです。
完全に平等の様に見えても、やはり指導者は必要でした。

 古代ギリシア民主主義の陰の部分を紹介しておきます。
ギリシアは奴隷制度の社会で、奴隷制の上に成り立った民主主義で在る事を忘れてはなりません。
当時のアテネの人口は、市民が18万人、奴隷が11万人くらいでした。
この奴隷は喋る家畜と考えられ、人間としての権利等は全く存在せず、この奴隷の労働力の上に成り立った市民達の民主政です。

 更に、市民でも女性は権利が無く、女性は子供を産む為の存在でした。
民会も参加不可能、しかも男達からは対等な人格を持った存在とは考えられておらず、従って対等な人格が存在しませんから愛も生まれません。
市民18万人中、民会に参加できる成年男子人口は4万人、奴隷もいれれば、全人口約30万人中の4万人だけが参政権を持つ、その様な民主政だったのです。

 民会はどのくらい開かれたかというと年間40回程でした。
ほぼ一週間に一回の割合です。
4万人全員が参加する訳ではなく、参加者は6000人位で、これがアゴラ(ポリスの中心にある広場)に集まって、議論するのです。

 ペリクレス時代のアテネは、ギリシアポリスの盟主で、サラミスの海戦でペルシア軍は撤退しましたが、又何時攻めてくるか分かりません。
そこで、各ポリスは対ペルシアの軍事防衛同盟を結成し、これをデロス同盟と呼びます。
アテネはデロス同盟の盟主として、全ギリシアに号令する立場についたのでした。

古代ギリシアの社会・続く・・・


2013/02/08

歴史のお話その33:古代ギリシア⑥

<古代ギリシアの社会⑥>

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三層櫂船・Wikipediaより

◎ペルシア戦争・民主政治の第二段階、無産階級の台頭その②

 マラトンの戦いから10年後、今度はペルシアの大王クセルクセス自ら、軍隊を率いて進軍してきました。
今度は陸軍30万人、海軍1000隻の大勢力で、この大軍はダーダネルス海峡を渡ってバルカン半島を南下、これを迎え撃ったのがスパルタ軍を中心とするギリシア軍7000なのですが、あまりにも劣勢でした。
オリンピアの祭りで兵力を集められなかった結果ですが、この時スパルタ軍は最後の一人まで戦い抜いて全員玉砕しました。
これを、テルモピレーの戦い(紀元前480年)と呼びます。
この戦いの指揮を執ったスパルタ王レオニダスは、後々迄讃えられました。

 テルモピレーの防衛線を突破したペルシア軍は、ギリシア本土に怒濤の進撃を開始、多くのポリスを攻略し、アテネも例外ではなく、ペルシア軍に占領され街は破壊されました。
ところで、そのアテネが攻略される以前、アテネの指導者達は、先に少し触れたデルフォイにペルシア軍が攻めてきた場合の対処について、お伺いを立てていました。

 その時の神託は、「町も神殿も焼け落ちるだろう。しかし、木の壁に頼る限り、難攻不落である」
この神託をどう解釈するかで指導者達の意見は分かれました。
「木の壁」とは何か?
当時アクロポリスの上のパルテノン神殿は木で造られており、本来アクロポリスは戦争の時の最後の砦なので、「これはアクロポリスに立て籠って戦えというお告げだ」と考える人達と、「木の壁」とは船の事である、と考える人達が居たのです。

 結局「船」の意見が通り、この日に備えてアテネは軍船を大量に建造していました。
ペルシア軍がアテネを占領した時には、女性や子供は離れ小島に待避して、男達は最後の海戦に備えて準備を整えていたのです。
当時の軍船は三段櫂船で、船の先端に衝角(ラム)と呼ばれる鉄の角が装備され、これを敵船の船体に突入させ、穴をあけて沈めてしまうのが海戦の主だった戦法なので、船の機動力が高い方が当然有利な為、船速を上げる為に漕ぎ手が多く必要でした。
一隻の乗員が200人程で、漕ぎ手が180人。

