2013/05/30

歴史のお話その127:古代王朝⑬

<諸子百家その⑤>

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胡蝶の夢

◎法家

 法家(ほうか)、先に紹介した商鞅、彼は法家に従っていました。
儒家が「礼」を秩序の柱にするのに対して、法家は「法」を柱にします。
法を細かく定めて人民に守らせる、守らなかったら厳しく罰する事が、法家の基本的手法です。
大変解りやすく、効果もすぐに現れ、実際に秦は法家を採用して国力を急伸させましたが、これは思想というよりも統治技術に近いものです。

 法家の理論家としては韓非(紀元前3世紀)、彼の書物が「韓非子」。
韓非は大変な頭脳明晰な人物でが、言語関係に問題が在り、人前で上手に喋ることが出来ませんでした。
最後は秦の国に行って仕官を考えるのですが、若い頃の勉強仲間の李斯男が既に秦に仕えていて、李斯は韓非の才能を恐れて彼を殺してしまったのです。

 この李斯も法家で、仕えたのが後の始皇帝です。
秦が中国統一した時の最大の功労者が李斯と考えても良いでしょう。

 実はこの李斯も韓非も若い頃は、儒家の荀子の弟子だったという言い伝えが在ります。
荀子は、「人間は本来悪だから教育しなければならない」、との立場ですが、この弟子ふたりは前半部分だけを学んだようです。
人間は本来悪なので、罰を与えて恐怖によって統制する事を考えたのです。
しかし、この方法が富国強兵に成功したのですから、人間は意外と悪なのでしょうか?

◎道家

 道家(どうか)、老子、荘子が道家の思想家で、共に紀元前4世紀の人と云われていますが、老子は実在そのものが怪しいのです。

 道家思想は「無為自然(むいしぜん)」、「為(な)すこと無ければ、自(おの)ずから然(しか)り」と読めます。
無理をしなければ、なるようになる、と云う意味です。

 道家の理想とする社会は、自給自足の農村共同体で、権力や道徳的強制が入り込んでこないような共同体を一応目指した様です。

 道家は儒家と墨家とを両方批判します。
儒家の「礼」も墨家の「兼愛」も自然ではなく、其れは人間の頭の中で作り上げたものだ、と云う批判です。
共に人間の感情を型にはめ様としているから、自然の為すがままにさせ、無理をしてはいけない、在るがままで良いのだ、と云っているのです。
「道徳などというものを強制しさえしなければ、心を偽る必要がなくなり、人民は自然の情愛に立ち返る」(老子)。

 当時も道家の説は役に立たないと批判されていました。
老子や荘子を読んでいるとそういう文章が結構でてきます。

 例えば、或る処に大きな木が在って、大きすぎて道がそこで曲がっています。
邪魔なので伐ってしまいたいのですが、固すぎて切れませんし、また、節くれ立っているので伐採しても材木として使うこともできません。
荘子さん、貴方の学問も同様ではないですか?

 そう云われて荘子は返答します。
そんな木が有ったら、夏の日照りの暑い盛りに、その大木の下の木陰で昼寝でもしたら気持ちがいいじゃないか、と。

 瓢箪でも同様な事が書いて在ります。
或る処で大きな瓢箪ができました。
あまりにも大きすぎるので酒を入れて持ち運ぶこともできず、無駄な瓢箪だすが、その瓢箪を真っ二つに割って、湖に浮かべてその上で昼寝したら気持ちが良いだろう。

 無用の長物にこそ、きりきり働きあくせく生きている人間を安らかにしてくれる大事なものがある、その様な事を教えている様です。

 荘子には有名な「胡蝶の夢」の話が在ります。
荘子が寝ていて夢を見る。
夢の中で荘子は蝶になってヒラヒラと飛んでいるのですが、ふわふわ風に舞って実に気持ちが良い。
そこで、荘子は目が覚めました。
「ああ、夢か」、と思ったのですが、思い返せば蝶の自分は本当に夢だったのか、それとも今目が覚めた人間の自分が夢なのか、どうも分からなくなる、と云う話です。

 道家は儒家と共に戦国時代が終った後も、長く中国社会に影響を与えていきました。
道教という宗教がここから生まれ、その影響は儒教や仏教ほど明確な形では在りませんが、日本社会の中にも生きていると思います。

諸子百家・続く・・・


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2013/05/29

歴史のお話その126:古代王朝⑫

<諸子百家その④>



◎墨家

 墨家(ぼくか)は戦国時代が終わると消滅した学派なので、あまり馴染みがありませんが、戦国当時は儒家と同じくらい支持を受けていました。

 墨家の元祖が墨子(ぼくし・紀元前5世紀~紀元前4世紀)、説は二つ「兼愛説」と「非攻説」です。

 兼愛は「差別無き人類愛」とでも言う意味で、墨子は儒家を批判する中で自己の学説を立てます。
儒家の「礼」を差別だと批判して「兼愛」をとなえるのです。

 なぜ、儒家の「礼」が差別なのでしょう。
例えば、忌引き。
現在なら何処の企業でも学校でも忌引きの規定が在り、親族に不幸があった場合、何日か休んでも欠席扱いに成りません。

 この制度は儒学の教えからでているのです。
親が亡くなり、親に対する「孝」は人間の真心「仁」の中でも最も基本的な感情なので、悲しいことなのです。
悲しみから、とても平常心では居られず、仕事や勉強等手につくはずが在りません。
その為、仕事や学校を休むことが許されるのが、忌引きの理論的根拠です。
又、喪に服す行為が死んだ親に対する「礼」でもある訳です。

 親が亡くなった場合の忌引きが五日ですが、この五日間は何も手につかない、という社会的な共通理解があるからです。
 
さて、そこから先が問題なのです。
祖父母が亡くなった場合は忌引きの日数が三日、それ以外の親族は一日と成り、その他に忌引きは在りません。(会社の就業規則では、その様に明記されていませんか?)

 これを墨家は差別と指摘するのです。
儒家は人間関係を親から始まって、同心円上に序列化し、親を中心に遠くなるにしたがって「仁」「礼」が薄く、軽くなっていくことこそが秩序と考えます。
しかしながら、血縁関係が無くても大事な人が居なくなったら悲しいことに違いは在りません。
恋人と引き裂かれると考えるだけで辛いことですが、儒家は恋人が居なくなっても悲しくない、悲しんではなら無い、恋人は大事ではないと、考えるのです。

 この発想は人間の常識的な発想として不自然で、ここの無理を墨家は責める訳です。
そこで「兼愛」、誰であろうと差別せず同じように愛さなければならない、と説いているのです。

 総ての人を平等に愛するならば、親が死んで悲しいように他人が死んでも悲しくなくてはならず、戦争で家族が死んで欲しくないように、他人が戦争で死ぬのも黙って見ていられない筈です。
そこで、墨家は「非攻」をとなえました。
「非攻」とは絶対平和主義のことで、どんな戦争にも墨家は反対する。

 彼等は「戦争反対!」と言うだけでは無く、戦争を止める為に全土を駆け回ります。
墨家集団が存在し、これは墨子の弟子達が構成員ですが、技術者集団で様々な戦争技術を持っています。
例えば、小国が大国に攻められ、侵略戦争が起きると、攻められている国に駆けつけて防衛戦争を手伝うのですが、大国側、侵略側には絶対に立ちません。

 ある時、宋という小国が楚に攻められそうに成り、さっそく墨家集団は宋防衛の準備をします。
墨子自身はたった一人で楚の国の都に出向いて楚王に面会を申し込みました。
 
 楚王に会うと墨子は云う。
「既に墨家集団が宋国に入り防衛の準備は整っている。楚では城攻めの新兵器を開発したと聞くが、われわれも準備は万端だ。決して宋を攻め落とすことはできません。無駄な出兵はおやめなさい」、と。
 
 楚王も勝算が十分在るので出兵を止める訳が無く、墨家は、実際に楚が勝つか宋が勝つか王の目の前で図上演習を申し出ます。
楚の将軍が連れてこられて墨家と対戦することに成り、兵士の配置、陣営、攻撃手段を説明すると、その対抗策を次々に打ち出し、結局、墨子が勝ってしまったのです。

 そこで、墨子は言ったそうだ。「王よ、だから宋を攻めるのは無駄です。おやめなさい。おっと、今私をここで殺しても同じ事ですよ。私の弟子たちはみんなこの作戦を知っている。私を殺しても王は勝てないし、逆にたった一人でやって来た墨子を恐れて殺したと、全国の笑いものになるでしょう。」
 結局、楚王は墨子をそのまま帰し、宋への出兵も取り止めた、ということです。
同じ様な話が幾つかあるので、この話もどこまで実話かわかりませんが、墨家の雰囲気をよく伝えていると思います。

 墨子、これは墨先生を意味するのですが、墨はどうも本名では無いらしく、一種の仇名とも云われています。
その由来がいくつか伝えられているのですが、一つに墨子は奴隷出身だったとの説が在り、奴隷は逃亡を防ぐ為に顔に入れ墨をされていました。
墨子も顔に入れ墨が在り、その為「入れ墨先生」の意味で墨子と呼ばれる様に成ったと云います。
墨子が奴隷出身と考えると、差別区別することなく、人を愛すべしの思想が良く理解できると思います。

 私自身大変興味深いことが、墨子の率いる集団が戦争技術の達人、傭兵として数多くの防護用武器乃至機器を発明していることから、奴隷とは言え、戦闘集団の育成、戦術の構築、兵器開発等を手がけた技術者ではなかったのかと考えています。
 
 墨家は大変持て囃されましたが、戦国時代の終わりと共に消滅して行きました。
戦争の規模そのものが大きく成り、墨家の率いる少数精鋭集団の存在だけでは、もはや戦争を回避する術を失ったと考えられます。
此れは、現在の高度に発達した武器システムを活用する、戦争に云えることですね。

諸子百家・続く・・・

2013/05/28

歴史のお話その125:古代王朝⑪

<諸子百家その③>

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◎孟子、荀子

 孔子以後の儒家の学者で、重要な人が孟子(紀元前4世紀~紀元前3世紀)です。
孟子は「性善説」を唱えました。
人間には生まれながらにして思いやりの心「仁」がある、と説き、例として孟子はこの様な事を言っています。
「強盗、殺人等、悪の限りを尽くした極悪人が居ます。彼は何処かの庭先に居ると、其処にはようやく一人歩きができるようになったばかりの幼児が居て、その子供が井戸に近づいていきます。幼児なので井戸が深くて危険なこと等解りませんから、そのまま進んで井戸に落ちそうに成りました。その様な状態に成れば、どんな極悪人でもその瞬間には「危ない!」と思わず手を伸ばして幼児を救おうとする。」
この様な話を出して、「人は本来「仁」の心がある、生まれながらに善だ」、と説きました。

 人は生まれながらに善、ならば犯罪や戦争は起きるはずがないのですが、何故世の中は乱れ、戦乱が続き民衆は苦しまなければならないのでしょう。
孟子は下の者は上の者を見習うと考えます。
「王の地位にあるものは「礼」を身につけて人民の手本とならなければならない。王様がそれをできていないと下剋上が起きたりして国が乱れる」と言います。
 
 「若し王が、その地位に相応しく無い人間で「礼」を身につけて立派な行いをすることが出来ない結果として、人民の「善」を押しつぶして、彼らを不幸にする場合は、その様な王様は取り替えても良いのだ」、とまで言っています。
これを「革命説」と云い、革命とは「天命が革(あらた)まる」と云う意味です。
では天命は何によって知ることができるのでしょう。
孟子の場合、天命は人民から訪れると云います。

 孟子は諸国を巡って王達にこの様な話を説きました。
「王よ、礼を身につけよ!天命に耳を傾けよ!」と。
王様にとっては耳に痛い話なので、孟子は煙たがられたかというと、実はそうでは在りません。
彼の話には人気が在り、招かれては講話の為に諸国を巡ったのです。
諸侯の様に豪勢な馬車に乗り、何十人もお供の者達を従えての諸国訪問です。

