2013/06/29

歴史のお話ぞの150:統一から分裂へ①

<三国時代その①>

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◎後漢末期の情勢

 後漢は2世紀以後、幼い皇帝が連続して擁立され、成人の場合でも権威の無い皇帝が連続してしまいます。
結果は、前漢の末期と同様、再び外戚や宦官が権力を握る事に成りました。

 特に後漢の場合は宦官が力を持って宮廷を影で支配していましたから、官僚にとって好ましく無い状況です。
官僚は皆儒学を修めて要る為、学問の無い宦官が政治に関わる事は理念的に許されません。
宦官に謙って出世を試みる官僚も中には居ましたが、宦官の専権に抵抗して後漢の政治を正しい姿に復帰させ様と考える、理想に燃える官僚達も可也存在していたのです。
この様な官僚を「清流(せいりゅう)」と呼び、清流官僚達は宦官を批判し、世論も彼等の味方をします。

 この様な状況を、宦官がそのまま放置する筈も無く、清流官僚に対する大弾圧が実施されます。
これを「党錮(とうこ)の禁」(166年~169年)と呼称ぃます。
清流官僚達のグループを政界から永久追放し、中には暗殺された人物も存在しました。

 清流官僚は、後漢の国家運営に対して責任感を持った真面目な人物達なので、彼等を潰す事で後漢の宮廷は官僚達の支持を集められなくなりました。

後漢の政府は豪族の連合政権の様な組織と以前に説明しましたが、官僚は中央政界では官僚ですが、出身地に帰れば皆豪族なのです。
彼等は二面性を持っており、儒学を教養として身に付けて、皇帝の為に働けば国家は安泰ですが、党錮の禁で彼等は後漢の政府に決別しています。

 官僚としての顔を断ち切った豪族達の態度は、豪族としての私利私欲の追求に走るようになります。若しくは、世捨て人の様な精神世界の追求に入ってしまうのです。
この様な人を「逸民(いつみん)」と呼称します。

 地方で豪族が私利私欲に走ると如何なる結果を生むでしょうか?
彼等は、土地を独占し、更には後漢の政府は地方の水利工事等、一切の公共工事を停止と云うより、立案さえしなくなり、自作農は経営が不安定になり、その結果天候の不順ですぐに農業経営は破綻し没落する事になります。
最終的には豪族に土地を奪われて、小作や奴隷になるのですが、それでも生きて行ければ未だ良い方で、多くの農民達が生活の基盤を失い、流民となるのでした。

三国時代:続く・・・

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2013/06/28

歴史のお話その149:漢の復興③

<漢の文化その②>

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◎漢の文化その②

 自分がこの様な処遇を受ける事を考えると、司馬遷は人間の生き方というものを考えざるを得なくなります。
李陵将軍を弁護した事は正しいと司馬遷は考えましたが、武帝から屈辱的な刑を受けてしまいます。人間の運命とは何なのでしょう。
上記を踏まえながら、司馬遷は歴史上の人物について伝記を執筆します。
自分の主義に忠実な為に死に追いやられた者、悪事の限りを尽くして天寿を全うした盗賊等が列伝に登場します。
武帝に刑を受けながらもその臣下として生きている司馬遷、その彼が書く漢の歴史、武帝の時代。
其れは様々な経験や思考が「史記」の行間に満たされています。
名著の所以ですね。

 又、司馬遷は「史記」を執筆するに際して、宮廷の記録を利用するだけでなく各地を見聞しています。
後漢の時代には班固が「漢書」を著しました。
形式は紀伝体で司馬遷の方法を踏襲し、「史記」が前漢の武帝の時代で終わっているので、班固は前漢の時代をその滅亡迄書き連ねました。
これ以後、後の王朝がその前の王朝の歴史を書く事が一般的に成ります。
因み班固は西域都護だった班超の兄にあたる人物です。

 漢では当初儒学は低調でしたが、やがて経典が整備されます。
『詩経』(しきょう)『書経』(しょきょう)『易経』(えききょう)『春秋』(しゅんじゅう)『礼記』(らいき)の五つで、全部総称して五経(ごきょう)と云います。

 是等の経典は、春秋時代から戦国時代に形成された書物ですから、漢の時代の人々にも既に意味が分かりづらく難解なものでした。
そこで、経典の解釈学が発達し、これを訓詁学(くんこがく)と呼びます。
その代表的な学者が後漢の鄭玄(じょうげん)(127年~200年)、儒学を一応理解している事が当時の名士としての条件に成る為、豪族の子弟達も、これで一所懸命勉強に励んだのです。

 漢の時代の文化で絶対に忘れては成らないのは紙の発明です。
後漢の宦官、蔡倫(さいりん)が発明したといわれていますが、実際は蔡倫以前にも紙は存在した様で、蔡倫は紙を実用的に改良した人物となるのでしょう。

 紙の発明が、文化の発展普及にどれ程貢献したか考えてみましょう。
中国で紙が発明される以前は、竹や木を細長く短冊状に削った物に文字を書いていました。
これを竹簡(ちくかん)、木簡(もっかん)と呼び、長さも一本50センチ位在り、これ一本には長い文章を書く事は出来ないので、何本かの短冊(たんざく)を「すのこ」のように糸で綴り、これに文を書くのです。
 「冊」の字はこの形に由来し、収納時にはぐるぐる巻いておくので、これを「巻」と云います。
現在でも連続して発行される書物を一巻、二巻と呼ぶのはこの為です。

 当時、竹簡、木簡は大変重量は在り、その保管も大変な場所を要しましたから、豪族や官僚でなければなかなか個人で書物を持つ事は難しかったのです。
勉強したい人物は自分が調べたい竹簡、木簡を所有している人の場所に重たい木簡抱えて行き、ひたすら書き写しました。
筆記用具は墨と筆、書き間違えたら短刀で木簡を削って書き直のです。
これが軽くて薄い紙に替わり、書物を読み、保管する事が遥かに簡単に成りました。
 

漢:終わり・・・

2013/06/27

歴史のお話その148:漢の復興②

<漢の文化その①>

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司馬遷(紀元前145/135年? – 紀元前87/86年?)

◎漢の文化
  
 前漢では司馬遷(しばせん)(紀元前145年?~紀元前86年?)。
代表的歴史家でその名著が「史記」、神話、伝説の時代から彼が生きていた前漢武帝の時代迄の歴史が書かれています。
この歴史書の書き方も重要で、紀伝体(きでんたい)形式で書いていますが、司馬遷が紀伝体という書き方を考案し、この書き方が以後中国では歴史書の書き方の模範になりました。
本紀(ほんぎ)と列伝(れつでん)の二つの部分から構成されている為で紀伝体と云います。

 本紀は年表形式で、何年何月に起こった出来事を宮廷中心に羅列されています。
列伝はそれぞれの時代に生きた個性的な人物の伝記を集めたものです。
歴史の中で翻弄される人間達の運命を物語的に書かれており、この列伝が興味深い読み物です。

 司馬遷は前漢武帝に仕えた人です。
史官の役職で、宮廷の出来事を記録する事が彼の家系の仕事でした。
司馬遷の父親も史官として漢の宮廷に仕えていたのですが、父親は史官としての仕事以外に自分の個人的な仕事として、歴史書を書こうとしていました。
それが「史記」なのです。
ところが「史記」を完成させる前に父親が亡くなり、息子司馬遷がその仕事も引き継いだのですから、司馬遷は宮廷勤めのかたわら、情熱を傾けて「史記」を書いていました。

 武帝は積極的に西域経営を行い、匈奴征伐を繰り返していましたが、その遠征軍に李陵(りりょう)と云う将軍がいました。
この将軍も五千の兵を率いて匈奴征伐に出陣するのですが、逆に匈奴に包囲されて降伏します。

 この知らせが長安の宮廷に届くと武帝は烈火の如く怒り、李陵将軍の一族は都に住んでいるのですが、武帝はその家族を総て処刑せよ、と命じます。
その時、史官司馬遷はその場に居合わせ、彼は李陵将軍の人徳を知っており、彼を弁護したのです。
「李陵将軍は立派な人物です。降伏したのには余程の訳があったに違いありません、事情が分かるまで、家族を処刑するのはお待ちください」、と。
 武帝はこれを聞いて更に怒り増長させます。
「お前は史官の分際で皇帝の判断に口出しするか!」。
 結果的に、司馬遷も死刑になる事に成ったのですが、彼には父親から引き継いだ「史記」を書き上げるという重要な仕事が在るのです。
当時死刑と同等に重い刑で宮刑(きゅうけい)が在り、これは性器を切り取られる刑で、宦官にされてしまうのですが、司馬遷はどちらかを選択することができました。

 宮刑が死刑と同じ位、重いのでしょう?
男性性器を切り取られると事は男でも女でも無くなり、人間では無くなった、人間界に別れを告げる事を意味したからです。

 当時の感覚では人間以下のものになってまで生き続ける事は、死ぬよりも辛い事ですが、司馬遷は「史記」を完成させるために宮刑を選びました。

 宮刑を選んでも実際、生死の確立は死の方が遥かに高く、当時は医学も進歩していませんから、止血、消毒、皮膚の蘇生等は、受刑者の再生能力にかかっていたのです。
手術後の細菌感染が阻止出来ず、生存率はかなり低く、手術後は室温を高くしたサウナ室のような部屋に一週間閉じこめられ、一週間後生きながらえてこの部屋から出て来られたら、宮刑は成功との判断を下されます。
多くは、合併症で死に至る事が、殆どでした。

漢:続く・・・
2013/06/26

歴史のお話その147:漢の復興①

<漢の復興>

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◎後漢

 新滅亡後の混乱を収拾して新しい王朝を建国した人物が劉秀、皇帝としての称号は光武帝、国号は漢、都は洛陽、一般には後漢と呼びます。
劉秀は前漢皇帝家である劉氏の血筋を引いており、漢を復興した人物です。
彼自身は当時、地方の豪族で、豪族反乱軍の指導者から皇帝に迄昇りましたが、豪族勢力の協力や支持がなければ後漢は建国出来ませんでしたから、後漢は豪族の連合政権でも在ります。

 後漢の政治は前漢と同様ですが、対外政策、西域政策に関しては注目すべきものが在ります。
後漢初期には、班超がシルクロード沿いのオアシス諸都市国家を後漢に服属させて、西域都護として活躍しました。

 班超の部下となる甘英(かんえい)は班超の命を受け、西の方向に使者として派遣されました。
「西に向かって進めるだけ進め」、が班超の命令で、甘英は西に向かって旅を続け、最後に海に到達し、これ以上西に進めないと判断して都に引き返したのです。
甘英がどこまで旅をしたのか、興味深く、甘英によると海があった国は大秦国(だいしんこく)ですが、この国がどの国を指すのでしょうか?