 船の漕ぎ手は、奴隷達と思われますが、自分の乗っている船が、沈没する様な事態に陥った場合、船と運命を共にする事に成ります。(時代は異なりますが、映画ベン・ハーでも同様なシーンが在りました)
アテネは軍船を200隻建造しましたが、単純計算で乗組員全員、4万人が必要に成ります。
このときに漕ぎ手となったのが、それまで戦争に参加する事が出来なかった貧困平民です。
アテネを守る為に本来奴隷の仕事を引き受け、武器自弁が出来なくても身体さえあれば船を漕げるのです。

 彼等は自分達のポリスを守る為の戦いなので、士気は極めて高く、一方のペルシア海軍の漕ぎ手は奴隷でした。
しかも、アテネ側はペルシア海軍を狭いサラミス湾に誘い込みます。
アテネのすぐ沖の海域なので、海流、暗礁等海底の地形もアテネ側には判っていますから戦闘が開始されると、当然有利に作戦は展開し、サラミスの海戦でペルシアは敗走しました。

 この時、クセルクセス大王は最終勝利をその目で見ようと岬の上から観戦していたのですが、ペルシア海軍の軍船が次々に撃破される有様を見てしまい、クセルクセスは退却命令を出し、真っ先にギリシアから逃れていきました。

 陸上は制圧しているのに何故撤退しなければ成らないのでしょう?
ギリシアは山国でもともと食糧に乏しい為、ペルシア軍の兵糧は現地調達が難しく、30万ペルシア兵の兵糧は、海上輸送を想定していたのです。
その海軍が撃破され、制海権をアテネに握られた結果、ギリシアに上陸遠征した30万人は正に餓死する結果になるのです。
この後、退却するペルシア軍とギリシア軍の戦いは発生しますが、基本的にはサラミスの海戦で決着はついていたのです。

 サラミスの海戦を指揮したアテネの将軍がテミストクレス、その後政治の場に現れそうに成りますが、陶片追放でアテネを追われてしまいました。
因みに亡命先は、ペルシアでした。

 戦争が終結し、サラミスの海戦で活躍した漕ぎ手、貧困平民の発言力が当然ながら増してきます
当時、何時ペルシアが報復戦を仕掛けてくるか判らない為、彼らの要求を承諾せざるを得ず、結果として、総ての市民に参政権が与えられる事になりました。
貧困平民と表現しましたが、現代なら「無産市民」財産のない市民という意味です。

古代ギリシアの社会・続く・・・
2013/02/07

歴史のお話その32:古代ギリシア⑤

<古代ギリシアの社会⑤>

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◎ペルシア戦争・民主政治の第二段階、無産階級の台頭

 アテネ民主政治の第二段階はペルシア戦争(紀元前492年~紀元前479年)でした。
この戦争を通じて、武具を自己負担出来ない貧困平民も政治参加できるようになります。
ペルシア戦争は、アケメネス朝ペルシアがギリシアに侵攻し、それをアテネ等のポリスが迎え撃つ戦争です。

 戦争の発端は、ペルシア支配下のギリシア人の反乱でした。
ペルシアの支配下に入っていたイオニア地方のミレトスが、ペルシア帝国に反乱を起こし、この反乱自体はすぐに鎮圧されるのですが、アテネが反乱を援助していた事にペルシアのダレイオス1世は激怒です。
ペルシア帝国から見ればギリシア世界は弱体地域ですが、この策動を見逃しては、帝国として黙認出来なかったのでしょう。
但し、紀元前492年~紀元前479年の間、戦争を継続していた訳ではなく、断続的に何回かの戦闘が在り、最初の大きな戦いが紀元前490年のマラトンの戦いです。

 マラトンの戦いは、マラソン競技の起源として有名ですが、この話しは先のオリンピアで紹介しました。
マラトンはアテネの北東約30キロにある海岸の地名で、エーゲ海に突き出たアッティカ半島の、アテネとは山を越えた反対側の海岸で、ここにペルシア軍3万人が上陸します。
アテネも全軍が出動して、これに対峙しました。
アテネ軍9000人、これに他のポリスからの応援が1000人、合計1万の重装歩兵がギリシア連合軍です。

