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2013/04/30

歴史のお話その102:インダス文明⑥

<ウパニシャッド哲学と新宗教①>

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◎ウパニシャッド哲学

 インドは精神世界、宗教大国で、私達日本人の描くイメージは、聖者と名乗る人物が沢山居る様に思います。
西欧のマスコミ報道に乗った人物が、日本にも紹介されるのでしょうか?
マスコミにも取り上げられる事もなく、信奉者も殆ど居ない現役の聖者や修行者、苦行者は本当沢山居ます。
本や、写真で紹介されていますが、例えば20年間立ったままで座らない苦行者、自分を10平米の密室に閉じこめて10年間人と会わない修行をしている人等、私達凡人には理解できない人達が居ます。

 是等は3000年の伝統で、悟りを求めて修行の世界に飛び込む人をインドは産み続けているのです。
バラモン教は祭式中心主義の宗教で、儀式の方法は秘伝としてバラモン身分の者だけに伝えられていきます。
ところが、その儀式だけでは飽き足らないと思う者達が、同じバラモン身分の中から出現してきます。彼等は密林の奥深くに篭もり、様々な難行苦行を伴いながら、真理の探究、内面追求を行のです。
その様な修行者達の中で徐々に形成された哲学が「ウパニシャッド哲学」です。
ウパニシャッドとは「奥義(おうぎ)書」と訳しており、奥深い真理を語る哲学、と考えて良いでしょう。
このウパニシャッド哲学が後のインド思想に大きな影響を与えることになり、インド思想の出発点はここに在ると言っても過言では在りません。

 ウパニシャッド哲学は如何なることを言っているのでしょう。
まずは人間の生死について、人は死んだらどうなるか。
回答「輪廻転生」。
 
 すべての生きとし生けるものは、生と死を永遠に繰り返し、死んだら、又何処かで何かに生まれ変わって生き続け、又死にまた生まれ変わるのです。
其れは永遠に回転し続ける車輪みたいなものです。

 死んでも生まれ変わることをインド人はどう捉えたかというと、これは苦です。
死ぬことが苦しみなのは理解しやすいのですが、インド人は生まれること、生きていることも苦しみと考えるのです。
飢饉、疫病、戦乱、天災、凡ゆる不幸が人生には付き纏い、生きることは苦痛と表裏一体なおです。
考えて見れば、現代でも生まれついたカーストによっては、もの凄く辛い人生が待っているのです。絶対生まれ変わりたくなんか無いわけです。

 死んだ後何に生まれ変わるかということですが、これは生きている間にどんな行いをしたかで決まります。
生きていると云う事は、なにかの行為をしている訳で、その行為を「業(ごう)」呼び、どんな業を積んだかによって、次の生が決定され、簡単に言えば悪い業を積めば、虫けらに生まれるかもしれず、良い業を積めばましな生き物、人間等に生まれ変われると考えます。

 人間に生まれたとしてもやはり人生は苦である訳で、人々の願いは二度と生まれ変わらずに済むことです。
永遠に廻る輪廻の輪から抜け出すこと、これが最高の願いで、抜け出すことを「解脱(げだつ)」と云います。
「輪廻転生」と「業」、そして「解脱」が一つ目の重要事項です。

インダス文明・続く・・・

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2013/04/29

歴史のお話その101:インダス文明⑤

<インダス文明⑤>

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ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル(Bhimrao Ramji Ambedkar、भीमराव रामजी अंबेडकर、1891年4月14日 - 1956年12月6日)Wikipediaより

◎文明と身分制度の発生その4

 インドの憲法ではカースト制を否定しています。
この憲法を起草した人物が、インド共和国の初代法務大臣アンベードカル(1891年~1956年)ですが、このアンベードカルは不可触民出身なのです。

 アンベードカルは不可触民でも例外的に経済的に豊かな家庭に生まれ、高等教育を受けることができました。
頭脳明晰でアメリカの大学に留学し、博士号を取得します。
インドに戻ってから、不可触民差別を停止させる運動の指導者に成り、最終的に初代法務大臣に就任しました。

 この人物の伝記も凄い。
例えば、学校で先生は彼のノートを見てくれず、質問にも答えてくれません。
教師はバラモン身分のため、汚れることを拒否し、体育の時間が在って、終われば当然喉が渇くから皆水を飲みます。
水道はまだないから、水差しがあってそこからコップについで飲むのですが、アンベードカルは水差しに触らせてもらえません。
親切なクラスメートが居て水を飲ませてくれました。
その飲ませ方とは、クラスメートはアンベードカルを跪かせて、上を向いて口を開けさせ、水差しからその口めがけて水を注ぎます。
今、私達がその様な行為を受ければ、屈辱的ですが、アンベードカルにとってはそのクラスメートが一番親切な人物でした。
やがて差別廃止の運動に取り組むのも理解できると思います。

 不可触民人口は、インド人口の約二割に達しており、不可触民の問題は決してごく少数の限られた人の問題ではありません。

 古代インドの話が、近代、現代迄飛んでしまいましたので、時代を古代に戻します。
この様な身分制の始まりが、紀元前1000年頃、そしてバラモン教と一体となって生まれてきます。最上級身分バラモンは、神に仕えるものとして他の身分の者を、抑圧して行きました。
  
 しかしながら、徐々に都市国家が成長し、都市国家間の交易も活発になってくると王や貴族であるクシャトリア、商人であるバイシャが実力を付けて来て、バラモンに服従することに不満を持つように成ります。
更には、儀式ばかりのバラモン教に飽き足らない人たちによって、新しい哲学思想が生み出されます。さらに、カースト制を批判する新しい宗教も出現してきました。

インダス文明・続く・・・
2013/04/27

歴史のお話その100:インダス文明④

<インダス文明④>

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インドの農村風景(本文とは無関係です)

◎文明と身分制度の発生その3

 インドでは新聞での結婚広告が盛んです。
自分のプロフィール、希望相手の条件等を新聞に載せるのですが、必ず自分のカーストを載せます。それ以外のカーストの人とは結婚しないことが前提なのです。

 もし違うカーストの男女が恋愛して結婚しようとしたらどうなるか?
多分親族やカースト仲間から猛反対を受け、それでも結婚したらどうなるか?
二人はカーストから追放されて、不可触民の身分に成り、二人の間に生まれた子供も不可触民です。

 就職差別はどうなのでしょう。
例えば、貴方(貴女)がインド旅行でコルカタの食堂に入ったとします。
ウェートレスが注文を取りに来ますが、彼女はどの身分でしょう。
バラモン、クシャトリア?それとも他人にサービスする仕事だから下層身分と思うでしょうが、実は食堂等で働いている人は、調理人も含めて概ねバラモン身分だそうです。

 何故でしょう?
若し、シュードラ身分の人を雇ったら、その店にはバイシャ以上の身分の人は来ません。
自分より下の身分の者が作ったり出した水や食べ物を口にする事は、自分の身分が汚れるからです。逆にバラモンが出す食事なら、どの身分の者でも口にすることが出来ます。
従って学校帰りや、仕事帰りに皆で食事に行く、等と云う事態はインドではありえないのです。
誰かを自分の家に食事に招待する行為等は、非常に神経質成らざるを得ません。
相手が同じカーストでなくてはいけないからなのです。
 
 法律で身分制度が否定されていても、日常一般に差別は続いているんです。

 特に強烈な差別に喘いでいるのが不可触民と呼ばれる人達です。
この不可触民に対する差別がどれだけすごいか、山際素男の本で紹介されており、その内容には驚きを隠せません。
この人は、インドに留学していて知り合いも沢山居り、ある時知り合いになったインド人に案内されて、ドライブに連れて行ってもらうのですが、田舎道を走っている途中で前方を白い服を着た集団が歩いていたのです。
山際さんの乗ったクルマがその中の一人を跳ね飛ばしてしまい、山際さんびっくりして、「今人を跳ねましたよ、止まって下さい」、と言うんですが運転手役のインド人友人は、無視して走り続けました。
走り去る車のリアウインド越しに、振り返って見ると倒れた人の周りにみんなが集まっているのが見えたのです。
早く戻って手当をしなければ、と山際さんは運転手に訴えるんですが聞いてもらえず、同乗している他のインド人も素知らぬふりを決め込んでいました。
これはひき逃げだと当然山際さんは思う訳ですが、翌日新聞にひき逃げの交通事故の事件が載っていないか探したものの載ってもいなません。
ひき逃げは事実なので、事故のことが頭から離れず、彼は知り合いのインド人を訪ねてこのことを訴えるのですが、皆口を揃えて「そんなことは早く忘れなさい」と山際さんに忠告するのです。
「あんな連中はどうだっていい」、とまで言われ、やっと撥ねられた人物が不可触民だったと理解できたのでした。
衝撃を受けた山際さんは、それから不可触民の実態を彼等の中に入ってレポートしています。
信じられないような話が良くぞ此処までと思う位登場します。

インダス文明・続く・・・
2013/04/26

歴史のお話その99:インダス文明③

<インダス文明③>

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◎文明と身分制度の発生その2

 身分制度は、最上級身分がバラモン、次に位置するのが武人身分クシャトリア、第3位がヴァイシャと呼ばれる一般庶民、最下層がシュードラでこれは被征服民です。
この身分制度をヴァルナといい、種姓と訳しています。

 更にこの四つのヴァルナの何れにも属さない最下層の身分として不可触民が存在します。
観念としては「最下層」ではなくて、四つのヴァルナの外にある身分、突き詰めれば身分ですらない、どの身分にも加えてもらえない人達。
極端には人間としての扱いを受けない人達です。

 不可触民という呼び方も強烈な言葉で、彼等は汚れているから、触ると汚れが移ると考えられ、彼等の正反対に在り、汚れから最も遠い存在がバラモンと成るのです。

 このヴァルナ(種姓)は現在まで連綿と続いています。
ここで注意が必要ですが、バラモン層の人が現在でも僧侶をしている、クシャトリアが皆軍人、その様な事は無く、農民のバラモンも居れば、商売をしているシュードラも居ます。
種姓の四つの分け方は大きすぎるので、この身分は時代と共にどんどん細分化されて行きました。
細分化は職業や血縁によって行われた様ですが、この細かく分かれた身分をジャーティと云います。いわゆるカースト制は、実はこのジャーティのことです。