 甘英が辿りついた海は何処でしょう?
これには二説あって、一つはカスピ海説。
湖ですが、初めて湖岸に立てば海と思う位広い湖で、もう一つが地中海説。
シリアの海岸迄辿りついて、引き返したとのしょうか?
現在では地中海説が有力のようです。

 では大秦国は何かというと、ローマ帝国を意味する事に成ります。
後漢の軍人がローマ帝国迄辿りついたと仮定しても、実に遠大な旅を行ったものです。

 このローマ帝国説を補強する記録が存在し、班超、甘英の時代から少し後の166年、中国南部の日南郡に一隻の船が着きました。
この船の乗員は大秦国王安敦(あんとん)の使者と名のっているのです。
大秦国がローマ帝国と仮定すれば、安敦とは誰でしょう。
当時のローマ皇帝はマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝で、五賢帝の最期の皇帝です。
アントニヌスを音写して安敦にほぼ間違いないと思われます。

 但し、ローマ側の記録にはマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝が中国方面に使者を派遣した記録は存在せず、当時の漢に到着した人物達が、本当にローマ帝国の使節なのか、ローマ皇帝の名を騙った西方の商人ではないかとか云われていますが、この時期に東西の二大帝国が少しだけ接触していたことには変わりが在りません。

漢:続く・・・


2013/06/25

歴史のお話その146:漢から新へ

<新と王莽>

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◎新

 武帝の死後、地方での豪族の成長がめだってきます。
奴隷や小作農を使用して大農場経営を行なってきた実力者です。
漢では郷挙里選という官吏登用制度が行われていましたから、豪族の子弟は、この制度によって官僚として中央政界に進出して行きました。

 武帝死後の漢の宮廷では権力闘争が活発と成り、その権力闘争の主役は宦官と外戚でした。
宦官の身分は低く、奴隷に近い身分ですが、彼等は皇帝の身近に仕えて身辺の世話を行う立場なので、自然と政治的な機密に触れるように成ります。
皇帝の立場から考えれば、彼等は皇帝が幼い時から一緒に過ごした近しい存在の為、武帝の様な公私を判断できる皇帝でなければ、彼等に政治的なことを任せてしまいます。
宦官は本来政治に関わるべきでは無い人物なので、官僚からすれば腹立たしい存在ですが、皇帝の信頼を得ている宦官に逆らえず、この様な雰囲気では、正常な政治は行われ難くなります。

 外戚は皇帝の母方の親戚のことで、年少の皇帝が即位すると政治的なことは母親やお祖母さんが行うのですが、そうなるとその親族が高い位を独占していくのは当然の成り行きで、この外戚も皇帝の親族という特権をふりかざして政治にかかわってきます。

 別々の背景から権力を持つ宦官と外戚は当然仲が悪く、宮廷で両勢力の権力闘争を繰り返している間に地方では豪族勢力が着々と勢力を蓄えていく姿が、前漢後半からの中国史の大きな流れです。

 王莽(おうもう)は前漢第十代皇帝元帝の皇后の甥にあたります。
上記の外戚で、種々の繋がりを利用して高い地位に就くわけですが、この人は儒学の学者として行いが立派なので評判が良い人物でした。

 王莽は終に自ら帝位に即位し、この時王莽は前漢最後の皇帝から位を譲ってもらう形を取ります。この形式を禅譲(ぜんじょう)と呼び、平和的に帝位が移動したわけです。
前漢の皇帝家は劉家で、王莽はその親戚なので王家出身です。
皇帝の家が変わる為国号も変え、王莽の王朝を新(しん)(紀元8年~23年)と称します。

 王莽は学者としては評判が良かったのですが、皇帝になると政治は一気に混乱しました。
王莽は儒学の権化(ごんげ)の様な人物で儒学の理想を強引に現実社会にあてはめようとしたからです。
理念を押しつけるだけの政治で世の中が動くわけが在りません。

 地方で豪族や農民の反乱がおこり、豪族反乱が緑林の乱、農民反乱は赤眉の乱と云います。
これは反乱農民達が自分達の目印として眉毛を赤く染めていた為、付けられた名前です。
この様な反乱の中で王莽の政府は崩壊しました。

漢:続く・・・

2013/06/24

歴史のお話その145:漢番外③

<前漢番外その③>

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ヘディン著『彷徨える湖』に掲載されている、ロプ・ノール探検の様子

◎彷徨える湖

 今から2000年以上昔の事、漢地代の歴史書、「漢書」には、中央アジアのタクラマカン砂漠に「蒲昌海・(プーチャンハイ・ロプノール・ロプ湖)という大きな湖が在った事が記録されています。

 この湖の事は、同地代のヨーロッパ人にも知られており、地中海東岸の町、テュロスに住んでいたギリシア人マリノスの記録にも現れており、マリノスから300年程後の時代、地理学者プトレマイオスの作製した、アジアの地図にもその位置が記されています。

 当時、是ほど迄に遠く離れた国の人物が、中央アジアの砂漠の中に在る湖の存在を知り得たのは、このタクラマカン砂漠を往来した隊商の通る道が、東西交流の重要な道で有ったからなのです。
この隊商路は、「シルクロード」と呼ばれ、当時ヨーロッパ人は、中国を「セリカ(絹の国)」と呼び、ヨーロッパで生産出来なかった絹を大変珍重し、同じ重さの金と交換したと伝えられています。

 処が後年、このロプ湖の存在が、全く伝わらなくなり、この地域を1273年に通過した、マルコ・ポーロも砂漠に関する記録は、多いもののロプ湖については、全く記録が存在していませんでした。
長い年月、ロプ湖は、人々の記憶から消え去りましたが、1876年にこの地方を調査した、ロシア人プルジョワルスキーが、ロプ湖の存在を確認しました。
しかし、その位置は、一度程も南に在った為、地理学者の間では、彼の発見した湖は、ロプ湖では無く、全く別の湖であるとする説と中国の地図が間違っているとの説に分かれ、大論争が起こりました。

 ドイツの地理学者リヒトフォーヘンは、ロプ湖に流れ込むタリム川の流れが変化し、その為湖の位置が変化したとの説を発表したものの、当時、この事実を示す証拠が存在せず、彼の説は再考されませんでした。
その様な中、彼の弟子である、スウェン・ヘディンは、中央アジア探検を計画実行します。
ヘディンは幼少の頃、探検家ノルデンショルドが、北方航路を通過する事に初めて成功し、華々しく帰国したのを見て、自分も探検家に成ろうと決心した人物でした。

 ヘディンの第一回中央アジア探検は、1893年から1897年迄の4年を要したタクラマカン砂漠の横断でした。
之は、実に苦しい探検で、彼は九死に一生を得たのですが、途中で水が欠乏し、彼の従者4人の内3人は、喉の渇きが極限に達し、ラクダの小便に砂糖と酢を混ぜて飲み、2人は死亡し、1人は、危うく死を免れる程でした。
後にヘディンは、幾度も中央アジア探検を繰り返し、1906年の第三回探検の帰途には、日本にも立ち寄っています。
又、1933年には時の中国政府の要請を受け、自動車を使用して、中央アジアを調査しました。

 この探検活動を通じて、ヘディンは、彼の師であるリヒトフォーヘンのロプ湖の移動に関する学説を信じる様になりました。
ロプ湖は、水深が1mに満たない湖ですが、流れ込むタリム川が泥砂を運び込んでくる為、その泥砂が河口に体積し、川が湖に流れ込めなくなると、川は別の流路を見つけて他の低位置に流れ込み、新しい湖を形成するのだと考えられました。
ロプ湖が位置する砂漠には、その北側と南側に低地が存在し、上記の理由から、湖が移動すると結論したのでした。

 ヘディンが発見した「楼蘭」は、嘗て栄華を極めた都ですが、タリム川の流路が変わり、ロプ湖が南に移動した為、都市が滅んだと考えられます。
ヘディンは、ロプ湖の位置変化を1500年周期と推定し、1928年2月20日、トルファンにおいて、彼はタリム川の流れが7年前から変化し、以前の位置にロプ湖が移りはじめている事を聞き、彼が30年前に提唱した説が立証されたのでした。
ヘディンは、この1928年2月20日を探検家、学者として自分の生涯、最良の日であると記しています。

 以前、ロプ湖を紹介した時は、上記の説明で終わっていました。
しかし現在は、上流に位置する天山山脈の降雪降雨量により、湖に流れこむ流量が変化する為、湖が消滅を繰り返しているだけで、衛星写真等からも湖自体の移動等は発生しないことが明らかに成りました。

漢:続く・・・
2013/06/22

歴史のお話その144:漢番外②

<前漢番外その②>

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◎匈奴とフン族

 紀元前3世紀末、中国北東部、現在のモンゴル高原には、強大な遊牧民の国家が、出現しました。
この国家を建設した民族を漢民族は、「匈奴」呼び、秦の始皇帝が、“万里の長城”を構築したのも、この匈奴に対抗する為であり、漢の高祖(劉邦)に至っては、匈奴討伐が失敗した上、自分自身の身も危険に曝す結果となりました。

 紀元前2世紀には、匈奴の版図は更に拡大の一途をたどり、東は熱河、西は中央アジア、北はバイカル湖南部、南は長城に接する迄に及んだのでした。
しかし、匈奴が如何なる人種、如何なる民族に属するのか、現在でも確立されておらず、学会においても、古くからトルコ系とする説とモンゴル系とする説が対峙しています。
更に匈奴の支配階級が、アーリア系の白色人種であったとする説も後年、発表されました。

 匈奴には、文字が存在しない為、その言語体系を考察する手段が無く、漢民族の記録を頼りに研究が進められた結果、上述の様な見解が現れているのです。
しかも匈奴は、漢の勢力が強大となるに従い、次第に中国内部、中央アジア方面に圧迫され、更に追い討ちを掛けたのが、紀元前2世紀末から武帝による、数度に及ぶ討伐遠征であり、さしもの匈奴もこれを境に、衰退の道を歩む結果と成りました。

 紀元後1世紀の半ば、匈奴は南北に分裂し、南匈奴は漢に内属し中国北辺に移住し、やがて漢民族に同化され、北匈奴は、モンゴル高原にその勢力を保ったものの、1世紀末に行われた漢の討伐により、終に瓦解してしまいます。

 匈奴の国家は、此処に滅亡し、北匈奴の主力はシベリア南部を西へと敗走し、漢民族の世界から消えて行き、匈奴に関する記録も殆んど現れなくなります。
しかしながら、一時は、巨大な国家を建設した民族が、一朝にして滅び去る事は考えられず、事実、時代を下がる300年程後、モンゴル高原北部で、匈奴の子孫が発見された記録が存在する事からも一部の人々は、故地に残り、遊牧の生活を続けていたのでした。

 ちょうどその頃、ヨーロッパに未曾有の天変地異が発生していました。
ゲルマン民族の大移動であり、その誘因となったのは、「フン族」のヨーロッパ侵入でした。
4世紀後半から約200年間、ゲルマン諸民族は、次々に移動を重ね、その騒乱の中で西ローマ帝国は、476年に滅亡し、アッチラ王に率いられたフン族は、ヨーロッパを蹂躙したのです。

 フン族が、匈奴の後身ではないかとは、古くから学会において、提唱されて来た説であり、「匈奴」という文字の発音は、“フンヌ”若しくは“フンナ”であると推定され、漢帝国に圧迫された匈奴は、西への移動を重ねて、4世紀には、「フン族」として、終にヨーロッパに達したと思われます。
その移動した所々には、かつて匈奴が用いた物と同様の器物が発見され、かくして、「匈奴」と「フン族」は同一の民族で有ったとする説が、同族論の趣旨なのです。

では、匈奴=フン族は、200年以上の間に、ユーラシア大陸を横断する大移動を行ったのでしょうか?
又、匈奴は、トルコ系若しくは、モンゴル系の民族(アルタイ系)と推察されていますが、ならばフン族もアルタイ系の民族で在ったという事になります。
しかし、フン族をウラル系と主張する学者も居り、現在のフィン人(フィンランド)やマジャール人(ハンガリー)と同系の民族であるとする説で、更には、スラブ系とする説も存在しています。
匈奴、フン族は供にその民族系統もさるものながら、名称についても定説は存在せず、この二つの民族が同族である事を証明する事も容易な事では無いのです。
多分、200年を超える移動の間に、その移動地域の民族と交わり、匈奴本来の人種は、トルコ系民族に埋没してしまい、ヨーロッパに侵入したフン族は、全く別の人種だったのではないでしょうか?