 ギリシア最強の陸軍国スパルタは、満月以前の出陣を禁じた掟に従って参戦していません。
ギリシア軍は海岸に布陣したペルシア軍から1500メートル程離れて布陣します。
ペルシア軍の主力戦法は弓兵隊で、弓を敵に打ち込んで混乱させてから白兵戦に持ち込みます。
戦闘開始とともに、重装歩兵達は弓の射程の中を全力で走り抜けました。
重装歩兵の突撃に慣れないペルシア側は算を乱して海上に逃れ、アテネ軍の死者は192名、ペルシア軍は死者6400名と伝えられています。
この時のアテネの将軍はミルティアデスです。

 ペルシア軍は退却しましたが、この段階で全アテネ軍はマラトンに出陣しているのでアテネ市は、全くの無防備な状況でした。
海上に逃れたペルシア軍が、半島を回り込んでアテネに再度上陸進攻した場合、必ず街は陥落です。重装歩兵1万は、正に重装備をつけたまま山越えを敢行して、アテネ迄の30キロを駆け抜けます。

 アテネに戻ると、未だペルシア軍艦艇の姿は無く、やがてペルシア軍船が半島を回り込んだ時には、アテネ軍が海岸に布陣している姿を見て撤退したのが、実際のマラトンの戦いです。
このときのペルシア側の戦い方は、無理をせず相手の戦法を観察したのでしょう。

古代ギリシアの社会・続く・・・


2013/02/06

歴史のお話その31:古代ギリシア④

<古代ギリシアの社会④>

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◎アテネの歴史2・財産政治から民主政治へ

2)財産政治

 この段階では平民は政治から排除されていますから、「ドラコンの法」くらいでは不満は治まりません。
紀元前594年、ソロンの改革によって貴族政治は終焉を迎え、財産政治が始まります。
ソロンの改革は、市民を財産によって等級分けを行い、財産を持つ者には平民にも参政権を与えました。
重装歩兵として武具を自弁できる財産を有する市民には政治参加を認め、これが「財産政治」の意味なのです。

 しかし、これだけでは財産が無く参政権を与えられなかった平民が不満を持ちます。
そこで、無産階級である平民の借金を帳消しにした上で、極端な貧困平民には、借金の結果として奴隷身分に転落する者も居ましたが、この様な事が起こらない様に制度をつくったのでした。
「債務の帳消しと、債務奴隷の禁止」を制定しました。

 貧乏平民の側から見れば、借金を棒引きにしてもらった行為は、有難いのですが同じ平民で在りながら、財産の多少で参政権に差別をつけられるのは面白くなく、やがて彼等が不満を持ちます。
何時の時代でも同様ですが、金持ち平民と、貧乏平民の何れかが数として多いか考えれば、圧倒的に貧乏人の方が多いのです。

 この大多数の 貧乏平民の不満を利用して非合法で政治権力を握る者が出現しました。
ペイシストラトスは、富裕層から権力を奪い独裁政治を行いました。
これを僭主政治と呼び(紀元前561年~紀元前528年頃)僭主は、独裁者を意味すると理解しておいて良いと思います(君主の堕落形態の意)。
此処で重要なのは、独裁政治だから、滅茶苦茶な政治を行ったのでは無く、ペイシストラトスの場合は、貧しい平民を経済的に助ける施策を積極的に実施していますが、富裕層側から見た場合、滅茶苦茶な政治で在ったかもしれません。

 ペイシストラトスの死後、跡を継いだ僭主が紀元前510年に追放されて、アテネには民主政治が確立してきます。

3)民主政治 

 民主政治は三段階に別れます。
第一段階、クレイステネスの改革(紀元前508年)、貴族の権力基盤となっていた古い部族制度を廃止し、地域割りで新しい部族を創設した事。
これを10部族制と呼び、現代では、国会議員の選挙区の区割りを大物議員や与党に不利な様に変えてしまいました。
これによって貴族は名ばかりの存在となりました。