 孟子は当時は有名で、その後も儒家の偉い先生として尊敬されていきます。
現代に至る迄の長い歴史の中で、孟子の崇拝者は数多く居ますが、只「革命説」のような過激な部分が存在しますで、熱心な孟子の崇拝者は危険人物扱いされる傾向が有る様です。

 日本でも例えば、吉田松陰、幕末の長州藩士で、熱心な孟子の信奉者です。
ペリーが来朝した時に、アメリカをこの眼で見聞したい気持ちを抑えられず、弟子と一緒に漁船を漕いで黒船まで行きました。
側面よじ登って黒船に乗り込み、アメリカへの訪問を懇願するのですが、ペリーも幕府と外交交渉中為、幕府の顔を立てて松陰と弟子を幕府に引き渡しました。

 国禁を破った犯罪者になった松陰達は、長州藩に送られ収監されてしまい、弟子の方はすぐ死んでしまうのですが、松陰は萩の野山獄に入れられました。
牢屋の中には色々な犯罪者が入牢しており、其処で松陰は孟子の講義を始めるのです。
「あなた方は罪を犯した極悪人であるけれど、生まれた時からそうだったわけでは無い。生まれたときは貴男方も善人だったのです!」と説きます。
吉田松陰は未だ二十歳代の若者ですが、この様な話を囚人相手に行い、囚人達は、皆松陰の弟子になってしまい、年かさの悪人が「先生、先生」と松陰を慕って行きます。

 そのあと、松陰は保釈になって実家で謹慎処分に成り、松陰は実家で近所の若侍を集めて塾を開きました。
これが松下村塾、ここで松陰は革命説を説き、松陰の門弟から桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文等明治維新の元老達が育って行ったのです。
これは、松陰が孟子の学徒だったことと無関係では在りません。

 松陰の最後は、やがて幕府は井伊直弼が大老と成り、安政の大獄が始まります。
松陰も江戸迄召しだされて取り調べを受け、謝罪を行い反省の態度を見せれば死刑にはならず、密航を企てただけの罪で済ました。

 しかし、ここで松陰は正面から幕府の批判を行い、幕府の役人がその話を聞いて腹を立てないはずは無く、松陰は幕府の役人の言葉に操られ。終には質問もされないのに老中暗殺計画まで喋ってしまいます。
結果的に幕府に対する反逆者として処刑されてしまいましたが、私見ですが思想が先走ってしまい現実的な身の処し方には少々甘い処が在ったのではないでしょうか。

 話が吉田松陰に行ってしまいましたが、儒家をもう一人、荀子(紀元前3世紀)、戦国時代末期の人物です。

 荀子は孟子とは反対で「性悪説」で有名。
「人は生まれながらにして悪、仁や孝を身につけて生まれてきた訳ではない。だから君主、王たる者の役目は人民に教育して「仁」「礼」を身につけさせることだ」と説きました。
 
同じ儒家だから「孝」「仁」「礼」を秩序の柱にして社会を立て直そうというところは同じですが、その具体的なやり方は百八十度違うところが興味を引きます。


諸子百家・続く・・・
2013/05/27

歴史のお話その124:古代王朝⑩

<諸子百家その②>

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老子と孔子

◎孔子・第二回

 孔子自身は小国魯の出身で、その大臣の要職に就いたことも在りましたが失脚し、その後は諸国を遍歴します。
はじめの頃は何処か国で、商鞅の様に高い身分で迎えられることを目標にしていたと思われますが、それは実現しませんでした。
彼の周りには多くの弟子が居り、政治家としてよりは教育者として活躍した人物で、その孔子の弟子からは政治家として活躍する人が数多く輩出されました。

 改めて「孔子」の「子」は先生の意味ですから、「孔子」は孔先生の意味です。
本名は孔丘と云い、大先生だから名前を呼ぶのは失礼で畏れ多いので、本名で呼ばずに孔先生と呼んだのですが、それがそのまま今日迄定着してしまったのです。
中国の思想家で「~子」と表記される人名は皆同様です。

 孔子の弟子達が編纂した孔子の言行録が「論語」で、昔は日本でもよく読まれ書物でした。
ヨーロッパの哲学の様に概念が整理されておらず「仁」という言葉も、状況に応じていろいろな説明の仕方をしているので正直解りにくいものです。

 面白い表現も記述されています。
例えば「巧言令色(こうげんれいしょく)少なし仁」。
意味は「顔がきれいで口が上手な人間に思いやりのある者は少ない」面白い考え方です。

 有名な記述では「義を見て為(せ)ざるは勇なきなり」。
意味は「正しいことが行われているのに、何もせずに黙ってみているだけというのは勇気がない」。
「朝(あした)に道を聞がば、夕べに死すとも可なり」。
意味は「朝、正しい生き方を知ることができたならばその日の夕方に死んでも思い残すことはない」。
上記の部分は読んでいるこちらの人生観に迫ってくるところがあるのです。
その為か、実業家、社長職の方々に論語が好きな人は多い様です。
ある程度社会的年輪を重ねたら、読んでみたくなるのかも知れません。

 「子曰く、学びて時にこれを習う、亦(ま)た、説(よろこ)ばしからずや」。
意味は「先生がおっしゃった、勉強した後で、時々みんなで集まって復習する、何と楽しいことか!」
何を復習するかというと、音楽らしいです。
孔子の「礼」には音楽も含まれており、諸侯がいろいろな儀式を行います。
例えば他国の諸侯と接見、会合を持つ、その様な場面では式場では宮廷楽団が儀式の音楽を演奏するのです。
どの様な状況の時にどの様な音楽を演奏するのが礼にかなうか、其れを孔子は研究して、弟子たちに教えていました。

 「斉に在りて韶(しょう)を聞く」という図があります。
これは、孔子が斉の国に行ったときに斉の宮廷音楽長官と知り合って「韶」という音楽を聴いたときの様子を絵にしたものです。
これは伝説の聖王舜(しゅん)が作曲したといわれる幻の曲で、孔子は感激して必死になってこの曲をマスターしたと云います。
この様な楽曲を弟子達に教え、弟子達も皆で合奏して「時にこれを習う」訳です。

 古代社会では音楽は単に個人の趣味や楽しみではなくて、神々に呼びかけ世界の秩序を保つ為のものでも在ったのです。

 孔子以前の時代に、もともと冠婚葬祭などの儀式を恙無く行う為の式典の専門家集団が存在しました。
中国文明は祖先神崇拝が強く、葬式が一番大事、この式典専門家達は死んだ祖先の霊を呼び出したりもした様で、霊媒みたいなことも行なっていました。
巫祝(ふしゅく)と呼ばれる集団です。
神がかり的行いの多い彼等は、胡散(うさん)臭いと感じられ、社会的地位の低い人々でした。

 孔子が大事にした「仁」という言葉ですが、これの女性形が在ります。
「仁」に女をつけると「佞(ねい)」という字になり、これは「おもねる・おべっかつかい」という意味に成り、全然いい言葉では在りません。
巫祝達が葬式等で喪主など主催者におべっかを使って、調子の良いことばかり話します。
女がこれをやると「佞」、男がおべっかを使えば「仁」だったのです。

 孔子はこの伝統的式典専門家集団から出て、それ迄使われていた言葉の意味をひっくり返し、価値の高い言葉に作り変えたのです。
泥臭い民間信仰が混在していたものを合理的、理論的に作りかえて学問に迄高めた人なのです。
その考えの基礎に祖先神崇拝みたいな感覚があるので、中国人の感性に合っていて深く根付いたのでしょう。

諸子百家・続く・・・

2013/05/25

歴史のお話その123:古代王朝⑨

<諸子百家その①>

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◎孔子・第一回

 春秋末期から戦国時代は、学問・思想でも新しい考えが生まれ活気に満ちた時代でした。
能力が有り機会に恵まれれば、誰でも出世する可能性が存在したのです。
多くの思想家達が活躍し、これを諸子百家と呼称します。
「諸」「百」は数多くのの意味、「子」は先生、「家」は学派を意味ですから、諸子百家と云えばたくさんの先生が現れて種々の学説を立てた時代でした。

代表的な思想から。

 第一に上げられる思想家が儒家、後に儒学、儒教と言われ、中国思想の中心と成って行きます。
20世紀に至る迄中国の支配的な学問思想で有り、朝鮮半島や日本にも大きな影響を与えています。

 儒家の開祖が孔子(紀元前6世紀~紀元前5世紀)です。
孔子自身は春秋時代の人物ですが、実質的には戦国の時代と変わりは無く、古い時代の素晴らしい道徳や秩序が崩れている時代に成り、これを立て直すためにはどうしたらよいか、どうすれば平和な社会を作ることができるかを考えたのです。

 そこで、彼が持ち出してくる秩序は家族道徳の秩序です。
誰でも自分の父母に対しては、素直な気持ちで従うことができ、家庭の中では秩序がある訳です。
この家族道徳を社会全体に広めることによって、世の秩序を回復しようとしたのです。

 子供が親に対して持つ敬愛の気持ちを孔子は「孝」と名付け、この「孝」の気持ちを他人に迄広げたものを「仁」と云い、この「仁」が孔子の考えの中心です。
明治時代位迄は儒教の教え方は、日本でも道徳の基本でしたから、「仁」と言えば昔の人は明確にイメージが持てたと思いますが、そういう伝統は今ではすっかり消滅し、ヨーロッパの哲学用語よりも「仁」等の言葉は理解為難く成っています。
任侠の世界で使う「仁義」の仁と同じ意味なので、少々イメージは悪いかもしれません。
「仁」を強引に現代語にすれば「思いやり」が一番近いと思います。

 孔子は仁が大事だと云いますが、いくら心の中で仁の気持ちを持っていても、それを外に形として表現しなければ意味が無く、これを目に見える形で表現する、その表現が「礼」です。

 「礼」とは何でしょう。
例えば学校の頃を思い出すと授業の始めと終わりに、「起立、礼」、と言いましたよね。
皆の心中は察し出来ませんが、礼と号令がかかればお辞儀をしますが、正しくこれが孔子のいう「礼」です。
心の中で、「よろしくお願いします」、「ありがとうございました」、と思っていても表現しなければ相手に伝わりません。
伝わらなければ意味が無く、何も変わらないから、頭を下げる「礼」をすることによってその気持ちを教師に伝えている、という理屈です。

 頭を下げる以外にも、いろいろな形で「仁」(思いやりの気持ち)を「礼」で形に表すことの重要性を孔子は説くのです。
人々が「礼」を実践することによって、失われてしまった秩序が回復できる、と考えたのでした。
何よりも秩序の回復維持が基本にあるので、支配者にとっては都合のよい思想でしたから、この儒家の教えはその後も長く支配者達に保護されて、中国思想の柱となっていきます。

諸子百家・続く・・・

2013/05/24

歴史のお話その122:古代王朝⑧

<富国強兵③>

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◎商鞅の変法その2

 商鞅の政治改革は「変法」と呼ばれます。
その改革とは、まず「什伍(じゅうご)の制」。
国民を五軒、十軒毎に隣組を作らせます。
隣組は日本でも太平洋戦争の最中、町内に組織されましたが、此方の場合は納税や防犯の連帯責任をとらせるために組を作らせたのです。
例えばその中のどこかの家が犯罪者を匿ったりしたら隣組全体が罰せられ、納税、応召、賦役と、政府との関係で連帯責任を持たされたのです。

 更に農家の分家を強制的に実行しました。
当時秦の国では大家族制度で、一つの家の中に結婚して子供もいる兄弟達が同居しているのです。
これでは労働生産性が低い為、次男以下は強制的に分家政策を行い、未開の土地に入植させました。これによって耕地が拡大し、戸数も増え、国家収入も増加したのです。