漢:続く・・・

2013/06/21

歴史のお話その143:漢番外①

<前漢番外その①>

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◎王昭君の歩いた道

 中国の歴史上、悲劇の美女と言えば、如何なる人物を連想しますか?
私は、第一に王昭君の名前を思い起こします。

 今を遡る、2000年の昔、漢の都長安から、匈奴王の妻と成り、遥か北の方へ去って行く、其処は、寒風吹きすさぶ草原の中、宮殿も玉楼も無く、幕舎を住居として、毛皮を衣とする、口にする物は、羊の肉であり、飲むのは、馬、羊の乳。
絶世の麗容も風雪に拉がれ、故国を思い泣き暮らしつつ、枯骨むなしく、荒野に朽ち果てる。
しかも王昭君が、匈奴に送られた訳は、宮中に画工に金品を贈らず、醜く描かれた為と伝えられています。

 王昭君の哀話は、中国に於いて長く、かつ広く語り継がれ、既に六朝時代(紀元4世紀)には、物語として形創られ、歌曲として謡われ、唐代には、李白、杜甫もその詩の中に詠じたのです。
海を隔てた、日本にも伝わり、王昭君の曲は、雅楽にも収められ、又王昭君の物語絵巻が、王朝貴族に好まれた事は、源氏物語にも現れています。
そして、詩の題材としても好んで、取り上げられました。
「身は化して早く胡の朽骨たり、家は留まってむなしく漢の荒門となる」。
「昭君もし黄金の賂を贈らましかば、定めてこれ身を終うるまで帝王に奉まつらまし」。
之は、和漢朗詠集に収める「王昭君」の詩の一節です。

 時代は進み、元の時代には、戯曲にも脚色され、なかでも傑作は「漢宮秋」で、此処における、王昭君は、匈奴に送られる途中、国境の大河に身を投じます。
其れは、異国の男に身をまかせまいとする、漢族女性の誇りを示すものに違い無く、現実、元の時代、漢民族は、モンゴル族に支配されていたのですから。

 しかし、こうした物語に描かれた王昭君は、必ずしも彼女の真の姿を伝えたものでは有りません。
歴史書に記された彼女は、むしろ別の意味で非情でした。
異民族を懐柔する為、その王に後宮の美女を贈る事は、漢帝国では、政策の一部に過ぎず、皇族の女性でさえ、しばしば、涙を流したものでした。

 王昭君に関して、史書が伝える処は、以下の様で、西暦紀元前33年、匈奴の王、呼韓邪単于の願いに従い、漢の元帝は、五人の宮女を選び、これを賜ったのですが、その中の一人が、王昭君でした。
彼女は、17歳の時、宮中に仕えたのですが、数年を過ぎても皇帝の寵愛を得られず、其れを悲しみ、恨み、自ら求めて匈奴の王に嫁ぐ事と成り、然らば、彼女は、期する処が有って匈奴王の所は行ったのではないでしょうか?
伝えられている物語とは、かなり異なる状況と思います。

 さて、辞去の場に戻り、匈奴の王も長安に来朝しており、元帝は宴を設け、五人の宮女も席を同じくしました。
此処で初めて謁見する王昭君の豊容や、如何に。
その光は、宮廷を明るく照らし、左右も心動かされ、元帝も大いに驚き、彼女を留めんと欲したが、匈奴との約束を違える事は出来ませんでした。

 かくて王昭君は、匈奴に赴き、王の妃となり、一子を授かりますが、2年後呼韓邪単于は、世を去ります。
匈奴の風習では、父や兄の死後、後を継ぐ子や弟は、その妻も妃とします。
呼韓邪単于の長子が王となり、王昭君をも妃としますが、ここで、彼女は漢の朝廷に上書し、帰らん事を願いますが、もとより許されず、匈奴の地に留まり、更に2女を育て、9年を経て二度目の夫も世を去りました。

 その後の王昭君が、如何なる人生を送ったのか判りません。
呼韓邪単于の子供達は、次々と王位を受け継ぎましたが、彼女の子供だけは、王位に就く事は叶わず、或るいは、殺害されたとも伝えられますが、2人の娘は、王族に嫁ぎ、おそらく幸せな生涯を送ったと思われます。

 では、王昭君の悲劇とは、如何なる事でしょう。
現在でも、同様な物語が在れば、悲劇、悲話で在るに違い無いのですが、漢の時代に在って、彼女の生涯は、決して最高の悲劇では有りませんでした。
其れが、後世、多くの人々の涙を誘ったのは、歴史の記録が伝えない、更なる悲哀が在るのか、其れとも後世における、王昭君の哀話は、作家達の創作に過ぎないのでしょうか?

 もとより、王昭君の最後は、判りません。
その墓も、黄河の上流に青塚と呼ばれる場所が在り、古くから王昭君を弔った所と伝えられますが、真偽の程は、判りません。
他にも王昭君の墓と伝えられる墓も複数、存在していますので、彼女の名前が有名になった後、付けられた事もあると思います。

漢:続く・・・

2013/06/20

歴史のお話その142:漢⑧

<前漢その④>

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◎武帝の時代③

 漢の領土拡大は、朝鮮半島にも及びました。
朝鮮半島には当時衛氏朝鮮が、存在しており、この国は漢民族が漢民族によって建国された国家でしたが、滅亡させた上に楽浪郡等四郡を設置します。

 同様に南方にも南海郡等九郡を設置しました。

  武帝はこの様に東西南北で、軍事行動を積極的に行い領土を拡大出来たのは、劉邦以来の発展によって蓄えられた国庫が彼の政策を支えていたのです。
しかし、度重なる領土拡張戦争は、その国庫を財政難に陥らせてしまいます。
 
 内政面で様々な財政政策を実施したのです。
均輸法、平準法は共に物価調整を兼ねた、政府の増収策と説明されます。
 
 漢の国土は広い為、或る地方では豊作で穀物価格が安いのですが、他の地方では凶作の為、穀物価格が高騰している場合が在ります。
この様な時に政府が豊作の地方で安く穀物を買い付けて、凶作の地方で時価よりは安い価格で販売する方法が、均輸法の理屈です。

 平準法は同じ事を時間軸で行います。
穀物の安い時に政府が買い付けておき、高い時に販売する、方法でした。

 理論上は簡単ですが、実施する事は簡単では無く、情報収集、穀物の管理輸送、更には中央集権的に官僚制度が完成されていなければ、実行出来るものでは在りません。
武帝の時代には、庶民出身の人物でも大臣に登用される者も多数居り、此れは武帝の政策と無関係ではないと思います。
能力重視の政策の結果なのです。

 塩、鉄、酒の専売制。
専売制は政府が製造、販売を独占し、民間業者に販売させないことです。
塩は必需品ですから、政府から買う、政府も利益を得る仕組みです。
これらの政策は、前漢以後も多くの王朝によって試みられる財政政策の先駆けと成り、その意味でも武帝の時代は重要です。
その他、増税や、貨幣改鋳も行いました。

 内政面では、儒学の官学化が在ります。
董仲舒(とうちゅうじょ)の献策を受け、太学と云う官立学校を創設し五経博士(教師)に儒学を教えさせ、優秀な学生を官僚としました。
武帝の時代になると、宮廷には儒家に対する嫌悪感は既に存在せず、武帝は幼いときから儒家を好んでいました。

 官吏登用制度としては郷挙里選が実施されます。
郷挙里選の言葉の意味は「郷里」と「挙選」という言葉を組み合わせたもので、「挙選」は「選挙」と同義語です。
地方の役人が地元の有力者の推薦を受けて儒学の素養が在り、地元の評判の良い人物を中央に推薦する。
中央政府はその人物を官僚に採用する制度です。
地方の「郷里」で「選」んで中央に「挙(あ)」げる。だから、郷挙里選と呼びます。
この制度で中央に推薦される人物は、結果として地方の有力者、豪族の師弟で在る事が多かったのです。

 前漢時代、武帝の時代は当に栄耀栄華を極めた時代でしたが、その晩年は後継者で大変な労苦と成りました。
後継者争いで皇太子が無実の罪で処刑され、死刑を宣告したのは武帝ですが、後で無実を知る事に成り、最後は失意の中で武帝は崩御したかもしれません。
武帝の死と共に前漢の最盛期は終焉を迎えます。

漢:続く・・・

2013/06/19

歴史のお話その141:漢⑦

<前漢その③>

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◎武帝の時代②

 大月氏へ到達した張騫は、漢との同盟を申し入れますが、大月氏の王の立場では、張騫の申し出は危険でした。
特に張騫が漢の武帝から派遣されて、既に10年以上経過しており、武帝が現時点で生きているかどうかも判らず、存命で在っても今も匈奴討伐を考えているか否か、一切の確証も在りません。
使者ひとりが漢から大月氏に来る迄に10年の歳月が横たわっている事は、常識的に考えて同盟を結んでも共同作戦等行える筈は無いと考えたのです。

 そして、なによりもこの時の大月氏国は、豊かな国土を維持し、今さら匈奴と戦いを交え、以前の領土を取り戻す気持ちは、既に存在しませんでした。

 張騫は大月氏国に一年程滞在しましたが、結局同盟は無理と悟り帰国の旅に出ます。
この帰国の途中再度、匈奴の捕虜になるのですが、この時は幸運にも匈奴内部に混乱が生じ、その隙をついてまた脱走しました。

 紀元前126年、漢の都を出発から13年後、張騫はようやく長安に帰り着いたのです。
百人以上の従者は僅か一人に成り、加えて匈奴人の妻子を連れての帰国でした。
死んだと思われていた張騫の帰還に、武帝は感激し張騫は英雄と成りました。
大月氏との同盟は果たせませんでしたが、張騫は10年以上も「西域」で生活し匈奴や西域諸国の情報に極めて詳しく成っていたのです。
武帝はその情報をもとに匈奴に対して攻撃を企てたのです。

 対匈奴作戦で大活躍した将軍が、衛青(えいせい)と霍去病(かくきょへい)です。
叔父さんと甥の関係で、衛青は姉が武帝の寵愛を受け、その関連で出世の糸口を掴みましたが、将軍としての才能が在り、若い時から大活躍して出世して行きました。