 更に、陶片追放制度の実施。
これは興味深い制度で、独裁者、僭主の出現を未然に防ぐことを意図した制度でした。
投票は、まだ紙が無いので瓦の破片等に有力者の名前を刻んで投票しますが、その時に自分の「嫌いな人」の名前を署名するのです。
将来独裁者に成りそうな人物等の名前を書き、6000票以上投票された人物は、10年間アテネを追放になるという制度です。

 クレイステネスの改革によって、貴族と僭主は事実上消滅し、政治の主体は市民と成りました。
この市民とは名前だけの貴族と金持ち平民です。
この段階ではまだ貧困平民は参政権が存在せず、この人達も政治に参加できるようになったのが、紀元前5世紀前半のペルシア戦争を通じての事でした。

古代ギリシアの社会・続く・・・

2013/02/05

歴史のお話その30:古代ギリシア③

<古代ギリシアの社会③>

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マラトンの戦いに於ける重装歩兵

◎アテネの歴史1・貴族政治と富裕平民の台頭

 ギリシアの代表的なポリスであるアテネを通して、ギリシアの歴史を見て行きたいと思います。
大きく分けて、アテネの政治は貴族政治、財産政治、僭主政治、民主政治の順番に進んで行きます。

1)貴族政治

 紀元前8世紀頃、記録に残っている当時、既に王では無く貴族が政治を担っています。
海外貿易が盛んに成り、貨幣経済が進展するに従って、平民の中に非常にも富裕層が形成され始めます。
この富裕層に属する平民達が、やがて重装歩兵としてポリス防衛戦争に出陣するように成りました。

 重装歩兵とは何か。
当時のギリシア人にとってポリスを守護する為の戦争に出陣する事は、非常に名誉な事でした。
この時代は戦争に出向くのは貴族でした。
貴族は騎兵ですが、馬は維持費が掛かります。
しかし、富裕層の中間に入った平民も名誉ある戦に出陣する様になります。
その時の兵種が重装歩兵で、青銅の兜に丸い盾、足にはすね当てを付け、鎧は革製、武器は鉄の穂先の付いた槍です。
鉄は当時、まだまだ高価で、武具も全部自ら注文する物なので、財政的に余裕が無ければ、この様な装備を所有する事は出来ません。
装備を持たない者は戦場で何も出来ないので、戦争に行く権利が無く、この事を「武器自弁の原則」と呼びます。

 金持ち平民達が武具を揃えて出陣し、貴族と対等にポリス防衛に活躍する様に成れば、当然ながら「貴族と同様に市民の義務を果たしているのだから、参政権を与えよ」と、要求する結果と成ります。民主政治始まりの第一歩で在り、戦争の戦術も貴族の騎兵中心から、重装歩兵に比重が移りました。

 歩兵は一列8人が8列で方陣を組み、彼らは密集隊列を組む訳です。
これを密集隊、ファランクスと呼び、2メートル以上ある槍を前方に突きだして敵の部隊に向かって突進する訳です。
敵軍も同様に突撃する為、密集隊列どうしがぶつかり会う訳ですが、前の列の兵士が倒れたら後ろの列の兵が前に出てその穴を埋め、何度も突撃を繰り返すのです。

 実際の戦闘に若し参戦した場合、その恐怖は凄まじいものと思いますが、密集隊列の中の兵士が歩調を乱したり、列から逃げてしまったら隊列が崩れ、その場所を突撃されたら負けてしまいます。
従って、兵士一人ひとりが「ここで自分が怖じ気づいたら負ける、共に隊列を 組んでる仲間が死んでしまう、だから逃げられない」、という意識を持っている方が強いのです。
連帯感、団結力、共同体意識、その様な意識が強い部隊なら、兵力が同様で在れば勝利できるのです。

 兵力は多い方が良いに決まっており、平民には従軍して欲しいが、政治の独占を崩されたくもない。
余談ながら、貴族の騎兵も実は戦場に行く迄は騎乗ですが、戦場に着いたら馬から下りて密集隊列を組みます。
その結果、平民と貴族が同じ隊を組む事が、当然在ると思われます。