 商鞅の変法は、伝統的な農民の生き方を無理矢理変えるものなので、ずいぶん抵抗もあったようです。
ある時田舎の長老達が商鞅に面会に来て、商鞅に対して、「政治が厳しすぎる、もっと優しくしてくれ」、と訴えました。
商鞅は、「一般民衆の分際で支配者に文句を言うとはけしからん」、と言って皆処刑してしまいました。
彼の政治方法は厳しいのですが、商鞅の政治政策が軌道に乗ってくると治安も安定して、盗賊はいなくなる、道に財布が落ちていても恐れて誰も拾わないくらいに成り、やがて、別の田舎の長老達が商鞅に面会に来ました。
今度は、「商鞅様のおかげで安心して暮らせるようになった、有り難や。」と商鞅を誉め称えにきたのです。
すると商鞅は、今度も処刑を実行します。
理由は、「庶民の分際で、御政道を誉めるとは身の程を知らぬ、畏れ多い行いだ」、と云う理由です。要するに商鞅は国民が政府を批評すること自体を許さず、黙って支配されておるべし、と言っているのです。

 軍功による爵位制も実行しました。
戦争の時に活躍した分だけ身分を上げ、爵位を送る、その活躍は敵の首を幾つ取って来たかということで、殺した人数によって身分があがり、逆に先祖代々の貴族でも敵の首を取って来なければ爵位は与えられません。
当然貴族には評判悪いことと成ります。

 これらの改革によって西方辺境の三流国だった秦は一躍戦国時代の主導権を握る大国に成長することが出来ました。

 ところで、この商鞅は、益々孝公に信頼されて、位は最高位、15の邑を授かり、財産は王と並ぶほど、という絶好調が続きますが、やがて、頼りにしていた孝公が崩御しました。
所詮商鞅はよそ者で、孝公の絶大な信頼があったから権力を握っていられた訳ですが、貴族達に敵は多い。
孝公が崩御すると、恨みを持つ貴族達が商鞅にでっちあげの謀反の罪を着せ、新しい秦王はそれを信じてしまいます。

 こうなるとさしもの商鞅もどうしようもなく、追っ手から逃れて国外逃亡を計りました。
国境近く迄逃げると夜に成り、近くの町の旅籠に泊まろうと、旅籠の扉をたたくと、爺さんが出てきました。
「おい、止めてくれ。」と商鞅が言うと、爺さん「通行手形を持っておいでか?」と聞きます。
商鞅は追ってから逃れてきているので通行手形等持っている訳ありませんから、「持ってない」。
そしたら爺さんこう言った。
「商鞅様の命令で通行手形を持っていない方はお泊めできません。」
「おやじ、そこをなんとか、頼む。」と言うのですが、「商鞅様の法は厳しいですから、泊めた私が後で首をはねられますんで・・・。」と云う訳で結局商鞅は宿屋に泊めてもらえませんでした。
自分の法律が行き届いているのは嬉しいが、それで自分が困ることに成るとは、喜んでいいのやら、悲しんでいいのやら。

 商鞅の外国逃亡は失敗して、最終的には反対派の貴族達に捕らえられて車裂(くるまざき)の刑を受けました。

 戦国時代の能力主義的な人材登用がなければ商鞅は決して活躍の場を与えられることはなかったでしょう。
その意味で、如何にも時代の人です。

富国強兵・終わり・・・


2013/05/23

歴史のお話その121:古代王朝⑦

<富国強兵②>

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◎商鞅の変法

 能力主義的な人材登用で大成功したのが秦です。
秦の孝公(紀元前361年~紀元前338年)の時に「商鞅の変法」がおこなわれました。
 
 商鞅(しょうおう)は人名で、衛の国の出身、政治家志望なのですが中々自分の才能を認めてもらえません。
或る時秦の国で人材を求めていると聞き出かけて行きますが、現在流に云えばアポイント無しで出かけて行っても、外国出身なので秦の有力者に簡単に会える訳ではないと思います。
商鞅は様々な知り合いを頼って孝公に面会することが叶いました。
孝公は商鞅を非常に気に入り、今で例えれば総理大臣にいきなり抜擢して、政治を全面的に任せることにしたのです。

 これには秦の貴族達も度肝を抜きました。
他所者がいきなり王の信頼を得て国政を任されるわけですから、代々秦に仕えてきた貴族達は面白くなく、自分達が無能と思われているのと同じです。
しかし、王様に逆らう訳にも行かないので一先ずは商鞅のお手並み拝見、と成りました。

 自分の周りが好意的ではないことは商鞅も充分理解しており、貴族達は反感を持っている、そうではない一般民衆にしても商鞅を知らない訳で、商鞅がいろいろな改革をおこなおうとしても素直に命令に従うかどうか分かったものでは在りません。

 その為に商鞅はまず自分を売り込みます。

 秦の都には市場が在り、当時市場は塀で囲われていて門が幾つか付いていました。
市場は民衆が集まる処なので政府の命令等国民への「お触れ」は、この市場の門の前に掲げられたそうです。
 
 商鞅はこの市場の南門に材木を一本立て、そして「この材木を市場の北門に移した者に金十斤与える。大臣商鞅」と触書を出しました。
民衆はこの御触書を読んで彼是と噂をするのですが、怪しい触書の上、商鞅と大臣も素性が判りません。
下手な事をして罰せられてはかなわないので、誰も材木を移しません。
何日か経っても誰も動かさないので、商鞅は賞金を5倍の五十斤にしました。
此れは金17キロ位の価値ですが、そうしたら、ようやく一人の男が材木を北門に移したのです。
勇気があるのか軽率なのか、皆注目している中で実行したのでしょう。
早速彼は商鞅に呼ばれて、約束どおり金五十斤を賞金として貰い受け、この結果は瞬く間に商鞅の評判として広まったのです。
新しく来た大臣の商鞅は有言実行な人物、という感じでしょうか。
貴族達も一先ずは彼に国政を任せるしか無いと思ったのでしょう。

富国強兵・続く・・・

2013/05/22

歴史のお話その120:古代王朝⑥

<富国強兵①>

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◎諸国の富国強兵

 春秋時代末期から戦国時代に移り変わる中で、各国間の戦いも日常的に成り、準備を怠ると他国に併合され国が滅びます。
そこで、国々は懸命に富国強兵策を行いました。

 どの国も富国強兵に必死で在った事は、種々の話が今日迄伝えられています。
例えば、趙の武霊王、この人物は軍隊を強くする為、騎馬遊牧民族の戦法を導入しました(紀元前309年頃)。
基本的に中国の戦法は歩兵か戦車を使用し馬に直接跨る事は在りませんでした。
中国人の衣類はゆったりした作りで、袖は袂が広くて、裾は足を大きく広げる事が出来ず、乗馬に適していないのです。
 
 遊牧民の騎馬戦術は、機動力が在り強力である事は明らかで、武霊王はこの戦術を導入しようとしました。
その為には、まず、服装の改革が第一ですが、これが貴族達の猛反対に合います。
理由は、「遊牧民の様な野蛮人の服は着たくない」、当然ながら文明人は誇り高いですから。

 当時の遊牧民はどの様な服を着ているかと調べてみると、基本的に現在の衣類と同じです。
馬に跨る様に足を広げられるズボン、弓を引き易い様に袖も真っ直ぐな筒袖、私達が今着ている服はヨーロッパからの渡来ですが、遊牧文化起源のものなのです。

 武霊王は貴族達の反対を押し切って改革を断行し、之を騎射胡服の採用と云います。
誇り高い中国文明人が遊牧民の文化を受け入れる事は凄い事なので、戦国の厳しさが反映していると思います。

 国を強くする為には武霊王の様に改革を次々に行わなければ成りません。
しかし、従来の支配者階級、卿・大夫・士等の貴族達は何もしなくても名門なので、積極的に改革に取り組む事も無く、取り組むだけの才覚のある人材も少なかったのです。
庶民出身でも優秀な人材は居り、彼等を使わない方策は無く、出身・身分にとらわれない能力主義の人材登用が行われる様に成ります。

 当時の諸国の諸侯達が、人材登用に熱心で在った事を表す話はたくさん在ります。
「まず隗(かい)より始めよ」、私の高校時代にこの話は、漢文の教科書に載っていました。
燕の昭王(紀元前3世紀初頭)の時、昭王は何とか優秀な人材を集めて国を発展させたいと思っていました。
ところが燕の国は、現在の北京付近に位置するのですが、当時は北の辺境の国なので、この様な辺境の寒い国にどうすれば有能な人材が来てくれるだろうかと悩みました。
そこで、大臣の郭隗に相談するのですが、郭隗が言った言葉が「まず隗より始めよ」。
その意味は、「私にたくさんの褒美を与えなさい、私の為に宮殿を造ってくれ、それからいっぱい褒美として財宝を下さい、そして、私を先生として敬いなさい」と云います。
昭王が「それはどういうことか」と聞くと、郭隗はこの様に答えました。
「私は大した人物ではないし、才能もあまり有りません。しかし、この凡人の郭隗にすら昭王が莫大な褒美を与えて、先生として敬っているという噂はすぐに全土に広まるでしょう。そうすれば、私よりも才能のある人々がもっと良い待遇を与えられるに違いないとたくさん燕の国に訪れるに違い在りません」、と。

 昭王はなるほどと思い、郭隗の提言を実行します。
当然ながら、中国全土から優秀な人材がたくさん集まって来たそうです。
この様に諸侯達は、人材獲得に情熱を注いだのでした。

 斉の宣王(紀元前4世紀末)はやはり人材を集めます。
学者であればどんどん召し抱えて都・臨シ(リンシ)には学者街が出来る程でした。
臨シには稷門(しょくもん)と云う城門が在りその近くに学者達が集まって住んだので「稷下の学」と呼ばれました。
学者達は特に仕事がある訳では無く、一日中議論を行い、その中から良い策があれば斉の国政に反映されたと云います。

 この様な状況は、庶民の側からすると才能さえあれば自分を売り込む絶好の機会です。
生まれは関係ない、身分も関係ない、有能な人材だと認められれば何処かの国で高い地位について財産を蓄えることもできるわけです。
その為色々な学問を身につけ、特技を持ち、諸国を遍歴して就職活動する政治家志望の人物が沢山現れました。

富国強兵・続く・・・

2013/05/20

歴史のお話その119:古代王朝⑤

<周その5>

矛盾

◎戦国時代②

 秦の環銭はおなじみの円形で、円くて穴があいています。
やがて秦が戦国時代を終わらせ、中国統一を果たします。
その結果、この形のお金が中国の標準的な貨幣の姿に成り、日本列島にも入ってきて銅銭には穴をあけるように成りました。
日本史に出てくる和同開珎や、近年発見された富本銭もそうです。
この形態は、現在の五円、五十円に迄受け継がれる伝統あるものなのです。
余談ですが、五円玉の穴は歴史をさかのぼれば、秦の環銭に迄行き着くと思います。
私が小学生の頃には、穴の空いていない五円玉や五十円玉が流通していましたが、何時の間にか消えてしまいました。
では十円や百円には穴がないのでしょう?
此れは想像ですが、明治維新で西欧化を目指した当時から、十円、百円の系列のお金は多分ヨーロッパのコインをモデルにしたモダンな形を模索した結果ではないでしょうか?

