2013/03/30

歴史のお話その76:ローマ帝國の発展㉘

<ローマ市民の都市生活Ⅶ>

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元老院でカティリナを弾劾するキケロ Cesare Maccari (1840-1919)

◎ローマ時代の学問分野

 ローマ人は、ギリシア人のような独創的な文化を創り出すことができず、ギリシア文化・ヘレニズム文化の模倣に終わりましたが、古代文化を集大成し、後世に伝えた点では功績を残しました。

 文学、哲学、歴史学などの分野はギリシア・ヘレニズム文化の影響を強く受け、これらの分野では、哲学者のエピクテトス、歴史学のポリビオス、プルタルコス、地理学のストラボン、更に天文学のプトレマイオス等多くのギリシア人が活躍しています。

 文学の分野はギリシア文化の模倣という面が強く、ラテン文学はアウグストゥスの時代に黄金時代を迎え、ヴェルギリウス(紀元前70年~紀元前19年 )は古代ローマ最大の詩人で、ローマの建国伝説を謳った叙事詩「アエネイス」は彼の最高傑作です。
ホラティウス(紀元前65年~紀元前8年)は多くの叙情詩を残していますが、「征服されたギリシア人は、猛きローマを征服した」という有名な言葉も残しています。
オヴィディウス(紀元前43年~紀元後17年頃)には「転身譜」「恋愛歌」等の代表作が在ります。

 キケロ(紀元前106年~紀元前43年)は政治家・雄弁家・散文家として知られ、第1回三頭政治に反対して追放され、のち帰国してポンペイウスを支持してカエサルに疎まれて引退し、彼の死後政界に復帰し、第2回三頭政治では反アントニウスの立場をとって彼の部下に暗殺されました。
彼はギリシア思想のローマへの移入・普及に大きく貢献し、その文体はラテン散文の模範として19世紀迄ヨーロッパ文学に大きな影響を与えたのです。

 哲学の分野では、ヘレニズムの哲学を継承し、ストア派の哲学が上流社会の実践倫理として流行しました。
若きネロの家庭教師で「幸福論」を著したセネカ(紀元前4年頃~紀元後65年)、ギリシア人の解放奴隷で「語録」を著したエピクテトス(55年頃~135年頃)、そして哲人皇帝として有名なマルクス=アウレリウス=アントニヌス等が輩出され、彼は代表作の「自省録」を陣中で執筆したと云われています。

 歴史学もギリシアの歴史学を継承発展させ、古代ローマのギリシア人の歴史家ポリビオス(紀元前203年頃~紀元前120年頃)は、ローマの国家体制の熱烈な支持者で政体循環史観に立つ「歴史」(ローマ史)を著し、ローマの発展をギリシア史との比較しながら記述しました。
アウグストゥスの恩顧を受けたリヴィウス(紀元前59年~紀元後17年)は40年を費やして大著「ローマ建国史」(ローマ史)を著し、アウグストゥスの時代を賛美したのです。

 有名なカエサルは歴史家としても名を残し、「ガリア戦記」は当時のガリア(現フランス)の事情やゲルマン社会を知るための貴重な資料となりました。
原始ゲルマンについての最重要の史料はコンスルなどを歴任した政治家・歴史家のタキトゥス(55年頃~120年頃)が著した「ゲルマニア」が有名ですが、他に「年代記」(アウグストゥスからネロの時代)も同様に有名です。

 プルタルコス(46年頃~120年頃)の著「対比列伝」(英雄伝)は聖書、エウクレイデスの「幾何学原本」と並び、近代迄読み継がれた名著でナポレオンを初め多くの人々によって愛読されました。
ギリシアとローマの類似の生涯を送った政治家・将軍などの伝記を対比させ、50人の伝記をまとめたものです。

 地理学者としては古代ローマのギリシア人であるストラボン(紀元前64年頃~紀元後21年頃)が知られています。
彼は当時のローマ帝国全土の地理・歴史をまとめた「地理誌」を著しています。

 自然科学の分野では、天文学・地理学者のプトレマイオス(2世紀)が天動説(地球中心説)を体系化しました。
彼の天動説は16世紀にコペルニスクの地動説が現れる迄、実に1000年以上にわたって人々に信じられ、又彼の作成した世界地図は15世紀まで大きな影響を及ぼしました。
プリニウス(23年~79年)は自然全般にわたる百科全書である「博物誌」(項目数2万と云われています)を著し、自然科学を集大成したのです。

 最後にカエサルは、紀元前46年にエジプトの太陽暦を修正したユリウス暦を制定し、この暦法を改良したものが、今日世界的に採用されているグレゴリウス暦(1582年に教皇グレゴリウス13世が制定)なのです。

ローマ・終わり・・・

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2013/03/29

歴史のお話その75:ローマ帝國の発展㉗

<ローマ市民の都市生活Ⅵ>

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◎土木・建築

 ローマ帝国は、大理石で出来た都市を連想する方も多いと思いますが、普段観光客が目にする多くの建築物には、「ローマン・コンクリート」という古代のコンクリートで建築されているものも存在します。
化学が進歩した現代のコンクリートの寿命はおおよそ百年程度と云われていますが、遺跡が現在まで残っているところから判断しても、このローマン・コンクリートの寿命は、二千年程度は在ると思われます。

 数千年と云う時空を超える様な建築物を造ることができたローマ帝国ですから、彼らが造った橋なども堅牢で在り、紀元前に懸架されたアーチを持った石橋などが現在でも使用されていて、人も車も毎日のようにその橋の上を渡っているのですから、流石ローマ人と思います。
恒常的に使う橋も当然ですが、戦闘の時に大河に橋を架けること等も簡単にやってのけます。
カエサルのガリア制覇の報告書であるガリア戦記にも、ライン川に橋を架けた際の詳細な報告が載っています。

 「すべての道はローマに通じる」と云う格言は誇張でもなんでもなく、このローマ軍団の土木技術の高さを表現する最高の褒め言葉でも在ります。
アッピア街道、アウレリア街道等の名前で知られるこの街道は、ローマ時代の高速道路で在り、大軍をできるだけ速やかに地方へ展開させるために造られているので、可能な限り直線を維持し、敷石で舗装され、ローマが健在中はたえず修復をされて大切にされてきた道路なのです。

 こうした土木技術は、攻城兵器の製作等にも応用され、ガリア人が蟠踞する中、ローマ兵達はいそいそと森の中に入っていき、木々を伐採して短時間で木材に加工し、目にもとまらぬ早業で大きな攻城兵器を作り上げてしまうことも在ったと云います。

 ローマ帝国時代、最先端の技術者は紛れもなくローマ軍団兵だったに違いなく、そのローマ軍団兵は、ローマ市民権を持ったローマの一般市民でもあったのですから、ローマが大国へと駆け上る途上は、ローマ市民総てが何らかの技術者だったと言っても良いでしょう。
やはり国力というのは、一般市民がどれだけ知恵を持っているか、技術を持っているかで決定されるものかも知れません。

 木材は、石や古代コンクリートに比較すれば朽ち果て易い材料なので、なかなか後世にまでその技術の高さは残り難い物ですが、造船、架橋、攻城兵器の製作等、木材を加工する技術の高さは一国の国力の高さとある程度は比例するのではないかと感じます。
もちろん、こうした技術は征服した地域にも自然に浸透していくので、最終的にはあらたな創意工夫によって取って代わられていくのも、また人類の歴史なのでしょう。

 江戸期までの日本は、世界の多くの都市で見られるような石造りの都市ではなくて、ほぼ完璧に木造都市で在り、そうした意味でも世界的に見てきっと貴重な街並みだったに違いないと思います。
石垣や城郭の構えの一部に石材が使われてはいますが、最終防衛拠点である天守や本丸等は木造です。
防衛拠点まで木造にこだわったというのも興味深いものですが、戦国末期から江戸初期以降の日本人の土木技術も成長著しく、世界遺産の姫路城をはじめ名城の数々がこの時代に造営されました。
又、会津若松城や島原の原城など実戦で使用された城もあり、日本人の叡智と土木技術の粋を集めて造られた建築物の秀逸さも感じるのです。

ローマ・続く・・・

2013/03/28

歴史のお話その74:ローマ帝國の発展㉖

<ローマ市民の都市生活Ⅴ>

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ユスティニアヌス帝

◎ローマ法

 一面では退廃的なローマ文化ですが、一方でローマ帝國が何百年も繁栄し続けた理由は、やはり統治技術のうまさ、柔軟さが挙げられると思います。
そしてローマ人は公正を求めて、常に法を尊重する文化を維持し続けた事、この部分はローマ人の偉大なところです。

 それを象徴するのがローマ法。
時代的には、6世紀の皇帝に成りますが、ユスティニアヌス帝はトリボニアヌスに命じて「ローマ法大全」を編纂させました。
これはローマの法と法学説を集大成したものです。

※ローマ法の基本原理

 「法と云う名称は正義に基づいて名づけられたものである」とは、ローマ法学の代表的学者、ウルビアヌスの言葉ですが、これはローマ法の一つの特徴をも表しています。
「正義」はローマ法の基本原理にしっかりと組み込まれている概念なのです。

 ローマ法の基本原理は次の三つで、すなわち、正直に生きること、他人を害しないこと、各人にその有すべき権利を配分すること、を定めています。
徒然草にも似たようなことが書かれていたと記憶していますが、両者には時代的に差がありすぎます。
ローマ人がこの三つの思想を紀元前の頃から既に持っていた事実には驚きを隠せません。
この三つの基本原理はローマの法分野の到る所に浸透し、ローマ法の特徴を形成しています。
そしてこれらは、ローマ法のローマ法たる所以を簡潔明瞭に表現しているのです。

 ローマ人はこれらの原理を具体的、実証的、現実的に法の内容に盛りこみましたが、これは彼等以前の誰にも成し得なかったことであり、これがまた、ローマ人が法の天才と称される理由でも在ります。
又、ローマ法の他の特徴としては、債務不履行による契約解除を認めなかったという点が挙げられます。
「信義」、そして基本原理にもある「正直」こそが、ローマ契約法の発展の源泉でも在りました。

 最後に、ローマ法の共同所有権について、ギリシャ等では、総有、総手的共有という性質でしたが、ローマ法は個人の利を共同の利より先行させる個人主義を採ったのです。
これは他の法では見られない珍しい規定で、これはローマ人が持つ自由独立要求の現れで在り、そして又、この気風がローマを巨大帝国に押し上げたと思われます。
         
 この独立気質は、人的結合の最も濃厚な婚姻法の分野に於いても当はまり、これもまたローマ法の一つの特徴です。
当時のローマでは離婚が多く、女性が再婚する際に不利にならないようにする規定もしっかり整っていました。

 以上のように、ローマ法は現代から見ても大変優れた法律で在り、しかしそこに至るまでは様々な紆余曲折があったと推定されます。
まさに「ローマ法も一日にして成らず」なのです。

ローマ・続く・・・
2013/03/27

歴史のお話その73:ローマ帝國の発展㉕

<ローマ市民の都市生活Ⅳ>

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(8)奴隷

 退廃と云う側面では、性的な部分は滅茶苦茶だった推定され、貴族の夫婦関係は名目上とも思われます。
浮気の様な行為は当たり前なのですが、以前にも少し書きました通り、出生率の低下が著しく、元老院の名門貴族の家が次々に断絶し、イタリア半島以外からも名門と認められる家系の者を元老院議員に任命して、欠員を埋めることが多く成ります。

 出生率低下の原因は諸説が在って、はっきりこれが原因と云えませんが、子供を産む行為自体を回避したかったのではないかと思います。
貴族は自分で子供を育てる訳ではないですが、先にも述べた様に性の乱れが激しく、しかも夫からすれば生まれた子が誰の子か分からないことも多々在ったと思われます。
財産相続の問題も生まれてきますから、その様なことに煩わされるよりも、今日の楽しみを思い切り楽しみたい、金持ち達の気持ちはこの様なものだったのではないでしょうか。

 又、奴隷が数多く生活の中に入り込んだ社会自体が、退廃といえるかもしれません。
金持ちは数多くの奴隷を使い、街に出る時は最低2人のお付き奴隷を連れていくことが、中堅市民の条件であり、紀元前70年頃のローマ市人口がほぼ50万人、そのうち4分の3が奴隷若しくは解放奴隷ですから、この状況は異様でしょう。

 大金持ちになると其々専門のことを行う、奴隷をたくさん使います。
雑用から、家事、有能な奴隷は子供の家庭教師と成り、家計を取り仕切らせる者も居たのでした。

 奴隷の悲惨な状態についてはスパルタクスのところでも紹介しました。

 奴隷の供給源は、戦争捕虜や新しい征服地の住民等が奴隷としてローマに連れてこられていたという話を前に書きました。
処で、五賢帝の二番目、トラヤヌス帝の時がローマ帝国の領土が最大に成りますが、以後ローマ帝国は成長期が終わって守りの時期に入る訳です。
新しい征服地がなくなる、戦争捕虜も激減するのは、当然の成り行きです。
では、トラヤヌス帝以後の奴隷はどこからきたのでしょう。

 最近の説で、奴隷=捨て子説。
ローマ人達は、子供が産まれると育てる行為を嫌い、子供達を捨てたと云うもの。
出生率が低下と云いますが、現在の様に避妊法が発達しているわけではなく、男と女がいれば平民、貴族に関係なく妊娠する筈です。
中絶に失敗すれば出産すし、捨てることで見せかけの出生率が減少したと考えれば納得が行きます。