 この二人の活躍で匈奴の勢力は、次第に衰えていきました。
匈奴は非常に広い地域を勢力下に置いており、その支配下には様々な遊牧部族やオアシス都市国家が点在しています。
領土に住んでいる人々の総てが匈奴人では在りません。

 従って、漢の積極的な軍事行動で、匈奴から漢に帰順する部族や都市国家も増加し、やがては匈奴の内部でも内部闘争は生じ、漢に服属する一隊も生まれてきました。
 
 張騫も再び「西域」に向かい、東西交易路上のオアシス諸都市を漢の支配下に置きました。
武帝の時代に漢の領域は西に張り出し、西域方面に敦煌(とんこう)郡等四郡を設けています。

 武帝の軍事行動で有名なのは汗血馬です。
張騫の情報に中央アジアの大宛(だいえん)国の話が在り、この国は汗血馬という名馬の産地と聞かされました。
遊牧民の匈奴と戦うにはその様な名馬を手に入れたいのですが、外交交渉は失敗、大宛に断られてしまいましたから、軍事力の動員です。

 李広利将軍が大宛遠征に派遣され、6万の軍を率いて出陣しますが、苦戦の連続で数年かかって帰国、しかも兵士は1万に減っていたと云いますから、どれ程は激しい戦いだったか想像できます。
しかしながら、彼等は3000頭の汗血馬を連れ帰る事に成功しました。
この馬を繁殖させて、匈奴との戦いに利用したのです。

 汗血馬とは如何なる馬なのでしょう。
この汗血馬が後に西アジアに伝わり、アラブ馬と成り、更にアラブ馬が、ヨーロッパに運ばれてイギリスで在来種と交配されてサラブレッドが誕生したのですから、速い馬だったのです。

漢:続く・・・


2013/06/18

歴史のお話その140:漢⑥

<前漢その②>

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◎武帝の時代

 劉邦の死後は、后の呂后が政府の実権を握る時期が在りますが、彼女の死後は又、劉邦の子孫達が皇帝として政権を担当していきました。

 六代目景帝の時、呉楚七国の乱(紀元前141年)が発生します。
漢の中央集権化政策に国を没収されるんではないかと恐れた呉、楚等の七つの国がおこした反乱でした。
数ヶ月でこの反乱は鎮圧され、この結果漢の領内に大きな国は消滅し実質上、郡県制に移行したのです。

 第七代目が武帝(紀元前141年~紀元前87年)、16歳で即位し50年以上の長期に渡って在位した、中国史上、名君の一人です。

 漢の建国から約60年を経て、大きな戦乱も無く、国庫は豊かになり、中央集権化も完成し、彼の時代が前漢の最盛期に成ります。

 漢は劉邦以来、匈奴に対して和親策をとっているのですが、匈奴はしばしば長城を越えて中国内地に侵入して、略奪を働いていました。
その様な背景の中、武帝は対匈奴討伐を積極的に行ったのですが、匈奴は遊牧民族なので、漢の軍隊が彼等の勢力範囲に出陣しても捕獲する事が出来ず、また、戦闘に持ち込んでも決定的な打撃を与える事が出来ません。
漢の軍隊は基本的に歩兵ですから、馬族の機動力に翻弄されました。

 やがて匈奴の捕虜から大月氏国の情報を得る事が出来ました。
中国の王朝では、自己の領土よりも西の地方を漠然と「西域」と呼びます。
その「西域」に月氏国が在るのですが、この国が匈奴の度重なる攻撃に晒され、更に西へ移動し、移動後を大月氏国と称し、匈奴に対して強い恨みを持っているとの事でした。

 その話を聞いて、武帝は大月氏国と同盟を結び、東西から匈奴を挟み撃ちする事を考えたのです。
同盟を結ぶ為には使者を「西域」へ派遣しなければならないのですが、「西域」は当に辺境の地、地の果てですから、宮廷の誰も使者に成りたがりません。
当時のそして、時代を過ぎても中国人にとっては、西域は魑魅魍魎の跋扈する恐ろしい世界と信じられていました。
当然ながら、その様な場所へ行く事自体、生きて帰れるとは誰も思っていません。

 その、危険極まりない「西域」への特使に志願した男が居ました。
その人物が張騫(ちょうけん)で、武帝は張騫が意思強固な人物と見込んで、彼に百人以上の警護部隊を同行させ、紀元前139年「西域」の果て大月氏国に派遣したのです。

 張騫は漢の領土から「西域」に踏み出した直後、匈奴側の守備隊に発見されてしまいます。
運良く殺される事は無いのですがが、そのまま捕虜になり匈奴人と共に生活する事に成ったうえ、匈奴人のお嫁さんをもらい子供も授かりました。
匈奴側から見れば、張騫は漢の情報源として貴重な存在なので、脱走防止の為、監視も相当厳重を極めたそうです。
10年間匈奴の中で暮らした為、殆ど匈奴人に成っていると思われたのですが、隙を見て妻子と従者を連れて脱走を実行しました。
この逃避行で関心する事が、漢に戻らず大月氏国へ向かった事で、張騫はあくまでも武帝の使命を果たそうとしたのです。

漢:続く・・・

2013/06/17

歴史のお話その139:漢⑤

<前漢その①>

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◎漢の政治

 秦にかわって劉邦が建国した王朝が漢、都は長安、漢は前後半に分かれますので通常は前漢(紀元前202年~紀元後8年)と呼びます。

※漢初期の政治

1)秦の過酷な支配を緩和する。

2)統治形態としての郡県制を廃し、変わって郡国制を実施。

 この政策は郡県制と封建制を併用した形で、劉邦は多くの人材を得て統一を実現しましたが、此れは劉邦が「親分肌」の理由で多くの武将が集まったわけでは在りません。
劉邦なら多大な恩賞を受け取る事が出来るとの打算が有ったから協力したのです。
皆、自ら金持ち、権力者を目指していた結果で、劉邦はその様な彼等を満足させねば成りませんでした。
又、秦は郡県制による急激な中央集権化で、反発を招いた事も一因です。
 
 その為、建国の功臣達や一族を諸侯として地方に封じましたが、漢帝国の内部に多くの王国が成立する結果となります。
王に成った者は、自分の王国内で大臣を任命し、実行支配を行いました。
一方、王国がつくられなかった地域には郡県制を施行して、皇帝直轄地としましたが、皇帝直轄地は全国の三分の一程度との事です。

 皇帝である劉邦としては、諸侯の期待に応えるには、この様な政策を実行せざるを得なかったのですが、若し各地の王が反乱を起こせば漢帝国は安泰では居られません。
郡国制は中央集権化に逆行していますから、劉邦は後に様々な理由で、有力な国を取りつぶし直轄地に編入して行きます。

3)対外政策。
 
 当初劉邦は北の脅威、匈奴に対して遠征を実行しますが、逆に包囲されて命からがら逃げ帰ったことが在り、以後は対匈奴和親策を選択し、一族の娘を匈奴の王に送ったり、平和を保つ事に努力します。

4)道家の重用。

 儒家は礼儀作法に極めて厳格ですから、劉邦達は其れを好みませんでした。
極端な言い方ですが、劉邦は、本来田舎の親分肌ですから教養等期待出来ません。
言い換えれば、本当の庶民なのです。

 例えば、彼の両親、母親は劉媼(りゅうおう)と記録されています。
「媼」は、おばあさんの意味ですから劉媼とは「劉の婆さん」と里の皆から呼ばれていた、そのままの呼び名で記録されているのです。
父親も劉太公と記録され、「劉じいさん」の意味なのです。

 劉邦自身も「邦」というのは、当時は「兄貴」という意味との説も在り、砕けた表現ですが「劉の兄貴」と呼ばれていたそのものが、そのまま名前に成ったと推定されます。

 劉邦が旗揚げした時から、従って来た部下達も、屠殺人や葬儀人等、当時社会の低層に属する人物が多く、良くても地方役所の書記官程度でした。
 
 結果この様な人達が、突如大帝国の皇帝や重臣に成りましたから、当初の宮廷は、内部的に可也宮廷らしく無い世界だったと推定されますので、「無為自然」の道家は受け入れ易かったのでしょう。

 ただ、国家を運営して行く為には、それなりの秩序を維持が必要である為、徐々に儒家の説く礼を儀式に取り入れられます。
しかし、儒学が漢朝廷に本格的に取り入れられて行くには、未だまだ時間が掛かりました。

漢:続く・・・

2013/06/15

歴史のお話その138:漢④

<漢その④>

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◎楚漢の興亡

 劉邦は、その項羽によって王に命じられました。
漢王と成り、咸陽の土地ではなく遠く四川省の山奥(僻地)の王とされたのは、項羽に警戒されたからです。
当然劉邦は不満増大、項羽の決めた国割りを無視して実力で領土拡大を始め、全国制覇を目指す事に成りますが、劉邦が始皇帝の構想を受け継ぐ者だったと言えます。

 このあと5年間に及ぶ、項羽と劉邦の戦いが起こり、項羽の国が楚、劉邦の国が漢なので、之を楚漢の興亡と呼びます。

 軍事力は圧倒的に項羽が強く、劉邦軍は連敗でした。
しかしながら、負ければ負ける程、劉邦の勢力は強大になり、勝てば勝つ程、項羽軍は弱体化して行きます。

 項羽は自分の功績を誇りすぎ。部下の将軍達にとっては仕え難い処が在り、例えば項羽は合戦に勝利しても自分が強いからと考え、部下への恩賞が少ないのです。

 一方劉邦は、昔から部下を大事にする為、人望は高かったのです。
劉邦は万能の人物では無く、特技も無く、歳も高く、戦闘行動も弱いのですが、人を使う事が上手でした。
それぞれに活躍の場を与えて恩賞を出し、咸陽を占領した時の態度でその寛容さは証明されています。
結果として項羽の武将達は、次々に部下と部隊を率いて劉邦軍に寝返っていきました 。

 劉邦と項羽の最後の決戦が垓下(がいか)の戦い(紀元前202年)です。
垓下の城に包囲された項羽の軍勢は10万、取り囲む劉邦の軍隊は30万、夜になると包囲軍の兵士が歌う歌が項羽の陣地に聞こえて来ます。
この歌が楚の歌で、楚は項羽の出身地、楚の歌を歌うのは楚の兵士なのです。
つまり項羽の兵士達が、今は皆劉邦軍に流れてしまった結果でした。
之が「四面楚歌」です。

 項羽は終に己の運命を悟ります。
もう勝利の見込みは無く、最後まで付き従っていた武将達と別れの宴を開き、その時に項羽が詠った詩が伝えられています。

 「力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う、時に利あらず、騅(すい)逝(ゆ)かず、騅の逝かざるは、奈何(いかん)かすべき、ああ虞や、虞や、なんじを奈何せん。」

 自分の力は山を大地から引き抜き、気概は世を覆うほどなのに、時が味方をしてくれず、もはや愛馬の騅も走ろうとしない騅が走ってくれないのは、どうすればよいのか、ああ虞や、虞や、おまえをどうしてくれよう。

 皆死を覚悟して涙の宴会となり、虞は項羽の愛人、虞美人です。
ずっと項羽に付き従ってきたのですが、かれの歌を聞いて自分が足手まといであると知り、自ら命を絶ったと云います。
彼女の血を吸った地面から生えた花が、虞美人草だと云われています。