 ところで、刀や農具など大事な物がお守り的な役目を持つのは分かり易いのですが、秦の環銭にはどの様な意味が在るのでしょう?
やはり持ち運びのことを考えた結果で、貨幣の穴に紐を通して束ねて持ち運ぶ事も有った事でしょうし、紐で縛られた一定の枚数が、単位を示していたかも知れませんね。

 話がだいぶそれてしまいました。

 商業の発展に関して、もう一つ「矛盾」の話をご紹介。
矛盾という言葉の起源がこの時代なのです。
ある都市の市場、盛り場で口上を唱えながら武器を売っていた商人が居ました。
矛(ほこ)を売る時は如何なる盾でも貫くと宣伝し、盾を売る時には如何なる矛でも跳ね返す、と言いながら売っていました。
その光景を冷やかし半分で見物していた人物が「おまえの矛でその盾を突いたらどうなる!」と突っ込みを入れたのです。
これが矛盾という言葉の根源です。

 この話をよく考えてみると、見事に戦国時代の状況が浮かび上がってきます。
商人が売っていた「どんな盾でも貫く矛」はどの様な金属で作られていたのでしょう?
鉄製と考えて相違無く、盾も鉄張りだったと推定されます。
ようやく鉄製の武器が出回り始めている状況、そのなかで商人は「最新式の武器だ!」と宣伝して売っている訳です。

 更に、市場で売っているという事も重要で、市場で売られていると云う事は、注文を受けてから作るのではなく、流通を前提にして大量生産されていると云う事です。
源平合戦の頃の平氏や源氏の侍達が、京都や鎌倉の市場で武具を買っていたか否かを考えてみれば、当時の中国の社会がどれ程迄に商工業が発展しているのか実感できます。

 そして、当然のことではありますが売られている商品が武器である事は、戦争が日常的に行われ、武器を手に入れて名を挙げようと考える人物が数多く居り、古くからの農業共同体を出て諸国を遍歴している人々が沢山居た事を思わせます。
社会全体が大きな変動期を迎えていた事が「矛盾」から分かります。

 農業、商業、流通の発展と社会の活性化、流動化の中で戦国の諸国は生き残りを賭けて、富国強兵策をおこないました。

周・終わり・・・


2013/05/18

歴史のお話その118:古代王朝④

<周その4>

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◎戦国時代

 時代が戦国時代に移り変わると、宗法の統制は完全に有名無実となり、人々は合理的な発想をする様に成って行きました。
孔子は中国史上最大の思想家で、春秋時代の人物ですが、この人は「怪力乱心を語らず」。
怪奇現象や神秘的なことは口にせず、この様な風潮が広まって来ていたのです。

 家臣が主君を倒す、分家が本家を乗っ取る、この様な事態が頻繁に起き、いわゆる「下剋上」の時代となりました。
この下剋上という言葉も日本の戦国時代で使われますが、本来は中国の戦国時代の言葉です。
春秋時代の大国晋が分家に乗っ取られて三分裂した以後を戦国時代と呼びます。

 戦国時代に強国が七つに絞られ、この国々を「戦国の七雄」と呼び、燕、斉、韓、魏、趙、秦、楚、の七国です。
戦争の主力も歩兵中心に変化し、以前は戦車に乗った貴族が軍の中心でしたが、勝つためには兵力は一兵でも多い方が優位、農民を歩兵として動員し戦争が大規模になり、やがて、秦が中国を統一することになります。

 春秋・戦国時代に中国社会は政治的に大きく変化していくのですが、社会の仕組み全体が大きく変動していった時代でもあります。

 まずは鉄製農具の登場と、牛耕の普及が在ります。
大地を耕すスキ・クワはそれまで木製でしたが、これが鉄製に変わるということがどれだけすごいか想像つきますか。
現在なら人力作業を機械が行う、畑の開梱をトラクターが行う位の差が生じ、更に牛の鼻にワッカを通して紐をつけて引き回す事ができるようになり、牛にくびきをつけて鉄製のスキを牽かせるのですから、飛躍的に耕地が増えて行きました。

 それ迄は多くの土地を耕す事ができず、邑には農民も皆住んでいて、朝になれば農具を持って邑から畑に行って、夕方には邑に帰って来るのですが、鉄製農具と牛耕で、それまで耕せなかった遠くの土地を開拓できるように成りました。
遠くに農地ができると一日のうちに邑から出て帰ってこられなくなりますから、そこで新しい邑を建設してそこに農民は移住していきます。
この様にして次々と新たな邑が作られ、耕地が増え人口も増えていき、領土内の邑を点として支配するそれまでの国家の在り方を「邑制国家」と呼びますが、これが面として領土を支配する「領域国家」に変化してくるのです。

 この結果、それまでいろいろな国が存在しても、その国境線は問題になりませんでした。
開発できない荒野が邑と邑、国と国の間に広がっていたのですが、未開地の開拓がすすんで領域国家となると国境線が問題になって来るのは当然の成り行きで、未開の土地をどの国が支配下に置くのか、農地が広がればそれだけ国力も充実する訳ですから、どの国も必死になります。
これが戦国時代になる大きな背景です。

 農業の発展にともなって商工業も発展しました。
強国の都には人口数十万規模の大都市も出現し、人間も移動する様に成り、生まれた邑の中で一生過ごすのでは無く、諸国を遍歴して商売を行い、仕事を探して大都市に出てくる、その様な人間も多く現れてきました。
春秋時代の末期から戦国時代は、中国史上希に見る躍動的な時代になりました。

 商業の発展に関して、青銅鋳貨が各国で発行されています。
北方の斉、燕では刀銭(とうせん)、中央部の韓、魏、趙では布銭(ふせん)、西の秦では環銭(かんせん)、南の楚では蟻鼻銭(ぎびせん)というものが作られました。
刀銭は刀の形、布銭は農具の形です。スキ・クワの先端部分で、蟻鼻銭は子安貝という貝殻の形をモデルにしており、ニューギニアの高地人等、太平洋の島々では子安貝をお金として使う例がたくさん在るのですが、楚の国が南方系の文化を受け継いでいる事が間接的に理解出来ます。

 特殊な形をした貨幣がなぜ作られたのでしょう。
単に物を売買する為ならば、刀銭や布銭等は不便な形です。
お金に商取引の為だけでなく呪術的、お守りのような役割も有ったのでしょう。

周・続く・・・
2013/05/17

歴史のお話その117:古代王朝③

<周その3>

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◎春秋時代

 春秋時代を言い表す言葉が「尊王攘夷(そんのうじょうい)」です。
尊王は王様を尊び、攘夷の攘は「うちはらう・おいはらう」の意味、夷は異民族で、尊王攘夷とは、「王を尊重し、我々諸侯が異民族を打ち破って国を守る。」ことです。
この言葉は幕末の日本でも使われましたから、有名ですが本来は春秋時代の言葉です。
(私は、この言葉を耳にすると「新選組」を連想してしまいます)

 王に代わって天下に号令を発する有力な諸侯が、春秋時代を通じて現れますが、その様な有力諸侯を「覇者(はしゃ)」と呼び、「春秋の五覇」として特に有名な覇者五人をこの様に呼びます。
どの諸侯を五覇に挙げるかは人によって違いがありますが、「斉の桓公、晋の文公、越の句践(こうせん)、呉の夫差(ふさ)、楚の荘王」が有名です。
斉、晋は諸侯の国の名前で、もともとは大きな邑ですが、この時代にはもう国といった規模になっており、桓公等は諸侯の名前です。

 覇者とはどの様な言葉かと云えば、王者より一つ下の称号で、この時代の諸侯は、いくら周王より力があっても周王に遠慮して王者とは言いません。
その為一つ下の覇者と称しますが、理由として宗法がそれなりに生きていますから、桓公とか文公とか覇者の呼び方は「公」、桓王、文王とは絶対に言わないのです。
楚の荘王だけが王と称していますが、これは楚は南方の国で中国の文明地帯から見れば彼らはまだまだ野蛮人です。
この国の人々はまだあまり中国文明化されておらず、宗法とか周王を尊ぶと云った文化に影響されない為、文明国なら遠慮して王とは称さないにも関わらず、遠慮無しに王と名乗っているのです。
やがて、先進地域の国々でも、これに影響されて王と称するようになってきますが。

 春秋時代は諸侯同士で戦乱も数多く在り、最初の頃は戦争で敵国を破っても相手の国を滅ぼすことはあまり在りませんでした。
これは、滅ぼすことでその国の祖先神を祭る者が居なくなることを恐れたためですが、この理屈は以前に紹介しました。
 
 ところが春秋時代も時代が進むと、祟りを恐れる意識も薄れ、小さな国は滅ぼされる様に成り、春秋時代の最初200程を数えた国が、終わり頃には20程に減少した様です。

周・続く・・・

2013/05/16

歴史のお話その116:古代王朝②

<周その2>

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◎周の東遷

 周の時代は大きく二つに分かれ、前半を西周(紀元前1027年~紀元前771年)、後半が東周(紀元前770年~紀元前256年)です。

 前半の都が鎬京、後半の都を洛邑(らくゆう)と云い都が東に移った関係で東周と区別しています。

 遷都について面白いお話があります。
「幽王と褒ジ(ほうじ)の物語」
都が移った時の王が幽王、褒ジはその妃なのですが、絶世の美女でした。
幽王の寵愛を一身に受けたのは勿論ですが、褒ジ妃には一つだけ変わったところが在りました。
彼女は生まれてから一度も笑ったことが無く、いつもすました顔を見せています。
美人なのだから笑顔はどれだけ素晴らしいだろうと幽王は常々思い、そこで、道化師を呼んだり喜劇を見せたり色々なことを行うのですが、何をしても褒ジは笑いません。
この様な状況が続くと、幽王はなにが何でも笑顔が見たいとの願望が、どんどん高まってきます。

 月日が流れる内に、西方から異民族が鎬京を襲撃しました。
この様な時は、鎬京から狼煙をあげて東方の諸邑の諸侯に救援を求めることに成っているので、幽王は狼煙を上げ、それを見た諸侯達は、一大事と手勢を率いて全土から鎬京目指して駆けつけてきます。

 ところが鎬京の城外に集結してみると、異民族の襲撃は誤りで、「いざ鎌倉」とばかりに息せき切って駆けつけてきた諸侯の軍隊は、拍子抜けして肩を落としました。
その光景を城壁の上から褒ジは見ており、大の男達が拍子抜けする様子が面白かったのでしょう。
僅かな微笑みを漏らし、その光景を幽王は横から見てしまいます。
やはり予想通り、素晴らしい美しさで、「もう一度見たい」、と幽王は思ったのです。
どうすれば彼女が微笑むかも判りました。

 こうなると「狼が来たぞ!」のお話の通り、非常事態を知らせる救援要請の狼煙を幽王はあげてしまいます。
幽王が狼煙あげ、諸侯駆けつけ、敵いない、落胆、褒ジ・微笑む、幽王満足、このパターンが何回も続くうちに諸侯も理由が判ってきます。
「王は妃の笑いを見たいが為に我々をだしに使っている。もう狼煙があがってもいざ鎌倉は無い」。当に狼少年の話と同じです。

 やがて、本当に異民族が鎬京に攻め込んできます。
幽王は必死に狼煙をあげるのですが、諸侯は誰一人として救援に駆けつけず、そのまま鎬京は陥落して周は都を東の洛邑に移した、と云うお話ですが、此れも傾国の美姫の喩えでしょうか。

 この話は物語ですが幾分かの真実も含まれていると思われます。
第一に、周が西方辺境の異民族統治に失敗して混乱の中で都を放棄せざるを得なかった事実。
第二に、宗族として本家である周王を盛りたて助けなければならない諸侯が、それを行わない様になり、宗族、宗法の絆がゆるみ始めていること。

 遷都以後、東周の王は名目だけの存在と成り、諸侯を統制するだけの力も権威も無く成り、諸侯の自立化が始まるのです。

 この東周の時代が更に前後半に分けられ、前半を春秋時代(紀元前770年~紀元前403年)、後半を戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)と呼びます。
春秋時代は周王の力が衰えましたが、諸侯達の意識として王様を盛りたてなければいけないという意識がまだそれなりにあった時代で、宗法が人々の意識を縛って時代です。
そして、その様な古い意識をかなぐり捨てたのが戦国時代です。