 捨て子の名所が在ったらしく「乳の出る円柱」と呼ばれ、赤ちゃんはみんなここに捨てるのです。
そして捨て子を集めてまわる業者が存在し、嫌な話ですが、この業者が捨て子を奴隷として育てて売買する事で、奴隷の供給源として大きなものだったらしいのです。
だから理論的には、赤ん坊を捨てた貴族が、何年かして自分の実の子だと知らずに奴隷を買って働かせる、ということもあり得るわけです。

 貴族達も奴隷を使うことに対して、多少は良心が咎めたのか、自分が死ぬ時に遺言で、奴隷達を解放してやることが多かった様です。
この様な人々を解放奴隷と云いますが、彼らは自由では在るもののローマ市民権はありません。
ところが、例えば解放奴隷同士が結婚して子供が産まれたら、この子は生まれながらにしてローマ市民となり、公衆浴場も入れるしパンも配給されます。
もし、商売で成功してお金を積んで騎士身分という貴族に成る事もできるのです。
奴隷を買って働かせることも可能でした。

 身分制の社会でありながら、その身分が絶対的でないところがローマの活力の源でもあると云われています。

ローマ・続く・・・

2013/03/26

歴史のお話その72:ローマ帝國の発展㉔

<ローマ市民の都市生活Ⅲ>

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ローマ・カラカラ浴場

(7)浴場と貴族の宴席

 市民サービスとして有名な施設が公衆浴場です。
カラカラ帝の造った施設が規模の大きさで有名ですが、それ以外にもローマ市内には千軒以上の公衆浴場が在りました。

 浴場と訳していますが、日本の銭湯とは意味が全く異なります。
日本語に翻訳する時に当てはまる言葉が無く、公衆浴場と訳されて教科書や資料集もそう書いて在りますが実態は全く異なります。
日本にもこれが普及している、フィットネス・クラブとかスポーツ・クラブとか呼ばれている施設が
当に其れです。

 入場料は非常に安く、1/4アス=20円としますが、本当に其れくらい安い利用料金だったのです。
入場するとまずトレーニング・ルームが在り、そこでレスリング、球技、円盤投げ、やり投げの練習で一汗流します。
次はマッサージ・ルーム、ここで身体を解してもらって、いよいよ入浴。
これはサウナで、低温サウナで慣らしてから高温サウナと、二つのサウナが在った様です。
身体をきれいにして暖まった後は、最後にプールでひと泳ぎ。
まさしく、フィットネス・クラブです。

 この後、遊戯室や談話室で、友達と談笑したり、何かのゲームをしたりしていると、やがて腹が減ってきます。
その食堂、景気の悪い時でも最低6皿の料理が出され、そのうち2皿は肉料理、当然ワインも在って是等は別料金では無く、最初の1/4アスの入場料で最後迄遊んで食べられる訳です。
これがローマの公衆浴場です。

 一般市民でこの様な待遇ですから、裕福な市民や貴族はどうでしょう?
この風呂やプールを自宅に持っている人々ですから、彼らの贅沢を言い出したらキリがないので、食事風景を紹介します。

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ローマ貴族の生活風景

 貴族達はしばしば宴会を開きます。
この様な場合、主催者は金に糸目を付けず珍味を手に入れて来て、風変わりな調理を施して、次から次へと食事を出したそうです。

 尚、宴会に出る者達は食事服というものを着ますが、これは食事の時だけ着る使い捨ての服です。
寝そべって食べるのが、正式な食事のマナーです。
彼らは箸(?)もフォークもスプーンも使わず、食事は手づかみです。
寝そべって手づかみで食べるのですから、手はすぐに汚れるのですが、その手を食事服で拭うわけです。
汚してもよい服が食事服なのですが、彼ら金持ちはこの食事服に金をかけて、贅をこらしたりするのです。
その高価な食事服を惜しげもなく汚して、一回の宴会で何回も着替えたりする者も居る訳です。

 彼らの生活は散財する事に情熱をかけ、それが地位・富の象徴だったのでしょう。
アピキウスと云う大金持ちの話があります。
この人は、食道楽でさんざん浪費した後、後10億円分の財産が残っていたのに、貧乏では生きている意味がないと言って自殺しました。

 宴会は続きます。
次々に食事は出てきます。
出席者、満腹でもう食べられません。
そうすると侍(はべ)っている奴隷を呼び、宴会場には多くの奴隷が居るのですが、孔雀の羽を持っている奴隷がおり、その奴隷がその貴族に近づくと、貴族は上を向いて口を開け、奴隷がその口の中に羽を突っ込みますが、満腹の喉に異物を突っ込まれますから、当然戻しますね。
お腹の中のものをすっかり吐き出して、貴族はまた新たな皿に挑むのです。
戻した物は、別の奴隷がきれいに処理してくれます。
これは明らかに異常な光景で、この様な暮らしぶりを退廃と呼ぶのだと思います。

ローマ・続く・・・

2013/03/25

歴史のお話その71:ローマ帝國の発展㉓

<ローマ市民の都市生活Ⅱ>

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(5)国家財政

紀元前62年の場合の国家財政
・計10億セステルティウス以上 (3200億円)
・前62年以前の通常収入は2億セステルティウス (640億円)
・ポンペイウスがギリシア領オリエントを征服して、通常収入を3億セステルティウス (960億円)以上加える
・更に、5億セステルティウス(1600億円)近い額が戦利金として臨時収入となる

軍事費の一例: 軍団兵、護衛隊兵、都警隊長の給料のみで年間2億セステルティウス (640億円)
人件費の一例
・アフリカ知事: 100万セステルティウス (3億2000万円)
・元首属吏: 6~30万セステルティウス (1920万~9600万円)

祭費の一例
・ローマ祭: 76万セステルティウス (2億4320万円)
・アポロン祭: 38万セステルティウス (1億2160万円)

国道建設費: 1(ローマ)マイル(1480メートル)ごとに10万セステルティウス (3200万円)

穀物費: 20万人の無償受給者に対する費用だけで、年間48万セステルティウス (1億5360万円)

・通常会計: 4000万セステルティウス (128億円)
・特別会計: 1000万セステルティウス (32億円)
・上記のうちスペインの鉱山からの収入: 2400万セステルティウス (76億8000万円)
・軍事費: 2000万セステルティウス (64億円)
・公共建造物の建設や維持費: 100万セステルティウスほど (3億2000万円)
・競技会の開催費: 上限300万セステルティウス (9億6000万円)

(6)贈与行為

 ローマ市民の総て、又一部は、毎月一定量の小麦を廉価若しくは無料で受け取ることができました。これは紀元前123年に護民官のガーイウス・グラックスが定めた、穀物を安価に販売する法律に端を発します。
その後この穀物供給の考えは、様々な方法で継承され、皇帝による贈与行為等として帝政末期迄続くことに成りました。

 但し、この行為は今日の福祉政策や生活保護とは性質を異にしており、グラックスの穀物法は貧富の差を問わず誰でも一定額で小麦を購入することができる一方、購入量の制限が存在したのです。
これは主食である小麦の安定供給を目指し、飢饉や過剰な値上がりを抑える目的を持っていました。
 
 又カエサルは国が無償でパンを配給することを決定しますが、これは15万人の市民に限定されたもので、しかもこの15万人に最底辺の貧民層は含まれません。
配給を受けた市民は、国によって特権を与えられたもの達であり、カエサルのパンの配給は公務員の優遇措置や社員割引のような性質のものでしか在りませんでした。

 このような贈与行為等は「パンとサーカス」、「パンと競技」と一般に言われるものであり、ローマのひとつの特徴を為すものです。
贈与行為は皇帝によって行なわれるばかりでなく、有力市民によっても行なわれ、その内容も大小さまざまでした。
目的も人気取りや名誉のためなど多様で在ったらしく、以下には、その一部を紹介します。

※カエリア・マクリナという女性の場合

 カエリア・マクリナは港町タラッキナに対して、100万セステルティウス(3億2000万円)を遺贈し、以下の目的のためにその現金の利子が使われるように要請しました。
・100人の少年と100人の少女の扶養のために住民の少年一人当たり毎月5デーナーリウス(6400円)、少女一人当たり毎月4デーナーリウス(5120円)を、少年は16歳まで、少女は14歳まで、与えられること。
・また常に100人の少年と、100人の少女が常に継続して同様に受容すること。
すなわち、この女性は少年少女の扶養基金を設置したのです。

※小プリニウスの場合

 小プリニウスは生まれ故郷の北イタリアの都市コームムに以下のような贈与をした。
・浴場の建設のために: ?(判読不能)セステルティウス
・備品のために: 30万セステルティウス (9600万円)
・維持費のために: 20万セステルティウス (6400万円)
・自分の解放奴隷100人の扶養のために: 186万6666セステルティウス (5億9733万3120円)
・上記の186万6666セステルティウスの利子で年の民衆が饗宴を行なうこと
・都市の少年少女の扶養のため: 50万セステルティウス (1億6000万円)
・図書館の建設と維持のため: 10万セステルティウス (3200万円)
最後の二つの贈与は生前に行ない、それ以外の贈与は遺言に従って実行されました。

ローマ・続く・・・

2013/03/23

歴史のお話その70:ローマ帝國の発展㉒

<ローマ市民の都市生活Ⅰ>

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ポンペイ出土、ローマ時代のパン

◎ローマの物価

 ローマ人がどの様な生活をしていたのでしょうか。
時代はカエサルから五賢帝時代、およそ紀元前50年から250年位を振り返って見たいと思います。
まず、古代ローマの貨幣について,貨幣価値に関する意見がさまざまあると思いますが、手持ちの資料で、2007年現在の日本の貨幣価値に置き換えてみたいと思います。
 
 ローマでは紀元前3世紀初頭から独自の貨幣が用いられ、その後、アウグストゥスが紀元前24年に貨幣制度を改革し、貨幣体系が確立します。
但し、彼は改革以前に存在した単位を大部分継承しているので、紀元前24年以前と全く違う貨幣体制ができたわけでは無く、特に紀元前46年にカエサルのもとで行なわれた鋳造策によって、貨幣体制は実質的に出来上がっていました。

 また紀元後にはインフレが進み、貨幣価値もめまぐるしく変わります。
アウグスティヌスの貨幣体系は3世紀後半まで続くのですが、以下の考察は1世紀末くらいまで、あくまでも参考と考えて下さい。

(1)ローマン・ポンドの金塊から作られる金貨の数

 アウグストゥス時代(前27~後14): 40枚
 ネロ帝時代(54~68): 45枚
 カラカラ帝時代(198~217): 50枚

(2)小麦の値段

 古代ローマ人の主食は「小麦」でした。
 小麦の価格は、貨幣の価値を判断するのに役立つと思います。

 小麦1モディウス(6.55キログラム): ローマでの平均価格は3セステルティウス(12アス)
 1人分の消費量: 月5モディウス(32.75キログラム)、1日約1キログラム(約1.83アス)
 1人1日分の小麦量: 約1キログラムは1.83アスとなる。

 これをパンに加工するとして、1日に必要なパンの値段は、約2アス。
 【参考】 大麦1モディウス(6.55キログラム): 1.5セステルティウス(6アス)= 小麦の半値
 1人1日分のパンの値段: 2アス

(3)貨幣価値

 手持ちの資料では1アスを80円と仮定しています。
 1アス= 80円
 1セステルティウス= 320円

(4)生活費

最低限の生活
 家族4人がぎりぎり最低限の生活を1年間送ることができる額は、400セステルティウス (12万8千円)。
 = 4人、1ヶ月: 約33.3セステルティウス (10656円)
 = 4人、1日: 約1.11セステルティウス =4.44アス (355.2円)
 = 1人、1日: 約1.11アス (88.8円)

中間層の生活
 首都ローマの市民1人が、こざっぱりとした程度に生活しうる生活費は、1年で2万セステルティウス(640万円)。
 = 1人、1日: 約54.79セステルティウス =219.16アス (17532.8円)
 
 但し、この数字は紀元前100年頃で、紀元前46年以降では、この当時よりもインフレが多少進んでいると思われ、この様に年間2万セステルティウスで生活するローマ市民1人が、質素に暮らしつつも必要な奴隷の数は最低2人とみなされています。

ローマ・続く・・・

2013/03/22

歴史のお話その69:ローマ帝國の発展㉑

<ローマ帝國に翻弄された隊商都市④>

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◎栄華の終焉

 太陽が昇ると3km程先にシュロの並木が見えました。
川の土手に沿って植えられたものです。
目的地は目前ですが、その直ぐ後方200mにはローマ軍の追撃部隊が、急速に近づいて着ます。
もはや一刻の猶予も無く、ゼノビアは全力を振り絞り、疲れきった駱駝に鞭を入れました。
既に追撃部隊の声が近づき、此処で捕らわれては万事休す、何が何でも川迄、行き付かなければ成りません。
ユーフラテス川の岸に着くや否や、駱駝を飛び降り、岸に下りて小船を捜し求めます。
見れば岸から少し離れた場所に、漁夫を乗せた小舟が一艘浮かんでいます。
ゼノビアは在らんばかりの声で、自分たちを乗せてくれる様に頼み、漁夫は舟を巡らし大急ぎで彼女の処に急ぎました。