 バラモンからシュードラまで4つ、不可触民を含めると5つのヴァルナが存在し、更に多くのジャーティに分かれ、例えば同じシュードラでも、クンビー、マーリー、ソーナール、スタール、ナーヴィー等のジャーティに属する人々が居るのです。
遥かに起源を辿れば、農民、金工、大工、床屋がそのジャーティの職掌、つまりジャーティが受け継いできた仕事の様です。

 ヴァルナもジャーティも一緒にして、現在のこの身分制度をカースト制と呼んでいます。
身分制度は差別と一体、身分差別で、人権を尊重する現代社会において身分差別なんてあってはならず、現在のインド政府も当然その様な観点から、カースト制を根絶しようと努力しています。
インドの現行憲法でも身分差別を禁じているのですが、それでもこのカースト制は全然無くなりません。
差別は過去のことでは無く、インド社会の発展にとっても、大変な重荷になっており、インド関連の本を読めばすぐにこの問題が出てきます。

 例えば最近読んだ本の中で、インドで柔道を教えている日本人の話が出て来ました。
子ども達を集めて指導しているのですが、小さいときはみんな喜んで乱取りをします。
ところが8,9歳位になると決まった相手としか乱取りをしなくなり、「お前とお前が組め」、とその指導者が命令すると渋々組のですが、相手の身体に触れない様に少しだけ胴着の端をつまむようにするとのことでした。
その日本人の先生は、最初理由が分からなかったのですが、時間が答えを導いてくれたのです。
カーストが違うと組みたくない、特に相手が不可触民の場合顕著になり、インドの子供達も8,9歳くらいに成るとカースト制度の文化の中で生き始めて行くのだと。

インダス文明・続く・・・


2013/04/25

歴史のお話その98:インダス文明②

<インダス文明②>

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◎文明と身分制度の発生

 インダス文明の特徴は、鉄を知らず青銅器文明で、潅漑農耕と牧畜が主な生産手段ですが、メソポタミア地方と交易もおこなっていた。
文字はインダス文字と呼ばれる未解読、インダス文明では印章が在ります。
この印章、牛や鹿等の動物の模様の横に僅かながら文字が在り、これがインダス文字。
出土する資料が少ない為、解読が進まず、ちなみにクレタ文明の記事では、古代には牛が神聖な生き物だったと書きましたが、インダスの印章に牛が描かれているのも興味深く、インドではいまだに牛は神聖な生き物ですしね。

 このインダス文明の滅亡は、紀元前1800年頃、原因は諸説があって結局不明です。
滅びつつある時か滅んだ直後か判りませんが、アーリア人がインドに侵入してきました。
彼等は、インド=ヨーロッパ語族で、中央アジアから南下して来たのですが、そのうち西へ向かったグループがイラン高原に入いりペルシア人に成り、東に向かった種族がアーリア人です。
アーリア人はインドの先住民族、例えばドラビタ人などを征服し、若しくは混血を繰り返しながらインドに定住します。
ドラビタ人はオーストラリアの先住民やニューギニア高地人のような肌の色の黒い人達と同じ系統の民族で、インダス文明を築いた人達はドラビタ人とも云われていますが、この辺りははっきりしません。

 アーリア人はまだ国家を建設する段階までには成っておらず、小集団毎にインドの密林を開拓しながら村を作って行きました。

 紀元前1000年頃アーリア人は、ようやくガンジス川流域まで拡がり、小さな国もたくさん成立した様です。
アーリア人も含めてインドには雑多な民族系統が存在して非常に多様なのですが、この時代くらいから彼らをまとめてインド人と呼んでおきます。

 アーリア人がインドに拡がって行く間に、現在迄のインドを決定する文化が生み出されます。
宗教と身分制度です。

 アーリア人は、インドの厳しい自然環境を神々として讃える歌を作っていきました。
この様な自然讃歌の歌集を「ヴェーダ」と称し、最初に成立した歌集が「リグ=ヴェーダ」、その後も「サーマ=ヴェーダ」「ヤジュール=ヴェーダ」等いくつかのヴェーダが作られていきました。
このヴェーダを詠(うた)って神々を讃え、儀式をとりおこなう専門家が自然発生的に生まれ、これがバラモンと呼ばれる僧侶階級です。
そしてこの宗教をバラモン教と云い、バラモン達は神々に仕える為に、非常に複雑な儀式を編みだし、自分達の中だけで祭礼の方法を独占します。
他の人達には真似が出来ず、神々を慰め災いをもたらさない様にお願いできるのは、バラモンだけである事を示した結果、バラモン階級は次第に特権階級になっていきました。

 同時にバラモン以外の身分も成立するのですが、其れは次回に。

インダス文明・続く・・・

2013/04/24

歴史のお話その97:インダス文明①

<インダス文明①>

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モヘンジョダロ

◎特徴

 インドと一口で言いますが、ここで取り扱うのは「インド世界」と考えてください。
今のインドだけではなくて、スリランカ、バングラデシュ、パキスタン、ネパールも含めて「インド世界」です。
 
 インドに最初に生まれた文明がインダス文明でした(紀元前2500年~紀元前1800年)。
インドの西側を流れる大河インダス川の中流から下流に成立し、メソポタミア文明と同じく、多くの都市国家が栄えていたと考えられています。
モヘンジョ=ダロ、ハラッパー等の都市遺跡が有名です。

 インダス文明の特徴として、上記の都市はすべて都市計画が存在し、計算の上で建設されている事が特徴です。
有名な話ですが上下水道が完備され、ダスターシュートが住宅に設けられていました。
古代の都市国家は街の中心に神殿が、建っている事が普通なのですが、インダス文明には神殿が存在しません。
都市の真ん中にあるのは、大きな公衆浴場で、この浴場そのものが神殿の役割を果たしていたと考えられています。
浴場とか風呂と言えば日本人のイメージが出来上がってしまいすので、改めて沐浴場と言うべきでしょうか。
沐浴は、身を清める事です。

 モヘンジョ=ダロやハラッパーの人々は、町の真ん中の沐浴場につかりながら身を清め、神々に祈りを捧げていたのではないか、と想像されます。
この風習は現在のインドにも残こり、ガンジス河畔の聖地ベナレスでは、インドの人達がここでガンジス川につかって沐浴しています。
5000年前のインダス文明の人々と同じような心の在り様であると思います。
そして、この心境は私達にも分かる様な気がするのは、文明のルーツが似たところにあるのでしょう。

 蛇足ながら、沐浴は身体を清潔にする行為では無く、結果として清潔に成るのですが、それが目的では在りません。
事実、ガンジス川は汚いとの事で、様々な動物の死体が浮いており、汚水も流れ込んでおり、清潔かどうかと聞かれれば不潔な川です。
しかし、宗教的には「浄い(きよい)」川なので、その水で清めれば魂か何かが、浄くなるのです。

 浄いという意識があるということは、その反対の意識も当然あるはずです。
それが「穢れ(ケガレ)」です。
インダス文明はこの意識を強く持っており、上下水道が完備していたといいましたが、これは衛生観念が発達していたのではなく「清い」と「汚れ」の意識が強かった為なのでしょう。
インド人は現在迄、この意識をずっと持ち続けており、これは大変重要な問題を生みますが、その話は、後ほど触れたいと思います。

インダス文明・続く・・・

2013/04/23

歴史のお話その96:キリスト教の成立⑩

<キリスト教の発展、分裂後の東西ローマ帝国③>

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アウグスティヌス

2、教義をめぐる対立、教父その2

 異端とされた宗派のその後ですが、ローマ帝国内では当然ながら布教はできません。
アリウス派は北方のゲルマン人に布教活動を行い、ネストリウス派はイランから中央アジアにかけて広がっていきました。
単性論派はエジプトやエチオピアに残ります。

 初期教会の指導者で、教義を整備した人達を教父といいます。
エウセビオス(260年~339年)は「教会史」を著して有名、アウグスティヌス(354年~430年)は「告白」「神の国」の著者で、アウグスティヌスは本来はマニ教を信仰していましたが、キリスト教に改宗しました。
その半生を書いたのが「告白」で、この人物は今日でもキリスト教徒の人たちには信奉者が多いようです。

3、西ローマ帝国の滅亡

 4世紀中頃のこと、フン族と呼ばれる遊牧民族が、東方から黒海北岸辺りに移動してきました。
時代は遡りますが紀元前2世紀中頃、ローマでグラックス兄弟が改革を試みていた頃、ユーラシア大陸の東端、中国では漢帝国が栄えていました。
武帝の時代で、この以前から中国北方の草原地帯では、匈奴と現在呼ばれている遊牧国家が存在し、中国を圧迫していましたが、武帝の時代になってはじめて北方遠征で匈奴に勝利をおさめます。
 
 匈奴は漢に敗走する形で西に移動を開始し、400年かけて移動したのです。
途中に出会った他の遊牧グループを合体乃至吸収しながら、移動を繰り返したと思われます。
この匈奴がフンという名で、ローマの歴史に登場するのです。
匈奴は「きょうど」と読んでいますが「フンヌ」「フンナ」とも読ことができ、匈奴とフン族は同じ種族だろうと云われています。

 ローマ帝国の北方から黒海北岸には、ゲルマン人が住んでいました。
彼らは部族単位で農耕牧畜をして生活していましたが、そこに東方からフン族が移動してきた結果、玉突き状態と成り、ゲルマン人は部族単位で次々に西へ移動を開始しました。
これが375年に始まる「ゲルマン民族の大移動」です。

 フン族に追われて移動するゲルマン人は、現代風に言えば難民です。
彼等は安住の地を求めて、ローマ帝国内に侵入を試み、以前からゲルマン人のなかにはローマ帝国内に移住して生活するグループや、ローマ軍の傭兵となる者なども結構いました。
強引にローマ帝国内に集団移住しようとするグループも存在して、ローマ皇帝は常に辺境で戦っています。
しかし、今度は規模が違い、大量のゲルマン難民が怒涛の如く流れ込んできたら、ローマ社会は大混乱になることは目に見えています。
東ローマ帝国はなんとか国境防衛に成功しゲルマン人が侵入をくい止めることができましたが、西ローマはこれに失敗したのです。
 
 次々になだれ込んでくるゲルマン人で西ローマ帝国は大混乱と成り、最後の西ローマ皇帝は親衛隊長のオドアケルに廃位されて滅亡しました(476年)。
オドアケルはゲルマン人出身です。