周・続く・・・

2013/05/15

歴史のお話その115:古代王朝①

<周その1>

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武王

◎周

 殷を滅ぼした王朝が周です。
周は現在の西安付近に存在した邑で、本来は殷に服属していたと思われますが、次第に力をつけてきて周辺の邑を支配下に置く様になり殷の統率から離脱したと推定されます。
最後は殷を中心にする邑連合と、周を中心とする連合が決戦をして周が勝利し、これが紀元前1027年のことでした。
この時の周の王様が武王と云い、殷の王様が酒池肉林の紂王でした。

 周の存在した場所は、当時の中国文明では辺境なので、周を建てた部族は西方の異民族系統であった可能性が強いのですが、漢民族と呼ばれる様になる中国文明を形づくった民族は、この様に周辺の民族が中国文明化して形成され、周を基礎を創った人々は辺境の蛮族に近いので、戦も強かったと想像出来ます。
 
 周が都を定めた場所が鎬京(こうけい)、今の西安付近です。
周の支配制度は「封建制」で、周王は、有力氏族の首長に邑を与え、未開の土地は無尽蔵に存在しますから、新たな邑を建設させてそこの統治を任せたのです。
この様に新しい邑が、周の支配下の土地に数多く建設されることに成りました。
従来の邑の中には、殷と近い関係在るも沢山あるでしょうから、周王は配下の邑を形成することで全土に覇権を利かすことができたのです。
周王から邑の支配を任された者を諸侯と呼び、諸侯は周王に対して軍役と貢納の義務を負いますが、それ以外は自分の領地をどう支配してもかまいません。
諸侯は自分の邑の周辺に配下の有力者を配置し、彼らも又小さな邑を支配するのです。
彼等のことを卿・大夫・士(けい・たいふ・し)と呼びます。
 
 身分制度を示すピラミッド型の頂点から、周王、諸侯、卿・大夫・士と序列に合わせて邑を支配している姿が周の封建制で、士以上が貴族身分、支配者階級と考えれば良いでしょう。

 この周の封建制は日本や西欧の封建制とは違います。
例えば日本の中世でも同じですが、領主は領土を与えてくれた君主に恩義を感じて忠誠を誓う姿が封建制の特徴です。
領地を与えることで主従関係が生じるという契約関係で、領地と忠誠を交換している訳です。

 周の封建制を支えているのは、その様な契約関係では無く、血縁関係でした。
これを宗族と云い、共通の祖先から枝わかれしたと信じている集団で、同じ宗族だから協力し合うことで上下関係、支配層の統制を保ちました。

 宗族の規範のことを宗法と云い、宗法では、周の王様は御本家、諸侯は分家、卿・大夫・士は更に小さな分家です。
分家は本家に逆らえません。
それは本家だけが、祖先の霊を祭ることができるからです。
分家の者が祖先神を祭っても良いのですが、本家がお祭りすることで御先祖様は一番喜ぶと考えられたのです。

 御本家の周の王様に逆らうことが出来ません。
これが宗法、この秩序で周王は諸侯を統率したのですが、何処か宗教的です。

周は殷を滅ぼした時にその王家の者を殺しませんでした。
殷王の家系が断絶すると、殷王家の祖先神を祭る者が不在に成り、その結果、殷の祖先神が災いをなすかもしれません。
それは恐ろしいことなので王家の者は生かしておくと真面目に考えられた政祭一致の時代なのです。

周・続く・・・

2013/05/14

歴史のお話その114:中国大陸④

<黄河文明④> 

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◎殷その3

 例えばお盆、お墓参りに行き線香立てます。
あの線香はもともと儒教のもので、天界にいる祖先の霊があの線香の煙を辿って地上界の我々の元に帰ってくる、その為のものらしいのです。
そもそも、仏教の理論から考えれば祖先の霊は存在しません。
先のインダス文明で幾度も触れましたが、どこかに輪廻転生しているのですから、今生きている私達も前世では、誰かの祖先だったかも知れない訳で、祖先を崇拝するなら「自分を祀りなさい、崇めなさい」という理屈に成ります。
お墓参りするよりは、殺生をしない方がよほど供養になる訳で、お坊さんの話を聞いていて祖先の供養に関する話が出てきたら、「殷以来の東アジアの宗教的伝統が今も生きている」、と思って良いのではないでしょうか。

 殷王が占いに使用した物が、牛等大型動物の肩甲骨や亀の甲羅です。
その占い方法は、例えば亀の甲羅、お腹の方の甲羅ですがここに丸い溝をいくつも掘り、その溝に木の棒等で火を押しつけます。
当然ヒビが走り、このヒビの形や向きで占いを行いまいした。
占った結果を甲羅や骨の裏側に刻んで記録した文字が甲骨文字で、この甲骨文字がのちの漢字の原型となるわけです。

 殷代の遺物としてもう一つ大事なものが青銅器です。
当時の青銅器を見ると一種異様な模様が一面に刻まれていますが、これは何?
原型は動物なのか、蛇なのか、逆巻く黄河の水なのか、伝説の生き物なのか判りませんが、この文様を眺めながら殷の人達の心境を想像すれば、個人的には魑魅魍魎が跳梁跋扈していた、当時の人達の精神世界を表しているような気がします。
殷の青銅器と日本の火炎式縄文土器は、何故か心が引き付けられますね。

 殷の最後の王が紂王(ちゅうおう)、伝説では酒池肉林の男性で、故事成語の「酒池肉林」の語源に成りました。
紂王は自分の庭園に池を造り、その池に水の変わりに酒を満たし、庭園の木には木の実のかわりに肉をぶら下げ、池で美女達と戯れ遊び、遊び疲れて池から上がると肉をたらふく食べた、という話です。
紂王が人民を搾り取って自分だけ贅沢三昧をした話で、これは多分後の時代に作られた話でしょうが、紂王が暴君で滅ぼされて当然だったという話になる訳です。
非常に贅沢と言っても酒を飲んで肉を食らうだけ、それが当時の贅沢の基準ならば、逆に言えば普通の暮らしが如何ようなのか想像できます。

黄河文明・終わり・・・


2013/05/13

歴史のお話その113:中国大陸③

<黄河文明③> 

殷

◎殷その2

 殷の政治の特徴は、神権政治で古代社会は大抵の地域では、政治と宗教が一体化しているのですが殷も同様でした。
殷王は常に占いを行い、神々にお伺いを立てて政治を司りました。
宇宙には様々な神々、悪霊、妖怪で満ち満ちていて神々の機嫌を損ねない様に、又悪霊達の災いに遭わない様にと彼らは真剣だったのです。

 「道」の字、この字「しんにょう」に「首」が付いているのですが、「しんにょう」はそれだけで道の意味があり、それではなぜ、首が付いているのでしょう。

 興味深い一つの説をご紹介します。

 邑が在り、邑の門を出るとずっと道が農地や遠くの邑に続いています。
当時は現在の様に土地が開けておらず、原生林も点在し未開の民族も、邑が無い場所にはたくさん住んでいました。
当然、野生動物も数しれず、何よりもその様な原野には、訳の分からない悪霊、魑魅魍魎が跳梁跋扈していました。
魑魅魍魎が門から邑の中に入って来ることの無い様に、邑の門の下に魔除けとして人の生首を埋めたと云います。
門を開けて生首の向こうに道が始まり、道に出るには生首を跨いで行くのですが、この跨ぐ行為そのものが、外に出る人の魔除けの呪いでもある説明されています。

 この説が正しいか否か分かりませんが、殷の王墓にも生首がたくさん見つかっていることを考えると、何となくその様なことなのかという気がします。
古代中国の人々の生活感覚が伝わってくるような説ですね。

 この様に、古代人は神々に取り囲まれて生きていましたから、政治も当然神々にお伺いを立てた訳です。
殷の人達の神様は大きく分けると三種類に成ります。
一つが天帝、天と云うと、私達にも何となく理解できる様な気がします。
神みたいな感じで天と云う言葉を使うことが在りますし、日本の文化の中にも流れ込んでいる感覚です。
もう一つが自然現象を神にしたものです。

 最後が祖先神です。
中国文明を理解するには祖先神は重要だと思います。
祖先神崇拝はその後も生き続けて、朝鮮や日本の文化の中にも深く浸透しています。
殷の人々は死んだ祖先は、そのまま神になって存在し続けていると考え、何処か高い処に居て、常に子孫の行動を見ています。
人の道が外れた行為を子孫が犯せば祟りとして現れ、祖先神が一番子孫に望むことは、常に祖先神を崇めて祀ってくれることで、祀りを疎かにすると祖先の罰が降りるのです。
その為、殷の王達は何時祭りを行ったら良いのか、又占うことに成るのです。

 祖先神崇拝は後に儒教の中に引き継がれ、更に仏教にも影響を与えます。
われわれ日本の仏教の儀式の多くは、儒教化されていて祖先神崇拝が可也多く入り込んだものです。 

黄河文明続く・・・

2013/05/11

歴史のお話その112:中国大陸②

<黄河文明②>

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◎伝説

 洪水と如何に戦うかが、黄河文明の担い手達には重要な問題でした。
中国伝説に伝えられる古代の聖王に堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)が名前を連ねています。
堯は自分の王位を舜に譲り、舜はその位をやはり治水で頑張った禹に譲りました。
禹は一年中黄河に浸かって働いたので、下半身が腐ってしまったとも言われています。
黄河と切り離して古代中国の国家形成は、考えられないということです。

 この三人は血が繋がっていませんが、位を譲り譲られ、皆徳が在って立派だと云うことで、後に儒家に持ち上げられて聖王とされています。
自分の血縁を無視して徳のある者に位を譲るこの形式を禅譲(ぜんじょう)云い、理想の王位継承パターンとして褒め称えられるわけです。

 伝説では禹は自分の子供に王位を譲り、ここで最初の王朝が成立します。
この王朝が夏(か)なのですが、日本の歴史学会ではこの夏王朝の実在はまだ認められていません。一応中国では実在したとされており、自分の国の歴史はできるだけ古い時代に遡らせたい気持ちが、どの国の考古学者にも存在する様です。

◎殷

 夏王朝の後を継ぐ王朝が殷(いん)王朝ですが、ここからが確実に考古学上その実在を証明できます。

 邑に話を戻して、邑の住民は祖先を同じくする氏族集団と云われ、若しくは複数の氏族集団が一つの邑を建設した事が有ったとも考えられますので、邑は都市国家と呼んでも差し支え無いでしょう。
ギリシアで言えばポリスです。

 やがて邑の中でも他の邑に比べて規模が大きく、軍事力も強いものが出現してくると、その強い邑を中心にして邑の連合体が生まれます。
これが最初の王朝とされている殷で在り、殷は邑の名前でこれが盟主となって他の邑を緩やかに統合したと思われます。
殷は後から付けられた名前で当時は商(しょう)と呼んでおり、この商の時代が紀元前1600年頃から紀元前1027年迄続きます。

 殷の遺跡が有名な殷墟(いんきょ)、王の墓が発掘されています。
逆ピラミッド型に掘った頂点に王の遺体が埋葬され、王の棺の下に犬が埋めて在るのですが、犬は冥府への案内役と思われます。
王以外にも数多くの殉死者が埋葬され、青銅製の酒器も無数に並び、黄泉の国でも王を守る為なのか、兵士も所々に別に穴を掘って埋められ、戦車も出土しています。

 殉死者は服も着て埋葬されていますが、それとは別に生首だけが無数に並べられているのは、神への生け贄か、魔除けと思われます。
数百人、多い場合は千人以上の殉死者、生け贄が一緒に埋葬されているのが殷王墓で、当時可也の権力を集中していたことを想像させます。
ただ宮殿などは藁葺きで、壮麗な宮殿ではありませんでした。 