 このあと項羽軍は劉邦軍の囲みを破って、南方、楚の国に向けて脱出を敢行します。
なんとか劉邦軍の追撃を振り切り烏江(うこう)迄逃げ伸びますが、この時は従う者は僅か数騎に減っています。
長江を渡らなければいけないので船頭を捜し、見つけてきた船頭さんが項羽を見て言いました。

「大王よ、楚の国は広いし人口も多い。今は負けてもまた再び王となってください。」

 優しい言葉を貰って項羽は、自分の以前を反省し、何千人という楚の若者を兵士として引きつれて戦ってきたものの、皆戦に倒れさせ、何故自分だけおめおめと帰って彼等の父兄に会えるだろうかと考えたのでした。

 項羽は死に場所を求めて引き返し、追ってきた劉邦軍と最後の戦に臨みます。
乱戦の中で項羽は敵兵に嘗ての自分の部下を見つけ、彼の手柄に成る様にと、自害したと云います。

 一代の英雄項羽は死に、好敵手を倒して劉邦が天下を統一します。
漢帝国が成立し、劉邦は後に漢の高祖と呼ばれる事に成りました。

漢:続く・・・

2013/06/13

歴史のお話その137:漢③

<漢その③>

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◎漢の成立以前の混乱その②

 劉邦が逃亡生活の最中、陳勝・呉広の反乱が起こり、国内が騒然と成って来ました。
劉邦も自分の里に帰って「侠」の連中を集めて一旗揚げ、今回は地方役人も大混乱の中で自分達を守る為に劉邦を応援します。

 劉邦の反乱は、陳勝・呉広不在の後、各地の反乱集団を束ねはじめた項羽に合流し、項羽集団は各地の反乱集団が結集してどんどん大きくなって行きました。
やがて、このあと項羽と劉邦は好敵手となって秦滅亡後の指導権を争うのですが、この二人は実に対称的です。

 先にも書きました通り、項羽は名門貴族の武人、劉邦は田舎の農民出身、項羽は二十歳位、劉邦は40歳位なので、当時の感覚では40歳は相当の年齢と思って良いでしょう。
項羽は自分の才能に自信がありすぎて他人を軽んじるところがありますが、劉邦は自分の配下のものには面倒見が良いのは、「侠」の感覚でしょうか。

 始皇帝が全国を行脚したときに、項羽も劉邦もその行列と始皇帝を垣間見て、その時の項羽の言葉は、「いつか取って代わってやる」。
取って代わると云う表現は項羽がはじめて使い、一方劉邦の言葉は「男と生まれたからには、あの様に成ってみたいものだ」でした。

 反乱軍は秦の都、咸陽に進軍します。
主力は項羽が率いてまっすぐ西に向かい、別働隊を劉邦が率いて南回りで咸陽に進撃します。
先に咸陽を占領した者が、その地域の王になる約束があったので、当に競争です。
軍隊としては項羽軍が強力なのですが、秦の精鋭部隊がもろに進軍を阻んで来るので、前進に手間取り、その間に劉邦軍は殆ど抵抗も無く、咸陽の都に突入し占領に成功してしまいます。

 秦では二世皇帝が趙高に殺され、その趙高もまた殺されて、三世皇帝が即位して一月ばかり経ったところなので、秦の政情は混乱を極めていました。
三世皇帝は自分の首に縄を掛けて劉邦のもとに出向いてきましたが、この行為は全面降伏の意味で在り、ここに終に秦は滅亡したのでした。

 劉邦は咸陽で秦の宮殿に封印し、宝物を略奪させず、三世皇帝など秦の皇帝一族を殺さずに保護し、更に「法三章」を発布しました。
その内容は、殺すな、傷つけるな、盗むな、と云う非常に単純な法律で、劉邦は秦の複雑な法律を全廃してこの三条だけにしたのですが、法家思想による厳しい支配で苦しんでいた人々は大歓迎でした。

 劉邦の人望は上がる一方の処へ、遅れて項羽の本隊が咸陽にやってきました。
総大将項羽は咸陽に入ると三世皇帝等、秦の皇族を皆殺しにして、阿房宮を略奪した後、火を放ち、劉邦の総ての処置を停止してしまいます。
劉邦の評判が良かった一方で、項羽は人望を失って行きました。

 秦滅亡後、項羽には咸陽で皇帝に即位し、秦の後を継ぐ様に進言した者がいました。
しかし、項羽はこれを断り、楚の国に帰って西楚の覇王と称し、更に秦を倒すことに功績のあった反乱集団の指導者達を王として各地に封じました。
結果的に、項羽は戦国時代の体制への復帰を目指したと考えられ、始皇帝が構築した中央集権的な考え方と春秋戦国時代の地方分権的な考え方がこの当時も存在しており、項羽は後者を代表していた保守的な人物と思われます。

漢:続く・・・

2013/06/12

歴史のお話その136:漢②

<漢その②>

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◎漢の成立以前の混乱

 全国に広がった反乱軍の指導者になったのが項羽(紀元前232年~紀元前202年)でした。

 項羽は楚の名門将軍家の出身で、幼い時に父親と死別し叔父に育てられるのですが、この叔父に当たる人物も相当の軍略家でした。
幼い項羽に英才教育を施します。
最初、項羽に剣術を教えるのですが、項羽はすぐに飽きてしまって熱心に剣を習おうとしません。
叔父が咎めると、項羽は「剣の稽古をしても、倒せる相手はひとりだけだ。其れではつまらない。」と答えたので、今度は兵法を教えた処、今度は熱心に学んだと云います。
 
 項羽は大男で、その身長は2メートル近く、この体格は武人としては最適でした。
当時の戦争は、刀を持った生身の人間が死闘を繰り広げる訳ですから、体の大きな体格の良い人間は絶対強いのです。
 
項羽が馬にまたがって敵に向かっただけで、敵兵は戦意喪失です。
この様に強い大将に従えば、まず負け戦に成る事は無く、大将としての条件を総て備えている項羽が反乱軍の指導者になっていったのも納得できますね。

 反乱集団の指導者としてもうひとり有名な人物が劉邦(?~紀元前195年)です。
この人物も楚の出身で、農家に生まれますが、どうも農業には向いていなかった様です。面倒見が良く、元気の良い若い衆には人気は在るのですが、怒らせたら少々怖い村の顔役、今で言えば一種の悪(ワル)でした。

 当時は、劉邦の様に共同体の秩序に合わずその力を持て余していた人の事を「侠(きょう)」と云い、始皇帝を暗殺に加わった荊軻も「侠」、陳勝も「侠」といえるかも知れません。

 戦国時代が終結して、未だ10年余り、「侠」の感覚を持った人物は国中に沢山居たのです。
家柄とか血筋に関係なく自分の能力、才覚で一旗揚げてやろうという人々で、戦国時代の遺風かも知れません。
劉邦はその様な人々を自分の周りに集め、次第に大きな勢力を形成して行きました。

 劉邦は中年に達した頃、地元で秦の下級役人の仕事に就きました。
亭長と云い、現在なら村の駐在に当たる役職なのですが、一応秦の役人なので、その劉邦の所に政府から命令が来ます。
その指示は、里の若者を阿房宮の工事の為に都まで引率してこい、とのものでした。

 命令に従い、劉邦は若者達を徴発して都に向かって旅に出るのですが、宮殿の工事は大変厳しい作業で在る事は、周知の事実なので、奴隷の様に使役されて、命を落とす者も多数に及ぶ事は知れ渡っています。
当然ながら、旅の途中で若者達は次々に脱走し、夜が明ける度に人が減り、都に到着するより以前には、半分位の人員に成っていました。

 半分しか人夫を連れていけなければ、引率者である劉邦の責任になるわけです。
若者達は宮殿工事で命を落とすかもしれず、自分も脱走の責任を問われて処刑されるかも知れません。
ここに来て劉邦は開き直ったのです!
ここまで一緒に来た者達に逃亡を促し、劉備自身も秦の下級役人を辞め、若者達と一緒に逃亡を図ります。

 皆を逃がし、劉邦も逃亡しましたが、郷里に逃げ帰る事は、捉えられに行く様なものなので、郷里の近くで逃亡生活を続けたのです。

 先の陳勝・呉広の乱は、秦政府の無理な徴兵が原因でした。
劉邦も同じような経験をしており、考えてみれば、秦の過酷な使役に耐えかねて逃亡生活を送り爆発寸前まで追いつめられていた民衆が、全国に無数いたに違い無く、陳勝・呉広の乱が起こると一気に全国へ波及しました。

漢:続く・・・

2013/06/10

歴史のお話その135:漢①

<漢その①>

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◎陳勝・呉広の乱

 秦の滅亡する発端となった反乱が陳勝・呉公の乱でした。

☆陳勝・呉広のお話

 陳勝は楚の地方の農民で雇農、自分の土地を持たずに、その日その日を土地を持った地主に雇われ仕事で、何とか生活を維持していた人物です。
その陳勝の里に秦の政府から辺境警備の為、徴発令が発布されます。
時は始皇帝崩御の翌年紀元前209年のことでした。

 万里の長城に近い北方の漁陽に、警備の兵士として徴兵された、約900人の農民達が役人の先導の下出発しました。
陳勝の里から漁陽迄は約1000キロ(東京から北九州市迄)の距離が在ります。

 ところが途中で大雨が降り、川が氾濫して先に進めなく成りました。
秦の徴兵命令には、期限が定められており、その日迄に漁陽に到着しなければ、処刑されることに成っていますから、此処は何が何でも現地迄に向かわなければ成りません。

 しかしながら、何日待っても水は引かず、自ずと猶予日数は減り、漁陽に到着しなければ成らない期限が近づいて来ます。
このままでは、洪水が引いて出発しても到底期限に間に合わず、其れでは故郷に帰っても秦の役人に咎められて処刑され、逃亡しても、何れ命を失う運命に変わりは在りません。
この様な当に四面楚歌の状況の下、徴兵された農民達は、洪水が収まる時をじっと待っているしか在りませんでした。

 そこで陳勝は、このまま期限に遅れて処刑される位なら、運を天に任せて秦の政府に蜂起してやろうと考え、同じく徴兵されてきていた呉広も陳勝に賛同したのです。
しかし、他の農民達は秦に反抗する等は思いもよらず、始皇帝は崩御しても、まだまだ秦は恐ろしい存在でした。

 そこで、呉広は種々細工を行い、農民の気持ちを反乱にまとめていきました。
大きな魚を捕らえて、その腹の中に布きれを入れるのですが、布には「陳勝が王になる」と書いておき、炊事当番の者にその魚を渡すのです。
炊事当番が魚を捌くと「陳勝が王になる」と書かれた布が現れる仕掛けです。

 それから呉広は毎晩露営地の裏山に登りました。
山には何かを祀る洞が在り、その洞の裏から狐の声を真似て「大楚興、陳勝王」と叫ぶのです。
「秦に滅ぼされた楚が復興し、陳勝が王になる」という意味のお告げを行う訳です。
夜な夜な変な鳴き声がするなと、農民達が耳を澄まして聞いていると、狐の声が神のお告げに聞こえてくると云う仕掛けです。