 ゲルマン人は部族単位で西ローマ帝国の領内に勝手に建国し、更にお互い戦いあいます。
例えばガリア地方北部に侵入したフランク族は、フランク王国を建国、現在のフランスの原型です。ローマ人達はこの新しい野蛮な支配者となんとか折り合いをつけて生活するしか無く、長引く混乱のなかでローマ時代の高い文明は崩壊し経済も停滞し、やがてローマ人はゲルマン人と混血していきます。
これが現在のイタリア、フランス、スペインあたりの状態でした。

 生き延びた東ローマはユスティニアヌス帝(在位527年~565年)の時代に一時期勢力を盛り返します。
ユスティニアヌス帝は、イタリア半島やアフリカ北岸に建国したゲルマン人国家から領土を奪い返して、東西分裂以前に近い領土を支配しました。
余談ながら、ユスティニアヌスはローマ法大全を編纂させていることでも有名で、彼の時代は古きローマ帝国の最後の輝きといえるでしょう。

 これ以後東ローマ帝国の領土はどんどん縮小し、名称も首都コンスタンティノープルの古名ビザンティウムからとったビザンツ帝国と言うのが一般的です。
この後もローマ帝国の理念はビザンツ帝国で生き続けますが、実質的な中身は違うものに変化していると考えた方が良く、平安時代と鎌倉時代では同じ日本でも政治の仕組みがまるで違う事と同様です。

キリスト教の発展・終わり・・・

2013/04/22

歴史のお話その95:キリスト教の成立⑨

<キリスト教の発展、分裂後の東西ローマ帝国②>

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ニケーア公会議

2、教義をめぐる対立、教父

 信者が増えるにつれて、各地に大きな教会も建設されます。
聖職者も当然多くなり、やがて教義を巡る教会内の対立が起きますが、如何なる宗教でも開祖が死んでから何十年も経過すると、考え方の違いで対立や分裂は在るものです。
只、キリスト教はローマ帝国の公認宗教になりますから、帝国政府としては教会内部が対立するのは好ましくなく、そこで、ローマ政府は公認後何回か聖職者を集めて宗教会議を開いています。

 この会議は、教会内の対立を皇帝が調停することと、もう一つは調停を名目として皇帝が教会内部に干渉し、権力内部に取り込んでしまう、という意味もあったんです。

 この宗教会議を公会議と呼び、有名な公会議が3つ在ります。
325年、ニケーア公会議
431年、エフェソス公会議
451年、カルケドン公会議
ニケーア、エフェソスは、会議の開かれた地名です。

 キリスト教会の内部で繰り返し議論の対象となった問題があります。
この3つの公会議も突き詰めたら一つの問題を繰り返し議論しているのです。
それはイエスの問題でした。
イエスとは如何なる存在なのか?初期の聖職者達も疑問に思い、彼が救世主で在る事に異論は在りません。
その様に信じる人が、キリスト教徒ですが、問題はその先、救世主イエスは人間か、神か?そこで論争が生まれます。
人間であれば死刑後に生き返るはずは無く、イエスを人間とすると、結果的にそれは復活の否定につながります。

 では神だったのか?それも不可解で、キリスト教も一神教で、神はヤハウェのみ、イエスも神としたら神が二人に成ってしまい、結果彼を神とすることも出来ません。
この矛盾をどう切り抜けて、首尾一貫した理論を作り上げるかで初期の聖職者、神学者達は論争したのでした。

 325年のニケーア公会議では、アリウス派の考えが異端とされます。
アリウス派はイエスを人間と主張したのですが、正統と認められたのはアタナシウス派でした。

 431年のエフェソス公会議ではネストリウスが異端とされます。
彼はマリアを「神の母」と呼ぶのに反対し異端に成ったのですが、実際には政治闘争の色彩が濃く、あえて云えばネストリウスもイエスの人間性を強調したのでした。
 
 451年カルケドン公会議では単性論派が異端とされます。
このグループはイエスを人間ではないとし、単純にいえば神だと考えたのです。

 以上の公会議では、イエスを神、人間、どちらかに言いきる主張は異端とされて行きました。
これらの論争を通じて勝ち残って正統とされたのはアタナシウス派で、この派の理論は「三位一体(さんみいったい)説」と云い、神とイエスと聖霊の三つは「同質」とする理論です。
「同質」の意味は「同じ」とは違うことに注意が必要で、「同質」は「質が同じ」なのであって「同じ」とイコールでは在りません。

 「生き返った人間」イエスを人間でも神でもないものに、別の言い方をすれば、人間でもあり神でもあるものに体系化しようとの考えなので、分かりやすい理論を構築すること無理です。
その部分を何とか肉付けして完成された理論が「同質」の「三位一体説」です。
私自信この説は良く判らず、特に突然登場した「聖霊」とはいったい何なのでしょう。

 現在キリスト教は世界中に広がっていますがカトリックもプロテスタントも伝統的な教会は三位一体説にたっています。
教会の説教で「父と子と聖霊の御名において」と唱えられますが、この文句が三位一体です。

キリスト教の発展・続く・・・

2013/04/20

歴史のお話その94:キリスト教の成立⑧

<キリスト教の発展、分裂後の東西ローマ帝国>

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ギリシア語で「イエス・キリスト、神の子、救い主」を書き、「イエス」、「キリスト」、「神」、「子」、「救い主」それぞれの頭文字を並べると、「ΙΧΘΤΕ(イクスース)」と成ります。
これは、ギリシア語で「魚」を意味することから、初期キリスト教徒は、イエスの象徴、又、キリスト教徒の象徴、として、魚を用いる様に成りました。

1、キリスト教の発展
 
 イエスの死後、弟子達の活動によって徐々にキリスト教の信者は、ローマ帝国内に広がっていきました。
当初の信者は女性と奴隷が中心だったと云われています。
しかし、此れはイエスが如何なる人々に布教したかを考えれば、当然かも知れません。
 
 奴隷は当然虐げられた人々、女性も社会的には抑圧された生活をしていたと考えられるでしょう。
キリスト教が広まりは、初期には当然新興宗教です。
何時の時代でも新興宗教というものは、周囲から疑わしい目で見られるもので、初期のキリスト教もローマでは胡散臭いものとして見られたようです。
信者であることを知られると迫害される為、彼等は密かに集まって信仰を確かめあいました。

 集まった場所がカタコンベ。
このカタコンベは地下墓所で、ローマ人達は町の郊外に墓地を作ります。
地下にトンネルを掘り、トンネルの壁に棚が作られ、この棚に遺体を安置しました。
火葬の習慣は無く、当然気味が悪い場所なので、誰も好んで来ませんでした。

 迫害を恐れて信者達はここに集まりました。
集まる時間は夜、皆が寝静まった頃を見計らい、奴隷達や女達が家屋敷を抜け出してカタコンベにやってきて集会を開きました。
密かに集まってもやがて人々に知れわたる様に成り、キリスト教の信者達は、夜な夜な地下墓所に集まって何か良からぬことを行なっているのではないか、とますます差別が激しく成りました。

 そんな偏見や皇帝による弾圧に遭遇しながらも徐々に信者は増えたようです。
以前にも紹介しましたが、ディオクレティアヌス帝の迫害は有名ですが、313年にはコンスタンティヌス帝のキリスト教公認、392年のテオドシウス帝による国教化と4世紀にはキリスト教はローマ帝国を支える精神的な柱にまで成長して行きます。

キリスト教の発展・続く・・・
2013/04/19

歴史のお話その93:キリスト教の成立⑦

<キリスト教の成立⑦>

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5、キリスト教の成立

 イエスが処刑されて数日後、女性信者三人がイエスの亡骸を引き取りに行いきました。
当時の墓は横穴式の洞窟に成っており、イエスの亡骸もそこに葬られた筈ですが、彼女達が入っていくと遺体が消えています。
死体は確かに無くなっており、そこまでは事実としましょう。

 ところがこの話が、どんどん伝わるなかでイエスが生き返った、復活したと考える人々が現れました。
巻き添えに成ることを恐れて、逃げ散っていた弟子達も再び集まり、弾圧を恐れずイエスの教えを人々に説きはじめます。
彼等も復活したイエスに会ったと云う。

 この様にして、イエスは復活した、イエスはやはり救世主だったと考える人々によってキリスト教が成立しました。
因みにキリストとは、ギリシア語で救世主を意味しています。

 救世主の復活を信じる人々はキリスト教徒と成り、信じない人々はユダヤ教に留まり続けます。
復活を如何に考えるかですが、これはもう歴史から外れてしまうので皆さんの判断に委ねます。
ただ、逃げていた弟子達が再び活動をはじめたのには、何か動機が存在し是等を宗教体験、霊的体験、啓示と呼ぶのでしょうか?

 イエスの弟子で有名な二人がペテロとパウロ。
ペテロは裁判の時にイエスを知らないといった男ですが、処刑後は熱心な布教活動をおこない、最後はローマで処刑された。

 パウロはイエス死後の弟子です。
死後の弟子とは不思議に言い方ですが、復活したイエスに会っていることに成っているのでこの様に呼びます。
パウロは裕福なユダヤ人の家に生まれた熱心なユダヤ教徒で、キリスト教徒を見つけだして迫害していた人物です。
ところが旅の最中に復活したイエスに会い、イエスはパウロに「なぜ、私を迫害するのか」と声をかけたと云います。
これ以後パウロはユダヤ教を捨て、それまで迫害していたキリスト教の布教活動に生涯をかけました。

 キリスト教の理論面でパウロの功績は大きく、イエスの教えを基にパウロがキリスト教をつくったと云う研究者も居るほどです。
パウロはユダヤ人ですが、ローマ市民権を持ち、自由に帝国内を旅行することができました。
キリスト教徒として逮捕されたときも、ローマ市民の権利としてローマ市で皇帝による裁判を要求した。
その為、彼はローマ市に移送されてそこでも布教活動を行い、最後はやはり死刑になります。

 弟子達の活動によってキリスト教は、パレスチナ地方のユダヤ人以外にも徐々に広がっていきました。

 キリスト教独自の聖典が新約聖書で、イエスの言動を記した文書や、弟子達の手紙等から成っています。
イエスの死後から様々な文書が作られ、今のような新約聖書の形になったのは5世紀のことです。