黄河文明続く・・・

2013/05/10

歴史のお話その111:中国大陸①

<黄河文明>

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歴史のお話も中国に到達しました。

 黄河文明が黄河中流域で誕生したのは紀元前5000年頃と推定されています。
黄河文明の前半を仰韶文化(紀元前5000年~紀元前3000年頃)と呼び、仰韶は「ぎょうしょう」または「ヤンシャオ」と読みますが、この名称は代表的な遺跡から名前がつけられています。
特徴は土器で彩陶と呼ばれる土器が出土するのですが、これはメソポタミア文明の彩陶とよく似ており何らかの影響があるとも云われています。

 後半は龍山文化(紀元前2900年~紀元前2000年頃)で、読み方は「りゅうざん」または「ロンシャン」、黒陶、灰陶土器が出土します。
黒陶が龍山文化の特徴で、その名前の通り真っ黒な土器で、ロクロを使い高温で焼き上げたと思われます。
彩陶に比べて薄手でしかも固く、技術も高度になっています。
推定ですが、黒陶は特殊な目的の為に造られた土器で、日常生活で使用したものが灰陶だと思われます。
こちらは素朴な造りが多いのですが、形は面白いものが在り、その代表が三足土器。
これは水等を入れて、この三本足の下で火を焚いて煮炊きしたと思われます。

 黄河文明とは別に最近は長江流域に遺跡群が発見され、長江下流の河姆渡(かぼと)遺跡では稲作の跡が見つかっています。
この付近は気候風土も日本列島に似ており、日本の稲作は意外とこの様な場所から直接伝わったのかもしれません。
中国南部から台湾、琉球列島、朝鮮半島南岸、日本列島も含めて太平洋地域には似たような風俗が残っています。
中国南部は遠い様に感じますが、海は人と人を隔てるものではなく、重要な交通路でも在り、遣唐使等も朝鮮半島沿いに航海した方が安全と思いますが、意外と直接中国南岸に向けて、航海しています。
上流域には竜馬古城遺跡、三星堆遺跡が発見され、これらは巨大な都市の遺跡です。

 これら長江流域の遺跡と黄河文明との関係は、現時点ではっきりと解明された訳では無く、黄河文明とは別の独立した文明として、将来は長江文明という形で認識されると思われます。
まだ研究途上の遺跡なので、紹介に留めておきます

 黄河文明が発展していく中で都市が誕生します。
中国古代の都市を邑(ゆう)と呼び、邑の文字は口と巴からできています。
口は人々が住んでいた集落を取り囲む城壁を表し、巴は人が座っている姿を字にしたもの。
つまり人が集まって城壁の中で暮らしている、これが邑なのです。
この様な邑が黄河中流域に数多く形成されました。

 黄河の下流域はまだ文明圏に入っておらず、黄河は始終大氾濫をおこし、歴史時代に入ってからも何回も川筋が変わっています。
下流域は洪水の危険が多すぎて、当時の生活技術では人は住めなかったと思います。
以前NHKが「大黄河」をシリーズで紹介し、現在の黄河の河口の映像が見る事ができました。
黄河河口の姿をこのシリーズで、初めて見る事が出来ました。
全面黄色、どこが陸でどこが河でどこが海か全然区別の出来ない風景が、何十キロも続いているのかと思いました。
現在も中国大陸は黄河によって運ばれる黄土によって拡大していすが、昔は湿地帯で人が入り込めないような地形が下流域に拡がっていたと推定されます。

黄河文明続く・・・


2013/05/09

歴史のお話その110:インダス文明⑭

<インドの諸王朝(大乗仏教、ヒンドゥー教)④>

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◎その他の王朝

 クシャーナ朝は三世紀中頃に崩壊し、次に重要な王朝がグプタ朝(320年頃~550年頃)です。
クシャーナ朝がイラン系である事とは対照的に、グプタ朝は純インド王朝で、北インドを統一しました。
インド伝統文化の復興がこの王朝の背景です。
建国者はチャンドラグプタ1世、次のチャンドラグプタ2世の時に最盛期を迎えます。
マウリヤ朝のチャンドラグプタと名前は同じですが、家系的には一切の繋がりは有りません。
チャンドラグプタ2世の時に中国から仏教研究の為、僧侶法顕が来朝しました。

 この王朝の時に仏教美術が盛んに作られ、ガンダーラ美術と全く異なり純インド風でグプタ美術と呼ばれています。
アジャンター石窟寺院に残された壁画が特に有名で、この壁画と非常に似た絵が法隆寺金堂に描かれています。
 
 グプタ朝は5世紀中頃から中央アジアの遊牧民エフタルの侵入によって衰退していきました。

 グプタ朝の崩壊後北インドは分裂時代が続き、古代インドの最後の大規模王朝がヴァルダナ朝(606年~647年)、建国者がハルシャ=ヴァルダナ、この王朝は一代限りで崩壊します。
ヴァルダナ朝には中国から玄奘が仏教を学びに来朝しました。
玄奘というのは三蔵法師として『西遊記』に登場しますが、彼の旅行記にこのヴァルダナ朝が出てくるので有名な王朝に成りました。

 尚、南インドの王朝で重要なのがサータヴァーハナ朝(紀元前220年頃~紀元後236年)。
この国はローマ帝国と貿易をおこなっていたことで有名です。

◎ヒンドゥー教

 仏教やジャイナ教の大流行で、バラモン教はどの様に成ったのでしょう。
バラモン教は民間信仰を採り入れて徐々に変貌しますが、バラモン教が民衆化した宗教をヒンドゥー教と呼び、現在のインドで8割近い人々がヒンドゥー教の信者です。

 では何時ごろからバラモン教が、ヒンドゥー教に変化したのかは分かりませんが、既にグプタ朝の時には確立していたようです。

 ヒンドゥー教の特徴は多神教である事と、カースト制を積極的に肯定している事です。
ヒンドゥー教は多くの神様が居り、代表的な三大神がブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ、です。
ブラフマーは創造神、ヴィシュヌが世界維持神、シヴァが破壊神ですが、破壊神シヴァが一番民衆に溶け込んでいる様です。
破壊は次の創造につながると説明されますが、単純に破壊と云う言葉にある種の快感が存在するのでしょう。

 インドの二大叙事詩に「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」があります。
これは徐々に話が整えられ、グプタ朝の時期に完成されたと云われていますが、現在でもインドだけではなくインドネシア等でも広く知られて、愛されている物語です。
そして同時にこれらの叙事詩はヒンドゥー教の経典でも在るのです。

 「ラーマーヤナ」はラーマという王子が主人公の話で、粗筋だけ簡単に述べればラーマの妃がスリランカに住んでいるラーヴァナに拐われのですが、ラーヴァナには巨人、魔人等の仲間がいて手強く、ラーマは妻を取り返すのに苦労します。
苦戦のラーマにハヌマーンと云うサルの神様が力を貸してくれて、無事妻を取り返したという筋です。
 『西遊記』の孫悟空はこのハヌマーンがモデルらしく、桃太郎の鬼退治にサルが登場するのも関係あるかもしれません。

 「マハーバーラタ」は大変長く、スケールの大きい話です。
これはバーラタ王の子孫クル族が二つに分裂して、インド中を巻き込んで大戦争をする話で、その決戦にこんな場面が在ります。

 主人公の一人、アルジュナ王子は強い戦士でも在ります。
その彼が両軍向かいあって対峙している時に、敵陣に向かって出撃します。
戦車に乗っているのですが、その戦車の御者がクリシュナという人物、この人は別の国の王でアルジュナの軍に助太刀で参加しています。
人間の姿をしていますが、実はヴィシュヌ神の化身で、敵陣に突進する途中で急にアルジュナは迷いに落ちます。
両軍の真ん中で戦車を止めさせ、「どうしたのか」と問うクリシュナにアルジュナは話します。
「一族の物や仲間や先生を殺して良いものか」と。
敵の軍ても同じ一族が別れて争っているのだから、親戚とか昔の親友や師匠が敵軍に居る訳です。
これに対してクリシュナが如何に生きるべきかを語る部分が在るのですが、その言葉が凄いのです。クリシュナは云います。

 「迷わず殺せ!」

 納得できないアルジュナにクリシュナはその理由を延々と語ります。
これがヒンドゥー教の神髄で、この部分だけが特に取り出されて「バガヴァッド・ギーター」という本になっています。

 クリシュナは続けます。
「すべて生きるものは輪廻から逃れられない。いつか死んでまた生まれ変わるのだから、何時死のうとそれは大した問題ではない」、「だから殺す事を迷うな、何時か必ず死ぬのだから今御前が殺しても同じ事だ」、すさまじい発想です。
一歩間違えると殺人を正当化するどこぞの新興宗教と同じに成ってしまいそうです。
 
 更に「御前はクシャトリアである。クシャトリアの義務は戦う事にあるのだから戦うことに迷うな。義務を果たせ」義務を果たさない事は不名誉な事です。
ヒンドゥー教はカースト制を肯定しますから、当然出てくる発想で、自分のカーストに外れない行いをせよ、と言っているのです。
 
 ヒンドゥー教徒ではない立場からすると可也過激な事を言っている様に聞こえる部分も在ります。しかし文学作品ですから読んでみると心を揺さぶる様な表現で語られているのです。
「貴方(貴女)の職務は行為そのもにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。」
この文章の意味は、結果を恐れる事無く、汝のなすべき事を成せ、と言っているのです。
この様な言葉だけを取り出すと結構勇気出て来る処も在り、最近注目されている様です。

 この様なな文学と共にヒンドゥー教の立場からの法も成立してきます。
「マヌの法典」、成立年月日は不明ですがグプタ朝の時代に完成され、当時の社会的規範や慣習を体系化したもので、これによってカースト制が固定化されたとされています。

 ヴィシュヌ神は化身する神ですが、何時の頃からか仏陀もヴィシュヌの化身とされました。
一時はクシャトリアやバイシャに支持された仏教もヒンドゥー教に吸収され、結局カースト制度は消えることなくヒンドゥー教と共に現在迄インド社会に生き続ける事と成ります。

インダス文明・終わり・・・

2013/05/08

歴史のお話その109:インダス文明⑬

<インドの諸王朝(大乗仏教、ヒンドゥー教)③>

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涅槃図

大乗仏教について:その②

 ブッダを慕う気持ちが強ければ強いだけ、在家信者達はブッダが死んでしまっていることに耐えられなくなります。
その様な在家信者に共感する修行者や仏教理論家達が存在し、彼等の中から大乗仏教が生まれてきます。

 大乗仏教の特徴はまず、在家信者も悟りを得て解脱することができると教えます。
出家修行者だけではなく、在家の信者も悟りの世界つまり彼岸(ひがん)に載せていってくれる大きな乗り物、之が大乗です。
これに対して出家者しか悟ることのできない従来の仏教を大乗側は小さな乗り物、小乗仏教と言っています。
又大乗仏教は歴史上の実在したブッダ以外に、理念としてのブッダの存在を考え、ブッダの教えを法、ダルマと称し、そのダルマそのものがブッダである、と考えるのです。
「宇宙の法則の中に永遠のブッダが存在している」、そう考えれば寂しくは在りません。

 大乗は歴史上のブッダ自身の教えと違うと問題視した人物が昔も今も存在しますが、ただ一般的な理解としては、大乗も仏教なので、ブッダの教えが理論的に発展して行ったものと考えれば良いと思います。

 ブッダが悟りをひらいたときにいったんは誰にも理解できないから、法を説く事はやめようと思ったのですが、考え改めて布教活動を始めたと前回書きましたが、この辺が重要と思うのです。
「ブッダであれば、在家信者を見捨てる事も無い筈で、在家信者も悟りをひらけるまで教えを説き続けてくれる筈だ」、と云う考えが生まれます。