 密集隊列を組むのは密度が高い方が、攻撃力が増す以上に、防御力も増します。
兵士は左手に丸い盾を持ち、盾の裏側の真ん中に皮の輪が付いていており、ここに肘を通し、端に握りが在ってここを握ります。
肘全体で盾を支える様に成り、これで左半身を守って右手で槍を持のですが、自分の右半身はぴったりと密集して並んでいる、右横の兵士の盾の左半分が防御しています。
その為、密集している程自分が安全で、そのままの隊形で前進して行きます。

 ところがこの隊形の弱点は一番右側の列、右端の兵士は、自分の右半身を無防備に露出させています。
結果的に、最前列の最右翼は一番危険な位置で、死亡率も高い筈で、重装歩兵達はこの最前列最右翼に立つ事を嫌がらず、この位置を占める事は、心身共に最強と誰もが認める人物で、栄誉ある位置なのです。
「俺はあの戦の時、最右翼だった」と子や孫に大いに自慢できますが、自分の命よりもポリスの為に尽くすことを大切に考える、その様な世界だったのです。

 重装歩兵で活躍する平民の参政権要求を認める前に、貴族達は政治改革を行なって平民の不満を鎮めようとしました。
これがドラコンの法(紀元前621年)、「慣習法の成文化により貴族の横暴を防止」を試みたと説明されていますが、現代の情報公開で在り、貴族が独占していた政治、法律情報を平民に公開したのです。

古代ギリシアの社会・続く・・・

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2月5日は、ジロくんの誕生日、7歳になりました。

2013/02/04

歴史のお話その29:古代ギリシア②

<古代ギリシアの社会②>

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◎オリンピア

 ポリス同士での戦争は多いのですが、彼らはお互いギリシア人で在る事に、同胞意識を強く持っていました。

 同胞意識で、最初に考えられるのは言語です。
ギリシア語以外の言葉を話す人々をバルバロイと呼び軽蔑していました。
バルバロイとは、汚い言葉を話す人達を意味し、この単語がバーバリアン、野蛮人を意味する英語の語源と成りました。

 次にギリシア全土のポリスが参加する沢山の催事が存在し、その代表的なものがオリンピアの祭典、いわゆるオリンピックです。
紀元前8世紀から4年毎に開かれ、各ポリスから選び抜かれた選手達が、オリンピアに集まり、円盤投げやレスリング等、戦闘行動に直接関わる様な競技を中心に、其々栄誉を競い合うのです。
優勝しても賞金等は在りませんが、全ギリシア世界にその名前が知れ渡り、優勝者の彫像が作られて神殿に奉納される、多大な名誉を伴っていました。

◎「オリンピックの平和」

 オリンピックは、エリスと云うポリスが、オリンピアの祭典を主催するのですが、開催前にはエリスから開催を告げる使者が、全ギリシアのポリスを巡って総ての戦争休戦を告げます。
オリンピックは3ヶ月間に渡って開催されますが、その間一切戦争行為は禁止で、各ポリスはこの御布令を厳守するのです。

 近代オリンピックはクーベルタンが、この古代オリンピックを理想として始められました。
平和の祭典と言いますが、実際には何処かで紛争が起こっています。
現在は起源に成る文化が違う為、なかなか古代ギリシアの様には成らない様です。
何故、ギリシアではスポーツ競技会の為に戦争迄停止した理由は、オリンピックそのものがゼウス神に捧げる儀式で在り、宗教行事の為でした。

 ペルシアの大軍がギリシアに攻め込んできたペルシア戦争の時にも、オリンピックは開催されています。
神に捧げる儀式なので、休戦協定を無視した場合、オリンピックの参加権が無くなり、デルフォイの神託も受ける事が不可能に成りました。
デルフォイの神託はデルフォイ神殿の巫女のお告げで、霊験が在りギリシア人皆が信じているのです。当時のギリシア人も困った時には神のお告げを聞きますので、それが出来なくなるのは困るわけです。

 最後にオリンピックは女人禁制でした。
会場は神聖な場所なので、見物客は4万人位集まったと伝えられていますが、皆男性、そして選手は皆全裸。
古代ギリシアは男の世界だった様です。