 極めて単純かつ素朴な方法ですが、純朴な農民達には効果絶大で、この様な事が毎日の様に続くので、陳勝に対して全員が不思議な気持ちをいだきはじめた処で、彼は農民達に対して決起を呼びかけたのです。

 「洪水が引いてこのまま進んでも死が待つのみ、帰っても死しかない、どうせ死ぬ運命に在るのなら一旗揚げてやろう!」
臆病な農民達を立ち上がらせる為に、自分達を引率している秦の役人を殺し、更に

 「王侯将相いずくんぞ種あらんや」
意味は(王、貴族、将軍、大臣であろうと我々農民と何処に違いが在るのか)と云う有名な言葉です。

 強烈な平等感、反骨精神ですが、この言葉が2000年以上前に叫ばれています。
身分も何もない貧しい農民が、歴史の舞台に登場する、例えるなら日本では、豊臣秀吉でしょうか?
いづれにしても陳勝の1700年も後の話です。

 陳勝・呉広は、旧六国の有力者に反乱を呼びかける文書を送り、これに応えて各地で反乱の狼煙が上がり
秦を恐れてそれまでは誰も反乱を企てる者は居ませんでしたが、最初に反乱を起こした陳勝達は本当に勇気があったと思うのです。

 陳勝・呉広の反乱軍は秦の守備軍を撃破し、瞬く間に数万の軍勢に増えていきました。
しかし、農民中心の集団で在って、戦争の為の常備軍では無く、やがて咸陽から秦の精鋭部隊が進軍して来るといとも簡単に鎮圧されてしまいました。
陳勝も呉広も戦死し、しかも彼等が反乱軍を率いて頭角を現したのは半年間だけでしたが、彼等は中国最初の農民反乱の指導者として歴史に名前を刻みました。

 そして、陳勝・呉広の反乱は鎮圧されましたが、彼等の呼びかけに応えた反乱軍が全国に広がっていたのです。

漢:続く・・・

2013/06/08

歴史のお話その134:統一国家の成立⑤

<秦の中国統一その⑤>

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始皇帝用馬車の兵馬俑(中国・西安市兵馬俑博物館)

◎秦帝国の衰退

 始皇帝の崩御は、国内行脚の途中でした。
崩御の時に皇帝の側に仕えていたのが宦官の趙高です。

 皇帝の公務は官僚が補佐を行いますが、私的な時間に皇帝に接する人物が宦官です。
宮廷内部での身分は低く、皇帝の私的奴隷に近い存在なのですが、常に皇帝の傍に居り、妃達に近づく機会も多々在ります。

 宦官制度は、中国最後の清朝が滅亡する直前、宣統帝による宮廷追放迄続きました。
最後の宦官は20世紀の終わり頃迄、存命だったとの事です。
戦争捕虜や奴隷、犯罪者を手術して宦官にする場合や、貧しい者が自ら宦官を志望し、又親に手術をされて宮廷に送られる等、宦官には種々の理由があるようです。

 歴史上、その死を隠した若しくは隠された君主は、日本では武田信玄、中国では諸葛孔明、チンギス・ハーン、ヨーロッパではレコンキスタの英雄、ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバールに見ることができます。

 繰り返しになりますが、この宦官は身分的には低く、役人でも在りませんが、皇帝の身近に接触する時間が長い為、皇帝に成り代わって権力を振るう者も歴史上には存在します。

 趙高等数人の宦官だけが、始皇帝専用の馬車への出入りを許されており、始皇帝の崩御は趙高しか知りません。
彼はこの機会を利用して権力を握ろうと画策したのです。

 趙高は、始皇帝の遺言を盗み見る事ができ、遺言には次期皇帝は長男に譲ると成っていました。
長男はこの時、匈奴討伐で北方に遠征中で不在ですが、始皇帝には数人の息子が居り、末の胡亥(こがい)だけが、始皇帝と共に行脚に従っていました。
趙高は胡亥に密かに近づき始皇帝の死を告げます。
「陛下の死を知っているのは私と貴方様だけです。いまなら遺言を書き替えて胡亥様が次に皇帝になることができます云々。」と持ちかけます。
胡亥も皇帝の位に就けるのならばと、即位後の趙高の地位と権力を保証したのでしょう。
もうひとり大臣の李斯もこの仲間に加わった。

 秘密にしたのは陰謀だけではなく、旅行中に死んだことを公にすれば各地で反乱が起きることを心配したということもあったと思われます。
一部の人間にしか始皇帝の死は伝えられず、皇帝の大行列は咸陽の街に向かって旅を続け、その間に趙高や李斯は胡亥の即位準備の為の策を練っていたと思います。

 始皇帝が崩御した場所は、現在の山東省、時期は7月、当然ながら暑い盛りなので、皇帝の遺骸は腐り始め、ついには異様な臭いが始皇帝の馬車から漂い始め、何も知らされていない大臣や将軍達が不審に思い始めると、趙高は干し魚を大量に買い集めて始皇帝の馬車の左右につけて併走させ、魚の臭いで死臭を誤魔化したと云います。
大臣達が趙高に理由を尋ねると「陛下のご命令で、わたくしにも存じかねるのでございます。」と答え、当時始皇帝の命だと言えば、誰もそれ以上は追求できません。

 大行列は咸陽に戻り、趙高は手筈通り始皇帝の死と胡亥の二世皇帝としての即位を告示します。
長男には匈奴との戦いで戦果を挙げていないことを理由に自害を命じる皇帝の偽の手紙を送ります。

 即位した二世皇帝胡亥はやがて宦官の傀儡と成り果てました。
宦官は普段、人間以下の存在として軽蔑されている為、権力を握ると放漫に成り、政治に対して責任感を持つことは殆ど無く、蓄財と虚栄心を追求すます。
子孫も無く、家族の心配も何も在りませんから。

趙高はやがて自分自身が皇帝になる野心を持ったようです。
宮廷で自分の影響力が役人達に及んでいるか試す、時を設けます。

 ある時二世皇帝の前で百官が居並ぶ前に、趙高は鹿を連れてきて「馬でございます。」といって献上した。
二世皇帝は「趙高、何を言っているのか。角が生えている、鹿ではないか!」と反論しました。
趙高は居並ぶ百官を見回と、趙高に謙る役人達は口を揃えて、「陛下こそ、何をおっしゃいます。馬ではありませんか。」
二世皇帝は愕然とし、自分の皇帝の地位が実は飾りだけの存在に気づく事に成りました。
そしてこれが「馬鹿」の語源だと云われています。

 実はこの頃になると、帝国の領内各地で反乱が起き始めますが、宮廷内の権力闘争で対策が打ち出すことが出来ず、本当の意味で馬鹿なことばかりやっているあいだに、反乱は秦を滅ぼす程大きくなっていきました。

秦の中国統一:終わり・・・

2013/06/06

歴史のお話その133:統一国家の成立④

<秦の中国統一その④>

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◎天下統一と不老長寿

 兵馬俑の兵士人形は一つ一つ皆表情や髪型が違います。
当時の人達は出身部族によって髪型が違っていましたので、兵士俑を調べる事によって、様々な部族から軍が編成されていることが解明されました。
秦は辺境に位置していた関係で、周辺の民族も多く加わっていたと推定されますが、此れも秦軍の強さの根源かも知れません。
兵馬俑坑は未だその総てが発掘されておらず、掘れば次々と出土してきますが、掘り出しても保存処理が追いつかない為、埋めたままにしていると研究書に書かれていました。

 因みに、一国の軍隊が多民族で編成されていた国に、11世紀に河西通廊一帯を支配した、朱元璋率いる、西夏が在ります。
西夏軍は強力な軍隊でしたが、その構成は、ウイグル族、トバン族、漢民族等で編成され、それぞれに西夏文字、西夏語の出来る通訳が所属していました。

 長城、兵馬俑、是等の事業は徹底した人海戦術で行われ、全国から人民を動員し、始皇帝陵だけでも70万人が動員されたと云われますが、戦国時代が終結し平和が訪れた筈なのに庶民にとっては、始皇帝の大動員は迷惑千万な話だったに違いありません。

 何処かの国の将軍様の様ですが、始皇帝は全国に自分専用の道路を作らせました。
幅50歩(約70m)、更にその中央に松の木で仕切られた皇帝の専用道路「馳道」が作られ、始皇帝の馬車しか走ることが許されず、その他の貴族、官僚、軍隊はその縁を同行しました。

 始皇帝はこの道路で全国を都合4回にわたって、行脚したと云いますが、その目的は自分の顔を民衆に知らせる為でした。
そもそも、皇帝の位が、出来たばかりで一般民衆には、皇帝の意味すら理解できなかったと思われ、始皇帝の偉大さも理解できません。
一般民衆の脳裏にしっかりと刻み付ける事が出来る、絢爛豪華な行列を連ねて諸国を行脚し、皇帝のその偉さを示そうと考えての事でしたが、民衆はこの道路工事にも徴用され、更には始皇帝が通過するときには食糧等を徴発されて、散々だったと思われます。

 始皇帝は「馳道」を利用して、領土内を巡り各地に自分の功績を刻んだ石碑を立てさせ、泰山で封禅の儀式を挙行します。
封禅とは天子の位に就いた事を天地の神に報告する重要な儀式なのです。

 天下を統一した始皇帝ですが、一つだけどうしても手に入れたいものが残っていました。
不老長寿、不死を手に入れたい始皇帝に、方士という魔術師、呪術士の様な人種が不老長寿の技法を伝授した様です。

 日本との関係で有名な徐福は、東の海に蓬莱という島が在り、其処に不老長寿の秘薬が在ると始皇帝に教えたのですが、始皇帝は徐福にその薬を取りに行かせたと記録されています。
徐福は東の海に出かけたのですが、その後消息は途絶え、記録さえも残っていません。

 紀伊半島の熊野地方にはこの徐福が来日した伝説が在り、新宮市には徐福の墓まで在るとの事ですが、南は鹿児島県から北は青森県迄、徐福の伝説は日本全国に広まっています。

 始皇帝に近づいた方士の中には、水銀を不老長寿の薬と教えた者も存在しました。
水銀中毒は、現在では公害病の一つですが、中国では歴代皇帝の罹る病気の一つでした。
水銀を不老長寿の秘薬と信じて、服用したけ結果ですが、当時は水銀の持つ毒性に関する知識は皆無でした。
 
 水銀服用が原因か否かは別にして、終に始皇帝は紀元前210年、崩御しました。

秦の中国統一:続く・・・
2013/06/05

歴史のお話その132:統一国家の成立③

<秦の中国統一その③>

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◎秦の政策

1)郡県制の採用
 
 周時代には諸侯・卿・大夫が各自の邑を自由に支配していましたが、この周の封建制と対称的方法が郡県制で、秦は全国に郡、その下に県の行政組織を置いて、中央政府から官僚を派遣し中央集権的な一元支配を行い、中央集権的専制国家の誕生と成りました。
 