 「菩薩」が当にその存在で、大乗では「菩薩」を考えました。
「菩薩」は悟る力は在りますが、他の皆が悟りをひらける様に成る迄待っており、他の皆が悟りをひらけた時にはじめて「菩薩」も悟りをひらく、大変有り難い修行者です。
「菩薩」は現実に存在かもしれず、又理念的宇宙的な存在として存在する者でもあるのです。
「仏」に対する信仰と共に「菩薩」に対する信仰も生まれ、色々な「菩薩」が考え出されました。
この部分は理解より、信じれるか否かの問題とも思います。

 大乗仏教の理論を大成した人物がナーガルジュナ、龍樹(りゅうじゅ)と漢訳し、龍樹菩薩とも呼ばれています。
2世紀から3世紀にかけて生きていた南インドの人物です。
「依存関係による生起」例えば愛。
私と貴方が愛し合っていますが、愛は何処にあるか、私の中にあるのか、貴方の中にあるのか、結果は貴方と私の間に存在するのです。
愛とは関係なので、貴方だけでも私だけでも、そこには愛は存在しません。
二人が只居ても存在せず、二人の間に、関係の中に愛が在るのです。
之が「依存関係による生起」です。

 更に例えをあげれば、「川はどこに在るか?」、ここに在ると私達は思いますが、実は存在していません。
そこは水と、水が流れる大地のえぐれに過ぎません。
水とその運動と大地の関係が川であり、川は関係に過ぎません。
これも「依存関係による生起」の説明で、この様に関係を分解していくと実在する物が何も無くなってしまい、之を「空」と呼びます。
これも大乗仏教の重要概念で、「色即是空、空即是色」、般若心経の一説ですが、この「空」なのです。

 お経はブッダの言葉を弟子達が、伝え其れをまとめたモノなのですが、大乗仏教はブッダが死んだ後から成立したので、正確にブッダの言葉ではないと主張されれば、当にそのとおりなのです。
只、ブッダは悟った人と云う意味なので、「ガウタマ=シッダールタでなくても悟った人物の言葉であれば、お経で在る」、と云う理屈にはなるかと思います。

 では一体大乗仏教のお経は、誰が書いたのかに関して、現在も全然分からないのです。
視点を変えて、悟った人物が書けばお経として認められるかと否かとなると此れは無理で、まずインドで書かれている事が条件の様です。
中国で書かれたお経も存在するのですすが、インドでの原典が無いモノは偽経といって贋作扱いされています。

 クシャーナ朝とナーガルジュナの活躍した時代は重なり、この時期に大乗仏教が一気にインドで流行し始めたのでしょう。

インダス文明・続く・・・

2013/05/07

歴史のお話その108:インダス文明⑫

<インドの諸王朝(大乗仏教、ヒンドゥー教)②>

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聖地サルナート・ダメーク・ストゥーパ

◎クシャーナ朝

 マウリヤ朝はアショーカ王の死後、分裂が生じ、次に重要な王朝がクシャーナ朝(1世紀~3世紀)。この王朝はイラン系民族が支配者で、インドよりは現在のアフガニスタンに中心地があるのですが、インドの西北部も支配した、という国家で、首都はプルシャプラ。
 
 この国はやはり仏教との関連で重要です。
一番目はカニシュカ王(在位130年~170年頃)が、仏教を保護し第四回仏典結集を行いました。
二番目として、この王朝でガンダーラ美術と呼ばれる仏教美術が成立しました。
仏像の製作が始まったのですが、インド人には仏像を作る風習はなく、ブッダの生涯を描いた彫刻などがあってもブッダの部分だけは空白で表していました。
これはユダヤ教、キリスト教的な偶像崇拝禁止の意味ではなく、解脱してこの世界のものではなくなった事を空白で表現したのです。

 この仏教がクシャーナ朝でも信者が増え、クシャーナ朝の本拠地は中央アジアを含み、ここにはアレクサンドロス大王の遠征の際、残されたギリシア人達の子孫が居り、ギリシア文化は彫刻が得意な文化ですから、多分仏教信者になったギリシア系の人々がブッダをはじめて彫刻に刻んだと思われます。
それがガンダーラ美術と呼ばれるもので、その影響か仏様の顔も服も少々ギリシア風です。
三番目は、この国で大乗仏教が栄えました。
この大乗仏教とガンダーラ美術が中央アジアを通って中国、そして朝鮮半島、日本に伝えられることになるわけです。

◎大乗仏教について

 前にも説明した様にインドの宗教は出家して、修行しなければ解脱できません。
即ち救われないのですが、すべての人が日常生活を放棄して出家できる訳では無く、その人達は修行者にお布施をしたり徳の高いお坊さんの傍に居られることで満足していました。

 さて、そこでブッダが死んだ時の話です。
ブッダが死んだ時、修行を積んだ弟子達は、この世の無常であることを知っているから、じっと悲しみに耐えています。
入門暦の短い弟子達は、その部分に達していませんから、泣き声をあげます。
在家の信者達はどうかというと、彼等はブッダの高い徳を慕っていたわけなので当然嘆き悲しみます。出家した修行者達の様に冷静になる必要は全然ないので、亡きブッダに対して執着す、簡単に言うと少しでもブッダの傍に居たい、かれの亡骸を守りたいと思ったのです。
そこで在家信者達は、ブッダの遺骨を埋めてその上に塔を建てます。
この塔を「ストゥーパ」と呼びますが、ストゥーパにお参りしてはブッダを偲ぶような形で自分達の信仰を守りました。

 ブッダの信者はインド全域に居たので、信者のグループが居る処には次々にストゥーパが建てられましや。
その地下には分骨したブッダの遺骨の一部を埋葬しますが、このストゥーパは仏教の広がりとともにアジア各地に広がっていきます。
日本では、例えば有名な法隆寺の五重塔、この建造物はストゥーパが中国風に形を変えた物です。
従って、あの五重塔の下にもブッダの遺骨の一部が埋葬されている、事になっています。
日本全国あらゆるお寺の塔の下にはある、事になっているのです。

 世界中の仏塔はその数が正確に把握出来ない程に存在し、ブッダの遺骨はどんどん細かく分けられて小さくなっています。
このブッダの遺骨の事を仏舎利(ぶっしゃり)呼びます。
ところで、世界中の仏舎利を集めたら数十人分の人骨になるそうで、でもこれが信仰というものでしょう。
少しでもブッダの側に居たいという気持ちがそれだけ強かったのです。

インダス文明・続く・・・
2013/05/06

歴史のお話その107:インダス文明⑪

<インドの諸王朝(大乗仏教、ヒンドゥー教)>

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◎マウリヤ朝

 ガンジス川流域に生まれた幾つかの小王国の中から、強国が成長してくるのが紀元前5世紀頃、代表的な国がコーサラ国とマガタ国。

 紀元前4世紀末、初めて北インド全体を統一する王朝が登場します。
これがマウリヤ朝(紀元前317年~紀元前180年)、首都はパータリプトラ、建国者がチャンドラグプタ。
この人物はインド史では非常に大切な存在で、彼の存在がインドの年代確定の為のキーパーソンなおです。
 
 以前にも書きましたが、インド人は輪廻転生を信じている影響からか、歴史記録に殆ど関心がなく、国事に関わる問題や、統治者の生没年度、戦争、大きな事件が何時発生したかを余り熱心に書き留めておきません。
従って、インド史は時系列の配分が難しく、極端な喩えではブッダの生没年にしても諸説あることは前回も書きました。

 ところが、このチャンドラグプタは何時の年代の人物か明解なのです。
何故かというとギリシア人の記録に登場し、アレクサンドロス大王が東方遠征に出て、インドに侵入した時に彼を迎え撃ったのが、このチャンドラグプタなのです。
その為、何時の人物か明解に分かるので彼を基準として、インドの古代史は編まれています。
チャンドラグプタはインダス川流域からギリシア人勢力を駆逐し、その勢いでマガタ国に取って代わりマウリヤ朝を建国し、北インドを統一しました。
 
 マウリヤ朝の三代目の王が有名なアショーカ王(在位紀元前268年~紀元前232年頃)です。
彼はインド全土をほぼ統一、インド亜大陸の南端だけは領土に成らなかったのでほぼ統一と云います。
 
 アショーカ王は、仏教との深い関係でも有名です。
アショーカ王は南方のカリンガ王国を滅ぼした時数十万人を虐殺したのですが、その行為を後に後悔して仏教に帰依したと伝えられています。
政治も暴力ではなく、ダルマによる支配を行う様に成りました。
このダルマとは「法」と訳していますが法律ではなく、道徳的な徳目で、このダルマは仏教の教えに影響されているようです。

 アショーカ王はこのダルマを刻んだ石柱碑、磨崖碑(まがいひ・崖に刻んだ碑文)を各地に作りました。
この石柱碑が発見されるとアショーカ王時代にマウリヤ朝の領土であった事が確定するのです。
又、アショーカ王は第三回仏典結集を行いました。
結集は「けっじゅう」と読み、伝統的な読み癖です。
仏典結集とはブッダの教えが時と共に食い違っていかない様に、各地の仏僧が集まってそれぞれの集団が伝えているブッダの教えを確認し合う行為です。

 第一回仏典結集はブッダの死後すぐに行われ、第二回はそれから約100年後、そしてアショーカ王が主催したのが第三回です。
 
 興味深い事ですが、当時は未だブッダの教えを文字として記録しておらず、その為口伝えでブッダの教えが伝えられており、その教えを確認する為にやはり、その全文を誰かが暗唱するのです。
それを聞いて他の僧達が、「それで良い」と確認します。

 ブッダの教えが文字に記録されるのが1世紀位なので、口伝えの伝統はお経に残り、すべての仏典は「私はこう聞いた」と云う意味の言葉から始まっています。
日本に伝えられている大乗漢訳仏典も、ブッダの弟子が、「師の教えをこの様に聞きました」と確認している結集の口調がそのままなのです。
アショーカ王は、又南のセイロン島に王子を派遣して仏教を伝えさせたとも云われています。

 アショーカ王は仏教に因んだ話題が多いのですが、実際にはジャイナ教も保護しています。
バラモンの権威に反対する宗教を保護した結果でしょうか。

インダス文明・続く・・・

2013/05/04

歴史のお話その106:インダス文明⑩

<ウパニシャッド哲学と新宗教⑤>

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手塚治虫・ブッダより

◎仏教

 仏教の開祖はガウタマ=シッダールタ(紀元前563年~紀元前483年頃)、尊称はブッダ、生没年は色々な説が諸説在り、現在でも確定されていません。
先のマハーヴィーラも同様で、インド人は歴史記録にあまり熱心ではなく、輪廻の思想から生死を繰り返すと考え、年代の記録が極めて少ない様です。
  
 ブッダとは「悟りをひらいた者」の意味で、ガウタマ=シッダールタ以前にもブッダになった者がいたとも伝えられています。
余談ですが、お釈迦様、シャカはガウタマの属した部族の名前で、ガウタマはシャカ族の王子に生まれます。
 お嫁さんも居り、子供も産まれ何不自由のない生活を送るのですが、人生の無常を感じて国や家族を捨てて出家して修行の道に入ります。
森に入れば、修行者が沢山居り、ガウタマは仲間を見つけて修行の日々に明け暮れ、この頃から既にヨーガが確立されており、ヨーガの先生について学んだ事も在りました。
断食も相当激しいものを行った様です。

 ところがいくら過激な苦行をしても、悟りの境地には達しません。
ガウタマは苦行によって悟りをひらく事を諦め、里に下りました。
里に下りて川の畔でガウタマが一息ついている時、修行を辞めてきたばかりだからガウタマは多分ガリガリに痩せていたのでしょう。
村の娘さんが「お坊さん、どうぞ」とミルクを恵んでくれました。
因みにその村娘の名前がスジャータ。(何処で聞いた事が在りませんか?その名前の由来が彼女です)