 ローマ軍追撃隊と漁夫の競争に成りましたが、残念な事にローマ軍の方に軍配が上がってしまいます。
小舟が岸に着いた時、追撃隊の兵士達は土手を乗り越えて岸に下り、ゼノビアの従者を倒すと彼女を捕らえたのでした。
小舟があと1分早く岸に着いていたら、彼女は逃れその後の歴史も変わっていたかも知れません。
パルミユラに篭城し、飢餓に苦しみ、援軍の到着を一日千秋の思いで待ち望んでいた人々も、ゼノビアがローマ軍に捕らえられた事を知ると、総ての希望を失い、城門を開いてローマの軍門に降ったのでした。
アルレリアヌス将軍は、優れた政治家でも在った為、パルミュラの市民には慈悲を足れ、ゼノビアを捕える事で、一般市民を罰する必要は無いと考え、降伏した市民を許し、僅かな守備兵を残すとゼノビアを連れてローマに凱旋しました。

 しかし、彼等がローマへ船団を出航させようとしていた時、パルミュラで市民蜂起が起こり、ローマ軍守備隊を殲滅させる事件が発生してしまいます。
将軍は踵を返してパルミュラを攻略し、火と剣で反乱を鎮圧し、砂漠の中に光り輝いたパルミュラに終末が訪れたのでした。

 ローマ帝国に捕えられた、ゼノビアの最後については、諸説が存在します。
一説には、彼女はパルミュラがローマ軍に蹂躙された事を知ると、30日間の間、食を断ち絶命したと云い、別の話では、アウレリアヌス将軍が、凱旋した時、彼女を捕虜として連れ帰り、将軍が市内を凱旋行進する時、宝石で飾られた彼女を黄金の鎖で戦車の後ろに繋ぎ、市中を引き回したとも云われています。
その後のゼノビアについても二つの伝承が存在し、第一は、彼女は砂漠の故郷と消え去った栄華を偲びながら、寂しく、捕囚の内に死んで行ったと云うもの。
第二は、更に散文的で、後に彼女は許され自由人と成り、アウリアヌスはティベル河畔に邸宅を与え、静かな晩年を送ったと云うものですが、最近の研究では、第二説が正しいとの見解が発表されています。   

 現在のパルミュラは、シリアを通過する国営イラク石油会社のパイプラインが、地中海に向けて3本敷設されていますが、その1本はシリア砂漠の中央をパルミュラ、ホムスと進み、バニヤス港に抜けています。 
パルミュラの廃墟は、東西1.5kmに及び、かつて栄華を誇った頃、街の主要道路は、巨大な円柱が1500本以上立ち並んでおり、ローマ侵攻時その多くは倒壊してしまいましたが、それでも尚若干の円柱が現在でも往時を偲ばせています。
ゼノビアの建立した、ヴェール神殿には370本の円柱が用いられ、その栄華を誇りましたが、今日でもその数本が現存し、当時の面影を留めています。
巨大な建造物の装飾や形態は、ローマの影響よりもむしろエジプトの其れの名残を留めています。

 第二次世界大戦以前、シリアにはフランスの委任統治領として、外人部隊が駐留していました。
パルミュラ近郊に駐留した部隊の兵士に因れば、シリア人は日が暮れると決して廃墟に近づく事は有りませんでした。
幾世紀にも渡って、夜が更けると、女王ゼノビアの亡霊が一つコブの駱駝に跨り、大路を闊歩し、彼女は黄金の兜を冠り、腕も顕にマントを風に靡かせながら、道行く人々の黒い瞳を注ぎ、槍を取って彼女に従い、城壁を取り囲むローマ軍を打ち破る手助けをしてくれる様、懇願している様に思えてならず、シリア人はその恐ろしさ故に、夜間、廃墟に近づく事はしないと云う事なのです。

ローマ・続く・・・

2013/03/21

歴史のお話その68:ローマ帝國の発展⑳

<ローマ帝國に翻弄された隊商都市③>

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◎パルミュラの盛衰

 しかし、彼女には心の平安を迎える時は無く、ローマ帝国は着々と戦力を整備し、機会を見てパルミュラを攻略し東方世界の覇権を復活させんとしている事を感じていました。
ゼノビア自身も準備を怠ること無く、戦力を増強し、占領地には強固な要塞を設け、来るべきローマ帝国との戦闘に国全体の防御を固めたのでした。

 その日は終に訪れました。
ローマ帝国は、最精鋭の軍団を派兵し、ゼノビア軍を一気に殲滅する事を目的に、そのローマ軍の指揮にあったのは、当時第一の武人としての誉れの高い、アウレリアヌス将軍でした。
将軍の手により、西暦270年エジプトはローマ帝国に奪還され、翌271年愈々アジアにその鉾先を向け、ゼノビアは駱駝騎乗隊を持って、之を迎え撃ちます。

 両軍はアンチオケで対峙し、第二回目の会戦はホムスで行われ、彼女は何時も軍団の先頭に立ち「ダイアナの如く武装し、ヴィーナスの様に輝いて見えた」と云われています。
ゼノビア軍は善戦し、ローマ軍騎兵隊の間中に突入する事も厭わず、勇敢でした。
一方、ローマ軍は姦計を巡らし、軍団を急遽反転させ、ゼノビア軍にはあたかも軍団が敗走しているかの様に思わせ、その追撃に疲れさせる戦法を取りました。
合図と共にローマ軍は再び反転し、ゼノビア軍を蹂躙します。

 この様な作戦は、アンチオケでも、ホムスでも試みられ何れも成功しています。
アウレリアヌス将軍の為に敗走したゼノビアは、戦線を縮小し、残存兵力をパルミュラに後退させ、城門を硬く閉ざし、敵に降伏するよりはむしろ死を選ぶ覚悟で、パルミュラを死守する道を選んだのでした。

 アウレリアヌス将軍は、降伏を求め、若し平和の内に城門を開き、街を引き渡すならば、街に危害を加えず、ゼノビアの命も保証しようと申しいれますが、彼女は頑強にこの申し出を拒否しました。
ローマ軍の強烈な包囲攻撃が火蓋を切り、昼夜を分かたぬ猛烈な攻撃には、流石の武勇を持って聞こえたゼノビア軍も、一歩一歩と絶望の淵に追い詰められて行きます。
ゼノビアは、勇敢にも城壁を見回り、兵士達を励ます一方、自ら槍を取ってローマ軍に立ち向かう事もしばしばでした。

 この様なゼノビアの鼓舞激励にも関わらず、守備軍の士気は日一日と衰え、食料も極度に欠乏し、このままでは全員餓死するより他に術の無い処迄、追い詰められ、何処からか援軍の手が差し伸べられない限り、パルミュラの運命は当に風前の灯でした。

 この事態を打開する為、彼女は包囲されたパルミュラを脱出し、仇敵ペルシアに救いを求める事にしました。
暗夜、城壁からロープを垂らし、其れに蔦ってローマ軍の野営陣地の真ん中に降り立ち、予ねてより準備した、一つコブの駱駝に跨り、数名の従者を従えて、ローマ軍の最前線を脱出しました。
其れからは、砂漠に光る星の位置を頼りに、東方の国ペルシアに向けて駱駝に鞭を入れたのです。

 ゼノビア一行は、夜間に駱駝で移動し、昼間は谷間に姿を隠して、周囲が暗くなる時間を待ちました。
一行はローマ軍の追撃を恐れ、人家の在る町や村を避け、喉の渇きに苦しめられながら、人目をはばかり夜間の旅を続けたのでした。

 5日目の明け方、東の空が白く成り始めた頃、駱駝の背に跨るゼノビアの勇士が見られました。
彼女は昨夜から一睡もせず、駱駝を進め、その体は綿の様に疲れていたが、寸刻を惜しみ片時もその歩みを止めませんでした。
明け方の光を通し、遥か前方にユーフラテス川の姿が見え始めます。
其処こそ、ゼノビアの目指す終着地であり、対岸には彼女が助けを求めるペルシアが在ります。

ローマ・続く・・・

2013/03/20

歴史のお話その67:ローマ帝國の発展⑲

<ローマ帝國に翻弄された隊商都市②>

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◎東方の女王

 オディナトウスは美貌で気高く、才にたけ、駱駝乗りの名人でもあるゼノビアを一目見て求愛し、父ザッパイの許しを得て彼女を妻としました。
二人は程なく、パルミュラの館に移り住みます。
歴史上、ゼノビアの様に優れた女王に恵まれた国は殆ど無く、彼女は当時18歳に成ったばかりでしたが、美人の多いパルミュラの街でも、一際目立つ存在でした。
黒い瞳の彼女に勝る美しい女性を探す事は困難でしたが、国事に関しても大臣達は彼女の知恵に驚き、将軍達は彼女の勇敢さに舌を巻きました。

 トレベリウス・ポリオは、彼女の美しさについて「肌の色は暗褐色で瞳は黒く、ただならぬ輝きを放ち、顔立ちは神のごとく表情豊かで、人格は挙措優雅で、歯は真珠の様に白く、声は澄み力強かった」と記録しています。
又、「ローマ帝国衰亡史」の著者エドワード・ギボン(1743年~1794年)は「彼女は言葉の知識だけでも、彼女が勤勉な習慣を身につけさせられた事を示し、又彼女が読んだ、ラテン、ギリシアの文学から、将軍達やオディナトウスよりも世界について深い知識を持っていただろう。彼女はロンギノスの指導の基に、ラテン、ギリシアの作家研究を続け、ロンギノスは同時代の哲学者及び古典学者間でも卓越した人物だった」と述べています。

 レオナード・コットレルは「彼女はラテン語、ギリシア語、シリア語に加えてエジプト語にも通じていた。多分、彼女はアレクサンドリアで育ったのだろう」と述べ、更に「美しい才女は、数少ないとは言え、居ない事は無いが、優れた騎手で、軍団の先頭に立って遠征し、将兵と寝食を共にし、将軍としてローマの軍勢を破った才女の如きを聞いた事は無く、ゼノビアは正にその通りで、其れも一時はナイル川からユーフラテス川迄の広大な帝国を支配しながらの事だった」とも書き残しています。

 ゼノビアはローマの専横を極度に憎んでいたので、オディナトウスの妻と成ったその日から、夫を助けてパルミュラをローマの圧制から解放する為に、密かに指導的な役割を演じていました。
例えばアラブ兵の訓練に従い、軍事計画に加わり、馬上で幾日も過ごす事を学び、野営に参加し、士官達と食事を共にしました。
間もなくゼノビアは、自らの手で訓練した精鋭を直接指揮する機会に恵まれます。
ペルシア王シャープルがユーフラテス川を越えて侵入し、ローマ辺境守備隊の一軍団を壊滅させ、パルミュラに侵攻する矛先を向けた時、オディナトウスはゼノビアにペルシア軍迎撃を命じたのでした。

 ゼノビアは長年に渡って訓練した精鋭を率い、暗夜に密かに砂漠を行軍し、ペルシア軍の野営地に夜襲を敢行します。
寝込みを襲われたペルシア軍は、戦意を喪失してユーフラテス川を越えて退却させる事に成功し、ゼノビアはパルミュラに凱旋します。
ローマ皇帝ガリエヌスは、オディナトウスの功績を称え、東方総督の称号を与えて是に報い、ローマ東方帝国の支配を彼に委ねました。

 今やパルミュラは、世にも優れた国王と女王を戴き、近隣にその比を見ぬ程の強国に成りました。
その絶頂にあった時、オディナトウスとその息子の一人が、マエオニウスに暗殺されました。
マエオニウスは、以前国王が狩猟に出かけた折、無礼な行いが有り、罰せられたことを恨み暗殺を企てたのでした。
気丈なゼノビアは、夫の死をいたずらに嘆く事なく、その意思を継ぎ、自ら絶対君主と成って「東方の女王」を名乗ったのでした。

 新たにシリアの独裁者に成ったゼノビアは、新しく征服する国を探し求め、遥か西方に地味豊かな文化の進んだエジプトが在り、その地は彼女の祖先クレオパトラの国でもありました。
彼女は7万の軍勢の先頭に立ってパルミュラを離れ、オディナトウスが既に平定していたアラビアを超え、シナイ半島のネゲブ砂漠を横断し、エジプトに向かいました。
僅か一度の戦いで勝利を収め、長子のワハブ・アルラートが「王」の称号でエジプト全土を支配しました。

 今やゼノビアに立ち向かう国は、もはや存在しない様に思われました。
彼女は純白の駱駝に跨り、紫色のマントを翻しながら、砂漠を縦横に駆け巡り、戦いにつぐ戦いをもって、勝利を収め、シリア、パレスチナ、バビロニア、アラビア、ペルシア、小アジア、エジプトはかつての遊牧の民ゼノビアの前に膝を屈し、彼女を最高君主として受け入れたのでした。
ローマ帝国は、かつて領有していた領土の大半を、彼女の強靭な褐色の手で奪われ、それもたった一人の女性で此れほどの広い領土を支配した者は無く、その後にも見出す事はできません。