参考・マラソン競技の起源

 近代オリンピックの華と呼称される「マラソン競技」ですが、この「マラソン競技」が古代オリンピックにおいても行われていたと考える人も居りますが、それは誤りです。
近代オリンピックは、フランスのクーベルタンの提案で始められ、その第一回大会は、1896年、古代オリンピック発祥の地、アテネで開催されました。

 その第一回大会の時、フランスの言語学者 ミシェル・ブレアルの提案から現在の「マラソン競技」が始りました。
ブレアルは、紀元前490年、アテネ陸軍がペルシャの大軍をマラトンの野に撃破し、ギリシアを救った時に在ったとして伝わっている話を基に「マラソン競技」を提唱したのでした。

 マラトンの野は、アテネの北東に位置し、予てよりギリシア侵略を目論んでいた、時のペルシャ王ダリウスは、紀元前490年、600隻の大艦隊をアテネに送り、マラトンの野に上陸(第二次ペルシャ戦争)し、アテネは、1万人の重装歩兵でこれを迎え撃ちました。
アテネは、スパルタに援軍を求め、俊足のペイディッピデスを伝令に出し、彼は、アテネ、スパルタ間240kmを二日で走破したと伝えられています。

 しかし、その時スパルタは、祭りの最中で、祭りが終わる1週間後の満月の日に成る迄、援軍を出せませんでした。
其の内、援軍の到着を待たずして、ペルシャ軍とアテネ軍の間に戦闘が、勃発しました。
此れを「マラトンの戦い」と云い、ペルシャ軍の勢力は、アテネ軍の10倍と云われますが、戦闘は、地形を有利に展開したアテネ軍の勝利に終わりました。
当時の記録では、ペルシャ軍の戦死者は。6000人を超える数で在ったにも係らず、アテネ軍の喪失は、200人に満たなかったと記録されています。

 この勝利を知らせる為に、ある男がアテネ市迄全力で走りました。
彼はアテネ市の入口で「喜べ!勝った!」と一声叫び、息を引取ったと云います。
此れが「マラソン競技」の起源に成った事件で、今日のマラソン競技の距離42.195kmは、マラトンとアテネの距離と伝えられています。

 この様に伝えられる「マラソン競技」の起源には、多くの不明な点が多く存在します。
まず、第一に本当に戦勝を伝える者が居たのでしょうか?
「ペルシャ戦争」の歴史を記したヘロドトス(紀元前5世紀)は、当時の歴史上のエピソードは殆んど網羅しているにも係らず、この走者の話を伝えていません。

 この走者の話を最初に伝えたのは、「英雄伝」で有名なプルタルコスとルキアノスですが、マラトンの戦いから500年以上の後の人物で、「英雄伝」の中でプルタルコスが紹介しているヘラクレイデスは、紀元前4世紀の人物で、時代が異なります。
この様に勝利を伝えた走者の話は、後世の想像である様です。

 第二の疑問は、走者の名前で、スパルタ迄伝令に走った、ペイディッピデス、更にはテルシッポス、エウクレス、ディオメデスの名前が、伝えられていますが、定かでは有りません。
駄々、勝利を伝える伝令をアテネに出した事は、事実と考えられますが、勝利を伝えて息絶えた下りは、話を面白く脚色したもので、その為走者の名前が、曖昧になっていると考えられます。

 第三の疑問は、マラソン競技の距離の基と成った、マラトン・アテネ間の42.195kmがどの様に計測されたのかと言う点です。
1927年国際陸上連盟が調査を依頼し、翌年ギリシアが、マラトン・アテネ間の距離として出された結果は、36.75kmで、最初の数字の根拠が、依然曖昧なままなのです。

 さて、アテネで開催された「第一回近代オリンピック」では、アメリカがメダルの大多数を占め、開催国ギリシアは、不振でした。
しかし、マラソン競技に優秀したのは、ギリシア人 スピリドン・ルーエスで、記録は2時間55分。
時のギリシア皇太子兄弟が、彼を肩車に乗せて、貴賓席迄運び、ルーエスは、ブレアルの寄贈した記念杯を受け取ったのでした。