旧約聖書もキリスト教の聖書ですが、此方は本来ユダヤ教の聖典、キリスト教はユダヤ教から派生した宗教なので、これも引き継いでいます。
新約とは、新しい契約という意味で、イエスと神の間で交わされた新たな契約を記した本なのです。
それに対して、旧約とはイエス以前の、神と人間との古い契約を意味しています。

 新約聖書は、多くの作者によって書かれた文書の集約なのですから、イエスの人生も文書によって書き方が大分違います。
例えば、十字架に掛けられたイエスの言葉では、以下。
最初に書かれたマルコ福音書では、「おお神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか。」
後に書かれたルカ福音書では、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
全然受けるイメージが違い、どちらもイエス処刑後40年から60年後くらいに書かれたものなおです。
この様に、実際にイエスの最後が如何なる状況なのか、探るのは難しい問題です。

 聖書の中に書かれているイエス像が全く異なり、作者の数だけイエス像があると言っても過言ではないでしょう。

キリスト教の成立・続く・・・

2013/04/18

歴史のお話その92:キリスト教の成立⑥

<キリスト教の成立⑥>

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映画バン・ハー MGM1959年作品 監督ウィリアム・ワイラー 主演チャールトン・ヘストンより

4、磔刑

 さて最後の時期に成るとイエスは、逃げ回りながら布教しています。
しかし、ついに捕らえられて裁判にかけられることに成りました。

 ルネサンス期の大画家レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を思い出してください。
逮捕される前の晩、イエスは弟子達と食事を共にする、その途中で、彼は明日私は捕まるだろうと告げます。
驚いた弟子達が、逃亡を促すのですが、イエスは「この中の一人が私を裏切るだろう」と呟き、その言葉を聞いた直後の弟子達の動揺を描いた絵です。
結局弟子であるユダが、ユダヤ教指導者にイエスの隠れ場所を密告し、その結果イエスは捕まったとされています。

 ユダヤ教の戒律は破ったかもしれませんが、イエスは別に犯罪を犯しているわけでは在りません。しかし、ユダヤ教指導者達にとっては、イエスに好き勝手にさせる訳にはいかず、是非ともこの世から葬り去ることが重要でした。
そこで、ローマ総督に引き渡され、ローマ総督もイエスが犯罪者でないことは直ぐに理解できのですが、ユダヤ教徒同士の争いに介入したくは在りません。
ユダヤ教の指導者達は「この男はローマに対する反逆者だ、ユダヤの王と言っている」と告げるのです。
ローマ総督としては反逆者を放置する訳には行かず、結局イエスは反逆者として死刑判決を受けます。

 ローマの死刑は、十字架に磔(はりつけ)でした。
死刑囚は磔になる前に、ローマ兵から甚振られる慣習が在り、イエスは兵士達から衣類をはぎ取られ裸にされ、殴られたり蹴られたりもしたでしょう。
「お前はユダヤの王だろう、王なら冠をかぶれ」、と荊(いばら)でつくった冠をかぶらされ、それを頭にかぶらされて額からは血がだらだら流れます。
この場面を描いた宗教画や映画は数多く存在しています。

 最後は十字架に手足を釘で打ち付けるのですが、手のひらを打ち付けると、体重で手が裂けて外れてしまうらしく、正確には手首の腱のところで打ち付け、足も足首です。
それだけでは、全体重を支えきれないので、首から肩にかけての腱のところでも釘を打ち付けたという話も存在します。
十字架に掛けた後、兵士が槍で心臓のそばを急所をはずして突く。
血を流しながら数日間、苦痛とのどの渇きに苦しめられながら死んでいくのが十字架の磔です。

 イエスは磔で死んで行きました。

 信者達はどうしていたのでしょう。
実は多くの支持者、信者達はイエスが逮捕された段階で彼を見捨てて逃げました。
「救世主がこんなに簡単に捕まって、しかも死刑になる訳がない。あいつは只の人間だ。」
「救世主なんて騙して!」とイエスに憎しみを向ける者もいた様です。

 弟子も逃げました。
ペテロは、一旦は逃げたのですが裁判の様子が心配に成り、総督官邸の前を彷徨っていました。
すると彼の顔を知っている者が「貴方はイエスの弟子じゃないか」と訪ねます。
ペテロは慌てて否定します。
「いえ、違います。イエス?そんな男私は知りません。」
弟子として一緒に逮捕処刑されてはかなわない、と思ったのでしょう。
結局、イエスに最後まで付き従い処刑まで見届けたのは、ほんの少しばかりの女性信者だけだったと云います。

 イエスは僅か二年程、布教活動を行っただけで、処刑されてしまいましたが、齢30歳を少し超えただけでした。

キリスト教の成立・続く・・・

2013/04/17

歴史のお話その91:キリスト教の成立⑤

<キリスト教の成立⑤>

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イエスの病癒し

3、イエスの教えその3

 病癒しの中に気に成る事項が、ゲラサ人の病人を治す話です。
この人物は頭に変調をきたして墓場で、裸になって叫び続けていました。
周りの人が縛りつけても直ぐに引きちぎって、石で自分の身体を傷つけたりもします。
イエスはゲラサ人の土地にやって来て、彼に憑いている悪霊を退散させるのですが、この時に悪霊に名を尋ねと悪霊が名乗るのです。
その名が「レギオン」(怪獣の名前では無く)、実はレギオンはローマ軍団です。
これは単なる病癒しの話を越えた何かを暗示しており、イエスの物語はローマの支配と無関係では無く、イエスが治した多くの病人の病気とは実のところ何だったのか、と考えてしまいます。

 イエスはユダヤ教の解釈を改め、病癒しによって、短い間に評判が上がり多くの支持者を集め、彼の行く処には人々が群がるように成りました。
イエスこそが待ち望んでいた救世主だと考える人々も多く成ってきました。

 イエスが評判になると、ユダヤ教の指導者たちは面白くないのは当然で、なんとかイエスの信用を落として、あわよくばイエスの落ち度をとらえて逮捕処刑しようと考えます。
ユダヤ教の指導者達の配下の者たちが、イエスの身辺に現れて彼の言動を探り、いろいろな罠を掛るように成りました。

 聖書に姦淫する女の話が出てきます。
ある時その配下の連中が、イエスの前に一人の女を連れてきます。
その女は姦淫している現場を見つかり、夫がいながら他の男性と関係を結んでいました。
これは当然戒律違反で、死刑に相当し姦淫した女は石打の刑と成り皆に石をぶつけられて殺される決まりでした。

 彼等はイエスに向かって言います。
「イエスよ、貴女はこの女をどうするのか。」
勿論これは罠で、イエスが若しこの女を許すべきだと言えば、戒律破りを堂々と認めることに相当します。
姦淫は日本でも戦前ならば、犯罪にあたる行為で、これを認めた場合、イエスは無法者だと触れ回られことに成ります。
若し、「許さない、死刑だ」と言えば、イエスの言動に励まされてきた多くの貧しい者、虐げられた者達を裏切ることに成る訳です。
「イエスは口では私達の味方みたいに言っているけど、いざとなれば戒律を守れと言うのか」と思われることでしょう。
どちらにしてもイエスは信用を落とすことになる、巧妙な罠です。

 この時イエスはこう言ました。
「貴方達の中で今迄、罪を犯したことが無い物が居ればこの女をぶちなさい。」
女の周りには石を持った男達が、撃ち殺してやろうと取り囲んでいましたが、イエスの言葉を聞いて、一人、また一人と石を置いてそこから立ち去って行きました。
実に感動的な場面で、しかも、イエスの機知も伝わって来ます。
客観的に戒律が正しいか否かについて、イエスは言わず「貴方はどうなのか。」と問う。
それを周囲の全員に突きつけたのでした。

 もう一つ罠の話。
やはり配下の者がイエスに質問します。
「イエスよ、我々はローマ帝国に税を納めるべきか否か。」
イエスは貧しい者の味方で、収めなくても良いと言えば貧しい者達は喜ぶでしょうが、それはローマ帝国に対する明らかな反逆行為に相当し死刑にされても仕方が無いのです。
納めよといえば、支持者は失望することに成ります。
イエスは「コインを見せよ」、と言ってコインを手に取り、そして、質問したものに逆に質問する。「これは誰か」と。
ローマのコインには皇帝の肖像が刻まれており、配下の手先は答えます。
「カエサルだ。」
イエスは言います。
「カエサルのものはカエサルに返しなさい。神のものは神に返しなさい。」
税がどうのこうのという前に、貴方は神に対して正しい信仰を持っているのですか?
イエスは逆に配下の手先を遣り込めました。

 この様にイエスは、ユダヤ教指導者達の追及を切り抜けていきます。
しかし、彼がユダヤ教の在り方を批判するだけでなく、救世主としての評判が高くなってくると対立は徹底的に成りました。
ユダヤ教の保守的な指導者達は、是が非でもイエスを捕らえて処刑しようと考え、イエスに対する流言飛語も利用して評判を落とすことさえ行いました。

キリスト教の成立・続く・・・

2013/04/16

歴史のお話その90:キリスト教の成立④

<キリスト教の成立④>

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イエスの伝道

3、イエスの教えその2

 ユダヤ教のヤハウェ神は厳しい怒りの神です。
アダムとイヴが知恵の実を食べた結果は、楽園追放、人間に堕落に怒り、ノア以外の人類は洪水で破滅させ、バベルの塔も破壊して人類を四方に飛ばして言葉を乱したのです。
怒って罰を与える怖い神と恐れられていましたが、この神の解釈をイエスは変えてしまったのです。

 怒りの神から愛の神へ転換。
神が我々を愛してくれている様に、我々も敵味方の分けへだてを止める様に説きます。
「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ」、汝の敵を愛せという事ですね。
この言葉は、すごく衝撃的な響きを持って当時の人々に、受け入れられたと思います。
中東地域の伝統は何かと云えば、ハンムラビ法典以来、「目には目を、歯には歯を」の世界です。従って、右の頬を殴られたら殴り返すのが常識、ところが、イエスは左も殴らせてやれ、言ったのです。

 人間は、それまで疑った事もなかった常識を一気にひっくり返された時、そのものに強く惹かれると感覚が在ります。
イエスは当にその効果を狙ったのでしょう。

 それから、イエスは説法で「時は満ちた、神の国は近づいた」と云います。
この「神の国」は「イスラエル」と発音したらしく、イエスの話を聞いた人々の中には「イスラエル」という言葉から過去に栄えたユダヤ人の国家イスラエル王国を連想する人々も数多く存在しました。
その人達にとって、イエスは宗教家の姿を借りてローマからの独立、ユダヤ人国家の復活を計画しているのだ、と期待します。
宗教的な救いと政治的な救い、周囲の人達はイエスに様々な期待を持つ様になります。