 基本的に20世紀初頭、清朝が滅びる迄中国の政治制度は、基本的に郡県制を崩すこと無く、その様な意味でも、郡県制の採用は大きな制度の改革なのです。
因みに、日本では県の下に郡が置かれていますが、中国では逆で、郡の方が県よりも大きな行政単位です。


2)文字統一

 戦国時代には各国で文字の字体が異なっていましたが、これを統一し、秦の字体は篆(てん)書と云い、やがてこれから楷書、草書が発展して行きます。

3)通貨統一

 秦の貨幣は穴のあいた環銭、特にこの時の環銭を半両銭と呼びます。

4)度量衡統一

 度は長さ、量は体積、衡は重さの計測単位ですが、この単位を統一し単位が地域毎に違う事による、行政上の混乱防止しました。

5)車軌(軌間)統一

 車軌とは馬車の車輪と車輪の間の幅で、現在でも鉄道線路の幅を示す、軌間に当たる言葉です。
当時舗装道路等一切在りませんから、馬車が走れば地面はえぐれ、その部分がレールの様になっていきます。
そこを車軌が違う馬車が走ると、車体が傾むいて思うように走れません。
その為、戦国の各国はわざと自国の車軌を他国と違うようにしました。
そうすれば敵国の戦車がやって来ても攻め難いのですが、天下統一後は不便この上も無いことでした。

 現在の鉄道も同様で、狭軌、標準軌、広軌に分類されますが、ヨーロッパではフランス(線路幅1435mm)に国境を接する、スペイン、ポルトガルが広軌(1668mm)を採用しています。
此れは、ナポレオンの時代に、鉄道で一気に兵員や物資を送り込め無い様にとの考えが在った為です。

6)思想統一

 焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)を実行し、大臣李斯の献策で秦の政治に批判的な学問を弾圧しました。
医学、農業、占い意外の学問を許さず、それ等の本を集めて燃やすことが焚書です。
戦国時代の学問の多くが失われ、現在では断片しか残っていない学問も在り、大変残念なことです。

 焚書に関しては、世界史的観点からアレクサンドリア図書館が5世紀にキリスト教徒により破壊された事件、マヤの古文書が、司教ディエゴ・デ・ランダによる焼却(1562年)、ナチス・ドイツによる焚書が上げられます。

 坑儒は460人余りの儒者を生き埋めにして殺した事件で、始皇帝の個人的な怒りから起こった事件なのですが、結果としては学問の弾圧になりました。

7)外征

 秦は北方の遊牧国家である匈奴に対して討伐軍を派遣し、又、南方、ベトナム北部方面にも領土を拡大して、南海郡等三郡を置きました。

8)土木工事

 万里の長城の建設は先に紹介しました。

 宮殿の造営、阿房宮と呼ばれる壮大な宮殿で、一万人が座ることのできる広間が在り、その下に10メートルの旗指物を持った軍隊が集結できたと云います。

 陵の造営、驪山(りざん)陵と云いますが、地下に宮殿を造営し、当時の人々は黄泉の国でも現世と同じような暮らしをすると考えていましたから、現世と同様なものを構築しました。

 これに付随して、地下の宮殿を守る為に軍隊を作ったのですが、これが有名な兵馬俑坑です。
始皇帝陵の東3kmの所に人形の軍隊が発掘され、土台を含めると2mの高さの人形で、現在迄に約三千体発掘されていますが、その整列した姿から、当時の軍隊編成が研究されています。

秦の中国統一:続く・・・


2013/06/04

歴史のお話その131:統一国家の成立②

<秦の中国統一その②>

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◎長城の起源

 秦の行った政策は、政治、金融、土木と多く在るのですが、一番有名な「万里の長城」から始めたいと思います。

 或る天文学者が、宇宙空間から地球を観測した時、人間の眼に映る人工物体は、万里の長城だけであると言ったそうです。
万里の長城は中華人民共和国の北辺、モンゴル地域との間に築かれた城壁で、東は河北省の山海関から西は甘粛省嘉峪関に至る2750kmの総延長を誇り、この造営には凡そ100万人以上の人員が命を失い、巨額の費用に国は傾いたと云われています。

 万里の長城が築かれたのは、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前403年)ですが、紀元前3世紀に秦の始皇帝が天下を統一すると供に、北辺に築かれていた土塁を繋ぎ合わせ、匈奴に対する防衛線を形作り、東は遼東(遼陽)から西は臨洮に至る長さ、万余里と云われ、現在の長城の場所よりも遥か北部に位置していました。

 漢の時代、長城は敦煌の西、玉門関迄延長され、現在に位置迄南下したのは、6世紀頃、北斉、隋が契丹や突厥等の侵入を警戒して築いた為でした。
しかし、現在見られる様な堅固な城壁は、明代に成ってからの造作で、強力な蒙古の攻勢に対応する為、歴代の皇帝によって修築を繰り返した結果なのです。

◎長城の構造

 長城の構造は、古くはその殆どが土塁であり、通常板築法を採用していますが、部分的には日干し煉瓦か石積みを施し、地形によっては、自然の断崖を利用し、要所には煉瓦を用いて補強する場合も在りました。
この地上に現存する人間の手になる物の内、実際の大きさ、積み重ねた土砂、煉瓦、石等の量、建設の為の労力等、何一つ長城に勝る物は存在しないと、思われます。

 万里の長城に使用した資材で、高さ2.5m、厚さ1mの城壁を築くと地球の赤道面4万kmを1周する事が可能と云われています。

 北京北西の八達嶺付近の長城は、高さ9m、幅上部4.5m底部9m在り、壁上は北側(満州・蒙古側)に向かって、銃眼が開き、下方からの攻撃を食い止める工夫が成されて、100m毎に望楼が設けられ、周囲の山の起伏に沿って延々と続いています。
城壁の3m幅の通路に成っていますが、車両も荷馬車も通る事はできず、僅かに動物と健脚を誇る人間だけがこの傾斜通路を通る事ができます。
通路は急傾斜の場所は、階段が造られ、川で遮られた場所のみ長城は途切れ、その場所は砦に成っています。

◎受難の民

 万里の長城が最初に構築されたのは、春秋戦国時代ですが、その工事が本格化したのは、秦の始皇帝の時代からなのです。
当時、中国は既に高い文明を有し、繁華な都市は常に侵略者の対象に成り、その侵略者は主に、北方の蒙古や満州方面からの侵入でした。
その地には、女真族、匈奴等の遊牧民族が暮らし、実りの季節に成ると当時中国の最も豊穣な地域を略奪し、都市や其処に住む民を疲弊させたのです。

 其処で秦の始皇帝は、北方からの異民族の侵入を防衛する目的で、万里の長城を築いたと云われています。
始皇帝は、あらゆる自然的、財政的、人的障害を乗り越えて城壁の建設に邁進しました。
遥か東部の海岸線から始まった巨大防塁は、西へ西へと進み、高山の頂きや深い谷を横切り、外敵の防御に最も都合の良い、最も険しい場所を選んで築城されて行きました。
伝説に因れば、始皇帝は翼を持った馬に跨り、馬の導くままに長城を築いたと云われています。
工事が進むに従い、多くの石工や労働者が必要に成り、止む無く秦の国軍に工事を従事させ、更には国土内の牢獄につながれている囚人達も動員して、石切り場、煉瓦工房、城壁の築城現場に派遣したと云われています。
当時、秦の国に如何程の人口が在ったのか定かでは有りませんが、人口の3人に1人の割合で建設に徴用されたものと思われます。

 何万人と云う、過酷な労働者達は、十分な水も食料も無い不毛の山地や砂漠の中で、牛馬の様に使役され、その飲料水や食料は山頂や砂漠の工事現場迄、何里もの道のりを運ばざるを得ませんでした。
この様な過酷な状況の中で、膨大な人数の人間が死んで行き、その死者達は、長城の人柱として無慈悲に長城内に埋められて行き、その上に土が盛られ長城は築かれて行きました。
その為、万里の長城は世界で最も長い墓場であると云う人も居ますが、犠牲者の数は少なくとも100万人に達したと推定されています。

 この様に多大な犠牲を払って造られた長城ですが、実際には異民族の侵入を阻止する事は不可能で、彼等は何も無かった時と同じ様に、何時でも自由に乗り越えたのでした。
秦の人々は「中国人には万里の長城に払った人命と財が重いので、之を乗り越える事は出来ないが、異民族には如何なる負担にも成らないので、容易く乗り越える事が出来る」と揶揄したのでした。

◎その後

 紀元前218年、秦の始皇帝が万里の長城を築いて以来、1600年の間に北方の異民族は、しばしば長城を乗り越えて中国本土に侵入しました。
特に蒙古(後の元)の猛将チンギス・ハーンが13世紀初頭、長城以南の中国本土を支配したばかりではなく、遠くヨーロッパの東部迄侵攻し、当時のスラブ諸国を恐れさせた事は有名です。

 その後、漢民族による中国支配が再び始まり、明の太祖が150年に渡る元朝の支配に終止符を打ち、14世紀の終わりに長城の再建を行いました。
従来から存在した長城を補強修理したばかりでは無く、首都北京の北方を強固に防衛する為、この付近を二重に整え、望楼を追加し、火器を備えさせ北方からの異民族の侵入を阻止しようとしました。
この時の工事でも10万人以上の犠牲者を生じたと云われています。
これ程の大事業でも、200年後にはその効力を失い、1644年ヌルハチに率いられた満州族は、長城を越え中国本土に再び侵攻し、全中国を支配して国号を清と改め、北京を首都としましたが、満州族に支配された中国本土に於いて、満州族を防御する長城は無用の長物なり、1912年に清朝が滅亡する300年間の間、荒廃するがままに放置されました。

 現在、万里の長城は、北京周辺や敦煌近郊等極々一部が修復され、往時を再現していますが、航空機や長距離砲、更には大陸間弾道弾迄発達した現代の兵器に対して、長城は余りに無力な存在に成りました。

秦の中国統一:続く・・・

2013/06/03

歴史のお話その130:統一国家の成立①

<秦の中国統一その①>

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始皇帝

◎秦

 紀元前221年、秦が中国を統一し、都を咸陽(かんよう)、現在の西安近郊に定めました。
秦が戦国時代を終結させる事が出来た理由は、まず法家の採用でした。
商鞅、李斯等法家の政治家を抜擢して内政改革を断行した事が国力の強化につながりました。

 更に、秦が地理的に辺境地帯に在った事が有利に働いたと思われます。
戦国時代の先進国は韓、魏、趙の3国で、この一体が一番文化が進んでおり、改めて地図を見ても面積は小さいのですが、言い換えれば面積が小さい事は、それだけ人口が集中している事の裏返しです。その様な場所は、文化が高いと見て差し支え無いのですが、しかし、それは開発の余地が少ない事でも在るのです。

 秦は辺境の後発国なので、進んだ地域の文化や技術を効率よく取り入れる事が可能で、未開の地が多く存在し、周辺に向かって領土を拡大することもできた訳です。
現在の四川省方面を領土に組み入れて国力を伸ばしました。

 辺境の国としては南方の楚も同様です。
やはりこの国も戦国末期には強国として秦と対抗していますが、最終的に秦に敗退します。
後の時代、秦が滅亡した後、項羽が楚の地から出て、一時中国全体に号令するように成ります。
この地域には、やはり秦と対抗できる様な力が存在したのでしょう。