古代ギリシアの社会・続く・・・

2013/02/02

歴史のお話その28:古代ギリシア①

<古代ギリシアの社会①>

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アテネ・アクロポリス

◎ポリス

 紀元前12世紀にミケーネ文明が滅亡後、数百年間は暗黒時代と呼ばれ、社会が如何なる状況に置かれたのかは現在でもよく分かっていません。
紀元前8世紀頃に成り、ギリシア文明が姿を表してきます。

 このギリシア文明は現在の文明に大きな影響を与えており、その最たるものが、民主主義思想です。今の民主主義は西欧で生まれましたが、その西欧の人々が規範とした文明がこの古代ギリシアなのです。
そして、哲学や芸術等現在も馴染み深い西欧文化の元祖でも在ります。

 ギリシア文明、バルカン半島の南端、そしてイオニア地方、ギリシア人の版図は広く、インド=ヨーロッパ語族に属し、紀元前20世紀頃からこの地方に南下してきたアカイア人、イオニア人、ドーリア人を総称してギリシア人と呼びます。

 彼等はこのギリシア世界を統一する大きな国を作る事はありませんでしたが、 彼等は多くの都市国家(ポリス)を形成してここで生活します。
紀元前8世紀頃には、ギリシアの各地域の人々が集合して居住が始まり、ポリス社会が形成されて行きました。
集まって住むことを集住と云い、これをギリシア語でシノイキスモスと云います。

 代表的なポリスがアテネとスパルタ。
ポリス構造として、中央には小高い丘が在り、丘の上には城塞が造られ戦時には、これが最後の守りと成ります。
この城塞は神殿と一体と成っている事が多く、アテネ場合、小高い丘の上に建っているのがパルテノン神殿で、この町の中心となる丘をアクロポリスと云います。
アクロポリスの麓には、アゴラと呼ばれる広場が在り、ここが政治、経済の中心と成りました。
その周辺に市民の住宅が密集し、最後にそれを取り巻いて城壁が築かれています。
これが典型的なポリスの構造です。

 更にこのポリスの周辺に農地が在り、これもポリスの領土なのです。
ポリスの領域は大きい場合でも日本の県規模で、ほとんどは更に小さいのですが、この様なポリスがギリシア本土やイオニア地方に数多く存在していました。

 ポリスには三種類の身分の住民が居ました。
貴族、平民、この二つの身分が市民で、奴隷と外人、彼等は市民として扱われません。
ギリシアは奴隷制社会で、市民の大部分は奴隷を所有しており、彼等に畑仕事を従事させていました。他に、鉱山等も奴隷は労働力でした。
此処で外人は、商売の為に来ている者が多い様です。

 ギリシアは山が多く、大きな平野は殆ど存在しない為、山の斜面で農業を行います。
雨もあまり降らず、穀物生産には向かないので、果樹栽培で、ブドウやオリーブを栽培しています。
しかし、果実はワインやオイルの原料には成りますが、主食には成り得ませんから、ギリシア人は果実を海外に運び、穀物と交換する事に成ります。
大穀倉地帯のエジプト等と貿易を行い、早い時期からギリシアでは海上貿易が盛んに行われていました。
有名な哲学者のプラトンも果樹園を持っていて、収入源はエジプトとの貿易だったそうです。
貿易で豊かに成れば人口も増えますが、ギリシアは狭く人が増えても住む場所は広く在りません。

 これを解決する方法として、一つは海外植民で、黒海沿岸や、イタリア半島、シチリア島等に植民行いました。
植民市呼びますが、植民市が増えれば母市も一層貿易に有利に成ります。
イタリア半島の南端やシチリア島沿岸は、その様なギリシア人のポリスが沢山出来てマグナ・グレキア、大ギリシアと呼ばれました。