 イエスの活動で避けて通れないのが奇跡です。
言葉による布教と同時にイエスは行く先々で奇跡を起こします。
具体的には病癒しが多く、イエスが何処かの町に現れると人々が、病人を連れて来て一種の喧騒状態に成る事が聖書には書かれています。

 イエスの病癒しには、盲目の人の目を開いたり、血の道で苦しむ女性を治したり、色々と出てきますが、精神的な疾患と考えられるものも可也在るのです。
そこへイエスが現れて、悪霊祓いを行い、権威ある者の様に「あなたは治った、大丈夫だよ」と言われたらそれだけでホントに治ってしまう、その様な事は実際に在ります。

 イエスの奇跡の話は聖書にたくさんでてきます。
なかには荒唐無稽なものも多く在る事も事実。
イエスの説教に数千人が集まり、この聴衆にイエスの弟子が食事を配るのですが、パンが5つと魚が2尾、それが総てにも関わらず、全員に配れたという話。
それから、ラザロという若いイエスの支持者が無くなり、イエスが死後数日後に「ラザロ出てこい」と呼びかけると、ラザロが生き返って墓穴から出て来るお話。
これらはイエスの死後、伝説として創作されたと思われますが、要点はこんな荒唐無稽な話でもその当時の人々が「イエスならありえる話だ」と受けとめたということでしょう。

キリスト教の成立・続く・・・

2013/04/15

歴史のお話その89:キリスト教の成立③

<キリスト教の成立③>

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『マリア』(The Nativity Story)

2、イエスの生涯その2

 話の本筋はどうも以下の様です。
マリアとヨセフは婚約者同士でしたが、婚約中にマリアのお腹がどんどん大きくなりました。
誰かと何かが在ったと思われますが、どんな事情が有ったかは永久に判らないでしょう。
ヨセフとしては身に覚えがなく、不埒な女だ、と婚約破棄をしても誰にも非難されません。
婚約破棄が洋の東西、現在過去未来に渡って普通なのですが、聖書を読むと、やはりヨセフは悩んだらしい。
しかし、結局そんなマリアを受け入れて結婚し、そして、生まれたのがイエスです。

 マリアとヨセフはその後、何人かの子供を授かっています。
イエスには、弟妹何人か居た様子で、更にはイエスの出生の事情を村の皆が知っていたとも伝えられています。
後にイエスが布教活動をはじめて、自分の故郷の近くでも説法をします。
その時、同郷の者達が来ていてイエスを野次るのですが、その野次の言葉が「あれは、マリアの子イエスじゃないか!」と言うのですね。
誰々の子誰々というのが当時人を呼ぶときの一般的な言い方なのですが、普通は父親の名に続けて本人の名を呼びます。
本来、イエスなら「ヨセフの子イエス」と呼ぶべきですが、「マリアの子イエス」と云う事は「お前の母親はマリアだが親父は誰か判らない」「不義の子」と揶揄しているのです。
この様に、彼の出生は秘密でも無く、イエス自身もそのことを知っていたでしょう。

 イエス自身が戒律からはみだした生まれ方をしており、「不義の子」イエスは、だからこそのちに、最も貧しく虐げられ、絶望の中で生きていかざるを得ない人々の側にたって、救いを説く事になったのだと思います。

 聖母マリアの処女懐胎、という言葉にはそんな背景が隠されているのです。

 イエスの若い時代のことはわかりません。
多分ヨセフと一緒に大工をしていたと思われますが、30歳を過ぎた頃から、突如布教活動を開始します。

 此処で重要なのは、イエスはあくまでもユダヤ教徒で、新しい宗教を創ろうと考えていたわけでは無く、律法主義に偏っているユダヤ教を改革しようと考えていたのだと思います。

3、イエスの教え

 先日の記事で、触れた事の繰り返しになりますが、イエスの教えの特徴をもう一度確認します。

 まず、ユダヤ教の戒律を無視します。
最も基本的な戒律の安息日も平気で無視するのですが、次の様な言葉が残っています。
「安息日が人間の為に在るのであって、人間が安息日の為に在るのではない」

 次に、階級、貧富の差を超越した神の愛を説いたと言われます。
身分が卑しくても、貧乏でも、戒律を守れなくても神は愛し救ってくれる。
有名なイエスの言葉で、「金持ちが天国にはいるのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」。
この意味は、金持ちは救われない、では誰が救われるか、それは貧者だと、イエスは伝えていると思います。

キリスト教の成立・続く・・・
2013/04/13

歴史のお話その88:キリスト教の成立②

<キリスト教の成立②>

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映画バン・ハー MGM1959年作品 監督ウィリアム・ワイラー 主演チャールトン・ヘストンより

2、イエスの生涯

 細かい戒律が数多く存在し、これを厳格に守る事は難しいことだったに違いありません。
例えば、この安息日に火を使用しては成らないとすれば、食事の支度はどうなるのでしょう。
安息日でも食事は当然必要ですが、戒律には抜け道も在った、自分で準備をしなければ良いのですだから、金持ちはお金で人を雇って火を使って料理させて、自分は食べるだけで良い。
これなら戒律を守りながら、満腹できます。
逆にそうで無い人どうなるのでしょうか?
貧しければどんな仕事でもして、生きていかなければ成らないので、安息日に金持ちに雇われて、彼等の為に働くのはその様な人々だったに違い在りません。

 2000年前のユダヤ人社会に戻りますが、戒律重視の律法主義が主流でした。
律法主義が厳しく言われれば言われる程、結果として貧者はどんどん救われなく成ります。
極端に言えば、救われるのは金で戒律を守る事のできる人だけに成る訳です。
そして、ローマの支配下で重税をかけられて、貧しい人々がどんどん増えていたのが当時のパレスチナ地方です。
自分は救われない、非常に絶望的な気分で日々を送ったのではないでしょうか。

 この様な状況の中で、イエスが登場して民衆の支持を得ます。
イエスが何を言ったのでしょう?
彼は、最も貧しい人々、戒律を破らなければ生きていけない人々、その為に差別され虐げられた人々の立場に立って説教をするのです。
「戒律等気にする必要は無い。あなた方は救われる」と言い続ける、それがイエスです。
例えば売春婦、売春等は戒律破りの最たるものですが、恵まれない女性が最後に辿り着く生きる手段でした。
そんな事をして生きていく事そのものが辛い事なのに、更には宗教的にも救われないとされているのです。
その様な女性にイエスは「あなたは救われる」と言います。
それから、ハンセン氏病患者、日本でもつい最近まで、科学的な根拠のない偏見が長く続いてきた病気です。
ユダヤ教では、病気そのものが神からの罰として考えられていましたから、酷い差別を受けました。(映画ベン・ハーを思い出して下さい)
イエスはその様な人の処にも入り込み、「大丈夫、救いはあなたのものだ」と言うのです。
これが、どれだけ衝撃的だったか、人々の胸を揺さぶったか、想像してください。

 さて、イエスその人のことですが、母がマリア、聖母マリアと云われていますが、父親はヨセフで、この人は大工さんでした。
父ヨセフ、母マリア、ならば何も問題は無いのですが、後にキリスト教の教義が確立する中で、マリアは処女のままで身ごもってイエスが生まれたということになります。
現実にはその様な事はあり得ないので、一体この話は何を意味しているのかとについては又次回に。

キリスト教の成立・続く・・・


2013/04/12

歴史のお話その87:キリスト教の成立①

<キリスト教の成立①>

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十戒・パラマウント映画1956年作・主演チャールトン・ヘストン 監督 セシル・B・デミルより

1、紀元前後のパレスチナ地方

 4世紀以降ローマ帝国ではキリスト教が認められて、やがて国教になるのですがが、このキリスト教の成立を見ていきたいと思います。

 イエスによってこの宗教が生まれたことは、キリスト教徒以外でも周知の事実で、改めて述べればイエスは実在の人物です。
あまりにも伝説化されてしまい架空の人物と思っている人もおりますが。

 イエスは前4年位に生まれ、紀元後30年位に死んでいます。
ローマ初代皇帝オクタヴィアヌス(アウグストゥス)と同じ時代で、場所はパレスチナ地方、ユダヤ人が住んでいる地方です。
イエスも当然ユダヤ人で、パレスチナ地方はちょうどイエスが幼い時にローマの属州に成っています。現在のイスラエルとほぼ同位置です。

 イエスはローマ帝国の領土で活動し殉教したのですから、ローマ帝国でキリスト教の信者が増加する事は当たり前と云えば当たり前な訳です。

 ローマ人の宗教は多神教で、基本的にギリシアの神々と同様ですが、領土が拡大するにつれていろいろな地方の神々がローマに伝わり、彼等は適当によろずの神様を信じていますから、他民族の宗教に対しても特に弾圧することもなかったのです。

 ユダヤ人の宗教はユダヤ教、一神教で当時の世界では特殊な信仰でしたが、それを弾圧するようなことをローマは行いません。
しかし、ユダヤ人に重税をかけ、当然ユダヤ人たちの生活は苦しくなる中で、救世主=メシアの出現を待ち望む気持ちが強くなって来ます。

 当時のユダヤ教は律法主義だと云われています。
簡単に言えば、宗教には形式や戒律がある訳ですが、その戒律を厳しく守って行く考え方です。
モーセの十戒以来ユダヤ人達にはいろいろな戒律が存在しており、現在でも次の様な事が実際にお粉割れています。
「ある晩、戸をこつこつとたたく音がした。だれかと開けてみると、初老の婦人。同じアパートの住人だといい、「あなたはユダヤ人じゃないでしょう」と聞く。ガスが漏れているみたいなので、栓を閉めてほしいと言うのだ。
 そういえば、この日はシャバット。ユダヤ教の安息の日だった。火をともす作業をしてはいけないとされ、中世のユダヤ人たちは非ユダヤ教徒に頼んで火をつけてもらっていた、という話を思い出した。現代では、電気や機械を作動させることがいけないとされ、戒律を守る人々は金曜日の夜から土曜の夜にかけ、それに類する行為を避ける。
 車の運転はもちろんだめ。…後略…」