 かくしてパルミュラは、尊敬と富と栄光に満ち、アジアに於けるローマたる事が約束されたかの様に見えました。
新しい宮殿が建ち、寺院や神殿が建立され、城門の内外には東西の富を満載したキャラバンが集まり、ゼノビアの宮殿には東西の優れた芸術家や学者が大勢おとずれ、ゼノビアはこれ等全ての栄華と光輝を一身に集めていました。
黄金の兜を被り、槍を携え、戦車に乗り、大理石で造られた市内を巡視し、市民は我等の女王に心からの賛美を捧げ拍手を送りました。
特に兵士達の間の人望は、非常に高く彼女の姿在る処、賞賛の歓声は絶える事が在りませんでした。

ローマ・続く・・・

2013/03/19

歴史のお話その66:ローマ帝國の発展⑱

<ローマ帝國に翻弄された隊商都市①>

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女王ゼノビア

◎パルミュラ:砂漠の女王ゼノビア

 「荒野のタドモル」と呼ばれ後にギリシア人によってパルミュラ(パルム→ナツメヤシ→ナツメヤシの都)と改名した街で、シリア砂漠の中央部に位置します。

 3世紀初頭、東部シリアの砂漠にゼノビアと名づけられた、女の子が誕生しました。
父は、アラブのベドゥインの首領ザッパイ、母はクレオパトラの末裔と称される程の美貌を持った、ギリシア女性でした。
彼らの住居は、シュロの葉陰のオアシスに設けられた、駱駝の皮で造った幕舎で、多くの家畜と共に牧草を追う遊牧の民でした。
ゼノビアは子供の頃から、才色とも優れザッパイの部下達も「これ程に美しい少女を見た事が無い」と感心する程で、彼女は父に似て、アラブ人特有の青褐色の肌を持ち、母に似てギリシア風の輝かしい黒い瞳を持っていました。
「その内にきっとクレオパトラの様に美しい娘になる」、母は何時も自慢げに話しをしていたそうです。
しかし、ゼノビアは単に美しいというだけで無く、学問の秀でた才能を見せ、強靭な身体と勇敢さを兼備えていました。
12歳の時には既に、もはや如何なる男達にも負けない程に駱駝を乗りこなし、若くして父ザッパイに変わってベドゥインを率いたのでした。

 その当時、シリア砂漠の中に、際立って有名なオアシスが在りました。
オアシスの名前は、パルミュラと云いシリアの東半分をその勢力化に置き、又この地域はキャラバンの要衝にも辺り、中国の絹、インドの宝石、ペルシアの真珠、アラビアの香料等東方の物資は一旦、パルミュラに集積し、バザールが立ち、ダマスクス(当時の人口200万人)や、ローマをはじめとする裕福な地中海世界へ運ばれて行きました。
大海原に浮かぶ緑の島の様なパルムの都には、ギリシア、アラビア、ユダヤ、シリア等の商人が多数居住し、豪邸を構え、絹、絨毯、ナツメヤシ、多様な穀物、香辛料を蓄える倉庫も多数立ち並んでいたと云います。

 街に住む彼等は、パルミュラを防護する為に、街の周囲11kmに及ぶ城壁を築き、城門から城門を石造りの円柱に支えられた回廊で結びアーケードを形作りました。
神殿、宮殿もその建築は多くの円柱を用い、その円柱にはどれも優れた彫刻が成され、3世紀中葉、荒涼とした砂漠の中央部に、シュロの葉陰と円柱の回廊に囲まれた、パルミュラの街こそは当時世界に比類ない富み栄えた都市国家であったのです。

 当時、東方世界にその版図を広げつつ在ったローマ帝国は、パルミュラの繁栄を我物にする為、軍団を遠征させ、この豊かなオアシス国家を併合し、帝国の領土に編入しました。
最もパルミュラは、ローマの主権を認めながらも、その独立は放棄しませんでした。
しかも、パルミュラの住民の内には、自由をこよなくするアラブ人が多数を居り、彼等は機会を伺いながら反乱を起こし、ローマ帝国からの束縛を跳ね返そうと考えていたのでした。
時のローマ皇帝ティベリウスから元老の位を授けられ、ローマ帝国の名の下にパルミュラを統治していた、アラブ系の若い貴族オディナトウスもその様な一人で、彼は反乱分子を指導訓練する為に、密かに街を離れ砂漠に来た折、其処で図らずも、ベドゥインの首領ザッパイとその娘ゼノビアに出会ったのです。

ローマ・続く・・・

2013/03/18

歴史のお話その65:ローマ帝國の発展⑰

<ローマⅩⅦ>

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コンスタンティヌスの洗礼

◎ローマ帝国の変質

2、コンスタンティヌス帝

 ディオクレティアヌス帝が崩御した後、正帝副帝の間で権力闘争が起こります。
その権力闘争に勝ち残ったのがコンスタンティヌス帝(在位306年~337年)。
コンスタンティヌス帝は、3つの重要な行動を起こしました。

1)都をビザンティウムに遷都、この街をコンスタンティノープルと命名します。

 ビザンティウムは現在のイスタンブールで、その起源はギリシア人が造った古い町であり、アジアとヨーロッパの中継貿易の重要な町でした。
都を移した最大の理由は、ローマ市を中心とする帝国の西部よりも、ギリシア、シリアを中心とする東部の方が文化的にも経済的にも重要に成ってきたからです。
ローマ市が都では在りませんが、ローマ帝国の名前は変わりません。

2)313年、「ミラノ勅令」を発布し、キリスト教を公認しました。
勅令は皇帝の命令を意味します。

 ディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害命令から僅か10年しか経っていませんが、180度方向転換した命令が出た事に成ります。
なぜ、180度政策が変更になったのでしょう?
まず、弾圧によっても、全然キリスト教徒は減らなかったばかりか、逆に、爆発的に信者が増加したものと思われます。

 コンスタンティヌス帝は弾圧するよりも、公認してキリスト教徒を自分の味方に取り込んだ方が支配に有利だと考えたのでしょう。
この様な伝承も伝わっています。
「皇帝の座を得る以前に、正副皇帝間での抗争が在ったのですが、その戦いの前夜に夢を見た。
夢の中で光り輝く十字架が現れ、そこで、コンスタンティヌスは十字をかたどった軍旗を作り、ライバルとの決戦に勝った」、と云うお話です。
もちろん後付の作り話ですが、この様な話を捏造してまでも、キリスト教徒を自分の支持者に加え様と考えたのでしょう。

3)コロナトゥス制が確立。

 コロナトゥス制は小作人を使用した農場経営で、小作人の事をコロヌスと呼びます。
3世紀以降奴隷が減少し、大土地所有者である貴族から見れば労働力不足です。
労働力不足を補うには、奴隷を結婚させて子供を作らせれば良いのですが、奴隷も人間ですから、家畜の種付けでは在りません。

 奴隷にも家や財産を持つ事を認めてはじめて、彼らも自分の生活設計が可能になり子供も作る気になります。
そこで、農業経営者達は奴隷の身分を格上げして、家庭を持たせて子供を作らせて労働力を確保しようとしました。
これがコロヌスと呼ばれる小作人です。

 しかしながら、奴隷ではないからといって勝手に別の農場に移られてしまっては、労働力確保に結びつきませんから、コロヌスの移動を禁止する必要があります。
その為、コンスタンティヌス帝はコロヌスの移動禁止令を発布し、身分を固定化しました。
これを、コロナトゥス制の確立といっています。
尚、奴隷から身分上昇した一方で、一般農民からコロヌスに転落した者も存在しました。

3、テオドシウス帝

 テオドシウス帝(在位379年~395年)。
ここで、ローマ帝国は一応の区切りがつきます。

 テオドシウス帝は380年にキリスト教を国教化します。
国教化は国の宗教にした意味で、ローマ国民はキリスト教を信仰しなければ成りません。
ミラノ勅令は公認で、公認とは信じても良いと云う意味なので、国教化したと云う事は、キリスト教を国家支配の柱の一部に組み込んだ事に成ります。

 更に、392年にはキリスト教以外の宗教の信仰を禁止します。
ギリシアの時代から続く古代オリンピックはこの時まで、連綿とおこなわれていましたが、オリンピックは、本来ギリシアの神々に捧げるお祭りですから、キリスト教国教化以後開かれなくなりました。

 さて、テオドシウス帝は死に臨み、2人の息子に帝国を分割して相続させました。
兄のアルカディウスが東ローマ帝国(首都コンスタンティノープル)、弟のホノリウスが、西ローマ帝国(首都ローマ)を継承しました。
此れで地中海全体を取り囲んだ大ローマ帝国は終焉を迎える事と成ります。

ローマ・続く・・・
2013/03/16

歴史のお話その64:ローマ帝國の発展⑯

<ローマⅩⅥ>

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◎ローマ帝国の変質

1、ディオクレティアヌス帝

 パックス=ロマーナ(ローマの平和)以降、235年~284年の間、この時代を軍人皇帝時代と呼びます。

 軍人皇帝時代は、兵士が自分たちに都合の良い将軍を皇帝の座に据える、その様な時代です。
ローマ帝国は、国境地帯に20程の軍団を配置していたのですが、各軍団の兵達が自分たちの司令官を皇帝に押し立て、都合が悪く成ると帝位から引きずり降ろすのです。
アウグストゥス(オクタヴィアヌス)の時代から皇帝は兵士、つまり市民の支持がなければその地位を保つ事は出来ませんでした。
従って、歴代皇帝は常に兵士に都合の良い施策を行います。
此処まで来ると、皇帝が兵士に気を使いすぎ、主従関係が崩壊した時代が軍人皇帝時代。
当に末期的症状です。

 50年間に即位した皇帝は26人、その平均在位年数は2年。
このうち天寿を全うしたのは2名のみ、他の皇帝達は兵士に廃位されるか、対立皇帝に暗殺されています。

 この軍人皇帝時代に終止符を打った皇帝が、ディオクレティアヌス帝(在位284年~305年)です。
彼は、1兵士からローマ帝國皇帝に迄出世した人物で、現在のクロアチアが出身地に成ります。
軍人皇帝時代に失墜した皇帝の権威と権力を再生し強化しようと努力したのです。
その為に彼は、ローマ帝国の政治の仕方を大きく変え、その新たな統治の仕方を専制君主制=ドミナートゥスと云います。

 極端な言い方をすれば、ペルシア風の皇帝を目指したと考えれば良いでしょう。
元老院尊重を止め、共和政的な形を捨て去り、自分の事を「主にして神」と呼ばせ、会議の時には顧問官達を起立させ、座る事を許しませんでした。

「帝国四分割統治」も始め、ローマ帝国を東西に分けてそれぞれに正帝副帝を置き、自分は東の正帝になります。
広大な領土を一人で支配する事には、限界が来はじめていたのでしょう。
皇帝が4人同時に在位している事に大変違和感を持ちますが、此れは皇帝という訳語の感覚とローマ皇帝の実態とのズレが問題の様です。

 このディオクレティアヌス帝はキリスト教徒を迫害したことでも有名です。
かれは「主にして神」ですから、国民に自分に対する礼拝を強制しますが、キリスト教徒は行いません。
ディオクレティアヌスは彼らにとっては神としての存在では在りません。
皇帝としては、この行為を許す事は出来ず、弾圧の対象としたのです。

ローマ・続く・・・


2013/03/15

歴史のお話その63:ローマ帝國の発展⑮

<ローマⅩⅤ>

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「マルクス・アウレリウスの死」ウージェーヌ・ドラクロワ (1798-1863)

2、五賢帝時代

 ネロの死でオクタヴィアヌス、ティベリウスの血統を継承した、ユリウス=クラウディウス家は断絶しました。
短い内乱の後、フラウィウス朝が成立しますが、これも最後の皇帝が暗殺されて断絶し、その後始まるのが五賢帝時代(紀元96年~180年)です。

 フラヴィウス朝が途絶えた後、帝位を継ぐ者が存在せず、元老院で協議を行い、自分達の中から皇帝を選ぶことにしました。
一番温厚で良識ある人物が皇帝に選ばれたのです。

 最初がネルヴァ(在位96年~98年)で、即位した時66歳なので、暴走する恐れは殆ど在りません。
ネルヴァ帝は財政難と政治的混乱を収拾して黄金時代の基礎を作ったのですが、子供が居らず、そこで養子を迎えて帝位を譲る事としました。

 元老院議員の中から優秀で人望が在り、良識的で軍隊からも支持される人物を養子にしました。
この人物が2人目のトラヤヌス帝(在位98年~117年)です。
彼の時代にローマ帝国の版図は最大と成り、トラヤヌス凱旋門が現在も残っています。
ローマでは将軍や皇帝が、戦争で大勝利を収めて帰還する場合に、凱旋式という盛大な儀式行い、その時に帰還した指揮官が潜る施設がこの凱旋門です。(映画「ベン・ハー」で壮大な凱旋式の模様が再現されていました。)
パリの凱旋門はナポレオン時代にこれを真似たものです。

 トラヤヌス帝にも子供が居なかったので、再度元老院議員から養子です。
この人物が3人目にあたるハドリアヌス帝(在位117年~138年)。
ハドリアヌスも何故か子供が居らず、再度養子です。

 4人目がアントニヌス=ピウス帝(在位138年~161年)、彼の後継者もまた養子です。

 5人目がマルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161年~180年)。
この人物は皇帝としても優秀ですが、更に哲学者として有名。
哲人皇帝と呼ばれ、「自省録」という本を書いています。
彼は辺境地帯の戦場で生活しながら、夜は自分の天幕でロウソクの明かりを頼りに哲学書を著したのです。