 重要な事ですが、仏教でもジャイナ教でもインドの宗教に共通ですが、悟りをひらいて解脱できるのは、出家して修行している人だけです。
在家で、普通の暮らしをしている人は決して解脱で出来ず、在家信者も救われる仏教が生まれるのは後の事です。
では、在家の人達の救いは何処に在るのかと云えば、修行しているお坊さんにお布施をする事なのです。
解脱は不可能ですが、解脱を目指している人のお手伝いをする事で良い「業」を積む事が出来、良い業を積めば今度生まれ変わる時に、今より少しでも良い所に生まれ変わる事ができる、考え方です。

 スジャータからミルクをもらい生命力がよみがえったガウタマは、菩提樹の下で瞑想し、悟りの境地に達しブッダとなりました。

 此れからが後の仏教の展開にとって大事なところです。
悟ったガウタマは次の様に考えました。
「この悟りは、とても言葉で表現できるものではない。言葉で説明しても誤解されるだけだ。だから、人に教える事はやめておこう」。
しかしながら、すぐに思い返し、「悟りに近いところにいながらあと一歩のところで悟れない人がたくさんいる。私が教えを説くことによってそういう人々が悟れるようになるかも知れない」。
喩えですが、水面すれすれで咲いている蓮の花を本の少しだけ引っ張り上げる事で、水上で咲けるように成ります。
この場合、水上が悟りの世界です。

 布教活動が初まり、そして布教を決心して最初に出会った人物が苦行時代の仲間でした。
最初は彼を無視するのですが、結果ガウタマの説法を聞いて彼の悟りを確信して最初の弟子になったと云われています。

 ガウタマの説いた仏教とは、基本用語は四諦(したい)と八正道(はっしょうどう)です。

四諦は四つの真理という意味で、
一番目の真理、「人生は苦である」、ウパニシャッドの基本です。
二番目、「苦しみには原因がある」。
三番目、「原因を取り除けば苦しみも消える」。
四番目、「原因を取り除く方法は八正道である」。

八正道とは、単純に八つの正しい道です。
一、正しく見る。
二、正しく考える。
三、正しく話す。
四、正しく行動する。
五、正しく生活する。
六、正しく努力する。
七、正しく思いめぐらす。
八、正しい心を置く。

 之を見ると当たり前の事と思いますが、これが仏教の特徴で、ブッダは苦行を否定し極端を避けるのです。
 
 ジャイナ教に比べるとハッキリしない教えの様に感じますが、当時の人にはこの単純明快さが逆に新鮮であったのではないかと思います。
命を落とす程苦行する事が当たり前の世の中で、ブッダは苦行を否定して、理論によって悟る道を示したのでした。

 仏教もジャイナ教も王侯貴族、クシャトリアやヴァイシャに保護されて発展していきました。
例えば平家物語の冒頭、祇園精舎は有力商人がブッダの教団のために寄進した庭園を漢訳したものです。

 ジャイナ教は今でも信者が居ますが、仏教徒はほとんど居ません。
13世紀初頭,仏教の教団根拠地のビクラマシラー寺院が、イスラム勢力に破壊されてインドの仏教は消滅しました。
寺が破壊された結果、衰退する事事態、当時すでに一般民衆の信者が極めて少なかったと思われます。

 現在のインドの仏教徒は前回話したアンベードカルに始まります。
アンベードカルは不可触民解放の運動を続けて、結局カースト制がある限り差別はなくならないと考え、カースト制を否定するインドの思想を調べて仏教に巡り会いました。
カースト制のないインド社会を作るため仏教に改宗し、皆にも改宗をすすめました。
只、改宗したのはアンベードカルと同じ不可触民のカーストの人だけで、現在でもそれ以外の人にはなかなか広がっていない様です。

インダス文明・続く・・・
2013/05/03

歴史のお話その105:インダス文明⑨

<ウパニシャッド哲学と新宗教④>

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≪ ラーナクプル・アーディナータ寺院 ≫

◎ジャイナ教とは

 開祖はヴァルダマーナ(紀元前563年~紀元前477年頃)、尊称マハーヴィーラ(偉大なる英雄)。彼は「輪廻」の原因である「業」を身体に付随した物質と考え、苦行を行う事によって前世から付き纏う「業」を消去し、新たな「業」が生じない様にできると考えました。
その為に苦行と徹底した不殺生を説きます。

 「不殺生」、生き物を殺さない事ですが、仏教でも使う言葉なので理解できると思います。
なぜ、生き物を殺さないのでしょう。
此処で云う「不殺生」は、ヨーロッパ的動物愛護精神とは全く関係在りません。
「輪廻転生」をインド人は信じており、死んだら何か別の生き物として生まれ変わります。
例えば、蚊が腕に止まって血を吸っていたら、たたいて殺したくなるのですが、「輪廻」を信じていたらこの行為は不可能です。
何故なら、この蚊は過去に逝去した、友人、知人、家族の生まれ変わりかも知れません。

 「菜食主義」も同じ発想から生まれてきます。
レストランで食事を注文したら牛の肉がでてきました。
しかしこの肉に成ってしまった牛は、過去の知人、友人、家族の生まれ変わりかも知れないと考えたらとても食べられませんね。
この部分が、「不殺生」や「菜食主義」の生まれてくる理由です。

 ジャイナ教は徹底した不殺生で、絶対に生き物を殺しません。
歩いたら蟻等を踏んで殺すといけないので、できる限り歩かず、じっと座って信者がお布施してくれるのを待つのです。
どうしても歩かなければならない時は箒を持って、一歩一歩地面をはいて虫がいないことを確認してから足を踏み出すのです。
ゆっくりとしか歩けませんが、修行ですから仕方が在りません。

 修行者は服を着ている事も在りますが、マハーヴィーラ自身は裸でした。
一切の財産を持たないので、衣類まで捨ててしまいますが、後の時代には衣類を身につけるグループも出てきたものの、初期のジャイナ教とは皆裸です。
今でも全裸の修行者はインドに居り、確か私は高校生か大学生の頃、テレビでインドの聖地の祭りをNHKで特集していたのですが、全裸の男性が一瞬ですが写っていました。
但し、ジャイナ教徒かどうかは分かりませんが。

 苦行は基本的には断食で、「業」を消した後は新しい「業」が身に付かないように断食しながら餓死することを勧めていたようです。
「梵我一如」を実現したのなら、生きている意味も無くなっていますから、そのまま死を迎えましょうと諭しているのです。

 ジャイナ教は現在でも信者がおり、商人等の資産家が多いとの事です。
農業に従事すると土の中のミミズやなんかを殺すかも知れないから、古くからジャイナ教徒は商業に従事したようです。
商人ではありませんが、インド独立の父として尊敬されているガンジーもジャイナ教徒の家に生まれています。

インダス文明・続く・・・
2013/05/02

歴史のお話その104:インダス文明⑧

<ウパニシャッド哲学と新宗教③>

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◎新興宗教の成立

 如何にすれば、心の曇りを取り払い「アートマン」を自覚するか、これは色々な人が色々な方法を唱えています。
仏教もその方法の一つであり、ヨーガも又その一つでしょう。
ヨーガにも色々な種類が在るとのことですが、日本で良く紹介されるのは本来、身体と精神を極限まで追い詰めようとしているのです。
肉体を限界迄追いつめて追いつめて、欲望や体内の脂肪等、余分なものを捨て去り、その後に残る最後のもの、「アートマン」を捉えようとしているのです。

 話を古代インダス文明に戻して、この様な思想が紀元前500年の前後数百年くらいの間に生まれて、インド世界に広まりました。
梵我一如、輪廻転生、業、解脱、という考えはインド人の常識に成って行き、この後インドに生まれる多くの宗教はこの思想を下敷きにしているのです。


 ウパニシャッド哲学を土台にした新宗教が紀元前5世紀頃に登場してきました。
他にも色々な宗派が生まれた様ですが、後世まで影響力を存続し得た宗派が二つ、これが仏教とジャイナ教です。

 この時期に新宗教が登場した背景を整理します。
農業の発展に伴って、特にガンジス川流域に幾つかの強国が成長してきます。
支配者の王や武人はクシャトリア身分、又、交易も活発化してきますから、商業の担い手だったヴァイシャ身分の中には王侯貴族に劣らない経済力を持った者も台頭してきます。

 クシャトリアやヴァイシャが力を付けてきても、バラモンの方が身分的には偉くて上位に君臨しています。
バラモンは経済力や武力は持ち合わせませんが、神々を盾に権威を持っています。
身分的にはクシャトリアもヴァイシャもバラモンの上には成れませんから、クシャトリア、ヴァイシャは、バラモンの権威を否定してカースト制を打ち壊してくれる宗教や思想を待ち望んでいたのです。

 森林にはウパニシャッド哲学を深める修行者達が無数に居て、この中から新しい時代に合った宗教が生まれて来ました。
それが、仏教であり、ジャイナ教です。

 この二つの宗教の共通点はともに開祖がクシャトリア出身であること、バラモンの権威を批判しカースト制を否定したことです。

インダス文明・続く・・・
2013/05/01

歴史のお話その103:インダス文明⑦

<ウパニシャッド哲学と新宗教②>

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◎ウパニシャッド哲学その2

 二つ目は宇宙の真理について。
ウパニシャッド哲学では、宇宙の根本真理・根本原理が存在すると考え、これを「ブラフマン」と呼びますが、これを中国で漢訳したのが「梵(ぼん)」という言葉です。

 当然修行者達はこの真理「ブラフマン」を自分のものにしたい、掴みたいと思います。
この宇宙の真理ですが、ユダヤ教やキリスト教でこれを神と考え、プラトンならイデアと言うでしょう。
キリスト教やプラトンは神やイデアが遠い場所に存在して、人間はそれに向かって進んで行く、それに少しでも近づく、その様に考えていました。
真理は自分の外の何処かに在ると考えたのです。

 一方ウパニシャッド哲学はこの様に考えます。
宇宙の根本真理「ブラフマン」を掴もうと私達は何処かを探すのですが、思い直せば「私」も宇宙の中の一部です。
宇宙に根本原理があるならば、「私」も宇宙の一部なので、「私」の中にも宇宙の根本原理が宿っている筈です。
何処か遠い処に真理が存在するのでは無く、自分の中に真理は在る、この辺がキリスト教やプラトンと違う発想です。

この「私」の中の真理を「アートマン」と云います。
一般には「個人の根本原理」と説明される事が多く、漢訳では「我(が)」。
私の中に「アートマン」=「我」があって、それが「ブラフマン」=「梵」と究極的には同じモノであるとウパニシャッド哲学は教えます。
これを「梵我一如(ぼんがいちにょ)」云いますが、仏教用語としても流入しているので、仏教にもこの哲学が引き継がれている訳です。

 誰もが自分の中にアートマンを持っている訳ですが、それが簡単には自覚することが出来ません。其れは、様々な物質や欲望によって心が曇っているからで、では何らかの修行によって心の曇りを取り払い、自分の中に「アートマン」を見つけだしたらどうなるかと云えば、それは「ブラフマン」と同じなわけですから、二つは一体化することに成ります。
一体であることを「私」が理解するその瞬間に「私」は「宇宙」と一体となる訳で、一体と成る事は、言い方を変えると自分が消えると云う事です。

 自分が消える、即ち「業」が無くなると云う事で、自分が宇宙と一つに成るのですから、私の行為も消える事に成ります。
「業」が消える。
輪廻転生の原因は「業」なので、私が消え「業」が消えたら、そこには輪廻する対象が無くなってしまい、これが「解脱」で在って究極目標です。

 以上がウパニシャッド哲学を簡単に説明しました。(大学時代のノートが役に立ちました)
この思想に基づいて多くの修行者が、梵我一如実現の為に修行生活に入り、そして、其れは現在迄続いています。

インダス文明・続く・・・