 安息日には仕事をしてはいけないという戒律が存在しています。
上述にお話の理由は、このおばあさん、自分の部屋のガスが漏れているので、自分で栓を閉めれば良いのに、戒律破りになるからできないと言う。だから、戒律に関係ない外国人に栓を閉めてくれと頼みに来たのです。
このお話は中世や近世の事では無く、21世紀、現代の事なのです。
2000年前の戒律重視は如何程だったと想像できます。
なぜ、戒律を守らなければならないか、其れは神との約束なので、過ちを犯せば救われないのです。
天国には行けません。(映画 十戒にはこの戒律が詳しく登場しています)

キリスト教の成立・続く・・・

2013/04/11

歴史のお話その86:ローマ帝国以後のヨーロッパ④

<東ヨーロッパ世界の形成④>

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ビザンツ帝国、皇帝旗

◎ビザンツ帝国の経済と文化

 ビザンツ帝国の経済はひとえにコンスタンティノープルの交易上の立地条件の良さに支えられていました。
又、ローマ帝国時代から受け継がれてきた工業も盛んで、特に絹織物、宝石細工、武具など輸出用工芸品の製造業が発展しており、ビザンツ金貨も広い範囲で流通していたと云う事です。

 文化的にはギリシア・ローマ文化を継承し、それをイスラム世界や西ヨーロッパ世界に伝えた点で世界史的な意義が在り、更にギリシア正教を東ヨーロッパに布教した結果、布教に際してスラブ諸語を書き記す為に、正教会の宣教師キュリロスとメトディオスの兄弟が、ギリシャ文字を元に考案されたとされるキリル文字が生まれました。

◎東欧世界

 ビザンツ帝国の北方、現在の東ヨーロッパにあたる地域は当時どの様な状況だったのでしょうか?
ここには中央アジアと直結していますから、アジア系遊牧民族がいます。

 マジャール人、9世紀頃現在のハンガリーの地域に移住した結果、先住のスラブ人と同化し、10世紀頃にはハンガリー王国を形成します。
宗教はカトリック、ハンガリーのハンは、フン族を意味すると云われますが、語源として一般に認められているのは、7世紀のテュルク系の Onogur という語であり、十本の矢(十部族)を意味しています。
これは初期のハンガリー人がマジャール7部族とハザール3部族の連合であった事に由来していますハンガリー人は、今でも髪も瞳も黒く、目の細い人が多く、名前も姓が先にきていて、私達と同じです。

 トルコ系のブルガール族が建てたのがブルガリア王国、宗教はギリシア正教、しかしながら、ブルガール族は大多数のスラブ人に同化されていきます。
ブルガリア王国は7世紀に建国され、一旦滅んだ後12世紀に復活します。

 東欧地域の主人公がスラブ民族、代表的な国列挙します。

 ロシア方面では、9世紀にノヴォゴロド国とキエフ公国が成立、キエフ公国では10世紀にウラディミル1世がギリシア正教を国教化しています。
その後13世紀にはモンゴルのキプチャク=ハン国が建国され、ロシアのスラブ人の国はその支配下に入りました。
15世紀末になってモスクワ大公国がキプチャク=ハン国から独立して現在のロシアの原型となったのです。

 ポーランドも10世紀に国家として成立し、14世紀にはリトアニア=ポーランド王国を形成して東欧に大きな勢力を持つ様に成りました。
宗教はカトリックです。

 東欧でも一番西よりに存在した民族がチェック人。
彼等は9世紀にモラヴィア王国を形成しますが、マジャール人の攻撃で衰退、その後、ローマ=カトリックを受け入れてドイツに臣従します。
ドイツにできた神聖ローマ帝国のなかで12世紀にはベーメン王国を建国し、これが現在のチェコの原型です。

東ヨーロッパ世界の形成・終わり・・・

2013/04/10

歴史のお話その85:ローマ帝国以後のヨーロッパ⑨

<東ヨーロッパ世界の形成③>

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十字軍によるコンスタンティノープル占領

◎ビザンツ帝国の盛衰その3

 軍管区制のもとで、やがて地方の軍司令官が皇帝に対して反乱を起こすようになるのですが、9世紀には軍司令官たちの権力を削り弱体化させ、皇帝権力が強化され、この時期がビザンツ帝国の最盛期と云われています。

 余談ですがこの時期には、皇帝の妃を選ぶ為に帝国全域で、現在で言えば美人を集めたコンテストが開催されます。
身分は一切関係なし、全国から美女がコンスタンティノープルに集められて、もっとも美しい娘に皇帝が黄金のリンゴを手渡すのです。
リンゴをもらった娘が妃となるお話は、この黄金のリンゴはトロヤ戦争の発端になったギリシア神話に基づいています。
ギリシア文明の処で紹介しました。
何とも風雅な事と思われますが、神話的な香りがするこの美人コンテストこそが帝国の中央集権化を維持する重要な儀式だったのです。

 11世紀になると大土地所有者である貴族の勢力が強まり、プロノイア制が始まります。
これは、貴族に地方の徴税権を与えるもので、イスラムのイクター制と似たものです。

 又、この時期にはセルジューク朝が小アジア地方に領土を拡大してビザンツ帝国を圧迫する様に成りました。
危機感を持ったビザンツ皇帝は西方のローマ教会に救援を求め、これに応じてヨーロッパ諸国の王や諸侯がビザンツ帝国経由でシリアに遠征します。
第一回十字軍、この後約200年間にわたって前後7回の十字軍が西ヨーロッパからイスラム世界に遠征することになります。

 領土が縮小しても、首都コンスタンティノープルはアジアとヨーロッパ、黒海と地中海を結ぶ交通の中心地で、商業でおおいに栄えている事に変わりは在りません。
地中海貿易で当時一番勢力持っていたのは、イタリアのヴェネチア商人で、コンスタンティノープルにも駐在員を置いておおいに儲けていました。
ビザンツ帝国とヴェネチア商人は相身互い関係だったのですが、両者の関係が一時期こじれます。
その結果、第四回十字軍はヴェネチア商人の誘導でビザンツ帝国を攻撃してコンスタンティノープルを占領してしまいます。

 コンスタンティノープルを乗っ取った十字軍の兵士たちはここにラテン帝国を建国し、ビザンツ帝国の貴族達は地方に亡命政権を立て、これをニケーア帝国と呼びました。

 その後ニケーア帝国はラテン帝国からコンスタンティノープルを奪還し、ビザンツ帝国は復活するのですが、もう以前のような繁栄は在りません。
バルカン半島の領土も新興のオスマン帝国に次々と奪取され、事実上コンスタンティノープルとその周辺だけにしか領土がない都市国家に変貌して行きます。
但し、貿易の利益と千年以上の年月をかけて造り上げてきた何重もの城壁に守られて、都市国家としてかろうじて生き延びる事が出来ました。

 しかし1453年、終にオスマン帝国によってコンスタンティノープルは陥落し、ローマ帝国から数えれば二千年以上続いたビザンツ帝国は滅亡します。

東ヨーロッパ世界の形成・続く・・・

2013/04/09

歴史のお話その84:ローマ帝国以後のヨーロッパ⑧

<東ヨーロッパ世界の形成②>

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コンスタンティノープル

◎ビザンツ帝国の盛衰その2

 宗教は、皇帝教皇主義、皇帝がキリスト教会のトップの地位にあることを意味しています。
ビザンツ帝国は常にイスラム勢力と境を接して争っている為、宗教面でも対抗心が旺盛でした。
イスラムとの関係で8世紀の皇帝レオン3世が発布した法令が「聖像崇拝禁止令」と呼ばれ、イエスやマリアの像を拝むことを禁止する法令なのですが、それまでは日常的に聖像崇拝がおこなわれていた為、イスラム教の偶像崇拝禁止を厳格に定めていることに触発されて、行われたものですが偶像も聖像も中身は同様なのです。
キリスト教もイスラム教も同じ神を信じていますから、厳格なイスラムに比べキリスト教の堕落を心配しての結果なのでしょう。

 ところが、この聖像崇拝禁止令がローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立を生んだのです。
ローマ帝国時代に各地に五本山と呼ばれる大きな教会が形成されますが、ローマ教会もコンスタンティノープル教会もそのうちの二つです。
どちらが上位と事ではないのですが、以前から二つの教会は高い権威をもって競い合っていました。

 ローマ教会は西ローマ帝国が滅んだ後は、ビザンツ帝国と協力関係にあるのですが、イタリア半島はビザンツ帝国の領土から外れていり為、実際にはビザンツ帝国に領土的な影響力は有りません。
そこで、ローマ教会は存続をかけてゲルマン人に布教活動を行い、教会の存続を図ったのです。
ローマ教会はゲルマン人に布教する時にイエスやマリアの像を使用しました。
当時のゲルマン人はまだまだ文明度は低いので、絵や聖人像を見せる事によって、何とかキリスト教を理解させたのかも知れません。

 この様な理由で、ローマ教会にとって聖像を使用できなくなる事は大問題でした。
そこでローマ教会はビザンツ皇帝の方針に反対をとなえますが、更にローマ教会は皇帝教皇主義にも不満持っていた為、ここで両教会の分裂は決定的に成りました。
やがて、ローマ教会はローマ=カトリック、コンスタンティノープル教会はギリシア正教と呼ばれるように成って行きます。

 聖像崇拝禁止令が出た直後の時期には、ビザンツ帝国では聖像は破壊されましたが、のちに復活します。
現在、ギリシア正教では聖像の事をイコンと云い、信仰上重要な意味づけがなされていて非常に大事にされ、今でも修道院等で盛んに作られています。
イコンの制作者はサインをせず、個性を押さえて描くのが基本だそうです。

東ヨーロッパ世界の形成・続く・・・

2013/04/08

歴史のお話その83:ローマ帝国以後のヨーロッパ⑦

<東ヨーロッパ世界の形成①>

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ユスチニアヌス帝とテオドラ妃

◎ビザンツ帝国の盛衰

 ローマ帝国が東西に分裂した(395年)後、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入で滅び、ゲルマン人の国家が建設されます。
東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス帝(在位527年~565年)はこれらゲルマン民族国家を滅ぼし、旧西ローマ帝国の領土をある程度回復しますが、これが古代ローマ帝国の最後の輝きです。
ユスティニアヌス帝は、トリボ二アヌスに命じてローマ法を集大成した「ローマ法大全」を編纂させたことでも有名です。

 ユスティニアヌス帝の死後、一時拡大した領土はまた縮小していきます。
イタリアはランゴバルト族に奪われ、東方ではササン朝ペルシアとの抗争が続き、北部国境は、黒海の西からブルガール人が侵入しました。
東ローマ帝国はこれらの外敵に対して基本的に守勢一方でした。
ユスティニアヌス帝以後、この国をビザンツ帝国と呼ぶのが一般的で、ビザンツとは首都コンスタンティノープルの古名ビザンティウムからついた呼び名です。

 イスラム勢力にエジプト、シリアを奪われてからのビザンツ帝国の領土は、バルカン半島と小アジアだけになり、実質的にはローマ人の国というよりギリシア人の国ですが、ローマ帝国の理念だけは引き継がれています。
嘗てのローマ市は「パンとサーカスの都」と云われましたが、コンスタンティノープルでも市民への食糧の配給はおこなわれていました。
これはイスラム勢力によって穀倉地帯エジプトが奪われる518年まで続き、ユスティニアヌス帝時代はこの意味でもローマ帝国らしい最後の時代だったのです。

 只、後の時代に成ってもコンスタンティノープルの競馬場で、戦車レースは盛んに行われており、貴族や市民がつめかけておおいに熱狂し、もちろん皇帝も観戦し、古代ローマの栄華を思い出していたのでしょうか?