 彼は立派な人物でしたが一つトラヤヌス帝以後の皇帝と違いが在りました。
本当は違いと云うべきものでは無いのですが、彼には子供が居たのです。
ここまで優秀な皇帝が続いたのは、養子で優秀な人物に後を継がせた結果でしたが、実子が居ればその子を跡継ぎにしたいと思うのは哲人皇帝でも同じです。
この時点で、五人続いた優秀な皇帝の系譜は途絶え、五賢帝時代は終わります。

 五賢帝時代はローマ帝国の最盛期とされ、パックス=ロマーナ、「ローマの平和」と言われる時代です。

 此処まで読まれた方は、五人の皇帝中最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌス以外は皆子供が無かった事はどの様に考えられますか?
これは偶然では無く、当時のローマ全体で全般的に出生率が低下しているのです。

 五賢帝以後の皇帝については、一人だけ紹介します。
カラカラ帝(在位188年~217年)は、212年、ローマ領内の全自由民にローマ市民権を与えました。相続税を支払うのはローマ市民だけなので、ローマ市民を増やす事で増収計画を行ったものと考えられています。
理由は別にしても、この結果ローマ人と属州人との区別は消滅し名目上残っていた、都市国家的な形式が消え、ローマは普通の領域国家に変わり、それに応じて支配形式も変わって行くのです。

ローマ・続く・・・
2013/03/14

歴史のお話その62:ローマ帝國の発展⑭

<ローマⅩⅣ>

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ローマの火災を見つめるネロ アルフォンス・ミュシャ(Alfons Maria Mucha)1887年作

◎帝政の開始そのⅣ

 ネロは暴君として、戯曲や書物、映画として有名ですが、即位する迄は、極々普通の男子だったと思われます。
即位した年齢は17歳、日本で云えば生意気盛りの高校生ですね。
若い頃は、有名な哲学者セネカや優秀な親衛隊長の補佐を受けて評判も良かったのですが、成長するに従い我侭な性格が現れて来ました。
最初は口うるさい母親を殺害し、離婚した妻に世間の同情が集まると彼女も殺害。
更には、補佐役のセネカ達も追い払われ、身勝手本位の人物に成ってしまいました。

 盛んに詩を作ってコンクールに出場し、競馬やオリンピックにも出場するのですが、カリグラの処でも述べた通り、ローマ皇帝の権限は極めて強力ですから、他の出場者は皇帝に勝つ訳にはいかないので、結局ネロは必ず優勝するのですが、自分のことを天才だと思いこんでしまう、他愛ない人物です。
彼も最後には、地方総督が反乱を起こし親衛隊に見捨てられて自殺するのですが、最後の言葉は、「おお、私の死によって、何と惜しい芸術家がこの世から消えてしまう事よ」でした。
皇帝の地位を離れても、自分自身に価値があることを信じていたのでしょう。

※ネロは果たして暴君だったのか

 「皇帝ネロ」(在位西暦54年~同65年)の名前を聞くと、反射的に「暴君」と言う言葉を連想する程、彼は、残虐非道な皇帝として後世に伝わりました。
彼は、自分の意に沿わぬ者の命を次々に奪っていったと伝えられています。
その非業の死を遂げた者の中には、彼の実母アグリッピナや妃のオクタヴィア迄含まれています。

 しかし、彼の時代には、この様な行為が日常茶飯事であり、今日では想像できない時代で在った事、当然ながら宮廷には、毒殺専門の調剤師が存在し、貴人達の殆どは、食事には必ず毒味役の奴隷を伴い、彼等が試した物以外、絶対に口をつけないしきたりに成っている程でした。

 ネロの実母アグリッピナは権力狂で、息子のネロが生まれる時、「この子は皇帝に就けるが、母を殺す」と予言されたものの、彼女は、「皇帝に成るのなら、自分の命を捧げる」と言ったと伝えられ、息子を皇帝にする為、皇帝クラウディウスと再婚し、ネロを養子としました。
その後、アグリッピナは、クラウディウスを毒殺し、彼の娘オクタヴィアをネロの妃としたのです。

 こうして、彼女の苦心の結果、皇帝の座に就いたネロでしたが、時を経て彼女の自由に成ら無くなって来ると、他の者を皇帝にする為、陰謀を企みます。
従って、実母アグリッピナの殺害に関しては、むしろ、ネロに同情する人々も多かったのでした。

 しかし、彼の狂気じみた振舞いが、次第に激しさを増し、ガリアに反乱が起こり、元老院や皇帝近衛兵も彼を見放す結果となりました。
ネロは、ローマから逃れ、最後に自殺して果てるのですが、彼を「暴君」と呼ぶ様に成ったのは、実は更に後世の事でした。

 ローマは、ローマ帝国の時代、度々大きな火事が起こり、消防隊もアウグトウス帝の時代に創設されていましたが、西暦64年7月19日、それまでの記録にも無い大火が発生しました。
大競技場から出火した火は、瞬く間に市中に広がり、火災が余りにも激しかった為、人々は逃げる事がやっとの状況でした。
ネロは、アンティウムに滞在して居ましたが、急ぎローマに戻り宮殿も焼失していましたが、焼け残った公共建造物や公園、宮廷庭園を民衆に開放し、近在の町から食料、物資を運ばせました。

 ところが、「ネロは都が燃え上がる様を宮殿のバルコニーから見物し、ホメロスを気取り竪琴を奏で、“トロイ落城”を詠っていた」との噂が、人々の間に広まりました。
ネロは、従来から芸術家を気取り、ナポリでも舞台に立ち、詩を吟じた事もありました。
其れは、ローマの大火の少し前の事で、彼が詠い始めると、まもなく地震が起こり、彼を心配して舞台に駆け上ろうとした者も在りましたが、彼は平然と詩を詠い続け、終わった時の拍手は鳴り止まなかったと記録されていますが、それは、彼の詠いが上手かったのではなく、彼の勇気を賞賛したのだと云われています。

 ローマが焼けてしまった事を良い機会として、ネロは、ローマ市の再建計画を立て、建造物の不燃化を図り、又宮殿用地を拡大しようと考えました。
その為、「ネロは、自分の名前を付けた新しい都を造ろうとして、ローマに火を放ったのだ」との噂が広まり、更には、その大火の折、小役人が混乱を利用して、民家に踏み込み、泥棒を働いた上「お上の命令でやっているのだ」等と言いながら、彼等は証拠を隠す為、まだ火の回っていない家に松明を投げ込んだりもしたのでした。
この様な事から、「ネロが火をつけさせたのだ」と云う噂が人々の間に信じられる事に成ったと思われます。
 
 歴史家タキトウスは、ネロ時代の歴史を著し、ネロが、本当に放火を命じたか否かについては、彼自身判らないとしていますが、多分、彼の命令では無かったでしょう。
ネロは、被災者の為に、物資を援助し、神殿での御祓い等の儀式を執り行いましたが、「疚しさから、あの様な事をするのだろう」と益々、噂は人々に信じられる様になりました。

 自分に向けられた悪評を逸らす為、ネロは「キリスト教徒がローマに火を放った」と言いふらし、キリスト教徒を捕らえて処刑したのですが、この時、伝道者パウロも処刑されました。
キリスト教徒を迫害したのも、彼だけでは無く、その後益々、激しさを増していくのですが、コンスタチヌス帝の時、キリスト教は、ローマ帝国の国教と成り、やがてヨーロッパ全土広がって行きます。
キリスト教徒を始めて迫害したネロは、彼等によって、極悪人とされ、やがて「暴君」と呼ばれる様に成ったのです。

ローマ・続く・・・
2013/03/13

歴史のお話その61:ローマ帝國の発展⑬

<ローマⅩⅢ>

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カリグラ暗殺

◎帝政の開始そのⅢ

 初代皇帝としてオクタヴィアヌスは、大きな戦乱も無くローマを治め、齢70歳を越えて無くなりました。
ただ、子供には恵まれず、女の子は授かりましたが、男子を授かる願いは果たされませんでした。
ローマ人は一夫一婦制ですが、彼らは盛んに結婚離婚を繰り返す為、かなり乱れた生活で在ったと思われ、正式に結婚していても夫婦関係以外の性的関係を男も女も当たり前のように持っていたのです。哲学者セネカはこう言っています。
「妻の浮気相手が二人だったらその妻は貞淑だ、夫は幸せ者だ」。
その割にはなのか、その為なのか分かりませんが、当時の貴族の家では子供が少なく、名門貴族の家系で跡継ぎがなく、途絶える例が結構あるのです。

 オクタヴィアヌスの三度目のそして最後の妻がリヴィア。
リヴィアには夫がいてしかも身重な体でしたが、オクタヴィアヌスは見初めてしまい、其れまでの夫と別れさせて結婚したんです。
しかし、結局彼女はオクタヴィアヌスの子供を産むことは無く、オクタヴィアヌスはそのリヴィアの連れ子を養子にして、その子が二代目の皇帝に成りました。
その人物がティベリウスで、即位した時はもう50代、どちらかというと日影の人生を送り、陰気な人という評判が残っています。
別荘に引きこもって政治は側近に任せきりとか。

 彼も息子が居らず、死後跡を継いだのが、彼の甥の息子とオクタヴィアヌスの孫娘の間に生まれたカリグラです。
この人物は精神的にも、人間的にも(?)の多い人物でした。
カリグラは映画にも成りましたが、カエサルやアントニウス、スパルタクスの様に歴史の勉強に成る様な映画では在りませんと、書いておきます。

 彼の奇行は数々在りますが、自分の妹たちと肉体関係結びさらに売春もさせ、馬をコンスル(執政官)に任命しようとしたり、ある時は、有名な騎士階級の息子が綺麗な髪をしているという理由で死刑にしました。
そして、その日にその父親を宴会に招待して何回も乾杯させます。
父親は宴会が終わる迄、悲しいそぶりや怒りの感情を見せずにカリグラに付き合いました。
何故なら、彼にはもう一人息子が居り、少しでもカリグラに批判的な素振りを見せれば、残ったもう一人の息子が処刑されるかもしれないと考えたのです。
良家の子女を集めて売春宿を作り、市民に買わせ、自分の娘を売春婦にさせられた貴族達の怒りは凄まじいものでしょう。

 カリグラ帝は、自分の目の前の誰かに屈辱を与えることに快楽を見出したのだと思います。
彼を精神異常だと書いてある本が殆どですが、ローマ帝国皇帝の権力は、想像を絶する程強く、その力を25歳の平凡な若者が手に入れてしまった実例がカリグラと思います。
権力の大きさに自分自身が押しつぶされ、弱者を甚振る事で自分の力を確かめることしかできなかった心の小さな男と思われます。
皇帝の余りの非常識さから、最後には皇帝直属の親衛隊に暗殺され、即位わずか3年10ヵ月と6日でその生涯を終えたのでした。

 カリグラは自分の地位が狙われるのを恐れて一族の男はほとんど殺していました。
残っていたのは叔父クラウディウスのみ。
何故クラウディウスが殺されなかったか?
彼は、知能的弱者だったので、カリグラはこの様な人物に帝位を脅かされる事は無いと思い、殺さずにいたのです。

 ところが、このクラウディウス、即位すると急に頭脳明晰、実に理路整然と話をしてみんなを驚かせ、実はカリグラに殺されないように知能的弱者を演じていたと云われていますが、この様な話は大抵後の作り話なので逸話として聞いて下さい。

 クラウディウスは女運が悪く、4人の女性と結婚したのですが、公然と浮気をする妻や、最後の妻には彼自身が毒殺されてしまいます。
この最後の妻が、オクタヴィアヌスの曾孫でカリグラの妹の一人、彼女も離婚経験が在り、連れ子がいた為、この連れ子を早く帝位に就けようと、クラウディウスを殺してしまうのです。
この連れ子がネロなのです。

ローマ・続く・・・
2013/03/12

歴史のお話その60:ローマ帝國の発展⑫

<ローマⅫ>

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アントニウスとクレオパトラの出会い

◎帝政の開始そのⅡ

 東方に赴いたアントニウスが、出会った人物がクレオパトラで、当時アントニウスは40歳、クレオパトラは28歳。
クレオパトラは贅の限りを尽くして、アントニウスを歓待し、彼の心を虜にしてしまい、暗殺されたカエサルに代わる、ローマの実力者を後ろ盾にしたのでした。
クレオパトラにとってこの行動は政治的打算と思われますが、実際にこの二人はかなり強い精神的な結びつきも存在する様です。
後に、正式に二人は結婚し、クレオパトラは彼の子を三人授かり、アントニウスはローマ領の一部をクレオパトラに譲っています。
アントニウスは独断で、領土割譲を行いましたから、当然ながらローマ政界での評判はどんどん悪く成ります。

 オクタヴィアヌスは政略結婚で自分の姉をアントニウスの妻としますが、アントニウスはクレオパトラと出会った後、形だけの結婚で彼女には見向きもしません。

 当然の成り行きとして、オクタヴィアヌスとアントニウスは決裂です。
紀元前31年、アクティウムの海戦でアントニウス・クレオパトラ連合軍はオクタヴィアヌスに敗れて二人は自ら命を絶ちました。
有名な伝説ではクレオパトラは、毒蛇に乳房を咬ませて自殺したと伝えられています。

 この結果、エジプトはローマの属州となり、オクタヴィアヌスはローマ随一の実力者として政権を掌握し、紀元前27年、彼は事実上の帝政を開始しました。
此処で「事実上」と云う単語を敢えて使用した訳は、名目上は帝政ではない、と云う意味でオクタヴィアヌスは「事実上」皇帝に成りました。