 秦が中国統一した時の王が政(せい)でした。
秦王政は、周の時代とは比較にならないくらいの大領土を支配する事に成り、結果的に王の称号では満足出来ず、王よりも位の高い称号として、皇帝という呼び名を発案しました。
世界初の皇帝で、自ら始皇帝と名乗ったと云います。
彼は、秦の国が永遠に続くものと考えて、子孫の名前も決め、自分を継ぐ二代目は二世皇帝、その次は三世皇帝として皇帝名にするように決めたと云います。
実際は三世皇帝で秦は滅んでしまうのですが。

 始皇帝、秦王政は統一を成し遂げた実力の在る人物でした。
仕事も精力的に行い、一日に公文書を30kg分読んで決済を続けたと伝えられますが、文書を重さで量る事自体凄いと思います。

 始皇帝に纏わる話は数多く存在し、先代の秦王の直系の子供ではないと云う、出生の秘密も言い伝えられており、有名事件が始皇帝暗殺未遂事件でした。
 
 秦による統一直前の事、秦の政王を殺せば滅亡を免れると考えたのが燕の太子。
太子は荊軻(けいか)に政の暗殺を依頼するのです。
戦国時代は能力主義の時代でしたから、暗殺技術も立派な能力として認められていました。
荊軻は職業としての殺し屋ですが、この時は流石に自分の死を覚悟して秦に向かいます。
手みやげがないと政に謁見できないので、秦からの亡命将軍の首と燕の領土の地図を持って行き、首尾よく政に謁見し、地図の中に隠し持っていた短刀で政に斬りかかったのです。

 ところが第一撃で刺し損なってしまった。

 謁見の間には多くの秦の役人や軍人が居並んでいるのですが、宮廷で武器を持つことは禁じられていたので誰も荊軻を止めることができません。
政ひとりだけが、剣を持っていますがその剣は特別製でやたらに長く、剣は鞘に入っているのです。
しかも突然襲われて焦ってしまい、尚更抜く事ができず、家臣団が見守る中、柱のあいだを逃げ回り、それを荊軻は追いかけます。

 ようやくひとりの家臣が「王よ、背負われよ!」と叫びました。
政は気づいて剣を背中に背負うと、鞘は床に転がってようやく剣が抜け、反撃を開始です。
家臣も後ろから荊軻に飛びついてようやく取り押さえる事が出来ました。

 始皇帝の陵墓を守る為に作られた兵馬俑坑(へいばようこう)の遺跡から、青銅の剣が出土しているのですがこれが長さ91.3cm、始皇帝の剣はこれよりも余程長かったと思われます。
その様な事件もありながらの統一でした。

秦の中国統一:続く・・・

2013/06/01

歴史のお話その129:古代王朝⑳

<諸子百家その⑦>

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◎老子とは、如何なる人物だったのか

 今回の諸子百家では敢えて触れませんでしたが、中国の思想家の中で、古くから最も親しまれた人物は、老子ではないでしょうか。
民間宗教として、広く一般に普及した道教に在っては、老子が教祖とされ、老子の化身たる、太上老君は、道教において神でも在りました。

 唐の朝廷も道教を崇拝し、帝室の教えとされ、更に、太上玄元皇帝と云う尊号まで捧げられています。
それは、唐王朝の帝室の姪が李氏であり、老子の姪も李氏であったと伝えられるからです。

 では、老子は、何時の時代に存命した人物なのか、この点について司馬遷は、「史記」の中に記述しています。
老子の名は耳、呼び名はたん(当用漢字無)、姪は李氏であり、周の国に使えて司書の役人と成りました。
そこへ孔子が尋ねて行き、礼について問うと、老子は、喩話を引合いに出しながら、
「良い商人は、品物を奥に置き、店先には殆んど何も無い。偉い学者は、優れた徳を身の内に深く備えながら、顔は、愚か者のように見える」。
そして、孔子に対して、「貴方の高慢と野心、好奇の念を捨て去りなさい。どれも貴方には、何の役にも立たないものだ」と諭しました。
孔子は、門弟に「今日は老子に会って来た。まるで龍のような人物だ。龍は風雲に乗って天に昇ると云うが、全く掴み処の無い人物だ」。

 事実、老子は、虚無の道の修行を積み、その学問も世間から隠れて、名声が聞こえる事を避けており、長らく周の都、洛陽に住んで居ましたが、周の国が滅ぶとその地に別れを告げました。
その時、関の役人に教えを書き残しておく事を懇願され、上下二編、五千余字の書を表した後、立ち去ったと云われています。
その後、老子の最後を見とどけた人物は、後世に伝わっていません。

 さて、以上の文書から、孔子と同時代、しかも孔子より先に生まれた人物となりますが、孔子は、魯の国の生まれで、紀元前6世紀末から紀元前5世紀初頭、春秋戦国時代の後期に活躍した思想家で、先に述べた司馬遷は、時代を400年位隔てた人物でした。
司馬遷の時代、既に老子についての話は、曖昧なものとなり、「老子」という書物は、存在してもその著者が、如何なる人物であったのかは、全く判らなくなっていました。
司馬遷も上述の話の後に、他にも「老子」の著者が別に存在したらしい事を記述しています。

 老子という尊称も不思議で、ここで「子」は先生の意味で用いられ、孔丘の事を孔先生と呼び、孟軻の事を孟先生と呼びましたから、老子の姪が李氏ならば李先生と呼ぶ事が普通と考えられます。
現在の歴史に於いても老子については、不明な部分が多く、一部の学者の中には、その存在を否定する説を唱える者も居りますが、現実に「老子」と云う書物は、実在しそこに記述されている思想を持った人物が、存在した事も否定できません。

 では、老子は何時の時代の人間で、「老子」は何時頃編纂された書物なのでしょうか?
老子が、孔子に道を教えた話は、明らかに後世の伝説であり、「老子」に説かれている思想も孔子より後、先の春秋戦国時代のものと推定されています。
戦国時代後期、孔子の後を継いで、孟子が活躍しますが、孟子は盛んに他の学派を攻撃し、特に墨子と楊朱を排撃していますが、老子については、言及していません。
これは、孟子の時代にまだ、老子がこの世に現れて居なかった事を意味するのではないでしょうか?

 「老子」と云う書物に述べられている思想に関しても、歴史的評価は定まっておらず、戦国時代初期、孔子から100年程後のもの、又は中期、孟子より後の時代と考える事もできます。
因みに老子と並び称される荘子は、紀元前4世紀末から紀元前3世紀初頭に活躍した、人物と考えられています。
古代中国を代表する思想家で在り、孔子、荘子と並び称される人物で在りながら、疑問点の多い人物も不思議で、本当は、後世の人が作り出した架空の人物なのか、それとも俗人と違う神仙であったのでしょうか?

諸子百家・終わり・・・


2013/06/01

歴史のお話その128:古代王朝⑲

<諸子百家その⑥>

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◎兵家、縦横家、陰陽家

 戦国時代を具現している思想が兵家です。
学者は孫子、孫武、孫ピン(月「にくづき」に賓と書く)と二人ですが、一緒にして孫子としており、書物も「孫子」と云います。

 戦争を勝利に導く技術を体系化したのですが、単なる戦術ではなくて戦争論、政治論、人生論としても読める為、現在でも支持者は多いとの事です。

 「百回戦って百回勝ったとしても、それは最上の勝利ではない。戦わずして相手を屈服させることこそ最上の勝利である。」
 「敵を知り己を知るならば絶対に負ける心配はない(彼を知り己を知らば百戦して殆(あや)うからず)」
等、色々と名言が在り、エピソードも無数に在りが、有名な孫子の兵法より、風林火山を簡単に説明します。

「故に、其の疾(はや)きこと風の如く 其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰(かげ)の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し。郷を掠(かす)むるには、衆を分かち 地を廓(ひろ)むるには、利を分かち権を懸(か)けて動く。「迂直の計」を先知する者は勝つ。 此れ軍争の法なり」。

 武田信玄が旗印として使用していた『風林火山』は、兵法書『孫子』の軍争篇の一説を引用した物です。

 上記の一説の意味は、「疾風のように早いかと思えば、林のように静まりかえる、燃える炎のように攻撃するかと思えば、山のように動かない、暗闇に隠れたかと思えば、雷のように現れる。兵士を分散して村を襲い、守りを固めて領地を増やし、的確な状況判断のもとに行動し、敵より先に「迂直の計」を使えば勝つ。これが、勝利の法則だ」
この様な意味の文章に成ります。

 此処で「迂直の計」とは、「迂」=迂回し、「直」=直進し等、知恵を使って遠回りをし、油断させておいて電撃的にたたみかける、つまり、静と動、陰と陽、正攻法と奇襲作戦のような「相反する物を巧みに使う」事を解いているのです。

 「吉だ!」「凶だ!」と、合戦の勝敗を占ってた時代に、利に叶った科学的かつ合理的な兵法が存在する事に驚きます。
先に紹介した一説、「彼を知り、己を知れば、百戦して危うからず」は、「情報を集めよ」の意味で、敵の情報も、そして自分自身の事も、調べつくした上で、「勝てる相手とだけ戦え」と言っています。
「孫子」は、全部で13篇からなる兵法書です。

 縦横家は思想よりも外交で名を売った人達で、合従(がっしょう)策の蘇秦(そしん・?~紀元前317年)、連衡(れんこう)策の張儀(?~紀元前309年)が有名です。

 戦国末期になってきて秦は大国として他の六国を圧迫するのですが、これに対抗する為に六国が同盟を結ぶ事を説いた人物が蘇秦です。
地理的に縦に並ぶ六国が同盟するので合従、「縦に合わさる」、と言いました。
蘇秦は六国の大臣を一人で兼任する迄に成ります。

 この策を破ったのが連衡策。
秦に仕えていた張儀は六国に個別に秦と同盟を結ぶ事を説き、合従策を崩壊させました。

 陰陽家は、鄒衍(すうえん・紀元前305年~紀元前240年)、陰陽五行説をとなえ、当時の宇宙観を集大成したものですが、私には良く理解出来ません。

◎古典文学

 春秋戦国期の文学作品の内代表的な作品を三つ紹介します。

『春秋』。
 春秋時代の魯国の年代記で、孔子の編纂と言われています。
春秋時代という時代の呼び方はこの作品から来ており、この本に書かれている時代が春秋時代の意味に成りました。
後に様々な注釈が生まれ、儒学の経典になります。

『詩経』。
 これも儒学の経典に成り、内容は黄河流域の民謡を集めたものです。
素朴な農民達の恋愛の歌等が記録されており、古代社会を知る上で貴重な資料です。

『楚辞』。
 楚の国の王族だった屈原が編集したと云われています。
楚ですから南方の民謡等が記録されており、楚の国はシャーマニズム、巫女が神がかりになってお告げをする、その様な風俗が盛んでその内容も記録されています。
又、屈原は強国秦に楚が圧迫されるのを嘆いて汨羅(べきら)の淵に身を投げて自殺したと云います。この屈原の詩も載っているので、愛国の詩集として中国人に愛読されました。

諸子百家・続く・・・