 ヘラクレイオス1世(在位610年~641年)の時代にイスラム勢力が急速に領土を拡大し、首都での食糧無料配給を停止したのが彼の時代です。
この時期に、イスラムとの戦争のための新しい制度が生まれ、軍管区制と屯田兵制と呼ばれました。
 
軍管区制はテマ制と云い、地方の軍司令官に行政権もゆだねる制度です。
行政の臨戦態勢を取り、地方軍団の兵士は農民ですが、この農民達は租税を免除される代わりに戦時には武器自弁で戦いました。
負けて領土を奪われれば自分達の土地が無くなる訳ですから必死で戦い、侵略戦争には向きませんが、防衛戦争には力を発揮する、これが屯田兵制です。

東ヨーロッパ世界の形成・続く・・・

2013/04/06

歴史のお話その82:ローマ帝国以後のヨーロッパ⑥

<西ヨーロッパ世界の形成⑥>

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パリ伯ユーグ=カペー

◎フランク王国の分裂

 カール大帝の死後、フランク王国はその子孫たちのあいだで分割相続されます。
843年のヴェルダン条約で、フランク王国は西フランク、中部フランク、東フランクに三分割され、その後870年のメルセン条約で中部フランクの一部が西と東のフランク王国に分割されました。
三つのフランク王国について簡単にその後を追ってみます。

 中部フランク王国は現在のイタリアになります。
ここでは、早くにカロリング家が断絶し国家的な統一は消滅し、北部には諸侯や都市が自立化して分裂割拠状態、それに乗じて東フランクが支配権を及ぼすようになります。
中部にはローマ教皇領があり、その南のイタリア半島南部とシチリア島はイスラム勢力により占領されます。

 東フランク王国は現在のドイツに相当します。
ここでも10世紀初頭にカロリング家が途絶えて、有力諸侯が王位に就きますが、この王位は有力諸侯が選挙で選ぶのです。
10世紀には東方から遊牧系のマジャール人が盛んに東フランク領内に侵入し、これを撃退したのがオットー1世(在位936年~973年)で、西ヨーロッパ世界を防衛した功労者としてローマ教皇はオットー1世にローマ皇帝の冠を授けました。
これ以後ドイツは別名神聖ローマ帝国と呼ばれることと成りました。
 
 これ以後の歴代のドイツ王は神聖ローマ皇帝をも名乗る様に成ります。
ローマ皇帝の名前を有しておれば、イタリア半島の支配も目論む様に成り、歴代ドイツ王はイタリア半島に軍隊を派遣して、ここを支配下に置こうとします。
ローマ教皇もイタリアで有利な立場を築く為に、ドイツ王の軍事力を利用したりもしたのです。

 西フランク王国は現在のフランスに成って行きます。
ここでも10世紀後半にカロリング家が断絶しますが、既に9世紀後半からノルマン人がフランスに侵入して略奪を繰り返し、この時にパリ防衛で活躍した諸侯、パリ伯ユーグ=カペーがフランス王に成り、カペー朝の始祖に成りました。
 この王家も選挙で選ばれたもので、実際にカペー家が支配していたのはパリ周辺の地域だけです。ほかの地方は有力諸侯たちの支配下に在ったままでした。

 フランク王国分裂以後はイタリア、ドイツ、フランスの原型が形成されますが、それぞれの国では諸侯の力が強く、イタリアでは王すら不在、フランス、ドイツでは王は在位していても、有力諸侯の中から選挙で選ばれるのであって、カール大帝時代の様に大きな力は持っていません。
ヨーロッパ全体が大小さまざまな諸侯のもとで分裂し、中世、典型的な封建時代の始まりなのです。

西ヨーロッパ世界の形成・終わり

2013/04/05

歴史のお話その81:ローマ帝国以後のヨーロッパ⑤

<西ヨーロッパ世界の形成⑤>

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モンスニー峠を越えるカール大帝

◎カトリック教会と西欧のキリスト教化

 ローマ教会は、コンスタンティノープル教会やその他の教会と同様に、ローマ帝国内で発展してきましたが、西ローマ帝国滅亡によって国家の保護が消滅するも、東ローマ帝国との連絡は存続しており、皇帝の指導下に在りました。
ユスティニアヌス帝が東ゴート族からイタリアを奪還した時には、ローマ教皇はローマ地域の行政長官に任命されていて、ランゴバルド族の侵入で東ローマ帝国が撤退した後も、ローマ周辺の統治権を握っていましたから、或る意味では単なる宗教指導者ではなかったわけです。

 その為、ビザンツ皇帝の皇帝教皇主義には反対し、ローマ教会の独立性を主張する為にも、ランゴバルド王国の北方で勢力を拡大しつつあったフランク王国と協力関係を締結して、政治上の庇護者にしようとしたのです。

 726年、ビザンツ皇帝レオン3世による聖像崇拝禁止令は、ローマ教会とビザンツ帝国の対立を産み、東のコンスタンティノープル教会とローマ教会はその後分裂して発展していきます。
コンスタンティノープル教会がギリシア正教会に、ローマ教会がローマ=カトリック教会として別々の宗派に成って行きました。

◎カール大帝

 ピピン3世の子がカール大帝(在位795年~813年)の時代にフランク王国は大発展して、西ヨーロッパ全域を統一しました。
領土の大きさではビザンツ帝国に匹敵する大王国です。

 このカール大帝にローマ教皇がローマ皇帝の冠を授けたのが800年。
この時のローマ教皇がレオ3世、フランク王をローマ帝国皇帝と名乗らせることによって、西ヨーロッパはビザンツ帝国と対等とローマ教会は主張したかったのです。
この事件を「カールの戴冠」と云います。

 カール大帝がローマ人の血を引いているわけでも、フランク王国の国都がローマにあるわけでもないのですが、文明世界の代表、偉大なローマ帝国の理念が西ヨーロッパに復活したという意味で、大きな事件で、フランク王国自体も大きな権威を持つように成りました。

※カール大帝の政策

 広い領土を支配するために各地に伯という長官を配置し、さらに伯の地方行政を監査するため巡察使を派遣しました。
又積極的にキリスト教会を新たに領土になった地域に建設していきます。

 ローマ教会に属する修道院が各地に存在しますが、ローマ帝国が滅んだ後、修道院は多くの書物や学問文化が伝えられているほとんど唯一の場所でした。
当然修道士は知識人で、カール大帝はいわゆる学者でもある修道士を宮廷に集めて学芸を奨励しました。
これを「カロリング・ルネサンス」と呼びます。

※経済

 この時代のフランク王国の経済は、自給自足の農業経済で、生産性は低く小麦は播いた分の4倍程度しか収穫できません。
穀物だけでは食糧不足の為、豚等の家畜も必ず多数飼っており牧畜中心の農業です。

 古代ローマ時代のような地中海を中心とする遠隔地交易は、当時殆ど消滅しており、フランク王国内でも商業は沈滞しています。
流通も未発達、カール大帝の宮廷は一カ所に留まらずに常に国内を移動しています。
その訳は、各地から食糧等の生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段が存在せず、ある地方の資源を消費し尽くすと、宮廷は次の場所に移動してそこにあるものを食べ、食べ尽くすとまた移動するのです。

 領域の広さや戦争の強さではビザンツ帝国と対等かもしれませんが、フランク王国は経済的には完全に辺境です。

西ヨーロッパ世界の形成・続く・・・

2013/04/04

歴史のお話その80:ローマ帝国以後のヨーロッパ④

<西ヨーロッパ世界の形成④>

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ピピンの寄進

◎フランク王国の発展

 フランク族は、更に小さな支族集団に分かれていました。
移動後、小集団がそれぞれ小さな国を形成するのですが、この小国家を統一してフランク王国を建てたのがメロヴィング家のクローヴィス(在位481年~511年)で、これをメロヴィング朝と呼びます。
これがフランク王国発展の基礎と成るのですが、その秘訣は宗教なのです。

 ゲルマン人はキリスト教を信じているのですが、宗派はアリウス派です。
これは、325年のニケーア公会議で異端とされた宗派で、ローマ帝国内で布教できない為、ゲルマン人に信者を広げていたのです。
ローマ人は、同じキリスト教でもアタナシウス派、つまりローマ教会の信者です。

 クローヴィスも他のゲルマン人と同じでアリウス派だったのですが、アタナシウス派に改宗します。
ローマ人にとってローマ帝国が無くなった後、頼りになったのはローマの行政区ごとに作られた教会でした。
元老院議員を輩出する様な有力な家柄の者が、教会の聖職者としてローマ人の指導者的立場に在ったのです。
フランクの王がその同じ教会の信者になることは、ローマ人にとっては喜ばしいことでした。
この王様と一体観が生まれ、ガリア地方、今のフランスに相当する地域ですが、のローマ人達はクローヴィスを支持しました。
又、教会はローマ帝国時代から引き継いでいる、行政上のいろいろな算段、学問、技術をもっているので、フランク王国はこれらのものを手に入れることも出来ました。
この様な理由で、フランク王国は他のゲルマン国家と違い安定して発展することができたのです。