 振り返って史実を遡れば皇帝即位の、僅か20年前、彼の養父カエサルは皇帝に成ろうとして暗殺されました。
ではオクタヴィアヌスは、何の抵抗も無く皇帝に即位出来たのでしょう?
カエサル死後の混乱から、元老院貴族達も苦渋を舐め、巨大な領土を持つこのローマ帝国を平和に維持する為には、旧態然とした元老院を中心とする合議制では限界にきている事を知ったのでしょう。カエサルが試みた事の正しさを理解したのだと思います。

 一方、オクタヴィアヌスもカエサルと同じ道を歩まない様に、元老院を尊重し共和政を守る姿勢をとり続けます。
彼しか政権を担当できる者が居ない、ということは彼しか兵士に給料を払えないと同義語なのですが、何度も政権を元老院に返上する儀式を繰り返したりしました。
一方元老院も、オクタヴィアヌスを引き立てる役に回り、この様な儀式が繰り返されました。

 元老院は彼に「尊厳なる者」を意味する、アウグストゥスの称号を捧げました。
これに対してオクタヴィアヌスは謙遜して、「私はただのプリンケプスです」、と云います。
これは「第一の市民」という意味で、序列一位のローマ市民にすぎませんということなのです。

 事実上の帝政が、行われた訳ですが、オクタヴィアヌスが崩御した時の正式の肩書き以下の通りです。
「最高司令官・カエサル・神の子・アウグストゥス・大神祇官長(ポンティフェクス・マクシムス)・統領13回・最高司令官の歓呼20回・護民官職権行使37年目・国父(パテル・パトリアエ)」
皇帝という言葉が在りませんが、皇帝という称号も地位もそれ迄存在しなかった、言い換えれば言葉自体が存在しないのです。
この後、カエサルという言葉が皇帝という意味で使われるようになりました。
ドイツ語のカイゼル、ロシア語のツァーリ、両方皇帝という意味ですが語源はカエサルです。

ローマ・続く・・・

2013/03/11

歴史のお話その59:ローマ帝國の発展⑪

<ローマ⑪>

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オクタヴィアヌス

◎帝政の開始その①

  カエサルの暗殺を果たした、ブルートゥスとその仲間達は、当然ローマ政界の主導権を握ろうとしました。
カエサルの独裁を快く思っていなかった元老院の貴族達はそれで良いのですが、問題はカエサルの兵士(私兵)達でした。
その兵士達の中でも、アントニウスはカエサルの右腕、有能な将軍で、兵士達の人望も高いものが在ります。
彼が平民達の前で、ブルートゥスに対する弾劾演説を行い、平民達は反ブルートゥスに成ったと云われています。

 現実問題として、金(給与)の問題が、根底に在ったと思われます。
カエサルにはガリア遠征以来多くの兵士が居り、更にポンペイウスを破った後、ポンペイウスの兵士達を可也の数をそのまま自分の軍隊に受け入れたのでした。
正確な記録は残って居ませんが、万単位の兵士を保有していたと想像されます。
この兵士達はローマ兵でありながら、実際にはカエサルの私兵なのです。

 現実問題として、誰が彼等に給料を払うのか、と云う事で、兵士の立場では、「ブルートゥスよ、カエサルは暗殺しても、貴方は、自分達に給料を払って貰えるのでしょうね?」
残念ながら、ブルートゥスはカエサルの様な富豪では在りません。
給料を払うことが出来ない、その様な人物を兵士は支持しません。
兵士は平民ですから、彼等の支持を得る事が出来ず、ブルートゥス一派はローマから逃亡しました。

 誰が兵士の給料を支払って、彼等の支持を得たかと云えば、オクタヴィアヌスでした。
正式な子供が居ないカエサルは、死の直前に養子を指名して財産を相続させた人物がオクタヴィアヌスです。
実際、カエサルの姪の息子ですから、殆ど他人も同然ですが、一族の中では優秀でカエサルの寵愛もりました。

 オクタヴィアヌスはこの時19歳、政治的にも軍事的にも実績は在りませんが、カエサルの残した財産が在り、これで給料を払います。
兵士はただそれだけで彼を支持する事に成りますが、この出来事をきっかけにオクタヴィアヌスはローマ政界の実力者に成りました。

 紀元前43年からはオクタヴィアヌスとアントニウス、レピドゥスの三人が第二回三頭政治を開始位します。
レピドゥスもアントニウスと同じくカエサルの武将だった人物ですが、政治的な力量であとの二人より大分劣りのちに失脚しますので、オクタヴィアヌスとアントニウスの関係が中心に成ります。
東方に逃亡したブルートゥス達を倒した後、ローマ領の東をアントニウス、西をオクタヴィアヌスという分担が出来上がります。

ローマ・続く・・・
2013/03/09

歴史のお話その58:ローマ帝國の発展⑩

<ローマ⑩>

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「賽は投げられた」

◎カエサル番外編・諺とその背景 <少し前の記事と重複します>

 歴史上の著名人は、数多く居ますが、ローマ帝國のガイウス・ユリウス・カエサル:Gaius Iulius Caesar程、色々な意味で引用される人物も少ないのではないでしょうか。
彼のカエサルと言う姓は、後年役職の名称となり、更には「皇帝」を意味する言葉になりました。
帝政ロシア時代、皇帝を意味する「ツァーリ:Царь」、ドイツ帝国時代の「カイゼル: Kaiser」供にカエサルのロシア語、ドイツ語読みであり、この様な事例は、殆んど無いと思われます。

 更に、その言葉が、格言化した事例もカエサルが、第一であろうと考えられます。
「賽は投げられた」「ルビコンを渡る」「着たり、見たり、勝ちたり」「ブルータスお前もか」等の諺は、全てカエサルから来ているのです。
尚、「カエサルの物はカエサルに」と云う聖書におけるキリストの言葉は、彼の事を指し示すのではなく、役職としての「カエサル」を示しています。
又、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の顔(歴史)は変わっていただろう」と云う有名な言葉は、フランスの哲学者パスカルの言葉で、「カエサル」は表面に出てきませんが、裏の意味として含まれています。

 紀元前60年、カエサルは、ポンペイウス、クラッススと結んで「第一次三頭政治」を行い、元老院に対抗し、彼はガリア(イタリア北部から現在のフランスに至る、ケルト人の居住地域)を平定します。
カエサルの名声が、ガリアの地で高まるにつれ、ポンペイウスは彼から離反し、元老院と結託して、紀元前49年、カエサルは、任地ガリアからローマへの帰還を命じられました。

 ローマへの帰還は、軍隊の武装解除を意味しますが、カエサルは、ルビコン川の対岸で、しばし熟慮の後「賽は投げられた」と言い、軍隊の武装解除をせずに「ルビコンを渡り」ローマ帝国の国境を越えました。
この事から、思い切った冒険、判断をする時、「賽は投げられた」なる諺が生まれましたが、この言葉は、本来ギリシアの喜劇作家メナンドロスが、劇中に使用した台詞で、これをカエサルは使用したのでした。

 ルビコン川を渡った、カエサルは、ポンペイウス、元老院派と戦い、ポンペイウスは、ギリシアのファルサロスで、カエサル軍に撃破され、更にエジプト迄逃れたものの、紀元前84年この地で、果てました。

 ポンペイウスを追ってエジプトに来た、カエサルは、時のクレオパトラを見初め、彼女を愛し、その頼みを受け入れて彼女を援助し、エジプトの女王としました。
先に記述した「クレオパトラの鼻・・・」の言葉は、この歴史的背景から出てきたものなのです。
その後もカエサルは、東方遠征を行い、ポントスを平定しましたが、この事を友人である、マティウスに知らせた時の彼の手紙が、「来たり、見たり、勝ちたり」でした。
軍人らしい簡潔な文書の上、韻を踏んだこの言葉は、大変有名になりました。

 やがて、カエサルは、ローマに凱旋しますが、皇帝の地位への野心を疑われ、紀元前44年3月15日、元老院で暗殺者の刃に襲われます。
当初、カエサルは、痛手を受けたものの屈せず、勇敢に暗殺者と対峙しましが、その中に息子の様に目を掛けたブルータスが、加わっている事を知り、「ブルータスお前もか」と言って抵抗を止め、殺されたと云います。
彼が最後に息を引取ったのは、ポンペイウスの像の下であると伝えられています。

※ルビコン川はどの川なのか

 さて、ここで「ルビコン川を渡る」と云う諺も出来ましたが、この時渡った「ルビコン川」は、ガリアとローマ帝国の国境に在る川で、ガリアは、アルプス山脈を挟んで両方に存在し、この場合のガリアを「ガリア・キス・アルピナ(アルプスの此方側にあるガリア)」と呼ばれている地域でした。
「ルビコン川」は、赤い川の意味で、歴史地図を見るとたいてい図示されていますが、実際は、アリミニウムの北に位置する川で、アドリア海に注ぐ川は、大変多く、ルビコン川がその多くの川の一つと云う事以外、実際のルビコン川が、今日のどの川に当たるのか、はっきりと解明されていません。
「ルビコン川」を「フィウミキノ川」「ウソ川」とする説も在りますが、何れにせよ、ガリアとローマ帝国の国境に位置した川で、カエサル由来の名高い川で在りながら、不思議な事に学会の意見は、定まっていません。

ローマ・続く・・・

2013/03/08

歴史のお話その57:ローマ帝國の発展⑨

<ローマ⑨>

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"Cléopâtre et César" ジャン=レオン・ジェローム画1886年作

5)カエサルその2

 この姉弟は仲が悪く、権力闘争の結果、弟王とその一派が実権を握り、クレオパトラは有名無実の国王でした。

 その様な時にエジプトに現れたのがカエサルです。
彼女は考えました。
「カエサルに会って自分の後ろ盾することが出来たら、弟を追い落としてエジプトの真の女王になれる。」
ところが、彼女には弟王の監視が付いて居り、カエサルに接近する機会が在りません。
史実か否かは別にしても、映画の一シーンでも有名な絨毯に隠れる方法です。
彼女は自分を絨毯で巻き、エジプトの富豪からの贈り物だと称して、その絨毯をカエサルの宿舎に届けさせます。
カエサルが、「立派な絨毯だ」と言いながら広げると、中からクレオパトラが現れ驚くと云うお話しです。
この時、クレオパトラ21歳、カエサル52歳でした。

 クレオパトラは伝説が伝える様な、絶世の美女ではなかった様ですが、教養あふれる知的な女性でした。
特に声が魅力的と云われています。
結果的にクレオパトラはカエサルに会うことが叶い、計画通りに彼を自分の魅力の虜にしました。
カエサルは最後には、エジプトの宮廷闘争に介入してクレオパトラを名実ともにエジプト女王とし、更にエジプトの独立を保証したのです。

 ローマに還ったカエサルは、ポンペイウスの残存勢力を駆逐して紀元前46年には終身独裁官に就任します。
事実上の独裁者で、あらゆる栄誉と権限を一身に集めたのですが、実力者だから誰も文句を言えないのです。
しかしながら、カエサルの振る舞いを見ていてかなりの人たちが疑いを持ち始めます。
「カエサルは皇帝になろうとしているのではないか」。
独裁者なら、前例は在りますが、しかし皇帝は別の話しで、ローマ人には共和政に対する誇りがある、皇帝に対しては大変強い拒否反応が在りました。
此れは、元老院主導の貴族政治が否定される事に繋がり、貴族達はカエサルに警戒心以上の敵意を持ち始め、ブルートゥスを中心とする共和主義貴族のグループが最も急進的でした。

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 そのブルートゥスよって、カエサルは暗殺されました。
紀元前44年3月15日、カエサルが元老院の議場に現れるや否や、待ちかまえていたブルートゥス達がカエサルに襲いかかりました。
カエサルは必死に抵抗するのですが、自分を襲う貴族の中にブルートゥスの姿を見つけ「ブルートゥスお前もか!(お前もか!わが子よ)」と叫んだと云うのは有名な伝承です。
ブルートゥスは名門貴族出身ですが、結構カエサルの寵愛を受け、彼の保護のもとに重要な役職に就きました。
そのブルートゥスまでもが俺を殺すのか!という意味ですね。

 外史を一つ。
ブルートゥスはカエサルよりも25歳年下です。
カエサルは、若い頃にブルートゥスの母親と交際が在りました。
当然ながら、若い頃から女性関係は激しく、その後二人は別れて彼女はブルートゥスの親父と結婚するのですが、ブルートゥスの誕生日を聞いた時、カエサルは若しやと考えた様です。
ブルートゥス自身は、例えその様な関係でも共和制を守る為には生かしておけないと考えたのでしょう。
帝政に対する反発の強さが分かりますが、このお話しは、外史に属する部分です。

 クレオパトラについて
クレオパトラですが、カエサルの子供を産んでいます。
男の子でカエサリオンと名付けられ、母子は当にカエサル暗殺の日、カエサル本人に招かれてローマに来ていました。
カエサルの死を知ったクレオパトラは、カエサリオンを引き連れ急いでアレクサンドリアに帰っていきました。
カエサリオンは独立王国エジプトの王子でありまだ子供です。
尚、カエサルの遺産相続人にはなりませんでした。