 もう一つの方法が、ギリシア内部で他所のポリスから土地を奪取する事でした。
その様な訳で、ギリシアでは何時もポリス同士で戦争を繰り返していたのです。

古代ギリシアの社会・続く・・・

2013/02/01

歴史のお話その27:東地中海に開花した文明⑤

<東地中海文明・番外編②ミノア文字・少年時代の夢に捧げた生涯>

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Michael George Francis Ventris, 1922年7月12日 - 1956年9月6日

◎マイケル・ヴェントリス

 クレタ文明には、「ミノア文字」呼ぶ文字が存在し、絵文字と線文字に別れ、更に線文字は二体(A&B)ある事が、アーサー・エバンズの発掘調査以来判明していましたが、これを解読する事は容易ではありませんでした。

 1936年の事、アーサー・エバンズは、ロンドンで「誰にも読めない文字の話し」と題して、学術講演を行いますが、この時「ミノア文字」を紹介しました。
その講演会に、マイケル・ヴェントリスという当時14歳の少年が、この講演を熱心に聞き、「自分がこの文字を読み解く」と決心したのです。

 マイケル少年は、幼い頃から古い文字に興味を持ち、7歳の時にはお金を貯めて、エジプトの象形文字について書かれたドイツ語の書物を買う事もある程でした。
彼は、英国の比較的裕福な家庭に生まれ、父はインド駐留の陸軍将校、母はポーランド系の才能ある女性でした。
その為か、語学には天才的な素質を持ち、幼い頃から数ヶ国語を自由に話す事が出来ました。
しかし、学業では言語学を専攻せず、建築学を選び、第二次世界大戦に従軍し、暗号解読を任務としました。
建築学の道に入ったヴェントリスでしたが、少年時代の決心を忘れた訳ではなく、エバンズの講演を聞いた後も「ミノア文字」の研究を続け、その研究レポートを時々、学者達に送り指導を仰いでいました。(20回以上もレポートを作成した事が判っています)

 彼の他にも「ミノア文字」を研究している人々が勿論居り、ブルガリアのゲオルギエフの他、自分はミノア文字を解読したと称する学者も、多く存在しましたが正しい解読と認められず、アメリカ・コロンビア大学のアリス・コーバーに至っては、もう少しの努力で、解読できる処迄来ていながら「これはとうてい読み解けない文字である」として、研究を中断してしまう程でした。

 さて、1939年、ペロポネソス半島のピュロスから、ミノア線文字Bで書かれた粘土版が多数発掘され、比較材料が増えた事により、研究も進み解読の手掛かりも幾つか判明してきました。
「ミノア線文字B」は、文字数88、此れは表音文字としては多く、表意文字としては少なすぎる事から、日本のカナ文字の様に母音と子音の組合せであろうと推定され、又、語尾変化、接頭語、文節記号も判明してきました。
この難解な文字をヴェントリスは、少年時代に決心して通りに終に解読しました。

 但し、解読出来たのは「ミノア線文字B」のみでした。
彼は、此れを古代ギリシア語を表現する文字と考え、日本のアイウエオを表す50音表の様な「ミノア線文字B」の「音の格子」と名づけた表を作成し、88文字にも上る線文字Bを格子に当てはめ、1952年、何時もと同様にレポートを作成しました。

 ケンブリッジ大学のギリシア語教授チャドウィックが、ヴェントリスのレポートを読み、彼の解読作業に協力を申し出、この二人の共同研究の結果は、翌年学会に発表され大論争が起こりましたが、後年ヴェントリスの解読を証明する、新たな粘土版が発見され、今日、彼の解読は正しいものとして承認されています。

 しかし、ヴェントリスは、1956年9月自動車事故の為、僅か34歳の若さで急逝し、ギリシアの人々の間では「神々に愛された者は若死にする」と云う諺が有りますが、彼も神々に愛された為に若死にしたのだと人々を惜しませました。
死に到迄にヴェントリスは、「ミノア線文字B」に関する研究書を著し、後の世の人々が更に研究を進める為の手引きを完成させました。
こうして、「ミノア線文字B」の解読は成功したものの、「ミノア線文字A」「絵文字」の解読は、現在でも成し遂げられていません。

東地中海文明・終わり・・・