 フランク族は分割相続の習慣が在り、王国はクローヴィスの息子たちにわけられて、それぞれで内紛や貴族の権力闘争で王たちは次第に力を失っていきました。
代わりに、フランク族のまとめ役になった人物が宮宰(きゅうさい)、総理大臣に相当する行政の最高職です。

 この宮宰職について強大な権力を握ったのがカロリング家のカール=マルテル。
彼は、全分国の宮宰となってフランク王国の実権を掌握し、彼を有名にした歴史的事件が、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いです。
ピレネー山脈を越えて進撃してきたイスラム軍を撃退したのですが、実際に戦いの様子が如何なる状況なのか、現在情報不足でよく判っていません。
とにかくこの戦い以後、イスラム軍の進撃が止まり、結果として、カール=マルテルは名声を確立したのです。

 その息子がピピン3世、宮宰職を継承しますが、彼は父親が残した実績と名声を引き継ぎ、メロヴィング家の王を追い、751年に王位につきました。
これ位後がカロリング朝の始まりです。

 ピピン3世が即位するに際して、ローマ教皇が彼の王位を認めました。
宗教的権威をもって認めるので、教会の信者にとっては正統性を持つことに成ります。
ピピン3世は、代わりにランゴバルド王国の領土を奪って教皇に寄進し、これを「ピピンの寄進」と呼び、教皇領のはじまりです。
これ以後ローマ教会は信者から領地を寄進されて大きな教皇領を持つようになると同時に、フランク王国とローマ教会は一層緊密な関係になります。

西ヨーロッパ世界の形成・続く・・・


2013/04/03

歴史のお話その79:ローマ帝国以後のヨーロッパ③

<西ヨーロッパ世界の形成③>

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ローマ略奪

◎ゲルマン民族の大移動その3

 オドアケルが治めたイタリアに侵入したのが東ゴート族。
彼等はここに東ゴート王国を建国(493年)、ローマ人貴族の協力を得ながらイタリア半島を支配し、東ローマ帝国もこれを認めますが、最終的にユスティニアヌス帝に滅ばされます。
 そのあとイタリア半島に侵入した民族がランゴバルド族で、東ローマの勢力を退けてランゴバルド王国を建国(568年)し、この国は774年迄存続しますが、この間にランゴバルド人はローマ人と混血して同化しており、ローマ人も自分たちをランゴバルド人と意識するようになっていたと云います。
 
 東ローマ帝国もビザンツ帝国に変質し、旧西ローマ領に対して影響力を無くしていきますから、当然の成り行でしょう。

 此れまでの部族は、西ローマ帝国の中心地に侵入した部族ですが、周辺地域を移動したグループも当然在ります。
その代表がフランク族で、今のドイツ北部からフランス北部に移動し、フランク王国を建国しました。
移動距離が比較的短かった為、部族としての纏まりがあまり崩れず、その反面東・西ゴート族やヴァンダル族は移動する途中でかなり雑多な人種を吸収して部族そのものが変質しているのです。

 ユトラント半島から海を越えてブリタニア、今のイギリスに渡ったのがアングル族とサクソン族。今でもイギリス人やアメリカ人のことをアングロサクソンと呼ぶのはここから来ています。

 4世紀、西ゴート族の移動からはじまったゲルマン人の大移動は7世紀頃までの約300年間続きました。
その後もゲルマン部族国家同士の争いは続くのですから、長い期間政治的に西ヨーロッパは不安定でした。

 是等部族が移住した地域は、旧西ローマ帝国の領域の中です。
そこにはローマ人が住んでおり、ゲルマン人の人口は全人口の5%程度、ローマ人有力者の協力をいかに得ることができるかが、ゲルマン部族国家が発展できるかどうかの鍵なのです。
従って、西ゴート王も東ゴート王も東ローマ皇帝から官職をもらって、支配者としてのお墨付きをもらおうと考えたのです。

 ヴァンダル王国は534年、東ローマのユスティニアヌス帝によって滅ぼされます。
西ゴート王国は711年、イスラムのウマイヤ朝によって滅亡、ブルグント王国は534年、ランゴバルト王国は774年にフランク王国によって滅ぼされました。

 多くのゲルマン国家が滅んで行く中で、フランク王国は他のゲルマン人国家を征服してやがて西ヨーロッパを統一します。
その理由は、次回に回します。

西ヨーロッパ世界の形成・続く・・・

2013/04/02

歴史のお話その78:ローマ帝国以後のヨーロッパ②

<西ヨーロッパ世界の形成②>

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オドアケルよりの使者

◎ゲルマン民族の大移動その2

 西ゴート族はローマを略奪した時に、西ローマ皇帝の妹を人質としました。
ガラ・プラキディアと云う名前のこの女性は、西ゴート族がこの後現在のフランス南部からイベリア半島にかけて移動するに際して、彼女はそのまま連れられて行き、414年には西ゴート族の王様の妃に成りました。
妃にされた、と言った方が良いかも知れません。
彼女は夫である西ゴート王にローマ帝国を守る事を説き、その影響もあって、西ゴート王はローマ帝国をゴート人の武力で再興する、と考えていたそうです。

 西ゴート族も、自ら進んで戦争しながら移動している訳では無く、安住の地が欲しいのです。
その為女子供、老人も引きつれての民族移動でした。
結局西ローマ領内で安定した生活を実現する為には、ローマ人の協力がなければ不可能なのです。
人口は圧倒的にローマ人が多く、西ゴート人は極めて少数です。
ただ、「蛮族」で武力が強いだけの民族なので・・・。

 ガラ・プラキディアの夫はすぐに死んでしまうのですが、このあと西ローマ皇帝は西ゴート族と同盟を結び、彼等が西ローマ領内に西ゴート王国を建国する事を認めました。
もはや彼等を潰す力は存在せず、認める事で逆に西ゴートの軍事力を利用して、新たな部族の領土内への侵入をくい止めようとしたのです。
ガラ・プラキディアはこのあと西ローマ側に生還をはたし、再婚して子供を生みます。
この子が後に西ローマ皇帝になるのですが。

 西ゴート族の後、次々に移動してくるゲルマン諸部族はローマ領内に王国を建て、西ローマ帝国はこれを追認するしかなく、皇帝の直轄地は小さくなる一方でした。

 ゲルマン民族の内、一番長い距離を移動したのがヴァンダル族、ジブラルタル海峡を渡り北アフリカ、嘗てカルタゴが栄えた場所に、ヴァンダル王国を建国しますが、ここは、西ローマ帝国の穀倉地帯だったのです。

 476年、西ローマの傭兵隊長オドアケルが、西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させ西ローマ帝国は滅亡しました。
ただ、この時点で実質的には西ローマ帝国は名前だけの存在でしかなく、既に多くのゲルマン部族国家があったので、当時として大きな出来事では在りませんでした。

 オドアケルは自分では帝位につかず、西ローマ皇帝の冠を東ローマ皇帝に返却するのです。
その代わりに東ローマ皇帝からローマ帝国の官位をもらってイタリアを支配します。
ローマ帝国から権威を与えられたかったのですが、西ローマ領内に存在したゲルマン部族国家も東ローマ皇帝から官職を与えてもらいます。
彼等は、自分の王国でゲルマン人に対しては王として、ローマ人住民に対してはローマの官職を使って支配をおこなう、二重統治体制を行いました。

西ヨーロッパ世界の形成・続く・・・


2013/04/01

歴史のお話その77:ローマ帝国以後のヨーロッパ①

<西ヨーロッパ世界の形成①>

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◎ゲルマン民族の大移動

 ローマ帝国が絶頂期を迎えている頃、黒海からバルト海にかけて広く分布していた民族がゲルマン民族です。
カエサルの『ガリア戦記』や1世紀のタキトゥスの『ゲルマニア』に、当時のゲルマン人の暮らしぶりが描かれており、タキトゥスはローマ人が失ってしまった素朴さ、質実な暮らしぶりをゲルマン人にみているようです。
ゲルマン人もローマ人も広い意味で、同じインド=ヨーロッパ語族に属していますから、文化の根底部分で似たところがあるのでしょう。

 ゲルマン人は多くの部族に分かれて、狩猟・牧畜、ローマ人との接触の多い地域では初歩的な農業もおこなっていました。
やがて、人口増加に伴って、集団毎にローマ領内に移住してくる者もあらわれてきました。
中には、コロヌスになったり、ローマ軍の傭兵になるものもでて来ます。
又、有力部族長の子弟が、なかば人質としてローマ帝国で青年時代を暮らし、ローマ風の文化を身につけて成人してから部族に帰る、という事も行われていたので、一部ではかなりローマ化していた部族もあったのです。

 ゲルマン人は多くの部族に別れていますが、この時期に活躍する部族としては、東ゴート、西ゴート、ヴァンダル、ブルクンド、ランゴバルド、フランクが中心です。

 375年、東方から移動してきた遊牧騎馬民族フン族が、黒海北岸にいた東ゴート族を征服します。その西に位置する民族が西ゴート族で、フン族を怖れて民族移動を開始します。
ゲルマン民族大移動の始まりです。

 西ゴート族はフン族から逃れて西に移動しますが、そこにはローマ帝国が在り、ドナウ川が国境で、ローマ軍が国境を守っています。
越境出来ない、西ゴートの人々は「手を振り、泣きながら、船橋を架けて渡して欲しいと哀願を繰り返した」と伝えられていますから、必死で逃げてきている、まさに難民です。

 西ゴート族はさらに西に移動し5世紀初頭には西ローマ領内に侵入します。
当時西ローマ帝国を実質的に支えていたのがスティリコ将軍、実はこの人物はゲルマン人です。
ローマ帝国を支える将軍も大臣もゲルマン人出身のものが非常に多くなっているのですが、ローマ帝国がゲルマン人なしでは成り立たなくなっているのです。

 スティリコ将軍は西ローマ帝国の為に必死に戦っているのですが、ゲルマン人に偏見を持つ人たちの讒言で、皇帝に殺されてしまいます。
この出来事が408年、その2年後、410年には、西ゴート族がローマを占領し、永遠の都ローマが蛮族に蹂躙されました。
この事件はローマ世界に非常なショックを与え、教父アウグスティヌスは、ローマも所詮は地上の国、神の国が大切をさとし『神の国』を著します。

西ヨーロッパ世界の形成・続く・・・