ローマ・続く・・・

2013/03/07

歴史のお話その56:ローマ帝國の発展⑧

<ローマ⑧>

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『クレオパトラをエジプト女王へ据えるカエサル』"Cesare rimette Cleopatra sul trono d'Egitto"、ピエトロ・ダ・コルトーナ1637年作

5)カエサル

 紀元前60年、有力将軍三人による談合が成立し、彼等がローマの政権を握ることになり、これが第一回三頭政治と呼ばれる形態です。
三人はカエサル、ポンペイウス、クラッスス、カエサルは、これはローマで一番人望が高く、ポンペイウスはローマ一番の将軍として誉れが高い、そしてクラッススはローマ一番の大富豪でした。
この三人が力を合わせれば怖いものはなく、元老院も上手く操ります。

 三人の中で一番重要な人物が、当然カエサルです。
アレクサンドロス大王、ハンニバルに続く古代世界の英雄でしょうか。(彼をモデルにした映画作品も沢山在りますね)
この人物、人を引き寄せる不思議な力が在った様で、カエサルに会う人は皆、彼のことが好きに成り、カエサルは俺の友人だと、皆が皆、自慢したくなるのです。

 彼の渾名には「借金王」が在ります。
カエサルは借金が多く、ローマ中の金持ち、富豪から借金しては、この金を平民達にふるまうのです。
先に剣奴の項目で説明した様に、剣奴の試合を次々に開催して平民達を招待し、食糧を買い込み、皆に振舞う、それもみんなの度肝を抜くような規模で行います。
よって、益々平民達のカエサル人気は高くなるのです。

 カエサルは紀元前58年からガリア遠征を行いました。
この遠征は紀元前51年迄続きますが、この期間にカエサルはその人望に見合うだけの実力をつけました。
ガリアは現在のフランスの一部の地域で、ガリア人が住んでおり、部族集団単位での行動で、まだローマの領土には成っていませんでした。
カエサルの勝利が次々にローマ市に伝えられ、その都度、彼の人気は上がり将軍としての実力も付いて来ます。
彼の兵士は当然、彼の私兵ですから、この兵士達との人間的な繋がりも強く成ります。
ガリアでの勝利によって、カエサルは支配地となったガリア人から財産を搾り取り、結果的に借金王から大富豪に成りました。

 カエサルの将軍としての実力が評価されはじめると、内心面白くないのがポンペイウスです。
それでもクラッススが生きている間は、三人でなんとかバランスが保たれていましたが、紀元前53年にクラッススが死去により、カエサル、ポンペイウス対立の構図が明白に成って来ました。
二人は政略結婚で姻戚関係を結んでいましたが、その様な関係は無いに等しく、又元老院はポンペイウスを利用して、カエサルを潰そうとします。

 この様な状況の中で、カエサルは「賽(さい)は投げられた」の台詞で有名ですが、ルビコン川を渡り、ガリアから軍隊を武装解除する事無く、ローマに進軍しました。
ポンペイウスとの決戦を挑む事に成るのですが、結果的にポンペイウスは敗れてエジプトへ敗走し
、最後には暗殺されカエサルの勝利で終わったのです。

 この時カエサルはポンペイウスを追ってエジプトに遠征するのですが、ここで出会ったのがプトレマイオス朝エジプト最後の国王、クレオパトラです。

 クレオパトラはエジプトの女王として有名ですが、この時の彼女の状況は少々複雑で、ローマ帝国は既に地中海を取り巻く世界凡てを領土に加えていました。
しかし、エジプトだけはかろうじて独立を維持していたのです。
ポンペイウスがエジプトに逃亡したのもこの為です。
しかし、ローマは強力な武力を背景にした帝国で在り、エジプトは何時ローマの属州にされてもおかしくない状態でした。
従って、ローマの事実上の支配者であるカエサルが入国すると、エジプト政府は彼を歓待するわけです。

 クレオパトラは、確かにエジプトの国王なのですが、もう一人エジプト国王が在位していました。
此方の人物はプトレマイオス13世、共同統治者です。
しかも、プトレマイオス13世は彼女の弟で在り、姉弟で王座を守っている訳です。
更にこの二人は夫婦でもあるのです。
現在なら近親結婚ですが、イクナートンの様に自分の娘と結婚する国王も存在したエジプトでは不思議では無く、クレオパトラ達プトレマイオス朝王家は、本来ギリシア人なのですが、長くエジプトで生活するうちにエジプトの風俗に馴染んでしまったのでしょう。

ローマ・続く・・・
2013/03/06

歴史のお話その55:ローマ帝國の発展⑦

<ローマ⑦>

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「スパルタカス」ユニバーサル・ピクチャーズ 1960年 主演カーク・ダグラス

4、スパルタクスの反乱その2

 当時ローマは最悪の状況にありました。
同盟市戦争の傷も癒えぬまま、西はセルトリウスのイスパニアの反乱、東はミトリダテス戦争の真っ只中で、有能な将軍であるポンペイウスはイスパニア、ルクルスは小アジアに派遣されローマ本国にはまともな指揮官がいない状況でした。

 スパルタクス軍の強みは、中核となる戦力が白兵戦のプロである剣奴だということです。
反乱軍は途中で、逃げ出してきた奴隷を加えながら北上、アルプスを越え脱出を試みます。
ローマ元老院は二人の執政官に2個軍団(12000名)を与え、これを迎撃しました。
しかし、スパルタクスは二つの軍に連携する暇をあたえず各個撃破し、もはや反乱軍の前にはアルプスの天険があるのみでした。

 大勢力になったスパルタクス達の奴隷反乱軍はイタリア半島を北上します。
食糧は略奪で確保されました。
途中の都市を攻略し金持ち、貴族の財産や食糧を略奪しながら移動したのです。

 スパルタクスの目的は、故郷へ還る事で、彼自身は今のブルガリア付近の出身と思われ、故郷には家族がいたのかも知れません。
他の奴隷達もローマ領の北方から来た者が多かった様子で、北へ向かってローマ領からの脱出を試みたと考えられます。

 ところが彼らは、アルプスの麓迄行くのですが、そこでUターンしてしまいます。
なぜアルプス越えをしなかったのかは、現在も謎です。
アルプスを越えれば、ローマ領から出られる訳ですから不思議な行動です。
この行動には、現在も諸説が在り、推測の域を出ていません。
現実問題として10万人もの人間を引き連れて、実際にアルプスを越えられるとは、スパルタクスが思わなかったのでしょう。
スパルタクスや他の剣奴達だけなら、肉体頑強なのでアルプスを越えられたでしょうが、彼らを頼って逃げてきた奴隷達はどうなのでしょうか?
老人や、病人、女子供も当然居た筈で、その様な者達はかなりの確率で落伍して死んで行く筈です。
リーダーの判断としては、アルプスを目の前にして引き返さざるを得なかったと思います。

 今度は又、貴族の物資を略奪しながらイタリア半島を南下しますが、彼らはローマ帝国領土からの脱出を諦めた訳では在りませんでした。
当時イタリア半島周辺の海域では、海賊が結構出没しており、スパルタクスはその海賊と連絡を取り合い、イタリア半島南端に海賊船が迎えに来て、彼等をシチリア島に運ぶ段取りになっていた様です。
スパルタクスが略奪したのは、食料だけでは無く、高価な品物や財宝も手元に在る訳ですから、海賊に支払う報酬も心配ない筈でした。

 ところがスパルタクス一行がイタリア半島の先端近く迄到着した時、そこに姿を現したのはローマ帝国の大軍でした。
その軍団を率いたのは、一度は反乱軍に敗れたクラッススでしたが、ローマの威信にかけても負けられない状況でしたので、次第に反乱軍を追い詰めていきます。
それでもスパルタクス軍は一度は、シチリアを望むメッシーナ海峡まで達しますが、幸運に恵まれず、イスパニアでセルトリウスの乱を鎮圧したポンペイウス軍、トラキアを平定したルクルス軍が相次いでイタリア半島に上陸し、三方から反乱軍を包囲する形となりました。

 絶望的状況の中でスパルタクスは、南イタリア、ルカニアの地でクラッスス軍に最後の決戦を挑みます。
もちろん死を決しての戦いでした。
戦闘は壮絶を極め、10万の反乱軍はローマ帝国軍に殲滅され、降伏しても死罪になるのは明らかでした。
10万人がすべて兵士では無く、女性や子供、老人も多かったと思います。
スパルタクス自身も戦火の中で戦死し、死骸はついに発見できませんでした。
降伏した6000名の捕虜も悲惨な運命をたどります。
6000名は磔(はりつけ・磔刑)にされ、ローマ市から南方に続くアッピア街道の両側に十字架が何キロも連なり、奴隷達の呻き声が何日も聞こえたと記録されています。
しかし、その後ローマでは奴隷に対する待遇が緩和されました。

 ところで、鎮圧に不手際の多かったクラッススより、応援に駆けつけたポンペイウスの軍功が上と判断されたためクラッススは大いに不満を持ち、このコンプレックスが後年パルティア遠征に向かい戦死する遠因となったのです。
 
 スパルタクスの話しが長くなってしまいましたが、この時期のローマ帝国内部では、将軍同士の内乱、同盟市の反乱、奴隷反乱、元老院の指導力の低下等、混乱が続いた時期でした。
ローマがその現状に適合した政治制度を見つける迄、もうしばらく混乱は続きます。

ローマ・続く・・・
2013/03/05

歴史のお話その54:ローマ帝國の発展⑥

<ローマ⑥>

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「スパルタカス」ユニバーサル・ピクチャーズ 1960年 主演カーク・ダグラス

4、スパルタクスの反乱その1

 同盟都市戦争に続いて紀元前88年から紀元前88年迄、マリウスとスラの抗争が起こります。
スラは膨大な資産を保有する貴族で、彼も又多くの私兵を養っていましたから、同じローマの将軍同士がローマ兵を率いて戦闘を交える事に成りました。
スラは軍隊が決して入城することを許されなかった、ローマ市内に乱入する事も在ったのです。
この時、ローマの指導者集団である元老院は、この二人の将軍の抗争に振り回されるだけで、二人の抗争を解決できず、元老院の権威が次第に低下する発端と成りました。

 この二人で、マリウスは平民派、スラは閥族派の出身でした。
平民派は、公職に就く場合に平民の支持を背景とし、閥族派は貴族勢力を背景に公職を目指していた人物で、政治的な考え方に違いがあるわけではありません。

 この時期には、奴隷反乱も幾つか発生しました。
紀元前139年から紀元前131年と紀元前104年から紀元前99年にシチリア島で数万規模の奴隷反乱が発生しています。

 そして紀元前73年から紀元前71年には有名なスパルタクスの乱が起こります。
スパルタクスは剣奴(グラディアトル)でした。
処で奴隷と一言で言いますが、特別な能力がなければラティフンディアで農業従事、しかし中には賢い奴隷も居り、ギリシアもローマに征服された関係から、学者の奴隷も当然居ます。
彼らは貴族の屋敷で子供の家庭教師など知的労働に従事し、顔の良い少年少女は、貴族の館で主人の身の回りの世話をする事に成ります。
特技や能力によって違いが有り、その中でも特に剣奴は特異な存在でした。
戦争捕虜などで肉体的能力が抜群の者が剣奴に抜擢されたのです。

 剣奴は真剣勝負の殺し合いをさせられる者達で、今風ではボクシングやプロレスの様な格闘技(決闘)をローマ市民達が見て熱狂するのです。
強く人気のある剣奴はスター扱いですが、負ければ当然命は在りませんから、現在の感覚からすれば、物凄く残酷な競技でした。

 ローマの諸都市では、必ず競技場が造られており、剣奴の試合が頻繁に行われていました。
剣奴の試合を開催するには、お金(今で云う処のファイトマネー)が掛かります。
数日をかけて何十番もの取り組みを行なうのですが、この資金を提供するのが、開催される都市の有力者や貴族達で、試合を楽しみに見に来るのが一般市民、つまり平民なのです。
有力者は何故、私財を使って迄平民に娯楽を与えるのかと言えば、当に人気取りの為です。
平民にサービスをする見返りに、選挙で投票してもらって公職を得ようとする訳です。

 剣奴は興業があると到る処に連れて行かれて試合をさせられました。
当時の試合は、必ずどちらかが死ぬ迄戦うわけでは在りません。
怪我をする、剣を取り落としてしまう等、戦闘不能になって勝負がつく場合が在ります。
とどめを刺す否か、勝利者たる剣奴は主催者を見るのです。
主催者は競技場に詰めかけた観客を見渡し、この時に観衆が親指を立てて拳を突き出せば、「そいつは負けたけど、立派に戦った。命は許してやれ」という合図で、主催者も親指を立てて、勝者はとどめを刺しません。
敗者は怪我の手当等を受けて助けられます。
逆に観衆が親指を下に向けたら、「そいつは助けるに値しない。殺せ」という意味で、主催者も同じ合図を送り、勝者は敗者にとどめを刺しました。
残虐性について、ローマ人は結構激しいものが在り、猛獣と剣奴の戦い等も行われました。

 当然のことですが、試合はワザの優れたもの同士の戦いの方が迫力が在ります。
そこで、剣奴達は訓練を受けて、試合のない時は腕を磨き、試合で負ける事は死を意味しますから、訓練も必死でした。

 ローマの南方に在るカプアが剣奴の訓練所でした。
紀元前73年、ここから78人の剣奴が脱走したのですが、このリーダーがスパルタクスです。

 彼らはベスビオ山に逃げ込み、其処でローマの討伐隊と最初の戦いを交えるのですが、スパルタクス達は、剣奴(殺しのプロ)である上、失うモノは何も無く、滅茶苦茶強くてローマ軍に勝ってしまう。(映画「ランボー」の第一作を思い出して下さい)
脱走した剣奴がローマ軍に勝ったという噂は瞬く間に広まり、周辺のラティフンディアから農業奴隷達の逃走が始まり、彼らの処に集まって来ます。
スパルタクスの勢力は7万人に達したとの記録も在りますが、スパルタクスは戦闘指揮にも才能が在った様子で、この後もローマ軍との戦いに連勝します。

ローマ・続く・・・

2013/03/04

歴史のお話その53:ローマ帝國の発展⑤

<ローマ⑤>

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2)グラックス兄弟の改革

 ローマの名門貴族出身の若者の兄弟でティベリウス・グラックスとガイウス・グラックスがいました。
彼らは、スキピオの一族でもある名門中の名門で、このグラックス兄弟が、ローマ農民の没落をくいとめる改革を断行するのです。
最初に改革を試みたのは兄のグラックスで、彼の政策は非常に筋の通った政策でした。
農耕地を失い都市に流入している者達に、新しい土地を与えて再び自作農民に戻そうと考え、その延長線上にはローマ軍を再建する計画が在ります。

 では土地はどこから手に入れるでしょう?
貴族のラティフンディアは、125ヘクタール以上の土地を占有している貴族から、それ以上の土地を国家に返納させ、その土地を没落市民に再分配しようと考えたのです。
当然ですが、この政策に平民たちは熱狂しますが、貴族たちに取っては面白く在りません。
農民の没落でローマ軍の弱体化が進むのは、確かに心配なのですが、自分の土地を国家に取り上げられる事は、話しが全く違います。
当に総論賛成各論反対です。

 グラックスも貴族ですが、自分の利害より国家の利害を優先させて考えたのです。
只、彼の方法はかなり強引なところが有り、普通の手続きを踏まず、元老院との相談もなしに、改革を推し進めようとしたのでした。(報告連絡相談の欠如)
反対派貴族と改革を歓迎する平民の対立で、ローマは騒然とした雰囲気に成りました。

 兄グラックスの役職は護民官です。
護民官は身体不可侵で神聖ですから、反対派も手が出せない筈なのですが、強行反対派がよろしく無い組織を雇ってグラックスを襲わせました。(昔も今も余り変わりませんが)
兄グラックスは襲撃を受け撲殺、死体は川に投げ込まれているところが発見されました。
非常手段によって改革は潰されましたが、紀元前133年の出来事です。
弟ガイウス・グラックスは兄の無念の死から10年後、同じく護民官に就任し兄の政策を実現しようとしました。
この時も暴動が起こり混乱の中で弟グラックスは自殺して、この兄弟の改革は失敗に終わったのです。(紀元前123年)

3)マリウスの軍制改革

 貴族は大土地所有を守り通す事が出来ましたが、ローマ軍の弱体化に関する問題は残ったのです。
この問題を一気に解決したのが、紀元前107年に行われたマリウスの軍制改革でした。
マリウスは将軍として頭角を表し、コンスルになった人物です。
ローマの軍隊の基本は、財産を持ったローマ市民が武器自弁で兵士となって従軍する事でした。
その為にグラックス兄弟は、武器自弁が出来る農民層を済生しようとしたのです。
マリウスはこの基本項目を切り捨て、「無産階級が兵士に成る事を肯定する」と彼は云います。
では、武器、防具の装備はどうするのかと云えば、マリウス本人が提供する訳です。

 マリウスは無産階級市民を兵士として採用し、武器を与え、給料も支払ました。
その費用は基本的には彼の私有財産ですが、兵士個人の問題として、働ける期間はそれ程長期では無く、ある程度年を経ると兵士としては退役して行きます。
この様な退役兵に対してもマリウスは援助を怠らず、ある程度勤務を終えて、兵役を離れた者には土地を分け与え、自作農民として自活出来る様にしました。

 武器自弁の原則を放棄する事で、兵士不足は一気に解決し、マリウスはこの新しい軍隊で勝利を続けました。
これがマリウスの軍制改革なのです。

 しかし、この軍制改革でローマ軍の質が大きく変化しました。
武器自弁の農民軍当時、兵士はローマ市民の義務を自覚して従軍していました。
ところが、マリウスの編成した兵はどうかと云えば、彼らの気持ちの中で、ローマの為に、ローマ市民の義務として、という意識は小さくなり、一方で「自分を雇ってくれているマリウス将軍のために」との気持ちの方が大きく成りました。
又、マリウスもこの様な状況を意識して兵士を錬成したのですが、この現象を軍隊の「私兵化」と成りました。
更に、私兵の軍事力を背景に、マリウスのローマ政界での発言力は重みを増し、何らかの選挙の時には、彼の兵士達がマリウスに投票します。
兵士は皆平民なので、平民会でマリウスをローマ政府の役職につけることが出来るのです。

 これは、自分の政治勢力を伸ばしたい貴族政治家にとっては大変好都合で、後に多くの野心家達がマリウスのやり方を真似ることになります。
そして、私兵を養った将軍同士の内乱が続き、ローマは混乱の時代を迎えます。

 グラックス兄弟の改革から100年間を「内乱の一世紀」と呼び、紀元前91年から紀元前88年には、イタリアの都市がローマ市民権を求めてローマに反乱を起こします。
同盟市戦争の勃発で、ローマはローマ市民権をイタリア諸都市に与える事でこの戦争を終結させました。

ローマ・続く・・・
2013/03/02

歴史のお話その52:ローマ帝國の発展④

<ローマ④>

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ローマの奴隷市・古代ローマ人の24時間より

◎ローマ社会の変質と動揺

1、農民層の没落

 「長期化する従軍→農地の荒廃→農民=重装歩兵の没落」
ローマは地中海世界を取り巻く大領域国家に発展していくのですが、領土拡大することは、戦争が日常的に行われていることに成ります。
ポエニ戦争中もマケドニア、ギリシア方面で同時に軍事行動を継続していました。
「長期化する従軍」はその様な意味で、重装歩兵として出陣する兵士は何年も、戦争に行ってなかなか故郷に帰れない事態も起こってきます。
ローマ市民権を持つ自作農民達が、武器自弁で重装歩兵と成っているのですから、ローマの農業労働者数が、減少する傾向にある訳です。

 従って残されたローマの農家では、残された兵士の妻やその祖父母が農作業を行なっている訳ですが、根本的に主力の働き手が不在な為、残された家族に病気や、現在で云う処の高齢化が進めば、もうまともに農業が続けられないのです。
更には、持っている農地全部を耕作できない、という状況が生まれてきました。
農業を諦めて離農する者達も出で、彼らは土地を売って生活費を捻出するのですが、一方戦争が終わり兵士が帰国してみると、実家では土地を手放していて農業が出来ない、と云う事態が頻発しました。
これが「農民=重装歩兵の没落」です。

 では自作農が手放した土地を買ったのは誰なのでしょう。
これが貴族です。
彼らは大土地所有者となり、農場経営を行い、この大農場をラティフンディアと云います。
ラティフンディアが拡大、発展するのが紀元前2世紀後半、貴族が経営するラティフンディアで働いたのが奴隷です。
ローマは戦争で勝利を重ねていますから、戦争捕虜や被征服民が奴隷として、ローマに連れてこられました。
奴隷人口は急増し、更に新しく補充され続け、家畜より安く手に入る様に成りました。
奴隷を働かせるのが一番お金もかからず、食事を与えず死んでしまっても、いくらでも新しい奴隷は補充されました。

 奴隷は、逃亡防止と識別の為に半分坊主刈りに成っており、額には所有者の名が焼きゴテで捺してありました。
宿舎は家畜小屋の隣、飲み物は海水で薄めた葡萄酒。海水で薄めてあるのは塩分補給のためです。

 この様に奴隷を労働力として使用した結果、没落した農民が小作農になろうと思っても、ラティフンディアでは雇ってもらえません。
この為、没落農民達は家族ごと都市に流れ込んできます。
彼等をルンペン・プロレタリアートと後に呼びますが、遊民と訳しています。
仕事なくて、放浪していると云う意味で、現代風に言えば失業者、ホームレスと似た感じでしょうか。
ローマ市にやってくれば、有力貴族がそれなりに彼らの面倒を見てくれるのです。
彼ら遊民は、有力貴族の庇護民と成り、選挙の時等は貴族の為に一肌脱ぐ、そんな関係があるのです。
又、ローマの属州から運ばれた税金、食糧、もろもろの富で、市民権さえあればそれなりの生活は政府から保障されました。

 しかしながら、ローマの中堅市民である農民が没落することは、重装歩兵の兵力が減るわけです。
簡単に云えば、これはローマ軍の弱体化につながり、領土を拡大してきた強いローマ軍が弱くなってしまい、ローマはこのままでよいのか、と心ある政治家たちは考えたのです。

ローマ・続く・・・

2013/03/01

歴史のお話その51:ローマ帝國の発展③

<ローマ③>

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カルタゴ市の建設

2)地中海世界の統一その②

 ハンニバルはローマを降伏させることが出来ない代わりに、ローマもハンニバルに勝てません。
しかもハンニバルはイタリア半島に留まり続けている訳ですから、ローマも何とか手段を講じたい。
そこで登場するのが、ローマ将軍スキピオです。
スキピオは元老院の反対を押し切って、直接カルタゴを攻撃しました。
カルタゴの指導者達は、軍事的采配を振るう事が出来ないので、直接攻略されれば、ハンニバルを呼び戻すだろうと考えました。
これは一種の博打で、スキピオの出陣によってローマに対する守備兵力は皆無に等しく、若しハンニバルが戻ら無いままに、ローマ軍が攻撃を開始した場合、結果は火を見るより明らかでした。

 実際にカルタゴ本国の指導者達は、スキピオ率いるローマ軍が本国に迫った事を見て、ハンニバルに召還命令を出します。
カルタゴ南方のザマでハンニバルとスキピオの決戦が行われ、不敗のハンニバルは遂に敗れカルタゴは降伏しました(ザマの戦い、紀元前202年)。
カルタゴは本国以外の領土を総てローマに奪われますが、国の存続は認められました。
これが第二次ポエニ戦争です。

 ハンニバルはその後カルタゴの指導者の一人となりますが、失脚しシリア方面に亡命しました。
一方のスキピオも大スキピオとよばれ、ローマの大物政治家となるのですが、此方も晩年に失脚しています。
史実か否かは既に検証する事もできませんが、後に2人がロードス島で再会したと云います。
ハンニバルは既にアレクサンドロス大王と並び称される名将で、スキピオはその彼を破っています。それが自慢のスキピオがハンニバルに問いました。
「古今東西で最高の名将は誰か?」
ハンニバルは答えます。
「それはアレクサンドロス大王である。」
スキピオ
「では二番目は?」
ハンニバル「エピルス王ピュロスである。」
スキピオは自分の名前が出て来ないので次々に質問を発しました。(何処か日本の寿司食いねェに似てますが)
「では、三番目は誰か?」
ハンニバル
「それは、私ハンニバルである。」
スキピオ
「あなたはザマで私に敗れたではないか。」
ハンニバルも負けません。
「そう、もし勝っていれば私はアレクサンドロスを飛び越して一番だ。」

 第三次ポエニ戦争、紀元前149年~紀元前146年。
第二次ポエニ戦争で敗退し領土を奪われた後も、カルタゴは海上貿易で立ち所に復興し、繁栄を取り戻すのですが、ローマの発展にとってはカルタゴを滅亡させる必要が在りました。
第三次ポエニ戦争は、圧倒的な軍事力を持つローマ軍に包囲された、カルタゴの籠城戦です。
ローマ軍の指揮官が小スキピオ、彼は大スキピオの長男の養子です。

 籠城戦ですから、ローマ軍は食糧が無くなって降伏するのをひたすら待ちますが、カルタゴ市の城壁の上を巡回警備しているカルタゴ兵の様子をずっと観察しています。
食糧が尽きて来れば、当然変化が現れる筈ですが、包囲戦が4年目に入っても、兵士に食料不足を感じさせる物が在りません。
ローマ軍が不審に思っていた処、カルタゴから逃れてきた市民を捕まえて城内の様子を尋ねると、女子供が自分の命を絶ってその肉を警備兵に食べさせていると云います。
その状況を聞いて、ローマ軍は総攻撃を実効しました。
もうカルタゴはまともに戦える状態では無く、ローマの圧勝でした。
残った住民は全部奴隷に売り払い、土地には海水をまいて二度と人が住めないように徹底的に破壊しました。
カルタゴ滅亡と同年、紀元前146年には東方のマケドニア、ギリシアもローマによって征服されています。

 新しく領土に加えられたイタリア半島以外の土地をローマは「属州」としました。
属州にはローマから有力貴族が総督として送り込まれて、税金を取立てその富がローマ市に流れ込んで来ます。
税金を払わなくてよいイタリア半島の服属都市とは全然待遇が違いますし、戦争捕虜が奴隷としてどんどんローマ市に送り込まれました。
世界帝国としてのローマ誕生です。

ローマ・続く・・・